2006年10月 9日

大宇宙の旅

 しばらく前に「大宇宙の旅」という本を人からプレゼントされた。
 荒木俊馬という1978年にすでに亡くなっている、京大の教授で、京都産業大学を創設した宇宙物理学者が、昭和25年に出版した本だ。昭和39年に再版されたときには、少年少女科学名著全集というのの第2巻として出されたという。

 宙一という中学生を主人公にした小説の体裁を取り、当時の宇宙科学の情報を、きめ細かく書いてある・・・・って、すごすぎるぞ!当時の中学生はこんなにレベル高かったのか!と驚くほどな内容だ。
 宇宙の話なので、当然のことながら、その後に解ったことや、変わったことなどは書いていなかったり、違っていたりする。
 
 例えばアンドロメダ星雲までの距離、太陽系から70万光年となっている。ぼくが子供の頃は、150万光年とか、190万光年、場合によって200万光年だった。現在では230万光年くらいかな。宇宙が膨張しているとは言っても、こんなに急激ではないはずなので、いろいろな測定方法で、正しい数値が割り出されたと言うことか。しかし、これだけ変遷していると、230万光年すら怪しい感じは否めない。そもそも光が230万年かかって届く距離の訳だから、確認のしようがない。
 70万光年という近距離にあるということで、アンドロメダ星雲は銀河系の3分の一くらいのサイズという風に説明がしてあるが、距離が3倍以上に伸びたわけだから、大きさも3倍、つまり銀河系とほぼ同程度かそれ以上の大きさを持つということに現在ではなっているわけだ。
 10年後にどうなっているか楽しみなところだ。

 宙一君は、なんと打ち出の小槌で大きくなって宇宙を旅するという、そのあたりは確かに中学生とか低学年をねらっているわけだが、中に出てくる数式や計算は、ちょっと待ってくれと言いたいくらい難しいものもある。
 変光星の高度変化から星の大きさや距離を求めるなんて、中学生には無理だろう、と思うことまで書いてある。そんなことだから、かつて天文学者にあこがれていたような人間が、簡単に挫折できるほど、天文学や宇宙物理というのは難しいということなのだ。

 大人が読んで非常に楽しい。

 実は先日の冥王星騒動で、冥王星の発見年など何年だかよく知らなかった上、この本が出た年もよく分からなかったので、もしや太陽系の惑星が8つと紹介されていないだろうか、などと淡い期待を持っていたのだが、そんなはずはない。しっかり冥王星まで書いてあった。残念。

 昭和39年の追加は、人工衛星の話題なのだが、昭和39年、つまり1964年だから、アポロはまだ月に言っていない。米ソの宇宙開発競争で、ソ連が先に宇宙に行った話などが書いてある。
 人類初の女性宇宙飛行士、テレシコワは「私はカモメ」と言ったが、ウルトラQで「弾丸超特急」という話だったように記憶しているが。実験動物のM1号が列車ごと宇宙に飛び出し、確か「私はカモメ」と言っていたような記憶がある。
 ウルトラQはリアルタイムで見ているのが、昭和40年か41年くらいだと思うので、テレシコワがこの本に載っているということは、昭和39年より以前に宇宙へ行き、M1号はその数年先、タイムリーな台詞だったのだ。
 当時こんな本があったとも知らないし、読んでも解らない。宇宙に興味を持って、本を読んでいた記憶は小学校の高学年からだったし、最初はまんがと図鑑だったから、こんな本には巡り会わなかった。巡り会っていたら人生が変わっていたかな。
 まあ、あまりがんばらない人なので、無理だったな。

 この本には、その後の宇宙の話として福江純という学者が、最近の話題などをしっかり補遺的に載せてくれている。だが、この荒木先生と福江先生の時代の差を最も大きく感じさせてくれたのは、宇宙の話題そのものよりも、福江先生の「なにげに」という表現だった。
 ああ、こういう本にも「なにげに」という表現が普通に使われる時代なのだな、と感じたわけだ。何気ないことが、むしろ時代を際だたせるという良い例だ。

 表紙絵の松本零士が個人的には好みではないが、実は松本零士にとってこの本との邂逅が、後の作品に影響していると読み、なるほどなとは思った。
「999」とか、ほとんど見たことはないが、この本の宙一よろしく、宇宙を旅する主人公が多いのもうなずける。

 年を食い、宇宙から遠ざかった生活をしている自分がちょっとだけ寂しかった。

投稿者 keisuke : 科学 | 00:49 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 5日

ランダム

 私はパソコンに音楽を大量に入れて聴いているのだが、その際に「random」で再生している。
 このランダムという言葉、辞書で引くと「手当たり次第」とか「でたらめ」「無作為」などという風に載っている。RAMということ場はランダム・アクセスメモリーのことだが、このランダムアクセスは任意抽出という風に載っている、
 任意だったり、無作為だったり、要はてきとーに選ぶということで、つまりはどんな順番で演奏されても文句を言う筋合いはないということではある。
 ところがこのランダム、くせ者で、現在曲が18000余りあるのだが(尤も、クラシックなど細切れになっているものも含めてだが)、いつぞや書いた確率の話を地でいくように面白い。
 容量が現在80GB程度で、1MB1分と考えると、全曲を流した場合、1300時間あまりかかる計算で、毎日24時間かけても、全曲聴くためには、50日以上かかる計算だ。
 つまり、かけっぱなしにした場合、2ヶ月に1回しか同じ曲には出会わないということになる。

 もちろん、延々とかけっぱなしなどと言うことはないわけで、実際には毎日何回かリセットされる。
 さてそこで面白いのは、何度も聴く曲というのが意外に多いということである。逆に言えば、1回も聴かない曲が非常に大量に存在するということでもある。
 これこそが言ってみればランダムの本質なのだと思うが、感性的には非常に納得しにくい。
 確率論的な理屈でこのランダムプレイの可能性を考えることと、実体験での感覚はだいぶ違うと言うことだ。

 さて、最近、ポータブルのMP3プレイヤーを購入して、やはりランダムで聴いているが、こちらは非常に面白い。というか不満だ。変な言い方だが、特定のランダムという順番があるのだ。
 実際の順番とは関係なく、ランダム再生が同じ順番でかかったりするのだ。これはそもそも、ランダムな順番を決めるためのルールがあるからではないだろうか?

 そこで不思議に思うのが、「ランダム」を決める仕組みだ。コンピュータが、どういう風にして乱数を発生させているのか、たぶん秒などの時間を基準にしているのではないかなと思うが、どうなのだろう?

 いずれにしても、ランダムというからには、無作為な抽出が、同じ結果を生む確率など、非常に低いわけで、しかも1万件程度の中から無作為に抽出して、同じ順番に並ぶなんて、5個のさいころを振って、出た目の組み合わせが、同じ順番で出るようなものではないか。これはランダムではなく、「ルール」だというような気になる。

 ところで、ランダムハウスという辞書がある。アメリカの出版社が出している辞書だが、アトランダムに出版をするためにランダム・ハウスという名前をつけたらしい。
 このランダムという規則性のなさが、何となく好きだ。この世のことが何でも決まっていたら面白くない。
 いい意味で、先の解らない人生が楽しい。あくまでいい意味で。
 

投稿者 keisuke : 科学 / 科学 | 00:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

ランダム

 私はパソコンに音楽を大量に入れて聴いているのだが、その際に「random」で再生している。
 このランダムという言葉、辞書で引くと「手当たり次第」とか「でたらめ」「無作為」などという風に載っている。RAMということ場はランダム・アクセスメモリーのことだが、このランダムアクセスは任意抽出という風に載っている、
 任意だったり、無作為だったり、要はてきとーに選ぶということで、つまりはどんな順番で演奏されても文句を言う筋合いはないということではある。
 ところがこのランダム、くせ者で、現在曲が18000余りあるのだが(尤も、クラシックなど細切れになっているものも含めてだが)、いつぞや書いた確率の話を地でいくように面白い。
 容量が現在80GB程度で、1MB1分と考えると、全曲を流した場合、1300時間あまりかかる計算で、毎日24時間かけても、全曲聴くためには、50日以上かかる計算だ。
 つまり、かけっぱなしにした場合、2ヶ月に1回しか同じ曲には出会わないということになる。

 もちろん、延々とかけっぱなしなどと言うことはないわけで、実際には毎日何回かリセットされる。
 さてそこで面白いのは、何度も聴く曲というのが意外に多いということである。逆に言えば、1回も聴かない曲が非常に大量に存在するということでもある。
 これこそが言ってみればランダムの本質なのだと思うが、感性的には非常に納得しにくい。
 確率論的な理屈でこのランダムプレイの可能性を考えることと、実体験での感覚はだいぶ違うと言うことだ。

 さて、最近、ポータブルのMP3プレイヤーを購入して、やはりランダムで聴いているが、こちらは非常に面白い。というか不満だ。変な言い方だが、特定のランダムという順番があるのだ。
 実際の順番とは関係なく、ランダム再生が同じ順番でかかったりするのだ。これはそもそも、ランダムな順番を決めるためのルールがあるからではないだろうか?

 そこで不思議に思うのが、「ランダム」を決める仕組みだ。コンピュータが、どういう風にして乱数を発生させているのか、たぶん秒などの時間を基準にしているのではないかなと思うが、どうなのだろう?

