選挙

 せんきょと打ったら第一の候補に「占拠」が出たが、今週末というか来週頭は衆議院議員の選挙だ。
 新聞各紙の報道は、圧倒的な自民党の勝利だが、そもそもそれを狙って解散に打って出たのだろう。
 選挙というのは有権者にとっても実に難しいもので、例えば自民党とその立候補者に1票を投じたとしても、その党や立候補者のどの政策に対して1票を投じるのかは意思表明が一切できない。アベノミクスに賛成で原発再稼働には断固反対という人がいたとしても、当選後は彼らはそれも含めて信任をもらったというに違いない。
 それはことさら自民党に限ったことでは無い。言ってみれば、定数削減といういわゆる身を切る改革に反対している共産党や社民党のような小さな政党は、実現可能性があるかどうかは別にして、口にする政策は非常によかったりする。まぁ、間違っても政権を取るということが無いので、自信を持って言えるに違いない。理想と責任は、いわば対極にあることが多いからだ。
 もちろん彼らが定数削減、特に比例区の削減に反対する理由はよく解る。小選挙区制という民意をあまり反映できそうもない単純多数決の選挙システムは、どう考えても彼らには不利だからだ。逆に言えば、その中で小選挙区当選を果たす議員はめちゃすごいという話になる。
 選ぶ側から言っても、ではそういった少数政党に投票する意義がどれほどあるかということになると、その主張が政策に反映されることは極めて少ないので、可能な限り1票をムダにしたくなければ、ある程度発言力を持つ可能性がある政党の方がよりよいかななどと考えてしまう。もちろん、共産党や社民党のここの議員がムダだと言っているわけではない。彼らの追求から政治が動くことだってたくさんあるからだ。
 逆に言えば、一強多弱をもたらしそうな今回の選挙に幻滅を、始める前から覚えたりもするわけだ。
 
 それでも投票には行くし、白票と言うことも無い。

 話はそれるが、先日テレビで「白票でもいいから投票に行きましょう」と呼びかける(アナウンサーだったか解説員だったか忘れたが)の場面と、ネット上でむしろ白票を投じようという呼びかけを行っているサイトのニュースを見た。
 個人的には、白票は投票しないのとまったく同じ行為なので、白票を投じるなら、散歩でもない限り投票所に行く意味は無いと思っている。投票所で選挙に来ましたというチェックが重要なわけではなく、参政権というのはあくまで自らの意思表明であるからだ。
 では、棄権や白票が意思表明では無いのかと言えば、あながちそうも言い切れない。誰にも入れたくないという意思表明、あるいは決まった結果に従いますという少し積極的な意思表明と取れないことはない。もちろん、本人はそんなこと考えて棄権する人はまれだろう。どちらかというと、面倒とか興味がないという人たちが多いに違いない。だが世界に比べたら圧倒的に平和を享受している日本では、誰を選んでもそう変わらない(恐らくこの表現にはネガティブな意味ばかりではなく、多少のポジティブな意味もあるのだと思うが)から、選挙に行かないという選択肢もあるに違いない。
 無理矢理義務化したとしても、まじめに投票しないとすれば意味は無いが、とはいえ、本気で参政と言うことを考えるのであれば、義務化の手前でたくさんできることはある。
 日曜日に公共の場を政治の都合で突然投票所に変え、そこで行われるはずだった行事を中止に追い込むなどと言う、目立たないがひどいことを行うのも選挙だと言うことを行政や政治家が自覚して、ネット投票の導入や、期日前投票ではなく複数日をかけて投票できたり、投票所を可能な限り生活に影響ないような場所でできるようにしたり、やることはたくさんある。紙とか投票箱はよくなったのかも知れないが、投票所については何十年も変わってない気がする。
 
 話があちこち飛んだが、選挙というのは「我々が政治を変える」とよく言われるような非常に前向きなケースもあるが、その反面「多くのことを諦める」決意をする場でもあると言うことを、よく考えなくてはいけないのだと思う。
 株価が上がればこの世は万々歳なのか?給料が上がり佐世すればいいのか?逆に、原発さえ動かなければ、あとはどうでもいいのか?どこで戦争が起こっていても日本が平和ならそれでいいのか?とか、様々なことが実は突きつけられていると言うことだ。

 これまで自分の投じた1票が生きたことも無駄になったこともある。無駄とはもちろん、落選議員に投じた1票だが、後になって考えると当選しても無駄だったかなと思うこともある。
  
 今回は、どうするかな。一強多弱ってやはり良くないんだと思うが・・・・今回は難しそうだ。
🎇

 

