2010年1月23日
謝罪
3ヶ月ぶり、そして今年最初の書き込みが「謝罪」というタイトルだからと言って、何か謝るわけではないのだけれど・・・
今日のニュースで、菅家利和さんの謝罪要求に対して、当時の取り調べをした元検事が謝罪はしなかったというのがあった。いずれかのタイミングで彼が謝罪するのかどうか(無罪判決が出た後など)、不明だが、おそらく彼の立場から言えば、自分は確信を持って有罪だと信じていた(少なくとも当時は)ということで、自分は精一杯やったし、間違ったことはしていないという気持ちがあるのかも知れない。たとえ結果が間違っていたとしても。
だがどうだろう、普通の事柄に置き換えてみれば、その時の思いや理屈はどうあれ、謝罪するのではないだろうか?小学生にだってそう教える。
ところが大人になるとなかなかこの謝罪というのが難しいらしい。
特に政治家はどうだろう。なかなか謝らない。また、謝り方が姑息だ。自らが間違っていたという謝り方をする人が非常に少ないように思う。誤っている方向が違うので、国民の怒りを買う。
例えば上記の検事、無罪を出すための裁判をやっているということなのだから、最初から菅谷さんは無実で、えん罪だったという結果が出ることは解っている審議だ。であれば、自分はあのとき、こういう理由で間違いなく菅谷さんを犯人だと思った、証拠もそれを示していた。だが、結果は冤罪で、今となっては大変申し訳ないことをした、あなたの人生を取り戻すことはできないが、大変申し訳ないことをしたと謝れば、一応は終わる話だ。
菅谷さんのような異例の件で、社会も国も、彼の人生を再び返すことはできない。過ぎてしまったことは最早取り戻しようがない。
もちろん、だからこそ捜査や取り調べは慎重を期すべきではあるはずだが、それとは別に、最大限彼に対して誠意ある対応と謝罪が、事件捜査や裁判に関わったものができる唯一のことである。もちろん、それでも尚彼が今でも犯人に違いないと確信しているのなら、話は別だが。
同様に、政治家もまた、謝罪すべきは謝罪すればいいのだ。政治家は、謝ってしまったらおしまいだと思っているのかも知れないが、そんなことはない。そこから始まることもあるのだ。
自分がしでかしてしまったことへの反省や謝罪というのは、新しいことを始めるための一つの区切りであり、対象者への許しの請いだ。もちろんそれでも許せないことはある。謝れば何でも解決するわけではない。だが、せめて謝れ、という部分はないわけではないのだ。
謝れないのは、実は人間の弱さだと思う。自分自身が同じ立場に立たされ、では謝れるかと言えば、その状況に陥ってみないと解らない。だから、謝らない人間を必ずしも責めようとは思わないが、それでも尚、相手が被った被害や、その人の立場などを考えれば、強く謝罪すべきではないのかという意見を、時には言うべきなのだろう。
鳩山総理が、故人献金や、母親からの多額の譲渡などについて、言葉を濁しながら、謝っているのは、それを知らなくて申し訳なかったとか、お騒がせして申し訳なかったといったことなどだ。国民はまだ我慢して民主党の自民とは違う何かをしてくれるというかすかな糸に望みをつなげている。それが、下がったとはいえまだ50%近くある支持率のゆえんだ。
一例を挙げれば、日本郵政の人事は全くもって天下りでした。申しわけございません。すぐに変えますと言って人事を刷新すると化すれば、そんなことを朝令暮改などと責める人はほとんどいないはずだ。
小泉純一郎が何故人気があったかと言えば、果断さと言ったことを行うという部分が、他の政治家よりも秀でていたからだ。彼の政策だって、誰もが支持していたわけでhない。だが郵政選挙は勝った。
鳩山政権が今後も4年間の地位を盤石にするためには、次の参議院選挙に勝たなくてはならない。そのためには、今の政権に残る、自民党の翳を払拭すること、つまり亀井静香を切り、小沢一郎を黙らせることだ。亀井はただの反小泉であって最も自民党らしい議員だし、小沢はまさに田中角栄の亡霊だ。田中角栄がロッキード事件で罪になったとしても、彼は偉大な政治家だった。だが今はそういう政治家の時代ではない。
民主党はまず思惑の違いを謝罪し、できることから順次、そしてなにより天下り根絶などを頑張ればいい(個人的には天下りそのものは全く反対ではない。天下りはどんどんさせてもいいし、その方が、官僚機構は常に刷新されるはずだ。むしろ直すべきは、天下りしても、普通の職員と同じ待遇にするような仕組みを作ることだ。2,3年で数千万円の退職金や、そもそも最初から高い地位に就けたり、年俸で一千万以上などを規制すればいい)。
まさに謝辞をしないで先へ進もうとすることが、ある意味自民でも民主でも同じ「朝三暮四」たるゆえんかも知れないのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 日常的 | 00:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月12日
日産のCM
このところ、各自動車会社のエコカー減税CMがかなりかまびすしい。
その中で日産のCMがどうにも気になって嫌だ。
それは、今なら〜がエコカー減税で×××円もお買い時というやつだ。
この今ならお買い時という時系列に沿った流れはまだいいとしよう、だが、この間にエコカー減税による割引金額が入ることで、もはやお買い時を形容しているのは、金額でしかない。
麻生政権で決まったエコカー減税だから、日本語の文法はどうでもいいというわけでもないだろうが、CMが流れるたびに違和感があって、日産が大嫌いになった。
金額が安いならお買い得だろうし、時期がいいならお買い時でもいいだろう。
人間というのはおかしなもので、ラーメンやそばをすする音がだめな人もいる。
態度や生き方、日常のあれこれ、笑いのツボと似て、それぞれが持つ感覚の微妙な違いがあるものだ。
このCMなど、別にお得で今がそのときなのでお買い時と言ってるのだろうが、この違和感と、こんなCM流してやがるという、もはや八つ当たりの感情があって、いらだたしい。・・・いや言葉で書くといらだたしいだが、そんなに大きないらだちではない。とってもかすかだが、こんなブログを書くくらいには、ということだ。
十分目立っているわけだから、CMの目的も達せられたということか。
それにしても、何のメリットもないエコカー減税・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 / 文学・日本語 | 01:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月11日
連立政権
1回ごとに政治の話題で恐縮ですが、・・・というか、年を取ったんだな、こんなに政治に興味が出てきたのは・・・・やはり。
さて、まもなく鳩山民主党政権ができあがるわけだが、参議院議員が過半数を確保していないという理由と、選挙前の共闘により、国民新党や社民党と連立を組むことになり、この1週間は、かなりそのすりあわせに苦慮したようだ。
国民新党はともかく、社民党とはそもそも方向がだいぶ違うので、難しいことは初めから見えていた。
国民新党は何とかの一つ覚えのように郵政民営化の見直ししか言わない党だが、所詮は、つい4年前まで自民党だった方々なので、ある意味、ここは自民との連立に近いものがある。
さて、社民党はそもそも前身は社会党な訳で、社会民主主義を基本的には標榜している党で、民主党と、必ずしも合わないのが当たり目だ。綿貫氏が選挙中「共生。共生」と言っていたので、ある意味,国民新党と社民党は近いのかも知れないと錯覚を持ったが、それはきっと錯覚なのだ。
民主党は、自民党に比べれば、かなり社民寄りなのだとは思うが、それでも相当壁がある。
朝まで生テレビなどで、森永卓郎が、あなたは社民主義だからと言われているのをたまに見るが、実はぼくは、社会民主主義と自由民主主義の違いがよく分からない。
日頃の政策を見ると、自民や民主と共産の中間みたいなイメージがある。言っていることは結構共産党に近いが、それを民主主義で実現しようみたいな。でもそうすると共産党もきわめて微妙だ。共産党が、万が一大勝ちした場合、中国共産党のような政治を行うのだろうか?でも軍事費削減なんて言ってるから、その点でそもそも違うな。
などと考えながらふと思った。
先日テレビで村山富市氏が、少数意見を以下に吸い上げられるかが大切だと言うようなことを連立の条件のように話している姿を見た。彼は元々社会党の党首だから、社民党を心の中では押しているかも知れない。
確かに、民主主義というのは、多数決と、実は少数意見に以下に配慮するかのバランスがとても大切であることは事実だと思う。だが、その上で敢えて誤解を恐れないで言えば、少数意見によって足す意見が変えられるということはいかがなものだろうか、という点もある。
この場合、少数意見というのは実は弱者救済という意味合いが強く、必ずしも少数意見を採択するという意味ではないと思う。例えば、極端なことを言えば、少数政党が北朝鮮に先制攻撃をかけようと言っても、今の日本でそれが採択されるはずはない。
だが、今回の選挙結果を見たとき、いかが一応の民意だ。小選挙区比例代表というのを採用している以上、純粋な得票率は意味を持たず、以下の数字が民意と判断される。
民主(308) 自民(119) 公明(21) 共産(9) 社民(7) みんな(5) 国民(3)
また参議院議員の分布は
民主(108) 自民(81) 公明(21) 共産(7) 社民(5) 国民(5)
だ。新緑風会とかその他は無視している。
総議員数は622人
民主(66%) 自民(32%) 公明(7%) 共産(2.5%) 社民(2%) 国民(1%)
ざっとだがそんな割合になる。
今度の政権には、2%の社民党と1%の国民新党からそれぞれ大臣が就任する予定だ。
どうも釈然としない。
確かに、国民新党や社民党は立候補者も少ない。民主に風も吹いたかも知れない。
だが、66%を持つ民主の政策が、僅か3%の二つの党の政策で、大きく曲げられていいのだろうか?
少数意見の忖度はとても重要だ。だが、彼らが何かを押し通すことが正義ではない。
いや、この場合正義という言葉はどの文脈でも正しくない。連立に入ることを条件に、譲歩をするかしないか、その辺りの今回の決着は、実はぼくには着地点の位置がよく分かっていない。
ただ、選挙前からそうだったが、この3党が組むという意味がまったく解らない。
例えば郵政民営化見直しと言えば、今では自民党だって公明党だって賛成しかねない。尤も、民営化そのものに反対している人はそれほどいないのかも知れないが。
共産党が選挙前、いい物はいい悪いものは悪いという健全野党を標榜していたが、そんなことを標榜する前に、すべからく野党も与党も、そうであってもらわねば困る。
だとすれば、民主単独政権を運営しても、社民が全ての政策に反対するわけではないだろうし、自民だってそうだ。
最低賃金を1,000円にするという話だって、1,000円にして一番困るのは中小企業で、その辺り共産党や社民党は矛盾しているし、民主党はきっと、それで潰れるのなら潰れてしまえと思っているかもしれない。
だが、民主がそれを立法しようとすれば、政権内にいなくても、社民や共産は賛成するのだろうから、問題ない。
日米安保や地位協定など、あるいは自衛隊の給油の問題だって、民主に変わったのに、ほとんど変化がない政策なら、今度は自民か公明が賛成してうまくいくのじゃないか?
いずれにせよ、わずか3%の意見で、最初から縛られてしまうのはいかがなものか、というお話だ。何度も言うが、彼らの意見を尊重することは常に大切だし、どちらが正し意見を言っているのかなんてことは、おおかたの場合、立場で変わる。
どちらがよりよいかの選択なので、たとえ高速道路無料化や、こども手当に賛同する国民が少なくても、民意は民主を支持したのだ。少なくとも、その政策を実現し、その結果を4年後に改めて問えばいいだけで、民主の意見はあまり曲げないで頂きたい。
個人的には、直接的な恩恵は全くない高速道路無料化だが、賛成である。料金所と、ETC関連の法人が無くなるだけでもいいと思う。
子育て支援も、全く恩恵はないが、きっと子供のいる家庭は助かるだろう。年収が数千万円ある家にも行くのは癪だが、やむを得まい。
そもそも、少子化そのものがどうして悪いのかよく分からない。
ただでさえ地球の人口は多すぎるのじゃないか?
際限なく増えていく割に、地球は限られているわけで、人が増えればアマゾンも伐採される。これまで先進国がやってきた地球の破壊を、発展途上国だってやりたいに決まっている。
急に地球が暖まってるからだめというのは、西欧諸国のエゴだ。
世界全体が、軍事力など捨てて、それにかけているお金を、もっとしっかりとみらいを見据えた科学にかけ、完全ロボット化による食物生産とか、気候のコントロールとか、宇宙進出とか、身のあることを実現するつもりにならないと、いずれ地球はどこかで終わる。
放っておいたって、数十億年後には太陽に飲み込まれて無くなるわけだが、そんな先ではなくても、ここ千年2千年のために、もっとやることはたくさんある。
子育て支援からだいぶ脱線したが、つまりは今回の結論は、民主・国民・社民の連立政権はとてもいびつな政権なのではないか、というお話だ。少なくとも、自民・公明よりはいびつだ。自民・公明は別な意味でいびつだと感じてはいたが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月 1日
政権交代
総選挙が終わったので選挙の話題を。
民主308議席、自民115議席と、改選前とはほぼ逆転した。まあ、逆転したということは、いずれ再逆転も十分可能な数字でもあるということだ。
勝ちすぎだとか、想像を超えるとかテレビのコメンテーターは言っていたが、事前の世論調査などからそこそこ予想が付いた数字だったように思う。もちろん、その世論調査が結果的にどう本番に働くかは未知数だと思うが、その世論調査の結果が信用できないものなら別だが。
信用できないと言えば、開票速報番組が始まったとたんに、予想が出て、フジテレビなどは320を越える民衆の数字を予想していた。もちろん出口調査の結果だ。実際にはそこまでの数字は出なかった。ただ320という数字は、絶対安定多数の次に重要な衆議院議員の3分の2の数字ではあるから、これを越えるか越えないかは大きな意味を持つ。自公政権が何度も使った再議決が単独でできる数字だし。
ぼくは、小選挙区比例代表並列という制度に懐疑的というか、どちらかというと反対だったが、今回見てみて、実は悪くないのだと思うようになった。
人を見てする選挙の場合には、やはりいい制度ではない。何故なら、どんな政党に所属していようと、1票を投じたくないという人はいるわけで、都議選などはそこまで極端ではなかったが、正直自民の候補でも民主の候補でもどちらでも良かった。だから勝ち馬に乗るつもりで民主に入れた。
小選挙区というのはどの政党を選ぶかということが主眼なので、その政党の誰が出ているかということは実はあまり意味が無く、今回の選挙を見ても、社民の辻本、みんなの渡辺、江田、といったテレビでよく顔を見、ある程度人となりや発言が判っている人は通っているが、それ以外はかなり政党色で選ばれているように見える。
もちろん、投票する人はそれぞれなので、人物本位や、政策本意、あるいは容姿で選んでいる人もいるはずだ。どんな基準で選ぶかは自由だし、たとえ美人だから1票を入れたとしても、それはそれで、1票の価値には違いない。
そういう意味で、選挙に行かないというのは、そのときの選挙結果を是認するという選択なので、それはそれでいいと思っている。確たる意志もなく、適当に投票することと、棄権することは、それほどの違いはない。もちろん投票率はアップした方がいいし、どんな理由であれ、投票には自分の意志が反映されるべきだが、海外のどこかのように、罰則規定などを作って投票させるなどというのは愚の骨頂だ。
今回のように、いわゆる無党派層、しかもこれまで選挙に興味がなかった人たちが投票行動に移るのはいいことだし、それでも昔に比べたら投票率は低いわけで、投票率を上げる努力はすべきだが、それが強制であってはならないと思う。選挙はやはり権利であって義務ではない。
さて、そんな中で、小選挙区制というのは、言われるように極端に触れることが往々にしてある。それを衆愚と見るか、世論の力と見るかで、民主政治への見方は自ずと変わるだろう。
だが、今回のように前政権に一旦退場してもらい、新政権による政治を任せたいと考えた場合、この極端なふれというのは意味を持つ。もちろん、得票数で言えば308対115などという比率のはずはないが、多数決というのは民主主義の基本だ。
せっかく新しい政党にやらせるのであれば、十分な余地を保ってやってもらうべきだ。
長くても4年後には、また変えることができる。
尤も、衆愚というのは、多数決でヒトラーを選出できる機能のことだから、選挙民一人一人のバランス感覚は大切だ。そういう意味では、民主党に政権を一旦(一旦か、かなりの年数かは今後が決めることだが)委任するというのは、日本人のバランス感覚も捨てたものではないと思う。
ぼくは、民主がマニフェストで打ち出している、子育て支援も、農業への個別保証も、高速道路の無料化も、全く恩恵がない。だが、本当に官僚が悪いかどうかは別にして、長くやってくれば何事も硬直化するし、いい加減な部分もたくさん出てくる。自分たちの利益が優先されるような風土だって、悪意ではなくできあがるわけだ。であれば、まずは官僚主導の政治の打破ということだけでも、民主に変えてみる価値があると考えた。
これは前回の郵政選挙の時と同様だ。ここで小泉に入れておかなければ、郵政民営化はできないと判断したので自民に入れた。その他のことでは必ずしも同調していない。今回、郵政民営化の見直しに関しては、あまり賛成していない。見直しは必ず必要だが、例えば国民新党が言っているような見直しは賛成できない。それでも尚、今回はもっと優先順位の高い論点があったので、世論と同じ動向を、ぼくも行った。
評論家はいう。民主には国家ビジョンがない。成長戦略がない(これは自民党も言っていた)。だが、国家ビジョンや成長戦略なんて、 他の政策から見ていけば十分だ。そもそも大風呂敷を広げたら広げたで、実現不可能だとか、他の批判が出る。
多くの人が、今回、民主党を支持政党とは言わすに民主を支持したと思う。あるいは、今回は民主支持といいながら、次回は自民支持という人たちも多数居るだろう。これらは支持政党無しだ。
創価学会員が全て公明党を支持しているものかどうか知らないが、今の時代、支持政党というにはイデオロギーの違いがあまりにない。共産党だって民主主義に見える。自由主義の中で、どうなのよ?というところで、保守対社会主義などでは決して無く、保守というなら変革、だが、それも大きな変革には見えない。少なくともイデオロギー的には。
であれば、政党支持というのは、時の民衆の気持ちにどちらが近いかという選挙なので、そう考えれば、今回のような政権交代ができるというのは、とても健全と見るべきなのだと思う。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年8月20日
総選挙(選挙前)
ようやく衆議院議員の総選挙の告示がされた。解散からずいぶんかかった。
解散すると国会が空転するから見たいな言い訳をずっとして引き延ばされ続けた解散が、いざ解散すると選挙まで40日も空いている。もちろん国会の会期中ではないから、いいのかもしれないが、釈然とはしない。
さて、この総選挙という言葉、わかりにくい。衆議院は全取っ替えで、参議院は半分ずつだから、衆議院は総選挙というらしいが、総選挙という響きには、なんだかあらゆる選挙を一斉にやるような響きがある。参議院の時に半選挙とは言わないしな。
ともあれ、今度の選挙は民主に風が吹いているともっぱらの噂だ。
そして、マニフェスト選挙なんだそうだ。
あたかもマニフェストという言葉が出てくるまでは、何もなしに人だけ見て選挙をしていたかのようだ。現行のマニフェストにしたって、以前の公約とどう違うのか、判然としない。横文字使ってかっこいいだけのような気もする。
自民党だって、前回のマニフェストの総括などほとんどやっていないし、たぶんできない。総理が3回も変わってるし、その都度微妙に方向転換しているし。
テレビのニュースや政治バラエティを見ていると、こぞって「マニフェスト」をよく読んで、それぞれの政党の主張の違いを考えて投票することが至上命題のように言っている。
まあそれは、それらのマニフェストが全て実行されると仮定した上での話で、実際のところ、そんな100%なんていう話はあり得ない。
そもそも、恒久減税なんていう有りもしない言葉を鵜呑みにして喜んだ国民は、数年後に、恒久という言葉は暫定という言葉と同意義だったことを知らされる。これは元々、「恒久」などという言葉を政治の世界に持ち出すことが間違っているので、全く信じるに足りない言葉で、同様に、100年安心の年金だって嘘っぱちだ。
自民が提唱している10年後に可処分所得を100万円増やすというのも、どうしたら「約束」できるのか理解に苦しむ。これは、マニフェストが4年間の政策を書くものだとかいう理屈を離れて、眉唾だが、話によれば、10年前の水準に戻るだけだという。
現在の潮流を見れば、自民はいやだが民主も危なっかしいということのようだ。
それでも、ここは一つ、民主に1回任せてみるかというのが世間の見方の主流のようだとテレビは解説するし、たぶんそれは間違っていない。
だが、ではそれとマニフェストの熟読はどうも全く次元が違う話だ。前者はマニフェストの内容など二の次だし、後者はそうではなく、公約の質を問うている。言ってみればこれは、鳩山が言う「政権交代」と麻生のいう「政策選択」をまさに如実に表していて、国民はどちらかというと前者を指向している人が多いということになる。
さて、では今回の選挙はどんな意味を持つかと言えば、やはり自民党政治がこれからも続くのか、政党の交代が今後の政治ではあり得るのかを占う選挙で、もし仮に自民が勝つとすれば、今後最低10年は2大政党などというアメリカやイギリスのような政治は実現しない。
民主党が危なっかしくても、是が非でも民主が勝たねばならない選挙なのだ。
民主の半数は社会党かも知れないが、半数は自民党で、今時、共産党だって民主主義を標榜しているように見える。共和党と民主党が変わっても、アメリカという国が減算と民主国家としてあるように、民主党が日本で政権を取っても、日々の生活が極端に変わることはあり得ない。
子育て支援や農業に金をばらまき、高速道路を無料化しても、個人的にはほとんど、直接の恩恵はない。子供もいないし、車も乗らない。農業もしていない。でも生活は苦しい。
そしてそれらのマニフェストでの約束がどこまで実現できるのかも判らない。
ただそれは自民党が言っていることも同じで、マニフェストに優劣など、実はない。
自民は財源財源というが、民主は出すと言っている。ただの水掛け論だし、自民も財源などきちんと明示していない。
古館など初めとして、テレビに登場するコメンテーターは消費税の話をしない政治家をずるいと評する。こうやって、消費税を上げるということは既定路線になっていき、国民みんなが、消費税を上げるのはやむを得ないと洗脳されていくのだと思えてしまう。
だが、常にしかしその前にやることがあるという前置きが付いていることも事実で、国民の多くは、その点が自民党にはできないと信じている。民主にもできないかも知れないが、やると言っているのだからやらせてみろ、これが世論だ。
余談だし、以前に書いたが、税金は全て消費税でいいというのがぼくの持論だ。所得税も、住民税も、事業税も、ガソリン税も、酒税も全て止めて、消費税1本。ただし、科目によって税率を変えれば、必ずしも弱者いじめにはならない。むしろそれによって、税務署のスリム化の方が意味があると思っている。・・・税理士さんの敵だな俺は。
とにかく、今回の選挙は今後4年間は民主党に政治をやらせてみるための選挙なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
たぶん、自民支持派は、4年間が無駄になるというかも知れない。だが、これまで自民党がやってきた政治の中にだって、無駄や良くない点がたくさんあり、民主になったから、国が崩壊するわけではない。
そのために一定間隔で選挙があるので、民主にやらせてみた結果、国が良くなったと思えば、民主に続けさせればいいし、だめだと思ったら、自民に返り咲かせればいい。少なくとも、政治家全員に、明日は野党という危機感を持たせない限り、この国は良くならない。
ぼくは未だに、郵政民営化賛成論者なので、民主の政策とは合わない部分もたくさんある。そもそも、政党内でさえ意見の違いがたくさんあるわけで、それぞれの政党に対し、100%政策を支持するなどあり得ない。そんな中で選挙は常に妥協を伴う。
今回は、今後日本の政治が、常に政権選択を伴う政治に移行できるかどうか、国民がそれを選択できるかどうかを試される試金石なのだ。
民主が鳩山を代表に選んだとき、とてもがっかりしたし、民主のマニフェストに与しない点も多々あるが、それでも今回の1票は民主に入れる。
大丈夫、それでも自民党が5人しか当選しなかったなんてことに、この国はならないから。
たぶんあおりを食うのは共産や社民だ。かわいそうだけど。都議選のように。
さて、選挙後まで支持の話題からは離れよう。
尤も、このペースでは、それまでの間に、他の話題を何件書くか判らないが。
あ、ついでだから書くが、なんで「みんなの党」なんだろう。ネーミングセンスを疑う。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年7月 5日
都議選
来週の日曜日に都議選の投票が行われる。
衆議院選の前哨戦などとも見られ、どの政党が勝つかなど、一般に興味はそちらに向いている。
さて、その都議選だが、ぼくは渋谷区に住んでいるので、渋谷区の立候補者を見てみる。
わずか3人。自民、民主、共産の3党からひとりずつが立候補しているだけだ。自民、民主は現職で、共産は新人という顔ぶれだ。そして定数は2。これで投票に行けと言うのか?
