2008年6月13日
たばこが千円になるというお話
たばこを千円にするという「たばこと健康を考える議員連盟」なるものが結成されるらしい。
ぼくはたばこを吸わないので、現在いくらかすらよく知らないのだが、どうやら300円前後らしい。とすると、3倍以上に値上げを考えているということだ。
ニュースを見ると、「来年度の基礎年金の国庫負担率引き上げで生じる約2.3兆円の財源不足へのたばこ税充当がねらい(産経新聞)」ということなので、単なる増税が目的らしい。
先日、タクシーの多くが禁煙になった。公共の場所をすべて禁煙にしている自治体もあるようだ。
たばこ吸いの方々には、ほとんどいじめに近いような仕打ちに思えるかもしれない。
でも、喫茶店などで、喫煙大好きな方が近くに坐ったりすると、実はこちらがいじめに遭っているようなものだ。法律に違反しているわけでも、店が禁止しているわけでもないので文句も言えない。だが、たばこの煙は嫌いだし、副流煙によって健康被害も得ているはずであるので、こういうときはいつでも、ただただ不快になる。
喫煙者の人には世知辛い世の風潮だが、たばこのパッケージに書いてある、「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります」などの(他にもいくつかある)注意書きが事実であるなら、やむを得まい。
たばこを千円に値上げすると、おそらく禁煙に走る人も多くいるに違いないが、それでも止めない人が大勢いて、700円の税収増が、年間で数兆円をまかなえるという試算があるということは、計算すれば、どの程度禁煙する人が増えると予想しているのかが分かるはずだ。
ただ、国の計算は、多くの場合、楽天的で、夢想的なので、あるいは思った以上に禁煙する人が多いのかもしれない。
評論家の森永拓郎は、インタビューで、大量に買いだめし、冷凍保存をして値上がりしたたばこは買わないと豪語していたが、きっとこの人などは、昨今の禁煙ブームが腹立たしくてならないに違いない。・・・・あなたのたばこも地球温暖化に悪影響を与えている等というのは、やはり言いがかりに違いないが、ついそういう突っ込みすら入れたくなる。
いずれにしても、こんな人はいないので、どうしても吸いたい人は、自動販売機に札を入れてもおつりのでない状況に、ずっと腹立たしい思いをし続けながらたばこを吸い続けるに違いない。たばこの害に、ストレスという害を付け足されることになる。
その結果、思った以上に税収が上がらず、ましてや減収になった場合、国家はどうするのだろう?また税金を下げるのだろうか?
そもそも、たばこは身体に悪いから、国民のことを考えて、という発想なら、たばこを全面禁止でもいいようなものだが、麻薬や覚醒剤のような幻覚作用がほとんど無いから、依存性だけではなかなか近視もできない。ということで、高額にして、どうしても吸いたい人は多額の税金を払って吸ってください。
というのなら、税収が増えようが減ろうが関係ないので、いいはずだが、税収増額ありきで始めると、なんだか後々にうさんくささが残る。
仮に、もう吸わないと言って、国民全員が禁煙してしまったら、税収はゼロになるし、JTは潰れかねない。
ただそれでも、国民の健康のため、というのなら、政治家も賞賛に値するのだが・・・・
未成年に自販機でたばこを買わせないために多額の費用をかけて始まったTASPOだが、なかなか持つ人が増えないらしい。都内ではまだ始まっていないので、実感もないが、この、未成年に吸わせない目的というのも、昔から疑問を持っている。
未成年の喫煙に関しては「未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。周りの人から勧められても決して吸ってはいけません」という記載がたばこにあったりするらしいが、未成年だけに悪いわけはないと思うのだが、未成年だけに禁止している。
20歳の誕生日を過ぎたら、急にたばこの健康被害が減少するはずがない。
高校時代、多くの友人がたばこを吸っていた。大学では酒もたばこも当たり前だった。30年くらい前の話だ。
現在では、そのあたりは非常に厳しい。ゆるめろとは言わないが、かつて高校時代にたばこを吸っていた大人が、今そういった決まりを作っているような気がしてならない。
もちろん、大人になって分かることがある。
例えば勉強をすることなどは、子供の頃より、大人になってからの方が楽しかったりするし、あの頃もっとやっておけばよかった、等というのは、多くの人が体験することだろう。たばこだって、かつて自分は高校生の時に吸っていたが、やはりよくないから、禁止にしようというのであれば、筋も通っている。
でもなんだか、闇雲に法をかざして禁じているようにしか見えないのだな、これが。
国がたばこに関して決めごとをするとき、WHOの勧告などに沿うように、本当に国民の健康被害を考慮しているように見えないところがどうも素直に訊けない部分だ。
とはいえ、千円にして、少しでもたばこを吸う人が減ってくれるのであれば、ぼくのような人間は、その本来の目的がどこにあろうと、結果オーライなので、賛同するしかない。
もし自分が若い頃にたばこを吸うようになっていたら、性格上、なかなか止められなかったと思うし、止めた方がいいと思っても、国に対して文句をたらたら言っていたかもしれないな、とは思う。
ぼくがたばこを吸わなかったのは、周りが見なすって板からだし、おやじもヘビースモーカーだったからだ。
それらの人に感謝しなければいかんな、と思う。
たばこの好きな方々にはかわいそうだが、このまま、公共の場所、公園や飲食店なども含んだ、施設なども広く禁煙になってくれることを祈りたい。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月 7日
参議院議員の新宿舎
このところ、参議院議員の新たな議員宿舎がニュースなどで問題になっている。
しばらく前に、赤阪の衆議院宿舎が問題になったばかりなのに、またぞろこんな問題という感じだ。
ニュースなどで言われているように、赤阪の議員宿舎が開いているんだったら、そこに入れば、基本的には済む問題だ。慌てて、別の衆議院宿舎から議員を移そうなどと言う姑息なことをしようとするから、政治家は信じるに足りないと思われるのだ。
今度ばかりは石原都知事や猪瀬副知事に方向性は賛成だ。
だが、そもそも、赤阪宿舎の折りに言われていた、安価すぎる家賃などが解決されなければ、議員宿舎そのものに反対だ。議員も官僚も、国家が建てた宿舎を利用するなら、相場の料金を払えということだ。
そうなれば、敢えて宿舎を建てずとも、民間の物件を借りてもいいことになる。
高くて借りられないのなら、東京に借りる必要はない。近県に借りて、電車で通勤すればよい。
地球温暖化がこれだけ声高に叫ばれ、二酸化炭素などの排出ガスを減らすことが世界中の目標になっているとき、たとえわずかでも、その二酸化炭素を酸素に帰る森を切り開いて自分たちの宿舎を作ろうという議員に「良識の府」などと誇りを持って語る資格はない。バカばかりだ。
バカばかりというのは、少なくとも、大声を出してこのことに反対しているのがあくまで都側で、内側からの意見としては非常に声が小さいからだ。確かに何人かは衆議院宿舎に入ればいいなどと言っている人たちもいるようだが、もっとしっかり反対して欲しい。
こういうことは、しっかりと反対意見を言うだけの価値がある。
国の借金がいくらあるというのだ。借金があるのなら、そこで働く人間が、まず質素に生きろよと言いたい。
何かの番組で、世耕弘成がこの件について、今更やめれば違約金が6億もかかり、それでは無駄な税金を使うことになるなどと言っていた。違約金は決めた人間の給料から払えよ。
何だかこの件は異様に腹立たしい。どんなに選挙があっても、所詮こいつらの多くは再び政治の世界に立つ。
限りなく政治家は儲からない、ボランティアのような職業にして、それでも国のためにがんばりたい人間にやって欲しい。・・・まあ、僕には無理だが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:05 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月 4日
帰属意識ということ
星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
というより、そもそも民族って何だ?
広辞苑にはこうある
(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。
なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 歴史 | 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年9月 4日
死刑のお話
先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年8月26日
飲酒運転は一発免停っていうのは?
福岡市の職員が、悲惨な事故から1年、また飲酒運転で事故を起こした。
今回はバイクで、しかも被害は本人だったので、論調はもっぱら、過去の教訓や、自治体関連の飲酒運転などのようだが、そもそも飲酒運転は、昨年の児童3人死亡以外でも、多くの悲惨な事故を起こしたり、死亡に至らなくても多くの事故を起こしているのは間違いのないことだ。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むなという、比較的誰でも知っている標語は、とても正しい。飲酒だけが交通事故の原因ではなくても、飲酒運転が事故に繋が確率は高いし、大事故になる確率も高い。
以前から思っているのだが、飲酒運転は即免停、二度と免許を取らせないという法律は作れないものだろうか?
飲まなければいいわけだから、そういう法律があっても、困らないと思うのだが。
罰もちっとも重くないと思うし、ただ飲酒運転をしなければいい、それだけのことだ。
別に刑務所にはいるわけでもない。これだけ世の中で騒がれても、車に乗る前に酒が飲みたいのであれば、車の運転をさせない変わりに、どうぞ思い切り飲んでくださいということだ。
国会議員の方で、万が一このブログを読んだ方、ぜひ検討して欲しいものだ。
人間間違いは誰でも犯すが、犯してからでは遅い間違いもある。飲酒運転で死亡事故っていうのは取り返しが付かない殺人だ。被害にあった人たちだけではなく、多くの人たちが、飲酒による死亡事故は一級殺人だという認識を持たない限り、こんなことはなくなりはしない。
ぼくはどちらかというと性善説だが、いい人が罪を犯さないわけではない。罪を犯せない環境を作ることが大切だ。
飲酒運転による死亡事故の厳罰化は、必要なことだが、それ以前に、飲酒運転をさせないもっと効果的な施策が必要だ。
飲酒運転を1回でもした人間には二度と車の運転をさせない。とっても簡単な解決策の一つだと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月31日
反省するべきは反省し・・・
参院選が終わった。
本当にそんなに自民が負けるのか?と思っていたが、それ以上だった。
あれだけ負けても安倍さんは辞めないらしい。確かに衆議院選挙ではないし、法的には辞める必要もないのかも知れないが、物事は理屈で考えれば、政権への「No」が大分入っていることは解るはずだ。
元々安倍さんは好きでも嫌いでもないが、この数ヶ月、総理としての発言を聞いていると、嫌になってきた。ほとんど発言が曖昧で、「美しい国」などという、非常に感覚的な意味の解らない表現を使うし、そのくせ、強権発動的な側面もある。端的に見て、自分が考えることだけが正しいと考えているように写った。
小泉純一郎が必ずしも良かったとは思わないが、国民の支持を多く集めるすべを知っていた。これは例えば、石原都知事を私は嫌いだが、彼が都知事2期の間にやってきたことは、マイナスよりもプラスの方が多かったと評価はしている。それと似ている。
個人的に自認せよとは思っているわけではない。少なくとも自認する前に、これまでどういう風に考えて政権運営をし、どうこれからしていくのかを、せめてこちらが解る言葉で教えて欲しい。
今回の敗因が、紛失した年金問題と、失言、政治と金だけに、少なくとも自民党の多くの政治家があると思っているようだが、年金問題などは、安倍政権のせいではないし、失言も基本的には個々人の考え方や資質の問題だ。政治と金の話だって、もちろん自民党が最も問題をはらんでいるとは思うが、民主党がそうではないかと言えば、そうではない。民主党の党執行部はみんな元自民党だ。
テレビでは「空気が読めない」という表現を、何人かが使っていたが、例えば赤城農水大臣だって、空気が読めないわけではあるまい。どちらかといえば、都合が悪いから説明責任を果たさないだけだ。一つには、本当に知らないのだろう。自民党議員で閣僚のくせして、自分の言動が、今度の選挙にどんな影響を与えるのかさえ、解らないのは、でもやはり、空気が読めないのかも知れないが。
どちらかというと、自分のことに精一杯で、人のことなど顧みられないのではないかと思える。政治家をやっていて欲しくない。
今回、東京都は改選が5議席になって、結果は、民主2、公明1、無所属1、自民1という結果だったが、保坂さんぞう氏が負けたのは当然の結果だと思っている。それでもあそこまで票を集めるのだから、組織力はすごいと思える。
自民党に逆風が吹いている間、保坂氏はなりふり構わず組織票にしがみつき、丸川氏にそれを回さないという意向をテレビのインタビューで答えていた。自分の票をまとめることに躍起になり、他が見えていなかった。しかし、組織票という固まりは、個人の集まりである。
選挙で同じ党から出馬している若手候補のことなど考えていられないと言っている男が、政界で一体誰のために何をしてくれると期待できるのだろう?私が自民支持で、保坂氏に投票しようとしていたとしても、この時点で鞍替えしたろう。前記の赤城農水大臣と同じ利己主義者だ。
尤も、3年間選挙日程無かった丸川珠代に世間は甘すぎる。他のことならいざ知らず、立候補者が過去3年投票に行っていない。しかもテレビキャスターだ。その3年間にテレビで一度も選挙に行こうという呼びかけをテレビを通じてしなかったのだろうか?
