「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。

 というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
 ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
 宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
 まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
 先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
 一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
 宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
 非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
 ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
 それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
 テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
 生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
 ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
 人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
 アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
 さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
 ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
 さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
 ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
 ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
 いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。



ニーチェの作品


ムアコックの作品。現在絶版中のよう

まつり

 久々にお祭りに行ってきた。
 府中にある大國魂神社というところのすももまつりというのだ。
 そもそもぼくは、祭りというのがあまり好きな方ではない。歴史や伝統ということに、あまり価値を認めていない変革ばかりを尊ぶ性格が災いしている。
 特にけが人が出そうな危険な祭りは性に合わない。そういう祭りが有名な地域に生まれなくて幸いだったと思っている。ああ、ただ好きではないというのと、価値を認めないというのは全く別の話なので、あしからず。
 尤も、祭りは好きではなくても出店は好きだ。祭りというのが出店めぐりのことであるなら、実は好きだ。
 
 今日も、結局のところで店めぐりだった。堪能した。
 すもも祭りというのは、以下の大國魂神社の説明を読めば解る。
 

夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9 年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その祭神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りのの名前の由来です。当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。

 ぼくは、神社仏閣を訪れる際、必ず世界平和を祈念する。一番祈念して、当たり障り無く、尚かつ非常に高邁で、何より神仏に頼らなければおよそ実現できないようなことかな、と思うので、そして、本心からそう望んでいるので祈る。
 ただし、今日などは境内で参拝の行列ができていて、到底並んでまで参拝する気になれないので、遠くから気持ちだけ運んだ。
 この、並ぶという行為がぼくはとても苦手だ。この苦手な感情を目的が凌駕しない限り、並ばない。だから銀座チャンスセンターなどで宝くじのために並んだことはない。これは、どこで買おうと確率は一緒だという理屈だけに寄ったものだが。
 
 さて、そんな楽しい出店めぐりで、ケバブを挟んだトルコのサンドイッチみたいなのを食べた。国際色豊かだ。おいしかった。参道にずっと並んでいるわけだが、焼きそばにたこ焼きにお好み焼き、ソースせんべいにあんずあめ、チョコバナナ、フランクなど、同じ店が随所にある中、このトルコの味は変わっていて良かった。考えてみると、もっとバリエーションがあってもいい。例えば焼きそばでも、全部ソース焼きそばではなく、上海焼きそばとか塩焼きそばとか、違えば楽しめるのに。
 もちろん昔に比べれば、色とりどりだし、その中で昔ながらのいい味も出している。おっと、伝統や歴史を否定する男が言ってはいけない台詞だ。
 
 たこ焼きも、大きなたこが入っていておいしかったが、焼きそばだけがどうにも不味かった。これは残念だった。全く肉も入っていないし。
 佐世保バーガーなんていうのもあったが、大きすぎる。
 そう、あれだけ出店が並んでいても、一つ一つの量が多すぎる、少しずつ食べられれば、少々割高でも、もっと多くのものを食べることができるのだが。sこがお祭りの、常に残念なところだ。
 たこ焼き1個50円とかね。
 
 家の近くの商店街に観音様があるので、時々で店が出る。でも、祭りので店はもう少し豪快が楽しい。確かに人混みは、祭りでもそれほど好きではないが、町中でのき模様とはやはり違って、それほど気にはならない。
 府中という街もいい街だった。
 またいこう。

