Civil War と Powerwolf

シビル・ウォーといっても内戦とかの物騒な話ではない。音楽の話だ。といってもGuns’n’Rosesの曲の話でもない。
この二つのバンドは、どちらもナパーム・レコーズというオーストリアのレーベルに所属するバンドで、Powerwolfの方がキャリアは長い。

たまたまYouTubeでCivil Warの「Bay of Pigs」という曲を知って、聴き始めた。年取ったマイケルジャクソンみたいな巨大なおじさんがヴォーカルを務めるこのバンドは、Wikipediaでもドイツ版にしか掲載がない。2012年にデビューしているようなので、キャリアは既に3年はあるはずで、アルバムも2枚出している。
この二つのバンドは、ジャンル的にはパワー・メタルと呼ばれるバンドで、Judas PriestやIron Maidenなどがその嚆矢と言えるらしい。どちらのバンドも、これまでさほど、特にMadenは、未だに良さが解らないので聴かない。そもそもヘヴィメタルというジャンルが出てきた頃、ハードロックとは微妙に違う印象があり、あまり聴こうとはしなかった。昔はディープ・パープルをうるさいと思っていたくらいなので、メタルがもっとうるさいと思っても不思議ではないのだが、今となっては不思議な気がする。

さて、まずCivil Warの「Bay of Pigs」だが、ツインギターにヴォーカル、キーボード、ベース、ドラムの6人構成のバンドで、見た目はあまり若い感じがしない。だが、なんかすごくいい。久々にYouTubeを毎日再生している。
タイトルの「Bay of Pigs」は豚の入り江とかではなく「ピッグス湾事件」という歴史的事実を歌っている。

ピッグス湾事件(ピッグスわんじけん、スペイン語: Invasión de Bahía de Cochinos、英語: Bay of Pigs Invasion)は、1961年に在米亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」がアメリカ合衆国の支援の下で、フィデル・カストロ革命政権の打倒とアメリカ傀儡政権の再興を試みた事件。 by wiki

ということのようで、そのままこの事件について歌っている感じだ。
歌詞の内容はともかくとして、メロディアスだし、ギターソロに至っては、あたかもロシア民謡のようなメロディを奏でる。バンド自体は、メタルが大好きなスウェーデンのバンドで、ハイトーンを持ったヴォーカルはNils Patrik Johanssonと、まさに北欧の名前だ。
このバンド、他の曲を見てみると、ナポレオンの歌やローマ帝国の歌や、スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを歌った歌などがある。ウィリアム・ウォレスは、まさに「Braveheart」という名でメル・ギブソンがアカデミー作品賞を取った作品と同じタイトルだ。タイトルをBraveheartにしたのは、この映画へのオマージュ的な何かがあったのだろう。

 

アルバムも2枚出している。

もっと有名になってもいいのにな~。せめて英語版のWikiには載って欲しいと思うのだが・・・

 そしてPowerwolfだが、こちらは2003年から活躍しているようだ。「Bay of Pigs」の次にYouTubeで流れるのが、このPowerwolfの「Army Of The Night」という曲だから、自ずと聴くことになったわけだ。昔の曲は知らないが、やたらとアーメン、ハレルヤ、マター・マリアを使いたがる印象だ。必ずしも敬虔なキリスト教の歌ではないのは、ヴォーカリストのデーモン閣下的な化粧で解る。
 この曲も悪くはないのだが、実はここでCivil Warと並べて書く気になったのは、別の曲「Armata Strigoi」を聴いたためだ。これは全体のリズムや曲のメロディもさることながら、
2種類のギターのリフと、やはりロシア民謡的なギターソロに尽きる。そしてこの「Armata Strigoi」という意味の分からないタイトル。

In Romanian mythology, strigoi (English: striga, poltergeist)[1] are the troubled souls of the dead rising from the grave. Some strigoi can be living people with certain magical properties. Some of the properties of the strigoi include: the ability to transform into an animal, invisibility, and the propensity to drain the vitality of victims via blood loss. Strigoi are also known as immortal vampires. – wiki

要するに、ルーマニアの神話に出てくるゾンビみたいなものらしい。血を吸うらしいし。
Armataの方はイタリア語というか、それも古い言葉で軍隊を指すらしい。つまり、平たくいえばゾンビの軍団?
まあ、そんな感じの内容なのだが、歌詞はともかく、この曲もいい。ヴォーカルも伸びやかで歌もうまい。
いみじくもなぜかこのPowerwolfの2曲は「Stand up…」で歌詞が始まる。どうしても立ち上がらせたいらしい。

まあ、確かにCivil WarもPowerwolfもうるさい。でも、こういうメロディー好きなんだなぁ。
日本にはこういうバンドいないなぁ。でも、昔の歌謡曲って、こんな感じだったな、と思う。

関係ないが、AmazonのPrime Musicで、一部聞き放題になった音楽の中にジェニファーという歌手がいるのだが、どうやらアメリカ人らしいが、日本の歌謡曲をカバーしていて、中でも「みずいろの雨」は良かった。八神純子とは別の透明感のある声で、聴いていて気持ちがいい。Prime Music自体はPrime Videoと一緒で、少しだけいい物もあるが残りは返品在庫の寄せ集め的な内容なのだが、年間4000円弱で、これらのおまけは美味しい。まだまだいろんな知らない言い音楽はたくさんありそう。

