2008年1月11日

ポータブル・オーディオ3

 あけましておめでとうございました。
 笑っていいともでの里田まいの挨拶だが、日本語としてどうかということとは別に、こうやって日数が過ぎ、松の内でもない1月の挨拶としては、理屈に合っているように思えてしまう。現在形で言うには時間経過が大きく、とはいえ1年の最初の挨拶を交えておきたい、みたいな場合には。

 言葉というのは、文法的に合っていようがいまいが、定着してしまえば価値なので、「マジ?」みたいに、いつのまにか年齢関係無しに誰でも使えるようになれば、問題ないのだ。尤も、「まじ」は、昔からまじめの意味で使われているようなので、口語的に復古したといった方がいいのかも知れないが。

 さて、年末最後がポータブル・オーディオの話題だったが、新年もその続きだ。
 ということで、iriverのT-60を購入した。直営のオンラインショップで、安売りをしていたので、思わず購入した。
 実際にはブラックを注文したつもりだったのに、なぜかホワイトになっていた点が残念だが、気づかなかった自分が悪いので仕方がない。・・・ブラックに変えたつもりだったんだが・・・・ぶつぶつ
1198140164.XC0020893.jpg
 これは電池駆動なので、基本的に電源部の消耗により駆動時間が短くなるという弊害が無くなる。
 前の時にも書いたが、内蔵充電池は、消耗し、極端に駆動時間が短くなる。電池と違って、外出先で交換できないので、困りものだ。

 単4の充電池を持ち歩けば、カタログ値は19時間持つことになっているので、操作をしても10時間は持つだろうから、予備と合わせれば、外出時に使えなくなることはない。万が一でも通常の電池を購入できる。

 まあ、外出時にそんなにまでして音楽を聴くという執念は、どうかとも思うが、これは、必ずしもずっと聞き続けているということではなく、いざというとき聴けるかどうかという問題である。

 もちろん4GBというメモリの制約があるので、選曲して持ち歩かないといけない。
 前の機種から800曲弱をコピーしたが、MP3のVBRで録音していたため、ここのファイルサイズが大きく、一旦、128kbpsにビットを下げて変換した。以前、たくさん収録するためにMP3-proの64kbps等のを使っていたが、どうも音が薄っぺらくなるようだったので、一応、標準のビットレートを選ぶようにした。

 音質は、iAudioの方が良かったが、外出先で気になるほどではない。早送りなど、こちらの方がいいが、操作性はあまり良くない。何より、付属の説明書に全ての操作に関する記述がないことだ。あまり細かい説明書も困りものだが、書いてないのはもっと困る。日本で発売しているのに、デフォルトが英語仕様なので、まずそこから直していかねばならず、あまり親切とは言い難い。

 ただ前のとは違い、コンパクトなので、携帯には便利だ。ストラップはオプションだったので、同時に購入したが、必要なかったようだ。

 いずれ、メモリタイプで、1TBなどが出てきて、持っている音楽全て収納できるといいのだが。選ぶのがめんどくさい。
 かつて、レコードからカセットに、1曲1曲ダビングしていた時代が懐かしい。今ほど数も持っていなかったが、その行為自体が楽しかった。わずか90分程度のカセットに入れることができる曲は20曲程度で、旅先などにせいぜい5本程度のテープを持って出るのだが、100曲かそこらだ。今ではその10倍を持ち歩ける。単純にカセット50本分だ。

 便利になると、人間、ありがたみが無くなるものだ。文句ばっか書いて。感謝して使わなくては。

 でもやっぱり黒がなあ・・・
 

投稿者 keisuke : 音楽 | 13:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月31日

ポータブル・オーディオ2

 iAudioのM3とうポータブル・オーディオ・プレイヤーを購入して、1年半が経つ。
 非常にお役立ちで、枕元で一晩何か流れているし、外出の時は必須だ。
 しかし、数ヶ月前から電池の持ちが非常に悪くなっている。カタログ値では、1階の充電で14時間くらいだと思ったが、今では2時間がいいところだ。ちょっと操作をすると1時間ちょっとで突然止まる。
 かつてのウォークマンやMDプレイヤーなどは、概ね電池が使えたので、電池切れでも電池を交換すれば良かったが、最近のものはほとんどが充電式なので、切れてしまったら、充電するしかない。
 
 とはいえ、外出先で充電できるかと言えば、最新式の新幹線や一部のファーストフードなど、PCなどのためにコンセントが用意されているケースは稀だ。
 iPodなど、電池式の充電器がサードパーティから発売されていれば、多少はいいと思うが、USBへの電池式旧電気で汎用的なものは、調べても一つしか出てこないし、とても大きくて、携帯には適さない。

 そうやって調べていたら、iriverから出ているT60というタイプが、電池式だということが分かった。単41本で19時間動く。これはT10、T50などの後継機で、1G、2G、4Gの3タイプがある。

 そもそもiAudioを購入した最大の理由は、ハードディスクタイプで、20GBという容量だった。できるだけたくさん携帯したいという気持ちから、とはいえ、60GBくらいのものは高価なので、最初に購入する機種としては値頃感もあり、しかも本体をバッグの中などに入れて、小さなリモコンで操作できるというのも魅力だった。

 実際には、起動が遅い、操作性がいまいち、早送りや巻き戻しがとても遅い、マイナーなので、オプション品もほとんど無いし、他のメーカーからそれにるいするものも発売されないなど、ディメリットもたくさんあった。録音がモノラルで、しかも本体内蔵マイクなので、時折ハードディスクの回転音ノイズが入るし、FM機能はあってなきがもので、不満はたくさんあった。
 但し、メリットに比べれば、改善余地という程度のものだ。でも、動作時間が短くなるというのは致命的なので、買い換えを考えて調べたのだ。

 先に述べたT-60は、最大でも4GBで、容量的には5分の1になる。メモリタイプなので、当然軽くなるから、本体で操作するのは問題ないし、電池式なので、常にエネループのような充電式電池を補助で持っていれば、電池切れの心配はない。
 とはいえ、録音は所詮モノラルだし、操作性などは試すことも叶わない。・・・これは店頭へ行けば多少できるかな。

