サイエンス・インポッシブル

 表題の本を読んだ。作者は著名な理論物理学者のカク・ミチオ氏。

 現代の科学的知見に基づいて、SF的なアイディアを実現不可能レベルで三段階に分けて解説している。
 非常に面白くかつ、読み応えもある本だ。
 現在これをきっかけに、科学本読書週間に入ってしまった。

 さて、不可能レベルの三段階は
  I 現時点では不可能だが、物理法則に反していないので遠からず可能になる可能性が高いもの
  II 「物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジー」
  III 基地の物理法則に反するテクノロジー
 と分けられている。
 要するに、できるかもしれない、できたらすごいぜ、絶対無理に別れている。尤も、絶対無理も、カク氏は言い切っていない。この柔軟さは科学者にとって必要なのだろうなと思う。
  そのIIIには「永久機関」と「予知能力」しか含まれていない。
  そして驚くのはIの項目だ。

「フォース・フィールド」「不可視化」「フェイザーとデス・スター」「テレポーテーション」「テレパシー」「念力」「ロボット」「地球外生命とUFO」「スターシップ」「反物質と半宇宙」

 これだけのものが含まれている。できそうもないものがたくさん。
 フォース・フィールドとは、いわゆるバリアだ。エネルギーで外部からの攻撃などを防ぐ障壁のことだ。カク氏はスタートレックのファンのようで、随所にスタートレックが例に挙げられている。フェイザーもスタートレックの「フェイザー砲」という武器のことだ。

 このエネルギー式のバリアというのはアニメなどでは、ごく当たり前のように出てくる。 とても便利だし、多くの災害から人間を守ることがで切る装置だから、是非とも完成させて欲しいが、不可能レベル1でも読んでいると、「そうか~できるのかもしれないが、その頃にはおれはこのようにはいないな」という感じだ。
 これらの中で、「テレポーテーション」は言ってみればドアのないどこでもドアなので、夢は膨らむし、実際量子レベルでは成功しているらしい。人間が瞬間的に空間を移動できるというのとは、そもそも違うようだが、科学はこれまで、その時々で不可能と思えることを可能にしてきてもいるので、誰が言ったか忘れたが、「人間は頭で考えられることは実現できる」のかもしれない。

 こういう書物を読むと、今の科学者が、現在の実利的なことから、将来や夢物語みたいなことまで、非常に多くのことを考えているのが解る。そして自分がその中にいないことが、非常に残念でもある。
 また、あるいは可能になるかもしれないというこれらの事象について、それをこの目で確認できそうにないこともまた、残念である。

 こんな楽しい話を読みながら、でも感想はそこかよ!
 宮崎あおいではないが、ぼくも生まれ変わる予定は今のところ無い。でも望むらくは何度でも生まれ変わって、未来を見てみたいものだと、つくづく思うのだ。
 

小惑星探査機:はやぶさ

ちょっと時機を逸している感はあるが、小惑星探査機「はやぶさ」。
 

小惑星探査機「はやぶさ」の偉業を表彰するため、海江田万里宇宙開発担当相と高木義明文部科学相が感謝状を贈ることになった。30日の閣議後会見で両大臣が発表した。

 というニュースを見たので。
 いや、確かにすごいことだろう。この事業にかかわった人たちの努力も、かなり報われただろう。
 アメリカは2030年までに、火星に人を送り込むとも言っている。
 ああでも、現在2010年、かつて夢見た21世紀はいったいどこに。
 小学生の時、私は宇宙に行きたかった。
 21世紀はそういう世紀だと思っていた。
「2001年宇宙の旅」という映画は、1968年の公開で、アポロ11号が月面に人類の第一歩を刻む前の年だった。
 SFで育った私のような人間は、この50年間の遅々として進まぬ宇宙開発に、ある意味落胆をしている人も少なくないと思う。
 パソコンや携帯がいくら発達しても、人類は未だに地球に縛り付けられている。
 もちろん、自分では何らそういった事業に貢献している部分があるわけでもないので、全くの他力本願なのだけれど、夢は大きく破れていることに違いはない。
 かつてヒューゴー・ガーンズバックがSFという言葉を生んだとき、その言葉には実現可能な科学的未来という意味が含まれていた。ヒューゴー賞という、SFで最も権威ある賞に名を冠されたこの人は、自らの小説に、その後実現された多くの家電や仕組みを盛り込むことができた。
 しかしその後の多くのSF作家がなし得たのは、優れた作品を世に送り出すことで、決して実現可能な未来を描くことではなかったようだ。
 確かにはやぶさはすごいことをやったのだと思う。でも中学生の私は、2010年、少なくとも人類は月や火星に旅行に行くぐらいのことになっているという、淡い期待を持っていた。残念。
 せめて22世紀には、そうなっていて欲しいな。その頃にはわたしはとっくにいないけど。

