3ヶ月ぶり、そして今年最初の書き込みが「謝罪」というタイトルだからと言って、何か謝るわけではないのだけれど・・・
 今日のニュースで、菅家利和さんの謝罪要求に対して、当時の取り調べをした元検事が謝罪はしなかったというのがあった。いずれかのタイミングで彼が謝罪するのかどうか(無罪判決が出た後など)、不明だが、おそらく彼の立場から言えば、自分は確信を持って有罪だと信じていた(少なくとも当時は)ということで、自分は精一杯やったし、間違ったことはしていないという気持ちがあるのかも知れない。たとえ結果が間違っていたとしても。
 だがどうだろう、普通の事柄に置き換えてみれば、その時の思いや理屈はどうあれ、謝罪するのではないだろうか?小学生にだってそう教える。
 ところが大人になるとなかなかこの謝罪というのが難しいらしい。
 特に政治家はどうだろう。なかなか謝らない。また、謝り方が姑息だ。自らが間違っていたという謝り方をする人が非常に少ないように思う。誤っている方向が違うので、国民の怒りを買う。
 例えば上記の検事、無罪を出すための裁判をやっているということなのだから、最初から菅谷さんは無実で、えん罪だったという結果が出ることは解っている審議だ。であれば、自分はあのとき、こういう理由で間違いなく菅谷さんを犯人だと思った、証拠もそれを示していた。だが、結果は冤罪で、今となっては大変申し訳ないことをした、あなたの人生を取り戻すことはできないが、大変申し訳ないことをしたと謝れば、一応は終わる話だ。
 菅谷さんのような異例の件で、社会も国も、彼の人生を再び返すことはできない。過ぎてしまったことは最早取り戻しようがない。
 もちろん、だからこそ捜査や取り調べは慎重を期すべきではあるはずだが、それとは別に、最大限彼に対して誠意ある対応と謝罪が、事件捜査や裁判に関わったものができる唯一のことである。もちろん、それでも尚彼が今でも犯人に違いないと確信しているのなら、話は別だが。
 同様に、政治家もまた、謝罪すべきは謝罪すればいいのだ。政治家は、謝ってしまったらおしまいだと思っているのかも知れないが、そんなことはない。そこから始まることもあるのだ。
 自分がしでかしてしまったことへの反省や謝罪というのは、新しいことを始めるための一つの区切りであり、対象者への許しの請いだ。もちろんそれでも許せないことはある。謝れば何でも解決するわけではない。だが、せめて謝れ、という部分はないわけではないのだ。
 謝れないのは、実は人間の弱さだと思う。自分自身が同じ立場に立たされ、では謝れるかと言えば、その状況に陥ってみないと解らない。だから、謝らない人間を必ずしも責めようとは思わないが、それでも尚、相手が被った被害や、その人の立場などを考えれば、強く謝罪すべきではないのかという意見を、時には言うべきなのだろう。
 鳩山総理が、故人献金や、母親からの多額の譲渡などについて、言葉を濁しながら、謝っているのは、それを知らなくて申し訳なかったとか、お騒がせして申し訳なかったといったことなどだ。国民はまだ我慢して民主党の自民とは違う何かをしてくれるというかすかな糸に望みをつなげている。それが、下がったとはいえまだ50%近くある支持率のゆえんだ。
 一例を挙げれば、日本郵政の人事は全くもって天下りでした。申しわけございません。すぐに変えますと言って人事を刷新すると化すれば、そんなことを朝令暮改などと責める人はほとんどいないはずだ。
 
 小泉純一郎が何故人気があったかと言えば、果断さと言ったことを行うという部分が、他の政治家よりも秀でていたからだ。彼の政策だって、誰もが支持していたわけでhない。だが郵政選挙は勝った。
 鳩山政権が今後も4年間の地位を盤石にするためには、次の参議院選挙に勝たなくてはならない。そのためには、今の政権に残る、自民党の翳を払拭すること、つまり亀井静香を切り、小沢一郎を黙らせることだ。亀井はただの反小泉であって最も自民党らしい議員だし、小沢はまさに田中角栄の亡霊だ。田中角栄がロッキード事件で罪になったとしても、彼は偉大な政治家だった。だが今はそういう政治家の時代ではない。
 
