王様の宮殿
由比敬介による好きな音楽限定のブログ。
Godiego
12月 24th, 2004 by admin in 日本のロック, ロック No Comments

Godiegoは、日本のロックグループだ。ゴダイゴといった方が通りはいい。「モンキーマジック」や「ガンダーラ」「銀河鉄道999」や、様々なCMソングで有名だ。といっても、70年代から80年代に活躍したので、今では昔の話だ。
タケカワユキヒデは、その後、ソロでも多少テレビに出たりしていた。奈良橋陽子さんという方が多く作詞を担当していたと記憶している。なぜ作詞家の話を 書くかと言えば、私にとってゴダイゴは、セカンドアルバムに始まって、セカンドアルバムで終わっているからで、それは確かに、「ガンダーラ」は好きだが、 他の曲はほとんどどうでもいい。

この「DEAD END」というアルバムがすべてで、しかもむちゃくちゃ好きなアルバムだからだ。「袋小路」というこのアルバムは全曲が英語詩である。
メンバーはミッキー・吉野、タケカワユキヒデ、トミー・シュナイダー、スティーヴ・フォックス、浅野孝己の5人だが、外国人(少なくとも名前は)が二人 いるし、タケカワユキヒデは外語大出だし、まあ、英語詩のアルバムを出す要素は揃っている。ミッキー・吉野は元ゴールデン・カップスだから「長い髪の少 女」とかをやっていたことになる。それよりゴールデン・カップスは「巨人の星」で、星飛雄馬(このひゅうまを一発で変換する最近の日本語変換はすごい)の 最初のガールフレンドオーロラ3人娘が歌っていた「クールな恋」の原曲を歌っているのだ。「あいらびゅ、あいらびゅ、ふぉればもー」というやつだ。 さて、そんな「DEAD END」だが、アルバム全体がいいが、特にアルバムタイトルにもなっている「Dead End~Love Frowers Prophecy」という曲と、「The Last Hour」という曲が好きだ。「Mikuni」は静かなバラードだが、「Dead End」は曲全体が面白い構成をしていて、特徴的な小気味いいピアノのリフで始まり、第1主題を2回繰り返し、第2主題と展開部へ進んだ後、そこから引き 返して、第2主題、第1主題と進む。そして第1主題の繰り返しで終わるのだ。つまり曲全体が「袋小路」なのだ。そして最後のリフレインは、少しずつ転調し て音を高くしていく。
この曲を最初に知ったのはいつだったか忘れたが、確かテレビでライブを観たのだった。「新創世記」というファーストアルバムからの曲と、「Dead End」を演奏したのを覚えている。すぐにレコードを買った。それ以来、この「Dead End」は、何回聴いただろう。ほとんど飽きたことがない。歌えと言われたらきっと歌えるだろう。歌詞を覚えている。残念ながらカラオケ屋にあった試しが ないが。
タケカワユキヒデの歌はどこか空気が抜けていて迫力はないが、とてもユニークで、彼にしか歌えない歌を歌う。以前にテレビで昔の歌手が最近のヒット曲を 歌う番組があり、たまにそれに出ていたが、人の歌を歌うとあまり上手く聞こえなかった。メリハリやアタックがないのですべての音楽が流れてしまう。
しかしこのアルバムではそんなタケカワの歌唱はほとんどプラスに働いていて、非常に良く仕上がっている。
ゴダイゴがなぜゴダイゴなのか由来は知らないが(あるいは後醍醐か?)、英語に直す時にGodiegoとした覇気はこれ以降のアルバムには、少なくとも 私は感じない。Go-Die-Goというグループ名とDead Endというアルバムタイトルはまさに私の感性にしっくり来る響きだったし、それに負けない内容であった。
もともと「僕のサラダガール」というCMタイアップでデビューした彼らだから、むしろこのアルバムは彼らの本質を外れた物だったのかも知れない。

 東京文化会館にヤナーチェックのオペラ「イェヌーファ」を観に行ってきた。余り有名なオペラでもないし、それほど期待しないで見に行った。チケッ トを購入したのが遅く、インターネットでの購入だったが、余りいい席が取れなかった。しかし、実際は空席が結構あり、S席でも観られたな。