アフガンの死

 アフガニスタンでNGOの伊藤さんという方が亡くなった。
 志高く、人に尽くされた方が亡くなるのは、知人でなくても、一入悲しいことだ。
 人類が生まれてこの方、おそらく、人が死ななかった日というのは無かったに違いない。常にどこかで誰かが死んでいる。生を受けたからには、死は逃れることのできない決まり事だ。人生が尊いのは、死があるからだともいえるし、人生は常に死への行進である。
 自殺をしなければならないほど苦しい生は、おそらくある。想像もできる。
 しかし、そうでないならば、人は生きたいと願う。人には寿命というものがあるから、寿命が近づけば、ある程度の覚悟も、諦めもつくだろう。
 だが、若い死はそうではない。
 若い頃のぼくを支配した言葉がある。
 One lives but once in the world.-人はこの世に一度しか生きない
 英語を勉強するために父が買ってくれた、世界の偉人の言葉を英語に訳した本の中にゲーテの言葉として掲載されていた。
 もちろん、だからこそ悔いの無いように生きるべきだ、ということが書いてあったような気もする。
 だがむしろぼくには、この唯一の生という不思議な環境の、何にも増して貴重である様だけがずっと頭にこびりついて離れなかった。
 歴史の中で、人を殺すことで多くのことが得られてきた。領土、金、幸福・・・それは、個人の殺人から、戦争に至るまで、大量の死が、何かを生んできたのは実は事実だ。だがそれは、殺害された命という代償としては引き替えようのない、まったくバランスのとれないギブアンドテイクだ。
 多くの戦争を重ね、それでも近代、二つの世界大戦を起こした先進国だが、未だにあちこちで戦争を起こしている。
 背景に宗教がある戦争も、飢餓や貧富の差、政治的対立、あらゆる理由の戦争が、すでに何度も行われ、その都度戦争が悲惨であることは語られてきたはずだ。
 人類が成熟すれば、戦争が無くなると思っていた人たちも多いに違いない。だが無くならない。
 ましてや、発展途上の多くの国は、文明社会がそれまで歩んできた道を改めて歩んでいるように、戦争が尽きず、テロという形で、地中深く潜行する。
 アフガニスタンやイラクのように、ついこの間、大国が爆弾の雨を降らすことで、形だけの政府を作り上げた国は、我々に比べると、殺人のハードルがきわめて低い。何故なら、生まれてこの方、身近に大量の死体を見続け、しかも戦後の日本のような復興を実現できていないからだ。
 しかもここ日本においてでさえ、ニュースで殺人事件の報道を見ない日はきわめて少ない。
 
 人が人を殺すという、日本で生きていれば、多くの人が、ほとんど関係なく思ってしまうことが、その日本でさえ、毎日のように起こっている。ましてや内乱や、空爆さえ続く国家で、起こらないはずもない。
 そんなところへ行って、地元の復興のために尽くすなどということが、できるだけでもすごい。
 だからこそひときわ悲しい。
 この世から、争いをなくすなどということはおそらく、無理だろう。
 だが、戦争を無くしたり、テロや内乱をなくすことは決して不可能ではないに違いない。
 でも、チベットなどのように、国家が国民を、国家のために殺害しているうちは無理だ。
 領土問題で戦車が町を破壊しているようでは無理だ。でもこれらが文明社会の姿だ。
 我々は20世紀から21世紀にかけて生きている。
 日本にも戦国時代はあったし、どの国だって、個人的な殺人から、国家による国民殺害まで、無かった国などおそらく無い。
 でも、もしかしたらその時代よりは、少しはましになっているのかもしれない。そう思いたい。
 意志の力の結集が、この世から、こういった無益な殺人を少しでも減らせるなら、力を尽くしたい。
 日本人だけでなく、どの国の人が亡くなっても、悲しみは同じだ。
 
 だが今日は、まず伊藤さんの冥福を祈ろう。
 
 

帰属意識ということ

 星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
 6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
 こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
 ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
 国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
 民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
 というより、そもそも民族って何だ?
 広辞苑にはこうある
  

(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。

 
 なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
 自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
 実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
 日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
 恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
 オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
 尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
 それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
 貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
 血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
 そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
 文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。

徳川家康


 NHKの大河ドラマのお話だ。
 先日来、TSUTAYA DISCASで、「徳川家康」を順次借りて観ている。
 山岡荘八の原作で、横山光輝もマンガにしている、非常に長い小説のドラマ化だ。大河の21作目で1983年の作品だ。
 ぼくはリアルタイムで観ていない。再放送など基本的にないから、今回が初めてになる。
 徳川家康を滝田栄、信長に役所広司、秀吉に武田鉄矢、今川義元は、今は亡き成田三樹夫が演じている。「編み笠十兵衛」の船津弥九郎以来、成田三樹夫は好きな俳優だ。
 巷間の家康像とは違って、大柄でりりしい家康だと思うが、まだ10回を見終わったところだが、なかなかいい。
 