しかも、東京都の選管のページを見ると名前だけが羅列してある。
フラッシュを使って劇団ひとりをキャラクターにして、何とまあ、無駄なお金をかけましたというページができあがっている。データはほとんどPDFという手の抜きようだし、このページの制作費用を聞いていたいものだ。
ザ・選挙という日本インターネット新聞というところが作っているホームページがあり、ここにある程度のプロフィールが出ているのだが、同時に、ビデオが見られるようになっている。
自民の村上さんという人のはビデオはない。民主の大津さんはビデオがあるが、首都高の事故と、それに関わる積載内容に関する問題を、議員としては異様にたどたどしく述べただけで、かえってマイナスではないのか?と見える内容だ。
共産党の田中さんという人のビデオは、伝えるべき内容をしっかりと伝えている。
ただ他の二人はホームページがあるので、そこを見れば何となく何をしているのかとか、解るが、田中さんはホームページすらない。今時ホームページすら持たない議員を、ぼくは信用しない。議員でなければ、そんなことは自由だが、読まれようが読まれまいが、ホームページの一つくらい開設していないようでは、と思う。ホームページのできなどどうでもいいので、いざというとき、その人がどんな活動をしているのかが、基本的にオフィシャルな発信として(それが真実であるか否かはそれだけでは判断できないが)見られることは重要である。
ぼくは今度の衆議院選挙で、民主に勝ってもらいたい。東国原氏が、自民に変わって欲しいみたいなことを言っているが、「変わる」べきは自民も民主も一緒だ。だが、そんな簡単に変わらないのは誰が見たって明らかだ。また、どう変わればいいかだって、何が正しくて何が間違っているかは結構微妙だ。
世論が、この際1回民主にやらせてみようというのはとても正しいと思うので、ぼくもその世論の一角を担っている。どちらかと言えば、世論に背を向けたい性格ではあるが、実は多くの場合世論よりだ。多数派の世論は、メディアの偏向を非常に大きく影響として受けるが、それでも世論は世論だ。多くの場合、調査の多数派は、間違っていない。
なぜ間違っていないかと言えば、この世の仕組みがそうだからだ。一部の人間が何かを決めることを是としない、それが歴史が培ってきたこの星の仕組みだが、それはどんな場合でも最終的には多数決で、勝てば官軍なのだ。これがいいことかいけないことかは議論の対象だが、常に少数意見に与するよりはいいに違いない。
そんなことで、民主に風が吹き、それほど民主に期待していないし、民主の制作で首を縦に振れないことがたくさんあるにもかかわらず、民主政権を望んでいる、それは、自民だっていいことを言っていたりやっている議員はたくさんいるし、極論すれば、それほど悪いことをしようと思って議員をやっている人などそれほどいるとは思えない。
だが結果として今の社会を形成してきたのは自民政権だし、それを選んできたのは我々だ。ぼくは前回の衆議院選挙で、郵政民営化賛成だったので、自民に入れた。今でもその考えは変わっていない。
自民が、民主の政策に対し財源がないと言っていることも頷ける。きっと足りない。
だが、自民よりは少し余計に無駄をなくしてくれそうな気はしている。全部言ったとおりできなくても(そもそも自民だって朝令暮改はいつものことだ。恒久減税なんて、そもそもできたときに信じるべきではない。この世に恒久なんてことは、あり得ない)。だから、アメリカやイギリスのように、時々政権が変わった方がいいのだ。緊張感が高まるし、民意は反映しやすくなる。
さて、その上で都議選だが、こと渋谷区に関する限り、選挙をする意味がよく分からない。定数2に自民の現職二人と共産の新人一人、普通に考えれば、現職ふたりの再任だ。
新宿区は4人に対して8人、以前住んでいた杉並区は、定数6に対して11人が立候補している。この区による定数の差が、本当に正しいのかよく分からないが、少なくとも投票に行くモチベーションは上がる。
よく見ると、自民党はビデオを流さない方針のようだ。
いずれにしても、もっとインターネットを活用した選挙運動ができるようにして、選挙にかかる費用を削減できるようにすべきだ。選挙のたびに言われながら、国会議員の皆さんは一向にこの点を改善しようとしない。さっさと変えろよ。
またこんなブログになってしまった。もっと内容のあるものを書かなくては。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年5月12日
民主党代表の後任
小沢一郎がようやく民主党の代表を降りた。
上がり始めた政府や麻生首相の支持率が、どの辺にその根拠があるのか解らないし、今回の補正予算を見ても、政府が小泉以前に戻ろうとしているように見えるのは、たぶん錯覚ではない。
ぼくは民主党支持というわけではないので、仮に民主党が政権を取っても、郵政民営化の撤回などということをしようとすれば、それには反対だ。といって、小泉支持でもない。最近では小泉-竹中の改革に批判的な人も多いが、ぼくはあまりそう思っていない。彼らのやったことは万全ではないし、規制緩和に関してもバランスが悪かったことはある程度事実だ。だが、規制緩和しなくて良かったのかと言えば決してそうではない。物事に完璧な成功や失敗などというのはない。
そういう意味では、麻生内閣の施策だって、いい面もあれば悪い面もあるといったところだが、景気対策として行った高速道路の1000円乗り放題なんていうのは、正直言って大失策だ。ぼくは元々(というのは温暖化などが叫ばれる以前から)、車の数が増えることには反対だった。ただこの反対は,大声で言っても仕方のない反対なので、今でも、そうは言わない。しかし、地球温暖化を闇雲に信じているわけではないが、少なくとも国家の政策としてCO2削減目標があるなら、車をたくさん走らせてどうする?と思う。
むしろ、運送業などの業務社だけ、高速道路を安くして、一般の人は高くすればいい。その代わり、JRの料金などを安くもできないだろうから、定額給付金の額を増やせばいいのだ。これには、車を運転しない自分自身のやっかみも少しは入っているが、高速道路を利用する一部の人間を利するようなやり方、しかもそのために国民から均等に取っている税金を投入するわけだから、構図としては、車を運転しない人間から金を取って、車を運転する人間に渡しているようなものだし、根幹は、トヨタを初めとする自動車会社へのてこ入れに過ぎない。エコカー減税なども含めて。
民主党の高速道路をただにするというのは、一見それより悪そうだが、必ずしもそうではない。無料になれば、料金所が全ていらなくなる。また、ETC]も必要なくなり、ETCで儲けている独立法人もいらなくなる。
かつてぼくは、税金を全て消費税にして、他の税金を全て廃止するという意見を書いたことがある。きっと税務署勤めの人たちと、多くの税理士さん、会計ソフト会社などからは噴飯ものの意見かも知れない。でも、税の徴収に関わる国や地方の仕組みは限りなく簡素化でき、経費削減になることは間違いない。
さて、話がそれ続けているが、小沢一郎の後釜に、テレビでは案の定、岡田、菅、鳩山という名前が取りざたされている。この旧態依然とした発想そのものが、民主党の、たぶん限界だ。個々に野田という名前が連なっても同じだ。
ここで政権奪取したいなら、せめて最低でも長妻、欲を言うなら馬淵、細野、蓮舫という名前を並ばせたい。
そして、馬淵か細野にやらせたい。細野はまだ40にもなっていないが、今、やらせてみたい。そもそもじじいにならなければ総理大臣になれないなどというのはおかしな話だ。
人間年を取ればそれなりに経験を増えるし、磨かれる能力もたくさんある。だがこと政治に関しては、必ずしもそれがいいことばかりではない。長いものには巻かれたり、勝手に清濁併せのんだり、失われるいい資質も多くあるのだ。
もちろん若いからといっていいわけではない。若くても上記の才能を持った政治家はたくさんいる。ことに自民党には多い。
世の中を変えるということは、時に危険と表裏一体だ。より悪くなる可能性だってないわけではない。だが、闇雲に独裁的に変えるわけではないから(議会制民主主義だし)、その一人の能力が全てを決するわけではない。年を取っていたって、1年で投げ出したり、「総理の専権事項」というこれこそ独裁的感覚の錦の御旗を掲げて、世論を無視しながら選挙を行わない、現状の総理もいるわけで、彼らだって、彼ら単独で政治を行っているわけではない。
30代40代の若手に(世間ではおじさんと言われる年齢ではあるが)総理をやらせ、アクティブに世の中を変えていくことが必要だ。
日本は大統領がいない。国民が直接国の代表を選べない。選挙で選ばれた政治家がそれを選び、あたかも国民の意思がそこに反映されているようにいうが、そこからはオバマは生まれてこない。アメリカ式が必ずしもいいとは言わないが、宮崎や大阪の例を見ても、直接選挙で選ばれたトップが行う政治は、代議制よりも身近である。少なくとも、おれは麻生を認めないという人間は、政府への不支持率という世論調査で、かなりの数に上るのが想像できる。彼を支える衆議院三分の2という数は、郵政民営化をと打て行われた選挙で勝ち得た数字だ。その中にぼくの1票も入っている。郵政民営化は当時も今も賛成だからだ。だが麻生政権は支持しない。ここにはぼくの1票は元より、誰の票も入っていないのだ。
ぼくは昔から、河村現名古屋市長に民主党の代表をやらせたかった。だが、彼が総理になることはないだろう。もっと若手にやらせたい。人生が80年くらいだとすれば、40歳はもう人生の半分だ。総理をやる権利は十分にあると思う。
細野豪志よ、馬淵澄夫よ、菅や鳩山、岡田など放っておいて、代表戦に出馬してくれ!
若いから心配で、年寄りだから安心などということはただの幻影だ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年4月12日
小沢一郎は辞めるべきか
ちょっとヤプログ!というところへ「うちでのこづち」を移そうとしてみたが、なかなかそれはそれで使いにくいことが解ったので、やっぱり自分のところで書こう。その間向こうに書いたやつは放っておいて。
この小沢は辞めるべきかというのは、もうだいぶ前から書こうかどうしようか迷っていた。何故なら、あまり世論と違うことが書けないからだ。面白くない。
とはいえ、献金問題から一月くらい経ち、定額給付金が一部で出(渋谷区はまだ何の音沙汰もない)、自分とはまったくと言っていいほど関係なさそうな追加の補正予算が出(免許を持っていないし、子どももいない、先日の高速道路の一律千円だって、何の恩恵もない。これだけ不公平なばらまきをされると、やっぱり自民党じゃだめだと、とっても卑近な感情で思ってしまう)・・・ご託が多すぎた・・・いずれにせよ麻生政権の支持率が少し持ち直すという、とっても解りやすい現状を見ると、ちょっと書いておきたくなったわけだ。
細川内閣から村山内閣までの一時期の連立政権を除き、この国はずっと自民党が政治を牛耳ってきた。しかもそのほとんどが、何らかの形で2世議員。
何でも変化がいいわけではないが、ある程度方向性の違う二つ以上の政権が、お互いに必要に応じて交代できる政治がいいだろう。少なくとも、一つの政権がある人々の利益を代表するのなら、その反対にある政権が別の利益を代表するに違いない。
基本的には国民という、決してすべてが一方向を向くことのない相対の利益を代表するという、あり得ない目標をおそらくは掲げながら、政権というのは運営されるが、明白にそれは、一部しか代表していない。
それが右に行くのか左に行くのか(右翼とか左翼とかいう意味ではなく)のバランスの中で、国民が選挙でどちらかを選べるようになってくれないと、昔のようであれば、せいぜい第2党が社会党で、政権担当能力などない。それでは選択肢がないに等しいわけだ。
今、戦後の政治の中で、このバランスをうまく作り上げることが初めてできるかも知れない。
ある意味、民主党の多くの政治家は元自民党だし、民主党になったら政治が良くなるのか?という疑問があるのも事実だ。民主党が政権を取るということは、行政と立法が今よりもぎくしゃくするはずだ。アメリカのように、政権に基づいた行政が形作られるわけではないが、少なくとも民主は、政治家を行政に入れることでそれに近いものを実現しようとしている。
次期衆議院選挙は、他はどうあれ、その体制を作るための重要で、しかもここしばらくでもごく貴重な選挙だ。
そんな中にあって、選挙がうまいという理由を少なくとも最大の根拠として小沢一郎を党代表に置いている。個人的には、小沢になった段階で反対だったし、知人にもそう言っていた。
そんな中で献金問題は、降ってわいたような好機だったはずだ。
その献金が、法的に正しいか間違っているかなど二の次だ。
これまでの自民党政治のように、多額の献金を企業から受け取って政治をしている人間が、トップにいることそのものが問題なのであり、それがこのところの世論調査の意味だ。
以前から、小沢を総理大臣にしたいと考えている人はそう多くはなかったはずだ。田中角栄や金丸のような政治家を必要とした時代は、確かに過去にあったのかも知れないが、そことは全く決別し、清心とは言わないが、自民党の昔ながらの政治家の対極にいる(ある意味小泉純一郎は、そのスタイルだけでもそうだったからこそ人気があったのだ)人物を、党の顔にすべきなのだ。
すでに小沢は辞めるべき最善の時を逸し、なおもその座に居座り続けている。その気持ちも分からないではないが(少しだけ)、引き際の潔さこそが、小沢の価値を高めたに違いなかった。
鳩山兄が、あのタイミングで辞めることは、検察の疑いを是認することだというような趣旨のことをテレビで言っていた。だが違う。
確かに、法的な根拠で辞めるのならばそうだが、これからの民主党にとって、自分は悪いことはしていないが、世間の目に政治家として旧態依然の者と見えるようなやり方で政治をしていたとすれば、トップには相応しくない。とでも言って辞めていれば、民主党株はぐっと上がったに違いない。
政治に金が必要なのは、いいことだとは全く思わないが、仕方がない。だが、その資金の集め方に対して、国民がどういう見解を持っているのかは、政治家として敏感でなければならない。
少なくとも小沢一郎は、その敏感さを持っていなかったともう。いや、持っている政治家は少ない。仮に自分自身が政界へ入ったとしたら、次第にその感覚を失うのではないかとさえ思う。おそらくそういう種類の感覚だ。
いずれにしても、遅いとはいえまだ遅すぎないから、さっさと代表交代をした方がよい。できれば若手の方がよい、しかり話のできる。思い切ったことをするタイミングだと思う。マスコミの効果もあり、岡田の名前が出ているが、彼はきまじめすぎてその器ではないと思う。
もちろん政権交代をしても、かつての細川内閣のような体たらくではだめだ。少なくとも、相互交代ができるくらい、しっかりした政策を、少なくとも最初の段階で流行ってくれないと。どうせいずれは批判まみれになるに決まっている。政府とはそうしたものだから、それでいいと思うが、順次交代できないと困ると思うのだ・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年2月 9日
公務員制度
天下りとか、渡りとか、昨今(では全くない話だと思うが)、かまびすしい公務員の待遇や決まりに関する問題だが、まずそもそもこの問題は、基本的に「キャリア」と呼ばれる上級の国家公務員だけの問題で、一般の公務員はあまり関係がないのだろう、
いろいろテレビやその他のメディアを見ながら思ったことをつらつらと・・・
まず、天下りの理由が判然としない。
同期の他の人間が出世して役職に就いたら、他の人間のポストがないので、肩を叩いて再就職先を斡旋する。って、どうして平で勤めていてはいけないの?この人達は、国家試験に合格したことが、ある一定以上の収入を、生涯にわたって確約されたと信じているのだろうか?だから、もうこれ以上給料増えないから、他で儲けようって。で、儲け先をいろいろ作り出したと。少なくとも、そう見えてしまう。
ぼくは、そもそも天下りだろうが、渡りだろうが結構だと思っている。官庁で働きたくないのなら、他へ行けばいい。だが、最初からそこに優遇されたポストや待遇を作って移るというのは、非常識きわまりない。
そもそも、それらの独立行政法人などは、どうして1年や2年勤めただけで数千万円という多額の退職金を払うのだ?それが一般企業で、勝手に儲かっているのならともかく、多額の税金で運営されているところだろう?すべてではなくとも、大量に流れているのは事実だ。そこが新入社員編みの退職金しか払わないようにしてしまえば、頑張って官庁に残って、平でも働くのじゃないのか?
さっさと労働争議権とやらをやって、一般企業並にすればいい。だからといって、今時ストなんかやってる会社があるだろうか?かつての労働組合と企業のせめぎ合いみたいなことはあまり耳にしない。もちろん、交渉はしているのは当然だが、それはあくまで交渉だ。
しかも、テレビを見ていて思ったのだが、今でも公務員の給料が安いと思われているらしい。もちろん、地方公務員など、安月給で頑張っている人たちはいるに違いない。でも、ことは国家公務員、しかもキャリアと呼ばれる人たちだ。いったいどの企業のどういう人たちと比べているのか?
日本の平均給与なんて、当てにはならない。しょせん大手の平均給与だ。
日本という国は多大な借金を抱えている。地方自治体ならとっくに破綻しているはずだ。
そんな破綻した企業の従業員が、高い給料で働けるわけがない。
しかも国が企業なら、総理大臣が社長だろうし、国民は株主だ。勝手に決めるな、と言いたい。
人事院なんて、会社で言えばただの人事部だろう。まあ、人事部は「ただの」ではないが、今の人事院の総裁というのは、人事部長としては鼻持ちならないオーラを発している。
公務員は国民が選出することはできないが、政治家はある程度意見が反映されている(何代も総理大臣が替わり、しかも以前の大臣とは意見が違うとのたまいながら、汲々と大臣職にしがみつき、いつまでも選挙をしないで笑っている総理もいるが)。
公務員はやはり公僕でいいんだよな。そしてその公僕たる職業に、高邁な精神で就こうという人が、いないはずはないと思うのだが。安定してたり、金がいっぱい入るから公務員という風潮そのものをどうにかしなければ、よくはならないのかな?
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 00:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年10月 6日
年金
年金について前々から思っていることをいくつか。
いろいろもめていて、社保庁のずさんな管理ばかりでなく、違法な改ざんや、無駄遣いなど、枚挙にいとまがないが、そんな中でも、議員年金などはきちっと払われて、しっかり管理されているのだろうな、等と思う。
私が思う年金制度のあり方。
1.年金は一元化し、国が管理する。
2.一元化とは、国民年金、厚生年金、共済年金、議員年金など、とにかく区別をせず、一つにまとめる。
3.これまで払ってきた金額は分かっているわけだから、すべての受給対象者に対して、同一の基準で、支払ってきた金額の合計を元に新たな算出基準を策定し、年金を支払う。
4.年金支給対象年齢を超えても尚、年間1千万円を超える収入がある人には年金を支払わない。
5.それ以下の年収社には、年収+年金が1千万円を超えない範囲で年金を支払う。
6.今後も、企業に勤めている人には企業が年金の半額を支払う制度は続ける。
7.年金の未払いについて、過去2年まで遡って支払える制度を改め、必要であれば、20歳の時点まで遡って、支払えるようにする。
8.年金は、受給資格を得るために25年の納入期間など必要としないようにする。
9.年金の納入は、税金と考え完全に義務化し、運用はせず、全額年金に使う。
と言ったところだ。
なぜ一元化ができないのかがまったく分からない。現状のシステムが違うと言ったって、所詮は、納めている金額の違いに還元できるわけで、それを基準に作り直せばいいだけだ。一元化できない最大の問題は、安定している共済年金や議員年金にしわ寄せが来るからに違いない。さっさと一元化すべきだ。
また、年取っても高額な収入がある人たちに年金を払う意味が分からない。それを当然の権利だなどとうそぶく元議員の老人達は、何を勘違いしているのかと思う。そもそも現行のシステムは、現在の労働人工が、高齢者の年金をまかなうシステムであるなら、それはもらう権利ではなく、払う義務だけが存在すべきなのだ。
もらう権利は、一定の年齢になって、収入がそれまでとは違って亡くなった人たちの生活をまかなうために使われるべきで、人生で大きな成功を収め、その年齢でも多額の収入がある人たちは、それを感謝して余生を送ればいいのだ。
年金とはそういうシステムであるべきだ。
また、現行の25年払わないともらえないシステムでは、そもそも40歳まで払ってこなかった人たちは、今後も当然払わないだろう。払ってももらえないのだから、当たり前だ。
たとえ少額でも、払った期間に応じて支払われるシステムに変えるべきだ。そうすれば、これから改めて払う人も出てこよう。同時に、遡って過去の年金を支払える期間を2年としているが、こんなもの、何年分でも遡って払えるようにすべきだ。そうすることができない理由が分からない。
現在のPCを持ってすれば、事務が繁雑になることも絶対にない。
こういう風に変えれば、頭でっかちの社保庁みたいな組織は必要ないし、年金は年金にしか使わないのだから(事務費は税金でまかなえばいい)、年金は収集と支払いだけが必要なので、広報もいらない。コンピューターだって、そんなにたくさんはいらない。人もいらない。非常にスマートになると思う。
もちろん、少子高齢化で足りなくなった年金は、税金でまかなわなくてはいけない部分もあるのだろうが、だとしても、現行よりは圧倒的に経費を削減し、無駄のないシステムになるに違いない。
たとえ、現状と同じ標準月額報酬の表を使ったとしても、支払い基準を同じにしてしまえば、サラリーマンは大きい金額を納めるわけだから、受取額も増えるし、国民年金では少なくなってもやむを得ない。
そもそも、この標準月額報酬や、厚生年金の率が毎年見直されたりもしているが、これもなんだか無駄な仕事を増やしているとしか思えない。
いずれにしても、厚生労働省や社保庁が行っている仕事の量を激減させ、そういうところにかかっている無駄な経費をすべからく年金に回すことの方が重要だ。また、年金が無くても余裕のある生活をできる人には、払わないということも重要だ。もちろん、この一千万円みたいな基準は、数年に一度見直されるべきだろうが、大きなインフレでも起こらない限り、きっと10年に1回見直せば問題ない。
と、こんな風に考えるのだが、こんな考えではうまくいかないとしたら、どこに問題があるのだろうか?多くの政治家や官僚が考えてもうまくいかないのだから、きっと大きな穴があるはずなのだが、どこに穴があるのか、ぼくにはさっぱり分からない。
もちろん素人考えなのだが、基本は、働いている人から集めた金で年寄りの生活を支えるシステムと考えれば、もちろん、受給額の算定や、納入額を決めたりするロジックは重要だろうが、逆に言えば、重要なのはそこだけで、なぜこんなにも、ぼろぼろなのかが、実は理解に苦しむところだ。
ほんと不思議だ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年9月15日
総裁選とか・・・
福田康夫が総理らしからぬ無責任な辞め方をし、自民党の総裁候補が5人立った。そしてそこから数日が経った。
そもそも、自民党の総裁は総理大臣になるわけだが、国民はその総裁選には手が出せない。テレビで候補の主張を聞いても、それが何に結びつくのかぴんと来ない。
一つには、自民党という一つの党内での争いであるから、誰になったところで彼らはあまり困らないという事情があり、その根本には、小沢一郎の無投票選出に対するアピールという色が濃いので、何かどこか白々しい。
麻生太郎、与謝野馨、小池百合子、石破茂、石原伸晃という顔ぶれは、テレビでもおなじみである。小泉純一郎が総裁になったときは、当初の予想を覆して総裁になったが、こういう形が実は、自民党にとっては望ましいのではないか。
つまり、麻生太郎当確という状況で、小池百合子や石原伸晃がひっくり返すというようなアピールの仕方が、来る総選挙を乗り切るための最大の武器ではないのか、等と思ってしまう。
麻生は、負けても負けても立候補するし、口も達者だし、マンガと秋葉原で一部の若者には人気があるかもしれないが、麻生で決まると、無投票再選の小沢民主と同じだし、そもそも、1年前の選挙で、麻生ではなく福田を押した人たちが、たった1年で、雪崩を打ったように麻生指示を言うのもいかにも感がある。
小池百合子を、これまでの渡り鳥的な政党変遷を見て”節操がない”という人がよくいるが、基本、政治家の節操などと言うのはそんなものだ。その点を見るのなら、世渡りのうまさを見るべきで、そういう意味と、女性候補である問2点では、総裁に相応しいように思う。尤も、小池百合子が自民党をまとめきることができるかどうかははなはだ疑問なので、小泉が押したくらいでは当選は難しいかもしれない。
石原は、テレビで語った2点、議員の総数を減らすことと、2世議員が、父親の地盤を継ぐことを禁止するということを実現してくれるのなら、是非とも総理になってもらいたいと思うが、なってもきっとできないだろう。
もっと言うなら、選挙の地元なんて、選挙の都度ランダムにシャッフルするべきだ。国会議員である以上、地元への利益誘導と票の結びつきを絶つべきで、天和国家のための政治を常に指向して頂かないと困る。
取り敢えず、生活は苦しいが、この際財政出動などと言っている人には、あまり総理になって欲しくはない。それと、与謝野馨は老齢だ。別にじじいは政治に口を出すなとは言わないが、もう少し若い総理の方がいい。
石破茂は、実は最も論理的に話す人で、その点は大変評価するが、いかにも防衛族で、気に入らない。
個人的には、石原になってもらうのが面白い。次が小池。ただし好きな政治家ではない。あるいは、麻生か与謝野で、早々に民主政権に変わるのもいいが、今の民主では、1年くらいでまた自民に戻る気がして仕方がない。
私は消費税増税大賛成派だが、ただしこれは、すべての税金、年金、保険を消費税に代えるという前提での大賛成だ。細かいことはいつか書こうと思うが、消費税はある意味非常に計算しやすい税金で、手間がかからない。その分で、国税庁、地方税務局、社会保険庁・・・諸々の組織を解体し、一つに集約できる。大幅な組織と人員のカットで、とてもいいと思う。
さて、総裁選が終わった後には総選挙が待っているらしいが、安倍政権も福田政権も、国民の裁可を一度も仰がなかったというより、安倍政権はNoを突きつけられたわけだが、今度はどうなるのだろうか?
昔から思っていることだが、選挙は、「この人になってもらいたい」という人と共に、「こいつには政治家をやっていて欲しくはない」という1票を入れることができるようにしてもらえないものなのだろうか?
あの、比例代表という曖昧な制度によって、安閑と政治家になっている上位の人たちを見ると、少なくともおまえに入れていないぞという人が結構多い。
まあ、政治家が自分たちに都合の悪い精度を率先して導入するとは思えないので、あくまで、遠吠えなのだが・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年6月13日
たばこが千円になるというお話
たばこを千円にするという「たばこと健康を考える議員連盟」なるものが結成されるらしい。
ぼくはたばこを吸わないので、現在いくらかすらよく知らないのだが、どうやら300円前後らしい。とすると、3倍以上に値上げを考えているということだ。
ニュースを見ると、「来年度の基礎年金の国庫負担率引き上げで生じる約2.3兆円の財源不足へのたばこ税充当がねらい(産経新聞)」ということなので、単なる増税が目的らしい。
先日、タクシーの多くが禁煙になった。公共の場所をすべて禁煙にしている自治体もあるようだ。
たばこ吸いの方々には、ほとんどいじめに近いような仕打ちに思えるかもしれない。
でも、喫茶店などで、喫煙大好きな方が近くに坐ったりすると、実はこちらがいじめに遭っているようなものだ。法律に違反しているわけでも、店が禁止しているわけでもないので文句も言えない。だが、たばこの煙は嫌いだし、副流煙によって健康被害も得ているはずであるので、こういうときはいつでも、ただただ不快になる。
喫煙者の人には世知辛い世の風潮だが、たばこのパッケージに書いてある、「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります」などの(他にもいくつかある)注意書きが事実であるなら、やむを得まい。
たばこを千円に値上げすると、おそらく禁煙に走る人も多くいるに違いないが、それでも止めない人が大勢いて、700円の税収増が、年間で数兆円をまかなえるという試算があるということは、計算すれば、どの程度禁煙する人が増えると予想しているのかが分かるはずだ。
ただ、国の計算は、多くの場合、楽天的で、夢想的なので、あるいは思った以上に禁煙する人が多いのかもしれない。
評論家の森永拓郎は、インタビューで、大量に買いだめし、冷凍保存をして値上がりしたたばこは買わないと豪語していたが、きっとこの人などは、昨今の禁煙ブームが腹立たしくてならないに違いない。・・・・あなたのたばこも地球温暖化に悪影響を与えている等というのは、やはり言いがかりに違いないが、ついそういう突っ込みすら入れたくなる。
いずれにしても、こんな人はいないので、どうしても吸いたい人は、自動販売機に札を入れてもおつりのでない状況に、ずっと腹立たしい思いをし続けながらたばこを吸い続けるに違いない。たばこの害に、ストレスという害を付け足されることになる。
その結果、思った以上に税収が上がらず、ましてや減収になった場合、国家はどうするのだろう?また税金を下げるのだろうか?
