フランスの作曲家 ヴァンサン・ダンディによる3楽章のピアノ付き交響曲だ。交響曲と書いていなければ、一見協奏曲だが、一応交響曲。
 一番最初に聴いたのは大学生の時だから、ずいぶんと前の話になる。確か、シャルル・ミュンシュのレコードを買った。ピアニストは調べてみるとシュバイツァーという女性のようだ。

 ダンディはフランス人なので、フランス語表記だと「Vincent d’Indy」ど・あんでぃをリエゾン的に読んでいるのかな?とか勝手に思ったりする。
 原題は『Symphonie sur un chant montagnard français』

 「フランスの山人の歌による」というだけあって(とはいえフランスの山人の得体が知れないが)、何となく民謡っぽいメロディを、洗練させてみましたみたいな雰囲気が漂っている。そしてそれが小気味いい。
 牧歌的なメロディで始まる第1楽章と、跳ねるようなピアノをバックに、キャッチーなメロディをオケが奏する第3楽章が特に面白い。

 しかし改めて別の演奏を探しても、せいぜいオーマンディのCDくらいしか出てこない。YouTubeにはペーター・マークのものがあったが、ミュンシュにオーマンディって・・・・ずいぶん前に他界された指揮者ばっかで、最近の人は演奏しないのかな。試しにHMVで検索したら、クリュイタンスが出てきた。全部故人かよ!
 ただググるとHMVのデュトワとかフィストラーリとかも出てくる。どうなってんだ?HMVの商品検索って??
 しかしそれでも生きているのはディトワばかり。
 最近流行らないのかな。楽しい曲なのに。

 標題の作品を昨日、あ、日が変わって正確には一昨日だが、南大塚ホール(東京大塚)で観てきた。
 素晴らしい作品に出会えたので、久々にブログを更新。

 内容は、モーツァルトの一生をストーリーの軸にモーツァルトのオペラアリアを聴かせるものだが、単純にこう書いてしまっては申し訳ない。なぜなら、物語と音楽が、元々のオペラそのものでもないのに、極めて融合し、意味のある選曲になっていて、ある意味これが一つのオペラとしても成立しているからである。
 脚本・構成・訳詞・ステージングをモーツァルト役の中川美和が一人でこなしている。この一作を見る限りにおいて希有な才能というべきである。

 物語はモーツァルトの子供時代の説明から始まるが、既にこの時に伏線が用意されている。それは幼いモーツァルトが自ら弾くパパゲーノのアリアの単旋律だ。
 この作品には多くの伏線や場面と歌詞の絡み合い(オリジナルの歌詞を付けているわけではなく、元々のアリアの訳詞だ)など、非常に練られていて、正直一回の観劇ではそのすべてを解って観ることは難しいかも知れない。

 そのほとんどをモーツァルトの音楽で構成しているため、当然のことながら使われる音楽の時代設定は前後する。中には敢えて「ケッヘル」という単語を使って笑いを取る場面もある。モーツァルト以外の音楽は、ギャグとして使っている「運命」と「人知れぬ涙」(この2曲はシカネーダーに作曲者を言わせることで笑いをしっかり取っている)そして、メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。この辺りのモーツァルトにこだわりながらも拘泥しすぎないという姿勢も実は評価したい。

 恐らくこの作品が最も評価されるのは、(個人的にはそこではないのだが、)モーツァルトの一生を描いた物語をモーツァルトの音楽で構成し尽くしているという点だと思う。

 古今、モーツァルトを描いた作品というのはたくさんあるに違いないが、ぼくが知っていて比較対象となるのは、アカデミー賞受賞作でもある映画『アマデウス』と、東宝かな?のミュージカル『モーツァルト!』なのだが、今回の『モーツァルトの旅』はそのどちらとも立ち位置が違っていて、さすがにクラシック音楽家が(恐らく矜持を込めて)作ったであろうこだわりが、モーツァルト作品としてこの作品をほかの2作と比較しても遜色ない高みに上げている。