内容は、イェヌーファという村一番の美人が、遊び人の男と恋仲なのだが、もう一人実直な青年が彼女に恋をしている。恋仲の男とイェヌーファは婚前 に致してしまっていて、実はお腹に子供がいる。母親は、そんな男との結婚は認められないと言って男にも怒る。もう一人の男は、あいつはおまえの顔が好きな だけだと言いながら、逆上してイェヌーファの顔に切りつけてしまう。
母親はイェヌーファがウィーンに行ったと言って部屋に閉じこめ、彼女はそこで子供を産む。子供がいるので仕方なしに、母親は遊び人にイェヌーファと結婚 してくれと懇願するが、男は自分がののしられたことを根に持ち、しかも顔に傷ついたイェヌーファには興味が無くなっており、実は既に村長の娘と婚約をして いた。
実直な男は、自分の行為を詫び、その後もイェヌーファを慕っている。
母親は、イェヌーファがその実直な男と結婚して幸せになって欲しいと思うが、そのためには子供がきっと邪魔だと、、イェヌーファに薬を飲ませて、眠っている間に、子供を氷の張った川に捨ててしまう。
母親は自分が犯した罪の重さにさいなまれ続けるが、やがて、イェヌーファはその実直な男と結婚することになり、その婚礼の当日。
客には村長夫妻と、その娘、そしてフィアンセである遊び人がいる。
そんな折、外で氷の中から子供の死体が見つかる。イェヌーファは自分の子であることを証言し、群衆が子殺しの母親に石を投げようとした時、母親が自ら名 乗って罪を告白する。イェヌーファは、母が自分の将来を思った故の殺人であったことを理解し、母を赦す。そんなことがありながらも、これからも君を守って いくという実直な男の愛を受け入れて物語はハッピーエンドに。
そういう内容で、まあストーリーにはつっこみどころがいろいろあるが、大抵のオペラはそうなのでここでも些末は気にかけない。
ヤナーチェックのオペラは「利口な目狐の物語」のCDを持っているが、まともに聴いたことがなかった。ELP(エマーソン・レイク&パーマーだ、もちろ ん。・・・パウエルじゃない)のナイフエッジという曲でもそのモチーフが使われた、シンフォニエッタと、タラス・ブーリバ、クロイツェルソナタという名の 弦楽四重奏曲などが有名だが、印象としては結構粗野な音楽という気がしていた。
今日聴いたオペラは、所々ドヴォルザーク風のメロディー有り、ワーグナー風ありだが、かなりオリジナリティーに富み、しかもなかなかいい曲だ。管楽器はやはり粗野なイメージを払拭しきれないが、むしろ今日のオペラには合っているような感じだ。
第1幕はちょっと冗長で、音楽そのものはかなり面白いのだが、場面が退屈だった。
ところが、2幕からは急に緊張感が増し、4人しか登場しない2幕は、ほとんど母親の独壇場といった感じで、時間を感じさせない素晴らしい物だった。続く 3幕も、子供の死体が上がった辺りからは、怒濤のように終幕へ向かい、かなりクオリティーの高い作品であるように思える。
罪を負った母親が群衆と部屋を出て行き、舞台にイェヌーファとラツァ(実直な男)の二人だけにするシーンでの音楽は、ワーグナーチックだった。しかもそ れで終わってしまうくらい盛り上げてくれる。いかにもそれで子殺しにピリオドを打ったような印象があり、死んでしまった子供がいかにも可哀想な扱いだとい う思いは残るが、その後、二人が愛を確かめる場面の音楽は美しく、しかも前途の多難さを表現の中に残す、終わり方だった。
演出もなかなかよく、非常に舞台装置を旨くシンボリックに使っていた。
「道化師」や「カヴァレリア」のような、いわばヴェリズモに属するオペラだと思うが、より泥臭く、生々しい。しかし、ヴェリズモをヴェリズモらしく見せるためには人殺しが必要だというのは、どうもミステリーとかぶるところがある。
悲劇を悲劇らしく、しかも身近なものとして描くのがヴェリズモなのだろうか?単なるリアリズムではなく、悲劇でなければならないような・・・