そもそも、たばこは身体に悪いから、国民のことを考えて、という発想なら、たばこを全面禁止でもいいようなものだが、麻薬や覚醒剤のような幻覚作用がほとんど無いから、依存性だけではなかなか近視もできない。ということで、高額にして、どうしても吸いたい人は多額の税金を払って吸ってください。
というのなら、税収が増えようが減ろうが関係ないので、いいはずだが、税収増額ありきで始めると、なんだか後々にうさんくささが残る。
仮に、もう吸わないと言って、国民全員が禁煙してしまったら、税収はゼロになるし、JTは潰れかねない。
ただそれでも、国民の健康のため、というのなら、政治家も賞賛に値するのだが・・・・
未成年に自販機でたばこを買わせないために多額の費用をかけて始まったTASPOだが、なかなか持つ人が増えないらしい。都内ではまだ始まっていないので、実感もないが、この、未成年に吸わせない目的というのも、昔から疑問を持っている。
未成年の喫煙に関しては「未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。周りの人から勧められても決して吸ってはいけません」という記載がたばこにあったりするらしいが、未成年だけに悪いわけはないと思うのだが、未成年だけに禁止している。
20歳の誕生日を過ぎたら、急にたばこの健康被害が減少するはずがない。
高校時代、多くの友人がたばこを吸っていた。大学では酒もたばこも当たり前だった。30年くらい前の話だ。
現在では、そのあたりは非常に厳しい。ゆるめろとは言わないが、かつて高校時代にたばこを吸っていた大人が、今そういった決まりを作っているような気がしてならない。
もちろん、大人になって分かることがある。
例えば勉強をすることなどは、子供の頃より、大人になってからの方が楽しかったりするし、あの頃もっとやっておけばよかった、等というのは、多くの人が体験することだろう。たばこだって、かつて自分は高校生の時に吸っていたが、やはりよくないから、禁止にしようというのであれば、筋も通っている。
でもなんだか、闇雲に法をかざして禁じているようにしか見えないのだな、これが。
国がたばこに関して決めごとをするとき、WHOの勧告などに沿うように、本当に国民の健康被害を考慮しているように見えないところがどうも素直に訊けない部分だ。
とはいえ、千円にして、少しでもたばこを吸う人が減ってくれるのであれば、ぼくのような人間は、その本来の目的がどこにあろうと、結果オーライなので、賛同するしかない。
もし自分が若い頃にたばこを吸うようになっていたら、性格上、なかなか止められなかったと思うし、止めた方がいいと思っても、国に対して文句をたらたら言っていたかもしれないな、とは思う。
ぼくがたばこを吸わなかったのは、周りが見なすって板からだし、おやじもヘビースモーカーだったからだ。
それらの人に感謝しなければいかんな、と思う。
たばこの好きな方々にはかわいそうだが、このまま、公共の場所、公園や飲食店なども含んだ、施設なども広く禁煙になってくれることを祈りたい。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月 7日
参議院議員の新宿舎
このところ、参議院議員の新たな議員宿舎がニュースなどで問題になっている。
しばらく前に、赤阪の衆議院宿舎が問題になったばかりなのに、またぞろこんな問題という感じだ。
ニュースなどで言われているように、赤阪の議員宿舎が開いているんだったら、そこに入れば、基本的には済む問題だ。慌てて、別の衆議院宿舎から議員を移そうなどと言う姑息なことをしようとするから、政治家は信じるに足りないと思われるのだ。
今度ばかりは石原都知事や猪瀬副知事に方向性は賛成だ。
だが、そもそも、赤阪宿舎の折りに言われていた、安価すぎる家賃などが解決されなければ、議員宿舎そのものに反対だ。議員も官僚も、国家が建てた宿舎を利用するなら、相場の料金を払えということだ。
そうなれば、敢えて宿舎を建てずとも、民間の物件を借りてもいいことになる。
高くて借りられないのなら、東京に借りる必要はない。近県に借りて、電車で通勤すればよい。
地球温暖化がこれだけ声高に叫ばれ、二酸化炭素などの排出ガスを減らすことが世界中の目標になっているとき、たとえわずかでも、その二酸化炭素を酸素に帰る森を切り開いて自分たちの宿舎を作ろうという議員に「良識の府」などと誇りを持って語る資格はない。バカばかりだ。
バカばかりというのは、少なくとも、大声を出してこのことに反対しているのがあくまで都側で、内側からの意見としては非常に声が小さいからだ。確かに何人かは衆議院宿舎に入ればいいなどと言っている人たちもいるようだが、もっとしっかり反対して欲しい。
こういうことは、しっかりと反対意見を言うだけの価値がある。
国の借金がいくらあるというのだ。借金があるのなら、そこで働く人間が、まず質素に生きろよと言いたい。
何かの番組で、世耕弘成がこの件について、今更やめれば違約金が6億もかかり、それでは無駄な税金を使うことになるなどと言っていた。違約金は決めた人間の給料から払えよ。
何だかこの件は異様に腹立たしい。どんなに選挙があっても、所詮こいつらの多くは再び政治の世界に立つ。
限りなく政治家は儲からない、ボランティアのような職業にして、それでも国のためにがんばりたい人間にやって欲しい。・・・まあ、僕には無理だが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月 4日
帰属意識ということ
星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
というより、そもそも民族って何だ?
広辞苑にはこうある
(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。
なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。
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2007年9月 4日
死刑のお話
先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年8月26日
飲酒運転は一発免停っていうのは?
福岡市の職員が、悲惨な事故から1年、また飲酒運転で事故を起こした。
今回はバイクで、しかも被害は本人だったので、論調はもっぱら、過去の教訓や、自治体関連の飲酒運転などのようだが、そもそも飲酒運転は、昨年の児童3人死亡以外でも、多くの悲惨な事故を起こしたり、死亡に至らなくても多くの事故を起こしているのは間違いのないことだ。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むなという、比較的誰でも知っている標語は、とても正しい。飲酒だけが交通事故の原因ではなくても、飲酒運転が事故に繋が確率は高いし、大事故になる確率も高い。
以前から思っているのだが、飲酒運転は即免停、二度と免許を取らせないという法律は作れないものだろうか?
飲まなければいいわけだから、そういう法律があっても、困らないと思うのだが。
罰もちっとも重くないと思うし、ただ飲酒運転をしなければいい、それだけのことだ。
別に刑務所にはいるわけでもない。これだけ世の中で騒がれても、車に乗る前に酒が飲みたいのであれば、車の運転をさせない変わりに、どうぞ思い切り飲んでくださいということだ。
国会議員の方で、万が一このブログを読んだ方、ぜひ検討して欲しいものだ。
人間間違いは誰でも犯すが、犯してからでは遅い間違いもある。飲酒運転で死亡事故っていうのは取り返しが付かない殺人だ。被害にあった人たちだけではなく、多くの人たちが、飲酒による死亡事故は一級殺人だという認識を持たない限り、こんなことはなくなりはしない。
ぼくはどちらかというと性善説だが、いい人が罪を犯さないわけではない。罪を犯せない環境を作ることが大切だ。
飲酒運転による死亡事故の厳罰化は、必要なことだが、それ以前に、飲酒運転をさせないもっと効果的な施策が必要だ。
飲酒運転を1回でもした人間には二度と車の運転をさせない。とっても簡単な解決策の一つだと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月31日
反省するべきは反省し・・・
参院選が終わった。
本当にそんなに自民が負けるのか?と思っていたが、それ以上だった。
あれだけ負けても安倍さんは辞めないらしい。確かに衆議院選挙ではないし、法的には辞める必要もないのかも知れないが、物事は理屈で考えれば、政権への「No」が大分入っていることは解るはずだ。
元々安倍さんは好きでも嫌いでもないが、この数ヶ月、総理としての発言を聞いていると、嫌になってきた。ほとんど発言が曖昧で、「美しい国」などという、非常に感覚的な意味の解らない表現を使うし、そのくせ、強権発動的な側面もある。端的に見て、自分が考えることだけが正しいと考えているように写った。
小泉純一郎が必ずしも良かったとは思わないが、国民の支持を多く集めるすべを知っていた。これは例えば、石原都知事を私は嫌いだが、彼が都知事2期の間にやってきたことは、マイナスよりもプラスの方が多かったと評価はしている。それと似ている。
個人的に自認せよとは思っているわけではない。少なくとも自認する前に、これまでどういう風に考えて政権運営をし、どうこれからしていくのかを、せめてこちらが解る言葉で教えて欲しい。
今回の敗因が、紛失した年金問題と、失言、政治と金だけに、少なくとも自民党の多くの政治家があると思っているようだが、年金問題などは、安倍政権のせいではないし、失言も基本的には個々人の考え方や資質の問題だ。政治と金の話だって、もちろん自民党が最も問題をはらんでいるとは思うが、民主党がそうではないかと言えば、そうではない。民主党の党執行部はみんな元自民党だ。
テレビでは「空気が読めない」という表現を、何人かが使っていたが、例えば赤城農水大臣だって、空気が読めないわけではあるまい。どちらかといえば、都合が悪いから説明責任を果たさないだけだ。一つには、本当に知らないのだろう。自民党議員で閣僚のくせして、自分の言動が、今度の選挙にどんな影響を与えるのかさえ、解らないのは、でもやはり、空気が読めないのかも知れないが。
どちらかというと、自分のことに精一杯で、人のことなど顧みられないのではないかと思える。政治家をやっていて欲しくない。
今回、東京都は改選が5議席になって、結果は、民主2、公明1、無所属1、自民1という結果だったが、保坂さんぞう氏が負けたのは当然の結果だと思っている。それでもあそこまで票を集めるのだから、組織力はすごいと思える。
自民党に逆風が吹いている間、保坂氏はなりふり構わず組織票にしがみつき、丸川氏にそれを回さないという意向をテレビのインタビューで答えていた。自分の票をまとめることに躍起になり、他が見えていなかった。しかし、組織票という固まりは、個人の集まりである。
選挙で同じ党から出馬している若手候補のことなど考えていられないと言っている男が、政界で一体誰のために何をしてくれると期待できるのだろう?私が自民支持で、保坂氏に投票しようとしていたとしても、この時点で鞍替えしたろう。前記の赤城農水大臣と同じ利己主義者だ。
尤も、3年間選挙日程無かった丸川珠代に世間は甘すぎる。他のことならいざ知らず、立候補者が過去3年投票に行っていない。しかもテレビキャスターだ。その3年間にテレビで一度も選挙に行こうという呼びかけをテレビを通じてしなかったのだろうか?
片山さつきが「誰にでも間違いはある、再チャレンジさせてください」と街頭で応援をしていたが、再チャレンジは次回の参院選でするべきだ。
もちろん政治家は、国会を含め、当選後に何ができるかが最も重要だが、少なくとも立候補者たるべき者、これまで選挙にしばらく行っていませんでしたというのは、「投票に来てくれ」という資格がない。しかもテレ朝のアナウンサーではなおさら始末が悪い。・・・それでも当選するのだ。たいしたものだ。
そもそも、政治家でなければこんな批判には当たらないことも多い。しかし、いやしくも政治家を志すのであれば、それが求められる。
街頭のインタビューで安倍さんは下から足を引っ張られてかわいそうということを言っている人があった。しかし政治家であり、一国の総理たる者、その程度の人間を閣僚に選出したことの無能をこそとがめられるべきで、決してかわいそうなことはない。
安倍以外に人材がいないという話もたまに出る。
自民内であれば、誰にでもやらせてみればいい。それほど違いはないはずだ。
あるいは、解散総選挙をし、一度民主に政権を取らせた方がいい。
政治家は、政権を取ると「信任」と勘違いする。
現状では、少なくとも国民の半分以上は、その政党を選択した、それだけに過ぎない。そのことを肝に銘じるべきだ。その上で、民主と自民でいいから、互いに切磋琢磨していい政治をやってくれればいいのだ。少なくとも、一党だけが継続的に政権を取るよりはいい。現代は。
自民党が敗北し、与党から「これからは議論を尽くす」とか、野党の意見も聞いてという言葉が聞かれる。安倍総理自身も言っていた。ということは、これまでは野党の意見など聞く必要はないと思っていたわけだ。
少なくとも国民の何割かは野党支持者だ。その意見を一顧だにしないという態度はそもそも間違っているので、与党が衆参両院で過半数を持っていても、自分勝手に何でも決めて言い訳ではないのは明らかだ。
そんなことも含めての今回の結果であることを内閣と総理大臣は解っているようには到底思えない。
安倍さん、まず「美しい国」って言うのを禁句にしてください。・・・ここまで来るとその言葉に腹が立ってくる。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 02:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月25日
参議院議員選挙
あと5日ほどで参議院の選挙だが、ニュースや広報、テレビなどを見ていてもまだ誰に入れるかは決まらない。
自民に逆風と言うが、そう言い続けるとその逆になることもある。
逆風の原因がどこにあるかというと、必ずしも今の自民党が悪いとは言い切れない社会保険庁のデータが無くなった件や、相次ぐ閣僚の失言、疑惑などで、何となく立場が変われば民主からも十分出てきそうな話題ばかりだ。
ただそれでも、衆議院や参議院の半数弱は野党なのだから、相次ぐ強行採決というようなやり方はあまりよくは見えない。真っ向から反対し、相容れない部分は、最終的に多数決もやむを得ないが、それでも歩み寄りは必要であるように思える。
というと、自民は歩み寄っていると言うし、野党はそうではないという。自民は議論を尽くしたといい、野党は足りないという。ここにはあまり大人の解決は望めそうにない。
ただ、いろいろな疑惑を持たれながら、ルールに則っているからいいという態度を崩さない大臣などを見ていると、あの人にはやらせたく無いとも思える。尤もそのほとんどが衆議院なので、今回はあまり関係がない。
比例区と、選挙区の選挙管理委員会がまとめた資料がポストに入っていた。
これだけで十分なような気がする。無所属や諸派の人たちのものは大変面白い。
神田敏晶さんのインターネットをもっと選挙に活用して無駄を省くというのは、昔から僕も思っていたし、さっさとやってほしいことの一つだ。でも、彼に1票入れて、それが実現するだろうか?
テレビで、保坂さんぞうは組織票、丸川珠代は認知度で浮動票のようなことを言っていたが、これだけで、自民には入れたくなくなる。そもそもこの組織票なる物、「癒着」をそのまま表明しているようにしか、僕には見えない。選挙の根本が何かゆがめられている。
といって、公演で、歌い上げているすずきかんや、その後に例の「目に入らぬか〜」と、民主党のロゴが入った印籠を高々と上げているじいさんがいるような民主党も、ため息をつくしかない。
社民党は9条を守れしか言わない。今のままの9条だって、自衛隊は海外へ行くわけだし、本当にそれを阻止指定のなら、より強固な憲法への改憲を叫ぶべきではないのだろうか?9条を守ることが平和への道を守っていることになるのだろうか?
公明党は、興味がない。
共産党は、実は結構いいことを言っているが、そもそも共産主義をいつまで標榜しているのだろうか?言っていることを全て実現できたとしたら、きっと日本は大きく変わるだろうが、必ずしもいいことばかりではない。
ドクター中松がなぜあれほど政治家にこだわるのかがよく分からない。きっと、黒川紀章と一緒でお金が余っているに違いない。
実は全ての候補者がそこそこいいことを言っている。問題はその実現性だし、方法論だ。さらには賛同できない部分ににある。
年金問題を今のままでいいなどといっている人物はいないし、政治と金の件だって、透明度だとか、お金をかからなくするだとか、選挙の時に、悪いことを言う人はいない。
それでもいざ議員になると、集団力とでも言うのか、自分たちに都合のいい法律を作って「ルールに則っている」という。そりゃ自分たちで作ったルールだから、よくできているはずだ。
先日「封神演義」を読んだのだが、中国の古代の賢君や理想は、どんなときでも、水戸黄門と一緒で、まず庶民だし、そのために努力するのだ。まさに理想なので、その通り実現できないのが世の常だが、多くの政治家を志す人たちが、理想を求めているのだと信じたい。
でも結果そうではないのだよな。
一体この矛盾はどこに原因があるのだろうか?有史以来、数千年経っても人類は理想的な国家運営や世界を構築できていないところを見ると、自ずと限界があるのかも知れない。
選挙もまた、妥協なのだよな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:33 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年7月 3日
久間大臣の辞任
下に引用した発言に絡み、久間元防衛大臣が辞任した。
世間の反応はそれこそ「しょうがない」なのだが、それより気になるのは、本人がやめる理由だ。久間氏は、表面上は自ら辞めたことになっていて、安倍総理に辞めさせられたわけではない。
ところが、辞めたときの彼の発言は、自らの失言(本音であれそうでなくとも、防衛大臣が言うべき発言ではないのは明らかだが)を悔いたわけでも、長崎市長などには申し訳ないといいながら、その実全く申し訳なく思ってなどおらず、「参議院選挙」に影響するから辞めるというものだった。
以前、久間氏の別の失言問題の時に、議員の誰かが、久間氏を評して、非常に頭のいい人だということを言っていたのを記憶している。勉強はできるのかも知れないが、とうてい頭のいい人物とは思えない。
ことの問題は、私的に彼がどういう思想を持っているのかということではない。
戦争は勝者と敗者が概ねいる。60年前の戦争は、日本が敗者だったし、連合国が勝者だった。
結果的にソ連が進行しなかった歴史的事実と、原爆の投下による終戦を結びつけることは、理論的には無理はない。また、アメリカが原爆を使用したことを「しょうがない」と考える考え方も、理屈としてはあり得る考え方だ。
しかし、被爆国に住む日本人が、そのことを「しょうがない」といってしまって、まして、国の中枢にいる人間がそういってしまうことは、原爆によって死んだ人たちを、自分たちの単なるスケープゴートにしてしまう行為だ。
彼らを殺すことで、残りの日本人が助かったのだから、宜なるかなとは、研究者の言葉であって、防衛大臣の言葉ではない。九州の方言だみたいな逃げ口上は、いかにも政治家臭くて、間が抜けてる。
いずれにせよ、彼は辞めたわけだが、それも参議院選挙で自民党が負けないためだ。こういう行為があると、是が非でも負けさせてやりたいと思うのは、必ずしも感情的な意味ばかりではない。彼らが、選挙を目的に行動しているということだ。
選挙目的は悪いばかりではもちろんない。いい政治を行えば、選挙で票を集めることができるからだ。しかし、付け焼き刃や、選挙で負けないためだけの行動というのは、例えば今度の久間氏の辞任であったり、会期を延長してまで、あたかも国民全てが望んでいる法律であるかのようにして法律を通すやり方であり、そうでないかもしれなくても、久間氏の後任に小池百合子を据えるやり方である。
自殺した松岡氏も久間氏も、きっと人間的にはいい人なのだろう。でも政治家としてはまた別だ。
何とか還元水と、事務所費の話は一体どこへ行ってしまったのだろう?
【久間氏の発言要旨】日本が戦後、ドイツのように東西が壁で仕切られずに済んだのは、ソ連の侵略がなかったからだ。米国は戦争に勝つと分かっていた。ところが日本がなかなかしぶとい。しぶといとソ連も出てくる可能性がある。ソ連とベルリンを分けたみたいになりかねない、ということから、日本が負けると分かっているのに、あえて原爆を広島と長崎に落とした。8月9日に長崎に落とした。長崎に落とせば日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止められるということだった。
幸いに(戦争が)8月15日に終わったから、北海道は占領されずに済んだが、間違えば北海道までソ連に取られてしまう。その当時の日本は取られても何もする方法もないわけですから、私はその点は、原爆が落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったんだ、という頭の整理で今、しょうがないな、という風に思っている。
米国を恨むつもりはないが、勝ち戦ということが分かっていながら、原爆まで使う必要があったのか、という思いは今でもしている。国際情勢とか戦後の占領状態などからいくと、そういうことも選択肢としてはありうるのかな。そういうことも我々は十分、頭に入れながら考えなくてはいけないと思った。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月26日
選挙
参議院選挙の日取りが7月22日から29日になった。夏休みに食い込んでいるので、投票率は下がるだろう。選挙にいけいけと、むしろ投票率を上げなくてはいけないはずの政府が、みすみす投票率が下がる可能性のある選択をしたというだけでも、今度の政権に対する支持率の低下は故のあることだ。
さて、現在の選挙は、小選挙区比例代表並立制が採られているが、いつでもこの制度を不思議の思う。
まず比例代表という仕組みだ。
選挙というのは、政治家を選ぶものだが、時には政治家を落としたいこともある。
しかし、この比例代表という選挙は大きな政党の上位にノミネートされて居さえすれば、選挙運動などしなくても通ってしまう。しかも、小選挙区と重複立候補などという、こちらは民意を無視した制度までおまけに付いている。小選挙区で落選し、救済のようにして当選した議員は少なからずいる。
そうして選ばれた多くの議員が、あたかも国民から選ばれたと言っているのは非常に片腹痛い。
少なくとも民意を反映して選ばれているのは選挙区で立候補した議員だけだ。
政党に投票することが、政党の上位に名前がある議員に投票しているわけでは、必ずしも無いことは明らかだ。
個人的には昔の全国区の方がいい。宮田輝が大量得票しようが、それでもかまわない。
同時に、こいつは議員を辞めてもらいたいという落選投票制度も作って欲しいものだ。
若い人が選挙に無関心だという。だが、民主主義というのは多数が少数を支配する制度なので、共産党支持者は日本ではとうてい大勢を占めることなど無いと思いつつ、きっと投票しているのだ。政党政治の中で、少数でも「意味がある」行動を取れるという見方もあるかも知れないが。
今国会の自民党の強行採決などを見ていると、悪しき民主主義の側面という気がして仕方がない。
ただ不思議なのは、同じ政党とはいえ、皆が同じ意見だとは思えないのに、採決をすると同じ政党の議員は同じ態度を採るということだ。
以前の郵政民営化の時くらいだろう、あからさまに党内対立が起こったのは。
ただその方が人間らしい。
百年大丈夫と言って決めた年金制度だって、こんなに色々ほころんでいるのに、大丈夫なはずはない。そうやって信用できない法律をどんどん作り、美味しい思いをしているのは一部だったりする。
実はこれは人類の歴史のほとんどがそうだったのかも知れないし、これからも変わることはないのかも知れない。などと思えてしまうのだ。
でもだからと言って、街頭で歌を歌ったり、印籠もどきを高らかに上げて平成の水戸黄門を自称しているようなじいさんが居る政党に一票入れるのかと思うと、泣けてくるのだ・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年5月30日
やじ
やじは漢字では通常野次と書く。弥次と書く場合もあるようだ。どちらも当て字らしいが。
やじには二つの意味があって、一つは野次馬のこと、そしてもう一つはやじることだ。
広辞苑で「やじる」を牽くと
(「やじ」を活用させた語) 第三者が当事者の言動を、大勢に聞こえるよう大声で非難し、からかう。また、一方を応援するのに他方の言動を嘲笑し、妨害する。「議長を―・る」「会場で―・る」
とある。
つまり、やじにはそもそも嘲笑とか妨害の意図があることになる。
今日の党首討論会を見ていて、改めて思ったのだが、国会中継の時のあの議員たちのやじはどうにかならないものだろうか。とても頭が悪く見える。
もちろん国会議員のやじには、それなりの根拠や意味があるのだろうが、テレビなので見ている限り、邪魔だし、こんな人たちを選挙で選んでいるのかと、暗澹たる思いになる。もちろん、やじだけでは「暗澹」は大げさかも知れないが、それ以外の、いつでも紛糾している政界の有り様と合わせ技一本の「暗澹」だ。
発言する人間は、時折やじに怒りを向ける。しかし、大臣などの立場でない限り、発言者でなくなった場合には、やじっている人も多いだろう。
予算委員会や、党首討論などで、このやじと、「質問に対する答えがない」という二つが、見ていて、とても無駄を感じる。
よく野党が、議論を尽くせと言い、与党が十分に尽くしたという。
しかし、例えばこれは代表質問に限らないのだが、質問に答えないという非常に不誠実な態度を、多くの政治家が採る。
そして、何度もこのやり取りをする。その結果代表質問の時間は非常に無駄な時間を費やして終わることさえある。
先日自殺した松岡元農相の、「適切に報告している」という、実は党から規制されていた(らしい)回答もその一つだ。何回も堂々巡りをしていた。
それに対して、発言者が「その答えは、発言者も、国民も、マスコミも、ここで明確にできない何らかのことがあったと解釈してよろしいと言うことですね」みたいなことを言ったかどうか・・・・
しない回答は、その質問に含まれる疑惑を肯定したのと同じというスタンスを、どんどん採ればいいと思うのだが。
政治家は特に、「断言」をしたがらない人種だし、それは当然のことだが、当然であればそれを許していいのかと言えばそういうことではない。
政治家も人間だし、色々あるに違いない。しかし、よりよい政治や政治家を求めるのは国民の権利だし、それができない人間は立候補などしなければいいだけの話だ。
そう言う意味では、あのやじが持つ騒音は、僕には不適正な人物に思える。
あのやじがなくても、政治はできるだろう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月21日
統一地方選
先々週の都知事選に続き、渋谷区では渋谷区長と区議会議員の選挙が明日に迫った。
今も、窓の外を、昭和を感じさせる議員の名前だけを連呼する囂しい選挙カーが行き過ぎていった。そしてお願いされるのだ、あなたの一票で議員にさせてくれと。・・・議員とはよっぽど楽しい職業らしい。
街宣車で名前を連呼することで行う選挙運動は、ぼくが子供の頃から変わらない。これを旧態依然というのだろう。うるさいだけで、意味を感じられない。国会議員と違って、ただでさえ興味薄な地方議員の選挙だ。こう芸がないと、いささか「若者の選挙離れ」など責められたものではない。
ホームページで渋谷区役所を見てみると、候補者の一覧だけが出ている。
知事選の時にも見た「ザ・選挙」というホームページは、7割くらい、写真が載っている。実際のところ、区議会議員の顔など判らないし、名前も知らない。渋谷へ越してきてまだ2年経っていないので、これまでの区議が何をしてきたのかもよく分からない。
そんな中で45人の内、マニフェストを掲載しているのはわずかに2名。ホームページが掲載されている議員もほんの数名だけだ。実際にはホームページを持っている人はいるようだが、このサイトからリンクされていない人が多い。
このサイトはJanJanというNPOの運営のようだが、数少ないまとまった情報サイトの活用すらしようとしない立候補者を見ていると、やはり個々にも旧態依然の言葉を持ち出したくなる。
郵便受けには各候補者・・・と言っても一部だが、・・・が無作為にビラをつっこんでいく。
それすらない候補もいるわけだ。
マニフェストそのものを作る行為は、確かに大変なことだが、言ってみればそれこそが立候補者のなんたるかを知る核となるわけだから、ないと困る。横文字使わなくても、選挙公約だ。
それが見えない議員に投票などしたくもない。
駅前での演説も、ごく一部しか耳にすることはない。
マニフェストを作ったら、せめてそれをホームページに上げることくらい、たいしてお金も手間もかからないと思うが、何故やろうとしないのだろう?
