2007年12月 4日

帰属意識ということ

 星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
 6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
 こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。

 ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
 国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。

 民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
 というより、そもそも民族って何だ?

 広辞苑にはこうある
  

(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。

 
 なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
 自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
 実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。

 日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
 恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。

 オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
 尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。

 それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
 貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。

 血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
 そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。

 文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。

投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 歴史 | 01:50 | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年11月 1日

日本シリーズ

 中日が53年ぶりの優勝を飾った。まずは中日におめでとう。

 だがしかし、中日ファンでもないぼくが、なぜ途中からこの試合を見ていたかと言えば、山井のパーフェクトが見たかったからだ。日ハムのファンでもないが、9回は思い切り日ハムを応援してしまった。

 僕はヤクルトが好きなので、ヤクルトの立場に置き換えて考えてみた。
 かつてヤクルトはとても弱かったが、広岡監督の下で初優勝、その後しばらく優勝から遠ざかり、野村監督時代と、若松監督時代に優勝を経験している。仮に広岡以来優勝がなかったとして、今日のようにピッチャーが8回までパーフェクト試合をやっていたら、やはりその投手に9回を投げて欲しいと思う。

 落合監督はオレ流とやらで、地道に勝ち進んで、2年連続の日本シリーズだし、もしあの場面で山井を変えずに逆転負け、しかも日本シリーズ優勝を結果的に落としていたら、中には、その最大の原因をこの投手交代に求める人もいたかも知れない。

 それでも猶、パーフェクト試合、ましてや日本シリーズでのとなれば、ちょっとやそっとの記録ではない。やろうと思ってできるわけではない。それを目前にした投手を交代させるというのは!

 ぼくは自信、スポーツに縁がないが、プロスポーツというのは、競技であると同時に、エンターテインメントであるとも思う。そういう意味で、非常に、少なくとも僕にとっては、程度の低い試合に終わった。
 尤も中日ファンの多くは喜んでいると思うが。

 優勝と1選手の記録、しかし日本シリーズのパーフェクトと秤に掛けると、個人的には後者が重いと思うのだ。
 野球はチームプレーだとよく言うが、それも個人技がうまく咬み合わさったチームプレーだ。
 
 昨今の野球の人気の低迷は、こういうところで、少しばかり拍車がかかるのかも知れない。
 是非論は置いておいて、他人事ながら、何か悔しい。

投稿者 keisuke : スポーツ / 人生 | 20:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 4日

死刑のお話

 先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。

「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」

 また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。

 法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。

 上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
 
 山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。

 人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
 本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
 基本はそうであるはずだ。

 しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
 ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
 宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。

 根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。

 死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
 まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
 そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
 冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。

 であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
 とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。

  死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。

 先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
 人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
 あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。

 だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。

 タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
 少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。

 殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
 だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。

 しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
 人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
 たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?

 必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
 殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?

 この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
 放っておいてもいつかは死ぬ。
 だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。

 死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
 

投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月30日

年賀状

 今頃に年賀状を書いている。まあ、例年こんなものだが、毎年年賀状を出すのをやめようと思いつつ、なかなか踏み切れない。
 一つには、「挨拶」としての賀状に、少しばかりは意義を認めているからであり、もう一つは、メールにしようと思っても、全ての人がメールを扱えるわけではないからである。

 ちょっと賀状の成り立ちを調べてみた。

 そもそも年賀というのは還暦や古希などの事で、高齢を祝うと言うことだったらしい。それと、昔の(平安とか書いてあった)、正月の15日までに、いろいろな人に挨拶をするという風習が、郵便事情で、年賀状に変わったと言うことらしい。つまり、いちいち挨拶に伺わずとも、手紙ですませてしまえ、ということと、遠方の人にも挨拶ができるという二つの点で、郵便は有用だったわけだ。

 そう考えると、いずれはメールや電子的なものに主流が変わっていく、今は過渡期なのだろう。

 人間というのは不思議なもので、節目とか、儀礼とか、作法とか、どこの国でもそういうことがある。
 私は根本的に、それらの大きな理由には、支配者が箔をつけたかったという大きな意味があると思っている。人より優れていることを他者から認められるために、儀礼や作法、等の伝統的な決まり事は、形式として成り立ってきた。
 ある意味年賀状もその例に漏れない部分がある。

