星座

 星座の歴史は5千年くらいあるらしい。紀元前3千年くらいに黄道の12星座ができたという。1年12ヶ月という非常に実利的なものだろう。
 昔から不思議だったのだが、黄道12宮と言われる、いわゆる星占いの星座は、天球上における太陽の通り道だという。つまり、地球から見て太陽の方角にある星座が、その星座で、地球は太陽の周りを回っているから黄道は円になるわけだ。しかも、地軸は公転軌道に対して傾いているから、いわゆる北極星の辺りと、黄道の北極はその分ずれている。
 ところで、太陽の方角にある星座っていうことは、昼間、太陽が見えているときにそこにどの星座があるのか、というお話しだ。つまり見えないわけで、まあ、日の出とか、日の入りで太陽が見えないときに、その位置を類推することはできるが、何となく考えてみると面白い。
 さて星座だが、現在の星座の大本を体系的にまとめたのはプトレマイオスだ。プトレマイオスは2世紀ゴロにアレクサンドリアで活躍したらしいが、ギリシャ人らしい。アレクサンドリアはエジプトの都市だが、きっとそこで夜空を見ていたのだ。この時彼の「アルマゲスト」という書物に載っている星座は、全部で48だ。現在よりもまだ40少ない。まあ、実際に有名な星座のほとんどがこの中にある。
 その後、大航海時代を経て南半球でしか見えない星座が加えられたり、何人かの人が新しい星座を作ったり、中にはでかすぎるという理由で昔の星座を小分けにしたりと、長い歴史の中でいろいろ変遷があったらしい。
 現在の星座が定められたのは、1930年のことだ。
 星座は、見てみると、その多くが、どうしてこの名前に見えるのだろう?と思わざるを得ない。特に近世になって考え出された物のうち、名前からそのもの自体がどんなものなのかを思い起こすことができない星座に到っては、星の並びとの関連以前の問題である。
 彫刻室座なんて、どうしたらそんな名前が付けられたのか、想像もできない。レチクルなんていうのもある。レチクルっていったい何だ?
 ちなみに88星座の名前は、
1 やまねこ(山猫)/2 かに(蟹)/3 こじし(小獅子) /4 おおぐま(大熊)/5 こぐま(小熊)6 しし(獅子)/7 ろくぶんぎ(六分儀)/8  らしんばん(羅針盤)/9 ポンプ/10 りょうけん(猟犬)/11 かみのけ(髪の毛)/12 おとめ(乙女) /13 コップ/14 からす(烏) /15 うしかい(牛飼い) /16 かんむり(冠)/17 うみへび(海蛇)/18 りゅう(竜)/19 ヘルクレス/20 てんびん(天秤)/21 こと(琴)/22 はくちょう(白鳥)/23 へび(蛇)/24 へびつかい(蛇遣い)/25 わし(鷲)/26 こぎつね(小狐)/27 や(矢)/28 いるか(海豚)/29 たて(楯)/30 さそり(蠍)/31 いて(射手)/32 みなみのかんむり(南の冠)/33 ケフェウス/34 とかげ(蜥蜴)/35 カシオペヤ/36 やぎ(山羊)/37 けんびきょう(顕微鏡)/38 こうま(小馬)/39 ペガスス/40 アンドロメダ/41 みずがめ(水瓶) /42 みなみのうお(南の魚)/43 ちょうこくしつ(彫刻室)/44 うお(魚)/45 おひつじ(牡羊)/46 さんかく(三角)/47 ペルセウス/48 くじら(鯨)/49 ろ(炉)/50 きりん(麒麟)/51 ぎょしゃ(御者)/52 おうし(牡牛)/53 オリオン/54 うさぎ(兎)/55 ふたご(双子)/56 こいぬ(小犬)/57 いっかくじゅう(一角獣)/58 おおいぬ(大犬)/59 はと(鳩)/60 とも(艫)/61 とびうと(飛魚)/62 りゅうこつ(竜骨)/63 ほ(帆)/64 カメレオン/65 はえ(蝿)/66 みなみじゅうじ(南十字)/67 ケンタウルス/68 コンパス/69 おおかみ(狼)/70 じょうぎ(定規)/71 みなみのさんかく(南の三角)/72 ふちょう(風鳥)/73 さいだん(祭壇)/74 ぼうえんきょう(望遠鏡)/75 くじゃく(孔雀)/76 はちぶんぎ(八分儀)/77 インディアン/78 つる(鶴)/79 きょしちょう(巨嘴鳥)/80 ほうおう(鳳凰)/81 みずへび(水蛇)/82 とけい(時計)/83 レチクル/84 ちょうこくぐ(彫刻具)/85 エリダヌス/86 がか(画架)/87 かじき(旗魚)/88 てーぶるさん(テーブル山)
 ざっと見てもすごいでしょう。確かに星を結んで絵を描くっていうのは大変なことだけど、これは実際、全天を88に分けて、住所を付けたっていうことに他ならないわけだ。つまり、千代田区とか、豊島区とかと同じで、意味があっても、それを知っている必要は必ずしも無く、例えば、時計座に流星があったと言えば、その位置が解るという仕組みだ。
 しかしそれにしては、星座の区分はかなり入り組んでいて、よく分からない。
 しかも黄道12宮の星座なんて、長い歴史の中では位置も形も変わってしまうのに、それで人の運命が解ったりしてしまうなんて、不思議なのか怪しいのか、ともかく、面白いには違いない。
 空を見上げて、オリオン座は大概の人が解る。ペガススの四辺形も言ってあげれば大体解る。でも、アンドロメダ座は解らんぞ。空気がきれいなら、何となくアンドロメダ星雲は見えるが・・・・

