サイエンス・インポッシブル

 表題の本を読んだ。作者は著名な理論物理学者のカク・ミチオ氏。

 現代の科学的知見に基づいて、SF的なアイディアを実現不可能レベルで三段階に分けて解説している。
 非常に面白くかつ、読み応えもある本だ。
 現在これをきっかけに、科学本読書週間に入ってしまった。

 さて、不可能レベルの三段階は
  I 現時点では不可能だが、物理法則に反していないので遠からず可能になる可能性が高いもの
  II 「物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジー」
  III 基地の物理法則に反するテクノロジー
 と分けられている。
 要するに、できるかもしれない、できたらすごいぜ、絶対無理に別れている。尤も、絶対無理も、カク氏は言い切っていない。この柔軟さは科学者にとって必要なのだろうなと思う。
  そのIIIには「永久機関」と「予知能力」しか含まれていない。
  そして驚くのはIの項目だ。

「フォース・フィールド」「不可視化」「フェイザーとデス・スター」「テレポーテーション」「テレパシー」「念力」「ロボット」「地球外生命とUFO」「スターシップ」「反物質と半宇宙」

 これだけのものが含まれている。できそうもないものがたくさん。
 フォース・フィールドとは、いわゆるバリアだ。エネルギーで外部からの攻撃などを防ぐ障壁のことだ。カク氏はスタートレックのファンのようで、随所にスタートレックが例に挙げられている。フェイザーもスタートレックの「フェイザー砲」という武器のことだ。

 このエネルギー式のバリアというのはアニメなどでは、ごく当たり前のように出てくる。 とても便利だし、多くの災害から人間を守ることがで切る装置だから、是非とも完成させて欲しいが、不可能レベル1でも読んでいると、「そうか~できるのかもしれないが、その頃にはおれはこのようにはいないな」という感じだ。
 これらの中で、「テレポーテーション」は言ってみればドアのないどこでもドアなので、夢は膨らむし、実際量子レベルでは成功しているらしい。人間が瞬間的に空間を移動できるというのとは、そもそも違うようだが、科学はこれまで、その時々で不可能と思えることを可能にしてきてもいるので、誰が言ったか忘れたが、「人間は頭で考えられることは実現できる」のかもしれない。

 こういう書物を読むと、今の科学者が、現在の実利的なことから、将来や夢物語みたいなことまで、非常に多くのことを考えているのが解る。そして自分がその中にいないことが、非常に残念でもある。
 また、あるいは可能になるかもしれないというこれらの事象について、それをこの目で確認できそうにないこともまた、残念である。

 こんな楽しい話を読みながら、でも感想はそこかよ!
 宮崎あおいではないが、ぼくも生まれ変わる予定は今のところ無い。でも望むらくは何度でも生まれ変わって、未来を見てみたいものだと、つくづく思うのだ。
 

トランスフォーマー

トランスフォーマー~ダークサイド・ムーン~を観た。

 これで3部作が簡潔なのだろうが、脚本的には、いちばん「なんだかなぁ~」感が残ったとしても、こういう映画はシーンの連続で楽しませてくれるので、それなりに楽しんで観てしまう。「ダークサイド・ムーン」を説明するときにピンク・フロイドを出したり、意外にそういうところが好きだったりする。
 こういう巨大ロボットものの嚆矢はやはり、「鉄人28号」だと思うが、CGもここまできれいになってくると、非常にリアルで楽しい。この映画は3Dなので、それで観ればもっと臨場感というか、楽しく観れるのだろうが、PCの画面でも十分楽しめるのだ。

 オートボットという正義のロボット宇宙人とデセプティコンという悪のロボットの戦いが地球上で行われ、そこにシャイア・ラブーフが絡んでくる。他のハリウッド映画でも何度も見たことがあるようなストーリーではあるし、今回はひねりもあまりないのだが、何か納得してしまう。主人公が死ねるシーンは10回以上あるが、決して死なないし、結果ヒーローなのだ。

