2007年9月 4日
死刑のお話
先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月21日
自殺
最近自殺が多い。数そのものが例年に比べて多いのかどうか知らないが、目立つ自殺が多い。
ここしばらくはいじめによる自殺が相次いだ。高校生の単位問題では、校長も自殺した。
元来日本には、自決という言葉があるように、自分の人生を自分で決める的な意味が、時折自殺という言葉には含まれることがある。憤死だったり、殉死だったり、その動機は様々である。
かつて三島由紀夫が自決したとき、私はまだ小学生だったが、テレビの放送は何となく覚えている。実はそれ以来、三島が好きになれず、何かの時に読んだ「潮騒」以外に、三島作品を読んだことがない。かつての三島由紀夫が、私の目には非常に軍国主義的に映ったからかも知れない。
かつての武士は、死罪の折ばかりでなく切腹などの手段で命を絶った。場合によって、それは武士道に準じるという意味もあったかも知れない。いずれにしても、最近の自殺というものとは、同列に語ることはできない。
この世の成り立ちというのは、科学がここまで発達しても、必ずしもその根幹では明快ではない。存在を意味論的に説明しようとすると、不分明な何かに撞着する。
長い間おそらく問いかけ続けられてきた「人間はなぜ生きるのか」といった問題に、明確に回答を出せる者はこれまでもいなかっただろうし、今後も出てくるとは思えない。できる最大限のことは、人生に何らかの重要な意味を、少なくとも持つことを(それは単純に死にたくないという恐怖からの執着でもいいが)人それぞれに与えると行ったことが精一杯だ。
自殺は決して意味のないことではない。なぜならそれは、一個の人生を終わらせる行為だからだ。テレビや新聞で、見知らぬ誰かが自殺しても、多くの場合、自分の人生には関わりがない。たまさか友人でも、感情的な同様はあっても、それを何年も引きずることはない。そう言う意味では、最終的に人間個々人は、孤独の存在なのだ。
だからこそ、何かがあったときに、死を選ぶ人間と選ばない人間が居る。このことはあたかも、何を食べるかとか、どんな企業に就職するかとか、そんなことと実は同じような気がする。単純な人間の強さなど関係ないし、関係あったとして、強い人間が、弱い人間を、「おまえは弱い」という権利はない。
一つには性格、一つには環境、教育、情報、様々な要因がそこにはある。
だが、いじめのような外的要因がその引き金を引くとすれば、実際問題それは殺人に等しい。「認識ある過失」程度には罪は重い。もちろん、いじめる側の認識がずっと低いケースもあろうとは思うが。
だが、学校長などがそういう現実の前で自殺したりするのは罪が重い。但し、その背景にあるのは死を持って償うという、個人の死が何かを償いうるのだという誤った考え方による部分も大きいと思う。
一体、人の死が、それ以前の何らかの過失や罪をどんな形で償えるというのだろう?
人の死は、その人が行った過失や罪を、どんな形でも償い得ない。
それは殺人事件の犯人が、死刑になっても、それは償うためではない。少なくとも現行の法律下で、死刑に処せられるような罪を犯した人間は、人として生きている価値がないから死刑になるのだ。死刑になったからといって、彼(または彼女)に殺された人間の命が、引き替えに戻るわけではない。
同様に、些細なことに責任を感じても、それで死を選ぶというのは避けられるのであれば、避けるにしくなはない。
しかしそれでも自殺は、その人間がそれ以外に考えられないところまで追い詰められているからこそ起こすのだ、ということを忘れてはならない。決して彼らにとっても、安直な選択肢ではないのだ。
考えてみるがいい、むしろ自殺をいけないという人間が、では実際に、他にどうしようもないと思えるような状況に至ったとき、果たして死を選べるだろうか?そう考えると、自殺にいたる決意というのは、生半可な苦しみではないことが解る。
それでも尚、所詮は100年もしないうちに、嫌でも死ななくてはいけない運命を背負っている我々が、その半ばで死を選ぶというのは、非常にもったいないし、論理的でもない。永遠に生きることなどできないのだから。
人生のこの難しい動議から、それでも尚、自殺率の高い日本は、まだそれを減らすための社会的努力ができるはずなのだ。それは統計が如実に示している。
少なくとも、10代半ばくらいで、この世に絶望してしまう子供たちをなくす努力はできるはずだ。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 00:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年5月30日
寿命
一人も暮らしの男性は寿命が何年とか短くなる・・・というのをテレビでやっていた。ちょっと見ただけなので、何年だったか忘れたし、結果も見ていない。
よく「寿命が短くなる」とか、「寿命が縮む」などという表現を使う。もちろん、寿命が短くなるなどと言うのは方便だし、表現的には非常に意味がない。
そもそも寿命というのは、人に限らず、「命の長さ」のことで、「平均寿命」という統計的な年数に意味はあっても、「寿命」単独では千差万別で意味がない。
あらかじめ決まっているのが寿命なら、そこを基準に短くなるという表現は正しいが、死ぬまで解らない寿命が短くなるとか長くなるというのは、非常に曖昧だ。
死んだときに、この年齢で死んだのは、何と何が原因だった・・・と思われるとしたところで、それが男性の一人暮らしに起因しているとはとうてい思えない。
この世は因と縁によって成り立つ。原因があって結果があるといった、因果や因縁の律というのは、言葉としては仏教やその前の思想にたどれると思うが、これも実は、結果があって初めてその因果解ると言うことに近い。
もちろん、屁理屈だ。しかし物事を論理的に考えるというのは、実は屁理屈の積み重ねであると思える。理屈と屁理屈の違いは、その理屈の価値の度合いで決まるわけで、あまり価値のないものを屁理屈というのだが、それでも理屈には違いないのだ。
理屈は、物事を論理的に説明するための、いわば数学の証明のようなものなので、非常に明快だ。この世に理屈で割り切れないものなどない。あるとすれば、理屈の元を構成する、数学で言うところの公理の選択が間違っているだけのことだ。
逆に言えば、理屈はあくまで、物事を説明する道具だから、結果から原因を導き出すという行為なのだ。すなわち、この世に因果律がある限り、全てのものは理屈で割り切れる。
寿命が短くなるという表現は、本来それをしなければ生きられるよりも、短い人生で終わるかも知れないという示唆を表す言葉としては、いささか居心地が悪いような気がする。その前にまず、寿命を決めてくれという話だ。
屁理屈は楽しい。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 00:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月27日
神はいるか?