生物の存在する星

 今文庫で「大宇宙・7つの不思議」という本を読んでいる。監修をしている佐藤勝彦氏はよく宇宙論の本などを書いている先生だ。
 その中で1章を割いてETに言及している。ET(extra-terrestrial)。スピルバーグの映画で有名になった地球外生物を指す用語だ。この言葉がいつ頃からあるのか知らないが、陸生生物(terrestrial)のエキストラという、しゃれた言い方に思える。宇宙人を表すもう一つの用語は同じ映画から「エイリアン」だが、こちらは元々外国人とか異邦人という意味だ。外国人も異邦人も同じ意味だが、何となくカミュのせいもあるのか異邦人という言い方は雰囲気がある。
 ところが、ちょっと話が脱線するが新明解国語辞典を見ると異邦人は「(韓国・中国などを除く)外国の人」の意の漢語的表現。とある。これは、昔は日本と中国を除けばその先は皆天竺だというところから、異邦人は既知のアジアを除くということになるようだ。
 エイリアンは例えば、スティングの「Alien in NewYork」のように、やはりForeignerとは違う響きを持っている。日本語で言う外国人、あるいはForeignerは、あくまで外国の人であり、政治的というか地理的に別の国の人間を指すが、Alien、または異邦人は、国家と言うよりは部外者というか、その土地のものではない「余所者」といった響きがある。だからこそ、SFの中では宇宙人のことをエイリアンというのだ。
 ところが英語では宇宙人と引くとspacemanは別として、「a visitor from (outer) space」とか、「little green man」「saucerman」等、沢山の言い方がある。
 さて、これらの言葉の中で、ETという表現だけが、どちらかと言えば、知的生命であることを必ずしも要求しない。他の表現はどちらかというと、動物以上の知性は最低備えた生物というニュアンスが強い。しかし、ETは生命体であればよく、知的なETの場合には「extraterrestrial intelligence」という表現がある。
 宇宙論で異星の生命体を指すときは、どちらかというとそれほど知的なものを期待していない。むしろバクテリアのような、これくらいだったらいるかも知れないというレベルの話題が多いように思う。
 いかほどUFOの目撃例があり、どれほどNASAが秘密主義であろうと、確かに宇宙人の証拠は非常に眉唾だ。
 そんな中で、エンリコ・フェルミが提唱したパラドックス「こんなに沢山の星があって、きっと惑星もたくさんあって、生物も沢山いて、知的な生物もその中には沢山いるだろうに、どうして宇宙は沈黙しているのか?」これは、裏返して宇宙人を信じる人、あるいはUFOが異星からの乗り物だと信じる人たちにとっての傍証みたいなものだ。
 よくこういう本に載っているドレイクの方程式というのがこの本にも載っているが、この銀河にどれほどの知的生物が、現在存在しているかを計算する方程式だが、昔からこの妖しげな方程式は何なのだろうかと思うのだが、変数のほとんどが曖昧で、自由に代入することができ、入れ方によっては、とんでもない数字をはじき出せる。当たるも八卦当たらぬも八卦のような方程式だ。
 最近では、人間原理もあって、地球は宇宙の中の、極めて特殊な星であるという、宗教家が聞いたら我が意を得たりとばかりに喜びそうな考え方をする科学者も多いらしい。これとて否定するのは難しいが、夜空に輝くのが全て星で、宇宙には数千億の恒星を含む数千億の銀河が存在するとすれば、この地球をそれほど特殊と考えることができること自体不思議で仕方がない。我々が実際に観測で知ることができるのは、現在の宇宙論を信じる限り、130億光年という彼方ではあっても、その光だけ、そしてそれは130億年も前の光でしかない。せいぜい解ることといえば、地球の表面から太陽系。それだって多くは理論的な想像に過ぎない。ここ数十年の間に、何度も書き換えられたりしている。
 そんな中で、我々人類を特殊と考えるのは、「俺が宇宙の中心だ」というのと同じくらい、哲学的には真実であっても、科学的には怪しい。
 また、SFの読み過ぎかも知れないが、生命には水がないといけないとか、ずっと遠くへ行けばどんな世界があるのか解ったものではない。考える金属とか、無機質の生命体だって無いとは言えない。もちろんそんなものは机上の空論だが、宇宙の始まりに、あれだけ奇天烈なことを考える科学者が、どうしてもっと新規なことを言い出さないのかと不思議でならない。
 なぜ宇宙は、我々の脳の大きさに比べてこんなに大きく、そして長命なのだろう?
 興味は尽きない。