 音楽の使い方としては『アマデウス』に近いが、極論すれば『アマデウス』の音楽は、どこまで行ってもBGMである。この時代にこの音楽が作られたその表現プラス、シーンを装飾するために音楽が使われる。『モーツァルト!』に関しては、そもそもオリジナル音楽を使った作品なので、モーツァルトの音楽はほとんどおまけである。ただこれはこれで良い。モーツァルトを描くからといってモーツァルトの音楽を使わねばならぬという決まりは無いからである。
 ただ今回の『モーツァルトの旅』に関していえば、東京室内歌劇場という団体が上演するに相応しい、実力派歌手がアリア等を存分に聴かせた上での劇になっているという点が、大きく他作品と音楽の扱いを画す点である。モーツァルトの音楽がまさに作品と融合し、その物語の一部になっているのである。

 今回の作品を観て思ったのは、俳優と歌手が分離していてはこういった作品の実現は難しいし、かといってオペラ歌手にここまでの台詞のやり取りをさせる困難というのは、恐らくオペレッタの比ではなかったであろうということだ。
 しかし、であればこそだが、『アマデウス』や『モーツァルト!』では実現できない、モーツァルトの人生をドラマとして体験しながら、なおかつモーツァルトの音楽を堪能できるという新しい地平を切り開く作品なのだということだ。
 尤も、なぜこれまでこういった類いの作品はなかったのだろうか?という疑問がすぐ浮かぶが、考えてみると実はハードルの高い類の作品なのだ。

 まず、前述したようにモーツァルトの音楽を演奏しなくはいけないので、優れた素養を持った音楽家が演じなくてはならない。歌唱の出来は作品の完成度を大きく左右する。次に、同じ歌手が俳優としての技量を兼ね備えていなくてはいけない。でなければ芝居がへたってしまう。だがこの二つだけならば決してクリアすることはそこまで難しくないであろう。

 問題は、脚本とそれを含めた上での構成を誰がやるのかと言うことだ。恐らくこういった作品が企画に上がる時点で、今回のような形ではなく概ねは「新作」が企図されるであろう。なぜなら、優れた作品を描く脚本家は、モーツァルトの音楽と自らの脚本を融合させるなどということに、それほど長けていないだろうし、今回のように実は音楽を抜いたとしても一つの芝居として完成されている作品にとっては、音楽の役割はやはり『アマデウス』的なBGMになってしまう可能性が高いからである。
 敢えて『アマデウス』的と書いたのは、『アマデウス』でも音楽は単なるBGMではないからであるが、いずれにせよ、芝居と音楽が対等に伍する作品にはなりにくい。
 つまり、優れた脚本とそこに音楽を融合させる試みができる作家がいなくては、まず作品が成立しないし、既存の音楽を使ってそれをやろうとするなら、オリジナルを作った方が楽だし(話には合わせやすくなる)、話題性もあるのじゃないだろうか?などといった思惑が働き、同時に、作っても誰が上演するの?という危惧が最初からあるために、これまでこういった物を作ろうとした人はいなかったのだと思われる。
 似た作品はきっとある。だがここまでこだわった作品は、残念ながらぼくの知識にの中にはない。
 と同時に、この作品のような形態はそれが持つ可能性と危うさがそこにはある。

 これだけ面白いのだから、どんどん新たな作品も観たいと思うが、一つには、クラシックの中でも「歌」という他の楽器とは一線を画するツールではなく、すなわち、いわゆる器楽を使ってこれが成立するだろうか?と考えた時、恐らくは難しいだろうと思えるのだ。
 歌と器楽が持つ最大の違い、それは歌詞という意味を持ったコミュニケーションツールがそこに存在するかどうかという点だ。今回も場面展開などのために『後宮からの誘拐』や『魔笛』の序曲などがピアノ演奏で使われていたが、では歌のほとんどを器楽演奏に変えて、ここでは「アイネクライネ」、ここでは40番の交響曲と言った感じで音楽を挟んでも、それは劇の合間にモーツァルトの音楽を聴いただけに過ぎなくなってくる。つまりはこの感覚が『アマデウス』の音楽を、どうしてもBGM的に思わせてしまう(そうでないのは百も承知だが)最大の理由なのだ。
 器楽で何かを表現するというのは、極論すれば、「雰囲気作りはできるが、芝居の一部にはならない」と言うことで、ここまで書いた「融合」という言葉が一切白々しいものとなってしまう予感がするのである(いや、もちろんそれはそれで、そういった形態の作品があっても楽しめる可能性はあるわけで、それを否定するものではないので念のため。)

