大人語とやら

実は知ったかぶりをしているオトナ語ランキング
 という記事があった。
 スキーム/イニシアチブをとる/マター/架電の件/バーター/ポテンシャル/NR/ガラガラポン/ASAP/ペンディング
 という順だった。
 ASAPは口に出していて解ったが、NRは全く思いつかなかった。どうやらNo Return、直帰ということらしい。
 バーターは交換というkとだろうが、交換条件から、時々抱き合わせみたいな意味で使われることすらある。
 架電はどうやら電話をかけることらしいが、初めて見る字だ。こんな感じで新しい言葉は生まれていくのだろうか。
 ガラガラポンはよく政界ニュースでやっている。
 スキームやイニシアティブやポテンシャルは普通の外来語だと思うが、ポテンシャルはスポーツなどでもよく使われるが、どちらかというと物理用語的だ。
 こういうランキングはインターネットができたことで手に入るようになった情報の一つだが、かつてITとか、インターネットという言葉すら、こういうランキングがあったら上位に入っただろう。
 ただ思うが、若者言葉と同様に、あたかもこういう言葉を知らないと社会人としてなんだ、みたいな傾向が、時にあるのかも知れないが、所詮は言葉だ。知っている言葉と知らない言葉がある。
 友人が、機先を制するという言葉が通じなかったと言っていた。
 言葉はより多くを知っていた方が、コミュニケーションに困らないし、楽しい。だが、NRを知らなければ、訊けばいいので、そういう意味では、知らないことは必ずしも恥ではない。
 尤も、日常会話が成り立つ程度には知っていた方がいい。ただし、それも個人レベル、コミュニティレベルで違うわけで、ちょっと古いが麻生首相のレベルであれば、より高度な知識が要求されるわけだし、それはやむを得ない。
 ただあの人は、言ったことをころころ変えて、しかもそれを最初から言っていたと言い張るところが大人げない。あ、言葉の話題ではなかった。
 それにしても、「マター」ってどういう意味だ?

オッド・トーマス

 クーンツの「オッド・トーマスの霊感」というのを読んだ。
 ぼくは実は、いわゆる「ホラー」が嫌いなので、スティーヴン・キングも含め、ホラーらしい作品を書いている作家さんの作品はほとんど読まない。読んだら面白いのかも知れないが、どうも肌に合わない。
 クーンツも実は最初、そう思っていたので読む気はなかった。だが、「ウォッチャーズ」という作品を読んで、好きになった。もう15年くらい前ではないかと思う。ステープルドンの「シリウス」を思いながら読んだ。これが面白かったので、何冊か読んだ。ただこの人の場合、何冊というのがほとんど上下巻だったりするので、冊数だけは多い。
 しばらく読んでいなかったのだが、何となく書店で瀬名秀明の帯に惹かれて買った。
 結論から言えば、面白くなくはない。霊が見える平凡な主人公という設定だが、設定上の多少のご都合主義は、どんな場合でも許されるので、彼がヒーローとなる元、つまり、未来予知できるわけではないのに、結果的に予知をし、事件を防ぐという流れは、ある意味とてもハリウッド的で、悪くない。ただ、そこへ行き着くまでが、とにかく長い。この小説を、この長さで書く意味がよく分からない。
 もちろん、主人公とその婚約者の関わりは、どんでん返しも含め、とても重要な話だが、個々まで紙を使わなくても、と思ってしまう。
 ぼくは元々長い小説が好きだ。ローダンを例に出すまでもなく、先日取り上げた「モンテクリスト伯」「ダルタニャン物語」「レ・ミゼラブル」「三国志」「水滸伝」「ファウンデーションシリーズ」「デューン・シリーズ」などから比べれば、「オッド・トーマス」は短い。「罪と罰」や「氷点」などと比べても短い。たぶん「ウォッチャーズ」よりも短いのではないか。
 でも長く感じた。長いというより冗長だ。なんていうとファンから起こられるかも知れない。
 微妙に純文学的な、主人公の周りの世界、日常や家族関係など、あるいは続編のために必要な複線なのかも知れないが、正直もう少しソリッドにしてもらえたら、だいぶ楽しめた。
 こういうヒーローは少なからず存在する。ハリウッド映画などでは、否応なしに事件に巻き込まれた、決して強くない主人公が、結果的に事件を解決するパターンはよくある。トーマスはもう少し能動的であるが、ある意味パターンとしては新鮮味があるわけではない。
 ただ、小説には必ずしもアイディアの新鮮味など必要なわけではない。同じアイディアで、それ以前のものよりも優れた作品を書くことは十分可能で、「ロミオとジュリエット」なんて、まさにその典型なのではないかと思える。まあ、「オッド・トーマス」の場合は、「ロミジュリ」ほど、アイディアがありふれているとは言わないが。
 作品の後半が、よく書けているだけに、そこまでの流れが少々「うざい」。また、自ら「アクロイド殺し」の語り手というような書き方をしているのは、実はちょっと卑怯な感じもするが、でも実は、これを読んだ人の一部は、きっと思い至ったはずの最後の数章の内容に、悔しいけれどぼくは気づかなかった。クーンツの手の上で踊らされていたわけだ。そして、この作品で一番良かったのがそこの件なだけに、やられた感があった。
 もう少し真剣に読んでいれば、思いついたかなとは思うのだが、ちょっと悔しい。
 続編が出たら読むかどうか迷う作品だ。
「デューン」や「ファウンデーション」の時は、全く迷いもしなかったが・・・