 民主党はまず思惑の違いを謝罪し、できることから順次、そしてなにより天下り根絶などを頑張ればいい(個人的には天下りそのものは全く反対ではない。天下りはどんどんさせてもいいし、その方が、官僚機構は常に刷新されるはずだ。むしろ直すべきは、天下りしても、普通の職員と同じ待遇にするような仕組みを作ることだ。2,3年で数千万円の退職金や、そもそも最初から高い地位に就けたり、年俸で一千万以上などを規制すればいい)。
 まさに謝辞をしないで先へ進もうとすることが、ある意味自民でも民主でも同じ「朝三暮四」たるゆえんかも知れないのだが。
 

 携帯電話が日常的なアイテムとなり、人々のコミュニケーションの手段として定着して久しい。
 この際、携帯の機能がどうのこうのということではなく、電話としての携帯は、非常に便利でもあるし、また、それまで家や事務所を出てしまえば、こちらから連絡しない限り、呼び出されることがなかった仕事などで、お構いなしに連絡が来たりする。これは、利用者には功罪どちらかと言えば、たぶん功の方が圧倒的に多いのだと思う。
 さて、新幹線に限らず電車では、一応のマナーとして、「通話はご遠慮ください」ということになっている。優先席近くでは電源を切るというのもよくアナウンスがある。
 寡聞ながら、優先席付近だからと言って電源を切っている人を見かけたことがないし、電源が入っていたということで、ペースメーカーなどに支障が実際にあったという話も聞いたことがない。あくまで聞いたことがないであって、無いと断定できる根拠はもちろんない。
 さて、電車に限らず、喫茶やファーストフード、飲み屋、レストラン、コンサートホールと様々な公共の場で、携帯電話はどういうポジションにあるのだろうか?
 例えばコンサートといっても、クラシックとロックでは大きく違う。ロックのコンサートでは呼び出し音など聞こえない。通話してても、通話している側の方がおそらくよく聞こえないに違いない。ただし、バラードや演歌など、以外に目立つ場面ではたぶん御法度だ。クラシックともなれば、ちょっとやそっとの大音量の曲でも目立つ。
 先日もとあるコンサートで、携帯が鳴り始めた場面に出くわした。その人は、開演前にも携帯が鳴って会話していたので、その時点で切るか、せめてマナーモードにしておけば、どうということもなかったと思うが、近くだったので、以外に集中力を阻害された。しかも直ぐ切らない。何度も鳴る。そこそこひどかった。
 ぼくの斜め前の人は、演奏中にメールか何かを見ていた。
 後者は見えただけなので関係ないが、前者は、マナーとか言う以前の問題で、迷惑な話だ。めげずに素晴らしい演奏を続けた歌手に喝采を送りたい。
 たかだか2時間程度のコンサートの間だけ、電源を切るくらいのことは、たいしたことではないはずで、それでも尚大変な何かがあるのであれば、コンサートなどでうつつを抜かしている場合ではないと思うのだが。
 さて、コンサートは音楽を聴きに来ている場なので、携帯の呼び出し音や会話は、そもそもの目的にとって弊害となるわけだが、では、それ以外の、少なくとも音楽や芝居などを目的としていない場、例えば電車であったり、飲食店の場合はどうなのだろう?
 社会通念上、そういった公共の場では、遠慮するというのが一般的な考え方ではあると思うが、人にはそれぞれ事情というものもあるし、例えば、大声で会話している他の人たちと、携帯の通話はそれほど変わらん、というか、場合によっては携帯の会話の方がよっぽど静かな場面もあるような気がする。
 今日、近くにある店にランチを食べに行ったのだが、直ぐ隣の席に座った男性二人の内、一人に電話がかかってきた。彼は全く遠慮も、周囲に気を遣うこともなく、普通にビジネスの話を始め、5分くらい堂々と通話をしていた。気になったが、ではそれほど不快かというと、そうでもない。
 その店は良く、なぜか7~8人のおばちゃん達がランチを食べているところに出くわすのだが、彼女たちの会話の方が圧倒的にうるさく、こちらは時折不快だ。そういう場合には、手持ちの音楽プレーヤーで音楽を聴くのだが、それを圧して会話が聞こえてくる。
 