東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』

標題の作品を昨日、あ、日が変わって正確には一昨日だが、南大塚ホール(東京大塚)で観てきた。
素晴らしい作品に出会えたので、久々にブログを更新。
内容は、モーツァルトの一生をストーリーの軸にモーツァルトのオペラアリアを聴かせるものだが、単純にこう書いてしまっては申し訳ない。なぜなら、物語と音楽が元々のオペラでもないのに極めて融合し、意味のある選曲になっていて、ある意味これが一つのオペラとしても成立しているからである。
脚本・構成・訳詞・ステージングをモーツァルト役の中川美和が一人でこなしている。この一作を見る限りにおいて希有な才能というべきである。

物語はモーツァルトの子供時代の説明から始まるが、既にこの時に伏線が用意されている。それは幼いモーツァルトが自ら弾くパパゲーノのアリアの単旋律だ。
この作品には多くの伏線や場面と歌詞の絡み合い(オリジナルの歌詞を付けているわけではなく、元々のアリアの訳詞だ)など、非常に練られていて、正直一回の観劇ではそのすべてを解って観ることは難しいかも知れない。
そのほとんどをモーツァルトの音楽で構成しているため、当然のことながら使われる音楽の時代設定は前後する。中には敢えて「ケッヘル」という単語を使って笑いを取る場面もある。モーツァルト以外の音楽は、敢えてギャグとして使っている「運命」と「人知れぬ涙」(この2曲はシカネーダーに作曲者を言わせることで笑いをしっかり取っている)そして、メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。この辺りのモーツァルトにこだわりながらも拘泥しすぎないという姿勢も実は評価したい。

恐らくこの作品が最も評価されるのは、(個人的にはそこではないのだが、)モーツァルトの一生を描いた物語をモーツァルトの音楽で構成し尽くしているという点だと思う。
古今、モーツァルトを描いた作品というのはたくさんあるに違いないが、ぼくが知っていて比較対象となるのは、アカデミー賞受賞作でもある映画『アマデウス』と、東宝かな?のミュージカル『モーツァルト!』なのだが、今回の『モーツァルトの旅』はそのどちらとも立ち位置が違っていて、さすがにクラシック音楽家が(恐らく矜持を込めて)作ったであろうこだわりが、モーツァルト作品としてこの作品をほかの2作と比較しても遜色ない高みに上げている。
音楽の使い方としては『アマデウス』に近いが、極論すれば『アマデウス』の音楽は、どこまで行ってもBGMである。この時代にこの音楽が作られたその表現プラス、シーンを装飾するために音楽が使われる。『モーツァルト!』に関しては、そもそもオリジナル音楽を使った作品なので、モーツァルトの音楽はほとんどおまけである。ただこれはこれで良い。モーツァルトを描くからといってモーツァルトの音楽を使わねばならぬという決まりは無いからである。
ただ今回の『モーツァルトの旅』に関していえば、東京室内歌劇場という団体が上演するに相応しい、実力派歌手がアリア等を存分に聴かせた上での劇になっている。モーツァルトの音楽がまさに作品と融合し、その物語の一部になっているのである。今回の作品を観て思ったのは、俳優と歌手が分離していてはこういった作品の実現は難しいし、かといってオペラ歌手にここまでの台詞のやり取りをさせるのは、恐らくオペレッタの比ではなかったであろうということだ。
しかし、であればこそだが、『アマデウス』や『モーツァルト!』では実現できない、モーツァルトの人生をドラマとして体験しながら、なおかつモーツァルトの音楽を堪能できるという新しい地平を切り開いている作品なのだということだ。尤も、なぜこれまでこういった類いの作品はなかったのだろうか?という疑問がすぐ浮かぶが、考えてみるとハードルの高い作品なのだ。
まず、前述したようにモーツァルトの音楽を演奏しなくはいけないので、優れた素養を持った音楽家が演じなくてはならない。歌唱の出来は作品の完成度を大きく左右する。次に、同じ歌手が俳優としての技量を兼ね備えていなくてはいけない。でなければ芝居がへたってしまう。だがこの二つだけならば決してクリアすることはそこまで難しくないであろう。
問題は、脚本とそれを含めた上での構成を誰がやるのかと言うことだ。恐らくこういった作品が企画に上がる時点で、今回のような形ではなく概ねは「新作」が企図されるであろう。なぜなら、優れた作品を描く脚本家はモーツァルトの音楽と自らの脚本を融合させるなどということに、それほど長けていないだろうし、今回のように実は音楽を抜いたとしても一つの芝居として完成されている作品にとっては、音楽の役割はやはり『アマデウス』的なBGMになる可能性が高いからである。敢えて『アマデウス』的と書いたのは単なるBGMではないからであるが、いずれにせよ、芝居と音楽が対等に伍する作品にはならない。
つまり、優れた脚本とそこに音楽を融合させる試みができる作家がいなくては、まず作品が成立しないし、既存の音楽を使ってそれをやろうとするなら、オリジナルを作った方が楽だし、話題性もあるのじゃないだろうか?などといった思惑が働き、同時に、作っても誰が上演するの?という危惧が最初からあるために、これまでこういった物を作ろうとした人はいなかったのだと思われる。
似た作品はきっとある。だがここまでこだわった作品は、残念ながらぼくの知識にの中にはない。
と同時に、この作品のような形態はそれが持つ可能性と危うさがそこにはある。