 歌の持つ力はそれとは次元が少し違うところに存在する気がするのだ(器楽を低く見ているわけではなく、声楽はちょっと立ち位置が違うと言うことだ)。そしてそれが今回の作品を、芝居+音楽というだけの作品ではないものに仕上げている本質的な点ある。雰囲気を演出する音楽ではなく、意味を持った音楽、言ってみればミュージカルそのものなのだが、それを既存の作曲家が作った歌を利用して行うと言うこと自体が、ある意味離れ業なのだと思う。

 そして、では同じ形態の別の作品を観たいと考えた時に、ではそういったものは可能なのか?と疑問に思う。
 取りあえず他の作曲家で、と思うと、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ワーグナー、R.シュトラウス……
 オペラ作曲家の名前を挙げても、物語になりそうなのはワーグナーくらい?
 ワーグナー歌手を5人も10人も並べる大変さもさることながら、そもそもむちゃくちゃ重い作品で、面白くなるのだろうか?という疑問がわく。ではベートーヴェンは?ショパンは?マーラーは?と考えていくとモーツァルトほど扱いやすくないことがよく解る。そもそもこの3人で思い浮かぶオペラは『フィデリオ』しかない!
 まあ、作曲家の一生シリーズである必要は必ずしも無いので、他人事として新作には期待なのだが……

 さて、そういった評価はあるとしても、ぼくが今回絶賛してやまないのは、前述の意味も若干込めた上での脚本そのものである。ストーリーはある意味単純だ。というより、概ねは史実に基づいているので、大きく変えるのは難しい。だがその上で、面白く見えるためには音楽の成立時期などにはこだわらず、大胆に前後させ、何より物語の進行と構成がうまく結実した脚本になっている。文章力としての脚本力もあるとは思うが、むしろその構成力に感服する。
 オーソドックスではあるが、よく考えられていて、1幕と2幕のコントラスト、様々な伏線、キャラクターのかき分けと、よくぞまあ、こんな作品をものしたなと思う。
 その構成がよくできているからこそ、相俟ってモーツァルトの作品が際立っているのだ。

 一つ例を挙げれば、モーツァルトが妻と弟子に裏切られたことへの憎しみを吐露する場面で、もちろんモーツァルト/中川の慟哭のような叫びだけでもいいのだが、すっと脇から出てきたソプラノ歌手が歌う「オレステスとアイアスの」で始まるオペラ『イドメネオ』のアリア。極めて効果的にモーツァルトの心情を描き出している。モーツァルトの音楽もそうだし、ソプラノ田中紗綾子の歌唱も、余すところなく表現していた。

 我々は名前のある人たちが作り上げたものを信じる。定評のあるものを尊ぶ。だが、その第一歩は常に無名、無冠の状態から始まる。東京室内歌劇場も、他の歌手たちも、あるいは既にそれないりのネームバリューはあるに違いない。ただ恐らくは、歌手としてではない脚本家としての中川美和に関しては、間違いなく無名であろう。だが、こういう所にも才能はあるのだと言うことを実感させてくれる作品であった。

 ミュージカルと違いロングランを課すのはクラシック歌手には酷である。だが、間をおいて再演、再再演と続け、一人でも多くの人にこの作品を観てもらいたい。それだけの価値がある作品だとも思う。
 本来は感想として、内容や曲について触れるつもりで書き始めたのだが、なぜか作品論のようになってしまった。

 あ、YouTubeにでも上げて見せてくれるとうれしいのだが……なぜかみんなあまりやらないよな。

mozart

 バリトンのディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが亡くなった。86才だそうだ。
 20世紀の後半ドイツ・リートと言えばまず、ディースカウが他を圧倒している。
 
 クラシック歌手の恐らく多くは、歌曲よりもまずオペラを歌う。もちろんどちらか片方だけという人も少ないだろうが、仕事もそちらの方が多いのではないだろうか?
 オペラと歌曲というのは、その存在の仕方も、オペラの方が華やかだし、歌曲は地味である。一つには、その演奏形式が、多くピアノ伴奏によると言うことも一因だろうし、オケを使うと言うことばかりでは無く、演奏のために必要な人数もその原因としてはあるだろう。