 以前、中央線の車内で実家の母から電話があった。小声で出て、後でかけ直すつもりだったが、震える声で、家に泥棒が入ったという電話だった。周りも気にせず、次の駅で降りるまで、普通に会話をした。こんな場合もあるので、やむを得ない事もあるとは思う。
 だがそれでも、大きな声で仕事の話を延々しているおやじは以外にに多い。そして、あたかもこういうことをするのは若者のような気がするのだが、実はそうではない。若いのは基本がメールだから、通話は稀である。大体うるさいのはビジネスマンだ。
 彼らは、仕事だからいいと思っているのかもしれないが、おまえの仕事でこちらを煩わさないでくれ、と思うことが時々ある。外へ出て話せと思う。
 不思議なもので、さっき書いたこととは相反するようだが、声というのはおそらくトーンと、それから周囲の騒音との相対的な具合で、うるさく感じる場合と、そうでない場合があるのだ。
 高校生などが多いマックと、一人客が読書や勉強に没頭していることが比較的多いエクセルシオールや、その中間のドトールでは、自ずと影響が違う。
 さて、ぼくはよくマナーや伝統を嫌いだと言って、反抗的な文章を書く。なぜ人前でみんなネクタイしてるのだとか、これらは新から変革されるべきだと思っているのでそう書く。
 テーブルマナーほど下らないことはない。と思うが、最低限の何かがそこにあることは認めていないわけではない。だがおそらく、テーブルマナーとして学ばねば解らないようなことの80%は無意味だ。
 そういうぼくが、例えば携帯電話のマナーということを書くのであれば、もっと自由にとか書きそうだが、そんなことはない。実は、会話というのは比較的受け入れやすい。前出のうるさいおばちゃんや、ちょっと安めで、ちょっとしゃれた居酒屋とかでのうるさい客の場合は別だ。マナーとかとは別に、彼らは彼らで盛り上がっているので、こちらが我慢しましょうという気になる。
 だが、携帯の通話というのは以外に目立ち、煩わしいこともある。
 全然出るななどとは全く思わない。出ないできる必要など無い。出て、必要ならば外で話す、あるいは今は話ができないので後ほど、くらいの気遣いを、すべきシチュエーションは少なくない。これはマナーとか決まり事ではなく、時に応じて斟酌すべきことだと思うが、実は普段からそう思っていないと決してできない。
 まあ、この程度はマナーってことなのか。
 昨日、横浜駅周辺の喫煙の取り締まりについてニュースをやっていた。だいぶ減ったが、役所の見回りの人がいなくなると吸う人が後を絶たないと言っていた。たぶんそれでもむかしよりは圧倒的に減ったのだとは思う。
 喫煙者の内、非常にそう言うことに気をつけている人たちも大勢いて、そういう人たちは世の中がどんどん禁煙化していくことに対して、もっと喫煙者の自主規制にと思っている人も少なくはない。だが、結局のところ、横浜駅の状況がそうであるように、そのことを悪いと思っていない、逆に、自分たちが虐げられているくらいに感じている人も、少なくはないのだ。そうである限り、JTがいくらマナーのCMをやろうと、状況がそれほど良くなる訳ではない。
 喫煙ほど不愉快ではないが、携帯もいわばそう言うことで、最終的には、周囲との兼ね合いということが、人間生活においては常に問われることなのだと気づく。
 自分にできることは、少なくとも自分が迷惑だと感じることをしないということしかない。
 

ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判
9月13日14時48分配信 時事通信
 【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
 映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
 しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
 今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。

 というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
 ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
 宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)-レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
 まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
 先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
 一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
 宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
 非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
 ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
 それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
 テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
 生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
 ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
 人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
 アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
 さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
 ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
 さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
 ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
 ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
 いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。



ニーチェの作品


ムアコックの作品。現在絶版中のよう

 外国人も呆れる”エセチャリティ”『24時間テレビ』最大の過ちとは
 という記事をmixiのニュースで見た。
 このサイゾーというサイトは、いわゆる週刊誌的な記事が多く、直接読むことはなく、こうやってmixiニュースで知ることが多い。
 ただ、今回はちょっと気になったので読んだ。
 24時間テレビは1978年スタートということなので、今年で32回目になるのだろうか、長寿番組だ。これまで興味を持ってみたことはないが、さすがにこれだけやっていると、番組の趣旨や、どんなことをやっているかの、おおよそは知っている。
 いつ頃からやっているのか判らないが、100キロ以上をマラソンするというのは、そう言ったことが苦手なぼくには、全く意味が分からない。走りたくて走っているのか、仕事だから走っているのか、それはそれぞれだろうが、走り通すのは立派なことだ。他人事ながらすごいと思う。
 毎年何百億もの募金が集まり、何らかの形でそれが有用に使われているのなら、決して意味のないことではないので、このサイゾーの記事のように「エセ」とまで言ってはかわいそうだと思う。
 ただ、これまたサイゾーの記事にあるように、本質的にはチャリティー喚起番組なのであって、番組そのものはチャリティーではないということなのだろう。チャリティーは困っている人などを支援するのが目的だから、その方法論として、こういう形があっても、決して悪いわけではない。
 ただ、その上で、せっかくやるのなら、人の善意ということをとことん追求するくらいの心構えがないと、なにやら画竜点睛を欠いていることも否めない。
 