UFO

 今日夜のテレビ番組でUFOの話をしていた。久々に矢追純一の顔も見た。超常現象の話題でよく見る人がいたので、そんな内容だったに違いないが、UFOのところだけをちょっと見た。
 さて、UFOといえばピンクレディーと焼きそばといった感じもあるが、昔は「ゆーふぉー」なんて英語では言わないなんて言われたものだが、今では英和辞典にも「ユーエフオー」「ユーフォー」2つの発音記号が載っている。
 子供の頃はまだUFOではなく「空飛ぶ円盤」で、英語で言えば「Flying Saucer」なんて、雑誌には載っていたような気がする。
 テレビでは、前出の矢追純一が日テレのディレクターだったときに、よく特番を組んでいた。70年代から80年代くらいではなかったかと思う。それから30年前後経ったわけだが、昔と比べても、いまだに放送内容がさほど変わったようには思えない。
 これだけ本当っぽい写真がありますが、ほんとっぽいビデオに変わり、それでもほんとか嘘か解らないというスタンスで放送されている。片や、必ず宇宙人は存在していて地球に来ているという主張から、現代科学の常識を踏まえて「そりゃ無理だ」と否定してしまう科学者などの非常に二元的な対立は、UFOをテーマとした机上のディベートにしか見えない。
 もちろん、UFOはこういうもので、こういう風に存在していますと公の機関が発表すれば、取り敢えずは一件落着なのかも知れないが、昔からそれは気球ですとか、隕石ですとかプラズマですなどと言われても、信奉派が信じるはずもない。彼らの多くは、太陽系外から来た宇宙人の乗り物ですという発表がない限り、ほぼねつ造だと主張するに違いないからだ。
 これは心霊とか、ネッシーを代表とするいわゆるUMAとか、生まれ変わりとか、いわば教科書には存在が書かれていないが、世の中に信じる人が沢山いるいわゆる超常現象一般に当てはまる。
 
 科学が実験や経験で実証されて理論となるのであれば、幽霊にしてもUFOについても、十分すぎるほどの証拠は揃っているような気がする。但しそれが何であるかは、どちらも明らかにそれを捉えたという証拠がないようなので、断定するのは難しいように思う。観光地の写真に手だけが写っていたからといって、それが霊魂であるという証拠はどこにもない。同じように、UFOは何か飛んでいるという証拠は相当あるように思えるが、中に誰が乗っていて、どこから来たかという部分を写した写真やビデオはほとんど無いし、捕まった宇宙人という、背の低い人をからかう材料になっている有名な写真も、いったいいつの物だよ、というくらいに古い。
 本当に、光より速い宇宙船が造れないとしても、高速で動く物体の時間経過などを考えれば、他の恒星系から地球を訪れることができないと判断するのは早計だ。例えば今のパソコンだって、1000年前の人は想像すらできていなかったのは間違いない。それが数万年単位で進んだ文明があったとすれば、物理現象がどうあれ、ほぼ光速に近い宇宙船を造ることが不可能だとは言いきれない。
 人間の寿命は百数十年がせいぜいらしいが、他の星の人間が同じくらいしか生きられないという証拠はない。医学的に不死に近い延命だって、達成しているかも知れない。だとすれば、片道100年かかろうが、宇宙旅行はするだろう。地球が含まれる銀河のはずれの周辺だって、そんなにして恒星間を行き来している種族がいないと言い切ることはできない。
 もっと言えば、光速の壁を、人間が小説や漫画の中で解決したような方法で解決していないと断言してしまうのは、科学が常にどの時代でも抱えている不遜という名の欠点であろう。ニュートンがアインシュタインに代わられたのよりも、もっと劇的な変化が、この世にないとは限らない。そもそもそれくらいこの宇宙は不思議に満ちていたところで不思議ではない。
 もちろん、だからといって宇宙人が地球に来ていることの証明にはならないし、何十年もかかって何の証拠も出てこないところを見ると、いないといった方が真実に近いような気もする。少なくとも地球上には。
 ペリー・ローダンシリーズで、一触即発の東西世界の状況を救ったのは、異星人の力を利用して「第三勢力」を打ち立てたローダンだった。言い換えれば、異星からの驚異に対して人類がまとまったと言うことだ。多くのSFが地球がまとまるために異星人を介入させている。新たな驚異のためには身内がまとまるという構図だ。
 そう簡単に異星人が来ていたとして、そこの攻撃的な意図があるとも思えないので、異星人がいると解った時点で地球がまとまるとも思えないが、いつまでも殺伐とした世界が、何とか平和になるために、宇宙人の皆さん、何とか一役買ってもらえない物でしょうか?但し危なくない方法で。

