MP3

 SonyがヨーロッパでMP3対応の音楽プレイヤーを発売するという。
 Sonyは音楽をダウンロードして聴く際に、Atracという独自のフォーマットをサポートしてきた。これはMDウォークマンでも使用できるフォーマットだ。そもそもは手軽にコピーを取られたくないための著作権保護から発したものだ。
 音楽関連メーカーはこれまでもコピー・コントロールCDをAVEXが先陣を切って発売し、他社がそれに追随している。
 あの手この手で不法なコピーが世界中を駆けめぐる中、それを阻止しようとするのに躍起なのだ。それはCDの売り上げの低下にも原因がある。
 しかし、売れなくなった原因を一意に不法コピーに求めるのはいかがなものだろう。
 レコードが大量に流通し始めた時にはすぐにカセットテープが世間に出回り、ダビングを後押しするようにレンタルが始まった。世の趨勢にはかなわず、レンタルを違法としていたメーカーも、最終的にはレンタルも商売の場所に変えてきた。
 CDが発売され、MDが出、パソコンが一家に一台に迫る勢いで増えている現在、音楽をデジタルで聴くフォーマットは非常にたくさんある。
 CDで音楽が、LDで映像がデジタル変換され、銀色の円盤に記録できるようになった時点で、デジタル to デジタルのダビングが誰でもできる時代はすぐそこに見えていた。音に劣化が基本的にはないこのダビング方式は、レコードからカセットへのダビング以上にメーカーや著作権管理団体のストレスを増加させる仕組みだった。
 しかしちょっと待てよ。
 CDが売れなくなった原因は、実は野球の視聴率が下がった原因と似てはいないか?かつてONが活躍し、巨人がV9を達成した時代、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が流行った時には、テレビがない家庭も多くあった。娯楽も少なければ、可処分所得も少なかった。どこに娯楽を求めるかという選択肢は、今のように多くなかったが、現在では非常に多岐にわたる。
 巨人戦の視聴率の低下に試合が面白くないという理由を付けるのは簡単だが、今の試合だって、昭和30年代や40年代に見ていたら熱狂しはしなかっただろうか?当時、サッカー人口がどの程度いただろう。父親が会社から帰り、カラオケをやっている家庭がどの程度あったろう?今と昔では、そもそも余暇の過ごし方が違うのだ。
 同様に音楽も、売れなくなった原因を、音楽そのものの質の低下とか、氾濫するコピー文化に負わせてしまうのはいかにも本当らしいが、そうだろうか?もちろん、全く原因がないとは言わないが、メーカーが考えるほどの比率だとは思えない。
 バブルがはじけあらゆる物の価格が下がり続けていた時も、CD、しかもビッグアーティストと言われる売れ筋のCDは価格が下がらなかった。それでも売れるからだ。それに合わせるように、邦楽のほとんどはバブル以前の価格をいまだに維持している。
 どう考えても、CD制作の原価(物理的な)は昔に比べて圧倒的に下がっているにもかかわらずだ。
 売れる物と売れない物の格差が非常に大きいのは、平成に入った以降どんどん加速してきた。音楽の趣味も多様化し、かつてに比べると輸入盤の比率も高くなっている。あらゆることに変化が起きてくる中、保護貿易のような政策ではSonyでさえ生きていけないと言うことが、今回のMP3へのSonyの妥協である。
 レンタルでこれまですませてきた人は、これからもレンタルですませるだろう。しかし、コピーコントロールという仕組みで、ダビングを阻止すれば、そういったCDのレンタルは減るに違いない。だからといって「買う」訳ではない。買うかどうかという判断はどれほどその音楽やアーティストに興味があるか、欲しているかによるだろう。
 携帯の料金や、プロバイダの料金なんて、10年前は家計に存在しなかったものだ。少なくともその分のしわ寄せがどこかへ来る。それでも尚、減った小遣いからでも買おうと思わせる音楽を売ること、ダウンロードで売るなら、当然その分製作費が浮くのだから、低価格にすること、果たして音楽業界がそんな努力をしているのだろうか?
 少なくとも私にはそうは見えない。
 今度Dioのアルバムが出るようだ。私はきっと買う。昔に比べたら、CDにかけるお金など本当に何分の一日に過ぎないが、きっと買う。
 ことほど左様に、今日の世の中は、趣味産業に努力を強要する。音楽は日常的に溢れている。テレビを付ければどこかでやっている。インターネットでも結構聴ける。
 購入し、自分の物にしたいと思っても、ではそれを何回聴くか?無駄金に思える時もあるだろう。
 それを無駄金にしない方法が必要だし、無法なコピー音楽の反乱は、ある意味そのことを制作者側に投げかけている。
 iPODが、SonyのMDウォークマンよりも売れる原因の一つには、自分の持っている音楽を、音の劣化無く大量に持ち歩けるというメリットがある。世界中のあらゆる音楽がダウンロードサイトで買えるようにでもなれば、また多少話も変わってくるかも知れないが、今の量では所詮無理だ。
 誰を相手に商売をしているのか、メーカーサイドはよく考えるべきだ。不法なコピーをする人間を対象に規制をかけていくことは、とりもなおさず、まともな消費者が、まともな使い方で楽しむことを阻害する大きな原因になっているし、そのことが、メーカー不審にも繋がる。どうせ買ってくれない無法者など無視をするくらいの度量で、より素晴らしいものをどんどん開発してくれた方が、消費者は付いてくると思うのだが。