 いずれにしても、ランダムというからには、無作為な抽出が、同じ結果を生む確率など、非常に低いわけで、しかも1万件程度の中から無作為に抽出して、同じ順番に並ぶなんて、5個のさいころを振って、出た目の組み合わせが、同じ順番で出るようなものではないか。これはランダムではなく、「ルール」だというような気になる。

 ところで、ランダムハウスという辞書がある。アメリカの出版社が出している辞書だが、アトランダムに出版をするためにランダム・ハウスという名前をつけたらしい。
 このランダムという規則性のなさが、何となく好きだ。この世のことが何でも決まっていたら面白くない。
 いい意味で、先の解らない人生が楽しい。あくまでいい意味で。
 

投稿者 keisuke : 科学 / 科学 | 00:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月 6日

スペースシャトル

 スペースシャトルが明後日帰還する。無事に帰ってきて欲しいものだ。チャレンジャーが爆発し、コロンビアが空中分解し、スペースシャトルが被った2度の大事故によって、今回のディスカバリーの打ち上げ時の延期や、軌道上に乗ってからの様々な問題が、不安材料として報道などで大きくクローズアップされることがある。
 ソ連がスプートニクを宇宙に上げたのが1957年、ほぼ半世紀前のことだ。ガガーリンが宇宙に飛んだのが1961年。そしてその年に月旅行を計画したアメリカが、始めて人類を月に降り立たせたのが1969年。60年代前半に始まったペリー・ローダンシリーズでは、1971年にアメリカの空軍少佐ローダンが、始めて月面に降り立つというのが始まりなので、SFよりも2年も早く月旅行を実現させたことになる。
 映画「2001年宇宙の旅」は1968年の映画だ。これは人類が月へ行く前に、木星への宇宙飛行を描いた映画だ(クラークの小説では、土星の衛星を目指していたが)。映画ではこれが2001年のことだ。
 スペースシャトル「コロンビア」が始めて地球周回軌道に乗ったのは1981年のことだ。人類が月に行って22年、アポロ計画が17号で終了した1972年から9年後のことだ。
 チャレンジャーの爆発事故が1986年。コロンビアの空中分解が2003年。それ以来止まっていたスペースシャトルが、今回2年半ぶりに打ち上げられたのだ。今回が114回目の打ち上げだ。
 アポロは17回の打ち上げで、死亡事故はない。地上での事故で3人が無くなっている。シャトルは繰り返し使えるために、それまでとは違い、基地に帰還する。使い捨てで無い分、何回も使うのだから方が来ることもあるのかも知れない。
 いずれにしても、100回以上の打ち上げで、大きな事故が2回というのは、宇宙開発ということを考える上では、極端に多いわけではないと思う。もちろん、無事故であることは大切だが、飛行機だってあれほど事故に遭うのだ。ましてやより過酷な条件に晒される宇宙飛行は簡単にはいかないだろう。

 ところで、アポロ計画は、どんなメリットがあったのだろう?そして、100回以上に及ぶシャトルのメリットは?
 様々な科学実験や、見知らぬ場所の解明以外には、多分あまりメリットはないだろう。まして、大航海時代、多くの航海士が新たな大陸や土地を見つけ出したときと違って、その場所に一般人が簡単に行くことも叶わない。もちろん、シャトルないでの実験により開発された商品なども多数あるだろうが、実感としては、軍事的な目的などの方が大きかったのでは?などと疑いたくなるくらい、100回という飛行回数に比べて、「そんなに沢山飛んでいるのか?」という認識しかない人が多いだろう。
 
 そこに山があるからだ、とは、イギリスの登山家ジョージ・マロリーの言葉だが、そこに宇宙がある限り、そこに夢を馳せ、行きたいと思う人間の欲求は、無くなりはしない。尤も、最初からそんなことはどうでもいい人の方が、実は多いのかも知れないが。
 この世で何が有益で何が無駄かを測る尺度というのは、意外に難しい。食物を作らないと、人は食べ物がないと生きていけないから、どうしても必要であることは解るが、ディズニーランドの営業と、スペースシャトルの開発は、実は同じように大切なことなのだ。どちらもなくても生きては行けるが、生きるためだけに人間が生きているわけではないからだ。
 沢山のお金をかけて、殺し合いをするよりは、その分を宇宙開発に向ければ、今頃人類は火星にも到達していたのではないか?人が宇宙に飛びだして既に50年が経とうとしている、月に行くまで10年くらいしかかかっていないのに、残りの40年で、スペースシャトルが100回の行ったり来たりをしただけだ。なんだか寂しさを感じる。

 もちろん、月までの距離は38万キロ、火星は最も近くに来たときでも5000万キロ以上離れている。おいそれとは、月の次は火星という簡単な一段ではないことは確かだ。
 人の命が大切なのは何よりもそうだが、時には命がけで宇宙への夢を求めていくのも人間だ。子供心に憧れた宇宙への気持ちは、お金や幾多の犠牲をもその中に含みつつ、どんどん前に進む科学への憧れだ。
 アインシュタインが見つけ出した質量とエネルギーの等価則を、爆弾ではなく、宇宙開発などに有効に使っていこうという、人類全体の意識みたいなものっていうのは、やはり難しいのだろうな。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月28日

過呼吸

 知り合いが過呼吸になった。初めてだったし、ごく近しい知り合いでもあるので、息苦しいという連絡をもらったときに非常に心配になった。
 私は、発作性の頻脈という症状を持っており、1年〜2年に1回、急激に脈拍が早くなる。看護婦が手首で計れないくらいの速度になるのだ。放っておいて治ることもあるが、一晩入院することもある。その際に、走った後のような息苦しさを覚える。
 過呼吸というのは、発作的に息苦しくなり、その結果血中の二酸化炭素濃度が低くなってアルカローシス状態になることを言うらしい。事典を見ると、

「心因以外にとくに原因となる器質的疾患がなく、発作性に呼吸困難、過呼吸状態を生じ、それに伴い多彩かつ一見重篤そうな臨床症状を示す疾患で、過呼吸症候群ともいう。心身症的色彩が強く、ときに呼吸器、循環器疾患に合併して発症することもある。発作は、激しい運動、疲労、疼痛(とうつう)、不安、興奮、緊張など、心身のストレスにより誘発される。一般に若年者に多く、女性は男性の約2倍で、とくに25歳以下の精神の不安定な女性に多くみられる」

 と言うことだ。この一見重篤そうなと言うのは、話を聞くと頷ける。私に電話をしてきたときはそうでもなかったようだが、救急車を呼べという言葉に従って、119に電話した辺りから、かなりしんどくなったらしい。電話のボタンが正しく押せなかったり、説明する言葉のろれつが回っていなかったり、顔色を見た人の話では、絶対に入院すると思ったようだし、「チアノーゼ」と言われたという。チアノーゼは過呼吸とは逆に、酸欠などで起こる状態だろう。顔色が真っ白だったらしい。
 それでも不思議なもので、回復し出すと徐々に安定し、平生に戻るのだそうだ。

 過呼吸に悩む人の話を昔テレビで見たことがある。袋などを用意して、過呼吸になったときにその中で息をする。人間の呼気には二酸化炭素が含まれているわけだから、当然その中の空気を吸えば、二酸化炭素濃度が上がり、バランスが安定すると言うことだ。

 人間にとって必要不可欠な酸素だが、空気中には20%程しか含まれていない。残りのほとんどは窒素だし、そのわずかなバランスの酸素中に生きている人間だから、多すぎてもいけないと言うことかも知れない。酸素は、元々多くの物質と反応するらしいが、特に不安定になって反応しやすくなった状態の酸素を活性酸素といい、人間にとって有害な物質となる。酸素というのも表裏一体、この世の縮図のような物質である。

 いずれにしても事なきを得て、帰ってきたらしいが、人間の身体というのは、様々な不思議とを抱えた精密な機械のようなものなのだと思う。
 フジテレビの「アンビリーバボー」に、人間の身体が透視できるロシア人の女性が出ていた。
 否定派と名乗る3人の専門外の人間が難癖を付け、それを覆すという流れだったが、信じる信じないはともかくとして、この世には不思議なことが、まだまだたくさんあるのだ。
 私などにとっては、身体を透視できる不思議と、過呼吸を起こす不思議が、それほど違わない不思議として移るのだ。違うのは、片や医学的にある程度解明されており、片や証明されていないと言うだけで、不思議の度合いは変わらない。

 とにかく今日は、大過なく済んだことが感謝の一日である。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:39 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年7月 9日

星座

 星座の歴史は5千年くらいあるらしい。紀元前3千年くらいに黄道の12星座ができたという。1年12ヶ月という非常に実利的なものだろう。
 昔から不思議だったのだが、黄道12宮と言われる、いわゆる星占いの星座は、天球上における太陽の通り道だという。つまり、地球から見て太陽の方角にある星座が、その星座で、地球は太陽の周りを回っているから黄道は円になるわけだ。しかも、地軸は公転軌道に対して傾いているから、いわゆる北極星の辺りと、黄道の北極はその分ずれている。
 ところで、太陽の方角にある星座っていうことは、昼間、太陽が見えているときにそこにどの星座があるのか、というお話しだ。つまり見えないわけで、まあ、日の出とか、日の入りで太陽が見えないときに、その位置を類推することはできるが、何となく考えてみると面白い。

 さて星座だが、現在の星座の大本を体系的にまとめたのはプトレマイオスだ。プトレマイオスは2世紀ゴロにアレクサンドリアで活躍したらしいが、ギリシャ人らしい。アレクサンドリアはエジプトの都市だが、きっとそこで夜空を見ていたのだ。この時彼の「アルマゲスト」という書物に載っている星座は、全部で48だ。現在よりもまだ40少ない。まあ、実際に有名な星座のほとんどがこの中にある。
 その後、大航海時代を経て南半球でしか見えない星座が加えられたり、何人かの人が新しい星座を作ったり、中にはでかすぎるという理由で昔の星座を小分けにしたりと、長い歴史の中でいろいろ変遷があったらしい。
 現在の星座が定められたのは、1930年のことだ。

 星座は、見てみると、その多くが、どうしてこの名前に見えるのだろう?と思わざるを得ない。特に近世になって考え出された物のうち、名前からそのもの自体がどんなものなのかを思い起こすことができない星座に到っては、星の並びとの関連以前の問題である。
 彫刻室座なんて、どうしたらそんな名前が付けられたのか、想像もできない。レチクルなんていうのもある。レチクルっていったい何だ?