アインシュタイン

 ニュースで気づいたが、アインシュタインがいくつかの論文を発表した年から、今年はちょうど100年。世界物理年なのだそうだ。
 アインシュタインはウォーホールの絵や、映画にもなったし、20世紀で最も著名な科学者であることは間違いない。量子論とともに20世紀の最大の発見とも言われる相対性理論は、アインシュタインの代名詞となっている。
 相対性理論というのはまことに寂しい理論で、この世の最高速度は光速だと決めてかかるところから入っているので、非常に夢がない。夜空に輝く星々は、昔の人にとっても現代人にとっても、手の届かない遠い世界だが、それに科学的な証明を突きつけてくれたようなものだからだ。
 光は太陽まで8分少々で届く。その距離を1天文単位と言うが、一番近い恒星でも、その光ですら4年以上かかるというのは有名な話だ。銀河系の端から端までは光が10万年かからなければ届かない。10万年前というのは有史以前だ。有名なアンドロメダ星雲までは200万年以上、ここまで来ると人類と猿はそれほど大きく違わない。
 いずれにしても、遠い宇宙を旅することができなくしたのはこの理論だ。
 
 何となくどんどん加速していけばいつかはその速度も超えそうな気がするが、この理論の嫌なところは、速くなればなるほど時間の流れが遅くなる。そして光の速度になったとき、0になる。多くの場合、物理ではこういう非常識な点のところを特異点という。ビッグバンの瞬間とか、ブラックホールの地平線とか、頭で考えても上手く想像できない点のことだ。
 それでも、E=MC2のようによく知られた式などから原爆ができあがったり、超高速の飛行機上では時計が遅れたりするとか、実験的証拠が出てくると、尚更暗くなる。
 後は超空間とか、ワープとか、別次元とか、ワームホールとか、抜け道を想像で探すしかないのだ。
 SFという文学の一分野は、科学がなければ生まれなかったが、同時にその科学によってぐいぐいと、締め付けが厳しくなりながら生きてきた。現実はさらに厳しく、夢とはほど遠い。
 なんていう逆説的な一文で、アインシュタインを称揚するのはいかがなものか。
 科学とは事実を模索し夢を砕くのだろうか?いや、所詮人間には、どんなにがんばっても解らないことがある。論理的に導き出せても証明のできない部分が必ずある。だからこそ科学は逆に夢に満ちていると言わねばならない。

個人認証

 個人認証のために暗証番号やパスワードではなく、人体の特徴を利用した指紋や、掌紋、虹彩などを利用したシステムがどんどん開発されている。スキミングなどの犯罪が増加しているからでもある。
 当然犯罪防止に役立つわけだが、同時に暗証番号などを忘れてしまうという心配がない。一卵性双生児の指紋は同じだという話を聞いたことがあるが、それ以外の場合は、自分以外は認証されないわけで、いざというとき、知り合いに頼んだりはできなくなるわけだ。
 自宅も、家族以外は入れなくできるし、有効範囲は広い。
 ただ、ふと思ったが、それでも情報はデジタル化される。指紋であろうが何であろうが、0と1の数字の組合せに置き換えられて、銀行なり機械なりの中に蓄積される。もちろん暗号化されているだろうが、それも含めて「破られない」という保障はどこにもない。確率が極めて低くなるというだけだ。
 もちろんそこが大事なので、だから無駄なわけではない。
 それでも、どこまで行っても守る技術と犯罪はいたちごっこなのだろうな。
 ロボットが人並みの曖昧さを理解できるようになれば、あるいはかなり高度な認証ができるようにも感じられる。記憶としての限界はあるが、人間の勘みたいなものは非常に高度なセキュリティの反応を持っているように思う。但し、そこまで集中力を常時続けることは不可能なので、いかに機械がそんな能力を持てるかが鍵のように思う。
 まあそれでも、ロボットを騙す技術が作られるのかも知れないが。

