王様の宮殿
由比敬介による好きな音楽限定のブログ。

 マーラーという人は、ご存じの方も多いともうが、作曲のほとんどを交響曲と歌曲に費やしている。交響曲は全部で11曲、内1曲は未完であり、1曲はナンバーが付いていない「大地の歌」である。
交響曲の父と言えばハイドンであるが、基本的に交響曲はソナタ形式の第1楽章を含む4楽章からなるオーケストラ曲を指す。ハイドン以降はモーツァルト、 ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウス、ショスタコーヴィチといった作曲家が有名である。もちろん、 ベルリオーズや、リストを始め、他にも非常に多くの作曲がが手がけているが、チャイコフスキー当たりまでは、いろいろあれども、交響曲は一定の形式の上に 作られていることが多い。
マーラーは、第1番こそ4楽章の交響曲を作ったが、2番で合唱と、声楽ソロのある5楽章の「復活」3番では6楽章、4番も声楽付き、5番7番が5楽章、 8番はほとんど全てが声楽に満たされたオラトリオのような大作、そして連作歌曲のような「大地の歌」を過ぎて、4楽章の9番がある。しかし9番は調整的に もかなり曖昧で、シェーンベルク達を予感させる。
唯一6番がかなり堅牢な交響曲らしい交響曲といえば言える。但し、全体の4割を第4楽章が占めていたり、モーツァルトやハイドンの交響区曲とは明らかに別のジャンルの音楽である。
主題もしっかりしているし、第1楽章で繰り返しもある。メロディラインは、マーラーらしく俗っぽさもぷんぷんするところもあるが、どちらかというと格調高い。「亡き子を偲ぶ歌」などの自身の歌曲集との関連も、他の作品位劣らず重要な位置を占めている。
この交響曲を最初に聴いたのは大学生の時だが、その行進曲のリズムで始まる第1楽章の冒頭で圧倒された。アルマ(奥さんの名前)のテーマと呼ばれる旋律は非常に美しく、一時期は第1楽章ばかり繰り返して聴いていた時期もある。
第2楽章のスケルツォはいかにもマーラーらしい諧謔性を感じさせる楽章だが、実は私はそれほど好きではない。
第3楽章は、あたかもこの交響曲の名前を象徴するかのような切なくも哀しい旋律を含む楽章で、ここはジョージ・セルの演奏がいまだに一番好きだ。
終楽章はおよそ30分かかるモーツァルトだったらそれだけで1曲の交響曲になる程長大である。この中にはハイドンの「驚愕」交響曲もかくやというような 仕組みが隠されており、その最大のものは、この交響曲が終わる直前に振り下ろされる最後のハンマーである。それは最後に人を打ちのめすハンマーなのだ。
今まで多くの「悲劇的」を聴いてきたが、学生時代に購入したジョン・バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の演奏がベスト・ワンだ。かつて、ずい ぶん昔のことだが、この演奏はなかなか評論家によって評価されず、バーンスタインであったり、セルであったり、あるいはカラヤンであったり(古い演奏家ば かりだな!)、していた。バルビローリだって彼らと比較して十分じいさんだと思うのだが。
レヴァインが出、ラトルが出、マーラーがベートーベン以上にCDショップの棚をにぎわす今では、非常に多くの演奏が聴ける。
しかしその中にあってもバルビローリの演奏は際だっているし、しかもユニークだ。あのテンポ一つとっても、他とは絶対に違う曲だ。文字で表すのは難しい が、主題の繰り返しをしていなくても、している演奏よりも長時間かかっているといえばいいだろうか。行進曲は、足を引きずるような重々しいテーマで幕を開 ける。
全体を通じてどこか重く沈潜したイメージで曲は進む。カップリングにR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を選んだ理由が分かるような、そんな演奏である。