 ちなみに88星座の名前は、
1 やまねこ(山猫)/2 かに(蟹)/3 こじし(小獅子) /4 おおぐま(大熊)/5 こぐま(小熊)6 しし(獅子)/7 ろくぶんぎ(六分儀)/8  らしんばん(羅針盤)/9 ポンプ/10 りょうけん(猟犬)/11 かみのけ(髪の毛)/12 おとめ(乙女) /13 コップ/14 からす(烏) /15 うしかい(牛飼い) /16 かんむり(冠)/17 うみへび(海蛇)/18 りゅう(竜)/19 ヘルクレス/20 てんびん(天秤)/21 こと(琴)/22 はくちょう(白鳥)/23 へび(蛇)/24 へびつかい(蛇遣い)/25 わし(鷲)/26 こぎつね(小狐)/27 や(矢)/28 いるか(海豚)/29 たて(楯)/30 さそり(蠍)/31 いて(射手)/32 みなみのかんむり(南の冠)/33 ケフェウス/34 とかげ(蜥蜴)/35 カシオペヤ/36 やぎ(山羊)/37 けんびきょう(顕微鏡)/38 こうま(小馬)/39 ペガスス/40 アンドロメダ/41 みずがめ(水瓶) /42 みなみのうお(南の魚)/43 ちょうこくしつ(彫刻室)/44 うお(魚)/45 おひつじ(牡羊)/46 さんかく(三角)/47 ペルセウス/48 くじら(鯨)/49 ろ(炉)/50 きりん(麒麟)/51 ぎょしゃ(御者)/52 おうし(牡牛)/53 オリオン/54 うさぎ(兎)/55 ふたご(双子)/56 こいぬ(小犬)/57 いっかくじゅう(一角獣)/58 おおいぬ(大犬)/59 はと(鳩)/60 とも(艫)/61 とびうと(飛魚)/62 りゅうこつ(竜骨)/63 ほ(帆)/64 カメレオン/65 はえ(蝿)/66 みなみじゅうじ(南十字)/67 ケンタウルス/68 コンパス/69 おおかみ(狼)/70 じょうぎ(定規)/71 みなみのさんかく(南の三角)/72 ふちょう(風鳥)/73 さいだん(祭壇)/74 ぼうえんきょう(望遠鏡)/75 くじゃく(孔雀)/76 はちぶんぎ(八分儀)/77 インディアン/78 つる(鶴)/79 きょしちょう(巨嘴鳥)/80 ほうおう(鳳凰)/81 みずへび(水蛇)/82 とけい(時計)/83 レチクル/84 ちょうこくぐ(彫刻具)/85 エリダヌス/86 がか(画架)/87 かじき(旗魚)/88 てーぶるさん(テーブル山)

 ざっと見てもすごいでしょう。確かに星を結んで絵を描くっていうのは大変なことだけど、これは実際、全天を88に分けて、住所を付けたっていうことに他ならないわけだ。つまり、千代田区とか、豊島区とかと同じで、意味があっても、それを知っている必要は必ずしも無く、例えば、時計座に流星があったと言えば、その位置が解るという仕組みだ。
 しかしそれにしては、星座の区分はかなり入り組んでいて、よく分からない。
 しかも黄道12宮の星座なんて、長い歴史の中では位置も形も変わってしまうのに、それで人の運命が解ったりしてしまうなんて、不思議なのか怪しいのか、ともかく、面白いには違いない。

 空を見上げて、オリオン座は大概の人が解る。ペガススの四辺形も言ってあげれば大体解る。でも、アンドロメダ座は解らんぞ。空気がきれいなら、何となくアンドロメダ星雲は見えるが・・・・

投稿者 keisuke : 科学 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月24日

生物の存在する星

 今文庫で「大宇宙・7つの不思議」という本を読んでいる。監修をしている佐藤勝彦氏はよく宇宙論の本などを書いている先生だ。
 その中で1章を割いてETに言及している。ET(extra-terrestrial)。スピルバーグの映画で有名になった地球外生物を指す用語だ。この言葉がいつ頃からあるのか知らないが、陸生生物(terrestrial)のエキストラという、しゃれた言い方に思える。宇宙人を表すもう一つの用語は同じ映画から「エイリアン」だが、こちらは元々外国人とか異邦人という意味だ。外国人も異邦人も同じ意味だが、何となくカミュのせいもあるのか異邦人という言い方は雰囲気がある。
 ところが、ちょっと話が脱線するが新明解国語辞典を見ると異邦人は「(韓国・中国などを除く)外国の人」の意の漢語的表現。とある。これは、昔は日本と中国を除けばその先は皆天竺だというところから、異邦人は既知のアジアを除くということになるようだ。

 エイリアンは例えば、スティングの「Alien in NewYork」のように、やはりForeignerとは違う響きを持っている。日本語で言う外国人、あるいはForeignerは、あくまで外国の人であり、政治的というか地理的に別の国の人間を指すが、Alien、または異邦人は、国家と言うよりは部外者というか、その土地のものではない「余所者」といった響きがある。だからこそ、SFの中では宇宙人のことをエイリアンというのだ。
 ところが英語では宇宙人と引くとspacemanは別として、「a visitor from (outer) space」とか、「little green man」「saucerman」等、沢山の言い方がある。

 さて、これらの言葉の中で、ETという表現だけが、どちらかと言えば、知的生命であることを必ずしも要求しない。他の表現はどちらかというと、動物以上の知性は最低備えた生物というニュアンスが強い。しかし、ETは生命体であればよく、知的なETの場合には「extraterrestrial intelligence」という表現がある。
 宇宙論で異星の生命体を指すときは、どちらかというとそれほど知的なものを期待していない。むしろバクテリアのような、これくらいだったらいるかも知れないというレベルの話題が多いように思う。
 いかほどUFOの目撃例があり、どれほどNASAが秘密主義であろうと、確かに宇宙人の証拠は非常に眉唾だ。
 そんな中で、エンリコ・フェルミが提唱したパラドックス「こんなに沢山の星があって、きっと惑星もたくさんあって、生物も沢山いて、知的な生物もその中には沢山いるだろうに、どうして宇宙は沈黙しているのか?」これは、裏返して宇宙人を信じる人、あるいはUFOが異星からの乗り物だと信じる人たちにとっての傍証みたいなものだ。
 よくこういう本に載っているドレイクの方程式というのがこの本にも載っているが、この銀河にどれほどの知的生物が、現在存在しているかを計算する方程式だが、昔からこの妖しげな方程式は何なのだろうかと思うのだが、変数のほとんどが曖昧で、自由に代入することができ、入れ方によっては、とんでもない数字をはじき出せる。当たるも八卦当たらぬも八卦のような方程式だ。

 最近では、人間原理もあって、地球は宇宙の中の、極めて特殊な星であるという、宗教家が聞いたら我が意を得たりとばかりに喜びそうな考え方をする科学者も多いらしい。これとて否定するのは難しいが、夜空に輝くのが全て星で、宇宙には数千億の恒星を含む数千億の銀河が存在するとすれば、この地球をそれほど特殊と考えることができること自体不思議で仕方がない。我々が実際に観測で知ることができるのは、現在の宇宙論を信じる限り、130億光年という彼方ではあっても、その光だけ、そしてそれは130億年も前の光でしかない。せいぜい解ることといえば、地球の表面から太陽系。それだって多くは理論的な想像に過ぎない。ここ数十年の間に、何度も書き換えられたりしている。
 そんな中で、我々人類を特殊と考えるのは、「俺が宇宙の中心だ」というのと同じくらい、哲学的には真実であっても、科学的には怪しい。

 また、SFの読み過ぎかも知れないが、生命には水がないといけないとか、ずっと遠くへ行けばどんな世界があるのか解ったものではない。考える金属とか、無機質の生命体だって無いとは言えない。もちろんそんなものは机上の空論だが、宇宙の始まりに、あれだけ奇天烈なことを考える科学者が、どうしてもっと新規なことを言い出さないのかと不思議でならない。

 なぜ宇宙は、我々の脳の大きさに比べてこんなに大きく、そして長命なのだろう?
 興味は尽きない。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月11日

UFO

 今日夜のテレビ番組でUFOの話をしていた。久々に矢追純一の顔も見た。超常現象の話題でよく見る人がいたので、そんな内容だったに違いないが、UFOのところだけをちょっと見た。
 さて、UFOといえばピンクレディーと焼きそばといった感じもあるが、昔は「ゆーふぉー」なんて英語では言わないなんて言われたものだが、今では英和辞典にも「ユーエフオー」「ユーフォー」2つの発音記号が載っている。
 子供の頃はまだUFOではなく「空飛ぶ円盤」で、英語で言えば「Flying Saucer」なんて、雑誌には載っていたような気がする。
 テレビでは、前出の矢追純一が日テレのディレクターだったときに、よく特番を組んでいた。70年代から80年代くらいではなかったかと思う。それから30年前後経ったわけだが、昔と比べても、いまだに放送内容がさほど変わったようには思えない。
 これだけ本当っぽい写真がありますが、ほんとっぽいビデオに変わり、それでもほんとか嘘か解らないというスタンスで放送されている。片や、必ず宇宙人は存在していて地球に来ているという主張から、現代科学の常識を踏まえて「そりゃ無理だ」と否定してしまう科学者などの非常に二元的な対立は、UFOをテーマとした机上のディベートにしか見えない。

 もちろん、UFOはこういうもので、こういう風に存在していますと公の機関が発表すれば、取り敢えずは一件落着なのかも知れないが、昔からそれは気球ですとか、隕石ですとかプラズマですなどと言われても、信奉派が信じるはずもない。彼らの多くは、太陽系外から来た宇宙人の乗り物ですという発表がない限り、ほぼねつ造だと主張するに違いないからだ。
 これは心霊とか、ネッシーを代表とするいわゆるUMAとか、生まれ変わりとか、いわば教科書には存在が書かれていないが、世の中に信じる人が沢山いるいわゆる超常現象一般に当てはまる。
 
