由比敬介のブログ
「やばい」という表現
「やばい」という表現

「やばい」という表現

 昨日だか一昨日のニュースで、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果が報道された。
 この中で「やばい」という言葉を「非常にいい」という意味に使う若者が増えているのがあった。16歳から20歳で76%がその使い方をする。うまい物を食べて「これやばい」といえば「すげえうまい」と同義か、それ以上の感動を指す。先日もテレビで、藤井フミヤがまさにその表現を使うのを見た。
「やばい」は辞書によれば、「不都合である。危険である。」という意味だ。「この仕事は何かやばい」と言えば、悪いことに手を染めている感じがするとか、捕まった場合に非常に重い刑になるとか、いずれにしても危ないことを表現しているのが普通だ。もともと泥棒などの隠語で「やば」の変形が語源だという。やばいときに「やばっ」というのは、むしろ言語に近いことになる。江戸時代の文献などにも「やば」という単語が見られるようなので、言葉としては最近の若者言葉でないのはもちろん、歴史も古いことになる。
 ただ、いい意味で「やばい」を使うのは、間違いなく「やばい」という表現が持つ一部が単独で意味を持ってきたことによると思う。つまり、元々悪いことをしているやくざやちんぴらが、「兄貴、これちょっとやばくねえか」みたいな表現を使った場合、そもそも悪いことをしている人間が使うわけで、「兄貴、これちょっと危なくねえか」よりも、程度が勝る印象があったりする場合がある。つまり、危険よりももっと危険ということだ。そんな印象が積み重なると、やばいは「とても危険」という意味に感じてくる。そこで徐々に「とても」がクローズアップされ、気づくとそこには、次ぎに来る単語を強調できるような機能が見えてくる。
 そうすると女子高生のように「やばい可愛い」で、すごく可愛いという意味になったりする。同様に、すごく美味いは「やばい美味い」だが、形容詞が形容詞を修飾するという非常にゴロが悪いことになっている。そこで、後に来る形容詞を省略する。
 そもそも会話は、その時の状況、話の内容、話の相手によって支配されるので、必ずしも全てを文章のように語る必要はない。端的な例が、「あれ」だ。「あれ」は特に年齢が行くと頻繁に会話に登場し、その一部を担うようになる。それは年齢とともに脳が衰退するからに違いないが、そのことはつまり、「あれ」と言っても相手に話が十分伝わるだけの何かが、その前後の会話、会話対象との関係などに含まれているということだ。
 前出の「やばい可愛い」や「やばい美味しい」は「やばい」で事足りる場合があると言うことだ。そしてその積み重ねは、やばいに「素晴らしい」という意味を付加していく。
 この言葉が定着するかどうかは別として、言葉の変遷というのはそういうことの繰り返しで、いかに多くの人が頻繁にその言葉を耳にしていくかで決まっていくので、その言葉が美しいかどうかというのはあまり問題ではない。
 同じアンケートで「(6)面倒臭いことや不快感・嫌悪感を表すときに「うざい」と言う」という設問では、やばいと同じような数字が出ている。こちらは、「うざったい」が既に辞書にも載っているので、そこからの派生だから、定着する可能性は高い。もちろん、「やばい」は意味の誤用だから、ケースは違うように見えるが。
 そういう意味では、「(5)いいか悪いかの判断がつかないときに「微妙(びみょう)」と言う」という設問で、非常に数字が高かったのは判りやすい。そもそもの意味は「優れていて美しい」ことを表現する言葉だが、現代では、「細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさま。(広辞苑)」「はっきりととらえられないほど細かく,複雑で難しい・こと(さま)(大辞林)」と辞書に載っているので、判断が付かないときに「微妙」と言うのは間違ってはいない。
 それよりも気になったのは、この設問の1から3で、
(1)「わたしはそう思います」を「わたし的にはそう思います」と言う
(2)「鈴木さんと話をしてました」ということを,鈴木さんと話とかしてました」と言う
(3)「とても良かった」ということを「とても良かったな,みたいな……」と言って相手の反応を見る
 この三つは全て、自分の発言に自信がない、あるいは責任を持たないことの表れのような気がする。「みたいな 」に到っては、明らかに相手に同意を求めている。もちろん、若い人の文脈では、必ずしも相手に同意を求めているというよりは、言った結果が相手を傷つけないか、あるいは、自分が場違いなことを言ったのではないかということに対する恐れのようなものが含まれていたりするケースもある。
 言葉は変化していくとは、何度も書いたが、実は人はその変遷に恣意的に加わることができる。流行っているというだけの理由で言葉を選んでいくことは、その変遷を容認することで、あたかもそれは、テレビで国会中継を見て愚痴を言っているのに似ている。
 そう、政治に実際に参画することと同様、言葉の変遷に一石を投じていくのも、意外に(意外とという人が増えているらしい)難しいものなのだ。
 それにしても、世間ずれを「世の中からずれている」という感覚が、彼らの思っている世間ずれという言葉の自家撞着になっているようでおかしい。
 

1件のコメント

  1. Hat

    ズバリ、阿呆なんでしょうね
    本や新聞、教科書を読まないから言葉を知らない野人状態で社会に出て、恥ずかしいとも思わずテレビに出る。恥知らずですね

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