今日の演奏では、母親役の渡辺美佐子さんが、鬼気迫る厳格でありながら、誰よりも娘を愛する母親役を最も好演していたように思う。イェヌーファ役の津山さんも良かったが、渡辺さんは圧倒していた。
指揮は阪哲朗さんだが、若干荒さはあったように思うが、ヤナーチェックにはそれくらいの方がいいのかも知れない。
カーテンコールで後ろに直立不動で並んでいた二期会の合唱団の面々は、第1幕の若者の羽目を外したハチャメチャシーンでも、素晴らしい動きをして、イェ ヌーファが遊び人、シュテバとエッチしてしまう部分を非常にシンボリックに表現する演出を成功させていた。舞台狭しとあの大人数か駆け回り、絡み合う姿は 圧巻だった。
人はあまりはいっていなかったし、1幕で帰った人もいたようだが、作品的には1幕と残り2幕のデキに差があり、まとまっていない気もするが、後半だけでも十分に観る価値はあるし、また演奏もそう言って過言ではない。
見せ場が、イェヌーファと母親に極端に偏っているので、他の配役には気の毒な作品のようにも思える。・・・ラツァはそうでもないかな。
いずれにしても、思った以上にいい演目、そしていい演奏で満足して帰ってきた。・・・DVDでも買うかな。出てれば。

 デヴィッド・カヴァーデールとの出会いは、もちろんディープ・パープルだが、長い間、彼のソロアルバムが私の愛聴盤であった。
デヴィッド・カヴァーデールはイアン・ギランの後を受けて、「Burn(邦題:紫の炎)」からディープ・パープルに参加した。当時、それほど歌がうまい とは思わなかったが、非常に味のあるブルージーな声質のヴォーカリストではあった。「Stormbringer(邦題:嵐の使者)」「Made In Europe」「Come Taste The Band」という4枚のアルバムを出してディープ・パープルが解散した後、2枚のソロアルバムを出している。
最初のが「Whitesnake」2枚目が「North Wind」この2枚が特に好きだった。中でも「Whitesnake」の2曲目「Blindman」という曲が好きで、繰り返し聞いていた。もちろん今でも好きだが、大分聴く機会も減った。
彼の歌い方はハード・ブルース・ロッカーという感じで、かなりルーズで、ねちっこさを感じることもある。酒場で酔っぱらいが眠そうに歌っているよ うな雰囲気もある。Whitesnakeをバンド名にしてから、特に、アメリカで当たった頃は大分高音のシャウト歌手みたいになってしまったが、このソロ の頃は、あまり高音も出ていなくて、それが魅力でもあった。
ディープ・パープルではリッチー・ブラックモアとトミー・ボーリン、ホワイトスネイクではミッキー・ムーディーとバーニー・マースデン・・・そのあと は、ジョン・サイクスだのヴィヴィアン・キャンベルだの、エイドリアン・ヴァンデンヴァーグだのスティーヴ・ヴァイだのメタル・ギタリスト目白押しだ が・・・ジミー・ペイジなんてのもあるが、とにかく、誰と組んでも、デヴィッドはデヴィッドなので、私にとっては、ロニー・ディオを聴いているのと同じ に、幸せに浸れるわけだ。
ディープ・パープルというメジャーなバンドでスタートし、初期のホワイトスネイクでは「フール・フォー・ユア・ラヴィン」をイギリスで当て、ジョン・ ロードと縁を切ってアメリカに渡ってからは、「Serpens Albus(邦題:白蛇の紋章)」は世界的に大ヒットした。考えてみると、リッチー・ブラックモアよりも成功している。
このアルバムのタイトル、Serpens AlbusのAlbusというのが意味がよく分からない。辞書で引いても出てこないし。本当に紋章っていう意味なのか?しかもこのタイトル、CDでは、読めないくらいに小さい。タイトルなのかも怪しいくらいだ。
しかしビルボードチャートの上位に入ったりすると、コマーシャリズムとか、アメリカナイズとか言われるが、それほどこのアルバムはアメリカンな作品ではない。
確かにジョン・ロードと一緒にやっていた頃は、ブルース指向なのに、なんかちょっと野暮ったい部分があって、突然このアルバムから音がクリアになった感 じがして、何かが違うが、それは多分、ポリープの手術で高音が出るようになったので、心機一転したデヴィッドの心象の表徴なのだと思う。確かにこのアルバ ムでのジョン・サイクスの存在は大きいけれど、やっぱりホワイトスネイクはデヴィッドの個人バンドなのだ。
