ぼくは明日昨日のきみとデートする

標題のDVDを観て、いたく感動し、原作を購入して読んだ。このエントリーはその双方の感想。

「いたく感動」などと書いたが、文字どおりそうで、ぼくはこういう作品が好きらしい。

SFを読み始めたきっかけがどの作品かは既に忘れたが、ラインスター辺りではなかったかと思う。だがその後、中学生で『タイムトラベラー』と出会い、当然のように筒井康隆の『時をかける少女』を読んだ。時間小説はパラドックスに深く突っ込めば突っ込むほど、結論として多元宇宙論に逃げざるを得ない。取りあえず多元宇宙に逃げておけば、全てのパラドックスを回避できるように見えるからだ(実際に回避できているとは言いがたいが)。
もう一つ、回避せず、事は起こるようにしか起こらないという風に決めてしまい、そこに深入りしなければ、こういう良い作品ができあがるという証拠のような作品だった。
と書くと、これがSFであるといっているように聞こえるかも知れないが、広義では十分SFだと言える。『スター・ウォーズ』がSFであるのなら、これも十分SFだという意味でSFである。
前述の筒井康隆はかつて、自ら編集と著述を兼ねた子供けの『SF教室』という書籍の中で、SFとはまず第一義小説であると言っている。SFのF、fictionは、小説のことだから間違ってはいない。でも、fictionには作り話的な意味がそもそも存在するので、映画もマンガも含まれるわけなのだが、ここで問題にしたいのは、SFが小説的科学なのではなく、科学的小説なのだという順序の問題である。
このScienceがScientificだったり、果てはSpeculativeに化けるように、Fもfictionからfantasyにも化ける。

そういった中で、この作品は逆向きに時間の流れる世界との接点を扱った作品として、バラードやディック、オールディスとかが書いていてもおかしくないテーマだし(ぼくが知らないだけで書いているかも知れない!)、そもそも逆周りの世界だけならたくさんある。いや、他の作家ならこのテーマそのものがそのままあるだろう。
だがこれも、テーマが同じだからと言って同じテーマで小説を書いてはならないというわけではない。
今回アカデミー賞を受賞した『シェイプ・オブ・ウォーター』も、観る人が観れば、『スプラッシュ』と同じだ!とディスりの対象になるのだ。

たまたま昨日、SmartNewsで、空中で飛び上がった瞬間を切り取った写真について、これはどのパクリだとかいう批判について、著作権的観点から書かれた記事を読んだが、至極もっともで、創作の意図や創作された作品によって、判断されるわけだ。
なぜこんな事を書くかというと、この『ぼく明日』と略される作品は、そういう批判にも晒されているようだから、作品ではなく、その作品を褒める自分を擁護するための、長い前置きだ。

さて、ここから先、ネタバレとか気にせず書く。そもそもネタバレですとか、××外から失礼しますとか、あまりそういうところを気にしたことがないので、万が一このブログを読んで失敗した!と思った方はごめんなさい(何だ、気にしてるじゃん、おれ)。

福士蒼汰と小松菜奈という主演以外、ある意味ほとんど重要でない(と書くと語弊はあるのだが)この映画は、アラ還たるぼくにとっても切ないラブストーリーで、なおかつ泣ける作品だった。
物語の全てがタイトルに凝縮されているという意味で、ぼくは素晴らしいタイトルだとも思うし、言ってみればそれしか書いてないわけだが、だからこそ、この恋愛には共感できる人とできない人は存在するだろうと思われる。
文章が稚拙という人もいるようだが、そこまで稚拙ではない。著名な作家でももっとずっとわかりにくい文章を書く人は大勢いる。
ただぼくはこの原作を読んだときに、こう言うのをラノベと言うのだなと思ったが、ラノベはもっとライトらしい。
ローダンでライトノベルを読んだ気になっている身としては、甚だカルチャーショックだ。

かつてSF以外で最初にきちんと読んだ小説が岩波文庫版の『レ・ミゼラブル』で、小説とはこういうものだというユゴーと豊島与志雄からの強烈なダブルパンチを受けながら育ってきたので、それから言ったら別世界の作品ではある。