 出演者も、スポンサーも、全てチャリティーであることを前提に、かかるお金は全て慈善に使うという決めごとをし、舞台となる施設の使用料も無料、当日の電気代なども無料で提供してもらい、人件費以外にかかる経費を各企業の善意で0にする。
 スポンサーは、本来これだけCMを流したりしたらかかる費用+αを寄付する。
 日本テレビは、この二日間のテレビ収入を完全に0にし、入ってきたお金は全部寄付をする。
 出演者はむろん、ノーギャラ、番組のために曲を作ったりした場合、その売り上げは、全額寄付に回す。当然、CDショップなどでも、ノーマージン、1000円の商品が売れたら、1000円全額が寄付される。
 Tシャツなども、制作する企業にはお金を払わず、その制作費は全額チャリティーに回ることを伝えて、番組内で企業名を宣伝すればいいように思う(もうやってたりして・・・)。
 などなど、徹底した姿勢でチャリティーに取り組めば、エセと言われることもなく、協賛社(者)は決して少なくないだろうと思われる。全ての広告費、経費、人件費がこの二日分+αで、全額チャリティーに回るとすれば、半端ない額になるだろうし、その使い先も明確にすれば、相当いいイメージが日テレにつき、実は一番得をするのが日テレに違いないと思うのだが・・・・
 と、この記事を読んでいて思った。
 たとえサイゾーに対してでも、本当にああいう回答をしたのであれば、そしてこの記事が事実であれば、むしろ日テレのイメージダウンのような気がする。
 個人はともかくとして、企業に慈善事業というのは、無私であることが、そもそも疑われて当然であるから、それを誤解無く行うためには、それなりの努力と犠牲が必要になると思う。
 ぼくは知らないが、出演者の中には何人かは、ギャラを全額チャリティーに回した、なんて素晴らしい人はいないのだろうか?ただし、出演者だけにノーギャラを求めるなんていうのはどうかと思うが。
 チャリティーと銘打って、人の善意を利用するのは一つの手段だが、ただそれだけなら、おもしろおかしく26時間お笑いをやっているフジテレビの方が、まだ救いがあるように思えてしまう。実績があってもだ。
 

 アフガニスタンでNGOの伊藤さんという方が亡くなった。
 志高く、人に尽くされた方が亡くなるのは、知人でなくても、一入悲しいことだ。
 人類が生まれてこの方、おそらく、人が死ななかった日というのは無かったに違いない。常にどこかで誰かが死んでいる。生を受けたからには、死は逃れることのできない決まり事だ。人生が尊いのは、死があるからだともいえるし、人生は常に死への行進である。
 自殺をしなければならないほど苦しい生は、おそらくある。想像もできる。
 しかし、そうでないならば、人は生きたいと願う。人には寿命というものがあるから、寿命が近づけば、ある程度の覚悟も、諦めもつくだろう。
 だが、若い死はそうではない。
 若い頃のぼくを支配した言葉がある。
 One lives but once in the world.-人はこの世に一度しか生きない
 英語を勉強するために父が買ってくれた、世界の偉人の言葉を英語に訳した本の中にゲーテの言葉として掲載されていた。
 もちろん、だからこそ悔いの無いように生きるべきだ、ということが書いてあったような気もする。
 だがむしろぼくには、この唯一の生という不思議な環境の、何にも増して貴重である様だけがずっと頭にこびりついて離れなかった。
 歴史の中で、人を殺すことで多くのことが得られてきた。領土、金、幸福・・・それは、個人の殺人から、戦争に至るまで、大量の死が、何かを生んできたのは実は事実だ。だがそれは、殺害された命という代償としては引き替えようのない、まったくバランスのとれないギブアンドテイクだ。
 多くの戦争を重ね、それでも近代、二つの世界大戦を起こした先進国だが、未だにあちこちで戦争を起こしている。
 背景に宗教がある戦争も、飢餓や貧富の差、政治的対立、あらゆる理由の戦争が、すでに何度も行われ、その都度戦争が悲惨であることは語られてきたはずだ。
 人類が成熟すれば、戦争が無くなると思っていた人たちも多いに違いない。だが無くならない。
 ましてや、発展途上の多くの国は、文明社会がそれまで歩んできた道を改めて歩んでいるように、戦争が尽きず、テロという形で、地中深く潜行する。
 アフガニスタンやイラクのように、ついこの間、大国が爆弾の雨を降らすことで、形だけの政府を作り上げた国は、我々に比べると、殺人のハードルがきわめて低い。何故なら、生まれてこの方、身近に大量の死体を見続け、しかも戦後の日本のような復興を実現できていないからだ。
 しかもここ日本においてでさえ、ニュースで殺人事件の報道を見ない日はきわめて少ない。
 
