2007年9月11日

タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年

「タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年」というDVDを観た。
 タイトルの通り、時間旅行を扱った作品で、まだ202年の作品だ。イギリスの作品で、イギリスの田園風景が美しい。
 筒井康隆の「時をかける少女」が、NHKで少年ドラマシリーズとして放映されたのは、40年近く前の話だが、その時のタイトルが「タイムトラベラー」でタイムトラベルという単語は、その原体験を持つ者にとって、否応なく過去の記憶も蘇らせる。
 と言って、再放送こそあったものの、ビデオが残っていないその作品は、当然ビデオもLDもDVDも発売されることなく(NHKアーカイヴスでも放送された、テレビ放送の録画による、一部が発売されたことはあったが)、その後の「時をかける少女」ほどの記憶は残っていない。
 SFというのが、日本語で空想科学小説と言われたのはいつの頃だろう。科学小説の前に「空想」と付けることで、荒唐無稽さや、子供っぽさを醸し出しているように感じる。いずれにしたところで、小説のほとんどは空想作品であるわけで、SFのみが、作家の想像から生まれるわけではない。
 筒井康隆の時間旅行は、今でこそトイレの芳香剤にすらなっているラベンダーという、少なくとも当時子供だった私には、異世界の花のような花の香りと、時間旅行の薬は結びついていた。
 そもそも少年向けに書かれた小説で、ある意味、ハードSFとは正反対に位置する作品ではあったが、ファンタジーと言うには、科学的な色合いも濃かった。

 さて、ウェルズが「タイムマシン」を書いたのは、すでに前々世紀のことだ。マーク・トゥエインの「アーサー王宮廷のヤンキー」などはさらにそれを遡る。
 機械を使うのか、薬を使うのか、機械を使えばよりSFらしさは増すが、所詮現実にはあり得ない機械なので、ブラックホールを使おうが、何をしようが、「空想」の域は出ない。
 だが、やはり魅力あるテーマなのだ。

 ウェルズは未来志向、「戦国自衛隊」など、多くが歴史のIFを求めているのに対し、「時をかける少女」は、タイムトラベルを題材に、多感な少女の心情を扱った小説だった。
 今回の「タイムトラベラー」もまた、戦場に舞い降りたなどと、あたかも歴史のIFを扱ってそうな邦題を付けているが、実のところ、そういう映画ではない。筒井が少女なら、こちらは少年の心情だ。

 タイムトラベルもので困るのは、いわゆる「親殺し」というテーマで、自分が生まれる前の過去に戻って、親を殺してしまうというお話だ。生まれるはずのない自分が親を殺しに行けないというパラドックスは、先史時代を扱う場合など、「サウンド・オブ・サンダー」のように、1匹の虫から、壊滅的に世界が変わるという風に描く。
 このパラドックスは実は、どう扱おうと、パラドックスであるが故に、小説では恐らく扱いきれない。どこかで妥協をしなくてはいけないからだ。その妥協の線がどこにあるかで、いい作品になるかどうかの、大きな分岐点の一つとなる、僕はそう思っている。

 そういう意味で、今回のイギリス版の「タイムトラベラー」は、よくできていた。自分の気持ちや立場を、ほとんど口にしない少年が、まだるっこしい部分もあるし、少年が現代へ帰るとき、あたかもそれを知っていたかのような過去の農場のおやじの様子は不可解だったが、全体としてはとてもよくできている。
 それは、この作品が、タイムトラベルでありながら、その実少年と少女の心の交流をテーマにしっかり置いているからだろうと思う。決して派手な作品ではないし、タイムトラベルそれ自体の有り様は、陳腐この上ないが、この際どこでどんな風に過去に戻るかなどはほとんど問題にならない。
 なかなかいい作品であった。

 同意に、カール・デイビスという人が音楽を担当しているようなのだが、この人が作曲しているとすると、なかなかいい曲を書く。マーラーの響きと、ヴォーン・ウイリアムスの響きが混在している。いかにもイギリスらしい曲に思える。
 サントラが是非欲しいのだが、出ているとも思えない。クラシックの作曲家というより、映画音楽の作曲家なのかも知れない。
 DVDも、開いてる部分にサウンドトラックをできるだけ納めて欲しいと、切に願うのである。
 

投稿者 keisuke : SF / 映画 / 音楽 | 02:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年10月26日

