ウソ読みで引ける難読語辞典


「ウソ読みで引ける難読語辞典」という本があるらしい。
「ウソ読み」というのは、読めない感じを当てずっぽうで読む場合の読みのようだ。その場合の索引が「ウソ読み索引」として付属している。
 ここ
にその索引の一部がある。
 
確かに最初の「嘸(さぞ)」が読めない。が、どうしてこれが「ああ」なのかの方が気になる・・・まさか「ああ無情」辺りからの連想か・・・・?そんなわけないか。
 2番目の口偏に愛なんていう字は全く読めない。
 また、地名の愛子(あやし)なんて、東国原より読めない。宮崎の地名らしい。
 蒼穹を「あおぞら」と読むのは、よくマンガなどである「当て字」のせいだろうか?読みとは関係なく意味を当てていくアレである。しかし、意味があっているということは、繰り返していけば、それが読みとしていずれ成立するということにならないだろうか?
 襖の「あお」は、そちらの読みの方が知らなかった。
 赫々「かっかく」も知らない漢字だ。赤四つだから相当赤いぞ。
「祟る」を「あがめる」は、反対語ではないとしても逆のベクトルを向いて入るなあ。
 苦汁を「あく」というのは何か解る気がする灰汁・・・・かいじゅうだものな。
 跪くも躓くも「あがく」というのも何となく解る気がするが、それに挟まれた足偏に腕の右側のような字は何と読むんだ?・・・解らない。
 魚の間八がこういう字だというのは始めて知った。・・・魚編じゃないんだ。
 この1ページ見ているだけでもだいぶ楽しい辞典だが、1ページだから楽しいっていうのもあるな。
 特に地名は人名と一緒で、読めなくても仕方ない気がするし、秋沙(あいさ)何て、辞書で調べても、
だから何?という感じだ。野鳥の会でもないと、興味は持てない。初めてであった字だし。
 1ページ見ただけでも、特殊な言葉は結構多い。地名や、鳥や魚、特殊な業種でしか使わない言葉などだ。それらの歴史に裏打ちされた言葉は、一般的には知識として必ずしも必要ないし、一回覚えても、割合すぐに忘れてしまうような木がする。
 最近漢字検定などが大流行のようだが、読めないより読めた方がいいけど、過度に知っている必要もない。
 紅絹(もみ)を知らなくても、あるいは一生出会うことがない人の方が多いに違いないからだ。

