王様の宮殿
由比敬介による好きな音楽限定のブログ。
URIAH HEEP
4 月 22nd, 2005 by admin in ハードロック, ロック No Comments

 URIAH HEEPは、イギリスのロックバンドだ。ミック・ボックス、デヴィッド・バイロンの在籍したSPICEというバンドにケン・ヘンズレーが加入した後、 ファースト・アルバムを発表する。「VERY ‘EAVY, VERY ‘UMBLE」がデビューアルバムだ。1970年のことだ。
ヒープはプログレッシブなカラーを持ったハードロックバンドだと思う。それは、ケン・ヘンズレーのオルガンが醸し出す音色にも原因があるし、彼の書く曲にも原因はある。
初期の頃はディープ・パープル的な楽曲も多い。バイロンはロック歌手だが、きちんとしたボイス・トレーニングを受けてたらしく、いい歌を歌う。ただ個人的にはその後のジョン・ロートンの方が好みだが。
ヒープのアルバムで最も有名なのはなんと言っても「対自核(Look at Youraself)」だろう。初期の代表曲、「7月の朝(July Morning)」が入っているからと言うこともある。だが、その前に出したアルバム「ソールズベリー(Salisbury)」のタイトル曲が私は非常に 好きだ。16分に及びホーン・セクションなどが入った意欲的な作品で、こてこてのミック・ボックスのギターソロが聴ける。16分というと、昨今の4分前後 の音楽が当たり前になっている人たちには、なんて長い曲だと思えるかも知れないが、当時はLPの片面に1曲などと言うことも珍しくなかったし、クラシック で言えば、決して長すぎる曲とも言えない。むしろ、メディアに乗せるためにソナタ形式よろしく、時間的にも構成的にも、お行儀いい最近の楽曲の方がなんだ か寂しいような気がする。
以前、カラオケで「私は風」を歌ったことがあるが、この曲は10分近い曲で、ギターソロだけでも数十秒ある。カラオケで歌うとその部分がかなり顰蹙ものだ。こういう世相の中では、16分の楽曲というのはあまり生まれてこないし、あってもメジャーにはなりづらい。
ディープ・パープルがそうであったように、ユーライア・ヒープも大曲主義は徐々に影を薄れさせ、しかもどんどんポップになっていった。73年のライブが 大きな転換点のような気がする。その前の「悪魔と魔法使い(Demons And Wizards)」「魔の饗宴(The Magician’s Birthday)」の時が、そのジャケットの美しさとともにピークだったと思う。特に前者に入っている「安息の日々(Easy Linin’)」はヒープの中でも1,2を争う名曲だ。先ほど書いた「ソールズベリー」と比較すると圧倒的に短い、約2分半の曲だ。
ゲイリー・ゼインの感電事故やドラッグによる死などをはさみ、ヴォーカリストデヴィッド・バイロンが抜け、一時期ジョン・ウエットンが加入したりして1976年にジョン・ロートンが加入する。
この人は非常にハードロック向きのヴォーカルで、バイロンの好きな人には恐らく人気はないのではないかと思う。ハイトーンで、非常に伸びやかな声をして いるのだが、ライブなどを聴くと、実はバイロンよりも声域は狭いだろうと思わせる。彼の加入したヒープは「Firefly」「Innocent Victim」「Fallen Angel」という3枚のアルバムを出す。
「Firefly」の中の「哀れみの涙 (Sympathy)」 「Innocent Victim」の中の「幻想(Illusion)」「チョイス(Choices)」は、今でも大好きな曲だ。「Fallen Angel」は全体的に非常にポップで、「ラヴ・オア・ナッシング(Love Or Nothing)」が最も好きだが、微妙に平均値のアルバムという気がする。ファンじゃなければ聴こうと思わないが、意外といいアルバム、みたいな。
この後も着実にアルバムを出し続けるが、1980年に最も多く楽曲を手がけてきたキーボードのケン・ヘンズレーが抜けてしまう。個人的にはヒープ はケンのバンドだと思っていたが、あっけなく脱退してしまう。この時点で、オリジナルメンバーはギターのミック・ボックスだけになってしまうのだが、西暦 が2000年を超えてもアルバムを出し続けてきた。2003年に「ソニック・オリガミ(Sonic Origami」を出して以来は音沙汰がないが、やはりヒープはヒープ、ミック・ボックスだけになっても(ドラマーは、割と初期から参加しているリー・ カースレイクだが)、ヒープの音を響かせてくれている。すごいことだ。
私は、全てのアルバムを持っているわけではないが、20枚くらいは所有している。
私にとってユーライア・ヒープはいぶし銀のハードロックで、めちゃくちゃ輝いているわけではないが、時折じっくり聴きたくなる音楽だ。ピーター・ゴルビーという最近のヴォーカリストはあまり好きではないが、それでも全体としてはいい味を出している。
俺の一番好きなのはユーライア・ヒープだと言うことは今までも、そしてこれからも絶対にないが、新しいアルバムが出れば買い続けるし、旧いアルバムも時折聴く、そういうバンドなのだ。
このサイトがヒープに関しては圧倒的にすごい。ここまでやってくれるとまさに脱帽だ。私の知らないアルバムも(特にライブ)何枚も掲載しているし、ジョン・ロートンのバンドについても載っている。いやいや・・・また無駄な金を・・・・いかんな。