 SDカード方式などは、昔のカセットやMDと同じで、メディアを入れ替えることで、実質容量は無限になるわけだが、そのタイプには電池式が見あたらないし、そもそも大きなサイズのメモリカードは高い。

 ということでまだ購入には至っていないのだが、これらの機械は、ポータブルのハードディスクとしても使えるので、データ・ストレージとしても役に立つので、本当は100GBくらいで、長時間駆動、電池パックでも動き、リモコン付きというのが望ましい。無駄な動画再生などの画面は入らないので安価なものがでないかな、と思う。
 外出先で、どれほどビデオやテレビを観るのだろうか?音楽は流しっぱなしでも動けるが、映像は流しながら歩くなどできないから、液晶画面などいらないのだが。

 今年最後がこれか・・・

投稿者 keisuke : 音楽 / 日常的 | 17:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年11月30日

Made in Europe / Deep Purple

Made in Europe.jpg"Made in Europe"は恐らく、僕が最も好きなDeep Purpleのアルバムだ。  最初にパープルを聴いたのは、たぶん解散直前くらいの時だったと思う。それまでは日本の歌謡曲やフォークばかり聴いていた僕にとって、パープルは騒音以上の何物でもなかった。今では想像できないが、本当にうるさかった。  確か当時、世界で最もうるさいバンドとか言われていたはずだ。そういう意味では、ぼくの印象はあながち間違っていなかったことになる。

 そんなぼくがハード・ロックを聴くきっかけはRainbowのセカンドアルバムだったが、当然そこから遡って、ディープパープルも聴くようになったし、Zepやらグランドファンクやら、当時のハード・ロック、へヴィ・ロックをそしてプログレッシブ・ロックを端から聴き倒した。
 このメイド・イン・ヨーロッパもその中の1枚だが、このアルバムは、デヴィッド・カヴァーデルを再認識させるアルバムだったし、後のホワイトスネイクを聴く大きなきっかけだった。

1. Burn
2. Mistreated [Interpolating Rock Me Baby]
3. Lady Double Dealer
4. You Fool No One
5. Stormbringer

 レコードのA面3曲/B面2曲と、わずか5曲しか入っていないアルバムだったが、捨て曲はなかった。
 第3期といわれる布陣になってからのアルバム2枚からの選曲で、当時も実は"Smoke on the Water"や"Highwaystar"なども演奏されていたが、ここには入っていない。そしてそれが正解だ。デヴィッドとグレン・ヒューズの2期の曲は、あまり出来がいいとは思えない。この時期の他のアルバムを聴くと、それがよく分かる。

 パープルのヴォーカリストとしては、デヴィッド、ロッド・エヴァンス、イアン・ギランとうい個人的な序列なのだが(グレンは入っていません)、イアンのヴォーカリストとしての才能は認めるにやぶさかではない。当時のイアンとデヴィッドの歌唱力の差は歴然で、しかもイアンの歌詞はデヴィッドには合わない。
 曲は基本的にリッチー・ブラックモアが作っているのだろうが、Burn以降の曲は、基本的にそれ以前と違う。

 その「Burn」で幕を開けるこのヨーロッパでのライブは、まことに素敵だ。
 Mistreatedも全パープル及びホワイトスネイク、レインボー、ディオ、あらゆるヴァージョンの中で最高の出来だ。ここでのデヴィッドは歌唱力などを超越してセクシーで魅力的な歌を歌っている。
 リッチーもきっと、これからレインボーという新天地でがんばるぞという意気込みでもあるのか、熱が入っている。

 パープルの代表曲というと、「Highwaystar」「Smoke on the Water」「Speedking」「Black Night」「Woman from Tokyo」など、2期の曲がほとんどで、1期では「Hash」3期では「Burn」4期はない。と、とても偏っているわけだ。
 仕方がないとは思うが「Mistreated」は名曲だと思うのだな。出来に比べて評価が低い。
 このmIstreatというタンゴを知ったのはこのときが初めてだし、その後、別の文脈でも見たことがない。
 辞書で引くと虐待とか酷使と載っているのだが、こんな単語は日本語環境で暮らしていては、英語の単語としてお目にかかれなくても不思議ではない。
 I'ven mistreated〜と始まるこの曲は、つまり「俺は虐待された〜」という歌い出しだ。続けてI'ven abused〜I'ven struck downherated babe〜I'ven confusedと続くのだが、結局女に逃げられて落ち込んでるという歌なのだ。
 デヴィッドの歌詞はこの手が多い。相当打ちのめされているのだな、という感じだ。ルチアの狂乱もこれでは敵うまい。
 
 そしてLady Double Dealer(邦題はなぜか「嵐の女」)これもMistreatedと同工異曲かな。内容は。
 You Fool No oneは18分にも及ぶ。この前奏で、ジョン・ロードが弾く「Hava Nagila」というユダヤ民謡が好きで、CDまで買った。
 そしてラストがStormbringer(邦題は「嵐の使者」・・・こちらは解る)
 個人的にはライブ・インジャパン(外国ではMade in Japan)よりもこちらの方がはるかに好きだ。

 このアルバムは、リッチー・ブラックモアが抜けるという、危機的状況を前にしながら、当時のパープルの音楽がいかにクオリティの高いものだったかを証明しているように思える。
 1970年というのはビートルズが解散した年だが、その70年代は、へヴィでハードなロックが席巻した。
 その70年代のほぼ真ん中に発表されたこのアルバムは、少なくとも僕にとって、70年代を象徴するアルバムの1枚なのだ。
 ビートルズではぼくを洋楽に引き込むことは叶わなかった。レインボーとそれにるいするバンドたちが、未だに愛しい。

投稿者 keisuke : 音楽 | 22:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月16日

銀座でカルメン

 銀座のライオンでカルメンを見てきた。
 こんなところでオペラが見られるとは正直思っていなかった。
 
 銀座7丁目のライオンビルの5階が会場だったが、100人は入っていたろう。予約制なので、すでに席も決まっており、しかも開場10分ほどだったが、7割以上は埋まっていた。
 ライオンなので取り敢えずビールを飲み前菜。一応、ランチを頂いてからの演奏ということになっていた。
 