 唯一設定的に面白かったのは、アポロの打ち上げとストーリーを絡ませたところだろうか。

 マーベルコミックを映画化した作品はとりあえず娯楽作品としては外れがない。
 これまで見た中では、最初の「アイアンマン」が一番面白かったが、その他の作品も、決してつまらなくない。
 
 願わくばマーベルではないが「ドック・サヴェッジ」をシリーズで映画かして欲しいものだ。ついでに翻訳も全部出して欲しいな。




時をかける少女

仲里依紗主演による映画「時をかける少女」を観た。もちろんDVDだが。
「時をかける少女」に関しては、最初の出会いはNHKの少年ドラマシリーズ、島田淳子主演の作品だった。熱中して観た。私自身は当時、中学1年だった。筒井康隆による原作、「時をかける少女」も購入して読んだ。今でも持っているが少年少女向けの、新書よりちょっと大判で出ていたSFシリーズの1冊だった。
原作とドラマは少し違っていたが、こちらも楽しく読んだ。
半年後には続編も放送され、こちらもとても面白かった記憶がある。尤も、内容は全く覚えていない。
ウィキペディアを見るとこの作品、実にたくさん映像化されている。
時系列でいえば、上記の72年のNHKドラマのあと
1983年 原田知世主演 映画
1985年 南野陽子主演 TVドラマ
1994年 内田有紀主演 TVドラマ
1997年 中本奈奈主演 映画
2006年 仲里依紗(声)主演 アニメ映画
そして2010年 仲里依紗主演 映画
と、NHKを2本と数えれば、なんと8回だ。面白いのは、このうちの3回は原作の世界の続編的位置づけであるということだ。NHKは当に「続・タイムトラベラー」というタイトルだったし、アニメ作品はかつての主人公芳山和子の姪という設定らしい。
そして今回の仲里依紗は芳山和子の娘だった。
実際のところ、最初の2作品は、細かい部分に関して記憶も曖昧だ。一時期Youtubeに上がっていた最終話を見ると、こんな最終回だったかなと思えるくらい、記憶にない。現在はYoutubeで見ることができないが、どういう理由で削除されたのか、こういう映像こそ、Youtubeで公開すればいいので、NHKの著作権を理由に削除されたなどという理由だとしたら、受信料を払いたくなくなる。理由を知らないので、あくまで憶測だが。
さて、残りの作品の中で見たことがあるのは、角川映画の原田知世版だけだ。何でも自分のノスタルジーと同化させてしまう、当時の大林宣彦によって作られた、全く緊張感のない映画は、まだタイムトラベラーの記憶が鮮明だったであろう当時の私にとっては、駄作以外の何物でもなかった。
原田知世は嫌いじゃないが、作品としては泣けてきた。「転校生」「さびしんぼう」と併せて尾道三部作といわれているようだが、「転校生」は悪くない。
残りの2本のドラマは観ていないか、観たかもしれないが忘れてしまった。97年の映画に至っては、全く存在を知らなかった。その後の2作に関しては脚本がオリジナルなので、過去の作品と同列に扱うことはできないが、2006年のはアニメであるという理由で観ていないが、今度レンタルしてみようと思う。
なぜかといえば、今回の仲里依紗の演技が非常に良かったからだ。
今回の「時をかける少女」は、医学部に進んだかつての主人公芳山和子が、自らの手でタイムトラベルの薬を開発し、かつての深町一夫(ケン・ソゴル)に逢いに行こうとしたのだが、事故に遭い、代わりに娘のあいかがその役割を果たすために70年代にタイムトラベルするという話だ。
そもそも芳山和子にいつ記憶が戻り、どれほど重要なことを伝えに行くはずだったのかとか、元々それほどしっかり描かれているわけでもないタイムパラドックスや、都合が悪い部分はさっさと記憶を消してはいさよならという設定の部分は、原作ですらきちんとしているわけでもなく、そこを描くのが主眼でもないはずなので、敢えて問わない。
だがそれを越えて、今回の作品はドラマとしてよくできていて、みて良かったと感じさせてくれた。主役の二人、仲里依紗と中尾明慶の演技が良かったこともあるが、脚本も構成も良かった。
最後をどう見せるかは、こういう作品では非常に難しいし、今回も必ずしも成功しているとは言い難いが、ではどういうラストならいいのかということになると、これは非常に難しく、どういうラストにしても不満が残るに違いないと思う。だが作品の性質上やむを得ないと思う。
かつてこういう恋愛タイムトラベルものの中では、「ぼくの彼女はサイボーグ」はよくできたラストだった。
昔の「時をかける少女」を知っていた方がより楽しめるし、そのためには原田知世の作品を観ておいた方がいいのだが(もちろんこの映画の続編というわけでは全くないが)、単体でも楽しめると思う。
仲里依紗という名前は、なんと読むのかなと思っていたが、「なか りいさ」と読むらしい。「マイボスマイヒーロー」にも出ていたのか!知らなかった。