 人が人を殺すという、日本で生きていれば、多くの人が、ほとんど関係なく思ってしまうことが、その日本でさえ、毎日のように起こっている。ましてや内乱や、空爆さえ続く国家で、起こらないはずもない。
 そんなところへ行って、地元の復興のために尽くすなどということが、できるだけでもすごい。
 だからこそひときわ悲しい。
 この世から、争いをなくすなどということはおそらく、無理だろう。
 だが、戦争を無くしたり、テロや内乱をなくすことは決して不可能ではないに違いない。
 でも、チベットなどのように、国家が国民を、国家のために殺害しているうちは無理だ。
 領土問題で戦車が町を破壊しているようでは無理だ。でもこれらが文明社会の姿だ。
 我々は20世紀から21世紀にかけて生きている。
 日本にも戦国時代はあったし、どの国だって、個人的な殺人から、国家による国民殺害まで、無かった国などおそらく無い。
 でも、もしかしたらその時代よりは、少しはましになっているのかもしれない。そう思いたい。
 意志の力の結集が、この世から、こういった無益な殺人を少しでも減らせるなら、力を尽くしたい。
 日本人だけでなく、どの国の人が亡くなっても、悲しみは同じだ。
 
 だが今日は、まず伊藤さんの冥福を祈ろう。
 
 