それは、ディオが何をやろうとディオであるように、存在感の大きさというのは否めない。
ジミー・ペイジとのコラボレーション(ロバート・プラントの真似のように言われるが、全く違うぞ!)もなかなか良かったけど、1枚で終わり、最近 ではたまにソロアルバム出したりしてる。お金もあるし、美人の奥さんと悠々自適なのかも知れない。年も年だけど、まだまだがんばって欲しい。
ブルージーなソロアルバムでも出してくれないかな。

 「復活」は私がクラシックを聴く決定的なきっかけとなった作品だ。殊に、最初に買ったズービン・メータ指揮ウィーン・フィルのレコードは、私にとっては宝物だ。
それまでもクラシックを聴かなかったわけではない。それ以前に購入していたのはオーマンディの「ツァラトゥストラはかく語りき(R.シュトラウス)」カ ラヤンの「運命」(但しこれは弟にプレゼントした物だ)。ストコフスキーの「白鳥の湖」「新世界」。誰の演奏だか忘れたが「1812年序曲(チャイコフス キー)」。ツァラトゥストラは、映画の影響だし、1812年はコージー・パウエル(ドラマー)の影響だ。白鳥と新世界はきっと魔が差したのだ。
そんなとき、メータの「復活」のジャケが目に入った。

当時は金色の帯が掛かっていて、マーラー「復活」と書いてあったように思う。
私は、このタイトルとジャケットだけで5千円のこの盤を買った。内容なんか全く来たこともなかったし、マーラーという作曲家も初めて目にした。
こういうのを邂逅というのだろう。レコードに針を落とした瞬間、弦のトレモロの上にコントラバスが重々しい旋律を奏で始める。この冒頭を聞いた瞬間に、私は打ちのめされた。ああ、こんなクラシックもあるのか、と思った。 この曲には最後の二つの楽章に声楽が使われている。そもそも声楽というのは、私にとっては不自然な発声と、画一化されたテクニックで、クラシックの中でも最も馴染まないものの一つだった。ところが、この1枚のレコードのおかげで、全く声楽に関する考え方が変わった。
大学ではクラシック関係のサークルに所属していたが、このレコードのおかげで、最初から声楽が好きだという顔をしていた。
この復活という曲は、ベートーヴェンの第九のようだし、恐らくマーラーは意識していたに違いない。時間的には第1楽章20分、第2楽章10分、第3楽章10分、第4楽章5分、第5楽章35分で、約80分かかる大曲だが、非常にまとまったいい曲であると思う。
第1楽章をマーラーは交響曲第1番の巨人の葬送行進曲だとしている。死と復活というのは西洋人の、たとえクリスチャンでなくても何らかの重要なテーマな のだろうと思う。マーラーはユダヤ人だし、クリスチャンではあるが、社会的な事情で洗礼を受けているようなので、信仰心がそれほどあったとは思えない。末 期の言葉も「モーツァルト!」だそうなので、音楽こそが、彼にとっての宗教であったに違いない。
元々私は第1楽章が大好きで、そこばかり聴いていた。冒頭の重々しさから嵐のような中間部など、楽章の中でもかなりメリハリのある曲だ。そして フィナーレの、序奏とは逆に高いところから急降下するような旋律。この辺りのびっくり交響曲もどきなやり口は、6番でも使われているし、マーラーというの はひどくこういうドラマチックな方法が好きなのだな、と感じる。私は大好きだが、こういうところが嫌いな人も多いだろうなと思う。
穏やかな第2楽章と、「不思議な角笛」という歌曲集の1曲の旋律をそのまま使ったスケルツォ、第1楽章と終楽章は単独でもよく聴くが、この二つの楽章は単独で聴くことはない。実をいうと、私はマーラーのスケルツォはそれほど好きではない。
第4楽章も「不思議な角笛」から取られた曲だ。この曲は厳かで、次に来る復活のプロローグとしてまことに相応しい。長すぎないのもいい。