「樹環惑星―ダイビング・オパリア―」

友人が第11回のSF新人賞を受賞し、その受賞作「樹環惑星―ダイビング・オパリア―」が本日、徳間書店から発売になった。
ありがたいことに「献本」が今日届いた(買うって、もう一冊)。なのでまだ読んではいない。
これから彼と、他の友人と共に飲みに行く。まずは乾杯。
内容や感想はいずれ。
いい刺激である。

謎の円盤UFO

「謎の円盤UFO」を見始めた。何を今更だが、懐かしい。
 最初の放映は1970年の10月からということなので、今から約40年前。オリジナルのイギリスでの放映はその3ヶ月前からだから、とてもタイムリーな放送だったのだ。
 放映の10年後を舞台にしていて(つまり1980年)、宇宙のどこからか地球侵略のためにやってくるUFOに対し、イギリスの映画会社の地下に作られたSHADO (Supreme Headquarters Alien Defence Organisation) ・・・宇宙人防衛組織最高司令部か?とそこの司令官ストレイカーが立ち向かうという物語だ。

straker

「サンダーバード」や「キャプテン・スカーレット」と行った人形劇や後の「スペース1999」なども作ったジェリー・アンダーソンという人のテレビシリーズで、全26話。なかなか面白い。
 70年に80年代を想像して描かれているが、デザインはむしろ当時の21世紀的イメージで、かっこいい。だが冒頭の導入シーンで毎回流れる映像があるのだが(SHADOの紹介)、一つ一つの紹介を文字にするのがしっかりタイプライターというのが時代を感じさせる。なぜか女性が着ている服が、体にぴったりしていたり、さすが70年代と思わせるエロティックな雰囲気を醸し出しているのも特徴的だ。
 この当時はなんか、アメリカ映画にも裸が多かったような気がするし、11PMなど、テレビでも平気で女性の裸を出していた。志村けんの番組だって、そうっだったような気がする。当時は何がよくって、何が今はだめなのか分からないが、不思議だ。あ、テレビで出せと行ってるわけではない。

ufo

 UFOの放映された70年は、私はまだ小学生だったので、最初の放送を見ていたわけではないと思うし(どうやら裏番組が「8時だョ!全員集合」だったらしいので、きっとそっちを見ていたに違いない)、全話を見た記憶もないが、おそらく再放送で何回か見ている。
 たぶんこの手の物語は、しっかりとした最終回が無く、うやむやな終わり方をしてるのだと思うので、最終回を期待しないで、少しずつ見ていこうと思う。
 番組のナレーションは矢島正明で、登場人物も「ユーエフオー」と発音しているが、オリジナルは「ユーエフオー」といったり「ユーフォー」と言ったりしている。私は、ピンクレディのせいで「ユーフォー」になったと思っていたが、この発音はもともと「ユーフォー」といういい方もあったのだなと、改めて知った。確かに、日本ではピンクレディから変わったのは事実だろうけど。
 また、ムーンベースという月面基地から飛び立って、UFOを迎撃するインターセプターという飛行機というか宇宙船が発進するとき、吹き替え版でだけ、なぜか「サンダーバード」の音楽が流れる。だがこの改変はむしろいい。
「スペース1999」でも、月面基地は「ムーンベースアルファ」という名前だが、よく考えてみると日本語なら「月面基地」と言ってるに過ぎなのだ。ああそうかと思った。