内田康夫

 内田康夫の「秋田殺人事件」を読んだ。初出は2000年で、新書版で出たのが2002年。しばらく本箱の奥で眠っていたものだ。
 内田康夫を読み始めたのは何年くらい前だろう。水谷豊が浅見光彦をやっていたのと、ほぼ同じ頃なので、20年くらいは前だろうと思う。最初に読んだのは「小樽殺人事件」だった気がする。光文社文庫が出たのが1989年になっているので、きっとその頃だろう。職場の店長が読むというので、読んでしまったものを何冊か上げた記憶がある。
「小樽殺人事件」を皮切りに、10年間でたぶん50冊くらいは読んだ。
 最近でも中村俊介や沢村一樹などが浅見光彦をやっているし、それ以外にも、辰巳琢郎や榎木孝明などがやっていた。気になったので調べてみると、最初の浅見は国広富之、次が篠田三郎、三代目が水谷豊らしい。それ以外にも、高嶋政伸もやっているらしい。
 なぜこのドラマについていきなり書くかというと、私にとっては、作品のおもしろさもさることながら、水谷豊主演のシリーズが、内田康夫作品を続けて読むための最初の原動力でもあったからだ。
 内田康夫自身は浅見のイメージをどこかで、森田健作と書いていたが、それはまあ、時代のなせる技で、最近の浅見光彦は、どれもうまくイメージにはまってはいるように思う。実は水谷豊はそのイメージから最も遠い。しかし実は水谷作品は現在DVDになっているものだけでなく、全部で8作品ある。いかにこのシリーズが人気があったかということだ。
 逆に、浅見のイメージが固定化することをおそれ、作者からストップがかかったという話を聞いた。
 それぞれ、作品としてよくできているし、内田康夫がかつての作品に宿していた「古き良き日本」と「戦争の陰」という雰囲気もうまく醸していた。しかし何より、水谷豊の演技力でもあったと思う。現在の「相棒」でもいい味を出しているし、かつての「傷だらけの天使」では、全く今の水谷を予測できない役者だったように思う。
 まあ確かに、10も20もそれで映像化されたら、見る側はともかく、作者は面白くなかろう。まして浅見のイメージとは少々違うので。
 とにかく、久しぶりに読んだ内田康夫だった。どれくらい久しぶりかというと、たぶん、2年以上は読んでいない久しぶりだ。
 内田康夫を読むというのは、ほぼ9割以上の確率で、「浅見光彦シリーズ」を読むと同意語なので、いわば、それを7~80冊くらい読んだということで、岡部とか竹村という、読んではいてもなぜか浅見光彦の方が面白いという不思議な主人公ではある。
 浅見光彦クラブなどという、ファンクラブまであるらしい。まあ、実際は内田康夫ファンクラブだと思うが、力石徹の葬儀だってあるくらいだから、解らない。
 私が浅見シリーズを読む最大の魅力は何か?といわれて最初に答えるのが、「浅見光彦が警察の取り調べで警察庁刑事局長の弟と判って、警察官が、急に態度を急変させるシーン」というのだが、実際そこが楽しみで読んでいるので、そのシーンがないと、非常にがっかりする。印籠のシーンが無くて寂しい思いをするおじいちゃんのばあちゃんの水戸黄門にたいする気持ちがよく分かるのだ。
 どちらかというと、あまりミステリとして読んでいないな、と思う。
「秋田殺人事件」だが、秋田杉の家にまつわる現実の事件をベースに書かれていて、ある時からの内田康夫は、非常に社会派で、もちろんそれは昔から無かったわけではないが、ある意味、現実の事件を非常に上手く扱ってフィクションに仕上げている。
 実際今回もそうで、上記の事件と新任の女性副知事、警察の腐敗みたいなものが内田流の正義感で上手に書かれている。
 しかし、この社会派が前面に出すぎた内田作品というのは、あまりリアリティのない清純派探偵浅見光彦と、これまたリアリティのない、どちらかといえば定型化されたヒロインのからみとともに、限界を感じざるを得ない。
 相変わらず小説はうまいし、読みやすい。だが、必ずしも共通認識のもてないものの考え方を、あまりに強く読者に向けて放射しすぎていて、鼻につく。それは例えば、面白いのだが、作者の訴えかけが鼻につく「鉄腕アトム」よりも、純粋に善悪二元論でエンターテインメントに疾駆した「鉄人28号」の方が、面白いというのと似ている。
 もちろんアトムと鉄人同様、趣味は様々なので、私が「鼻につく」部分に、至極共感を覚える読者はたくさんいるだろうし、浅見ファンの多くはきっとそうなのだろうな、と思う。差別的な意識はさらさら無いが、女性読者にはきっと多そうな気がする。あくまで気がするだが。
 内田康夫さんにはぜひとも、あまり政治家や官僚の登場しない、こてこてのミステリを書いていただくと、より面白い。
 もはや、永遠の33歳、浅見光彦は、セックスもしない清廉潔白な朴念仁として事件解決のためにどこまでもソアラを走らせてくれればいいし、ヒロインとのからみも期待しないので、せめてあまりにきれいな解決(特に政治的なものや、犯人自殺というパターンなど)は、何か残念でならない。
 まあ、昔読んだものも相当記憶の彼方で、忘れているので、上記の指摘は実は当たっていないかも知れない。ただ、そんな印象があるんだよなあ。
 いや「秋田殺人事件」も、面白いには面白かったですが。