地球温暖化 VS 寒冷化

 地球温暖化は既定の事実のようにテレビなどでは、気象予報士たちも、政治家もアナウンサーも言っている。アンケートが来れば、CO2削減のためにあなたは何をしていますか?
 今年の夏は記録的に暑かったし、その暑さは10月下旬まで続いていたから、日本だけ見ればかなりの温暖化だが、マスコミが、昔と違うところはあるとすぐ異常気象という言葉を使うのと同様、正確な情報が伝わってきていないように見える。
 気象学に通暁しているわけでもないので、自分がどっちという判断はできないのだが、温暖化の話を聞いてもなるほどとうなずける面もあれば、寒冷化の方もそういう部分がある。本当はどっちなんだろう?
 長い地球の歴史は、氷河期と間氷期の繰り返しのようだが、そこまで劇的ではなくても、太陽や地球自身の影響で、気象が変化するのは当たり前のように思える。
 一時期活発だった論争も、何か最近は下火のような気もする。温暖化で落ち着いたのか?
 でもどうもこの議論はしっくり来ないまま、政治ががんがん走ってるような気もする。
 もちろん、化石燃料から脱却するのは、温暖化云々は除いても、排ガスがきれいになるのだって、森林減少を食い止めるのだって、いいことだと思うので、温暖化議論は、実はそれがそうでなくても、いい効果をもたらしている部分もある。
 本当はどっちなんだろう? 
 
 20年くらい経てば解るのだろうか?
 ちょっと気になる事でした。

祝・ローダン月2冊刊行

 またもやローダンの話だが、早川書房の、ペリー・ローダン・シリーズが、今年に入って月2冊の刊行となった。
 元々、1冊に2話入っているから、月4話、年間48話ということになる。ほぼ2年で1サイクルは読めることになる。1年は約52週あるので、ドイツとの差は4話ということになる。
 かつて翻訳をされていた松谷氏がジェット旅客機を、プロペラ飛行機で追いかけるというたとえは、今や、ボーイングをダグラスで追いかけるとか、その逆とか、その程度になった。
 