終楽章が終わったときには、悲劇に打ちのめされた主人公は到底立ち上がる気力がないのが解る唯一の演奏のような気がする(尤も全ての演奏を聴いたわけではないし、最近での演奏は特に耳にしていないが)。
しかし素晴らしい感動を与えてくれる名演である。音は古めかしく、オーディオ的にはそれほどいいとは思えないが、それをカバーしてあまりある。バルビローリのマーラーは昔から、5番が名演とよく言われるが、6番を無視してそりゃないだろうと思う。
ところは最近何かで見たが、かなり評価が上がっているようだ。不思議なものだ。

 「復活」は私がクラシックを聴く決定的なきっかけとなった作品だ。殊に、最初に買ったズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのレコードは、私にとっては宝物だ。
それまでもクラシックを聴かなかったわけではない。それ以前に購入していたのはオーマンディの「ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)」カ ラヤンの「運命」(但しこれは弟にプレゼントした物だ)。ストコフスキーの「白鳥の湖」「新世界」。誰の演奏だか忘れたが「1812年序曲(チャイコフス キー)」。ツァラトゥストラは、映画の影響だし、1812年はコージー・パウエル(ドラマー)の影響だ。白鳥と新世界はきっと魔が差したのだ。
そんなとき、メータの「復活」のジャケが目に入った。

当時は金色の帯が掛かっていて、マーラー「復活」と書いてあったように思う。
私は、このタイトルとジャケットだけで5千円のこの盤を買った。内容なんか全く来たこともなかったし、マーラーという作曲家も初めて目にした。
こういうのを邂逅というのだろう。レコードに針を落とした瞬間、弦のトレモロの上にコントラバスが重々しい旋律を奏で始める。この冒頭を聞いた瞬間に、私は打ちのめされた。ああ、こんなクラシックもあるのか、と思った。 この曲には最後の二つの楽章に声楽が使われている。そもそも声楽というのは、私にとっては不自然な発声と、画一化されたテクニックで、クラシックの中でも最も馴染まないものの一つだった。ところが、この1枚のレコードのおかげで、全く声楽に関する考え方が変わった。
大学ではクラシック関係のサークルに所属していたが、このレコードのおかげで、最初から声楽が好きだという顔をしていた。
この復活という曲は、ベートーヴェンの第九のようだし、恐らくマーラーは意識していたに違いない。時間的には第1楽章20分、第2楽章10分、第3楽章10分、第4楽章5分、第5楽章35分で、約80分かかる大曲だが、非常にまとまったいい曲であると思う。
第1楽章をマーラーは交響曲第1番の巨人の葬送行進曲だとしている。死と復活というのは西洋人の、たとえクリスチャンでなくても何らかの重要なテーマな のだろうと思う。マーラーはユダヤ人だし、クリスチャンではあるが、社会的な事情で洗礼を受けているようなので、信仰心がそれほどあったとは思えない。末 期の言葉も「モーツァルト!」だそうなので、音楽こそが、彼にとっての宗教であったに違いない。
元々私は第1楽章が大好きで、そこばかり聴いていた。冒頭の重々しさから嵐のような中間部など、楽章の中でもかなりメリハリのある曲だ。そして フィナーレの、序奏とは逆に高いところから急降下するような旋律。この辺りのびっくり交響曲もどきなやり口は、6番でも使われているし、マーラーというの はひどくこういうドラマチックな方法が好きなのだな、と感じる。私は大好きだが、こういうところが嫌いな人も多いだろうなと思う。
穏やかな第2楽章と、「不思議な角笛」という歌曲集の1曲の旋律をそのまま使ったスケルツォ、第1楽章と終楽章は単独でもよく聴くが、この二つの楽章は単独で聴くことはない。実をいうと、私はマーラーのスケルツォはそれほど好きではない。
第4楽章も「不思議な角笛」から取られた曲だ。この曲は厳かで、次に来る復活のプロローグとしてまことに相応しい。長すぎないのもいい。