今夜、どこかのテレビ局で、神はいると思うか?というようなテーマで、世の中の奇跡的な事件などを取り上げて、番組をやっていた。ちゃんと見たわけではないが、20年後に木に埋まった弾丸が復讐を果たしたというのと、9.11の時に、奇跡的に助かった盲目の男性の話の部分を見た。
最初のは(実はこれも途中から見たのだが)、妹をたぶらかした男を銃で撃った兄が、人殺しを悔やんで自殺した。ところが銃弾は頭をかすめ、外れていた。男は死んではいなかったのだ。この男はそれからも悪いことをしたが、20年後、その事件があった場所にある木を切り倒そうとした男が、なかなか切り倒せないことに業を煮やして、木を爆破した。しかし爆発を離れた所から見ていた男に、20年前の事件の時に外れて木にめり込んでいた弾丸が、爆発の衝撃で飛んできて、男の額を打ち抜いた。20年後の復讐完遂というお話しだ。
次のは、9.11の同時爆破テロの時に、貿易センタービルの78階にいた一人の目の不自由な男が、盲導犬に惹かれるままに階下へ降り、助かったというお話しだった。ビル崩落の1分前に1階に着いた男は、レスキュー隊のビルの中央に行けという指示を聞きながらも、盲導犬が引くままに外に逃げ、崩落から一命を取り留めたと言うことだった。この話は神と言うより、犬の素晴らしさを物語る逸話だが。
恐らくこれ以外にも、いわゆる奇跡的な話が幾つも語られたに違いない。それらの、いわば「奇跡的」という日常的には起こりえないような不思議な体験や事実をもってして、「神」の存在を信じるか否か?というどちらかというとお遊び的な発想の番組だ。本気で神の存在がどうのということではない。
神というのは「人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの(広辞苑)」だ。英語ではGod。ただ西洋で言う神は、多くの場合キリスト教の神を指すことが多いし、それはそれぞれの宗教によって、特定の「それ(人ではないので)」や「それら」を指すわけだ。
日本にも古来から八百万と言われる神がいる。これらはむしろアニミズム的な神の形態だ。しかも仏教神話やヒンズー教の神話、あるいは中国由来の物まで、多種多様だ。キリスト教とイスラム教、ユダヤ教が唯一神を祀る世界的な宗教だが、キリスト教の三位一体というのはどうも私から見ると怪しい。怪しいというのは否定的な意味ではなく、神とイエスと精霊みたいな、幾つもいるのに実は一つだみたいな表現に怪しさを感じる。
尤も、面白いもので、日本人が神と聞いたとき、実は多くの人が思い浮かべるのは神道の神々ではなく、キリスト教の神だ。これは、お昼の顔と言ったら誰でしょう?という質問に、「タモリ」とは答えても、あまり多くの人が大和田貘とは言わないというのと似ていて、実は有名だからに過ぎない。言い換えれば、キリスト教が世界宗教であり、イスラム教と世界を二分しているからだ。もう一つの仏教は、信者数で言えば残りの2つに比べると少ないし、そもそも仏教には宗教であると同時に、非常に哲学的な側面があり、見方によっては仏陀による思想として、孔子などに近いとも取ることができるように思う。
さて、「神はいるか?」という質問は、実は冒頭のテレビなどでは、人知を超越して、我々の人生に関与する絶対的存在はいるのかいないのか?という質問に他ならないし、そういう意味では、「神はいるか?」という質問は非常に難しく、多くの人が答えられるのは、「神はいると思うか」までで、だからこそ神は信仰の対象なのだ。
鰯の頭も信心からという言葉にもあるように、信じるところから何かが生まれると考えるのが宗教であり、信心なのだ。そういう意味では、神は確かに存在するので、それは物理的な証明など必要がないし、物理的な証明を拒む存在であるかも知れない。
だが、裏を返せば、前出の奇跡も、奇跡的偶然という非常に便利な言葉で解決できる。
偶然と、運命と、神の御業は、私が辞書を作れば、同じ意味を書いてしまいそうな気がする。時間軸に連なって、結果から原因を究明するときの解釈の違いによって使い分けられる表現というように。必然という言葉も足してもいいかもしれない。
いや、だからといって私が神の存在に否定的なわけではない。
たとえマリア様が血の涙を流そうとも、それ自体が神の存在の証拠にならないように、これまで見聞きしたことでは神の存在をいるともいないとも判断できかねると言うことだ。
それに、ユダヤ教の神を信じれば、イエスやアラーも神ではなくなる。・・・元々イエスは神ではないと思うが、菅原道真や徳川家康だって神になるし、靖国神社には相当数の神様もいるらしいので、その辺りの何が神で何がそうではないかなどと言うことはともかくとして、我々がこの世に生きる不思議を何物かがその意志によって招来させたかどうか、あるいはその存在が、我々の人生や世界に関与しているかどうか、と言ったことに関しては、時々関与しているように見えることもあるが、そうでないことの方が多い。
聖書にあるように、神が「怒れる神」だったり、非常に人間的特質を持っているようなら、人々の間に争いが絶えないことも、頷ける。しかし、愛と平和を愛し、この世に幸せをもたらすような、全てが善の固まりのようなものが神だとすれば、到底この世に神は存在するとは思えない。
だからこそ、もっと自助努力せよと言うような仏教的世界観の方が、この世を救ってくれそうに思えるのだ。
神の存在の有無というのは、所詮答えのでない難問だが、恐らく信じることはできる。信じる者は救われる。あるいはそんな言葉が真実の一端を示しているのかも知れない。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月27日
月日の経過
6月27日、もう今年も半分終わろうとしている。
毎年毎年、1年は早いと、どこかで言っているような気がする。1歳1歳年を取ると、徐々に時間の経過は早く感じられるものらしい。これは、考えるのではなく感じるものだから、致し方ない。重力が軽いと、時間の経過は遅くなるようだから、山の上に住めば、少しは麓よりもゆっくり時間を過ごせるのかも知れない。この点は相対性理論が保障してくれる。
先日テレビで、誰だったか忘れたが、40代は本当にあっという間だった。と言っていた。一番速く過ぎた、と。その人が50代だったからで、60過ぎればきっと、50代が最も早いというかも知れない。
人間が、もし健康で老いるということを知らなかった場合、いったい幾つくらいまで、生きることが嫌にならないのだろう?