 オペラというとまずどうしても、イタリアオペラが浮かぶ。それはヴェルディやプッチーニ、ロッシーニなど、小学校の音楽室に並ぶオペラ作曲家の多くがイタリア人だし、モーツァルトの昔(そしてそれ以前)からオペラはイタリア語だったのだからやむを得ない。
 もちろん、ドイツ語やフランス語、ロシア語、英語、日本語、各国語のオペラや作曲家もいるがどうしてもオペラ=イタリアというイメージはつきまとう。
 同様に、歌曲と言えば「リート」という表現がふと浮かぶように、ドイツなのだ。
 シューベルト、シューマンはまさに、オペラのヴェルディとプッチーニのように歌曲の大家だ。二人とも歌曲以外に、交響曲や室内楽、オペラも書いているが、歌曲の数が半端ではない。このリートの流れは、マーラーやR。シュトラウスなどにも流れていくわけだが、何より、フーゴー・ヴォルフが受け継いでいる。

 このドイツ・リートを、レコードやCDを通じて、誰でも簡単に聴けるようにしてくれた最大の功労者がディースカウだ。
 シューベルトやシューマンのの歌曲全集、ヴォルフの膨大な歌曲集など、ドイツ・リートを網羅していると言ってもいいくらい録音されている。

 個人的には、フルトヴェングラーの指揮で歌ったマーラーの「さすらう若人の唄」や、ソプラノのシュワルツコップと一緒に録音したケンペ指揮の同じくマーラー「子供の不思議な角笛」の歌曲、バレンボイムのピアノで歌ったヴォルフのゲーテ歌曲集などが、非常に印象深く、好きな演奏だ。後はシューマンの「詩人の恋」などをよく聞く。

 高齢なので、仕方ないという気持ちの方が大きいが、不世出のバリトンに合掌。

 大御所との死と言ったって、徳川家康ではない。
 先日、若杉弘が亡くなった。ちょっと前に黒田恭一も亡くなり、演奏家と評論家、クラシック界の大御所が二人も相次いで亡くなった。

 若杉弘の体験は、ぼくは一度しかない。東京文化会館だったと思うが、30年ほど前のマーラーの5番だ。正直もう、演奏もどんなだったか忘れた。ただ、感動したことだけは覚えているが、まだクラシックを聴き始めて日も浅いぼくが、生で聴いた若杉のマーラーというだけで、たぶん当時は感動したに違いない。同じ頃、やはり小澤の千人を聴いて感動したのと同じだ。
 小澤は、指揮者らしからぬ服装で、ステージぎりぎりに置かれた指揮台の上で、これまた指揮者らしからぬ構えから演奏に入ったのを記憶しているが、それとは正反対に、若杉はタキシードで、きれいな動きだった。

 CDは持っていないので、実際のところ僕の若杉体験はその一度きりだ。いや、実はレコードでむかし聴いたことがあるような気もするのだが、その程度の記憶はないのと同じだ。

 ぼくの認識としては、世界の小澤と言われるように小澤征爾は日本の指揮界でNo1だと思う。で、若杉弘はやはりその次に位置するとずっと思っていた。確かに朝比奈とか、有名どころでは岩城宏之とか、小林研一郞とか、いろいろ居ると思うが、小澤と若杉は、世界、特にヨーロッパで活躍した最初期の日本人指揮者ではなかったかと思う。
 今でこそ、大野和士とか佐渡裕とか海外の名の知れたオケを振る指揮者も増えてきたが、その先駆けがこの二人だったように思う。
 小澤は、サンフランシスコやボストンというアメリカのオケを経て、ついにはウィーン・フィルを振るまでになったが、若杉の場合は、ぼくはケルンしか知らない。

 最近オーケストラコンサートにあまり行っていないので、ちょっと寂しいが、生前にもう一度聴きたかった指揮者だったなあ。

 もう一人の黒田恭一は、時々NHKで見たり、昔はよくNHK-FMで解説を聞いた。しかし何より、レコ芸などを通じて、特に交響曲や管弦楽などの評論を多く読んだ。印象としては、カラヤンの好きな人という印象だったが、CDを買う際などには結構参考にもさせて頂いた。

 演歌や歌謡曲でも大御所と言っていい人が最近多くなくなるし、まだ若いので大御所などとは言えないかも知れないが、マイケル・ジャクソンだって死んだばかりだ。彼の「Beat It」は、当時から今でも、愛聴曲の一つだ。「thriller」でも「BillyJean」でもない、「Beat It」だ(あ、「Eat It」も好きだ)