公職選挙法で、ホームページを使っての選挙運動ができない・・・つまり選挙中はホームページを更新できない・・・というのは、空しい制度だが、制度である以上仕方がない。しかし、選挙に入る前に用意して、掲載しておけばいいだけの話だ。その時間がなかったというのなら、立候補に値しない人物だ。
いずれにしたところで、そういった基準も、投票を決める一つの要素だということだ。
ところで、同日の渋谷区長選挙に、宅八郎が立候補している。
区長の立候補者は4名だが、さすがにこちらはマニフェストが判りやすくなっている。但し現職はよく分からない。
意外に宅八郎のマニフェストは充実している。もちろん、できるかどうかは別の話だが。
何となく現職が強い感じはする。都政と同様、渋谷区のこの4年はそれほど不満は少なかったに違いないからだ。
ちなみに、全く関係ないのだが、ぼくの家は世田谷区との区界が近いために、世田谷区議の立候補者の選挙カーも付近を通る。
・・・・あおぞらこうじ・・・って議員だったのか。改めて知った。・・・げろげーろ
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 17:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 6日
Youtubeの政見放送
昨日の続きのようだが、Youtubeに対して選挙管理委員会が掲載された政見放送の削除を求めたという。
これは外山恒一のものだが、過激というか荒唐無稽というか、まさにエキセントリックではあるので、投稿されたものだろう。
さて、削除依頼の理由がちょっと引っかかる。政見放送は、公職選挙法で回数が定められており、不公平だというのだ。
そもそも、限定された時間に放送される政見放送は、偶然か、よっぽど興味を持って見ようとしなければ、特に地方選挙などの場合、見逃す。回数も決して多いわけではない。
インターネットの普及率もこれだけ上がっている中、選挙委員会が選挙期間中、ストリームで流すくらいの事はして欲しい。
不公平といえばむしろ、特定の候補者しか放送しないマスコミの報道の方が不公平だ。但しこの不公平は、必ずしも公平な報道を、国民も求めているとは言えないので、やむを得ない側面はある。
選挙が大切だの何だのといいながら、投票率を上げるために行われているのは芸能人を使ったCMだったりする。
ネット上で、個々のホームページではなく、選挙管理委員会が、立候補者の経歴だけでなく、マニフェストや政見放送を、いつでも自由に見られる環境を整えることの方が、より公平性も保たれるし、見たいときに見られる。
選挙に行って欲しいのなら、行く側の立場に立った選挙改革が必要だ。いつまでも古い公職選挙法で時代にそぐわないやり方は変えていくべきだ。
ポスターをぺたぺた街角に貼ったり、フリーペーパーまがいのものをポスティングしたり、それもなくなりはしないだろうが、数を減らして、その分をインターネットに回すべきだ。
インターネットを使えない人もたくさんいるだろうが、使える人には非常に便利なわけで、少なくともその流れが逆行することはあまり考えられない以上、一日も早く、選挙運動に無駄なお金が、少しでもかからなくなるように、ネットワークを利用してもらいたいものだ。
・・・・といっても、お役所のコンピューター関係の予算を見ていると、とうてい世間相場でそれらのことができるとは思えないんだ名これが。ホームページだけで何千万もかかるなんて、考えられないからな。少なくとも現在の機能くらいじゃ・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 4日
都知事選
来週の日曜日が都知事選の投票日だ。
今回は14人も立候補している。立候補する前から100%落ちると解っていても、立候補するのは、果たして意義があるのだろうか?かえって無駄な税金がかかるのじゃないだろうか?何て思ったりする。
http://www.senkyo.janjan.jp/election/2007/13/00005580.html
が都知事選に関して比較的詳しいページだが、易学者に風水研究家、勝訴証拠評論家(どんな職業だ?)にディレッタント(要するに遊び人?)、Youtubeで見られる外山恒一の政見放送など、思わず笑ってしまう。話題性はあるし、ある意味民主主義の最大の問題点を浮き彫りにもしている。
今回の都知事選で、そもそもテレビが取り上げるのは、石原、浅野、黒川、吉田の4候補、おまけのようにドクター中松と桜金造、これは、どのテレビ局も同じだ。他の候補やその政策などに、テレビで触れているのを見た記憶がない。もちろん、インターネットでも何もない。街頭のポスターも見たことがない。
彼らが何のために立候補しているのか、私には全く解らないし、意味も感じない。
世論調査など出る前から、石原慎太郎と、浅野史郎が本命対抗なのは分かり切ったことだ。
しかも浅野史郎は当初から煮え切らず、出るのかでないのか解らない。オリンピック問題も、最初は仕切り直しみたいなことを言って、反対と入っていなかったのに、今では堂々と反対し、民主党の支援もついに受けることにしたようだ。絶対に戦略ミスだろう。
石原都政の悪いと思えるところはたぶんいっぱいある。個人的な発言や、考え方は、どうも自分自身とそぐわないと感じることも多い。でも、青島幸夫より、目に見える形で結果をある程度出してきたことも事実だ。
桜金造だったか、「私は福祉しかやりません」といっていたような気がするが、それじゃ通るわけがない。東国原さんとは、同じタレントでもだいぶ違う。
浅野史郎が強く言う情報開示はいいことだと思うが、それだけで都政が変わるとは思えない。
都民としては、なかなか難しい選択だ。昔から、ドクター中松に一度やらしてみたかったのだが、さすがに年を取りすぎた感じは否めない。石原、黒川よりもさらに上だし。
黒川紀章など、自分が金持ちであることを自慢しに来たとしか見えない。
選挙というのは、国民が政治に参加することだとよく言う。
しかし例えば現状で、ドクター中松に入れたとしたらどうだろう?その一票は絶対に無駄になる。これは間違いない事実だ。今の民主主義というのは、二つにせよ三つにせよ、それぞれの陣営が拮抗し、尚かつ対立軸がはっきりし、自らがどちらを支持するのか、という観点に立たないと、決してその国の政治に、少なくとも選挙という形で与することは難しい。
しかも政治家は、当選すると、自分の主義主張が、全て国民に支持されたかのような錯覚に陥る、あるいはそう装う。
今回の都知事選であれば、マスコミに取り上げられる4人のうちの誰か、もっと言えば、石原に入れるか浅野に入れるかの選択を迫られているわけだ。
これはまさに、国政で自民党に入れるか民主党に入れるかを迫られているに等しい。それぞれがそれぞれの候補を応援しているからという理由ではなく、自民に入れるも民主に入れるも、ため息が出る難しい選択だというような理由による。
でもまあ、「係わる」という姿勢、気持ちをなくすと、何も言えなくなるから、取り敢えずは投票に行こう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年2月28日
君が代伴奏拒否:教諭の敗訴が確定 という記事に関するお話
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070228k0000m040012000c.html
http://www.sankei.co.jp/shakai/jiken/070227/jkn070227018.htm
http://www.asahi.com/national/update/0227/TKY200702270392.html
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070227it12.htm
各新聞社の記事だ。
この最高裁の記事は妥当だと思う。逆に、君が代や日の丸に何を期待し、何を嫌悪するかという事が実は結構曖昧だ。
教師というのは、そういうことに非常に敏感な人が昔から多いように思う。
日の丸や君が代が国粋や軍国と直接的に結びつくわけでもない。
尤も、今回の判決の妥当性は、「ピアノ伴奏を命じたこと」が「特定の思想を持つことを強制したり、特定の思想の有無を告白することを強要したりするものではなく、児童に一方的な思想を教え込むことを強制することにもならない」という点にある。平たく言えば、「言いがかりでしょ、それは」ということになる。
但し、些細な言いがかりが何かに変貌しないとは断言できない。
教育委員会という、頭の固そうな方たちが集まっているようなイメージの団体は、様々なニュースを見るに付け、やはりイメージ道理なのだなと思うこともしばしばある。
上記のニュースに関連するが、卒業式の国歌斉唱をしないとか、国旗に礼をしないとかで「減俸」などの処分をしている辺りがまさにそれだ。
国や地方の行政が教師に、「君が代を歌って日の丸に礼をしろ」というのも、教師が敢えてそれをしないのも、ある意味どちらも生徒にとっては「思想の押しつけ」であることは間違いない。
「君が代」の歌詞が何を歌っていようと、実は子供の多くはその意味が分かっていないし無関心だ。
私などは、「君が代」ばかりでなく「贈る言葉」なども、卒業式で歌え等と言われたら、非常に拒否反応がある。・・・・そもそも卒業式自体に拒否反応があった。
人間というのは、何かにかこつけて、よっぽど儀式をするのが好きな生き物なのだな、と思うわけだ。
「蛍の光」「仰げば尊し」など、卒業式で歌われる歌というのは、色々あるが、そもそも私は、集団の中で歌う歌というのが嫌いだ。結婚式の時に教会で、あたかも誰でも知っていて当たり前かのように賛美歌の歌詞を渡されたりすると、祝う気持ちとは裏腹に、憂鬱になる。
何でみんなで同じ事をしなくてはいけないのだろう?まだ結婚式は理解できる。
だが、卒業式や入学式等、百歩譲って、式は我慢しよう。そのまま静かにさせて置いてくれというのが私の気持ちだ。
う〜ん、何というか、卒業式の国家・国旗問題は、教師や行政が考えるほど、子供たちは思い入れがないのではないだろうか。戦前の日本や、北朝鮮などの国のように、国家を上げて思想統制をしようとしない限り、今の子供たちは聞く耳を持たない。
国家の枠組みなど捨て去って、まずは地球人として考えるという視点を持つには、きっと宇宙人が攻めてこないと難しいのだろうな。いつまで経っても、争いと進歩はセットのような気がして滅入ってしまう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月17日
教育基本法
教育基本法の改正が、与党の強行採決で衆議院を通過し、野党が審議を欠席したりと、いつもの国会が続いている。そもそも単独過半数を与党が持っている以上、政府案が通ることは、何をやってもその通りなので、ある意味仕方のないことだ。
だが、政党単位で何かを考えるにしても、連立与党という行ってみれば卑怯なやり方で単独過半数を取っている政府与党は、いつの場合でも、国民の真意をくみ取れるはずはない。政党政治なんてやめてしまい、個人単位で選挙も政治も行ってくれたら、今よりは明確な指示ができそうだが、所詮は人間、群れるに決まっているので、うまくいくはずもない。
さて、そんなこんなで教育基本法の改正はきっと通ってしまうのではないかと思うが、問題になっている一つに、政府案の第2条の「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という、いわゆる愛国心の涵養といったことがある。国民新党などは、そのものずばり「愛国心の涵養」という文言がないことを反対の理由の一つにしているが。
実際に条文を見ると、ちょっと読んでみただけでは、いいのか悪いのか解らない。確かに以前と変わっているのは解るが、それが新しくなった結果どうなるのかが、実はよく分からない。
上記の愛国心の問題もそうだが、そもそも愛国心という言葉に国民全体のある程度のコンセンサスがない時点で、意味がないように思う。「我が国と郷土を愛する」ことを教育現場で教えないと、自分の育った土地を愛せないのだとすれば、それはよほどその場所の治安が悪いとか、行政サービスが悪いとか、嫌な人間ばかり住んでいるとか・・・・・などと勘ぐりたくもなるが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000136-mailo-l31
この記事の記者がいみじくも言うように、国家に対する忠誠とか奉仕といったニュアンスがあるのなら、それはまた別の問題だ。
今、姜尚中の「愛国の作法」という本を読み始めた(食事をするときだけ、ちまちまと読むので、なかなか進まないが)。姜尚中は、テレ朝の「朝まで生テレビ」とかでよく出ている大学の先生だが、実は時々何を言っているのか解らないことがある人だ。
必ずしも考え方を全て支持するわけではないが、愛国心を論理的に組み立て直そうとする姿勢は非常に共感できるし、方法論としてもすばらしい。そもそも愛国心をこころの問題として、論理理屈を排除した観点で決めつけたり、論じたりというのははなはだおかしな事で、あなたの行っている愛国心と、私の言っている愛国心は意味が違うと行った、そういう土俵での会話になりかねない。
実は広辞苑には愛国心という見出しがない。愛国という項目に「自分の国を愛すること」とあって、用例に愛国心がある。
ところが、小学館の大辞泉には「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」という記載がある。問題とされるのはおそらくこの後段の部分だ。
いわば「おまえは国のために体を張れるか?」ということだ。「逃げる」やつは非国民ということになるのか?というお話だ。そして国を愛するということの意味がどこにあるのかを教育が教えるのだとすれば、それは・・・・私には子供はいないが・・・・親たるべきもの、その内容には神経質になる必要がある。
かつての日本国民は国のため、現人神たる天皇のために命をかけて戦った歴史がある。軍隊がある多くの国では徴兵制があり(韓国などでも)、若い時期の一時期を軍隊で過ごす。仮にそこにいるときに戦争が起きれば、命をかけて祖国のために戦う羽目になるわけである。
ここにはまず、「国家とは何か」とか、そこに属することの意味といったことのそもそも論がないままに、そこに生まれ育ったというだけの理由で、命を賭けて戦わねばならない現実を目の当たりにすることになる。
命の大切さを教える反面で、国のためにはそれを捨てるという教育がなされる可能性があるとすれば、単なる矛盾ではなく、自分事としての人生への国の関与ということに、どういう姿勢を取るかと言うことを考えなくてはならない。
よく日本は平和ボケなどといわれることがあるが、もし戦後の日本が平和国家としてぼけるほどの平和を謳歌しているのだとすれば、いい意味で、その平和ボケの根幹を世界に広めていくことの方が重要だ。
確かに北朝鮮や、いくつかの独裁的な国家は、自身がそこに住んだこともなく、メディアなどの情報を通じて知るしかないが、特定の個人やその周辺の意向で、エゴイスティックな国内、国外向けの政策がとられた場合、いかにしてそれに対抗するかというのは「平和ボケ」には頭の痛い現実ではある。
だが考えてみると、中・近世のヨーロッパだって、ついこの間までのソ連だって、ってみれば同じような環境の中から民主政治を勝ち取ってきたのであり、地域差で民主化は時間がかかるのだ。いずれはそれらの独裁国家だって、政治が変わるだろう。
愛国ということが、愛地球と同義語になることを願ってやまない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 8日
核武装論をするということ
しばらく前から、自民党の中川幹事長が「核武装に関する論議をすることは必要」という趣旨の発言をし、物議を醸し、さらに麻生外務大臣が、「ただ闇雲に核はいかんという風に言っているのではなく、きちんとした議論をした上で、なぜいけないのかを明確に・・・」みたいなことを言い、与野党から反発やらなにやら囂しいことになった。
今日の党首討論でも、阿部首相と民主党の小澤代表の間で、微妙にかみ合っていない議論があった。かみ合っていない最大の理由は、おそらく、小沢一郎もまた、内心では議論をすることを否定するだけの根拠を持たないからであろうと、わたしには思えた。
それはそうだろう。言論の自由を謳っている国で、議論することを否定しては、言論統制になる。
核がいけないという背景には、日本の場合、他の国と違って、世界で唯一の被爆国であるという点がある。そこには当然感情的なものも含まれる。「広島」「長崎」は、大阪や名古屋よりも世界では有名かも知れない。
個人的には、原水爆による死者も、コバルト爆弾による死者も、自動小銃による死者も、死者には変わりないので、ことさら原水爆の危険性を云々する最大の要因は、その破壊力の大きさと、実は、生き残った被爆者の人生という事だと言える。死んだ人にとっては、少なくとも戦争中であれば、死んだ後は一緒だ。
冷戦時代、「核の抑止力」ということがよく言われたが、では核がなかったら、米ソは戦争をしていたのかといえば、それはあくまで仮定の話なので、核など無くても戦争は起こっていなかったかも知れない。
だいたい、現実問題として、核を使わない戦争は、ベトナムや湾岸、イラクと、大きいものだけでもいくつも起こっているし、中東やアフリカ、朝鮮半島だって戦争は起きている。全て第二次世界大戦の後だ。
そもそもアインシュタインが生涯にわたって後悔したように、核爆弾というのは大量殺人兵器で、人類にとっては、文明の進化とともに手に入れたダモクレスの剣なのだ。太陽だって、核融合で輝いているわけで、核エネルギーというのをどう使うかという問題なのだ。
であれば、根本に横たわるのは「戦争と平和」というドストエフスキーではないが、二者択一の中で人類がどちらを選択するのかと言うことにつきるわけだ。
悪いことをするやつがいるから、それに対抗する武器が必要、ということと、相手より優位に立ちたいから武器が必要という葛藤の中で、人類は発展してきたわけだが、石が刃物に変わり、槍、弓、銃、大砲、爆弾、核爆弾とより多くを確実に殺すために作られた武器は、単なる悪人向けのものではなく、どちらかといえば、覇権を握るためのものだ。
今となっては、「武器よさらば」というわけには行かない。しかし、可能な限りそこを目指すことはできるわけで、大きいものから捨てていこうというのがNPT、核拡散防止条約で、テロはそれに屈してはいけないとは思うし、北朝鮮があるいはテロ国家、テロ支援国家なのかも知れないから、それに対してのほほんとしていてはいけないというのも事実だろう。
実際にミサイルが飛んできたら、しかもそれに不十分ではあっても核弾頭が搭載されていたら、また、原発付近に落ちたら、とか、想定だけはいくらでもできる。
隣に拳銃を持った男が引っ越してきたら、そして男がおれは拳銃を持っている、といえば、警察に連絡するだろう。しかし、警察がそれでも24時間守ってくれないとすれば、何らかの対抗措置を執るかも知れない。先制攻撃はないにしても。
等と言うことを、色々考えるべき時、それでも尚かつ核など持たない方がいいし、世界に向けてもNPTの推進を日本は中心になって勧めていくべきだろうと思うが、では、その中で、では日本が核を持ったらどうなるとか、そんなことを議論することをタブーにして一体どうするのだろう。
仮に、日本の世論や政治家の過半数以上が、核を持とうと思えば、それは国民の意思に違いない。それが民主主義国家らしいから。でも、そんなことになると皆思っているのだろうか?
ならないように努力しようじゃないか。そしてその中で、堂々と議論をし、その議論を世界に広めていくことが、武力を持たない国が、世界に向けてできる最善のことなんじゃないだろうか。
そのためにこそ、核はいかんと言い、北朝鮮はもとより、インドにもパキスタンにも、中国にもロシアにもフランスにもイギリスにも、そして何よりアメリカに向かって言い続けなくてはいけないのではないか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年9月21日
自民党総裁選
いや、9月初めてなのか。なんと怠惰な!!
自民党の総裁選があって、予定通り安倍晋三が当選した。日本の総理大臣を選ぶのだが、我々は全く関与できない。だが、今回の選挙は、国民投票をしても同じ結果になっただろう。だいたいにおいて選挙というのは雰囲気で、マスコミが報道という媒体で、その空気を伝えるので、だいたいそうなることが多い。
安倍家の家系を見ると、そうそうたるメンバーで、まあ、なるべくしてなったというようにさえ見える。タイのクーデターなどを見ていると、日本というのは、なんだかんだといってもいい国なのだなと実感させられる。
もちろん、その中にあっても、政治の力でもっと良くなることはたくさんあるはずだ。
安倍が繰り返し言っている、美しい国日本という表現は、政治のスローガンとしては、空回りしていて面白くない。自民党をぶっ壊すといった小泉純一郎はやはりすごかったと言うべきか。安倍もせいぜい、行政をぶっ壊すくらいの意気込みが欲しいものだ。ただ、小泉純一郎の後と言うことを考えれば、彼のような穏和そうな人物が選ばれるのもまた宜なるかな、とは思う。
総理が変わり、方針が変わったり、法律が変わったりする。年金問題なんて、これで大丈夫なんて何度も言って、決して大丈夫じゃない。朝令暮改とは言わないが、だんだん悲惨な方向へ進んでいるように見える。
そんな政治の世界で、以前、中曽根が辞めたとき、橋本龍太郎の頃に、比例区終身一位だかなんかのお墨付きをもらった事でぶつくさ言っていたが、そんなお約束をする方がどうかしているし、そもそもそんな非常識な約束など、あってなきがごときものだろう。
総理が変わったという理由で、世の中が極端に大きく変わることなどない。しかし、そう言う意味では、良きにつけ悪しきにつけ、小泉純一郎は大きな変革をもたらした。マイナスのこともたくさんあったが、むしろプラスのことが多かった5年間だったと思う。
竹中に対する風当たりは、野党ばかりでなく与党からも意外に強いというが、格差社会といわれるような世の中を作ったにせよ、バブル崩壊後の悲惨な状況から、それまでできなかった復興に大きく寄与したのだと思う。
世の中というのは、政治によっても個人個人の行動によっても、あらゆる事がいい方だけに進むなどと言うことはないし、いい方向というのも、誰にとっていい方向か、という対象を選ぶことなので、一概に善し悪しは決めつけられない。
最大多数の最大幸福というベンサムの言葉は、真実ではないとしても、間違った言葉ではないのだ。それによって全てが解決はしないが、一つの目的とすべきはその点なのだ。
民主主義の場合、多くは最大多数がいわゆる庶民だし、年収数千万円のごく一部のお金持ちからたくさん税金を取るのは、決して悪いことではない。
いずれにせよ、新総裁には、よりよい社会を目指して欲しい。よりよい社会を目指せば、今よりいろいろな意味で良くなるだろうから。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年8月12日
靖国神社
小泉首相や安倍官房長官の参拝で、話題かまびすしい靖国神社だが、靖国神社って、いったい何なのだろう?