これだけ面白いのだから、どんどん新たな作品も観たいと思うが、一つには、クラシックの中でも「歌」というほかの楽器とは一線を画するツールではなく、すなわち、いわゆる器楽を使ってこれが成立するだろうか?と考えた時、恐らくは難しいだろうと思う。歌と器楽が持つ最大の違い、それは歌詞という意味を持ったコミュニケーションツールがそこに存在するかどうかという点だ。今回も場面展開などのために『後宮からの誘拐』や『魔笛』の序曲などがピアノ演奏で使われていたが、では歌のほとんどを器楽演奏に変えて、ここでは「アイネクライネ」、ここでは40番の交響曲と言った感じで音楽を挟んでも、それは劇の合間にモーツァルトの音楽を聴いただけに過ぎなくなってくる。ここまで書いた「融合」という言葉が一切白々しいものとなってしまう予感がするのである(いや、もちろんそれはそれで、そういった形態の作品があっても楽しめる可能性はあるわけで、それはそれでよしとしよう。)だが、だとしても歌の持つ力はそれとは次元が少し違うところに存在する気がする。そしてそれが今回の作品を、芝居+音楽というだけの作品を大きく分けている点である。雰囲気を演出する音楽ではなく、意味を持った音楽、言ってみればミュージカルそのものなのだが、それを既存の作曲家が作った歌を利用して行うと言うこと自体が、ある意味離れ業なのだと思う。

そして、では同じ形態の別の作品を観たいと考えた時に、ではそういったものは可能なのか?と考えた時、取りあえず他の作曲家でと思うと、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ワーグナー、R.シュトラウス……オペラ作曲家の名前を挙げても、物語になりそうなのはワーグナーくらい。ワーグナー歌手を5人も10人も並べる大変さもさることながら、そもそもむちゃくちゃ重い作品で、面白くなるのだろうか?という疑問がわく。ではベートーヴェンは?ショパンは?マーラーは?と考えていくとモーツァルトほど扱いやすくないことがよく解る。まあ、作曲家の一生シリーズである必要は必ずしも無いので、他人事として新作には期待なのだが……

さて、そういった評価はあるとしても、ぼくが今回絶賛してやまないのは、前述の意味も若干込めた上での脚本そのものである。ストーリーはある意味単純だ。というより、概ねは史実に基づいているので、大きく変えるのは難しい。だがその上で、面白く見えるためには音楽の成立時期などにはこだわらず、大胆に前後させ、何より物語の進行と構成がうまく結実した脚本になっている。文章力としての脚本力もあるとは思うが、むしろその構成力に感服する。オーソドックスではあるが、よく考えられていて、1幕と2幕のコントラスト、様々な伏線、キャラクターのかき分けと、よくぞまあ、こんな作品をものしたなと思う。
その構成がよくできているからこそ、相俟ってモーツァルトの作品が際立っているのだ。

一つ例を挙げれば、モーツァルトが妻と弟子に裏切られたことへの憎しみを吐露する場面で、もちろんモーツァルト/中川の慟哭のような叫びだけでもいいのだが、すっと脇から出てきたソプラノ歌手が歌う「オレステスとアイアスの」で始まるオペラ『イドメネオ』のアリア。極めて効果的にモーツァルトの心情を描き出している。モーツァルトの音楽もそうだし、ソプラノ田中紗綾子の歌唱も、余すところなく表現していた。

我々は名前のある人たちが作り上げたものを信じる。定評のあるものを尊ぶ。だが、その第一歩は常に無名、無冠の状態から始まる。東京室内歌劇場も、他の歌手もあるいは既にそれないりのネームバリューはあるに違いない。ただ恐らくは、歌手としてではない脚本家としての中川美和に関しては、間違いなく無名であろう。だが、こういう所にも才能はあるのだと言うことを実感させてくれる作品であった。
ミュージカルと違いロングランを課すのはクラシック歌手には酷である。だが、間をおいて再演、再再演と続け、一人でも多くの人にこの作品を観てもらいたい。それだけの価値がある作品だとも思う。
本来は感想として、内容や曲について触れるつもりで書き始めたのだが、なぜか作品論のようになってしまった。

あ、YouTubeにでも上げて見せてくれるとうれしいのだが……なぜかみんなあまりやらないよな。

mozart

ジョン・ロード

 ジョン・ロードが亡くなった。
 まだ71才だという、若いなぁ。
 
 言わずもがな、ジョンはディープ・パープルのオリジナルメンバーでイアン・ペイスと共にほぼ全てのDP作人に参加していると思う。
 DPのメロディーメーカーはその多くがリッチー・ブラックモアに負っているところが多いと思うが、初期の3枚のアルバムでは、作曲もかなり担当していただろうし、何より、グループとオーケストラのためのコンチェルトは、彼の最大の作品だと思う。