 スペインで闘牛がいずれ無くなるのでは、というようなニュースを見た。
 バルセロナでは、3つあった闘牛場が一つに減り、1万人以上収容できる観客席も年平均3千人くらいしか入らないということらしい。尤も、スペインはバルセロナだけではないので、マドリッドなどではどうなのかとか、スペイン全体がどういう状況にあるのかまでは放送されていなかったと思う。
 闘牛廃絶を訴える政党もあるらしいし、世論調査でも、闘牛は野蛮だとか興味がないとか、その方向にあることは事実のようだ。
 闘牛については、おそらく世間一般の人以上の知識はない。闘牛と言えば、スペインや中米の赤い布を振る闘牛士が、牛を斃す行事くらいの認識しかない。
 闘牛について、最初に自分の意識が向いたのは、先頃亡くなったクラークの「幼年期の終わり」でだった。
 圧倒的な科学力を持つオーバーロードが、人類に「生きるため以外の他生物の殺害」を禁じ、それに従わない闘牛場の観客全員が強烈な痛みを味わい、それで闘牛が終焉を迎えるという行だ。
 映画「スパルタカス」「グラディエーター」や多くのローマを扱った映画では、貴族の前で死闘を演じる剣闘士(グラディエーター)の姿が描かれているが、人類史の中で、自分の意志とは関係なく、命をかけて他人の娯楽のために戦わされた人間は、きっとたくさんいるに違いない。
 人間がだめなら動物で、とい短絡的な発想だとは思いたくはないが、どちらかというと、それに賭け事の加わった形で、闘牛やその他の「闘動物」といった競技が始まったであろう事は想像に難くない。
 歴史や伝統というのは、物事に箔を付けるが、所詮は長期間続いたというだけのことに過ぎない。
 伝統だって、時代時代で意味も変わるし、存在意義が変化するのは当たり前だ。「伝統とは自堕落のことだ」というマーラーの言葉は大好きだが、闇雲に使うとまったく持って無責任な言葉になる。
 闘牛を自堕落とは言わないが、娯楽のラメの殺生というのは、おそらく時代に合わないに違いない。
 闘牛協会の人がインタビューで、「闘牛は日本の捕鯨と一緒で理解されない文化」みたいなことを言っていたが、逆に言えば、日本の捕鯨はそういう理解を、海外にされているのだ。捕鯨が単なる文化的行事なら、廃止は大賛成だが、捕鯨は食文化に根ざした日本人の生活を支える部分だし、それで生計を立ててきた人も多い。
 鯨を食わなくても他の肉があるというのは当然詭弁だし、鯨と牛や豚を区別しているものが何なのか、分かりづらい。それが知能だなどというのであれば、なおさら分かりづらい。
 前述の闘牛と捕鯨の比較は、所詮は最終的に食うという意味かもしれないが、だからといって、文化や歴史という名目で、殺害を楽しんでいい訳はない。闘牛士の精神がいかに高邁であろうと、やっていることは確かに野蛮だ。
 闘牛に意義があるとすれば、それはそういう歴史的な意味において、そういう時代もあったというように将来言われ、書物やネットに記載されるということくらいだろう。
 捕鯨だって、鯨を追うことそのものを観客に見せて金を取るのなら、同じ事になるかもしれないが、そこは違っている。
 実は日本にも闘牛はあるが、これは牛闘士を闘わせるものだ。
 闘犬や闘鶏など様々な競技があるが、現在では禁止されているところもあるようだ。詳細を調べたわけではないので分からないが、これらもあまりいいとは思えない。
 先日、水戸市の湖で黒鳥と白鳥が、中学生に撲殺される事件があったが、古かったり文化だったりというお題目をのぞけば、闘牛の底流を流れるのはこれと同じ事だ。
 さて、生き物を殺すのはよろしくないことだが、例外的に食べるためにそれをすることを否定はできない。
 精進料理というのがあるが、植物だって生き物には違いないので、肉を食わなければいいなどと言うのは、宗教的な意味をのぞけば、これも詭弁に近い。仏教やヒンズー教やイスラム教、それぞれの教義の中で、これはよくてこれはよくないというのは、ルールだからやむを得ない。「食べない」事は宗教だし文化だ。意味があると思う。
 それでも、それ以外のものは食べるわけで、食物連鎖は、人間が無機物から食料を合成してそれだけで生きていける時代が来るまでは、必要なことなのだ。
 だが、それではゴキブリや蚊はどうかというと、マラリアなどを媒介する場合は別にして、どちらかというと、「害虫」という意味で殺害する。
 要するに、人類の進化過程が一種のヒエラルキーとなっていて、人間を頂点とし、微生物を最下層として、下に行くほど、殺害が自由になると言うのが現代における生命の重要度の物差しなのだ。
 その基準をほ乳類に置くのか、昆虫に置くのか、大まかな常識がそこにはあると思われる。
 ただ、それでも尚、「猿は猿を殺さない」を標榜する「猿の惑星」ではないが、たとえ食べるためでも唯一殺してはいけないのが人間のはずなのだが、人間は人間を簡単に殺す。
 爆弾や戦車が戦場で人を殺すのは、あるいは闘牛と同じくらい軽い気持ちではないのか?少なくとも実際に戦場にはいない命令をする人間には、そんな意識しかないように、どうしても思えてしまう。
 闘牛をなくすことは、あるいは簡単なことかもしれない。同じくらい生命を尊重する考え方で、少なくともより重いと思える人間の命を救うために、戦争をなくすことが、どうしてそんなに難しいのだろうか?

 星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
 6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
 こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
 ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
 国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
 民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
 というより、そもそも民族って何だ?
 広辞苑にはこうある
  

(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。

 
 なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
 自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
 実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
 日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
 恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
 オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
 尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
 それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
 貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
 血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
 そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
 文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。

