再開

 うちでのこづちを書かなくなって、はや数年、会社のブログとしてFC2に移し、「Rainbow Rising」という名で書こうとしたが、どうもやはり現在の仕事上で会社社長として書いていくのは無理があるようで、早々に挫折した。

 元々自分に何かを課すことは苦手なので、できるだけ柔に……と考えるところが、実はぼくの弱点なのだが、なかなか克服できない弱点を、少しでも改善するために、再開を決意した。まあ、決意という言葉も、今回に限り、極めて軽い。
 しかしそれでも、たまに文章の仕事を頂くこともあったりするので、日常的に文章を書き、ブラッシュアップすることは、それだけでも必要だし、かつ有用なことだ。

 文章というのは、書かないと鈍る、錆びる、そして荒ぶ。
 単語や表現を忘れるのは、何も年のせいばかりではなく、継続的に書かないことがその大きな理由を占めている。

 今回、psymage.comのサーバーを移転し、MovableTypeからWordpressにシステムも変えた。MovableTypeは、現在でも日本は無料での個人使用を認めているので、最初はそれをインストールしたのだが、かつてに比べてどうもシステムが複雑になり、しかもテンプレートがうまく働いていないのか、表示が上手くいかない。また、記事数が増えるごとに、再構築という作業がやはり時間もかかるし面倒だ。
 そこで、以前「王様の宮殿」という名で、音楽関係だけの記事を書いたブログを作っていたときに利用していたWordpressに乗り換えた。
 現在では他のCMSもたくさんある音はあるが、この二種のブログシステムはやはり一日の長がある。
 テーマやプラグインも豊富で、使いやすい。

 ということで、毎日書くなどという、自分にいらぬプレッシャーをかけることはやめにして、ゆるゆると、再び書き始める。

ら抜き言葉

 1月冒頭に何回か、書こうとして挫折し、下書き状態になっているものを削除し、さて気づいてみればもう2月10日、ずいぶん間が開いてしまった。そろそろ始動しよう。ということで、本年1発目。ブログ的には「あけおめ」状態だ。
 さて、mixiのニュースで取り上げられていた「教えて!goo」の「ら抜き言葉を直してもらいたい」というトピックをみての感想を少々。「教えて!goo」に質問者への回答として書くほどのことではないので、こちらで。
 かつて自分でも「国語のクイズという記事でちょっとだけ「ら抜き言葉」について触れているが、今でもその考え方は変わっていない。
 トピックの趣旨は、彼氏が「ら抜き言葉」を使うのが気持ち悪いし、父親も厳しいので、その前でそんな言葉を使ったら結婚を許可してもらえないのではという悩みに助言を求めたものだが。ポイントが「ら抜き言葉」と「このカップルの関係」の2点あって、賛否はそれぞれ出ている。
「ら抜き言葉」を使う人をこの人もそうだが、回答者の中にも「教養がない」という表現を使っているのが、実は少々気になった。
『教養』を辞書で牽くと

①教え育てること。
②(cultureイギリス・フランス・Bildungドイツ) 単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる
(広辞苑)
(1)おしえそだてること。「父は其子を―するの勤労を免かれ/民約論(徳)」
(2)社会人として必要な広い文化的な知識。また,それによって養われた品位。「―を身につける」
(3)〔英 culture; (ドイツ) Bildung〕
単なる知識ではなく,人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術など。
(三省堂国語辞典)
人間の精神を豊かにし、高等円満な人格を養い育てていく努力、およびその成果をさす。とかく専門的な知識や特定の職業に限定されやすいわれわれの精神を、広く学問、芸術、宗教などに接して全面的に発達させ、全体的、調和的人間になることが教養人の理想である。教養はとくに専門的、職業的知識を意識した場合、「一般教養」と表現されることがある。教養ということばの原語である英語やフランス語のcultureがラテン語のcultura(耕作)からきていることからわかるように、土地を耕して作物を育てる意味だったものを「心の耕作」に転義させて、人間の精神を耕すことが教養であると解されている。その「心の耕作」cultura animiという表現を初めて用いたのは古代ローマのキケロである。
〈諏訪内敬司〉
(スーパー・ニッポニカ 日本大百科全書:一部抜粋)