片山さつきが「誰にでも間違いはある、再チャレンジさせてください」と街頭で応援をしていたが、再チャレンジは次回の参院選でするべきだ。
もちろん政治家は、国会を含め、当選後に何ができるかが最も重要だが、少なくとも立候補者たるべき者、これまで選挙にしばらく行っていませんでしたというのは、「投票に来てくれ」という資格がない。しかもテレ朝のアナウンサーではなおさら始末が悪い。・・・それでも当選するのだ。たいしたものだ。
そもそも、政治家でなければこんな批判には当たらないことも多い。しかし、いやしくも政治家を志すのであれば、それが求められる。
街頭のインタビューで安倍さんは下から足を引っ張られてかわいそうということを言っている人があった。しかし政治家であり、一国の総理たる者、その程度の人間を閣僚に選出したことの無能をこそとがめられるべきで、決してかわいそうなことはない。
安倍以外に人材がいないという話もたまに出る。
自民内であれば、誰にでもやらせてみればいい。それほど違いはないはずだ。
あるいは、解散総選挙をし、一度民主に政権を取らせた方がいい。
政治家は、政権を取ると「信任」と勘違いする。
現状では、少なくとも国民の半分以上は、その政党を選択した、それだけに過ぎない。そのことを肝に銘じるべきだ。その上で、民主と自民でいいから、互いに切磋琢磨していい政治をやってくれればいいのだ。少なくとも、一党だけが継続的に政権を取るよりはいい。現代は。
自民党が敗北し、与党から「これからは議論を尽くす」とか、野党の意見も聞いてという言葉が聞かれる。安倍総理自身も言っていた。ということは、これまでは野党の意見など聞く必要はないと思っていたわけだ。
少なくとも国民の何割かは野党支持者だ。その意見を一顧だにしないという態度はそもそも間違っているので、与党が衆参両院で過半数を持っていても、自分勝手に何でも決めて言い訳ではないのは明らかだ。
そんなことも含めての今回の結果であることを内閣と総理大臣は解っているようには到底思えない。
安倍さん、まず「美しい国」って言うのを禁句にしてください。・・・ここまで来るとその言葉に腹が立ってくる。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月25日
参議院議員選挙
あと5日ほどで参議院の選挙だが、ニュースや広報、テレビなどを見ていてもまだ誰に入れるかは決まらない。
自民に逆風と言うが、そう言い続けるとその逆になることもある。
逆風の原因がどこにあるかというと、必ずしも今の自民党が悪いとは言い切れない社会保険庁のデータが無くなった件や、相次ぐ閣僚の失言、疑惑などで、何となく立場が変われば民主からも十分出てきそうな話題ばかりだ。
ただそれでも、衆議院や参議院の半数弱は野党なのだから、相次ぐ強行採決というようなやり方はあまりよくは見えない。真っ向から反対し、相容れない部分は、最終的に多数決もやむを得ないが、それでも歩み寄りは必要であるように思える。
というと、自民は歩み寄っていると言うし、野党はそうではないという。自民は議論を尽くしたといい、野党は足りないという。ここにはあまり大人の解決は望めそうにない。
ただ、いろいろな疑惑を持たれながら、ルールに則っているからいいという態度を崩さない大臣などを見ていると、あの人にはやらせたく無いとも思える。尤もそのほとんどが衆議院なので、今回はあまり関係がない。
比例区と、選挙区の選挙管理委員会がまとめた資料がポストに入っていた。
これだけで十分なような気がする。無所属や諸派の人たちのものは大変面白い。
神田敏晶さんのインターネットをもっと選挙に活用して無駄を省くというのは、昔から僕も思っていたし、さっさとやってほしいことの一つだ。でも、彼に1票入れて、それが実現するだろうか?
テレビで、保坂さんぞうは組織票、丸川珠代は認知度で浮動票のようなことを言っていたが、これだけで、自民には入れたくなくなる。そもそもこの組織票なる物、「癒着」をそのまま表明しているようにしか、僕には見えない。選挙の根本が何かゆがめられている。
といって、公演で、歌い上げているすずきかんや、その後に例の「目に入らぬか〜」と、民主党のロゴが入った印籠を高々と上げているじいさんがいるような民主党も、ため息をつくしかない。
社民党は9条を守れしか言わない。今のままの9条だって、自衛隊は海外へ行くわけだし、本当にそれを阻止指定のなら、より強固な憲法への改憲を叫ぶべきではないのだろうか?9条を守ることが平和への道を守っていることになるのだろうか?
公明党は、興味がない。
共産党は、実は結構いいことを言っているが、そもそも共産主義をいつまで標榜しているのだろうか?言っていることを全て実現できたとしたら、きっと日本は大きく変わるだろうが、必ずしもいいことばかりではない。
ドクター中松がなぜあれほど政治家にこだわるのかがよく分からない。きっと、黒川紀章と一緒でお金が余っているに違いない。
実は全ての候補者がそこそこいいことを言っている。問題はその実現性だし、方法論だ。さらには賛同できない部分ににある。
年金問題を今のままでいいなどといっている人物はいないし、政治と金の件だって、透明度だとか、お金をかからなくするだとか、選挙の時に、悪いことを言う人はいない。
それでもいざ議員になると、集団力とでも言うのか、自分たちに都合のいい法律を作って「ルールに則っている」という。そりゃ自分たちで作ったルールだから、よくできているはずだ。
先日「封神演義」を読んだのだが、中国の古代の賢君や理想は、どんなときでも、水戸黄門と一緒で、まず庶民だし、そのために努力するのだ。まさに理想なので、その通り実現できないのが世の常だが、多くの政治家を志す人たちが、理想を求めているのだと信じたい。
でも結果そうではないのだよな。
一体この矛盾はどこに原因があるのだろうか?有史以来、数千年経っても人類は理想的な国家運営や世界を構築できていないところを見ると、自ずと限界があるのかも知れない。
選挙もまた、妥協なのだよな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月 3日
久間大臣の辞任
下に引用した発言に絡み、久間元防衛大臣が辞任した。
世間の反応はそれこそ「しょうがない」なのだが、それより気になるのは、本人がやめる理由だ。久間氏は、表面上は自ら辞めたことになっていて、安倍総理に辞めさせられたわけではない。
ところが、辞めたときの彼の発言は、自らの失言(本音であれそうでなくとも、防衛大臣が言うべき発言ではないのは明らかだが)を悔いたわけでも、長崎市長などには申し訳ないといいながら、その実全く申し訳なく思ってなどおらず、「参議院選挙」に影響するから辞めるというものだった。
以前、久間氏の別の失言問題の時に、議員の誰かが、久間氏を評して、非常に頭のいい人だということを言っていたのを記憶している。勉強はできるのかも知れないが、とうてい頭のいい人物とは思えない。
ことの問題は、私的に彼がどういう思想を持っているのかということではない。
戦争は勝者と敗者が概ねいる。60年前の戦争は、日本が敗者だったし、連合国が勝者だった。
結果的にソ連が進行しなかった歴史的事実と、原爆の投下による終戦を結びつけることは、理論的には無理はない。また、アメリカが原爆を使用したことを「しょうがない」と考える考え方も、理屈としてはあり得る考え方だ。
しかし、被爆国に住む日本人が、そのことを「しょうがない」といってしまって、まして、国の中枢にいる人間がそういってしまうことは、原爆によって死んだ人たちを、自分たちの単なるスケープゴートにしてしまう行為だ。
彼らを殺すことで、残りの日本人が助かったのだから、宜なるかなとは、研究者の言葉であって、防衛大臣の言葉ではない。九州の方言だみたいな逃げ口上は、いかにも政治家臭くて、間が抜けてる。
いずれにせよ、彼は辞めたわけだが、それも参議院選挙で自民党が負けないためだ。こういう行為があると、是が非でも負けさせてやりたいと思うのは、必ずしも感情的な意味ばかりではない。彼らが、選挙を目的に行動しているということだ。
選挙目的は悪いばかりではもちろんない。いい政治を行えば、選挙で票を集めることができるからだ。しかし、付け焼き刃や、選挙で負けないためだけの行動というのは、例えば今度の久間氏の辞任であったり、会期を延長してまで、あたかも国民全てが望んでいる法律であるかのようにして法律を通すやり方であり、そうでないかもしれなくても、久間氏の後任に小池百合子を据えるやり方である。
自殺した松岡氏も久間氏も、きっと人間的にはいい人なのだろう。でも政治家としてはまた別だ。
何とか還元水と、事務所費の話は一体どこへ行ってしまったのだろう?
