新・三銃士

 NHKが「新・三銃士」というタイトルで、月曜日から人形劇の放送を開始した。
 NHKの人形劇と言えば、個人的には「新・八犬伝」が記憶にある。もちろん、「ひょっこりひょうたん島」も記憶にあると言えばあるが、鮮烈な印象という意味では、近石真介が声をやっていた犬塚志乃とナレーションの坂本九、そして何より玉梓の怨霊だ。
 それ以降の「三国志」や他の作品は全く見ていない。
 さて、今回「三銃士」ということもあって、見ようと思った。取り敢えず好きなので。
 しばらく前に、「巌窟王」というアニメについて書いたが、これはデュマの「モンテクリスト伯」が原作のアニメで、賞なども取っている大作だった。
 今回、NHKは相当入れ込んで「三銃士」を放映しているようだ。ただ、脚本・三谷幸喜ではなく、脚色・三谷幸喜となっているところがくせ者で、「巌窟王」とは別の意味でやってくれている。
「三銃士」「モンテクリスト伯」というのは「レ・ミゼラブル」と共に、ぼくが小学生の頃から慣れ親しんだ数少ない世界文学の一つだ。そもそも読書が大嫌いだった僕にとって、小学6年生で友人からSFを教えてもらうまで、ほとんど面白かったという読書の記憶がない。
 上記のフランスもの3作品は例外中の例外だ。
 しかもこの3作は、何度も繰り返して読むという、ぼくの読書にあっては、比較的珍しい作品に属している。他には、「三国志」「水滸伝」「新書太閤記」「幼年期の終わり」「氷点」「編笠十兵衛」くらいだ。大概は1回読んで終わりだ。
 さて、それだけ思い入れがあるということなのだが、映画などでは、比較的原作に忠実な(それでも改編は多いが)作品のような気がする。ディカプリオの「鉄仮面」や、ソフィー・マルソーが主演の「三銃士(原題は「ダルタニアンの娘」)」などは、かなりオリジナリティーが高く、前者はなかなかよくできている。
「モンテクリスト伯」や「レ・ミゼラブル」に比べると、制作者のポイントと、ぼくのポイントにずれがないのかな?と思ったりする。前記の「巌窟王」などは作品そのものの質はともかく、腹立たしい結末だった。これらの、原作に手を加えることで、何がしたいのかよく分からない作品群は、その話が書きたいのならオリジナル作品を作れ!という制作者のレベルの低さを伺わせる。
 これは、例えば太閤記や豊臣秀吉の話が複数あるというのとは訳が違う。秀吉は実在した人物で、彼を主人公、乃至は登場人物の一人として描く作品は、作家それぞれのオリジナリティーを生かした作品としての価値がある。だが、そもそも創作に手を加えるというのは、その原作に与えられた作家の力量を利用し、自己満足の世界を実現させているに過ぎない。
 最近「アトム」のハリウッド版が公開されたが(これからかな?)、これだって所詮は人のふんどしで相撲を取っているのだ。原作を歪めて作品化するというのは、原作者が生きているならいざ知らず、はっきり言って興ざめな感じは否めない。ただし、それを凌駕して素晴らしい作品に仕上げてくれるのであれば、それはそれとしての価値はあると思うが。
「新・三銃士」の第1回を夕べ見た。
 ダルタニアンの父が、ロシュフォールと知り合いだった。ロシュフォールは彼を殺した。つまり、ロシュフォールはダルタニアンと共に天を頂かぬ仇敵となった。これで、ラストシーン、リシュリューの薦めでダルタニアンがロシュフォールと手を握ることはなくなった、そして彼らのその後の友情も葬り去られた。
 第2回以降の録画を全て解除した。
 この時点で見るのを止めることができた点で、「巌窟王」よりはましだな。
 映画化や漫画化というのは、オリジナル作品に手を加える必要が必ずあると考えているに違いない制作者に言いたい。完璧に原作通りの作品を、たまには作ってみろよ!
 