 この作品、今見ても十分に楽しい。最も観たい「超人ハルク」は、今のところテレビ版はダイジェストしか出ていないので残念だが、「24」や「ヒーローズ」もいいが、この当時の、こういうドラマはなかなか捨てがたい。
 ところで、この当時から(実際はもっと前から)謎の円盤はUFOとして、あるのか無いのかというのが楽しい話題だったが、未だに矢追純一はたまにテレビに出てその話をしている。40年は長いぞ。
 実際にUFOを見たことはないので、是非見てみたい。飛んでこないかな。

祝・ローダン月2冊刊行

 またもやローダンの話だが、早川書房の、ペリー・ローダン・シリーズが、今年に入って月2冊の刊行となった。
 元々、1冊に2話入っているから、月4話、年間48話ということになる。ほぼ2年で1サイクルは読めることになる。1年は約52週あるので、ドイツとの差は4話ということになる。
 かつて翻訳をされていた松谷氏がジェット旅客機を、プロペラ飛行機で追いかけるというたとえは、今や、ボーイングをダグラスで追いかけるとか、その逆とか、その程度になった。
 
 とはいえ、現在の最新刊が371つまり、742話が収録されている状況なので、片やニューヨークに着いている飛行機を、ハワイ辺りで追いかけている感じか。しかも目的地が見えていないのだが。
 ドイツでは2530を越えているので、たぶん、生きている間には読み切れない。今後年50話読んでも、現在の差、1800を読み切るには36年かかる。それだけなら、頑張れば実現可能かも知れないが、その間に、おそらく向こうは5000に近づいているはずだからだ。
 終わりは見えない。
 ここへ来て、1話からずっと表紙と挿絵を描き続けてきた依光隆氏がローダンを引退された。ある意味マンガのようで(これは原作に登場するからやむを得ないのだが)、様々なタイプの宇宙人の絵などが並んだ表紙は、ある意味恥ずかしいこともあった。
 ハルト人のように目が三つあって、腕が4本あって、ずんぐりむっくりな生物や、キャプテンウルトラのバンデル星人を、もっと平らにしたようなブルー属や、それ以外にも異形な生物のオンパレードだ。
 だが、目力のある依光氏のローダンや、愛すべきデブ、ブリー、ちょっと気位の高いアトランなど、それぞれの特徴がその絵に表れていて、非常に美しい表紙だった。残念だが、最初にローダンを始めたシェール、そしてダールトン亡き今、翻訳も故・松谷氏から他のメンバーに移り、依光氏も退いた。
 新しい時代に入ったということかも知れない。
 新しく表紙を描き始めたのは工藤稜というイラストレーターだ。これまでの依光氏のカラーを存分に生かした流れを止めない仕事をしている。変わると知ったとき、最近流行の漫画チックな表紙にされたらどうしようと、非常に不安だった。
 小説の表紙にコミックまがいの画を描かれると、棲み分けができていないという違和感がどうしてもぬぐいきれない。絵自体の善し悪し以前に、好きになれないだけのことだが。
 しかし今回、早川書房はよくわかってらっしゃる。
 確かに、線の甘さや、キャラクターが少なからずコミックタッチに柔になっているという難点はあるが、たぶんこれ以上は望めないし、徐々に板に付き、工藤氏の落ち着いたカラーになっていくはずだ。
 最新刊の「にせマルコ・ポーロ」は、だいぶ感じが良くなっている。今後の期待大だ。
 ようやくローダンも銀河系に戻ってくる。今後アトランとの確執も始まるらしいので目が離せない。以前と違い、読み終わってから次の巻が出るまでに期間が短いので、ずっと続けて読んでいる感がある。
 自分自身がすでに、ローダンとは35年のつきあいなので、読書としてもライフワークに近い。
 これからもよろしく頼みます、早川書房!
 

