「モーツァルトの旅」その2

 先日、台東区のミレニアムホールというところで上演された『モーツァルトの旅』を観てきた。これは、一昨年、大塚のホールで上演されたものの再演である。もう一度観たいと思っていたので、改めて観に行った。
 前回とは若干キャストの変更はあるものの三分の二は初演と同じキャストであった。
 端的に言えば、やはり面白かった。同時に、前回よりもクオリティは増していたと思う。中でも吉田伸昭のダ・ポンテは前回に比べても出色だったと思う。

 この作品は、前回のブログでも書いたが、クラシックのアリアや重唱をお芝居で繋げる形式で書かれているが、実際の所は、既存の音楽を利用した一つのオペラである。モーツァルトの名曲をいいところ取りして作り上げられているのだから、ある意味卑怯と言えば卑怯だが、でも、ではいい音楽にお芝居を付ければ楽しいのか?というのはまた別な話だと思う。
 つまりは、いかに音楽とお芝居が不可分に融合しているかがこういった作品の一つの成功の鍵だと思うからである。

 例えば、モーツァルトが死ぬシーンがある。
 姉、ナンネルの腕に抱かれながら、自らの寂しさを吐露し、「こんな弟でごめんなさい」という天才らしからぬ台詞を絞り出し、そんな弟を、「愛してるわ、ヴォルフガング」と、これまで理屈で励ましてきた弟に、全てを包み込む愛情でかき抱く。そこでピアノが奏でる音楽は、かつてこどもの頃にモーツァルトの父が子守歌代わりに歌った歌(実際には『後宮からの逃走』の中でオスミンが2幕で歌うアリアだが)で、舞台右手にいる二人の元へ、その歌を歌う父親と思われる影が近寄り、とん、とモーツァルトの肩を叩く。だらっと落ちるモーツァルトの腕。「眠ったの?ヴォルフガング?」そして弟の名を叫ぶ姉。暗転。
 あるいは、非常にコテコテの演出かも知れない。だが、この短い時間で、観客は涙を流すだろう。このオスミンのアリアは、一幕もこの時も少しテンポが遅過ぎる。しかし、十分な演出効果がある。1幕冒頭のパパゲーノのアリアの旋律と、このオスミンのアリアは、ここでしっかりと回収される。

 音楽とストーリーが融合しているのは、当に優れたオペラの特質である。モーツァルトもヴェルディも、ワーグナーだって、台本に曲を付けるのだ。違いは、曲と曲の間を全て音楽でつなぐのか、レチタティーボで繋ぐのか、それとも台詞で繋ぐのか、だ。この『モーツァルトの旅』は、その3番目の様式であり、なおかつお芝居の比重が大きい。
 最大の相違点は、今回書かれた台本に作曲家が曲を付けたものではないという点だけだ。
 こういった手法は恐らく、今回が初めてでもないだろうし、実は似たような方法は、年中どこかで上演されているのかも知れない。だが、それらとこの作品を分けているのは、前回も書いたとおり、音楽と芝居の融合の度合いであり、未だにこれは意見を変えることはないが、モーツァルト以外ではこの高みに達することはないだろう。
 他の作曲家に比べてモーツァルトが優れているという論ではない。こういった作品に適合しうるのが、モーツァルト以外にいないというだけだ。

 個人的には、好きなマーラーで作り上げて欲しいが、無理だと思う。

 さて、今回は前述したように、吉田伸昭が誰より良かった。アリアは1曲しかないが、この作品に彼がなぜ登場しなくてはいけないのかがよく解る演技だった。
 モーツァルトに『コジ・ファン・トゥッテ』を書かせるシーンでの、タイトルだけを高らかに歌い上げる部分は前回もだが、好きなシーンの一つだ。
 だが何より、前回はどうだったか全く覚えていないが、モーツァルトがダ・ポンテにコンビを解消だと告げた後、つまりは彼唯一のアリアの後だが、モーツァルトの元を去るシーン。去りかけただ・ポンテが、一瞬躊躇してモーツァルトを振り返り、最敬礼して去って行く。ダ・ポンテの性格も、そこに内在された気持ちも、全てを表現し尽くしたかのような最敬礼に、心の中で泣けた。

