マイケル・シェンカーというギタリストがいる。
スコーピオンズというハードロック・バンドにお兄さんがいて、最初のスコーピオンズにも参加していた。とてもメロディアスなギターを弾く人で、私は多分ギタリストの中では一番好きだ。
スコーピオンズではほとんどプレイらしいプレイをしていない感じだが(少なくともアルバムでは)、その後、UFOというバンドを結成し、そこを辞めたあ とはMSGという、昔懐かしいバッグのような名前のバンドを結成する。Michael Schenker Groupの略だ。そのあとはソロで活動したり、MSGを再びやったりしている。まあ、MSGがマイケルの非常に個人的なバンドなので、UFOを辞めたあ とは、ほとんどソロだと言っても過言ではない(少なくとも私にとっては)。
UFOのフィル・モグーという人はそこそこいいヴォーカリストだと思うが、それ以降のヴォーカリストは、あまりいい人に出会っているとは言い難い。特に MSGで最初に歌っていたゲイリー・バーデンという人は、私は下手くそだと思う。意外と日本では、そしてMSGを好きな人の中では評価が高いこともあるよ うだが、単純に「クライ・フォー・ザ・ネイションズ」とかの、曲が良かったから人気があったような気がする。それでも、彼が参加した「限りなき戦い (Built to Destroy)」というアルバムは結構好きだが。
マイケル・シェンカーはドイツ人で、当然お兄さんのルドルフもドイツ人なのだが、スコーピオンズの「ロンサム・クロウ(Lonesome Crow)」というアルバムに参加した時は16歳だというからすごい(今、この前の文章を打ったら、「だというカラス語彙」という変換をされた!ロンサ ム・クロウの呪いか?!)。次の「何とかの蠍団(Fly To The Rainbow)」では、作曲だけでプレイをしていない。レコーディングの前に辞めたらしい。でも、タイトル曲や「Fly People Fly」など、非常にきれいなメロディーを書いている。そして、兄さんの元を去ってまで参加したUFOで、「現象(Phenomenon)」という名作を 作るのだ。UFOは元々別のギタリストでデビューしていたバンドだが、ディープ・パープルの「イン・ロック」以上にUFOというバンドそのものを決定する ようなアルバムだ。「ドクター・ドクター(Doctor Doctor)」や「ロック・ボトム(Rock Bottom)」という名曲が入っている。分けてもこの「ロック・ボトム」のソロは、いまだに私のロック人生(たわいもないが)の中でベスト3に入る。
2枚ほど置いて、「新たなる殺意(Lights Out)」もいい。このアルバムはタイトル曲がライブでも演奏されるし、有名だが、それ以外にも名曲が多い。
現象 新たなる殺意
MSGは、そこそこかな。UFOがなければ、私のマイケルへの評価はきっと、それほど高くないかも知れない。MSGで1枚選ぶなら、グラハム・ボネット が参加した「黙示録(Assault Attack)」かな。原題はなんだか過激なタイトルだが、収録曲のデキはなかなかいい。 この人は、いわば早弾きの元祖みたいな人で、非常に素晴らしいテクニックを持っている。テクニックと同時に、メロディアスな旋律を弾ける人で、 その二つが相俟っていることで評価されているのだと思う。ことに日本人好みのいわゆる「泣き」と言われる旋律を弾くが、同じような感じのゲイリー・ムーア などと比べると、洗練されている。というか、歌謡曲の一歩手前で止まっているのだ。ゲイリー・ムーアは完全に歌謡曲だから。なんと言っても本田美奈子だっ て歌ってるんだから。
ただ人間的には奇癖がある人で(ロック界はやたら多いが)、メンバーとのいざこざや、神経症だったりと、いろいろあるようだ。そういうところには あまり興味がないのだが、グラハムがステージで、マイケルはホントはギターを弾いていないとか言って、別のギタリストを連れ出したなんて話を聞いたことが ある。真偽の程は知らないが。