 20年も前の作品だが、あまり亡くなっている俳優さんが少ない。すごいことだ。
 まだお話は、桶狭間を経て、信長が美濃を攻略する前の段階なので、ようやく家康が少年を脱して滝田栄に変わったばかりと言ってもいい。
 この話は家康の父、松平広忠の代から始まるからだが、広忠は近藤正臣が演じている。柔道一直線の結城慎吾、ピアノで猫踏んじゃったを足の指で弾く男だ。
 そしてその正妻、於大の方は大竹しのぶなのだが、この演技が泣ける。これまであまり大竹しのぶという女優をちゃんと見たことがなかったのだが、とても引き込まれる演技だ。こんなにすごい女優さんだったとは知らなかった。これを見れただけでも、ちょっと幸せだ。
 原作は秀吉の九州征伐の前で挫折した。横山光輝のマンガは何回か読んでいるので、どういう描き方を山岡荘八がしているかは解るが、原作をもう一度最初から読み直す気力はちょっと無い。
 普通家康は「狸おやじ」などと評され、あまりいい描き方はされない。小ずるく、信長、秀吉の後を受けて天下を我がものにした狡猾なじいさんとして描かれることの方が恐らく圧倒的に多い。
 しかし山岡版の家康は第10回に出てきた「厭離穢土、欣求浄土」を生涯貫き通した高潔な男だ。「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし」で有名だが、ぼくは個人的に、家康の実像はこちらが近いと思っている。
 性善説というわけではないが、200年近く続いた戦国の世をまとめ、世界に類のない260年という太平の世の基を築いた男が、それほど狡猾で悪い本姓を備えているようには思えない。
 確かに天下に覇を唱えるということのために、人も多く殺しているに違いないし、多少なりとも狡猾な駆け引きなども当然しているかも知れないが、マンガや小説に出てくる世界征服を狙う総統のような意識で、戦国を終焉に向かわせ、尚かつ平和な世を維持する基礎をつくるなどということは、簡単にできることではない。
 僕は、日本の武士道精神みたいなものをそれほどありがたがっている方ではない。・・・それほど知らないという方が正しいが。武士道とは死ぬことと見つけたりみたいな言葉は、好きではない。
 殺し合いが平然と(少なくとも現在より)、しかもそこに大儀をぶら下げて行われていた時代が、いいはずはないので、なぜかと言えば、もしその時代に自分が生きていたら、その刃から逃げることに躍起になっていたに違いないと思えるからだが、とにもかくにも、せめてそこに秩序をもたらした家康という男は、たいした者だと思うわけだ。
 個人的には秀吉の方が好きなのだが(面白いから)、信長や秀吉とは全く違った角度で天下統一を考えていたと思えるのだ。
 話の内容は知っているのだが、これからも十分楽しみだ。あと40回。まだ先は長いな。

2月

 2月がなぜ28日までしかないのかをネットで調べた。インターネットというのはとても便利だ。
 暦にはユリウス歴とか、グレゴリオ暦とか、それを制定した人の名前が付いているが、ユリウスは、かの有名なジュリアス・シーザーに他ならない。
 かつては、1年の始まりが3月で、終わりが2月だった。3月から始めて奇数の月は31日、偶数の月は30日とすると、31×6+30×6で366日になる。1日多いわけだ。そこで、彼は最後の月から1日引いて、2月を29日としたのだという。
 その後、皇帝アウグストゥスは、自分が生まれた8月を、本来は30日なのに、見栄を張って、31日にした。奇数月が31日だったのを8月を31日にしたため、その後を交互に30日と31日が来るようにしたら、また1日増えてしまった。そこで再び2月から1日減らした、ということらしい。
 かれこれ2千年近くも前のローマ皇帝に由来した暦は、いまだに変わっていない。
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/reki_doc/doc_0310.htm
ここが詳しい。
 人間というのは権力を持つとそれを誇示したがるものなのだ。