 とはいえ、現在の最新刊が371つまり、742話が収録されている状況なので、片やニューヨークに着いている飛行機を、ハワイ辺りで追いかけている感じか。しかも目的地が見えていないのだが。
 ドイツでは2530を越えているので、たぶん、生きている間には読み切れない。今後年50話読んでも、現在の差、1800を読み切るには36年かかる。それだけなら、頑張れば実現可能かも知れないが、その間に、おそらく向こうは5000に近づいているはずだからだ。
 終わりは見えない。
 ここへ来て、1話からずっと表紙と挿絵を描き続けてきた依光隆氏がローダンを引退された。ある意味マンガのようで(これは原作に登場するからやむを得ないのだが)、様々なタイプの宇宙人の絵などが並んだ表紙は、ある意味恥ずかしいこともあった。
 ハルト人のように目が三つあって、腕が4本あって、ずんぐりむっくりな生物や、キャプテンウルトラのバンデル星人を、もっと平らにしたようなブルー属や、それ以外にも異形な生物のオンパレードだ。
 だが、目力のある依光氏のローダンや、愛すべきデブ、ブリー、ちょっと気位の高いアトランなど、それぞれの特徴がその絵に表れていて、非常に美しい表紙だった。残念だが、最初にローダンを始めたシェール、そしてダールトン亡き今、翻訳も故・松谷氏から他のメンバーに移り、依光氏も退いた。
 新しい時代に入ったということかも知れない。
 新しく表紙を描き始めたのは工藤稜というイラストレーターだ。これまでの依光氏のカラーを存分に生かした流れを止めない仕事をしている。変わると知ったとき、最近流行の漫画チックな表紙にされたらどうしようと、非常に不安だった。
 小説の表紙にコミックまがいの画を描かれると、棲み分けができていないという違和感がどうしてもぬぐいきれない。絵自体の善し悪し以前に、好きになれないだけのことだが。
 しかし今回、早川書房はよくわかってらっしゃる。
 確かに、線の甘さや、キャラクターが少なからずコミックタッチに柔になっているという難点はあるが、たぶんこれ以上は望めないし、徐々に板に付き、工藤氏の落ち着いたカラーになっていくはずだ。
 最新刊の「にせマルコ・ポーロ」は、だいぶ感じが良くなっている。今後の期待大だ。
 ようやくローダンも銀河系に戻ってくる。今後アトランとの確執も始まるらしいので目が離せない。以前と違い、読み終わってから次の巻が出るまでに期間が短いので、ずっと続けて読んでいる感がある。
 自分自身がすでに、ローダンとは35年のつきあいなので、読書としてもライフワークに近い。
 これからもよろしく頼みます、早川書房!
 

アインシュタイン・セオリー

 マーク・アルパートという人の「アインシュタイン・セオリー(Final Theory)」という作品を読んだ。
 早川から出ていて、アインシュタインが封印した統一場理論への鍵というキャッチなのに、SF文庫ではない理由は読んでみて解った。逆に言えば、SFとはなんぞやの逆テーゼみたいな作品でもある。つまり、SFがサイエンス・フィクションであるなら、この作品はとてもSFだし、ある意味ヒューゴー・ガーンズバックならこれぞSFというのではないかという、空想小説である。
 全体を通して印象的なのは、全編これ、ハリウッド映画の脚本ではないか、と言うような場面展開で、いずれ映画化されるのではと思わせた。ストーリーは非常に面白く、意外な展開も随所にあってとても楽しめた。
 もともとサイエンス・ライターが書いているので、理論的な構築も割としっかりしている。どこまでがほんとで、どこまでが想像なのかというのが、わかりにくいというのは、いい作品なのだ。
 アインシュタインの弟子の一人だったクラインマンという老齢の科学者が、サイモンという得体の知れない男に拷問されるところから話は始まるのだが、このサイモンという男は、なぜか頭の中で、浦沢直樹の書く登場人物のようなイメージが、最後まで払拭できなかった。暗く悲惨な過去は、とても同情的なのに、最後まで同情の余地を見せないクールな男で、いい味を出していた。
 
 アインシュタインが生涯かけて追い続けた統一場理論。それが完成されていた、という着想から、この小説はできあがっているが、実際のところ、超ひも理論さえ越えて、小説のタイトルでもある「最終理論」のような形に結実していることになっている。この辺りのいくつものハードルを、アインシュタインが簡単に越えすぎているのは気になるが、要は、そのセオリーが、新たな武器を生むということが問題なのだ。
 アインシュタインがE=mc2(自乗)を導き出した結果が、原爆や水爆に結びついたからと言って、アインシュタインを責める人はそれほどいるとは思えないし、アインシュタイン自身がそのことを後悔していたからと言って、その事実はアインシュタインが作り上げたわけではなく、この世の厳然たる成り立ちがそういうもので、だからこそ、太陽は核融合して人間が存在すると考えれば、E=mc2は、ある意味この世の成り立ちを説明したに過ぎない。
 この本で言うところの「最終理論」が、新たな武器を生むから封印する。単なる新たなではなく、最終兵器とも言える恐ろしい武器に転用可能だから封印する、というのはいかにも小説の主題となりそうなテーマだが、実はこの作品、その辺りの解決策だけがちょっと陳腐だ。
 
