先日、Intermezzoというダーバンのブランドのマフラーを頂いた。多謝。
さてこのIntermezzo、普通に読めばインテルメッツォだが、ダーバンはインターメッツォなのだ。これがイタリア語なら、多分インテルメッツォが 正しいが、言語というのは意外にこれをインターメッツォと読んでいる国なり地方なりがあるのかも知れない。単純に間違いと決めつけるわけにはいかない。
例えばAeroという接頭辞は、「エアロ」だが、Aeroflotは「アエロフロート」だ。でも、Aerosmithはアエロスミスではない。エアロス ミスだ。元々このAeroはAir(空気)のことだから、「えあーろ」とうことだと思うが、アエロフロートはロシアの航空会社だからなのか、それにしたっ てAeroの部分は飛行機を表す英語だから、どうもよく分からない。
さて、同様に、Intermezzoも、インテルメッツォとAtokで打って変換すると、Intermezzoと表示されるのだが、インターメッツォと打っても、実は同じ単語が出る。
そもそもこの言葉は、「間奏曲」を表すイタリア語のはずなので、本来は「インテルメッツォ」のはずだ。音楽用語は、イタリア語やドイツ語がほとんどなので、これはインテルメッツォであると疑っていなかったのだが、これは微妙な聞き取りの違いとしては、表記が大幅に違う。
実は辞書によると「インテルメッゾ」と書いてあるものもある。いっそのこと、「インターメッゾ」とでも書いてくれれば、明らかに英語読みの誤表記では、 と思えるのだが、そもそもイタリア語の素養どころか、英語の素養もあまり無いので、どうもただ釈然としない気持ちだけがしこっている。
閑話休題。
間奏曲と言えば、忘れられないのがカラヤン指揮によるレコードだ。この「うちでのこづち」で、マスネの「シンデレラ」というオペラについて書いた時にちょっと触れた。
この中でカラヤンは、必ずしも全て著名ではないけれど、間奏曲が単体で聴いて楽しめるものを10曲前後収録していた。CDになって曲数が増えていたが、ものによって何でこれを追加?みたいなヴァージョンもあった。
カラヤンは死後、「アダージョ」というアルバムをグラモフォンが発売してベストセラーになった。私自身は聴いていないが、「アルビノー二のアダージョ」とか、言ってみれば静かなクラシックの寄せ集め。そしてこの原点が多分、この間奏曲集だ。
「椿姫の第三幕の間奏曲」「カヴァレリアルスティカーナの間奏曲」「道化師の間奏曲」「友人フリッツの間奏曲」「マスネのタイスの瞑想曲」「修道女アンジェリカの間奏曲」くらいまでは覚えているが、後何が入っていたか思い出せない。
これらはどれも静かで美しい、言い方を変えると、いい睡眠薬の音楽だ。
基本的にはそれに続く楽章のテーマになるようなメロディーが使われている。
インテルメッツォとはそもそも、オペラ・セリア(シリアスなオペラって事だ)の幕間に関係ない喜劇を入れるという、それだけ考えると意味が分からない仕組みの、その喜劇のことだ。ペルゴレージの「奥様女中」が有名だ。・・・あのCDはどこへ行ったの・・・
それが、幕と幕を繋ぐ間や、場と場を繋ぐ間、あるいは、オペラとは関係なくても、何かの間に挿入される曲などが、いつの間にか間奏曲になった。日本語で 間奏曲と書けば、非常に意味はよく分かる。mezzoとは、メゾフォルテとかメゾソプラノでも解るように、中くらいとか、真ん中のという意味のようだ。 interも多分英語的にはそんな感じだ(インテル入ってるっていうのもきっとそんなところだろう。英語ではIntel Insideだが、これをインテル入ってるに言い換えた人は頭がいい。・・・余談だ)。だから、インテルメッツォは、中の音楽というような意味なのだろ う。
さてこのカラヤンのアルバムを聴いてみると、たとえオペラが総合芸術であっても、十分抜粋で楽しめるというのが私の意見だった。例えば、レコード やCD でオペラを聴く場合、1枚とか1面だけとかいう聴き方を普通にできるから。歌唱もイタリア語だったり、たまにドイツ語やフランス語、ロシア語だったりする わけだが、そもそも何を歌っているか解らないので、筋は追わない。
ところが、なかなかオペラを見にいく機会がなかったのだが(オーケストラコンサートばかりで)、ここ数年、たまにオペラを見るようになると、ああ、CD では見えていなかったものが(言葉の意味としては当然だが)あったのだ!という思いに、これまでオペラを見なかったことを後悔した。
オペラ公演の唯一の欠点は、休憩時間が長いことだが、これは歌手のことを考えればやむを得ない。これのせいで、2時間のオペラは3時間以上になるし、た いがい6時は過ぎて始まるので、9時過ぎまで食事はできない。これは日本の劇場では当然だ。海外のホールを知らないが、さすがに映画館のように座席で何か を食べられるとは思えない。せいぜい、幕間のサンドイッチとコーヒー程度だ。
しかし最近は、字幕もしっかり出るから、内容も追いやすいし、極めて快適だ。
もちろん、それでカラヤンの間奏曲集の価値が下がったわけではないが、オペラは再発見だったのだ。
さてそのカラヤンの間奏曲集で思うのは、60年代から80年代にかけて、カラヤンが帝王として君臨していたクラシック界だが(CDの収録の長さにまで影 響を及ぼすのだからたいしたものだ)、カラヤンという指揮者は、実にこういう種類の、いわばエンターテインメントとしてのクラシックの扱いが上手いと思 う。多分、R.シュトラウスも走だったのではないかな?と思わせるほど、カラヤンのR.シュトラウス作品もいい。美しく聴かせるすべをわきまえている。ベ ルリン・フィルというのもミソかも知れない。
とにかく間奏曲、Intermezzo、侮るなかれ、ということで。
先日、音楽著作権協会のホームページを見たところ、R.シュトラウスの作品が、特別の記事になっていた。ちゃんと読まなかったが、戦争を挟んでいた関係でいまだに著作権があると遺族が主張していたようで、しかし既に裁判でないということが決まったというような話だった。
R.シュトラウスという人は1964年生まれだから、既に生誕140年になるが、無くなったのが確か戦後1949年頃だったと思うので(調べろって か?)、まだ55年くらいしか経っていない。差し引きすると85才くらいまで生きたことになる。ヒトラーの元でも働いていたようなので世渡りはうまそうで ある。
ハードロックの項でも書いたが、私が初めて買ったクラシックのレコードの一つが「ツァラトゥストラはかく語りき」というシュトラウスの交響詩だった。「2001年宇宙の旅」ばかりでなく、CMやテレビの効果音としても有名な導入部を持つ美しい曲である。
シュトラウスは大きく分けると、若い頃に交響詩ばっかり書き、中年以降オペラを書き、晩年に少しだけ何かを書いたという印象のある、作曲家で指揮者である。オペラは、ワーグナー以降のドイツの最大の作曲家である。ワーグナーのように「楽劇」と呼ばれる作品も書いている。
私は最初に買った曲ではあるが、所詮冒頭の管楽器のファンファーレとティンパニの部分が好きで買ったので、そこから後が聴けるようになったのは大分後の ことだった。しかし好きになると、「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」「英雄の生涯」「アルプス交響曲」と立て続けに聴き、 マーラーの交響曲第6番とカップリングになっていた「メタモルフォーゼン(変容)」で、最も好きな作曲家の一人になっていた。「メタモルフォーゼン」は第 二次世界大戦後の作品だが、切々とした弦楽合奏の中にもシュトラウスらしいコマーシャリズムみたいな親近感を持てるメロディラインが美しい。
ようやく最近、オペラが聴けるようになってきた。「ばらの騎士」の重厚な管弦楽に載せたきらびやかな歌は、ワーグナーでもなかなか聴けない。これを聴くと、なぜマーラーのオペラがないのだろうと残念な思いがする。
「サロメ」は、オペラとしては初期の作品に属するが、幻想的な前奏で始まり、ちょっと無調を感じさせるナラボートの歌は、詩付きの交響詩「ドン・キホーテ」といったイメージもあるが、私が唯一学生時代から聴けたシュトラウスのオペラ(楽劇)だ。
R.シュトラウスの音楽は、それまでのロマン派の音楽とはやはり一線を画すような感じがする。独特の世界観と、空間、そして音の厚み。まさに職人 芸と呼ぶべき音楽で、友人のマーラーにあるようなどろどろした人間臭さはない。「英雄の生涯」などというオペラを書き、その英雄が自分自身だと言うくらい だから、ある意味脳天気だったのかも知れないが、とても安心して聴ける音楽だ(俺だけか?)。
作曲家で誰が一番好きか?と聴かれたらやはりクラシックにのめり込むきっかけを作ったマーラーと答えるだろうが、同時代だからというわけではなく、シュトラウスはやはりはずせない作曲家だ。
最近はあまり交響詩を聴いていない。「家庭交響曲」とか「マクベス」とか、佳曲は他にもたくさんあるので、いずれCDになっているのは制覇したいと思う。
でも今この時点でかかっているのはパット・トラバースなんだよな。
東京文化会館にヤナーチェックのオペラ「イェヌーファ」を観に行ってきた。余り有名なオペラでもないし、それほど期待しないで見に行った。チケッ トを購入したのが遅く、インターネットでの購入だったが、余りいい席が取れなかった。しかし、実際は空席が結構あり、S席でも観られたな。
内容は、イェヌーファという村一番の美人が、遊び人の男と恋仲なのだが、もう一人実直な青年が彼女に恋をしている。恋仲の男とイェヌーファは婚前 に致してしまっていて、実はお腹に子供がいる。母親は、そんな男との結婚は認められないと言って男にも怒る。もう一人の男は、あいつはおまえの顔が好きな だけだと言いながら、逆上してイェヌーファの顔に切りつけてしまう。
母親はイェヌーファがウィーンに行ったと言って部屋に閉じこめ、彼女はそこで子供を産む。子供がいるので仕方なしに、母親は遊び人にイェヌーファと結婚 してくれと懇願するが、男は自分がののしられたことを根に持ち、しかも顔に傷ついたイェヌーファには興味が無くなっており、実は既に村長の娘と婚約をして いた。
実直な男は、自分の行為を詫び、その後もイェヌーファを慕っている。
母親は、イェヌーファがその実直な男と結婚して幸せになって欲しいと思うが、そのためには子供がきっと邪魔だと、、イェヌーファに薬を飲ませて、眠っている間に、子供を氷の張った川に捨ててしまう。
母親は自分が犯した罪の重さにさいなまれ続けるが、やがて、イェヌーファはその実直な男と結婚することになり、その婚礼の当日。
客には村長夫妻と、その娘、そしてフィアンセである遊び人がいる。