万物理論

「万物理論」という小説を読んでいる。グレッグ・イーガンという作家の本で、結構分厚い。まだ読み終わったわけではないが、ここに出ている「人間宇宙論」というのがちょっと面白いので、読了前に書く気になった。
 相変わらず、外出先でしか読まないので、非常に時間がかかっている。こういう本は、ある程度一気に読んだ方がいいのかなと思うが、小説そのものはそれほど上手いとは思えないが、これだけのハードSFはなかなか読み応えがある。
 ここに出てくる「人間宇宙論」というのは、現在の「人間原理」の延長版のようなもの
だ。人間原理は、現在の宇宙を人間の存在そのものにその存在意義を帰結させるようなものであると思う。小説ではAnthrocosmorogyという言葉が使われているが、人間原理はanthropic principleと言い、strong とweekに分かれる。人がいて、人が生きて生きやすいように宇宙が作られたと考えるのがstrongで、偶然そうなったというのがweekだ。
 小説内の人間宇宙論は(これから読む方はいかねたバレ少し)、万物理論-現在追求されている統一場理論をさらに一歩進めた、宇宙の根幹を説明できる原理-を解明する、ある特定の人物により、ビッグバンから現在、そして未来までの全ての宇宙ができあがっているという、ちょっと説明しただけではよく分からない内容だ。
 
 そもそも宇宙の成り立ちを人間的立場から説明しようとするこれらの理論(小説はより架空の理論だが、それほど現実の人間原理と乖離があるようには思えない。どちらも実験的証明は難しいから)は、宇宙論を考える科学者の畏怖みたいなものを感じざるを得ない。
 もし仮に、何かの力が少し強かったら、生命は誕生していなかったという理屈で、人間原理を提唱するのなら、sれは人間原理というよりも、運命論のような気がする。尤も、そういう言い方をするなら、実験で証明できない多くの宇宙論は、まさに運命論的であり、いみじくも小説の中で万物理論の提唱者の一人、ヴァイオレット・モサラはその考え方に反論している(但しモサラは人間宇宙論者ではないが)。
 例えば宇宙の中心に地球があると考えた中世の人々や、相当時代が下っても、太陽系が銀河の端にあるとは考えられていなかったり、銀河系すら全く特色のない大宇宙の小さな一粒の小宇宙になったり、宇宙論の歴史は、常に人間中心主義をその高みから引き下ろしてきた。
 人間原理のような、証明が極めて困難、あるいは不可能な理論は、どうして提唱され、賛同され、研究されているのだろうか?こういう異端的なものの考え方に、常にフレッド・ホイルが噛んでいるというのも面白いが、小説「10月1日では遅すぎる」などで見せたホイルの冴えを思い起こすと、そもそも現代の宇宙論はSFと表裏一体の、というか境界線の曖昧な分野であるような気がして仕方がない。
 数学が導き出す現象の説明としての宇宙論は、あるのかどうか解らない宇宙ひもや、多次元といった概念や、虚数時間といった、最早人間が感覚的には想像すらできない分野に及んでいる。
 返す返すも、これらの議論の中にいられない自分が悔しい。戻れることなら10代にもどり、数学と物理の勉強を徹底的にやり直したいとすら思う。
 この世の解明されないものの追求や、答えのない問を一生続けて考えることの有意義を、これらの科学は教えてくれ、しかも人生の意義は、富や快楽、愛など、様々に身近なものにだけあるのではないことを改めて認識させてくれる。
 人の脳の奥、心の奥に潜む何かが、追求しないではいられない衝動を支えているに違いない。その衝動こそが、人間原理を生むのであり、「万物理論」でそれをSFたらしめている「一人の人間による宇宙創生」というテーマを生むのである。
 ああ、面白い。

H2ロケット

 今日の夕方、運輸なんたらいう衛生を積載したH2ロケットが種子島から打ち上げられた。無事成功したらしい。1年半ぶりの打ち上げで、まずは良かった。
 しかし、ロケット打ち上げの成功率は、欧米や中国の90%以上という成功率より、遙かに低いという。70%台だそうだ。
 よく言われるのは予算の少なさだ。確かに、欧米に比べると、宇宙開発にかける予算は桁違いに低い。GNPなどを考えると、その予算費はとてつもなく低いということになるのだろう。
 日本人はどちらかというと、目先の便利さや、政治家に利益を供与できるような公共事業などにずっとお金をかけてきた。結果が今の宇宙開発事業団なのだと思う。
 もちろん、欧米の宇宙開発は、単純に科学的な開発という側面ばかりでなく、軍事的な側面も大きいから、軍事的な予算が極めて少ない日本は、それと比例するように宇宙開発予算も少ないというのは、ある程度理由は分かる。
 しかしそもそも、宇宙開発が軍事的な様相を持つこと自体が、情けない。
 科学は、戦争と技術革新を縄を縒るようにして進歩してきた。それは否めない事実だ。E=mc2という有名な公式が核爆弾を導き出すというのと同じに、大陸間弾道を可能にする技術と同じ分野で、人は月に足跡を印した。
 だがどうしても、あるいは各国同じなのかも知れないが、日本は国家とその公的な仕事に携わる個人に必要以上にお金が流れてきたように思えて仕方がない。これは政治家もそうだし行政もそうだ。国家ばかりではない。地方の自治もそうだ。
 
