受動喫煙法案への自民党たばこ議連か言うグループの案の不思議

 以前から思っていることだが、厚生労働省が求める「屋内全面禁煙」に対して、店が立ち行かなくなるからという理由で、自民党のたばこ議連というおじさんたちが(おばさんもいるのかな)出している、一定面積以下の店は禁煙室を作ることで喫煙可能って言う、すごく差別的な条件、本当にいいと思っているのだろうか?
 そういう中途半端なことを言えば、その境目みたいな面積の店から、苦情の嵐だろうに。そんなことも解らないのだろうか?
 そもそも、飲食店が全て禁煙になれば、喫煙者は選択の余地なく禁煙の店に行かねばならない。微妙に選択肢を残せば、それこそ不公平で、むしろその結果つぶれる店だってあるだろう。

 また、喫煙室を設けて分煙すればって、よっぽど宇宙船のエアロックみたいにでもしてもらわなければ、我々の鼻を舐めちゃいけない。小部屋を作ってそこで吸えばいいなんてのは全くだめだ。また、喫煙者のマナーになども頼れない。もちろん素晴らしい人たちもたくさんいるが、多くはそうではない。飲食店で周りの客に気を使ってたばこを吸っている人など見たことがない。
 といって、路上で吸うのはやめて欲しいけどね。近所にも禁煙の店があるが、店の外に出て客が時折吸っている。前を通るにも非常に迷惑な話だ。

 あ、吸ってもいいですか?ってのがあるが、あんなのをマナーだと思っている人は、人の心の機微に全く鈍感な人たちだ。それを断れる間柄ならいいが、多くはそこでNoといえないものだ。しかも、隣のテーブルの他人に訊く人はまずいないだろう。同行者に訊けばマナーを守っているなんてのはちゃんちゃらおかしい!

 何十年も望んできた煙のほとんどない世界がようやく実現しようかというこの時、厚生労働省は、もっと本気になって政治家と戦って欲しい。いや、今でも十分本気だと思うが、こんな屁理屈みたいなアイディアに負けてはいけない。

 

2010年・消費者が選ぶ話題注目商品ベスト30

 電通総研から「2010年・消費者が選ぶ話題注目商品ベスト30」が昨日、発表された。
 以下がそのリストだ。

※( )内は昨年順位。(-)は未調査。
1位 スマートフォン(34位)
2位 Twitter(104位)
3位 食べるラー油(-)
4位 地デジ対応大画面薄型テレビ(7位)
5位 坂本龍馬(101位)
6位 羽田空港国際化(-)
7位 東京スカイツリー(-)
8位 エコポイント・エコ減税関連商品(5位)
9位 ワールドカップ南アフリカ大会(-)
10位 LED電球(15位)
11位 ご当地B級グルメ(-)
12位 池上彰(-)
13位 国内ファストファッション(3位)
14位 『ゲゲゲの女房』(-)
15位 3D映画・テレビ・カメラなど(60位)
16位 ハイブリッドカー(1位)
17位 海外ファストファッション(64位)
18位 AKB48(-)
19位 タブレット型情報端末(-)
20位 渡部陽一(戦場カメラマン)(-)
21位 ノンアルコールビールテイスト飲料(17位)
22位 高速道路ETC割引・一部無料化関連消費(6位)
23位 携帯音楽プレイヤー(-)
24位 円高還元(-)
25位 マイケル・ジャクソン(20位)
26位 ハイボール(45位)
27位 格安航空チケット(-)
28位 コンビニロールケーキ(-)
29位 アウトレットモール(25位)
30位 電気自動車(8位)