そもそも靖国ができたのが明治以降の話のようなので、それほど歴史があるわけでもなさそうだ。そもそもの目的は戊辰戦争の戦没者のためだったらしいから、まさに戦没者のための神社ということなのだろう。
神社というのは何なのだろうか?広辞苑は簡単に「神道の神を祀るところ」と書いてある。神道が国家神道になったのも明治以降だし、戦後、国家神道は解体されているので、神道が形式的にも国教であったのは、19世紀から20世紀前半までの一時期であったわけだ。
現代の日本には国教は存在しないし、宗教といっても、いわゆる宗教的な儀式の多くは、墓参りだったり葬式だったり、どちらかというと仏教的な儀式が多い。
よく日本人は、葬式や墓参りで仏教寺院を使い、初詣に神社にお参りし、クリスマスや、最近ではイースターなども祝う、などといわれ、海外で「無宗教」だというと変な顔をされるなどという文章を目にすることがある。
先日、「アメリカ人のかなり多くが、進化論を信じず、数千年前に世界が始まったと信じている」という趣旨の文章を読んだ。多くというのがどの程度か解らないが、大勢いるのかも知れない。
世界の3大宗教とは、「キリスト教」「イスラム教」「仏教」だが、それぞれの宗教の中でも協議はだいぶ異なるし、いわゆる原理主義ということを信じている人たちの中には、結構恐ろしい事を考えている人もいる。
宗教に限らず、恐ろしい人は世の中に少なくないのだが、信念を持って恐ろしいとなると、組織化されるし、来世を信じているとなると、現世の死が恐ろしくないことになり、私のような、現世の死が恐ろしい人間には、はなはだ困る思想を持っている可能性もある。
さて、では靖国神社はというと、どうもそういった宗教とはだいぶ離れていそうだ。神道というのが、どの程度その神様そのものを信じているのかと言うことになると、ギリシャ神話並みのような気がして仕方がない。ましてや、死んだ人が神様になるっていうのは、名称変更にしか思えない。
言ってみれば、信仰ということとは関係なく、過去の「英霊」に対して、「安らかに」という事なのであれば、そもそもこんなにいろいろな問題が惹起された中で、死んだ人の魂も浮かばれないような気がして仕方がない。
A級戦犯というのは、敗戦国の戦争責任者が、戦勝国によって裁かれたので、どうもそこだけを取り上げて、中国などがさんざん文句をつけてくると言うのも釈然としない。
私なども戦争をもちろん知らない世代だが、親戚などで、戦死している身内ももちろんいるし、父親は、広島の沖にある江田島で原爆を見ている。
そもそも人類の歴史は戦争の歴史だし、国内国外を問わず、戦争と無関係だった土地などほとんど無い。たしかに戦争が文明を急速に発展させた側面はあるのかも知れないが、戦争が無くても、同じくらいの発展をした可能性だってないわけではない。こればかりは検証不可能な過去の事績だ。
いずれにしても、戦争が悪いと解っていても(実はそう思っていない人も世界にはたくさんいそうなところが恐ろしいので)、今現在、中東では多くの戦争犠牲者が出ているのだ。
合祀とか分祠とか、誰を祀っているから良くて誰を祀っているから良くないとか、首相が靖国に参ることを非難するとか、誰から何を言われても参拝するとか、どっちもどっちに見えて仕方がない。
もちろん、自らが戦争の痛手を背負っている、戦争経験者は、なにがしかの記憶と体験に起因する何かを持っているに違いない。
被爆した人間は、被爆していない人間よりも、直接的に原爆に対する憎しみは大きいに違いない。
でも、終戦から60年以上経ち、「グローバル」という言葉が空しくはあっても、これだけ定着してきた時代に、本当に平和のためにはどうしたらいいのかと言ったことを、少なくとも為政者は、常に考えて行動すべきで、あたかも外交が、形を変えた、武器を使わない戦争であるかのようなものから、どうしたら脱出できるかを考える時代になって欲しいものだ。
まとまりが付かないが、靖国神社が、宗教法人である以上、政治家が参拝するっていうのは、個人的には何とも変な気がする。政教分離って言う建前があるにもかかわらず、あたかもこれは宗教活動などではないといわんばかりに、参拝する。いや、であれば政治家は墓参りもできないのか、ということになるが、それよりはもっと、政治的なものが見えるのだ。
個人的には小泉が靖国に行ったから何だ、というのが本音だし、多くの国民が、そんなことはどちらでもよいと考えているに違いないと、私は思っている。中国や韓国などの人の、どれほどが、報道されているほど感情的になっているのか、と思うと、やはりそれも一部のような気がする。但し、インタビューされれば、不快だと答えるかも知れない。
難しい問題なのだだこれは。きっと。・・・・なんて結論だ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月 1日
長渕剛と愛国心
長渕剛の最初の印象は、「順子」と、「順恋歌」だ。いわゆるフォークソング。しばらくして「乾杯」。とにかく売れた。そういう印象。そして「とんぼ」とか「しゃぼんだま」いろいろ、いずれにしても、あまり聴こうと思ったことがない。なんか、国粋主義というか、右翼というか、やくざというか、清原というか、まあとにかく、自分の人生とは接点のない、このだらだらした生き方の中では、もはや入り込めない世界だと思っていた。
男の生き様とか言われると、へなちょこな私には太刀打ちできない。
さて、そんなとき、偶然「家族」という歌を聴いた。10分以上の大曲だ。ハーモニカとギターの前奏から、昭和の田舎の小学生の、暗い懐旧の歌が始まる。典型的な日本のフォークソングだ。両親と一人の姉、傲慢で暴力的な父親、これまた典型的な昔の日本の家庭の一つが描かれる。メロディーはいい。歌詞は好みだが、あまり好きではない。しかし、いやでも映像が、強烈なイメージで伝わってくる。胸を締め付けられるような、奇妙な懐かしさとつらさの影が、自分の過去でもないのに、なぜか重なる。
折れも親父によく殴られたな、なんていう想いがよみがえる。埼玉県などで生まれて育つと、あまり「ふるさと」という感覚を持ちにくい。決して都会ではなかったが、それほど田舎でもない。一人暮らしをして、「実家」には帰るが、決して「帰省」ではない。
後半、「白地に赤い日の丸」という歌詞が出てくる。「白地に赤い日の丸、この国をやっぱり愛しているのだ」というのが最後の歌詞だ。そして非常に私好みの哀愁たっぷりのギターがフェイドアウトしていく。ここだけエレキだ。
悔しいがこの歌が大好きだ。
最近、教育基本法の改変問題で国会が審議を続けている。「愛国心」ということが問題になっている。
確かに日本という国家は、おそらく第二次世界大戦の敗北後、「愛国」ということを、「右傾化」とか、「軍国」とほとんど同義語のように感じて生きてきたような節がある。
国を愛することが、天皇を神と奉り、戦前に回帰してしまうのをおそれるような、そんな感覚すら覚えた。いや、そうではない。これはまさに「愛国」という言葉にそれがあるので、国を愛するという表現では、あまりそれを感じない。
ある意味、暴走族が何でもかんでも漢字にして、「世露死苦(こんな書き方をするのかどうか知らないが)」しまうような、音感が、「愛国」にはあったのかも知れない。
また、自民党の議員が「愛国心」などというと、共産党が「愛国心」というのとは、全然違うことを行っているようにも聞こえたりする。
小中学校の卒業式で日の丸掲揚を義務化すると行ったことに関して、必ずそれに反対する人たちがいる。彼らはやはり、前述した回帰への不安を、そこに感じているのだろう。
愛国心というのは、民族主義という言葉と一部似ている。しかし同時に、長渕剛が歌う「家族」のように、ふるさとを愛する心というのが、最も正しい意味の一つなのだろうと思う。
言葉には反意語というのがある。そうでなくても、否定とか、例えば、好きな人がいれば嫌いな人がいるように、愛国心に対しては、嫌国心があるかといえば、そんな言葉は辞書にも載っていない。
本質的に、国を愛するというベクトルは、その時点ではその他の意味を持たない。しかし利害関係の異なる愛国心と、別の国の愛国心は、そこで争いを生じることがある。つまり戦争だ。
この、国を愛することから生まれる争いごとを、おそらくはこの50年間、目に見える部分と見えない部分で、我々は教わってきたような気がする。それが愛国という言葉を、一見恐ろしい言葉に見えさせる。
ところが愛国心を標榜する側は、そんなことはお構いなしに、「なぜ国を愛することがいけないのか」という、いわば正論を振りかざす。その慮りのなさが、愛国心から派生する見えない影におびえる人々の心を逆なでする。
暴力を手放しで肯定する人はおよそいないと思うが、殺人事件は毎日のようにあるし、暴力沙汰はさらに多い。綺麗な言葉も、高邁な理想も、暴力や戦争に変えてきたのがいわば人類の歴史だし、テロも、イラク戦争も、実際はその延長にある。
殺人は普通にすれば犯罪だが、戦争なら英雄という言葉があるが、多くのSFなどを読むとき、遙か未来にも軍隊が必ず登場する。「地球を守るため」に戦うウルトラ警備隊だって、いわば軍隊だ。あたかも宇宙人や怪獣が外敵として責めてくるのを守る自衛隊だと言わんばかりだが、現実にはどちらにも大義名分があるのだ。
愛国心は、郷土愛の延長だし、それは家族愛につながり、最終的には自愛なのだ。逆におしなべて見れば、愛国を言うとき、愛世界、愛宇宙と、より広い立場の愛をこそ説きながら、愛国を知らしめるべきだろう。日の丸を立てることで達成される愛国は、とても狭量な愛国に感じられる。
歌としてはすごく好きだが、やはり私にとっては日の丸など、郵便番号と同じ記号でしかない。記号は記号で必要だが、国を愛することよりも、人をこそ愛する人間にやはりなりたいものだと感じる。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年5月22日
共謀罪
国会で共謀罪の成立に向けてもめている。
政府案に自民党の修正案を不安がるテレビニュースをよくやっている。曰く、マンションの建設反対で座り込みの謀議をしたら、それだけで捕まるとか。
民主党案は、懲役4年という政府案の共謀罪適用犯罪を5年にしたり、国際犯罪に限るという修正案を出しているが、どうも通りそうにない。
実はよく分からない法律の一つで、例えば、座り込みなんていうのは、それで工事を妨害したからと言って、刑法で4年もの懲役刑になるのだろうか?
そもそも決めようとしている雰囲気の与党の強引さのうさんくささは、非常に我々の生活にマイナスになりそうな様子に充ち満ちているが、と言って、マスコミの報道も、非常に憶測に満ちて、しかも何か曖昧だ。
居酒屋で上司が気にくわないから殺してやろう、と言ってどう等したら共謀罪の適用があるかもしれない、というのも放送していた。本当か?平成の治安維持法か?
国際条約のためだけにやっているというような批判もあるが、相当数の国が参加する条約で、単純にアメリカ主導の条約でもないようだし、実際にテロの驚異はある。
サリン事件は国際犯罪なのだろうか?そうでないとすれば、サリン事件のような犯罪が起こったときに、民主党案の共謀罪では適用範囲外になるのだろうか?そのあたりもよく分からない。
NHKは、お笑いや歌番組などやめて、1チャンネル全てを使って現在決めている国会の法律や何かを、説明付きで放映するようなことをやって欲しい。できればデジタルのオンデマンドならなおさらいい。ネットで調べるの結構時間がかかるし大変だ。もっと気軽に知れればいいと思う。受信料で運営するのなら、視聴率なんてどうでもいいだろう。
また国会も、あらゆる議論を、ネットで中継してもいいのではないか。本会議だけでなく、それぞれの委員会も全て。そうすれば少しは、今よりいろいろなことに触れる機会も増えるし、ありがたい。
さて共謀罪だが、やはりよく分からない。そもそも共謀と言ったって、非常に曖昧で、「このミステリを読んで同じように人を殺しました」と言ったら、小説だって共謀しているように見える。・・・というくらいの曲解を、マスコミは国民にさせようとしているような気がして、おかげで自民党の、愛国心を声高に標榜するような議員さんたちが、一気に決めてしまうのを結果的に座視するしかないような気がしてくる。
ま、きっとそれだけ曖昧なことを書いた法律だと言うことになると、あまり意味がないようにも思えてくっるな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年3月 9日
PSE
最近テレビのニュースなどで話題になったので、初めて知った「電気用品安全法」という法律がある。
家電製品などにPSEというマークが付いていないと、個人取引は別にして、売買ができないというものだが、中古品販売業者などが、猶予期限の延長などを、経済産業省に求めている。
PSEマークがつけられるようになったのが2001年からだから5年間の経過措置ということになるが、例えばうちのテレビは94年製造だ。当然PSEなんていうマークは付いていないが、きれいに映る。電化製品の寿命など、長ければ10年以上は軽く持つはずだ。オーディオなんて、何十年も前のものが貴重がられたりする。
これらが公然とは売買できなくなるという法律だ。
うがって考えると、これからは中古業者を介さないで、ネットオークションで個人売買しなさいという法律だ。といって、冷蔵庫や洗濯機はどうもうまくそこにはまらない気もする。
物余りの時代みたいな表現はバブルの頃だったろうか?三種の神器とやらで冷蔵庫や洗濯機、テレビがもてはやされた時代から半世紀が経ち、リサイクルなの法律ができている裏で、こんな法律が施行されていたのだ。
家電が火を噴いたりする場合、それは中古か新品かはあまり問わないように思う。もちろん、PSEが付いているということは、メーカーが責任を持つということだが、では付いていなければ責任を持たないのかといえば、先日のナショナルの件もあるが、大手のメーカーは責任を取らないでメーカーの印象を悪くするよりも、きちっとした顧客対応をして好感度を上げる方を選ぶ時代だ。尤も、三菱ふそうのエンジンみたいな例もあるから、全てがOKな訳ではない。
ただいずれにせよ、中古業者を通じた商品は、あらかた誰かがしばらく使っていた物で、安全性は保たれている物が比較的多いような気もしないでもない。
何でも日でも一様に法律で縛っていくのは「構造改革」などと、わざわざ竹中直人を使って高いCM を流している政府としては、なにやら時代に逆行する雰囲気も漂う。
2001年以降の製品にはPSEが付いているから100%安全と、政府が保証しているわけでもない。であれば、その印の有り無しだけで、何かを規制するということは、どうやらお役所らしい非常に枠にはまった、お間抜けな対応のそしりを受ける部分もあろう。
経済産業省の担当が、「周知が十分ではなかった点は反省・・・」とテレビで述べていたが、彼らの反省はどう見たって口だけだ。この場合必要なのは、「反省」ではなく、「謝罪」でもない。
現実に即してどうなのかをしっかり再調査して、法律の適用を柔軟に対応させることではないんだろうか。
危険運転致死罪なんて、甘々の法律が、酒飲んで事故を起こした全員に厳密に適応されるならともかく、こっちは軽くて、せいぜいリサイクルで、ゴミを減らす役に立っている中古品の流通を否定して、さらにゴミを増やすような法律を、頑迷に遵守させようというのが、実はこの国のありようなのだ。
国会で賄賂を渡したメールが偽物だったかどうかなどという些細なことで議会が空転しているような、目端の利かない議員さんたち(自民党はうまく利用しているのかもしれないが)が、国を牛耳っているのだから、やむを得ないのかな・・・・・
こんな厭世的な気分が、実は投票率を下げているっていうことなんだがな。
個人的にはPSEが制定される以前の家電は、個人の責任で購入する限り、販売業者も扱っていいというのが、非常に論理的に見えるのだが・・・・
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年11月28日
皇位継承権の問題
少し前に有識者会議(何とも怪しい名前だ)で、皇位継承問題について一定の方針が出された。
今後は女性でも長子であれば皇位を継げるし女性の後続は外に出ないでもいいというようなことらしい。
男系とか女系とかいうことで、皇室は男系による皇室の歴史を、ここで簡単に変えていいのかという趣旨で、女性天皇がいけないのではなく、女系を認めることがいけない、これは女性差別ではなく、歴史と文化だ、みたいなことをのたまう。
本当にそうか?男系の正当性を主張する人が、あたかも男系であれば一本筋が通るというように言っているが、それはそもそも、これまで女性天皇が出たときの、その後の天皇を男系で決めてきたことに由来するわけだが、女系になったら何が変わるのかが、私にはよく理解できない。
誰だかが染色体の話を持ち出していたが、それはきっと冗談だろう。冗談でなければ、そもそも染色体のセの字も知らなかった当時の歴史や文化とは相容れない理屈だ。
いずれにしても、男系でなければと言うのは、男を家の中心とするものの考え方が根底にあるからで、先祖のたどり方が、常に一方向だと言うことである。現在の皇太子が天皇になれば、皇后の祖先も天皇の祖先となるわけで、男系であろうが女系であろうが、常に近親相姦を繰り返さなければ、妙な伝統などは守れるわけもない。
天皇が国民の象徴であるなら、誰がなるかというのはそれほど問題ではないような気がする。
いつも書いているが、伝統や文化というのは守ろうとする人と壊そうとする人の相克で、どちらにせよ、常に変化しているのだ。昔のように、天皇を政争の道具にしたり、そもそも天皇が戦ったり、暗躍したり、歴史の中では一様ではない。神武天皇がどんな人だったか、存在したのかさえ、私はよく知らないが、そもそも戦いで勝ち取った君主の座であるに違いないし、中国の帝や西洋の国王と大差はない。運良く伝統がなぜか長く続いたというだけのことだ。
天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言ったのは福沢諭吉だが(但しどんな文脈でこの言葉が出てきているのか、私はよく知らない)、天皇もいつの間にか象徴という位置に置かれ、昔のように国民の上に君臨しているわけではない。
この君臨という言葉は、まさに君主が国民を睥睨している感じが良く表れた言葉だ。
おそらくは伝統を守るか、変貌させるかの二者択一論なのだ。であれば私はほとんどの場合、後者に与する。何でも変わればいいとは言わないが、こと「伝統」という言葉に裏打ちされたものは、変化こそ相応しいと思っている。
個人的には天皇制に賛成でも反対でもない、非常にニュートラルと言えば聞こえがいいが、どちらでもいい人なので、結果がどちらに転んでも文句は言わないだろうが、「有識者」が出した結論は、十分に支持に足るものだという気がしている。
多分、勉強不足の部分はたくさんあるだろうが、元々国民の総意がこのことを決めるとすれば、国民の多くは、天皇制の意味や意義、ありようなどに対しては、それほど不快知識を持ち合わせているわけではない。そしてその総意が、天皇を象徴して支えていることだけは間違いない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年10月30日
寄らば大樹
先日自民党の郵政反対派の処分が行われた。
単純な感想を述べれば、だから組織というのはイヤだ、と言うことの一言に尽きる。
組織というのは組織であるだけで、秩序を求める。規律を求める。それ自体が悪いとは思わないが、往々にして、秩序や規律自体が組織やその中の個人を束縛し、本末転倒なことになる。
衆参のそれぞれの議員に対する処分が違うなんていうのは典型的な例で、組織が組織のために存在している所以だ。
そんな中で、前回の選挙の辺りから思っているのだが、野田聖子や亀井静香、小林興起と言った議員が口々に言っていたのが、自分こそが自民党を最も愛している根っからの自民党員だみたいな発言が、個人的には非常に解せなかった。
自民党等という器は、立党以来、50年体制も含め、様々に変節し、現在に至っている。多くの時代で第一党であった以外に、自民が自民である証左など、あってなきがごとき物だ。
右か左かという議論の中で、共産党の対局にいるように見えるが、戦後自民が右翼であった試しはないと思っている。そういう意味では、日本の政党は右も左も、非常に中庸を歩いてきたのではないかと思う。ちょっとした発言が右寄りに感じられるのは、日本の政治が中庸を旨としてきたせいだ。
中庸は儒教の言葉だが、仏教でも中道といい、アリストテレスも似たようなことを言っている。いわばバランス感覚と言うことだと思う。
ちょっと話はずれるが、ニュースなどで見る限り、中国や韓国、あるいはもっと広くアジア圏の多くの民族では、時折バランス感覚が悪いなあ、と思わせる映像が届く。いわばしばらく前の中国の反日本のデモ行動などはそれを象徴している。もちろん全国民がそうではないと思うが、得てしてピックアップされる映像ではそういう印象を強く受ける。
今回の自民圧勝の選挙戦なども、実はその国民のバランス感覚の悪さが実は日本人、というよりは人間には常に内在している証拠のようにも思えて、いささか居心地が悪い。なぜなら自分も自民党に投票したからだ。
さて、自民党の議員が勝手に自民党に誇りを持ったり愛着を持ったりするのは結構だが、所詮は政党というのは、政治を行うための一つのツールにしか過ぎない。私個人的に、元々郵政民営化賛成だし、いずれにしても変化ということを、旧態依然ということのもう一方の極として肯定するので、中身の如何に依らず、まずは改革という点で、以前から支持してきた。
だからといって自民を支持しているかというと、多くの面でむしろ反自民だった。いまだに第一党であるというだけで自民は好きになれない。・・・いや、これは理屈も何もないが・・・・
ただ政治というのは、私の大嫌いな言葉「清濁併せのむ」が象徴するように、きれい事ばかりではない。但し、きれい事を常に目標に掲げていて欲しいし、少なくともそこに向かって進む努力をして欲しい。
1億円もらって記憶がないと言っているのは、ロッキード事件を彷彿とさせるし、時代は変われど人間の資質などさほど変わらないと言うことなのだと思う。
されば、自民に執着する多くの議員が、世から悪しかれ「寄らば大樹」を指向していることは紛れもない事実で、よかれというのは、そこにいなければ、政治の前面で何かをしていくことに非常に困難が伴うばかりか、理想を実現することも叶わないわけで、悪しかれは、文字通り「寄らば大樹」が持つ、安定志向だ。
有史以来(というのがいつからのことなのか、アルタミラ洞窟なのか、シュメール文化なのかは別にして)、人間がたどってきた道を見ていると、確かに20世紀を経て若干の変化はある。地域的な問題は非常にグローバル化し、地球規模での平和や環境問題など、恐らく意識は高まっているはずだ。しかしその一方で、毎日のようにどこかで爆弾が破裂し、多くの人間が命を落とすという、戦いの歴史に終止符が打たれることもない。
アニメで未来が描かれると、決まって巨大なロボットが戦っていたりする。過去から現代、そして未来を見据えても戦いという場から逃れられないと思っているようだ。
必ずしも、個々人が堅持する正義を貫くことが、世の中をよくするとは限らない。正義を旗印に自爆テロを行うことだってあるだろうから。しかし、であっても、大樹に依らず、自分の思いを貫くことが、ささやかな正しい生き方の一つでもあると思う。
今回の、特に参議院議員の前回郵政に反対して今回は賛成した議員達こそ、国民の意思か何かは知らないが、情けない議員と言うべきである。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 01:15 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年10月 2日
国会議員の資質
選挙が終わり、1ヶ月近くが経つ。その間、小泉チルドレンという名で呼ばれる自民党の新人議員達のことが、連日報道されている。分けても、杉村太蔵を始め、数人の議員にスポットが当たっている。
杉村氏は当選後にはしゃぎ、先日それを詫びた。
週刊誌を始め、国民はこんな議員を通したんだぞという記事もちらほら目に付く。
さて、そこで国会議員の資質、あるいは政治家の資質という点について考えてみた。
政治家というのは、政治のプロだという見方がある。しかし、多くの政治家は、むしろ政治学を勉強してきたなどと言うことはなく、官僚上がり、政治家の秘書上がりと言った人たちの方が「プロ」なので、政治学を一生懸命やってきた人たちは、政治学者や評論家になったりしている。・・・ように見える。
そもそも政治というのは、非常に日常に根ざしたもので、決して誰にも無関係ではない。むしろプロと称する妖怪のような政治家達の方が、これまで行政との癒着やら、何やらで批判の的になってきたはずだ。何にせよしがらみが少ない素人のような人たちが増えたことは、一面期待できないこともない。
但し、森派の会合などで、森元総理が、議員の品位だとか、資格だみたいなことを言っているのをニュースで見たりすると、少なくとも彼が総理だったときのことを思い起こすと、「あんたが言うな」と思ってしまうのは私だけではないはずだ。
杉村氏を始めとする議員は、衆議院宿舎の改築が終わるまで、都心の素晴らしい立地の、100平米以上もあるマンションに5万円程度で住めるというニュースをやっていた。
1000千兆に及ぼうとする借金を抱えた国家の、議員のために50万円前後はするマンションをあてがう事が政治であるならば、新人議員の教育をする前に、自身の襟を正せよ、と言いたくなる。
無駄をなくすなくすと国会で答弁を繰り返す首相から、野党議員に到るまで、その多くは、そんな簡単後頃から変えることのできる無駄遣いを、止めようともしないわけだ。
道路だって造るし、社会保障制度だっていいかげんなものだ。
昨今話題になっている福島県の何とか言う村ではないが、議員の数を減らすところから始めなくては、何も始まらないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:44 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年9月17日
前原 誠司
民主党の新代表が決まった。テレビなどでもよく見る前原誠司氏だ。
永田町の郷ひろみと言われているそうだ。
前の岡田代表が愚直なくらい真面目で、今回敗北した割には、若いだけであまり面白味のない代表を選んだという印象だ。
小泉純一郎が持つカリスマ性の一つは、何となく親近感を覚える雰囲気にあると思う。時折いいかげんなことをいいながら、強く押し出すときは押し出す。そのメリハリの中に、妙に庶民的な部分も覗かせる。そしてサプライズと言われる、これまで他の人がしてこなかったようなエキセントリックな人事などをわざと仕掛けてくる。
この、怪しげなまでに強烈な印象を持つ総理を敵に回して戦うためには、徹底的に真面目に行くか、同じ土俵で戦うかと言うことになろうかと思うが、既に真面目路線は敗れた。だが、改めて選ばれた代表もまた、若いだけで代わり映えはしない。
むしろ菅直人が持つどこか間の抜けた部分の方が勝負にはなったかも知れない。
あるいは、立候補すらできなかったが、河村たかしの方がインパクトはあった。
むしろ、こんなやつを代表にするのかよ、くらいの方がいいのだ。
相変わらず小沢だ、菅だと言っているのは、自民党が、亀井だ高村だ、平沼だと言っているに等しい。前原は、結果的にその延長線上だ。
今国民が注目しているのは、ドラマチックな変革と、あり得ないかも知れないが、面白味のある人選だ。
これまでの政治家然とした政治家がこの国を悪くしたと、国民は何となく思っている。それは必ずしも正しくはないが、国民全体が、政治家にその責を押しつけることで、不満のはけ口にしているのだ。
だからこそ、非常に緻密で正しい政治を望みながら、それを実行する人物にはテレビ的でヒロイックな容貌や性格を求めている。破天荒さが無ければいけないのだ。
少なくとも前原氏にはそれは感じない。
民主党のマニフェストにはいいことが沢山書かれている。与党よりも野党がいいことを書くのは当たり前で、実際は国民の多くがそれを望んでいるにもかかわらず、どうせできないと踏んでいるわけだ。
であれば、少しでも改革が先に進みそうな小泉自民党を支持しておこうというのが今回の選挙の結果であり、全幅の信頼などでは決してない。
民主党が政権奪取を目指すのなら、もっと覇気を感じる、そしてヴァーサス小泉を買って出られるだけのインパクトを持った人選をしなくてはいけない。
前原誠司を代表に今選んだ段階で、民主は勝負に負けている。
今回民主に鞍替えした横光勝彦は特捜最前線に出ていたが、それこそ藤岡弘、のような、愚直でも何かを持った人物を引き入れてでも勝負した方がいい。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月11日
衆議院議員選挙
衆院選挙が終わった。驚くほどの自民党の圧勝で終わりそうだ。与党が衆議院の三分の二を占めることになる。もちろん、小選挙区という制度が生んだ数字という意味もあると思うが、世論が小泉自民党を支持したことには違いがない。
私は元々郵政民営化は賛成なのだが、現行通そうとしている法律は非常にいいとは言い難い。自民党の造反と言われている政治家の一部や、民主党の多くの議員ガイっていることは間違っていないと思う。だが、だから反対して通さないというのは、この改革を永遠につぶしていくことであるように感じる。つまり、ちょっとやそっとの瑕疵があろうと、まずは通すことが先決だという風に考えている。
こういう事が、全てに当てはまるわけではない。しかし、政治はそうでもしないと変わらない。
政治家が言っていることの多くは非常にもっともなことが多い。それは常に選挙前には同じだ。だが結果的には政治が良くなったように思えないのは、これまたいつものことだ。
小泉純一郎が、全ていいわけはないし、そんな総理大臣が出てくるはずもない。しかし彼が変えたことは多くある。道路公団の民営化は、一見形骸化しているようにも見えるが、民営化されたことで自浄作用も生まれてくるだろうし、世論や、マスコミなどの力で、完璧でない部分も変えていくことが可能だ。
つまりは、変えようと思ったことを変えられる人、取り敢えず初志貫徹した改革推進派(ほとんどの議員がこれであることは間違いないが)を国民が選んだと言うことなのだ。
衆愚という言葉がある。今回敗北した政治家や評論家の一部は、暗にそのことに警鐘を鳴らしている。確かにその側面はある。民主政治というのは、新党日本の田中代表が言うように、踊らされた側面もないわけではない。
だが同時に、やはり国民がこれまでの小泉政治に一定の評価を与え、もう少し進めろと言っていることでもあるのだ。
これは多分、他の人よりもやりそうだ、なのだ。
いずれにしても、自民党はこういい、民主党はこういう、社民党や共産党も、ある意味すごくいいことを言っている。だが、今の自民党は、昔よりもやりそうだと思えるのだ。その裏腹に、前回の選挙で躍進した民主党はこの間、あまり何もできていなかったという判断でもある。
人と人の関係と同様、政治も一筋縄ではいかない。もっと多くのことに変革をもたらして欲しいが、そう簡単なことではないのだろう。だからこそ、強権という言葉とリーダーシップという言葉の裏腹な意味の内から、国民は今回、後者を選択したのだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月 4日
9.11
9.11は今度の衆院選選挙だが、それよりも、4年前の衝撃的なアメリカへの同時多発テロから4年目の11日だ。
今日の日本テレビのバンキシャ!で、当日の消防の無線のやりとりを放送していた。まさに涙無くしてみられない、悲惨で、悲劇的な数時間の様子が甦ってきた。
テレビは、この衝撃的な事件を、映像で、世界のどこでも見える形で保存している。実際に旅客機がビルに突っ込み、崩落するまでを、いつでも見ることができるのだ。映像としては、広島への原爆投下や、イラク戦争の様々な光景と同じように、現実と虚構の区別のつかないようなリアルな映像だ。リアルでありながら、その被害の渦中に自分が以内という虚構性は、人をわずかでも不感症にする。
テロという悪夢は、ある程度以上の人間がいる世の中では避け得ないのだろうか?旅客機に乗っていた犯人は、自らの命を賭して、ビルに突っ込ませたのだ。単なる殺人とは訳が違う。どんな意志や思想や、人生がそれを可能にしたのかを、どれだけの人が知っているのだろう?もちろん私も知らない。
アフガンや中東のテロリストが棲む地域は、イスラム教の地域だ。原理主義とか、一部の過激な集団が、根底にイスラム教を持ちながら、過激な思想に走るには、それでもなにがしかの理由があるはずで、だからといって曖昧にしか我々には理解できない。
例えばオウムのサリン事件のような、どちらかというと狂気と集団心理的な部分から発生したテロリズムとは、根本的に何かが違っているように思う。もちろん、テロリズムなんていいわけはない。単純に考えて、自分がいつその犠牲にならないとも限らない天災のような事に、人の意志が働いているとしたら、やはりその災いは忌むべき行為であり、許してはならない。
だが、では対テロという形で軍隊を送り、力でねじ伏せ、制圧することがいいことかと言えば、それだって、その地に自分が住んでいるとしたら、絶対にして欲しくないことだ。そもそもそういう大国の姿勢で世界情勢は現代を向かえてきたのだ。
もちろん、ヨーロッパの文明が世界に先立って発達し、科学的にも軍事的にも力を持っていたことが、世界進出となり、植民地支配になり、アジアやアフリカ、アメリカ大陸などの悲劇を生んでいるわけだ。もちろん、悲劇的なことばかりではないとしてもだ。
アメリカは、結果的にその広大な大地をヨーロッパからの移民が制圧することで、フロンティアというきれいな言葉の下に、大国を作り上げた。その子孫は当然、先祖のそういったスピリッツを誇りに思うだろうが、所詮は征服者でしかない。そして良きにつけ悪しきにつけ、いまだに何らかの形で世界各地を威圧しているし、長く威圧してきたのだ。
齟齬というのは、与える側と受ける側、どちらが悪いにせよ、関わりを持ち続けるのであれば解消しなくてはいけないものだ。
イラクで、千人を超える米兵とともに、数万人のイラク人が犠牲になっている。フセインの独裁の時とどちらが地元の人にとって幸せなのか、政治家の報告を聞いても信憑性には欠ける。
イラクにはそもそも宗教的な対立がある。信じていない者には、理解できない原理や発想で生活をしている人たちが沢山いるし、その中でも大きく解釈が違ったりしているわけだ。
郵政を民営化するか否かで、侃々諤々なんていうのは幸せな論議だが、それでさえ人の考え方は全く違う。大国が民主主義を標榜して他国にそれを与えるのが民主主義には思えない。
北朝鮮が核など持って欲しくはないが、大量の核兵器を持った国と、少なくとも原発のような核施設を持つ日本などが、会議という席上で、核関連は何も持つな、ということを言うのは、どうも説得力が弱い。
世の中はこういう風にできあがっていると言えばそれまでのことだが、広島への原爆投下は大きな問題的がされても、東京の大空襲などは戦争の一環として同じような形では取り上げられないのと同様、世の中のあらゆる事は、考え方の根底に何を置いているかを共有しない多くの人たちの議論で錯綜しているわけだ。
そもそもこのエントリーを書くために、結論を考えていなかったので、何ともはやまとまりの付かない終わりと言うことになってしまった。
何はともあれ、世界平和が一日も早く訪れんことを祈らずにいられない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月 3日
最高裁判所の裁判官に対する国民審査
Yahoo!のニュースに最高裁判所の裁判官に対する国民審査について載っていたが、たまたま今日の昼間、何かを見てそのことを考えていた。タイムリーなのでちょっと思うところを。
今回は、古田佑紀、中川了滋、堀籠幸男、今井功、津野修、才口千晴という6人について、信任するかどうか、というより、不信任するかどうかについて投票場で書くわけだ。×を付けない限り不信任ではないので、まず間違いなく信任されるだろう。これまでも不信任のケースはないらしい。
ところで、この6人が、いったいどんな事件でどんな判決を下したのか、あるいは、どういう考え方を持ているのか、知っている人は日本にどのくらいいるのだろうか?少なくとも私は知らない。一人もだ。中には興味を持った事件について判決を下した裁判官ということで、知っている人もいるだろうし、そういう人は人数を数えれば少なくはないはずだ。しかし、国民全体の中のパーセンテージで行くと、ほとんど数パーセント程度ではないだろうか?