 彼ら全てにご冥福を祈りたい。

ルトスワフスキ(1913-1994)はポーランドの作曲家だ。ポーランドの作曲家として思いつくのは、ペンデレツキとシマノフスキくらいだ。あ、ショパンがいるか。どうでもいいが、ショパン。あとは関係ないがシェーンベルクの「ワルソーの生き残り」か。

1913年生まれということから解るように、明らかに現代音楽の作曲家だ。 だが、この「管弦楽のための協奏曲」は、それほど現代音楽的でない現代音楽だ。

「オケコン」というと大概はバルトークのそれを指す。 だがルトスワフスキのそれも同じくらい名曲だと思うが、有名ではない。「オケコン」というからには、管弦楽の各楽器を協奏曲的に使っているということなのだろう。実はこの辺りのオーケストレーションに関して言えば、ぼくにはさっぱり解らない。バルトークのものも、ルトスワフスキのものも、作曲のテクニックという意味ではここがこう優れているという技術的な部分は、あまり興味がないので、ただ聴いていて極論すれば、好きか嫌いかで好きなだけだ。

実際のところ、ルトスワフスキがバルトークの影響を受けていないのか、と言えば、とても受けていると言っていい内容の曲だ。バルトークがオケコンを書いていなければ、「あたかもバルトークのような」みたいな表現を使っていたかも知れない。

5楽章でもあり、全体の構成を考えても、交響曲第1番と言われれば、そういうものかと思ってしまう。

冒頭の弦が奏でるちょっと不気味なメロディが全体を支配していて、明るいところはほとんど無い。1954年という作曲時期を考えれば、第2次大戦後のポーランドの作家が、それほど明るい曲を書かなくても不思議ではない。この曲に、悲惨なポーランド侵攻から始まった戦争の影を見るのは決して難しくはない。

そういう意味で、ぼくは自分で持っているドラティの演奏は少し物足りない。 きれいすぎて。他の演奏も持っていたと思うのだが見つからない。どうやら3年前の引っ越しの折、ダンボール一箱分くらいのCDが行方不明で、その中にあったように思う。ペンデレツキも入っていたし、ジャニス・イアンも入っていたのになあ。捨てちゃったのかなあ。

今回これを書く気になったのは、実はmixiのradioという機能を使っていたら、いきなりバレンボイムの演奏でこの曲が流れたからだった。久しく聴いていなかったので、改めてきてみた。

やっぱ名曲だと思うのだが・・・

 マーラーは、生涯に11曲の交響曲を書いている。

番号付きの1~9番と、「大地の歌」、そして未完の第10番だ。 「大地の歌」というカンタータか連作歌曲のような作品を交響曲と銘打った経緯は、有名な逸話だ。ベートーヴェン以来、シューベルト、ブルックナーと交響曲の大家はみな9番で交響曲が終わっているのを恐れて8番の後に「大地の歌」を持ってきているというのだ。

だが、ブラームスは4曲だし、モーツァルトだって40曲以上、ハイドンに至っては100曲を超えているのだから、そこへ思いを致せば・・・。ちなみに、 ドヴォルザークも9曲だが、9番目の交響曲(新世界より)は、亡くなる10年近く前に書かれているので、関係ないと思ったのだろうか?それとも、ドヴォルザークが亡くなったことが一番の原因だったりして・・・

ともあれ、「大地の歌」の後に、器楽だけの第9番を書き、10番の途中でなくなってしまったため、かつてはオーケストレーションがある程度済んでいる第1楽章(アダージョ)だけが、他の曲とのカップリングでレコードになっていたものだった。唯一、ジョージ・セルとクリーヴランドオーケストラが、第6番イ短調「悲劇的」 とのカップリングで、第1楽章「アダージョ」第3楽章「煉獄(ブルがトリオ)」というのを出していて、購入した記憶がある。CDになったときに、悲劇的が1枚に入ってしまうせいか、ぼくが購入したCDには10番は入っていなかった。