電車で一目惚れした彼女との僅か40日(あるいは映画では30日)間の恋愛を描いているわけだが、前述のパラドックスで言えば、どちらかと言えば彼女は、これから起こるべく二人の1ヶ月を、敢えて彼からかつて聞いた、そして出会いの初日に聞くデータによって、正確に履行していこうとする恋愛なのだ。
この日に何時にどこへ行き、何を食べる。どこで手を繋ぎ、どこでキスをする。その全てが彼女にとっては決まったことであるが、彼はそれをしばらく知らなかったというアンバランスな設定が、この作品を面白くしている。
どうしてこんな事が起こるのかとか、どう管理されているのかとか、細かい部分はスルーされていて潔い。これを書き出すと、本気でSFになってしまうのを、そこで阻止している感じだ。筒井言うところの第一義小説という意味がよく解る(ヒューゴー・ガーンズバックは文句を言うかも知れないけど)。

映画は小説をかなり忠実に映像化していて共感がもてた。往々にして小説でもマンガでも、大きく改変されるのが常だからだ。だったら映像化なんてしないでオリジナル作れよ!とは良く思うことだ。横山光輝の『マーズ』どうにかしてくれ。1回でいいから地球を消し去ってくれ!というお話しだ。

ぼくは邦画をあまり観ないので、この作品もさほど期待していたわけではない。ただタイトルには惹かれるというか、どういうことなのかという曖昧な興味があったので観たのだが、思いの外掘り出し物だったと言うことだ。
一目惚れした奥手の大学生が、最初の恋愛から成就するという夢のような設定が、冒頭から軽く見えることこそが、この作品の真骨頂であり、一目惚れをした彼が初めてナンパするシーンこそが、彼女にとって彼との別れの日だったのだということを回想していく映画最後のフラッシュバックは、こういう作品ならではの切なさをうまく表している。小説でも同じように書かれているが、影像だとより切なさが増す気がした。

この映画の主題歌に採用されたback numberというグループの歌もなかなかよく(実は未だにこの歌の歌詞の一部がよく解らないというか、国語の試験だったら、間違いなくぼくは点数取れていないなという読解力のまま止まっている)、ここしばらく、battle beast等と一緒にヘビロテしている。

1日経つごとに前の日の相手と会うという設定は、ともすれば扱いが難しい。なぜなら単純に、お互いの出会いのタイミングを設定するための意味づけが必要になってくるからだが、最初に書いたうように、こういうものだといってそこの理屈を回避してしまえば、前述のような切ない表現が可能になるのだ。最初に彼が告るシーンと、最後に同じシーンが映されたときの衝撃は、ぼくにとって、ストルムグレンの前に一瞬だけ姿を現したカレルレンを思い出させさえした(『幼年期の終わり』を知らない人は無視視して下さい)。

ここまででどこがネタバレだか解らないくらい、ぼくは実はネタバレした気でいる。
つまりこの作品はこれだけの内容なのだ。
一組の男女の出会いと別れ、その40日乃至は30日の話だ。
しかもその間、ことさら大変なことは起きない。楽しい日々なのだ。だが彼女は最初から、そして彼は途中から、僅かの時間で別れに向かっていることを知っている楽しい時間なのだ。そして20歳という、まだ十分に多感と言っていい年の話なのだ。

以前、仲里依紗の『時をかける少女』でブログを書いたことがあり、あれもなかなかキュンとする結末だったが、今回の方がテーマが絞られていたせいか、より胸に迫るものがあった。

本は短いし、ほとんど会話といってもいいので、あっという間に読めるが、映画を先に観ていたせいで、登場人物の顔がほとんどその出演者にしか思えず、ある意味少し残念だった。逆になっていれば良かった。とはいえ原作は100万部売れているベストセラーだそうなので、特に手を出そうとは思わなかったはずだ。やむを得ない。