そんな折、外で氷の中から子供の死体が見つかる。イェヌーファは自分の子であることを証言し、群衆が子殺しの母親に石を投げようとした時、母親が自ら名 乗って罪を告白する。イェヌーファは、母が自分の将来を思った故の殺人であったことを理解し、母を赦す。そんなことがありながらも、これからも君を守って いくという実直な男の愛を受け入れて物語はハッピーエンドに。
そういう内容で、まあストーリーにはつっこみどころがいろいろあるが、大抵のオペラはそうなのでここでも些末は気にかけない。
ヤナーチェックのオペラは「利口な目狐の物語」のCDを持っているが、まともに聴いたことがなかった。ELP(エマーソン・レイク&パーマーだ、もちろ ん。・・・パウエルじゃない)のナイフエッジという曲でもそのモチーフが使われた、シンフォニエッタと、タラス・ブーリバ、クロイツェルソナタという名の 弦楽四重奏曲などが有名だが、印象としては結構粗野な音楽という気がしていた。
今日聴いたオペラは、所々ドヴォルザーク風のメロディー有り、ワーグナー風ありだが、かなりオリジナリティーに富み、しかもなかなかいい曲だ。管楽器はやはり粗野なイメージを払拭しきれないが、むしろ今日のオペラには合っているような感じだ。
第1幕はちょっと冗長で、音楽そのものはかなり面白いのだが、場面が退屈だった。
ところが、2幕からは急に緊張感が増し、4人しか登場しない2幕は、ほとんど母親の独壇場といった感じで、時間を感じさせない素晴らしい物だった。続く 3幕も、子供の死体が上がった辺りからは、怒濤のように終幕へ向かい、かなりクオリティーの高い作品であるように思える。
罪を負った母親が群衆と部屋を出て行き、舞台にイェヌーファとラツァ(実直な男)の二人だけにするシーンでの音楽は、ワーグナーチックだった。しかもそ れで終わってしまうくらい盛り上げてくれる。いかにもそれで子殺しにピリオドを打ったような印象があり、死んでしまった子供がいかにも可哀想な扱いだとい う思いは残るが、その後、二人が愛を確かめる場面の音楽は美しく、しかも前途の多難さを表現の中に残す、終わり方だった。
演出もなかなかよく、非常に舞台装置を旨くシンボリックに使っていた。
「道化師」や「カヴァレリア」のような、いわばヴェリズモに属するオペラだと思うが、より泥臭く、生々しい。しかし、ヴェリズモをヴェリズモらしく見せるためには人殺しが必要だというのは、どうもミステリーとかぶるところがある。
悲劇を悲劇らしく、しかも身近なものとして描くのがヴェリズモなのだろうか?単なるリアリズムではなく、悲劇でなければならないような・・・
今日の演奏では、母親役の渡辺美佐子さんが、鬼気迫る厳格でありながら、誰よりも娘を愛する母親役を最も好演していたように思う。イェヌーファ役の津山さんも良かったが、渡辺さんは圧倒していた。
指揮は阪哲朗さんだが、若干荒さはあったように思うが、ヤナーチェックにはそれくらいの方がいいのかも知れない。
カーテンコールで後ろに直立不動で並んでいた二期会の合唱団の面々は、第1幕の若者の羽目を外したハチャメチャシーンでも、素晴らしい動きをして、イェ ヌーファが遊び人、シュテバとエッチしてしまう部分を非常にシンボリックに表現する演出を成功させていた。舞台狭しとあの大人数か駆け回り、絡み合う姿は 圧巻だった。
人はあまりはいっていなかったし、1幕で帰った人もいたようだが、作品的には1幕と残り2幕のデキに差があり、まとまっていない気もするが、後半だけでも十分に観る価値はあるし、また演奏もそう言って過言ではない。
見せ場が、イェヌーファと母親に極端に偏っているので、他の配役には気の毒な作品のようにも思える。・・・ラツァはそうでもないかな。
いずれにしても、思った以上にいい演目、そしていい演奏で満足して帰ってきた。・・・DVDでも買うかな。出てれば。
オペラというのは音楽が付いた劇だ。ワーグナーやR.シュトラウスの曲に使われる「楽劇」という呼称も、所詮は音楽劇だし、アリアやレチタティー ボが無くなったとしても、歌で構成される劇には違いがない。明確な序曲がなくても前奏曲や間奏曲は現実にあるし、それが使われる目的が多少違ったところ で、聴く側にはそれほど問題はない。
むしろミュージカルは、歌曲とポップスぐらいの差があるので、同じ音楽劇だとしても、大分違って感じる。
クラシックの歌手は、昔学校で習った記憶では、ソプラノ、アルト、テノール、バスだが、クラシックを自分で聴くようになり、それがマーラーを入り 口としたおかげで声楽に比較的簡単に馴染むことができた時には、バリトンとメゾソプラノが増えた。今までアルトだと思っていたのに、コントラルトなんて言 う呼び方が増えたり、まあ、これでは小中学生時代に声楽を好きになるのなんて到底難しいと思わざるを得ない。
オペラの多くは原語で演奏されるので、イタリア語か、ドイツ語かフランス語って言うのが相場だ。多少は英語や日本語もあるだろうが、概ねその3カ国語 だ。しかも圧倒的にイタリア語が多い。理由はオペラ作曲家の多くがイタリア人の上、モーツァルトまでほとんどがイタリア語と来れば、仕方あるまい。
オペラ作曲家としてやはり小学生くらいから知っていた作曲家といえば、モーツァルト、ヴェルディ、プッチーニ、ワグナーといったところだろうか。
私がオペラを聴けなかった理由の一つは、全体が音楽付きなので、当然面白くもないメロディーが中にはあるはずで、そのためではないかな、と思っていた。後は、子供の頃から3分前後の歌謡曲などになれてる耳は、1時間2時間という長丁場を耐えられないとか。
実際には、オペラはやはりオペラなので、舞台を見ることで最大限の効果を発揮するわけで、レコードやCDではどうしても片手落ちになる。
最初に好きになったオペラはレオンカヴァレロの「道化師」だった。川越の図書館で借りたのを覚えている。「衣装を着けろ」は今でも最も好きな曲の一つだ。しかもデル・モナコのやつが。
それとワグナーは「ニーベルングの指輪」の題材とその長さ故に最初から興味を持ち、当時3万円したショルティ版のレコードを購入した。CDでも買い直しているのでやはり好きなのだと思う。一番好きなのは「ラインの黄金」の最後の場面「虹の架け橋」といわれる部分だ。
オペラを見ようと思うと、どうしても普通のコンサートよりも高い。舞台なのでいい席で見たいし、2万円近くかかることになる。オーケストラコン サートとは大分違う。しかも著名な歌手や指揮者となると、ぽんと跳ね上がる。なんだかお金持ちの道楽趣味のようなイメージが払拭できないのは、こういうと ころにも問題がありそうだ。
オペラ座や、ウィーンの国立歌劇場や、いずれにしても正装をしていかないと(少なくともジーンズにシャツでは)入れないようなのがオペラだと思っていたし、たかだか音楽を聴くのにそんなことに気を遣うとしたら本末転倒だという気が、実はいまだにしている。
よくクラシックは、音も立てられないから堅苦しいというポップスファンの意見を聞くことがある。概ねマイクを通して、会場の音を圧倒するようなポップスやロックのコンサートは、スタンディングが基本みたいなところがあって、静かに聴ける雰囲気はないことが多い。
私はロックコンサートでも、周りのファンの喧噪なんて聴きたくはないので、静かに座って聴きたい人だ。それがハードロックでも。だって自宅で聴く時に騒 いで聴くやつなんていないだろう?あれはコンサートを聞きに行っているんではなく、騒ぎに行っているだけだ。常々そう思っている。立って観られたら前が見 えないとも。
そんな私にとっては、コンサートはむしろクラシックの方が好適で、なかんずくオペラは豪華な気分が味わえる。しかも気楽な格好で気楽に聴けたら、 これに勝る娯楽はない。もちろん、オーケストラコンサートも好きだし、リラックスするので必ず1回は寝る。寝られるコンサートは最も素晴らしいコンサート でもある。
そんなことを考えながら、実はパソコンでオペラも聴いている毎日。まあそれはそれで楽しいのだが、やはり年とともに、音楽の聴き方も変わったのかな?ふとそう思う今日この頃ではある。
ミュージカルというのは舞台や映画で歌を中心として物語が構成されているような作品群のことだが、アメリカで生まれたこの芸術は、私の認識では、 リートとポピュラーミュージックの関係をオペラに置き換えたものかな、というような気がしている。もっと単純に言えば、発声の違いかな。
この発声の違いをもっと砕くと、素人でも歌いやすいといえばいいかも知れない。当然他にも違いはあるが、「ポーギーとベス」のように、オペラでもあり ミュージカルでも通用するような曲もあるので、境界線は非常に曖昧だという気がする。宝塚歌劇団は「歌劇団」だが、演じるのは恐らくミュージカルで、女声 でも地声で歌っている。オペラの女性歌手の多くは、いわゆる地声では歌っていないので、その点は大きな違いだろう。メゾソプラノだって宝塚の男役のような 声は出さない。
私はオペラの中で何が一番好きだという程聴いたことがないので、何だろうな?と思うが、これまでの人生の中で最も多く聴いているのは多分ワーグナーの 「ラインの黄金」だろう。何度かリングを聴き通すぞという気持ちでトライして途中で挫折するから、一番多く聴くことになる。後は、レオンカヴァッロの「道 化師」マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、マスネ「シンデレラ」、ビゼー「カルメン」、等は複数回聴いている。あ、「バラの騎士」もかな。 モーツァルトやヴェルディ、プッチーニがないのがすごいな。部分的にはいろいろ聴いているが、通して聴いたことがない。尤も、交響曲であろうと、組曲であ ろうと、部分的に聴いて満足するのは私の特技なので、オペラも同じことだ。ストーリーを追うような聴き方が苦手なのだ。時間がかかるし。・・・・「椿姫」 は何回か聴いたかな。ヴェルディ、あったな。
ミュージカルは、ハリウッドの往年の映画の中で何回も観ている物もあるが、一番好きなのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」だ。舞台では見たこ とが無く、映画とレコードだけだが。大好きだ。実は私はミュージカルの舞台というのを観たことがない。「レ・ミゼラブル」など観たいと思うが、何しろ小説 の中でも私にとってはとりわけ愛着のある作品で、しかも希代のエンターテインメント小説という見方をしているので、どう考えても不満がぼろぼろ出てきそう だ。むしろそういう思い入れのない作品を観た方がいいかもしれない。
さて、「ポーギーとベス」ではなくとも、オペラとミュージカルは、似たような世界だと思う。ゼッフィレッリなど、オペラを映画化している人もいる が、オペラと映画の境界線以上にオペラとミュージカルの境界線は大してないように思える。ミュージカルでオペラを取り上げないのはそこにはテクニック的な 問題があることは想像が付くが、なぜクラシック業界はミュージカル作品を上演しないのだろう?