県名のイントネーション

 今日山手線で、夢うつつに「次はおおさき~」というアナウンスを聞いていてふと思った。
 大崎はおさきと頭にアクセントが置かれる。以前、「いがたと、頭にアクセントを置いて言ったときに、それはおかしい、新潟県は「にいがた」だと、言われた。平板なイントネーションのことだ。
 ふとそれを思い出した。そこで、県名を思い浮かべてみると、おもしろいことに気づいた。
 例えば、大分県は県をつけると平板な「おおいたけん」だが、県を外すと「おおいた」となる。
 試みに北から県名を思い浮かべてみると、北海道は除き、「青森」「山形」「福島」「茨城」「埼玉」「千葉」「東京」神奈川」「山梨」「石川」「静岡」「岐阜」「滋賀」「和歌山」「奈良」「三重」「京都」「大阪」「鳥取」「岡山」「広島」「山口」「徳島」「福岡」長崎」「佐賀」「宮崎」「熊本」「鹿児島」「沖縄」は、県が付いても付かなくても平板なイントネーションが一般的。
「秋田」「岩手」「宮城」「群馬」栃木」長野」「富山」「福井」「愛知」「香川」「高知」「愛媛」は、県が付くのと付かないのでイントネーションに変化がある。
 この違いは、実は、県名が3文字かどうかなのだが、3文字の県は「県」が付くと付かないとで違いがあるのだ。
 さて、ここに漏れている県がいくつかある。「新潟」「兵庫」「大分」だが、小お3県は文字数で言えば、4文字だが、2音目が伸びるので実際には3音か3音半と言うことになる。「兵庫」は上の例の3文字と同じ変化があるが、残りの2県は変化してもしなくても使える。「にいがた」でも「いがた」でもありだし、「おおいた」でも「おおいた」でもOKだ。ただし、一般的にはこちらの方が多いかな?というのはある。
 しかし、宮城は「やぎ」であり、群馬も「んま」なのだ。県が付かない場合には平板なイントネーションは取らない。
 ここまできれいに揃うと、これは日本語のルールなのかな?とも思えるが、確かに3文字は頭にイントネーションを置くケースが多い。これは、3拍子のリズムがそうだと言うことと関係があるのかもしれない。
 もちろんこんなことは発見でも何でもないかもしれないが、たかが車内アナウンスで気づいたことが、ちょっとうれしい。あ、それだけのことだ。