【久間氏の発言要旨】日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月26日
選挙
参議院選挙の日取りが7月22日から29日になった。夏休みに食い込んでいるので、投票率は下がるだろう。選挙にいけいけと、むしろ投票率を上げなくてはいけないはずの政府が、みすみす投票率が下がる可能性のある選択をしたというだけでも、今度の政権に対する支持率の低下は故のあることだ。
さて、現在の選挙は、小選挙区比例代表並立制が採られているが、いつでもこの制度を不思議の思う。
まず比例代表という仕組みだ。
選挙というのは、政治家を選ぶものだが、時には政治家を落としたいこともある。
しかし、この比例代表という選挙は大きな政党の上位にノミネートされて居さえすれば、選挙運動などしなくても通ってしまう。しかも、小選挙区と重複立候補などという、こちらは民意を無視した制度までおまけに付いている。小選挙区で落選し、救済のようにして当選した議員は少なからずいる。
そうして選ばれた多くの議員が、あたかも国民から選ばれたと言っているのは非常に片腹痛い。
少なくとも民意を反映して選ばれているのは選挙区で立候補した議員だけだ。
政党に投票することが、政党の上位に名前がある議員に投票しているわけでは、必ずしも無いことは明らかだ。
個人的には昔の全国区の方がいい。宮田輝が大量得票しようが、それでもかまわない。
同時に、こいつは議員を辞めてもらいたいという落選投票制度も作って欲しいものだ。
若い人が選挙に無関心だという。だが、民主主義というのは多数が少数を支配する制度なので、共産党支持者は日本ではとうてい大勢を占めることなど無いと思いつつ、きっと投票しているのだ。政党政治の中で、少数でも「意味がある」行動を取れるという見方もあるかも知れないが。
今国会の自民党の強行採決などを見ていると、悪しき民主主義の側面という気がして仕方がない。
ただ不思議なのは、同じ政党とはいえ、皆が同じ意見だとは思えないのに、採決をすると同じ政党の議員は同じ態度を採るということだ。
以前の郵政民営化の時くらいだろう、あからさまに党内対立が起こったのは。
ただその方が人間らしい。
百年大丈夫と言って決めた年金制度だって、こんなに色々ほころんでいるのに、大丈夫なはずはない。そうやって信用できない法律をどんどん作り、美味しい思いをしているのは一部だったりする。
実はこれは人類の歴史のほとんどがそうだったのかも知れないし、これからも変わることはないのかも知れない。などと思えてしまうのだ。
でもだからと言って、街頭で歌を歌ったり、印籠もどきを高らかに上げて平成の水戸黄門を自称しているようなじいさんが居る政党に一票入れるのかと思うと、泣けてくるのだ・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年5月30日
やじ
やじは漢字では通常野次と書く。弥次と書く場合もあるようだ。どちらも当て字らしいが。
やじには二つの意味があって、一つは野次馬のこと、そしてもう一つはやじることだ。
広辞苑で「やじる」を牽くと
(「やじ」を活用させた語) 第三者が当事者の言動を、大勢に聞こえるよう大声で非難し、からかう。また、一方を応援するのに他方の言動を嘲笑し、妨害する。「議長を―・る」「会場で―・る」
とある。
つまり、やじにはそもそも嘲笑とか妨害の意図があることになる。
今日の党首討論会を見ていて、改めて思ったのだが、国会中継の時のあの議員たちのやじはどうにかならないものだろうか。とても頭が悪く見える。
もちろん国会議員のやじには、それなりの根拠や意味があるのだろうが、テレビなので見ている限り、邪魔だし、こんな人たちを選挙で選んでいるのかと、暗澹たる思いになる。もちろん、やじだけでは「暗澹」は大げさかも知れないが、それ以外の、いつでも紛糾している政界の有り様と合わせ技一本の「暗澹」だ。
発言する人間は、時折やじに怒りを向ける。しかし、大臣などの立場でない限り、発言者でなくなった場合には、やじっている人も多いだろう。
予算委員会や、党首討論などで、このやじと、「質問に対する答えがない」という二つが、見ていて、とても無駄を感じる。
よく野党が、議論を尽くせと言い、与党が十分に尽くしたという。
しかし、例えばこれは代表質問に限らないのだが、質問に答えないという非常に不誠実な態度を、多くの政治家が採る。
そして、何度もこのやり取りをする。その結果代表質問の時間は非常に無駄な時間を費やして終わることさえある。
先日自殺した松岡元農相の、「適切に報告している」という、実は党から規制されていた(らしい)回答もその一つだ。何回も堂々巡りをしていた。
それに対して、発言者が「その答えは、発言者も、国民も、マスコミも、ここで明確にできない何らかのことがあったと解釈してよろしいと言うことですね」みたいなことを言ったかどうか・・・・
しない回答は、その質問に含まれる疑惑を肯定したのと同じというスタンスを、どんどん採ればいいと思うのだが。
政治家は特に、「断言」をしたがらない人種だし、それは当然のことだが、当然であればそれを許していいのかと言えばそういうことではない。
政治家も人間だし、色々あるに違いない。しかし、よりよい政治や政治家を求めるのは国民の権利だし、それができない人間は立候補などしなければいいだけの話だ。
そう言う意味では、あのやじが持つ騒音は、僕には不適正な人物に思える。
あのやじがなくても、政治はできるだろう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月21日
統一地方選
先々週の都知事選に続き、渋谷区では渋谷区長と区議会議員の選挙が明日に迫った。
今も、窓の外を、昭和を感じさせる議員の名前だけを連呼する囂しい選挙カーが行き過ぎていった。そしてお願いされるのだ、あなたの一票で議員にさせてくれと。・・・議員とはよっぽど楽しい職業らしい。
街宣車で名前を連呼することで行う選挙運動は、ぼくが子供の頃から変わらない。これを旧態依然というのだろう。うるさいだけで、意味を感じられない。国会議員と違って、ただでさえ興味薄な地方議員の選挙だ。こう芸がないと、いささか「若者の選挙離れ」など責められたものではない。
ホームページで渋谷区役所を見てみると、候補者の一覧だけが出ている。
知事選の時にも見た「ザ・選挙」というホームページは、7割くらい、写真が載っている。実際のところ、区議会議員の顔など判らないし、名前も知らない。渋谷へ越してきてまだ2年経っていないので、これまでの区議が何をしてきたのかもよく分からない。
そんな中で45人の内、マニフェストを掲載しているのはわずかに2名。ホームページが掲載されている議員もほんの数名だけだ。実際にはホームページを持っている人はいるようだが、このサイトからリンクされていない人が多い。
このサイトはJanJanというNPOの運営のようだが、数少ないまとまった情報サイトの活用すらしようとしない立候補者を見ていると、やはり個々にも旧態依然の言葉を持ち出したくなる。
郵便受けには各候補者・・・と言っても一部だが、・・・が無作為にビラをつっこんでいく。
それすらない候補もいるわけだ。
マニフェストそのものを作る行為は、確かに大変なことだが、言ってみればそれこそが立候補者のなんたるかを知る核となるわけだから、ないと困る。横文字使わなくても、選挙公約だ。
それが見えない議員に投票などしたくもない。
駅前での演説も、ごく一部しか耳にすることはない。
マニフェストを作ったら、せめてそれをホームページに上げることくらい、たいしてお金も手間もかからないと思うが、何故やろうとしないのだろう?
公職選挙法で、ホームページを使っての選挙運動ができない・・・つまり選挙中はホームページを更新できない・・・というのは、空しい制度だが、制度である以上仕方がない。しかし、選挙に入る前に用意して、掲載しておけばいいだけの話だ。その時間がなかったというのなら、立候補に値しない人物だ。
いずれにしたところで、そういった基準も、投票を決める一つの要素だということだ。
ところで、同日の渋谷区長選挙に、宅八郎が立候補している。
区長の立候補者は4名だが、さすがにこちらはマニフェストが判りやすくなっている。但し現職はよく分からない。
意外に宅八郎のマニフェストは充実している。もちろん、できるかどうかは別の話だが。
何となく現職が強い感じはする。都政と同様、渋谷区のこの4年はそれほど不満は少なかったに違いないからだ。
ちなみに、全く関係ないのだが、ぼくの家は世田谷区との区界が近いために、世田谷区議の立候補者の選挙カーも付近を通る。
・・・・あおぞらこうじ・・・って議員だったのか。改めて知った。・・・げろげーろ
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 17:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 6日
Youtubeの政見放送
昨日の続きのようだが、Youtubeに対して選挙管理委員会が掲載された政見放送の削除を求めたという。
これは外山恒一のものだが、過激というか荒唐無稽というか、まさにエキセントリックではあるので、投稿されたものだろう。
さて、削除依頼の理由がちょっと引っかかる。政見放送は、公職選挙法で回数が定められており、不公平だというのだ。
そもそも、限定された時間に放送される政見放送は、偶然か、よっぽど興味を持って見ようとしなければ、特に地方選挙などの場合、見逃す。回数も決して多いわけではない。
インターネットの普及率もこれだけ上がっている中、選挙委員会が選挙期間中、ストリームで流すくらいの事はして欲しい。
不公平といえばむしろ、特定の候補者しか放送しないマスコミの報道の方が不公平だ。但しこの不公平は、必ずしも公平な報道を、国民も求めているとは言えないので、やむを得ない側面はある。
選挙が大切だの何だのといいながら、投票率を上げるために行われているのは芸能人を使ったCMだったりする。
ネット上で、個々のホームページではなく、選挙管理委員会が、立候補者の経歴だけでなく、マニフェストや政見放送を、いつでも自由に見られる環境を整えることの方が、より公平性も保たれるし、見たいときに見られる。
選挙に行って欲しいのなら、行く側の立場に立った選挙改革が必要だ。いつまでも古い公職選挙法で時代にそぐわないやり方は変えていくべきだ。
ポスターをぺたぺた街角に貼ったり、フリーペーパーまがいのものをポスティングしたり、それもなくなりはしないだろうが、数を減らして、その分をインターネットに回すべきだ。
インターネットを使えない人もたくさんいるだろうが、使える人には非常に便利なわけで、少なくともその流れが逆行することはあまり考えられない以上、一日も早く、選挙運動に無駄なお金が、少しでもかからなくなるように、ネットワークを利用してもらいたいものだ。
・・・・といっても、お役所のコンピューター関係の予算を見ていると、とうてい世間相場でそれらのことができるとは思えないんだ名これが。ホームページだけで何千万もかかるなんて、考えられないからな。少なくとも現在の機能くらいじゃ・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 4日
都知事選
来週の日曜日が都知事選の投票日だ。
今回は14人も立候補している。立候補する前から100%落ちると解っていても、立候補するのは、果たして意義があるのだろうか?かえって無駄な税金がかかるのじゃないだろうか?何て思ったりする。
http://www.senkyo.janjan.jp/election/2007/13/00005580.html
が都知事選に関して比較的詳しいページだが、易学者に風水研究家、勝訴証拠評論家(どんな職業だ?)にディレッタント(要するに遊び人?)、Youtubeで見られる外山恒一の政見放送など、思わず笑ってしまう。話題性はあるし、ある意味民主主義の最大の問題点を浮き彫りにもしている。
今回の都知事選で、そもそもテレビが取り上げるのは、石原、浅野、黒川、吉田の4候補、おまけのようにドクター中松と桜金造、これは、どのテレビ局も同じだ。他の候補やその政策などに、テレビで触れているのを見た記憶がない。もちろん、インターネットでも何もない。街頭のポスターも見たことがない。
彼らが何のために立候補しているのか、私には全く解らないし、意味も感じない。
世論調査など出る前から、石原慎太郎と、浅野史郎が本命対抗なのは分かり切ったことだ。
しかも浅野史郎は当初から煮え切らず、出るのかでないのか解らない。オリンピック問題も、最初は仕切り直しみたいなことを言って、反対と入っていなかったのに、今では堂々と反対し、民主党の支援もついに受けることにしたようだ。絶対に戦略ミスだろう。
石原都政の悪いと思えるところはたぶんいっぱいある。個人的な発言や、考え方は、どうも自分自身とそぐわないと感じることも多い。でも、青島幸夫より、目に見える形で結果をある程度出してきたことも事実だ。
桜金造だったか、「私は福祉しかやりません」といっていたような気がするが、それじゃ通るわけがない。東国原さんとは、同じタレントでもだいぶ違う。
浅野史郎が強く言う情報開示はいいことだと思うが、それだけで都政が変わるとは思えない。
都民としては、なかなか難しい選択だ。昔から、ドクター中松に一度やらしてみたかったのだが、さすがに年を取りすぎた感じは否めない。石原、黒川よりもさらに上だし。
黒川紀章など、自分が金持ちであることを自慢しに来たとしか見えない。
選挙というのは、国民が政治に参加することだとよく言う。
しかし例えば現状で、ドクター中松に入れたとしたらどうだろう?その一票は絶対に無駄になる。これは間違いない事実だ。今の民主主義というのは、二つにせよ三つにせよ、それぞれの陣営が拮抗し、尚かつ対立軸がはっきりし、自らがどちらを支持するのか、という観点に立たないと、決してその国の政治に、少なくとも選挙という形で与することは難しい。