 経済成長の裏には、ある意味、無駄なことにはお金を使わないできた日本という国の特性がある。人工衛星を打ち上げるのは今となってはかなり重要なことだが、人を月に運んだところで、それがビジネスにならなければ、それほど意味はない。極端なことを言えばそういうことだ。
 宇宙へ人を運ぶことが、意味のあることなのか無意味なことなのかは、恐らく運んでみないと判らない。
 アメリカが月への飛行を止め、またシャトルの飛行も一時期減った。
 21世紀になって、民間が宇宙に人を飛ばそうとしている。しかし日本は、まだ国家としても有人飛行を行ってはいない。ある意味、そのことも民間にさせるのが日本らしさかも知れない。
 そういう意味では、livedoorの堀江氏などは、日本という国家が望む最も有望なビジョンを持った事業家なのかも知れない。彼以外の企業のトップの口から、ロケットを飛ばしたいというのを、私は聞いたことがない。
 経済的な企業人ではない、別個のビジョンを持った企業人が、これからの時代を作っていくのではないだろうか。そして、やがて、地球人が宇宙へ行くというコンセプトが・・・・アメリカ人がとか、中国人がとかではなく・・・・一般的になる時代に、私は生きているだろうか?・・・・無理っぽいな。

タイタン

 私が「タイタン」と書くと、マーラーの交響曲第1番をテーマにして書くような感じだが、今回は、土星の衛星だ。
 土星は太陽系で2番目に大きい惑星で、衛星が現在判っているだけでも33個あるらしい。子供の頃本で読んだ時には一桁だったような気がする。数十年で3倍以上に増えている。たいしたものだ。
 タイタンは中でも最も大きいから、誰が発見しなくても、肉眼で見えていた最も遠い太陽系の惑星だ。これより外の海王星や冥王星は、肉眼では見えないので、望遠鏡ができるまでは、太陽系の惑星は6つだったことになる。
 英語名はサターン。「サタン」じゃない。農耕神で、ジュピターのお父さんだ。ローマではユピテル(昔こんな名前のレコード会社があった)。ギリシャのゼウスと思っていたが、今回調べてみると、確かにそうなのだが、ユピテルそのものは、ギリシャ神話とどうかする以前から神話の主神だったらしい。
 で、サターンはギリシャ神話のクロノスと言うことになったようだ。私などはクロノスと言われた方が分かりやすい。クロノスは巨人族、つまりティ-タン>タイタンと言うことだ。クロノスは自分の子供を全部飲み込んでしまうような神様で、農耕神というにはほど遠い。単に主神のおとっつぁんということで、クロノス=サターン(サトゥルヌス)と言うことになったのだろう。
 でも土星の衛星にはクロノスがらみの名前が多い。
 タイタンを始めとして、そのタイタン族の名前が順番に付いていたりする。
 ミマス,エンケラドゥス,テティス,ディオネ,レア,タイタン,ヒペリオン,イアペトゥスという最初の頃に名前が付いているものは全て巨人族の名前だ。
 タイタンと言えば「タイタンの妖女」(カート・ヴォネガットJr)だが、太古の地球に環境が似ていそうだということでSFにもよく取り上げられている。実際にどうなのか判らないが、少なくとも地球より寒そうなので、住むには適していそうもない。
 今回探査に向かった「ホイヘンス」は、土星の輪っかやタイタンなどを望遠鏡で発見したその人の名前で、350年かけて、ホイヘンスは自分で見つけた土星の衛星に着陸したことになる。なんかいいな。
「2001年宇宙の旅」では(小説の方だが)、ボーマンはイアペトゥス(ヤペトゥス)に向かう。
 土星というのはその輪もそうだが、なかなか神秘的な惑星なのだ。
 ホルストの「惑星」では、土星は老年の神だ。木星の明るさや、火星の猛々しさに比べると、非常に地味だが、その分美しい。別に静かな曲というわけではないし、途中は鐘や太鼓でどんひゃららみたいなところもあるが、全体としてはじみーだ。
 望遠鏡で空を除いていた頃は、土星はその輪を見て楽しんでいた。ホイヘンスが見つけたタイタンは見たことがない。17世紀に見えているのだから、口径10cmの20世紀の望遠鏡で見えないことはなかったと思うのだが、その分空が明るいから難しいのかも知れない。
 でもこうやって、一つ一つ宇宙の不思議が解明されていくのだろうが、その地に自ら立つことはないのだと思うと、ちょっと寂しい。100年後に生まれていたら、宇宙旅行は当たり前になっているのだろうか?
 21世紀って、そんな世の中だと思っていた子供の頃、やはり100年経ってもあまり変わっていないということもあるんだろうか?ああ、1000年くらい生きたいな。
 