 カテゴリSFにも入れてるけど、SFじゃない。

モンテクリスト伯

 久しぶりにデュマの「モンテクリスト伯」を読み直した。岩波文庫で全7巻、2,500ページを超える大作だ。
 先日、アニメの「巌窟王」を見て、大きな不満を覚え、それを払拭する為もあって、しばらくして読み始めた。改めて、こういう傑作を、内容をねじ曲げてアニメ化することの暴挙を思った。
 このアニメしか見ないで(たぶんこのアニメはよくできているので)「モンテクリスト伯」を知ったと思ってしまうのは大いなる損失である。
 さて、この際作を精緻に、完成させたデュマという人の文筆力と博識、構成力には舌を巻く思いがする。実際のところ、この小説にはミステリアスなところはあまりなく、かなり透明に、全体が見渡せる。
 エドモン・ダンテスが一人の恋敵、一人の仕事上の仇敵、そして一人の栄達を望む役人の手によって奸計にはまり、死刑にも等しい待遇を受けてイフ城の牢獄に繋がれてから、14年の歳月の中で、ファリア神父と出会い、この時点で、彼には将来の復讐のための道具として巨万の富が約束されたことが、読者には解る。そして、船乗りシンドバッド、ブゾーニ神父、ウィルモア卿、モンテクリスト伯爵、これらの人物がすべて、ダンテスの変名・変装であることも、読者はほとんど疑うことなく、推定できる。それでも尚、それぞれの復讐相手の前でその仮面を脱ぐシーンは、すべて感動を呼ぶし、そこへ向かうための様々な複線が、モンテクリストの打った手として実現されていく様は非常に心地いい。
 復讐譚として、基本的に復讐する側とされる側のすべてが解り、尚かつその進行があからさまに見えるのにもかかわらず(言ってみれば謎がほとんど無い)、「待て、しかして希望せよ(個人的には講談社文庫の「待て、そして希望を持て」の方が好きだが)」という一貫したテーマが存在し、厳かに終わる。
 とても巨大でよくできた交響曲を聴き終わった後のような、気持ちいい疲れと、静かな感動が得られるのだ。
 この作品は全編エンターテインメントで、ある意味、寓意的な部分はほとんど無いといってもいい。すべて書かれたことはあからさまで、表面に出ている。同時代に近く、リメイクするとどちらがどちらか解らなくなるような「レ・ミゼラブル」のように、エンターテインメントの中にキリスト教的な救いや愛を潜ませることもない。
 デュマが「神よ!」と言わせれば、それはとりもなおさず作中人物のみが祈っているのであって、読者にそれを押しつけることもない。
 最後にマクシミリヤンがヴァランティーヌと結ばれるシーンなどは、ヴァランティーヌの葬式が行われる前から、そういうシーンがあることが予測される。
 唯一、ダンテスとメルセデスの関係が最後にどうなるのか、これはそのシーンが語られるまで判然とはしない。だが、デュマはそこでも最善の描き方をし、読者の涙を誘う。言ってみれば、14年間の辛苦をなめたダンテス以上に、大きな傷を負うことになったメルセデスという女性の最後のつぶやきが「エドモン、エドモン・・・」というのは、予定調和を言われようと何であろうと、最高のシーンなのだ。
 この作品を読んで、どうしてこんな終わり方をさせることができるのだろうというという映画やアニメの存在が、とても信じられない。
 ただ思うのは、金の価値がとても解りづらいということだ。貨幣の種類だけでもフラン、ルイ、スーなどある上に、1万フランがどの程度の価値なのかが解らない。5万フランで邸宅が買えるという記述があるので、1万フラン=1千万円くらいかな?とも想像するのだが、だとすると、モンテクリストがダングラール銀行から最後に引き出した金、600万フランは、60億円、最後にモンテクリストが資産を1億と言っているので、1兆円ということかな?と思ったりする。
 確かに個人が1兆円持っていれば、金でできることのほとんどはできるだろうと思える。毎日1億円使っても、30年くらいかかる計算だから、取り敢えず金でできないことは何もないだろうと思える。
 こういう金に物を言わせて復讐を遂げるというお話は、あまり東洋的ではないように思う。
 
 この作品はデュマ自身がほとんど自分で書いているらしいので、「三銃士」などともちょっと趣が違う。次にいつ読むかは解らないが、必ずまた読みたくなるに違いない。この思いこそが、その作品を真に優れたものであると評価するかの、大きな基準なのだ。
 ああ、面白かった!!

アインシュタイン・セオリー

 マーク・アルパートという人の「アインシュタイン・セオリー(Final Theory)」という作品を読んだ。
 早川から出ていて、アインシュタインが封印した統一場理論への鍵というキャッチなのに、SF文庫ではない理由は読んでみて解った。逆に言えば、SFとはなんぞやの逆テーゼみたいな作品でもある。つまり、SFがサイエンス・フィクションであるなら、この作品はとてもSFだし、ある意味ヒューゴー・ガーンズバックならこれぞSFというのではないかという、空想小説である。
 全体を通して印象的なのは、全編これ、ハリウッド映画の脚本ではないか、と言うような場面展開で、いずれ映画化されるのではと思わせた。ストーリーは非常に面白く、意外な展開も随所にあってとても楽しめた。
 もともとサイエンス・ライターが書いているので、理論的な構築も割としっかりしている。どこまでがほんとで、どこまでが想像なのかというのが、わかりにくいというのは、いい作品なのだ。
 アインシュタインの弟子の一人だったクラインマンという老齢の科学者が、サイモンという得体の知れない男に拷問されるところから話は始まるのだが、このサイモンという男は、なぜか頭の中で、浦沢直樹の書く登場人物のようなイメージが、最後まで払拭できなかった。暗く悲惨な過去は、とても同情的なのに、最後まで同情の余地を見せないクールな男で、いい味を出していた。
 
 アインシュタインが生涯かけて追い続けた統一場理論。それが完成されていた、という着想から、この小説はできあがっているが、実際のところ、超ひも理論さえ越えて、小説のタイトルでもある「最終理論」のような形に結実していることになっている。この辺りのいくつものハードルを、アインシュタインが簡単に越えすぎているのは気になるが、要は、そのセオリーが、新たな武器を生むということが問題なのだ。
 アインシュタインがE=mc2(自乗)を導き出した結果が、原爆や水爆に結びついたからと言って、アインシュタインを責める人はそれほどいるとは思えないし、アインシュタイン自身がそのことを後悔していたからと言って、その事実はアインシュタインが作り上げたわけではなく、この世の厳然たる成り立ちがそういうもので、だからこそ、太陽は核融合して人間が存在すると考えれば、E=mc2は、ある意味この世の成り立ちを説明したに過ぎない。
 この本で言うところの「最終理論」が、新たな武器を生むから封印する。単なる新たなではなく、最終兵器とも言える恐ろしい武器に転用可能だから封印する、というのはいかにも小説の主題となりそうなテーマだが、実はこの作品、その辺りの解決策だけがちょっと陳腐だ。
 