http://www.dentsu.co.jp/news/release/2010/pdf/2010115-1125.pdf

 1位のスマートフォンはiPhoneが牽引役だろうが、その後もたくさんの種類が発売になっている。19位にタブレット型の端末が入っているが、IT関連はさほど無い。
 12位に池上彰が入っている。週刊こどもニュースの時から見ていて、すごいなあ、と思う。最近はちょっと出過ぎの感さえあるが、誰よりも解りやすい。あ、週刊こどもニュースが打ちきりだそうだが、日曜の朝じゃ、誰も見ない。NHK何か勘違いしているぞ。いい番組だっただけに惜しい。
 と見ると、「坂本龍馬」「ゲゲゲの女房」と、NHK関連が多い。
 毎年この時期になると出るこういうランキングや流行語だが、ざっと見てもなぜかあまり世相がぴんと来ない。
 そういう世の中なのかなあ、と思ったり。

DRMフリーのMP3 アマゾンで販売開始

 というニュースが本日発表された。

 DRMフリーとは、暗号化されたキーなどで保護されていないファイルで、つまり、音楽がこれまで特定の機械でないと聴けなかったり、コピーができなかったりということから解放されるということだ。
 海外では既に多くがそうだし、日本でも増えつつあったが。既にiTunes Storeでは始まっていて(iTunesは形式がAACというやつなので、MP3よりは汎用性が今のところ低い)、アマゾンで始まれば、本格的に「昔に戻れる」。
 なぜなら、一部のCDを除き、ネット環境が出てくるまでの音楽はほぼDRMフリーだったからだ。若い頃、買ったレコードから、あるいはラジオのエアチェックで、多くの音楽をカセットに録音し、聴きまくった。私の場合はあまり多くなかったが、人との貸し借りも大分あった。
 そして、おそらくだが、こうやって育った世代が、自分たちの利益を過剰に保護することになるDRMを生み出したのだ。
 そもそも著作物は著作者のものだ。著作権は著作者にある。音楽の場合は、隣接権といって、演奏する人間にも一部の権利が存在する。これらの権利は当然守られるべきだし、勝手にコピーした音楽を売って儲けるのはれっきとした犯罪だ。
 だが、この犯罪抑止を、正当なユーザーの利益に押しつけてきたのが、これまでのDRMというシステムだ。
 現にこれまで購入して、今は再生できないファイルがいくつかある。改めて買うのも片腹痛い。
 世の中のバランスが、すぐに演奏家→エンドユーザーになることはまず無い。音楽には作詞・作曲・演奏の他に、レコーディングと編集作業が必ず伴うからだ。だが、そこから先の制作は割と早くなくなる可能性はある。CDもDVDもネットワークで手に入るなら資源の無駄という議論はいずれ起こってくる。紙の本もそうだ。森林伐採と結びつけられる時代が必ず来る。
 この世から紙がなくなることはないが、紙に印刷しなくても問題がないものというレッテルを貼られてしまえば、それで終わりだ。
 そしてそういった本や音楽はネットを通じて手に入り、いくらでも複製ができるようになる。
 海外に比べると全然高額な日本の配信の理由がどこにあるのかは分からないが、日本最大で11,000曲という規模なので、なかなかCDに取って代わるのは難しいだろう。CDが無くなるというのは、このオーダーが、今の1,000倍くらいになるということではないか?少なくとも、これまで販売された楽曲と現在発売されている楽曲が手に入るようになって初めて、CDは駆逐される(別のメディアが出てくる可能性はあるが、比較的マイナーチェンジだろう)。
 クラシックなどは、なかなかそこに追いつくのは難しい。それでもいずれはなるのだ。
 さて価格だが、1曲150~200円というのはこれまでとさほど変わっていない。
 かつてレコードはシングル2曲で一番高い時代に700円だった。アルバムは10曲程度で2,800円。CDに代わりシングルCDは4曲入で1,000円、アルバムは12~16曲くらいと増え、日本版で3,000円、海外アーティストのものが2,500円。もちろんこれが平均でもないだろうが、おおよそはあたっていると思う。つまり1曲あたり、150~350円で売られていたわけだ。印税はおおよそ10%くらいだと聴いたことがある。これが楽曲に係わったアーティストなどで分けられるわけだ。その差額が、制作会社、配送会社、ショップなどの利益になる。
 印税を15円から30円と考えれば、ネット配信の場合、150円は高額すぎる。せいぜい50~100円だろう(実際アメリカでは1$くらいらしい)。
 100万ダウンロードでベストセラーだとすれば、50円でも売り上げは5千万円。10曲で5億になる。
 音楽ビジネスというのは、ラジオとレコードというメディアができて以来、実は一攫千金ビジネスで、クラシックでさえそれは例外ではない。カラヤンが、何であんなにお金があったかは、今更考えるまでもない。その反対に、演奏だけで仕事をしている人たちは、苦労を強いられる。
 だがそれがビジネスで、ネット社会はこれまで機会を与えられなかった音楽家にも、日の目を見る機会を与えてくれる。よりミュージシャン・ドリームでもあるわけだ。同時に、価格を安価にすることで、購入は楽になるから、数が出ることになる。
 もちろんそれでもただで手に入れたい人たちがこの世からいなくなるわけではないが、安価であれば、買ってもいいという人たちは増えるはずだ。音楽業界には、是非そういう考え方をして欲しい。買う側にも、楽曲を手に入れるときの損益分岐点があることを、実は売る側は気づいていない。
 いや、それでもなお、DRMフリーは犯罪を増やすはずだが、そこは警察の領分だし、これまでもCDから落とせば問題なかったので、増えるのはそうは多くないだろう、ファイル交換ソフトなどは今後もなくなるはずはない。だが、それでつぶれるほど音楽は脆弱ではない。自ずとボーダーラインはある。
 