巌窟王

「巌窟王」と言えば、デュマの傑作、「モンテクリスト伯(”Le Comte de Monte-Cristo”)」を翻訳した黒岩涙香が名付けた名訳であるが(翻訳自体は読んでないので何とも言えないが、「噫無情」と共に、そのタイトルの翻訳としてはこれ以上にない素晴らしい感性を感じる。
 さて、しばらく前にテレビでも放映されたアニメ、「巌窟王」を見た。DVDでだ。
 そもそも、テレビで1度見たとき、怪しい映像で、そのときはまったく見る気が起きなかった。
 ただし、前述の2作、「ダルタニアン物語」「幼年期の終わり」「氷点」の5作は、ぼくの中でのベストファイブでもあるので、たとえだまされると解っていても、映画やアニメは見ておきたい。
 ということで、見た。しかも、全24話中、最初は1話ずつだったが、8話から以降を1日で見た。16話一気見だ。
 正直言って、映像もよくできている。非常にきれいなCGで、キャラクターは好みもあろうが、アニメとしては(というほどアニメを見ていないのだが)非常に上質で、手抜きのない作品だと思う。タイトルバックや、エンディングの映像を見ているだけでも非常に美しく、はっきり言って、20話くらいまでは、ここで絶賛するつもりでいた。
 しかしやっぱりだまされた。がっかりだぜ!!
 以下、複数作品のネタバレを含みます。
 かつての名作劇場のように、子ども向けに名作を解りやすくアニメやまんがで紹介するのは、いいことだと思う。もちろん、対象が大人になっても、アニメ化されることが、決してマイナスだとは思わない。映画であれ、テレビドラマであれ、悪いことではない。
 だが、原作に忠実であるか、大きく逸脱するのかと言えば、後者であれば、実はまあ許せる。
 例えば、「六神合体ゴッドマーズ」という作品があるが、これの原作は横山光輝の「マーズ」だ。これは許せる。何故なら、原作とはいえ、全く違う話だからだ。設定や、キャラクターの名前を借用するくらいであれば、それは問題ない(著作者にとってどうかという話ではなく、あくまで聴取者の立場でだが)。そういう意味で、同氏の作品で「ジャイアントロボ」というのがあり、15年以上前にアニメになったことがある。これは、古いファンの中には嫌う人もいるが、ストーリーが独立しているのでまったく許せる。やはりそれは原作とは別物であるからだ。
 ところが許し難いのは、数年前にCSなどで放映された「新世紀伝マーズ」のような、かなり原作をなぞりながら、エンディングなどだけを大幅に変えた似非作品である。こんないい加減な改編をするのなら、そもそもオリジナル作品でやれよということだ。「マーズ」という作品は、作品の最後に、マーズという少年が地球を破滅させてしまう物語で、宇宙から地球が消滅する。ところが、アニメは、マーズが何に心動かされたか知らないが、静かに去っていき、地球も平和そのまま。こんな作品を書くなら、自分でオリジナル作品を作れよ!と思う。
 さて、今回の「巌窟王」まさに同様な改編がなされている。これはジェラール・ドパルデューの「モンテクリスト伯」「レ・ミゼラブル」と同様、ぼく個人として、まったく許し難い作品だ。あたかも、ポアロが犯人だったというエンディングを作る「アクロイド殺し」みたいなものだ。
 ただし、この時点で書いておくが、「タイガーマスク」と「巨人の星」のエンディングは、原作よりも、アニメの方が遙かにいい。だから、上記を言いがかりと言われれば、そうです、言いがかりですと開き直るしかない。
 さて、「巌窟王」だが、この作品の改編に関して、舞台が未来であり、航海の意味が海ではなく宇宙である点や、男女のペッポや、エヴァンゲリオンみたいな鎧を着た決闘や、恒星間飛行が普通に行われている未来で、若者が携帯電話のような個人個人で連絡を取り合うツールをなぜか持っていないことや、こんなことは全部許せるし、むしろ、アニメ化するにあたって悪くない設定だと思う。
 むしろ、なぜか旧態依然としたパリの様子や社会を描くにあたって、その整合性など苦労をしただろうなとも思う。
 
 主人公を伯爵ではなく、アルベールに設定しているのも、全然かまわない。そのことによって、復讐の順番が違ってくることもいい。アルベールを最後まで登場させるためには、そのために多少の改編があっても、許容範囲だ。
 だが、最後に伯爵を殺してしまうこと、フェルナンをいい男にして死なせること、「待て、しかして希望せよ(なぜここだけ文語調なんだか?)」の意味が、まったく忖度されていないこと、この3点はどうしても我慢がならないし、アニメとしていかに美麗に、脚本の運びなどがいかに上手にできていて、幾多の賞を取ったとしても、それでも尚許し難い。
 ドパルデューの、最後にダンテスとメルセデスが楽しそうに手を取り合って砂浜を走っていくのと同じくらい許し難い。
 まず、「巌窟王」であって「モンテクリスト伯」ではないというのか、巌窟王という魔性を登場させ、無実の罪で牢獄に放り込まれたダンテスが、救いではなく、ただの復讐の鬼(文字通り)となるための設定は、どこかでほぐしてくれれば、それでも良かったが、最後に「死という平安」という形で伯爵を殺してしまうなど、もってのほかだ!これは、「待て、そして希望を持て!」とも絡んでくるが、この言葉がこの物語の実は大きなテーマでありながら、まったく生かし切れていない。
 どこにも待つ人はなく、希望もない。アニメが好みそうな、「人を思う心」とかにすり替えられている。
「待て、希望を持て」は、一つには無実の罪でイフ城に閉じ込められたダンテスが、ファリア神父と出会い、宝を手にして復讐をすることができた、ダンテスならではの人生訓であり、これは、マクシミリアンとヴァランティーヌの恋愛を成就させ、新たな旅に出る伯爵とエデの未来へ向けての言葉でもあるのだ。最初からこの言葉をあたかもテーマ出るように持ち出しながら、では実際伯爵は待って希望を持って何か報われたのかと言えば、奈落に落とされ、さらなる狂気と一体となり、ただ死んでいく、夢も希望もない男でしかない。ストーリーの落としどころとしては下の下だ。
 また、復讐相手のモルセール伯爵ことフェルナンは、最後の最後で、なんだか男らしい死に方をしてるし、しかも絵面はいい男で、メルセデス以外の女にもてたんじゃないの?と突っ込みすら入れたくなる。
 物語の始まりが、月でのカーニバル(原作ではイタリア)の日、モルセールの息子アルベールが盗賊のルイジ・バンパに誘拐されるところから始まるのだが、それもかまわない。原作は、ダンテスが主人公だから、ダンテスが無実の罪に落ちるところから始まるとしても、アルベールのシーンから始めるのは悪くない。だがこのバンパも、最後にダングラールへの復讐で、もっと言い役回りがあるから出てくるので、アニメでは、出てくる意味がそれほどよく分からなかった。でもまあ、これはまったく問題ない。
 モンテクリストは、ヴィルフォールの一家に対する復讐で「ちょっとやり過ぎたかな」と思って、ダングラールを殺さない。かつて世話になったモレル家のマクシミリアンの幸福を祈って手を貸す、など、ダンテスの人としてのいいところを残しながらの復讐譚で、今回のアニメの、人も無げな復讐鬼とはちょっと違う。おそらくそのせいで、全体の流れが変わり、ああいう終わりになったのかも知れない。
 だが、マクシミリアンがヴァランティーヌを連れ出した時点で、ちょっとおかしいと思ったのだ。モルセールが軍鑑を使ってパリを攻撃し、メルセデスとアルベールを銃で撃ったときには、もはや取り返しが付かない三文アニメに成り下がっていた。
 いや、実は、「巌窟王」というタイトルで、デュマの作品を大筋なぞってなどいなければ、非常に良くできた作品だし、むしろ絶賛。・・・ただそれだと見ていないが。
 だが何度も言うが最低のアニメだ。許し難い。
 これを書くのでインターネットを検索していたら、監督は「虎よ!虎よ!」をアニメ化したかったとあった。そ、それであのモンテクリストの額の刺青かよ!と思った。
 またくもう、どこかへジョウントしてしまえ!!!
 