この勢いで普段は読まないマンガにも手を出そうかどうか模索中。・・・でもこの小説からマンガ3冊分を描くなんて・・・ある意味すごい。

ローダン NEO

昨月発売になった『ローダン NEO』の第1巻を読み終わった。

 基本的なプロットとしては、正編の「宇宙英雄ローダンシリーズ」と同じで、月に行ったアメリカ人のローダン少佐が、月面でアルコン人と出会い、白血病のクレストを治療すべく、ゴビ砂漠に降り立つという話が、正編のシェール&ダールトンに代わってフランク・ボルシェという一人の作家によって書かれている。
 週間ベースの正編とは違い、隔週で以前の2話分が1話として描かれている。

 大きな違いは、1971年の人類初月面到達が、既にアームストロングご一行で69年に済んでしまっているので、2036年に消息を絶った月面のアームストロング基地を調査しに行くという内容になっている。
 ローダンの腹心レジナルド・ブルの愛称がブリーからレジに代わっているのが、少し痛い。

 ただそれよりも、ジョン・マーシャルとその仲間たちの方が気になる。既にシド・ゴンザレスという少年が、明らかにテレポーターで、タコ・カクタの出番が無さそうな気配がある。タコ・カクタ、タマ・ヨキダ、イシ・マツ(これは女性)などの日本人がこのネーミングセンスの洒脱さと共に、初期ローダンのいいところなのだが、何となく今回のはちゃんとしている。

 マーシャルも、バターパンを食べながら銀行強盗を防ぐ、とぼけた男ではなく、ストリート・チルドレンを救うためのNPO的な事物として描かれているのだが、この辺りが、時代と共に作品により深みを持たせようという意図が見えるのだが、この辺りが少しまだるっこしい。

 全体として、純粋なエンターテイナーから少し脱却して、少し小説としての深味を足してみましたという部分が見えるのだが、まあそれでも第1巻、どうなるのかがこんごたのしみ。
 2巻の表紙はきっとトーラなのかな?と思うのだが、ぼくはおっさんなので、納得いかない。

ローダンNEO

 ぼくが時々書くローダン(ローガンじゃないぞ!)、これは、アメリカの空軍少佐だったペリー・ローダンが、人類初の月着陸の時、異星人と出会い、彼らの目的であった「永遠の生命の星」を探し、元々探していた彼らアルコン人を差し置いて、自らが不死となり、取りあえずそこから数千年の話を、延々と週間ペースで発行し続ける、ドイツの小説のことだ。
 現在原書で2900巻を超えて、終わる気配は無い。
 世界でも続けて翻訳しているのは日本くらいらしく、2話を1巻の文庫に収め、現在月2冊ペースで早川書房より発行が続いている。こちらはもうじき(多分8月の上旬)550巻になるので、原作の1100話を迎えるということになる。その差が1800話で900巻分ということになるわけで、今のペースで翻訳が続けば、現在の最新刊は大体19年後くらいに読めることになる。
 それくらいだと読める可能性はあるが、その時点で、原書は4000話近くになっている可能性は十分にあるので、生きている間に最終巻が読めることはまず無いと思っている。
 計算すれば判るが3000話は約60年、つまりそれくらい前から続いているシリーズだと言うことだ。実際は第1話「スターダスト計画」が1961年発刊なので57年ということになる。

 ここまで続くと言うことは人気があるからで、百科事典や、サイドストーリーなどもかなり昔から出ている。
 さて、そんなサイドストーリーとは別に、「PERRY RHODAN NEO」というシリーズが2011年からスタートし、既に150話近くが発刊されている。
 こちらも第1話は「スターダスト(Sternenstaub/Frank Borsch)・・・まあ、ドイツ語を翻訳して英語のスターダストというのが面白いが、要するに、これはプロットを少し変えて、ゼロから新しいローダンを書き始めたプロジェクトなのだ。そして、早川書房は2匹目のドジョウを狙って、こちらの翻訳を7月から、毎月刊行するという。勘弁してくれ・・・・ローダンしか読めなくなる。
ローダン新プロジェクト〈ローダンNEO〉刊行開始!