 ほぼ時間通りに開演、ピアノ伴奏だが、フロアをうまく使っていて、楽しませてくれる。
 いきなりハバネラから始まってくれたおかげで、気分は入りやすかった。
「セギディーリャ」「闘牛士の歌」「花の歌」と、前半2幕はとてもテンポよく行った。
 主役の杣友さんは美人で、迫力がある中にも、色気のあるカルメンを演じていた。ホセの青柳さんは、うまい。そして、ホセらしい。エスカミーリョの佐藤さんも、なかなか素晴らしい響きで、闘牛士を演じていた。

 日本語上演だったので、意味もよく分かって見やすかった。ただフランス語でないと、時折、浅草オペラではないが、ミュージカルっぽく響くことがある。ミュージカルが悪いというわけではないが、オペラはやはりオペラで、根本的な何かが違う。
 
 間に20分の休憩を置いていたが、杣友さんは特に出ずっぱりに近いので、しんどかったと思う。
 オペラハウスでもないし、オケがあるわけでもなく、合唱もないが、十分に堪能できる内容だったと思う。逆にダイジェスト演奏だったことが幸いしているかも知れない。

 それにしても、ライオンはなかなか面白いことをやってるのだな、と感心した反面、食事に関しては、あれではいかんな。皆基本的にはオペラを見に来ているから、恐らく寛大だが、メインディッシュが出てこないは、出てくれば冷めているは、出す順番はめちゃくちゃだは、いつもやってんじゃないの?と言いたくなった。
 いっそのこと、サンドイッチかカレーライスでもさっと出してもらった方が幾分かいい。

 また何かあれば行こうかな、という気にはなった・・・・若干値は張るが。 

http://r.gnavi.co.jp/g131804/menu2.htm

投稿者 keisuke : 音楽 | 01:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月11日

タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年

「タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年」というDVDを観た。
 タイトルの通り、時間旅行を扱った作品で、まだ202年の作品だ。イギリスの作品で、イギリスの田園風景が美しい。
 筒井康隆の「時をかける少女」が、NHKで少年ドラマシリーズとして放映されたのは、40年近く前の話だが、その時のタイトルが「タイムトラベラー」でタイムトラベルという単語は、その原体験を持つ者にとって、否応なく過去の記憶も蘇らせる。
 と言って、再放送こそあったものの、ビデオが残っていないその作品は、当然ビデオもLDもDVDも発売されることなく(NHKアーカイヴスでも放送された、テレビ放送の録画による、一部が発売されたことはあったが)、その後の「時をかける少女」ほどの記憶は残っていない。
 SFというのが、日本語で空想科学小説と言われたのはいつの頃だろう。科学小説の前に「空想」と付けることで、荒唐無稽さや、子供っぽさを醸し出しているように感じる。いずれにしたところで、小説のほとんどは空想作品であるわけで、SFのみが、作家の想像から生まれるわけではない。
 筒井康隆の時間旅行は、今でこそトイレの芳香剤にすらなっているラベンダーという、少なくとも当時子供だった私には、異世界の花のような花の香りと、時間旅行の薬は結びついていた。
 そもそも少年向けに書かれた小説で、ある意味、ハードSFとは正反対に位置する作品ではあったが、ファンタジーと言うには、科学的な色合いも濃かった。

 さて、ウェルズが「タイムマシン」を書いたのは、すでに前々世紀のことだ。マーク・トゥエインの「アーサー王宮廷のヤンキー」などはさらにそれを遡る。
 機械を使うのか、薬を使うのか、機械を使えばよりSFらしさは増すが、所詮現実にはあり得ない機械なので、ブラックホールを使おうが、何をしようが、「空想」の域は出ない。
 だが、やはり魅力あるテーマなのだ。

 ウェルズは未来志向、「戦国自衛隊」など、多くが歴史のIFを求めているのに対し、「時をかける少女」は、タイムトラベルを題材に、多感な少女の心情を扱った小説だった。
 今回の「タイムトラベラー」もまた、戦場に舞い降りたなどと、あたかも歴史のIFを扱ってそうな邦題を付けているが、実のところ、そういう映画ではない。筒井が少女なら、こちらは少年の心情だ。

 タイムトラベルもので困るのは、いわゆる「親殺し」というテーマで、自分が生まれる前の過去に戻って、親を殺してしまうというお話だ。生まれるはずのない自分が親を殺しに行けないというパラドックスは、先史時代を扱う場合など、「サウンド・オブ・サンダー」のように、1匹の虫から、壊滅的に世界が変わるという風に描く。
 このパラドックスは実は、どう扱おうと、パラドックスであるが故に、小説では恐らく扱いきれない。どこかで妥協をしなくてはいけないからだ。その妥協の線がどこにあるかで、いい作品になるかどうかの、大きな分岐点の一つとなる、僕はそう思っている。

 そういう意味で、今回のイギリス版の「タイムトラベラー」は、よくできていた。自分の気持ちや立場を、ほとんど口にしない少年が、まだるっこしい部分もあるし、少年が現代へ帰るとき、あたかもそれを知っていたかのような過去の農場のおやじの様子は不可解だったが、全体としてはとてもよくできている。
 それは、この作品が、タイムトラベルでありながら、その実少年と少女の心の交流をテーマにしっかり置いているからだろうと思う。決して派手な作品ではないし、タイムトラベルそれ自体の有り様は、陳腐この上ないが、この際どこでどんな風に過去に戻るかなどはほとんど問題にならない。
 なかなかいい作品であった。

 同意に、カール・デイビスという人が音楽を担当しているようなのだが、この人が作曲しているとすると、なかなかいい曲を書く。マーラーの響きと、ヴォーン・ウイリアムスの響きが混在している。いかにもイギリスらしい曲に思える。
 サントラが是非欲しいのだが、出ているとも思えない。クラシックの作曲家というより、映画音楽の作曲家なのかも知れない。
 DVDも、開いてる部分にサウンドトラックをできるだけ納めて欲しいと、切に願うのである。
 

投稿者 keisuke : SF / 映画 / 音楽 | 02:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月10日