かつてロックとオペラの融合なんていうのがあった。確かザ・フーの「トミー」などはロック・オペラなんて言われていはしなかったか?エルトン・ジョンの 「ピンボールの魔術師」なんてただのポップスだが、いい曲だ。映画としても結構面白かった。もちろん、ミュージカルはクラシックよりもポップスよりなの で、ミュージカルをロックにする方が簡単ではある。「ジーザス・クライスト・スーパースター」なんて、まさにロック・ミュージカルだし。
だが、同じ曲をクラシックの発声を勉強した人たちが、そのテクニックで演奏したらどうなるのだろうか?と思う。私は観たことがないが、「ファントム・オブ・ジ・オペラ」なんて、タイトルがまさに「オペラ」だ。
「マイ・フェア・レディ」や、「雨に唄えば」なんて、楽しいオペラ作品になりそうな気がするが。
ニュー・イヤー・オペラコンサートの指揮をしているのが韓国出身の世界的な指揮者、チョン・ミョンフン(鄭明勳)だが、最近、CMでも何かやっていた気がする。
その折りに、「あれっ?」と思った。
私の記憶の中では「チョン・ミュンフン」だったからだ。・・・情報が古いってことだが、英語表記は「Chung Myung-Whun」となる。
よく見ると、最初のChungをちょんと発音するのなら、Myungは確かにミョンが正しいように思える。逆にミュンフンなら、チュン・ミュンフンだろう。
しかしかつては間違いなくチョン・ミュンフンだったし、CDなどはその表記になっていた。
かつてELOの話のときに、「Evil Woman」という曲が、かつて「エビル・ウーマン」と表記されていたという話を書いた。今調べてみると「イーヴィル・ウーマン」となっている。しぶといと言おうか・・・
Evilの発音記号は[ i:vl ](正しくは表記できないが)が普通で、日本語で表すなら「イーブル」が最も近い。最後のLは聞こえなくてもあるみたいな発音だ。何より、歌を聴けばそう 歌っている。「Evil」に関して言えば、サンタナも「エビル・ウエイズ」という曲があったが、こちらは聴いてもよく分からないので(英語で歌っている が、歌詞に出てこないような感じ)多少仕方がないと思われる。
かつてレナード・バーンスタインはバーンステインという表記だった。さすがにこれだけの国際社会になって、相変わらず「イーヴィル・ウーマン」はどうにかしてくれという感じもするが、チョン・ミョンフンの場合はどうなのだろう?
私はミョンフンとミュンフンの間ぐらいの音なのかな、とも想像するのだが、わざわざ変えたと言うことはやはりミュンフンでは間違っていたのだろうな、どうやら変わったのは最近のことのようだし。
チョン・キョンファのベルクは愛聴盤なのだが、ところで、弟のミュンファはミョンファではないのかな?
「ツァラトゥストラ」は、前にも書いたが、私が最も古くから聴いているクラシックの一つだ。もちろんR.シュトラウスの交響詩だ。ニーチェの作品のことではない。
この作品は冒頭のファンファーレのような部分があまりに有名だが、わずか1分半だ。この後に30分以上の曲が残っているわけだ。
私自身、映画「2001年宇宙の旅」のおかげでこれを聴くようになったのだが、確かに最初のうちは、冒頭しか聴かなかった。そこしか面白くないとも思っていた。だが、案に相違して、後半が素晴らしくいい。それに気づくのにはそれほど時間もかからなかった。
この作品はニーチェの原作に合わせて、部分分でタイトルが付いている。序奏に続いて、「後の世の人びとについて」「大いなる憧れについて」「歓喜と情熱 について」「埋葬の歌」「科学について」「病から回復に向かう者」「舞踏の歌」「さすらい人の夜の歌」の順番で演奏される。但し、楽章に分かれているわけ ではないので、全体は切れ目無く演奏されるが、それぞれがテーマを持って作られているわけだ。
交響詩というのは名称としてはリストが創始者だが、一般的な理解で言えば、複数楽章に分かれていない、標題付き交響楽だろう。例えば、幻想交響曲は交響 曲だが、リストの「前奏曲」とか「マゼッパ」とか、「タッソー」なんていうのは単楽章で、いわゆる交響曲の体裁を為していない。そして、内容がタイトルに 左右されているから、交響詩という名前を思いついたのだろう。
そもそも交響曲も、現代音楽まで含めれば、「作曲家が交響曲という名前を付けたから」交響曲なのではないかと思えてくる。第1楽章がソナタ形式 で、急・緩・メヌエット、またはスケルツォ・急という、学校で習うような形式でできていない交響曲も多数ある。ショスタコーヴィッチの交響曲2番や3番な どは、交響詩ではないのか?サン=サーンスの交響曲第3番はオルガン協奏曲ではないのか?とか、そもそもソナタ形式って何?とか。
物事は何でもそうだが、現代に到るまでに、非常に形式美を大切にした時代があり、そうした人たちがいる。もちろんそれを否定はしないが、同時にそう言った形式は、完成されれば、今度は破壊されていく運命にあるのだ。
提示部-展開部-再現部というオーソドックスなソナタ形式の、安定した音楽は、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンなどを聴くとそのまとまった良さはよく分かる。
だが、あれもこれもそうだったら面白くないと考える人もいるし、思い立った楽想がそれには当てはまらない人もいるに違いない。実は、音楽の多くはかなり疑似ソナタ形式で、ポップスだってその例に漏れない。
ビートルズのイエスタデイという曲があるが、まさにこれなんてそのままだ(私はほとんどビートルズを聴かないが)。主題の2回繰り返しなんていうのもポップスでは常套手段だ。
交響曲の第1楽章も当然それがある。
さて、そういう意味では交響詩というのは実に自由な形式で曲が書かれている。行ってみれば、かつて序曲なんていう名前で呼ばれていた曲で、実はオ ペラの序曲でも何でもない楽曲は、名前がなかっただけで交響詩と言ってもいいくらいなのだろう。但し、古いものはこれもソナタ形式で書かれているらしい。
音楽の主題というのは調性音楽ばかりでなく、1曲全体のイメージを決める物で、多くの場合、何らかの拘束力を持つ。先日購入したペンデレツキの「聖ルカ 伝によるイエス・キリストの受難と死」という曲では、確かどこかの楽章で、B-A-C-Hという音列を12音技法で変奏していると、解説に書いてあった。 いかにもという感じだが、そういうものなのだろう。
当然、「ツァラトゥストラ」も全体を支配しているイメージはあるし、私は音楽の勉強をほとんどしていないので(学校の時は大嫌いだったので)、後 からちょびちょびとかじったにわか知識で、どの旋律がどう変奏されてという話になってくると、何となく聴いて判るのはブラームスまでだ。正直、R.シュト ラウスはよく分からない。
ただ、全体を通じて流れるイメージみたいなものが、いくつかの旋律で支配されているのや、それぞれが関係調とかよく分からないがそう言った関連を持ってなっているのも判るような気がする。
だから、ソナタ形式かどうかという問題は、実は音楽が持つ根本的な問題、メロディーの親和性みたいなものが1曲の中では重要な鍵だと言うことだろう。これはもう、人間がそもそも感覚的に持っているものなのだと思う。
「ツァラトゥストラ」は、私にとっては、非常に美しく、自分にフィットする音楽なのだ。「ドン・ファン」や「ティル」よりも。「英雄の生涯」よりも好きだ。
この交響詩というジャンルは、昔から好きなのでシュトラウスばかりでなく、リストや、ドヴォルザーク、ドビュッシー等々よく聴いてきた。ドビュッシーの 海なんて交響詩と名前が付いているが、3つに分かれているし、そうなると単楽章の・・・なんていう定義もおかしな物になってくる。
要するに、私の理解だが、作曲家がどんな名前を付けるかで決まる。それしかないな。