 そもそも、サリエリがモーツァルトにダ・ポンテを引き合わせたシーンで、水と油のような二人について、「だからこそいいものができる」という可能性を示唆し、そこからダ・ポンテ三部作と言われる3本のオペラが生まれるわけだが、その事が、モーツァルトの人生を彼が思っていたのとは違った方向へ向けて行く、というのがこの作品の一つの軸であると思う。
 その対立軸にあるのが、その後『魔笛』を生むことになるシカネーダーの存在であり、彼がいみじくもモーツァルトに語る台詞が、最終的にこの作品を決定づける台詞でもあり、同時にこの作品を悲劇で終わらせることがない最大の要因となっている。
 いかにもモーツァルトを描くに相応しいと感じる。『アマデウス』も『モーツァルト!』も、多くの作品が、彼の不可解な死と早世という事実によって、音楽とは別次元の場所で作品が作られている。それはそれでいいのだが、それはそれぞれが伝記だからである。
 だがこの作品は伝記ではない。誤解を恐れないでいうなら、前述の著名な作品たちがモーツァルトという人間を扱っているのだとすれば、この作品はその音楽を扱っているのだ(声楽に偏ってはいるが)。だからこそ、過度に劇的である必要は無い。なぜならモーツァルトの音楽がそうではないか!劇的な音楽ももちろんあるが、α波を出すと言われさえする彼の音楽は、その劇的な部分も包み込んで、幸せな何かを聴き手に伝えてくれるではないか。この作品は、モーツァルトのそういった部分も拾い上げているからこそ評価するのだ。

 だから、モーツァルトの死でも、その後親友シカネーダーがその事で慟哭するシーンでもこの作品は終わらない。ただの芝居なら、このどちらかで終わルという選択肢もあるだろう。より劇的にしたいのなら、その後にレクイエムを合唱して終わってもいい。だがそれではモーツァルトの音楽を描いた舞台としては不十分だ。
 その中で『フィガロの結婚』のフィナーレを選択した中川美和に、私は拍手を送りたい。このシーンがあるからこそ、この作品を高く評価するのだ。
 
 それと同時に、この作品が一部に持つ劇的な部分に、今回は出演者が少し引きずられているように見受けられる部分もあった。
 例えば前述したとおり、冒頭の父親の歌は、テンポが遅すぎる。そのシーンの意味から考えても、もう少し速くていい。恐らくはこの歌は、モーツァルトが最後に死ぬシーンでもう一度かかる。そこの影響されているのではないか?と勝手に解釈したが、であればこそ、後半のその部分も、冒頭同様重くならないテンポで歌って欲しい。そうしないと、モーツァルトの死が悲劇にこの作品を傾けてしまう。意外に重要な歌なのだ。とはいえ、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士長も合わせて、バスは前回より今回の岸本大の方が圧倒的に良かった。

 また、ナンネルとナンシー・ストレースを歌う伊藤邦恵も、この作品を少し劇的に解釈しすぎているように思えた。彼女は別にコミカルな部分をあてがわれてはいないので、全般シリアスでいいのだが、モーツァルトとナンネルの成長してからのすれ違いのような部分を(それはナンシーという不倫相手的な歌手においても)、モーツァルトの音楽という面と一瞬乖離した部分で捉えているのではないかと思った。確かに台本自体はそういう側面もあるし、単なるお芝居ならそれでもいいと思う。だからこそ最後に「ヴォルフガング!」と叫ぶシーンは涙を誘うのだと言ってしまえばそれまでなのだが、前述したように、この作品は通奏低音のようにモーツァルトの音楽が流れ、いみじくも作中でシカネーダーが語るように、その音楽は優しく、常に作品に寄り添っているのだ。
 この部分を斟酌すれば、少し違ったナンネル像になるだろうし、どちらかと言えば、それが音楽にも反映されるのではないかと思った。
 ただその上で、『皇帝ティトの慈悲』からのアリアは素晴らしかったと思う。惜しむらくはナンシーのアリアは冗長だった。その後の「最高傑作と言われるコンサートアリア」という台詞が空々しく聞こえる程度には。

 サリエリ役の杉野正隆は、前回同様安定して実直な「サリエリ」を演じていた。これは映画『アマデウス』とは対極にいいるサリエリだが、この作品にはこの、”大人な”サリエリが相応しい。惜しむらくは、最後にシカネーダーを諭すシーンがあるのだが、台詞が少し棒読みだった。