とある。まあ、「ら抜き」言葉一つで無教養と思われるとしたら、なかなか辛いことだ。
 ただ、こういう場合もそうだが、他人に対して教養がないというような表現を使う場合は、非常に気をつけるべきだと思う。時代と共に生き方や考え方はどんどん多様化していくし、正しさと間違えを分ける分水嶺もとても低くなっている気がするからだ。自分の意見だとして述べるのであれば、相手を貶める表現ではなく、相手を尊重しながら言う方がいいと言うことだ。
 このトピ主が「ら抜き言葉」を受け付けられず困っていることだけを素直に書けば、反論は半分くらいで済んだのではないかと思えるからだ。「教養」という言葉を使ったり、どんな教育を受けてきたらこうなるのかのような表現が反感を呼んでいるに違いない。元々こういう表現は、その意思がなくても上から目線に見えるので、いかにあとで弁解してもその印象はぬぐえない。
 感情の問題は仕方がないので、「あなたのその表現は、私は耐えられない」と言うことであれば、結婚を考えようかという相手の気持ちは尊重してくれる場合が多いと思う。逆にそこで尊重しないという人であれば、前途が思いやられる。
 ただ一つ思うのは「食べれる、見れる」は仕方ないが、「信じれる」「耐えれる」「感じれる」は理解しがたいという行だ。これって、その人が単に耳や目にした回数に依存していないだろうか?ということである。あるいは、どれだけの人が、誰が使っているかという情報に左右されてはいないかということで、だとすれば、時間が経てば解消することではないか?ということである。
 先日、雑誌にちょっと記事を書き、その中で私は原稿に「当に好適の一冊」という表現を使ったのだが、実際には「本当に最適の一冊」と印刷されていた。意味は変わらないので「まさに」がいけなかったのか「こうてき」がいけなかったのか、いずれにしても一般的な表現ではないと思われたから変えられたのだろうが、あるいはこうやって言葉は消えていくのかな、と思った一瞬だった。
 友人にその話をしたとき、「こうてきってどういう意味」といわれたときにはその感をより深くした。
 仮にこの言葉が「古語」になるにしてもそれはだいぶ先の話で、でもいずれはそうなるのかもしれないわけだ。
 ただそれとは別に、過渡期というのはなかなか難しいもので、例えば言葉であれば、これまで無かった用法は「間違い」というレッテルを一時期貼られ、それが生き延びて定着すれば「新しい用法」に、消えてしまえば、一過性の言葉(場合によっては流行語)となるのだろう。
 伝統や習わしなどは、経過年数の長さだけで尊重されることも多い。尊重すること自体が悪いわけでは決してないが、そこから外れる者を排斥するのは簡単だが必ずしもいいことではない(状況によっては正しい場合もあるだろうが)。
 言葉も実はこの伝統に則っているので「文法」はその用法を使いやすくまとめたものに過ぎないので、文法に外れることが「間違い」なわけではない。許容していくのも一つのありようである。
 但し感性の問題は、できるだけ被害者に合わせていった方がよい。
 ら抜き言葉が苦手な相手にはそれを使わない、そばをすする音が苦手な相手の前では、なるべく音を立てないで食べる、などだ。ら抜き言葉や食事時の音に慣れさせるよりも、人として優しくあれる方が私は好きだ。
 
 

年の暮れ

 今年も一年が終わる。とはいえ、明日はいつでも明日なので、12月31日の翌日になると言うだけには違いない。
 人はこういう区切りや記念日など、何かのエポックをもって何かを変えたり、新たな道に進んだり、変化のモチベーションにすることが多い。走り幅跳びの踏切線みたいなもので、勢いを付けるにはいいのだ。
 普段の日に「さあやろう」と思うよりも、変化に勢いが付きそうな気がするではないか。
 問題は、その気分なのであり、その結果必ずしも目的は達成されないかもしれないけど、幾分達成されることもある。本当は、是が非でもやるんだという気持ちが大切だという人もあろう。
 それも一つの真理ではあると思うが、この世界には70億に迫る人が生きている。
 その70億人が同じ生き方、同じ考え方をするなどと言うのは所詮無理なことで、たまたまこの間何かで聴いたモーニング娘。の曲で(今時!)みんながかわいかったら、平凡みたいな歌があった。
 