フィッシャー=ディースカウの声を最初に聴いたのはいつのことだろうか?もちろんレコードを通してだが、多分、25年以上前のことだろう。場合に よっては学校で聴いているかも知れないが、記憶にはない。曲はきっとシューベルトの歌曲だったりするかも知れないが、マーラーの歌曲であった可能性もあ る。
抑制のきいたすこぶる知的な印象を割と最初の頃から持っていた。地声に近いピアニッシモと、「抜き」とでも表現したいような歌い方は、他のバリトンとは違うと思っていた。
ディースカウというとオペラよりも歌曲という印象がどうしても強いし、しかもドイツリートだ。シューベルト、シューマン、マーラー、ヴォルフというのが 私にとってのフィッシャー=ディースカウと言うところだ。私はマーラーからクラシックに入ったので、とりわけマーラーには重きを置きがちだが、ディースカ ウの場合はシューベルトとヴォルフだ。もちろん、「子供の不思議な角笛」や、フルトヴェングラーとの「さすらう若人の歌」など、マーラーの歌曲の中にあっ ても、特筆すべき名演奏をCDに残してはいるが、ヴォルフに関してはディースカウがいなかったら、私はこれほど好きになっていたか解らない。
シューベルト、シューマン辺りの歌謡性の高い歌曲は普通に聴いて楽しく聴けるが、ヴォルフはその曲自体に知的(痴的)とも言える難しさを内包している。 さすがに19世紀末の音楽であり、マーラーなどに比べても、非常に現代的である。マーラーとヴォルフは浅からぬ因縁のある関係だが、ヴォルフの非常に流麗 なタイプの曲でも、どこか調性のあやふやさを宿しているし、長大な曲になると、メロディという切り口ではなかなか入り込めない、そして沈潜し鬱屈した雰囲 気を持った曲もたくさんある。その辺りを実にディースカウは丁寧に、まじめに歌い、その雰囲気を伝えてくれる。
メーリケ歌曲集などがよく他の歌手も録音しているが、私はゲーテの歌曲集が好きだ。特に「プロメテウス」とか「人間の限界」などという物々しい内容の、しかも時間的にも長い曲がのめり込んで聴ける。ここらの曲のディースカウは、荘重で感動的だ。
マーラーなどで見せる諧謔的な(この辺りの表現は少々オーバーなくらいに感じるが)ものとは違って、しかもシューベルトやシューマンのように、さらっと聞き流しても聴けるのとは違って、常にまじめに向き合わされる。
シューマンの「詩人の恋」などはディースカウよりも、ちょっと脳天気とも言えるヴンダーリッヒ版の方が好きで、そちらをよく聴くが、ヴォルフは他の歌手のを聴いても、結局はディースカウに戻る。
一つには全集に近い内容のものが発売されているということにも依ると思うが、それは裏返してみれば、自信と愛着の表れで、ヴォルフの多くの歌曲を愛していたに違いない。
そろそろまじめにディースカウのシューベルトを聞いてもいいかなと思っている。私にとっては「冬の旅」よりも「水車屋の娘」と「魔王」だったので、他の曲もきちんと聴いた方がいいな、という感じだ。それでも、自分の好みから言えば、ヴォルフのようにはならないだろうな。
ヴォルフってもっと評価されてもいいと思うのだが。
今読んでいる小説に、時折ディーリアスが出てくる。翻訳ではデリウスとなっているが、明らかにディーリアスだ。この登場人物はイギリス人なので、ディーリアスは自国の作曲家ということになる。
イギリスの音楽というと、パーセル以降目立った人がいない。ヘンデルはドイツ人だが、イギリスで活躍していたのイギリスの音楽といってもいいかもしれな いが、それ以降、なぜか目立った作曲家は、ホルストやエルガーなどの比較的近代の作曲家しか知られていないような気がする。ディーリアスもその一人だ。
「惑星」のせいで、ホルストは非常によく知られているし、エルガーも「威風堂々」で知られていることを思うと、ディーリアスは非常に地味だ。その音楽も全 体的に地味で、言ってみれば、「カラヤンのアダージョ」ではないが、非常に静かな音楽が多い。・・・多いというか、何を聴いてもそんな感じだ。
一番有名(と私は思っているのだが)な曲はオペラの「村のロメオとジュリエット」だと思うが、これなど全体を通して、夢見るような音楽で、激したところ が全くない。かなりドビュッシー当たりから影響を受けているようだ。ドビュッシーと同い年で、フランスで死ぬまで過ごしているの、さもありなんというとこ ろだが、しかし、印象派とかドビュッシーと同じかというとそうでもない。もっとロマンチックで、絵画的だがより写実的な雰囲気があると思う。おおらかとい う表現があたっているように思う。
尤も、ディーリアスを全部聴いたわけでもないし、どちらかというと数少ない経験の中での印象だ。部分部分は、ドビュッシーぽいように聞こえても、その後牧歌的なフレーズが流れてくる辺りが、あたかもマーラーの第3交響曲の終楽章のようだったりもする。
CDになっている曲のほとんどが、美しくてゆったりとした曲なのだが、例えばアルビノーニのアダージョとか、パッヘルベルのカノンのようにキャッチーなメロディーライン中心ではなく、一見キャッチーなメロディーをズオーっと引き延ばしたようなイメージがある。
ただ絶対、クラシックを「アダージョ」なら聴けると思っている人、眠りの前の子守歌にいいと思っている人は是非聴くといいと思うのだが。とにかく美しい。
先に書いた「村のロメオとジュリエット」は持っているが、他のオペラを聴いたことがないので聴いてみたい気がするのだが、何となく全部似ている予感が・・・・
あ、ヴォーン・ウイリアムスがいた。イギリス人に怒られちゃうな・・・・でもメジャーって訳じゃないよな。
ブリテンが~!!!
恐らく、私が初めてきちんと聴いたオペラ(この場合は正確には楽劇かも知れないが)が、「ラインの黄金」だ。これは、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の序夜と呼ばれるものだ、
ニーベルングの指輪は、「ラインの黄金」を始めとして「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の4作の楽劇からなる壮大な音楽劇だ。それぞれの作品が、通常のオペラ作品や、それ以上の長さを持ち、全てを演奏するには15時間前後かかる。
映画「地獄の黙示録」で有名になったワルキューレの騎行は、この「ワルキューレ」の第3幕への前奏曲だ。
私が最初にこのレコードを手にしたのは、大学生の時、3万円のショルティとウィーン・フィルによる、今となっては歴史的な名盤でのことだ。確か、ライト モティーフ集というのが付いて、全部で19枚組くらいだったと記憶している。1枚当たり1500円だったので、大学生でも買えたのだろう。
これにははまった。
CDでも買い直しているので、確かに好きなのだが、今歌っている歌手を見ると、ニルソン、ヴィントガッセン、ホッター、フラグスタート・・・なんだかすごい。ルチア・ポップがむちゃくちゃ若い。録音は1958年から65年だ。・・・おいおい生まれる前かい。
ライブではなくスタジオ録音で、決して音も悪くない。
ワーグナーの作品の多くは楽劇と歌劇で、交響作品や歌曲は数少ない。オペラではなくムジークドラマと呼ばれるが、ワーグナー自身はそう言ってはい なかったようだ。と言って、オペラとも呼んでいなかったらしい。Gesamtkunstwerkという風に言っていたという。まあ、総合芸術って言うこと のようだ。
オペラ自体が、ある意味総合芸術としての側面を持っているのでどう違うのかという話になると、アリアがないとか、音楽が止まらないとか、つまりは渾然一 体となった全体的作品というようなことではないだろうか。ライトモティーフ(示導動機)というのもあるが、ワーグナーほど凝っていなくても、多くのオペラ や、交響曲でも似たようなことをやっている作曲家はたくさんいるので、これはどうなのだろう?