 さて次は、コピー10という忌まわしい仕組みをいつまでも入れている映像業界だ。
 
 

ディオ、永遠に!

 ロニーが死んだ。享年67歳。
 ロックなどほとんど聴かなかったぼくに、ロックを開眼させたヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオ。
 ああ、なんという喪失感。
 エルフ、レインボー、ディオ、ブラック・サバス、・・・・どれも好きだった。
 身内以外が亡くなって受けたショックで一番大きい。
 ああ、あの歌声が大好きだった。今でも年中聞いている。
 あの小さな体で、あのパワフルで、彼以外には歌えない歌を歌い続けた。他のヴォーカルは、似たタイプが必ずいるが、ロニーはオンリーワンだ。
 
「A Light In The Black」
 これが、ぼくにとっての、ロニーのレクイエムだ。
 「Heaven And Hell」でも、「We Rock」でも「Holy Diver」でもない。
「A Light In The Black」
 なのだ。
 リッチーのギターが延々続くのも解っている。ロニーであれば、「Stargezer」の方じゃね?
 みたいなのもあると思う。
だがそれでもなお
「A Light In The Black」
 なのだ。しかもリマスターじゃない方の。この8分11秒は永遠だ。
 ロニー、本当にありがとう。
 安らかに。

謝罪

 3ヶ月ぶり、そして今年最初の書き込みが「謝罪」というタイトルだからと言って、何か謝るわけではないのだけれど・・・
 今日のニュースで、菅家利和さんの謝罪要求に対して、当時の取り調べをした元検事が謝罪はしなかったというのがあった。いずれかのタイミングで彼が謝罪するのかどうか(無罪判決が出た後など)、不明だが、おそらく彼の立場から言えば、自分は確信を持って有罪だと信じていた(少なくとも当時は)ということで、自分は精一杯やったし、間違ったことはしていないという気持ちがあるのかも知れない。たとえ結果が間違っていたとしても。
 だがどうだろう、普通の事柄に置き換えてみれば、その時の思いや理屈はどうあれ、謝罪するのではないだろうか?小学生にだってそう教える。
 ところが大人になるとなかなかこの謝罪というのが難しいらしい。
 特に政治家はどうだろう。なかなか謝らない。また、謝り方が姑息だ。自らが間違っていたという謝り方をする人が非常に少ないように思う。誤っている方向が違うので、国民の怒りを買う。
 例えば上記の検事、無罪を出すための裁判をやっているということなのだから、最初から菅谷さんは無実で、えん罪だったという結果が出ることは解っている審議だ。であれば、自分はあのとき、こういう理由で間違いなく菅谷さんを犯人だと思った、証拠もそれを示していた。だが、結果は冤罪で、今となっては大変申し訳ないことをした、あなたの人生を取り戻すことはできないが、大変申し訳ないことをしたと謝れば、一応は終わる話だ。
 菅谷さんのような異例の件で、社会も国も、彼の人生を再び返すことはできない。過ぎてしまったことは最早取り戻しようがない。