 同様に、皆が同じようにできないからこそ、この世は成り立っているのだ。
 それは記録や結果だけの話ではなく、ものの考え方や生き方もそうだ。
 もちろんよりよい生き方や、より幸福な生活を望み、それに向かって努力することは、どんな場合でも大切だし、いいことでもある。でも一様に、これが正しいという風に決めることなど、どだい無理なことだ。
 A地点からB地点まで行く方法は、最短は一つかもしれないが、多くのルートがある。どれをとるかも、あるいはB地点に行かないという選択肢も含めて、決めていくこと、そしてそれに自ら責任を持っていくことが個人主義というものだ。
 その中で、他を認めていくということがしかし実は、より正しい個人主義なのであって、必ずしも自己を主張するだけのことではない。
 そう、世の中全てバランスだ。人が生きていられるのも、空気中の元素の絶妙なバランスかもしれないし、バランスの取れた、いい1年にするために、踏切線を踏まないように気をつけて、来年はジャンプしたいものだと思う。
 今年お世話になった全ての方、取引先も友人も、宅配で顔を合わせただけのお兄さんたちや、レジで笑顔をくれたおばさんたちにも、今年かかわったあらゆる方々に、「ありがとうございました」。そして、来るべき年も、是非よろしくお願い致します。

SoftBank

 今日は愚痴みたいなものだ。
 私はSoftBankの携帯を使っているのだが、それはいち早く家族無料を打ち出したのがSoftBankで、とても便利に使えたからだ。今現在も不満はない。
 今日2回、SoftBank代理店を名乗るところから会社に電話があった。このSoftBank代理店というのは異様に多い。DoCoMoやauはほとんど無いが、SoftBank代理店は、年中かけてくる。
 別に先方の話し方がぞんざいなわけではない(たまに、嫌いなタイプの人もいるが)。既にSoftBankの携帯を使っているとか、固定電話は光電話だとかいえば、すぐに電話も終わるので、1件1件はさほど問題ではない。
 だが、度重なるとウザイ。
 SoftBank自体は好きとか嫌いとか言う会社でもなく、ホークスにも興味はない(ペタジー二が辞めたのだ)。
 代理店がやることなのだろうが、少し管理しろよといいたくなる。ひどくなれば携帯会社を代えることも十分にある。
 iphoneばかり目立っていたが、他のスマートフォンもあるから、その点ではSoftBankから他に鞍替えする気はなくなった。アンチApple、アンチAdobeの私としては、そこだけが気になっていたので、安心した。
 それでも、同じような営業の電話が何回もかかってくるというのは、親会社の責任もあるのではないか、と思う。
 孫さん、無理ならお父さん、考えて下さいな。

同窓会

 昨日は、大学時代に参加していたサークル、「古典音楽研究会」の5年ぶりの同窓会だった。同窓会というのはあまり意識しなかったが、同じ学校の卒業生と言うことで、必ずしも同じクラスとか同じ学年を指すものではないらしい。なので、サークルのOB会は学年が同じでなくても、すなわち同窓会ということになる。
 私自身が大学を卒業したのは、82年のことだから(デビュー前の中森明菜が、当時いた会社の営業部に挨拶に来ていたので82年という数字を忘れない)、卒業して28年余りになる。速い!!
 
 何年ぶりかで大学に入った。別にそこで行ったわけではないのだが、数人が集まって、昼間、大学のキャンパスを歩いたのだ。懐かしいのと、昔とは大きく変わった学校に驚きもした。そんな中で、昔の面影をとどめている場所もあり、当時をふと思い出した。・・・いいかげんな学生生活だった。親には大変申し訳なかった。
 一緒に回ったかつての仲間は、もう大学生の子供が普通にいたりする。それでも、キャンパス内を歩いていると、それほどの日時が経ったとは思えなかった。
 