モナリザ

 今日のテレビで「モナリザ」はもう一枚あったという番組をやっていた。実は事情があって、最初と最後を見ていない。
 ただ、あまりに世紀の大発見みたいな大げさな番組だったのでちょっと気になった。確かに、学会では昔から話題だったみたいな言い方のナレーションはあったが、全体的に、この番組のスクープみたいな扱いで、鼻についた。
「ダ・ヴィンチ・コード」のヒットもあって、タイムリーで、面白い話題だが、世界に先駆けて番組独占スクープで初公開、誰も見たことがないみたいな雰囲気を感じた。
 たまたま手元にあるコリン・ウイルソンの「世界不思議百科」という本に、同じ内容が載っていて、しかもアイルワースの「モナリザ」の写真も見ることができる。これを見たとき、今日の番組同様、確かにこちらが本物というかジョコンド夫人を描いたものに違いないという風に思えた。この本の翻訳は1995年、原著作は1887年出版になっている。
 そもそもピューリッツァがこの絵を手に入れたときに、所蔵品ばかりか家まで手放したというくだりで、この絵の価値が解ろうというもので、科学的な分析が最近されたというのであれば、そういった歴史的経緯をしっかり流し、番組が発見したかのような作りにするのは、川口浩や藤岡弘。の探検番組のようで、それでいながらシリアスなドキュメントなので、どうも納得いかなかった。
 この絵が確かに公にダ・ヴィンチの「モナリザ」として認められてなく、今回詳細な研究の結果それが公表されることになったとしても、この「モナリザ」が、歴史の闇の奥深くから出てきたような謂いは、ダ・ヴィンチの絵に対して「暗号」という言葉でミステリアスなものを付加していくのと同じように軽薄な気がする。もちろん、「ダ・ヴィンチ・コード」は小説だから関係ない。
 こういう番組を見ると、テレビというものの底が知れるようで、今回のライブドアとフジテレビニッポン放送の問題も、それがいいかどうか分からないが、旧態依然とした放送業界が変わるのなら、ライブドアがんばれとさえ言いたくなる。
 今回の放送のようなものも、実は十分ジャーナリスティックである訳で、そういう意味では中途半端や誇張はない方がいい。
 もちろん、内容そのものは盛り上げるに十分な内容だから、それはそれでいい。だが、そうするあまり、世紀の大発見のような言い方をしたところから、実はジャーナリズムの嘘が始まるような気がする。実際にはそれほどひどい番組でもないし、カラーのアイルワース版「モナリザ」を目にできたのはそれだけでも面白かったからこそ、そう思う。

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 NHKのその時歴史は・・・のように、番組なりの新しい切り口を時折見せても、それはそれ、学説としてきちんと出されていることを前提としているのは楽しんでみられる。今回も、もう少し煽ることを止めて、しっかり作ってくれたら、もっと良かったな。

水滸伝

 水滸伝というのは中国の小説だが、明の時代にまとめられたと言われる。中国の小説は、章ごとに分かれたものを数えて何回本という言い方をするが、水滸伝は版により70回本、100回本、120回本がある。70回本は登場人物が全員揃うところで終わっている。
 この登場人物こそが、「水滸伝」の「水滸伝」たる部分で、108人という膨大な数の好漢が物語を色取る。この好漢達が梁山泊という湖の中の山に集まっているから水滸伝なのだ。
 この108人には、その昔、洪という軍人が封じてあった魔物を解放してしまい、それが宿った108人なのだが、皆一癖もふた癖もあり、しかも元役人であろうと、山賊仲間なのだ。
 それぞれ名前にはあだ名が付いており、しかも順位がある。例えば順位の1番は及時雨の宋江、2番目は玉麒麟の盧俊義といったようにだ。これらの人物は天こう星、地さつ星に大きく分かれている(この「こう」と「さつ」はパソコンでは出ない)。天こう星36人、地さつ星72人で108人となる。
 まず話は官軍の棒術師範の王進が陥れられて都を逃げるところから始まる。この陥れる相手が、国を牛耳る高毬という高官で、梁山泊と敵する第一の男である。王進は好漢の一人ではなく、逃げる途上、史進(九紋竜)という男の家で世話になり、史進に稽古を付ける。この史進こそは、108人のうちで最初に物語に登場する好漢で、物語は王進から史進に移る。
 108人を登場させるには一人一人は無理なので、ここでも山賊として3人が仲間になり、一気に4人の好漢が登場する。
 史進に次いで、魯智深(花和尚)、林沖(豹子頭)というように、すこしずつ関連性を持ちながら新しい人物が登場し、まず林沖が梁山泊に身を寄せる。
 この時の梁山泊は王倫という男が仕切っているが、その後、晁蓋という男を首謀者に山賊行為をした7人の好漢がまとめて入ってきたときに、王倫は林沖に殺され、晁蓋が最初の山塞の主となる。
 晁蓋は途中で命を落とすので108人の一人ではないが、その後ただの人殺しや、悪徳商人、官吏、軍人など様々な職業の人間を迎え入れて108人が水泊に寄るのだが、人を殺しまくり、人肉をまんじゅうに入れて売ったりしながら、それでも義に篤く曲がったことの嫌いな、奇妙な道徳観に支配された男達が、最後には朝廷に帰順し、官軍として戦い、一人一人と命を落としていく、なんだか結果的にとても寂しさを感じさせる物語でもある。
 とにかく長大な物語の中心は108人が集まるまでの数々のエピソードで、こればかりは読んでみないと面白さは解らない。
 私は初めて水滸伝に接したのはゲームだったので、偉そうなことは言えないが、様々な翻訳で読み直し、漫画も読み、いろいろな人が自分たちでエピソードを書き換えている類の小説も読んだ。一番面白いのは普通の翻訳物で、なんてよくできているのだろうと、他の本を読むたびに思う。
 多分、ただの悪人は悪人に描かれ、それでも義に篤いとか、人助けをするとか、実際にその辺りにいたら、時にはいい人かも知れないが自分勝手で、とても野放しにはしたくない奴らなのに、書き換えられて別な性格付けがされた本よりも非常に生き生きした感じがいいのだろうと思う。
 壮大な歴史上のの事実も交えながら、三国志より大分時代が下っていながら、より幻想的で嘘くさいお話しは、それ故に破天荒でわくわくする。それぞれの好漢の性格付けなど、それほどされているわけではない。ごく数人に関してのみ、しっかり特徴づけられてはいるが、それ以外は実はかなり十把一絡げで、別の好漢と入れ替わってもいいだろうという程度だが、それでも108人はエピソードや得意分野、等で書き分けられているのだ。
「南総里見八犬伝」はこの水滸伝を元にしているが、この108という人物が縦横に飛び交う面白さというのはなかなか味わえないと思う。
 お読みでない方は是非ご一読あれ。