 

ホームページでのマンガ摘発

 ホームページ上で作家に無断でマンガを公開していた漫画喫茶の経営者が摘発された。
 まあ、犯罪行為だし、被疑者もそれを認めているから、当然著作権法違反で起訴されるのだろうが、こういう人たちがいるので、「著作権」と言うことの意味が難しくなる。
 音楽でも文学でもマンガでも、売れるまでの製作者側は、金を出しても呼んで欲しい、聴いて欲しいというのが本音だろう。もちろん実際にそうすると言うことはないにしても、読者や聴取者を希求してやまない部分はある。
 ところが、売れてくると今度は、利益を守りたくなる。これまた当然だ。
 しかし、利益を守るあまり、顧客に不便を強いることがあれば、これはまた別の話だ。
 本来は、制作側と、顧客が、ギブアンドテイクで言い関係を気づくのが望ましいわけだが、それは得てして壊れる。一つにはやはり、人のふんどしで相撲を取ろうという、今回の業者のような輩が出てくるからで、そのために著作側は過剰防衛したくなる気持ちはよく分かる。
 しかし、このインターネット時代、ファンがサイトで多少の作品の露出をしても、それは有名税と、むしろ宣伝効果であるくらいの割り切りは欲しい。わたしは横山光輝のホームページを管理し、プロダクションからも許可を頂いているので、こういう内容は書きづらいこともあるが、一般論として、例えば今は知らないが、一時期のガイナックスのように、かなり統制されていたという話も記憶にある。
 インターネットでの個人サイトというのはこれまで無かった新しい文化で、まだまだ試行錯誤の上に制作が進んでいる。もちろん、著作権は守られるべきだし、作家の意見は尊重されるべきだ。
 だが、ここ数年で、企業が進出し、インターネットの世界がある面でつまらなくなってきたことも事実だ。かつての、技術はないが野放図な、情報が管理されていなかったコロの方が、楽しい部分もあった。
 現在では、犯罪にも利用され、ウイルスが蔓延し、官制の当世もかなり入っている。技術が革新され、猫も杓子もFLASH動画で、プロフェッショナルが幅を利かせるようになった。
 それでも尚、ブログばかりでなく、素人が楽しみながら沢山のサイトを作っている。そのどれほどが統制されていくのか判らないが、あらゆる情報は、今回の犯罪のようなものと、個人的な趣味の間にまんべんなく広がっている。
 どこに境を設けるのか、その辺りがいつの時代も、大きな課題となって行くに違いない。

まんが

 書店へ行って漫画のコーナーへ行くと、ほとんどの書店で、ほとんどの漫画にビニールがかぶせてある。当然立ち読み対策であることはよく分かる。以前にテレビでフランスで漫画が流行っているという映像を流していたが、その店内たるや、日本以上の立ち読み座り読みが横行してすごい様だった。
 しかし客は立ち読みをする人間ばかりではない。もちろん立ち読みを、書物の中を確認したり、多少の内容を読んだりすることを含むのであれば話は別だ。書店ではほとんどの書物は、内容をある程度確かめられるように書棚に並べられている。漫画とアイドルなどの写真集だけが透明なカバーを付けられて売っている。談合でもしているのではないかと思うほど、各書店共通仕様だ。かつてビニ本というのがあったが(今もあるのかな?)、まさにビニ本状態だ。
 私はそもそも漫画を多く読む方ではない。漫画週刊誌に到っては、1年間に数回、何かの待合室とかで、たまたま読む本でもなければ手にする程度だ。では漫画が嫌いかというとそういうわけでもない。むしろ漫画にしろアニメにしろ、日本が世界に誇れる文化だとも思っている。ただ、他の本や音楽と一緒で、漫画だって選ぶのだ。誰でもそうだろう。
 タイトルや表紙を見て気になっても、どんな漫画なのか全く判らない状態で、買う気にならない。
 もちろん、何かを購入する場合、あるいは食事でも何でもいい、お金を払って手に入れる物には、何らかのリスクがつきまとう。それと一緒だという意見もあるだろう。そういう意味では、CDなどもそういうケースが多い。私も、ジャケットやタイトルだけでCDを購入したことは一度ならずある。だが、だからいいというわけではない。
 私はビニールの中を見てみたいし、それで買う気にならなければ買わないし、買う気になれば買う。書店でそういう買い物がしたい。丸々一冊読むことは、私の性格からもライフスタイルからもあり得ない。実は多くの人がそうだと思う。ただ、あの場で何冊も読みふける輩がそれはそれで沢山いるのだ。それは知的所有権の侵害であり、書店の営業妨害であり、客にとっての邪魔である。
 ブックオフのように二束三文で叩き買いをして棚に並べているのとは訳が違うから、書店の大変さは解る。考え方によれば、違法性のない万引きと同じだからだ。そもそも万引きについての認識も世の人たちは非常に軽い感覚を持っている。これは今日、夕方の日テレで特集していた痴漢と一緒で、社会としての認識の甘さが根幹にある。鉄道会社のように、自動改札を導入することでキセルを大幅に減らせたのとは訳が違い、なかなか数を減らすのは難しい。なぜなら、社会全体がこれらの罪を、あまり重く捉えていないからだ。
 痴漢に到っては、地方の「迷惑条例違反」だそうだ。軽犯罪法にもないのだろうか?
 万引きをする奴らには、すべからく販売業させる、痴漢をする奴らには、生理的に嫌な人物にあちこち触らせる、飲酒運転を軽く考える者どもには泥水運転手しか走っていない道路の真ん中に立ってもらう、というようなことをしないと、彼らにはことの重大さは解らないのだろうか?・・・・多分解らないのだ。これは、社会保険を管理するそれぞれの省庁のあり方や、税金を扱う行政のあり方を見ていれば明らかだ。当事者感覚というのは、実は非常に難しいのだ。これは自戒も込めて、それを持ちたいと思う。またそういう教育をして欲しい。
 