 そして判らないけど、きっと紙でしか出さない。
 現在のローダンも、古いものから順次電子書籍で読めるが、なぜか最新刊は出さないという不思議。まず最新刊出せよ!
 
 そしてイラストレーターも決まった。
〈ローダンNEO〉日本版 イラストレーターがtoi8氏に決定!
 ただなぁ、絵はすごく上手だが、なんかアニメチックで個人的にはあまり好ましくない。誰が何と言おうと、ライトノベルじゃないんだから!原書に比べたら、はるかにクオリティは高いと思うんだけど、何か受け付けない・・・・人間年取ると、こういう所の柔軟さがなくなっていくのかも知れないと思ったりして・・・・

 まあ、何はともあれ、今まだ521巻を読んでいるぼくとしては、早いとこ20巻の差を詰めないとなぁ。

あ、これが150巻の表紙。
150

 

時をかける少女

仲里依紗主演による映画「時をかける少女」を観た。もちろんDVDだが。
「時をかける少女」に関しては、最初の出会いはNHKの少年ドラマシリーズ、島田淳子主演の作品だった。熱中して観た。私自身は当時、中学1年だった。筒井康隆による原作、「時をかける少女」も購入して読んだ。今でも持っているが少年少女向けの、新書よりちょっと大判で出ていたSFシリーズの1冊だった。
原作とドラマは少し違っていたが、こちらも楽しく読んだ。
半年後には続編も放送され、こちらもとても面白かった記憶がある。尤も、内容は全く覚えていない。
ウィキペディアを見るとこの作品、実にたくさん映像化されている。
時系列でいえば、上記の72年のNHKドラマのあと
1983年 原田知世主演 映画
1985年 南野陽子主演 TVドラマ
1994年 内田有紀主演 TVドラマ
1997年 中本奈奈主演 映画
2006年 仲里依紗(声)主演 アニメ映画
そして2010年 仲里依紗主演 映画
と、NHKを2本と数えれば、なんと8回だ。面白いのは、このうちの3回は原作の世界の続編的位置づけであるということだ。NHKは当に「続・タイムトラベラー」というタイトルだったし、アニメ作品はかつての主人公芳山和子の姪という設定らしい。
そして今回の仲里依紗は芳山和子の娘だった。
実際のところ、最初の2作品は、細かい部分に関して記憶も曖昧だ。一時期Youtubeに上がっていた最終話を見ると、こんな最終回だったかなと思えるくらい、記憶にない。現在はYoutubeで見ることができないが、どういう理由で削除されたのか、こういう映像こそ、Youtubeで公開すればいいので、NHKの著作権を理由に削除されたなどという理由だとしたら、受信料を払いたくなくなる。理由を知らないので、あくまで憶測だが。
さて、残りの作品の中で見たことがあるのは、角川映画の原田知世版だけだ。何でも自分のノスタルジーと同化させてしまう、当時の大林宣彦によって作られた、全く緊張感のない映画は、まだタイムトラベラーの記憶が鮮明だったであろう当時の私にとっては、駄作以外の何物でもなかった。
原田知世は嫌いじゃないが、作品としては泣けてきた。「転校生」「さびしんぼう」と併せて尾道三部作といわれているようだが、「転校生」は悪くない。
残りの2本のドラマは観ていないか、観たかもしれないが忘れてしまった。97年の映画に至っては、全く存在を知らなかった。その後の2作に関しては脚本がオリジナルなので、過去の作品と同列に扱うことはできないが、2006年のはアニメであるという理由で観ていないが、今度レンタルしてみようと思う。
なぜかといえば、今回の仲里依紗の演技が非常に良かったからだ。
今回の「時をかける少女」は、医学部に進んだかつての主人公芳山和子が、自らの手でタイムトラベルの薬を開発し、かつての深町一夫(ケン・ソゴル)に逢いに行こうとしたのだが、事故に遭い、代わりに娘のあいかがその役割を果たすために70年代にタイムトラベルするという話だ。
そもそも芳山和子にいつ記憶が戻り、どれほど重要なことを伝えに行くはずだったのかとか、元々それほどしっかり描かれているわけでもないタイムパラドックスや、都合が悪い部分はさっさと記憶を消してはいさよならという設定の部分は、原作ですらきちんとしているわけでもなく、そこを描くのが主眼でもないはずなので、敢えて問わない。
だがそれを越えて、今回の作品はドラマとしてよくできていて、みて良かったと感じさせてくれた。主役の二人、仲里依紗と中尾明慶の演技が良かったこともあるが、脚本も構成も良かった。
最後をどう見せるかは、こういう作品では非常に難しいし、今回も必ずしも成功しているとは言い難いが、ではどういうラストならいいのかということになると、これは非常に難しく、どういうラストにしても不満が残るに違いないと思う。だが作品の性質上やむを得ないと思う。
かつてこういう恋愛タイムトラベルものの中では、「ぼくの彼女はサイボーグ」はよくできたラストだった。
昔の「時をかける少女」を知っていた方がより楽しめるし、そのためには原田知世の作品を観ておいた方がいいのだが(もちろんこの映画の続編というわけでは全くないが)、単体でも楽しめると思う。
仲里依紗という名前は、なんと読むのかなと思っていたが、「なか りいさ」と読むらしい。「マイボスマイヒーロー」にも出ていたのか!知らなかった。