よくSFで、不死身に近い男が登場し、「死ねない辛さ」を訴えることがある。死ねないことが辛い理由はいくつかある。生きている間に親しい知人がいなくなる、周りがどんどん死んでいくのに自分だけ、等々。
しかし、知人などというのは生きていても、どんどん入れ替わるものだ。特定の誰かが親友であったり、最愛の妻であったりするかも知れないが、それほどに親しくなれる可能性がある人物が、たまたま自分の周りにいたとしても、その人だけのはずはあるまい。長生きしていれば、何人でも出てくるはずだ。
周りが死ぬのに、自分は死なないというのは例えば「グリーンマイル」のように、どんどん年老いていきながら生きながらえるという、長い老後というのは確かに辛いだろうが、例えば、人間の寿命が500年くらいだったらどうだろう?現在の80年くらいを500年かけて老いていくと考えたら。もちろん、単純に何倍かを計算しても意味はない。6倍生きるからと言って、小学校の卒業が72歳になるということではない。青年期が長かったり、壮年期が長いと言うことだ。そこから推し量れば、老年期も長いから、やはり辛いことになるのかも知れないが。
だがやはり、人生100年程度では短いなあ、と思うわけだ。別に長い老後が欲しいわけではなく、倍くらいのスパンで生きてみたいものだと思うのだ。どちらかというと、世の多くの人は、人生は長さではなく中身だ、と言ったりする。太く短くだ。
たまにこういう質問がある。「あなたは太く短く生きる人生と、細く長く生きる人生のどちらがいいですか?」
私はそういうときこう答える。
「太く永くだ!」
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月25日
悪魔
ビアスの「悪魔の辞典」は有名だが、世に『悪魔』という場合、一般的にはキリスト教のサタンやデーモン、デヴィルといったものが日本語では『悪魔』と訳される。デーモンはギリシャ語で「死者の魂」、デヴィルは同じくギリシャ語で「中傷する人(diabolos)」が語源だという。関係ないが映画の「ディアボロス」は大好きな作品だ。
「デビルマン」という永井豪の漫画があるが、あの中で主人公の不動明はデーモン族のアモンという悪魔と合体してデビルマンとなる。悪魔の頭領は不動の友人の飛鳥亮こと、サタンだった。
サタンはヘブライ語の「敵対するもの」という意味だそうだ。つまり、神に楯突くものがサタンなのだ。実際には旧約聖書の中でイヴを唆した蛇だったり、新約聖書の中でキリストを誘惑したりしている。黙示録ではサタンの数字を666とし、映画「オーメン」では、ダミアンの旋毛に666の文字が書いてある。
また聖書にはリチフェル(ルシファー)という堕天使が出てくるが、これも悪魔の代名詞のように使われることがある。よくSFなどで核爆弾にルシファーなどと名前が付いていたりする。
長い歴史の中で、悪魔崇拝などが行われ、魔女やら、雑多な悪魔が登場してくる。黒ミサなどを行って、悪魔を呼び出したり、映画や小説などにもよくあったりする。ハードロックバンドのブラックサバスも、バンド名は映画から取ったらしい。この辺りに端を発し、ヘヴィメタバンドの多くが、この雰囲気をよく使っている。
このサバスは安息日のことだが、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教でそれぞれ曜日が違うのは興味深い。サバスは英語だが、ヘブライ語ではサバトだ。ところが、魔女の集会のこともサバトという。この辺りの語義の変化もまたおそらくは歴史のなせる技なのだろう。
「私は悪魔だ」という人は見かけないが、「魔女だ」という人は時折ヨーロッパにいたりする。そういう人は大体魔女は悪い人ではなく、魔法を使う女のことだという認識らしい。薬草に長けていたり、人の運命を占ったり、意外と占い師との境界線が曖昧な感じもある。そもそも、悪魔が男性を指すから魔女が女性というのとも、実は違うようである。
確かに、「魔」という字は梵語の「マーラ」を音訳したもので、そもそもは仏教系の悪魔のことだ。日本語ではキリスト教であろうが仏教であろうが、「悪魔」というので解りづらいが、仏教の「マーラ」は、どちらかというと釈尊の成道を妨げる、いわば「煩悩」の具象化であり、キリスト教のように想像上でも実体を伴う生き物とはちょっと違う。尤も、悪魔が生き物かどうかもよく分からないが。
いずれにしても、いわゆる悪魔という単語は「悪い魔」ということであり、例えば魔法と言うときの魔なのだろう。ここには仏教的な「悪事をなすもの」という意味ではなく、むしろ不思議な物程度の意味がある。つまり、悪魔は「悪い不思議な物」、魔女は「不思議な女性」といった意味であるとすれば、解らなくはない。ただしかし、中世の魔女狩りなどは、悪魔の眷属、あるいは悪魔に魂を売った女という位置づけで、悲惨な行為が行われていたのであろう。
様々な宗教の中で「悪魔」という風に日本語で表現される何らかの異形がいる。これは、神を善とし、二元的にその対局をその異形に任せることで、バランスを取っているに違いない。砕いて言えば、世の中はいい物もあるし悪い物もある。だが、よく生きろと言うことだ。それが象徴的に悪魔という存在となり、様々な種類の悪魔を生んできた。
ゲーテの「ファウスト」にも出てくるメフィストフェレスなんていうのは時代を超えて、「悪魔くん」という漫画の中でメフィストという悪魔で甦ったりしている。元々はヘブライ語で「mephis(破壊する者)〉と〈tophel(惑わす者)〉」をくっつけた言葉だという。中世ではメフォストフィレスだったようだ。いずれにしても「メフィス」+「トフェル」だとすれば、メフィストという区切りはちょっとおかしい。
悪魔はかように、人に何かをもたらすことで魂を自分のものとすると言うことがよくあるが、考えてみると、これは仏教の「煩悩」とよく似ている。いわば人の欲望を煽って、悪魔の側に引きずり込むという構図だ。そう考えると、確かに長い歴史の中で、様々な悪魔が考え出されてきたであろうが、それは元々人間の心に内在する欲や悪心等の具象なのだ。
人類は生まれて以来、いつでもその欲望と良心の間で揺れていると言うことがよく分かる。そして、悪魔的な心を嫌い、戒めるのだ。
それにしても、グレートヒェンに代表されるように、純真な乙女というのは、男社会が生んだ、女性への憧れとか、あるいは母性への憧憬みたいなものがそこにきっとあるのだろうな。ジャンヌ・ダルクだって、きっと何かそんな何かあったのだろう。