 ハリウッド映画のようだと書いたが、時折あるハリウッド映画の陳腐さに似ている。例えば、今日放映されていた「アルマゲドン」、同じテーマの「ディープ・インパクト」これらの作品は、「インディペンデンス・デイ」もそうだったが、とってもアメリカンで、ブッシュ大統領だ。
 アメリカンドリームが世界を救うドラマだが、一種それに似たものをここでは感じた。
 それでも、今上げた3作の映画も含めて、今回の「アインシュタイン・セオリー」も、とても楽しいお話だ。
 割を食って死んでいく人の数はとても多く、最後まで読んでみると、結構無駄死にが多いので、かわいそうだが、たぶん彼らは、時代劇の名も無き侍のように、「お疲れ様でした」と立ち上がるのだ。
 いずれにしても、読んでいて楽しかった。場面展開が早く、複数の場面が平行して描かれ、手に汗握る。こういう作品を書いてみたいと思わせる。ただ、もう一回読みたいかというと、そうではない。「幼年期の終わり」など、第2部の冒頭で、第1部から改めて読み直そうかと思ったほどだ。そういう奥深さは残念ながら無い。それは、この作品が、謎解きと、テンポの良さ、アクションシーンの卓抜した描写力などで構築されているからだ。
 そういう意味で、テーマは大きいが、内容的な世界観は大きくない。
 また、思うのだが、こういう作品に出てくる軍隊やFBIはどうしてこんなに間抜けに描かれるのだろう?「ダイハード」で、ヘリコプターに乗ってベトナム戦争の話をするFBIと同レベルだ。あのときは、主人公の刑事の能力を際だたせるためだったが、今回はそういう人物が出てこない。
 主人公は確かに何度死んでもおかしくないような危難を乗り越えていくが、あまり実力で、という感じはない。いや、実力には違いないのだが、そもそも物理学を勉強していた作家だし、言ってみれば火事場のくそ力に近いのだ。
 でもこの人の2作目が出たらきっと読むだろうな。たぶん面白いから。過去の作家で言えば、D.Rクーンツを読んだときとちょっと似ている。向こうのエンターテインメントの典型と言える小説だ。
 この作品にアインシュタイン・セオリーという邦題を付けた訳者にも素晴らしいと言いたい。これが「最終理論」でも読んだかも知れないが、アインシュタインという名前があったために、迷わず手に取った。
 ただ、「ヘル・ドクトル(Herr Doktor)」という表現は、ドイツ語の敬称だとしても、なにやらテーマがテーマなので「HELL DOCTOR」に見えてならなかった。「先生」とか「博士」でも良かったのじゃないかと思ったが、原文を知らないし、そもそもドイツ語の知識もない。同様に、「アインハイトリッヒェ・フェルトテオリー」は「統一場理論」という日本語ではいけなかったのかな?と思った。もう少し短くて解りやすい単語ならいいが、このカタカナが出てくると、時々止まった。
 ただ、ただ、どうしても結末はあまり納得いかないのだよ・・・どうしてアメリカはあんなに簡単に手を引く?FBI何人死んでるんだ?殺されちゃった新聞記者はどうなる・・・・
 しょせん、自分たちだけ助かったから良かったのかな・・・・てな気持ちに、読者をさせちゃいかんだろう。・・・でも面白かった。これだけは確実。
 