レインボー

 レインボーというのはこの場合、私をハードロックの世界にのめり込むきっかけを作ったバンドの名前だ。レインボウではなくレインボーが、レコードメーカーの日本語表記だ。
 75年のデビューで、84年に一回解散、95年にちょっとだけ再結成(名前だけか)という経歴です。
 元々ディープ・パープルにいたリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退、ELFというアメリカのバンドに参加するような形で「Ritchie Blackmore’s Rainbow(邦題:銀嶺の覇者)」がファースト・アルバムです。セカンド・アルバムを出す時、ELFのヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオを除く残りのメンバーを解雇、今は亡きコージー・パウエルを含む3人を補充してセカンドアルバム「Rainbow Rising(邦題:虹を翔る覇者)」をリリースしたのが76年でした。私が17歳の時、このアルバムを聴いたのが全ての始まりでした。
 特に「A Light In The Black」という、LP B面の2曲目に収められていた曲が大好きでよく聴いていました。いかにもリッチーらしいリフと激しいコージーのドラム、そしてのびのあるロニーのヴォーカルが渾然一体となった、ハードロックはこれでいいんだぜ!と言わんばかりの8分を超える名曲です。この曲がなければ、その後の私のハードロックを皮切りとした洋楽への傾倒も、あるいはクラシックへの指向も無かったかも知れません。
 作家の栗本薫はRun With The Wolf」なんて言う作品を初期の頃に書いてますが、このアルバムの中の一曲です。
 なかなか発売されなかったライブ、そして「Long Live Rock’n’roll(邦題:バビロンの城門<アーチ>)」までが、私がこの世で最も好きな二人のヴォーカリストのうちの一人、ロニーが参加したアルバムです。ここまではLPも見開きジャケットでした。
 ロニーが辞めて変わりにグラハム・ボネットが参加し一緒にパープル時代の盟友ロジャー・グローヴァーが加わった「Down To Earth」からは、曲もちょっとポップ指向になり、1曲の時間も短くなってきました。このアルバムにはホルストの「惑星」から、火星の一部をモチーフにした「Eyes Of The World」という曲があるのですが、2年ほど前に、着メロでこの曲を見つけた時にはびっくりしました。「All Night Long」や「Since You’ve Been Gone」なら解りますがね。
 グラハムは1枚で抜けて、次の「Dificult To Cure(邦題:治療不可)」からは、ジョー・リン・ターナーが最後までヴォーカルを務めています。このアルバムはアメリカでも成功したらしいですが、後年ホワイトスネイクは1位になっていますから、同じパープル出身とはいえ、この点の勝負はリッチーよりもデヴィッド・カバーデールに軍配が上がったようです。
 このアルバムではリッチーはタイトルにもなっている曲でベートーヴェンの第九の終楽章を恥ずかしげもなく弾きまくっています。私は苦手だ。
 次のアルバムは「Straigt Between The Eyes(邦題:暗闇の一撃)」は、なかなかいいアルバムだと私は思っています。1曲目の「Death Alley Driver」は、「Highwaystar」みたいですが、それより成功していません。
 そして事実上のラストアルバムとなった「Bent Out Of Shape」ですが、この作品は確かにレインボーの中にあっては比較的評価が高いのですが、ジャケットからはレインボーらしさはなくなっています。
 ディープパープルからレインボーに入った人は多いと思います。パープルよりもリッチー色が強いようにも思えます。でも私はレインボーだし、これはクラシックで言えば私のマーラーに対するこだわりと一緒で「Rising」は私にとっては「復活」と同じくらい重要なアルバムです。そしてレインボーは私にとって、リッチーのバンドである以上にロニー・ジェイムス・ディオのバンドなのです。 ELFに始まり、レインボー、ブラックサバス、Dioと、彼のアルバムはどんなにつまらなくても買います。聴きます。
 あの小さな身体から出る力強い声は、私を魅了してやみません。
 この記事をきっかけに調べてみたら、こんな素晴らしいサイトを見つけてしまいました。
レインボー研究所