ヴェリコフスキー

 しばらく前に読んだJ.P.ホーガンの「揺籃の星」の下敷きになった、学説を主張していた学者がヴェリコフスキーだ。
 聖書にあるような天変地異などを、木星の一部が飛び出して彗星になり、それが地球とニアミスをしたことで起こったとする説である。その後この彗星は金星軌道に収まったとする。つまり、金星は元木星の一部だというのだ。
 ホーガンのものは当然小説で、ホーガンなので、基本的にハードSFだ。しかしヴェリコフスキーは生涯をその説に捧げたようである。出版されたのは1950年頃で、大ベストセラーになると共に、最初に刊行した出版社は、圧力に屈して出版権を他社に譲渡したほど、すさまじい攻撃があったらしい。当然著者にもあったはずだ。有名なカール・せーガンなども一貫して反ヴェリコフスキーだったようである。
 普通に考えれば、ここまで荒唐無稽であれば、相手にしないというのが正しい姿勢のような気もするが、相手が大ベストセラーとなれば話は違うようだ。「ハリーポッター」が、実際の歴史書として出版されて、学説として流布するようなものかも知れない。
 しかもヴェリコフスキーの著作は、簡単に書いた冒頭の内容でさえ、天文学、物理学、歴史学、聖書学など、かなり広範囲に影響を及ぼしている。
 内容を読んだわけではないが(翻訳は「衝突する宇宙」で、3500円もする)、70年代に流行ったUFOや不可思議現象・・・社会思想社とか、角川文庫当たりから出ていたエーリッヒ・フォン・デニケンの著作のような印象も受ける。
 但し解説を読むと、このヴェリコフスキーなる人物はかなりの博識で、緻密な理論の積み重ねを行っているらしい。科学者などのにとってはこの当たりがタチが悪いと言うことになるのだろうか。
 しかし、データ的なものを抽出すると、当時の科学的な常識とは反していた幾つものデータが、実はヴェリコフスキーの方が正しかったものもあるようだ。
 この著作がベストセラーになったもう一つの背景は、聖書の記述を真実として説明しているところにあるらしい。
 歴史学者がそれは年代的に正しくない!と言っても、そもそもその年代の比定が違っているというところから入っているらしいので、そうなると、そう言った歴史学からの反論は意味をなさないことになる。
 このヴェリコフスキー理論が正しいのか間違っているのかと言えば、普通の教育を受けてきた私などは、「まあ、間違ってるんだろうな」と思ってしまう。荒唐無稽という言葉さえ使いたくなる。
 ただ、ガリレオだって、ケプラーだって、アインシュタインだってそうじゃなかったか?という疑問も起こってくる。どうもその当時の科学界からの反応を読んでいると、あたかも切り捨て御免的に、頭から「怒って」いたような印象を受ける。すなわち、「どこがどう間違っているかなど、いちいち指摘するのもばからしい」と言うことか。但し、「世間がこれだけもてはやすというなら、黙っちゃおれん」と言うことのようだ。
 だが何か釈然としない。3,4千年前に地球と、これから金星になる星がニアミスをしたと言うことが、信じられるかというと、ハリウッド映画ならという感じはある。だが、それでは最新の宇宙論の多くが、信じられるのかと言えば、同じようなものだ。人気のあるホーキンスなんていう学者は、宇宙が生まれる前は時間が虚数だったなんて言ってる。そもそも「虚数」という概念を人が感覚として捉えることは不可能だから(理屈は解るが)、それを信じろと言っても難しい。
 仮にヴェリコフスキーの理論が、金星の現状(例えば金星の公転軌道だけがどうして他の惑星とは逆なのだとか)などを、今の科学よりも上手く説明できていることが仮にあるのだとすれば、頭から否定するのは、ガリレオの宗教裁判と大差はないような気がする。
 あるいはホーガンの意図はそんなところにあるのかも知れない。小説によってヴェリコフスキーの理論を現代にもう一度再浮上させ用なんて言う。なぜなら、SFが荒唐無稽でもいいというわけではないからだ。少なくとも、ホーガンという人は、科学的な基礎の上に作品を構築する人だ。それがフィクションであろうと、嘘を書きたいとは思っていないだろう。幾ばくかの真実をヴェリコフスキーに認めたからなのではないのか。
 ヴェリコフスキーという人は25年ほど前まで生きていた人だ。
 頑なに自説を守り通したようだ。それが正しいのかどうかは別の問題だが、同じ事が科学者側にも言えそうだ。いろいろなことが、積み重ねられてきてできあがった現代科学に真っ向から対峙し、荒唐無稽に一見見える学説は、恐らく今でも同じような評価や扱いを受けるに違いない。
 昨年のイラクで最初に人質になった3人の日本人に対する「自己責任」という一斉批判みたいなものと同質の何かを感じないではいられない。これは実は、同和問題などの、差別を生み出す人の意識のあり方と、非常によく似た面を持っているのだと思う。
 多分、ヴェリコフスキーの理論は正しくない。これがとても考えやすい。しかし、科学というものが、実験と検証、あるいは数学という手順がない限り、論争の台にも乗らないとしたら、寂しい感じがあるな。