氷壁

 私の読書は非常に偏っている。読んだことのない著名な作家、特に大家が山ほどいる。ことに日本文学の作家はそれが甚だしい。夏目漱石をきちんと読んだことがない。教科書に出ていた何かと、「坊っちゃん」「吾輩は猫である」の2作の冒頭のみだ。
 これは一つの例で、森鴎外も、学校で言われてやむを得ず、「高瀬舟」を読んだ。三島由紀夫も、川端康成も、ほとんど読んだことがない。三島は、「潮騒」の火を飛び越えるシーンだけ、中学生の時に読んだ。理由は言うほどのこともない。
 井上靖という作家も、これまでは全く見向きもしない作家だった。「あすなろ物語」とか「しろばんば」とか、中高生くらいで目にした作品のどれもが魅力的なタイトルとは言えなかった。今でもこれらを読みたいとは全く思わないが、「敦煌」「蒼き狼」「天平の甍」などはこれから読んでみたいなと思わせる。
 そもそも書店で、井上靖のコーナーで目をとめることがないのだから、読もうと思うはずがない。
 読書ばかりでなく、何事も人間はきっかけというのが大事で、それがなければ、新奇なことにはなかなか手が出せないものだ。いや、井上靖を読む程度のことが新奇か?という向きもあろうが、SFばかり読みふけっていた学生時代の私には、新奇なことなのだ。
 吉川英治を読むきっかけはゲームだったし、内田康夫を読むきっかけは水谷豊の浅見光彦だった。池波正太郎はドラマの「編笠十兵衛」といった具合だ。SFや海外文学は、実はそういうきっかけを必要としていないのに、日本人作家の作品に関しては、非常にその傾向が強い。我ながら不思議だ。
 一つは、日本文学特有の香というか、緻密さが苦手だ。私小説という分野も嫌いだし、人間の内面を描くばかりに、スペクタクルに欠ける、あたかもハリウッド映画と日本映画の違いを見ているような感じだ。
 どちらが上とか下とか、質がいい悪いとか、そう言うことではなく、所詮文学なんて好みなので、それ以上のことではない。
 さて、それで今回きっかけとなったのは、NHKドラマのCMだった。1月14日から放映される作品の原案(原作かと思っていたが原案とある。言ってみれば、アイディア拝借ということのようだが、井上靖の作品とは大分内容が違う)という「氷壁」を読んだ。
 さすが大家、文章は上手いし、読みやすい。よく書けているし、それなりに面白く読んだ。尤も、ではこれを皮切りに井上靖に傾倒するかと言えば、それほどのエネルギーはない。
 全体はどことなくメロドラマだし、ラストも好みではない。何よりテーマとなっている「ザイルが切れたか切ったのか」という点は最後まで解ったような解らないような(やむを得ないとしても)、消化不良がぬぐえない。そもそもそんな点を作者が書きたいわけではないとしても、私という読者はその点を納得しない。
 あとがきに、ヒロインの美那子という女性がもっと悪女だったら良かったと、佐伯さんという方が書いていたが、私はそうは思わない。この悪意を持たぬ、しかし微妙に非常識で、わがままな女性だからこそ、この作品はいいのだ。
 世の中で救いようがないのは、悪意を持たず人に害なす人たちだ。
 例えば今回の耐震偽装問題は、非常に悪いことをしているのだが、実はそこに悪意はないと私は思っている。悪意がないからこそ救いようがないのだ。
 美那子は犯罪に手を染めず、結果的に二人の男を死に追いやったように見える。実はそうではないが、そういう見方をすることができる「悪さ」こそが、この作品のキーだ。男を手玉に取っているわけでもなく、そんな意志もないのに、結果的にそうなっているというのが人生の綾であり、不幸だ。
 わたしは主人公がさっさと死んでしまう作品はわりと好きだが、今回の作品はその部分で無理矢理感と、予定調和の臭いがして好きになれない。私だったら、主人公を山で殺すようなことはしない。
 梶原一騎的な、例えばタイガーマスクが子供を助けようとして交通事故で死ぬ、というラストシーンは、ああいうマンガには相応しくないと思うし、むしろ今回の「氷壁」のような作品では、仮に主人公を殺すならその方がましだ。
 もちろん、これも好みだと思う。昼メロに取り上げれば、多分この作品はいいラストだろう。
 今日ちょっとだけどラマのシーンを見た。原案だから仕方がないとはいえ、その人物設定や状況設定をある程度使いながらこの筋運びや人間関係はどうだろう、と思わざるを得ない。主人公の名前などが変わっているのに、相手役の女性の名はそのままで、どちらかというと、「盗作」といわれるのがいやで、やむを得ず原案と書いたかのような、後味の悪さが残る。
 むしろ、「改作」とか、何か書きようがあるだろう。
 初回と今回の2回の一部を見ただけだが、井上靖を読んでしまっているだけに、素直に見られない。
 必ずしも絶賛しはしないが、原作に流れる、静かな川の流れのような、どことなく清澄な感じがドラマには全くない。単独でドラマとしてみれば面白いのかも知れないが、最早そう見ることができない自分がいて、ドラマにはだめ出しをしてしまった。多分、もう見ない。
 それよりしばらくしたら、井上氏の歴史物でも読んでみよう。