悠久の銀河帝国

 アーサー・C・クラークの初期作品に「銀河帝国の崩壊(Against tha Fall of Night)」という小説がある。創元推理文庫で、非常に薄い厚さの本が出ていた。後にこの作品は作者自身が長編に書き換えて「都市と星(The City and The Stars)」という長編になる。
 今回、グレゴリー・ベンフォードが、その続編を書いたもの翻訳が文庫で発売になり、読んだ。そのタイトルが「悠久の銀河帝国(Beyond The Fall of Night」、つまりクラークの処女長編(長さ的には中編くらい)の続編だ。「都市と星」ではない。
 前半がクラークの作品で、第2部がベンフォードの作品だ。
 かつて、多分中学生の頃、「銀河帝国の崩壊」は読んだ。しかしそもそもこの原作が世に出たのは1946年、私が生まれる遙か昔だ。今となっては、確かに古びた部分もないではない。しかし改めて読んでみて、実はそれほど歴史が勝ったと言うことはない、素晴らしい輝きを持っている。
 そもそもクラークは小説家としてはある意味評価が低い。私はそれがなぜだか解らない。どうしてかと言えば、クラークの作品が好きだからで、とても面白いからである。
 いまだに私にとってのベストSFは「幼年期の終わり」で、これを超える作品には出会っていない。よくSFはセンス・オブ・ワンダーだと言われてきた。クラークの作品には、正確な科学知識に基づきながら、実はアシモフなどよりもセンス・オブ・ワンダーがその中に含まれている。と私は思う。
 「銀河帝国の崩壊」にはまさにそれが詰まっている。何億年も先の地球を舞台に、宇宙に飛び出していくアルヴィンの話は、小学校以来SFを読み始めた私には、センス・オブ・ワンダーの固まりだった。

 今書店で、ハヤカワの復刻が並んでいる。この中でもベストワンに「幼年期の終わり」が入っているのがうれしかったが、それ以外の作品も、SFが楽しかった頃の作品がたくさんある。
 科学の発達とともに、最も変質を強いられたのがSFだと思う。SFのSがスペキュレーションと言われた時代はまだいい。ハードな物ハードな物となっていき、サイバーとか、非常に専門的でコンピュータ的になることで、世の流れと自分の好みが必ずしも一致していないことに気づいて、読書量が減った。
 グレゴリー・ベンフォードは苦手な作家の一人だ。今回も、無理矢理半分過ぎまで読んだが挫折した。個人的にはちっとも面白くなかったからだ。
 確かにクラークが布石を敷いたテーマの延長上にあるのだが、クラークがそこに秘めていた物とは違い、何か今の時代にべったり足が着いたような印象を受ける。それは古今キャラクターが、遙か未来の生物で、それなりの今とは違う価値観や行動様式を持っているように描かれながら、逆にそれが妙に寓話的に見えてしまい、好きになれない。アメリカの作家の多くは、1語いくらという原稿料のせいかどうかは知らないが、話が長い。描写が緻密すぎて疲れる。ベンフォードはその代表格だが、それ以上にくどい表現だと感じたDUNE・シリーズがそう思えなかったから、所詮は好みとか相性の問題かも知れない。

 とにかく、しばらく間をおいて、また読んでみようと思う。・・・・でも「都市と星」を読み返すのが先かな。

投稿者 keisuke : SF | 23:37 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 2日

ペリー・ローダン2

 ひょんなことからペリー・ローダンシリーズの原書の最新刊(既に最新刊ではないが、そのときは)を手に入れた。
 いや、買ってきてくれと頼んだだけだが、どうしても原書が見たかった。日本で探すのは大変なので、頼んだ。
 Nr.2273 2273巻だ。日本版が出るとすれば、1137巻の収録と言うことになる。現在のペースで行けば、2074年頃の発売と言うことになる。私は115歳だ。・・・・がんばれば読めるかも知れない・・・・仮にその頃原書で話が続いていれば、5900巻前後だ。こういうのを気の遠くなるような話というのだろうが。
 作者はホルスト・ホフマン。ハンドブックによると1076巻から登場する作家だ。
 ドイツ語なので当然読めない。
 装丁はまさに週刊誌らしくぺらぺらで、紙質も良くない。小説だけでなく、宣伝みたいのもあるが、日本の雑誌もそうだが途中に挿入されていたりする。ドイツで1.75ユーロだから日本円にして240円程度だろうか。オーストリアとルクセンブルクでは2ユーロ、スイスでは3.4スイスフランと、ドイツより割高のようだ。日本では、翻訳されて2話で1巻になり、さらに文庫で600円しないので、考えてみるととても安い。
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 ご覧の通り、表紙はむちゃくちゃな画だ。全体的に日本版の方が表紙絵も含めて洗練されている。ドイツのは、例えばアメコミと日本のコミックのような差を、その全体の装丁から感じる。

 しかしそれにしても2273だ。ここまで来たら多分、10000位を目標にしなければ、終わらないに違いない。逆算すれば解るが、この作品は1961年に開始されている。実に45年続いているのだ。2011年は50周年。2600巻が出る。イベントでもあるのだろうか?その年にドイツに行ってみたい。

 ローダンのメーリングリストによると、2273巻のタイトル「Der gefallene Schutzherr」は「落ちた守護者」と言うことだそうだ。いかにもというタイトルだ。こういうSFが、SFとして輝きを失わない国というのもうらやましい。決して日本もそうでないとは言わないが、ここまでベタではない。