 古典音楽研究会というのは何をしていたかというと、クラシックを「聴く」サークルだ。演奏もしない。我々のまた数代上の先輩方は、別のつながりがあるらしく、集まることもあるようだ。そして、現在では大学にそういう名前のサークルは存在しない。いつの間にか、消滅してしまったようだ。
 それはそれとして、25年以上も経って、学年を越えて卒業後にもこうやって会えるというのはうれしいことだ。
 4時から池袋の店で、大学を巡った5人と共に残り3人、都合8人で飲んだ。店内は、なぜかディープ・パープルが流れていて、4時からということもあって、しばらくは我々だけだったようだ。
 不思議なもので、子供の話や親の話が中心なのだが、話のネタは尽きないもので、その後も含めて9時過ぎまで話し込んだ。今回来れなかった遠方の友人たちも含めてまたやりたいと思った。意外に皆変わっていないのも不思議だ。
 だが、年を経てもいい友はいい友だ。
 昨今では、友達の数が幸せのバロメーターと考える人もいるようだが、友達に関していえば、質こそが大切だろう。質ばかりは数ではカバーできない。
 元々、でかい会場でやる同窓会というのは、好まない質なので、こういった少数で気のあった友人との同窓会というのが、個人的には一番楽しいしありがたい。来年も幹事やるか。

とうとう1日抜けた

 早くも、というべきかようやくと言うべきか、ブログに穴を空けた。
 そもそもこういうことをコツコツと続けることが苦手な性分なので、いずれは止まると思っていたのだが、記録は21日だった。以前、個人ブログを付けていたときには、最初から毎日書くなどという大それたことを考えていなかったので、足かけ6年弱続いた。エントリーは500を越えているが、単純計算をすると、月に10件くらいだ。最後の方はほとんど書いていなかったし。
 ちょっと悔しくもあるが、所詮、こういうものだと思っているので、後から日付を変えるなどという方法は取るつもりが無い。目的はそもそもそこにないし。ただ、なんとなくささやかなチャレンジであったことは確かで、人間というのは、こういう些細な挑戦を、ときにやるものだ。
 最近の若い人のように、今あったことをちょこっと書く連続のブログが普通な人には、解らないことかもしれないし、そこがおじさんたる所以かもしれないのだが、ただ思い返せば、私が学生の頃に同じ技術があっても、今と同様、私は長いものを書いていたに違いない。しかも写真も少なく。
 三つ子の魂ではないが、こういうことというのは、あるいは性格や嗜好次第なのかもしれない。
 閑話休題
 先ほどWin7の電卓を使っていて気づいたことだが、
 例えばXPだと
 5×5+4×4は
 その順番でキーを押すと、
 答えは400になっていたと思うのだが(確認はしていない)
 Windows7では同じ順番でキーを打つと、答えが
 41
 になる。
 紙に書いた式としては正しい答えを出す。
 かけ算を先にやってくれるということだ。
 ちょっとびっくりしただけだが、いや、面白い。
 

FAX

 今日の昼間ファックスが来た。いや、ファックスはたまに来るのだが、うちはほとんどメールで済ませているので、ファックスというケースが意外に少ないし、そもそも前触れ無く送られてくるファックスに関しては、実はろくなものではない。確実に非通知で来るし。
 今日来たのは「熊本ミカン」が安いというファックスだった。
 電話帳とかで調べて送ってくるのだろうが、迷惑であることには変わりはない。
 ファックスの量からいっても、大きなファックスを入れる必要は全くないので、ブラザーのプリンタ一体型を利用していて、ファックス結果をパソコンに転送しているので、今では紙の無駄は出ないが、かつては警告無しに送られえ来るいらないファックスに辟易していたこともあった。
 お客様の可能性もないわけではないので、無視するわけにも行かず、内容は必ず見る。だいたい販売や闇金みたいなゴミばかりだ。いや、実は場合によっては内容はゴミではないかもしれないが、この営業方法で来られると、内容はどうあれ、ゴミだ。
 なぜなら、こっちの意向などものともせず、無駄な経費を(たとえわずかでも)無理矢理使わせる所行だからだ。こういうかすかでも理不尽さを内包した行為に、意外に私は腹を立てるらしい。
 メールのSPAMも迷惑だが、お金はかからないし、電話が鳴ることもない。大量にファックスを利用する大きな(それほど大きくなくてもだが)会社であれば、埋もれてしまうはずのそういうファックスが煩わしい。
 電話代をかけて、もう送ってくるなというのもばからしいので、放ってはあるが、でも見方を変えると、営業に必死なのだな、という思いで怒りは少し和らぐ。で、この場合の怒りはこれもまた小さいので、その和らぎでほぼ雲散霧消する。
 ただ、この営業手段はあまり良くないなあ、と思うので、ちょっと書いてみた。
 

