マーラー:交響曲第10番

 マーラーは、生涯に11曲の交響曲を書いている。

番号付きの1~9番と、「大地の歌」、そして未完の第10番だ。 「大地の歌」というカンタータか連作歌曲のような作品を交響曲と銘打った経緯は、有名な逸話だ。ベートーヴェン以来、シューベルト、ブルックナーと交響曲の大家はみな9番で交響曲が終わっているのを恐れて8番の後に「大地の歌」を持ってきているというのだ。

だが、ブラームスは4曲だし、モーツァルトだって40曲以上、ハイドンに至っては100曲を超えているのだから、そこへ思いを致せば・・・。ちなみに、 ドヴォルザークも9曲だが、9番目の交響曲(新世界より)は、亡くなる10年近く前に書かれているので、関係ないと思ったのだろうか?それとも、ドヴォルザークが亡くなったことが一番の原因だったりして・・・

ともあれ、「大地の歌」の後に、器楽だけの第9番を書き、10番の途中でなくなってしまったため、かつてはオーケストレーションがある程度済んでいる第1楽章(アダージョ)だけが、他の曲とのカップリングでレコードになっていたものだった。唯一、ジョージ・セルとクリーヴランドオーケストラが、第6番イ短調「悲劇的」 とのカップリングで、第1楽章「アダージョ」第3楽章「煉獄(ブルがトリオ)」というのを出していて、購入した記憶がある。CDになったときに、悲劇的が1枚に入ってしまうせいか、ぼくが購入したCDには10番は入っていなかった。

この組み合わせは、マーラーの死後、エルンスト・クルシェネクが、アルマ(マーラーの奥さん)から依頼されて補筆したヴァージョンではないかと思う。

しばらくしてからクック盤の存在を知り、初めて購入したクックによる全曲盤がザンデルリンクとベルリン交響楽団のものだった。

以降、インバルとシャイーの盤を購入し、スラットキンによるマゼッティ版、バルシャイ自身の指揮によるバルシャイ版と買い進めた。

調べてみると、他に、カーペンター版、フィーラー版、サマーレ/マッツーカ版というのがあるらしい。いずれ揃えたい。

そもそも、曲の草稿というか、総譜の状態で残っていたらしい。

第1楽章はオーケストレーションもある程度済んでいたということで、聞くとマーラーらしい音が鳴っている。ただし、途中に入る大きな不協和音はこれまでのマーラーにはなかったものだし、 完全に現代音楽の響きが聞こえる。

個人的には、ここをこれほどか、というくらい絶望的にならしてくれる演奏が好きだ。何かすべてが瓦解し、崩れ去っていく音に聞こえる。ただうるさいだけの演奏は好みではない。

ところで、この曲は全5楽章、器楽のみの交響曲ということを考えると、5番、7番と同じ構成だが、 非情にシンメトリックで、第1楽章が終楽章で回帰しているような、不思議な交響曲に見える。5番や7番にはなかった。5番も7番も、暗いところから明るいところへ出るような、いずれにしても終楽章は勢いがある。

10番は、9番の香りがする。静かに始まって静かに終わる。

何よりぼくが最初に聞いて驚いたのは、第4楽章の終わりから、第5楽章の始まりにかけての大太鼓の連打(連打という表現は違うけど)だった。

そしてその後に出てくる木管の美しくも儚い響き。悲劇的の第3楽章がかわいく思えてしまうほどの胸を締め付けられるようなメロディー。

ここは特にクック版が秀逸で、他の版は、いろんな音を鳴らしすぎる。

ここを聴くだけでも、補筆してもらって、しかもそれが演奏で聴けてよかった、と思わせる。

マーラーの10番を作曲家自身が、死後燃やしてくれと言ったことや、マーラー自身の完成版でないことから、マーラーの交響曲と数えなかったり認めなかったりする立場の人もいるようだが、実際のところそんなことはどちらでもよい。

この曲はすばらしい曲だし、誰が書いたかという以前に、もっと評価されてしかるべきだ。

これまで聴いた中では、全曲版は、ザンデルリンクのクック版が最も好みだが、 アダージョだけで言えば、レヴァインのフィラデルフィア管弦楽団との演奏が好きだ。

バルシャイのは演奏以前にいろんな楽毅をならしすぎている気がするし、スラットキンのは、ぼく的には平板に聞こえる。インバルのはきれいすぎて面白くない。シャイーのは・・・記憶にない。また聴いてみよう。

ぼくはマーラーを聴くとき、どうも両端楽章に偏りすぎる嫌いがある。10番も、中の3楽章を抜いてしまうことの方が多い。いや、マーラーのスケルツォ楽章がつまらないだなんて・・・口が裂けても・・・・しょせん好みだ(開き直りか!)