 科学が実験や経験で実証されて理論となるのであれば、幽霊にしてもUFOについても、十分すぎるほどの証拠は揃っているような気がする。但しそれが何であるかは、どちらも明らかにそれを捉えたという証拠がないようなので、断定するのは難しいように思う。観光地の写真に手だけが写っていたからといって、それが霊魂であるという証拠はどこにもない。同じように、UFOは何か飛んでいるという証拠は相当あるように思えるが、中に誰が乗っていて、どこから来たかという部分を写した写真やビデオはほとんど無いし、捕まった宇宙人という、背の低い人をからかう材料になっている有名な写真も、いったいいつの物だよ、というくらいに古い。

 本当に、光より速い宇宙船が造れないとしても、高速で動く物体の時間経過などを考えれば、他の恒星系から地球を訪れることができないと判断するのは早計だ。例えば今のパソコンだって、1000年前の人は想像すらできていなかったのは間違いない。それが数万年単位で進んだ文明があったとすれば、物理現象がどうあれ、ほぼ光速に近い宇宙船を造ることが不可能だとは言いきれない。
 人間の寿命は百数十年がせいぜいらしいが、他の星の人間が同じくらいしか生きられないという証拠はない。医学的に不死に近い延命だって、達成しているかも知れない。だとすれば、片道100年かかろうが、宇宙旅行はするだろう。地球が含まれる銀河のはずれの周辺だって、そんなにして恒星間を行き来している種族がいないと言い切ることはできない。
 もっと言えば、光速の壁を、人間が小説や漫画の中で解決したような方法で解決していないと断言してしまうのは、科学が常にどの時代でも抱えている不遜という名の欠点であろう。ニュートンがアインシュタインに代わられたのよりも、もっと劇的な変化が、この世にないとは限らない。そもそもそれくらいこの宇宙は不思議に満ちていたところで不思議ではない。

 もちろん、だからといって宇宙人が地球に来ていることの証明にはならないし、何十年もかかって何の証拠も出てこないところを見ると、いないといった方が真実に近いような気もする。少なくとも地球上には。

 ペリー・ローダンシリーズで、一触即発の東西世界の状況を救ったのは、異星人の力を利用して「第三勢力」を打ち立てたローダンだった。言い換えれば、異星からの驚異に対して人類がまとまったと言うことだ。多くのSFが地球がまとまるために異星人を介入させている。新たな驚異のためには身内がまとまるという構図だ。
 そう簡単に異星人が来ていたとして、そこの攻撃的な意図があるとも思えないので、異星人がいると解った時点で地球がまとまるとも思えないが、いつまでも殺伐とした世界が、何とか平和になるために、宇宙人の皆さん、何とか一役買ってもらえない物でしょうか?但し危なくない方法で。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月23日

アインシュタイン

 ニュースで気づいたが、アインシュタインがいくつかの論文を発表した年から、今年はちょうど100年。世界物理年なのだそうだ。
 アインシュタインはウォーホールの絵や、映画にもなったし、20世紀で最も著名な科学者であることは間違いない。量子論とともに20世紀の最大の発見とも言われる相対性理論は、アインシュタインの代名詞となっている。

 相対性理論というのはまことに寂しい理論で、この世の最高速度は光速だと決めてかかるところから入っているので、非常に夢がない。夜空に輝く星々は、昔の人にとっても現代人にとっても、手の届かない遠い世界だが、それに科学的な証明を突きつけてくれたようなものだからだ。
 光は太陽まで8分少々で届く。その距離を1天文単位と言うが、一番近い恒星でも、その光ですら4年以上かかるというのは有名な話だ。銀河系の端から端までは光が10万年かからなければ届かない。10万年前というのは有史以前だ。有名なアンドロメダ星雲までは200万年以上、ここまで来ると人類と猿はそれほど大きく違わない。
 いずれにしても、遠い宇宙を旅することができなくしたのはこの理論だ。
 
 何となくどんどん加速していけばいつかはその速度も超えそうな気がするが、この理論の嫌なところは、速くなればなるほど時間の流れが遅くなる。そして光の速度になったとき、0になる。多くの場合、物理ではこういう非常識な点のところを特異点という。ビッグバンの瞬間とか、ブラックホールの地平線とか、頭で考えても上手く想像できない点のことだ。
 それでも、E=MC2のようによく知られた式などから原爆ができあがったり、超高速の飛行機上では時計が遅れたりするとか、実験的証拠が出てくると、尚更暗くなる。

 後は超空間とか、ワープとか、別次元とか、ワームホールとか、抜け道を想像で探すしかないのだ。

 SFという文学の一分野は、科学がなければ生まれなかったが、同時にその科学によってぐいぐいと、締め付けが厳しくなりながら生きてきた。現実はさらに厳しく、夢とはほど遠い。

 なんていう逆説的な一文で、アインシュタインを称揚するのはいかがなものか。
 科学とは事実を模索し夢を砕くのだろうか?いや、所詮人間には、どんなにがんばっても解らないことがある。論理的に導き出せても証明のできない部分が必ずある。だからこそ科学は逆に夢に満ちていると言わねばならない。

投稿者 keisuke : 科学 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月18日

個人認証

 個人認証のために暗証番号やパスワードではなく、人体の特徴を利用した指紋や、掌紋、虹彩などを利用したシステムがどんどん開発されている。スキミングなどの犯罪が増加しているからでもある。
 当然犯罪防止に役立つわけだが、同時に暗証番号などを忘れてしまうという心配がない。一卵性双生児の指紋は同じだという話を聞いたことがあるが、それ以外の場合は、自分以外は認証されないわけで、いざというとき、知り合いに頼んだりはできなくなるわけだ。
 自宅も、家族以外は入れなくできるし、有効範囲は広い。

 ただ、ふと思ったが、それでも情報はデジタル化される。指紋であろうが何であろうが、0と1の数字の組合せに置き換えられて、銀行なり機械なりの中に蓄積される。もちろん暗号化されているだろうが、それも含めて「破られない」という保障はどこにもない。確率が極めて低くなるというだけだ。
 もちろんそこが大事なので、だから無駄なわけではない。
 それでも、どこまで行っても守る技術と犯罪はいたちごっこなのだろうな。
 ロボットが人並みの曖昧さを理解できるようになれば、あるいはかなり高度な認証ができるようにも感じられる。記憶としての限界はあるが、人間の勘みたいなものは非常に高度なセキュリティの反応を持っているように思う。但し、そこまで集中力を常時続けることは不可能なので、いかに機械がそんな能力を持てるかが鍵のように思う。
 まあそれでも、ロボットを騙す技術が作られるのかも知れないが。

投稿者 keisuke : 科学 | 22:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月 1日

万物理論

「万物理論」という小説を読んでいる。グレッグ・イーガンという作家の本で、結構分厚い。まだ読み終わったわけではないが、ここに出ている「人間宇宙論」というのがちょっと面白いので、読了前に書く気になった。
 相変わらず、外出先でしか読まないので、非常に時間がかかっている。こういう本は、ある程度一気に読んだ方がいいのかなと思うが、小説そのものはそれほど上手いとは思えないが、これだけのハードSFはなかなか読み応えがある。

 ここに出てくる「人間宇宙論」というのは、現在の「人間原理」の延長版のようなもの
だ。人間原理は、現在の宇宙を人間の存在そのものにその存在意義を帰結させるようなものであると思う。小説ではAnthrocosmorogyという言葉が使われているが、人間原理はanthropic principleと言い、strong とweekに分かれる。人がいて、人が生きて生きやすいように宇宙が作られたと考えるのがstrongで、偶然そうなったというのがweekだ。
 小説内の人間宇宙論は(これから読む方はいかねたバレ少し)、万物理論−現在追求されている統一場理論をさらに一歩進めた、宇宙の根幹を説明できる原理−を解明する、ある特定の人物により、ビッグバンから現在、そして未来までの全ての宇宙ができあがっているという、ちょっと説明しただけではよく分からない内容だ。
 
 そもそも宇宙の成り立ちを人間的立場から説明しようとするこれらの理論(小説はより架空の理論だが、それほど現実の人間原理と乖離があるようには思えない。どちらも実験的証明は難しいから)は、宇宙論を考える科学者の畏怖みたいなものを感じざるを得ない。
 もし仮に、何かの力が少し強かったら、生命は誕生していなかったという理屈で、人間原理を提唱するのなら、sれは人間原理というよりも、運命論のような気がする。尤も、そういう言い方をするなら、実験で証明できない多くの宇宙論は、まさに運命論的であり、いみじくも小説の中で万物理論の提唱者の一人、ヴァイオレット・モサラはその考え方に反論している(但しモサラは人間宇宙論者ではないが)。

 例えば宇宙の中心に地球があると考えた中世の人々や、相当時代が下っても、太陽系が銀河の端にあるとは考えられていなかったり、銀河系すら全く特色のない大宇宙の小さな一粒の小宇宙になったり、宇宙論の歴史は、常に人間中心主義をその高みから引き下ろしてきた。
 人間原理のような、証明が極めて困難、あるいは不可能な理論は、どうして提唱され、賛同され、研究されているのだろうか?こういう異端的なものの考え方に、常にフレッド・ホイルが噛んでいるというのも面白いが、小説「10月1日では遅すぎる」などで見せたホイルの冴えを思い起こすと、そもそも現代の宇宙論はSFと表裏一体の、というか境界線の曖昧な分野であるような気がして仕方がない。