 立ち読みと書店は恐らく長い間の戦争状態だったのだ。書店はバリアを張ることで対抗しているが、それによって明らかに利益の一部を失っている。・・・考え方によれば、ブックオフや漫画喫茶など、書店や出版業界から目の敵にされている業態は、むしろそれを救っている側面もあるのかも知れない。・・・・その影で失っているものも多くあるとしても。
 とにかく、中が少し確かめられるようにして欲しいものだ。いちいち店員にお願いしないでも。

巨人の星

 今年の巨人は弱くて、今日で5連敗だというが、取り敢えず6連敗まではがんばって欲しいところだ。
 さて、先日も「巨人の星」が好きだという話をちょっと書いたが、「巨人の星」という漫画は、もうかれこれ40年近く前の漫画だと思うが、知名度は高い。やはり一時代を築いた漫画だ。
 野球漫画というと、必ずしも全部読んだことがあるわけではないが、思いつくのは、「巨人の星」「ドカベン」「男どあほう甲子園」「アストロ球団」「キャプテン」「プレイボール」「侍ジャイアンツ」「あぶさん」などだが(「タッチ」も野球漫画なのかな?なんとなく)、大きくプロ野球と高校野球に分かれる。そして、水島新司が描く作品は基本的に関西に拠点があるので南海だったり(今はソフトバンクなのかな?読んでないが)、阪神だったりが舞台で、在京と言うことになると、まず巨人しか舞台にならないような気がする。
 巨人、大鵬、卵焼きを知っている世代だが、個人的にはどれもぴんと来ない。「巨人の星」が好きでも巨人は好きではなかったし、当時は相撲に興味もなかったし、卵焼きよりトンカツが好きだった。
 さてそんな「巨人の星」だが、歌にもあるように、これは星親子のど根性物語だ。
 梶原一騎は当時、スポーツや学園関連の沢山の漫画の原作をしているが、その多くは、「やる気」と「根性」、「友情」と「男らしさ」という、全体的な押し出しはかなりステレオタイプの作品が多かった。戦争(第2次世界大戦ではなく太平洋戦争)をかなり引きずっていたし、ほとんどの作品で男泣きが随所に見られた。
「巨人の星」も例外ではなく、伴と星の友情はホモすれすれでさえあった(語弊は覚悟)。何ページかに1回は泣いていたし、友情や愛情で殴るシーンもやたら多かった。しかしとても面白かった。
 私はこの面白さは、星と花形という2大超人の故だと思っている。左門のような単純な努力家タイプが主人公であれば、あれほど面白くはなかったはずだ。花形はとにかく天才というキャラで、水鳥は水面に優雅に浮かんでいても、水中では必死で水を掻いているという喩えなどどこ吹く風、星飛雄馬の姉明子とのデートでは、堂々と昔の自慢話をしたりしている。
 大リーグボール1号を打ち砕いたのはオズマだったが、誰よりも早く魔球の秘密を見破るのは花形で、象徴的なのは、消える魔球の時、努力肌の左門は魔球の秘密を80%まで見破っていたが、その時点で花形は100%見破っていた。
 しかも花形の超人性は能力に止まらず、花形モータースの社長令息という肩書きまでをも与えることで、完璧にされていた。
 梶原一騎という人は、なぜか悲しいお話しが好きで、最終回はほとんど私が知っている限りの作品では、主人公がぼろぼろになっていた。タイガーマスクでは、伊達直人は子供を助けるために交通事故で命を落とし、夕焼け番長では赤城忠治は、オリンピックを目指しながら、友人を助けるためにアキレス腱を切っていた。伊達直人は孤児院の出、赤城忠治は両親を亡くし、祖父に電車を自宅に変えた家で育てられていた。星飛雄馬も、貧乏長屋で暮らし、原作では寂しく去っていく。
 その去る前に、大リーグボール3号で完全試合を達成するかしないかという試合でも、巨人、中日双方が譲らず、コミッショナーに提訴したという、およそ漫画では考えられない不完全燃焼の終わり方を選んでいる。
 恐らくタイガーマスクもそうだし、巨人の星も、テレビアニメがなければ、これまで残ったかどうか非常に疑わしいと私は思っている。どちらの最終回も、テレビ版は非常に感動的で、こてこてのドラマツルギーに支配された内容になっている。もちろん、最終回だけではなく、そこに到る数回の経緯で、どんどん盛り上げていくのだ。
 私は巨人の星のアニメの中で、最も好きなシーンがある。それは、大リーグボール3号の秘密を探っていた父親の一徹が、自ら同じフォームで投げてみて、腕に異様な痛みを感じる。病院へ行った一徹は、そこで大リーグボール3号に隠された秘密を知る。
 その後、雨のそぼ降る公園で、ブランコに揺られながら、「飛雄馬よ、おまえは自分の野球生命を投げていたのか!」と絶叫するシーン、ここが一番好きだ。
 アニメ版の最終回は、漫画と同じ「アウトかセーフ」かを審判が迷うシーンはそのまま使われているが、コミッショナーに提訴などという尻つぼみの内容ではなく、一徹が、アウトかセーフかなどと言うことはどっちでもよく、おまえは俺に勝ったと、飛雄馬に言うことで、見事に決着を付けている。最後の星飛雄馬が一人行進している画は、どうもいただけないが、あの長編を締めくくる最終回としては非常に良くできている。
 今となっては古くささも随所にあるし、突っ込みどころは数え切れないほどあるのだが、それでも尚、作品の持つエネルギーは色褪せていない。
 あの漫画を見て、努力することの素晴らしさを学んだと言うこともないし、巨人ファンになったわけでもないが、作品そのものが持つ面白さは、ドラマティックと言うことの素晴らしさを教えてくれたと思う。