 ハリウッド映画のようだと書いたが、時折あるハリウッド映画の陳腐さに似ている。例えば、今日放映されていた「アルマゲドン」、同じテーマの「ディープ・インパクト」これらの作品は、「インディペンデンス・デイ」もそうだったが、とってもアメリカンで、ブッシュ大統領だ。
 アメリカンドリームが世界を救うドラマだが、一種それに似たものをここでは感じた。
 それでも、今上げた3作の映画も含めて、今回の「アインシュタイン・セオリー」も、とても楽しいお話だ。
 割を食って死んでいく人の数はとても多く、最後まで読んでみると、結構無駄死にが多いので、かわいそうだが、たぶん彼らは、時代劇の名も無き侍のように、「お疲れ様でした」と立ち上がるのだ。
 いずれにしても、読んでいて楽しかった。場面展開が早く、複数の場面が平行して描かれ、手に汗握る。こういう作品を書いてみたいと思わせる。ただ、もう一回読みたいかというと、そうではない。「幼年期の終わり」など、第2部の冒頭で、第1部から改めて読み直そうかと思ったほどだ。そういう奥深さは残念ながら無い。それは、この作品が、謎解きと、テンポの良さ、アクションシーンの卓抜した描写力などで構築されているからだ。
 そういう意味で、テーマは大きいが、内容的な世界観は大きくない。
 また、思うのだが、こういう作品に出てくる軍隊やFBIはどうしてこんなに間抜けに描かれるのだろう?「ダイハード」で、ヘリコプターに乗ってベトナム戦争の話をするFBIと同レベルだ。あのときは、主人公の刑事の能力を際だたせるためだったが、今回はそういう人物が出てこない。
 主人公は確かに何度死んでもおかしくないような危難を乗り越えていくが、あまり実力で、という感じはない。いや、実力には違いないのだが、そもそも物理学を勉強していた作家だし、言ってみれば火事場のくそ力に近いのだ。
 でもこの人の2作目が出たらきっと読むだろうな。たぶん面白いから。過去の作家で言えば、D.Rクーンツを読んだときとちょっと似ている。向こうのエンターテインメントの典型と言える小説だ。
 この作品にアインシュタイン・セオリーという邦題を付けた訳者にも素晴らしいと言いたい。これが「最終理論」でも読んだかも知れないが、アインシュタインという名前があったために、迷わず手に取った。
 ただ、「ヘル・ドクトル(Herr Doktor)」という表現は、ドイツ語の敬称だとしても、なにやらテーマがテーマなので「HELL DOCTOR」に見えてならなかった。「先生」とか「博士」でも良かったのじゃないかと思ったが、原文を知らないし、そもそもドイツ語の知識もない。同様に、「アインハイトリッヒェ・フェルトテオリー」は「統一場理論」という日本語ではいけなかったのかな?と思った。もう少し短くて解りやすい単語ならいいが、このカタカナが出てくると、時々止まった。
 ただ、ただ、どうしても結末はあまり納得いかないのだよ・・・どうしてアメリカはあんなに簡単に手を引く?FBI何人死んでるんだ?殺されちゃった新聞記者はどうなる・・・・
 しょせん、自分たちだけ助かったから良かったのかな・・・・てな気持ちに、読者をさせちゃいかんだろう。・・・でも面白かった。これだけは確実。
 

放送禁止用語と差別

 MIXIのニュースを読んでいて日刊サイゾーという実は何のサイトかよく分からないサイトの記事を見つけた。
 「言葉狩りより芸術性」放送禁止用語を堂々流すTOKYO MXという見出しで、TOKYO MXで放映されている「帰ってきたウルトラマン」における放送禁止用語を未処理で放映しているという件に関する話だ。
 いずれ記事は消えてしまうと思うので、このエントリーの最後に全文を引用しておく。
 そもそも放送禁止用語とは、差別的に使われる言葉などを放送上利用しないための自主規制用語だと理解しているが、同時にそれは、出版禁止用語でもある。その言葉の問題を論じた書物などであれば別かも知れないが、通常の書物からは、基本的に排除される言葉だ。
 この、放送禁止用語と差別用語は、似て非なるもので、実は非情に難しいし、差別用語には、まさに差別用語として、差別目的に造られた言葉から、差別的に使われることが多かったためにそうなった言葉、ある種の職業などに対する差別が、その職業に対する呼称を差別用語にした例、それらの差別用語を用語の一部に含むと見られる言葉など、一見して解る言葉から、首をかしげたくなる言葉までいろいろ含まれている。
 今回の記事にも言及されている、「日雇い人夫」という言葉は、現在では漫画は「日雇い労働者」と言い換えられているらしい。手持ちのDVDのアニメでは、かつてテレビの再放送で口パクになっていた部分が復活して、「日雇い人夫」と言っていた。もちろんこの「人夫」がそれにあたるので「日雇い」ではない。
 人夫という言葉は、いわば肉体労働者であり、かつては土方(ひじかたじゃない)という表現もあったが、これもたぶん今は放送禁止だ。
 だが、この「人夫」や「土方」という表現のどこが差別用語なのだろうと思う。言葉というのは、差別的に使おうとすれば、以外に多くの言葉が差別的に利用できる。
 例えば前述の巨人の星だが、ブルジョワの集まる青雲高校を貧乏な星飛雄馬が受験した日の面接のシーンの話だが、面接を待つ待合室では、訪れた父兄が、ここは上流家庭だけが受けるはずなのに場違いだなどということを語り合い、面接会場に入れば、下町の川堤中学出身だという飛雄馬を、学校サイドの人間が、下町のどぶくさい人間が青雲高校を受けるとは、と言い、飛雄馬が父親を「日本一の日雇い人夫」と言い切った際に、PTA会長の伴大造は「日雇いの子が青雲にやってくるとは前代未聞だ」と高笑いをする。
 このシーンで差別的に使われている言葉は、「日雇い」であり、「下町」「貧乏」という言葉だ。むろん、このシーンを見る人間は、星に対するいわゆるブルジョア階級の(現代日本にそんな階級はないが)あり方にこそ鼻白む思いがするのが普通で、賛同する人は少ないはずだが、おそらく昭和の日本では、少なからずあったし、実は今でもそういう階級意識がなくなったわけではない。
 いや、こういう階級意識に根ざす差別的な感情が、少なくとも資本主義社会から完全に消え去ることはないだろう。これは、人種差別もそうだし、国家間の差別だって、根絶することはきわめて難しい。中国の中華思想だって、ユダヤ教の選民思想だって、日出ずる国の天使という表現だって、根幹には他社との比較と優越感があり、そこに差別が生まれる土壌があるのだ。
「日雇いの子が名門青雲に」と笑い飛ばす伴大造は、デフォルメされているとはいえ、「お隣のお子さんは東大なのよ、それい比べて何とかさんは名前も聞いたことがない私立大学」というのと、同じだ。
 ブスという表現がテレビでいかに頻繁に使われることか!
 ブスという表現は明らかに差別を目的とし、差別的に使われているが、差別用語とは言われない。だが、ブスと言われてうれしい人間などいるはずもない。場合によっては、その言葉が人生を大きく変えてしまうことだってあるかも知れない。
 だが、それでも言葉はやはり言葉に過ぎないのだ。言葉は単にコミュニケーションツールであって、それ以上ではない。ツールであるからこそ、その使い方と目的が大きな問題になる。
 