しかも衆院選と衆院選の間のことだから、わずか2年程度の人気について審判を下すわけだ。
知らない裁判官にわざわざ×を付ける必要など無いだろう。そして多くの人がそういう行動を取るはずだ。×を付ける人の内、相当多くが、本当に×なのではなく、たまには×を付けておこうとか、裁判官なんてみんな気に入らないとか、いずれにしても、いいかげんな動機で×を付けている人も多いと思う。
せめて公示とともに、どんな事件にどんな判決を下したのかとか、何らかの情報を国民に知らしめるべきだ。インターネットでは簡単に見ることはできない。事件の数も多いのだろうが、せめてひとまとめにして、何らかの形で閲覧できるようにして欲しい。会っても見ないかも知れない。もちろんそれはそうだ。
しかし、選挙で問うならば、少なくとももっと解りやすい形で呈示すべきだ。「刺客」とか、女性候補とか、女性週刊誌みたいなことばかり番組を流さないで、こういうところもしっかりやって欲しい。いや、やっている場合もあるが、もっと目に付くようにだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:17 | コメント (3)
2005年9月 2日
選挙中のホームページ
民主党が選挙中にホームページを更新したことが、違法だという。
インターネットがこれだけ普及して、テレビでも観ることが可能だ。もちろん、地方や、お年寄りには馴染みが薄い場合もあるだろう。しかし、いずれにしたって、この流れが逆を向くはずはない。
現行の公職選挙法上では違法なのは、これまでにも解っていたことだ。改革改革というのなら、こういうところから改革すべきだ。
選挙には700億とも1千億とも言われるお金が動く。これはほとんど税金らしい。もちろん、選挙特需ではないが、このことで利益を被る人々が大勢いることも確かだ。お金は回るわけで、1千億をどぶに捨てているわけではない。しかし、出所が問題だ。700兆もの借金を抱える国庫から出るとなれば、別な部分で国民の生活を圧迫することになる。
選挙でお金がかかるのは、選挙カーや、ポスター、遊説先への交通費、選挙事務所費用、運動員への給料など、ここ何十年も恐らく変わってはいないはずだ。
インターネットと、国民から受信料をボイコットされているNHKなどを使って、ここいらの費用を大幅にカットした方がいい。
選挙カーで回ったって、所詮はうるさいだけで、「××をよろしく」というメッセージだけが空しく残る。ポスターだって、決して町の美観に寄与してはいない。草の根選挙などと言って、お宅訪問で握手をして回ることが、あたかも素晴らしい選挙運動のように言われることがあるが、何の意味もない。顔と名前を覚えてもらい、お年寄りに優しそうな笑顔を振りまくだけで、結局は、「知っている顔」に投票するための指示を作っているに過ぎない。こういうことに実は莫大な費用がかかっていることに、国民は気づかなくてはいけない。
インターネットでの選挙運動、どんどんやったところで、費用はたかが知れている。但し、迷惑メールの数を増やして欲しくはないから、総務省などが、解りやすく全候補者のページをまとめるなり、1候補1ブログで選挙運動を繰り広げてもらえばいい。後は有権者がそこを見るかどうかだ。
もちろんインターネットだけでは不十分で、やらない人だって大勢いる。そのために、国民の受信料で運営しているNHKは、選挙期間中は、朝から晩まで、とにかく選挙運動のための政見放送を流し続ければいい。そのくらいのことができないで、くだらない番組を沢山流してもらっても、NHKの必要性なんてほとんど無い。今日本でNHKしか映らない地域がどれほどあるのだろうか?
この2つのみを、基本的な選挙運動にし、街中でがなり立てる政権演説や、無駄なポスター、選挙カーなどは一掃して、なれ合いや、地元意識などだけで候補者を選ぶのはやめにした方がいい。
そうすれば、選挙直前まで政治家は働けるだろう。解散してから、選挙数日前まで、しっかり国会で働いてもらい、その場面も十分にNHKで流し、それを持って、投票に臨ませるようにした方がいい。そうすれば、より党による違いが歴然となり、解りやすい選挙に向かえるというものだ。
選挙にもお金がかからなくなるし、いつでも見たいときに候補者のことが見られて、しかもなーなーな気持ちでの投票を防ぐこともできる。
しかも投票も、インターネットなどを使えば、かなりいろいろな点で費用や負担を軽減できるはずだ。
ホリエモンが走っている姿を見ると、ああ情けない、という気持ちが沸々と湧いてくるのだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月22日
小選挙区と比例
現在の選挙制度は小選挙区比例代表制というものだが、以前から疑問に思っていることがある。
小選挙区と比例代表の2つの方式を採用している意味は分かる。完全小選挙区であれば、共産党や社民党などはほとんど議席を得ることができなくなる可能性があるだろう。それを、政党支持率によって議員を確保するというのは、合理的でもある。
しかしよく解らないのは、小選挙区と比例代表の重複立候補という汚いやり方だ。小選挙区制というのはガチンコ勝負で、1票差でも負ければ議員にはなれない。これすごくシビアな選挙だ。しかしそれが、比例代表に名を連ねることで救われ、議員になることを可能にしている。選挙区で「No」を突きつけられても議員になれると言うことだ。そしてそれを「国民に選ばれた」などと言っている議員は少なくはない。
おかしな話だ。「おまえは落ちたのだ」と言ってやりたい。
政治は国民のチョイスを、政党の意図でねじ曲げているとしか思えない。そうでないのなら、選挙区から出なければいい。もちろん、勝ち負けのための戦略であることは解るが、どうも納得できない。特に、せいぜい数千票差で負けているならともかく、1万票以上負けても当選できる。おかしなシステムだ。
いろいろな意味で霞ヶ関は変わりつつある雰囲気が見えている。
変化が全ていいわけはもとより無い。だが、「誰よりも自民党を愛している」などとのたまう造反と言われる議員達は、そもそも何のために議員でいるのかを考えて、そのような愚にも付かない発言をしていただきたい。「自民党をぶっ壊す」と言ってきた小泉純一郎の人気が高いのは、そもそも「自民党など愛していない」からだ。政党などは政策を実現するための器に過ぎない。損なところに変な愛着を持っているから、「既得権益」などということを言われるので、その辺の小理屈すら解らない人たちに政治をやって欲しくない。
ところで、新党「日本」とか「大地」とか、この辺りのネーミングもイメージ戦略なのかも知れないが、なんかださい。今日の「日本」の旗揚げは、何となくかっこ悪さだけが目立った。なんだか田中康夫がこれまでやってきたことを、帳消しにする効果すらありそうだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月19日
地元議員という考え方
衆議院選挙が来月に控えている。郵政民営化法案に反対した議員に対して「刺客」と称して(誰が称しているんだか?)有名人や、女性が次々対立候補として立てられている。
今日も、ホリエモンことライブドアの堀江貴文が国民新党の亀井静議員の地元である広島6区から無所属で出馬することが決まった。
地元の人へのインタビューで、「地元のことも解らないのに立候補してどうするんだろうね」という意見があった。
以前から思っているのだが、選挙っていうのはいったい何だろう?
地元のことをよく知っている議員を選ぶ意味というのは、かつての利益誘導方の政治の名残ではないか?いや、これはまだまだかつてのことではない。国会議員にとっての地元とは、日本国であるべきで、北海道選出議員だって沖縄のことを考えなくてもいいということではない。北海道のことを専門に考えるのは北海道の道議であるべきで、国会議員を選ぶのなら、その土地の出身者かどうかなどと言うことは、ほとんど意味のないことだと思う。
でもそうではないのだ。世の中は。
地元から国会議員が出ると、地元の人は国会議員に、地元をよくしてくれとまず思う。そしてそれがひいては日本をよくするということに繋がっていく。だが実際は逆であるべきだ。日本が良くなるからこそ地元も良くなるのだ。
世界に目を広げてみよう。国家の幸福よりもまず、世界の平和と幸福を目指すところから始めた方が、実は良くないだろうか?なぜなら、どんなことでもそうだが、自分の利益から始めれば、まずそこから争いが生じるのだ。
まあ、全ての国家が他国家を、全ての人が他人を幸せにしようと考える世の中が出来れば、理想的ではある。が、そこまで極端なことが簡単に実現できるわけではない。
手近なところから、地元への利益誘導的政治をこれからもやっていこうというどこかで考え直して欲しい感じがする。
今回はとてもいいきっかけのようでもあるし。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:37 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月10日
ゲームの有害図書指定
「グランド・セフト・オートIII」というゲームが3月に神奈川県で有害図書指定された。当該ゲームが残虐で、青少年に悪影響を与える可能性があるという理由だ。神奈川県知事の松沢氏のブログには批判が相次いだという。
残虐シーンのあるゲームや他メディアと、犯罪などの相関関係は、私は決してないとは思わない。当然ある。それを見ていなかったら、犯罪を起こさなかったケースというのもきっとあるに違いない。それは、レイプもののアダルトビデオを見たことで女性に乱暴をはたらく人間が、この世にはいると言うことと同じだ。
ただ、だから行政が短絡的に規制をすればいいというお話しとはまた異なる。
今回の規制は、非常に限られた人たちが話し合いをし、販売元にも意見も聞かず、規制をした。あたかも昭和30年代40年代の、漫画を悪書として片付けたPTAに似ている。概して「健全」な大人は、自分の価値判断で悪いと思ったものを見せたがらないものだ。もちろんそのことにはきちんとした理屈もあるし、正当性もある。だが、そちらが正当性があるyから、ではそれを子供にも自由に見せることを是とする側に正当性がないかというとそうではない。
そもそも残虐性があるかないかの判断を、誰がどのようにしてするのかと言った点が、常に曖昧であり、それはどんなに事細かに何かを決めたとしても、曖昧の域を脱することはない。私は基本的に戦争映画が嫌いだ。但しこれは近代戦争の映画に限る。例えば、戦国時代を描いた映画で、たとえ何人が死のうと、比叡山が焼き討ちされようと、今という視点からは、リアルな残虐性を読み取ることが私にはできない。それは、時代劇で将軍やその血筋が、悪人を何人切ろうと、最期のシーンでは死体がきれいに消えて無くなっているようなもので、虚構世界の1シーンでしかないからだ。しかし、第2次世界大戦の映画などは時として、残酷に思えることがある。そしてこんな感覚はまさに個人差であり、私はこの感覚を全ての人に敷衍しようとは思わない。
GSO3というソフトを私はよく知らないが、人殺しが自由にできるようなソフトらしい。極端なことを言えば、殺人が罪になるのは現実の世界でだけだ。このことは普通の人は知っているし、それ故、残虐な映画やゲームによってその残虐性を現実の世界に持ち込もうなどとは普通は考えない。
だが、高倉健や菅原文太のやくざ映画を見たばかりの人たちが、あたかも自分が健さんなどになったかのように、映画館を出た後に肩を聳やかせて歩いている等という話を昔はよく耳にした。人間にはそういう側面もある。また、先日逮捕された自殺サイトで知り合った人を殺害して、自分の性癖を満足させていたなどという男がいるように、何かのきっかけで人を殺したがっている人もいるのだ。
確かに、残虐性を秘めたゲームは、そういった可能性を内在した人に、そのような個性を助長する可能性は十分にある。だがこれは、青少年だからではなく、大人だって同じだ。人間は成長したからみんな普通になる等というのは全く妄想だし、お金や、たわいもない理由で、毎日のように殺人事件の報道があるが、そのほとんどは成人の仕業なのだ。
もちろん、殺人をテーマにしたゲームなど、規制すべき内容を持ったものは無いわけではないだろう。それはテレビでの暴力シーンなどでもそうだ。だがそこには、健全な識者然とした数人の大人達が、あたかも社会をただすかのような形で簡単に決めてしまえるものでもないし、その規制が犯罪を必ずしも減らすわけではないことを認識すべきである。ソフトは暴力を助長する場合があるのと同様に、そのことで暴力的な衝動を解消させ、現実の暴力に向かうのを防ぐ可能性も秘めているからだ。
煙草を吸ってはいけないと言われれば吸い、酒を飲んではいけないと言われれば飲み、エッチな本やビデオを見てはいけないと言われれば見る、それこそが青春と思っている人たちもいる。そして年経た頃、自分の過去のそういったことを得々と語る大人は少なくない。褒められたことではないが、むしろこれは健全なので、「若いころ人を殺してしまって・・・」なんていう自慢をする人はいない。
規制をかけるなら、有害図書という形ではなく、アダルト商品のように、ある程度明確なラインを引いておいた方がいいような気はする。個人的には、行きすぎた残虐性は性器を見せることと比較してもよろしくないようには思う。
日本も、この暴力ということに関して、社会的にもっと議論が高まっていいと思うが。
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2005年8月 7日
作る会の教科書
まず今日のエントリーは、最初に書いておかなければいけないが、半ば無責任な書き込みである。その理由は、私が扶桑社から出ている「新しい歴史を作る会」の教科書を、きちんと読んでいないということによる。
さて、私は杉並区に住んでいる。
先日、杉並区役所の前で、上記の教科書を選定しようとした教育委員会かな?の会議に抗議する人が沢山押し寄せて、選定が延期になったことをニュースで伝えていた。
この教科書は、文部科学省から認可されているが、中国や韓国から批判の的になっているあれだ。
現在はこの教科書、書店で購入できる。平積みになっていたりする。扶桑社はそれだけでも出版した意味があるのかも知れない。
問題は、この教科書が、戦争(先の大戦など)を美化しているとか、皇国史観的な内容であることが言われているからであり、少なくとも多くの人が、この教科書からそれを読み取っていることは間違いない。あるいはこの教科書を執筆した中心人物でもある西尾幹二などのテレビでの発言などを見ていると、そういった見方をされるのも、一面、むべなるかな、と思わざるを得ない。私は「国民の歴史」も読んでいないので、実は西尾幹二についてそれほど知ってはいない。
太平洋戦争が、日本にとって大東亜共栄圏という非常に前向きな意図の元に始められたとしても、侵略戦争には違いないわけで、それは糾弾されるべき性格を持っている。だが同時に、西洋の列強がそれまでに推し進めてきた植民地戦争も、同じようなもので、実はこれは、人類が生まれて以来、権力を欲しい人間と、権力をあがめ奉る人間という図式が、時として非常に安定しているために起こることだ。
あの世界大戦を戦ってさえ、いまだに戦争は世界中のどこかで起きている。その学ばない人類をやっぱ戦争はいけないという風に学ばせることが、歴史の持つ一つの大きな意味のような気もする。
何となく、日本人は東京裁判とその後のアメリカナイズされた歴史の中で、それ以前の日本に対して自虐的で、酷な見方を、戦後はしてきたというのは解る。それは必要以上にそうだったに違いない。中国や韓国の日本に対する感覚も、多分行きすぎている。ことに靖国問題などは、行きすぎの例のように思える。
しかし、ではよその国の反日感情に根拠がないかと言えば、決してそんなことはなく、それなりのひどいことをした歴史があるに違いない。
原爆を落とされた広島や長崎の人たちは、原爆が戦争を終わらせた有終の兵器のように語る一部のアメリカ人を、気分よく見られるはずはない。確かにそういう側面がないわけではないとしても、あれだけの殺戮が必要だったはずもない。
何事もそうだが、バランスというのが必要だ。仏教で言う中庸っていうことかな。作る会の教科書に対する、市民運動みたいなものを見ていると、やはりそのバランス感覚というのは、どこか保たれていないのだろうなという気がする。今度読んでみよう。
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2005年7月15日
石原都知事のフランス語発言
石原都知事が都庁内で行われた首都大学東京の設立を支援する組織の総会で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」と言ったことに対し、フランス語学校の校長などが、損害賠償と謝罪広告の掲載を求めて提訴したという件に関して、記者会見で意見を述べた。
元々石原という人は、知事になった以降、こういう失言めいたことが多い。だがそれは、それまでの知事に比べ、明確に自分の意見を言っているからと言う印象も同時にある。青島や鈴木と言ったそれまでの都知事に比べて存在感があり、それ故に賛否はあっても、支持率が高い所以だ。
尤も、最初に書いたような発言はそもそも不用意であることに変わりはない。実は裏を返せば、石原慎太郎がフランス語に堪能かどうかは別にして、普通の人よりも造詣が深かったということに他ならない。私もフランス語を大に外国語にしていたが、一の数え方など覚えていない。10まで言えないと思う。私自身は、大に外国語を選ぶ際に、ローダンシリーズを生で読みたいからドイツ語にしようか、レ・ミゼラブルや三銃士に対する愛着からフランス語にしようか悩んで後者を選択した。2年間学んで、良ければフランス文学専攻に進もうかとも考えたからだ。実際は、1年生の前期で挫折したわけだが。
「数が数えられない」「国際語として失格」という発言は、知事業にあまり熱心でなく、文筆業の方が忙しくなった最近の石原氏の、作家としての面が良く出た発言だが、1作家ならそんな発言も自由だが、都知事は多少考えた方がよい。せめて、フランス人から趣旨を尋ねる文書が来た時点で釈明すべきだ。
現在に於いては、恐らく国際語とは英語のことで、他の言葉は結果的に国際語に失格しているわけだから、日本語もまたその例に漏れない。だが、今日石原氏が言っていたように、言葉は文化だ。日本語もフランス語もその文化として、重要なわけだが、同時に、変化や衰亡もまた言葉の持つ宿命で、毎日多くの言葉が消えていっている。
いい悪い派別にして、いまだにフランス語が複雑な一の数え方をするままに変化を見せないのは、フランス文化がそれでこと足れりとしているわけで、そのこと自体に他の国の人間がとやかく言うことではない。但し、私などはこの長い歴史の中で、もう少し合理的な方向になぜ、進んでこなかったのかという疑問は残る。
国際語として失格、という表現はそれだけ聞けば、ほとんどの人が「劣った言語」という感じを抱くし、ひいてはフランスを侮辱しているようにも感じる人がいても全く不思議ではない。作家たる石原慎太郎が、それくらいのことが判らないはずはない。
言葉足らずだったと陳謝できないのが石原慎太郎の性格だし、彼に欠けている部分である。自分の言ったことに対する言い訳や、他の人が知識のないことをあげつらって、逆に「そんなことも知らないで文句を言うな」的なことを時折言う。一理あることもあるが、そうやってケンカを売るよりは、知事たるもの、一言言葉足らずを謝り、その上で真意を説明する、あるいは時には一般人の知識を修正してやる。そんなことをしてもいいと思うのだが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 5日
造反議員
今日はあまり時間がないので短く。
昨日の続きというわけではないが、今日の郵政民営化関連法案の採決は、自民党から50名以上の造反議員が出て、わずか5票差の法案通過となった。よほど郵政を民間にしたくない郵政族と、本当に真面目に今回の法案を憂えてる少数の議員、そして、どっちでもいいけど自民党執行部の態度が気に入らない議員と言うことなのだろう。大物が自ら造反しているのだから、みんなで渡れば怖くないに近い感覚もあったに違いない。
だが、郵政の民営化ごときでこれほどの大騒ぎになるよりも、昨年の年金問題で、もっともっと造反してもらいたいものだった。
考えてみると、国民からお金を取る法案には、あまり自民党の議員の皆さんは積極的に反対しようという気はないらしい。今日みたいな時ばかり、反対するのが正論のような態度を示してみたところでたかが知れている。
田中真紀子が言っていたが、本当に無駄な部分は、ほとんど改革などされていない。道路公団のやりとりを見ていたって、溜息が出てくる。
それにしても公明党と言うところの結束はすごいな。
そもそも私は、現状打破という意味で郵政民営化は賛成だが、参議院で否決され、自民党を小泉が本当にぶっ壊してくれて、妙な自公連合など、早めに解消してくれた方が幾ばくかいい。取り敢えず解散総選挙にして、1回だけでも民主党に政権を委ねた方がいいかもしれない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 4日
郵政民営化・・・とは直接は関係ない話
郵政民営化法案が、明日にも衆議院を通るかどうかという状況だ。野党の意見などを聞いていると、みんな郵便局の話ばかりしている。郵貯とか簡保のお金の話はあまりしているように思えない。しているのかも知れないが、どちらかというと、過疎地の郵便局が無くなるとか、せっかく公務員試験に受かったのに民営化なんて等という話をしている。
そもそも、公務員は「安定している」からという理由で選ばれていい職業だとは到底思えない。公務員か民間化等というのはこの際、そこで働く人間にとっては関係がないはずだ。もちろん、これは客観的な意見としてだ。本当にそこで働いている人にとっては大きな違いだろう。しかし、何百兆もの借金を抱えながら、増税ですませようとすることがいいはずはない。明確に国民に、ここまでやったのだから後は増税しかないのですよと納得させるならともかく、相も変わらずマスコミでは、行政や特殊法人の放縦とも言うべき金の使い方が、後から後から出てくる始末だ。
企業は、客が来なくなれば潰れる。いっそのこと、国民が全員で税金を払わないという運動でも始めれば、NHKのように国も始めて慌てるのではないだろうか。
ところで、郵便局は、大体5時までやっている。都会の郵便局は土日もやっているところもある。非常に努力していると思う。しかし待てよ。一般のお店は、コンビニであれば24時間年中無休、そうでなくても土日に休む店など、オフィス街の食べ物屋くらいなものだ。
役所も郵便局も、銀行も、平日休んでもいいから土日は開けろというものだ。あるいは、時には休んでもいいが、年中無休くらいのサービスをしろという事だ、警察や消防署はそうだ。最近では病院だって土日診療するところが増えている。
人員の交代制を取ればすむことだ。ここで役所は考える。土日の出勤にシャには手当を。・・・・バカ言っちゃいけない。民間の企業は休みの日数が同じなら、平日も土日もない。
とにもかくにも、郵政民営化という言葉の鍵は、公と言うことと民間の、意識の違いをいかに埋めていくかにあるのだ。そのためには、どんな結果かはともかくも、まずは民営化に英断を振るうことだ。だめな部分は後からどんどん直せばいい。
ついでだが、前にも書いたが、天下りなどなくす必要はない。天下った先の待遇を一般社員並みにすればすむことだ。それを、莫大な給与、短期間での莫大な退職金などということにするからいけないのだ。退官したら、民間企業の人たちと同じように、働いてくれればそれでいいことだ。
いやいや、明日はどうなることだか。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:58 | コメント (0)
2005年7月 3日
都議選の一幕
都議選が終わった。なかなかの低投票率で、そもそも何のための投票なのか解らない選挙だった。ニュースでは、都議選よりも、長嶋が巨人戦を観戦したことの方が大きなニュースだったようだ。
私は夕方に投票に行ったが、実際、その場まで誰に入れようか決めていなかったほどだ。
私は杉並区だが、駅や家の近くでよく見かけたのは、教科書のことばかりを訴える長谷川英憲と、顔がやけに印象的な福士敬子だった。2回ほど、民主党の議員事務所から苦戦しているので是非よろしくという電話があった。「解りました」と言ったが、どちらにも入れなかった。
そもそも、選挙になると立候補者達は、「お願いします」を連発する。お願いしたいのはこちらの方だ。あなた方のために投票しているわけではないのだよ、議員さん達。といった気にもなる。
たまたま昨日夜、笹塚にちょっと行く機会があったのだが、駅で渋谷区の候補だと思うが、スタッフが大声でお願いコールをしていた。非常にうるさく、自分の区であれば、こいつだけに入れることはあるまいと思わせた。
そもそも、今回もそうだが、それぞれの議員が、どういう主張をし、仕事をしてきたのかといったことがよく分からない。
選挙のホームページでは、誰が出ているかは解っても、どういう人かはよく分からなかった。たまたま前述の長谷川秀憲候補のページを見たら、「公選法により6月24日から7月3日まで、HPの更新ホームページの更新をお休みさせていただきます。ご了承ください。」と書いてあった。なんとあほらしい。他の選挙運動に比べたら、圧倒的にお金のかからないホームページ、そこで選挙期間中だからと言って更新ができないというのはどういうことだろう?