新しい携帯

 携帯を変えた。
 これまでの物からいわゆる3Gに変わった。以前よりは軽くなった。
 何が変わったのかと言えば、音楽が聴けるようになったのと、着うたが使えるようになったのと、TV電話ができるようになったことだ。
 とはいえ、携帯で音楽を聴いていたら、いつ電池が無くなるか解らないし、それ用にはiAudioがあるので、必要はない。
 TV電話も、通信料金を考えると使えないし、使う相手もいない。
 唯一着うただが、これがまた、1曲ダウンロードしてみたが、必ずしも気に入った物があるとは限らないし、何より、無駄なお金もかかる。
 今回携帯を買う際に、初めて知ったのだが、着うたフルなど、音楽ファイルを携帯で1曲ダウンロードすると、4千円から5千円の通信料がかかるのだそうだ。ああ、びっくり。冗談ではない。
 携帯を使ったアプリなどのダウンロードはいくらと書いてあるが、パケット料金が別にかかるのをつい忘れてしまう。

 そこで、自分で持っている曲を加工して、着うたにしようと考えたわけだ。
 携帯で音楽を聴くためには、AACという形式に変換しなければいけない。これはiTunesでできるので編集したファイルをSDカードにコピーして、携帯に入れてみたが、着うたに指定できない。
 Softbankに電話して聞いてみると、SDカードを経由したものは着うたにできないと言われた。どうも釈然としない。
 使いたければ金を払えと言うことか。
 
 そこで諦めてしまっては悔しいので、ネットで検索をすると、どうやらAACでは現在はできないらしい。mmfという元々昔から着メロにできていたファイルなら行けるようだ。そこで、mmfファイルに変換できるソフトをダウンロード。

 http://smaf-yamaha.com/jp/tools/license.php?ocid=wsd110

 ところが今度は、mmfファイルは、300kbまででないといけないという決まりがあるらしく、ビットレートを変更したり、曲の長さを変えたり。

 しかし、苦労した甲斐があり、今では携帯を閉じるたびに、デヴィッド・カヴァーデールが「I'ven Mistrea・・・」と叫ぶのだ。mistreatedまで歌い終わらないうちに、切れてしまうが。
 今朝は、大地の歌の冒頭を目覚ましに使った。

 くだらないが楽しい。新規 - 2.jpg

投稿者 keisuke : インターネット・PC / 音楽 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月31日

いきものがかり

 ぼくは音楽に関しては雑食なのだが、最近のポピュラー音楽は、あまり聴かなくなっている。昔のようにCountDownTVなどを見て情報を仕入れることもしなくなった。

 クラシックを今でもよく聴ける一つの理由は、新曲が少ないことかも知れないという気にさえなる。新しいCDやDVDが発売になったところで、その多くは既存の音楽を別の誰かが演奏したものだ。曲自体はなじみがある。
 今パソコンからはSantanaが流れている「Open Invitation」という曲だ。別に選んだわけではなく、毎度おなじみのランダム再生故の選曲だ。それでもSantanaの音楽は、耳になじんでいるし、これも10年以上前の録音だ。
 一つの音楽を1回しか聴かないとすれば、相当数の音楽に触れることは可能だが、そんなことはあり得ない。結局気に入った音楽は繰り返し聞くし、どんなに流行っていようと、どんなに優れていようと、聴きたくない音楽というのはある。

星をめざして/NEWS
蕾(つぼみ)/コブクロ
Flavor Of Life/宇多田ヒカル
千の風になって/秋川雅史
Climax Jump/AAA DEN−O form
BUT/愛証/倖田來未
WINDING ROAD/絢香×コブクロ
CHE.R.RY/YUI
Love so sweet/嵐
LU LU LU/GAM

 上記はオリコンの今週のチャートからコピってきたベストテンだが、さすがに全く知らないということはないが、曲として認識できるのは2〜3曲だ。秋川雅史の曲なんて、こんなところにはいるのは信じられない。紅白恐るべしという感じだが。

 相変わらず、クラシックとハードロックの比重が高い、進歩のない音楽生活をしているのだが、ちょっと前、何かのCMでSAKURAという歌を聴いた。テレビ画面の下に「いきものがかり」と書いてあった。
 これが「生き物係」から来ていることなど知らなかったが、何度かネットで調べようと、テレビでその都度名前を覚えながら、その都度、しばらく忘れていた。・・・・すぐ調べれば問題ないのだが。

 そんなことでようやく調べて、SAKURA1曲をダウンロードしたのだが、なぜかこの曲が泣ける。
 歌詞自体は今更ぼくなどが感動するような、ノスタルジックではあっても、青春とは縁のない年齢なので、それほど感じることはない。だがなぜか、恥ずかしい話だが、このメロディを聴いていると、じわっと涙が出てくるのだ。

 これまであまりこういう経験はない。
 ロックのギターで「泣き」なんていうことをよく言ったが、そんなものに入り込んだり、アグネスチャンの「白い靴下は似合わない」で高校時代に切ない思いをしたり、クラシックのいろいろなメロディで感動したりという経験はあるが、ポップス聴いて、涙するなんて・・・・年のせいか?何て思ってしまったりするほどだ。

 尤も、ヴォーカルがこの子でなかったら、どうかな?とも思う。
 オフィシャルページを見ると吉岡聖恵という子らしい。
 ミーシャあたりからだろうか、非常に歌唱力を売りにできる歌手が増えたように思う。だが、歌唱力というのは、魅力的な声があって始めて有用なものだと、今回の音楽を聴いて思った。

 テクニックは、努力で身につけることのできる人が多くいるはずだ。もちろんそれだって素晴らしいことだ。しかし天性の、努力では身につけることができないのが声だ。
 楽器は、チューニングさえしっかりすれば、同じ音を出すことができる(に違いない・・・いや、もちろん洗練された演奏は、その音色もユニークだ)。しかし声は、技術ではない(なんて断言すると、誤解を受けそうだが)。

 魅力的な声は、生まれ持ったものだ。同じ歌を、魅力的な声で少し下手なのと、平凡な声で抜群のテクニックで聴く場合、前者の方がいいように思える。もちろん、個人差もあるし、そもそも「魅力的」というのは、普遍化できない。