World Wide Telescope

 マイクロソフトのWorld Wide Telescopeというソフトがある。
 ヴァーチャル天体観測ソフトのようなもので、しばらく前にダウンロードした。
 今日久しぶりに開いたら、アップデートがあって、日本語も選べるか、ちょっと期待したが、相変わらず英語と、なぜか中国語が選択できる。
ここからダウンロードできる。
 Explorerというメニューから、様々な天体を見ることができる、夢のような無料ソフトウェアだ。もちろん夢のようなというのは、ぼくのような人間にとってということである。
 解りやすいところでは、solar systemと言うところを見ると、太陽系の惑星が一列に並び、見たい惑星をクリックすると、現在その惑星がある位置まで画面が動き、ズームアップされる。
 実際ハッブル望遠鏡からの画像を使っているのかどうか、英語サイトなので、細かく見る気がしないため、解らないが、かなり精細な画像が見られる。自分で望遠鏡を覗いても、こうは絶対に見えない絵だ。
 系外星雲もしっかりズームアップされて、素人の望遠鏡を使っても見えない銀河や、ガス状の星雲アドもきれいに見える。アクティブな図鑑と言ったところか。
 ただし、年度も言うが英語なので非常に辛い。
 アメリカ経済が疲弊して、基軸通貨としての$が下落し、ユーロや円が同等の価値を持つことはあっても、英語が標準言語から下落することはないのだろうな。
 
 メシアのカタログなんかも順番に見れたり、楽しい。日本語環境が整い、使い勝手が向上してくれたら、もっと頻繁に起動するんだが。
 あ、それにインストールする環境をかなり選ぶようで、スペックが低いと動かないらしい。
 ぼくのパソコンも、いくつかソフトウエアを起動していたらエラーが起きた。
 地球の画像などはGoogl eearthの方が格段にきれいだが、これはとても楽しく、今後の期待大だ。
 

大宇宙の旅

 しばらく前に「大宇宙の旅」という本を人からプレゼントされた。
 荒木俊馬という1978年にすでに亡くなっている、京大の教授で、京都産業大学を創設した宇宙物理学者が、昭和25年に出版した本だ。昭和39年に再版されたときには、少年少女科学名著全集というのの第2巻として出されたという。
 宙一という中学生を主人公にした小説の体裁を取り、当時の宇宙科学の情報を、きめ細かく書いてある・・・・って、すごすぎるぞ!当時の中学生はこんなにレベル高かったのか!と驚くほどな内容だ。
 宇宙の話なので、当然のことながら、その後に解ったことや、変わったことなどは書いていなかったり、違っていたりする。
 
 例えばアンドロメダ星雲までの距離、太陽系から70万光年となっている。ぼくが子供の頃は、150万光年とか、190万光年、場合によって200万光年だった。現在では230万光年くらいかな。宇宙が膨張しているとは言っても、こんなに急激ではないはずなので、いろいろな測定方法で、正しい数値が割り出されたと言うことか。しかし、これだけ変遷していると、230万光年すら怪しい感じは否めない。そもそも光が230万年かかって届く距離の訳だから、確認のしようがない。
 70万光年という近距離にあるということで、アンドロメダ星雲は銀河系の3分の一くらいのサイズという風に説明がしてあるが、距離が3倍以上に伸びたわけだから、大きさも3倍、つまり銀河系とほぼ同程度かそれ以上の大きさを持つということに現在ではなっているわけだ。
 10年後にどうなっているか楽しみなところだ。
 宙一君は、なんと打ち出の小槌で大きくなって宇宙を旅するという、そのあたりは確かに中学生とか低学年をねらっているわけだが、中に出てくる数式や計算は、ちょっと待ってくれと言いたいくらい難しいものもある。
 変光星の高度変化から星の大きさや距離を求めるなんて、中学生には無理だろう、と思うことまで書いてある。そんなことだから、かつて天文学者にあこがれていたような人間が、簡単に挫折できるほど、天文学や宇宙物理というのは難しいということなのだ。
 大人が読んで非常に楽しい。
 実は先日の冥王星騒動で、冥王星の発見年など何年だかよく知らなかった上、この本が出た年もよく分からなかったので、もしや太陽系の惑星が8つと紹介されていないだろうか、などと淡い期待を持っていたのだが、そんなはずはない。しっかり冥王星まで書いてあった。残念。
 昭和39年の追加は、人工衛星の話題なのだが、昭和39年、つまり1964年だから、アポロはまだ月に言っていない。米ソの宇宙開発競争で、ソ連が先に宇宙に行った話などが書いてある。
 人類初の女性宇宙飛行士、テレシコワは「私はカモメ」と言ったが、ウルトラQで「弾丸超特急」という話だったように記憶しているが。実験動物のM1号が列車ごと宇宙に飛び出し、確か「私はカモメ」と言っていたような記憶がある。
 ウルトラQはリアルタイムで見ているのが、昭和40年か41年くらいだと思うので、テレシコワがこの本に載っているということは、昭和39年より以前に宇宙へ行き、M1号はその数年先、タイムリーな台詞だったのだ。
 当時こんな本があったとも知らないし、読んでも解らない。宇宙に興味を持って、本を読んでいた記憶は小学校の高学年からだったし、最初はまんがと図鑑だったから、こんな本には巡り会わなかった。巡り会っていたら人生が変わっていたかな。
 まあ、あまりがんばらない人なので、無理だったな。
 この本には、その後の宇宙の話として福江純という学者が、最近の話題などをしっかり補遺的に載せてくれている。だが、この荒木先生と福江先生の時代の差を最も大きく感じさせてくれたのは、宇宙の話題そのものよりも、福江先生の「なにげに」という表現だった。
 ああ、こういう本にも「なにげに」という表現が普通に使われる時代なのだな、と感じたわけだ。何気ないことが、むしろ時代を際だたせるという良い例だ。
 表紙絵の松本零士が個人的には好みではないが、実は松本零士にとってこの本との邂逅が、後の作品に影響していると読み、なるほどなとは思った。
「999」とか、ほとんど見たことはないが、この本の宙一よろしく、宇宙を旅する主人公が多いのもうなずける。
 年を食い、宇宙から遠ざかった生活をしている自分がちょっとだけ寂しかった。