 先日友人と話をしていて、彼は栗本薫の「グイン・サーガ」を読んでいるのだが、「グイン」もいよいよ99巻が発売されて、作家の公言である100巻を目前に控えている。100で終わりそうもないと言うことだが、実にこれまた偉業と言うべきだ。
 私もそうだが、その友人も、周りでグインを読んでいる知り合いがいないと言っていた。私の周りにもローダンを読んでいる知り合いがいない。にもかかわらず、新刊が出ればどちらも多くの書店で平積みになっているし、継続して出版されたり、特集の本が出たりするわけで、相当が売れているはずだが、書店で誰かが買う姿も見たことがない。ちょっとした不思議だ。
 ただ、日本でローダンを読める人口が仮に6千万人くらいだとして、知人の平均人数が500人くらいとすれば、その中に一人読者がいれば、12万部売れるわけで、1巻の売り上げは6千万円。粗利が10%しかないとしても600万円有るわけで、そんなに売れていないかも知れないが、大きな書店で10冊以上平積みされているのを見れば、あながち夢の数字でもないかも知れない。文庫だし、あるいはもっと売れているかも知れない。・

 少なくとも、翻訳開始時とまで言わなくても、今年から毎月刊行ということなので、すごく売れていることだけは確かだ。
 これ以上ドイツに差を開けられないためには、最低月2冊刊行が必要になるが、そんなに出ても読めないと言うことがあるかも知れないので微妙なところだ。普通の本よりは早く読めるが、内容にムラがあるので、つまらないときは時間を食う。人によってつまらないと感じる基準はバラバラだと思うので、一概に言えないが、もし儲かっているのなら、翻訳者を倍にして、やってもらいたいな。

 ところで、裏表紙に出ていたグッキーの人形は、けっこう可愛いので欲しいな。

投稿者 keisuke : SF | 23:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 1日

SFマガジン

 SFマガジンは早川書房が刊行している、恐らく現在では、唯一のSF専門雑誌だ。もちろん、調べたわけではないので間違っているかも知れないが。ずいぶん昔は「奇想天外」とか、「SFアドベンチャー」なんていう本も出ていた気がする。
 実を言うと、数冊の例外を除いて、SFマガジンは約30年近く買っていない。例外というのは「ペリーローダン」特集を除いてと言うことだ。
 1959年の刊行なので、歴史は私の年齢と一緒だ。私が初めて買ったのは、1971年の終わりか72年の初めだったと記憶している。毎月楽しみだった。
 一つには手塚治虫の「鳥人大系」と、平井一正+石森章太郎の「新幻魔大戦」という二つのマンガであり、何より、SFに関する情報を、中学・高校という年代の私にたくさん教えてくれた。
 当時連載していて記憶にある作品というと、半村良の「産霊山秘録」、内容もタイトルも忘れたが、田中光二の小説も面白かった記憶がある。また、「日本沈没」とか、「ゴエモンのなんとか・・・」いうような、個人的にはあまり好みではない小説でしか知らなかったような小松左京の「結晶星団」なんていうのも印象深い。
 しかしなんと言っても、海外の短編の宝庫だった。ラリイ・ニーヴンの「無常の月」を読んだときの感動は今でも忘れない。
 E.E.スミスの「渦動破壊者」も確かSFマガジンだった。
 実はあまり覚えていない。いつまで買っていたのかも記憶にない。
 ふと思い出した。山野浩一の「メシメリ街道」が好きだった。

 しかし、この青年期に読んだSFマガジンという雑誌が、私に及ぼした影響は大きい。今では、SFというジャンルは、非常に漠としていて、SF映画、SFマンガといった小説文や以外の方がメジャーなように感じる。
 最近のSFを読むと、やむを得ないがパソコンが全く世界を変えてしまったようにさえ感じる。コンピュータがHALだった時代とはSFそのものが様変わりしているように感じる。
 20世紀が生んだSFというジャンルは、科学の進歩とともに、非常にハードなSF(ヒューゴー・ガーンズバックが提唱したscientific fiction)から、スペースオペラや、ニューウエーブをフィルターに、サイバー・パンクを通り抜けて、再びScientific・Fictionになったような気がする。
 今でも50年代、60年代のアメリカやイギリスの作品が非常に面白く感じるのは、現代のものよりもセンス・オブ・ワンダーと荒唐無稽さが溢れていたからなのだという気がしてならない。
 例えば昭和30年代40年代のアニメやマンガと現代のマンガの大きな違いはリアリズムだと思う。もちろん、非現実的な設定や内容はたくさんあるが、作品の中にリアルな世界を構築していくことがどちらかというと求められている感じがある。
 これはSFでも同じで、単純に「光より速い」乗り物を出すことはなかなか難しかったりする。現在の科学から導き出されない非現実的なテクノロジーや、理論を書こうとすれば、それなりの裏付けや、理屈を必要とする。
 それが小説を必ず面白くするわけではない。