チラシを奪ったり、ポスティングしたりと何が違うのだろうか?
投票率を上げたいのなら、時代に即したやり方、より投票しやすい環境作りなど、どんどん改革していくべきだ。駅前でお願いしますを連呼することが選挙運動なら、そんなことに税金を費やして欲しくない。無駄だ。
論点も解らず、興味ある人だけの選挙なら、創価学会に「ありがとう」と礼を言っている公明党のように政教分離も怪しいような政党や、自民党が勝つに決まっている。
単純に自民党がだめだとは言わない。私は個人的に、郵政民営化賛成なので、民主党とは意見を異にする。だが社会保険制度や、そもそも増税ばかりを考えているような能のない自民党にも与しない。しかしでは他の政党が、政治を動かしうるのか?というとそうでもない。ただ、国政はそうでも地方政治は必ずしもそうではないはずで、そう考えると、もっと誰がどういう人なのかが解るよう、工夫をして欲しい。
少なくともインターネットで解るように。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月23日
総理の飲酒問題
国会で、一部議員や総理が飲酒をして国会に出席していたなどと問題になっている。自民と民主が互いに懲罰動議を出してもめているのだ。あほらしくて見ていられない。
社民党の阿部議員が「国会の品位を汚す」というようなことを言っていたように思うが、そもそも国会中継を見ていると、国会は品位などとはあまり縁があるとは思えない。
私は国会で居眠りは確かに良くないとは思うが、人間だから時には仕方がないと思う。それよりも、当たり前可のように常に飛び交っている野次の方がよっぽど品位もなければ、人としてどうかと思う。仮にあそこが学校だとしよう。あんな教室があっていいはずはない。酒を飲んでいるとすると酔っぱらいの野次だとすれば尚更悪いが。
酒を飲んで国会に出るのは確かにいいことではないが、損なことばかりに貴重な時間と税金を使うのはどうかと思う。損なことはさっさと済ませて、別の議題を進めるべきだ。
最近はよくNHKでも国会中継を流すが、なんだかあれを見ていても日本が良くなる気はほとんどしない。重箱の隅も含めて様々な点から与党を攻撃する野党。調べます、解りませんみたいな答えに終始する与党。調べた結果は後で野党議員に報告されるのかも知れないが、国民が知るところとはなかなかならない。多分自分が議員になれたとして、あの場に行くとそういう波に呑まれてあまりなにもできないのかな?そんな風にも思ったりする。
ではいったい何が、今の日本を作り上げてきたのだろう?結果的には微分されて個人に跳ね返ってくるしかないのだろうか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月14日
中国が外国産アニメを規制
中国では全国のテレビ局でゴールデン・タイム(午後五−九時)に日本など外国製アニメを放映することを禁止することになるという。
こういうニュースを見ると、改めて中国は共産主義国家なのだなあ、という思いを強くする。テレビアニメまでが国策の一部になるということを、中国の人々はどう見るのだろうか?
自ずと無規制の世の中というのは存在しないと思うが、国家が上から押さえつけるような形でそれを実現するかどうかの境目というのはいったいどの辺りにあるのだろう?
先日何かの番組で、「総理大臣が失敗したら、国民が罰金を払う」という主張を議員にさせて、芸能人などがそれに共感するかどうかという番組をやっていた。実は、そこの結果しか見ていないので、どういう主張だったかとか、具体的なところは解らないのだが、日本の総理大臣やアメリカの大統領など、多くの国では国家の元首を国民が選んだという建前になっている。アメリカの大統領も直接選挙だとはいうが、選挙人の制度など、完全な直接選挙による多数決にはなっていない。まして日本では、小泉純一郎以前の総理大臣の就任当時の支持率を見れば、到底国民が選んだとは言えない数字なので、「総理大臣の失敗を国民が取る」というような法律が容認されるはずもない。
しかし、中国などでは、結果的に人民の代表は人民が選んでいることになっている点では、日本やアメリカと見た目だけはあまり代わらないような気がするが、内実は大きく違う。明確に共産党の中からしか選ばれない代表は、党の指導者階級の意向を汲んだ、少なくとも元首であるだろう。
この元首という表現も、なかなか問題があるので、突っ込まれそうなのだが、あくまで、政治的な一国の代表という意味でここでは使っているので、日本に元首はいないとか、そういう表現的なことはこの際無視する。
中国がアニメを規制するのと、アメリカが暴力シーンを規制するのと、日本が性器の映像的な露出を規制するのと、どれも言ってみれば国家による表現の規制な訳だが、何となく違うというのは多くの人が解ることだろう。しかし、今のようにアニメが社会的地位を得る前、PTAなどが漫画を悪書としていた当時に、仮に国家が、アニメを何らかの形で規制していたらどうだったろう?
例えば、権力を握るものが交代できないという意味であれば、北朝鮮のような独裁国家を極として、中国のような共産主義国家、かつてのソビエトのような社会主義国家等、一部の人間が権力を掌握し、政治を推し進めるというのは非常に嫌なことだ。しかし、自民・公明の多数派が国会を牛耳っている現状は、それとほとんど変わらないような気もする。
昨年の年金法案など、まさに世論とは大きな隔たりのある法案を無理矢理通してしまうところなど、結果的にはそれほど中国などと違いを感じない。
自由主義国家がうまく機能するためには、いかに国民の求める政治を政治家が行えるかで決まるので、少なくとも今の日本は、そうではないような気がする。確かに、共産党や社民党はあるが、彼らが政治を変えられるとは思わない。それは非常に感覚的なことだが、あながち間違ってはいない。確かに多くの問題提起はできるが、それだけだ。彼らが票を取れない、つまり国民の意思がそこにはないと言ってしまえばそれまでだが、しかし、ではなぜ、多くの人が自らが投じた票で、選出された多くの議員が運営する日本という国家が、国民の意識を反映することが下手なのだろう?
私は政治学を勉強しているわけでもないし、ごく普通の日本国民なので、その辺りがどうもよく分からない。「ドラえもん」をゴールデンタイムで見たい中国人が見られないという現実と、結果的に税金などを無駄遣いされている日本国民の間に、それほど大きな差があるのだろうか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:33 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月12日
労働保険の広告
労働保険料の広告が駅や電車の中に結構貼ってある。アイドルの熊田曜子がイメージ・ガールになっている。
労働保険料をあれだけ無駄なことに使い、失業保険を以前に比べるとかなりタイトなものにしているにもかかわらず、いったい何を考えているのだろう。そもそもわざわざ第一線で活躍しているモデルを使うことで、企業が労働保険をしっかり収めるなどと考えているとしたら、厚生労働省の程度が知れるが、おそらくそんなことではないだろう。相変わらず、無駄な金遣いをしたいだけの話だろう。
かつて江角マキコが社会保険庁のCMに出たとき、自身が国民年金を払っていなかったことが問題になったが、問題はそんなところには無い。彼らは国民年金保険料の意味を最も分かっていないに違いないのだ。江角マキコに高い出演料を払うことで国民年金を払う人間が増えるはずは無い。国民年金の徴収率を上げたいのなら、それを払ったことでいずれは意味がある年金を公平に受け取ることができる年金制度を確立するしか手は無いのだ。徒に有名な女優やモデルを使って金のかかるポスターを作り、広告費を使うなら、年金に回せというお話だ。仮にそれが、年金保険料や労働保険料ではなく、税金から出る予算で計上されるなら、そんな広告ではなく、しっかり国民に還元される形で年金や失業保険の金額を1円でも上げたほうがいい。
日本の借金700兆円を、少しでも下げて行きたいなら、まず各省庁が、予算以下でいかに素晴らしい成果を上げたかで公務員を評価するように制度を変えるだけでいい。逆に、予算を満額使うようなプロジェクトはすべてマイナス評価にすれば、あっという間に国家予算額は減るに違いない。もちろん、それほど単純なことではないのは百も承知だ。結局それは国家の仕事を請け負う業者にしわ寄せが行くからだ。
しかし、現在はその業者も、必要以上に多くの利益を国家の仕事から得ているケースが多いに違いないのだ。
国の借金ばかり増えていくのに、そこに携わる多くの政治家や役人が、そのあおりを受けていないというのは非常におかしな話だ。バブルがはじけ、国民が不景気の波の中であえいでいたが、誰よりもその不景気の波を最初にこうむるべきが政治家と役人であるべきではないだろうか。
それでもいいという人だけが、政治家や公務員を目指せばよい。名誉や安定のためだけに、それを選んでるとは思わないが、同じには、それだけの危機感と覚悟を持った人に就いてほしい職業だろう。
少なくとも、労働保険を払いましょうの広告は、無駄以外のなにものでもない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 9日
天皇問題-男系という考え方
今日、夕方のニュースで、女性天皇の問題をやっていた。愛子様が天皇になるかどうか?というお話しだ。
世界の多くの地域で、政治や宗教の全面に女性を出さないというしきたりや伝統がある。その世界的な状況をひとつ男性と女性の肉体的な力の差から、そもそも派生したのではなく、何らかの意味をそこに見いだすとすれば、例えば女性天皇という話も「NO」あるいは、女性であっても男系の・・・という意味が分からなくはない。しかし、少なくとも現代に於いては、性差以外に男と女の権利を分けるような考え方は主流ではないだろう。
ところで、男系って何だ?直系ともいうが、この男を直系、女を傍系とするのは、言葉の上の分類としてはいいが、そもそもそこに優劣がある。つまり、女は男の家に嫁に来るという、ただの習慣だけなら誰も文句を言わなければそれでいいかというようなことでも、例えば天皇制や、いわゆる家系という話になるとことは違う。
個人的には家系などというものは後生大事に持っていたって、たいしたものではないという考え方なので、「由緒ある」などという言葉が、本来の意味を通り越して「素晴らしい」という意味を含んで使われることには反発を感じる。
つまり、男の家系に女は嫁に来るので、あくまで外からやってくるという考え方に立つから、例えば愛子さんが、結婚して外から男子を婿に迎え、その子供が皇位を継承すると男系(直系)ではないという考え方になるのだろう。しかし、血のつながりという意味では、連綿と続く(本当にどこまで続いているのかなど知らないし、言ってみれば他人の家なので興味があるわけではないが)血の流れはあるわけで、どこが直系でなくなるのか意味が分からない。
ことほど左様に、伝統とか歴史などという過去ばかりに目を向けていると、そのことが現代の自分たちを縛ることになる。歴史や伝統をないがしろにしろなどと言っているわけではない。しかし、歴史や伝統なんて二の次でいいだろう。参考程度で。
なぜかと言えば、歴史は変革と更新の連続だからこそ歴史という意味があるので、あたかも聖書の創世記のように「××は何歳まで生きた・・・・」を連綿とつづるなら、歴史など不要だ。
皇太子夫婦に女の子しかいないとすれば、そこをエポックとすればいいことで、あまり考える必要などないと思うのだが。
まあ、そもそも一人の人間が日本を象徴するという考え方そのものが成熟しきれない人類の今を表しているような木がしないでもない。・・・会社にはとりあえず社長が必要だ。くらいの考え方でいいかな。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 2日
天下り
天下りがいけないとか、税金や社会保険料、郵貯や簡保の無駄遣いなど、ニュースや特番などで、ずいぶん昔からやっているようだが、どれほど何かが変わったのかとなると、出てくるのはここにもこんな無駄があったなどのお話だけで、改善されたという話は少ない。
今日もタケシのテレビタックルで、国会職員の驚異的な年収や退職金、あるいは各自治体公務員の「ありえない」手当についてやっていた。だが、果たしてこれらが改善されるのだろうか?どうもこれまでの経過を見ているとあまり期待ができないが、郵政が民営化されるだけでも「何か」が変わることは間違いない。
ところで、税金や保険料などを使って作られた施設や組織だが、天下り先として問題になっている。
実は以前から思っているのだが、別に天下りをなくす必要など無いのではないかと。ただ、天下り先の待遇を制限をすれば、いいことではないか。例えば特殊法人で、役人が天下って入ってきた場合、新入社員扱いで、退職金もそれに準ずる位にしておけば、天下りしようとも思わないだろう。民間に天下る場合は、給料を出すのはその会社なので、放っておけばいいが、税金を投入したり、何らかの形で「特殊法人」と呼ばれる団体には、それくらいの規制をかけてもいいだろう。
それと、以前から思っているのだが、舛添要一が議員の給料や年金に関して話すとき、必ずそれなりの待遇を要求する。結果的にある程度の待遇は必要だろうが、そもそも、金にならなくても国のために働く人をこそ、議員として選びたい位なのに、ハナから金をよこせと言っているように聞こえる彼の発言は、どうも聞いていていい気持ちがしない。
ついでだから書くが、日本の国会議員は、地元への利益誘導型が多いが、そもそも国家のことをやるから国会議員なので、地方のことを考えて、鉄道を通すだの、公共事業をもって来るだの言っている立候補者は、国会議員の資質に欠けると思っているのだが。ただ選挙民も、特に地方は、そういう人を選んじゃうんだよな。やっぱり国会議員は全員全国区にするか、毎回地元をシャッフルするしかないな。そうすれば、「地盤」なんていう下らない言葉も消えて無くなるだろう。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月12日
中国−つづき
先日のでもと投石の事件で、中国政府は日本の政府の責任だと言っているそうだ。誤った歴史認識に対する不満だそうだ。
原因や理由がどこにあれ、自国内で暴徒化した自国民が他国の大使館や人間に暴力的な被害を与えたことを、その国のせいだという政府って、いったい何だ?はなはだおかしい。教育教育というなら、これまで中国が自国民にどういう教育をしてきたのかも問題だ。
私は過去の戦争は全て正当化されるものだとは思っていないし、日本軍が中国や韓国の国民にしてきたことの中には、本当にひどいこともたくさんあったろうと思っている。そういうことに対しては、国歌としてきちんとした謝罪が為されるべきだし、日本的という意味では、現在の政府の様子を見ていれば、そんなことを正面切って堂々と行うような国じゃないだろうとも思う。日本というのは良きにつけ悪しきにつけ、曖昧さをその根底に抱えた国家だ。だからその曖昧さが根強い日本批判にあることはやむを得ないし、それに対して真摯に謝罪をする等の行為は必要なことだ。
しかし日本国という国家に住むその多くは、ほとんど戦争を知らない人間だし、戦争自体を憎む教育を受けてきている。その人々にとっては過去のことだし、日本企業を支える社員のほとんどはそういう人たちだ。日本であると言うことだけで排斥をしようという行為は、犯罪者の子供であると言うことだけで、彼らを排斥するのと似てよろしくないことだ。
本当かどうかは知らないが、韓国の教科書には秀吉の朝鮮出兵をも日本の侵略として「反日本」の一つの例になっているものがあるということを聞いたことがある。これは大げさかも知れないが、そんなことを言い出したら、ヨーロッパの列強はみんな犯罪国家だし、アメリカなんて侵略者が打ち立てた国に他ならない。言ってみれば日本だって、その昔大陸から渡ってきた人たちの子孫が大量にいるのだ。
日本政府に対する批判もいいが、だから何でもありではない。少なくとも、国家はそれをしっかり、それこそ統制すべきだ。それすらしないで、日を日本に押しつけるのはお門違いだ。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月11日
中国
中国で大規模なデモが起きて、日本大使館が襲われたり、在日企業や、日本人も被害に遭っている。
事の是非だけをいうなら、器物を破損したり、人に暴力をふるったりと、いいわけはない。
日本政府の謝罪とか、戦争に対する自己批判みたいなものが不十分だとか、首相の靖国参拝だとか、原因はいろいろあろうが、見ていて思うのは、人間というものの脆さだ。
そもそも人を戦争に駆り立ててきたのは、欲望や高邁な理想、ことは何であれ、自己と他との比較に於いて、自己を優先せざるを得ない人間の愚かさなのだと思う。ここでこれを愚かさなどというと、非常に突っ込まれどころ満載の表現かも知れないし、所詮はブリュンヒルデだって、自己犠牲したのは愛するジークフリートのためであって、極めて単純なものだ。おろかという表現を使うことで、人間の存在理由さえも否定していると取られかねないのは百も承知の発言だ。
確かに先の大戦は、ドイツや日本の侵略戦争だったに違いない。だが、世界規模であれ国内のものであれ、基本的に侵略でない戦争などあり得るのだろうか?戦争論をするわけではなく、ケンカと同じで、必ずどちらかが仕掛けるのだ。どんな大義名分があろうと、戦争は国同士のケンカであり、しかも生死をかけた大げんかだ。
どこの世界に、ケンカを奨励する国があろう。あるいは戦争を。
確かに、過去の日本には中国や韓国が責めるだけの行為があったことも事実かも知れない。だが、それを理由に関係ない他の国民までが巻き添えを食うとしたら間尺に合わない。
別に、非現実的であろうが、夢物語であろうが構わないが、歴史の中で、多くの物事が争いによって結論づけられてきた。これは勝てば官軍の理なのであり、北朝鮮だって結局はそういうことだ。だが、それが正しいはずはない。争いに勝つことでしか平和な世の中が得られないなんて、なんてばかげた世の中だろう。
平和や友好は平和的で友好的な手段と経過で実現させてこそ意味があるのだ。
政治家もよく言うが、「では北朝鮮みたいな国が、核で攻めてきたらどうするのか?」という難しい命題がある。
言ってみれば、やくざに理屈は通用しないと言われているようなものだ。
もちろんそれはその通りだ。刃物を振り回してやってくる狂気に、まあ話せば解るという人はいない。
だがそれでも、常に、世界の平和は平和的に実現させると言うことを一人でも多くの人類の一員が言い続けていかねばならない。誰もそれを言わなくなったら、実現できるはずはないのだ。
できるかできないかではなく、理想というのは常に掲げていくことしか、実現することはできない。絵空事に見えても、数が増えてくれば、現実的になるものだ。
少なくとも私は、微力であれ、こんな場であれ、それを唱え続けたい。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月30日
「みどりの日」が「昭和の日」に
4月29日、元「天皇誕生日」、現「みどりの日」が「昭和の日」になるらしい。そして「みどりの日」は5月4日になって「国民の休日」という、いかにも暫定的な仮称めいた休日がなくなる。
まあ、どっちにしても休日なので、正直どちらでも構わないのだが、だからこそ、こんなどうでもいいことを議論している間に、もう少し重要なことがあるだろうという気がする。
まれに見る予算案の早期通過を見ていると、結局日本は、こういう国なんだなあ、とつくづく思う。自分もいけないのだと思ってみるが、だからといって、明日から政治家になって世の中が変えられるかというと、それは自分の分ではないし、現実的でもない。
しかし、たくさんの官庁や関連団体であれだけの無駄が叫ばれ、都心に3LDK、2〜3万円というほとんど横領に近い宿舎を作り、それでも金がないと言って増税する政府と、それを阻止できない野党。そしてそれを甘受しなければならない自分自身という構図は、釈然としないながらも、結果的に天に唾して自ら浴びるに似ている。
あなたの一票が日本を変えるという「チリも積もれば山となる」式な選挙のアドバルーンも、蓋を開けてみれば全く意味をなしていない。
尤も、2大政党になって、自民と民主が拮抗したとして、ではどれほど二つの党に大きな差があるのかと言われれば、恐らく多くの有権者にはそれが解らないところにこそ、この問題の本質はあり、同時に、増税も、不景気もいやだが、それでも今の生活に大きな変革が訪れることには、むしろその方が大きな不安を覚える国民というものが、現状を作り上げているのだ。そう思えば、例えば過去の革命のように、あるいはもっと近くは海外の独裁を倒した革命のように、大きな変革は、必ずしも直近の平和と幸福を意味しないというのも事実ではある。
緩やかな変革こそが、多くの国民の望むことであるが、それは一つには徐々に上がっていく消費税とか、少しずつ廃止されていく減税とか、結局大多数を占める国民に広く苦痛を背負わせることでしか実現できないのが今の政治だ。その中で、政治への信頼など築けるはずもない。
例えばマスコミが取り上げる様々な問題を、そしてその問題に対する世論調査の結果を、なぜダイレクトに反映しようとする政治家がいないのか?私には非常に疑問だ。
「みどりの日」を「昭和の日」に変えるための立法を考え、議論する暇に、もう少し生活に根ざした部分で、国民の溜飲が下がるような立法をしてくれれば、大分違うような気がする。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月 4日
株式会社という仕組み
昔からちょっとした疑問に思っていたのだが、会社というのは、例えば大きな会社が出資して作ったりするのは別にして、結構、個人や少数のグループが何らかの思いをもって立ち上げることが多いことだろう。会社そのものに対する思い入れは別にして、立ち上げに関わった人間は、それなりにその会社に愛着があることだろう。
今では株式会社も、資本金のない人でも作れるようになった。株式会社は最初から「企業」という側面を持ち、他の会社とはちょっと違っている。いや、この言い方は変だが、つまり、あまり個人の意志とか、重いとかとは別な次元で株式会社というのは組織されると言うことだ。
例えば、立ち上げに必要な人間の数や、役員の任期等もそうだ。特定の個人がこんな会社にしたいということで社長になると言うのとは少し違う気がする。もちろん代表取締役はそれだけの権限を持ってはいるが、ここでものをいうのは株主だ。
つまり、仕事をする主体ではなく、そこに出資している人たちが力を持っているのだ。多くの場合、会社社長などは大株主だったりするのだろう。結果的に力があるわけだが、でもそれは株主として力を持つのだ。
今回のフジとlivedoorの争いを見ながら、事業というのは、つくずく実利的であるのだな、と思った。
M&A等というと聞こえはいいが、livedoorがやろうとしているのは日本放送の乗っ取りであり、かつての日本企業がバブル時代にアメリカの大手企業を買ったのと私などの目には同じに映る。
この2者の攻防は、現在のところ、若干サンケイに分があるような気がするが、単純に私がサンケイグループの社員であればと想像すると、難しいことは解らないが、いずれにしても、金に物を言わせて入り込んでくる企業に、いい感情は持たないはずだ。日本放送の社員が、こぞってlivedoor参加にはいるのを嫌がっているというのはうなずける。
私は堀江さんという人が好きでも嫌いでもないが、すごいとは思うし、サンケイグループとlivedoorやそれ以外でも新進のIT業界とコラボレートすることは、決して悪いことだとは思わない。
事は、インターネットが勝つかテレビが勝つかなどという話ではないし、現に世の中の様々な場所でメディアミックスは当たり前のことだ。
今日のニュースで楽天がイーグルスの年間インターネット放送を10万円で売り出したそうだが、巨人ファンがほとんどの中継をただで見られるのとは違って、「なぜ有料なのか」という気持ちに楽天ファンがなるだろう事は予想が付く。
でも、このような形で、ネットはテレビを浸食し、テレビはネットを利用しながら新たな道を切り開いていく。デジタル化はもう始まっているし、21世紀に生まれた子供は、モノクロテレビを知らない今の若い人たちと同じに、地上波のアナログ放送を知らないと言うことになるだろう。
さて、話がそれたが、そんな会社間の争いの中で、起業者はどう思っているのだろう。別に、理想とか夢とか、そんなお話しではなく、「自分の会社が・・・」という気持ちは少なからず、現世であれあの世であれ、持つのではないだろうか。
だがそもそも、最初に書いたように、株式会社というのはそういうものだし、そうやって設立されるのだ。であれば、本来、株式会社や有限会社、合資会社など、これは会社のランクであってはいけないと思うのだが、なぜか有限会社よりも株式会社の方が安心というのが世の中の感情だ。
もちろん、会社という物自体が経済の中の道具、言ってみれば道路を走る車のようなものだから、要は目的地に着ければいいので、軽だろうがスポーツカーだろうが、コンボイだろうが関係ないことになる。
取り敢えず私もママチャリで、高速道路脇の細道を、息を切らせて走っている口だが、チャリンコにはチャリンコの良さもまたある。だがそれでも、まずは高速に乗りたい気持ちになるのもまた真実だ。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月27日
市町村合併
愛知県の美浜町と南知多町が、新市名と合併の是非を問うて行った住民投票で、新市名がどうのいう前に、合併そのものに住民がNoを突きつけた。まさに両行政府にしてみれば、青天の霹靂のような結果であろう。
そもそもこの合併反対の大きな原因を作ったのは、「南セントレア市」という新しい市名だ。両町は、合併後の市名を公募から選ぶとしたが、その候補にない「南セントレア」で決定したために、批判が続出した。
この程度のことを予測できないところが、実は甘いのではなく、行政の不審を買う最も大きな原因、「おれたちゃ、司ってんだぜ」なんだと思う。これは一見、腰低くしながら、結果的に住民を見ないことで、態度はまさに横暴なのだ。
公務員をよく公僕というが、「しもべ」とまでへりくだる必要はないにしても、少なくとも、住民全てが「お客様」であるという視点で、行政サービスという商売をしているのだという認識を、政治家も含めて持つべきだ。
商売は、お客に見切られたら、収入を断たれるが、国家から市町村まで、税金は有無を言わせず取る。これを搾取と言われないためには、しっかりとした顧客主義で、いかに住民の需要を読み取っていくかが必要だ。
あたかも店長がその会社の社長の顔色をうかがうように、地方の政治家や自治体が、国や総務省の顔色ばかりをうかがっているようでは、そこの行政は住民のためになるとは言えない。補助金などをえさにぶら下げて、合併をやたら進めている国もどうかと思う。合併は、合併によるメリットが、それによるディメリットよりも大きいと判断ができる場合にすればいいので、猫も杓子も合併し、例えば、さいたま市のように合併して政令指定都市になったという理由で、議員の給料を上げるなどと言うことがあるとすれば、合併は地域の住民のためではなく、ただそこで仕事をする政治家のためだと言われてもやむを得ない。この例など、そんなことをしたら、議会が批判の的になることなど、火を見るより明らかなことで、逆に問うてみたらいいのだ。自分が議員ではなく、一市民だとして、仮に同じ事を議会が行ったら、それに賛成するかどうか。公の場でどう思うかをいうのではなく、自分自身の心にだけ問えばいい。