 よく差別用語の話は「言葉狩り」という表現を使われる。
 もちろんそういう側面もある。だが、差別され続けてきた側から言えば、おそらく「言葉狩り」は最も効果的な差別廃止の手段でもあったに違いない。差別用語の種類によっては、おそらくそれは正しい。
 とはいえ、すべてがそれでいいわけではない。言葉はあるものだし、存在するもの、こと、現象、思想、状態などあらゆることを記述するために必要だし、すべてが言い換え可能なわけでもない。
 言葉は常に、同時に使い方を含めて考えるべきだし、前述したように、多くの言葉が差別的に使用可能だ。なくすべきは差別であって言葉ではない。「帰ってきたウルトラマン」が「言葉狩りより芸術性」という表現で語られるような作品であるかどうかは別にして、かつてはそのようにして使われた言葉を、消していく作業というのはいかにも社会主義的というか体制的なにおいがする。
「きちがい」という言葉がいけないという理由で「カーキチ」や「釣りキチ」がいけないということになれば、やはりそれは表現を破壊していく好意であるし、言葉の意味を無理矢理一方向に向ける行為でもある。
「片手落ち」という言葉が、身障者を連想させるという理由で使えないのであれば、「手落ち」自体を禁止しなくてはいけない。
 文脈の中で「片手落ち」という表現を使うとき、あからさまに片腕のない人を貶めるような意味で使うことははなはだ困難であり、むしろこれなどは曲解と言っていい。
 先日台湾だか中国だかのニュースで「おばさん」と言われたから侮辱罪で訴え、言った人間が拘束されたというのを読んだ。言われた側にしてみれば、侮辱を感じたかも知れないが、これを罪に問うていては、世の中は罪人の山となってしまう。
 もちろん侮辱などしない方がいいに越したことはないが、この人も侮辱しようと思っていったとは思えない。
 多くの場合、言葉は話し言葉であれ書き言葉であれ、非情に頻繁に誤解を内包している。それは親しい間柄であれ、そうでない関係であれ、少なくはない。だが、誤解は解けばいいし、何もかも悪い方へ誤解していく必要もない。
「きみは映画気ちがいだな」と言われて、相当な映画好き以上の意味をそこから導き出すことは難しい。英語のクレイジーも精神的な異常と、執心の双方の意味で使われる。
 スチュワーデスを客室乗務員、キャビンアテンダントに言い換えても、めんどくさいだけでそれほど意味があるようには思えない。たぶん一部の人は満足するだろうが、それ以上ではない。
 そんなことよりも、自分の夫を、「主人」と言ったり「亭主」と言ったりすることの方が気にしてしかるべきだと思うが、それは問題ないみたいだ。
 いずれにしても、存在する言葉は自由に使えて、その意味を的確に使える文化が望ましい。後進国を発展途上国に変えてみても、自分たちが先進国であれば、何も変わらない。変えるべきは意識だったり、考え方の方だ。
 そこをおざなりにすれば、いつまで経っても電車から無用なシルバーシートは無くならない。どこに坐っていようと、年寄りや身体の不自由な人、辛そうな人などには席を譲るという文化の方が大切だ。差別もまた同じことのはずだ。
 


 一瞬、我が耳を疑った。何気なく見ていたテレビから、いわゆる「放送禁止用語」が、普通に流れてきたのである。
 番組は、TOKYO MXの「円谷劇場」という枠で再放送されている、『帰ってきたウルトラマン』。70年代以前に制作された番組には、現在では放送に不適切な表現を使用していることが時々あり、その部分を無音処理して放送されるケースが多い。最も有名なケースが、『巨人の星』の少年時代のクライマックス、主人公・飛雄馬が父のことを誇りに思う名シーン、「父ちゃんは、日本一の日雇い人夫だ!」という箇所が、無音になってしまっているところだ(ちなみに現在では番組サブタイトルも変更されている)。こういった処理は、地上波、BS、CS問わず、現在ではそれが当たり前のこととなっている。『太陽にほえろ』で三田村邦彦が演じたジプシー刑事は、そのニックネームそのものが現在ではちょっと問題らしく、現在地上波では放送されなかったりもする。
 しかしこの『帰マン』、また別の回でも無音処理されず、そのまま放送された。「円谷劇場」では番組冒頭、画面一面に、こんな注釈が映し出されてから本編がスタートすることになっている。
<本作品は作品のオリジナリティーを尊重するため、そのまま放送します。ご了承ください。>
 コミックの世界でも、外国人の表現などで一時期発売が自粛されていたものが、このような一文を入れることで、再発売されるようになったケースもある。もちろん、ケースにもよるだろうが、極端な内容でなければ、作品性を尊重するという意味では、ひとつの正しい判断かと思う。
 しかしそれにしても、東京ローカル局ではあるが、最も目にする機会の多い地上波で、このクレジットを入れるだけで、そのまま放送するというのはスゴい。ある特撮マニアが言う。
「MXの『怪奇大作戦』という番組の再放送のとき、内容が危なすぎて、今は欠番となった回があるんですが、なぜかそれが放映予定リストに入ってたことがあったんです。スゴイ! と思ったのですが、さすがにそれは放映されず、別の回が放送されましたけどね。それでもそのまま流してくれるMXのこの枠は、評価高いですよ」
 TOKYO MXの担当者に話を聞いた。
「まさにその通りです。現在では適切ではない表現が出てくることもあるのですが、作品の作られた時代背景や、芸術性などをご理解いただいたうえ、オリジナリティーを尊重し、そのまま放送するということにご理解をいただきたいと思っています」
 これは、決してMXが基準のゆるい局だということではない。「円谷劇場」が、夜11時台の放送ということもある。他の時間帯での再放送の場合はまた、音声処理なども含めた、別の対応になってくるわけで、午前中の再放送だった『巨人の星』では、音声を処理したものが流された。
「時間帯と、この番組に関しましては、主に30代後半~40代の視聴者の方が多いと思いますので、オリジナルの放送をすることの意義を理解していただけると思います」(MX担当者)
 ところで、このいわゆる「放送禁止用語」の扱いだが、実はこれは、明確なガイドラインというものが存在しない。各社それぞれの判断ということになる。あるテレビ関係者が言う。
「民放連で設けた、放送基準のガイドラインはあるのですが、それには強制力はないんです。だから、各局の自主判断ということになるんですが、スポンサーを気にしたりして、なかなか思いきったことはできない。ちゃんとそのまま放送しているMXはすごいですね」
 音楽の世界でも、長らく放送禁止曲の扱いだった『イムジン河』が、テレビで流れるようになったりなど、内容を吟味したうえで、問題なく放送できるようになるケースも増えてきている。
「たけしさんの言う『ペンキ屋』とかもそうですが、侮蔑的でない場合とか、なんでもかんでも言葉狩りみたいにしていくよりも、それぞれの判断で流すという流れになっていくんじゃないですかね」(前出・テレビ関係者)
 視聴者側にも、メディア側がどういう判断で「危ない一言」を放送しているのかというリテラシーが求められていくのだろう。(編集部)