何時の頃からか「神」と呼ばれ、フライング・ブイという、布袋寅泰もたまに弾いていたギターをトレードマークにしていた。グループ名そのものをタイトル にしていたアルバムが、日本盤になるとなぜか「神」になってしまうところで、レコード・メーカーの作為を感じないわけではないが、それくらいうまいと言う ことだろう。
アルヴィン・リーなんて言う人は、それ以前から早弾きで有名だった人だし、アル・ディ・メオラなんていう人もかなりの超絶技巧の持ち主だが、マイケル一 人が「神」と名付けられたのには、テクニックばかりでなく、様式美とか、そういう大上段に構えた何かを信奉しがちなハードロック界ならではの命名だと思 う。
最近でもアルバムを出しているが、昔日の勢いはない。まあやむを得ないか。しかし、リッチー・ブラックモアがブラックモアズ・ナイトというバンド というかで、自分がやりたい世界を、新しいきれいで若い奥さんと楽しくやっているのを見ると、マイケルにももう一花咲かせて欲しいなという気がする。
いや、もちろんいまだってがんばってはいるんだけど・・・
「声」というプーランクのオペラもあるが、その話ではない。
人間の声というのは一つの楽器だと思うし、しかも楽器の中でも最も奥深く、幅広いものだと思う。他の楽器が声に比べて落ちるということではなく、例え ば、人間の声のみが、基本的には有機質の楽器なのだという意味だ。人間の声は人間が作り上げたものではなく、自然が醸造したものだからだ。
歌というのは、概ね誰でも歌う。歌手というのはある意味専門職だが、他の専門職に比べると、(うまい下手は別にして)誰でもできることをやっているのだ。料理などに近いかも知れない。家だって誰でも建てることができると思うかも知れないが、実はできない。
しかし職業歌手というものが昔から存在し、しかも多くのファンや賞賛を勝ち取ると言うところに、本当はスポーツや料理と同じ側面がある。修練もあるが、実はこれは一つの才能なのだ。
サラリーマンがよく、「君がいなくなったら誰がこの仕事をやるのだ、困る。辞めないでくれたまえ」みたいなことを言われて会社を引き留められたりする が、案外後釜はいくらでもいる。意外と困らない。いや、細かいことを言わなければ、歌手だってスポーツ選手だって、代わりはいるのだ。だがこの場合はサラ リーマンのそれとはちょっと違う。
比較的オンリー・ワンなのがこの種の才能と感性が関わる分野の職業だ。この人の声が聴きたかったり、この人のプレイが見たかったり、その個人に密接に能力が結びついているのだ。
私はポップスもクラシックも聴く。どちらの声楽も大好きだ(ポップスの場合声楽とは言わないが)。この二つの最大の違いは、語弊があることを恐れずに言 えば、一生懸命勉強しなくてはなれないかどうかという点にあると思う。もちろん、ポップスの歌手も勉強しているし、天才声楽家は勉強とは別のところで奇跡 的な声を持っている。黄金のトランペットと言われたデル・モナコや伝説のマリア・カラスを持ち出すまでもなく、持って生まれたもので勝負している以上、そ の最大の魅力はテクニックよりもむしろ、声の美しさにこそある。この美しさとは、例えば、ルイ・アームストロングはあの濁声こそが美しいのだという文脈が 許される美しさだ。単純に透明感とか、伸びとか、そういうことではない。
演歌歌手は総じて歌がうまい。ポピュラー歌手に比べると、不思議としっかり歌えている人が多いように思う。ところがそれでは皆売れているかという と、そうでもない。これは演歌という世界が、没個性になりがちだという点にあると思う。そしてそれはクラシックにも共通することだ。こういう言い方をする と、演歌やクラシックの歌手、あるいはファンから怒られそうだが、発声や、歌唱方法に一定の制限がある両ジャンルは、その点制限が全くない他のジャンルの 歌に比べて、没個性的になるのはやむを得ないと思う。
もちろん、その世界の中で、個性的な歌手や歌い方、声があるのは当然のことで、それがなければ、歌手は今の100分の1の数でもこと足りるだろう。