ランダム

 私はパソコンに音楽を大量に入れて聴いているのだが、その際に「random」で再生している。
 このランダムという言葉、辞書で引くと「手当たり次第」とか「でたらめ」「無作為」などという風に載っている。RAMということ場はランダム・アクセスメモリーのことだが、このランダムアクセスは任意抽出という風に載っている、
 任意だったり、無作為だったり、要はてきとーに選ぶということで、つまりはどんな順番で演奏されても文句を言う筋合いはないということではある。
 ところがこのランダム、くせ者で、現在曲が18000余りあるのだが(尤も、クラシックなど細切れになっているものも含めてだが)、いつぞや書いた確率の話を地でいくように面白い。
 容量が現在80GB程度で、1MB1分と考えると、全曲を流した場合、1300時間あまりかかる計算で、毎日24時間かけても、全曲聴くためには、50日以上かかる計算だ。
 つまり、かけっぱなしにした場合、2ヶ月に1回しか同じ曲には出会わないということになる。
 もちろん、延々とかけっぱなしなどと言うことはないわけで、実際には毎日何回かリセットされる。
 さてそこで面白いのは、何度も聴く曲というのが意外に多いということである。逆に言えば、1回も聴かない曲が非常に大量に存在するということでもある。
 これこそが言ってみればランダムの本質なのだと思うが、感性的には非常に納得しにくい。
 確率論的な理屈でこのランダムプレイの可能性を考えることと、実体験での感覚はだいぶ違うと言うことだ。
 さて、最近、ポータブルのMP3プレイヤーを購入して、やはりランダムで聴いているが、こちらは非常に面白い。というか不満だ。変な言い方だが、特定のランダムという順番があるのだ。
 実際の順番とは関係なく、ランダム再生が同じ順番でかかったりするのだ。これはそもそも、ランダムな順番を決めるためのルールがあるからではないだろうか?
 そこで不思議に思うのが、「ランダム」を決める仕組みだ。コンピュータが、どういう風にして乱数を発生させているのか、たぶん秒などの時間を基準にしているのではないかなと思うが、どうなのだろう?
 いずれにしても、ランダムというからには、無作為な抽出が、同じ結果を生む確率など、非常に低いわけで、しかも1万件程度の中から無作為に抽出して、同じ順番に並ぶなんて、5個のさいころを振って、出た目の組み合わせが、同じ順番で出るようなものではないか。これはランダムではなく、「ルール」だというような気になる。
 ところで、ランダムハウスという辞書がある。アメリカの出版社が出している辞書だが、アトランダムに出版をするためにランダム・ハウスという名前をつけたらしい。
 このランダムという規則性のなさが、何となく好きだ。この世のことが何でも決まっていたら面白くない。
 いい意味で、先の解らない人生が楽しい。あくまでいい意味で。
 