 だから敢えてどの歌手が魅力的で、どの歌手が凡庸かなどというのは、まったくもって聞く側の身勝手な思いこみかも知れない。

 ナタリー・デセイというソプラノがいる。素晴らしい高音と、のびのある美しい声を持った天才的なソプラノだ(個々でマリア・カラスを出すのは、何か違う気がするので)。コロラトゥーラだが、高い声ばかりで勝負するわけではない。いずれにしても当代随一のソプラノのひとりだ。
 ぼくは、マスネのほとんど上演されることのない「サンドリヨン(シンデレラ)」というオペラが好きなのだが、これは唯一でているCD(かつてはレコードだったが)で歌っている、フレデリカ・フォン・シュターデという歌手の魅力に依るところが大きい。
 たぶんソプラノの実力としては(世代は違うが)デセイには及びも付かない。
 しかしシュターデの、細いが透明感のある声は、僕には魅力的なのだ。
 シュターデは基本メゾ・ソプラノだと思うのだが、このサンドリヨンではソプラノとして歌っている。

 まあ、そんなわけで、「魅力的」の内訳はとても個人に負っているのだが、このいきものがかりの吉岡聖恵さんは、久々に日本人のポップス歌手で声に惚れた。
 最近人気のある伊藤由奈とかYUIとかもきれいないい声をしていると思うのだが、それとはちょっと違う、いい周波数に入ってますという声をしている。もちろん、SAKURAという歌限定での話だ。他の曲は知らない。でも聴いてみようという気にはなる。

 それにしても、今かかっているのがBlueOysterCultだ。ぜんぜんいい声じゃないが、素敵だ。
 こうやって別の曲を聴いて楽しんでしまうと、SAKURAは錯覚かな?何て思えてしまう。だって、曲だけで泣くなんて・・・・やはり自分でも信じられない。

投稿者 keisuke : 音楽 | 21:22 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年2月 2日

アナログ→デジタル

 最近、仕事の最中に、昔のカセットテープの音源をパソコンに移し始めた。
 カセットの内容は、その多くが80年代のNHK-FMのエアチェック音源だが、多くのクラシックに混じって、ホワイトスネイクのBBCライブとか、ブラックサバスの日本公演の録音とかがあってなかなか興味深い。
 やたらとマーラーが多いのは趣味だから仕方がないが、シェーンベルクの「ワルソーの生き残り」とか、ペンデレツキの「失楽園」組曲(歌劇からの組曲)など、珍しい作品もある。
 CDやDVDでは、全てが発売されるわけではないし、奇妙な曲は寿命が短く、あっという間に店頭から姿を消すものなので、こういう音源はなかなか貴重だと思う。

 惜しむらくは、かなりの数を紛失したり、音源がなんなのか解らなくなっているケースが多いので、もっと大切にしておけば良かったと、後悔しきりだ。

 ところで、変換用に使っているのは、IOデータのDAVOXLという装置なのだが、アナログの機械から、それを通してUSBに繋ぎ、それがPCの入力デバイスになる。音質はそもそもそれほどいいわけではないので、デジタルにしたところで、それなりなのだが、このところほとんど聴かなかった音楽を改めて聴けるのでうれしい。
 当初、USBのハブを通して接続していたら、うまく録音できなかった。途中からノイズになってしまうのだ。本体のUSB端子に接続したら直ったのだが、最初は焦った。
 また、ずっと使っているビクターのカセットデッキだが、モーターがいかれかけているのか、非常に回転がおかしい。耳で聞いて解るほどおかしい。そこで、やむを得ず眠っているラジカセを登場させ、そこから録音している。
 デッキからなら、本体の出力を使えるのだが、ラジカセにはヘッドフォン出力しかないので、そこから取っている。それでも、オーディオマニアなわけではないので、そこそこの音質で聴けて満足している。・・・・満足しなくてはいけないのだ。新しいデッキを買って、出力をミキシングしてなんて、考えるだにめんどくさいし、無駄金もかかる。

 そうそう、レコードも少し残っているので、それも録音しよう。

 最近では、オペラやロックのDVDをたまに購入するのだが、観るには時間がかかるし、音声だけ訊きたいことがよくある。先日、ホワイトスネイクのライブを買ったときには、CDがおまけで付いていたが、このCD、DVDの全曲が入っているわけではないのだ。
 そこで、DVDdecrypterというソフトで音声だけを吸いだし、さらにそこからできたWAVやAC3等の音声をMP3に変換という手間を掛けることになる。尤も、手間と言ったって、ソフトが勝手にしてくれるので、たいした手間ではない。
 むしろそれにID3のタグ情報を書き込む方がよっぽど大変な作業だ。・・・・こんなことしてないで仕事しろという感じだが、そこはバランスの問題なのだ。

 今も、なぜかテープに残っていたスウィング・ウエスト版の「雨のバラード」。湯原昌幸のソロヴァージョンではないこの曲がかかっている。持っていたのを忘れたのでラッキー。

 DVDから音声だけをコピーするのは、なぜもっと簡単にできないのだろうか?I-Pod等があれほど売れているわけで、当然、それを持ち歩いて聴きたいという気持ちになる。CDカラは簡単だが、DVDからはほとんど手がない。
 もっとも、最近のオーディオ情報には疎いので、DVDコンポなどで、簡単にダビングできるのかも知れないが。だが、いずれにしたところで、そんなコンポも持っていないし、今更コンポを買うのもなあ。

 今は、再びエアチェックをしたいと思っているのだが、いかんせん、渋谷区に住んでいて、NHK-FMが結構ノイジーだ。ここからNHKの放送センターまで、どのくらいあるのだろう。結構近いと思うのだが。やはりちゃんとしたアンテナが必要なのかな・・・
 BSが受信できれば、BSもとりたいところだが、あいにく現在は衛星放送を受信できる機械がない。

 いくつになっても、男の子はこういう事が好きなのだな。と、おじさんは思うのだった。

投稿者 keisuke : 音楽 | 00:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年12月22日