 今読んでいる小説に、時折ディーリアスが出てくる。翻訳ではデリウスとなっているが、明らかにディーリアスだ。この登場人物はイギリス人なので、ディーリアスは自国の作曲家ということになる。
イギリスの音楽というと、パーセル以降目立った人がいない。ヘンデルはドイツ人だが、イギリスで活躍していたのイギリスの音楽といってもいいかもしれな いが、それ以降、なぜか目立った作曲家は、ホルストやエルガーなどの比較的近代の作曲家しか知られていないような気がする。ディーリアスもその一人だ。
「惑星」のせいで、ホルストは非常によく知られているし、エルガーも「威風堂々」で知られていることを思うと、ディーリアスは非常に地味だ。その音楽も全 体的に地味で、言ってみれば、「カラヤンのアダージョ」ではないが、非常に静かな音楽が多い。・・・多いというか、何を聴いてもそんな感じだ。
一番有名(と私は思っているのだが)な曲はオペラの「村のロメオとジュリエット」だと思うが、これなど全体を通して、夢見るような音楽で、激したところ が全くない。かなりドビュッシー当たりから影響を受けているようだ。ドビュッシーと同い年で、フランスで死ぬまで過ごしているの、さもありなんというとこ ろだが、しかし、印象派とかドビュッシーと同じかというとそうでもない。もっとロマンチックで、絵画的だがより写実的な雰囲気があると思う。おおらかとい う表現があたっているように思う。
尤も、ディーリアスを全部聴いたわけでもないし、どちらかというと数少ない経験の中での印象だ。部分部分は、ドビュッシーぽいように聞こえても、その後牧歌的なフレーズが流れてくる辺りが、あたかもマーラーの第3交響曲の終楽章のようだったりもする。
CDになっている曲のほとんどが、美しくてゆったりとした曲なのだが、例えばアルビノーニのアダージョとか、パッヘルベルのカノンのようにキャッチーなメロディーライン中心ではなく、一見キャッチーなメロディーをズオーっと引き延ばしたようなイメージがある。
ただ絶対、クラシックを「アダージョ」なら聴けると思っている人、眠りの前の子守歌にいいと思っている人は是非聴くといいと思うのだが。とにかく美しい。
先に書いた「村のロメオとジュリエット」は持っているが、他のオペラを聴いたことがないので聴いてみたい気がするのだが、何となく全部似ている予感が・・・・
あ、ヴォーン・ウイリアムスがいた。イギリス人に怒られちゃうな・・・・でもメジャーって訳じゃないよな。

ブリテンが~!!!