 もちろん、だからこそ捜査や取り調べは慎重を期すべきではあるはずだが、それとは別に、最大限彼に対して誠意ある対応と謝罪が、事件捜査や裁判に関わったものができる唯一のことである。もちろん、それでも尚彼が今でも犯人に違いないと確信しているのなら、話は別だが。
 同様に、政治家もまた、謝罪すべきは謝罪すればいいのだ。政治家は、謝ってしまったらおしまいだと思っているのかも知れないが、そんなことはない。そこから始まることもあるのだ。
 自分がしでかしてしまったことへの反省や謝罪というのは、新しいことを始めるための一つの区切りであり、対象者への許しの請いだ。もちろんそれでも許せないことはある。謝れば何でも解決するわけではない。だが、せめて謝れ、という部分はないわけではないのだ。
 謝れないのは、実は人間の弱さだと思う。自分自身が同じ立場に立たされ、では謝れるかと言えば、その状況に陥ってみないと解らない。だから、謝らない人間を必ずしも責めようとは思わないが、それでも尚、相手が被った被害や、その人の立場などを考えれば、強く謝罪すべきではないのかという意見を、時には言うべきなのだろう。
 鳩山総理が、故人献金や、母親からの多額の譲渡などについて、言葉を濁しながら、謝っているのは、それを知らなくて申し訳なかったとか、お騒がせして申し訳なかったといったことなどだ。国民はまだ我慢して民主党の自民とは違う何かをしてくれるというかすかな糸に望みをつなげている。それが、下がったとはいえまだ50%近くある支持率のゆえんだ。
 一例を挙げれば、日本郵政の人事は全くもって天下りでした。申しわけございません。すぐに変えますと言って人事を刷新すると化すれば、そんなことを朝令暮改などと責める人はほとんどいないはずだ。
 
 小泉純一郎が何故人気があったかと言えば、果断さと言ったことを行うという部分が、他の政治家よりも秀でていたからだ。彼の政策だって、誰もが支持していたわけでhない。だが郵政選挙は勝った。
 鳩山政権が今後も4年間の地位を盤石にするためには、次の参議院選挙に勝たなくてはならない。そのためには、今の政権に残る、自民党の翳を払拭すること、つまり亀井静香を切り、小沢一郎を黙らせることだ。亀井はただの反小泉であって最も自民党らしい議員だし、小沢はまさに田中角栄の亡霊だ。田中角栄がロッキード事件で罪になったとしても、彼は偉大な政治家だった。だが今はそういう政治家の時代ではない。
 
 民主党はまず思惑の違いを謝罪し、できることから順次、そしてなにより天下り根絶などを頑張ればいい(個人的には天下りそのものは全く反対ではない。天下りはどんどんさせてもいいし、その方が、官僚機構は常に刷新されるはずだ。むしろ直すべきは、天下りしても、普通の職員と同じ待遇にするような仕組みを作ることだ。2,3年で数千万円の退職金や、そもそも最初から高い地位に就けたり、年俸で一千万以上などを規制すればいい)。
 まさに謝辞をしないで先へ進もうとすることが、ある意味自民でも民主でも同じ「朝三暮四」たるゆえんかも知れないのだが。
 