HMV

 このところ、何かを買う際に、ネットショッピングの比率が非常に増した。それは便利である上に、同じ製品をより安価で購入することが可能だからだ。
 ぼくがよく利用するのは、ヨドバシドットコム、アマゾン、楽天市場、タワーレコード、西友、ニッセン、ベルメゾン、アスクル等だったが、このところにわかにHMVが自分の中でクローズアップされてきた。

 楽天は、様々なショップの集合体で、雑貨や、家電、食品など、大手で扱っていない商品を買うのだが、日常的によく利用するのはPC関連(仕事もあるので)とCDやDVD等だ。書籍はほとんどアマゾンだが、紀伊国屋ウエブなどもサービスが良くなれば(送料など)、利用してもいいとは思う。

 さて、これからの時代はiTuneでダウンロードだぜ!という世間の声に耳も貸さず、所詮はダウンロード販売にほとんど無い、クラシックを買うためには、自ずとCDやDVDというリアルなメディアを購入する以外にない。
 今、買おうかどうしようか迷っているものに、フィッシャーという指揮者によるハイドンの交響曲全集がある。ハイドンは、交響曲の父といわれているだけあって、104番までの交響曲を書いている。一般的にハイドンの交響曲のCDを購入すると、1枚に3曲入っているケースが多い。曲の長さ的にはモーツァルトなどと同じくらいで、20分から30分程度の曲が多いからだろう。さて、計算すれば判るが、この全集、33枚組だ。当然箱入りだが、実はこれまでも新宿のタワーレコードで何回か見かけ、食指は動いていた。ただ大きな箱なので、気後れもあった。
 ハイドンは、名前入りの交響曲だけでも相当あり、よく知られた「驚愕」「軍隊」「時計」「太鼓連打」等の後期の曲以外にも、「告別」「マリア・テレジア」「奇跡」「朝」「昼」「晩」など、面白いタイトルが付いているものが多い。「驚愕」は「びっくり交響曲」等という言い方もされ、突然大きな音を鳴らしたり、「告別」などは、終楽章で演奏者が、一人一人舞台から捌けていき、最後はヴァイオリン1本になる等という粋な曲を書いている。

 このCD、タワーレコードで8000円ちょっとで販売している。1枚単価250円にも満たない。だがでかいよな。
 と思ったら、HMVでも同じものを同じ価格で売っているのだ。ただ、HMVの方が納品に時間がかかるようだし、HMVは輸入CDを三つ以上買わないと安くならない。・・・今確認したら、いつの間にか在庫有りになっているが。
 さて、そうなるとタワーレコードで買う方がいいようなものだが、実は昨日、HMVで検索をしていて思わぬものを見つけた。
 パリスのセカンドアルバムだ。発売が2001年になっているが、ぼくは見たことがない。もちろん国内版は出ていないし、以前にCD-NOWという海外サイトで調べたときもなかった。その時にはボブ・ウエルチのソロベストを買った中に2曲くらい入っていたので我慢したのだった。
 それがなぜかある。タワーレコードでは載っていないのだ。
 
 ヤフオクでもレコードはたまに出るがCDは無かったので、発売になっていないのだと思って、以前のうちでのこづちでもそう書いた。
 それがあったのだ。わーい。

 このタワレコとHMV、かつてはヴァージン・メガストアとともに、外資系3大CDショップだった。Waveというのもあったが、個人的な印象は上記3社だ。しかし、オンラインショップに関する限り、ヴァージンは国内販売がないので、大きくは2社で、システムから言えば、圧倒的にHMVの方が上だ。
 非常に検索がやりやすいし、ヒット率も高い。タワレコの場合、日本語とアルファベットでは検索結果が異なるし、同じ作曲家が、微妙に違う名前で二つに分かれていたりする。

 リアルショップでは、新宿に関する限り、HMVよりもタワレコの方がいい。品揃えも、駅からの近さも。ただ、ネットはHMVの圧倒的勝利だ。・・・・パリスのためだけでも。

 

投稿者 keisuke : 音楽 | 01:19 | コメント (0)

2006年11月 5日

ポール・モーリア

 ポール・モーリアが亡くなった。81歳だったという事だ。
 最初にポールモーリアの音楽に接したのは、今から35年くらい前の話だ。だから、当時彼は40代だったという事だが、当時から、どう見てもじじいだと思っていたのだが、まだ若かったのだ。

 カセットテープにポール・モーリア楽団の音楽はたくさん入れていた。
 今回ニュースで、「恋は水色」の・・・・とあったが、確かに「恋は水色」は有名だし、ジェフ・ベックもカバーしているが、ポール・モーリアといえば、少なくとも日本人は「オリーブの首飾り」だろう。
 これがかかるだけで、誰かがマジックをやるのだと思うくらいに、演芸マジシャンの代名詞みたいな曲だ。

「エーゲ海の真珠」とか「涙のトッカータ」とか、ジェット・ストリームなどの番組でよくかかっていた。
 イージー・リスニングというジャンルの王様みたいな存在だったように思う。
 ポール・モーリアを筆頭に、レイモン・ルフェーブル、リチャード・クレーダーマン、パーシー・フェイス・オーケストラ、フランク・プウルセル等々、当時はよく聴いていた。クレーダーマンは少し後かな?

 クラシックでもなく、ポップスというにはエレガントで、イージー・リスニングとはよく言ったものだという感じだ。

 ポール・モーリアという位だから、きっとフランス人だと思うが、タワーレコードで検索したら、ほとんど国内盤で、輸入盤は少ない。よくある日本で一番ヒットというたぐいなのだろうか?