パソコンのキー

 実は、本の表紙について書いていたのだが、しばらく書いたところで、入力を間違えたのでEscキーを押したら、記事が全て消えてしまった。意気阻喪ということで内容を変えた。
 そもそも新しいMovableTypeは、ネスケで表示がキチンとされない。内容を読む部分は、自分でスタイルも、HTMLも書き換えられるので問題はないが、ログイン以降のシステムのページはそうはいかない。
 だからやむを得ず、普段あまり使わないIEを使って書いているのだが、このIE、どうも納得がいかない。
 ローカルでSHTMLやCGIといったファイルを読み込めないし、読み込めるように変えた場合、それらのファイルをダブルクリックしたら、IEが自動的に立ち上がってしまいそうで、それもイヤだ。
 Windowsもそうだが、マイクロソフトは、使いやすさを追求しながら、すごく使いづらいプラットフォームをどんどん構築していっているようにしか思えない。
 使いやすさには二面性があって、初心者が何も考えず、ボタンだけ押していれば先に進むという部分と、ある程度の(プロではない)利用者にとっても、比較的自由度の高い部分が混在していてくれないと困る。
 98の頃はそれでも、かなりカスタマイズが簡単だった。今では、XMLで書かれていたりして、非常に煩わしい。
 結局そんなことで、Escキーで記事がそのまま消えてしまうなどと言う、ネスケでは考えられない事態が起こったために、こんな羽目に陥っているわけだ。
 IEは起動にもかなり時間がかかり、これも使いたくない理由の一つだ。
 しかし、ホームページを制作している側から言うと、結局はIEに合わせて作らざるを得ないくらい、IEが世の中を席巻しているのは事実なわけで、OPERAや、MOZIRAが、ネスケに変わって台頭してくるわけでもない。
 何かこう、釈然としないパソコンの行く末を思わざるを得ないのだ。

八犬伝

 TBSで「南総里見八犬伝」を二日にわたって放映した。
 いや、実はほとんど見ているわけではないのだが、かつてNHKの人形劇で子供の頃見ていた記憶もあり、あるいは、水滸伝との関連などもあり、興味はある。
 NHKの記憶は、犬塚信乃を近石真介がやっていて、坂本九がナレーションをやっていたくらいの記憶しか無くなっているが、楽しく観ていたと思う。八犬士の名前も、前述の信乃以外は、犬田小文吾、犬山道節、犬飼現八くらいしか記憶になく、今回残りの4人の名前を聞いても、記憶と一致せず、新たに知ったという感覚だった。
 私は水滸伝が好きなのだが、水滸伝と八犬伝は、そもそも話の内容は全く違うわけで、比較するのもどうかと思うが、最も大きな違いは、八犬士は玉梓の呪いを受けながらも、実はそれと対抗する正義の犬士であり、仁義礼智忠信孝悌(NHKの歌でよく覚えている)に表される性格を基本的には犬士達が持っているのに対し、いかにも国のためにという義に参じたように見える108人の好漢は、確かに中には正義の士もいるにはいるが、どう考えても、盗賊や人殺しが集まっており、どちらかというと、本宮ひろしが描くやくざに似た、義憤に満ちた暴力集団といった趣がある。
 里見家再興という明らかな目的を持った八犬士と、結果的に何が目的だか解らなくて、堅物でほとんど世の中の見えていないような宋江の理想に振り回されて、108人が非業の最期を遂げていくような、悲しい物語となっている水滸伝は、明白に作者の意図するところが違うように思える。というより、前者は滝沢馬琴という作者が、言い伝えなどを下敷きにしていたとしても、明確な意図を持って作品に仕上げているのに対し、水滸伝は結果的に伝説をまとめ上げたというところで終わっているように思える。
 だが水滸伝の魅力は、少なくとも私にとっては、その破天荒とも言える、いいかげんな108人の生き様にこそあるのでる。そういう意味では、八犬伝は三国志などにより影響を受けているのかも知れない。
 しばらく前に八犬伝は、文庫で訳本が出ているので読んでみようかな、というきっかけを与えてくれた。読んだ後にでも、ビデオを見てみることにしよう。