地震

 今年は地震の多かった年だ。特に大きな地震が。
 新潟、北海道、スマトラ沖と後半だけで3回も起こっている。地震のホームページを見ると、8月からマグニチュード5以上の地震が日本付近だけで6回起きている。巨大な地震に関しては例年よりは大分多い。
 地震は揺れによる家屋の倒壊や地割れ、引き続く火事など、地震そのものだけでなく、付随する現象が恐ろしい。今回、スマトラ沖の巨大地震は、津波だった。日本でも過去、奥尻や秋田など、記憶にあるだけでもいくつかの津波による惨事がある。
 この世の中で、天災はいずれにしても防ぎきれない。地震、台風、噴火、など、星が起こす災害には、人間はあまりに無力だ。
 しばらく前に読んだ本「揺籃の星」は星が地球に衝突する話だった。これだって無いとは言えない。少なくとも長い地球の歴史では何度も起こっていることだし、恐竜の絶滅の原因も現在ではそこに根拠を置いているのだから。まあ、月の表面を見るだけでも、大気がなかったら、いかに多くの天体が地球に落下しているのか、そしてそのいくつかはいかに地球に被害を与えるのか、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」を見るまでもなく、明白だ。
 人が住む大地で、自然災害の皆無なところはほとんど無い。幸せなことに、私はこれまで、大きな自然災害には巡り会ったことがない。でもそれは、これからもそうであることを一切保障しない。それが自然災害の恐ろしいところだ。
 昔、「日本沈没」とか、巨大地震をテーマとした小説や書き物、あるいは映画などが流行ったことがあった。1970年代の前半だ。当時は「ノストラダムスの大予言」もベストセラーになり、世紀末まで30年近くある中で、週末ムードが漂っていた。
「日本沈没」は、文字通り日本が沈んで日本海が無くなってしまうお話しだが、小松左京は科学的なデータをたくさん付けて、中学生には難しい小説を書いていた。
 実際に、近いうち日本が沈まないまでも、それほど破滅的な事が起こることはないだろうが、破滅的というのはそれが自分自身に関われば、今回の新潟中越地震などはまさに破滅的でさえある。
 プレートテクトニクスにより、地面の下では対流が起こり、常に動き続けている。太平洋プレートは日本の下に潜り込み、反動で地震を起こす。この動きが大陸を動かし、今の世界を形作っているとすれば、大地の動きは地球の脈動であるし、星もまた生きていることの証左なのだろう。
 地震の予知は非常に難しいという。直感的に分かるような気がする。よく、動物は予知して逃げるというが、どこまで信じていいのか、仮にそれが確実なら、今頃予知できるようになっているのではないか?
 人間は自然や生物に対して神秘的な何かを見たがる傾向にある。いいことも悪いことも神の思し召しというわけだ。それはそれで信仰という面からすれば重要なことだろう。否定するつもりはない。しかし、そこから科学的に何かが導き出せない限り、やはりその時点では迷信に過ぎないし、偶然なのだ。
 ただ、仮に予知できたとして、それがどの程度のタイミングで、どれほどの確度をもってされるのかが問題だ。1時間前に震度7の地震が起きると予報があれば、どこかへ逃げることができるだろうか?確かに避難場所へは行けるだろう。しかし家の倒壊は予報の如何に関わらず、防ぐことはできない。もちろん地震予知が無意味だと言うことではない。そうではなくて、地震そのものをコントロールできるようになるまで、地震の恐怖はあまり変わらないと言うことだ。
 
 今これを書いている間に地震があった。東北らしい。やはり大地の揺れというのは、「足下を揺るがす」大事件なのだ。