ごくせん

 日テレでもやっているが、どちらかというとマンガの方だ。
 何の気無しにマンガ喫茶で手に取った。実を言うとマンガ喫茶もほとんど行ったことがない。たまたまつきあいで行った。
 前にテレビドラマでやっていたし、確かアニメもあったと思うので、見たことはなかったが、タイトルは知っていた。だから何の気無しにてに取ったのではないかと思う。主人公らしき強い女が出ていた。ぱらぱらっとめくった中にたまたまあったそのシーンだけで読み始めた。
 
 やはり根本的に、こういうマンガが好きなのだ。主人公は強くなくては。この圧倒的な強さこそが、私がマンガに求めているものなのだ、改めて実感した。面白かった。一気に8冊か9冊あった既刊分を読んでしまった。
 ついでに最近ドラマも始まったので、見ようと思いつつ、第1回を途中から見ただけで、いつでも忘れる。気が付くと日曜日だ。放送は土曜日なのに。第1回も強かった。
 意外に仲間由紀恵はいけている。「TRICK」でもそうだったが、彼女はコメディーがいい。・・・というより、シリアスなドラマに出ている彼女を見たことがないから、比較ができない。ずいぶん昔、映画に出ていたのを(高校生役で)見たことがあったが、どんな話かも忘れた。
 この、やくざの娘で、誰よりも強い高校の女先生という設定は、それだけで楽しい。ワルの高校生の誰よりも強い。街のちんぴらよりも強い。ちょっとしたやくざよりも強い。しかもやくざとは言ったって、気のいいテキ屋のあんちゃんという感じで、やくざらしくない。マンガでは、顧問弁護士の男に惚れていたが、テレビではどうなのだろう?
 実は、何に連載されているのかも解らないので、単行本を見るしかないのだが、何巻まで出ているのかも知らない。まあ、縁があればそのうち読めるだろうと思っている。
 しかし、久しぶりに、また読みたいと思うマンガが見つかった。
 マンガというのはちょっと読むのにとてもいい。小説は「ちょっと」読むには面倒だ。
 テレビはマンガのようにのほほんとしていない点が若干不満だが、それでも1回見た限りではなかなか面白かった。やはりテレビだと、かつての青春ドラマみたいな臭いがどこかにある。やむを得ないが、優しい校長に、憎たらしい教頭、腰巾着の先生、そして破天荒な主人公、ワルだが人のいい生徒達、日テレはまさに独壇場の設定に違いない。村野武則や中村雅俊、古くは竜雷太や浜畑研吉、夏木陽介と言った先生達は、ヤンクミとは違った、普通の先生だが、その他の設定は、テレビではまさに「××青春!」な感じだ。
 どちらが面白いかと言えば、コメディな分、「ごくせん」かな。少なくとも「青春物」じゃないし、「学園物」でもない。反町隆史が出ていた「G.T.O」などよりも、楽しいな。
 ・・・・来週こそ見るぞ!

ドラゴンボール・・・Z

 今更、「ドラゴンボール」を見ている。
 私が「ドラゴンボール」を最初に見たのは、1984年、連載開始から、ほぼ9~10年間にわたって、少年ジャンプで読んでいた。たまたま、職場がそういう環境にあったからで、そうでもなければ、マンガ雑誌は普段ほとんど読まないので、ドラゴンボールを知ることもなかっただろう。転勤になるまで、毎週読んでいた。と言うことは途中までしか読んでいなかったと言うことだが。
 アニメなど尚更知らなかったが、最近、アニメ専門チャンネルの「ドラゴンボールZ」だけを見ている。なぜ、「Z」なのか知らないが、そういうタイトルだ。
 昨年、単行本を読んでしまったのがきっかけだ。面白い。
 連載当時はそれほど面白いと思っていたかどうかは覚えていないが、よく描けている。
 このエントリーを書くに当たって、ちょっとインターネットで調べてみたら、「アニメ」と「ゲーム」に関するサイトはたくさんあるが、オリジナルのコミックに関するところは非常に少ないことが判った。・・・・というか、オリジナルに偏ったところはまず無いかな。
 アニメを見ていて思うことは、何という長さだろうと言うことか。本であれば数ページが、もののみごとに数話分に分かれていたりする。しかも、アニメのオリジナルの挿話があるので、すごく長い。始まるまでのあらすじの紹介も長いし(八奈見乗児氏のナレーションは、あ、伴宙太だと思うが)、コミックのスピード感はアニメにはない。
 私の場合、コミックが非常に合っていたとみえて、アニメのオリジナルストーリー部分は余分以外の何とも感じない。あそこまで原作に忠実に会話などをトレースしているのにもったいないな、と思ったりする。
 現在は、魔神ブウという敵が最後の変身をした後なので、もう最後の最後と言うところだが、きっと余分な話を挟んで、大分かかるのだろうな、と思う。
 何度か書いたが、私は「横山光輝の世界」等というホームページを作っているが、マンガには非常に疎い。もちろん、知らない人よりは知っている。うちの母親よりも知っている。しかし、横山光輝作品を除くと、極端に寡読(という言葉があるかどうか知らないが)になる。
 先ほど書いたほぼ10年間は、1週間に10誌ほどのマンガを読んでいたので、実は読んでいないわけではない。「ゴルゴ13」だって、「こちら葛飾区・・・」だって、「美味しんぼ」だって読んでいた。でも今は読んでいない。
 当時読んでいた作品で、単行本を買ったのは、「傷追い人」「北斗の拳」「カムイ外伝」・・・くらいかな?それ以外で単行本として持っているのは、「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブッダ」「ブラックジャック」他、手塚作品が後数点、「バイオレンスジャック(2度読む気はしない)」「デビルマン」「巨人の星(新旧)」「俺の空」「硬派銀次郎」「エイトマン」「夕焼け番長」「ズウ」「人間交差点(数冊)」これで全てだ。・・・「勝手にシロクマ」って言うのがあったな。
 いずれにしても、半分以上は本当に子供の頃に読んだ作品だ。
 先ほど書いた10年の後は、いわゆるマンガ雑誌をほとんど読んだことがない。だから、いまだに「山口六平太」や「美味しんぼ」が連載されていると聞くと、ただ単に驚いてしまう。みんな「ゴルゴ」や「こち亀」になっていくのかな?という感じだ。
 さて、そんな私が、昨年、ひょんな事から「ドラゴンボール」を読み始め、はまってしまった。ああ、こんなものは子供の読むマンガだ、と思いながら、楽しい。
 まあ、考えてみれば、「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」と、「ドラゴンボール」の荒唐無稽さに違いがあるとは思えないので、仕方ないなと思う。将軍が年がら年中市中をぶらぶらしていたり、水戸藩の一家臣が、どこへ行っても剣術ナンバーワンだったり、飛び猿(古いか?)なんていうのは、大砲でもやられない人間だったような記憶がある。
 そういう意味では、「ドラゴンボール」は、西遊記を底辺に置き、作中で妙なリアリティーを作っているので、決していい加減な作品ではないし、1億部強を売った作品だけのことはある。・・・・何という印税の額になるのだろう!
 