 私がローダンを続けて読める理由の一つは、恐らくその荒唐無稽を、40年間続けているところなのかも知れない。今のSF作家には「グッキー」は書けないだろうな、と言うところだ。
 久しぶりにSFマガジンを買ってみようかな。・・・・がっかりするかも知れないし、新たな目を開かせてくれるかも知れないからな。

投稿者 keisuke_yui : SF | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年1月 3日

ドック・サヴェジ

 1970年代のハヤカワSF文庫に「ドック・サヴェジ」という超人が主人公の作品があった。オリジナルはケネス・ロブスンという作家の作品で、いかにもアメコミの原作という内容だった。翻訳は3冊が出ていた。「ブロンズの男」「魔島」「死の胡蝶」である。訳者は、スペースオペラと言えばこの人という野田昌宏氏。
 今では書店で見る影もない。絶版中である。
 原作は1930年代から40年代にかけての刊行で、100編以上出ているはずだ。
 人気が出なかったのか、日本では3冊だけだったが、私は非常に好きなのだ。

 ドック・サヴェジはブロンズの肌を持ち、超人的な体力を持った科学者だったと思う。一癖もふた癖もありそうな部下が何人かいた。世界各地を舞台に大活躍をするのだ。
 ペリー・ローダンもそうだが、こういう作品を読むためにはほとんど言語で読むしかない。ローダンはそもそもドイツ語なので、ハナから諦めているが、ドック・サヴェジは英語なので、あるいはがんばればどうにかなるかも知れないとは思うのだが、辞書首っ引きで読むだけの体力も時間も、今の私にはない。
 それに確かに好きで読みたいが、同じ努力を払うなら、恐らく他の作品に手を出すだろう。
 復刊ドットコムを見ても2票しか入っていない。まあ、のっけから諦めてしまう。恐らくその程度の認知度だからだ。それに、読みたいのはこの3冊ではなく、それ以外の新訳だから、復刊になってもあまり意味はない。実家に帰ればたぶんあるし・・・・

 こんな風に、読みたくても読めない本というのは多くの人が持っているだろう。オンデマンド時代には、多分すぐに読めるという風になるのだろうが。それでも翻訳となるとそうはいかないのだろう。機械翻訳がどれほど進化しても、なかなか文学の翻訳となると難しいに違いないからだ。もちろん無理ではないだろうが。

 ローダンの1000話移行と、ドック・サヴェジの翻訳されたことがないお話しの多くを読んでみたいなあ。

投稿者 keisuke_yui : SF | 22:43 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月28日

ゴジラ

 ゴジラの最終作が封切られるという。既に28作目だそうだ。
 実は「ゴジラ」作品を劇場で見たのは、「ゴジラ対ヘドラ」だけだ。小学校の高学年くらいだったように思う。いわゆる東映マンガ祭りの東宝版になるのかな。
 
 そもそも「ゴジラ」は1954年の映画化で、当然、私は生まれていない。香山滋の原作はもっと以前なのだろうが、それも寡聞にして読んでいない。テレビやビデオで、「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」という自分が生まれる前のモノクロ2作品は見たし、今でも大変好きな映画である。
 その後の、モスラがあって、正義の味方ゴジラや、息子が出るやつなどは、多分1回くらいは必ず見ているように思うが、いつでもキングギドラと戦っているような気がする。80年代に入って大分減ったような気がするが、それでも数年に1回は映画になっていた計算になる。
 そういえばどれかの作品で、これでゴジラは打ち止めみたいなことを言ってなかったか?
 制作者が別々なら、今回みたいに「ファイナル」なんていう冠を付けて、これから同じキャラで作りたい若い人たちの夢を壊すようなことはしなくていいような気がする。そもそも、世代交代をした今の人が、「これでおしまい」みたいなことを言うこと自体僭越ではないのか?まあ、そんなことは無視して、しばらくしたら作ればいいだけの話なのかも知れないが。だとしたら、お客に対する欺瞞だな。
 とにかく、どの作品でゴジラが敵なのか味方なのか、まじめなのかギャグなのかよく分からないが、怪獣映画というものが、そもそもは欧米で始まったとはいえ、それとは別基軸の日本のオリジナリティー高い作品群であることは間違いないと思う。

 今回はTOKIOの松岡扮する「ミュータント部隊」が登場するらしいが、ミュータント部隊と言えば、ペリー・ローダンだ。その日本版第3巻は、その名もズバリ「ミュータント部隊」・・・だったと思うが。
 ゴジラそのものがSFであり、いいのだが、ロボット(メカゴジラ)や超能力者みたいなのが出てくると、なんだかあの恐ろしげなゴジラが、影が薄くなるような気さえする。ただ、松岡はかなり雰囲気がありそうなので、期待はできそうだ。あ、でも劇場には見に行かないのは解っているが。
 私にとってはゴジラはテレビでのんびり観る映画なので、たとえ特撮がどれほど優れていようと、わざわざ映画館に足を運んで、大画面で見たいという思いはない。