そういう意味では、悪魔との葛藤を、悟りという方法で消滅させた仏教というのは非常に論理的かつ哲学的な宗教なのだなという感を深くしてしまう。どちらかと言えば、その方が分かりやすい。
ともあれ、悪魔学というものもあり、そんな本を読むときっと、「やっぱり悪魔っているのかな?」なんていう気にきっとさせてくれるのだろう。興味だけなら、きっと楽しい何かを提供してくれると思う。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月25日
時計
時計というのは文字通り時間を計るものだ。現代生活には欠かせない。
最近、携帯を持つようになってから腕時計をするのは止めた。つまり腕時計をしなくなって5年近くが経つと言うことだ。時間を計るという目的だけであれば、それでいいことになる。しかし最近、再び時計をしてみようかな、という気になっている。そうしてみて昔の時計を見てみると、どれも電池が無くなって動いていない。当然といえば当然だが。新しいのを買ってからにしようと思った。そうしてみるとやはり時計は、少なくとも腕時計に関する限り、よりファッション性が大切と言うことになる。時計と言うより、ブレスレットという感覚だろうか。
もちろん、オメガやブルガリやロレックスがしたいわけではないが、気に入ったデザインを選びたいとは思う。
ところで、時計は英語でclockかwatchで、腕時計はwatchの方だ。watchには見るという意味があるが、携帯用の時計はやはり時間を知るためにじっとそれを見るからそういうのだろうか?clockはまさに時計という意味なので、watchといわれる腕時計にはそれなりの意味がありそうだ。
人類が時を計り始めたのは恐らく有史以前のことに違いない。もちろん時間感覚みたいなものと、同意の時代があったはずだ。しかし、日時計で始まり、最近の極めて精巧な時計まで、人類はずっと時を計り、そしてどんどんそれを正確なものにしてきた。
先日、福知山線で悲劇的な事故が起こり、多くの人が犠牲になった。この事故の原因の一つに、過密ダイヤが上げられている。過密ダイヤである上に、それを秒単位で正確に守るという、あたかも機械の作業みたいなことが現場に求められてきたという。
確かに人間というのは機械顔負けの正確さや、複雑なことをこなす生き物だ。時間感覚にしても非常にとぎすまされた鋭敏さを時として発揮することができる。だが、レールの上を走っているからと言って、そこまで正確な運行が実際にできていることの方が驚きだ。
中央線などを見ていると、比較的よく遅れている。せいぜい1分くらいの遅れならそれほど少なくないと思う。
それでも、電車に限らず、多くの交通が、昔に比べると時間に正確で、これこそが文明の進歩の一つのように感じてしまう。
前にも書いたが、昔北海道で、浜中という駅で釧路行きの列車がなかなか来なかったことがあった。といっても、せいぜい5分程度だったに違いない(それほど正確な記憶はない)。それでも、非常に遅れていたという感覚はあった。別にいらいらもしなかったが、不安にはなった。
海外のように、遅れて当たり前という風土があれば、なのも思わないのだろうが、そもそもいつの日からか、少なくとも電車は定時に来るという暗黙の了解みたいなものが自分たちの中にある。
このことは悪いことでは決してない。
そして、その正確な時間と、スピード、それらを求めてきたのは日本人の多くの普通の人たちだ。私はそうではないという人たちは、たまたまそういう環境にいなかっただけの話で、会社に勤めていたりすれば、あるいは会社から家までの距離が遠かったりすれば、やはり途中の交通機関に対する要望は厳しい物になるのだ。
今回の事故を機に、日本人ももっとのんびりみたいな論調を主張する人たちもいる。それも悪くはない。だが変わるとしたら、なかなか進まないフレックス制をもっと多くの会社が導入したり、例えば交通機関などには、多少遅れてもやむを得ないという気持ちや、それに間に合う分、少し早く出るとか、全体的な努力が必要なのかも知れない。
時計がもたらした効用が、人類を苦しめることがないようあってほしいものだ。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月 3日
法王の死
ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が亡くなった。
私はクリスチャンではないし、キリスト教の歴史にもそれほど詳しくない。それでも福音書は何度か読んだこともあるし、旧約も含めて、聖書のいろいろな箇所に目を通したこともある。最初はどちらかというと黙示録などの預言的書物としての側面で、おもしろおかしく読んでいたに過ぎないが、たとえクリスチャンでなくとも、聖書には学ぶべき部分は多い。
ヨハネ・パウロ2世の業績などをまとめて見ていると、聖職者としての素晴らしい生き様を通して、改めて感銘を受ける。
宗教というのは必ずしも愛と平和に色取られているわけではない。オウムなんていい例だ。私はイスラム教に関しては実際全く無知で、語る資格以前に語りようもないのだが、キリスト教徒仏教は多生書物を通じた知識がある。
そういう意味では、世界宗教となるにはそれなりの、つまりこれは信者でなくても納得できる内容を持っているものだ。キリストを神と思おうが思うまいが、心理の幾ばくかは必ずそこにある。そしてそれが法王をして、クリスチャン以外の人にもその偉大さを認めさせうる何かなのだ。
金持ちが神の国に入るのが、ラクダが針の穴を通るよりも難しい宗教だ。その含蓄にこそ、世界の平和のために奔走した法王の真価がある。私にはそう思える。
だが長い歴史の中では、その宗教こそが、戦争の原因となり、多くの不幸を生んできたのもまた事実だ。
宗教の定義がどうあれ、私はそれが、信者、ひいては人類の幸福に繋がるべき教義を持っているべきであると思うし、それを持たない宗教とは区別すべき言葉が必要だと思う。ヨハネ・パウロ2世が行い、そして理想としてきた人類の幸福が、一日も早く実現され、神に召された法王が、あの世で微笑むことのできる世の中に世界はなるのだろうか?
投稿者 keisuke : 無量大数 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月 3日
時間
時間というのは何だろう?