 中日が53年ぶりの優勝を飾った。まずは中日におめでとう。
 だがしかし、中日ファンでもないぼくが、なぜ途中からこの試合を見ていたかと言えば、山井のパーフェクトが見たかったからだ。日ハムのファンでもないが、9回は思い切り日ハムを応援してしまった。
 僕はヤクルトが好きなので、ヤクルトの立場に置き換えて考えてみた。
 かつてヤクルトはとても弱かったが、広岡監督の下で初優勝、その後しばらく優勝から遠ざかり、野村監督時代と、若松監督時代に優勝を経験している。仮に広岡以来優勝がなかったとして、今日のようにピッチャーが8回までパーフェクト試合をやっていたら、やはりその投手に9回を投げて欲しいと思う。
 落合監督はオレ流とやらで、地道に勝ち進んで、2年連続の日本シリーズだし、もしあの場面で山井を変えずに逆転負け、しかも日本シリーズ優勝を結果的に落としていたら、中には、その最大の原因をこの投手交代に求める人もいたかも知れない。
 それでも猶、パーフェクト試合、ましてや日本シリーズでのとなれば、ちょっとやそっとの記録ではない。やろうと思ってできるわけではない。それを目前にした投手を交代させるというのは!
 ぼくは自信、スポーツに縁がないが、プロスポーツというのは、競技であると同時に、エンターテインメントであるとも思う。そういう意味で、非常に、少なくとも僕にとっては、程度の低い試合に終わった。
 尤も中日ファンの多くは喜んでいると思うが。
 優勝と1選手の記録、しかし日本シリーズのパーフェクトと秤に掛けると、個人的には後者が重いと思うのだ。
 野球はチームプレーだとよく言うが、それも個人技がうまく咬み合わさったチームプレーだ。
 
 昨今の野球の人気の低迷は、こういうところで、少しばかり拍車がかかるのかも知れない。
 是非論は置いておいて、他人事ながら、何か悔しい。

 先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。

「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」

 また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
 法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
 上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
 
 山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
 人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
 本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
 基本はそうであるはずだ。
 しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
 ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
 宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
 根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
 死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
 まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
 そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
 冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
 であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
 とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
  死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
 先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
 人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
 あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
 だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
 タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
 少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
 殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
 だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
 しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
 人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
 たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
 必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
 殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
 この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
 放っておいてもいつかは死ぬ。
 だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
 死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
 

 今頃に年賀状を書いている。まあ、例年こんなものだが、毎年年賀状を出すのをやめようと思いつつ、なかなか踏み切れない。
 一つには、「挨拶」としての賀状に、少しばかりは意義を認めているからであり、もう一つは、メールにしようと思っても、全ての人がメールを扱えるわけではないからである。
 ちょっと賀状の成り立ちを調べてみた。
 そもそも年賀というのは還暦や古希などの事で、高齢を祝うと言うことだったらしい。それと、昔の(平安とか書いてあった)、正月の15日までに、いろいろな人に挨拶をするという風習が、郵便事情で、年賀状に変わったと言うことらしい。つまり、いちいち挨拶に伺わずとも、手紙ですませてしまえ、ということと、遠方の人にも挨拶ができるという二つの点で、郵便は有用だったわけだ。
 そう考えると、いずれはメールや電子的なものに主流が変わっていく、今は過渡期なのだろう。
 人間というのは不思議なもので、節目とか、儀礼とか、作法とか、どこの国でもそういうことがある。
 私は根本的に、それらの大きな理由には、支配者が箔をつけたかったという大きな意味があると思っている。人より優れていることを他者から認められるために、儀礼や作法、等の伝統的な決まり事は、形式として成り立ってきた。
 ある意味年賀状もその例に漏れない部分がある。
 私は自分で、礼儀知らずだとも、それほど非常識だとも思っていないのだが、自分がそうでないことと、そういうことに対してどういう考え方をしているかというのは別の話だ。
 なぜ人は、生まれたのが早いというだけで、年長者に対して礼を持って接する必要があるのか、このことは、昔から謎であり、今でも謎だ。
 年齢が判って相手が年下だと気づいたとたんに「ため口」になる人は少なくない。意味が分からない。
 年上かどうかはこの際問題ではないと思うのだが・・・・
 まあ、そんなこんなで、そういった単純な「意味」を年賀状に求めると、年末の忙しい時期に、何十枚者年賀状を作るのはそれだけで大変なものだ。比較的私は少ない方だ。メールですませる人も多い。
 メールとはがきで、はがきの方が心がこもっていると思ったら大間違いだ。どちらも儀礼だし、どちらも相手次第で心はこもるのだ。メールだからいい加減なわけではない。
 まあ、何年かかるか判らないが、郵政公社に恨みはないけど、絶対いつかやめてやる。・・・生きているうちに。