いずれにしても、最初の聴くオペラとしては重いし長い。モーツァルトの音楽などとは正反対な気がする。荘厳と言うより重厚で、「ラインの黄金」の 冒頭から、何か壮大なドラマが始まるぜい!とでも言わんかのような音作りだ。私はこの、ライン川の流れの中から、ラインの乙女たちが出てくるところは、非 常に好きだ。
私はLDとDVDで、レヴァインとメトの盤を持っているが、いわゆるこういうオーソドックスな演出が一番好きだ。神様が背広着ていたり、ジークフリート の胸に大きな「S」マークが付いていたりする演出は、たくさん観ている人には新規でいいのかも知れないが、神話世界は神話世界らしい演出で観たい。
しかし、聴けば聴くほどのこの曲はかっこいいし、ジークフリートを歌う歌手が「ヘルデンテノール」と呼ばれるのもよく分かる気がする。もちろんジークフリートが英雄だからだが、英雄はワーグナーのオペラの専売特許ではあるまい。
しかし、ジークフリートのような純粋無垢な「英雄」というのはなかなか希有なキャラクターでもあるような気がする。
「ラインの黄金」は、借金をして城を建てたヴォータンが、ラインの黄金を盗んで指輪を作ったアルベリヒから指輪を盗んで、城を建てた代金に巨人に渡すとい うお話しだが、この指輪は「指輪物語」ではないが、世界征服のできる指輪でありながら、アルベリヒの呪いで、最終的には神々を没落に導く指輪だ。
「ラインの黄金」の最後で、指輪で代金を払い、人質になっていた義理の妹を救い出して、悠然とワルハラに入場するときの音楽「虹の架け橋」から、ラインの 乙女たちが黄金を盗まれたのを嘆き悲しむ歌の部分が一番好きだ。他をすっ飛ばしてもここだけを聴く価値がある。しかも歌付きで。ここはオーケストラ編曲で は味わいがない。
「ワルキューレ」以降はまたいずれ。
バロック・マスターワークスというCD-BOXを購入した。
60枚組 CD+解説CD-ROM1枚という、何とも豪快な商品だが、価格は6,000円弱だ。
バッハだけで20枚以上、その他にヘンデルが10枚、ヴィヴァルディ、テレマン、コレルリ、F.クープラン、ブクステフーデ、 ラモー、リュリ、モンテベルディ・・・・等々
単純に1枚1時間に換算したって60時間分、ぶっ通しで聴いて二日半かかるわけだ。
すでに持っていて重複していた盤もあるが、1枚100円以下だから問題はない。演奏も、知らない人もたくさんいるが、クイケンやコレギウム・アウレウム、ブリュッヘンなど、往年の大家の物も多い。
基本的にパソコンに入れてから聴くので、60枚すべてを取り込んだ。
元々、バッハに弱い。ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲など、有名どころは聴いたこともあるが、いわゆる無伴奏(ヴァイオリンやチェロ)や 宗教曲の多くは、たぶん聴いたことがあるものも少なくはないはずだが、あまり記憶にない。
そしてヘンデルも、特に「王宮の花火」や「水上の音楽」に、食わず嫌いで、昨年か一昨年くらいに「アルチーナ」というオペラのDVDを見て再認識した。
唯一、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」に思い入れがあり、期待して聴いた。
もちろんまだ全部聴いたわけではないが、「スターバト・マーテル」はこれまでよく聴いていたデュトワの盤に比べると、とても簡素でこちらはこちらでよい。
いくつか持っているヴィヴァルディの「和声と創意への試み」 の中の「四季」で聞き比べをしてみた。ベタなことだが、解りやすそうだったので。四季と言えばイ・ムジチを持っていないのだが、クイケンのはちょっと音が堅い感じがするが、きらびやかすぎないのがいい。どれが一番いいというより、いろいろな演奏が聴けて楽しいという感じだ。
パソコンに入れてしまうと、作曲家別に分けてしまうので、どれが新しくてどれが古いかが、一目で分からなくなってしまう。これは自分で悪いのだが、いつかは聴けるので、それはそれでよしという事だ。
取り敢えずヘンデルのオペラ(全部抜粋盤だが)楽しみだ。
新宿の新国立劇場でやっているベートーヴェンの「フィデリオ」を観てきた。
指揮はミヒャエル・ボーダーに東フィル、タイトルロールにガブリエーレ・フォンタナ、夫のフロレスタンにトーマス・モーザー、監獄所長ピツアロにペテリ ス・エグリーティス、監獄の番人ロッコにハンス・チャマー、その娘マルツェリーネに水嶋育、大臣ドン・フェルナンドに河野克典他、という配役だった。
そもそもベートーヴェンのオペラというだけで珍しいが、なかなか演奏される機会は少ない。ところが昨年サイモン・ラトルが来日して上演しているし、実は意外によくやるのか?と思わせたり。
実は私は新国立劇場デビューで、初めてにしては当日券で端っこの端っこで観たのだが、やはりオペラはかぶりつきがいい。歌手の表情まで肉眼で見える位置 で見るのが面白い。さすが奥の上の方ではいいものもよく見えないかも知れないと思った。最初から観るつもりであれば、CDも持っているので、久々なので予 め聴いておけば良かったと思ったが、なんのなんの、ベートーヴェン節炸裂なのでそれほど気にする必要もなかった。
そもそもこのオペラは男装したレオノーレがフィデリオと名乗っているから「フィデリオ」なのだが、ベートーヴェンにはこのオペラように書かれた「レオ ノーレ序曲」が別に存在する。しかも複数あったりするわけだ。なんだかややこしい。冒頭から交響曲のような序曲で始まる辺りがモーツァルトなどとは根本的 に違うが、だが、その重々しさが全体を支配しているので違和感はない。
歌手はトーマス・モーザーしか知らないが、フロレスタンは第2幕にしか出てこないので、ちょっと事情もあり、あまりまともに聴いていなかった。モーザー は手元にはマーラーの「大地の歌」を、カツァリスのピアノ伴奏で歌ったCDが1枚あるが、探せば他にもあるかも知れない。大御所だ。もっとちゃんと聴けば 良かった。
第1幕ではマルツェリーネが最初に歌うアリアがなかなか良かった。水嶋さんは遠くて顔は判らなかったが、出だしからふくらみのある声で堪能できた。前半 は門番のヤキーノがテノールだが、中心になるロッコとピツァロがどちらもバスなので、このことも暗さを助長している。まあ、暗いオペラなのでそれでもいい のかも知れないが、なんだかメリハリが・・・
最後しか出てこないがフェルナンド役の河野さんも力強くて良かった。
尤も、オペラ全体はどうも今ひとつの感がぬぐえない。ベートーヴェンがこれ1曲しか書かなかった理由が分かるような気もする。オケがうるさい。昔 大学の先輩が、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったので大音響の曲を書いたということを言っていたが、若干頷けてしまった(くれぐれも、差別的な意味は ない)。金管がかなり炸裂していた。
多くのオペラが、終わりどころというのがあまり上手くないという風に思っているが、この曲もそうだ。曲の長さのバランスなのか、何度もここで終わりかと 思った。CDではそんな記憶はなかったのだが、もう大分前だからな、聴いたの。マーラーの交響曲第3番が、いいかげんにしろよ!と言いたくなるような終わ りなのだが、ストーリーが絡むと、非常に難しい。私など、レオノーレが夫を助けた時点で全曲を終わらせてもいいような気がするが、まあ、ベートーヴェンの 時代はそういう時代ではなかったのだろう。
まあただ、生でオペラにしてもオーケストラにしても聴くのは、CDやDVDと違って独特の雰囲気があり、概ね楽しめる。もうちょっと価格が安けれ ばいいなあ、といつも思うのだが、演奏者のことを考えるとやむを得ないな。特に日本では、安くしたから観客が動員できるとは思えないし。それにしても新国 立劇場は雨にも濡れないで行けるというのは、日本のこういう劇場の中では一番いいな。
ブルックナーは言うまでもなく、19世紀後半に活躍したクラシックの作曲家だ。
私はここで何度も書いているようにマーラーの復活をきっかけに、多くクラシックを聴くようになった。ブルックナーとマーラーは、師弟関係にあるの で、よく書物などでは「ブルックナー・マーラー」などと一括りにされることがある。ブルックナーは1824年生まれなので、1860年生まれのマーラーと は36歳の年の差がある。70年代の半ばにウィーン音楽院で、マーラーはブルックナーから和声を習っている。
マーラーが交響曲で歌を多用しているのに反して、ブルックナーは一切それがない。だが、宗教曲を除くと、ブルックナーの作品もおおむね交響曲ばか りで、しかもベートーヴェン以来の9曲の呪縛に見事はまっている。だからこそマーラーは、巨大な第8番の後に「大地の歌」を交響曲として発表したのだ。
さて、これまでブルックナーのレコードやCDを持っていなかったわけではなく、相当昔に、0,3,4,8,9という番号の交響曲をレコード、あるいはCDで持っていた。何回かは聴いている。しかしこれまで、何度聞いても、どこがいいのか解らなかった。
ブルックナーにかに関しては、昔はよく「天国的」とか言う表現を聞いたことがあるような記憶があるが、独特と言ってもいいスケルツォ(ブルックナークレッシェンドとでも呼びたいような)や、やたらと金管がうるさいというイメージを払拭しきれないでいた。
最近、タワーレコードでロジェストヴェンスキーのブルックナーの交響曲全集を買った。私はロジェヴェンという人が好きで、ショスタコーヴィチの交響曲全集やら、チャイコフスキーの後期の交響曲やらを愛聴しているが、このブルックナーもなかなかよい。
これまで聴いたことがなかった、2,5,6と言った曲や、持っていなかった1,7なども面白い。アダージョは綺麗だし、金管もうるさく感じられなくなり、相変わらずランダムできているときにブルックナーのどこかの楽章がかかると、つい必要以上に耳を傾ける。
もとより、本も読んでいないし、ライナーも読んでいない(輸入盤なので読めないのだが)。だからブルックナーの知識は非常に乏しいのだが、重厚で、そのくせ広がりがあり、巨大な何かを感じる曲が多い。マーラーと違って、描写的なところは少ないような気がする。
むしろ、ベートーヴェン、ブラームスと来たドイツの交響曲の正当な後継者という気がする。ドイツらしい堅苦しさはやはり備えているように思う。