そして、静かに消え入るように終わる4楽章の直後、第1楽章の最後を逆に行ったかのような形で駆け上る旋律とともに、劇的に終楽章が幕を開ける。
この楽章はソプラノとアルトのソロ、そして合唱で華々しく色取られているが、私は非常にオペラチックなものを感じる。オラトリオといった方がいいのかも 知れない。指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀の時に聴いたクロップシュトックの詩に啓発されたようなことを本で読んだが、だとすると、その詩がなけ ればマーラーのこの曲は「復活」にはならなかったのだろうか、と思う。そうしたら、私も今頃クラシックをそれほど聴いてはいなかったかも知れない。
かなり長いオーケストラの演奏の後、合唱にそのクロップシュトックの詩が登場する。私は実は第九も好きなのだが、やはり比べものにならないくら い、「復活」の方が好きだ。これは多分、「合唱」が、歓喜の歌なのに、「復活」が復活だからだ。禅問答のようだが、このニュアンスの違いは、解る人だけ 解ってくれればいいといった感じで、これは単純に私の個人的な資質の問題だ。
今では復活だけで10種類前後の演奏を持っているが、実はメータ盤はCDを持っていない。一番好きなのは、今のところ、ずいぶん昔にレヴァインがどこのオーケストラだったか忘れたが、FMで放送になったライブの演奏だ。今でも大切なテープだ。
メータのレコードは売れないで手元に取ってある。これはこれで、今でも十分に名演だと思う。当時はかなり、話題になったようだが、その当時は私はそう言うことには疎かった。
クラシックという音楽は、やはり特殊だし、歌謡曲やポップスに比べると、近寄りがたい部分がある。だが所詮音楽なので、慣れてしまうと、その中にあるポップスでは味わえない良さというのがあるのだ。
ハードロックばかり聴いていた10代の後半は、クラシックと言っても、ロック歌手が話題にするから聴いてみようと思い、概ね、大きな管弦楽曲が多かっ た。多くのロッカーが「バッハ」と言っていたから、それでも私は自分の好みで取捨選択はしていたのだが、このマーラーの「復活」は、そんな私に音楽(聴く だけだが)への大きな転換点を与えてくれた大切な曲である。これからもずっと、愛してやまない曲と言い続けるに違いない。もっといい曲や、すごい曲があっ ても、この曲だけは別格なのだ。

歌謡曲
12月 19th, 2004 by admin in 歌謡曲 No Comments

 歌謡曲というジャンルは、どこからどこまでを指すのだろう。
私は、自分のパソコンに入れてある邦楽のMP3は、基本的にすべて「J-POP」というジャンルにしている。演歌も、ロックも関係ない。唯一、アニメの 音楽は「Anime」でフォルダも変えている。あ、もちろん、日本人のジャズは「Jazz」だし日本人の演奏家でもクラシックは「Classical」に なってはいるが。
北島三郎と、中島みゆきが同じジャンルのはずはない。北島三郎は、明確に演歌だし、中島みゆきは今の言い方ならJ-pop、かつてはニューミュージッ ク、それ以前ならフォークソングとなろう。では、由紀さおりはと言えば、これが歌謡曲だ。もちろん、日本の童謡を歌った曲ではなく、「手紙」とか「夜明け のスキャット」とかだ。
さて、森昌子の古い歌に「中学三年生」という歌がある。森昌子と言えば、デビュー曲「せんせい」も演歌かどうか怪しいところだが、「越冬つばめ」「立待岬」など、後年はまさに演歌の歌手である。
この「中学三年生」は、実はアルバムの中で山口百恵も歌っている。これは当時で言えば、やはり歌謡曲だ。ちょっと後になると、アイドルポップスと言うことになるだろう。でも、何となく森昌子が歌うと演歌だったりする。
演歌も歌謡曲の一部と考えれば、これは解りやすい。
しかし、私はポップスと歌謡曲の違いがよく分からない。日本のポップスが歌謡曲で、今はそういう言い方をほとんどしない、というような区切りでいいのだろうか。