「樹環惑星―ダイビング・オパリア―」

友人が第11回のSF新人賞を受賞し、その受賞作「樹環惑星―ダイビング・オパリア―」が本日、徳間書店から発売になった。
ありがたいことに「献本」が今日届いた(買うって、もう一冊)。なのでまだ読んではいない。
これから彼と、他の友人と共に飲みに行く。まずは乾杯。
内容や感想はいずれ。
いい刺激である。

小説バトン

 今日は一応、会社は休みなので、ちょっと小説バトンなるものに挑戦してみた。
 日本人の作家を全く読まないわけではなく、内田康夫なんて7~80編は読んでるし、「氷点」は、国内の作品では最も面白かったし、何度も読み返している。でも、太宰は「走れメロス」しか読んだことないし、森鴎外も「高瀬舟」だけ、夏目漱石は「坊っちゃん」「吾輩は猫である」を数ページで挫折、いわゆるかつて学校で習った作家に関しては、せいぜい芥川龍之介くらいなものだ。
 
 吉川英治とか、池波正太郎、山岡荘八などは結構読んでる。吉川の「太閤記」、池波の「編笠十兵衛」と「真田太平記」山岡の「伊達政宗」「柳生石州齋」も好きだ。
 ミステリは基本的にあまり読む方ではないが(あ、内田康夫はミステリか!)、20冊くらいは読んでるかな。
 そうそう、忘れちゃいけないのはペリー・ロダンシリーズで、既に750編380巻くらいは読んでるわけだ。星新一も作品数にすれば半分くらいは読んでそうなので、それで500、あ、この二つで1000超えた!
 でも、昔に比べたら、ぐっと小説の読書量は減った。こういう些細なことをきっかけに、少し増やそうと思った

祝・ローダン月2冊刊行

 またもやローダンの話だが、早川書房の、ペリー・ローダン・シリーズが、今年に入って月2冊の刊行となった。
 元々、1冊に2話入っているから、月4話、年間48話ということになる。ほぼ2年で1サイクルは読めることになる。1年は約52週あるので、ドイツとの差は4話ということになる。
 かつて翻訳をされていた松谷氏がジェット旅客機を、プロペラ飛行機で追いかけるというたとえは、今や、ボーイングをダグラスで追いかけるとか、その逆とか、その程度になった。
 