現代音楽-1
4 月 5th, 2005 by admin in クラシック No Comments

 ずいぶん昔に買った現代音楽の本を読んでいる。
現代音楽は英語で言えばModern MusicまたはContemporary Musicと言うことになるだろうが、いわゆる日本で言うところの現代音楽というのはクラシックのジャンルに概ね限定されているので、 Contemporaryという場合の音楽とは全くニュアンスが違う。どちらかと言えば、芸術音楽の中のModernというニュアンスかも知れない。
この本ではポスト・マーラーという部分から入っているし、それは非常にオーソドックスな入り方だと思う。
音楽に限らず、物事を論じる場合には、論じる対象やそれに関連した事象に関しての定義が、ある程度しっかりしていないといけない。そういう意味では、現代音楽というものを論じることの難しさは、現代とか音楽という言葉に曖昧さが残ることである。
調性のあるなしとか、そういう機械的な区切りができるならともかく、ポップスとクラシックの境界線などというのは、時代が現代でなければ、多くのクラ シックだって、ポップスたり得たのではないか。それは、現代のポップスが、クラシックと通常呼ばれる作品群の延長には無い(あるいは無いように見える)と してもだ。
まあその辺りのクラシックとポップスの違いなどは、厳密に言ったところでそれほど意義のあることでもないし、曖昧さは常に残るので置いておく。
さてそのクラシック音楽の延長としての現代音楽、すなわち、ポスト・マーラーであれ、19世紀のいわば後期ロマン派以降の音楽というのは、実は小 中学校では全く教えてくれない。あるいは教えてくれたのかも知れないが、私は全く知らない。そもそもポスト・マーラーのマの字もなかったはずだ。
マーラーの同時代人である中で、R.シュトラウスなどは20世紀に入って重要なオペラをたくさん書いているが、ポストの中には入っていない。どちらかというとワーグナーの後継者的で、行ってみれば後期ロマン派と言うことなのだろう。
ある意味、シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、シェーンベルクの「浄夜」に似た響きを持っていて、シュトラウスはこれを1940年代に書き、 シェーンベルクは19世紀に書いている。そして無調に入る前のシェーンベルクのこの音楽はまだ後期ロマン派の枠の中にいるというのも頷ける。
マーラーに限らず、シュトラウスやヴォルフなどにも無調に移行しそうなあやふやな部分があるが、完全に調性を捨て、さらにそこから12音技法へと入っていくシェーンベルクの勇気はそこにはない。
私は音楽家ではないし、まともに音楽教育を受けているわけでもない(高校までは音楽を専攻していたが、教える側の一生懸命さほど学んでいない)。 クラシックを聴くようになったのは学生時代で、なぜかマーラーから入ったので(別の機会に書いたとおり)、現代音楽に入っていくのは全く辛くなかった。
もちろん現代音楽の前に近代音楽なんていう言い方もあって、これは20世紀前半の音楽を指していたりするのかも知れないが、例えばストラヴィンスキーと か、バルトークとか、ドビュッシーとか、何となく、新ウィーン学派の行き方とは違う形で20世紀を迎えた作曲家を指しているようにも思える。何となくだ が、音楽が調性を失って、12音、セリー、電子音楽、偶然性の音楽など、極めて実験的で論理的な分野に踏み込んでいくことで、現代音楽というレッテルを 貼っているように思えさえもする。
今回面白いと思ったのは、音楽がどんどん音を微分化して行った過程だ。いわゆる調性音楽は基底となるドの音から7つの音を、人間の耳がきれいに思 える周波数で段階的に上がっていくことで、一つのグループを作っている。ドレミファソラシだ。これが不思議に一定の周波数差ではないから、時折半音だけ だったりする。そしてこの半音しか違わない音があることから、全てを半分にして、半音ごとに上げていくと音は12になる。
シェーンベルクが12音技法に与えた命題は、この半音階ずつの12の音を公平に使用し、それを組み合わせるという、ほとんどパズルの技術で音楽を作ると いう、直感だけでは音楽を形成できないような仕組みだった。だが、シェーンベルクをしても、例えばドとレの間を全音とするなら、半音階を公平に扱うという 方法で行ったわけで、四分音とかはその理論の中で考慮されていない。半音があるなら四分音もあるし八分音もある・・・・という風に考えていくのは、行って みれば円周率を求めるときに、限りなく細かく分割した長方形の対角線を作っていくようなもので、それは微分音となる。細かい四角の連なりが円に見えてくる のと同様、微分音は一つの線となり、トーンクラスターなどを生み出すことになる。トーンクラスター、つまり微分された全ての音が鳴れば、音程などというも のは最早意味が無くなる。という理屈だろう。
今回その本を読んでいて、これまでペンデレツキなどを好んで聴いていたのだが、そこに出てくるべったり塗られた楽譜のトーンクラスターが、しっか りした音楽の歴史の中で必然的に生まれてきたと言うことが、理路整然と解ったことに感動した。まだまだ本はせいぜい5分の1ほどしか読んでいないので、こ れからが楽しみなのだが、ああ音楽も奥深い、と思えた瞬間だったのだ。