 私は自分で、礼儀知らずだとも、それほど非常識だとも思っていないのだが、自分がそうでないことと、そういうことに対してどういう考え方をしているかというのは別の話だ。
 なぜ人は、生まれたのが早いというだけで、年長者に対して礼を持って接する必要があるのか、このことは、昔から謎であり、今でも謎だ。
 年齢が判って相手が年下だと気づいたとたんに「ため口」になる人は少なくない。意味が分からない。
 年上かどうかはこの際問題ではないと思うのだが・・・・

 まあ、そんなこんなで、そういった単純な「意味」を年賀状に求めると、年末の忙しい時期に、何十枚者年賀状を作るのはそれだけで大変なものだ。比較的私は少ない方だ。メールですませる人も多い。

 メールとはがきで、はがきの方が心がこもっていると思ったら大間違いだ。どちらも儀礼だし、どちらも相手次第で心はこもるのだ。メールだからいい加減なわけではない。

 まあ、何年かかるか判らないが、郵政公社に恨みはないけど、絶対いつかやめてやる。・・・生きているうちに。

投稿者 keisuke : 人生 | 01:23 | コメント (0)

2006年12月26日

父親

 先週は訃報が重なった。いや、自分の回りではなく、テレビニュースなので、特別なんだというわけではない。青島幸夫などは、テレビでも言っているし、自身でも言っていたようだが、大変充実した、幸せな人生だったようだ。だが、まだちょっと若いと言えば若い。
 カンニングの中島はさらに若い。ぼくがすでに10年以上も前に通過してきた年齢だ。むしろこちらの方が、こころにくるものはある。

 さて、父が亡くなってから、あと一月ほどで3年が経つ。
 肺を患って、結果的にはなくなったのだが、50年以上にわたって、ヘビースモーキングを続けてきた結果でもあったろうと思うが、40代でガンも患い、生きてきた時代を考え合わせると、それなりに大変な人生でもあったのかなと思う。
 3年前、父の葬儀の時、長男であるぼくが喪主を務めた。
 父の死に際して、1回も泣かなかったし、悲しみもそれほど無かった。薄情な息子だと自分でも思ったが、取り立てて父と仲違いしていたわけでもないので、父の死を喜んでいたわけでは、もとよりない。
 喪主は大変だからと、回りは言ってくれたが、そういうわけでもない。

 仏教の経典の中に、赤ん坊を死なせた女の話が出てくる。赤ん坊の死を受け入れられない母親が、釈尊の元を訪れると、「誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくる」ように言われ、母親は、1軒1軒、町を巡り、芥子の実をもらおうとするが、誰も死んだことのない家はなく、そのことで母親は、自らの子に訪れた死が、誰も避けることのできないものだと悟り、釈尊に帰依するという話だ。

 この話を見ると、ぼくはいつも二つのことを考える。先日も瀬戸内寂聴の本でそれを見かけ、同じように思った。
 一つは、赤ん坊の死と、成人の死、老人の死は、自ずと意味が違うだろうと言うこと。
 確かに人は生まれたからにはいつかは死ぬ。キリストの死などは、ある意味、「不死」であるかも知れない神の子を、永遠に生かさないための十字架だったのではないかと勘ぐりたくなるくらい、死は当たり前のものだ。
 信長が好んだという敦盛の有名なくだりには、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか」とある。
 その当たり前の死は、例えば太陽にあっても、50億年とも言われる後に予告されている。
 この世に生まれて赤ん坊の内、いや子供の内に、死を迎えることが、平均寿命前後まで生きる者、あるいはまだ生きる可能性を秘めている者の死と同等であるはずはないだろう、ということだ。

 だが同時に、この釈迦のやりようは、誠に臨機にかなっており、だからこそ母親は出家するのだ。
 つまりは、この死の理不尽と、ではその理不尽を変えることができるのかという現実との狭間で、母親に何が大切なのかと言うことを諭すには、この場合最も適切だったのであろう。