 恐らく前回はなかったように思うのだが、一カ所だけ背景からナレーションが入る。だがこの部分はいらないと思う。内容から考えて、時間経過を伝えたかったのだと思うが、その時間経過が台詞で解らないわけではないので(仮にそういう指摘がどこからかあったのだとしても)ここは蛇足だ。
 
 尤も、ぼくが書いているこの文章も含め、見た人間、関わった人間は色々いう。それはどんな作品にもつきものだ。小説でも何でも、それらの意見の取捨選択や、作家が書き落としたと思われる部分の加除などでも、全てがいい方向に出るわけではない。
 ここでこんな例を挙げるのはどうかなとも思うが、永井豪の『デビルマン』は不朽の名作だと思うが(卒論で1章を割いたほどだ)、文庫化されたときだったと思うが、長いが加筆している。オリジナルが出色なだけに、このクソみたいな加筆は何だ!!と、当時思った。永井は連載では描ききれなかった部分を補筆したのか、まあ個人的には、編集から長さ調整に無理矢理描かされたと解釈している。
 
 なので、今回蛇足と書いたところが、次回どうなっているかが楽しみだ。・・・・これ読んでくれないかも知れないけど。

 さてここまで書いたのだから、残りの出演者にも触れておこう。
 モーツァルトの妻、夜の女王などを歌った末吉朋子は、劇場支配人も含めて、高音をバキバキ決めていたが、僕が感心するのは、コンスタンツェがモーツァルトに迫る歌を歌うまでの鼻歌交じりの演技だ。ソプラノ歌手と彼女は台詞が一切無い中で、しっかり存在感を出しているのだが、何度も書くように、芝居と歌が融合するためには、こういった部分がとても大切だと感じるし、こういう所がおろそかにされていないのがいいと思う。
 ソプラノ歌手は前回とは別の人に変わっていたが、欲をいえば『オレステスとアイアスの』の場面では、もう一歩切迫感みたいなものが欲しいと感じた。このシーンは、ある意味においてモーツァルトの心情描写でもあると思うので、歌い手がいかにそのシーンと歌とをシンクロさせるかが鍵になるシーンだと思う。その上で前回同様このシーンは堪能しているのだが、好きなシーンだけに要求は大きい。
 
 シカネーダー役の古澤利人は、一番声が通っていて、安定した芝居だった。シカネーダーという役は、『アマデウス』でもあまりクローズアップされていたとは言えない。今回のこの作品は、シカネーダーとダ・ポンテという、謂わばモーツァルトの4大オペラの台本を作った人物に焦点を当てているのも面白い。
 本来であればモーツァルトは、その生涯の中で、オペラの何倍もの器楽作品や声楽作品を作曲しているわけで、その中からオペラを切り取り、そしてさらに二人の台本作家に焦点を当てることで、既存の作品とは違った曲面を見せることに成功しているのだと思う。
 この作品でバリトンは二人いるが、シカネーダーの古澤と、サリエリの杉野、どちらも適材だと思う。

 そして、モーツァルト役の中川美和だが、今回改めて、出ずっぱりの役なのだなと感心した。他の誰かが演じるってこと考えてないだろ!と思えるくらい負担が大きそうだ。
 だが、女性をモーツァルト役に置くというアクロバティックな配役は成功していると思う。
 一つには、初めの方に歌われる『後宮からの誘拐』のコンスタンツェのアリアを彼女が歌うからであり、モーツァルトとシカネーダーの『魔笛』からのパミーナとパパゲーノの重唱が、二人の友情をうまく表現しているからである。実際は男女の愛の歌だが、ここでは上手く、もっと広い意味に捉えられるように歌詞が付けられている。
 モーツァルトは主役なので、もう一曲くらいアリアを聴きたいところだが、それでは体力的に保たないのかも知れない。
 ところで、『後宮からの誘拐』は『後宮からの逃走』とも訳されるが、全然意味が逆なのになぜそうなっているのだろう。素朴な疑問。

 いずれにしても、この作品はもっと上演して欲しいし、オケでやって欲しい。前回今回と見ていると、シンプルな舞台装置も売りの一つなのかも知れないし、より多くの場面で手軽に上演できるという意味ではいいのかもしれない(モーツァルトをやる人の負担を考えると、それほど手軽かどうかは別にして)。それでも尚、もう少し手の込んだ舞台でも見てみたいと思う。
 