広辞苑を引くと「時の流れの2点間(の長さ)。時の長さ。」と第一義に書いてある。では、時とは何か?を引くと「月日のうつり。とき。「時間・同時」」と書いてある。循環参照だ。Excelでよく出るエラーだ。
恐らく時間とは、言葉にできない、昔から今、そして未来という軸で人間が感じ取れる何かなのだ。
よく、家に閉じこもりっきりになっていたりすると、時間感覚がなくなるという事を言ったりするが、これは「今が何時か解らなくなる」という意味で、時間の経過が解らないわけではない。
この文章を書き始めてからこの行まで、明らかに「時間」として定義されている何かが経過した。
この世の不思議は、どこまで続くか解らない空間とどこから来てどこまで行くのか解らない時間という似て非なるものが支配している。アインシュタインはこの世の中の定義を空間+時間の四次元であるとした。そもそも次元というのが数学用語で、我々が「四次元」という言葉から受ける印象とは大分違っていると思う。
かつて四次元空間というと、空間を形成する我々の三次元宇宙とは違った(例えばヤプール人の住む)空間というイメージがあった、多分にこれは、マンガやSF、映画といった創作を見た印象から来ている。アインシュタインが四次元と言ったのはそれよりずっと昔のことだ。
次元というのは1,2,3と、それぞれがそれぞれのベクトルと直交するようにできている。我々がいる空間は三つの直交するベクトル以上のものを表現することができない。つまり、四次元目の時間が残りの三つに直交しているとしても、我々にはそれを見ることも、頭で理解することも難しい。
実際最近の宇宙論では10次元なんていうよく分からないものが定義されているし、しかもその中の6次元は畳まれているなんていう表現を使う。
いずれにせよ、時間というのはそう言った宇宙論や物理学上の定義では、この世を形成する空間と同次元で捉えられる物らしい。
時間は悠久の昔から悠久の未来に向けて、同じように流れているように感じる。というより、計って初めて時間みたいな感じもする。しかし、空間を移動する速度によって、時間の経過に差が出るとしたら、果たして時間というのは、単純に我々が感じている「何かの経過」という目に捉えられない「こと」であるのだろうか?
光速に近い宇宙船が開発されて、宇宙を飛べば、いわゆる「ウラシマ効果」と日本では呼ばれている時間の遅れの現象が、宇宙船内では事実上発生するらしい。
となれば当然時間の進みは一様ではないし、我々が日々感じている「時の経過」は、一つの物理的な量であることになる。
非常に不思議だ。
我々はこの世に生まれ、死ぬまで、誰もが同じ時間経過で(その長短は別として)、この世を生きている。誰々が同じ時間内に余計に時間を過ごすなどと言うことはない(そういう意味では、宇宙船の中でも、人の感覚には時の経過は同じなので、得するわけではない)。
自分の知らない過去を、自分で知ることができないように、遙かな未来を体験することもできない。しかしそのどちらにも人や物は存在し、同じように時間を過ごしている。
この世に人が生き、様々なことができても、時間を左右することはできない。この世のあまりに多くの不思議の前には、人が関わることの多くはなんと少なく、単純なのだろうか、そんな思いに駆られる。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 5日
1年の不思議
といったって、それほど大したことを書こうというのではない。
1年は365日、1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒、そして1年は12ヶ月、1ヶ月は約30日、これは偶然なのだろうか?
時計は60秒と、60分、12時間の針がそれぞれ回転する。1回回るのは360度だから、1秒は6度、1時間は12度動くことになる。月は、約28日で地球の周りを回るが、それは約1ヶ月で、太陰暦と太陽暦の差は、長い目で見ればもちろん違うが、ある意味近似である。地球もまた、その12倍をかけて太陽の周りを1回転する。つまり、1ヶ月に約30度、1日1度ずつ、太陽の周りを動くのだ。もちろん正確にではないが。
しかし、火星や金星だったら、そんなことはない。
火星は自転こそ地球とあまり変わらない24時間で1回転する。しかし、太陽の周りを回る時間は687日。火星の衛星は二つあるが、フォボスは約7時間半、ダイモスは約30時間で火星を回っている。
金星に到っては、225日で太陽の周りを回っているくせに、自転は243日もかかるのだ!
この、地球に存在する360度という円の角度と、それを基準にできる様々な日や時間の数値は偶然なのだろうか?あるいは言い方を変えれば、そういう数値の巡り合わせを持った地球にだけ人類がいるというのはどういう事なのだろう?
科学者に言わせれば、数学は、言葉が通じない宇宙とのコミュニケーションに非常に適しているという。様々な数列の不思議や、定理、公理などはこの宇宙のどこへ行っても通用するからだという。例えば、1+1は2以外にはならないわけだ。
まあ、こんなものでコミュニケーションを取るということが、どんなコミュニケーションなのだか、はなはだ心許ないが、相手が知的かどうかを判断する基準にはなろう。
朝起きて、次の朝が来るまでが24時間、その30倍が1ヶ月、そしてその12倍が1年と知った時に、人類はやはりそこに何かあると思ったのではないだろうか?昔は1秒は1日の86400分の1だったらしいが、現在では「セシウム原子133の基底状態の二つの超微細準位間の遷移によって発する光の振動周期の91億9263万1770倍の時間。(広辞苑)」と言うことらしい。こういう数字を見ると、何だ、別に数字に意味なんて無いな、と思ってしまうのだが・・・・
とにかく、1日の24時間までは何となく人間の決めごとで解る気がするのだが、なぜ月は約その30倍で地球を回っているのか、さらにその12倍で、地球がなぜ太陽の周りを巡っているのか、そしてそれがどうして約360日なのかとふと思ったとき、何か神秘的なものを感じてしまったのだ。
まさにマヤ歴は30日×12+5日を1年としていたらしい。
地下鉄をどこから入れるかなどより(古いな!)よほど不思議なのだ。
私は基本的に、心霊現象や、UFO、ネス湖の怪獣とか、いわば人の力が解明できていない不可思議なことの多くを信じていない。ただ、否定もしない。あったら楽しい(楽しいばかりではないが)だろうな、という程度だ。占いであれば、都合がいいところだけを信じる。
例えば、UFOを見た人は現代にいる。上手くすればその時の状況を直接聞くことが可能だ。しかし、豊臣秀吉とあった人は現代にはいない。直接彼について訊くことはできない。
この直接検証できるかどうかを比較すれば、どちらの信憑性が高いのだろう?昔の人が嘘を書かなかったと、古文書に対してその保障をするのは何なのだろう?という程度の懐疑を持って、物事を見るのもまた楽しい。
ところが、地球が1年で太陽の周りを回っているのは現前とした事実で(いや、誰もそれを上から見下ろしたわけではないが)、そちらの神秘の方が、私にはより神秘なのだ。なぜ、地球が200日や400日で太陽の周りを回っているのではないのか、なぜ24時間で自転しているのか、月はなぜ5ヶ月かけて地球の周りを回らないのか?どうして地球にいつも同じ面を向けるように動いているのか、ああ、なんて不思議なことだらけ!