大いなる聴衆

 永井するみという作家の「大いなる聴衆」という小説を読んだ。
 書店で、「2005年今年振り返って読んでもらいたい1冊」という帯を見て、裏のキャプションを読んだ。
 ピアニストの婚約者を誘拐し、「完璧な演奏をしろ」という犯人からの要求という、新鮮な犯罪に惹かれて買った。
 元々は2000年に単行本が発売になったようで、事件もその頃起こった設定になっている。
 600ページを超える長編で、しかも誘拐事件だけで引っ張っていく筆力には感心した。推理小説と言うほどではないが、読みやすいミステリだった。
 あとがきにも書いてあったが、そもそもここに登場する人物は、非常に読者の共感を排除し、「イヤなやつ」ばかりなので、そういう意味では読後感は良くない。登場人物は非常に多く、解らなくなりそうにさえなる。推理小説という意味では、ある意味読みづらい登場人物の多さだ。
 だが、小説としては、それぞれの生き様が見えて、何となく「類は友を呼ぶ」とでもいいたくなるような風にさえ思えた。それくらいひどい登場人物だ。恐らく現実を超えている。
 最近のマンションの強度犠牲事件報道の中で、今の法律は性善説に基づいているが、考え方を変えた方がいいというようなことを誰かが言っていたが、性善説か性悪説かという単純な二分論で考えるなら、人間は性善説だと思う。それは自らが幸福や快感や富裕といった良いものを求めていくからで、性悪説からはそういう人間像は浮かんでこない。
 そういう意味では、時折誇張された人非人が、気分を害させることもあったが、なるほど、日本人はこういう登場人物による小説も好むだろうな、と思える。
 
 特に主人公の紫という女性は、こんな女と一緒に仕事もしたくないし、付き合いたくもないと、最初から最後まで思わせる女性で、読んでいていらいらした。
 もう一つ、最後まで私は犯人の意図がよく分からなかった。動機は解ったが、その動機からどうしてこういう要求が出てくるのか、それがよく分からなかった。
 などと書いていると、けなしてばかりだが、それなのに読んでいて、そこそこ面白かった。これは小説家としての永井氏の力量なのだとも思う。
 この、クラシック音楽を特殊な音楽だと考えているような人たちは、きっと少なからずいるし、考え方によっては特殊ではあるとも思うが、「ジーンズやTシャツといった、クラシック音楽のコンサートにはおよそ似つかわしくない服装の人々」に到っては、「へっ!」という感じだ。私はほとんどジーパンでクラシックを聴きに行く。
 そんな感じで、非常に反発を沢山感じさせながらも、よく途中で本を読むのを止めてしまう私が、最後まで読んだし、早く読みたいという気を起こさせる小説でもあったのだ。ある意味悔しい。
 少なくとも個人的な知り合いでない限り、この作品に出てくる安積界というピアニストは、決してイヤなピアニストではないと思うし、いい演奏をしてくれるのが演奏家の使命でもあるが、そもそもクラシックの演奏家というのはそれで口に糊しているわけで、顧客主義であれば、如何に聴衆を楽しませるかが至上命題だ。
 そういう意味では、ここに登場する衛藤という安積のマネージャーの「CDが売れた演奏がいい演奏」というのは一面の真理だ。
 大いなる聴衆の意味をここで書くことは差し控えるが、いずれにしたところで、聴衆のない音楽などは、人間原理を否定する宇宙の彼方の異星人のようなもので・・・・と例え話の方が理解しがたいことを書いて悦に入っている物書きのようなものだ。
 だが、こうしてクラシック音楽に関するテーマで小説を書いてくれるというのは、考え方は違っても面白い。ロックでもジャズでも面白いと思うのだが、ミステリでということになると、方向性が見えてきそうでイヤだ。飲んだくれの探偵とか、歌舞伎町の裏通りとか色々と・・・