「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。

 というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
 ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
 宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
 まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
 先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
 一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
 宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
 非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
 ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
 それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
 テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
 生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
 ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
 人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
 アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
 さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
 ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
 さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
 ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
 ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
 いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。



ニーチェの作品


ムアコックの作品。現在絶版中のよう

何となくSFのDVD(ネタバレ)

 ここ1か月くらいの間に、「インクレディブル・ハルク」「アイアンマン」「ハンコック」というアメコミヒーロー(ハンコックはどうだか知らないが)のDVDを観た。
 テレビのCMで3か月連続リリースと、この3作をまとめていたような記憶がある。
 マーベル・コミックというアメリカのコミック誌で人気のあるハルクとアイアンマン、同時期に上映されたがやはりヒーローものということで一緒くたにされたのだろう。
 単純に面白さから言えば、「アイアンマン」「インクレディブル・ハルク」「ハンコック」の順だ。
 ハルクに関しては、何度も書いているように、かつてのドラマ「超人ハルク」に心酔しているので、ひいき目でもあり、実は逆に手厳しくもなる。ルー・フェリグノが演じたハルクは、コミックのハルクとは全く違うが、CGではない、生身の人間としての迫力があった。また、デヴィッド・バナーを演じたビル・ビクスビーの魅力も大きかった。そもそもオリジナルはコミックなので、このドラマ版も亜流で、主人公の名前も、ブルースからデビッドに変わっている。でも、アメコミ版を読んだことがないので、実はその点はどうでもいい。
 今回の映画は、ブルース・バナーと原作に忠実だが、実は音楽の一部に、ドラマ版の音楽を使っているところが心憎い。ドラマのエンディングで、デヴィッドが一人町を去り、ヒッチハイクをしていくシーンで必ず流れていたピアノ曲が、使われていた。
 数年前に「ハルク」というのが上映されたが、実はこれを観ていない。今回の作品とつながりがあるのかも知らない。
 今回のバナーは、うまく孤独感も出していた。
 お話はこういう物語によくある、ハルクと同等に強い悪が出てきてハルクが倒すという物語なので、単純にストーリー展開だけを追うのであれば、ありきたりだ。だが今回の「インクレディブル・ハルク」は、比較的よくできていた。結局のところ、この物語は、元に戻りたいバナーが苦労をしても元へ戻れない中で、ハルクが活躍をする物語でしかないので、その点がいかにうまく描かれるかが勝負なのだが、今回は成功していると言える。
 エンドロールが終わった後に、ハルクを軍の兵器として利用しようとして失敗したかつてのバナーの上司にして、恋人の父親でもある将軍の元に、「アイアンマン」の主役であるトニー・スタークが現れるという心憎い演出がある。
 一方その「アイアンマン」だが、何となく一見すると古くさいアイアンマンの外見だが、アメリカ随一の軍事会社の社長トニー・スタークが作り上げるアイアン・マンというまあ、言ってみれば小型のガンダムのようなものだが、このハイテク鎧のCGはなかなかよくできている。そもそもスタークが、武器商人から正義の人に変わるきっかけとなる無骨なプロトタイプを出すことで、そのハイテクぶりも際だっているし、空想科学読本辺りで完全に滅多切りされそうな、突っ込みどころの多い鎧ではあるが、物語中では十分にリアリティを感じさせる。
 物語はこの手によくある、仲間だった男が実は最大の敵だったというパターンだが、その辺りを含めても、よくできた作品に仕上がっている。秘書役のグィネス・バルトローもいい味を出している。
 しかも、ヒーローが堂々と記者会見で正体を明かすというのは楽しい。
 この作品もエンドロールの後に、一くさりある。
 こちらはアヴェンジャーズのソーからのお誘いだ。
 アヴェンジャーズは、マーベル・コミックのヒーロー大集合のグループだが、リーダーがキャプテン・アメリカ、そしてソーとアイアンマンがビッグ3と言われるらしい。ハルクもこのメンバーだ。
 これが次の作品への布石なのか、単なるおまけなのかは解らないが、なかなか粋な計らいだ。
 さて「ハンコック」だが、嫌われ者のヒーローという設定が面白そうで一番期待していたのだが、図らずも最も肩すかしを食らった。ただ、彼をまっとうなヒーローに仕立てようとするエンブリーという男の妻が、実はハンコックの元妻で、ハンコックと同等の力を持っていると言うところは面白かった。だが、逆に言えば、その設定が物語の骨子をほぼ決めてしまっていて、「インクレディブル・ハルク」や「アイアンマン」にある、同等かそれ以上の力を持つ悪との対決という構図にはなっていない。むしろ、弱点を突かれて、力を失うというパターンで、どちらかというと人間的な感動ドラマに持っていこうとでもしているかのような部分が、ちょっとうざい。
 ただ、これも決してつまらないわけではない。先日書いたキアヌの「地球が静止する日」に比べたら、遙かにできはいい。映画としてはあれはくそだ。
 この3作、何よりトニー・スタークのかっこよさが際だっている。
 さて、ハルクのバナー役の吹き替えを水嶋ヒロ、ハンコックのエンブリー役を眞木大輔、この3作とは関係ないが「スピードレーサー」の吹き替えを赤西仁、「ウォンテッド」の主役をDAIGOが吹き替えており、まあ昨今芸能界の著名人による吹き替えが花盛りだが、どうにかこれを止めて頂きたい。使うなら端役からうまくなるまで待って使って欲しい。
 DAIGOは論外だが(今時素人でもこんなくそみたいな吹き替えはしない。これでいいと思っているスタッフの気が知れない)。赤西もなかなかひどかった。相手役の上戸彩はまあまあだったのに。水嶋と眞木大も決してうまくはないが、我慢できる範囲だった。とはいえ、他の声優に比べたら、雲泥の差で、最近吹き替えで観ることが多いので(字幕を読むのが面倒)、不満の一つだ。
 さすが餅は餅屋で、声優さんというのはたいしたものだと、思わずうなってしまうのだ。