 数学が導き出す現象の説明としての宇宙論は、あるのかどうか解らない宇宙ひもや、多次元といった概念や、虚数時間といった、最早人間が感覚的には想像すらできない分野に及んでいる。
 返す返すも、これらの議論の中にいられない自分が悔しい。戻れることなら10代にもどり、数学と物理の勉強を徹底的にやり直したいとすら思う。
 この世の解明されないものの追求や、答えのない問を一生続けて考えることの有意義を、これらの科学は教えてくれ、しかも人生の意義は、富や快楽、愛など、様々に身近なものにだけあるのではないことを改めて認識させてくれる。

 人の脳の奥、心の奥に潜む何かが、追求しないではいられない衝動を支えているに違いない。その衝動こそが、人間原理を生むのであり、「万物理論」でそれをSFたらしめている「一人の人間による宇宙創生」というテーマを生むのである。
 ああ、面白い。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月26日

H2ロケット

 今日の夕方、運輸なんたらいう衛生を積載したH2ロケットが種子島から打ち上げられた。無事成功したらしい。1年半ぶりの打ち上げで、まずは良かった。
 しかし、ロケット打ち上げの成功率は、欧米や中国の90%以上という成功率より、遙かに低いという。70%台だそうだ。
 よく言われるのは予算の少なさだ。確かに、欧米に比べると、宇宙開発にかける予算は桁違いに低い。GNPなどを考えると、その予算費はとてつもなく低いということになるのだろう。
 日本人はどちらかというと、目先の便利さや、政治家に利益を供与できるような公共事業などにずっとお金をかけてきた。結果が今の宇宙開発事業団なのだと思う。
 もちろん、欧米の宇宙開発は、単純に科学的な開発という側面ばかりでなく、軍事的な側面も大きいから、軍事的な予算が極めて少ない日本は、それと比例するように宇宙開発予算も少ないというのは、ある程度理由は分かる。

 しかしそもそも、宇宙開発が軍事的な様相を持つこと自体が、情けない。
 科学は、戦争と技術革新を縄を縒るようにして進歩してきた。それは否めない事実だ。E=mc2という有名な公式が核爆弾を導き出すというのと同じに、大陸間弾道を可能にする技術と同じ分野で、人は月に足跡を印した。
 だがどうしても、あるいは各国同じなのかも知れないが、日本は国家とその公的な仕事に携わる個人に必要以上にお金が流れてきたように思えて仕方がない。これは政治家もそうだし行政もそうだ。国家ばかりではない。地方の自治もそうだ。
 
 経済成長の裏には、ある意味、無駄なことにはお金を使わないできた日本という国の特性がある。人工衛星を打ち上げるのは今となってはかなり重要なことだが、人を月に運んだところで、それがビジネスにならなければ、それほど意味はない。極端なことを言えばそういうことだ。
 宇宙へ人を運ぶことが、意味のあることなのか無意味なことなのかは、恐らく運んでみないと判らない。
 アメリカが月への飛行を止め、またシャトルの飛行も一時期減った。
 21世紀になって、民間が宇宙に人を飛ばそうとしている。しかし日本は、まだ国家としても有人飛行を行ってはいない。ある意味、そのことも民間にさせるのが日本らしさかも知れない。
 そういう意味では、livedoorの堀江氏などは、日本という国家が望む最も有望なビジョンを持った事業家なのかも知れない。彼以外の企業のトップの口から、ロケットを飛ばしたいというのを、私は聞いたことがない。

 経済的な企業人ではない、別個のビジョンを持った企業人が、これからの時代を作っていくのではないだろうか。そして、やがて、地球人が宇宙へ行くというコンセプトが・・・・アメリカ人がとか、中国人がとかではなく・・・・一般的になる時代に、私は生きているだろうか?・・・・無理っぽいな。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年1月15日

タイタン

 私が「タイタン」と書くと、マーラーの交響曲第1番をテーマにして書くような感じだが、今回は、土星の衛星だ。
 土星は太陽系で2番目に大きい惑星で、衛星が現在判っているだけでも33個あるらしい。子供の頃本で読んだ時には一桁だったような気がする。数十年で3倍以上に増えている。たいしたものだ。
 タイタンは中でも最も大きいから、誰が発見しなくても、肉眼で見えていた最も遠い太陽系の惑星だ。これより外の海王星や冥王星は、肉眼では見えないので、望遠鏡ができるまでは、太陽系の惑星は6つだったことになる。
 英語名はサターン。「サタン」じゃない。農耕神で、ジュピターのお父さんだ。ローマではユピテル(昔こんな名前のレコード会社があった)。ギリシャのゼウスと思っていたが、今回調べてみると、確かにそうなのだが、ユピテルそのものは、ギリシャ神話とどうかする以前から神話の主神だったらしい。
 で、サターンはギリシャ神話のクロノスと言うことになったようだ。私などはクロノスと言われた方が分かりやすい。クロノスは巨人族、つまりティ−タン>タイタンと言うことだ。クロノスは自分の子供を全部飲み込んでしまうような神様で、農耕神というにはほど遠い。単に主神のおとっつぁんということで、クロノス=サターン(サトゥルヌス)と言うことになったのだろう。
 でも土星の衛星にはクロノスがらみの名前が多い。
 タイタンを始めとして、そのタイタン族の名前が順番に付いていたりする。
 ミマス,エンケラドゥス,テティス,ディオネ,レア,タイタン,ヒペリオン,イアペトゥスという最初の頃に名前が付いているものは全て巨人族の名前だ。

 タイタンと言えば「タイタンの妖女」(カート・ヴォネガットJr)だが、太古の地球に環境が似ていそうだということでSFにもよく取り上げられている。実際にどうなのか判らないが、少なくとも地球より寒そうなので、住むには適していそうもない。
 今回探査に向かった「ホイヘンス」は、土星の輪っかやタイタンなどを望遠鏡で発見したその人の名前で、350年かけて、ホイヘンスは自分で見つけた土星の衛星に着陸したことになる。なんかいいな。
「2001年宇宙の旅」では(小説の方だが)、ボーマンはイアペトゥス(ヤペトゥス)に向かう。
 土星というのはその輪もそうだが、なかなか神秘的な惑星なのだ。
 ホルストの「惑星」では、土星は老年の神だ。木星の明るさや、火星の猛々しさに比べると、非常に地味だが、その分美しい。別に静かな曲というわけではないし、途中は鐘や太鼓でどんひゃららみたいなところもあるが、全体としてはじみーだ。
 望遠鏡で空を除いていた頃は、土星はその輪を見て楽しんでいた。ホイヘンスが見つけたタイタンは見たことがない。17世紀に見えているのだから、口径10cmの20世紀の望遠鏡で見えないことはなかったと思うのだが、その分空が明るいから難しいのかも知れない。

 でもこうやって、一つ一つ宇宙の不思議が解明されていくのだろうが、その地に自ら立つことはないのだと思うと、ちょっと寂しい。100年後に生まれていたら、宇宙旅行は当たり前になっているのだろうか?
 21世紀って、そんな世の中だと思っていた子供の頃、やはり100年経ってもあまり変わっていないということもあるんだろうか?ああ、1000年くらい生きたいな。

 

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 22:57 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年1月10日

ヴェリコフスキー

 しばらく前に読んだJ.P.ホーガンの「揺籃の星」の下敷きになった、学説を主張していた学者がヴェリコフスキーだ。
 聖書にあるような天変地異などを、木星の一部が飛び出して彗星になり、それが地球とニアミスをしたことで起こったとする説である。その後この彗星は金星軌道に収まったとする。つまり、金星は元木星の一部だというのだ。
 ホーガンのものは当然小説で、ホーガンなので、基本的にハードSFだ。しかしヴェリコフスキーは生涯をその説に捧げたようである。出版されたのは1950年頃で、大ベストセラーになると共に、最初に刊行した出版社は、圧力に屈して出版権を他社に譲渡したほど、すさまじい攻撃があったらしい。当然著者にもあったはずだ。有名なカール・せーガンなども一貫して反ヴェリコフスキーだったようである。
 普通に考えれば、ここまで荒唐無稽であれば、相手にしないというのが正しい姿勢のような気もするが、相手が大ベストセラーとなれば話は違うようだ。「ハリーポッター」が、実際の歴史書として出版されて、学説として流布するようなものかも知れない。
 しかもヴェリコフスキーの著作は、簡単に書いた冒頭の内容でさえ、天文学、物理学、歴史学、聖書学など、かなり広範囲に影響を及ぼしている。
 内容を読んだわけではないが(翻訳は「衝突する宇宙」で、3500円もする)、70年代に流行ったUFOや不可思議現象・・・社会思想社とか、角川文庫当たりから出ていたエーリッヒ・フォン・デニケンの著作のような印象も受ける。
 但し解説を読むと、このヴェリコフスキーなる人物はかなりの博識で、緻密な理論の積み重ねを行っているらしい。科学者などのにとってはこの当たりがタチが悪いと言うことになるのだろうか。
 しかし、データ的なものを抽出すると、当時の科学的な常識とは反していた幾つものデータが、実はヴェリコフスキーの方が正しかったものもあるようだ。
 この著作がベストセラーになったもう一つの背景は、聖書の記述を真実として説明しているところにあるらしい。
 歴史学者がそれは年代的に正しくない!と言っても、そもそもその年代の比定が違っているというところから入っているらしいので、そうなると、そう言った歴史学からの反論は意味をなさないことになる。

 このヴェリコフスキー理論が正しいのか間違っているのかと言えば、普通の教育を受けてきた私などは、「まあ、間違ってるんだろうな」と思ってしまう。荒唐無稽という言葉さえ使いたくなる。
 ただ、ガリレオだって、ケプラーだって、アインシュタインだってそうじゃなかったか?という疑問も起こってくる。どうもその当時の科学界からの反応を読んでいると、あたかも切り捨て御免的に、頭から「怒って」いたような印象を受ける。すなわち、「どこがどう間違っているかなど、いちいち指摘するのもばからしい」と言うことか。但し、「世間がこれだけもてはやすというなら、黙っちゃおれん」と言うことのようだ。