オペラ

 オペラというのは音楽が付いた劇だ。ワーグナーやR.シュトラウスの曲に使われる「楽劇」という呼称も、所詮は音楽劇だし、アリアやレチタティーボが無くなったとしても、歌で構成される劇には違いがない。明確な序曲がなくても前奏曲や間奏曲は現実にあるし、それが使われる目的が多少違ったところで、聴く側にはそれほど問題はない。
 むしろミュージカルは、歌曲とポップスぐらいの差があるので、同じ音楽劇だとしても、大分違って感じる。
 クラシックの歌手は、昔学校で習った記憶では、ソプラノ、アルト、テノール、バスだが、クラシックを自分で聴くようになり、それがマーラーを入り口としたおかげで声楽に比較的簡単に馴染むことができた時には、バリトンとメゾソプラノが増えた。今までアルトだと思っていたのに、コントラルトなんて言う呼び方が増えたり、まあ、これでは小中学生時代に声楽を好きになるのなんて到底難しいと思わざるを得ない。
 オペラの多くは原語で演奏されるので、イタリア語か、ドイツ語かフランス語って言うのが相場だ。多少は英語や日本語もあるだろうが、概ねその3カ国語だ。しかも圧倒的にイタリア語が多い。理由はオペラ作曲家の多くがイタリア人の上、モーツァルトまでほとんどがイタリア語と来れば、仕方あるまい。
 オペラ作曲家としてやはり小学生くらいから知っていた作曲家といえば、モーツァルト、ヴェルディ、プッチーニ、ワグナーといったところだろうか。
 