お茶を濁す

 お茶を濁すという言葉がある。広辞苑には「いいかげんにその場をごまかす。」とある。
 お茶を濁しているわけではないが、逃げを打っているのは間違いない。
 映画バトンだ。映画館で映画を見なくなって、何年になるだろう。もちろん、映画館で見る映画の良さというのも承知しているが、私にとっては、映画館好きの人に比べると、かなりその価値が低い。むしろ自宅でのんびり見る方が、楽しんで観られる。レンタルも自宅まで届けてもらえるし、何より検索して懐かしいもの、これまで見ていないものなど、様々な観点から探すことができるのも、ありがたいことだ。
 ずっと観たくて未だにDVDレンタルになっていない作品がいくつかある。
「狼の紋章」「L.A.コンフィデンシャル」「ディアボロス」「バラバ」・・・・かな。「ヒドゥン」とか、「バウンド」とか、なかなかレンタルに出ていなかったのも徐々に加わっているので、待つ。
 で、「バラバ」なのだが、いわゆる史劇に類するハリウッド・スペクタクルな作品なのだが、ビデオでも私は観たことがない。テレビ放映だけだ。
 史劇といいながら、実際にバラバ伝みたいなものがあるわけでもなさそうなので、創作映画に違いないが、聖書では、ピラトが誰か一人を助けると行ったのに対し、民衆はイエスではなく、暴動を起こした政治犯にして殺人者の「バラバ」を釈放しろと要求したという話が載っている。映画ではこの後、バラバがキリスト教に目覚めるまでの話を描いているのだが、なかなか面白かった。夜中のテレビで観たのだ。是非、復刻して欲しい。
「狼の紋章」は、最近「ウルフガイ」とかいう漫画で出ている平井和正のウルフガイシリーズの第1話だ。主演は志垣太郎で、松田優作の映画初出演作でもある。原作の方が、はっきり言って面白いのだが、70年代ぽい背景や、意外にしっくり来る志垣太郎、面白い映画だ。ただ、邦画のDVDは高すぎて購入する気にならない。特に東宝。
 と、お茶を濁してみた。
 ちなみにこのFC2のバトンというやつ、答えてそれに類する記事を書くのはいいのだが、なんと答えたか、すぐ忘れてしまい、記事を書くときに困る。編集画面に表示されないからだ。・・・出るといいのに。
 

文章

 今日、「ウェブ時代の音楽進化論」という新書を購入し、冒頭の十数ページを人待ちの間にちょっとだけ読んだ。
 文章の運び自体はともかく、論旨が非常に解りにくい文章を書く人で、面白いテーマなのにどうもしっくり来ない。
 文章を生業とする人間というのは、作家から私のように本当にちょこっとだけ依頼を受けて書く人間まで、意外に多岐にわたる。会社勤めをしていても、その業界や企業が出している雑誌や新聞などに寄稿している人も少なくないだろうし、見回してみれば何らかの形で、文章によって収入を得たことがある人というのは少なくないだろう。
 小説家だからと言って全員が文章のうまい人たちばかりではない。また、どんな文章がうまくて、どんな文章が下手かというのも、一概にこうですと断定できるほどの基準が共有されているとも思えない。これは一種、歌の上手さということにも似ているような気がする。
 ときどき「某は歌がうまいね~」という言葉を聞くことがあるが、その上手いというのは、技巧的に破綻がないという意味なのか、音程を外さないという意味なのか、あるいは心に訴えかけてくるという意味なのか、実はよく解らなくて、結局のところ、好きな人にしか解らない上手さというものが存在することに気づく。
 文章も同様で、自分の好きな文体や話の運び方など、あるいは句読点の打ち方一つでも好みが左右される場合があるようだ。また文章も音楽も、「慣れ」というのは意外に大事なことで、「慣れ」て来ると読みやすくなり、内容次第で面白く感じたりもするわけだ。
 私は日本人作家よりも翻訳を多く読むのだが、登場人物の名前がカタカナであるだけで拒否反応を起こす人もいる。
 それでも、文章というのは一つのコミュニケ^ションツールなので、意味が通じなければそもそも、その文章は目的を果たせないということになる。
 変な例だが、ジョン・ケージという人の4分33秒と呼ばれる曲がある。3楽章に別れた曲で、楽器の指定はない。楽譜には全ての楽章にTacet(その楽章は全休止という意味)と書いてあるらしい。つまり、一切演奏しないというのがこの音楽で、4分33秒は初演の時の時間だという。演奏者の我慢できる限界だったのかどうかは知らないが、この間演奏者はピアノの前に座っていただけだ。
 これを音楽というなら、書店でたまに並んでいる白紙の本はあれも「書籍」なのかもしれない。尤もこれは自分で書き込むための本だと思うので、目的は大分違う。
 意味が通じたあとは、読みやすさということになる。その二つがクリアされて、初めて内容の良さ、というのが文章の最も美しい形であると思う。文体の好き嫌いや、況んや内容においては、個性だと思う。
 私は高校時代から急に文章を書くようになったように記憶しているが、それは、なんとなく書きたいことを書き綴る、私の文章を認めてくれた先生がいたからだ。
 当時の文章は拙くてきっと読めたものではなかったかもしれない。しかし、人間ほめられると猿同様木に登りたがるらしく、それ以来、なんとなく書くことに喜びを見いだしている気がする。高校の時の小林先生と蕪木先生に感謝だ。卒業以来二人ともお会いしていないが、今の自分があるのは、分けてもこの二人のおかげであると思っている。少なくとも文章に関しては。