 今度、ゴジラのDVD-BOXが出るようだが、ちょっと欲しくもあり、でも、見ないから最初の2作だけでいいかな。

 ところで、基本となる音楽は第1作の伊福部昭による有名なテーマだが、あの音楽はよくできていると私も思うし、これだけ長きにわたり使われ、多くの人が知っているとなれば、客観的に見ても優れた音楽なのだろう。伊福部は、あのテーマを交響詩のようにもアレンジしていたような気もするし、彼の他の作品もなかなかいい。クラシックの作曲家辞典に載っていなかったりするのだが、映画音楽とかが多いからなのかなとも思う。欧米の現代音楽作曲家に比べても、CDになる率が低かったりするようにも思うし。
 今、どんな活動されているのか解らないが、少なくとも新しいゴジラは、イギリスかどこかのロックグループがやっていた。

投稿者 keisuke_yui : SF | 21:56 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月23日

ヒドゥン

「ヒドゥン」は映画のタイトルだが、最近ようやくDVD化された。初発売だからしょうがないとしても、洋画としては少々高いので購入していない。
 「ヒドゥン」は以前にここでも書いた「デューン」に出ていたカイル・マクラクランが、出演しているSFの傑作だ。何とかいう賞も取っている。この賞のことはよく知らないが。
 ストーリーとしては、脱獄した宇宙人の犯罪者が、地球にやってくる。この宇宙人は、人間に次々と乗り移る、ハードロック大好き宇宙人なのだが、それを追ってきたのがカイル演じる宇宙人の警察官?だ。結果的に大統領だか上院議員だかに乗り移った宇宙人をやっつけるという落ちだが、素晴らしいスピード感と、ストーリーテリング、抜群に楽しい映画だ。
 言ってみれば「メン・イン・ブラック」からギャグ(この映画ではユーモアと言いたいからだ)を抜いたような映画だが、もっと楽しい。恐らく世間では確実にB級というレッテルを貼るのだろうが、決してB級じゃない。
一緒にエイリアンを追いかける地球の刑事が実は主役だが、俳優の名前を知らない。最後はなかなか心温まるエンディングになっているし、比較的誰にでもお勧めできる映画だ。

 実はこの作品は「ヒドゥン2」という続編があるのだが、監督も違うし、内容もひどい。正直言って、作った意味が分からない。本作ができがいいからと言って2を作ればいいってもんじゃないという典型だ。それに、1で内容的には十分完結していて、2のストーリーを書かされた脚本家は苦労したに違いない。
 尤も、「猿の惑星」の例もあるので、続編を書けば、それなりに受ける場合もままあるのだろう。「猿の惑星」は別の機会に書くが、あれは1が最もよくできていることは、大方の人が認めると思うが、実際5部まで作ったことで、別の大きな話を作りあげることに成功したまれな例だ。

 この「ヒドゥン」は、有名なようであまり有名じゃないが、SF作品の中でも、少なくとも10指、うまくすれば個人的には5指に入るかな・・・・
「2001年」「猿の惑星」「ゴジラ」「ファイナル・カウントダウン」・・・5は無理だが、10には入れるな絶対。でもここに、「ET」とか「スター・ウォーズ」とか、「未知との遭遇」とか、20位以内でも入れない私のセレクトなので、あまり信用はおけないな。
 でも、「ヒドゥン」そのものは間違いなく面白い。

投稿者 keisuke_yui : SF | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (1)

2004年11月 1日

ペリー・ローダン1

 自分の周りで、ペリー・ローダンと言って解る人は数少ない。私自身が教えたので知っている人は別だが。
 ペリー・ローダンは毎月、非常に多くの書店で平積みされる。文庫である。なので、多くの人が一度は目にしていて、「ああ、あれね」と、言われれば判るかも知れない。ただ、それだけ平積みされ、いまだに発刊が続いていると言うことは、現実に売れているということで、いかにも不思議な現象だ。
 確かにこれから読もうと思っても気後れするだろう。

 ペリー・ローダンシリーズは、日本では1971年に第1巻が発刊されている。私はこのとき中学1年で、まだ存在すら知らなかった。私が初めてその存在を知ったのは、74,5年の頃、高校へ入ってからだった。当時既に、10巻以上が発刊されていた。
 私は第2巻の「銀河の神々のたそがれ」を購入した(銀河帝国の興亡といい、私は1巻を読むのが苦手だったようだ)。ただ、この2巻と続く3巻「ミュータント部隊」のおかげで、私はこのシリーズの虜になったのだ。1巻から読み始めていたら今まで読んでなかったかも知れない。