しかも政治家は、当選すると、自分の主義主張が、全て国民に支持されたかのような錯覚に陥る、あるいはそう装う。
今回の都知事選であれば、マスコミに取り上げられる4人のうちの誰か、もっと言えば、石原に入れるか浅野に入れるかの選択を迫られているわけだ。
これはまさに、国政で自民党に入れるか民主党に入れるかを迫られているに等しい。それぞれがそれぞれの候補を応援しているからという理由ではなく、自民に入れるも民主に入れるも、ため息が出る難しい選択だというような理由による。
でもまあ、「係わる」という姿勢、気持ちをなくすと、何も言えなくなるから、取り敢えずは投票に行こう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年2月28日
君が代伴奏拒否:教諭の敗訴が確定 という記事に関するお話
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070228k0000m040012000c.html
http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/070227/jkn070227018.htm
http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070227it12.htm
各新聞社の記事だ。
この最高裁の記事は妥当だと思う。逆に、君が代や日の丸に何を期待し、何を嫌悪するかという事が実は結構曖昧だ。
教師というのは、そういうことに非常に敏感な人が昔から多いように思う。
日の丸や君が代が国粋や軍国と直接的に結びつくわけでもない。
尤も、今回の判決の妥当性は、「ピアノ伴奏を命じたこと」が「特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」という点にある。平たく言えば、「言いがかりでしょ、それは」ということになる。
但し、些細な言いがかりが何かに変貌しないとは断言できない。
教育委員会という、頭の固そうな方たちが集まっているようなイメージの団体は、様々なニュースを見るに付け、やはりイメージ道理なのだなと思うこともしばしばある。
上記のニュースに関連するが、卒業式の国歌斉唱をしないとか、国旗に礼をしないとかで「減俸」などの処分をしている辺りがまさにそれだ。
国や地方の行政が教師に、「君が代を歌って日の丸に礼をしろ」というのも、教師が敢えてそれをしないのも、ある意味どちらも生徒にとっては「思想の押しつけ」であることは間違いない。
「君が代」の歌詞が何を歌っていようと、実は子供の多くはその意味が分かっていないし無関心だ。
私などは、「君が代」ばかりでなく「贈る言葉」なども、卒業式で歌え等と言われたら、非常に拒否反応がある。・・・・そもそも卒業式自体に拒否反応があった。
人間というのは、何かにかこつけて、よっぽど儀式をするのが好きな生き物なのだな、と思うわけだ。
「蛍の光」「仰げば尊し」など、卒業式で歌われる歌というのは、色々あるが、そもそも私は、集団の中で歌う歌というのが嫌いだ。結婚式の時に教会で、あたかも誰でも知っていて当たり前かのように賛美歌の歌詞を渡されたりすると、祝う気持ちとは裏腹に、憂鬱になる。
何でみんなで同じ事をしなくてはいけないのだろう?まだ結婚式は理解できる。
だが、卒業式や入学式等、百歩譲って、式は我慢しよう。そのまま静かにさせて置いてくれというのが私の気持ちだ。
う〜ん、何というか、卒業式の国家・国旗問題は、教師や行政が考えるほど、子供たちは思い入れがないのではないだろうか。戦前の日本や、北朝鮮などの国のように、国家を上げて思想統制をしようとしない限り、今の子供たちは聞く耳を持たない。
国家の枠組みなど捨て去って、まずは地球人として考えるという視点を持つには、きっと宇宙人が攻めてこないと難しいのだろうな。いつまで経っても、争いと進歩はセットのような気がして滅入ってしまう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月17日
教育基本法
教育基本法の改正が、与党の強行採決で衆議院を通過し、野党が審議を欠席したりと、いつもの国会が続いている。そもそも単独過半数を与党が持っている以上、政府案が通ることは、何をやってもその通りなので、ある意味仕方のないことだ。
だが、政党単位で何かを考えるにしても、連立与党という行ってみれば卑怯なやり方で単独過半数を取っている政府与党は、いつの場合でも、国民の真意をくみ取れるはずはない。政党政治なんてやめてしまい、個人単位で選挙も政治も行ってくれたら、今よりは明確な指示ができそうだが、所詮は人間、群れるに決まっているので、うまくいくはずもない。
さて、そんなこんなで教育基本法の改正はきっと通ってしまうのではないかと思うが、問題になっている一つに、政府案の第2条の「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という、いわゆる愛国心の涵養といったことがある。国民新党などは、そのものずばり「愛国心の涵養」という文言がないことを反対の理由の一つにしているが。
実際に条文を見ると、ちょっと読んでみただけでは、いいのか悪いのか解らない。確かに以前と変わっているのは解るが、それが新しくなった結果どうなるのかが、実はよく分からない。
上記の愛国心の問題もそうだが、そもそも愛国心という言葉に国民全体のある程度のコンセンサスがない時点で、意味がないように思う。「我が国と郷土を愛する」ことを教育現場で教えないと、自分の育った土地を愛せないのだとすれば、それはよほどその場所の治安が悪いとか、行政サービスが悪いとか、嫌な人間ばかり住んでいるとか・・・・・などと勘ぐりたくもなるが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000136-mailo-l31
この記事の記者がいみじくも言うように、国家に対する忠誠とか奉仕といったニュアンスがあるのなら、それはまた別の問題だ。
今、姜尚中の「愛国の作法」という本を読み始めた(食事をするときだけ、ちまちまと読むので、なかなか進まないが)。姜尚中は、テレ朝の「朝まで生テレビ」とかでよく出ている大学の先生だが、実は時々何を言っているのか解らないことがある人だ。
必ずしも考え方を全て支持するわけではないが、愛国心を論理的に組み立て直そうとする姿勢は非常に共感できるし、方法論としてもすばらしい。そもそも愛国心をこころの問題として、論理理屈を排除した観点で決めつけたり、論じたりというのははなはだおかしな事で、あなたの行っている愛国心と、私の言っている愛国心は意味が違うと行った、そういう土俵での会話になりかねない。
実は広辞苑には愛国心という見出しがない。愛国という項目に「自分の国を愛すること」とあって、用例に愛国心がある。
ところが、小学館の大辞泉には「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」という記載がある。問題とされるのはおそらくこの後段の部分だ。
いわば「おまえは国のために体を張れるか?」ということだ。「逃げる」やつは非国民ということになるのか?というお話だ。そして国を愛するということの意味がどこにあるのかを教育が教えるのだとすれば、それは・・・・私には子供はいないが・・・・親たるべきもの、その内容には神経質になる必要がある。
かつての日本国民は国のため、現人神たる天皇のために命をかけて戦った歴史がある。軍隊がある多くの国では徴兵制があり(韓国などでも)、若い時期の一時期を軍隊で過ごす。仮にそこにいるときに戦争が起きれば、命をかけて祖国のために戦う羽目になるわけである。
ここにはまず、「国家とは何か」とか、そこに属することの意味といったことのそもそも論がないままに、そこに生まれ育ったというだけの理由で、命を賭けて戦わねばならない現実を目の当たりにすることになる。
命の大切さを教える反面で、国のためにはそれを捨てるという教育がなされる可能性があるとすれば、単なる矛盾ではなく、自分事としての人生への国の関与ということに、どういう姿勢を取るかと言うことを考えなくてはならない。
よく日本は平和ボケなどといわれることがあるが、もし戦後の日本が平和国家としてぼけるほどの平和を謳歌しているのだとすれば、いい意味で、その平和ボケの根幹を世界に広めていくことの方が重要だ。
確かに北朝鮮や、いくつかの独裁的な国家は、自身がそこに住んだこともなく、メディアなどの情報を通じて知るしかないが、特定の個人やその周辺の意向で、エゴイスティックな国内、国外向けの政策がとられた場合、いかにしてそれに対抗するかというのは「平和ボケ」には頭の痛い現実ではある。
だが考えてみると、中・近世のヨーロッパだって、ついこの間までのソ連だって、ってみれば同じような環境の中から民主政治を勝ち取ってきたのであり、地域差で民主化は時間がかかるのだ。いずれはそれらの独裁国家だって、政治が変わるだろう。
愛国ということが、愛地球と同義語になることを願ってやまない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 8日
核武装論をするということ
しばらく前から、自民党の中川幹事長が「核武装に関する論議をすることは必要」という趣旨の発言をし、物議を醸し、さらに麻生外務大臣が、「ただ闇雲に核はいかんという風に言っているのではなく、きちんとした議論をした上で、なぜいけないのかを明確に・・・」みたいなことを言い、与野党から反発やらなにやら囂しいことになった。
今日の党首討論でも、阿部首相と民主党の小澤代表の間で、微妙にかみ合っていない議論があった。かみ合っていない最大の理由は、おそらく、小沢一郎もまた、内心では議論をすることを否定するだけの根拠を持たないからであろうと、わたしには思えた。
それはそうだろう。言論の自由を謳っている国で、議論することを否定しては、言論統制になる。
核がいけないという背景には、日本の場合、他の国と違って、世界で唯一の被爆国であるという点がある。そこには当然感情的なものも含まれる。「広島」「長崎」は、大阪や名古屋よりも世界では有名かも知れない。
個人的には、原水爆による死者も、コバルト爆弾による死者も、自動小銃による死者も、死者には変わりないので、ことさら原水爆の危険性を云々する最大の要因は、その破壊力の大きさと、実は、生き残った被爆者の人生という事だと言える。死んだ人にとっては、少なくとも戦争中であれば、死んだ後は一緒だ。
冷戦時代、「核の抑止力」ということがよく言われたが、では核がなかったら、米ソは戦争をしていたのかといえば、それはあくまで仮定の話なので、核など無くても戦争は起こっていなかったかも知れない。
だいたい、現実問題として、核を使わない戦争は、ベトナムや湾岸、イラクと、大きいものだけでもいくつも起こっているし、中東やアフリカ、朝鮮半島だって戦争は起きている。全て第二次世界大戦の後だ。
そもそもアインシュタインが生涯にわたって後悔したように、核爆弾というのは大量殺人兵器で、人類にとっては、文明の進化とともに手に入れたダモクレスの剣なのだ。太陽だって、核融合で輝いているわけで、核エネルギーというのをどう使うかという問題なのだ。
であれば、根本に横たわるのは「戦争と平和」というドストエフスキーではないが、二者択一の中で人類がどちらを選択するのかと言うことにつきるわけだ。
悪いことをするやつがいるから、それに対抗する武器が必要、ということと、相手より優位に立ちたいから武器が必要という葛藤の中で、人類は発展してきたわけだが、石が刃物に変わり、槍、弓、銃、大砲、爆弾、核爆弾とより多くを確実に殺すために作られた武器は、単なる悪人向けのものではなく、どちらかといえば、覇権を握るためのものだ。
今となっては、「武器よさらば」というわけには行かない。しかし、可能な限りそこを目指すことはできるわけで、大きいものから捨てていこうというのがNPT、核拡散防止条約で、テロはそれに屈してはいけないとは思うし、北朝鮮があるいはテロ国家、テロ支援国家なのかも知れないから、それに対してのほほんとしていてはいけないというのも事実だろう。
実際にミサイルが飛んできたら、しかもそれに不十分ではあっても核弾頭が搭載されていたら、また、原発付近に落ちたら、とか、想定だけはいくらでもできる。
隣に拳銃を持った男が引っ越してきたら、そして男がおれは拳銃を持っている、といえば、警察に連絡するだろう。しかし、警察がそれでも24時間守ってくれないとすれば、何らかの対抗措置を執るかも知れない。先制攻撃はないにしても。
等と言うことを、色々考えるべき時、それでも尚かつ核など持たない方がいいし、世界に向けてもNPTの推進を日本は中心になって勧めていくべきだろうと思うが、では、その中で、では日本が核を持ったらどうなるとか、そんなことを議論することをタブーにして一体どうするのだろう。
仮に、日本の世論や政治家の過半数以上が、核を持とうと思えば、それは国民の意思に違いない。それが民主主義国家らしいから。でも、そんなことになると皆思っているのだろうか?
ならないように努力しようじゃないか。そしてその中で、堂々と議論をし、その議論を世界に広めていくことが、武力を持たない国が、世界に向けてできる最善のことなんじゃないだろうか。
そのためにこそ、核はいかんと言い、北朝鮮はもとより、インドにもパキスタンにも、中国にもロシアにもフランスにもイギリスにも、そして何よりアメリカに向かって言い続けなくてはいけないのではないか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年9月21日
自民党総裁選
いや、9月初めてなのか。なんと怠惰な!!