 だが何か釈然としない。3,4千年前に地球と、これから金星になる星がニアミスをしたと言うことが、信じられるかというと、ハリウッド映画ならという感じはある。だが、それでは最新の宇宙論の多くが、信じられるのかと言えば、同じようなものだ。人気のあるホーキンスなんていう学者は、宇宙が生まれる前は時間が虚数だったなんて言ってる。そもそも「虚数」という概念を人が感覚として捉えることは不可能だから(理屈は解るが)、それを信じろと言っても難しい。
 仮にヴェリコフスキーの理論が、金星の現状(例えば金星の公転軌道だけがどうして他の惑星とは逆なのだとか)などを、今の科学よりも上手く説明できていることが仮にあるのだとすれば、頭から否定するのは、ガリレオの宗教裁判と大差はないような気がする。

 あるいはホーガンの意図はそんなところにあるのかも知れない。小説によってヴェリコフスキーの理論を現代にもう一度再浮上させ用なんて言う。なぜなら、SFが荒唐無稽でもいいというわけではないからだ。少なくとも、ホーガンという人は、科学的な基礎の上に作品を構築する人だ。それがフィクションであろうと、嘘を書きたいとは思っていないだろう。幾ばくかの真実をヴェリコフスキーに認めたからなのではないのか。
 ヴェリコフスキーという人は25年ほど前まで生きていた人だ。
 頑なに自説を守り通したようだ。それが正しいのかどうかは別の問題だが、同じ事が科学者側にも言えそうだ。いろいろなことが、積み重ねられてきてできあがった現代科学に真っ向から対峙し、荒唐無稽に一見見える学説は、恐らく今でも同じような評価や扱いを受けるに違いない。
 昨年のイラクで最初に人質になった3人の日本人に対する「自己責任」という一斉批判みたいなものと同質の何かを感じないではいられない。これは実は、同和問題などの、差別を生み出す人の意識のあり方と、非常によく似た面を持っているのだと思う。

 多分、ヴェリコフスキーの理論は正しくない。これがとても考えやすい。しかし、科学というものが、実験と検証、あるいは数学という手順がない限り、論争の台にも乗らないとしたら、寂しい感じがあるな。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 00:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年12月29日

地震

 今年は地震の多かった年だ。特に大きな地震が。
 新潟、北海道、スマトラ沖と後半だけで3回も起こっている。地震のホームページを見ると、8月からマグニチュード5以上の地震が日本付近だけで6回起きている。巨大な地震に関しては例年よりは大分多い。
 地震は揺れによる家屋の倒壊や地割れ、引き続く火事など、地震そのものだけでなく、付随する現象が恐ろしい。今回、スマトラ沖の巨大地震は、津波だった。日本でも過去、奥尻や秋田など、記憶にあるだけでもいくつかの津波による惨事がある。
 この世の中で、天災はいずれにしても防ぎきれない。地震、台風、噴火、など、星が起こす災害には、人間はあまりに無力だ。
 しばらく前に読んだ本「揺籃の星」は星が地球に衝突する話だった。これだって無いとは言えない。少なくとも長い地球の歴史では何度も起こっていることだし、恐竜の絶滅の原因も現在ではそこに根拠を置いているのだから。まあ、月の表面を見るだけでも、大気がなかったら、いかに多くの天体が地球に落下しているのか、そしてそのいくつかはいかに地球に被害を与えるのか、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」を見るまでもなく、明白だ。

 人が住む大地で、自然災害の皆無なところはほとんど無い。幸せなことに、私はこれまで、大きな自然災害には巡り会ったことがない。でもそれは、これからもそうであることを一切保障しない。それが自然災害の恐ろしいところだ。

 昔、「日本沈没」とか、巨大地震をテーマとした小説や書き物、あるいは映画などが流行ったことがあった。1970年代の前半だ。当時は「ノストラダムスの大予言」もベストセラーになり、世紀末まで30年近くある中で、週末ムードが漂っていた。
「日本沈没」は、文字通り日本が沈んで日本海が無くなってしまうお話しだが、小松左京は科学的なデータをたくさん付けて、中学生には難しい小説を書いていた。
 実際に、近いうち日本が沈まないまでも、それほど破滅的な事が起こることはないだろうが、破滅的というのはそれが自分自身に関われば、今回の新潟中越地震などはまさに破滅的でさえある。
 プレートテクトニクスにより、地面の下では対流が起こり、常に動き続けている。太平洋プレートは日本の下に潜り込み、反動で地震を起こす。この動きが大陸を動かし、今の世界を形作っているとすれば、大地の動きは地球の脈動であるし、星もまた生きていることの証左なのだろう。

 地震の予知は非常に難しいという。直感的に分かるような気がする。よく、動物は予知して逃げるというが、どこまで信じていいのか、仮にそれが確実なら、今頃予知できるようになっているのではないか?
 人間は自然や生物に対して神秘的な何かを見たがる傾向にある。いいことも悪いことも神の思し召しというわけだ。それはそれで信仰という面からすれば重要なことだろう。否定するつもりはない。しかし、そこから科学的に何かが導き出せない限り、やはりその時点では迷信に過ぎないし、偶然なのだ。
 ただ、仮に予知できたとして、それがどの程度のタイミングで、どれほどの確度をもってされるのかが問題だ。1時間前に震度7の地震が起きると予報があれば、どこかへ逃げることができるだろうか?確かに避難場所へは行けるだろう。しかし家の倒壊は予報の如何に関わらず、防ぐことはできない。もちろん地震予知が無意味だと言うことではない。そうではなくて、地震そのものをコントロールできるようになるまで、地震の恐怖はあまり変わらないと言うことだ。
 
 今これを書いている間に地震があった。東北らしい。やはり大地の揺れというのは、「足下を揺るがす」大事件なのだ。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 21:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年12月 9日

21世紀

 ヨドバシカメラからカタログ冊子が送られてきた。年末やボーナス時期、新入学時期などに送られてくるものだ。意外と読み応えもある。が、基本はカタログだ。
 しかし、それを見ていてふと思った。
 確かに21世紀は科学の時代だ。
 子供の頃、アトムや未来物の映画やドラマを見て、こんな世界が来るのだろうか、と思っていた。空飛ぶ車や、人間そのもののようなロボット、オートマチックで何でもできる家庭などというのは実現していないし、相変わらず、男はスーツを着ていて、よくある未来型の服などはお目にかからない。
 しかし、テレビ電話は現実の物となり、コンピュータに到っては、20世紀中期以前に本などで見た物とは比較にならないくらい、発達している。タイプライターを見た時、日本語でこんな風に印刷文字を機械で行うのは非常に大変だろうな、と思ったものだが、今では手書きの方が大変だ。
 印刷は個人の物になり、写真も劣化せず、300キロを超える速度で電車は走る。宇宙旅行だって、目前に迫っている。

 私は音楽が好きだが、テープに好きな音楽を録音して聴いていた頃は、この複数のテープが1本に入ったら、どんなにいいだろうと思っていた。ビデオだって、いちいち入れ替えなくても良くなればいいのにと思っていた。今では、ハードディスクが十分にそれらの用途を叶えている。
 次世代DVDは、またもやVHSとβの争いをしようとしている。消費者には難儀なことだが、実はこの競争こそが、様々な文化的産物を可能にしているのだと思えば、互換性がないと言われている二つのフォーマットを、いかにして1台の機械で再生できるようにするかが次の問題なだけで、さほど落胆することではないような気がする。
 現在、何枚組とかになっているドラマやアニメ、映画などが、1枚に入る時代はすぐそこに来ている。
 私たちは、レコードで始まり、様々なフォーマットのテープメディア、CD、LD、MD、DVDなど、一つの世代で多くのAVメディアを体験してきた。DVDが長期間劣化しないからいいとしても、主流のメディアが変遷していくことで、次のものに乗り換えていくしかなくなる。
 パソコンだって、10年も経てばどんなものになっているか解らない。
 インターネットなど、10年前は国民の多くが存在すら知らなかったものだ。

 アトムはまだアシモだし、エンタープライズはまだスペースシャトルだが、やはり世の中は着実に、人の頭脳が思い描いた未来に向かって確実に進歩している。
 もちろんできない物もたくさんあるに違いない。前にも書いたが、タイムマシンなどはその最右翼だろう。
 こんな風に考えると、人間の人生というのは短いな、とつくづく思う。100年後の世の中すら見られないのだな、と残念に思う。しかし、願わくば、人類がその暗い未来を描いた小説などを現実のものにすることだけはないようにと思わずにはいられない。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月27日

夢の話

 今、夢の話を読んでいる。講談社のブルーバックスの一冊だ。(夢の科学ブルーバックス
 夢をなぜ見るのか、そしてどういう仕組みで見るのか、どういう意味があるのかといった問題を、脳科学の面から解りやすく説明している書籍で、なかなか面白い。風呂に入っている時だけに読むので、なかなか進まないが。
 
 そもそも夢が何かのお告げだったり、抑圧された何チャラの情動だったり、などと言ったことは元々ほとんど信じていなかったが、さりとて、フロイトを始めとする夢判断についても実はあまり馴染みがなかった。
 人間に肉体がある以上、それは科学的に分析できる形で説明が付く以上のことはないと信じている。科学万能主義ではないが、それは、科学が万能でないという姿勢ではなく、科学は万能だが、その万能の部分のすべてを人が手に入れることは、未来永劫ないだろうと思っている。
 よく、「この世には科学で解明できないことがある」という意味の文章があるが、これは間違っていて、「この世には現代科学で解明できないことがある」が正しい。これは大きな違いで、実際問題、この世には科学で解明できないものはない。なぜなら、物理的、化学的、生物学的といった様々な面から、ことを解明するのが科学だからだ。
 