 また、ネーミングや、ギャグのセンスは、今では古い部分もあるだろうが、非常に好ましい。アニメのもう一つの問題は、恐らくこの鳥山明のウイッティなギャグを表現できていないところだろう。「Z」しか知らないが(しかも途中から)、どうもまじめすぎていけない。
 まあそれでも、「横山光輝」ファンとしては、責めてあのくらい原作に即したアニメを作ってくれれば、幸せだな、と思う。
 

三国志(ゲーム)

 私は「横山光輝の世界」というサイトを運営しているが、横山氏と言えば、「三国志」を描いた漫画家の中で最も有名な漫画家である。さすがに、三国志だけあって、多くの漫画家さんがトライしているようだが、あれだけのボリュームと、おもしろみを持って大河作品に仕上げたのは、横山氏だけである。
 それでも尚、私は三国志、及び水滸伝は、吉川英治版と、「三国志演義」そして「水滸伝」の翻訳がそれ以上に好きである。
 しかしながら、実は私と三国志の出会いは、横山光輝でも、吉川英治でもない。パソコンのゲームであった。しかも、MSXという、今ではほとんどの人が知らない様なOSのためのゲームだった。
 当時は「三国志Ⅱ」で、光栄という、当時はほとんど知らないメーカーの作品だった。20年以上前の話である(たぶん)。
 何でこのゲームを買ったのかは覚えていないが、多分雑誌で見たからだろう。当時は劉備玄徳も、諸葛孔明も私は知らなかった。そもそも中国文学には全く暗かった。
 しかしこのゲームは面白かった。最新版がⅩだから、人気もあるわけで、よく続くものだ。私自身は実際にやったのはⅢまでだ。いや、実際は他のもやったことがあるが、難しくて1回で止めてしまったりで、きちんとやったのはⅢまでだ。つまりそれも20年程度前のお話しだ。
 実は私はこの前に、「信長の野望(これはⅠだ)」をMSXでやっていたので、取っつきやすかったのだと思う。MSXの「信長の野望」は、今考えるとすごいと思う。16色で、日本は点線で区切られていた。北は信濃、南はせいぜい紀伊半島当たりまでで、16国しかなかった。それでもこのシミュレーションはとても面白かったと記憶している。
 三国志はⅡだったが、MSXもⅡになっていたので、16色は256色になっていた。まだゲームと言えば、PC8800というNECのシリーズが主流で、ディスクは5インチの大きくてぺらぺらのものだった。MSXは最初から3.5インチフロッピーだったが、確か720KBくらいだった。今では下手すると、画像1枚分の容量だ。
 それ数枚でゲームが遊べたのだ。
 三国志は、ユーザーが武将の一人になって、中国を統一するという、恐らく今でも基本は同じだと思うが、そういうストーリーだった。「劉備」「曹操」「袁紹」「公孫贊」「孫権」「董卓」辺りを選べたような気がするが、非常に記憶がおぼろげである。
 劉備を選ぶと、割合簡単に関羽と張飛はくっついてきたが、諸葛亮は少し努力が必要だったような気もする。
 いずれにしても、このゲームのおかげで、吉川英治を読み、演義の翻訳を読み、流れで、水滸伝のゲームをやり、これまた吉川英治を読み、翻訳を読んだ。これは岩波文庫のものだった。
 ある程度本当の歴史なのに、わくわくしながら読めるのは、日本の戦国史と同じだ。本を読んだ後にもう一度ゲームをすると、妙なこだわりが出てくる。
 劉備で始めたら、「関羽」「張飛」「超雲」「馬超」「黄忠」という蜀の五虎将と、諸葛亮、鳳統、二人の軍師はどうしても手元に置きたくなる。なかなか楽しかった記憶がある。
 今は時間もないので、やる気はしないが、時間ができたらまた楽しんでみたいゲームである。
 最近ではプレステで、非常に活劇的な楽しみ方ができるものもあるようだが、なかなか手は出せない。
 さて、三国志本編に関してはまたいずれ。三国志と水滸伝、どちらが好きかと言われたらやはり水滸伝だな。