 明るい曲よりも、多くが哀愁を帯びた音楽だったように思う。日本人の感性に何か訴えかけるものがあるのだろう。
 久々に聴きたいと思っても、持っていないので、今度買うかな。哀悼の意味も込めて。

投稿者 keisuke : 音楽 | 02:06 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月12日

ブルックナー

 ブルックナーは言うまでもなく、19世紀後半に活躍したクラシックの作曲家だ。

 私はここで何度も書いているようにマーラーの復活をきっかけに、多くクラシックを聴くようになった。ブルックナーとマーラーは、師弟関係にあるので、よく書物などでは「ブルックナー・マーラー」などと一括りにされることがある。ブルックナーは1824年生まれなので、1860年生まれのマーラーとは36歳の年の差がある。70年代の半ばにウィーン音楽院で、マーラーはブルックナーから和声を習っている。

 マーラーが交響曲で歌を多用しているのに反して、ブルックナーは一切それがない。だが、宗教曲を除くと、ブルックナーの作品もおおむね交響曲ばかりで、しかもベートーヴェン以来の9曲の呪縛に見事はまっている。だからこそマーラーは、巨大な第8番の後に「大地の歌」を交響曲として発表したのだ。

 さて、これまでブルックナーのレコードやCDを持っていなかったわけではなく、相当昔に、0,3,4,8,9という番号の交響曲をレコード、あるいはCDで持っていた。何回かは聴いている。しかしこれまで、何度聞いても、どこがいいのか解らなかった。
 ブルックナーにかに関しては、昔はよく「天国的」とか言う表現を聞いたことがあるような記憶があるが、独特と言ってもいいスケルツォ(ブルックナークレッシェンドとでも呼びたいような)や、やたらと金管がうるさいというイメージを払拭しきれないでいた。

 最近、タワーレコードでロジェストヴェンスキーのブルックナーの交響曲全集を買った。私はロジェヴェンという人が好きで、ショスタコーヴィチの交響曲全集やら、チャイコフスキーの後期の交響曲やらを愛聴しているが、このブルックナーもなかなかよい。
 これまで聴いたことがなかった、2,5,6と言った曲や、持っていなかった1,7なども面白い。アダージョは綺麗だし、金管もうるさく感じられなくなり、相変わらずランダムできているときにブルックナーのどこかの楽章がかかると、つい必要以上に耳を傾ける。

 もとより、本も読んでいないし、ライナーも読んでいない(輸入盤なので読めないのだが)。だからブルックナーの知識は非常に乏しいのだが、重厚で、そのくせ広がりがあり、巨大な何かを感じる曲が多い。マーラーと違って、描写的なところは少ないような気がする。
 むしろ、ベートーヴェン、ブラームスと来たドイツの交響曲の正当な後継者という気がする。ドイツらしい堅苦しさはやはり備えているように思う。

 昔と違い、1曲聴き通すという聴き方をほとんどしなくなったので、演奏会にでも行かない限り、どうしても部分聴きになる。まあ、それが私の楽しみ方なので、あえてそれを変えようとは思わないし、ブルックナーの後にレインボーでもかかったりすると、一気にそのモードになるので、まだまだブルックナーには浅い。

 クラシックというのは、面白いと思う。昔はブラームスだって面白くないと思っていたが、今では大好きだし、最近はほとんど聴かなかったベッリーニなども好きだ。まだまだ埋もれている作曲家とか、どちらかというと、バッハという大家が私のテリトリーにほとんどいないので、開拓の余地がある。

 ロジェヴェンと言えば、ロシアの指揮者だが、昔ビクターから出ていたメロディアというレーベルは、いい盤がたくさんあった。神保町の古書センターの上の方に、ロシアものを中心にしたCDショップがあり、そこでロシアンロックなども買ったりかつてはしたものなのだが、今でもあの店はあるのだろうか?何年も行ってはいない。店名も忘れた。久々に行ってみようか。・・・芳賀書店には行かないぞ。・・・たぶん。

投稿者 keisuke : 音楽 | 00:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月12日

iAudio

 CowonというメーカーのiAudio-M3というのを購入した。いわゆるiPodもどきだ。
 私は本体で操作をしないし、ビデオも見ないので、液晶画面が付いていて価格が高くなるのなら、ということと、録音ができるのでこれを選んだ。
 こういうポータブル・オーディオと言えば、iPodというくらい、iPodの知名度は圧倒的で、かつてのソニーのウォークマン同様、商標が商品を表しそうな勢いである。
 尤も、かつてのポータブルカセットがソニーでもシャープでも松下でもウォークマンと言っていたのとは違って(メーカーは別の言い方をしてほしかったに違いないが)、現在はiPodは明らかにアップルの商品のみを指している。
 ソニーがAtracで、オーディオ圧縮のシェアと著作権保護の二つをねらってがんばっていたときに、大容量のiPodは普通にシェアを持っていたMP3とMacで培ったデザイン製で、さっさと市場を席巻してしまった。おかげで、iPod用のアクセサリは山のように販売されているが、多メーカーの商品はほとんど出ていない。
 ポータブルオーディオと言って、その機能は、メモリタイプで128Mb程度のものから、60GBのハードディスクタイプまで様々だが、5GB程度のハードディスクタイプは最もコストパフォーマンスが低いように思える。そこそこ値段が高い割に、ハードディスクタイプとしては、容量が小さいからだ。
 ハードディスクは、基本的にフォーマットが必要だから、なんだかんだで、容量の数パーセントをシステムに取られてしまう。
 標準的なMP3であれば、およそ1分1MBだから、128MBで、約2時間、アルバムにすれば2枚くらいが収納できる。60GBのものだと、60000分はいる計算だから、アルバム1枚60分で計算すれば、1000枚が収納可能だ。
 そもそも何曲はいりますというメーカーのうたい文句はよく分からない。1曲1分かからない曲から、ジョン・ケージの曲や、ニーベルングの指輪などは別にして、1時間くらいかかる曲はいくらでもある。

 まあ、そんな話はいいとして、私が買ったのは20GBのハードディスクタイプだ。現在、パソコンに取り込んだ音楽は、最近、MP3のVBRという方式で取り込み直しをしているので、ファイルが非常に大きく、100GBを超えている。実際にはCDの音質よりもよくならないはずだし、自慢のオーディオは、パソコンに付いている小さなスピーカーなので、さほどビットレートで音質が変わるとは思えないので、気休めだ。
 だがさすがにそれでコピーしたのでは、せっかく20GBを買っても、あまり収録できない。
 そこで、これはハードディスクタイプにしてよかったところだが、パソコンから、MP3Proに変換して、収録している。これだと、通常のMP3よりも、小さなサイズですむのでありがたい。ただし、さすがに時間がかかる。仕事や何かをしている間、こつこつと、もう1台のパソコンで、取り込みをしている。
 もちろんそれでも全部はいらないので、同じ曲は、極力演奏一つにするとか、ロックやポップスは、必要な曲だけに絞っている。