ネット文字とか漢字とか・・・

http://release.center.jp/2008/10/0102.html
 に、ノシ、wktk、orz、kwskの認識率というのが出ていた。
 orz以外は知らない人が多いが、orzは知っている人の方が多いのだ。
 もう、最近のこういうのはだめだ。ついて行けないと言うより、最初から付いていこうともしていない。更に言えば、ほとんど初見だ。
 毎日パソコンの前に12時間は坐っている生活をしていて、当然、ネットはつなぎっぱなしだから、ブラウザは常に開いている。メールも随時受信している。それでも尚、見たことがなかった。
 いや、見たことはあったのかもしれない。だが、目に入っていなかった。
 ちなみに、kwskは「くわしく」 wktkは「わくわくてかてか」、orzは「落胆」、ノシは「手を振る仕草」を表すのだそうだ。orzは確かによくできているし、ある意味世界共通で仕える可能性だってあるが、ノシはどうしても見えない。
 kwskは、何となく見た段階で解った。KY以来、ひらがなの頭文字で何かを表現することがはやっているのは解るが、共通認識を持つのはなかなか難しい。「わくわくてかてか」は音から確かに胸躍る様子は伝わってくるが、wkの「わくわく」はともかく、tkの「てかてか」は、想像もつかなかった。
 ほとんどが2チャンネルから来ているようだが、2チャンネルをあまり見ないのでよく分からなかったというわけではなさそうだ。他のブログなどにあっても、たぶん無視をしていただけだ。
 まあ、1~2年もすれば、自然淘汰で使われるものと消えていくものが別れるに違いないし、それでも尚残っていれば、目に付くから覚えるだろう。
 かつての若者文化から残った言葉も多くあるように、これらの表現も、すべて消えていくわけではなく、常用されるものは常用されるだろう。多くの顔文字は、インターネット以前から使われ、今でも残っている。自分ではほとんど使わないが、確かによくできているものもある。
 と言って、やはりすべてが残るわけでもないのは自明のことだ。
 kwskと打つより、詳しくと打った方が、少なくとも日本語キーボードでは打ちやすい。そしてorzよりも面白くないから、それほど長く使われるとは思えない。
 さて、そんなことでふと思い出したのが、爆笑問題が司会をしている何かの番組。漢字がしりとり方式で次々に出てきて、出演者がどれほど読めるかを、競っているコーナーがあるが、時々見る。頭文字が出るので、類推できるものが多いが、それにしても、いつも思うのが、そもそもカタカナである外国の言葉や、すでに日常的には使わない動物や昆虫等の漢字。
 国名などは略として、便利な面はあるが、白と書かれてベルギーと解る人がどれほどいるだろうか?瑞(スウェーデン)、諾(ノルウェー)等。確かに、日、米、中、韓、露、英、仏、伊、独、墺、蘭、西、葡、加、印、台、くらいまでは、ある程度有用かもしれない。だが、ヨーロッパでも「希臘(ギリシャ)」「波蘭(ポーランド)」「勃牙利(ブルガリア)」「羅馬尼亜(ルーマニア)」など、きっと読めないし、あまり読める必要もなさそうだ。「濠太剌利(オーストラリア)」「墨西哥(メキシコ)」「伯剌西爾(ブラジル)」「秘露’(ペルー)」などはどうだろう。ベトナムの越南は、何となく歴史の知識でどうにかなりそうだが、比律賓、新嘉坡、柬埔寨などはどうだろう。前の二つは音で解る気がするが、最後のカンボジアは、たぶん読めない。
 
 最近はネプリーグなど、漢字の読みを答えたり、漢字検定がはやったり、漢字ブームといえる現象がしばらく続いているように思える。
 その反対に、漢字は止めてしまおうという運動も、昔からあるらしい。
 今更漢字を止めては、コミュニケーションがとても大変になるという意味で、単純に仮名文化に向かうことは、よっぽどのことがない限りあり得ないと思うが、いろんなことを考える人がいるのだなあと感心する。
 毎日、地球のどこかで言語は消失し続けているという話をどこかで昔読んだ。それくらい言語の数は多く、それ一つ一つが実は文化なのだといえる。
 英語がグローバルスタンダードであることは間違いないわけだが、地球の言語が英語に統一される日が来るのかな?とも思う。遠い未来に。だが、ニュアンスまで翻訳できるようなポータブルの機械が発明されれば、その必要もなく、母国語で世界のどこでも旅行できる日が来るかもしれない。そうなれば、日本語が無くなることもないだろう。
 言葉や文字は、常に機能的なコミュニケーションツールであると同時に、文化や感性と大きく結びついている。女子高生にしか通用しない言葉があっても、女子高生とおじさんがコミュニケーションをとれないわけではない。
 ネット文字もまた、漢字と同じなのだな。ただ漢字には歴史があり、ネット文字にはそれがないという違いだけなのだ。orz なんて、まさに象形文字なわけで、すばらしいと思う。
 だからといって、それを使いこなせなければならないわけでもない。そういう許容の文化(使う側に対しても、仕えない側に対しても)というのが、平和ということなのではないだろうか。