円高と円安

 経済に疎いぼくが、なぜこんなタイトルで書くのかと言えば、単に不思議だからに他ならない。
 そもそも、大学も人文学だし、経理に配属された新入社員の時は、1年で会社を辞めようとさえしていたのだった。
 
 さて、アベノミクスの金融緩和によって、数年前に突然円安が始まった。
 ぼくが個人的に覚えている一番高い円は、いわゆる固定相場制の頃の1$=360円だが、この頃から言えば今は破格の円高なので、そもそも円高、円安というのは、常に相対的であるのだということだ。そういう意味では、何年前か忘れたが、円安の動きが始まる直前の、最も円が高かったときは1$は80円を切っており、先週、1$=118円台までいったから、その頃から比べれば、40円近い円安ということになる。
 結果、物が高くなった。これだけは間違いなく円安の影響が一番大きいだろう。

 衆議院が解散となり、来月には総選挙が行われる。あ、この総選挙という言葉も紛らわしい。別に全国の必要な選挙が一気に行われるとか、参議院議員も一緒に選挙を行うわけでもないのに「総」選挙というからだ。総選挙というのは、あくまで衆議院銀を選出する選挙のことらしい。広辞苑を見ると、参議院議員の場合には通常選挙というらしい。また、市町村選挙の場合には一般選挙というのだそうだ(学研の国語辞典には「委員・議員などの全員を一時に選ぶ選挙」とあるので、AKBの場合にはこれに当たるわけだ)。きっと学校で習ったのだろうが、とっくに忘れた!
 一般的にいえば、今度の選挙はアベノミクスに対する信任とか評価が最も大きな、あるいはもう少し広げて安倍政権へのということになると言われているが、あれだけ期待をしてこけてしまった民主党政権の記憶もまだそう風化していない今、信任しないけど、他よりいいという理屈で与党が勝つのだろう。と、何となく思う。

 ただここで思うのだが、景気がよくなったと自民党は言うのだが、世間は実感していないとも言う。確かにぼくもまったく実感がないどころか、恐ろしいほどに物の値段は上がっている。これは決して消費税だけのせいではない。誰もがそれは分かっている。
 で、円安なのだが、為替というのは、通貨同士の強弱の問題なのだと思うが、単純に、1$のものが80円で買えるのと120円で買えるのでは、少なくとも買う側は、80円がいいし、売る側は120円がいいのは自明のことだ。だが、通貨の強さという意味では、80円の方が強いのではないか?
 なぜ、日本の通貨が強いいことが、そんなに敬遠され、弱くなると株価が上がるのだろう?
 もちろん、車を初めとする日本の産業の多くが、輸出で外貨を稼ぎ、80円よりも120円の方が、利益は大きいし、当然外国人は観光に来てもうれしいからたくさん来るようになる可能性が高いのだと思う。トヨタの利益は呆れるほどだし、その結果株で儲けたお金持ちもたくさんいるには違いない。

 だが、単純に考えてみれば、差益の40円で上げる利益は、逆に40円分の値上がりで輸入に跳ね返ってくるのではないか?
 だとすれば、野党が言うように、円安で儲けた人がいる分を、他の人が損するのは、まさに理屈通りのような気がする。
 つまり、円安で日本経済がよくなるという理屈が、ぼくにはわからないのだ。
 それは確かに、一部はよくなるだろう。だが同じだけどこかが煽りを食うことにはならないのだろうか?
 なんとなーく、所詮為替の変動なんてそんなものの様な気がして仕方が無い。
 
 日本が輸出産業に頼っている、というのは、だって所詮、どこの国も一緒でしょ?と思う。外貨を稼ぐには輸出するしかないわけで、それは別に日本に限ったことではない。アメリカだって中国だって、輸入より輸出を多くしたいに決まっている。
 まあ尤も、なんでも国内にあるので困らないというのであれば、生活自体は成り立つのだろうけど、でもだからと言って輸入過多では、どこかでひずみが来るんじゃないのかな?という気がする。

 むしろ円高でも儲かるくらいたくさん売るというのが望むべく最もいい方法な気がする。
 そうすれば当然、輸入品を安く仕入れ、加工して売るという、いわば日本のお国芸みたいなものに、一番合ってるような気がしてならない。
 それが理想論だとしても、円安に頼っても、結果的には物をたくさん売らなくてはバランスが取れないような気がして仕方が無い。
 同じ売るなら、円高での方が、僕は好きだな。・・・輸出とは縁もゆかりもない人生なので、輸入がお得な方がうれしいわけです。・・・海外旅行もね。