 とはいえ、現在の最新刊が371つまり、742話が収録されている状況なので、片やニューヨークに着いている飛行機を、ハワイ辺りで追いかけている感じか。しかも目的地が見えていないのだが。
 ドイツでは2530を越えているので、たぶん、生きている間には読み切れない。今後年50話読んでも、現在の差、1800を読み切るには36年かかる。それだけなら、頑張れば実現可能かも知れないが、その間に、おそらく向こうは5000に近づいているはずだからだ。
 終わりは見えない。
 ここへ来て、1話からずっと表紙と挿絵を描き続けてきた依光隆氏がローダンを引退された。ある意味マンガのようで(これは原作に登場するからやむを得ないのだが)、様々なタイプの宇宙人の絵などが並んだ表紙は、ある意味恥ずかしいこともあった。
 ハルト人のように目が三つあって、腕が4本あって、ずんぐりむっくりな生物や、キャプテンウルトラのバンデル星人を、もっと平らにしたようなブルー属や、それ以外にも異形な生物のオンパレードだ。
 だが、目力のある依光氏のローダンや、愛すべきデブ、ブリー、ちょっと気位の高いアトランなど、それぞれの特徴がその絵に表れていて、非常に美しい表紙だった。残念だが、最初にローダンを始めたシェール、そしてダールトン亡き今、翻訳も故・松谷氏から他のメンバーに移り、依光氏も退いた。
 新しい時代に入ったということかも知れない。
 新しく表紙を描き始めたのは工藤稜というイラストレーターだ。これまでの依光氏のカラーを存分に生かした流れを止めない仕事をしている。変わると知ったとき、最近流行の漫画チックな表紙にされたらどうしようと、非常に不安だった。
 小説の表紙にコミックまがいの画を描かれると、棲み分けができていないという違和感がどうしてもぬぐいきれない。絵自体の善し悪し以前に、好きになれないだけのことだが。
 しかし今回、早川書房はよくわかってらっしゃる。
 確かに、線の甘さや、キャラクターが少なからずコミックタッチに柔になっているという難点はあるが、たぶんこれ以上は望めないし、徐々に板に付き、工藤氏の落ち着いたカラーになっていくはずだ。
 最新刊の「にせマルコ・ポーロ」は、だいぶ感じが良くなっている。今後の期待大だ。
 ようやくローダンも銀河系に戻ってくる。今後アトランとの確執も始まるらしいので目が離せない。以前と違い、読み終わってから次の巻が出るまでに期間が短いので、ずっと続けて読んでいる感がある。
 自分自身がすでに、ローダンとは35年のつきあいなので、読書としてもライフワークに近い。
 これからもよろしく頼みます、早川書房!
 