ペリー・ローダン3

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 早川書房から刊行されている宇宙英雄ローダンシリーズが、ついに月2冊の刊行になった!
 今後もそうであることを望むのだが、今月2008年9月は、5日、25日の発売だ。
 月2冊の発売ということになれば、年間で24冊、48話が読めることになる。ほぼ1サイクルを、年間で読み通すことが可能なわけだ。
 原作は週間ペースだから、365÷7で52冊が出るわけで、まだ原作の方が速いので、その差が縮まることはないわけだが、もはや光子ロケットをなんとかで追っかけてるのではなく、明らかに相対性理論の影響が色濃く出るほどの速度で飛ぶことになるのだ。
 ぼくには、時折ローダン症候群じゃないが、無性にローダンに興味がわくときがあって、逆に、興味を失っている期間も長い。一つには、死ぬまでに読み終えることが絶対にできそうもないシリーズという、ほぼ確定的な消化不良に対する諦念みたいなものが、何よりも前面に出ている時期、そして、かつて1冊読み終えてから1か月以上しないと次が読めなかった頃、何冊も貯めおいて一気に読むことで、楽しんでいた。つまりはその貯めている期間というのは停滞期だったわけだ。
 前にも書いたが、複数作家によるリレー形式なので、翻訳の質よりも、原作の質が、面白さに大きく影響したりする。そのため、時折作品のできというか好みで、ぱたっと止まることもある。
 
 さて、月2冊刊行ペースというのは、読み終えてから次が出るまでに、あまり待たないですむということだ。作品の内容以外で、停滞することはなくなるはずで、とても好ましい。
 ぼくはローダン・シリーズに関して、あまり批判めいた話を聞かない。日本版で350、原作で2300を越えているシリーズだから、そんな巨大な風車に挑むドン・キホーテになる人がいないのか、批判するほどの内容がないと思っているかのどちらかだと思うのだが、たぶん後者だ。
 あまりに多くが詰め込まれているし、文学的な香りなどはもとよりないし、読者もそんな無用の長物をこのシリーズに望んではいない。とはいえ、第三勢力が地球を統一する行などは、実は現状の世界を俯瞰すると、こういう形の世界平和が訪れれば、なんぼいいかと思う。
 このローダン的世界平和の実現というのは、多くの世界政府実現のビジョンの中では、最も望ましいと思うからだ。ただ、現実にはローダンという人知を超越したような人物はいないし、アルコンの超兵器も実在しないから無理な話だが。
 