店舗などでの携帯電話

 携帯電話が日常的なアイテムとなり、人々のコミュニケーションの手段として定着して久しい。
 この際、携帯の機能がどうのこうのということではなく、電話としての携帯は、非常に便利でもあるし、また、それまで家や事務所を出てしまえば、こちらから連絡しない限り、呼び出されることがなかった仕事などで、お構いなしに連絡が来たりする。これは、利用者には功罪どちらかと言えば、たぶん功の方が圧倒的に多いのだと思う。
 さて、新幹線に限らず電車では、一応のマナーとして、「通話はご遠慮ください」ということになっている。優先席近くでは電源を切るというのもよくアナウンスがある。
 寡聞ながら、優先席付近だからと言って電源を切っている人を見かけたことがないし、電源が入っていたということで、ペースメーカーなどに支障が実際にあったという話も聞いたことがない。あくまで聞いたことがないであって、無いと断定できる根拠はもちろんない。
 さて、電車に限らず、喫茶やファーストフード、飲み屋、レストラン、コンサートホールと様々な公共の場で、携帯電話はどういうポジションにあるのだろうか?
 例えばコンサートといっても、クラシックとロックでは大きく違う。ロックのコンサートでは呼び出し音など聞こえない。通話してても、通話している側の方がおそらくよく聞こえないに違いない。ただし、バラードや演歌など、以外に目立つ場面ではたぶん御法度だ。クラシックともなれば、ちょっとやそっとの大音量の曲でも目立つ。
 先日もとあるコンサートで、携帯が鳴り始めた場面に出くわした。その人は、開演前にも携帯が鳴って会話していたので、その時点で切るか、せめてマナーモードにしておけば、どうということもなかったと思うが、近くだったので、以外に集中力を阻害された。しかも直ぐ切らない。何度も鳴る。そこそこひどかった。
 ぼくの斜め前の人は、演奏中にメールか何かを見ていた。
 後者は見えただけなので関係ないが、前者は、マナーとか言う以前の問題で、迷惑な話だ。めげずに素晴らしい演奏を続けた歌手に喝采を送りたい。
 たかだか2時間程度のコンサートの間だけ、電源を切るくらいのことは、たいしたことではないはずで、それでも尚大変な何かがあるのであれば、コンサートなどでうつつを抜かしている場合ではないと思うのだが。
 さて、コンサートは音楽を聴きに来ている場なので、携帯の呼び出し音や会話は、そもそもの目的にとって弊害となるわけだが、では、それ以外の、少なくとも音楽や芝居などを目的としていない場、例えば電車であったり、飲食店の場合はどうなのだろう?
 社会通念上、そういった公共の場では、遠慮するというのが一般的な考え方ではあると思うが、人にはそれぞれ事情というものもあるし、例えば、大声で会話している他の人たちと、携帯の通話はそれほど変わらん、というか、場合によっては携帯の会話の方がよっぽど静かな場面もあるような気がする。
 今日、近くにある店にランチを食べに行ったのだが、直ぐ隣の席に座った男性二人の内、一人に電話がかかってきた。彼は全く遠慮も、周囲に気を遣うこともなく、普通にビジネスの話を始め、5分くらい堂々と通話をしていた。気になったが、ではそれほど不快かというと、そうでもない。
 その店は良く、なぜか7~8人のおばちゃん達がランチを食べているところに出くわすのだが、彼女たちの会話の方が圧倒的にうるさく、こちらは時折不快だ。そういう場合には、手持ちの音楽プレーヤーで音楽を聴くのだが、それを圧して会話が聞こえてくる。
 