スペースシャトル

 スペースシャトルが明後日帰還する。無事に帰ってきて欲しいものだ。チャレンジャーが爆発し、コロンビアが空中分解し、スペースシャトルが被った2度の大事故によって、今回のディスカバリーの打ち上げ時の延期や、軌道上に乗ってからの様々な問題が、不安材料として報道などで大きくクローズアップされることがある。
 ソ連がスプートニクを宇宙に上げたのが1957年、ほぼ半世紀前のことだ。ガガーリンが宇宙に飛んだのが1961年。そしてその年に月旅行を計画したアメリカが、始めて人類を月に降り立たせたのが1969年。60年代前半に始まったペリー・ローダンシリーズでは、1971年にアメリカの空軍少佐ローダンが、始めて月面に降り立つというのが始まりなので、SFよりも2年も早く月旅行を実現させたことになる。
 映画「2001年宇宙の旅」は1968年の映画だ。これは人類が月へ行く前に、木星への宇宙飛行を描いた映画だ(クラークの小説では、土星の衛星を目指していたが)。映画ではこれが2001年のことだ。
 スペースシャトル「コロンビア」が始めて地球周回軌道に乗ったのは1981年のことだ。人類が月に行って22年、アポロ計画が17号で終了した1972年から9年後のことだ。
 チャレンジャーの爆発事故が1986年。コロンビアの空中分解が2003年。それ以来止まっていたスペースシャトルが、今回2年半ぶりに打ち上げられたのだ。今回が114回目の打ち上げだ。
 アポロは17回の打ち上げで、死亡事故はない。地上での事故で3人が無くなっている。シャトルは繰り返し使えるために、それまでとは違い、基地に帰還する。使い捨てで無い分、何回も使うのだから方が来ることもあるのかも知れない。
 いずれにしても、100回以上の打ち上げで、大きな事故が2回というのは、宇宙開発ということを考える上では、極端に多いわけではないと思う。もちろん、無事故であることは大切だが、飛行機だってあれほど事故に遭うのだ。ましてやより過酷な条件に晒される宇宙飛行は簡単にはいかないだろう。
 ところで、アポロ計画は、どんなメリットがあったのだろう?そして、100回以上に及ぶシャトルのメリットは?
 様々な科学実験や、見知らぬ場所の解明以外には、多分あまりメリットはないだろう。まして、大航海時代、多くの航海士が新たな大陸や土地を見つけ出したときと違って、その場所に一般人が簡単に行くことも叶わない。もちろん、シャトルないでの実験により開発された商品なども多数あるだろうが、実感としては、軍事的な目的などの方が大きかったのでは?などと疑いたくなるくらい、100回という飛行回数に比べて、「そんなに沢山飛んでいるのか?」という認識しかない人が多いだろう。
 
 そこに山があるからだ、とは、イギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉だが、そこに宇宙がある限り、そこに夢を馳せ、行きたいと思う人間の欲求は、無くなりはしない。尤も、最初からそんなことはどうでもいい人の方が、実は多いのかも知れないが。
 この世で何が有益で何が無駄かを測る尺度というのは、意外に難しい。食物を作らないと、人は食べ物がないと生きていけないから、どうしても必要であることは解るが、ディズニーランドの営業と、スペースシャトルの開発は、実は同じように大切なことなのだ。どちらもなくても生きては行けるが、生きるためだけに人間が生きているわけではないからだ。
 沢山のお金をかけて、殺し合いをするよりは、その分を宇宙開発に向ければ、今頃人類は火星にも到達していたのではないか?人が宇宙に飛びだして既に50年が経とうとしている、月に行くまで10年くらいしかかかっていないのに、残りの40年で、スペースシャトルが100回の行ったり来たりをしただけだ。なんだか寂しさを感じる。
 もちろん、月までの距離は38万キロ、火星は最も近くに来たときでも5000万キロ以上離れている。おいそれとは、月の次は火星という簡単な一段ではないことは確かだ。
 人の命が大切なのは何よりもそうだが、時には命がけで宇宙への夢を求めていくのも人間だ。子供心に憧れた宇宙への気持ちは、お金や幾多の犠牲をもその中に含みつつ、どんどん前に進む科学への憧れだ。
 アインシュタインが見つけ出した質量とエネルギーの等価則を、爆弾ではなく、宇宙開発などに有効に使っていこうという、人類全体の意識みたいなものっていうのは、やはり難しいのだろうな。