 それでも尚、人の死は、その年齢によって、軽重があるとぼくは思っている。とは言っても、年齢が若い方が単に痛ましいと言っているわけではない。当然のことながら、生きた年数だけで人生の価値が決まるものでもないし、一つの指標に過ぎない。
 平均寿命くらいまで生きられれば、取り敢えずはいいだろうという漠とした価値観を持っている。

 そう言う意味で、父はよく生きたと思っていた。最後の数年はほぼずっと入院したきりだったし、辛いことも結構あったのだろうと思う。だが、前述の敦盛ではないが、父の死は、簡単に受け入れられた。悲しくもなかった。
 その父のことを時折思い起こす。

 亡くなってからもあっという間に時は過ぎていく。
 生前に、こうしてやれたらとか、こうできたら良かったのにな、という気持ちを時々感じる。後悔とか、そういうのではなく、純粋に、そう思うだけのことだが。
 ぼくには子供がいない(その前に嫁さんだろうと、つっこみが入るが)。だから、父の心情、とりわけ息子に対するそれを、想像以上に理解することは難しい。

 だがそれも、だからどうしたということではあるのだ。

 この世のことは泡沫のようでもあり、もっと何かこう、ものすごく何かが詰まった固まりのようでさえあるとも感じる。いずれにせよ、長くて1世紀、太陽の50億年に比ぶべくもない。

 ただ、ふと、父のことを思い、何かそれについて書きたくなったのだ。


投稿者 keisuke : 人生 | 23:39 | コメント (0)

2006年11月 2日

奇遇

 今日、ちょっと用があって表参道へ行った。私の家は笹塚なので、新宿回りでも明大回りでも、渋谷から行くのが一番近い。渋谷へ出る場合は、JRを使わず、井の頭線を回ることが最近は多い。単純に料金だけ考えても安いが、乗り換えなどを考えるとこちらの方が早いのだ。行く場所によっては、神泉あたりで降りた方が便利な場合もある。

 今日は、銀座線で表参道に向かった。表参道ヒルズの対面を歩き、用事を済ませ、帰途についた。当然来たときとは逆に回って返った。この時間は、井の頭線はこんなに混むのか!
 通勤ラッシュを経験しなくなって・・・・・というか、通勤ラッシュを経験したことはほとんど無いのだが、・・・・時々混む電車にも乗るが、今日の急行吉祥寺行きは乗るのを断念した。向かいに停まっている各駅停車に乗った。

 こちらも空いていたわけではないが、下北沢でたくさんの人が降りる。小田急線の乗り換えだから当然という部当然だが、いったん空いた車内で、ふと立っていた反対側の座席を見ると、一人の男性が。
 いや、全く知り合いではない。
 ただ、行きの井の頭線で、私のすぐ目の前にいた御仁だ。20代くらいの背の高い、白い帽子をかぶった男性。オーディオ・テクニカのヘッドホンで音楽を聴いていたので、たまたま印象に残っていた。

 私はビクターのヘッドフォンを使っているのだが、オーディオテクニカのものは、何となく音が良さそうだな、等と思っていたので、そのヘッドホンが気になり、行きの電車で見かけただけの男性をたまたま記憶していたのだが、まさか帰りの電車でも、同じ時間の同じ車両に乗り合わせるなんて!

 何て奇遇な!!
 と思ったわけだ。別に声も掛けないし、親しくなりたいという気もないが、何か不思議なものを感じざるを得ない。可愛い子だったら声を掛けちゃうのかな?
 いや、そんな男がこの年まで独身で居るはずもないので、男女は関係ない。

 まあとにかく、世間は狭いものだと実感した瞬間ではあった。

投稿者 keisuke : 人生 | 00:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月 6日

タイミング

 今日郵便局の不在通知が郵便受けに入っていた。配達記録というやつで、印鑑が必要だ。
 実は今日は、食事以外で外出をしていない。13:00〜30分程度と、19:30から1時間程度の2回だけだ。他は家にいた。家が職場だから当然といえば当然だが。
 配達は13時15分になっている。昼間、朝から夕方までと考えて、10時間弱の中で家を空けたわずか30分にそれは来ていた。その結果、明日再配達を依頼することになった。