 あ、本当に経済の素人が言ってることなので、万が一読んだ方、嘆いたり怒ったりしないで下さいね。
 
 

消費税増税法案、衆議院通過

 久々に政治ネタ。
 今日、民主党と自民党と公明党の賛成多数で、消費税増税法案が可決、衆議院を通過した。
 色んな人が書いていると思うので、ある意味ぼくのブログなど、愚痴レベルだが。
 
政治生命を賭けるという野田総理の意気込みは半分成就した形だ。尤も、彼の政治生命など、どうでもいいことではあるのだが。それは、原発を再稼働して、責任を取るというようなことをいわれても、神でも無いあなたには、もしものときの「責任」など取れるはずもないでしょう、というのと少し似ている。

 少なくとも、今回の採決には、ぼくは反対だ。
 小沢派の議員が言うように、理屈の上からは、増税派に非がある。なぜなら、かれらを選出したとき、有権者は増税はしないという文言他、マニフェストとやらを見て民主政権を成立させたからだ。
 ここでもしかし、反対してるのが小沢一郎と鳩山由紀夫という、どうにも好きになれない政治家と、どうにも信用できない政治家が上にいるところが釈然としない。
 鳩山の言ってることがどれだけ理に適っていようと、できないことでもやれるやれると言って結局できない金に不自由のない政治家の言っていることなど、どこまで行っても信用できない。辞めると言っても辞めない二枚舌だ。なら最初からいうなと思う。
 昔から思っているが、選挙の際は、当選させたい政治家と、絶対なって欲しくない政治家に投票できるようにしてもらいたいものだ。彼などその最右翼だ。
 小沢一郎に関して言えば、金と政治で起訴されたとかされてないとか、そんなことではなく、そのこれまでの政治手法がとても日本の旧態依然とした政治っぽく見えて、昔から嫌いだ。ただ、その上で時々いいことはいうので、そこは評価したい。
 今回も、その真意がどこにあれ、言ってることは間違っていない。

 現在の日本経済のために、消費税の増税が必要かどうか、野田氏が言うように「待ったなし」なのかどうかは、怪しいものだと思う。そもそも、湯水のように金を使って無くなったから、小遣い上げてといってるような気がして仕方ない。
 税金を上げることにはこれだけ必死になれるのに、議員定数削減やら、行政改革やら、そっちの方はやろうとしているように見えても、一向に政治生命を賭けるほどの気概はない。
 よその国から金を借りまくってるギリシャとは違うのだ。国債を買っているお金持ちの日本人は、国債で儲かっているのだ。
言ってみれば、その金利を、他の人間もみんな均等に負担してよね~ってなことだ。

 まず他にやることがあるだろうという言葉は、自民党政権の時以来、政府にもの申す常套句の一つで、もはや狼が来ている。誰もできると思ってないんじゃないか?
 議員の定数削減なんて、歳費を大幅に減らして、政治家をボランティア同然にすれば、簡単にできる。尤も、利権構造を変えなければだめだが。・・・金のかからない選挙だって、インターネットを活用させるとか、いくらでも方法はあるだろう。が、そういうこともほとんどやる気はないらしいし。

 政治家の多くが、若かりし頃、大志を胸にその道を志したに違いない。だが、一旦付いたその職にはなぜかしがみつきたいようで、定数削減などしたがらない。少数政党が嫌がろうとも、ぜひにもやるべきだ。
そして、比例代表という、国民の意志の通わない選挙制度も、さっさとやめてもらいたい。利点はあっても、弊害の方が大きい。

 とはいえ、政治の勉強もしたことはないし、自ら政治家になる意欲も知識も無い。それでも国民の一人だ。なので、ブログで言いたい放題(見当違いのことも言っているはずだが、そこはご容赦)。
 ところで、民主、自民、公明・・・大きな政党はみんな消費税を上げたがっている。まず景気をよくして税収を上げようとは、思っていないと言うことだ。いや、そう言えば、そんなことはないと言うに決まってるが、結局そういうことだろう。
 となれば、次の選挙って、どこに入れればいいんだろう?ますます混迷の政党支持。

 あ、ちなみに、ぼくは税金を全て(一部無理なものはあるかもしれないが)、消費税にして、所得税も、住民税も、健康保険も、国民年金も全部やめてしまえ・・・という意見を持っているので・・・・あくまでこのタイミングでの消費増税に反対と言うだけです。