 以前にも書いたが、このロックバンドとオーケストラのための作品は、かなりいけていると思う。他のロックバンドとオーケストラの共演とはひと味違う。
 展覧会の絵をELPが演奏したり、オケとバンドが分担して演奏するのとはわけが違い、最初から協奏曲として企図された作品だからだ。これは純粋に協奏曲だし、面白い。
 歴史的なクラシカルな作品と比べて作曲技法などのテクニカルな部分については、それなりの見方があるだろうが、個人的には非常によくできた作品だと思っている。
 惜しむらくはこの曲が、ディープ・パープルの曲として存在するため、クラシックのように、様々なオケや指揮者演奏家によって取り上げられることがないことだ。
 実際の所、オケとロックバンドといのは音量的な問題や、演奏スタイルの問題はあると思うが、実に惜しい。

 DPは2度この曲のライブ盤を発売していて、1回は作品を発表した69年のロイヤル・フィル(指揮:マルコム・アーノルド)で、少々粗い演奏だが、熱気があっていい。
 2度目は1999年、ギタリストがスティーヴ・モーズに変わったので、だいぶ印象も違うが、曲としてのまとまりや、オケの質は上がったように(ロイヤルフィルがだめなわけじゃないが)思えるが、69年の熱気はない。

 いずれにしても、他のオケとバンドの組み合わせでも聴いてみたいと思うのだ。
 現代音楽としては、かなりこてこてだが、バルトーク辺りの香も少しするし。

 追悼に・・・・ホワイトスネイクの「Walking in the Shadow of the Blues」を。
 あ、これもジョンのオルガンなかなかよいですよ。

尾崎紀世彦

 先日、尾崎紀世彦が亡くなった。69才だという。まだ若いなぁ。
 尾崎紀世彦は小学校のころから聴いていて、今でも聴いている。声量があって、歌も上手だ。

 尾崎紀世彦と言えば、「また逢う日まで」が定番だが、個人的には「あなたに賭ける」しかない。
 ちょうど中学のとき、修学旅行先だったと記憶しているが、「あなたに賭ける」がチャートの1位になったのをラジオで聴いて、喜んだ記憶がある。大好きな曲だ。
 阿久悠 + 筒美京平・・・ほとんど外れがなさそうな黄金コンビだ。
 彼自身が好んでいたかどうかは知らないが、尾崎は「あなたに賭ける」!なのだ。

いずれにしても、ご冥福をお祈りします。

フィッシャー=ディースカウ

 バリトンのディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウが亡くなった。86才だそうだ。
 20世紀の後半ドイツ・リートと言えばまず、ディースカウが他を圧倒している。
 
 クラシック歌手の恐らく多くは、歌曲よりもまずオペラを歌う。もちろんどちらか片方だけという人も少ないだろうが、仕事もそちらの方が多いのではないだろうか?
 オペラと歌曲というのは、その存在の仕方も、オペラの方が華やかだし、歌曲は地味である。一つには、その演奏形式が、多くピアノ伴奏によると言うことも一因だろうし、オケを使うと言うことばかりでは無く、演奏のために必要な人数もその原因としてはあるだろう。

 オペラというとまずどうしても、イタリアオペラが浮かぶ。それはヴェルディやプッチーニ、ロッシーニなど、小学校の音楽室に並ぶオペラ作曲家の多くがイタリア人だし、モーツァルトの昔(そしてそれ以前)からオペラはイタリア語だったのだからやむを得ない。
 もちろん、ドイツ語やフランス語、ロシア語、英語、日本語、各国語のオペラや作曲家もいるがどうしてもオペラ=イタリアというイメージはつきまとう。
 同様に、歌曲と言えば「リート」という表現がふと浮かぶように、ドイツなのだ。
 シューベルト、シューマンはまさに、オペラのヴェルディとプッチーニのように歌曲の大家だ。二人とも歌曲以外に、交響曲や室内楽、オペラも書いているが、歌曲の数が半端ではない。このリートの流れは、マーラーやR。シュトラウスなどにも流れていくわけだが、何より、フーゴー・ヴォルフが受け継いでいる。

 このドイツ・リートを、レコードやCDを通じて、誰でも簡単に聴けるようにしてくれた最大の功労者がディースカウだ。
 シューベルトやシューマンのの歌曲全集、ヴォルフの膨大な歌曲集など、ドイツ・リートを網羅していると言ってもいいくらい録音されている。

 個人的には、フルトヴェングラーの指揮で歌ったマーラーの「さすらう若人の唄」や、ソプラノのシュワルツコップと一緒に録音したケンペ指揮の同じくマーラー「子供の不思議な角笛」の歌曲、バレンボイムのピアノで歌ったヴォルフのゲーテ歌曲集などが、非常に印象深く、好きな演奏だ。後はシューマンの「詩人の恋」などをよく聞く。

 高齢なので、仕方ないという気持ちの方が大きいが、不世出のバリトンに合掌。

サイエンス・インポッシブル

 表題の本を読んだ。作者は著名な理論物理学者のカク・ミチオ氏。

 現代の科学的知見に基づいて、SF的なアイディアを実現不可能レベルで三段階に分けて解説している。
 非常に面白くかつ、読み応えもある本だ。
 現在これをきっかけに、科学本読書週間に入ってしまった。