ものを書くセンス

 生協の白石さんが話題だが、話題になるだけに、なかなかいいセンスでものを書いていると思う。というより、これは切り返し、とかの分野かも知れないが。
 文章というのは読者に何かを伝えるための手段だが、上手い下手や、技術的な問題の他に、いわゆる美文とか、味とか、様々な意味で個性とセンスが要求される。
 もちろん、万人に受けるセンスなんていうものがあるとは到底思えないし、ある程度きちんと書かれた文章であれば、少なからず共感を受けられるとも思う。
 しかしその中で、より多くの支持を受ける文章というのがあって、特にエッセイ的な文章はそれが大切だ。小説のように、そこにストーリーや設定など他の要素が大きくかかわってこない分、内容よりもむしろ、センスそのものが重要なポイントのように思える。
 何となく興味を引きそうな文章とか、読んでいるだけで時間をつぶせる文章とか、いずれにしても、読者をいい気持ちにはさせているのだ。
 確かに、それだけではない、もっと深いとか、難しいエッセイやコラムも多々あるが、文章の洒脱さとか、同じことを言うにしても、その持って行き方、言い回しなど、様々な側面から、センスのいい文章書きというのはいるものだ。
 何にせよそういう人には憧れるわけで、私のように理屈でしか物事を判断できない人間にとって、そういうセンスは願っても得られない天性のものなのかなあ、うらやましいなあと思うばかりなのだ。

釈迦

 瀬戸内寂聴の「釈迦」という文庫を読んだ。
 瀬戸内寂聴自体が初めてで、多分今後も読まない予感はあるが、「釈迦」は面白かった。
 元々仏教関係の書物や、キリスト教関係の書物は好きで、よく読む。当然今回もタイトルで買った。
 弟子のアーナンダの一人称を中心に釈尊の最後の旅を描きながら、仏典にある釈迦と仏教教団のエピソードをうまく織り込んでいた。特にエンディングはよく書けていて、ああ、この人はこういう作風なのだ、と思わせてくれた。
 この作品は、まだ最近の作品のようなので、瀬戸内寂聴が出家して大分経ってからの作品だ。恐らく満を持して、という表現が当たるような作品なのだと思う。尼僧が釈迦を描くというのはそれなりの思いがあるだろうから。
 釈尊教団の中での女性の位置というのは、あまり正当ではないと思う。元来、人間社会は多くの場面で、女性は男性よりも一段下だったり、汚れていたりという扱いを受ける。
 女性の持つ色香が、その持ち主の価値を下げるものなのか、それに惑う男がいけないのかは難しいところだが、確かに宗教的な側面から見れば、修行の妨げになるのは間違いない。仏教的にいうなら、煩悩の最たるものであろう。
 私は手塚治虫の作品の中で最も好きなのは「ブッダ」と「ブラックジャック」だが、ブラックジャックが好きなのは、いつものスーパーヒーローが好きな、私のステレオタイプの漫画嗜好に過ぎないが、「ブッダ」の方は若干違っている。「ブッダ」の中で、特にタッタとパンダカという、手塚のオリジナルキャラクターが、好きではないのだ。つまり、あれは非常によく描けてはいるが、仏典が持つエネルギーを手塚が超えられなかったのだと私は思っている。そして、仏教譚としては非常にエネルギッシュなのだ。
 