 夢も同様で、100年前とは比べものにならないほど、脳内の仕組みが明らかになってきていても、夢の観察は電位の変化と、夢を見た人間の報告によるしかない。恐らくすべての人が同じだと思うが、夢の記憶というのは極めて曖昧で、目覚めた瞬間は覚えていても、あっという間に忘れてしまう。目覚めた瞬間だって、それほど細部まで明確に記憶しているかというと、記憶しているように感じることもある、という程度に過ぎない。そういった記憶を頼りに解明していかなければならないのだから、夢の研究者も大変だ。
 予知夢というのがあるが、多分、それは偶然という言葉で片づけられる以上の頻度では起こっていないだろう。そもそも超能力や幽霊や、超自然現象の多くが、「説明が付かない」のであって、証明されているわけではない。
 ある名前の人がいい運勢だと言って、同じ名前の人全員がいい運命だかどうかの統計を取った人などいない。物事は、ある程度普遍的にその事実があると証明されない限り、「どう説明するのだ」と言うことであっても、偶然の域を出ていない。
 夢も所詮そんなもので、「夢枕に立つ」というのは記憶に過ぎないというのがとても素直で普通の見方だ。

 まあ、人間の脳が神経伝達物質を介して、電気エネルギーを脳内で走り回らせているというのが心を生む元だというのは、非常に殺伐として、面白くない見解だが、魂があると言われるよりは解りやすい。いや、魂はあるだろう。心とか魂とか、いわば人間のアイデンティティを表徴する事や物があるのは確かだ。しかしそれは個々の人を離れて、死後も別個にあるというのは、およそ信じるに足る証拠がない。逆に、否定する証拠もあるようには思えないので、極めて不可知な分野だ。
 文学や芸術、といった人間の当為の上では、非常に重要で、わざわざ否定する意味は全くないが、それが現実の話になると、果たしてどうか?これは言ってみれば、葬式の意味と同じで、生きている人間が、自分と何らかの形で関わる人の記憶に意味を持たせるという行為に過ぎない。少なくとも、何らかの影響を現世の人間に及ぼしている事が証明できるまで、あまり意味がない。
 夢もそうだ、もちろん。

 だが、夢やそれらの様々な事象の不可知な部分が、意味がないかというとそうでもない。なぜならそれを信じている人がいて、それに影響されている人がいるなら、たとえそれが架空であっても、十分な意味を持つ。
 自分の愛する人が亡くなったあと、その人の夢を見ることが、自分に対するメッセージであるかどうかと言うことは、科学的な理由付けはともかく、その人がどう捉えるかという問題である。
 物事には何でも意味があるのではなく、物事から意味を汲み取る、それが人間を賢くし、生きていくすべを教え、より素晴らしい人生を造りあげていく一助になるのは、当然のことだ。
 占いが人生を変えることだってある。夢だってそうだ。
 いかに夢が解明されても、それが電気信号で再現できたり、映像化可能になったとしても、それが持つ意味を、人がどう捉えていくか、夢の真の意味はそこにある。但し、闇雲にそれらの意味を、与えられて丸飲みに信じるのは、あまりおすすめできないな。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月25日

タイムマシン

 タイムマシンと言って、別にウエルズの小説の話題じゃない。
 だがウエルズの昔から、あるいは時間旅行という意味では、マーク・トウェインという先達がいるが、不可能でありながら尽きせぬ魅力あるテーマである。

 そもそも時間という概念はアインシュタインによって、縮んだり伸びたりすることが解ってから(それともローレンツか?)、大きく概念が変わった。人によって進み方が違うことが証明されたからだ。が、そもそもこの時点でよく分からない。
 ウラシマ効果と呼ばれる現象は、まさにこの光速度に近い運動をする物体では、その外よりも時間がゆっくり進む。光速度に達した段階で進み方はゼロになるわけだが、このことを浦島太郎に模した表現だ。つまり、光の速度に近いスピードで宇宙を旅して帰ってくると、宇宙船では大して時間が過ぎていないが、地球では何十年も何百年も経ってしまっているというやつだ。
 ある意味未来への時間旅行の訳だ。

 だがこの時間旅行の概念は、ちょっと違う。
 例えばウエルズの時間旅行であれば、時間をあたかも道路のように行き来すること、途中下車をすれば、そこには未来や過去の自分がいる可能性があるのだ。
 前出のウラシマ効果は、時間の進み方は違うかも知れないが、実は宇宙船も地球も同じ時空にいる。常にいるのだ。ドラゴンボールに出てくる「精神と時の部屋」のようなもので、それぞれに別の次元が存在するように、同じ時空の中に二つの時間があるようなものだ。
 実際にこの時間の遅延現象は、超高速で飛ぶ飛行機と地上の間で時間のすすみに差が出るという現象で証明されているらしい。あるいは、若々しくいる秘訣は、年中旅客機で旅行をすることかも知れない。新幹線だって、ちりも積もればで、少しは違うはずだ。いや、新幹線は地面を走ってるからそうじゃないのかな?その辺り、よく分からない。

 さてこの時間旅行というのは、できないからこそしてみたい。自分が若返ったりするのとは別に、過去や未来を体験してみたいというのはそういうことに思いを馳せれば誰にでも共通の願望となろう。
 ジュラ紀や白亜紀に戻って恐竜を見てみたいとか、キリストの最期を見てみたいとか、戦国時代の真実を探ってみたいとかいう、過去への憧憬とともに、この先人類がどうなっていくのかという興味も、時間旅行が可能であれば多くの人が持つだろう。
 よく言われるパラドックスというやつは、例えば、「ターミネーター」などで、未来の自分が、過去の自分を守るために送り込んだ男が自分の父親だったなどという、問題を確実に惹起する。
 人は意志と科学が何かを成し遂げることを本質的に信じている。
 しかし、人が空を飛びたいという願望を飛行機で叶えたようには、時間旅行は行かない。空を飛ぶのは、鳥や虫が既に飛んでいるという実例があるが、未だかつて時間旅行をした何物かというのは見つかっていないからだ。

 それでもパラドックスや物理的な不可能性を超えて、まじめに研究している人たちもいる。時の彼方への旅は、宇宙の果てへの旅と同じく、人類がその歴史の中で実現できそうにないことだし、少なくとも私が生きている間での実現は100%無理と断言できるわけだが、そういうものに向かって何かをほとばしらせることが無くなったら、人類はおしまいなのかも知れない。

 軍備の拡張にたくさんのお金を使うよりも、無駄と解っていても、こういうことにたくさんのお金を使う世の中が早く来ることを願ってやまない。
 

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 11:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月23日

地震

 今日、新潟を中心に大きな地震があった。
 私は近くのスーパーで酒売り場にいた時だった(結局酒は買っていないが)。酒の什器が意外に大きく揺れていた。その後知り合いから電話で、新潟で大きな地震があったことを知った。

 今年はたくさんの台風が日本を直撃し、浅間山が噴火し、新潟で大きな地震と、夏以降の自然災害が非常に多い。こういうことがあると、このままで日本はどうなるみたいなことをマスコミが取り上げたりするが、ノストラダムスの予言みたいなもので、それほど劇的な変化があるわけではない。
 もちろん、小さな変化の積み重ねが、大陸を移動させて今の形にし、エベレストを形成したように、侮ってはいけないが、「デイ・アフター・トゥモロウ」が明日起きるわけではない。もちろん明後日も。

 災害も病気も、その渦中にいる限り、人類全体や、国や、会社がどうだろうと、あまり関係がない。今そこにある危機こそが回避しなくてはいけない最大の関心事で、高熱を発して寝ていれば、風邪は世界で一番辛い病気になりうるのだ。
 地震・雷・火事・親父の順番でも、地震はトップだ。これはある意味地球の癇癪みたいなもので、今のところ人類には如何ともしがたい。

 台風の時に、SFでよくあるバリヤみたいなものが実現されれば、かなり被害が食い止められるのに、と思ったが、地震を食い止めるのはいささか骨が折れそうだ。SFでもあまりお目にかかることはない。「宇宙震」というラインスターの小説があるが、これは全く地震とは関係がない。・・・いや、書きたかっただけだ。
 地震ものの多くはパニック小説ではないだろうか。かように地震は恐ろしく、しかも防ぎがたいわけで、本当に大きな地震が来たら、冷静でいるのは難しいだろう。いや、冷静であったとしても、その状態で、本当にどう行動するのが一番なのか、判らない。
 昔は机の下に隠れたりしたが、家が倒壊してしまったら、それでも大丈夫なのだろうか?とか、様々な疑問がある。家が丈夫かどうかは、立てた本人でもないので、ビルであれば、「耐震構造」を信用するしかなかったりする。
 どんな状況で地震が起こるかなんて判らない。
 阪神大震災のような時間に地震が起きたら、私はきっと寝ているので逃げ遅れるような気がする。
 東京に住んでいるので、台風の時は家にいれば土砂崩れはないのだから、何となく安心な気がするが、地震はそうでもない。大きさによっては非常に不安だ。
 心構えが備えのような気もするが、忘れた頃にやってくるのが災難でもある。
 起こらないことを祈るのがせいぜいかな。・・・・怒られそうだが。

 とにかく今回の怪我をしたり亡くなられた方には、早い回復と、冥福を祈りたい。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 23:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月15日

量子論の世界

 私が量子論の本を詳しく読むようになったのはごく最近のことだ。
 相対性理論に関しては、10代の頃から興味があり、本を読んでいた。アインシュタインは私にとって尊敬する人物だった。尤も、相対性理論への入り口はSFではあったが。
 光を超える速度がないというのは、ある意味SF読みにとっては寂しい事実で、相対論とはいえ完璧ではないだろうと、すぐに思うようになったが、それでもアインシュタインの価値が変わったわけではない。
 20世紀が生んだ画期的な科学理論、相対論と量子論。これはあたかも微分は分かりやすいが積分は難しいみたいなイメージで、私の中で量子論について読もうという気がなかなか起こらなかった。
 ある意味単純に、宇宙について語る理論と、目に見えないくらい小さいものを語る理論では、宇宙の方が面白そうだという単純な理由だったかも知れない。それと、宇宙論といえば相対性理論だが、量子論は何となく化学っぽい感じがしていたのかも知れない。