 さて、不可能レベルの三段階は
  I 現時点では不可能だが、物理法則に反していないので遠からず可能になる可能性が高いもの
  II 「物理的世界に対するわれわれの理解の辺縁にかろうじて位置するようなテクノロジー」
  III 基地の物理法則に反するテクノロジー
 と分けられている。
 要するに、できるかもしれない、できたらすごいぜ、絶対無理に別れている。尤も、絶対無理も、カク氏は言い切っていない。この柔軟さは科学者にとって必要なのだろうなと思う。
  そのIIIには「永久機関」と「予知能力」しか含まれていない。
  そして驚くのはIの項目だ。

「フォース・フィールド」「不可視化」「フェイザーとデス・スター」「テレポーテーション」「テレパシー」「念力」「ロボット」「地球外生命とUFO」「スターシップ」「反物質と半宇宙」

 これだけのものが含まれている。できそうもないものがたくさん。
 フォース・フィールドとは、いわゆるバリアだ。エネルギーで外部からの攻撃などを防ぐ障壁のことだ。カク氏はスタートレックのファンのようで、随所にスタートレックが例に挙げられている。フェイザーもスタートレックの「フェイザー砲」という武器のことだ。

 このエネルギー式のバリアというのはアニメなどでは、ごく当たり前のように出てくる。 とても便利だし、多くの災害から人間を守ることがで切る装置だから、是非とも完成させて欲しいが、不可能レベル1でも読んでいると、「そうか~できるのかもしれないが、その頃にはおれはこのようにはいないな」という感じだ。
 これらの中で、「テレポーテーション」は言ってみればドアのないどこでもドアなので、夢は膨らむし、実際量子レベルでは成功しているらしい。人間が瞬間的に空間を移動できるというのとは、そもそも違うようだが、科学はこれまで、その時々で不可能と思えることを可能にしてきてもいるので、誰が言ったか忘れたが、「人間は頭で考えられることは実現できる」のかもしれない。

 こういう書物を読むと、今の科学者が、現在の実利的なことから、将来や夢物語みたいなことまで、非常に多くのことを考えているのが解る。そして自分がその中にいないことが、非常に残念でもある。
 また、あるいは可能になるかもしれないというこれらの事象について、それをこの目で確認できそうにないこともまた、残念である。

 こんな楽しい話を読みながら、でも感想はそこかよ!
 宮崎あおいではないが、ぼくも生まれ変わる予定は今のところ無い。でも望むらくは何度でも生まれ変わって、未来を見てみたいものだと、つくづく思うのだ。
 

トランスフォーマー

トランスフォーマー~ダークサイド・ムーン~を観た。

 これで3部作が簡潔なのだろうが、脚本的には、いちばん「なんだかなぁ~」感が残ったとしても、こういう映画はシーンの連続で楽しませてくれるので、それなりに楽しんで観てしまう。「ダークサイド・ムーン」を説明するときにピンク・フロイドを出したり、意外にそういうところが好きだったりする。
 こういう巨大ロボットものの嚆矢はやはり、「鉄人28号」だと思うが、CGもここまできれいになってくると、非常にリアルで楽しい。この映画は3Dなので、それで観ればもっと臨場感というか、楽しく観れるのだろうが、PCの画面でも十分楽しめるのだ。

 オートボットという正義のロボット宇宙人とデセプティコンという悪のロボットの戦いが地球上で行われ、そこにシャイア・ラブーフが絡んでくる。他のハリウッド映画でも何度も見たことがあるようなストーリーではあるし、今回はひねりもあまりないのだが、何か納得してしまう。主人公が死ねるシーンは10回以上あるが、決して死なないし、結果ヒーローなのだ。

 唯一設定的に面白かったのは、アポロの打ち上げとストーリーを絡ませたところだろうか。

 マーベルコミックを映画化した作品はとりあえず娯楽作品としては外れがない。
 これまで見た中では、最初の「アイアンマン」が一番面白かったが、その他の作品も、決してつまらなくない。
 
 願わくばマーベルではないが「ドック・サヴェッジ」をシリーズで映画かして欲しいものだ。ついでに翻訳も全部出して欲しいな。




ソルト(完全ネタバレ)


 アンジェリーナ・ジョリーの「ソルト」を観た。
 もちろんDVD。もう何年も映画館には行っていない。大画面の良さというのは知っているが、それとのんびり寛いでみるを天秤にかけて後者を選ぶものぐさだ。
 TSUTAYAのネット宅配……という時点でさらにものぐさな気もするが……でずっと貸し出し中だったのだが、ようやく借りることができた。
 
 あ、ここからはネタバレです。ネタバレ嫌で観ていない方は,間違っても読まないでください。世の中ネタバレといいながら、結構ぼかして書く方もいますが,私はそんな気は遣いません。ネタバレと書いたらネタバレです。
 さて、結論から言えば面白かった。誰かのブログにもありましたが、女版「ジェイソン・ボーン」な感じでした。できとしてはボーンの方が上だと思いますが、好みもあります。
 物語は2年前、主人公のイヴリン・ソルトが北朝鮮にアメリカの工作員として捉えられたところから始まる。
 そのときソルトを救うために尽力したのが、現在の夫である蜘蛛学者のマイク。二人は結婚し、現在に至るが、その2年目の結婚記念日、ソルトが勤めるCIAにロシアから亡命者がある。
 取り調べにあたったソルトに、オルロフというそのロシア人は、ロシアには子供の頃からアメリカ人として教育を受け、いざというとき活動を起こす部隊があり、その一人チェンコフという少女がスパイとしてアメリカに潜入している。(いわば忍者で言うところの草ですね。子供の頃からスパイとして潜伏し、時期を待っているわけです。)