 以前、中央線の車内で実家の母から電話があった。小声で出て、後でかけ直すつもりだったが、震える声で、家に泥棒が入ったという電話だった。周りも気にせず、次の駅で降りるまで、普通に会話をした。こんな場合もあるので、やむを得ない事もあるとは思う。
 だがそれでも、大きな声で仕事の話を延々しているおやじは以外にに多い。そして、あたかもこういうことをするのは若者のような気がするのだが、実はそうではない。若いのは基本がメールだから、通話は稀である。大体うるさいのはビジネスマンだ。
 彼らは、仕事だからいいと思っているのかもしれないが、おまえの仕事でこちらを煩わさないでくれ、と思うことが時々ある。外へ出て話せと思う。
 不思議なもので、さっき書いたこととは相反するようだが、声というのはおそらくトーンと、それから周囲の騒音との相対的な具合で、うるさく感じる場合と、そうでない場合があるのだ。
 高校生などが多いマックと、一人客が読書や勉強に没頭していることが比較的多いエクセルシオールや、その中間のドトールでは、自ずと影響が違う。
 さて、ぼくはよくマナーや伝統を嫌いだと言って、反抗的な文章を書く。なぜ人前でみんなネクタイしてるのだとか、これらは新から変革されるべきだと思っているのでそう書く。
 テーブルマナーほど下らないことはない。と思うが、最低限の何かがそこにあることは認めていないわけではない。だがおそらく、テーブルマナーとして学ばねば解らないようなことの80%は無意味だ。
 そういうぼくが、例えば携帯電話のマナーということを書くのであれば、もっと自由にとか書きそうだが、そんなことはない。実は、会話というのは比較的受け入れやすい。前出のうるさいおばちゃんや、ちょっと安めで、ちょっとしゃれた居酒屋とかでのうるさい客の場合は別だ。マナーとかとは別に、彼らは彼らで盛り上がっているので、こちらが我慢しましょうという気になる。
 だが、携帯の通話というのは以外に目立ち、煩わしいこともある。
 全然出るななどとは全く思わない。出ないできる必要など無い。出て、必要ならば外で話す、あるいは今は話ができないので後ほど、くらいの気遣いを、すべきシチュエーションは少なくない。これはマナーとか決まり事ではなく、時に応じて斟酌すべきことだと思うが、実は普段からそう思っていないと決してできない。
 まあ、この程度はマナーってことなのか。
 昨日、横浜駅周辺の喫煙の取り締まりについてニュースをやっていた。だいぶ減ったが、役所の見回りの人がいなくなると吸う人が後を絶たないと言っていた。たぶんそれでもむかしよりは圧倒的に減ったのだとは思う。
 喫煙者の内、非常にそう言うことに気をつけている人たちも大勢いて、そういう人たちは世の中がどんどん禁煙化していくことに対して、もっと喫煙者の自主規制にと思っている人も少なくはない。だが、結局のところ、横浜駅の状況がそうであるように、そのことを悪いと思っていない、逆に、自分たちが虐げられているくらいに感じている人も、少なくはないのだ。そうである限り、JTがいくらマナーのCMをやろうと、状況がそれほど良くなる訳ではない。
 喫煙ほど不愉快ではないが、携帯もいわばそう言うことで、最終的には、周囲との兼ね合いということが、人間生活においては常に問われることなのだと気づく。
 自分にできることは、少なくとも自分が迷惑だと感じることをしないということしかない。
 

「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。

 というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
 ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
 宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
 まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
 先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
 一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
 宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
 非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
 ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
 それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
 テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
 生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
 ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
 人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
 アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
 さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
 ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
 さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
 ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
 ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
 いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。