この組み合わせは、マーラーの死後、エルンスト・クルシェネクが、アルマ(マーラーの奥さん)から依頼されて補筆したヴァージョンではないかと思う。

しばらくしてからクック盤の存在を知り、初めて購入したクックによる全曲盤がザンデルリンクとベルリン交響楽団のものだった。

以降、インバルとシャイーの盤を購入し、スラットキンによるマゼッティ版、バルシャイ自身の指揮によるバルシャイ版と買い進めた。

調べてみると、他に、カーペンター版、フィーラー版、サマーレ/マッツーカ版というのがあるらしい。いずれ揃えたい。

そもそも、曲の草稿というか、総譜の状態で残っていたらしい。

第1楽章はオーケストレーションもある程度済んでいたということで、聞くとマーラーらしい音が鳴っている。ただし、途中に入る大きな不協和音はこれまでのマーラーにはなかったものだし、 完全に現代音楽の響きが聞こえる。

個人的には、ここをこれほどか、というくらい絶望的にならしてくれる演奏が好きだ。何かすべてが瓦解し、崩れ去っていく音に聞こえる。ただうるさいだけの演奏は好みではない。

ところで、この曲は全5楽章、器楽のみの交響曲ということを考えると、5番、7番と同じ構成だが、 非情にシンメトリックで、第1楽章が終楽章で回帰しているような、不思議な交響曲に見える。5番や7番にはなかった。5番も7番も、暗いところから明るいところへ出るような、いずれにしても終楽章は勢いがある。

10番は、9番の香りがする。静かに始まって静かに終わる。

何よりぼくが最初に聞いて驚いたのは、第4楽章の終わりから、第5楽章の始まりにかけての大太鼓の連打(連打という表現は違うけど)だった。

そしてその後に出てくる木管の美しくも儚い響き。悲劇的の第3楽章がかわいく思えてしまうほどの胸を締め付けられるようなメロディー。

ここは特にクック版が秀逸で、他の版は、いろんな音を鳴らしすぎる。

ここを聴くだけでも、補筆してもらって、しかもそれが演奏で聴けてよかった、と思わせる。

マーラーの10番を作曲家自身が、死後燃やしてくれと言ったことや、マーラー自身の完成版でないことから、マーラーの交響曲と数えなかったり認めなかったりする立場の人もいるようだが、実際のところそんなことはどちらでもよい。

この曲はすばらしい曲だし、誰が書いたかという以前に、もっと評価されてしかるべきだ。

これまで聴いた中では、全曲版は、ザンデルリンクのクック版が最も好みだが、 アダージョだけで言えば、レヴァインのフィラデルフィア管弦楽団との演奏が好きだ。

バルシャイのは演奏以前にいろんな楽毅をならしすぎている気がするし、スラットキンのは、ぼく的には平板に聞こえる。インバルのはきれいすぎて面白くない。シャイーのは・・・記憶にない。また聴いてみよう。

ぼくはマーラーを聴くとき、どうも両端楽章に偏りすぎる嫌いがある。10番も、中の3楽章を抜いてしまうことの方が多い。いや、マーラーのスケルツォ楽章がつまらないだなんて・・・口が裂けても・・・・しょせん好みだ(開き直りか!)

 バロック・マスターワークスというCD-BOXを購入した。

60枚組 CD+解説CD-ROM1枚という、何とも豪快な商品だが、価格は6,000円弱だ。

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バッハだけで20枚以上、その他にヘンデルが10枚、ヴィヴァルディ、テレマン、コレルリ、F.クープラン、ブクステフーデ、 ラモー、リュリ、モンテベルディ・・・・等々

単純に1枚1時間に換算したって60時間分、ぶっ通しで聴いて二日半かかるわけだ。

すでに持っていて重複していた盤もあるが、1枚100円以下だから問題はない。演奏も、知らない人もたくさんいるが、クイケンやコレギウム・アウレウム、ブリュッヘンなど、往年の大家の物も多い。

基本的にパソコンに入れてから聴くので、60枚すべてを取り込んだ。

元々、バッハに弱い。ブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲など、有名どころは聴いたこともあるが、いわゆる無伴奏(ヴァイオリンやチェロ)や 宗教曲の多くは、たぶん聴いたことがあるものも少なくはないはずだが、あまり記憶にない。