 さて、このシリーズの月2冊刊行が今月だけの椿事なのか、今後も続くのか、まずは見守りたいが、何はともあれ、喜ばしい限りだ。
 

読書の悦び

 このところ読書量が減ったように思う。
 元々それほど大量に読書をする方ではないし、ジャンルも偏っている。
 そもそも、読書を始めたのはいつのことだろうと考えると、本格的に自分の意志でそれを行ったのは小学校六年生の頃だ。それまでは、読書は大嫌いだったし、夏休みの感想文程度しかあまり読まなかったのではないかとすら思う。少なくとも、何を読んだかの記憶がない。残っていないのだから読んでいないのと一緒だ。
 そんなぼくを読書に誘ったのは、このブログでも過去に書いたと思うが、友達から借りた偕成社の子供向けSFシリーズだ。ankokusei.jpg
 中学へ入ると、子供向けじゃないものが読みたくなって、初めて買ったのが、アシモフの「銀河帝国の興亡」第2巻だった。なぜ第2巻から買ったのかは、おそらく、第2巻から登場するミュールという超能力者のせいだ。
 当時ぼくは「バビル2世」が大好きだったから、それも影響していたと思う。
 さすがに、何が書いてあるかよく分からなかった。
 読書経験の少ない子供にとって、文庫本というのはとてつもなく難しく、内容はほとんど理解できていなかったと思う。その証拠に、銀河帝国の1巻と3巻は、高校生になるまで購入しなかった。
 ただ、慣れてくると面白いもので、いろいろと読もうとし出す。
 たぶん中学の後半から高校時代は、早川の文庫と大判のSFシリーズ、創元推理文庫のSFを中心に読み、「レ・ミゼラブル」「三銃士」のおかげで岩波のフランス文学を順番に読んだ。
 それでもどうしても読む気にならなかったのが日本文学だ。自分自身が読んだことがある、学校で教わるいわゆる日本文学は、簡単に上げられる。「高瀬舟」「生まれ出ずる悩み」「走れメロス」・・・他は思い出せない。夏目漱石は「坊っちゃん」を途中まで読んだ。「吾輩は猫である」は最初の1ページだけ読んだ。川端康成も、三島由紀夫も、最近はやりの小林多喜二も読んだことがない。
 ただし、芥川龍之介だけは別だ。
 余談だが、芥川賞と直木賞は日本の二大文学賞だが、ぼくの理解では「純文学の新人賞」が芥川賞で、「大衆文学」が直木賞だと思っていたのだが、直木賞もどうやら新人賞らしい。新人と言うより、何年も作家をやっているような人がよく取ってるように思えるのだが・・・
 そして、芥川龍之介の名前を冠した賞が、どうして「純文学」に限定されるのか、ぼくには解せないところだ。芥川龍之介の作品は、ぼくにとっては純然たるエンターテインメントで、いわゆる純文学という、取り敢えずそのキーワードが付けられているだけでまったく読む気にならないジャンルの作品とは、とうてい思えないのだが。
 こんなことは、単なる言いがかりに過ぎないと思うのだが、ぼくにとっての純文学というのは、内容はあっても面白くない小説という、偏見に充ち満ちたジャンルなので、どうもしっくり来ない。
 芥川だけはそこそこ読んだ。ただし、たくさん書いている人だから、実際に読んだのはごく一部に過ぎない。
 人が一生の間に読める本というのはどれくらいなのだろうか?と思う。
 研究者でもない限り、毎日読書に没頭するとしても、学校があったり、仕事があったり、つきあいもあるだろうし、テレビも見るだろう。となれば、自ずと読書に割ける時間というのは決まってくるわけで、1日1冊などというハイペースで読めるわけがない。
 高校時代、初めてローダンシリーズを読み始めた頃、2巻から読み始めて、当時発売されていた最新刊が20巻くらいだったので、そこまで読むのに1か月かからなかったが、自分的にはもうあり得ない。
 尤も、速読とは言わないまでも読書スピードが速い人は大勢いるので、ぼくのように遅読の人間に比べたら、遙かに大量の本を読めるはずだ。
 単純に年間300冊読むと、50年間で1万5千冊読める計算になるが、それでも、僅か1万5千冊だ。インターネットで調べると、年間で出版される本の数は7万冊あるという。もちろん、再版も漫画も写真集も含めてのことだと思うから、読み物としての本はその何分の一かになるのかもしれないが、それでも、人が毎日本を読んでも、おそらく1年間に発売される本を読み切ることすら難しいのではないだろうか。
 当然、「さおだけやはなぜ潰れないのか」とか、「サブプライム後の新資産運用―10年後に幸せになる新金融リテラシーの実践」「O型自分の説明書」と、「罪と罰」「蟹工船」「西の魔女が死んだ」は、別のジャンルで、それぞれの読者層も、違っている。「O型自分の説明書」は全部読まなくても読んだうちにはいるかもしれないが、「罪と罰」の200ページから300ページまでだけ読むなどという読み方は、基本的には無いだろう。
 今回ローダンシリーズが350巻を迎え、公会議サイクルが解決しないうちに、アフィリーサイクルが始まった。このサイクルというのは、ローダンシリーズは50話で一応一区切りになっていて、それぞれの50話で、概ね一つの話が完結するので、サイクルと呼ばれているのだが、今回の後書きに、これから読む人は、ここから読んでもいいと書いてあった。
 これは、最初から読むのはたぶん無理だろうから・・・というお話だからで、でも実は、今回始まったアフィリーというサイクルでは、ローダンとレジナルド・ブルという地球のナンバーワンとツーが大きく関わっているようなので、彼らが地球というか、太陽系のワンツーである最大の理由は、1巻から読まなくては分からないし、何より、地球が現在あるのが、なぜ銀河系内ではないのか、ということも、前のサイクルを読まなくては解らないと思う。
 しかも、このサイクル中に、おそらくは前のサイクルで未解決の部分に関わる話が出てくる可能性が大きいので、続き物は続き物として、最初から読む方がいい。
 さて、とにかく、ホメロスの昔から、文学作品はたくさんあって、多くが翻訳されているし、明治以降で、普通に読める日本人の作品もたくさんある。毎日毎日、最近の作家が新たな作品を生み続けている。
 アダム・スミスの「国富論」を今読んだって、意味がない人と、意味のある人がいる。
 読書は楽しい。
 だがその楽しさは、楽しい作品を読む楽しさであり、例えば、ぼくはローダンシリーズを350冊読んでいる。これだけでも、同じ時間を他の書物に費やした人とは読んでいる内容が違っているわけだ。その違いに、例えば夏目漱石や川端康成が含まれていたとしても、ぼくは、ローダンが読めて幸せだったと感じるのだ。
 食べ物の好き嫌いと同様に、あるいは音楽の好き嫌いと同様に、書物も基本は嗜好でしかない。本は嗜好品なのだ。
 シェークスピアを研究している人はシェークスピアが好きだからやっているので、好きでない人にとってはどうでもいいことなのだ。ぼくはシェークスピアが嫌いではない。特に「リア王」「オセロ」は好きだが、やはり読んでない作品もたくさんある。
 SFだって、早川文庫や創元文庫を読破したわけではない。嫌いな作家もいる。・・・尤も、嫌いといえるのは、1回以上読んでいるからで、読まない作家には好きも嫌いもない。
 子供のうち、あれを読めこれを読めと言われるのは,決して悪いことではないと思う。ただし、投げ出した本を無理矢理読ませることはない。本には面白いものとつまらないものがあり、その基準は読者が持っている。それが子供でも大人でも同じなだけだ。
 三島由紀夫や太宰治を読まなくても、人生にさしたる違いはない。・・・いや、場合によってはあるかもしれないが、それが本人の選択によるのであれば、それでよしなのだ。
 読書の悦びというのが、人類すべてに共通しているのかどうかは解らないが、多くに共通していることだけは否めない。楽しい本を読むことは幸せなのだ。それが、人生の有り様を読者に考えさせる本でも、銀河系を遙かに超えたところで迷子になっている地球の上で、巨大なアリと交渉している話でも、どちらも価値は一緒だ。
 睦月影郎という作家がいる。官能小説家、という人だ。ぼくはエロ作家と呼んだ方がふさわしいと思うが(いい意味で)、かつて、普通の本屋にはあまり売っていなかった彼の作品が、最近は平積みされているのをよく見かける。怪しい本屋で、ビニールのかかった写真集の脇に売っていたはずの本が、一般の書店にある。多くが時代劇の装幀をしているが、内容は昔とそれほど変わっているようには思えない(立ち読みした限り)。彼の本だって、人によっては谷崎潤一郎などより、よっぽど価値があるのだ。本ていうのは、そういうものだ。
 あ、ぼくは睦月影郎はすごい作家だと思っている。しばらく買ってもいないし読んでもいないが、作品数は半端じゃないと思う。一度読んでみることは、必ずしもおすすめしないが、ぼく的には好きな作家の一人ではある。・・・内田康夫と同じくらいに。・・・・昔の内田康夫は面白かったのになあ。

ほふり

 伊藤麻衣子がCMに出ている株式会社証券保管振替機構を見ていて思ったことだ。
 用語集を見ると
 「ほふり」とは株式会社証券保管振替機構の略で、株券を一括して管理するシステムです。
 

平成3年にスタートした制度で、株式の受け渡し決済を、株券そのものの受渡しをせずに、「ほふり」の中の口座振替によって処理するしくみです。
 「ほふり」を使うと、株主の名義は「ほふり」になりますが、株を買った人は「実質株主」として登録されますので、何も手続きをしなくても配当受取や株式分割などの株主権利が得られます。
 オンライン証券での取引では、基本的に「ほふり」を使った決済になります。

 とある。恐らく「ほかん」「ふりかえ」でほふり何だろうと推測できる。
 だが、ほふりを漢字変換すると「屠り」となる。ほふりという名刺はないが、屠るの活用であり得る。
 屠るは、斬るとか斬り殺す、敵を破るというような意味があるが、「みなごろし」のニュアンスもある。
 屠は屠殺の「と」だ・・・・ちなみに、Atokは「とさつ」を「屠殺」に変換しない。MS-IMEもだ。差別用語なのか?・・・。
 
 考えてみると、ちょっとなかなか名ネーミングセンスだと思っただけのことなんだが。
 紙の株券を「屠る」のか!