確かに、いい自治体もあるだろう。それは、そこに住む全ての住民が、誰彼無く満足する政治を行うことはまず無理だ。利害関係が反する場合も多々あるはずだから。だが、まず守られるべきは、弱者からであり、一般市民であり、次に企業であり、最後に自治体だ。自治体無くして行政もない、企業無くして一般市民の生活もない、というのは一見正論にも見えるが、そうではない。集落があり、村があり、市や県、国があるのは、そもそもこの世の中で、ただ乱雑に人が自由気ままに生きていては、逆に不経済でもあり、発展もないから、まとめ役が出、やがてそれが政治に発展してきたのだ。
ところが人類は何度も、頭に人を頂くと、それはリンカーンではないことの方が多いのだ。
さて、南セントレアという市名に関しては、客観的に見れば、それほど悪い市名ではない。先頃開港した中部国際空港がすぐ近くにあり、その愛称がセントレアだから、それに関連した地名であれば、市の知名度も上がる可能性はある。
議会の議事録を見ると、セントレアの登録商標がどうのという件りがあるが、そもそもそんなことが問題なのではなく、公募になかった市名がなぜか浮上し、それが結果的に市名として決議されたことにあるのだ。しかも、今回の住民投票にはまんまと「南セントレア」も候補に挙がって、住民の気持ちを逆なでしている。あきらめが悪いというか、南セントレアにしたかったのなら、そもそもやり口が逆なのだ。
今回住民投票に出されたものを議会側から、住民投票で決めるようにし向ければ良かったのだ。案外南セントレアに決まったかも知れない。
一度住民がその手法を含めて違和感を持った名前になるわけがない。
例えば、セントレアのある常滑市は、中部とか東海に住んでいるのでなければ、最近の若者は「じょうかつし」とでも読み、「とこなめ」と読めない人の方が実は多いかも知れないという予測は簡単にできるが、「南セントレア」を「なんせんとれあ」と読むとは到底思えないので、単純に覚えやすいという事や、中部国際空港は、それなりに利用客も増えるあろうから、「ああ、あそこの南ね」みたいなイメージで解りやすいというメリットもあるだろう。
知多町だって、知多半島がどこにあるか解らない人の方がきっと全国には多い。少なくとも、20代以下だったら、絶対多いはずだ。
先日、「笑っていいとも」で、ガレッジセールのゴリが「取手市」という答えに(真ん中にてという感じが入る3文字の言葉という問題)、そんな市はないだろうみたいな反応をしていた。ことほど左様に、地理というのは意外に知らない場合が多い。
都道府県を全て言えと言われても、言えない人も多いのだ。そういう意味では、南セントレアという名前は、今回とは別な意味で全国区になりうる可能性があった。
いや、それでも、そもそも合併が白紙に戻ってしまったのでは仕方がない。
住民の力が行政を決めることもあるのだ。
日本の政治そのものも、国民を見ているようには到底思えないので、この小さな結果を敷衍して、一国の総理にも、政治と行政のあり方について、改めて考えて欲しい気がする。僭越ではあるが。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月 9日
小泉純一郎
国会中継の小泉首相の答弁を聞いていてよく思うことだが、何とも歯痒いと同時に、いかんよなあ、あの態度はと感じてしまう。
世の中ではよく説明責任という言葉を最近使う。企業なのではアカウンタビリティなどと横文字を使ったりする。
政治家の多くはその説明責任を果たす義務があると思うし、それができていない人は多い。これは国民を患者と見たインフォームド・コンセントのようなもので、単純に「私は説明した、あと何せいとうのだ?」というのは全くもって説明責任を果たしたことにはならない。相手が理解して納得できるように説明して初めて責任を果たしたことになるのであって、小泉首相のように「どこまで説明しても不十分と言われるのだから仕方がない」というような開き直りは、あたかも自分にその能力がないことを露呈しているようなものであって、もしそうであれば、首相たるに足りない人物と言わねばならない。
ところがこれは、問題が別のところにある。彼に能力がないのではなく、作為的にそのような手法を取っているだけだと言うことである。これはあたかも、悪さをして叱られた高校生が、適当にごまかしたり、「俺はきちんと説明してるだろ」を容認するのと同じ事だ。
妙に、郵政民営化だけに饒舌で、他のことになると、「いろいろ」だとか「〜できるようにがんばって欲しい」だとか言う発言が多すぎる。
私は個人的に郵政民営化は賛成だ。なぜかと言えば、せめてそのくらいやらなかったら、小泉が期待されて首相になり、明確な形としてなったことは何なのだ?増税だけか?というお話しになってしまうし、民営化のメリットとかディメリットとかいう話は私はやってみなければ解らないという立場だからだ。
荒井議員が言うように。ディメリットだらけのはずはないし、小泉首相が言うようにメリットだけのはずもない。いずれにしたところで、国家規模で何かが変わらなければ、この国は永遠に変化しない。
旧態依然とした自民党政治が続くのなら(実は現在の民主党なら、自民党政治とそれほど大きく変わるようには思えないが)、単純に世の中が良くなるとは思えないし、国家とか政治が、そもそも何のためにあるのかと言うことを問い直すような世の中にならなければ、やはり同じだという気がする。
小泉純一郎のいいとlころは、こと郵政民営化に関しては頑ななところだ。自民党全員を敵に回してもやろうとする気概は買いたい。郵政族と言われる議員や、民営化反対の議員には、普通に考えても、利権や既存の何かを壊したくないという、国民を必ずしも向いていない背景を感じる。
では小泉がそうかというと、実はそうでもない。ただ、変革が必要なときに、しっかりした変革を行わないで、中途半端な変化だけをあてがうと、事はより深刻になり、うまくいかないというのはよくあることだ。
私も以前会社で経験した。
やるなら徹底して、しっかりした変革を加えることだ。
郵政民営化が可能なら、失敗した場合に国有化をすればいいのであって、やってみる前からああだのこうだの言うから、「族議員」というのは・・・と思われてしまうのだ。
道路公団だって、社会保険庁だって、どんどん民間のエネルギーを入れればいい。少なくとも、「公務員は」とか「行政は」と言われない国家体制を作って頂きたい。そのためには、国民自身が大きく何かを買えていかねばならないのだろう。それがなんなのかが問題だが。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月31日
議員年金
国会議員の年金の「国会議員互助年金制度見直しに関する答申」というのが出た。あきれ果てて物も言えない。
そもそも、年金は「国民年金」「厚生年金」「共済年金」などいくつかあり、昨年くらいまで国民が知っているのは、前記の順序でもらえる額が高くなっていく程度のことだ。社会保険制度の見直しに、社会保険庁と関連団体のあきれた年金の使い方のおかげで、多くの国民がそれに興味を持ち、「おかしいぞ」と思い始めた。しかも「議員年金」というお手盛り(最近この表現をよく見かける)の制度があるという。
そもそも、国会議員自らの制度を国会で決めるというのは、いかがなものか。「まず隗より始めよ」という中国の郭隗の言葉があるが、社会保険制度など、国民の負担をまず重くしてから、批判が出たので渋々手を付けた格好だ。しかも、議員年金には国会議員だけでなく、地方議員にまでその制度はあり、それぞれ規定年数以上在籍すれば、その全てを手にすることができるという。
国会議員の言い訳はこうだ。曰く「退職金制度の代わりだ」、曰く「無くしてしまったら金持ちしか議員ができなくなってしまう」。
退職金の代わりなら、退職金にすれば良かったので、できるだけ長く、生きている間は恩恵を被りたいとするエゴ以外の何物でもない。無くしてしまったら金持ちしか国会議員をやらなくなる?それはそう言っているあんたらだけだ。金がないなら無いなりでもできる政治を考えることが、あんたらに与えられた責務だ。また、金持ちがやる政治と、金持ちになりたいから政治家になる人間が行う政治など、五十歩百歩だ。当然後者が五十歩だ。金持ちが悪人とは限らない。そもそも、金持ちなのだから、むしろ国民のための政治を無私で行う可能性だってある。しかし、金持ちになりたい政治家は、目的がそもそもそこになるのだから、いい政治など行うはずはない。
そもそも、選挙カー1台に1千万円かかると国会で豪語する総理大臣や、1億円をもらっても忘れてしまう元総理大臣がいる政党に何を期待するのか!という見方もあるかも知れない。確かにその通りだ。根本的に何かが狂っている。
今回の答申で、保険料の7割アップ、年金3割ダウンと加入年数が2年延びて12年になると言うことらしい。参議院議員なら2期、衆議院なら3期と、まことに解りやすい区切りだ。これまでの10年の方がよっぽど分かりづらかった(おっと、これは皮肉だ)。
あたかも官庁の職員宿舎が都内の中心で3LDK2万円だったのを、世間の批判に耐えかねて2割アップしましたみたいな改変だ。3LDKだったら1000%アップだろう。何考えてんだか。
そもそも、自分たちで掛け金を出し、その掛け金の範囲でやるなら、国民も文句は言わない(もちろん、そのぶん給料を上げるなんて馬鹿な真似は別だ)。7割が税金だ。あんた達が国家に対して何かをしたと自慢げに思っているほど、国民は評価していない。むしろ逆だ。国会議員なんて、いいことすれば当たり前に思われ、下手なことをすると年中やり玉に挙げられる。
田中角栄はあるいは傑出した政治家だったかも知れないが、所詮はロッキード事件で捕まった元総理大臣に過ぎない。それでいいのだ。政治家を志したのなら、そういう職種に就いたのだと思えばいい。損な役回りでも(実際にそんなにそんだとは思えないが)、国民のために働く、それでいいじゃないか。
国民はあなた達の議員年金を支払うために税金を払っている訳じゃない。まず、同じ負担で構わないから、国民にも毎月10万円負担させろ。10年払ったら、同じ額の年金をよこせ。それで初めて公平感が出るというものだ。これは数学だ。
でなければ、さっさとそんな制度は止めてしまえ。
政治には金がかかるという前に、一度でも金のかからない政治を真剣に考えたことがあるのだろうか?選挙のたびにポスターをそこら中に貼るのが選挙運動なら、何の意味もない。ポスターはその議員の能力や人柄など語りはしないからだ。
いっそのこと政府を二つ作り、競わせてはどうだろう?いい方に税金を払うっていうのは。・・・ウソだけど。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月28日
NHKの海老沢・・・・元会長
度重なる不祥事と、それに伴う受信料不払いの拡大で、NHKの海老沢氏が会長を辞任した。引責辞任という形だが、それもやむを得まい。
NHKは受信料で経営される公共放送であり、いわば特殊法人だ。株主は受信料を払っている国民で、国民の多くが会長にNoを突きつけたわけだから、辞任して当然だ。
ところが、その舌の根も乾かぬうちに顧問に就任したという。NHKの経営広報部は「顧問は役員ではないため、実質的な権限はない。通常は役員が辞めると自動的に就任しており、今回も同様に委嘱した。アドバイザー的な身分であるため発表しなかった(読売新聞)」と言っているそうだ。
NHKという団体は、海老沢氏がなぜ辞任したと考えているのだろうか?なぜ受信料の不払いが、どんどん増えていると思っているのだろうか?
その辺りの感覚が、社会保険庁や、官庁、道路公団等と似ている。いわば他人事だ。
幾つものNHKの不祥事が海老沢氏個人の辞任でけりが付くわけでもなく、NHKの経営体質そのものが変革を求められている。NHKというのは実際問題、無くてはならない放送局だし、40%を切ったと言ったって、裏を返せばまだそれだけの人が観ている紅白歌合戦は、K-1やprideよりも放送の価値としては高いと言うことになる。というより、視聴率がどうあれ、スポンサーなど付きそうにないが、文化的に水準が高かったり、少数の視聴者のためであっても有意義な番組は作る続けるべきであり、何より報道は、信頼性の高いNHKならではの放送を続けていくべきだ。
妙に視聴者に阿り、視聴率の高いプロデューサーなどが幅をきかせることができるような風土こそを、NHKは変えていかなくてはならない。つまらんNHKでいい。但し役に立つNHKでいて欲しい。
NHKスペシャルなんて結構好きだ。芸能人なんて出てこなくたっていい。
そして、そう言ったきまじめな姿勢こそが、国民に対してNHKが思い出すべき組織としての姿勢ではないだろうか。
引責辞任した会長を、翌日顧問に頂くような組織に、いったい何が期待できるだろうか?組織の刷新をこそ目指すべきである。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 00:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月 7日
非を認める
非を認めるというのは人間、なかなか難しいものだ。
NHKの様々な横領や着服といった問題で、不払いがかなり増えているという。10億円とも言うことだ。払いたくなくても、口座引き落としの場合は難しいだろうから、本当に払いたくない人(こんどの事件で)ということになれば、NHKの経営に大きく響くほどの金額になろう。
実際に発覚して、悪事がばれた人たちは、謝罪したりしているようだが、NHKは「自分たちも被害者」などというのんきなことを言っている。確かに、昨日今日入った人たちや、多くの職員にとっては、こんな事で非難の矛先が向けられるというのははなはだ不本意だというように、日頃一生懸命仕事をしているに違いない。だが、記者発表する時に「そりゃねえだろ」という感じだ。そんな職員を雇ったのはどこの誰だ!
法律を笠に着て、国民の義務だと言って金銭を徴収するのは、税金、社会保険料、NHKなどだが、これらを使う現場で、多くの無駄や、どう考えても不適当な使われ方がされている。
しかし、よっぽど事が公になり、刑事事件にでもなるか、明るみに出ない限り、公的機関や政治家が、「非を認め」るのを見たことがない。
人間、心情としては解らなくもない。誰だって、自分が悪いことをして、それをすみませんというのはなかなか難しいことだ。
しかし、私たちは子供の頃から、「嘘をつくな」とか「悪いことはするな」とか、教わって成長してきた。恐らくどんな国でも教育では同じ事が言われているだろう。つまり、人類社会においては、これは普遍の真理なのだ。
例えば今回のNHKの件で言えば、NHK内の誰が悪かろうと、国民に対してはNHKこそが当事者であり、その犯人(今は容疑者と言うようだが、本人が謝っているのに容疑者はおかしいだろう)が、個人的に殺人事件を起こしたというならともかく、役職を利用した横領だったりすれば、その監督責任をこそ、自らに対して問わなければならない。自分も被害者だなどという発言は火に油を注ぐようなもので、それが解らないとすれば、彼らはばかだ。
ところが、彼らに限らず、人間というのは多かれ少なかれ馬鹿なのだ。そして臆病だし、自己防衛は確かに本能的なものだ。
だから、単純に理屈や論理がそういう時には通用しなくなる。
社会保険庁や道路公団、その他多くの公益法人などで、税金や社会保険料が、無駄に、そして不公正に使われている。職員の宿舎を、全く世間的な相場を無視した価格で運営していることだけをとってみたって、これは国や行政がやれば悪事だ。
会社が社員にただで貸すのは構わない。しわ寄せは会社の経営に影響し、会社が倒産するだけだからだ。
ところが国や行政は、赤字を増やして国民に増税という形で付けを回し、自分たちは安穏としていることが可能だ。こんな不公平な悪事があろうか?
国会の質疑などで、野党がそれらの追求するシーンでは、概ね弁解が聞かれるだけだ。その時は問題になるが、いつか忘れられていく。
非を認めないと言うことが、実は最大の防御なのだ。
子供たちに正義や平和を語りながら、親は不正や戦争を行っている。これが世の中だ。人類の進化は、知恵を持つことで始まった。しかし今の人類に種としての知恵があろうか?
まず隗より始めよ!
これが我々一人一人に課された、人生での試練なのだ。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月13日
ファルージャ
米国によるファルージャへの攻撃が激しい。
サマワは非戦闘地域と言って行っている自衛隊と同じ国の中で、1000人もの人がたとえ武装勢力とはいえ、戦争で殺害されている。小泉首相を始め政府のこの問題に対する言い訳を聞いていると、子供が悪いことをして叱られても、あれこれ言い訳をして逃れようとしているのに似て潔くない。
政治的な問題として、自衛隊がイラクに行って国際貢献することがいいのか悪いのかという問題は、実は私自身の中では明確ではない。ただ、自衛隊を送るために法律を作ったり、という作業は、実は個々の政治団体への献金の上限を設けて、政治団体自体の数は制限していないというような、結果ありきの嘘で世界も日本も動いていることの一例にしか見えない。
同様なことはこのファルージャへの攻撃にもあり、すごく解りづらい。
ザルカウィや、ビン・ラディンが行っているテロリズムがいいことでないのは、ほとんどの人が認めることだろう。だが、アメリカの正義が本当に正義だとしたら、この世は闇だ。
あたかも大航海時代、列強がアフリカやアジア、新大陸へと勢力を伸ばしていたのと、根っこは同じだ。人がどこに住もうと、住んだところを発展させようと、それは自由だ。しかし元々そこに住んでいる人がいて、そこにはそこの流儀があるとすれば、黒船を接岸させて開国を迫るのは、ある意味余計なお世話だ。
アメリカが今回やった一連のことは、9.11の同時爆破テロに対する、復讐以外の何物でもない。大量破壊兵器を地球上のどの国よりも大量に所持している国が、その力にものを言わせて、自らの正義という御旗で、侵略をしているのと、少なくとも今は変わらない。今になって撤退したら、それこそ無責任かも知れないが、そうなる前にこのような状態にしてしまった原因がどこかにあるはずだ。
独裁は忌むべきもので、それは北朝鮮であろうと、イラクであろうと、良くはない。だが、防衛のための先制攻撃などと言う、文章としてさえ破綻してそうな行為が正当化されるのは、独裁国家とそれほど違うだろうか?
それらの行為を見ても、アメリカ国民は今回ブッシュを支持した。
仮に私がイラクやパレスチナや、あの辺りの生まれで、なおかつユダヤ教徒かイスラム教徒で、周りに原理主義の大人がたくさんいて、あまりいい暮らしもできていなくて、そんな生活を続けていたら、テロリストになっていなかったという保障はない。
それはユダヤ教やイスラム教がもたらす人間形成ではない。救いをそこにしか求められない人生がそれを為すのだ。そしてそこへアメリカやヨーロッパの列強による利権が絡み、複雑な政治状況の中で、アメリカを憎み、反旗を翻す。
戦うことにしか、未来を見いだせない1000人近い人間が、爆撃によって死んでいる。私にはそう見える。
ブッシュも小泉も、命じる人間は戦地にはいない。
何がどうなれば、世界から個人に到る様々なレベルで平和が訪れるのだろう。人類が歴史をつづり始めてから数千年、人類は学ばない。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 11:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 4日
大統領選挙
アメリカの大統領選挙が終わってブッシュが再選された。アメリカ国民の選択はこれまでの政治や経済を是認した形になった。・・・・が、待てよ。日本の選挙でもそうだが、選挙の結果というのは、あたかも勝った方は国民すべてから選ばれたような顔をする。本当にそうだろうか?
アメリカの大統領選挙というのは、経験のない日本人には判りづらい。選挙人を通した選挙とはいえ、奇妙な直接選挙だ。なぜ、選挙人を間に置いているのか、見ていても私などにはよく分からない。
いずれにせよ、今回は思いの外、得票数は開いたようだ。投票率も60%になるという。日本で首相を直接選挙で選ぶことになった時、これだけの投票率になるだろうか?
まあ、日本のことはさておいて、60%の投票率というのは、言ってみれば残りの40%は投票していないと言うことだ。40%のうち、どれほどが、意志を持って投票していないか、推測するすべもないが、どちらの候補者にもNo!と言っている人は明らかにいる。
政治家は、常に当選した時に「選ばれた」「信任された」という。だが、圧倒的多数の票を得た政治家と、僅差で勝った政治家が、同じ信任を得ていないことは明らかなことだ。だが政治家の中で、その辺りを謙虚に受け止めて、「実は市民の半分は私にNoと言っている。当選したからには彼らにもYesと言ってもらえるように努力する」みたいなことを言った人を、私は見たことがない。皆厚顔だ。
民主主義は多数決がその基本を担っている。多数決が物事を決めていくのはある意味やむを得ない。一艘しかない船の乗員が、右に行くか左に行くかを決めるのに、少数派の意見を聞くことはない。もちろん、どちらがより知識があるかなどと言う余分な条件がない場合だ。
ブッシュがケリーになったところで、戦場で死ぬ兵士がどれほど死ぬのか判らないが、ジェンキンスさんが、戦場が怖くて逃げたと言っていたようだが、兵士の多くはそう感じているに違いない。
うまく言えないが、政治家は、自分が政治を行うメリットとともに、自分が行った時のディメリットも頭の隅にとどめていて欲しい。少なくとも、国民の半数近くが相手に票を与えていることを自覚していない政治家が、政治を続けていく限り、人類はあまり進歩していない感じがするし、今回のアメリカの選挙を見ても、世界で最も進んでいる国にして、こんなものなのだという感がぬぐえない。
個としての人は、いかにも様々な個性や正論をその中に持っていることが多いが、集団は相当に機能が落ちる。心理歴史学はある意味SFではなく、現実の政治に当てはめられるような気がする。
民主主義という、最も集団にとって公平であるはずの仕組みは、その中で特殊な権限を持つ人間を選ぶことによって、その民主主義の根底になる何かを失っているのではないだろうか?
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 22:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月 8日
政治資金規正法
橋本派への日本歯科医師会連名の献金隠しから、国民の関心を引くようになった今回の政治資金規正法改正だが、この政治と金に関する問題は、どうも政治のほぼ全てに関わる問題で、ひとつ政治資金だけの問題ではないように思う。
その昔より、「政治には金がかかる」という。ようは選挙だと理解しているが、ここ数十年の間に金のかからない政治や選挙を目指した政府でも政党でもあっただろうか?個人ではいるが、その多くが既にマスコミに顔の知られた人間である。選挙運動の必要がそれほどない人間が、選挙に金をかけないのは当然のことで、そもそも土台が違う。そうではなく、選挙の仕組み、ポスターだとか、選挙そのものの問題だ。私が選挙権を得てから既に25年が経つが、その間に全くと言っていいほど何も変わって異なように思える。
相変わらず、車で大声を上げて立候補者の名前だけを連呼していったり、そこいらの民家の塀に、到底美的ではないポスターを貼りまくる。突然電話してきて、誰々をお願いしますという。その時点でその候補には入れないと決める、私みたいな男がいるにもかかわらずだ。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 02:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月28日
新しい内閣
第2次小泉改造内閣が発足した。郵政民営化シフト内閣とか巷では言われている。本人も言っているのだから、きっと郵政民営化を是が非でもやる内閣なのだろう。
郵政族や荒井広幸議員などは、郵政公社を民間にする意味がどこにあるかとか、民間にすると田舎の郵便局が無くなると言って懸命に反対をしている。
個人的には郵政公社が株式会社郵政になったとしても、さほど影響はないように思える。預金もほとんど無いし、都内に住んでいる。ただ、本当にそういうことなのか?
民間にできることは民間にというのが小泉さんの口癖だが、それなら、私は社会保険庁とその参加にあるような特殊法人を、同様に政府出資率の高い民間会社にした方がいいような気がする。ハローワークもそうだ。
とふと考えた。
そうじゃないな。郵政も含めて全て民間である必要はない。公社でも省でもいい。
それよりも、国家機関を始めとするあらゆる公的機関で、まず責任体制をしっかりすることと、必要以上の優遇措置をさっさと止めること、民間並みのリストラを断行すること、国会議員の数も減らすこととかだろうな。
ダイエーやらUFJやら、苦労してる企業はたくさんあるが、一番問題なのは国家だろう。日本国だ。
企業は金がなくなれば倒産する。資金繰りで汗をかいている社長さんはたくさんいるが、それでも自治体や国は税金も、年金も、何でもかんでも徴収し、足りなくなれば値上げする。国がやっていることは、値上げと、国債の発行で国を持たせているようにしか見えない。
議員も行政も、「まず隗より始めよ!」だろう。
どうみたって、国民が納得するような政治も行政も行われていない。まじめにやっているとか、そういう問題じゃない。あれだけマスコミに騒がれたって、議員宿舎や社会保険庁の局員の宿舎の家賃など、民間並みにする気などこれっぽっちもない。
議員年金を廃止するなどと息巻いていた民主党の河村議員はいったいそのために何をしたんだろう?10年つとめれば3年で元が取れるような年金を作ってくれれば、国民は喜んで月10万円でも払う。借金したって払う。なぜならこれは、ただの投資だからだ。しかも配当確実な。
議員の皆さんは言う。退職金代わり。そもそも定年すらない議員に退職金などいらんだろう。あるいは年数に応じて、民間平均の退職金を支給し、きちんと定年も設ければいい。
構造改革構造改革と言ったって、結局構造そのものは何も変わってはいない。
この間、行政が少しでもスリムになったか?目に見えて特殊法人が減っただろうか?いや、減ったのかも知れないが、全く劇的なものではない。
この間変わったことで印象的なのは、年金制度が値上げすることが決まったというだけのことだ。この決定がなされたとき、与党の皆さんは、世論などどこ吹く風。
あらゆる事を官と民で競うくらいの社会にしないと、結局はだめなんじゃ無かろうか。新しい内閣の面々を見ても、到底世の中が良くなると期待できるように見えない。
投稿者 keisuke_yui : 政治・経済・行政 | 01:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