多分答えはたまたま、偶然。という言葉でも片づけることは可能だが、これは、あらゆる事に適応できるので意味はない。因果や縁起はこの世の成り立ちすべてに当てはまるし、恐らく自分が今これを書いている元は、この360日と無関係ではないのだと思う時、この世の全てはとても美しく思えてきませんか?
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月26日
諸行無常
諸行無常とは仏教用語だ。平家物語の冒頭で「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・・」とあるのは有名なところだが、これを聴くと、諸行無常というのは何か幽玄な、非常に茫漠としながらも重みのある得体の知れない物みたいな感じも受けてしまうのだが、すべてのものは常ではない、ということを言っているに過ぎない。
過ぎない、などと書くと軽んじているようだが、そう言うことではない。
時代も、物も、事も、人の心も、移ろいゆき、一所にはいないのだという、この真実は非常に重いと感じている。
この世の中で、何が正しくて何が間違っているかということはすごく難しいことだ。私は正義ということが好きだが、イラクを攻撃するアメリカが正義を振りかざすのを見ていると、いったい正義とは何だろう?と感じないではいられなかった。
歴史の悠久といわれる流れの中で、人は数え切れないくらい争い、殺し合い、破壊し、創造してきた。それもこれも、人の心の中にある何かが動かしているのだ。個々の人が幸せを求めても、得られる人と得られない人がいる。神の名を呼んでも、助かる人とそうでない人がいる。この世が平等や公平を基にできていないことは誰でも知っている。
諸行無常という中には、それでも幸も不幸も移ろうのだと言うことを言っている。絶対的な真実があるとすれば、それは、諸行無常だとか、諸法無我だとか、涅槃寂静といういわゆる仏教の三法印と呼ばれる言葉の中にはあるような気がする。
仏教はとても哲学的で、その思想は人生やこの世の成り立ちを極めようとする釈迦牟尼の、「悟り」というのがいかに清澄だったかを感じさせる内容をもっている。
人生は苦だという。
マーラーは「大地の歌」の第1楽章で「生は暗く、死もまた暗い」と歌う。
人の人生が死に向かっているのなら、なぜ人は殺し合うのだろう?
何十億という人間が住み暮らすこの地球で、諸行無常を思う時、そして幸せを求めるのがすべての人間の営為だと知る時、互いが互いの幸せを引き出してあげることこそが、自分の幸せに繋がることだと、多くの人が気づくに違いない。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」
と平家物語は続く。この変転の人生を知ることこそが、大切だ。驕る平家とならぬが人の但し生き様なのかも知れない。・・・・まだちっとも驕れる人生じゃないが。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月22日
生きていくと言うこと
先日ここで、「傷追い人」について書き、そのせいで読み返した。やはり面白かった。
最後のシーンで、母を含む3人の女性をそのために亡くした復讐すべき敵が、既にこの世に存在せず、しかもそれがCIAの一機関であることを知った主人公が、自らの生き方を問い直すために、浮浪者が集まるシェルターに身を置くシーンがある。彼は職を求めてそこにいる多くの男達に混じり、但し食も水も口にしない。
自分を死の直前まで追い込むような行動をしながら、渇望に耐え、彼は改めて立ち上がる。彼はそれができなかった場合、そこで一生を終えるほどの覚悟でそこに座り、そして悔い無き自分の人生の新しい一歩を踏み出すのだ。
さて、人はパンのみに生きるにあらず、というのは聖書の言葉だが、物質的なものよりも精神的なものに重きを置くのは、人類の歴史の中でも、ずっと尊ばれてきた考え方だ。三大欲といわれるのは「食欲」「睡眠」「性欲」だが、「パンのみに」は生きなくても、断食を続ければ死んでしまう。
つまりここのところだ。死を賭してもすべき事、命あっての物種、この両極端は果たしてどちらが正しいのだろう。
「傷追い人」の茨木圭介はただの超人なので、そこには答えがない。彼のような生き方は、彼のような肉体と、彼のような精神力がないと実現できないからだ。
だが、「死を賭しても」という姿勢と、「命あっての」という姿勢は、例えばドラマでは、主役と悪役にその立場を置きやすい。多くの人が、命がけで行うことに意義を見いだしているということか。
「食欲」と「睡眠」は、断たれては人間、生きていけない。まさに茨木圭介は、恋人夏子と共に「食」を断たれるが、敵に屈するよりも死を選ぼうとする。このマンガに限らず、こういうシーンは、極めて崇高な雰囲気があり、結果がどちらに転ぼうが、作者は概ね、主人公をそこで殺すことはない。
人は誰も生きる上で、何か目的を持ちたいと思う。寝て、食って、子供を作ったとして、何か人生に価値が生まれるわけでもない。それが、宇宙旅行でも、出世でも、何らかの目的を持たないと生きていけない。何もないと思っている人でも、例えば、生きるための金を稼ぐのだとしてもそれを目的としていることには違いない。
実は、人は人生を生きることを目的として生きているのだと思う。あたかも泳ぐのを辞めてしまうと死んでしまう回遊魚のように、常に何かを目的としなくては死んでしまう。そしてそれは、生に執着することの裏返しでもある。
あらゆる物は永遠ではない。生きていくことの意味は、それが死への行進だからこそ瞬間瞬間に意味を持っている。ことさら、大きな目標など必要ない。
王様だって乞食だって、土に帰れば同じだ。・・・・いや、死後のことは死んだ人に訊くしかないので、たとえ科学が、意識は脳の中の電気信号だと断定しても、霊魂の存在を否定しきれないのは困ったことだ。
それでも、生きていくことには意味など無い。どう生きていくかだというのはやはり人を人たらしめている「何か」ではあるのだろう。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月10日
宇宙の果て
宇宙が閉じているか開いているかという問題は、ずいぶん昔から議論されていて、いろいろな本にも載っている。それは同時に、宇宙は膨張しているか、平衡状態にあるかという問題と同時に論じられる。
ビッグバンという言葉は、今では金融についても言われるが、元々数学者のガモフが、宇宙の始まりについての理論の中で使った言葉だ。150億年(少しずつ時代によって変わっているらしい)前に、ある一点から宇宙が始まり、その後ふくらみ続けて、今のようになったという。今でも、宇宙は膨張し続けている。それは、遠くの宇宙がより速い速度で遠ざかっていることが観測されることで裏付けられている。
問題の一つは、この膨張がずっと続くのか、どこかで収縮に転じるのかといった問題と、その広がりはどこまであるのかという問題だ。
仮にこのビッグバン理論が正しいとすると(今のところほとんどの科学者は正しいと信じているらしいが、誰も見たわけではないので、直接証拠立てるものはないわけだが)、宇宙がある一点で始まり膨張を始めた。すると、時系列に沿ってその大きさが徐々に大きくなっていると言うことで、その大きさには自ずと限界があるはずだ。
宇宙の地平線という言葉があって、それは地球の地平線に似て、観測できる限界を指す。地球は丸いので、一定以上の距離より先は光学的に見ることができない。同様に、光の速度は一定で、秒速30万キロなので、それ以上の早さで遠ざかる銀河は、観測できない。光がこちらに向かってくる速度よりも、銀河が遠ざかる速度の方が早いからだ。え?そんな馬鹿な。だってこの世には光より速い物はないんでしょう?・・・実は私もこの辺りはよく分からない。前に本で読んだが忘れた。
いずれにせよ、その地平線を超えて、向こう側に銀河があるとしても、どこかに限界があるのは、ゼロから広がっていったのであれば、自明のことだ。ではその外側はどうなっているのだろう?