自民党の総裁選があって、予定通り安倍晋三が当選した。日本の総理大臣を選ぶのだが、我々は全く関与できない。だが、今回の選挙は、国民投票をしても同じ結果になっただろう。だいたいにおいて選挙というのは雰囲気で、マスコミが報道という媒体で、その空気を伝えるので、だいたいそうなることが多い。
安倍家の家系を見ると、そうそうたるメンバーで、まあ、なるべくしてなったというようにさえ見える。タイのクーデターなどを見ていると、日本というのは、なんだかんだといってもいい国なのだなと実感させられる。
もちろん、その中にあっても、政治の力でもっと良くなることはたくさんあるはずだ。
安倍が繰り返し言っている、美しい国日本という表現は、政治のスローガンとしては、空回りしていて面白くない。自民党をぶっ壊すといった小泉純一郎はやはりすごかったと言うべきか。安倍もせいぜい、行政をぶっ壊すくらいの意気込みが欲しいものだ。ただ、小泉純一郎の後と言うことを考えれば、彼のような穏和そうな人物が選ばれるのもまた宜なるかな、とは思う。
総理が変わり、方針が変わったり、法律が変わったりする。年金問題なんて、これで大丈夫なんて何度も言って、決して大丈夫じゃない。朝令暮改とは言わないが、だんだん悲惨な方向へ進んでいるように見える。
そんな政治の世界で、以前、中曽根が辞めたとき、橋本龍太郎の頃に、比例区終身一位だかなんかのお墨付きをもらった事でぶつくさ言っていたが、そんなお約束をする方がどうかしているし、そもそもそんな非常識な約束など、あってなきがごときものだろう。
総理が変わったという理由で、世の中が極端に大きく変わることなどない。しかし、そう言う意味では、良きにつけ悪しきにつけ、小泉純一郎は大きな変革をもたらした。マイナスのこともたくさんあったが、むしろプラスのことが多かった5年間だったと思う。
竹中に対する風当たりは、野党ばかりでなく与党からも意外に強いというが、格差社会といわれるような世の中を作ったにせよ、バブル崩壊後の悲惨な状況から、それまでできなかった復興に大きく寄与したのだと思う。
世の中というのは、政治によっても個人個人の行動によっても、あらゆる事がいい方だけに進むなどと言うことはないし、いい方向というのも、誰にとっていい方向か、という対象を選ぶことなので、一概に善し悪しは決めつけられない。
最大多数の最大幸福というベンサムの言葉は、真実ではないとしても、間違った言葉ではないのだ。それによって全てが解決はしないが、一つの目的とすべきはその点なのだ。
民主主義の場合、多くは最大多数がいわゆる庶民だし、年収数千万円のごく一部のお金持ちからたくさん税金を取るのは、決して悪いことではない。
いずれにせよ、新総裁には、よりよい社会を目指して欲しい。よりよい社会を目指せば、今よりいろいろな意味で良くなるだろうから。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年8月12日
靖国神社
小泉首相や安倍官房長官の参拝で、話題かまびすしい靖国神社だが、靖国神社って、いったい何なのだろう?
そもそも靖国ができたのが明治以降の話のようなので、それほど歴史があるわけでもなさそうだ。そもそもの目的は戊辰戦争の戦没者のためだったらしいから、まさに戦没者のための神社ということなのだろう。
神社というのは何なのだろうか?広辞苑は簡単に「神道の神を祀るところ」と書いてある。神道が国家神道になったのも明治以降だし、戦後、国家神道は解体されているので、神道が形式的にも国教であったのは、19世紀から20世紀前半までの一時期であったわけだ。
現代の日本には国教は存在しないし、宗教といっても、いわゆる宗教的な儀式の多くは、墓参りだったり葬式だったり、どちらかというと仏教的な儀式が多い。
よく日本人は、葬式や墓参りで仏教寺院を使い、初詣に神社にお参りし、クリスマスや、最近ではイースターなども祝う、などといわれ、海外で「無宗教」だというと変な顔をされるなどという文章を目にすることがある。
先日、「アメリカ人のかなり多くが、進化論を信じず、数千年前に世界が始まったと信じている」という趣旨の文章を読んだ。多くというのがどの程度か解らないが、大勢いるのかも知れない。
世界の3大宗教とは、「キリスト教」「イスラム教」「仏教」だが、それぞれの宗教の中でも協議はだいぶ異なるし、いわゆる原理主義ということを信じている人たちの中には、結構恐ろしい事を考えている人もいる。
宗教に限らず、恐ろしい人は世の中に少なくないのだが、信念を持って恐ろしいとなると、組織化されるし、来世を信じているとなると、現世の死が恐ろしくないことになり、私のような、現世の死が恐ろしい人間には、はなはだ困る思想を持っている可能性もある。
さて、では靖国神社はというと、どうもそういった宗教とはだいぶ離れていそうだ。神道というのが、どの程度その神様そのものを信じているのかと言うことになると、ギリシャ神話並みのような気がして仕方がない。ましてや、死んだ人が神様になるっていうのは、名称変更にしか思えない。
言ってみれば、信仰ということとは関係なく、過去の「英霊」に対して、「安らかに」という事なのであれば、そもそもこんなにいろいろな問題が惹起された中で、死んだ人の魂も浮かばれないような気がして仕方がない。
A級戦犯というのは、敗戦国の戦争責任者が、戦勝国によって裁かれたので、どうもそこだけを取り上げて、中国などがさんざん文句をつけてくると言うのも釈然としない。
私なども戦争をもちろん知らない世代だが、親戚などで、戦死している身内ももちろんいるし、父親は、広島の沖にある江田島で原爆を見ている。
そもそも人類の歴史は戦争の歴史だし、国内国外を問わず、戦争と無関係だった土地などほとんど無い。たしかに戦争が文明を急速に発展させた側面はあるのかも知れないが、戦争が無くても、同じくらいの発展をした可能性だってないわけではない。こればかりは検証不可能な過去の事績だ。
いずれにしても、戦争が悪いと解っていても(実はそう思っていない人も世界にはたくさんいそうなところが恐ろしいので)、今現在、中東では多くの戦争犠牲者が出ているのだ。
合祀とか分祠とか、誰を祀っているから良くて誰を祀っているから良くないとか、首相が靖国に参ることを非難するとか、誰から何を言われても参拝するとか、どっちもどっちに見えて仕方がない。
もちろん、自らが戦争の痛手を背負っている、戦争経験者は、なにがしかの記憶と体験に起因する何かを持っているに違いない。
被爆した人間は、被爆していない人間よりも、直接的に原爆に対する憎しみは大きいに違いない。
でも、終戦から60年以上経ち、「グローバル」という言葉が空しくはあっても、これだけ定着してきた時代に、本当に平和のためにはどうしたらいいのかと言ったことを、少なくとも為政者は、常に考えて行動すべきで、あたかも外交が、形を変えた、武器を使わない戦争であるかのようなものから、どうしたら脱出できるかを考える時代になって欲しいものだ。
まとまりが付かないが、靖国神社が、宗教法人である以上、政治家が参拝するっていうのは、個人的には何とも変な気がする。政教分離って言う建前があるにもかかわらず、あたかもこれは宗教活動などではないといわんばかりに、参拝する。いや、であれば政治家は墓参りもできないのか、ということになるが、それよりはもっと、政治的なものが見えるのだ。
個人的には小泉が靖国に行ったから何だ、というのが本音だし、多くの国民が、そんなことはどちらでもよいと考えているに違いないと、私は思っている。中国や韓国などの人の、どれほどが、報道されているほど感情的になっているのか、と思うと、やはりそれも一部のような気がする。但し、インタビューされれば、不快だと答えるかも知れない。
難しい問題なのだだこれは。きっと。・・・・なんて結論だ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月 1日
長渕剛と愛国心
長渕剛の最初の印象は、「順子」と、「順恋歌」だ。いわゆるフォークソング。しばらくして「乾杯」。とにかく売れた。そういう印象。そして「とんぼ」とか「しゃぼんだま」いろいろ、いずれにしても、あまり聴こうと思ったことがない。なんか、国粋主義というか、右翼というか、やくざというか、清原というか、まあとにかく、自分の人生とは接点のない、このだらだらした生き方の中では、もはや入り込めない世界だと思っていた。
男の生き様とか言われると、へなちょこな私には太刀打ちできない。
さて、そんなとき、偶然「家族」という歌を聴いた。10分以上の大曲だ。ハーモニカとギターの前奏から、昭和の田舎の小学生の、暗い懐旧の歌が始まる。典型的な日本のフォークソングだ。両親と一人の姉、傲慢で暴力的な父親、これまた典型的な昔の日本の家庭の一つが描かれる。メロディーはいい。歌詞は好みだが、あまり好きではない。しかし、いやでも映像が、強烈なイメージで伝わってくる。胸を締め付けられるような、奇妙な懐かしさとつらさの影が、自分の過去でもないのに、なぜか重なる。
折れも親父によく殴られたな、なんていう想いがよみがえる。埼玉県などで生まれて育つと、あまり「ふるさと」という感覚を持ちにくい。決して都会ではなかったが、それほど田舎でもない。一人暮らしをして、「実家」には帰るが、決して「帰省」ではない。
後半、「白地に赤い日の丸」という歌詞が出てくる。「白地に赤い日の丸、この国をやっぱり愛しているのだ」というのが最後の歌詞だ。そして非常に私好みの哀愁たっぷりのギターがフェイドアウトしていく。ここだけエレキだ。
悔しいがこの歌が大好きだ。
最近、教育基本法の改変問題で国会が審議を続けている。「愛国心」ということが問題になっている。
確かに日本という国家は、おそらく第二次世界大戦の敗北後、「愛国」ということを、「右傾化」とか、「軍国」とほとんど同義語のように感じて生きてきたような節がある。
国を愛することが、天皇を神と奉り、戦前に回帰してしまうのをおそれるような、そんな感覚すら覚えた。いや、そうではない。これはまさに「愛国」という言葉にそれがあるので、国を愛するという表現では、あまりそれを感じない。
ある意味、暴走族が何でもかんでも漢字にして、「世露死苦(こんな書き方をするのかどうか知らないが)」しまうような、音感が、「愛国」にはあったのかも知れない。
また、自民党の議員が「愛国心」などというと、共産党が「愛国心」というのとは、全然違うことを行っているようにも聞こえたりする。
小中学校の卒業式で日の丸掲揚を義務化すると行ったことに関して、必ずそれに反対する人たちがいる。彼らはやはり、前述した回帰への不安を、そこに感じているのだろう。
愛国心というのは、民族主義という言葉と一部似ている。しかし同時に、長渕剛が歌う「家族」のように、ふるさとを愛する心というのが、最も正しい意味の一つなのだろうと思う。
言葉には反意語というのがある。そうでなくても、否定とか、例えば、好きな人がいれば嫌いな人がいるように、愛国心に対しては、嫌国心があるかといえば、そんな言葉は辞書にも載っていない。
本質的に、国を愛するというベクトルは、その時点ではその他の意味を持たない。しかし利害関係の異なる愛国心と、別の国の愛国心は、そこで争いを生じることがある。つまり戦争だ。
この、国を愛することから生まれる争いごとを、おそらくはこの50年間、目に見える部分と見えない部分で、我々は教わってきたような気がする。それが愛国という言葉を、一見恐ろしい言葉に見えさせる。
ところが愛国心を標榜する側は、そんなことはお構いなしに、「なぜ国を愛することがいけないのか」という、いわば正論を振りかざす。その慮りのなさが、愛国心から派生する見えない影におびえる人々の心を逆なでする。
暴力を手放しで肯定する人はおよそいないと思うが、殺人事件は毎日のようにあるし、暴力沙汰はさらに多い。綺麗な言葉も、高邁な理想も、暴力や戦争に変えてきたのがいわば人類の歴史だし、テロも、イラク戦争も、実際はその延長にある。
殺人は普通にすれば犯罪だが、戦争なら英雄という言葉があるが、多くのSFなどを読むとき、遙か未来にも軍隊が必ず登場する。「地球を守るため」に戦うウルトラ警備隊だって、いわば軍隊だ。あたかも宇宙人や怪獣が外敵として責めてくるのを守る自衛隊だと言わんばかりだが、現実にはどちらにも大義名分があるのだ。
愛国心は、郷土愛の延長だし、それは家族愛につながり、最終的には自愛なのだ。逆におしなべて見れば、愛国を言うとき、愛世界、愛宇宙と、より広い立場の愛をこそ説きながら、愛国を知らしめるべきだろう。日の丸を立てることで達成される愛国は、とても狭量な愛国に感じられる。
歌としてはすごく好きだが、やはり私にとっては日の丸など、郵便番号と同じ記号でしかない。記号は記号で必要だが、国を愛することよりも、人をこそ愛する人間にやはりなりたいものだと感じる。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年5月22日
共謀罪
国会で共謀罪の成立に向けてもめている。
政府案に自民党の修正案を不安がるテレビニュースをよくやっている。曰く、マンションの建設反対で座り込みの謀議をしたら、それだけで捕まるとか。
民主党案は、懲役4年という政府案の共謀罪適用犯罪を5年にしたり、国際犯罪に限るという修正案を出しているが、どうも通りそうにない。
実はよく分からない法律の一つで、例えば、座り込みなんていうのは、それで工事を妨害したからと言って、刑法で4年もの懲役刑になるのだろうか?