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 ローダン・シリーズは現在翻訳で300巻を超えている。日本版は、2話で1巻なので600話を超えたところだ。ただ、原作は61年のデビューから週間ペースで発刊が続いているので、既に2,200話を超えて、今なおハイペースで続刊中だ。日本版はこの夏から、毎月発刊にスピードアップした。それでも年に24話、今原作が大団円を迎えたとしても、翻訳が追いつくまでに70年近くかかる。最近判った最長寿のおばあちゃんの年齢まで生きて、ようやく読める量だ。原作がここらで終わるなどという様子は全くないので、まず無理だ。
 正直、このためにドイツ語を勉強しようかと思った頃もあった。しかし始める前に挫折した(挫折とは言わないかな)。ドイツ語のできる奥さんでももらって、寝物語に読んでもらうのがいいかもしれない。

 知らない方は、どんな話やねん?と思われるかも知れない。2,000以上もの話を書けるかとか。要は、栗本薫が20人以上いて、みんなで「グイン・サーガ」を書いているとか、そんな感じだ。複数の人間が回し書きをすることで、続いている。しかも主人公のローダンを始め、中心的な人物が不死身と来てるから、なかなか話が終わらない理屈だ。

 こういう書き方をしてしまうと身もふたもないが、実は単純なスペースオペラでもない。SFが持っているあらゆる要素を詰め込んだと言っても過言ではないのだ。小説としてのデキという面では、作家によってばらつきがあるのはやむを得ないが、トータルで考えた場合、やはり図抜けたシリーズなのだ。
 
 ストーリーなどに関してはまたいずれ。

投稿者 keisuke_yui : SF | 11:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月16日

デューン「砂の惑星」

 デューン・シリーズを最初に手にしたのは、中二の夏、町田の大きな本屋でのことだった。石森章太郎の絵で、1巻と2巻が並んで平積みになっていた。

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 正直、最初は難しくてよく分からなかった。巻末の辞書を便りに読み進むというタイプの小説は初めてだった。・・・まあ、どっちみちこんなのはあまり無いが。
 それを訳していた矢野徹氏が先日亡くなった。原作者のフランク・ハーバートは、20世紀の終わり頃に亡くなって既にこの世にはない。息子が続編というかデューン前夜のような小説を書いていて、それも矢野氏が訳されていた。
 デューンシリーズの翻訳は、文庫本で20冊前後になるのだろうか。「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」「砂漠の神皇帝」「砂漠の異端者」「砂丘の大聖堂」で・・・都合17冊か。実は、「大聖堂」はきちんと読んでいない。「砂の惑星」から「神皇帝」までのわくわく感が自分の中でなくなっていたせいもある。

「砂の惑星」は、アメリカの評論家と読者が選ぶヒューゴー賞とネビュラ賞をダブル受賞している。多くのファンやプロからも評価されている作品である。映画化もされたし、ドラマ化もされた。多くのファンを持っているはずだが、日本では長らく絶版で、最近復刻された。表紙は映画のカイル・マクラクランになっていた。
 余談だが、「ツイン・ピークス」で有名になったカイルの映画で私は「ヒドゥン」が好きだ。何かの映画賞を取っていたと思うが、なかなかDVDが出ない。

 さて「砂の惑星」だが、これは遠い未来の話、銀河系に人類が散らばり、皇帝シャッダム何世だったかの時代に、砂の惑星と呼ばれるアラキスという星に領地を変えさせられたアトレイデ公爵(映画ではアトレイデスと言っていて字幕もそうなっていたと思うが、これはアトレイデ家という意味ではないのかな?)は男爵ハルコンネンの奸計にはまり、殺害されてしまう。辛くも逃れた妻のジェシカと息子のポウルは、アラキスの砂漠に紛れる。という始まりで、そこまでの間にも、多くの専門用語の説明を読みながら物語を追っていかねばならない。
 非常に心理描写の多い作品だが、裏腹に非常に活劇的でもある。映画にしたときに、なぜかスター・ウォーズのようになってしまうのはそのせいであろう。
 最も設定自体が宇宙の帝国という設定の中で、貴族が争うという基盤を持っているのでやむを得ないところもある。宇宙へ言っても公候伯子男ですか?とは思ったが、それが中世的な趣を物語に漂わせる原因となっているので、意図的であろう。
 しかも男爵の名前がウラジミールって、冷戦ですか!
 