昔と違い、1曲聴き通すという聴き方をほとんどしなくなったので、演奏会にでも行かない限り、どうしても部分聴きになる。まあ、それが私の楽しみ 方なので、あえてそれを変えようとは思わないし、ブルックナーの後にレインボーでもかかったりすると、一気にそのモードになるので、まだまだブルックナー には浅い。
クラシックというのは、面白いと思う。昔はブラームスだって面白くないと思っていたが、今では大好きだし、最近はほとんど聴かなかったベッリーニ なども好きだ。まだまだ埋もれている作曲家とか、どちらかというと、バッハという大家が私のテリトリーにほとんどいないので、開拓の余地がある。
ロジェヴェンと言えば、ロシアの指揮者だが、昔ビクターから出ていたメロディアというレーベルは、いい盤がたくさんあった。神保町の古書センター の上の方に、ロシアものを中心にしたCDショップがあり、そこでロシアンロックなども買ったりかつてはしたものなのだが、今でもあの店はあるのだろうか? 何年も行ってはいない。店名も忘れた。久々に行ってみようか。・・・芳賀書店には行かないぞ。・・・たぶん。
マーラーという人は、ご存じの方も多いともうが、作曲のほとんどを交響曲と歌曲に費やしている。交響曲は全部で11曲、内1曲は未完であり、1曲はナンバーが付いていない「大地の歌」である。
交響曲の父と言えばハイドンであるが、基本的に交響曲はソナタ形式の第1楽章を含む4楽章からなるオーケストラ曲を指す。ハイドン以降はモーツァルト、 ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウス、ショスタコーヴィチといった作曲家が有名である。もちろん、 ベルリオーズや、リストを始め、他にも非常に多くの作曲がが手がけているが、チャイコフスキー当たりまでは、いろいろあれども、交響曲は一定の形式の上に 作られていることが多い。
マーラーは、第1番こそ4楽章の交響曲を作ったが、2番で合唱と、声楽ソロのある5楽章の「復活」3番では6楽章、4番も声楽付き、5番7番が5楽章、 8番はほとんど全てが声楽に満たされたオラトリオのような大作、そして連作歌曲のような「大地の歌」を過ぎて、4楽章の9番がある。しかし9番は調整的に もかなり曖昧で、シェーンベルク達を予感させる。
唯一6番がかなり堅牢な交響曲らしい交響曲といえば言える。但し、全体の4割を第4楽章が占めていたり、モーツァルトやハイドンの交響区曲とは明らかに別のジャンルの音楽である。
主題もしっかりしているし、第1楽章で繰り返しもある。メロディラインは、マーラーらしく俗っぽさもぷんぷんするところもあるが、どちらかというと格調高い。「亡き子を偲ぶ歌」などの自身の歌曲集との関連も、他の作品位劣らず重要な位置を占めている。
この交響曲を最初に聴いたのは大学生の時だが、その行進曲のリズムで始まる第1楽章の冒頭で圧倒された。アルマ(奥さんの名前)のテーマと呼ばれる旋律は非常に美しく、一時期は第1楽章ばかり繰り返して聴いていた時期もある。
第2楽章のスケルツォはいかにもマーラーらしい諧謔性を感じさせる楽章だが、実は私はそれほど好きではない。
第3楽章は、あたかもこの交響曲の名前を象徴するかのような切なくも哀しい旋律を含む楽章で、ここはジョージ・セルの演奏がいまだに一番好きだ。
終楽章はおよそ30分かかるモーツァルトだったらそれだけで1曲の交響曲になる程長大である。この中にはハイドンの「驚愕」交響曲もかくやというような 仕組みが隠されており、その最大のものは、この交響曲が終わる直前に振り下ろされる最後のハンマーである。それは最後に人を打ちのめすハンマーなのだ。
今まで多くの「悲劇的」を聴いてきたが、学生時代に購入したジョン・バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の演奏がベスト・ワンだ。かつて、ずい ぶん昔のことだが、この演奏はなかなか評論家によって評価されず、バーンスタインであったり、セルであったり、あるいはカラヤンであったり(古い演奏家ば かりだな!)、していた。バルビローリだって彼らと比較して十分じいさんだと思うのだが。
レヴァインが出、ラトルが出、マーラーがベートーベン以上にCDショップの棚をにぎわす今では、非常に多くの演奏が聴ける。
しかしその中にあってもバルビローリの演奏は際だっているし、しかもユニークだ。あのテンポ一つとっても、他とは絶対に違う曲だ。文字で表すのは難しい が、主題の繰り返しをしていなくても、している演奏よりも長時間かかっているといえばいいだろうか。行進曲は、足を引きずるような重々しいテーマで幕を開 ける。
全体を通じてどこか重く沈潜したイメージで曲は進む。カップリングにR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を選んだ理由が分かるような、そんな演奏である。
終楽章が終わったときには、悲劇に打ちのめされた主人公は到底立ち上がる気力がないのが解る唯一の演奏のような気がする(尤も全ての演奏を聴いたわけではないし、最近での演奏は特に耳にしていないが)。
しかし素晴らしい感動を与えてくれる名演である。音は古めかしく、オーディオ的にはそれほどいいとは思えないが、それをカバーしてあまりある。バルビローリのマーラーは昔から、5番が名演とよく言われるが、6番を無視してそりゃないだろうと思う。
ところは最近何かで見たが、かなり評価が上がっているようだ。不思議なものだ。
「復活」は私がクラシックを聴く決定的なきっかけとなった作品だ。殊に、最初に買ったズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのレコードは、私にとっては宝物だ。
それまでもクラシックを聴かなかったわけではない。それ以前に購入していたのはオーマンディの「ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)」カ ラヤンの「運命」(但しこれは弟にプレゼントした物だ)。ストコフスキーの「白鳥の湖」「新世界」。誰の演奏だか忘れたが「1812年序曲(チャイコフス キー)」。ツァラトゥストラは、映画の影響だし、1812年はコージー・パウエル(ドラマー)の影響だ。白鳥と新世界はきっと魔が差したのだ。
そんなとき、メータの「復活」のジャケが目に入った。
当時は金色の帯が掛かっていて、マーラー「復活」と書いてあったように思う。
私は、このタイトルとジャケットだけで5千円のこの盤を買った。内容なんか全く来たこともなかったし、マーラーという作曲家も初めて目にした。
こういうのを邂逅というのだろう。レコードに針を落とした瞬間、弦のトレモロの上にコントラバスが重々しい旋律を奏で始める。この冒頭を聞いた瞬間に、私は打ちのめされた。ああ、こんなクラシックもあるのか、と思った。 この曲には最後の二つの楽章に声楽が使われている。そもそも声楽というのは、私にとっては不自然な発声と、画一化されたテクニックで、クラシックの中でも最も馴染まないものの一つだった。ところが、この1枚のレコードのおかげで、全く声楽に関する考え方が変わった。
大学ではクラシック関係のサークルに所属していたが、このレコードのおかげで、最初から声楽が好きだという顔をしていた。
この復活という曲は、ベートーヴェンの第九のようだし、恐らくマーラーは意識していたに違いない。時間的には第1楽章20分、第2楽章10分、第3楽章10分、第4楽章5分、第5楽章35分で、約80分かかる大曲だが、非常にまとまったいい曲であると思う。
第1楽章をマーラーは交響曲第1番の巨人の葬送行進曲だとしている。死と復活というのは西洋人の、たとえクリスチャンでなくても何らかの重要なテーマな のだろうと思う。マーラーはユダヤ人だし、クリスチャンではあるが、社会的な事情で洗礼を受けているようなので、信仰心がそれほどあったとは思えない。末 期の言葉も「モーツァルト!」だそうなので、音楽こそが、彼にとっての宗教であったに違いない。
元々私は第1楽章が大好きで、そこばかり聴いていた。冒頭の重々しさから嵐のような中間部など、楽章の中でもかなりメリハリのある曲だ。そして フィナーレの、序奏とは逆に高いところから急降下するような旋律。この辺りのびっくり交響曲もどきなやり口は、6番でも使われているし、マーラーというの はひどくこういうドラマチックな方法が好きなのだな、と感じる。私は大好きだが、こういうところが嫌いな人も多いだろうなと思う。
穏やかな第2楽章と、「不思議な角笛」という歌曲集の1曲の旋律をそのまま使ったスケルツォ、第1楽章と終楽章は単独でもよく聴くが、この二つの楽章は単独で聴くことはない。実をいうと、私はマーラーのスケルツォはそれほど好きではない。
第4楽章も「不思議な角笛」から取られた曲だ。この曲は厳かで、次に来る復活のプロローグとしてまことに相応しい。長すぎないのもいい。
そして、静かに消え入るように終わる4楽章の直後、第1楽章の最後を逆に行ったかのような形で駆け上る旋律とともに、劇的に終楽章が幕を開ける。
この楽章はソプラノとアルトのソロ、そして合唱で華々しく色取られているが、私は非常にオペラチックなものを感じる。オラトリオといった方がいいのかも 知れない。指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀の時に聴いたクロップシュトックの詩に啓発されたようなことを本で読んだが、だとすると、その詩がなけ ればマーラーのこの曲は「復活」にはならなかったのだろうか、と思う。そうしたら、私も今頃クラシックをそれほど聴いてはいなかったかも知れない。
かなり長いオーケストラの演奏の後、合唱にそのクロップシュトックの詩が登場する。私は実は第九も好きなのだが、やはり比べものにならないくら い、「復活」の方が好きだ。これは多分、「合唱」が、歓喜の歌なのに、「復活」が復活だからだ。禅問答のようだが、このニュアンスの違いは、解る人だけ 解ってくれればいいといった感じで、これは単純に私の個人的な資質の問題だ。
今では復活だけで10種類前後の演奏を持っているが、実はメータ盤はCDを持っていない。一番好きなのは、今のところ、ずいぶん昔にレヴァインがどこのオーケストラだったか忘れたが、FMで放送になったライブの演奏だ。今でも大切なテープだ。
メータのレコードは売れないで手元に取ってある。これはこれで、今でも十分に名演だと思う。当時はかなり、話題になったようだが、その当時は私はそう言うことには疎かった。