 これを観た翌日からこのブログを書き始めて、およそ一ヶ月くらいかかった。途中で記憶も曖昧になりかけたが、それでも尚印象に残っているというのはいいことだ。
 三度目を楽しみに、Bravi!でした。

 

 

 

 

 

東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』

 標題の作品を昨日、あ、日が変わって正確には一昨日だが、南大塚ホール(東京大塚)で観てきた。
 素晴らしい作品に出会えたので、久々にブログを更新。

 内容は、モーツァルトの一生をストーリーの軸にモーツァルトのオペラアリアを聴かせるものだが、単純にこう書いてしまっては申し訳ない。なぜなら、物語と音楽が、元々のオペラそのものでもないのに、極めて融合し、意味のある選曲になっていて、ある意味これが一つのオペラとしても成立しているからである。
 脚本・構成・訳詞・ステージングをモーツァルト役の中川美和が一人でこなしている。この一作を見る限りにおいて希有な才能というべきである。

 物語はモーツァルトの子供時代の説明から始まるが、既にこの時に伏線が用意されている。それは幼いモーツァルトが自ら弾くパパゲーノのアリアの単旋律だ。
 この作品には多くの伏線や場面と歌詞の絡み合い(オリジナルの歌詞を付けているわけではなく、元々のアリアの訳詞だ)など、非常に練られていて、正直一回の観劇ではそのすべてを解って観ることは難しいかも知れない。

 そのほとんどをモーツァルトの音楽で構成しているため、当然のことながら使われる音楽の時代設定は前後する。中には敢えて「ケッヘル」という単語を使って笑いを取る場面もある。モーツァルト以外の音楽は、ギャグとして使っている「運命」と「人知れぬ涙」(この2曲はシカネーダーに作曲者を言わせることで笑いをしっかり取っている)そして、メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。この辺りのモーツァルトにこだわりながらも拘泥しすぎないという姿勢も実は評価したい。

 恐らくこの作品が最も評価されるのは、(個人的にはそこではないのだが、)モーツァルトの一生を描いた物語をモーツァルトの音楽で構成し尽くしているという点だと思う。

 古今、モーツァルトを描いた作品というのはたくさんあるに違いないが、ぼくが知っていて比較対象となるのは、アカデミー賞受賞作でもある映画『アマデウス』と、東宝かな?のミュージカル『モーツァルト!』なのだが、今回の『モーツァルトの旅』はそのどちらとも立ち位置が違っていて、さすがにクラシック音楽家が(恐らく矜持を込めて)作ったであろうこだわりが、モーツァルト作品としてこの作品をほかの2作と比較しても遜色ない高みに上げている。

 音楽の使い方としては『アマデウス』に近いが、極論すれば『アマデウス』の音楽は、どこまで行ってもBGMである。この時代にこの音楽が作られたその表現プラス、シーンを装飾するために音楽が使われる。『モーツァルト!』に関しては、そもそもオリジナル音楽を使った作品なので、モーツァルトの音楽はほとんどおまけである。ただこれはこれで良い。モーツァルトを描くからといってモーツァルトの音楽を使わねばならぬという決まりは無いからである。
 ただ今回の『モーツァルトの旅』に関していえば、東京室内歌劇場という団体が上演するに相応しい、実力派歌手がアリア等を存分に聴かせた上での劇になっているという点が、大きく他作品と音楽の扱いを画す点である。モーツァルトの音楽がまさに作品と融合し、その物語の一部になっているのである。

 今回の作品を観て思ったのは、俳優と歌手が分離していてはこういった作品の実現は難しいし、かといってオペラ歌手にここまでの台詞のやり取りをさせる困難というのは、恐らくオペレッタの比ではなかったであろうということだ。
 しかし、であればこそだが、『アマデウス』や『モーツァルト!』では実現できない、モーツァルトの人生をドラマとして体験しながら、なおかつモーツァルトの音楽を堪能できるという新しい地平を切り開く作品なのだということだ。
 尤も、なぜこれまでこういった類いの作品はなかったのだろうか?という疑問がすぐ浮かぶが、考えてみると実はハードルの高い類の作品なのだ。

 まず、前述したようにモーツァルトの音楽を演奏しなくはいけないので、優れた素養を持った音楽家が演じなくてはならない。歌唱の出来は作品の完成度を大きく左右する。次に、同じ歌手が俳優としての技量を兼ね備えていなくてはいけない。でなければ芝居がへたってしまう。だがこの二つだけならば決してクリアすることはそこまで難しくないであろう。