哀しいかな人間は空間がないと言うことを理屈では解っても、現実問題としてうまく捉えられない。宇宙に外がないことを、空間に浮かぶ宇宙以外のイメージで捉えられない。無という概念は、無限という概念と同様、頭の中で再現させることは極めて困難だ。言ってみれば、このようなものという雰囲気で理解するしかない。
この人間の限界が、私には非常に面白い。宇宙の果ては?と考えて、果てが想像できない。あるいは、果てまでは想像できるが、その向こうは想像できない。だって、果ての向こうですよ。・・・はてな?などとオヤジギャグを飛ばしている場合ではない。
無限と有限という概念が、この世をどう形作っているのか、すごく不思議で面白い。お化けや、UFOなど目じゃないだろう。点の一角を指さして、このまままっすぐ行ったらどこに着くのか(重力で光が曲がって、元のところに戻るなんていうのは無しで)考えると、なぜだか幸せな気持ちになってくる。
もしかすると、人生の究極の意義は、この不可知な多くの事象を思うことにこそあるのではないだろうか、なんていう気がしてくるのだ。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 22:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月31日
宇宙人の話
今、古本屋で買ってきた「惑星の暗号(The Mars Mistry)」という本を読んでいる。ずいぶん前に火星探査機が撮影した火星の大地に写る「顔」のようなものを巡る科学者の論議や、筆者なりの解説をしている本だが、系統としては、科学の解説書と学研から出ている「ムー」という雑誌の中間くらいに位置する本かなと思う。
今同時に「揺籃の星」(J.P.ホーガン)というSFを読んでいて(電車でしか読まないので遅々として進まない)、この2冊がかなり頭の中で混乱をしているのだが、この、実証的な部分では証明困難な科学というのが非常に面白い。
火星の顔やら、ネッシーやら、宇宙人やらを本気で信じている人は信じている。一笑に付す科学者や文化人もたくさんいる。
そんな中で宇宙人というのは特殊な存在だ。
なぜかと言えば、我々地球人が存在するからだ。
火星の顔やその本に出てくる「シドニア」と呼ばれる地区に散見するピラミッドやその他の建造物と思われる物体は、よっぽど解像度のよいカメラで撮影されるか、人がこの目で見るまでは、存在そのものが証明しづらい。NASAは自然現象だと言っているらしいから。
同様に、これだけ技術の発達した時代に、いわゆるUMAと呼ばれる未確認生物は、精細な写真がまずない。あると主張するより、いないと考えた方が納得がいく。
これはA.C.クラークが言うように「タイムマシンが不可能なのは、未来人がこの時代にいないからだ」というのと同じくらい本当らしい。
また、太古の先駆的文明「アトランティス」や「ムー」「レムリア」といったものも、その根拠をせいぜいプラトンの見聞などに依っていたりする辺りで、非常に証明がしづらい。すなわち信じるに足りない。
尤も、シュリーマンの例もあるように信じれば扉が開かれることだってあるのだ。信じる人々はがんばって、私のような、「あったら楽しい」と思っているだけの無責任な人間の心にも火を付けて欲しいものだ。
さて、そんな中で宇宙人。
この広大な宇宙(これだってどれだけ広いか確かめた人はいない。今の科学現象の仕組みを満足させるようなやり方で、ちょっと遠いところに住んでいる髭を生やしたおじいさんが、一生懸命ランプを付け替えているとしたって、誰も証明できる訳じゃない)に、人類以外に文明を持つ生物が存在する可能性は、普通に考えれば非常に高いことは、科学者じゃなくても容易に想像できる。
もちろん、遙か彼方のイスカンダルに、顔色だけが違って日本語を話すデスラーがいるとは誰も思わないが、意外と信じやすいのは昔からUFOの話で出てくる吊り目でのっぺりした顔の小さな宇宙人かも知れない。まあ、真偽は別にしても見たという人や写真があるから、矢追ディレクターでなくても信じたくなるというものだ。
ところが世の中は面白い物で、ああいえばこういう人がいるので、かたくなな「人間原理」なるものを唱える科学者達は、この宇宙に人類こそ唯一の知的生命体だ、いや、人類がいるからこそ宇宙が存在するとまで言い切っている。
もちろん、証明できないし、反証も難しい。
宇宙人がいると言っている科学者の多くは、だからといってUFOに乗って地球を訪れていると思っている人はほとんどいない。そこにはアインシュタインが、この世には光より速い物はないという前提で作り上げてしまった相対性理論という壁がある。この理論が現実に証明されていけば行くほど、光より速く移動できないという事実を、科学者は受け入れなければならないのだ。
光は太陽まで進むのに8分以上かかる。ノミのチャンピオンが、隣の犬に乗り移るのに1秒しかかからないぜ!と自慢していても、彼はアマゾンの奥地に住むかどうか解らない毛むくじゃらの生き物に乗り移る前にその一生を終えるだろう。恐らく宇宙の広さは、たとえそれがすぐ近くのSFでよく出てくるアルファ・ケンタウリでさえ、もっと遠いのだ。
そんなところから生き物が、乗り物に乗ってやってくるだろうか?否。
それが現代の科学って言うものだ。
でも、そういいながらも、科学では解らないことはたくさんある。科学というのが、この世の成り立ちを理屈と算術で説明する学問だとすれば、この世に科学で説明できない物はない。単に現代の科学が未熟って言うだけだ。
幽霊だって、あの世だって、あらゆる不可思議現象は科学で説明できるはずだ。というより、そこに明確な説明付けをして納得させてくれるのが科学の役割だ。と思う。
宇宙人が、五体満足であるかどうかとか、酸素を吸って二酸化炭素を吐いていないといけないとか、水がなければ生き物は生きていけないとか、いずれにしたところで地球上の常識から逸脱した存在を規定することは今のところ作家の領分かも知れない。人間の脳が、シナプスと神経の電気的な繋がりで活動しているとしても、他の惑星に生まれた生命が同じ生命活動をしているとは限らない。