クラシックという音楽は、やはり特殊だし、歌謡曲やポップスに比べると、近寄りがたい部分がある。だが所詮音楽なので、慣れてしまうと、その中にあるポップスでは味わえない良さというのがあるのだ。
ハードロックばかり聴いていた10代の後半は、クラシックと言っても、ロック歌手が話題にするから聴いてみようと思い、概ね、大きな管弦楽曲が多かっ た。多くのロッカーが「バッハ」と言っていたから、それでも私は自分の好みで取捨選択はしていたのだが、このマーラーの「復活」は、そんな私に音楽(聴く だけだが)への大きな転換点を与えてくれた大切な曲である。これからもずっと、愛してやまない曲と言い続けるに違いない。もっといい曲や、すごい曲があっ ても、この曲だけは別格なのだ。
今日たまたま友人が遊びに来ているときに、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が流れた。相変わらず、PCの音楽をランダムに流していた結果だ。
「チゴイネルワイゼンだっけ? 」という友人に「チャイコフスキーじゃなくて・・・」と、おおぼけをかました。チャイコフスキーとメンデルスゾーン、シベリウスそして時にブルッフは、ヴァイオリン協奏曲のCDデカップリングになる。時間的にちょうどいいのか、それぞれ著名なヴァイオリン協奏曲が1曲ずつしかないからなのか、レコード時代から非常に多い。
メンデルスゾーンは、小学校で習う作曲家の一人だが、甘いメロディーで、まさにロマンはど真ん中のイメージがある。ヴァイオリン協奏曲以外に、交響曲第4番、3番、真夏の夜の夢(の中の結婚行進曲)が、特に有名なのではと思う。「スコットランド(3番)」より「イタリア(4番)」の方が少し有名なような気がする。まあただ、日本で最も有名なのは、結婚行進曲に違いないから(メンデルスゾーンの曲とは知らなくても)、下手をすれば、最も有名な作曲家だったりして。
個人的な好みで言えば、交響曲3,5、ヴァイオリン協奏曲と、無言歌、弦楽八重奏などが特に好きだ。
40前になくなっているのはモーツァルトやシューベルト、ショパンなど錚々たるメンバーがいる。昔の人は短命だとはいっても、神経すり減らしてたのかな、 などと思ったりもする。ジミ・ヘンやジャニスも早死にだったし・・・(ちょっと違うか)
メンデルスゾーンという作曲家は、難しいことをまったく考えないで聴ける作曲家の一人だと思う。 奥深さがないと言ってしまえば元も子もないが、そういうことではなく、純粋に音楽が持つ美しさを体現した作曲家のように思える。他の作曲家もきれいな音楽はたくさん書いているが、何より美しさが際だっている作曲家がメンデルスゾーンだ。
メロディラインの美しさというばかりでなく、曲の構成そのものが美しい。
僕は「真夏の夜の夢」という劇付随音楽が、あまり好きではない。その理由は、単純な美しさ、いわば耽美的なものに、何か不純物が紛れ込んでいるように思えるからだ。 まあこんなものは、単なる個人的な言いがかりかもしれないが、なんだかそう感じる。
この人はこういう表題的な音楽が向いていないのか、と言えば、交響曲の例もあるので、そうとばかりもいえない。ただ、有名になったオペラ作品がないという辺りに、答えはあるのかもしれない。劇や台本に音楽を乗せるという行為の中で、流れるようなメロディラインが、うまく乗らない何かがあるのかもしれない。・・・などと勝手に考えてみたりする。
今改めてスコットランドをかけているが、ああ、いい曲だなあ。
先日テレビで、モーツァルトの音楽が病気を治すというのをやっていた。高周波というのが非常に多いのだという。どこかの大学の先生が研究しており、そういうゼミのようなものもあるようだった。
クラシックの中で、なぜかモーツァルトというのはよく特別視される。わずか35歳でなくなりながら、後世にこれだけの音楽を残し、伝えられ、さら に評価されているのだから、確かに天才ではある。しかも交響曲からピアノ曲、オペラなど、クラシックの音楽のほとんど全てのジャンルを網羅している。ケッ ヘルが付けた番号は626まである。5歳から作曲していることを考えれば、年平均20曲以上を書いているわけだ。
ポップスを年間20曲作るわけではなく、その中には20曲ほどのオペラも含んでいる。1曲でCD2枚組3枚組の量があるのだ。現代のような録音技術があ るわけでもないから、紙の譜面に書いていく。大変だ。・・・まあでも、バッハなんていうとんでもない多作家もいるわけだから、それに比べれば、それほどで もないのかも知れない。
ともかく、モーツァルトの音楽は病気を治すらしい。なかにし礼が、おまけのように言っていたのは、やはりおまけのように感じるが、確かにモーツァルトの曲というのは特徴的で、ハイドンなどはかなり似た感じもあるが、ちょっとお堅い。
モーツァルトなりクラシックが「癒し」とか言われても、非常に怪しく、もちろん癒される人もいようが、いらいらする人だってきっといないわけではない。 アダージョとかラルゴとか、遅い音楽が「癒し」と結びつくのは、例えば「バラード」と言って静かで遅いポップスがやはり癒しを標榜するのと同じく、人の心 に安寧を与える可能性が高いと言うことも言えるが、あくまでヒット率が高いと言うだけだ。
昔からよく私が言っているのは、取り敢えず好きな音楽は静かであろうとうるさかろうと、こころをリラックスさせてくれる。高揚感とリラックスは対になるようなことではなく、集中してその世界に入り込めているときは、リラックスしているものだと思う。
ただ「高周波」とか、直接人間の脳に影響を与えそうな言葉が出ていると、病気が治るかどうかは別として、直接的に肉体に働きかけているような気は する。薬を飲まずに、音を聞いているだけで病気が治るものなら、何となく健康的なので、どんどん研究して欲しいし、そういう効果があるのならうれしいこと だ。
手の平をかざして病気が治る、呪文を唱えて病気が治る、いずれにしても、そういうことが可能なら、薬を飲んだり、メスを入れたりするよりは遥にいいわけで、モーツァルトもその部類だ。個人的には、モーツァルト以外でも発掘して欲しい気はするが。
マーラーの今際の言葉は「モーツァルト」だったという。そうか、「薬をくれ!」と言っていたのかもな。
モーツァルトの生誕250年だという。まさに今日がその誕生日だ。250年前の暦がどうなのかは知らないが、そう言うことらしい。
モーツァルトというと、バッハやベートーヴェンとともに、ほとんどの人が名前を知っている。しかも映画「アマデウス」のおかげで、バッハやベートーヴェンなどとは違い、姓だけでなく名まで有名だ。
しかし実際に曲をどの程度知っているかということになると、おそらくは、驚くほど知られていないと思う。少なくともクラシック好きの人が、モーツァルト程度は常識だろうと思っている、10分の1も知らないに違いない。
モーツァルトの書いた曲を上げよといわれたときに、ベートーヴェンの「運命」や「第九」ほどに、曲名が知られているわけではない。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という名前を聞いたことはあっても、恐らくモーツァルトと結びつかない人は多い。
テレビなどでかかるレクイエムの回数は、最近ではモーツァルトよりもヴェルディの方が多そうだ。
ジュピターという名前を聞いたときに、モーツァルトの交響曲を思い浮かべる人よりも、ホルストの「惑星」を思い浮かべる人の方が多いかも知れない。もちろん、平原綾香のおかげだ。
「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」等という著名なオペラは、どこかで名前を聞いたことがあるかも知れないが、下手をするとそれがオペラのタイトルであることを解らない人も多い。
最近ではクラシックのCDがよく売れているという。確かに昔に比べると、クラシックのハードルは低くなり、多くの人が聴くようになった。中でもモーツァルトは、簡単で難しく、聴きやすいので、ベートーヴェンなどよりは遙かに入りやすいだろう。
だが、CD等で、例えばモーツアルトの交響曲集を買ったとしよう。1枚聴き通し、曲当てクイズを行っても、簡単には答えられない。極論すれば、どれを聴いても似ているからだ。
たとえモーツァルトでも、日本語の歌詞が付いたJ-POPとは比べものにならないくらい、覚えるのは大変だ。
さて、そんなモーツアルトの音楽が、200年以上も前に生まれたにもかかわらず、いまだに多くの人に聴かれ、楽しまれているというのは驚嘆に値する。
人類の歴史から考えると、クラシックの歴史は思うより遙かに短い。しかも、20世紀を10年~20年くらい過ぎると、それから先は余りよく分からない音楽が続くので、実質200年間の音楽に近いとも言える。
もちろん、ルネサンスとかまで広げる事は可能だが、それでもせいぜい300年だ。
ただ、200年とはいえ、その200年を朽ちることなく、人々に感動を与え、聞き続けられているというのは、そこに何かがあるからに違いない。
最近の音楽が朽ちていくというのではない。ただ実際問題、最近の音楽の寿命はそれほど長くないものが多いだろう。それはある意味、ポピュラーの持つ宿命のようなものかも知れない。ビートルズだって、100年後にどれほど聴かれているかは疑問だ。
もちろん、どちらが優れているかということではなく、単純に、それだけの長きにわたり聴かれ続けている同じ音楽ということの凄さを言いたいだけだ。
ジョン・レノンの曲は、個人的にはどこがいいのかよく分からないが、ジョンが歌ってこそのあの気の抜けた感が、多くの人に感銘を与える原動力のような気がする。他の人が歌っても、いい曲はいい曲だが、何かが違うと言われるのではないか。
ところがモーツァルトなどは、これまでの歴史の中で、数えきれぬほどの演奏者が、同じ曲を演奏してきたのだ。そしてその都度、その演奏に賛否が唱えられ、いいに付け悪いに付け評価され、現代に到っている。
そもそも同じ音楽だが別のものなのだ。ジョン・レノンで言えば、スタジオ録音とライヴ、どこどこでのライヴと、何とか音楽祭のライヴでは違う、ある意味それと似ている。
ただモーツァルトの凄さとは、多くの作曲家、そして演奏家が、年を降るにつれ回帰し、その深みにはまっていく音楽であるという点だ。それは、ベートーヴェンも、ブラームスも、ワーグナーも、マーラーもあるいはバッハでさえ、持たぬ何かなのだ。