そもそも決めようとしている雰囲気の与党の強引さのうさんくささは、非常に我々の生活にマイナスになりそうな様子に充ち満ちているが、と言って、マスコミの報道も、非常に憶測に満ちて、しかも何か曖昧だ。
居酒屋で上司が気にくわないから殺してやろう、と言ってどう等したら共謀罪の適用があるかもしれない、というのも放送していた。本当か?平成の治安維持法か?
国際条約のためだけにやっているというような批判もあるが、相当数の国が参加する条約で、単純にアメリカ主導の条約でもないようだし、実際にテロの驚異はある。
サリン事件は国際犯罪なのだろうか?そうでないとすれば、サリン事件のような犯罪が起こったときに、民主党案の共謀罪では適用範囲外になるのだろうか?そのあたりもよく分からない。
NHKは、お笑いや歌番組などやめて、1チャンネル全てを使って現在決めている国会の法律や何かを、説明付きで放映するようなことをやって欲しい。できればデジタルのオンデマンドならなおさらいい。ネットで調べるの結構時間がかかるし大変だ。もっと気軽に知れればいいと思う。受信料で運営するのなら、視聴率なんてどうでもいいだろう。
また国会も、あらゆる議論を、ネットで中継してもいいのではないか。本会議だけでなく、それぞれの委員会も全て。そうすれば少しは、今よりいろいろなことに触れる機会も増えるし、ありがたい。
さて共謀罪だが、やはりよく分からない。そもそも共謀と言ったって、非常に曖昧で、「このミステリを読んで同じように人を殺しました」と言ったら、小説だって共謀しているように見える。・・・というくらいの曲解を、マスコミは国民にさせようとしているような気がして、おかげで自民党の、愛国心を声高に標榜するような議員さんたちが、一気に決めてしまうのを結果的に座視するしかないような気がしてくる。
ま、きっとそれだけ曖昧なことを書いた法律だと言うことになると、あまり意味がないようにも思えてくっるな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年3月 9日
PSE
最近テレビのニュースなどで話題になったので、初めて知った「電気用品安全法」という法律がある。
家電製品などにPSEというマークが付いていないと、個人取引は別にして、売買ができないというものだが、中古品販売業者などが、猶予期限の延長などを、経済産業省に求めている。
PSEマークがつけられるようになったのが2001年からだから5年間の経過措置ということになるが、例えばうちのテレビは94年製造だ。当然PSEなんていうマークは付いていないが、きれいに映る。電化製品の寿命など、長ければ10年以上は軽く持つはずだ。オーディオなんて、何十年も前のものが貴重がられたりする。
これらが公然とは売買できなくなるという法律だ。
うがって考えると、これからは中古業者を介さないで、ネットオークションで個人売買しなさいという法律だ。といって、冷蔵庫や洗濯機はどうもうまくそこにはまらない気もする。
物余りの時代みたいな表現はバブルの頃だったろうか?三種の神器とやらで冷蔵庫や洗濯機、テレビがもてはやされた時代から半世紀が経ち、リサイクルなの法律ができている裏で、こんな法律が施行されていたのだ。
家電が火を噴いたりする場合、それは中古か新品かはあまり問わないように思う。もちろん、PSEが付いているということは、メーカーが責任を持つということだが、では付いていなければ責任を持たないのかといえば、先日のナショナルの件もあるが、大手のメーカーは責任を取らないでメーカーの印象を悪くするよりも、きちっとした顧客対応をして好感度を上げる方を選ぶ時代だ。尤も、三菱ふそうのエンジンみたいな例もあるから、全てがOKな訳ではない。
ただいずれにせよ、中古業者を通じた商品は、あらかた誰かがしばらく使っていた物で、安全性は保たれている物が比較的多いような気もしないでもない。
何でも日でも一様に法律で縛っていくのは「構造改革」などと、わざわざ竹中直人を使って高いCM を流している政府としては、なにやら時代に逆行する雰囲気も漂う。
2001年以降の製品にはPSEが付いているから100%安全と、政府が保証しているわけでもない。であれば、その印の有り無しだけで、何かを規制するということは、どうやらお役所らしい非常に枠にはまった、お間抜けな対応のそしりを受ける部分もあろう。
経済産業省の担当が、「周知が十分ではなかった点は反省・・・」とテレビで述べていたが、彼らの反省はどう見たって口だけだ。この場合必要なのは、「反省」ではなく、「謝罪」でもない。
現実に即してどうなのかをしっかり再調査して、法律の適用を柔軟に対応させることではないんだろうか。
危険運転致死罪なんて、甘々の法律が、酒飲んで事故を起こした全員に厳密に適応されるならともかく、こっちは軽くて、せいぜいリサイクルで、ゴミを減らす役に立っている中古品の流通を否定して、さらにゴミを増やすような法律を、頑迷に遵守させようというのが、実はこの国のありようなのだ。
国会で賄賂を渡したメールが偽物だったかどうかなどという些細なことで議会が空転しているような、目端の利かない議員さんたち(自民党はうまく利用しているのかもしれないが)が、国を牛耳っているのだから、やむを得ないのかな・・・・・
こんな厭世的な気分が、実は投票率を下げているっていうことなんだがな。
個人的にはPSEが制定される以前の家電は、個人の責任で購入する限り、販売業者も扱っていいというのが、非常に論理的に見えるのだが・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年11月28日
皇位継承権の問題
少し前に有識者会議(何とも怪しい名前だ)で、皇位継承問題について一定の方針が出された。
今後は女性でも長子であれば皇位を継げるし女性の後続は外に出ないでもいいというようなことらしい。
男系とか女系とかいうことで、皇室は男系による皇室の歴史を、ここで簡単に変えていいのかという趣旨で、女性天皇がいけないのではなく、女系を認めることがいけない、これは女性差別ではなく、歴史と文化だ、みたいなことをのたまう。
本当にそうか?男系の正当性を主張する人が、あたかも男系であれば一本筋が通るというように言っているが、それはそもそも、これまで女性天皇が出たときの、その後の天皇を男系で決めてきたことに由来するわけだが、女系になったら何が変わるのかが、私にはよく理解できない。
誰だかが染色体の話を持ち出していたが、それはきっと冗談だろう。冗談でなければ、そもそも染色体のセの字も知らなかった当時の歴史や文化とは相容れない理屈だ。
いずれにしても、男系でなければと言うのは、男を家の中心とするものの考え方が根底にあるからで、先祖のたどり方が、常に一方向だと言うことである。現在の皇太子が天皇になれば、皇后の祖先も天皇の祖先となるわけで、男系であろうが女系であろうが、常に近親相姦を繰り返さなければ、妙な伝統などは守れるわけもない。
天皇が国民の象徴であるなら、誰がなるかというのはそれほど問題ではないような気がする。
いつも書いているが、伝統や文化というのは守ろうとする人と壊そうとする人の相克で、どちらにせよ、常に変化しているのだ。昔のように、天皇を政争の道具にしたり、そもそも天皇が戦ったり、暗躍したり、歴史の中では一様ではない。神武天皇がどんな人だったか、存在したのかさえ、私はよく知らないが、そもそも戦いで勝ち取った君主の座であるに違いないし、中国の帝や西洋の国王と大差はない。運良く伝統がなぜか長く続いたというだけのことだ。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言ったのは福沢諭吉だが(但しどんな文脈でこの言葉が出てきているのか、私はよく知らない)、天皇もいつの間にか象徴という位置に置かれ、昔のように国民の上に君臨しているわけではない。
この君臨という言葉は、まさに君主が国民を睥睨している感じが良く表れた言葉だ。
おそらくは伝統を守るか、変貌させるかの二者択一論なのだ。であれば私はほとんどの場合、後者に与する。何でも変わればいいとは言わないが、こと「伝統」という言葉に裏打ちされたものは、変化こそ相応しいと思っている。
個人的には天皇制に賛成でも反対でもない、非常にニュートラルと言えば聞こえがいいが、どちらでもいい人なので、結果がどちらに転んでも文句は言わないだろうが、「有識者」が出した結論は、十分に支持に足るものだという気がしている。
多分、勉強不足の部分はたくさんあるだろうが、元々国民の総意がこのことを決めるとすれば、国民の多くは、天皇制の意味や意義、ありようなどに対しては、それほど不快知識を持ち合わせているわけではない。そしてその総意が、天皇を象徴して支えていることだけは間違いない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年10月30日
寄らば大樹
先日自民党の郵政反対派の処分が行われた。
単純な感想を述べれば、だから組織というのはイヤだ、と言うことの一言に尽きる。
組織というのは組織であるだけで、秩序を求める。規律を求める。それ自体が悪いとは思わないが、往々にして、秩序や規律自体が組織やその中の個人を束縛し、本末転倒なことになる。
衆参のそれぞれの議員に対する処分が違うなんていうのは典型的な例で、組織が組織のために存在している所以だ。
そんな中で、前回の選挙の辺りから思っているのだが、野田聖子や亀井静香、小林興起と言った議員が口々に言っていたのが、自分こそが自民党を最も愛している根っからの自民党員だみたいな発言が、個人的には非常に解せなかった。
自民党等という器は、立党以来、50年体制も含め、様々に変節し、現在に至っている。多くの時代で第一党であった以外に、自民が自民である証左など、あってなきがごとき物だ。
右か左かという議論の中で、共産党の対局にいるように見えるが、戦後自民が右翼であった試しはないと思っている。そういう意味では、日本の政党は右も左も、非常に中庸を歩いてきたのではないかと思う。ちょっとした発言が右寄りに感じられるのは、日本の政治が中庸を旨としてきたせいだ。
中庸は儒教の言葉だが、仏教でも中道といい、アリストテレスも似たようなことを言っている。いわばバランス感覚と言うことだと思う。
ちょっと話はずれるが、ニュースなどで見る限り、中国や韓国、あるいはもっと広くアジア圏の多くの民族では、時折バランス感覚が悪いなあ、と思わせる映像が届く。いわばしばらく前の中国の反日本のデモ行動などはそれを象徴している。もちろん全国民がそうではないと思うが、得てしてピックアップされる映像ではそういう印象を強く受ける。
今回の自民圧勝の選挙戦なども、実はその国民のバランス感覚の悪さが実は日本人、というよりは人間には常に内在している証拠のようにも思えて、いささか居心地が悪い。なぜなら自分も自民党に投票したからだ。
さて、自民党の議員が勝手に自民党に誇りを持ったり愛着を持ったりするのは結構だが、所詮は政党というのは、政治を行うための一つのツールにしか過ぎない。私個人的に、元々郵政民営化賛成だし、いずれにしても変化ということを、旧態依然ということのもう一方の極として肯定するので、中身の如何に依らず、まずは改革という点で、以前から支持してきた。
だからといって自民を支持しているかというと、多くの面でむしろ反自民だった。いまだに第一党であるというだけで自民は好きになれない。・・・いや、これは理屈も何もないが・・・・
ただ政治というのは、私の大嫌いな言葉「清濁併せのむ」が象徴するように、きれい事ばかりではない。但し、きれい事を常に目標に掲げていて欲しいし、少なくともそこに向かって進む努力をして欲しい。