ニュートン力学は19世紀の終わりまで、最終的な力学的答えだと思われていた。何百年もだ。相対論や量子論が生まれてまだ100年弱。次に何が起こるか解らない。
明日にでも宇宙人が「ハロー」と取り敢えず最も多くの地球人が解るであろう言葉で挨拶して登場することだって十分に考えられるのだ。
この時代に生まれたことは、かつてイギリスの産業革命の時に立ち会ったのと同じかそれ以上の画期的なことだと思うが、今後の100年、200年をこの目で見ていくことができないと思うと、何か悔しい。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 21:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月22日
永遠
永遠という言葉がある。ふと文章の冒頭を考えたとき、何気なく私はこの「永遠」という言葉を頭に持ってくる癖がある。といって、そういう文章を書いたことは実は今回が初めてだが。
永遠という言葉は永く遠いとかく。どこまで通じているか解らないその先を永遠という。
終わりのない遙かな向こうを永遠という。これは人間の頭で具体的に認識できない概念だと思う。
諸行無常とともに、仏教には諸法無我という言葉がある。この世に常という物はなく、永遠不変も存在しないということで、定めし至言と言うべきか、確かに人の命ほど短くなくても、この宇宙とて終わりがありそうな予感はする。
終わりを考えることは実はそれほど難しくないが、終わりの次に何があるのかを考えるのは永遠と同じく人の脳に余る。それは、実体のないものを想像する作業だからだ。
ホーキングは虚数の宇宙というの想定して宇宙論を展開する。虚数とは、二乗してマイナスになる数字のことで、現実には我々の周りに存在しない。あるいは、存在を確認できない。数学上の論理的な数字にしか過ぎない。
人の脳に余ることは、論理的にありそうだとか、言葉で説明することで実感するしかない。永遠も、虚無も、虚数宇宙も、そういった理解しか人にはできない。
試しに永遠を頭の中で想像してみるといい、先が見えない空間や時間といった概念でしか、我々は捉えることができず、それも実は曖昧だ。真空というのは中に何もない空間だが、虚無とは空間さえない状態。果たしてそれが創造できるだろうか?人間は無意識に何もない空間を想像し、それ以上を考えることは「理屈として」しかできない。
ゲーテが書き、ヴォルフが歌曲にしている詩がある。「人間の限界」という。
ここでは神と比して、力足りない人間を描き、無限の連鎖を歌っているが、神が本当にいるのなら、永遠を理解するだろうか?人間が理解できる永遠は、すごく永い時で、それ以上ではない。
永遠という言葉に思いを馳せる時、私は神すらその足下にひれ伏すであろう、不思議に胸が震える。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月20日
暑かった夏
今年の夏は30度以上の真夏日が歴代1位に並んだという。暑い夏だった。明日も30度を超えるらしいし、いずれにしたところで記録的な夏には変わらない。
大分昔から異常気象という言葉が聞かれる。
オゾン層が破壊されたり、森林がどんどん減っていったり、人為的な原因で自然界に大きな変化があるのも事実だ。それらのことが世界的な気象の変化に何も影響していないとは言い難い。しかし、太古の昔から、地球は、何度も氷り、大地を何千キロも動かし、数々の天変地異を超えて今の状態になっているので、ここ数十年の天候の違いは異常気象などと呼ぶべき物ではないように思える。
東京が熱いのはヒートアイランド現象などに象徴される人の多さと、室内を涼しくするために熱気を外に出している影響かとも思う。それが証拠に、冬も暖かくなって、東京の雪は昔に比べて大分減っている。
「デイ・アフター・トモロー」ではないが、自然災害で人類に危機が訪れるなんて言うことも、あたら空想とばかり言い切れない時代が来るかもしれない。
その関連ではないが、今年は熱いばかりでなく、台風の上陸も多かったし、アメリカでも歴史的に巨大なハリケーンが襲ったりと、嵐の災害も大きかった。東京近辺に住んでいると、台風の被害というのは毎年あまり多くない。そんなのが毎週のように来る地方の方は本当に大変だと思う。
こういった自然の変化は、大きな流れとしては、少なくとも地球全体の温暖化の方向に進んでいるし、この流れは簡単に変わるものではないのだろう。
人類ががこの世に出現して、長く見ても数百万年。有史以来であれば数千年。産業革命からでも数百年。原子力が生まれてからなら100年も経っていない。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 01:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年9月 9日
この世のこと
私は昔から、この世の不思議についてよく思ます。
なぜ自分はこの世に存在するのか、なぜこの宇宙はあるのか?
そんなことが私の天文学や物理学への興味に繋がっています。ただ、では科学者を目指したかと言えば、幼い頃こそ天文学者になりたいと思っていましたが、少なくともずっと文系の道を歩んでいます。尤も、現在はコンピュータを仕事に選んでいるので、理系で飯を食っていると言えなくもありません。
今まで多くの科学に関する書籍や、番組などを見たりしてきまいしたし、哲学書まがいのものもかじってもみました。しかし、結論から言えば、所詮人間に答えの出せる問ではないのだというのが私の考えです。であればそこで追い求めるのを止めればいいようなものですが、近年いや増して興味は募るばかりです。
それは恐らく、自分の人生の意味や、社会問題、様々な自分を取り巻く環境の中にある理不尽さや不公平感といった問題に、より強く関心を持ち始めたからです。手相や、星の巡りや、果ては動物、色、あらゆる物で自分の性格や行く末を知りたいと思うようなものと、実は同種かな、なんて思ったりします。
投稿者 keisuke_yui : 無量大数 | 01:57 | コメント (0) | トラックバック (0)