ハイドンの曲は、時折モーツァルトと似た響きをする。しかし、ハイドンは、モーツァルトが持つ、ある意味神々しさのようなものは持たない。実は私もモーツァルトのそういう側面はまだよく分からない。
でも、飽きない曲という側面をモーツアルトの曲は持っていて、これは単純に、心地いいとか、聴きやすいというのとは別のような気がする。
何より生誕250年、若くして亡くなった作曲家だが、今も尚、この時代にその音楽が生きている。すごいことではないか。
先日、知り合いの出ているオペラを観に行った。
演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」。若い人たちがやるには最適の演目の一つだ。・・・登場人物がほとんど若者だという理由ばかりではなく、非常に魅力的なメロディーに溢れているし、長すぎず聴きやすい。
二期会という日本のオペラ界では中心的な団体で学ぶ人たちによる演奏だったので、期待しつつ、それでもエレクトーン伴奏だと聞いていたので、ピアノより はいいのだろうけど、やはりオケではないから、オペラとしてはちょっと寂しいかな、等という思いを持ちながら、会場に向かった。
場所は滝野川会館という北区の区の施設だ。500人くらいは入るホールだった。
開演後まず驚いたのは、エレクトーンという楽器の凄さだ。十分にオケの代わりが務まるほどの音がするのだ。もちろん本物ではないから、細かいこと を言えば違うのだろうし、時折電子楽器の音は確かにするのだが、弦も管も打楽器だって、その楽器の音でするし、たった2台のエレクトーンが、2管か3管か 知らないが、フルオーケストラの音を鳴らすのだ。それだけでも予想を覆された。
キャストは
ミミ:高橋史惠 ロドルフォ:西村悟 ムゼッタ:吉田聡美 マルチェッロ:内田雅人 (初日)
ミミ:江熊千恵 ロドルフォ:加藤康之 ムゼッタ:中川美和 マルチェッロ:榛葉樹人 (二日目)
ショナール:千葉裕一 コッリーネ:金子宏 他
という布陣で、指揮と演出は 細岡雅哉 ということだった。
ボエームというオペラは、非常に甘いメロディーに溢れているし、中心となるのはミミとロドルフォの悲しい恋の物語と、他の登場人物との友情が19世紀頃のパリを舞台に描かれている。
オペラの常で、ストーリーはたわいないし、かなりドラマツルギーに支配されたこてこての作品である。尤も、これはいい意味でであって、非常に直接的な「ドラマ」だ。全体がどうあれ、最後のミミが死ぬシーンが素晴らしいと、それだけで感動できる。
プッチーニが書いたメロディーは、その死の場面のオケとロドルフォの絞り出すような「ミミー」という歌に向かって、全てが収斂していくのだ。そのためのオペラと行って過言ではない。
4楽章のこのオペラは、構成的には交響曲的で、序奏とソナタの第1楽章、続いてスケルツォ楽章が来て、その後に緩徐楽章、最後にフィナーレという風に、非常に聴きやすい。
ロドルフォとミミの恋愛という大きなテーマに、スケルツォで色を添えるムゼッタと、そのムゼッタが完全に浮いてしまわないように、常に脇を固めるマルチェッロという構成が、尚更交響曲っぽい。
書く楽章に聞き所があり、一つはロドルフォとミミのそれぞれのアリアと二重唱、ムゼッタのワルツとも言われる2幕のムゼッタの破天荒なシーン、そしてラストシーンと、飽きさせない。
私はそれほど会場でオペラを観た経験があるわけでもないし、これまではどちらかというとオーケストラ曲を中心に聴いてきた。もちろんその中には、最初か ら聴いているマーラーがあったおかげで、声楽に対するアレルギーみたいなものはなかったし(いや、マーラーを聴くまでは確かにあったが)、自分なりのクラ シック音楽に対する対し方がある。
今、「大いなる聴衆」というミステリを読んでいるのだが、これについては後日書くことにするが、この中には、私などがクラシックを嫌いになりそう なご託が、さんざん、特にクラシックサイドの演奏家等の口を借りて沢山出てくるのだが、私は非常に単純に、その演奏会に満足できたかどうかが指標になると 思っている。
「聴く耳」というのは、不幸にして聴覚を失っている人たち以外は、誰でも持っている。つまりは、クラシックなど嫌いだという人にとたちは、聴く耳を持たないのではなく、どのような曲も彼らの耳を満足させ得ないのだと解釈すべきだ、と思っている。
そういう意味では、コンサートに臨む場合、そこに好きな歌手や知り合いが出ているか、日頃から好きな曲かどうかということも、影響するのだ。
そうはいっても、長く聴いていると、当然好みはあるし、この曲はこう演奏するのがいい等という、聴く側の自己主張も出てきたりする。また、一般的に言って、名演といわれているものは、より多くの聴衆を魅了するし、満足させる。
そういう意味では、オペラシティや文化会館、サントリーホールなどで掛かる作品は、オペラであれ、何であれ、それなりのレベルと満足を聴衆に約束すべき義務を背負っている。
もちろんだからと言って、今回のペラがそういう義務を背負っていないと言うつもりは毛頭無い。むしろ、これからプロの舞台を目指していく若手の演奏会だ けあって、1回1回の演奏は、いつでも真剣であると思う。上演までは、数々の苦労を乗り越え、胃の痛む思いもしたことだろうと思う。
しかし上演からはそのような苦労はみじんも感じられなかったし、皆のびのびやっていた。
演出もしっかりしていて、きっとオーソドックスなのだと思うが、非常に感動的に、メリハリの利いた演奏を聴かせてくれた。彼らはやはり皆プロなのだな、と思わせてくれた。
La gemma della musicaと名乗る4人の女性陣は、皆それぞれ、自分の個性で役を演じ、高橋さんは、ちょっと孤高な感じさえするミミを、きれいな歌声で歌い、吉田さん は、ちょっと上品なムゼッタを演じ、江熊さんは、どちらかというと癒し系のミミ、そして中川さんは吉田さんとは対照的な、派手で強気な、そのくせ根は優し いムゼッタを演じていた。
個人的には二日目の方がコントラストがはっきりしていたので、オペラの流れから言えば、いいのかも知れないと思う。
しかし彼ら自身が言うように、la gemmaという言葉が意味する「発芽」とか「宝石」という意味があるのであれば、まさにこれからが彼らの活躍する場なのだと思う。これからの4人と、そ の他の、既に活躍しているキャスト達、そして合唱の人たちもこれからの活躍に期待したい。
恐らく、荒削りなところもたくさんあったに違いないが、少なくともここに、コンサートを楽しみ、満足していた聴衆がいることを知らせたい意味もあって、書かせてもらった。
新聞に新国立劇場で上演予定のベルクのオペラ「ルル」が、全3幕完成版から、全2幕版に変更になったという記事が載っていた。全3幕を披露するには歌手の水準が低いという理由からだそうだ。私は今までこういう例は聞いたことがない(あるとは思うが)。
「ルル」の前に、そもそもベルクという作曲家は、シェーンベルク、ウェーベルンと共に新ウィーン楽派の一人で、12音技法を駆使した音楽を作った。 12音技法とは、ドからシまでの12音を一つの音列として、これの組合せによる変装で音楽を作るものだが、いろいろ決まりがあるらしい。考えてみれば、ド レミファソラシドという学校で習う音階は、ドからシまでの7音で構成されている。音階というのは当然違う周波数の音なのだろうが、5つの全音と2つの半音 という組合せが、どうして調和が取れて聞こえるのだろう?中途半端な感じだ。
半音ずつ上がっていく12音を同じように扱って音楽を作ろうという、純粋に論理的な試みは、面白いと思う。しかしその結果、調性はなくなり、ピアノの黒鍵と白鍵を順番に叩いた時の不気味な音列ができあがる。
そんな仕組みで音楽を造りあげていたベルクという人は、そんなルールの下で、実にロマンティックな音楽を書く人で、ヴァイオリン協奏曲などは名曲だと思う。
そんなベルクには「ヴォツェック」と「ルル」というオペラがある。当然、12音技法で書かれている。メロディーがないというと語弊があるが、いわゆる馴染んだイメージでの調性を持ったメロディーはない。当然歌手の技量は尋常でないものを要求されるだろう。
実は私は、一昨年の11月に日生劇場の開場40周年記念で行われた二期会と東フィルによる日本での「ルル」3幕版初演を観た。ルルに天羽明惠、シェーン博士と切り裂きジャックに大島幾雄、ゲイシュビッツに小山由美という配役だった。
これは非常に良かった。元々ベルクの音楽は好きだが、「ルル」は、その一部を管弦楽組曲にしたものをCDで聞いたことはあったが、本物は初めてだった。
ストーリーも大時代的なオペラと違い、現代劇であり、非常に腥い感じがするオペラだった。もちろん最後がジャックによる刺殺で幕を下ろすという理由にも よるかも知れないが、12音技法で書かれた音楽というのは、私は絶対そうだと思うのだが、明るい音楽にはなりえない。その殺伐とした音列が、なぜか時折異 様に艶めかしく聞こえたと思うと、容赦なくそれが切り裂かれるといった感じで、とてもスリリングだった。
こういう音楽を聴くと、自分が音楽の勉強をろくにしていないことが腹立たしくなる。もっと何かが判っていたら、もっと面白く観れるのになあ、と言うことだ。
シェーン博士をやっていた大島さんという人は、85年の「ヴォツェック」の初演も、まさにタイトルロールでやっているそうなので、日本では、ベルクのエキスパートと言ってもいいのだろう(っていったって、ベルクのオペラはこの2曲しかないが)。
まあ、そんなオペラが、1年半で、再び演目に上がると言うこと自体がすごいと思うが、どうで未完なので、無理して3幕版でやらなくてもいいのだろうが、やはり話の筋が大分違うので、今回の3幕版から2幕版への変更というのはかなり思い切った決断なのではないだろうか。
歌手の上手い下手は、所詮、私は一介の観客に過ぎないので、結果と、その時の気分でしか判断できないが、「ルル」というオペラは、現代音楽の多くが持 つ、「覚えづらさ」と、「表現のしにくさ」を内包しながら、実は非常によくできたオペラなので(例えばライトモティーフと言われても、1回しか聴いたこと がないと、全く判らなかったりするが)、多分歌手にとっては、必要以上に難物なんだろうな、という予想はつく。
日生の「ルル」、たまたまだが、観ることができたと言うことを感謝したい。そんな風に思った。
ヴェルディはもちろんオペラ作曲家として最も有名だが、最近はテレビやら映画やらでこの「レクイエム」も「怒りの日」のメロディは相当有名である。個人的にはオルフの「カルミナブラーナ」と同じような形の知名度のよ