1億円もらって記憶がないと言っているのは、ロッキード事件を彷彿とさせるし、時代は変われど人間の資質などさほど変わらないと言うことなのだと思う。
されば、自民に執着する多くの議員が、世から悪しかれ「寄らば大樹」を指向していることは紛れもない事実で、よかれというのは、そこにいなければ、政治の前面で何かをしていくことに非常に困難が伴うばかりか、理想を実現することも叶わないわけで、悪しかれは、文字通り「寄らば大樹」が持つ、安定志向だ。
有史以来(というのがいつからのことなのか、アルタミラ洞窟なのか、シュメール文化なのかは別にして)、人間がたどってきた道を見ていると、確かに20世紀を経て若干の変化はある。地域的な問題は非常にグローバル化し、地球規模での平和や環境問題など、恐らく意識は高まっているはずだ。しかしその一方で、毎日のようにどこかで爆弾が破裂し、多くの人間が命を落とすという、戦いの歴史に終止符が打たれることもない。
アニメで未来が描かれると、決まって巨大なロボットが戦っていたりする。過去から現代、そして未来を見据えても戦いという場から逃れられないと思っているようだ。
必ずしも、個々人が堅持する正義を貫くことが、世の中をよくするとは限らない。正義を旗印に自爆テロを行うことだってあるだろうから。しかし、であっても、大樹に依らず、自分の思いを貫くことが、ささやかな正しい生き方の一つでもあると思う。
今回の、特に参議院議員の前回郵政に反対して今回は賛成した議員達こそ、国民の意思か何かは知らないが、情けない議員と言うべきである。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:15 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年10月 2日
国会議員の資質
選挙が終わり、1ヶ月近くが経つ。その間、小泉チルドレンという名で呼ばれる自民党の新人議員達のことが、連日報道されている。分けても、杉村太蔵を始め、数人の議員にスポットが当たっている。
杉村氏は当選後にはしゃぎ、先日それを詫びた。
週刊誌を始め、国民はこんな議員を通したんだぞという記事もちらほら目に付く。
さて、そこで国会議員の資質、あるいは政治家の資質という点について考えてみた。
政治家というのは、政治のプロだという見方がある。しかし、多くの政治家は、むしろ政治学を勉強してきたなどと言うことはなく、官僚上がり、政治家の秘書上がりと言った人たちの方が「プロ」なので、政治学を一生懸命やってきた人たちは、政治学者や評論家になったりしている。・・・ように見える。
そもそも政治というのは、非常に日常に根ざしたもので、決して誰にも無関係ではない。むしろプロと称する妖怪のような政治家達の方が、これまで行政との癒着やら、何やらで批判の的になってきたはずだ。何にせよしがらみが少ない素人のような人たちが増えたことは、一面期待できないこともない。
但し、森派の会合などで、森元総理が、議員の品位だとか、資格だみたいなことを言っているのをニュースで見たりすると、少なくとも彼が総理だったときのことを思い起こすと、「あんたが言うな」と思ってしまうのは私だけではないはずだ。
杉村氏を始めとする議員は、衆議院宿舎の改築が終わるまで、都心の素晴らしい立地の、100平米以上もあるマンションに5万円程度で住めるというニュースをやっていた。
1000千兆に及ぼうとする借金を抱えた国家の、議員のために50万円前後はするマンションをあてがう事が政治であるならば、新人議員の教育をする前に、自身の襟を正せよ、と言いたくなる。
無駄をなくすなくすと国会で答弁を繰り返す首相から、野党議員に到るまで、その多くは、そんな簡単後頃から変えることのできる無駄遣いを、止めようともしないわけだ。
道路だって造るし、社会保障制度だっていいかげんなものだ。
昨今話題になっている福島県の何とか言う村ではないが、議員の数を減らすところから始めなくては、何も始まらないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:44 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年9月17日
前原 誠司
民主党の新代表が決まった。テレビなどでもよく見る前原誠司氏だ。
永田町の郷ひろみと言われているそうだ。
前の岡田代表が愚直なくらい真面目で、今回敗北した割には、若いだけであまり面白味のない代表を選んだという印象だ。
小泉純一郎が持つカリスマ性の一つは、何となく親近感を覚える雰囲気にあると思う。時折いいかげんなことをいいながら、強く押し出すときは押し出す。そのメリハリの中に、妙に庶民的な部分も覗かせる。そしてサプライズと言われる、これまで他の人がしてこなかったようなエキセントリックな人事などをわざと仕掛けてくる。
この、怪しげなまでに強烈な印象を持つ総理を敵に回して戦うためには、徹底的に真面目に行くか、同じ土俵で戦うかと言うことになろうかと思うが、既に真面目路線は敗れた。だが、改めて選ばれた代表もまた、若いだけで代わり映えはしない。
むしろ菅直人が持つどこか間の抜けた部分の方が勝負にはなったかも知れない。
あるいは、立候補すらできなかったが、河村たかしの方がインパクトはあった。
むしろ、こんなやつを代表にするのかよ、くらいの方がいいのだ。
相変わらず小沢だ、菅だと言っているのは、自民党が、亀井だ高村だ、平沼だと言っているに等しい。前原は、結果的にその延長線上だ。
今国民が注目しているのは、ドラマチックな変革と、あり得ないかも知れないが、面白味のある人選だ。
これまでの政治家然とした政治家がこの国を悪くしたと、国民は何となく思っている。それは必ずしも正しくはないが、国民全体が、政治家にその責を押しつけることで、不満のはけ口にしているのだ。
だからこそ、非常に緻密で正しい政治を望みながら、それを実行する人物にはテレビ的でヒロイックな容貌や性格を求めている。破天荒さが無ければいけないのだ。
少なくとも前原氏にはそれは感じない。
民主党のマニフェストにはいいことが沢山書かれている。与党よりも野党がいいことを書くのは当たり前で、実際は国民の多くがそれを望んでいるにもかかわらず、どうせできないと踏んでいるわけだ。
であれば、少しでも改革が先に進みそうな小泉自民党を支持しておこうというのが今回の選挙の結果であり、全幅の信頼などでは決してない。
民主党が政権奪取を目指すのなら、もっと覇気を感じる、そしてヴァーサス小泉を買って出られるだけのインパクトを持った人選をしなくてはいけない。
前原誠司を代表に今選んだ段階で、民主は勝負に負けている。
今回民主に鞍替えした横光勝彦は特捜最前線に出ていたが、それこそ藤岡弘、のような、愚直でも何かを持った人物を引き入れてでも勝負した方がいい。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月11日
衆議院議員選挙
衆院選挙が終わった。驚くほどの自民党の圧勝で終わりそうだ。与党が衆議院の三分の二を占めることになる。もちろん、小選挙区という制度が生んだ数字という意味もあると思うが、世論が小泉自民党を支持したことには違いがない。
私は元々郵政民営化は賛成なのだが、現行通そうとしている法律は非常にいいとは言い難い。自民党の造反と言われている政治家の一部や、民主党の多くの議員ガイっていることは間違っていないと思う。だが、だから反対して通さないというのは、この改革を永遠につぶしていくことであるように感じる。つまり、ちょっとやそっとの瑕疵があろうと、まずは通すことが先決だという風に考えている。
こういう事が、全てに当てはまるわけではない。しかし、政治はそうでもしないと変わらない。
政治家が言っていることの多くは非常にもっともなことが多い。それは常に選挙前には同じだ。だが結果的には政治が良くなったように思えないのは、これまたいつものことだ。
小泉純一郎が、全ていいわけはないし、そんな総理大臣が出てくるはずもない。しかし彼が変えたことは多くある。道路公団の民営化は、一見形骸化しているようにも見えるが、民営化されたことで自浄作用も生まれてくるだろうし、世論や、マスコミなどの力で、完璧でない部分も変えていくことが可能だ。
つまりは、変えようと思ったことを変えられる人、取り敢えず初志貫徹した改革推進派(ほとんどの議員がこれであることは間違いないが)を国民が選んだと言うことなのだ。
衆愚という言葉がある。今回敗北した政治家や評論家の一部は、暗にそのことに警鐘を鳴らしている。確かにその側面はある。民主政治というのは、新党日本の田中代表が言うように、踊らされた側面もないわけではない。
だが同時に、やはり国民がこれまでの小泉政治に一定の評価を与え、もう少し進めろと言っていることでもあるのだ。
これは多分、他の人よりもやりそうだ、なのだ。
いずれにしても、自民党はこういい、民主党はこういう、社民党や共産党も、ある意味すごくいいことを言っている。だが、今の自民党は、昔よりもやりそうだと思えるのだ。その裏腹に、前回の選挙で躍進した民主党はこの間、あまり何もできていなかったという判断でもある。
人と人の関係と同様、政治も一筋縄ではいかない。もっと多くのことに変革をもたらして欲しいが、そう簡単なことではないのだろう。だからこそ、強権という言葉とリーダーシップという言葉の裏腹な意味の内から、国民は今回、後者を選択したのだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月 4日
9.11
9.11は今度の衆院選選挙だが、それよりも、4年前の衝撃的なアメリカへの同時多発テロから4年目の11日だ。
今日の日本テレビのバンキシャ!で、当日の消防の無線のやりとりを放送していた。まさに涙無くしてみられない、悲惨で、悲劇的な数時間の様子が甦ってきた。
テレビは、この衝撃的な事件を、映像で、世界のどこでも見える形で保存している。実際に旅客機がビルに突っ込み、崩落するまでを、いつでも見ることができるのだ。映像としては、広島への原爆投下や、イラク戦争の様々な光景と同じように、現実と虚構の区別のつかないようなリアルな映像だ。リアルでありながら、その被害の渦中に自分が以内という虚構性は、人をわずかでも不感症にする。
テロという悪夢は、ある程度以上の人間がいる世の中では避け得ないのだろうか?旅客機に乗っていた犯人は、自らの命を賭して、ビルに突っ込ませたのだ。単なる殺人とは訳が違う。どんな意志や思想や、人生がそれを可能にしたのかを、どれだけの人が知っているのだろう?もちろん私も知らない。
アフガンや中東のテロリストが棲む地域は、イスラム教の地域だ。原理主義とか、一部の過激な集団が、根底にイスラム教を持ちながら、過激な思想に走るには、それでもなにがしかの理由があるはずで、だからといって曖昧にしか我々には理解できない。
例えばオウムのサリン事件のような、どちらかというと狂気と集団心理的な部分から発生したテロリズムとは、根本的に何かが違っているように思う。もちろん、テロリズムなんていいわけはない。単純に考えて、自分がいつその犠牲にならないとも限らない天災のような事に、人の意志が働いているとしたら、やはりその災いは忌むべき行為であり、許してはならない。
だが、では対テロという形で軍隊を送り、力でねじ伏せ、制圧することがいいことかと言えば、それだって、その地に自分が住んでいるとしたら、絶対にして欲しくないことだ。そもそもそういう大国の姿勢で世界情勢は現代を向かえてきたのだ。
もちろん、ヨーロッパの文明が世界に先立って発達し、科学的にも軍事的にも力を持っていたことが、世界進出となり、植民地支配になり、アジアやアフリカ、アメリカ大陸などの悲劇を生んでいるわけだ。もちろん、悲劇的なことばかりではないとしてもだ。