 私がオペラを聴けなかった理由の一つは、全体が音楽付きなので、当然面白くもないメロディーが中にはあるはずで、そのためではないかな、と思っていた。後は、子供の頃から3分前後の歌謡曲などになれてる耳は、1時間2時間という長丁場を耐えられないとか。
 実際には、オペラはやはりオペラなので、舞台を見ることで最大限の効果を発揮するわけで、レコードやCDではどうしても片手落ちになる。
 最初に好きになったオペラはレオンカヴァレロの「道化師」だった。川越の図書館で借りたのを覚えている。「衣装を着けろ」は今でも最も好きな曲の一つだ。しかもデル・モナコのやつが。
 それとワグナーは「ニーベルングの指輪」の題材とその長さ故に最初から興味を持ち、当時3万円したショルティ版のレコードを購入した。CDでも買い直しているのでやはり好きなのだと思う。一番好きなのは「ラインの黄金」の最後の場面「虹の架け橋」といわれる部分だ。
 オペラを見ようと思うと、どうしても普通のコンサートよりも高い。舞台なのでいい席で見たいし、2万円近くかかることになる。オーケストラコンサートとは大分違う。しかも著名な歌手や指揮者となると、ぽんと跳ね上がる。なんだかお金持ちの道楽趣味のようなイメージが払拭できないのは、こういうところにも問題がありそうだ。
 オペラ座や、ウィーンの国立歌劇場や、いずれにしても正装をしていかないと(少なくともジーンズにシャツでは)入れないようなのがオペラだと思っていたし、たかだか音楽を聴くのにそんなことに気を遣うとしたら本末転倒だという気が、実はいまだにしている。
 よくクラシックは、音も立てられないから堅苦しいというポップスファンの意見を聞くことがある。概ねマイクを通して、会場の音を圧倒するようなポップスやロックのコンサートは、スタンディングが基本みたいなところがあって、静かに聴ける雰囲気はないことが多い。
 私はロックコンサートでも、周りのファンの喧噪なんて聴きたくはないので、静かに座って聴きたい人だ。それがハードロックでも。だって自宅で聴く時に騒いで聴くやつなんていないだろう?あれはコンサートを聞きに行っているんではなく、騒ぎに行っているだけだ。常々そう思っている。立って観られたら前が見えないとも。
 そんな私にとっては、コンサートはむしろクラシックの方が好適で、なかんずくオペラは豪華な気分が味わえる。しかも気楽な格好で気楽に聴けたら、これに勝る娯楽はない。もちろん、オーケストラコンサートも好きだし、リラックスするので必ず1回は寝る。寝られるコンサートは最も素晴らしいコンサートでもある。
 そんなことを考えながら、実はパソコンでオペラも聴いている毎日。まあそれはそれで楽しいのだが、やはり年とともに、音楽の聴き方も変わったのかな?ふとそう思う今日この頃ではある。

マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

 マーラーという人は、ご存じの方も多いともうが、作曲のほとんどを交響曲と歌曲に費やしている。交響曲は全部で11曲、内1曲は未完であり、1曲はナンバーが付いていない「大地の歌」である。
 交響曲の父と言えばハイドンであるが、基本的に交響曲はソナタ形式の第1楽章を含む4楽章からなるオーケストラ曲を指す。ハイドン以降はモーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウス、ショスタコーヴィチといった作曲家が有名である。もちろん、ベルリオーズや、リストを始め、他にも非常に多くの作曲がが手がけているが、チャイコフスキー当たりまでは、いろいろあれども、交響曲は一定の形式の上に作られていることが多い。
 マーラーは、第1番こそ4楽章の交響曲を作ったが、2番で合唱と、声楽ソロのある5楽章の「復活」3番では6楽章、4番も声楽付き、5番7番が5楽章、8番はほとんど全てが声楽に満たされたオラトリオのような大作、そして連作歌曲のような「大地の歌」を過ぎて、4楽章の9番がある。しかし9番は調整的にもかなり曖昧で、シェーンベルク達を予感させる。
 唯一6番がかなり堅牢な交響曲らしい交響曲といえば言える。但し、全体の4割を第4楽章が占めていたり、モーツァルトやハイドンの交響区曲とは明らかに別のジャンルの音楽である。
 主題もしっかりしているし、第1楽章で繰り返しもある。メロディラインは、マーラーらしく俗っぽさもぷんぷんするところもあるが、どちらかというと格調高い。「亡き子を偲ぶ歌」などの自身の歌曲集との関連も、他の作品位劣らず重要な位置を占めている。
 この交響曲を最初に聴いたのは大学生の時だが、その行進曲のリズムで始まる第1楽章の冒頭で圧倒された。アルマ(奥さんの名前)のテーマと呼ばれる旋律は非常に美しく、一時期は第1楽章ばかり繰り返して聴いていた時期もある。
 第2楽章のスケルツォはいかにもマーラーらしい諧謔性を感じさせる楽章だが、実は私はそれほど好きではない。
 第3楽章は、あたかもこの交響曲の名前を象徴するかのような切なくも哀しい旋律を含む楽章で、ここはジョージ・セルの演奏がいまだに一番好きだ。
 終楽章はおよそ30分かかるモーツァルトだったらそれだけで1曲の交響曲になる程長大である。この中にはハイドンの「驚愕」交響曲もかくやというような仕組みが隠されており、その最大のものは、この交響曲が終わる直前に振り下ろされる最後のハンマーである。それは最後に人を打ちのめすハンマーなのだ。
 今まで多くの「悲劇的」を聴いてきたが、学生時代に購入したジョン・バルビローリ指揮のフィルハーモニア管の演奏がベスト・ワンだ。かつて、ずいぶん昔のことだが、この演奏はなかなか評論家によって評価されず、バーンスタインであったり、セルであったり、あるいはカラヤンであったり(古い演奏家ばかりだな!)、していた。バルビローリだって彼らと比較して十分じいさんだと思うのだが。
 レヴァインが出、ラトルが出、マーラーがベートーベン以上にCDショップの棚をにぎわす今では、非常に多くの演奏が聴ける。
 しかしその中にあってもバルビローリの演奏は際だっているし、しかもユニークだ。あのテンポ一つとっても、他とは絶対に違う曲だ。文字で表すのは難しいが、主題の繰り返しをしていなくても、している演奏よりも長時間かかっているといえばいいだろうか。行進曲は、足を引きずるような重々しいテーマで幕を開ける。
 全体を通じてどこか重く沈潜したイメージで曲は進む。カップリングにR.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」を選んだ理由が分かるような、そんな演奏である。
 終楽章が終わったときには、悲劇に打ちのめされた主人公は到底立ち上がる気力がないのが解る唯一の演奏のような気がする(尤も全ての演奏を聴いたわけではないし、最近での演奏は特に耳にしていないが)。
 
 しかし素晴らしい感動を与えてくれる名演である。音は古めかしく、オーディオ的にはそれほどいいとは思えないが、それをカバーしてあまりある。バルビローリのマーラーは昔から、5番が名演とよく言われるが、6番を無視してそりゃないだろうと思う。
 ところは最近何かで見たが、かなり評価が上がっているようだ。不思議なものだ。
 

テッド・ニュージェント

 テッド・ニュージェントはアメリカン・ハードロックの重鎮。60年代の終わりからアンボイ・デュークスというロックバンドを率いて、70年代の中頃からソロ、80年代だったか90年代だったかに、ダム・ヤンキースで一時期ギターを弾き、現在はまたソロに戻っている。
 かつてはテッド・ナジェントなんて言う名前で紹介されていたらしい。私が最初に聴いたのは大学生の頃、池袋の輸入盤ショップで「Dog Eat Dog」を買うきっかけとなった、何かのラジオ番組だった。日本盤は野獣何とかというタイトルでEpicSonyから発売されていた。
 とにかくハード・ギターの人で、長い間にも全く変わらないという感じがする。自分で歌も歌うがあまりうまくはない。「Dog Eat Dog」では、一部をミート・ローフが歌っていて、やけにそこだけ歌がうまかった。
 日本でもいまだにCDがたまに発売されることもあり、全く人気がないわけでもないのだなと思うが、あっという間に市場から消えてしまう。
 まあ、狩猟好きで、ハンターを守る会会長みたいな風情があるので、私生活はあまり知りたくはないが、まさにそんなイメージをステージにも持ち込んでいる感じがする。
 私が最初に買ったアルバムはそれでもテッドのアルバムの中では叙情的な部類で、他はもう、何か抜けてるかのようにハードな音楽一辺倒といってもいい。私はどちらかというとその叙情的なテッドのギターが好きだが、ハードというかワイルドなテッドも実は魅力満載。
 つい先頃「Craveman」というテッドらしいタイトルのアルバムも出している。間違いなく50代だと思うが、熱気は衰えない。何となく戦う男という感じ。
 とにかくギターな人なので、引きまくってくれるとそれだけでうれしい。音色はまさにハード・ブギー!ライブが真骨頂!
 気になった方は聴いてみて。