そして、静かに消え入るように終わる4楽章の直後、第1楽章の最後を逆に行ったかのような形で駆け上る旋律とともに、劇的に終楽章が幕を開ける。
この楽章はソプラノとアルトのソロ、そして合唱で華々しく色取られているが、私は非常にオペラチックなものを感じる。オラトリオといった方がいいのかも 知れない。指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀の時に聴いたクロップシュトックの詩に啓発されたようなことを本で読んだが、だとすると、その詩がなけ ればマーラーのこの曲は「復活」にはならなかったのだろうか、と思う。そうしたら、私も今頃クラシックをそれほど聴いてはいなかったかも知れない。
かなり長いオーケストラの演奏の後、合唱にそのクロップシュトックの詩が登場する。私は実は第九も好きなのだが、やはり比べものにならないくら い、「復活」の方が好きだ。これは多分、「合唱」が、歓喜の歌なのに、「復活」が復活だからだ。禅問答のようだが、このニュアンスの違いは、解る人だけ 解ってくれればいいといった感じで、これは単純に私の個人的な資質の問題だ。
今では復活だけで10種類前後の演奏を持っているが、実はメータ盤はCDを持っていない。一番好きなのは、今のところ、ずいぶん昔にレヴァインがどこのオーケストラだったか忘れたが、FMで放送になったライブの演奏だ。今でも大切なテープだ。
メータのレコードは売れないで手元に取ってある。これはこれで、今でも十分に名演だと思う。当時はかなり、話題になったようだが、その当時は私はそう言うことには疎かった。
クラシックという音楽は、やはり特殊だし、歌謡曲やポップスに比べると、近寄りがたい部分がある。だが所詮音楽なので、慣れてしまうと、その中にあるポップスでは味わえない良さというのがあるのだ。
ハードロックばかり聴いていた10代の後半は、クラシックと言っても、ロック歌手が話題にするから聴いてみようと思い、概ね、大きな管弦楽曲が多かっ た。多くのロッカーが「バッハ」と言っていたから、それでも私は自分の好みで取捨選択はしていたのだが、このマーラーの「復活」は、そんな私に音楽(聴く だけだが)への大きな転換点を与えてくれた大切な曲である。これからもずっと、愛してやまない曲と言い続けるに違いない。もっといい曲や、すごい曲があっ ても、この曲だけは別格なのだ。

第九
12月 30th, 2004 by admin in 交響曲, クラシック No Comments

 12月になると第九の演奏回数が増えるようになったのはいつの頃からなのだろう?少なくとも私がクラシックを聴き始めた時は既にそうだったような 気がする。インターネットで調べると、戦時中の学徒出陣の時、今の芸大(東京音楽大学)が、繰り上げの卒業式を12月に行い、その時に演奏したのが元、と いうような記事を複数見つけることができ、オーケストラとしては今のN響(当時は新交響楽団)が始めたようなことが書いてあるが、まあ、戦後何となく定着 していったのだろう。「喜びの歌」という終楽章のシラーの歌詞も、新年を迎えるに当たって良い歌詞と言うことだったのかも知れない。戦中でも、ドイツ音楽 なら問題なかったと言うことか。
恐らく戦後、どんな高度成長期にも、「この世知辛い世の中」といった形容詞は使われ続けてきた。バブルだって高度成長だって、日本人全員が等しく 味わっていたわけではない。どんな好景気にだって倒産する会社はたくさんある(逆に不景気だって高成長を続ける会社もあるわけだが)。
そんな中で、暮れの押し迫った時期に、一年の憂さを晴らすような「歓喜の歌」を、素人でも歌えるこの企画は、非常に一般に浸透しやすかったのだろう。
今でこそ、オーケストラもたくさんあるし、ホールもたくさんある。演奏家もたくさんいるから、第九の演奏と言ってもそれほど難儀なことはないのかも知れ ないが、オーケストラと独唱、合唱を入れると、「ちょっとコンサート」という規模ではない。 時間だって1時間以上かかるわけで、楽なコンサートとは言え ないはずだ。