そしてヘンデルも、特に「王宮の花火」や「水上の音楽」に、食わず嫌いで、昨年か一昨年くらいに「アルチーナ」というオペラのDVDを見て再認識した。

唯一、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」に思い入れがあり、期待して聴いた。

もちろんまだ全部聴いたわけではないが、「スターバト・マーテル」はこれまでよく聴いていたデュトワの盤に比べると、とても簡素でこちらはこちらでよい。

いくつか持っているヴィヴァルディの「和声と創意への試み」 の中の「四季」で聞き比べをしてみた。ベタなことだが、解りやすそうだったので。四季と言えばイ・ムジチを持っていないのだが、クイケンのはちょっと音が堅い感じがするが、きらびやかすぎないのがいい。どれが一番いいというより、いろいろな演奏が聴けて楽しいという感じだ。

パソコンに入れてしまうと、作曲家別に分けてしまうので、どれが新しくてどれが古いかが、一目で分からなくなってしまう。これは自分で悪いのだが、いつかは聴けるので、それはそれでよしという事だ。

取り敢えずヘンデルのオペラ(全部抜粋盤だが)楽しみだ。

 今日たまたま友人が遊びに来ているときに、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲が流れた。相変わらず、PCの音楽をランダムに流していた結果だ。

「チゴイネルワイゼンだっけ? 」という友人に「チャイコフスキーじゃなくて・・・」と、おおぼけをかました。チャイコフスキーとメンデルスゾーン、シベリウスそして時にブルッフは、ヴァイオリン協奏曲のCDデカップリングになる。時間的にちょうどいいのか、それぞれ著名なヴァイオリン協奏曲が1曲ずつしかないからなのか、レコード時代から非常に多い。

メンデルスゾーンは、小学校で習う作曲家の一人だが、甘いメロディーで、まさにロマンはど真ん中のイメージがある。ヴァイオリン協奏曲以外に、交響曲第4番、3番、真夏の夜の夢(の中の結婚行進曲)が、特に有名なのではと思う。「スコットランド(3番)」より「イタリア(4番)」の方が少し有名なような気がする。まあただ、日本で最も有名なのは、結婚行進曲に違いないから(メンデルスゾーンの曲とは知らなくても)、下手をすれば、最も有名な作曲家だったりして。

個人的な好みで言えば、交響曲3,5、ヴァイオリン協奏曲と、無言歌、弦楽八重奏などが特に好きだ。

40前になくなっているのはモーツァルトやシューベルト、ショパンなど錚々たるメンバーがいる。昔の人は短命だとはいっても、神経すり減らしてたのかな、 などと思ったりもする。ジミ・ヘンやジャニスも早死にだったし・・・(ちょっと違うか)

メンデルスゾーンという作曲家は、難しいことをまったく考えないで聴ける作曲家の一人だと思う。 奥深さがないと言ってしまえば元も子もないが、そういうことではなく、純粋に音楽が持つ美しさを体現した作曲家のように思える。他の作曲家もきれいな音楽はたくさん書いているが、何より美しさが際だっている作曲家がメンデルスゾーンだ。

メロディラインの美しさというばかりでなく、曲の構成そのものが美しい。

僕は「真夏の夜の夢」という劇付随音楽が、あまり好きではない。その理由は、単純な美しさ、いわば耽美的なものに、何か不純物が紛れ込んでいるように思えるからだ。 まあこんなものは、単なる個人的な言いがかりかもしれないが、なんだかそう感じる。

この人はこういう表題的な音楽が向いていないのか、と言えば、交響曲の例もあるので、そうとばかりもいえない。ただ、有名になったオペラ作品がないという辺りに、答えはあるのかもしれない。劇や台本に音楽を乗せるという行為の中で、流れるようなメロディラインが、うまく乗らない何かがあるのかもしれない。・・・などと勝手に考えてみたりする。

今改めてスコットランドをかけているが、ああ、いい曲だなあ。

 「ツァラトゥストラ」は、前にも書いたが、私が最も古くから聴いているクラシックの一つだ。もちろんR.シュトラウスの交響詩だ。ニーチェの作品のことではない。
この作品は冒頭のファンファーレのような部分があまりに有名だが、わずか1分半だ。この後に30分以上の曲が残っているわけだ。
私自身、映画「2001年宇宙の旅」のおかげでこれを聴くようになったのだが、確かに最初のうちは、冒頭しか聴かなかった。そこしか面白くないとも思っていた。だが、案に相違して、後半が素晴らしくいい。それに気づくのにはそれほど時間もかからなかった。
この作品はニーチェの原作に合わせて、部分分でタイトルが付いている。序奏に続いて、「後の世の人びとについて」「大いなる憧れについて」「歓喜と情熱 について」「埋葬の歌」「科学について」「病から回復に向かう者」「舞踏の歌」「さすらい人の夜の歌」の順番で演奏される。但し、楽章に分かれているわけ ではないので、全体は切れ目無く演奏されるが、それぞれがテーマを持って作られているわけだ。
交響詩というのは名称としてはリストが創始者だが、一般的な理解で言えば、複数楽章に分かれていない、標題付き交響楽だろう。例えば、幻想交響曲は交響 曲だが、リストの「前奏曲」とか「マゼッパ」とか、「タッソー」なんていうのは単楽章で、いわゆる交響曲の体裁を為していない。そして、内容がタイトルに 左右されているから、交響詩という名前を思いついたのだろう。