サンシャインタウン

 mixiのアプリに「サンシャインタウン」というのがあり、それをやっている。
 シムシティの限りなく簡単なやつみたいな感じだと思う(残念ながらシムシティをやっとことがないのだが)。
 スタッフというのをいろいろな職業で働かせ、街を大きくしていくものだ。スタッフは一定時間働くと収益を上げ、そのお金で家を買うと人口が増え、一定人口になるとスタッフを増やせるという仕組みだ。しかし、人口を増やすと、彼らの満足度が下がり、新しい家が買えない。そこで、稼いだ金は家だけではなく、町の人の満足度を上げるためのデコレーションというのを購入するためにも使うことになる。
 家やデコレーションを購入し街に置くと、面積が足りなくなるが、それらの様々な行為によって、ゲームの王道である経験値が貯まっており、一定の経験値をクリアすると、土地を広げることができる。
 と、単なるこの繰り返しのゲームだ。
 ただ、人生でも人間は同じようなことをやって一生を送っているわけで、いわば、人生の縮図のようなものだ。
 さて、ときどきイベントがあったりするのだが、10月にはハロウィンがあり、今回はクリスマスだ。その時期に、特別な働き場が与えられ、ハロウィンの時はお城で、今回はおもちゃ工場だ。
 これらの職場は、通常と違って割がいい。短時間でたくさん稼げるようになっている。
 今回、ハロウィンの時になはなかった縛りがあって、そこで働かせることができるのはマイミクスタッフなのだ。
 マイミクとはもちろん、ツィッターのフォロワーみたいなもので、自分の友達として登録している知人や、mixiの中で知り合って登録した人たちのことだ。詳しくは知らないが、たくさんいる方は何百人もいるのかもしれない。
 残念ながら、私の場合は非常に少ない。mixi自体、日記も書いていないし、ただ参加しているだけで、マイミクを増やすつもりはほとんど無い。ただ、相手から言われたとき断る理由もないので、断りはしないが、先方にとって、何もアクションを起こさないマイミクが、あまり意味があるとも思えない。
 さて、そんなわけで、私は今回の職場でわずか2人のスタッフしか働かせることができない。残念。
 でここからが本題。
 世の若い人たち、あるいは子供たちは、友達の人数の多寡で幸せを計る傾向があるようなことを、前にテレビで見た。
 もちろん、友達が多いことが悪いはずもない。だが、友達が多いことが=幸せであることも、必ずしも言えないのではないだろうか。何人以上が多くて、何人以下が少ないというのも極めて曖昧な話ではあるが、友達が少ないことを思って落ち込んだりしている人がいるとすれば、悲しいことだ。
 自分自身、友達が多いのか少ないのかよく解らないが、友の価値というのは人数で割りきれるものではない。また、深いつきあいかどうかと言う単純なものでもない。
 メロスの友情を信じて待つ友の情景は、美しいかもしれないし、すばらしいことかもしれない。だが、何事によらず、人生の価値というのは、一つ一つの物事の切り口だけで決まるわけでもなく、時代や国、あるいは一人一人の感性や考え方によって決まるものである。
 我々は得てして、社会通念という言葉で、あたかもこのことはこうあるべきだという、言われなき縛りに縛られることがよくある。もちろん、社会が人の集団であるなら、自ずとそこにルールはある。多くのルールは守られるべきであり、そこから逸脱した場合、裁判で裁かれることもあるだろう。
 だが、例えば友達の価値とか、愛の形、生活のやり方など個々人に許されるべきことが、意外に多くを社会によって縛られていることが多い。
 極端な例を挙げれば(ここで極端というのは誤解があるといけないのでこの話をするときにその話題か?という意味であり、ことが極端であるという意味ではない)、同性愛というのは、現代にあってさえ、なかなか多くの人から拒否反応を持って迎えられる場合が多いと思う。
 だが、同性愛であることが、社会通念上おかしいとしても、それは人の人生に於いては許されるべきではないのか、と私は思う。もちろん、宗教的な心情から許さない人も多いと思うし、それに関しては相手が宗教なので、立ち向かう言葉を知らない。
 だが一般的に言って、同性しか愛せない人たちがお互いに愛し合ったら、それで一生を送ることが、そうでない人にとってどんな不都合を生じさせているのだろう?生物学的に見て子孫が増えないのだという論理は、この際、そもそもの同性愛を認めない人にとっての論拠であるとは思っていないので、意味はほとんど無い。
 少なからずそれは、その人たちが持つ感情や思想的な嫌悪感などに起因しているだけだ。
 ではその嫌悪感をどうしてくれる、という理屈もまた、この世からあらゆる人が嫌悪するものを、片っ端から消していったらどんな世の中になるかを考えれば自ずと解ることだ。ゴミ屋敷の隣に住むというのとは次元が違う。
 だが、どう違うのだと尋ねられれば、私は、その違いが例を挙げるだけで理解されないことの方が悲しい気がする。
 いわばこういった、寛容と理解がどの程度あるかが、人類の進化の度合いを測るバロメーターなのではないかとさえ思える。自分と他人が違う人生を歩んでおり、可能な限り認め合うことからしか、平和は生まれてこないのだと言うことだ。
 サンシャインタウンのマイミクしか使えない設定というのが、実は友が少なくて悩んでいる人たちへの、意外に心に踏み込む刃物になりかねないのだと言うことを、ふと思った。
 かつて私は、自分の女好きをジョークにするために、「ホモに人権はない」と言わないでいいことを、全然ゲイではない人物に言ったことがある。実際にそんなことを思っているわけでもないし、単なる軽口以上のことではない。だが今では深く反省している。
 冗談でも、軽口でも人を傷つけるのは難しいことではない。そして冗談だから、でいつでも許されるわけでもないのだ。
 いじめで自殺する子供もいる。
 社会が守れるとしたら、やはり絶えず、人を思いやる気持ちをまず大人が持ち、子供にも教えていくしかない。今の大人たちは、どれほどがもてているだろうか?
 人が人に寛容であり優しい態度で接することが第一の社会通念として存在できる未来が来ることを、私は信じたい。
 