 タイミングというのは何かをするときのいい頃合いとか、それを合わせるときに使う。タイミングがいいとか悪いとかいうが、今日は悪かったわけだ。人生はいいタイミングに恵まれるときと、恵まれないときがある。おしなべてどちらが多いかというのは個人差もあろうし判然とはしないが、比較的確率という言葉がイメージさせるように、半々といったところではないのだろうか。

 だが不思議なもので、物事のタイミングというのは、恐らく良くも悪くもないことが一番多いので、その中で良かったときと悪かったときは記憶に残りやすい。しかも悪いときの方がより記憶に残り、自分が運が悪そうに感じてしまったりすることも多々あるのではないだろうか?

 タイミング一つで、仕事に成功して金持ちになる場合もあるし、タイミング一つで命を失うこともある。
 タイミングという言葉は、非常に都合のいい言葉なのかも知れない。微妙に運を左右するように思える。

 ちょっと話はずれるかも知れないが、「神はサイコロを振らない」というドラマがスタートするらしい。この言葉は、不確定性原理を否定するアインシュタインの有名な言葉だが、その言葉をあざ笑うように、この世のミクロな現象は量子力学に則って、常に神はサイコロを振りまくっている。
 実はこの不確定性原理こそが、この世の不均衡なあらゆることの元なのではないか?と、かつて量子論の本を読んだときに思ったのを思い出した。

 あらゆることが平衡で均一であれば、世の中に貧富の差も力の差もないのかも知れないが、この不確定性原理で支配されたミクロの積み重ねが、実はこの世の現象を構成することで、あらゆる不公平や変化を生んでいるとすれば、それこそがこの世の存在証明であり、タイミングもまた、その一つの側面であると観ることができる。

 であれば、タイミングがいいの悪いのは、非常にこの世を活性化する現象のように思えて、何となく面白い。いや、だからなんだということではない。やはりタイミングも運もいい方がいいのだ。

投稿者 keisuke : 人生 | 00:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月17日

人は何のために生きるか

 人は何のために生きるかという表現は生きることの目的を問うている文章である。その問は、科学的にも哲学的にも、宗教的にも、そして子供の問、大人の問いかけにもなる。
 この世に生を受けたからには、同じ人生を歩む人はいない。これまでの歴史上に何百億の命が生まれて消えていったか解らないが、そのそれぞれが違った人生を歩んでいる。生まれ落ちた瞬間に死する者から、100歳を超えて比較的平穏な人生を送る人まで様々だ。死後の世界があるかどうかは、死んでみないことには解らないし、「生まれ変わり」というのもやはり眉唾の領域を超えているようには到底思えないので、人の人生は一度きりと考えるのが、当面は妥当のようだ。
 しかし、生まれながらにして明確な意志を持ち、「俺はこう生きる」と考えている赤ん坊も聞いたことはないので、人はその成長過程の中で生きる意味を見いだしていくというのが、ある意味正しいように思う。
 ところが、世の中には別に生きる意味など問わない人も沢山いる・・・と思う。もちろん人生は長いので、似たようなことを特に多感な時期に何らかの形で考えたことがあるという人の方が多いかも知れない。

 信長が桶狭間に今川義元を破る前、あたかもこれだけは史実として間違いがないかのように、多くの小説やドラマでも必ず出てくるのが、信長が幸若の敦盛の一部を舞うシーンだ。熊谷直実が平敦盛を討ったことに題材を取ったものだが、信長のシーンの多くは「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」という部分だ。ドラマにしても小説にしても、このシーンを描く目的は、信長の背水の陣、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれということを強調するためだ。あるいは信長の強運、人と違った様を描くためだったりもする。
 この世を夢幻と謳うのは、死に臨む敦盛、あるいはその亡霊の心象なのか、いずれにしても、その儚さはよく伝わってくる。この儚いという字が人の夢という字であるのも、何か事の本質を突いているようにも思える。この世の生の儚いことは、どんなに歴史に残ろうと、そのことを本人は知ることができないことであり、より長い歴史の上から見れば、残りもしないことなのだ。人類の歴史は、歴史として残って以来、せいぜい中国でさえ4千年だ。地球が生まれて50億年近くが経つらしいから、4千年というのはそのわずか0.00008%に過ぎない。これから地球が(今の科学論を信じるなら)、膨張する太陽の内側に隠れてしまうまでまだ50億年。
 一人の一生を100年としたとしても、人類の歴史の2.5%しか経験できない。人生とは、かくも短く儚いものなのだ。
 