SETI

 SETIというのは(Search for Extra-Terrestrial Intelligence - 地球外知的生命体探査)の略で、要は宇宙人を捜す科学的な活動のことだ。科学者が主に考えているのは、別にUFOに乗って飛んでくる宇宙人ではなく、遙か彼方で人間のような知的活動をしている生命体がいないか?という証明を探すのが目的だ。
 歴史的にはずいぶん古く、本を読んで出てくるのでは「オズマ計画」というのが著名だ。フランク・ドレイクという人の提唱ではじまったものだが、このドレイクという人、必ず天文学の歴史の本には名前が出てくる。宇宙人がいる可能性を計算する方程式を作った人だ。
 詳細は、ドレイクの方程式にある。
 この人の方程式は、いつも思うのだが、a+b=cという式と何が違うのかよく解らない。あらゆる数字が入る、という意味で。まあそこは、現在の科学が導き出す蓋然性の高い数値をそれぞれの科学者が当てはめるのだろうが、所詮は眉唾である。地球に人類がいるから、こんなに広い宇宙なら、きっと他にもいるはずという文章以上の可能性を示しているとは、とうてい思えない。
 さて、そのSETI、各国が行っているのとが別にSETI@homeというのがあって、パソコンを持っていれば、その探査に自分のパソコンの一部を参加させることができる。これは分散コンピューティングという方法で、受信した電波の解析を、そこのコンピューターだけではなく、世界の人の自宅にあるコンピュータを使って、結果的に巨大なスーパーコンピュータを使ったように計算能力を高めようとする試みだ。
 今回これとは別に、多くの大学や天文台が同時に、今週末から空の一角に望遠鏡を向け観測をするというのが、先日ニュースで流れた。1950年代から既に50年以上も経って、未だに確定的な証拠が出ていない企画だが、人類は諦めていない。
 宇宙の広さというのは、私たちが体感から比較できるような距離感ではなく、探査される地域でも何光年~何千光年、いやもっとかもしれないが、そうなるとその電波は、今よりそれだけ昔に発された電波で(電波と光の速度は同じなので)、今現在もそこに発信源があるかどうかさえ解らないようなものの探査な訳だ。これはあくまで、知的生命体がいる証拠を探す目的で、知的生命体そのものを探すとか、増してコンタクトを取るなどという目的ではない。
 昭和40~50年代にSFを読んだり映画、アニメを見て、もしかすると生きている内に地球外の生命体とコンタクトがあるのではないだろうか?とか、想像をたくましくしていたが、21世紀がアトムで描かれた世界でもないように、そういうこともやはり無かった。
 それでも科学者たちは(天文ファンでも)、こういう試みを続けている。何だか、世界どこかで戦争をしたり、爆弾が爆発したりしているのとは別次元のお話のようでさえある。
 
 今回の探査計画、名前が「ドロシー計画」というのだそうだ。「ライオン計画」や「ブリキ計画」と続く前に、虹を越えられるといいのになあ。
 ところで、「やったー電波が発見された」「それは我々が出した電波です、どうぞよろしく」と、宇宙人は手を差し出した。
 という星新一的な小説は、探したらいくつくらいあるだろうか?