番組中のテロップ

 mixiのニュースを見ていてみつけたのだが、NHKの龍馬伝、最終回の暗殺場面に愛媛県知事の投票結果のテロップが流れて顰蹙を買っているという趣旨の記事だ。
http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20101129/enn1011291251009-n1.htm
 地震速報やら大きな天災や事故、事件の速報など、緊急性を必要とする場面でのテレビのテロップは、むしろ必要だと思うが、選挙結果や裁判の判決など、敢えて速報性がないものに関して、テレビが速報で流すのはなぜなのだろう?ただし、CM中に見たことは全くないのだが。
 言ってみればテレビ局などは、基本的に視聴者第一ではないと言うことなのだろう。あるいは、視聴者が望んでいることを実はくみ取れていないと言うことでもある。
 幕末と福山雅治のどちらにも興味がない私としては、実際に観ていないのでなんだが、記事にあるように、暗殺シーンを外れていれば良かったのか?という気はする。番組が終わった後で十分間に合う情報だし、その数十分が誰かに大きな影響を与える情報でもない。
 
 観ている側にそれが不快感を与えることを、まさかテレビ局の人間が知らないはずもないし、知らなかったとすれば、なんたる無知っぷりかと言わざるをえない。
 
 北朝鮮が爆弾を放ったなどというニュースは、番組を中断しても伝えるべき内容かもしれないが、それらのニュースの即時性をテレビ局は何か勘違いしてるとしか思えない。
 これは、ニュースのテロップばかりではない。たまに昼間の番組を観ていたりすると、笑えるように夜の番組の紹介を流し続けていたりする。昼の番組の視聴率と、ほぼ再放送と言うことを考えると、あまり文句を言う人も少ないのだとは思うが、少なくとも観ている人間の気持ちなどは考えていないだろうことは判る。
 視聴者のことは考えなくても、CM中にそういうことをしないというのは、スポンサーのことは考えているのだな、ということも解る。だが大事なのは、スポンサーの先にいる消費者で、それは視聴者と同じ人たちであることを、テレビ局もスポンサーも、たぶんあまり考えていないのだろう。考えていたとしても、あまりそうは見えない。
 増して今回はNHK、スポンサーはすなわちそのまま視聴者なのだけれど、たぶん、視聴者は全員。愛媛県知事選挙の動向が気になって仕方がないと思ったんだろうな。