 何のために人は生きるのか?という疑問は解答のない質問であるが、その答えはもし出すとしても生きている間に出さないと意味がない。試験が終わった後に答えが分かっても、試験の点数には反映されないからだ。
 不思議なもので、例えば哲学者の一部などはきっと、このことだけを考えて一生を送る人もいるのかも知れない。一見本末転倒のような気がするが。
 自分の人生は波瀾万丈ではないと私は思っている。少なくともこれまでの人生は比較的平板だった。波瀾万丈というのは起伏が激しいと言うことだから、必ずしも望ましいわけではない。グラフで言えば、上の方を横に一直線の人生のがいい。もちろんそんな人生が転がっているはずもないのだが。

 だがこの問は、信長ではないが、時に敦盛を舞う気持ちで生きることの重みを教えてくれる。その質問に答えはなくとも、意識がある間は十全に生きる努力をしておいた方がいいと言うことだ。そうすれば、夢幻もいい夢と言うことになるだろう。

投稿者 keisuke : 人生 | 23:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月 4日

継続の意味

「継続は力なり」という言葉は、恐らく大学受験の時に初めて聞いた記憶がある。
 受験勉強は弛まぬ努力のたまものというわけだ。ところが世の中皮肉なもので、私のように弛んだ結果が情けない結果に終わる、理屈通りの者もいるが、あんなに努力して・・・・不幸な結果に終わったり、何も努力らしいことをしなくてもうまくいってしまう方もいる。なべてこの世はアンフェアなのである。
 さて、だとしても実は、「継続は力」というのは、ある意味まことに正しい。できるかできないかはともかくとして、何らかを継続していくというのは、非常に大変なことだからだ。
 
 日記など付けたことがないという人もたくさんいるだろうが、意外と多くの人が、多かれ少なかれ、1回くらいは日記を付けようとしたことがあるのではないか。私は付けようと努力して、何回か挫折した。

 今回も挫折するだろうと思って、気楽な気持ちで書き始めた。
 リハビリならリハビリらしく、しっかり書けと言われた。歯に衣着せぬこういう事を言ってくれる人は大切にしたい。少しだけ克己した。
 その結果、1ヶ月半、ほぼ休むことなく記事を書き続けることができた。幸せなことだ。おかげで、書き始めた当時よりは遙かにスムーズなキー運びができるようになった。リハビリ効果は少しずつ出ている。
 今回初めて1日飛ばした。悔しい気も一瞬したが、そもそもそういうことにかまけない性格なので、取り敢えずこの記事を書いて埋め合わせにする。今日もう一個書くからだ。・・・・意外とこだわっていたりして・・・・・

投稿者 keisuke_yui : 人生 | 15:58 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年9月 3日

いいかげんの美学

 いい加減と好い加減は似て非なる言葉。
 世の中といえば、きちんとまじめに生きることが、あたかも正しい生き方で、いい加減な生き方はよろしくないと、おおかた相場が決まっているようだ。
 まじめに宿題をやる生徒と、宿題をやってこない生徒、この差の大きさは一つのいい加減さの基準ともなろう。
 確かに、いい加減な医者、いい加減な工事、いい加減な装備の冬山登山など、いい加減じゃいけないことは枚挙にいとまがない。いい加減じゃ飛行機も空を飛べなかっただろうし、人間も月に降り立っていない。
 でもこれは、いい加減なことがいけないと言うことの証明にはならない。いい加減が不向きな事柄が世の中にはたくさんあるのだと言うことの例を挙げているにすぎない。
「もういい加減にしなさい」と、ゲームばっかりにうつつを抜かす息子に母親が小言を言う。このいい加減は、微妙にいい加減と好い加減の狭間を行き来している。

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投稿者 keisuke_yui : 人生 | 02:20 | コメント (0) | トラックバック (0)