ニーチェの作品


ムアコックの作品。現在絶版中のよう

日産のCM

 このところ、各自動車会社のエコカー減税CMがかなりかまびすしい。
 その中で日産のCMがどうにも気になって嫌だ。
 それは、今なら~がエコカー減税で×××円もお買い時というやつだ。
 この今ならお買い時という時系列に沿った流れはまだいいとしよう、だが、この間にエコカー減税による割引金額が入ることで、もはやお買い時を形容しているのは、金額でしかない。
 麻生政権で決まったエコカー減税だから、日本語の文法はどうでもいいというわけでもないだろうが、CMが流れるたびに違和感があって、日産が大嫌いになった。
 金額が安いならお買い得だろうし、時期がいいならお買い時でもいいだろう。
 人間というのはおかしなもので、ラーメンやそばをすする音がだめな人もいる。
 態度や生き方、日常のあれこれ、笑いのツボと似て、それぞれが持つ感覚の微妙な違いがあるものだ。
 このCMなど、別にお得で今がそのときなのでお買い時と言ってるのだろうが、この違和感と、こんなCM流してやがるという、もはや八つ当たりの感情があって、いらだたしい。・・・いや言葉で書くといらだたしいだが、そんなに大きないらだちではない。とってもかすかだが、こんなブログを書くくらいには、ということだ。
 十分目立っているわけだから、CMの目的も達せられたということか。
 それにしても、何のメリットもないエコカー減税・・・・

24時間テレビ

 外国人も呆れる”エセチャリティ”『24時間テレビ』最大の過ちとは
 という記事をmixiのニュースで見た。
 このサイゾーというサイトは、いわゆる週刊誌的な記事が多く、直接読むことはなく、こうやってmixiニュースで知ることが多い。
 ただ、今回はちょっと気になったので読んだ。
 24時間テレビは1978年スタートということなので、今年で32回目になるのだろうか、長寿番組だ。これまで興味を持ってみたことはないが、さすがにこれだけやっていると、番組の趣旨や、どんなことをやっているかの、おおよそは知っている。
 いつ頃からやっているのか判らないが、100キロ以上をマラソンするというのは、そう言ったことが苦手なぼくには、全く意味が分からない。走りたくて走っているのか、仕事だから走っているのか、それはそれぞれだろうが、走り通すのは立派なことだ。他人事ながらすごいと思う。
 毎年何百億もの募金が集まり、何らかの形でそれが有用に使われているのなら、決して意味のないことではないので、このサイゾーの記事のように「エセ」とまで言ってはかわいそうだと思う。
 ただ、これまたサイゾーの記事にあるように、本質的にはチャリティー喚起番組なのであって、番組そのものはチャリティーではないということなのだろう。チャリティーは困っている人などを支援するのが目的だから、その方法論として、こういう形があっても、決して悪いわけではない。
 ただ、その上で、せっかくやるのなら、人の善意ということをとことん追求するくらいの心構えがないと、なにやら画竜点睛を欠いていることも否めない。
 
 出演者も、スポンサーも、全てチャリティーであることを前提に、かかるお金は全て慈善に使うという決めごとをし、舞台となる施設の使用料も無料、当日の電気代なども無料で提供してもらい、人件費以外にかかる経費を各企業の善意で0にする。
 スポンサーは、本来これだけCMを流したりしたらかかる費用+αを寄付する。
 日本テレビは、この二日間のテレビ収入を完全に0にし、入ってきたお金は全部寄付をする。
 出演者はむろん、ノーギャラ、番組のために曲を作ったりした場合、その売り上げは、全額寄付に回す。当然、CDショップなどでも、ノーマージン、1000円の商品が売れたら、1000円全額が寄付される。
 Tシャツなども、制作する企業にはお金を払わず、その制作費は全額チャリティーに回ることを伝えて、番組内で企業名を宣伝すればいいように思う(もうやってたりして・・・)。
 などなど、徹底した姿勢でチャリティーに取り組めば、エセと言われることもなく、協賛社(者)は決して少なくないだろうと思われる。全ての広告費、経費、人件費がこの二日分+αで、全額チャリティーに回るとすれば、半端ない額になるだろうし、その使い先も明確にすれば、相当いいイメージが日テレにつき、実は一番得をするのが日テレに違いないと思うのだが・・・・
 と、この記事を読んでいて思った。
 たとえサイゾーに対してでも、本当にああいう回答をしたのであれば、そしてこの記事が事実であれば、むしろ日テレのイメージダウンのような気がする。
 個人はともかくとして、企業に慈善事業というのは、無私であることが、そもそも疑われて当然であるから、それを誤解無く行うためには、それなりの努力と犠牲が必要になると思う。
 ぼくは知らないが、出演者の中には何人かは、ギャラを全額チャリティーに回した、なんて素晴らしい人はいないのだろうか?ただし、出演者だけにノーギャラを求めるなんていうのはどうかと思うが。
 チャリティーと銘打って、人の善意を利用するのは一つの手段だが、ただそれだけなら、おもしろおかしく26時間お笑いをやっているフジテレビの方が、まだ救いがあるように思えてしまう。実績があってもだ。
 