私は、この没個性的な制限の中でこそ勝負をかけるのがこの両ジャンル、分けてもクラシックであると思うし、どちらかというと個性一発勝負なのが他のジャンルなのだと思う。
これは例えば文学で言えば、俳句や短歌、あるいは詩といった韻文の世界と、小説やエッセイなどの違いと同じように感じる。得てして、芸術と大衆文化の違 いのように捉えられがちだが、その基軸は私は違うと思う。もちろん、これはとらえ方の問題なので、個人が、自分で定義して分けている分には文句を言う筋合 いはないが、規定された世界での個性や美しさと、自由な中での技術的な成熟度や、ユニークさ、これが大きく分けて二つの歌の世界だと私は思っている。
だからこそ、演奏解釈の違いはあれ、クラシックは(基本的には)音符通りに歌うのであり、ポピュラー音楽は、ライブで自由に演奏できるのだ。どちらがいいかは好みだが、私は相互の世界で相互のやり方をやっているのをちょっと観たい気がする。
カデンツァだらけの声楽コンサートや、CDそのままのロック・コンサート(これは意外と難しいのだ)などだ。
レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジは「アキレス最後の闘い(Achilles Last Stand)」という曲のレコーディングがあまりに完璧にいったので、もうこんな演奏はできないと言ったという話を読んだことがある。これは、テンポと か、リズムとかいうことではない。ライブで同じメロディーラインを弾いていないからだ。クラシックではあまりあり得ない。超絶技巧だって引きこなしてナン ボだ。
この辺りの評価する側の甘さもクラシックとポピュラーを分けているかな。
なんだか声の話を書こうと思って、音楽ジャンルの話になってしまった。
マスネという作曲家は、「タイスの瞑想曲」で有名だ。この曲は、いわゆる「癒し」系のクラシックアルバム(NHKの名曲アルバムとかね)によく入っていたりする。
元々この曲は「タイス」というオペラの間奏曲だが、美しい曲なので、元のオペラなどよりよっぽど有名だ。
お聴きになりたい人がいればカラヤンとベルリンフィルによる、 序曲・前奏曲・間奏曲集 がオススメ。1枚聴かないうちに確実に寝れる。・・・・いや、いいアルバムですよ、ほんとに。
さて、そんなマスネであるが、まさにオペラ作曲家で、寡聞ながらオペラ以外で有名な曲を私は知らない(ホントはたくさんあるが思い浮かばない)。そのオペラでは「ウェルテル」「マノン」が特に有名だ。あと「ドン・キホーテ」とか。
そんなマスネに「シンデレラ(Cendrillon)」という作品がある。もちろんオペラだ。マスネはフランス人だから、「サンドリヨン」が正しいが、 いわゆるシンデレラの話だ。私はこの作品に15年ほど前くらいに出会い、当時Sonyから発売されていたLPを購入した。
フレデリカ・フォン・シュターデがタイトルロール、王子様役がニコライ・ゲッダというのだった。1幕のシンデレラのアリアが好きで、自分で作ったロッ ク、歌謡曲混じりのカセットの中に、マーラーの「大地の歌」の第1楽章とともによく入れていた。儚げなシュターデの歌唱が、サンドリヨンをよく表現してい た。・・・実を言うと、通して聴ききったことがない。後半だれるからだ。
しかし、レコードで出ていたので、どうせCDも出るだろうと高をくくっていたら、一向に発売されない。シュターデの盤じゃなくてもいいからと待ったが、出ない。オペラを紹介した本のマスネのコーナーにも滅多に「シンデレラ」という文字を見ることもない。
そのときになって初めて、「ああ、この曲は全く無名の曲なんだ」と解った。
数年前に新宿のTOWERで見つけたので、これならそろそろ国内版が発売されるかなと思ったら、一向に出ない。その次に行った時にはそのCDはなかった。後悔というのはこういう時使う言葉だ。
それがしばらく前に再び棚にあった。前に、決断力のなさを連れに怒られたので、今度はすぐに買った。輸入盤なので当然日本語訳は付いていないし、その割 には高かったが、満足している。対訳も実はLPの時にひょんなことからレコードに付属していたものとは別のものを手に入れていて、それが見つかったので問 題ない。