 そのスパイは、今回アメリカの副大統領の葬儀に参列するロシア大統領を暗殺するつもりなのだと告げる。
 そしてスパイの現在の名はイヴリン・ソルトであるという。
 自らの名前を出されたソルトは、罠だと言うが、その瞬間から二重スパイの嫌疑をかけられてしまう。
 一方オルロフは、連行される間に二人の局員を殺害して逃げる。
 ソルトもまた逃亡を図り、同僚のテッド、防諜部のピーボディらが追跡を始める。ここからはアクションの連続。
 自宅に戻り、夫が何者かに拉致されたことを知ったソルトは、追っ手を振り切るため逃げる。捕まりそうになっても、車のコンテナに飛び乗ったり、コンテナからコンテナに飛び移ったり、バイクを奪ったりして、逃げおおせます。なかなか派手です。
 ソルトは、葬儀が行われている教会に地下から忍び込み、追悼の言葉を語るロシア大統領の床を爆破し、階下に落とし、大統領に向かって発砲。
 この時点で、やっぱりソルトは本当にロシアのスパイだったの?と、私は遅めの理解をしました。しかし、明らかに蜘蛛から抽出した毒を打ち込んでいる音がして、「殺害していない」というのが解るので、実は三重スパイか?とか思ったりして。
 ここでソルトは、防諜部のピーボディに捕まる。しかし、護送中のパトカーから脱出を図り、再び逃亡。
 ロシアの大統領はこの時点で死んでいないと解るのだが(敢えて「死亡した」と同僚のテッドに言わせるのがクサイが)パトカーの警官を始め、たぶん相当数が怪我しているし、現実ならきっと死人も出ている。一般人は死んでも数には入らないのだ。
 そしてソルトは、船に乗り、どこかへ行くのだが、回想シーンがあり、明らかにソルトはロシアの工作員であったことが解る。
 ソルトが向かった先には、最初に亡命者としてやってきたオルロフがいる。彼がソルトこと、チェンコフに訓練を行ったのだ。
 彼らのアジトに向かったソルトは、目の前で夫のマイクを殺害されてしまうが、冷静に対処し、仲間として迎え入れられる。この辺りの展開は非常に速く、煩わしさがない。
 次の指令をオルロフに訊くが、オルロフはNATOの連絡員から次の指示があるとだけ言う。
 直後、ソルトはオルロフを殺害し、続けてアジトにいる仲間全てを殺し、NATOの連絡員が待つ飛行機に向かう。
 この時点で、ソルトの思惑が全く解らなくるのだ。
 ただ解らないとはいえ、物語の進行としてはおかしくないし、ある意味の予定調和ではある。
 飛行機に乗ったソルトは、昔一緒に学んだ仲間のシュナイダーから、次の目的が大統領暗殺であることを聞きく。そして最終的にそれを行うのがソルトの役割だと。
 ホワイトハウスの地下8階に司令室があり、そこに大統領を行かせるので,そこで暗殺するというのだが、今ひとつこの行はよく解らない。なぜそこに行かせるの?
 シュナイダーはNATOとホワイトハウスの連絡将校になりすまして何年も経つので、変装したソルトを随行員として一緒にホワイトハウスに連れて行くのだが、そこでシュナイダーは大統領に向かって発砲し、自爆する。
 思惑通り大統領は地下の司令室に向かうのだが、ここは、核戦争でも起こせる安全な司令室で、外からは入れないようになっている。
 ソルトは大統領の後を追うが、この時点でソルトの目的がどこにあるのか、実はよく解らない。
 つまり、大統領を暗殺するのが目的か、そうでないのか?
 エレベータを後から追い、ソルトが司令室へ侵入しようとしている間に、司令室に着いた大統領の下に、ロシアが大統領を暗殺されたために、ミサイル攻撃の準備をしているという知らせが入り、警戒レベルを上げ、アメリカ側もミサイル攻撃に入れるように準備を始める。
 ちょっとここに至る話がかなり強引だが、アクションはカッコイイので許すとしよう。
 なぜなら、ここで準備に入らないと話が先に進まないからだ。
 ソルトが進入しようとしていると知ったシークレットサービスが、外へ行こうとするとき、同行していたソルトの同僚テッドがいきなり銃を発砲し、そこにいた面々を殺し始める。
 彼は本名をニコライ・タルコフスキーというロシアの工作員だった。
 つまりソルトの仲間だということだ。
 彼の目的は、核を使ってテヘランとメッカを攻撃し、イスラム教徒の怒りをアメリカに向けようというのだ。
 これが本当の目的で、そのために大統領をここへ連れてこなくてはならなかったわけだ。でもそのことをソルトは知っていたのか?知らないところで聞かされていた節はない。ちょっとパラレルワールド。
 司令室を目の前にして中に入れないソルトが(この時点で、他のアメリカ人は、大統領も入れてみんな死んだか、気絶している、すごい!)テッドに中に入れてくれと頼むが、その瞬間にロシア大統領が実は死んでいなかったという報道が流れる。テッドは「やはりな」というが、どこまでソルトを疑っていたのだろう?
 それとは別に、テッドは事件の罪をソルトにかぶせるために、色々画策していたのだ。
 