新・三銃士

 NHKが「新・三銃士」というタイトルで、月曜日から人形劇の放送を開始した。
 NHKの人形劇と言えば、個人的には「新・八犬伝」が記憶にある。もちろん、「ひょっこりひょうたん島」も記憶にあると言えばあるが、鮮烈な印象という意味では、近石真介が声をやっていた犬塚志乃とナレーションの坂本九、そして何より玉梓の怨霊だ。
 それ以降の「三国志」や他の作品は全く見ていない。
 さて、今回「三銃士」ということもあって、見ようと思った。取り敢えず好きなので。
 しばらく前に、「巌窟王」というアニメについて書いたが、これはデュマの「モンテクリスト伯」が原作のアニメで、賞なども取っている大作だった。
 今回、NHKは相当入れ込んで「三銃士」を放映しているようだ。ただ、脚本・三谷幸喜ではなく、脚色・三谷幸喜となっているところがくせ者で、「巌窟王」とは別の意味でやってくれている。
「三銃士」「モンテクリスト伯」というのは「レ・ミゼラブル」と共に、ぼくが小学生の頃から慣れ親しんだ数少ない世界文学の一つだ。そもそも読書が大嫌いだった僕にとって、小学6年生で友人からSFを教えてもらうまで、ほとんど面白かったという読書の記憶がない。
 上記のフランスもの3作品は例外中の例外だ。
 しかもこの3作は、何度も繰り返して読むという、ぼくの読書にあっては、比較的珍しい作品に属している。他には、「三国志」「水滸伝」「新書太閤記」「幼年期の終わり」「氷点」「編笠十兵衛」くらいだ。大概は1回読んで終わりだ。
 さて、それだけ思い入れがあるということなのだが、映画などでは、比較的原作に忠実な(それでも改編は多いが)作品のような気がする。ディカプリオの「鉄仮面」や、ソフィー・マルソーが主演の「三銃士(原題は「ダルタニアンの娘」)」などは、かなりオリジナリティーが高く、前者はなかなかよくできている。
「モンテクリスト伯」や「レ・ミゼラブル」に比べると、制作者のポイントと、ぼくのポイントにずれがないのかな?と思ったりする。前記の「巌窟王」などは作品そのものの質はともかく、腹立たしい結末だった。これらの、原作に手を加えることで、何がしたいのかよく分からない作品群は、その話が書きたいのならオリジナル作品を作れ!という制作者のレベルの低さを伺わせる。
 これは、例えば太閤記や豊臣秀吉の話が複数あるというのとは訳が違う。秀吉は実在した人物で、彼を主人公、乃至は登場人物の一人として描く作品は、作家それぞれのオリジナリティーを生かした作品としての価値がある。だが、そもそも創作に手を加えるというのは、その原作に与えられた作家の力量を利用し、自己満足の世界を実現させているに過ぎない。
 最近「アトム」のハリウッド版が公開されたが(これからかな?)、これだって所詮は人のふんどしで相撲を取っているのだ。原作を歪めて作品化するというのは、原作者が生きているならいざ知らず、はっきり言って興ざめな感じは否めない。ただし、それを凌駕して素晴らしい作品に仕上げてくれるのであれば、それはそれとしての価値はあると思うが。
「新・三銃士」の第1回を夕べ見た。
 ダルタニアンの父が、ロシュフォールと知り合いだった。ロシュフォールは彼を殺した。つまり、ロシュフォールはダルタニアンと共に天を頂かぬ仇敵となった。これで、ラストシーン、リシュリューの薦めでダルタニアンがロシュフォールと手を握ることはなくなった、そして彼らのその後の友情も葬り去られた。
 第2回以降の録画を全て解除した。
 この時点で見るのを止めることができた点で、「巌窟王」よりはましだな。
 映画化や漫画化というのは、オリジナル作品に手を加える必要が必ずあると考えているに違いない制作者に言いたい。完璧に原作通りの作品を、たまには作ってみろよ!
 

「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。

 というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
 ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
 宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
 まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
 先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
 一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
 宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
 非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
 ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
 それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
 テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
 生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
 ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
 人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
 アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
 さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
 ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
 さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
 ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
 ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
 いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。



ニーチェの作品


ムアコックの作品。現在絶版中のよう

日産のCM

 このところ、各自動車会社のエコカー減税CMがかなりかまびすしい。
 その中で日産のCMがどうにも気になって嫌だ。
 それは、今なら~がエコカー減税で×××円もお買い時というやつだ。
 この今ならお買い時という時系列に沿った流れはまだいいとしよう、だが、この間にエコカー減税による割引金額が入ることで、もはやお買い時を形容しているのは、金額でしかない。
 麻生政権で決まったエコカー減税だから、日本語の文法はどうでもいいというわけでもないだろうが、CMが流れるたびに違和感があって、日産が大嫌いになった。
 金額が安いならお買い得だろうし、時期がいいならお買い時でもいいだろう。
 人間というのはおかしなもので、ラーメンやそばをすする音がだめな人もいる。
 態度や生き方、日常のあれこれ、笑いのツボと似て、それぞれが持つ感覚の微妙な違いがあるものだ。
 このCMなど、別にお得で今がそのときなのでお買い時と言ってるのだろうが、この違和感と、こんなCM流してやがるという、もはや八つ当たりの感情があって、いらだたしい。・・・いや言葉で書くといらだたしいだが、そんなに大きないらだちではない。とってもかすかだが、こんなブログを書くくらいには、ということだ。
 十分目立っているわけだから、CMの目的も達せられたということか。
 それにしても、何のメリットもないエコカー減税・・・・