4大文明

 メソポタミア、エジプト、黄河、インダスという世界の4大文明は歴史の最初で習った。「ナイルの賜」とか、チグリス・ユーフラテスとか、懐かしい気がする。
 しかしそれらの、年中洪水を起こすような川の畔で、どうして人類の最も古い文明が起こったのだろうか?
 川があって農耕に適している地域は他にもたくさんあるだろうし、実際人が住むに適していて、気候がそこそこで、等といういくつかの条件を加えていっても、世界中に候補はまだたくさんあるだろう。
 変な話、人の大きさと地球の大きさを考えれば、日本の中で、濃尾平野だって、信濃だって、起こる可能性があったかも知れない。尤も、日本はよっぽど昔でなければ、大陸と海で隔てられていたから、人的交流という点では他の地域より少なかったろうし、外敵も少なかっただろう。
 私は、農耕とか川とかよりも、外敵などによる緊張感が、一番大きな理由のような気がしている。民族的な集団が、より大きな規模でぶつかりながら、頼りも生き残るという、サバイバルな条件が、文明を起こす最も大きな原動力で、農耕ができたなどというのは二の次のような気がして仕方がない。
 現代に及ぶ5千年の文明の中で、人類が発展してきたのは争いと、多をけ落とすための、涙ぐましいほどのエゴイスティックな努力こそが、最大の理由だ。
 
 よく戦争が文明を発達させてきたと言われる。これは事実だが、それ以上に、戦争でなくても人は、競うというレベルから殺し合うというレベルへの切れ目のない諍いの歴史を通じて発展してきたのだ。ことさらな平和は文明を停滞させてきているように思える。と同時に、過度な争いもまた文明の発達を阻害する。
 メソポタミアの地は紀元前3千年以上前に文明を築きながら、現代では紛争のるつぼとなっている。単純に宗教が問題なら、ヨーロッパだって暗黒時代を通ってきている。もちろん、キリスト教徒ユダヤ教、イスラム教という微妙に共通する素地を持った宗教は、あの地域に西洋のような合理的な文明を発達させるための「割り切り」のようなものが生み出される余地がなかったと言えばそれまでだ。
 だが、ふと見ると4大文明が生まれた四つの地域は、現代では文明の近代化では遅かった地域ばかりだ。これは何か意味があるのだろうか?伝統が文明化を邪魔する等という短絡的な表現は多分意味を持たないが、でも、そういった何かが有るような気が、私は少しだけしている。
 革新とかエポックメイクとかは、言ってみれば伝統の打破と表裏一体で、それが必ずしもいい物を生み出すという保障はないし、人類の歴史をそれで括るのは必ずしも正しい見方ではないのかも知れないが、古くて昔から連綿と続く何かにしがみつくというのは、一面、新規なものを否定していくということで、それは長い歴史をたどってみると、結果的に時代の中で取り残されることになる。
 日本が経済大国になった道をブラジル、ロシア、インド、中国等が追いかけてきて、追い抜いていくのもそう遠くないらしい。短期でもそうなのだ、文明も長い歴史の中では移ろいゆくのだろう。オリエントの神話の本を読みながら、ふと思った。