R.シュトラウスの音楽

 先日、音楽著作権協会のホームページを見たところ、R.シュトラウスの作品が、特別の記事になっていた。ちゃんと読まなかったが、戦争を挟んでいた関係でいまだに著作権があると遺族が主張していたようで、しかし既に裁判でないということが決まったというような話だった。
 R.シュトラウスという人は1964年生まれだから、既に生誕140年になるが、無くなったのが確か戦後1949年頃だったと思うので(調べろってか?)、まだ55年くらいしか経っていない。差し引きすると85才くらいまで生きたことになる。ヒトラーの元でも働いていたようなので世渡りはうまそうである。
 ハードロックの項でも書いたが、私が初めて買ったクラシックのレコードの一つが「ツァラトゥストラはかく語りき」というシュトラウスの交響詩だった。「2001年宇宙の旅」ばかりでなく、CMやテレビの効果音としても有名な導入部を持つ美しい曲である。
 シュトラウスは大きく分けると、若い頃に交響詩ばっかり書き、中年以降オペラを書き、晩年に少しだけ何かを書いたという印象のある、作曲家で指揮者である。オペラは、ワーグナー以降のドイツの最大の作曲家である。ワーグナーのように「楽劇」と呼ばれる作品も書いている。
 私は最初に買った曲ではあるが、所詮冒頭の管楽器のファンファーレとティンパニの部分が好きで買ったので、そこから後が聴けるようになったのは大分後のことだった。しかし好きになると、「ドン・ファン」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」「英雄の生涯」「アルプス交響曲」と立て続けに聴き、マーラーの交響曲第6番とカップリングになっていた「メタモルフォーゼン(変容)」で、最も好きな作曲家の一人になっていた。「メタモルフォーゼン」は第二次世界大戦後の作品だが、切々とした弦楽合奏の中にもシュトラウスらしいコマーシャリズムみたいな親近感を持てるメロディラインが美しい。
 
 ようやく最近、オペラが聴けるようになってきた。「ばらの騎士」の重厚な管弦楽に載せたきらびやかな歌は、ワーグナーでもなかなか聴けない。これを聴くと、なぜマーラーのオペラがないのだろうと残念な思いがする。
「サロメ」は、オペラとしては初期の作品に属するが、幻想的な前奏で始まり、ちょっと無調を感じさせるナラボートの歌は、詩付きの交響詩「ドン・キホーテ」といったイメージもあるが、私が唯一学生時代から聴けたシュトラウスのオペラ(楽劇)だ。
 R.シュトラウスの音楽は、それまでのロマン派の音楽とはやはり一線を画すような感じがする。独特の世界観と、空間、そして音の厚み。まさに職人芸と呼ぶべき音楽で、友人のマーラーにあるようなどろどろした人間臭さはない。「英雄の生涯」などというオペラを書き、その英雄が自分自身だと言うくらいだから、ある意味脳天気だったのかも知れないが、とても安心して聴ける音楽だ(俺だけか?)。
 作曲家で誰が一番好きか?と聴かれたらやはりクラシックにのめり込むきっかけを作ったマーラーと答えるだろうが、同時代だからというわけではなく、シュトラウスはやはりはずせない作曲家だ。
 最近はあまり交響詩を聴いていない。「家庭交響曲」とか「マクベス」とか、佳曲は他にもたくさんあるので、いずれCDになっているのは制覇したいと思う。
 でも今この時点でかかっているのはパット・トラバースなんだよな。