2010年・消費者が選ぶ話題注目商品ベスト30

 電通総研から「2010年・消費者が選ぶ話題注目商品ベスト30」が昨日、発表された。
 以下がそのリストだ。

※( )内は昨年順位。(-)は未調査。
1位 スマートフォン(34位)
2位 Twitter(104位)
3位 食べるラー油(-)
4位 地デジ対応大画面薄型テレビ(7位)
5位 坂本龍馬(101位)
6位 羽田空港国際化(-)
7位 東京スカイツリー(-)
8位 エコポイント・エコ減税関連商品(5位)
9位 ワールドカップ南アフリカ大会(-)
10位 LED電球(15位)
11位 ご当地B級グルメ(-)
12位 池上彰(-)
13位 国内ファストファッション(3位)
14位 『ゲゲゲの女房』(-)
15位 3D映画・テレビ・カメラなど(60位)
16位 ハイブリッドカー(1位)
17位 海外ファストファッション(64位)
18位 AKB48(-)
19位 タブレット型情報端末(-)
20位 渡部陽一(戦場カメラマン)(-)
21位 ノンアルコールビールテイスト飲料(17位)
22位 高速道路ETC割引・一部無料化関連消費(6位)
23位 携帯音楽プレイヤー(-)
24位 円高還元(-)
25位 マイケル・ジャクソン(20位)
26位 ハイボール(45位)
27位 格安航空チケット(-)
28位 コンビニロールケーキ(-)
29位 アウトレットモール(25位)
30位 電気自動車(8位)

http://www.dentsu.co.jp/news/release/2010/pdf/2010115-1125.pdf

 1位のスマートフォンはiPhoneが牽引役だろうが、その後もたくさんの種類が発売になっている。19位にタブレット型の端末が入っているが、IT関連はさほど無い。
 12位に池上彰が入っている。週刊こどもニュースの時から見ていて、すごいなあ、と思う。最近はちょっと出過ぎの感さえあるが、誰よりも解りやすい。あ、週刊こどもニュースが打ちきりだそうだが、日曜の朝じゃ、誰も見ない。NHK何か勘違いしているぞ。いい番組だっただけに惜しい。
 と見ると、「坂本龍馬」「ゲゲゲの女房」と、NHK関連が多い。
 毎年この時期になると出るこういうランキングや流行語だが、ざっと見てもなぜかあまり世相がぴんと来ない。
 そういう世の中なのかなあ、と思ったり。

男性の言葉づかいが乱暴だと思う瞬間9パターン・・・という記事

 というのを読んだ。
http://www.sugoren.com/report/post_1102.php
羅列すると、以下のようなことらしい。
【1】自分のことを「おまえ」「あんた」と呼ばれたとき
【2】お金のことを「金(カネ)」と言っているとき
【3】友達同士で冗談で「ぶん殴るぞ」と言っているとき
【4】会話中に女性のことを「女(おんな)」と表現しているとき
【5】お尻のことを「ケツ」と言うとき
【6】話しかけたら「うっせー!」と言われたとき
【7】ミスをしたとき「ふざけんな」と言われたとき
【8】女性のことを「バカ」と言うとき
【9】「来いよ」「食えよ」など、命令口調で話されるとき
 女性が感じる男が乱暴だと思う言葉遣いということで、男性自身がどう思うかとは関係がない。
 あまり自分には当てはまる部分は少ないが、時には使うこともあるだろう。
 話し言葉というのは、言葉遣いと同時に、口調やイントネーションなど、様々な要素で印象が決まる。
 例えば、9番、キムタクが言えば、なんとなく格好良かったりするのかもしれない。
 
 相手にもよるし、場合にもよる。いわばTPOなのだろう。
 私はあまりこのTPOという言葉が好きではないのだが(何か見えない枠で規定されている感じがぬぐえないので)、理屈としては時と場所、場合をわきまえることが重要であることはよく解る。
 言葉遣いなどは特にそうで、「相手」という要素も加わる。ただ、自分の家族や、部下、後輩だからといって、ぞんざいで、自分よりも少しでも早く生まれたら丁寧みたいなのは、おかしな話だ。基本はどんな相手でも、どんなに年下だろうが目上だろうが、敬意を持って接し、その中で言葉が崩れていくというのが理想ではないだろうか。
 政治家に「先生」と言っているようじゃ、日本の敬意も形だけかもしれない。

尖閣諸島付近における漁船衝突事故のビデオ

 というタイトルで、今更と思われる方も多いかもしれない。
 ちょっと気になったので。
 つまり、今回海上保安庁の保安官が・・・・関係ないがこの保安官というのも、何度聞いても西部劇を想起する。・・・YouTubeに流出させたものは直後に削除されたようだが、今でもそのコピーを見ることは可能だ。いって見れば、世界の人が見たことになる。
 さて、国会でも改めてこの映像を公開する要求がでているようだが、改めて公開する意味と、国の公開っていうのはいったいどういう形でなされるのかということが気になった。
 まさか政府がYouTubeで流すほど気が利いているとは思えないし、ましてやニコニコ動画ということはないだろう。
 となれば、政府か海上保安庁のホームページと言うことになるのだろうか?
 マスコミにDVDを配るだけということもないだろう。
 ネットに出されたコンテンツは、誰にもコピーできない様にするというのはまず不可能だから、見せる以上はコピーされることが前提である。よく右クリック禁止とか、プリントスクリーンでさえできないような処理をしているホームページがある。それはそれでいいし、否定するものではないが、実際は焼け石に水というか、全てを防げないということは判ってすべきだと思う。
 今回、テレビでもたくさん流されたし(ほんの一部だが)、ネットでも未だに見ることができる。
 改めて公開とかいう話よりも、国会でやるべきことはもっとあると思うのだが。