歌謡という言い方はやはり古臭いし、演歌という表現は古さを尊ぶからこそ朽ちない表現なのだ。そういう意味では、中島みゆきも、浜田省吾だって歌謡曲だし、私はよく思うのだが、ディープパープルってイギリスの歌謡ロックだ。
ロックやポップスの中で、あれだけこてこての歌謡曲的メロディラインを書く人は少ない。最も最近の洋楽に関してはとんと暗い私だが。
さて、この歌謡曲というのはとても日本人にしっくり来るのだ。いわゆる日本の5音音階は、例えば沖縄民謡に似たところがあるので、本来から言え ば、西洋音楽の日本人なりのアレンジ音楽といった方がいいのかも知れない。まさに日本人は、このアレンジという部分がとても上手で、最近の日本の若い人向 けの音楽も、アメリカやイギリスの音楽を巧く輸入している部分が多い。
確かに昭和40年代、50年代くらいの歌謡曲には私くらいの年齢以上になれば、懐かしさが第一になる。かつて、自分の親が懐メロを見る姿を見て、退屈な 音楽が多いと思っていたが、今、懐メロ番組を時々やっているが、そこに登場する歌手は、かつて自分が幼い頃、あるいはティーンエイジャーだった頃といった 方がいいかもしれないが、その頃に流行っていた歌手だ。
サザンオールスターズ、井上陽水、中島みゆきといった歌手は当時から第一線だったし(サザンは少し後だが)、今でも第一線だ。すごいことだと思う。
懐かしさというのは一つには曲そのものに対するノスタルジックな印象もあるが、当時の出来事との関連で懐かしさを感じるものもある。おそらくは恋愛が最右翼だと思うが、その時の感情を呼び起こすことができる。
洋楽ももちろんそうだが、歌謡曲は曲だけでなく、その歌詞も絡むことがある。
私がそういう感情と共に思い起こす曲をふと思い浮かべるとしたら、バンバンの「いちご白書をもう一度」と、アグネスチャンの「白い靴下は似合わない」な のだが、どちらもユーミンの曲だ。そう言えば、ユーミンも昔も第一線だし、今も第一線だが、なんか最近はパワーダウンしている。まあ、中島みゆきも「地上 の星」がなければ、それほどでもないので、やはりサザンはすごい。別にサザンはそれほど好きではないが、すごいということだけは言える。
サザンは歌謡曲じゃないと一般的には思うが、これはかつてニューミュージックと呼ばれたジャンルは、歌謡曲ともフォークとも一線を画すという意味 で使われたからだ。サザンよりちょっと古いが、雅夢の「愛はかげろう」という曲がある。これも言ってみればニューミュージックの曲だが、今聴くと、歌謡曲 だなこれは。・・・・という印象でくくれるのが、きっと歌謡曲なのだ。
それにしてもこの「愛はかげろう」は、カラオケで歌う時は要注意だ。女の子と行く時はちょっとセクハラだから。

第九
12月 30th, 2004 by admin in 交響曲, クラシック No Comments

 12月になると第九の演奏回数が増えるようになったのはいつの頃からなのだろう?少なくとも私がクラシックを聴き始めた時は既にそうだったような 気がする。インターネットで調べると、戦時中の学徒出陣の時、今の芸大(東京音楽大学)が、繰り上げの卒業式を12月に行い、その時に演奏したのが元、と いうような記事を複数見つけることができ、オーケストラとしては今のN響(当時は新交響楽団)が始めたようなことが書いてあるが、まあ、戦後何となく定着 していったのだろう。「喜びの歌」という終楽章のシラーの歌詞も、新年を迎えるに当たって良い歌詞と言うことだったのかも知れない。戦中でも、ドイツ音楽 なら問題なかったと言うことか。
恐らく戦後、どんな高度成長期にも、「この世知辛い世の中」といった形容詞は使われ続けてきた。バブルだって高度成長だって、日本人全員が等しく 味わっていたわけではない。どんな好景気にだって倒産する会社はたくさんある(逆に不景気だって高成長を続ける会社もあるわけだが)。
そんな中で、暮れの押し迫った時期に、一年の憂さを晴らすような「歓喜の歌」を、素人でも歌えるこの企画は、非常に一般に浸透しやすかったのだろう。