 宇宙のことは好きだが、結局は文系の私が、こういうものに興味を持っても、科学的なアプローチは難しく、どこかファンタジックなアプローチになる。
 相対性理論で言えば、ウラシマ効果であったり、世界の果ての果ての果ての物語であったり、どこはアンリアルな世界観を感じさせてくれる部分に強く惹かれる。
 しかし量子論を読んでみると、どうも相対性理論なんか目じゃないほど、その世界そのものがファンタジックだ。
 物は物じゃなくて波だとか、目で見るまではそれがどこにあるのか解らないとか、ある大きさ(というか小ささ)を超えると、こことここの間はないとか、まさに現実に我々が生きている社会では想像できないおかしな世界がそこにある。

 でも、人間を細かく細かくしていくとそういう世界にたどり着くわけだから面白い。

 量子論の基本は、物質を形作る最も小さな粒などは、粒子としての性質と波としての性質を持つという物だが、粒子とはつまり物で、ある一点に目に見えるような状態である、言い方を変えればそこに存在するという性質であり、波というのは文字通り波動だと言うことになる。後者は直感的に理解しがたい。物なのに広がっているとすればそれは既に物ではないのではないか?といいたくなる。
 
 量子論は言う。観測者がその粒子を観測すると、そこにあるが、観測するまではどこにあるかを特定できない。見てないから解らないのではなくて、あらゆる場所に存在する可能性がある。・・・普通に考えても見ていない物はどこにあるかそれは可能性の問題だろうと思うが、そんな現実的に生やさしいものじゃない。
 1個の光子が2つ並んだスリットのどちらを通って、向かいの壁にぶつかるかというのがよく出させる例のようだが、右を通ったら左を通らないのではなく、両方通る可能性がある以上、形跡は両方に残るのだ。あり得ん!

 だが最前線の物理学は20世紀初めのそんな理論を元に発展し、その理論が生み出した製品もあるようだ。今のコンピュータと違って、量子コンピュータというのが実現されると、今のコンピュータの数千倍の能力があるという。

 理屈は突飛でも、現実がそうなっているとしたら、世の中はそうできているのかも知れない。意外と心霊現象の謎なんて、そんなところで簡単に説明が付いたりして。

 興味は尽きない。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 02:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月 5日

星を見る楽しみ

 今日は雨が降っています。明日も雨だそうです。
 雨が降ると星は見えません。
 小学生の頃、どうして星や宇宙があんなに好きになったのか解りません。
 当時、必修クラブというのがあって(今もあるんですかね?)、私は天文気象(科学)クラブみたいなところに参加していた記憶があります。中で班に分かれたのですが、天文をやるか気象をやるかという選択で、天文を選んだのが私一人でした。しょうがないから気象をやったのではなく、天文を一人でやっていました。図鑑や本を読んでいただけだったような気がします。何せ、授業の時間だけですから。・・・太陽には思いが至らなかったのかも知れません。
 別にいじめられていたわけでもなく、本当に天文をやりたいのが自分だけだったはずです。それほどまでに天文に見せられていたのはどうしてなのか、覚えていません。

 空を見上げると、一面の星空。刷毛で引いたような天の川。そんな風景は私の記憶の中では2回だけです。一度は、小学校の夏休み、盆踊りの会場へ向かう坂の途中。そしてもう一回は大学のサークルでの合宿の時、湖の畔で見上げた空。私の天の川の記憶はこの2回だけなのです。
 もちろん、天体望遠鏡を使って観たりしたことはあります。しかし、本当に川のように流れる銀河を観たのはその2回だけなのです。

 昔から、この世で一番美しいものはという質問には「星」と答えようと思っているのですか、実はその質問自体を受けたことがありません。多感な時代、人類は自然に害なす悪だと思っていたことがありました。ですから、人の作った夜景などは嘘の美しさで、人の手が及ばぬ星の光こそが、この世で最も美しい物と思っていました。

 私は天文学を志そうと考えたこともありましたが、宇宙飛行士や、研究者という感覚よりも、星を見る人=天文学者という構図であこがれていたような気がします。高校生の頃、寒い夜に一人、望遠鏡の接眼レンズに目を押し当てて、長時間野外で星を見ていた頃がとても懐かしく、老後の過ごし方としては最高だ!などと今は思っています。

 宇宙は確かに神秘的だし、天体物理学、あるいは物理学だけでもSFチックで、興味をそそります。子供の頃のように、無心に星を見上げる気持ちは大分変化していますが、それでも、夜長を星を見ながら過ごすというのは、この上もなく贅沢な余暇の過ごし方のような気がします。
 目も悪いし、東京に住んでいると、星はまばらであまり見上げる気も失せてしまいます。寂しいことです。

 星を見る楽しみっていったい何なのだろう?と考えたこともありますが、人は絵を見て楽しむし、風景を見て楽しみます。こころを和ませるとかいう、単純な理由だけではなく、言葉に言い表せない何かがそこにはあるのです。
 星を見る楽しみを満喫する。何か人生の中で遠ざかっていた気持ちにふと気づいて、仕事でも落ち着いたら、そうしたいなと思います。

 美しいという言葉が表す物や現象は、いったい何なのか、ゆっくり考えてみたい気持ちです。

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 02:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年9月27日

小惑星の接近

 この29日にトータチスという小惑星が地球に近づくらしい。
 月までの距離の4倍に当たる155万キロの距離を通過するという。155万キロというと時速60キロの車で約3年かかる距離だ。影響はないというが、天文学的にはとても近い距離なのだ。直径5キロもあるそうなので、頭上に落ちてきたらきっとすごく痛い。死んじゃうくらい痛いはずだ。

 実は、今年の3月には地球から43,000キロ、4月1日に6,600キロまで近づいた小惑星があったのだ。6,600キロなら、時速60キロで110時間、4日半でいく距離だ。だから今回のは大したことないと思う無かれ。この3月と4月のやつは、それぞれ30メートルと8メートルの直径しか持っていないのだ。今回のはスケールが違う。
 隣の駅に落ちたとしても、これまでのは大変だ!で済むが(実際はほとんど燃え尽きてしまうらしいが)、今回のは、やっぱり痛いかも知れない。いや、きっと死んじゃう。

 1億5千万年も繁栄した恐竜が滅びたのも巨大な隕石の衝突だというから、人類が滅びるのも戦争や食糧危機などではなく、星がぶつかるという、まずそうなったら避けられそうもない事故で起こるというのは、多くのSFや仮説で言われるごとくである。
「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」のように、ロケットで人が飛んでいって途中で爆破するなんて、あまり成功しそうにない。
「地球最後の日」という小説(映画にもなった)では、ぶつかってきた星がでかすぎてどうしようもなく、人類の一部が宇宙に逃げるという話でしたが、運良くでかい星にくっついてきた衛生が地球軌道に乗り、そこに着陸するというお話しだったように記憶している。取り敢えず小説や映画ではハッピーエンドが主流のようだ。
 隕石が落ちてきて人類が滅亡しちゃいました!なんていう作品はあまり受けないのだろう。

 よく言われるのは巨大隕石の落下というのは1億年に1回くらいだから大丈夫という、確率論的には正しいが、通り魔に殺されるのは何千万人に一人だから安心しましょう、というのと同じくらい説得力もないし、同じくらい不運な結果だ。
 ただ、通り魔と大きく違うのはみんな一緒に死んじゃうと言うことくらいだが、実はこの点はかなり大きい。
 生あるものはいつかは死ぬが、それは個体に限らず、種や宇宙全般に関して言えることで、宇宙そのものに最後があるかは理論の域を出ないとしても、せめて太陽のような星には間違いなく寿命があるし、それは信用できる。
 星が爆発したり、身近なところでは文化遺産を破壊したり、家を壊して更地にしたりと、何かの終演というテーマは身近にいくらでもある。あ、コンセントが外れたのかと思ったら、パソコン自体が逝ってしまった!!みたいに。

 小惑星が上から降ってきて死んでしまうのなら、まあ諦めもつくし、一緒に死んでくれる仲間も極めて大量にいそうなのであまり怖くない。ピンポイントで屋根を打ち破って時々落ちてきたりする隕石では、泣くに泣ききれない悔いが残りそうだ。通り魔や、爆弾が落ちて来るというのは人為的な意志がどこかあるし、交通事故だって、万が一にも避けうる可能性を、人の行動に求めることができそうな気がする。しかし、そんな石ころに打たれて死ぬのは、不幸な偶然以上のものではあり得ない。

 考えてみると、森羅万象とはよく言ったもので、この世のものは自分も含めて多かれ少なかれ何か見えない糸とか、エーテルとか、科学的な説明を超越した事象で繋がっているような気がする。実際にはそんな物はないのかも知れないし、因縁や縁起、運命という言葉と、確率、不確定性、統計などというのは実は同じフィールドの何かを別の角度から眺めているに過ぎないと思えることもある。

 とにかく、小惑星が近づいてきて、思いを馳せる。あの小惑星に乗ってどこまでもみたいなロマンチックな想像に思いを馳せても、小惑星は一定期間に楕円軌道を描いてまた近づいてくる。次回はもっと近いかも知れない。6,600キロの記録を破る小惑星が、今回のトータチスを上回る巨大な小惑星で、近づきすぎて地球の引力に捕まってしまったら、世の中はどうなるのだろう?
 映画やシミュレーションではよく聴いたり見たりする、大気圏を覆うチリと、氷河期。人類滅亡のシナリオと落下地点のどちらにいたいかで性格判断ができるかも知れない。
 あなたはどっち?

投稿者 keisuke_yui : 科学 | 01:22 | コメント (0) | トラックバック (0)