まつり

 久々にお祭りに行ってきた。
 府中にある大國魂神社というところのすももまつりというのだ。
 そもそもぼくは、祭りというのがあまり好きな方ではない。歴史や伝統ということに、あまり価値を認めていない変革ばかりを尊ぶ性格が災いしている。
 特にけが人が出そうな危険な祭りは性に合わない。そういう祭りが有名な地域に生まれなくて幸いだったと思っている。ああ、ただ好きではないというのと、価値を認めないというのは全く別の話なので、あしからず。
 尤も、祭りは好きではなくても出店は好きだ。祭りというのが出店めぐりのことであるなら、実は好きだ。
 
 今日も、結局のところで店めぐりだった。堪能した。
 すもも祭りというのは、以下の大國魂神社の説明を読めば解る。
 

夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9 年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その祭神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りのの名前の由来です。当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。

 ぼくは、神社仏閣を訪れる際、必ず世界平和を祈念する。一番祈念して、当たり障り無く、尚かつ非常に高邁で、何より神仏に頼らなければおよそ実現できないようなことかな、と思うので、そして、本心からそう望んでいるので祈る。
 ただし、今日などは境内で参拝の行列ができていて、到底並んでまで参拝する気になれないので、遠くから気持ちだけ運んだ。
 この、並ぶという行為がぼくはとても苦手だ。この苦手な感情を目的が凌駕しない限り、並ばない。だから銀座チャンスセンターなどで宝くじのために並んだことはない。これは、どこで買おうと確率は一緒だという理屈だけに寄ったものだが。
 
 さて、そんな楽しい出店めぐりで、ケバブを挟んだトルコのサンドイッチみたいなのを食べた。国際色豊かだ。おいしかった。参道にずっと並んでいるわけだが、焼きそばにたこ焼きにお好み焼き、ソースせんべいにあんずあめ、チョコバナナ、フランクなど、同じ店が随所にある中、このトルコの味は変わっていて良かった。考えてみると、もっとバリエーションがあってもいい。例えば焼きそばでも、全部ソース焼きそばではなく、上海焼きそばとか塩焼きそばとか、違えば楽しめるのに。
 もちろん昔に比べれば、色とりどりだし、その中で昔ながらのいい味も出している。おっと、伝統や歴史を否定する男が言ってはいけない台詞だ。
 
 たこ焼きも、大きなたこが入っていておいしかったが、焼きそばだけがどうにも不味かった。これは残念だった。全く肉も入っていないし。
 佐世保バーガーなんていうのもあったが、大きすぎる。
 そう、あれだけ出店が並んでいても、一つ一つの量が多すぎる、少しずつ食べられれば、少々割高でも、もっと多くのものを食べることができるのだが。sこがお祭りの、常に残念なところだ。
 たこ焼き1個50円とかね。
 
 家の近くの商店街に観音様があるので、時々で店が出る。でも、祭りので店はもう少し豪快が楽しい。確かに人混みは、祭りでもそれほど好きではないが、町中でのき模様とはやはり違って、それほど気にはならない。
 府中という街もいい街だった。
 またいこう。