 しかし砂漠の惑星はナウシカが乗りこなしそうなサンド・ウォームと、その砂虫が生成するメランジという麻薬のような香料が大きな鍵を握り、神話的な世界へ入っていく。メランジはあたかも大航海時代のインド貿易の香料のように、莫大な富を約束する。
 砂の民フレーメンはまるでアラビアのロレンスを彷彿とする。
 そしてメランジの毒性がポウルを予言者に引き上げ、皇帝の地位も与える。ポウルの正妻は皇帝の娘だ。だがポウルの子を産むのはフレーメンの娘チャニであり、ポウルの跡を継いで神皇帝となるのは二人の間にできた双子の男の子の方、祖父の名を与えられたレト・アトレイデである。
 予言者皇帝となったポウルはめしいとなって砂漠をさまよう。
 この辺りはまさにキリスト教的な感じも受ける。

「砂の惑星」はよくその生態学的な描写や設定を高く評価される。確かにアラキスは細部までよく描かれていて、非常に読者の頭にその姿を鮮烈に投影してくれる。
 だが、ストーリーは冒険譚であり、宗教的な政争の物語であり、何よりSFである。
 ここまで述べてきたように、非常に多くを地球上の自然や文化、歴史、宗教などに負っている。だがそれがも真似にならずに、オリジナルの世界観を形作っていることがこの作品の成功の秘訣であろう。秘密結社のようなベネ・ゲセリットも非常にいい味を出している。女だけの超能力者集団のようなこの教団は、ジェシカもいたのだ!

 多くの人は「砂の惑星」が全てだと(作品の評価として)思っているかも知れない。が、私は「砂漠の神皇帝」まで、素晴らしくよくかけていると思う。その後は、エンターテインメントよりも、作者自身が描きたいこのシリーズの深い部分に話が移行していて、地味であるからだ。

 歴史に残る作品だと思う。
 また読もうかな。勢いが必要だな。・・・昔のやつはぼろぼろだし。

投稿者 keisuke_yui : SF | 02:58 | コメント (0) | トラックバック (1)

2004年10月 2日

銀河帝国の興亡−アイザック・アシモフ

 アイザック・アシモフは、もちろん最近映画化された「アイ、ロボット」の原作者であり、SF界の巨匠であるとともに、ミステリや科学の解説書も多数書いている。人間タイプライターとも呼ばれていたらしい。

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「銀河帝国の興亡」全3巻は、アシモフの「Foundation」「Foundation And Empire」「The Second Foundation」の創元推理文庫版邦訳のタイトルである。早川書房からはほとんど原題通りのタイトルで別訳が出ている。
 実際は「Foundation」シリーズとして、アシモフが亡くなる直前まで、銀河系を舞台に書き継がれることになった作品であり、しかも彼のロボットシリーズなど、ほとんどのSF作品を関連づけて、一つの銀河史を形作る作品群の嚆矢となった3編である。

 私にとっては、以前にも少し書いたが、最初に読んだ文庫作品で、なおかつ最初に読んだ子供向けでないSF作品である。
 1951年から53年にかけて書かれた作品で、今となっては50年も前の小説であるし、ましてSFである。この50年間にどれだけ科学が進歩したかを考えると、科学をその中心に置くことが多いSFとしては、古びてもやむを得ないかと思うが、実際は今読んでも古びていない。
 遠い未来、人類が銀河系の隅々まで生活圏を広げている時代、銀河帝国が形成されていたが、その崩壊と続く暗黒時代を心理歴史学(サイコヒストリー)という学問で予測した科学者ハリ・セルダンは、その暗黒時代を縮めるために、銀河の両端に2つの「ファウンデーション」を設置した。という設定で始まるこの作品は、銀河系に人類史かいない、現代の「人間原理」を地でいくような作品で、小説としては批判されることも多い。
 しかしそもそもが小説の命とは、読んでもらってナンボであり、読者の数と作品の価値は比例していると思う。評論家や歴史が、いかに作品を褒めちぎろうと、読者の少ない作品は多い作品に比べて劣るのだ。
 この作品がアメリカや日本、それ以外の国で今までどれほど読まれているか解らないが、超一流の名作であることは確かだ。

 ストーリーとしては、セルダンが設置したファウンデーションが予測不可能な超能力者ミュールによって陥落した後、第2ファウンデーションがどこにあるかの謎を追いながら、結果的にファウンデーションが当初の目的を果たすといった内容だったと思うが(大分前に読んだので。但し数回)、非常に面白かった。

 アシモフがミステリ書きだからというわけからという単純な理由ばかりではないと思うが、なかなか想像力をくすぐる。尤も、小説が多くの場合、謎を秘めて最後にそれが判明するというのはある意味当然のことで、それがミステリやSFに特有であるというわけではない。
 この小説でも「ファウンデーション」とはそもそも何かとか、銀河の果てにある第2ファウンデーションはどこにあるのかとか、謎の設定の仕方そのものが面白い。

 アシモフはこの後、「鋼鉄都市」「裸の太陽」というSFミステリを書くが、その芽が既にここにあるのだ。この2作は人間の刑事と、ロボット刑事が殺人事件を解くというものだが、後期のファウンデーションシリーズでは、このロボット刑事が活躍する。

 さて、今回ここに取り上げたもう一つの理由は、私は早川書房版よりもこの創元推理版の方が表紙絵が好きなのだ。今見ても懐かしさも含めていい表紙だと思う。大きく引き延ばして部屋に飾りたいくらいだ。
 久々に思い出して、ふと書いた次第。
 最近こういう表紙絵ってあまり見かけないな。特にSFはコミックと見まがう表紙が増えてきた。別にあれでもいいが、個人的にはあまり好きになれない。