 どうにか司令室に入ったソルトとテッドの闘いが始まり、上階からはピーボディをはじめとする部隊がなだれ込んできた。最後の瞬間に、核の発射を止めたソルトはそこで逮捕される。
 上の階へ向かう途中、ソルトは、隙を見てソルトを殺そうと待ち構えるテッドを、逆に手錠を使って首を絞め、殺害する。こういうシーンの描き方がなかなかいいので、ついだまされてしまう。
 ヘリコプターで護送されるソルトの前にピーボディ。ほとんど活躍しなかったこの男に、ソルトは事実を話すが、ソルトの目的が、彼女から全てを奪ったオルロフとその教え子たち全員を殺すことだと解る。
 教会で自分を殺せたのに殺さなかったソルトの言葉を信じたピーボディは、ヘリからポトマック川にソルトを逃がす。
 そしてソルトは森の中を走って逃げる。エンドロール。
 ということで、間違いなく続編があるはずという終わり方をする。
 さて、確かに面白かったが、実際彼女が何をしたかったのかが実はよく解らなくて、その最大の原因が実は夫とその死にあったらしいのだが、見る限りそこまでのモチベーションを感じない。
 また、彼女が大統領を追ったのが何のためだったのか、最初からテッド、あるいはロシアの工作員が大統領の側近にいると信じての行動だったのか、この辺りが今ひとつぴんと来ない。
 続編を考えての出し惜しみにしては、意外に全容は描かれている気がする。もちろん裏の裏とか、より巨大な陰謀とか、付け足して描くことも可能だし、そうすればきっと面白い作品ができるには違いない。
 エンターテインメントとしてはよくできているので、もう少し脚本を練って欲しかったというのが本音だ。
 面白い演出に後から説明を付けた感が否めないのだ。錯綜した話なので難しいのは解るが、そのためにソルトの人間性や性格も、ちょっとぼやけている。
 この前に観た「アルマゲドンコード」という映画があるのだが、こちらはロシアの作品で、有名な人はあまり出ていないが、話の展開に雑な部分はかなりあるが、ストーリー自体はちゃんとしているので、とても楽しく見れた。主役の女優のアクションもすごかったし。「ソルト」は。あまりどんでん返しばかり狙うと、どこかで話が破綻してしまうのだな、という典型の映画であった。
 褒めているのか貶しているのか解らないが、たぶん両方だ。面白いのでまた見ると思うが、やはりどこか不満を持つのだ。
 
 

時をかける少女

仲里依紗主演による映画「時をかける少女」を観た。もちろんDVDだが。
「時をかける少女」に関しては、最初の出会いはNHKの少年ドラマシリーズ、島田淳子主演の作品だった。熱中して観た。私自身は当時、中学1年だった。筒井康隆による原作、「時をかける少女」も購入して読んだ。今でも持っているが少年少女向けの、新書よりちょっと大判で出ていたSFシリーズの1冊だった。
原作とドラマは少し違っていたが、こちらも楽しく読んだ。
半年後には続編も放送され、こちらもとても面白かった記憶がある。尤も、内容は全く覚えていない。
ウィキペディアを見るとこの作品、実にたくさん映像化されている。
時系列でいえば、上記の72年のNHKドラマのあと
1983年 原田知世主演 映画
1985年 南野陽子主演 TVドラマ
1994年 内田有紀主演 TVドラマ
1997年 中本奈奈主演 映画
2006年 仲里依紗(声)主演 アニメ映画
そして2010年 仲里依紗主演 映画
と、NHKを2本と数えれば、なんと8回だ。面白いのは、このうちの3回は原作の世界の続編的位置づけであるということだ。NHKは当に「続・タイムトラベラー」というタイトルだったし、アニメ作品はかつての主人公芳山和子の姪という設定らしい。
そして今回の仲里依紗は芳山和子の娘だった。
実際のところ、最初の2作品は、細かい部分に関して記憶も曖昧だ。一時期Youtubeに上がっていた最終話を見ると、こんな最終回だったかなと思えるくらい、記憶にない。現在はYoutubeで見ることができないが、どういう理由で削除されたのか、こういう映像こそ、Youtubeで公開すればいいので、NHKの著作権を理由に削除されたなどという理由だとしたら、受信料を払いたくなくなる。理由を知らないので、あくまで憶測だが。
さて、残りの作品の中で見たことがあるのは、角川映画の原田知世版だけだ。何でも自分のノスタルジーと同化させてしまう、当時の大林宣彦によって作られた、全く緊張感のない映画は、まだタイムトラベラーの記憶が鮮明だったであろう当時の私にとっては、駄作以外の何物でもなかった。
原田知世は嫌いじゃないが、作品としては泣けてきた。「転校生」「さびしんぼう」と併せて尾道三部作といわれているようだが、「転校生」は悪くない。
残りの2本のドラマは観ていないか、観たかもしれないが忘れてしまった。97年の映画に至っては、全く存在を知らなかった。その後の2作に関しては脚本がオリジナルなので、過去の作品と同列に扱うことはできないが、2006年のはアニメであるという理由で観ていないが、今度レンタルしてみようと思う。
なぜかといえば、今回の仲里依紗の演技が非常に良かったからだ。
今回の「時をかける少女」は、医学部に進んだかつての主人公芳山和子が、自らの手でタイムトラベルの薬を開発し、かつての深町一夫(ケン・ソゴル)に逢いに行こうとしたのだが、事故に遭い、代わりに娘のあいかがその役割を果たすために70年代にタイムトラベルするという話だ。
そもそも芳山和子にいつ記憶が戻り、どれほど重要なことを伝えに行くはずだったのかとか、元々それほどしっかり描かれているわけでもないタイムパラドックスや、都合が悪い部分はさっさと記憶を消してはいさよならという設定の部分は、原作ですらきちんとしているわけでもなく、そこを描くのが主眼でもないはずなので、敢えて問わない。
だがそれを越えて、今回の作品はドラマとしてよくできていて、みて良かったと感じさせてくれた。主役の二人、仲里依紗と中尾明慶の演技が良かったこともあるが、脚本も構成も良かった。
最後をどう見せるかは、こういう作品では非常に難しいし、今回も必ずしも成功しているとは言い難いが、ではどういうラストならいいのかということになると、これは非常に難しく、どういうラストにしても不満が残るに違いないと思う。だが作品の性質上やむを得ないと思う。
かつてこういう恋愛タイムトラベルものの中では、「ぼくの彼女はサイボーグ」はよくできたラストだった。
昔の「時をかける少女」を知っていた方がより楽しめるし、そのためには原田知世の作品を観ておいた方がいいのだが(もちろんこの映画の続編というわけでは全くないが)、単体でも楽しめると思う。
仲里依紗という名前は、なんと読むのかなと思っていたが、「なか りいさ」と読むらしい。「マイボスマイヒーロー」にも出ていたのか!知らなかった。