久々に聴いたシュターデの声は、記憶の通りだったし(これは他のオペラで聴いたりしているからそれほど記憶に遠かったわけではないが)、やはりいい曲だと思うが、ちょっと記憶とはメロディが違っていた部分もあった。
オペラは、総合芸術とよく言われるが、CDで聴くというのはそのおよそ半分と言ってもいい「劇」の部分を省いて鑑賞するわけだから、その時点で作 品全体の真価は聴く側に伝わってこない。また、Je suie Japone しかフランス語の記憶がない私にとっては、歌詞を見ない限り意味も伝わらないので、さらに価値の一部が削がれる。そして、オペラ全体を鑑賞しないのだか ら、ホントに全体のわずかばかりを抽出して楽しんでいることになる。
映画や小説などを見ることを考えると、どうも大分違う鑑賞の仕方だ。
もちろん、それらの芸術や文学だって、一部を繰り返し観たり読んだりということはあるので、同じようなものだと言えば言えるのかも知れないが、実はそうではなくて、オペラという作品は部分部分切り取って、アリアや間奏曲といったところが、単独でも楽しめる芸術なのだ。
木を見て森を見なくても、十分に木で満足できる場合がある。まあ、そういったところか。
そんな意味で、私にとっての「シンデレラ」は、これからもあのアリアがその価値のほとんどを占めることになるのかも知れない。
「衣裳を着けろ」は、レオンカヴァルロのオペラ「道化師」の第1幕の最後に歌われる歌だ。カニオという座長で道化師役者が、自分の妻の浮気を知り、 舞台で現実と混同しながら、妻と愛人を殺してしまうという、ストーリーだけでもとてもイタリアーんなオペラで、その妻の浮気を知って逆上しているカニオ が、舞台が始まるのだから衣装を着けねばと自分に言い聞かせる部分を切々と歌い上げる、著名なアリアだ。
これは、レオンカヴァルロの最も有名なオペラだが、何とか言う1幕物オペラ作品コンクールに応募された作品で、2幕物であったため失格となったら しい。前年の1位作品がマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」だというから、なかなかのコンクールのようだが、他の著名な作品を私は知らない。
この2作は“ヴェリズモ”オペラの代表作とされていて、時間も短いので二つ一緒に上演されることが多いようだが、確かに魅力的なメロディが多く、冗長に ならずに楽しめる。ヴェリズモとは、現実主義的とかそんな意味らしいが、どちらかというとメロドラマ、「牡丹と薔薇」とかに近いんじゃないかと思える。確 かに、神話や大時代の歴史物とは違って、日常的な風景ではあるが、それでもかなり、ドラマティコだ。
さて、その中でカニオが歌う「衣裳を着けろ」(カニオとトニオという名を同じオペラに出演させる気が知れない。もう少し違う名前を思いつかなかっ たのか)だが、これはまさに、重く沈むような部分から、高音へ一気に伸びていく哀愁を帯びた、しかし力強いフレーズがとてもかっこいい。
私はパヴァロッティのものと、デル・モナコのものを持っているが、さすがに当たり役だけあって、モナコのは素晴らしい。パヴァロッティだって十分うまい と思うが、霞んで見える。パヴァロッティのは朗々と歌い上げすぎていながら、なぜか高音が伸びきっていないのに、モナコのは、切々とした情感を漂わせなが ら、非常にストレートに高音が伸びている。気持ちいいし、それがカニオの狂気にも似た感情をうまく表現できているように、私には思える。「衣裳を着けろ」 のサビ部分は、最後の幕前の音楽でもあり、実は1幕の終わりから2幕の終わりまでをうまく繋ぐ音楽でもあるのだ。
アリアのあとは、単独でも素晴らしく美しい間奏曲へと移行する。この作品が、失格とされながら、今でもイタリアオペラの代表的な1曲として命脈を保ち続けているのが納得できる名曲である。
最初に聴くオペラとしても、十分に楽しめる作品であると思う。