過呼吸

 知り合いが過呼吸になった。初めてだったし、ごく近しい知り合いでもあるので、息苦しいという連絡をもらったときに非常に心配になった。
 私は、発作性の頻脈という症状を持っており、1年~2年に1回、急激に脈拍が早くなる。看護婦が手首で計れないくらいの速度になるのだ。放っておいて治ることもあるが、一晩入院することもある。その際に、走った後のような息苦しさを覚える。
 過呼吸というのは、発作的に息苦しくなり、その結果血中の二酸化炭素濃度が低くなってアルカローシス状態になることを言うらしい。事典を見ると、
「心因以外にとくに原因となる器質的疾患がなく、発作性に呼吸困難、過呼吸状態を生じ、それに伴い多彩かつ一見重篤そうな臨床症状を示す疾患で、過呼吸症候群ともいう。心身症的色彩が強く、ときに呼吸器、循環器疾患に合併して発症することもある。発作は、激しい運動、疲労、疼痛(とうつう)、不安、興奮、緊張など、心身のストレスにより誘発される。一般に若年者に多く、女性は男性の約2倍で、とくに25歳以下の精神の不安定な女性に多くみられる」
 と言うことだ。この一見重篤そうなと言うのは、話を聞くと頷ける。私に電話をしてきたときはそうでもなかったようだが、救急車を呼べという言葉に従って、119に電話した辺りから、かなりしんどくなったらしい。電話のボタンが正しく押せなかったり、説明する言葉のろれつが回っていなかったり、顔色を見た人の話では、絶対に入院すると思ったようだし、「チアノーゼ」と言われたという。チアノーゼは過呼吸とは逆に、酸欠などで起こる状態だろう。顔色が真っ白だったらしい。
 それでも不思議なもので、回復し出すと徐々に安定し、平生に戻るのだそうだ。
 過呼吸に悩む人の話を昔テレビで見たことがある。袋などを用意して、過呼吸になったときにその中で息をする。人間の呼気には二酸化炭素が含まれているわけだから、当然その中の空気を吸えば、二酸化炭素濃度が上がり、バランスが安定すると言うことだ。
 人間にとって必要不可欠な酸素だが、空気中には20%程しか含まれていない。残りのほとんどは窒素だし、そのわずかなバランスの酸素中に生きている人間だから、多すぎてもいけないと言うことかも知れない。酸素は、元々多くの物質と反応するらしいが、特に不安定になって反応しやすくなった状態の酸素を活性酸素といい、人間にとって有害な物質となる。酸素というのも表裏一体、この世の縮図のような物質である。
 いずれにしても事なきを得て、帰ってきたらしいが、人間の身体というのは、様々な不思議とを抱えた精密な機械のようなものなのだと思う。
 フジテレビの「アンビリーバボー」に、人間の身体が透視できるロシア人の女性が出ていた。
 否定派と名乗る3人の専門外の人間が難癖を付け、それを覆すという流れだったが、信じる信じないはともかくとして、この世には不思議なことが、まだまだたくさんあるのだ。
 私などにとっては、身体を透視できる不思議と、過呼吸を起こす不思議が、それほど違わない不思議として移るのだ。違うのは、片や医学的にある程度解明されており、片や証明されていないと言うだけで、不思議の度合いは変わらない。
 とにかく今日は、大過なく済んだことが感謝の一日である。