「日本語はなぜ美しいのか」という本

 を読んだ。著者は黒川伊保子という女性だが、わたしと同い年だ。
 別に同年齢だから買ったわけではないし、読む前は、「美しい国」じゃないが、歴史と精神論じみていたらどうしようという気もあった。何しろわたしは、本を買うときにほとんど内容を読まない。良くて目次をめくる程度だ。概ねタイトルで選ぶ。
 日本語はなぜ美しいのか?この問いかけが、実は、「我々日本人にとって」というかくれた形容を伴っていることで、この書籍はとても楽しく読めた。
 母音を基調とした日本語が持つ語感と感性の関係や、民族性の違いみたいなものが、その全てを頭から信じるわけではないけれど、非常に説得力のある形で提示されている。
 しかも、学術や科学的にこうだという決めつけではなく、なにやら著者の希望みたいな表現に走っているところが、やはり日本人の心をくすぐるのだ。
 英語が国際語なら、英語を話せた方がよりいいが、この本では、幼少期から英語を学ばせることへの警鐘を鳴らしている。確かに、いくら国際人に育てたいからといって、日本で暮らす以上、日本語をおろそかにして英語を学ぶというのは愚の骨頂であると思う。
 ただ、そういう人文的な論理理屈ではなく、科学的な理由からこの本はそれを危惧している。
 とはいえ、中学生から英語を学んで、果たして今後も、どれだけの人が英語に堪能になれるだろう?
 数学に好き嫌いがあるように、語学にも得手不得手はあると思う。また、環境だって必ずそれを許すわけでもなく、中学生からだと遅いと考える親が居ることも無理からぬ事だと言える。
 だが、世界政府でも樹立されるようなSF的未来が、21世紀になっても実現されないという事実が物語るように、英語が世界の共通語として、他の言語を駆逐ししてしまうとはとうてい思えない。
 東南アジアなどの国で英語がよく使われる一つの理由は植民地だったからだろうし、いわゆる中国語を話す人類は、全人口の2割くらいはいるのかも知れないし、英語が表面上、世界の単一言語になるなどというのは想像できない。
 であるならば、日本という島国は、これからも微妙な変容を超えつつ日本語を話していくだろうし、日本語と欧米語の混交というのはあり得ないだろう。日本語はどこまで行っても日本語だ。
 千年先の日本語が千年前の日本語と現代語ほどに乖離していないのは、想像に難くない。
 そう言う意味では、この著者が巻末で述べる希望は、少なくとも、大きな天災や戦争など、何らかの理由で日本という国家が壊滅的な打撃を受けない限り、成就されることだろう。
 もちろんそれだって、何億年も先まで安泰なはずはないと思うが。
 この本の中で「私は、以前から、「自然保護」「地球を守る」という言い方には、どうも違和感があった。」という行がある(関係ないが、先日タモリの何とか言う国語を扱う番組の中で、この「行」という漢字の読みを全て答えよというのがあったが、その中に今わたしが使った「くだり」という読みが含まれていなかった。辞書を引いても載っているのだが)。
 さて、そのつまりは自然保護とか地球を守るというのが、実は言葉こそ自然や地球が主体となっているが、本質的にはその主体は自然でも地球でも、生物ですらなく、ただ単に「人間」であるということが、この言葉の意味であると、私も以前から感じていたことだ。
 まあただこの本では「自然保護」という言葉を日本人の言葉ではないような書き方をしているので(趣旨はそうではないと思うが)私が言うのとは方向性が少し違うが。
 
 地球温暖化も、自然破壊も、これまで先進国が率先して行ってきたわけで、二酸化炭素の排出の規制も、環境汚染の改善も、地球環境のことは、日本も含めた先進国が率先して取り組むべき事で、分けてもアメリカが第一線で行わなくてはいけない。
 それができるまでは発展途上国はあくまで努力目標だ。北朝鮮に核廃棄を求めるのは感情的にも、政策的にも理解できるし、間違っていないと思うが、だが、それを求めている国の内、米中露という三カ国が、大量の核兵器を所有していることは、そもそもおかしな事ではないか。
 物理的な問題や、世界のバランスの問題など、様々な理由で既存の核保有国が核を手放せない現実は現実として、そのことをあたかも当然であると考えて生きていくのは、どうも納得のいかないことだ。
 同様に、自然保護や地球を守だって、そもそも地球の組成と人間の組成だってそれほど違っているわけでもなく、自然の対義語として人工という言葉を使うのも、絶対的な意味があるわけではない。人が勝手に決めているだけだ。
 きっと神の目線から見れば(この場合、地球人や一部の民族、進行をしている人たちなど、特定の人たちのための神ではなく、宇宙をも包含する客観的な第三者という意味だが)、恐らく全ての人為的なこともまた、自然の営みの内に他ならないのではないかと思える。
 人が争い滅びるのも、贅沢三昧で寿命を縮めるのも、気が育ったり、風が吹いたり、隕石が落ちたりと、何ら変わることはない。人為もすなわち長い歴史の中で風化していく岩の変化を、短時間で起こしているだけなのだ。風化させる風や雨の営みと人間の意志や興味はたぶん同じものだ。
 そう思えば、自然保護や地球を守るという視線ではなく、人類がこれからも平和に楽しく生きていくためには、地球環境をどうしていくとか、そう考えた方がずっとすっきりする。高邁な理想論ではなく、部屋の住み心地をよくすると同じ事だと考えればいいことだ。
 この自然保護の行にある「鯨を愛しつつ、泣きながら銛を打ち、だからこそ命を余すところなくいただく・・・・という日本人の感覚」などというのは、かなり日本人を美化しすぎているし、そもそも鯨を捕る漁師さんがいちいち鯨を撃つたびに泣いていたら身が持たないだろうし、では牛や豚はどうなるということだし、ゴキブリはいたら駆除するだろうということなので、これはもはや民族ではなく、個人的な感性の違い以上のものではない。
 とはいえ、鯨やイルカが知能が高いという理由で保護しようとする人たちが居るとしたら、それは学歴社会と一緒で、おつむの程度で生きる価値を査定しているようなものだ。極論すれば、命を奪う(食うためとか生きるために)事が禁じられるのは人類だけに限定されるべきだ。猿の惑星ではないが、「猿は猿を殺さない」のであり、名分で人類ですら殺し合う、この成熟していない人類が、鯨やイルカを守るのは、結局は自分たちの都合や興味でしかないのだ。
 日本語が美しいかどうかとはかけ離れたお話になってしまった。
 日本語が美しいかどうかは別として、美しい日本語を使いたいと思う。但し、私が言う美しい日本語は、きっとその言葉で他の人が理解するのとは、いささか趣を異にするだろうな。
 それはまたいずれ。