アメリカは、結果的にその広大な大地をヨーロッパからの移民が制圧することで、フロンティアというきれいな言葉の下に、大国を作り上げた。その子孫は当然、先祖のそういったスピリッツを誇りに思うだろうが、所詮は征服者でしかない。そして良きにつけ悪しきにつけ、いまだに何らかの形で世界各地を威圧しているし、長く威圧してきたのだ。
齟齬というのは、与える側と受ける側、どちらが悪いにせよ、関わりを持ち続けるのであれば解消しなくてはいけないものだ。
イラクで、千人を超える米兵とともに、数万人のイラク人が犠牲になっている。フセインの独裁の時とどちらが地元の人にとって幸せなのか、政治家の報告を聞いても信憑性には欠ける。
イラクにはそもそも宗教的な対立がある。信じていない者には、理解できない原理や発想で生活をしている人たちが沢山いるし、その中でも大きく解釈が違ったりしているわけだ。
郵政を民営化するか否かで、侃々諤々なんていうのは幸せな論議だが、それでさえ人の考え方は全く違う。大国が民主主義を標榜して他国にそれを与えるのが民主主義には思えない。
北朝鮮が核など持って欲しくはないが、大量の核兵器を持った国と、少なくとも原発のような核施設を持つ日本などが、会議という席上で、核関連は何も持つな、ということを言うのは、どうも説得力が弱い。
世の中はこういう風にできあがっていると言えばそれまでのことだが、広島への原爆投下は大きな問題的がされても、東京の大空襲などは戦争の一環として同じような形では取り上げられないのと同様、世の中のあらゆる事は、考え方の根底に何を置いているかを共有しない多くの人たちの議論で錯綜しているわけだ。
そもそもこのエントリーを書くために、結論を考えていなかったので、何ともはやまとまりの付かない終わりと言うことになってしまった。
何はともあれ、世界平和が一日も早く訪れんことを祈らずにいられない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月 3日
最高裁判所の裁判官に対する国民審査
Yahoo!のニュースに最高裁判所の裁判官に対する国民審査について載っていたが、たまたま今日の昼間、何かを見てそのことを考えていた。タイムリーなのでちょっと思うところを。
今回は、古田佑紀、中川了滋、堀籠幸男、今井功、津野修、才口千晴という6人について、信任するかどうか、というより、不信任するかどうかについて投票場で書くわけだ。×を付けない限り不信任ではないので、まず間違いなく信任されるだろう。これまでも不信任のケースはないらしい。
ところで、この6人が、いったいどんな事件でどんな判決を下したのか、あるいは、どういう考え方を持ているのか、知っている人は日本にどのくらいいるのだろうか?少なくとも私は知らない。一人もだ。中には興味を持った事件について判決を下した裁判官ということで、知っている人もいるだろうし、そういう人は人数を数えれば少なくはないはずだ。しかし、国民全体の中のパーセンテージで行くと、ほとんど数パーセント程度ではないだろうか?
しかも衆院選と衆院選の間のことだから、わずか2年程度の人気について審判を下すわけだ。
知らない裁判官にわざわざ×を付ける必要など無いだろう。そして多くの人がそういう行動を取るはずだ。×を付ける人の内、相当多くが、本当に×なのではなく、たまには×を付けておこうとか、裁判官なんてみんな気に入らないとか、いずれにしても、いいかげんな動機で×を付けている人も多いと思う。
せめて公示とともに、どんな事件にどんな判決を下したのかとか、何らかの情報を国民に知らしめるべきだ。インターネットでは簡単に見ることはできない。事件の数も多いのだろうが、せめてひとまとめにして、何らかの形で閲覧できるようにして欲しい。会っても見ないかも知れない。もちろんそれはそうだ。
しかし、選挙で問うならば、少なくとももっと解りやすい形で呈示すべきだ。「刺客」とか、女性候補とか、女性週刊誌みたいなことばかり番組を流さないで、こういうところもしっかりやって欲しい。いや、やっている場合もあるが、もっと目に付くようにだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:17 | コメント (3)
2005年9月 2日
選挙中のホームページ
民主党が選挙中にホームページを更新したことが、違法だという。
インターネットがこれだけ普及して、テレビでも観ることが可能だ。もちろん、地方や、お年寄りには馴染みが薄い場合もあるだろう。しかし、いずれにしたって、この流れが逆を向くはずはない。
現行の公職選挙法上では違法なのは、これまでにも解っていたことだ。改革改革というのなら、こういうところから改革すべきだ。
選挙には700億とも1千億とも言われるお金が動く。これはほとんど税金らしい。もちろん、選挙特需ではないが、このことで利益を被る人々が大勢いることも確かだ。お金は回るわけで、1千億をどぶに捨てているわけではない。しかし、出所が問題だ。700兆もの借金を抱える国庫から出るとなれば、別な部分で国民の生活を圧迫することになる。
選挙でお金がかかるのは、選挙カーや、ポスター、遊説先への交通費、選挙事務所費用、運動員への給料など、ここ何十年も恐らく変わってはいないはずだ。
インターネットと、国民から受信料をボイコットされているNHKなどを使って、ここいらの費用を大幅にカットした方がいい。
選挙カーで回ったって、所詮はうるさいだけで、「××をよろしく」というメッセージだけが空しく残る。ポスターだって、決して町の美観に寄与してはいない。草の根選挙などと言って、お宅訪問で握手をして回ることが、あたかも素晴らしい選挙運動のように言われることがあるが、何の意味もない。顔と名前を覚えてもらい、お年寄りに優しそうな笑顔を振りまくだけで、結局は、「知っている顔」に投票するための指示を作っているに過ぎない。こういうことに実は莫大な費用がかかっていることに、国民は気づかなくてはいけない。
インターネットでの選挙運動、どんどんやったところで、費用はたかが知れている。但し、迷惑メールの数を増やして欲しくはないから、総務省などが、解りやすく全候補者のページをまとめるなり、1候補1ブログで選挙運動を繰り広げてもらえばいい。後は有権者がそこを見るかどうかだ。
もちろんインターネットだけでは不十分で、やらない人だって大勢いる。そのために、国民の受信料で運営しているNHKは、選挙期間中は、朝から晩まで、とにかく選挙運動のための政見放送を流し続ければいい。そのくらいのことができないで、くだらない番組を沢山流してもらっても、NHKの必要性なんてほとんど無い。今日本でNHKしか映らない地域がどれほどあるのだろうか?
この2つのみを、基本的な選挙運動にし、街中でがなり立てる政権演説や、無駄なポスター、選挙カーなどは一掃して、なれ合いや、地元意識などだけで候補者を選ぶのはやめにした方がいい。
そうすれば、選挙直前まで政治家は働けるだろう。解散してから、選挙数日前まで、しっかり国会で働いてもらい、その場面も十分にNHKで流し、それを持って、投票に臨ませるようにした方がいい。そうすれば、より党による違いが歴然となり、解りやすい選挙に向かえるというものだ。
選挙にもお金がかからなくなるし、いつでも見たいときに候補者のことが見られて、しかもなーなーな気持ちでの投票を防ぐこともできる。
しかも投票も、インターネットなどを使えば、かなりいろいろな点で費用や負担を軽減できるはずだ。
ホリエモンが走っている姿を見ると、ああ情けない、という気持ちが沸々と湧いてくるのだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月22日
小選挙区と比例
現在の選挙制度は小選挙区比例代表制というものだが、以前から疑問に思っていることがある。
小選挙区と比例代表の2つの方式を採用している意味は分かる。完全小選挙区であれば、共産党や社民党などはほとんど議席を得ることができなくなる可能性があるだろう。それを、政党支持率によって議員を確保するというのは、合理的でもある。
しかしよく解らないのは、小選挙区と比例代表の重複立候補という汚いやり方だ。小選挙区制というのはガチンコ勝負で、1票差でも負ければ議員にはなれない。これすごくシビアな選挙だ。しかしそれが、比例代表に名を連ねることで救われ、議員になることを可能にしている。選挙区で「No」を突きつけられても議員になれると言うことだ。そしてそれを「国民に選ばれた」などと言っている議員は少なくはない。
おかしな話だ。「おまえは落ちたのだ」と言ってやりたい。
政治は国民のチョイスを、政党の意図でねじ曲げているとしか思えない。そうでないのなら、選挙区から出なければいい。もちろん、勝ち負けのための戦略であることは解るが、どうも納得できない。特に、せいぜい数千票差で負けているならともかく、1万票以上負けても当選できる。おかしなシステムだ。
いろいろな意味で霞ヶ関は変わりつつある雰囲気が見えている。
変化が全ていいわけはもとより無い。だが、「誰よりも自民党を愛している」などとのたまう造反と言われる議員達は、そもそも何のために議員でいるのかを考えて、そのような愚にも付かない発言をしていただきたい。「自民党をぶっ壊す」と言ってきた小泉純一郎の人気が高いのは、そもそも「自民党など愛していない」からだ。政党などは政策を実現するための器に過ぎない。損なところに変な愛着を持っているから、「既得権益」などということを言われるので、その辺の小理屈すら解らない人たちに政治をやって欲しくない。
ところで、新党「日本」とか「大地」とか、この辺りのネーミングもイメージ戦略なのかも知れないが、なんかださい。今日の「日本」の旗揚げは、何となくかっこ悪さだけが目立った。なんだか田中康夫がこれまでやってきたことを、帳消しにする効果すらありそうだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月19日
地元議員という考え方
衆議院選挙が来月に控えている。郵政民営化法案に反対した議員に対して「刺客」と称して(誰が称しているんだか?)有名人や、女性が次々対立候補として立てられている。
今日も、ホリエモンことライブドアの堀江貴文が国民新党の亀井静議員の地元である広島6区から無所属で出馬することが決まった。
地元の人へのインタビューで、「地元のことも解らないのに立候補してどうするんだろうね」という意見があった。
以前から思っているのだが、選挙っていうのはいったい何だろう?
地元のことをよく知っている議員を選ぶ意味というのは、かつての利益誘導方の政治の名残ではないか?いや、これはまだまだかつてのことではない。国会議員にとっての地元とは、日本国であるべきで、北海道選出議員だって沖縄のことを考えなくてもいいということではない。北海道のことを専門に考えるのは北海道の道議であるべきで、国会議員を選ぶのなら、その土地の出身者かどうかなどと言うことは、ほとんど意味のないことだと思う。
でもそうではないのだ。世の中は。
地元から国会議員が出ると、地元の人は国会議員に、地元をよくしてくれとまず思う。そしてそれがひいては日本をよくするということに繋がっていく。だが実際は逆であるべきだ。日本が良くなるからこそ地元も良くなるのだ。
世界に目を広げてみよう。国家の幸福よりもまず、世界の平和と幸福を目指すところから始めた方が、実は良くないだろうか?なぜなら、どんなことでもそうだが、自分の利益から始めれば、まずそこから争いが生じるのだ。
まあ、全ての国家が他国家を、全ての人が他人を幸せにしようと考える世の中が