ブッダ

 手塚治虫の「ブッダ」を読み返している。
「ブッダ」はもちろん、お釈迦様の伝記を扱ったマンガだが、実際残っている仏伝に手塚なりの脚色がされ、人間シッダールタが、ブッダとなっていく様が生き生きと描かれている。
 釈迦の伝記というのは、そもそもが口伝によるお経などを基にまとめられたものだし、大乗仏典がまとめられる中で、かなり神秘的な要素も加わっている。そもそも2600年も前の人なので、その当時でさえ、かなり神秘的なオーラに包まれていたであろう事は想像に難くない。
 現代のように、ある程度のことが科学で解り、人の仕組みがDNAで解析されようという時代にあってさえ、様々な奇跡や不思議を語る人は、枚挙に暇がない。マジックなどというのは仕掛けがあっても、あれほど不思議なのだ。
 人の世の成り立ちを説くブッダに神通力があっても不思議はないだろう。事実十大弟子の筆頭格のモッガラーナ(目健連・・・健という字は本当は牛偏だが、字がない!)は神通第一と言われていたらしい。
 釈迦の伝記は通常、人というより、人や神を超越した覚者として描かれ、生まれたとたんに有名な「天上天下唯我独尊」と言ったとされる。天地に自分より尊い者はないと言うことだ。普通に考えれば、これ以上傲慢な言葉はないところだが、覚りを開き、人を導く優れた者になるのだから、ある意味最も尊いに違いない。だが、生まれてすぐそんなことを言うはずはない。
 手塚の「ブッダ」は、超能力者(霊能者)として描かれているが、微妙なラインを取っている。基本的には仏典によるが、アーナンダや、アッシジはより強力な役割を与えられ、タッタやチャプラといったオリジナルのキャラクターが手塚らしい彩りを添えている。手塚治虫の作品を、私はあまり知らない。「鉄腕アトム」「ブラックジャック」「ビッグX」「ワンダー3」「どろろ」などのアニメになった作品を除くと、せいぜいこの「ブッダ」くらいしか読んだことがない。名前だけは他にも知っているが、実際に読んだかと言うことになると読んでいない。
「鉄腕アトム」は同時期に「鉄人28号」という強力なライバルがおり、男の子にとっては、恐らくアトムよりも鉄人の方がずっと人気があった。これはアトムが描こうとしている世界と、鉄人が描こうとしている世界が違うからだ。鉄人はあくまでロボットで、子供が戦車や軍艦にあこがれるのと同じで、単純に強さと勧善懲悪という世界観の中でお話しが構成されているが、アトムはそもそも、「ロボット」というのは体裁だけで、どちらかというと優れた人間に過ぎない。内に優越という意味での差別を抱え、社会が抱える欺瞞や、多面的な正義と悪の狭間で、時には苦悩さえするという作品なのだ。どちらがより単純に楽しめるかを考えればどちらが人気を得るかは、自ずと明らかだ。
 世の中というものは面白い者で、社会的に評価を受けるのは「アトム」で「鉄人」ではない。私は手塚治虫という人は天才だと思うし、非常に優れた漫画家であると思う。しかし、私が数少ない手塚作品の中から、純粋にエンターテインメントとして成功しているのは「ブラックジャック」だと思うし、手塚氏がマンガの中で描きたかったことを「アトム」ではなく、「ブッダ」の方がより上手く描いていると思う。
 私は昔から、キリストの話や、ギリシャを始めとする神話などをよく読む。聖書は旧訳も新訳も、文章そのものはまだるっこしいが、非常に面白い作品だと思う。そしてまた、随所にいいことが書いてあるのも事実だ。
 仏典時代を聖書のように読んだことはほとんど無い。聖書に比べると非常に読むのがしんどいからだ。本来仏典の多くは、「このように仏陀が言ったと私は聴いた」というスタイルで進められているらしいので、その点だけをとっても、聖書に比べて物語性が低い。
 キリストは神の子であり、知らないうちに主イエスと言うことになって神の座に座っている。私はこの「人の子」という表現と、唯一神であるはずの神を父と呼び、知らないうちにそれとどうかしてしまったような点を、クリスチャンの方がどう理解しているのかがよく分からない。
 ブッダことゴータマ・シッダールタという釈迦族の王子は(王子と言っても今想像するような王権があったわけでもなさそうだ)、人として生まれ、人として死んだ。ちょっと脚色すれば、覚った人として死んだ。後生の人が彼に、一般の人が神と同格のようにして扱う「仏」としての地位を与えたとしても、彼が実在した人間であることは考古学的にも証明されているらしい。
 イエスの母マリアが処女で受胎したというのと同様に、ブッダにも、母マーヤの右脇から象が入ったという話があるが、手塚版ではそういう夢を見たことになっている。
 確かに、シッダールタのように覚りを開いて人を導くということは誰にもできるものではないし、非常に高邁で、素晴らしい教えであることもうなずける。だからといって彼を神の高みに持ち上げるのはどうだろう。
 私は神の存在を否定する者ではないが、信じてもいない。この世の中は考えると不思議なことだらけなので、超越的な存在がどこかにいても不思議ではないが、kの広い宇宙の地球の、しかも一地方に偏在する神が全世界(この場合は全宇宙以上の)を束ねているとは想像しがたい。但しこれも否定する根拠はない。
 しかし、ブッダが覚り、教え導いた多くの真実は、非常に貴重で信じる価値があると思う。
 これは別の本で読んだことだが、「この世はどうなっているのか」と言ったようなタイプの質問に、ブッダは、「そんな答えのでないことに悩むより、日々を正しく生きなさい」というようなことを答えたという。これが本当かどうかは知らないが、理屈としてはすごく正しい。「人は何のために生きているのか」という質問に、あらゆる哲学者は答えを出せていない(はずだ)。なぜなら答えのない質問だからなのだと思う。答えのない質問の答えをあれこれ考えて、いったいそこに何があるのか?
 もちろんブッダの教えの肝はそこにはないと思う。彼が説いているのは、森羅万象を極めたと言うことではないからだ。だからこそ人間らしいし、親近感が持てる。
 宗教という言葉を辞書で引くと広辞苑には
「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」
学研の百科事典には
「人が神・仏・絶対者・超越者を認め,一定の様式のもとで,それを信頼・崇拝・信仰することにより,心の安らぎや幸福を得ようとする精神文化の一体系」
とある。
 これで見ると、キリストは最初から宗教者として(少なくとも伝道を初めて以来)自分の中に意識があったことは間違いが無く、それは神という絶対者を信仰することで体系づけられている。
 しかし仏教はというと、恐らくブッダの死後、徐々に形作られたのではないか。少なくとも生存中のブッダには、その意識はなかったのではないかと思う。死後は法に寄れというのはブッダの遺言だが、法とはブッダ説いた人の生き方であり、その方を中心に人々が信仰を深めることにより、宗教として成長していったのであろう。
 キリスト教徒仏教は仏教の方が500年ほど古いが、似た教えも多く、例えば、仏教でいう貧者の一燈(この言葉を初めて見たのは「巨人の星」だったが)とキリスト教でいう「金持ちが神の国にはいるのはラクダが針の穴を通るより難しい」というのはほとんど同じ意味だし、そもそも捨てることをよしとする文化がそこにはある。
 人としてのブッダが(かなり破天荒な超能力は満載だが)、悩みながら覚りを得、梵天の勧請を受け伝道を始め、入滅するまでを実に手塚は生き生きと、波瀾万丈に描ききっている。手塚なりのユーモアは所狭しと横溢しているが、全体は一本の芯が通っていて、揺らぐことはない。きちんと仏典の骨子を外すことなく、豊かな肉付けをしている。
 いくつも仏陀の話は読んだが、手塚の作品は面白いと同時に胸にも響く。
 