今でこそ、オーケストラもたくさんあるし、ホールもたくさんある。演奏家もたくさんいるから、第九の演奏と言ってもそれほど難儀なことはないのかも知れ ないが、オーケストラと独唱、合唱を入れると、「ちょっとコンサート」という規模ではない。 時間だって1時間以上かかるわけで、楽なコンサートとは言え ないはずだ。
個人的には第九は好きな音楽の一つだ。だが、根がひねくれているので、年末に猫も杓子も(というほどではないことは百も承知しているが)第九とな ると、あまり聴きたくない。しかも、なぜか小学生の時から知ってる「晴れたる青空、漂うく~もよ~」という歌詞が、何とも脳天気で好きになれない。
第1楽章の、いかにもベートーベンらしい無骨で重々しい雰囲気が、美しい第3楽章を挟んで、終楽章へ移るわけだが、ここではもう、「晴れたる青空」という感じではなく、もっと宗教的な歓喜なので、「みんなで歌おう、ああ楽し」ではないと思うのだが。
ただ、この歓喜の歌の第1主題は、個人的にはあまり好きではない。実はこれも脳天気だからだ。ベートーベンの脳天気さというのは、例えば交響曲第7番の ような、脳天気であればこそ、「舞踏の権化」と言われても頷けるような、ああいうメロディラインをいうのであって、なぜか聴いていて気恥ずかしくなるよう な、穏やかすぎる歓喜の歌ではないのだ。
尤も、同じ主題から出ているにもかかわらず、バリトンの歌い出しはなかなかかっこいい。それは、第4楽章の冒頭と、バリトン歌唱の前の、これまたベー トーベンらしい喧噪に満ちたフレーズが、上手く導いているからかも知れない。結果的にバリトンが歓喜の歌の主旋律を歌うと、なんだかまた意気消沈してしま う。
私のイメージとしては、「歓喜の歌」よりも「天下太平の歌」といった、若干気抜けを感じさせるメロディなのだ。
実は私は前にマーラーの「復活」の項でも書いたが、この「復活」という曲は、間違いなくマーラーの頭の中に第九があったので、恐らくマーラーはベートーヴェンを心から尊敬していたし、自分自身の第九を書いたのだと私は思っている。
第九の3楽章が持つ静謐なイメージを第4楽章の「原光」でなぞり、第九が騒々しいフルオーケストラで始まるのを、同様に第5楽章の冒頭に持ってきている。
私が第九よりも復活が好きな理由は、恐らくこの後の、声楽部分にある。第九の、敢えていうなら惚けたような脳天気さとは違い、あくまで無骨に、厳かなイメージを崩さないマーラーの頑なさが好きだ。
第九というのはベートーヴェンの交響曲の中でも決してよくできた曲ではないと思っている。3,5,6,7などの方がベートーヴェンらしい。「運命」は手垢が付きすぎていて、当たり前のような曲だが、素晴らしい曲である。
ベートーヴェンの良さは、私は緻密で細やかな緩徐楽章にこそあると思っている。第九もその例に漏れず、第3楽章が美しい。その余勢を駆って畳みかけるような終楽章の冒頭も、なかなかいい。何になぜ?と言うところだ。
まあ、これはあくまで個人の好みなので、一般の人がどう考えるかは別のことである。
クラシックは一頃に比べると大分市民権を得たようで、CDも非常にたくさんの種類が手にはいる。コンサートもたくさん催され、料金的にも手頃なも のが増えている。相変わらず外タレはポピュラーと違って、これでもか!という料金を平気で付けているが、1回のコンサートに3万円などという価格が付いて いると、見る気もしない。
よく、この演奏は10万払っても惜しくないなんていう表現にお目にかかるが、私は比喩以上に捉えていない。感動は金で買えないかも知れないが、であれ ば、金銭的価値に置き換えるのはおかしいので、素直に、こんなに素晴らしい演奏はお目にかかったことがない。と言えば済む問題である。
著名な指揮者やオーケストラ、演奏家が、ある程度以上のいい演奏をするのは当たり前だから、見に行きたいと思う。また、見るからにはいい席で見たいと思う。しかしそれがお金持ちしか簡単に見られない金額では断念するしかない。
そういう意味じゃ第九は常に手頃だ。すなわち、多く観客を呼べると言うことなんだろうな。もっとクラシックが人気が出れば、何かが変わることがあるんだろうか?