スティーヴン・セガールの新作「沈黙の復讐」

ニュースでスティーヴン・セガールの「沈黙シリーズ」の19作目が公開されるとあった。
そもそも「沈黙」シリーズは「沈黙の戦艦」から始まるが、これは「Under Siege」という原題で(包囲されたとかの意味か)ライバックという元海軍特殊部隊のコックが主役の話で、この後、「Under Siege2」という映画が、「暴走特急」というタイトルで公開される。これは同じ主人公を主役にした続編である。
ところがこの間に公開された「On Deadly Ground」という、アラスカの石油採掘所を舞台にした作品がある。そしてこれの邦題が「沈黙の要塞」。実際にこのときに、既に「沈黙シリーズ第2弾」と言われていたらしい。

だが、「暴走特急」は沈黙シリーズ第3弾とはならす、97年の「沈黙の断崖(Fire Down Below)」が第3弾となる。
で、その間に「グリマーマン」という、これこそそのまま原題をカタカナにしたのでは、意味不明なタイトルの作品を挟んでいるが、これは「沈黙」していない。
沈黙って何だ?
セガールは全く寡黙ではないし、軽薄な声で日本語を操るとってもラブリーな男だ。途中かなり太ってやばかったが、最近は少しダイエットしたようだ。でも、「刑事ニコ」とか見ると別人のようだ。
その沈黙の意味が分からぬまま、時折「沈黙」していない作品をいくつも間に挟みつつ、今度の作品は「沈黙」シリーズ第19作目だという。
断言してもいいが、作品のテイストや傾向で「沈黙」と銘打っていないことは確かで、考えられるのはただ、そう付けた方が売れるから・・・・間違いなくそうに違いない。
確かに、作品のクオリティがあまり高くない作品は多い。個人的に好きなのは「沈黙の戦艦」「暴走特急」「沈黙の断崖」「グリマーマン」で、それ以降の作品はあまりいただけないものが多い。でも必ず見る。
それは、「浅見さんは刑事局長さんの弟さんでしたか~お人が悪い」シーンが読みたいが為に内田康夫を読み続けるのとにている。
とにかく強い。負けない。ヒーローってのはこういうのを言うのだ。何度も苦境に陥るヒーローなんてエセだ!
というくらい強い。
日本人は負けて這い上がるタイプが好きなようだが、ヒーローたるもの、負けてはならない。負けているように見えるのは、卑怯な不意打ち、女を守るため、そしてわざと、他にはない。自分と同等のライバルなどあってはならないのだ。
私は「バビル2世」が好きだが、あたかもヨミはバビル2世と同等のように見えるが、決してそんなことはない。ヨミは一度としてバビル2世には敵わないのだ。ここにヒーローのヒーローたる所以があると私は思う。
いや、世間の誰がなんと言おうと、私にとっては弱いヒーローなどヒーローではない。それでいいじゃないか。私が言ってるだけだ。ウィキペディアの「ヒーロー」の項に付け足そうなんて、これっぽっちも思っていないのだから。
あ、セガールもきっと、何回か負けているかもしれない。でも見なかったことにしよう。
そして予告編・・・