 ずいぶん前、「涅槃で待つ」と言って自殺した人がいて話題になったが、「涅槃」という言葉は難しい。「ニルヴァーナ」(ロックグループじゃない)の音訳だそうだが、よく死ぬことに使われるが、それは死と涅槃が似ているからかも知れない。煩悩を吹き消すって、普通に生きていては無理だ。だが目指すことはできよう。
 キリストや仏陀に限らず、優れた先人の多くは、我々に多くのことを教えてくれる。このマンガ「ブッダ」は、そういう意味で、もっと読まれてもいい作品だと思う。

傷追い人

「傷追い人」は小池一夫原作、池上遼一画によるマンガで、ビッグコミックスピリッツだか、スペリオールだか忘れたが、に連載されていた。20年前後前のことではなかったかと思う。
 私の好きなマンガのベストファイブに入る。
 私はいろいろなところで、ことあるごとに言っているのだが、強い主人公が好きだ。しかも圧倒的に。自分の周りにでもいそうな普通の主人公など読む気がしない。と言うことは、日常を扱ったマンガはほとんど読まないと言うことだ。・・・というより、横山光輝を除けば、非常に限られた読書量だと思う。
「傷追い人」は、G・P・Xという名のポルノ映画組織に復讐を誓う茨木圭介という青年が、莫大な宝を手に入れて、アメリカ社会でのし上がりながら、闘うという物語だ。4人の女性との恋愛と、相克を彩りに、まるで現代版モンテクリスト伯のような展開と思わせて、それと大分違うのは、実際は復讐劇ではなく、復讐すべきG・P・Xの正体を暴いていく物語なのだ。
 G・P・Xは、上流階級御用達の、会員制ポルノ配給組織で、出演者は各界の著名人のみで占められている。アメフトのヒーローだった圭介もそのターゲットになるが、恋人との愛を貫いて拒否する。その過程で恋人の夏子は死に、圭介はG・P・Xに復讐を誓う。復讐のための資金を得るために南米に金を求め、その時であったアナウンサーの夕湖と行動を共にしながら、新たな恋をする圭介。そして、ジャングルの奥で莫大な財宝を手にする。しかし、夕湖もまた旅の途中で死に、その折行動を共にしていたペギーという名の女性と共に、圭介はジョー・ツルギと名乗ってニューヨークで華々しくデビューする。ペギーはG・P・Xの一員であるマフィアのボスとの戦いの時に圭介をかばって死ぬ。圭介はマフィアの跡目を継ぐことでその一員となり、G・P・Xに一歩近づく。組織は圭介殺害のためにミスティーという少女の殺し屋を差し向けるが、ミスティは失敗し、逆に圭介を愛するようになる。彼らを襲って次にやってくるのはベトナムを経験した退役軍人の二人で、圭介とミスティは彼らと戦艦を舞台に死闘を繰り広げる。そしてその戦いに勝った圭介に、真実が語られる・・・・
 という内容で、まあ、とにかく圧倒的な腕力と、精神力プラス財力というスーパーマンが主人公なので、非常に小気味いい。逃げている時も、逃げているというよりは次の手に向かって進んでいる。これはどちらかというとハリウッド的な作品なのだ。
 そう、ハリウッドで映画化したらきっといい作品ができあがるような気がする。
 いかにも小池一夫な小理屈(という表現は失礼だが)の積み重ねがリアリティを生んでいるし、圭介の純愛にも何か心打たれるものがある。
 とにかく裸とエッチなシーンが多いので、親は子供に読ませたくないかも知れない。
 しかし、あれほどの情熱を持って、何かに突き進む事は、人間ほとんど無いと思う。
 拷問のような責めと恋人の死で、髪の毛が真っ白になってしまっている圭介は、白髪鬼(ホワイト・ヘアード・デビル)と名乗るのだが、これだけはどうもゴロが悪いような気がする。
 それと、やはり最後の落ちが今ひとつだ。ミスティーと結婚し、3人の女性を弔うシーンはとてもいいが、何かが違う。彼が求めていたものの意味を、その前のシーンで説明しようとする意図は分かるのだが、何だろう、よく分からないが・・・
 ただそれを押しても、この圧倒的に強靱な男が持つ魅力は、他のマンガではなかなか味わえない。同じコンビの「クライング・フリーマン」にはない世界観なのだ。
 言ってみれば、生臭いゴルゴ13みたいなものかな。画はさいとうたかおよりも個人的にはずっと好きだが。池上遼一の画はこのころが一番好きだ。・・・他をよく知っているわけではないが。