 問題は、脚本とそれを含めた上での構成を誰がやるのかと言うことだ。恐らくこういった作品が企画に上がる時点で、今回のような形ではなく概ねは「新作」が企図されるであろう。なぜなら、優れた作品を描く脚本家は、モーツァルトの音楽と自らの脚本を融合させるなどということに、それほど長けていないだろうし、今回のように実は音楽を抜いたとしても一つの芝居として完成されている作品にとっては、音楽の役割はやはり『アマデウス』的なBGMになってしまう可能性が高いからである。
 敢えて『アマデウス』的と書いたのは、『アマデウス』でも音楽は単なるBGMではないからであるが、いずれにせよ、芝居と音楽が対等に伍する作品にはなりにくい。
 つまり、優れた脚本とそこに音楽を融合させる試みができる作家がいなくては、まず作品が成立しないし、既存の音楽を使ってそれをやろうとするなら、オリジナルを作った方が楽だし(話には合わせやすくなる)、話題性もあるのじゃないだろうか?などといった思惑が働き、同時に、作っても誰が上演するの?という危惧が最初からあるために、これまでこういった物を作ろうとした人はいなかったのだと思われる。
 似た作品はきっとある。だがここまでこだわった作品は、残念ながらぼくの知識にの中にはない。
 と同時に、この作品のような形態はそれが持つ可能性と危うさがそこにはある。

 これだけ面白いのだから、どんどん新たな作品も観たいと思うが、一つには、クラシックの中でも「歌」という他の楽器とは一線を画するツールではなく、すなわち、いわゆる器楽を使ってこれが成立するだろうか?と考えた時、恐らくは難しいだろうと思えるのだ。
 歌と器楽が持つ最大の違い、それは歌詞という意味を持ったコミュニケーションツールがそこに存在するかどうかという点だ。今回も場面展開などのために『後宮からの誘拐』や『魔笛』の序曲などがピアノ演奏で使われていたが、では歌のほとんどを器楽演奏に変えて、ここでは「アイネクライネ」、ここでは40番の交響曲と言った感じで音楽を挟んでも、それは劇の合間にモーツァルトの音楽を聴いただけに過ぎなくなってくる。つまりはこの感覚が『アマデウス』の音楽を、どうしてもBGM的に思わせてしまう(そうでないのは百も承知だが)最大の理由なのだ。
 器楽で何かを表現するというのは、極論すれば、「雰囲気作りはできるが、芝居の一部にはならない」と言うことで、ここまで書いた「融合」という言葉が一切白々しいものとなってしまう予感がするのである(いや、もちろんそれはそれで、そういった形態の作品があっても楽しめる可能性はあるわけで、それを否定するものではないので念のため。)

 歌の持つ力はそれとは次元が少し違うところに存在する気がするのだ(器楽を低く見ているわけではなく、声楽はちょっと立ち位置が違うと言うことだ)。そしてそれが今回の作品を、芝居+音楽というだけの作品ではないものに仕上げている本質的な点ある。雰囲気を演出する音楽ではなく、意味を持った音楽、言ってみればミュージカルそのものなのだが、それを既存の作曲家が作った歌を利用して行うと言うこと自体が、ある意味離れ業なのだと思う。

 そして、では同じ形態の別の作品を観たいと考えた時に、ではそういったものは可能なのか?と疑問に思う。
 取りあえず他の作曲家で、と思うと、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ワーグナー、R.シュトラウス……
 オペラ作曲家の名前を挙げても、物語になりそうなのはワーグナーくらい?
 ワーグナー歌手を5人も10人も並べる大変さもさることながら、そもそもむちゃくちゃ重い作品で、面白くなるのだろうか?という疑問がわく。ではベートーヴェンは?ショパンは?マーラーは?と考えていくとモーツァルトほど扱いやすくないことがよく解る。そもそもこの3人で思い浮かぶオペラは『フィデリオ』しかない!
 まあ、作曲家の一生シリーズである必要は必ずしも無いので、他人事として新作には期待なのだが……