ツタンカーメン

 ツタンカーメンと言えば、エジプトの最も有名なミイラだ(変な表現だが)。10才で即位し、18才で死んでいるのだから、何かをすると言うことの方が困難だが、イギリスのハワード・カーターという考古学者が、ほとんど盗掘されていない墓を発見し、なおかつその後の発掘に関わった人々の不思議な死で、「ファラオの呪い」として有名になった。
 現在、そのツタンカーメンのミイラがCTスキャンにかけられ、分析されているという。約3350年前の死体に対するCTスキャンというのがすごい。先日テレビで、そのシーンを放映していた。
 分析に当たった博士は「カーターが無理矢理仮面を剥がそうとしたからミイラが痛んだ!」みたいなことを言っていたが、カーターが見つけなければ、いまだにツタンカーメンの王墓は見つかっていなかったかも知れないことを考えると、ほとんど八つ当たりに近い。
 放送で見たミイラは、確かに人の形をしているが、人型をした黒い固まりに過ぎなかった。魂が永久不滅だとしたら、この抜け殻は必要ないし、むしろ、魂があるとしたら、このミイラにこそ宿ってしまいそうな気がした。
 この分析を担当した学者も『ファラオの呪い』はあると信じていると言っていた。現にミイラを運び出すときにいくつかの問題が発生したらしい。
 この世に、呪いだの祟りだのという、ホラー小説には欠かせないテーマが本当に存在するのか否かは、普通に生活していては解らないし、何かが起きても『偶然』という言葉はいとも簡単にそれらを否定してくれる。
 しかした例えばツタンカーメンの関連書籍などを読んでみると、確かに発掘に関わった多くの人が、奇妙な病気や事故でなくなっているのも事実だ。偶然にしては頻度が高すぎる。と言って、ではカーターは、と言えば、65才まで生きている。これを早いと言えば、そうかも知れないが、発掘からは15年以上経っているし、全員が不思議な死に方をしているわけではない。
 
 何でもそうだが、例えば細木数子の占いが100%当たるのかというとそう言うわけではない。でも、もしかすると、普通よりも確度が高いのかも知れない。氏の六星占術は、人間を六つに分類して「水星人」「金星人」「火星人」「木星人」「土星人」「天王星人」の性格や、運勢を判断するものらしいが、昔から八卦見と言うのは当たるも八卦当たらぬも八卦という一六進法で50%を言ってしまう性質を備えている。
 つまり、何も考えなくても半分当たる可能性があると言うことなのだ。半分当たれば、それはそれで傾聴に値する。少なくとも、災難に関する物であれば、避けて通るにしくはない。外れるかもしれないけど、50%は当たる。
 まあ、ファラオの呪いが、果たしてこれとどうクロスしてくるのかと言うことだが、確率から言うと、多分こっちの方が率が高いと言うことくらいだ。墓の前に「暴くと呪うぞ」と書いてあったからそう言うことになったというのが、ある意味真相に近いらしい。
 ことほど左様に、眼に見えない何かというのは当てにならない。
 だが、では否定できるかというと、否定すべき根拠がない。「非科学的」という言葉もまた、現代の科学を過信して、あらゆる事が現代科学の前には白日の下に晒されているかのような誤解の上に成り立っている、あまり意味のない言葉だ。
 否定できない最大の理由は、否定するほど明白ではないからだ。
 だが諸君、場合によっては予言も成就する。当たるも八卦なのだ。
 部屋にいても「明日雨になる」と言えば、時には雨になることもある。
 占いとか予言、信じるに値しない物がほとんどだろう。ノストラダムスだって外した(尤もこれは解釈が間違っていたという見方もあるようだが)。だが、君子危うきに近寄らずだ。
 これを読んでる人、いつかあなたも死にます。この予言だけは外れることはない。