 久々に、また読んでみよう。
 

投稿者 keisuke_yui : SF | 03:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年9月22日

「幼年期の終わり」-A.C.クラーク

 クラークといえば、言わずと知れたSF界の黎明期からの巨匠で、作家というばかりでなく、科学者でもあり、相当な高齢であろうが、今でも存命である。どちらかというと表題の「幼年期の終わり」よりも、映画「2001年宇宙の旅」の原作者として、認知度は高いかも知れない。

 この「2001年」でもそうだったが、デビュー作の「太陽系帝国の危機」あるいはそれ以前の「前哨(2001年の原点といえる話)」の頃から、近年の「宇宙のランデブー」に至るまで、徹底して彼のテーマの一つとして取り上げられる、宇宙の異知性、高次の知性体というものが、この「幼年期の終わり(Childhood's End)」でもテーマの中心となっている。

 今となってはちょっと古い「インディペンデンス・デイ」の映像をテレビCMで始めてみたとき、私は「幼年期」が映画化されたのでは?とちょっと思った。あのニューヨーク上空に浮かぶ巨大な宇宙船の姿は、まさにカレルレンが乗っていた宇宙船を彷彿とさせた。あの映画自体はそれほど嫌いではないが、圧倒的なスケールで描くことができたあの巨大な宇宙船像を、「幼年期」のためではなく、アメリカ万歳のために使われたのはどうも釈然としないものを当時感じた。

 あまり小説をうまいと褒められることのないクラークだが、この作品は良くできている。全体は3部構成になっているが、第一部で謎を呈示、簡単に第2部の冒頭でその謎を明かし、停滞とも言える中間部を通り抜けると、一気にフィナーレになだれ込む。最初の謎など、全体を貫く思想的なテーマに比べれば些末なことという感じである。印象としては3楽章の交響曲を聴いている感じがする。
 万が一この文章を読んで作品を読もうと思う人がいるといけないので、ネタバレとなる内容にはあまり触れないが、1950年代の前半という時期にこの作品を書いたクラークは、まさに生粋のSF作家と呼ぶに相応しい人だと思う。
 ここにはStar Warsのような作品がSFとは思えなくなるような、絢爛たる黄金時代のSFらしさがあり、今でも私が最も愛してやまない作品の一つでもある。

「2001年」の映画のような解りづらさはここにはないし(「2001年」も小説版はそれほど難解ではないが)、真にセンス・オブ・ワンダーと呼べる工夫がある。恐らく今となっては、この作品が取り上げたそれぞれのアイディアは、古くさいに違いない。藤子F不二雄が短編で取り上げてそうな内容の組合せに見えるかも知れない。
 でも、第2部冒頭の種明かしが、今ではちょっと陳腐に見えても、ラストシーンが夢物語に見えても、カレルレンが最後に言い残した一言がこの作品を非常に詩的で叙情性の富んだものにしているのは間違いない。
「・・・・我々は石女なのだ・・・・」
 という訳文を充てた、早川書房版の福島正実氏の訳が秀逸だ。

 そう、この作品は、地球上の各首都に、空を覆い尽くすような巨大な飛行物体が訪れるところから始まるが、侵略者と戦う大統領などという陳腐な作品ではない。常に、宇宙を見つめ、科学者としての厳しすぎる目で宇宙開発に関わったりなどしていた作者が、同じ視点で、しかし想像力を生かしながら人類に夢を託した作品なのだ。

 てなことで、これからも自分の好きな作品で、面白かったものを取り上げていきたいと思う。結構古いのが多いかも。

投稿者 keisuke_yui : SF | 03:33 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年8月24日

SF

 ぼくが最初にSFに触れたのは確か小学校6年生の頃だ。それまで読書が大嫌いだったぼくに、読書への目を開かせてくれたのが偕成社の子供向けのSFシリーズと、それをぼくに教えてくれた友人だった。彼とは久しく会っていないが、元気かな?
 夏休みの宿題も含め、読書感想文を書かせられるのが大の苦手で、それはそもそも本を読むことが苦手だったからだ。それがSFを読み始めたとたんに変わった。面白くて端から読んだ。何を最初に読んだかも忘れたが、手元にはまだ、ラインスターやキャンベル、ウエルズといった作家のジュブナイルが残っている。
 最初に買った文庫は覚えている。創元SFの「銀河帝国の興亡2」だった。中学生になっていたが、文庫は難しく、しかも2巻から読んだせいもあって、なんだか分からなかった。しかしそれでも、自分が文章を書くきっかけを与えてくれたのがその作品である。

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投稿者 keisuke_yui : SF | 01:07 | コメント (0) | トラックバック (1)