中国でヌード結婚写真がブーム?

http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=46989
 当にタイトル通りの内容のニュースだが、記事は短いので、全文を引用しておく。

 2010年11月12日、AFP通信は記事「ヌード結婚写真を禁止に、中国で呼びかけ」を掲載した。ヌード結婚写真は今、中国の若いカップルの間で人気となっている。
上海日報によると、上海ウエディング業界協会は、ヌード結婚写真撮影はみだらな習慣だとして政府に禁止令を出すよう呼びかけている。同協会の何麗娜(ホー・リーナー)副会長は「我々はこの種の結婚写真を薦めていない。中国人の伝統的結婚習慣とは異なるものだ」と話し、「結婚式は神聖な儀式であるべき。若者が伝統的な習慣を重んじることを願っている」と強調した。
中国の結婚写真は欧米とは異なり、式の数カ月前に撮影されることが多い。ウエディングドレスを着る場合もあれば、中国の伝統衣装を着るケースもある。報道によると、一部の写真店は完全なヌード、または何かしらの道具で体の一部を隠しただけの写真を撮影するサービスを請け負っているという。(翻訳・編集/KT)

 どんな結婚式をしたいのかは、他人に迷惑を及ぼさない限り当人たちの自由であると思うし、その中にヌード撮影が含まれるのであれば、勝手にしてくれというのが、ある意味日本人の平均的感覚ではないかな?と思っているのが、実は人と違っていたりする・・・ということを危惧したりするが、どうなのだろう。
 ただ、ここで上海の結婚協会の人が言っている「結婚式は神聖な儀式であるべき。若者が伝統的な習慣を重んじることを願っている」という部分は、意外に世界的な世論に近いのではないだろうか。
 
 個人的には「伝統とは怠惰のことだ」といったというマーラーの言葉が好きだが(好きというだけで、そのままそうだと思っているわけではない)、伝統というのは、ある意味長く習慣的に行われてきたこと以上の意味はないと思っている。であれば、これからも長く続けてもいいし、やめてもいいという、いわば「伝統だから守らなくてはいけない」ということの根拠がどこにあるのか、私にはよく解らない。繰り返し書くが(誤解されるといやなので)、伝統を破壊しろというスタンスは持っていない。あくまで、伝統を守る守らないは、そのときその場にいる人が判断すべきという立場だ。
 そういう意味で、結婚が「神聖」かどうかというのは、正直個人的には、そんなことはないと思っているが、キリスト教圏、イスラム教圏などではまた話は違うのかもしれない。そもそも「神聖」という言葉は、宗教と無関係ではないからだ。
 で、本当に「神聖」なのであれば、まあ、裸がよろしくないというのは、多くの宗教観の当然の帰着であると思う。だが結婚を、当人同士、あるいは家同士の単なる祝い事と捉えるなら、記念の裸ぐらいいいじゃないかとなりそうだ。
 いずれにしても、こういうニュースを見るとき、中国という国が、新旧の文化が当に入り交じったお国柄なのだなということを思わせる。
 
 少なくとも、これだけイベントや楽しみの多い時代に、結婚式が村の一大エポックだった時代のままに大きなイベントとして捉えなくてはならない必然性だけはない。結婚式を、「人生最大のイベント」とか、「人生最良の時」とかいわれると、ひねくれた私は悲しくなる。その幸せな時間こそ、今後の人生の最も幸せではないときであるべきではないか。