地球が静止する日

「地球が静止する日」を観た。といって、このタイミングなので、決して「ジャイアントロボ」じゃない。キアヌ・リーヴスの方だ。
 まあ、こういうテーマの映画ができれば、ほとんど観る。ただし映画館では観ないが。DVDだ。
 たぶん、地球温暖化とか、そういう環境問題への啓発的な意味もある駄作だ。
 圧倒的な科学力を持つ宇宙人が人類を破滅させるためにやって来るという、これまでSFでは、いったい何人の作家が書いているのだろうというシチュエーションを題材にしている時点で、相当にハードルを上げているわけだが、案に相違せず、ハードルを倒しまくっていた。
 圧倒的な迫力という意味では、「インディペンデンスデイ」の宇宙船の方が遙かに勝っているし(とはいえこの映画も最初に観たときには「幼年期の終わり」かな?と思ったくらいだが、「未知との遭遇」とか、「2001年」のモノリスをたどるまでもなく、人類より優れた文明の到来というのは,それほど多くのパターンで描けるわけではない)
 
 この時点でネタバレ的に見えるが、そもそも、映画の予告編を見れば、この辺りまでは解る。
 いや、たぶん、結末も最初に見える。見えないのは、何が原因で地球は危地を脱するのか、という点で、もはやこの件は、あほらしすぎる。
 あほらしいと言えば、アメリカの国務長官と大統領の、もっと言えばアメリカ軍の反応が、これほどステレオタイプに描かれなくてもいいのではないかという点だ。
 こういう映画は、予定調和でも仕方がない。ある程度は我慢する。
 だが、この脚本は、全く人物が描かれていないし、描き方も平板だ。
 
 冒頭でジャイアントロボと書いたが、「地球が静止する日」というアニメは、横山光輝の「ジャイアントロボ」を元に、横山光輝が生み出した多くのキャラクターを縦横無尽に配置したアニメで、文字通り地球というか、文明の動きを静止させることを目的としたBF団と国際警察機構の戦いを描いた作品だ。
 今回の「地球が静止する日」は「The Day the Earth Stood Still」の邦訳だが、原題も含めて、何かピントがずれているような感じを受ける。確かにそうなのだが・・・・みたいな。
 同様に、横山作品に「マーズ」というSFがあるが、これも危険な人類を宇宙から抹殺しようとする宇宙人の話だ。確かに、地球を滅ぼす宇宙人と、地球を守るために人類を滅ぼそうとする宇宙人という差こそあれ、今回の映画制作者に、この作品を読ませてやりたい。
「インディペンデンスデイ」くらい、アメリカ万歳みたいな映画なら(これは「アルマゲドン」も同じだが)それは娯楽として楽しめばいいので、痛快であるという時点で成功している。
 だが、この啓蒙的な臭いがぷんぷんしながら、その実、どこよりも優れた兵器を持つ生物が、宇宙の平和を守っているという、本末転倒な何かが、ここにはある。クラークの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。、