ハードロック

 私はハードロックが好きで、知り合いもそのことはよく知っている。
 でも私のハードロック歴は(今となっては長いが)、例えばDeep PurpleやLed Zeppelinが好きだといっても、リアルタイムでは聴いていない。むしろ、Deep Purpleが解散したときに、ラジオから特集でその音楽が流れているのを聴いたとき、なんてうるさい音楽だろう、俺は聴かんな。そう思っていた。
 同じようなことは例えばクラシックでも言える。小、中、高と音楽の授業はあったが、ホルストの「惑星」とシューベルトの「魔王」以外で興味を持った作品は一つもなかった。
 
 さて、現在はそのどちらも大好きで聴くのだが、そもそもはハードロックにある。それまでは歌謡曲ばかりを聴いてきて、洋楽といってもせいぜい、TV番組の「ソウルトレイン」やちょっとしたラジオ番組で聞きかじる程度、むしろ映画音楽やポール・モーリアなどが私にとっての洋楽だった。
 ある朝、起き抜けのNHK-FMで、洋楽の新譜を紹介する番組をかけていた。学校へ出かける直前のことだったと思う。かかっていたのはRainbowの「Rising」というアルバムで、このRainbowは前出のDeep Purpleにいたギタリスト、Ritchie BlackmoreがELFというバンドを率いて作ったバンドで、このアルバムは2枚目、既にELFのメンバーはボーカルを除いて総取っ替え、曲想はともかく、音色などは別物で、むしろDeep Purpleよりもうるさかった。
 ところが出会いというのは面白い物で、私はこのアルバムに打ちのめされた。当時ステレオの無かった私はエアチェック(懐かしいな!)したカセットを聴きまくった。
 最初に買ったアルバムは彼らのライブ・アルバムだった。
 そこからが私のハードロック人生の始まりで、高校3年の時だった。同時にEaglesの「ホテル・カリフォルニア」なども流行っていたので、嗜好はハードロックにとどまらず、ロック全般に広がっていった。
 
 ちょっと話はずれるが、私は当時映画の「2001年宇宙の旅」を見て大好きになり、その冒頭に流れるR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」を買った。
 RainbowのドラマーはCozy Powellだったが、彼はライブでチャイコフスキーの「1812年序曲」という曲をバックにドラム・ソロを叩いていた。で、「1812年序曲」を買った。ついでに、なぜか「白鳥の湖」の抜粋版を買った。有名な「情景」のメロディーが好きだっただけで、「ドカベン」の影響ではない。
 この3枚がクラシックを聴くきっかけで、言ってみれば、ハードロックあってのクラシックだった。ハードロッカーはなぜかクラシックが好きだ。特にバロック音楽。「Ritchieの何とか言う曲はバッハのコード進行と同じだ」そんな文章を読んですげえなと思った。今考えてみると、よく意味が分からない。
 さて、クラシックの話は別の機会に譲るとして、ハードロックだ。
 Rainbow以来、多くのハードロックバンドを聴いた。当時はDeep PurpleよりもLed Zeppelinの方がかっこいいというイメージが何となく世間にもあった。渋谷陽一氏とかがいろんなところで公言していたのも一つの原因かも知れないが、確かに、Zepの方が、あか抜けているような感じがするというか、Purpleは要は歌謡曲なのだ。この路線で言えば、WhitesnakeやScorpions、Uriah Heepといったバンドが歌謡ハードロックといった感じだろうか。ある意味Zepは孤高なのだ。そして、Zepの根底にあるのはブルースだが、Purple系バンドはどちらかというとクラシックの臭いがする。そんなイメージの違いが一つの理由であるようだ。
 私は当然Zepも聴くが、どちらかというとPurple畑の人で、Ronie James Dio とDavid Coverdaleという二人のボーカリストが好きで、この二人がアルバムを出せば、もう60才だと言われても今だに購入する(Ian Guilanじゃないんだなこれが)。面白くなくても買う。これは対象のアーティストが違っても、音楽好きにはよくあることではないかと思う。
 最近のハードロックバンドにどんな人たちがいるのか、実はよく知らない。Aerosmithは最近でも流行っているようで、昔は聴いたが(今でも「Dream On」や「Kings and Queens」「Draw The Line」なんて曲は好きだ)、このところあまり聴かない。実際、Deep Purpleも現在でもバンド活動をしているようだし、新譜が出れば聴くこともあるが、かつての、レコードに針を落とすときの高揚感や、隅から隅までライナーを読んでいた頃の情熱はない。
 今これを書いている瞬間、MSGの「Searching for Reason」という曲がかかっているが、ほんとなぜなんだろう?
 うちの親父は浪曲と、ディック・峰、村田英雄など、往年の大歌手が好きで、子供の頃、大晦日、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)でやっている、懐メロ番組を見ていてレコ大などの裏番組を見られないため、子供心に不満を感じていた。
 最近でもその番組は続いているようで、見ると今では、私が子供の頃に活躍していた歌手も多く出ている。下手すると、40代の歌手でも出演している。確かにそのころの歌謡曲やフォークは懐かしいから、意外と耳に心地いい。
 私にとっての70年代ハードロックは、この耳に心地いい感を持った音楽である。
 音楽の感性というのが、若い頃に耳にした、しかも興味ある音楽によって何らかの形で固められるのかなという気さえしている。もちろん全員が全員ではないし、せいぜい傾向というに止まることだけど、若い人と中年、そしてさらに年配という風に、おそらくは音楽の嗜好はかなり固定的に意識付けされる、そんなようなそんなものかもしれない。といって、新しいものを受け付けないというわけではないだろうが。
 今日私は、CDショップで、サイモン・ラトル指揮のメシアンの遺作「彼方の閃光」という曲を試聴した。素晴らしい音楽だった。いずれ購入しようと思ったが、事情があって今日は買わなかった。
 きっと、現代のハードロックもいい物がたくさんあるに違いない。なかなか耳にする機会がないので知らないだけだろう。なんだかちょっともったいない気がする。
 あ、今サンタナがかかっている。サンタナも好きなんだなあ。
 そのうち。