個人的には第九は好きな音楽の一つだ。だが、根がひねくれているので、年末に猫も杓子も(というほどではないことは百も承知しているが)第九とな ると、あまり聴きたくない。しかも、なぜか小学生の時から知ってる「晴れたる青空、漂うく~もよ~」という歌詞が、何とも脳天気で好きになれない。
第1楽章の、いかにもベートーベンらしい無骨で重々しい雰囲気が、美しい第3楽章を挟んで、終楽章へ移るわけだが、ここではもう、「晴れたる青空」という感じではなく、もっと宗教的な歓喜なので、「みんなで歌おう、ああ楽し」ではないと思うのだが。
ただ、この歓喜の歌の第1主題は、個人的にはあまり好きではない。実はこれも脳天気だからだ。ベートーベンの脳天気さというのは、例えば交響曲第7番の ような、脳天気であればこそ、「舞踏の権化」と言われても頷けるような、ああいうメロディラインをいうのであって、なぜか聴いていて気恥ずかしくなるよう な、穏やかすぎる歓喜の歌ではないのだ。
尤も、同じ主題から出ているにもかかわらず、バリトンの歌い出しはなかなかかっこいい。それは、第4楽章の冒頭と、バリトン歌唱の前の、これまたベー トーベンらしい喧噪に満ちたフレーズが、上手く導いているからかも知れない。結果的にバリトンが歓喜の歌の主旋律を歌うと、なんだかまた意気消沈してしま う。
私のイメージとしては、「歓喜の歌」よりも「天下太平の歌」といった、若干気抜けを感じさせるメロディなのだ。
実は私は前にマーラーの「復活」の項でも書いたが、この「復活」という曲は、間違いなくマーラーの頭の中に第九があったので、恐らくマーラーはベートーヴェンを心から尊敬していたし、自分自身の第九を書いたのだと私は思っている。
第九の3楽章が持つ静謐なイメージを第4楽章の「原光」でなぞり、第九が騒々しいフルオーケストラで始まるのを、同様に第5楽章の冒頭に持ってきている。
私が第九よりも復活が好きな理由は、恐らくこの後の、声楽部分にある。第九の、敢えていうなら惚けたような脳天気さとは違い、あくまで無骨に、厳かなイメージを崩さないマーラーの頑なさが好きだ。
第九というのはベートーヴェンの交響曲の中でも決してよくできた曲ではないと思っている。3,5,6,7などの方がベートーヴェンらしい。「運命」は手垢が付きすぎていて、当たり前のような曲だが、素晴らしい曲である。
ベートーヴェンの良さは、私は緻密で細やかな緩徐楽章にこそあると思っている。第九もその例に漏れず、第3楽章が美しい。その余勢を駆って畳みかけるような終楽章の冒頭も、なかなかいい。何になぜ?と言うところだ。
まあ、これはあくまで個人の好みなので、一般の人がどう考えるかは別のことである。
クラシックは一頃に比べると大分市民権を得たようで、CDも非常にたくさんの種類が手にはいる。コンサートもたくさん催され、料金的にも手頃なも のが増えている。相変わらず外タレはポピュラーと違って、これでもか!という料金を平気で付けているが、1回のコンサートに3万円などという価格が付いて いると、見る気もしない。
よく、この演奏は10万払っても惜しくないなんていう表現にお目にかかるが、私は比喩以上に捉えていない。感動は金で買えないかも知れないが、であれ ば、金銭的価値に置き換えるのはおかしいので、素直に、こんなに素晴らしい演奏はお目にかかったことがない。と言えば済む問題である。
著名な指揮者やオーケストラ、演奏家が、ある程度以上のいい演奏をするのは当たり前だから、見に行きたいと思う。また、見るからにはいい席で見たいと思う。しかしそれがお金持ちしか簡単に見られない金額では断念するしかない。
そういう意味じゃ第九は常に手頃だ。すなわち、多く観客を呼べると言うことなんだろうな。もっとクラシックが人気が出れば、何かが変わることがあるんだろうか?