そもそも交響曲も、現代音楽まで含めれば、「作曲家が交響曲という名前を付けたから」交響曲なのではないかと思えてくる。第1楽章がソナタ形式 で、急・緩・メヌエット、またはスケルツォ・急という、学校で習うような形式でできていない交響曲も多数ある。ショスタコーヴィッチの交響曲2番や3番な どは、交響詩ではないのか?サン=サーンスの交響曲第3番はオルガン協奏曲ではないのか?とか、そもそもソナタ形式って何?とか。
物事は何でもそうだが、現代に到るまでに、非常に形式美を大切にした時代があり、そうした人たちがいる。もちろんそれを否定はしないが、同時にそう言った形式は、完成されれば、今度は破壊されていく運命にあるのだ。
提示部-展開部-再現部というオーソドックスなソナタ形式の、安定した音楽は、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンなどを聴くとそのまとまった良さはよく分かる。
だが、あれもこれもそうだったら面白くないと考える人もいるし、思い立った楽想がそれには当てはまらない人もいるに違いない。実は、音楽の多くはかなり疑似ソナタ形式で、ポップスだってその例に漏れない。
ビートルズのイエスタデイという曲があるが、まさにこれなんてそのままだ(私はほとんどビートルズを聴かないが)。主題の2回繰り返しなんていうのもポップスでは常套手段だ。
交響曲の第1楽章も当然それがある。

さて、そういう意味では交響詩というのは実に自由な形式で曲が書かれている。行ってみれば、かつて序曲なんていう名前で呼ばれていた曲で、実はオ ペラの序曲でも何でもない楽曲は、名前がなかっただけで交響詩と言ってもいいくらいなのだろう。但し、古いものはこれもソナタ形式で書かれているらしい。
音楽の主題というのは調性音楽ばかりでなく、1曲全体のイメージを決める物で、多くの場合、何らかの拘束力を持つ。先日購入したペンデレツキの「聖ルカ 伝によるイエス・キリストの受難と死」という曲では、確かどこかの楽章で、B-A-C-Hという音列を12音技法で変奏していると、解説に書いてあった。 いかにもという感じだが、そういうものなのだろう。

当然、「ツァラトゥストラ」も全体を支配しているイメージはあるし、私は音楽の勉強をほとんどしていないので(学校の時は大嫌いだったので)、後 からちょびちょびとかじったにわか知識で、どの旋律がどう変奏されてという話になってくると、何となく聴いて判るのはブラームスまでだ。正直、R.シュト ラウスはよく分からない。
ただ、全体を通じて流れるイメージみたいなものが、いくつかの旋律で支配されているのや、それぞれが関係調とかよく分からないがそう言った関連を持ってなっているのも判るような気がする。
だから、ソナタ形式かどうかという問題は、実は音楽が持つ根本的な問題、メロディーの親和性みたいなものが1曲の中では重要な鍵だと言うことだろう。これはもう、人間がそもそも感覚的に持っているものなのだと思う。

「ツァラトゥストラ」は、私にとっては、非常に美しく、自分にフィットする音楽なのだ。「ドン・ファン」や「ティル」よりも。「英雄の生涯」よりも好きだ。
この交響詩というジャンルは、昔から好きなのでシュトラウスばかりでなく、リストや、ドヴォルザーク、ドビュッシー等々よく聴いてきた。ドビュッシーの 海なんて交響詩と名前が付いているが、3つに分かれているし、そうなると単楽章の・・・なんていう定義もおかしな物になってくる。
要するに、私の理解だが、作曲家がどんな名前を付けるかで決まる。それしかないな。