 寂聴の「釈迦」は、非常に静かで、悟りに近い雰囲気が非常に良く伝わってくる。
 釈尊が、この世を苦しみといい、この世は美しいという。この二律背反の中にこそ、生き方の神髄があるように思える。
 仏典の中に、自分の子供を亡くした母親が、仏陀に生き返らせて欲しいとすがる場面がある。仏陀は、誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくるようにいい、そうしたら生き返らせてあげると告げる。母親は必死で探すが、誰も死んだことのない家など存在しない。人の死は誰にでも訪れるものだと言うことを理解した母親は仏陀に帰依するという下りだが、昔から私はここがどうも納得できない。
 確かに死は誰にも訪れるし、この本の中にあるように、人は死するために生まれてくるのだ。生まれた瞬間から死への行進を始めるのだ。だが、そうだとしても、この世に姓がある限り、その長短は意味がある。少なくとも、赤子で死ぬか、成人するかだけでも大きな違いだ。
 それを、死は誰にでもという、いかにも共通のプラットフォームである最後の瞬間だけに集約させて諭すというのは、神の国に生まれ変わるという論旨で、この世の生を儚いものにしてしまう多くの宗教と同じように、欺瞞にしか見えない。
 もちろん、実はそこを超えて、別の意味はある。この世が苦に満ちていると説く仏教の教えは、そこを原点とし、だからこそこういう生き方が正しいという筋道を立てることに成功しているので、それは、人の死を諦観ではなく、静謐という心の動きで受け止めることを可能にする。
 前段の話も、実は死んだ子供は返ることはないという受け入れを、母親にさせるための方便でもあるわけだ。この世が苦に満ちているのは、一軒平等であるような人間が、実は不公平に生まれ、育ち死んでいくことも含めているに違いない。誰にでも共通に訪れる生老病死だが、その様相は個人差があるのだ。
 だが人が獲得した考える能力は、その中から悟りを生むこともできる。
「この世は美しい」という仏陀の言葉は、まさに、この世を美しいものと捉えるも、苦に満ちていると捉えるも、実は往々にして表裏一体であることの謂いであると、私には受け取れた。

国語のクイズ

 最近、クイズ番組が非常に多い。分けても国語をテーマにした番組の多さに驚かされる。
 曰く、漢字が読めるか、書けるか、ことわざ、言い回し、定型句等々・・・主に芸能人の知識を試すような内容になっている。
 こういったクイズが好きな私にとっては面白いし、場合によっては難しかったり、始めて聞く言葉もある。一部は非常識なくらいに難しいので、トリビアと言っていいような場合もある。
 しかし、流行とはいえ、番組改編期の10月中旬くらいにはどこもかしこも同じようなクイズで、問題が重複しているケースもあった。
 元々漢字は書けない方だが、改めて書けないことを思い知らされたし、表現についても、意外に難しいことに驚いている。
 
 というのも、おそらくは言語の変遷というのは、言語が伝聞などにより間違った伝わり方をしながら、変化していく中で、実は正しくない表現でも、多く耳にすることで慣れ、違和感を覚えなくなっているからだと思う。
 言語学者や国語の先生には寂しい事かも知れないが、時代が過ぎゆくにつれ、定着する言葉も多いに違いない。
「ら抜き言葉」等は、ワープロが指摘してくれるが、裏返せば、それだけ多く使われていると言うことだ。ら抜き言葉でも十分生き(ら)れるのだ。
 的を射るなどという言葉は、言葉の意味を考えれば「的を得る」など意味が通らないが、使う人は多い。
 国語力の低下ということが言われるが、言語の最低限の意味というのはコミュニケーションの道具で、そういう意味では、これだけグローバル化した世の中で、世界情勢や未来を見たとき、国語よりも英語ができた方がいいと言うことも言えなくもない。
 尤も、国語が持つ歴史や文化というものは別にあるわけで、それを憂うことは必要なことだ。
 個人的には、漢字というのは非常に複雑多岐に渡るがために、日本語に多彩な表現力を与えているし、パズル的にも芸術的にも美しい言語だと思うので、できれば精緻に生かして欲しいと思う。
 ただその中でも、書き順だけはどうでもいいなと思ってしまう。もちろん、学問的な意味では、例えば意味論とか、その起源や生成という意味で必要かも知れないが、小学生に覚えさせて試験でその記憶を等という意味では非常に無意味に思えてしょうがない。
 こういったことが国語をつまらなくしている一つの要因にも思える。
 私は国語はずっと嫌いだったが、最近のクイズは面白い。つまり、日常的に使っている言語であるから、興味を喚起することは必ずしも難しくないのだと思う。子供の頃から国語に興味を持たせることができれば、国語力の低下や衰退も実は防げるように思えるのだが・・・・