 さて、そういった評価はあるとしても、ぼくが今回絶賛してやまないのは、前述の意味も若干込めた上での脚本そのものである。ストーリーはある意味単純だ。というより、概ねは史実に基づいているので、大きく変えるのは難しい。だがその上で、面白く見えるためには音楽の成立時期などにはこだわらず、大胆に前後させ、何より物語の進行と構成がうまく結実した脚本になっている。文章力としての脚本力もあるとは思うが、むしろその構成力に感服する。
 オーソドックスではあるが、よく考えられていて、1幕と2幕のコントラスト、様々な伏線、キャラクターのかき分けと、よくぞまあ、こんな作品をものしたなと思う。
 その構成がよくできているからこそ、相俟ってモーツァルトの作品が際立っているのだ。

 一つ例を挙げれば、モーツァルトが妻と弟子に裏切られたことへの憎しみを吐露する場面で、もちろんモーツァルト/中川の慟哭のような叫びだけでもいいのだが、すっと脇から出てきたソプラノ歌手が歌う「オレステスとアイアスの」で始まるオペラ『イドメネオ』のアリア。極めて効果的にモーツァルトの心情を描き出している。モーツァルトの音楽もそうだし、ソプラノ田中紗綾子の歌唱も、余すところなく表現していた。

 我々は名前のある人たちが作り上げたものを信じる。定評のあるものを尊ぶ。だが、その第一歩は常に無名、無冠の状態から始まる。東京室内歌劇場も、他の歌手たちも、あるいは既にそれないりのネームバリューはあるに違いない。ただ恐らくは、歌手としてではない脚本家としての中川美和に関しては、間違いなく無名であろう。だが、こういう所にも才能はあるのだと言うことを実感させてくれる作品であった。

 ミュージカルと違いロングランを課すのはクラシック歌手には酷である。だが、間をおいて再演、再再演と続け、一人でも多くの人にこの作品を観てもらいたい。それだけの価値がある作品だとも思う。
 本来は感想として、内容や曲について触れるつもりで書き始めたのだが、なぜか作品論のようになってしまった。

 あ、YouTubeにでも上げて見せてくれるとうれしいのだが……なぜかみんなあまりやらないよな。

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フィッシャー=ディースカウ

 バリトンのディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが亡くなった。86才だそうだ。
 20世紀の後半ドイツ・リートと言えばまず、ディースカウが他を圧倒している。
 
 クラシック歌手の恐らく多くは、歌曲よりもまずオペラを歌う。もちろんどちらか片方だけという人も少ないだろうが、仕事もそちらの方が多いのではないだろうか?
 オペラと歌曲というのは、その存在の仕方も、オペラの方が華やかだし、歌曲は地味である。一つには、その演奏形式が、多くピアノ伴奏によると言うことも一因だろうし、オケを使うと言うことばかりでは無く、演奏のために必要な人数もその原因としてはあるだろう。

 オペラというとまずどうしても、イタリアオペラが浮かぶ。それはヴェルディやプッチーニ、ロッシーニなど、小学校の音楽室に並ぶオペラ作曲家の多くがイタリア人だし、モーツァルトの昔(そしてそれ以前)からオペラはイタリア語だったのだからやむを得ない。
 もちろん、ドイツ語やフランス語、ロシア語、英語、日本語、各国語のオペラや作曲家もいるがどうしてもオペラ=イタリアというイメージはつきまとう。
 同様に、歌曲と言えば「リート」という表現がふと浮かぶように、ドイツなのだ。
 シューベルト、シューマンはまさに、オペラのヴェルディとプッチーニのように歌曲の大家だ。二人とも歌曲以外に、交響曲や室内楽、オペラも書いているが、歌曲の数が半端ではない。このリートの流れは、マーラーやR。シュトラウスなどにも流れていくわけだが、何より、フーゴー・ヴォルフが受け継いでいる。

 このドイツ・リートを、レコードやCDを通じて、誰でも簡単に聴けるようにしてくれた最大の功労者がディースカウだ。
 シューベルトやシューマンのの歌曲全集、ヴォルフの膨大な歌曲集など、ドイツ・リートを網羅していると言ってもいいくらい録音されている。

 個人的には、フルトヴェングラーの指揮で歌ったマーラーの「さすらう若人の唄」や、ソプラノのシュワルツコップと一緒に録音したケンペ指揮の同じくマーラー「子供の不思議な角笛」の歌曲、バレンボイムのピアノで歌ったヴォルフのゲーテ歌曲集などが、非常に印象深く、好きな演奏だ。後はシューマンの「詩人の恋」などをよく聞く。

 高齢なので、仕方ないという気持ちの方が大きいが、不世出のバリトンに合掌。