DRMフリーのMP3 アマゾンで販売開始

 というニュースが本日発表された。

 DRMフリーとは、暗号化されたキーなどで保護されていないファイルで、つまり、音楽がこれまで特定の機械でないと聴けなかったり、コピーができなかったりということから解放されるということだ。
 海外では既に多くがそうだし、日本でも増えつつあったが。既にiTunes Storeでは始まっていて(iTunesは形式がAACというやつなので、MP3よりは汎用性が今のところ低い)、アマゾンで始まれば、本格的に「昔に戻れる」。
 なぜなら、一部のCDを除き、ネット環境が出てくるまでの音楽はほぼDRMフリーだったからだ。若い頃、買ったレコードから、あるいはラジオのエアチェックで、多くの音楽をカセットに録音し、聴きまくった。私の場合はあまり多くなかったが、人との貸し借りも大分あった。
 そして、おそらくだが、こうやって育った世代が、自分たちの利益を過剰に保護することになるDRMを生み出したのだ。
 そもそも著作物は著作者のものだ。著作権は著作者にある。音楽の場合は、隣接権といって、演奏する人間にも一部の権利が存在する。これらの権利は当然守られるべきだし、勝手にコピーした音楽を売って儲けるのはれっきとした犯罪だ。
 だが、この犯罪抑止を、正当なユーザーの利益に押しつけてきたのが、これまでのDRMというシステムだ。
 現にこれまで購入して、今は再生できないファイルがいくつかある。改めて買うのも片腹痛い。
 世の中のバランスが、すぐに演奏家→エンドユーザーになることはまず無い。音楽には作詞・作曲・演奏の他に、レコーディングと編集作業が必ず伴うからだ。だが、そこから先の制作は割と早くなくなる可能性はある。CDもDVDもネットワークで手に入るなら資源の無駄という議論はいずれ起こってくる。紙の本もそうだ。森林伐採と結びつけられる時代が必ず来る。
 この世から紙がなくなることはないが、紙に印刷しなくても問題がないものというレッテルを貼られてしまえば、それで終わりだ。
 そしてそういった本や音楽はネットを通じて手に入り、いくらでも複製ができるようになる。
 海外に比べると全然高額な日本の配信の理由がどこにあるのかは分からないが、日本最大で11,000曲という規模なので、なかなかCDに取って代わるのは難しいだろう。CDが無くなるというのは、このオーダーが、今の1,000倍くらいになるということではないか?少なくとも、これまで販売された楽曲と現在発売されている楽曲が手に入るようになって初めて、CDは駆逐される(別のメディアが出てくる可能性はあるが、比較的マイナーチェンジだろう)。
 クラシックなどは、なかなかそこに追いつくのは難しい。それでもいずれはなるのだ。
 さて価格だが、1曲150~200円というのはこれまでとさほど変わっていない。
 かつてレコードはシングル2曲で一番高い時代に700円だった。アルバムは10曲程度で2,800円。CDに代わりシングルCDは4曲入で1,000円、アルバムは12~16曲くらいと増え、日本版で3,000円、海外アーティストのものが2,500円。もちろんこれが平均でもないだろうが、おおよそはあたっていると思う。つまり1曲あたり、150~350円で売られていたわけだ。印税はおおよそ10%くらいだと聴いたことがある。これが楽曲に係わったアーティストなどで分けられるわけだ。その差額が、制作会社、配送会社、ショップなどの利益になる。
 印税を15円から30円と考えれば、ネット配信の場合、150円は高額すぎる。せいぜい50~100円だろう(実際アメリカでは1$くらいらしい)。
 100万ダウンロードでベストセラーだとすれば、50円でも売り上げは5千万円。10曲で5億になる。
 音楽ビジネスというのは、ラジオとレコードというメディアができて以来、実は一攫千金ビジネスで、クラシックでさえそれは例外ではない。カラヤンが、何であんなにお金があったかは、今更考えるまでもない。その反対に、演奏だけで仕事をしている人たちは、苦労を強いられる。
 だがそれがビジネスで、ネット社会はこれまで機会を与えられなかった音楽家にも、日の目を見る機会を与えてくれる。よりミュージシャン・ドリームでもあるわけだ。同時に、価格を安価にすることで、購入は楽になるから、数が出ることになる。
 もちろんそれでもただで手に入れたい人たちがこの世からいなくなるわけではないが、安価であれば、買ってもいいという人たちは増えるはずだ。音楽業界には、是非そういう考え方をして欲しい。買う側にも、楽曲を手に入れるときの損益分岐点があることを、実は売る側は気づいていない。
 いや、それでもなお、DRMフリーは犯罪を増やすはずだが、そこは警察の領分だし、これまでもCDから落とせば問題なかったので、増えるのはそうは多くないだろう、ファイル交換ソフトなどは今後もなくなるはずはない。だが、それでつぶれるほど音楽は脆弱ではない。自ずとボーダーラインはある。
 
 さて次は、コピー10という忌まわしい仕組みをいつまでも入れている映像業界だ。