オッド・トーマス

 クーンツの「オッド・トーマスの霊感」というのを読んだ。
 ぼくは実は、いわゆる「ホラー」が嫌いなので、スティーヴン・キングも含め、ホラーらしい作品を書いている作家さんの作品はほとんど読まない。読んだら面白いのかも知れないが、どうも肌に合わない。
 クーンツも実は最初、そう思っていたので読む気はなかった。だが、「ウォッチャーズ」という作品を読んで、好きになった。もう15年くらい前ではないかと思う。ステープルドンの「シリウス」を思いながら読んだ。これが面白かったので、何冊か読んだ。ただこの人の場合、何冊というのがほとんど上下巻だったりするので、冊数だけは多い。
 しばらく読んでいなかったのだが、何となく書店で瀬名秀明の帯に惹かれて買った。
 結論から言えば、面白くなくはない。霊が見える平凡な主人公という設定だが、設定上の多少のご都合主義は、どんな場合でも許されるので、彼がヒーローとなる元、つまり、未来予知できるわけではないのに、結果的に予知をし、事件を防ぐという流れは、ある意味とてもハリウッド的で、悪くない。ただ、そこへ行き着くまでが、とにかく長い。この小説を、この長さで書く意味がよく分からない。
 もちろん、主人公とその婚約者の関わりは、どんでん返しも含め、とても重要な話だが、個々まで紙を使わなくても、と思ってしまう。
 ぼくは元々長い小説が好きだ。ローダンを例に出すまでもなく、先日取り上げた「モンテクリスト伯」「ダルタニャン物語」「レ・ミゼラブル」「三国志」「水滸伝」「ファウンデーションシリーズ」「デューン・シリーズ」などから比べれば、「オッド・トーマス」は短い。「罪と罰」や「氷点」などと比べても短い。たぶん「ウォッチャーズ」よりも短いのではないか。
 でも長く感じた。長いというより冗長だ。なんていうとファンから起こられるかも知れない。
 微妙に純文学的な、主人公の周りの世界、日常や家族関係など、あるいは続編のために必要な複線なのかも知れないが、正直もう少しソリッドにしてもらえたら、だいぶ楽しめた。
 こういうヒーローは少なからず存在する。ハリウッド映画などでは、否応なしに事件に巻き込まれた、決して強くない主人公が、結果的に事件を解決するパターンはよくある。トーマスはもう少し能動的であるが、ある意味パターンとしては新鮮味があるわけではない。
 ただ、小説には必ずしもアイディアの新鮮味など必要なわけではない。同じアイディアで、それ以前のものよりも優れた作品を書くことは十分可能で、「ロミオとジュリエット」なんて、まさにその典型なのではないかと思える。まあ、「オッド・トーマス」の場合は、「ロミジュリ」ほど、アイディアがありふれているとは言わないが。
 作品の後半が、よく書けているだけに、そこまでの流れが少々「うざい」。また、自ら「アクロイド殺し」の語り手というような書き方をしているのは、実はちょっと卑怯な感じもするが、でも実は、これを読んだ人の一部は、きっと思い至ったはずの最後の数章の内容に、悔しいけれどぼくは気づかなかった。クーンツの手の上で踊らされていたわけだ。そして、この作品で一番良かったのがそこの件なだけに、やられた感があった。
 もう少し真剣に読んでいれば、思いついたかなとは思うのだが、ちょっと悔しい。
 続編が出たら読むかどうか迷う作品だ。
「デューン」や「ファウンデーション」の時は、全く迷いもしなかったが・・・

 カテゴリSFにも入れてるけど、SFじゃない。