溢れる音楽

 私は今、これまで購入してきたCDを端からパソコンに入れて、1万数千曲に及ぶ音楽をランダムに聴きながらパソコンを使っています。使っているフォーマットはMP3-Pro。これまでのMp3に比べて2/3~1/2のスペースで済むので、現状としては満足しています。1曲30分に及ぶプログレやクラシックから、1分程度のオペラの1場面まで、非常に雑多な音楽がランダムに流れます。
 今使っているのはWinamp3。実は専用の「Music Match」というソフトを購入して持っていますが、これはCDから音楽を取り込むときだけに使用し、聴くときはWinampを使っています。これは、1万曲を超える曲数でも、比較的短時間にフォルダからリストを読み取る便利さの故です。元々海外のソフトですが、日本語にするパッチもありますから快適です。
 昔では考えられません。カセットテープに好きな音楽を録音して、「マイ・フェイヴァリット」みたいなのを大量に作っていた頃、今みたいに自分の持っているレコードを全部まとめて、好きなときに好きな曲を取り出して聴けたらいいなあ、とよく思っていました。今では、i-podのような、携帯用のハードディスクプレイヤーもあり、数千曲を持ち歩きできます。いい時代です。

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ヴェルディの「レクイエム」

 ヴェルディはもちろんオペラ作曲家として最も有名だが、最近はテレビやら映画やらでこの「レクイエム」も「怒りの日」のメロディは相当有名である。個人的にはオルフの「カルミナブラーナ」と同じような形の知名度のような気がしている。
 私はこの曲とは20年以上も親しんでいて、好きな曲の一つだが、最初に耳にしたのがムーティーとフィルハーモニア管弦楽団によるレコードだった。ムーティーにはこの後に別の録音があってそちらは名盤とよく言われる。ただ、私にはこの「レクイエム」を耳馴染んだものにしてくれた古いムーティーの録音と、FMで録音したアバドのライブが非常に耳に心地よい。

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