 ポータブルで1テラくらいの容量があるか、圧縮をさらに10倍くらいにできるようになれば、確かに自分の持っている音楽のほとんどを携帯できる。・・・・どこで聞くんだ?という感じだが、家にいても、それで再生できる。非常に便利だ。

 それにしても、マーラーだけで8GBある。どうせ聴かない音楽をたくさん持っていると言うことなので、やはりランダムにして、思わぬ曲の再生をねらうしかない。
 しまった・・・・毎日書いていないのに、また音楽の話だ・・・

投稿者 keisuke : 音楽 | 01:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年5月 6日

iTunes

サントリーのウーロン茶のキャップに付いている懸賞に応募したら、iTunesからの1曲ダウンロードというのが当たった。サントリーはウーロン茶が売れて、アップルは廉価でiTunesの広告ができるという、なかなかうまい宣伝だ。

 iTunesから曲をダウンロードするには、そもそもiTuneのソフトをダウンロードしなくてはならず、それをインストールした。1曲なので、何をダウンロードしようかと、リストを見ていたのだが、ニュースで聞いたiTunesのDLの回数からすると、少なくとも日本向けの内容はお粗末なものだ。結果的に欲しい曲が見つからなかった。
 以前、so-netに入会して、こちらもキャンペーンでsonic-stageというソフトのサイトから10曲ダウンロードできるというサービスでは、10曲ダウンロードした。実は今回のiTunesが持っている曲の多くは、どうもSonic-Stageと非常に近い気がする。今時、水原弘の全曲集がどちらにもあるというのは、他の品揃えを考えても、おかしい。まずは、ダウンロード販売にOkを出すアーティストやメーカーが限られているということだろうか。
 尤も、クラシックはSonicの方が充実していたような気がする。
 曲名を入れても何も出てこないので、クラシックは何も出てこないと言ったら、「ジュピターとか、そんなのしかないんだよ」と言われたので、「木星」と試しに入れてみたら、海上自衛隊・・・と出てきた。????何で?という感じだ。

 音楽配信という、あたかもCDが明日にでもオンラインに駆逐されそうなお話を時々聞くが、現状を見ると、Top100ばかりを聞いている人には、あるいはそうなのかもしれないが、そうでない人間にとっては、永遠の向こうにそれはあるような状態だ。
 しかも、クラシックのダウンロードを見て笑えるのは、オペラのものだ。例えば、「フィデリオ」なんかがあったりしてびっくりするわけだが、通常オペラは、ポピュラーの1曲1曲に当たる部分が、場面や曲の展開に応じて、ケースバイケースで区切ってあるが、この全てで音楽が切れているわけではない。
 確認したわけではないが、そのそれぞれのトラックがばら売りされているような印象を受けた。少なくともアリアだけではなさそうだった。

 ダウンロードで手に入れた曲は、CDがないわけだから、パソコンがクラッシュしたり、ファイルが壊れたり、誤って削除してしまったらそれで終わりだが、その割には少々お高い。
 また、iPodなどのポータブル・オーディオにコピーできる回数も決まっていたりする。どうも顧客の都合はあまり考慮されないままに、新しいテクノロジーだけが前に進んでいるいい例のような気がする。しばらく前に書いたが、DVDのリージョンというのと同じだ。

 確かに違法コピーなどは、著作者にとっては、頭の痛い現象ではあろう。しかし、例えば漫画や雑誌の貸し借りは日常茶飯だし、それはCDなどにしても普通である。この程度は私は著作権侵害だとはとうてい思えない。著作物の販売というのは、そのあたりのことを加味して販売されるべきだし、友人同士の貸し借りなんていうのは、とても安価な宣伝に過ぎない。
 著作権者の権利や収入は守られるべきだが、あまりにそちらに重点が置かれ、顧客の便利が阻害されるようでは、本末転倒である。著作物に限らず、収入源の全ては、それを利用する顧客あっての物種なのだ。スポーツであれ芸術であれ、行政であれ、コンビニと根っこは一緒だ。

 話は逸れたが、iTunesはまだまだ使えないというのが本音だ。今のところ、CDを買ってパソコンにコピーして、というのが、私にとっては順当な使い方だ。輸入盤も、ネットでかなり自由に手にはいるようになったし。

投稿者 keisuke : 音楽 | 02:07 | コメント (1)

2006年4月26日

イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト/ホワイトスネイク

 久しぶりにDVDを購入した。
 ホワイトスネイクのライブだ。約2年半前、2004年にロンドンで収録したコンサートだ。
 ホワイトスネイクというか、デヴィッド・カヴァーデルののアルバムは、気づけば買っているのでほとんど持っているのだが、ソロ・アルバムなどを出し、ホワイトスネイクはもう解散なのかな?とも思っていたので、なかなかうれしいアルバムである。
 今も脇でかかっている。

 デヴィッドのデビューはディープ・パープルの「バーン(Burn)]のはずなので、このライヴの1曲目は、まさにそのデビュー曲から歌い始めたということになるわけだ。
 喉の手術以来、やけに高音が出るようになったように思っていたが、この1曲目の印象は、喉の温まらない、かわいそうなくらい「ガレた」声だった。途中で「嵐の使者(Stormbringer)」をインクルードするという、なかなかいかした演出を加えてくれたが、今回はグレン・ヒューズの声がないのが寂しかった。
 だんだん往年の声に戻ってきたデヴィッドは、やはりかっこよかった。昔に比べて圧倒的に歌はうまくなっている。
 これはハマースミス(劇場は違うようだが)での2度目のライブアルバムになるわけだが、今回は、「ミストリーテッド(Mistreated)」を歌っていないのは残念だった。バーンをやったから、ディープパープルの曲はもういいだろうということだとは思うが、今の「ミストリーテッド」が聴いてみたかった。
「エイント・ノー・ラヴ・イン・ザ・ハート・オブ・ザ・シティ(Ain't No Love In The Heart Of The City」から「ジャッジメント・デイ(Judgment Day)」まで、多くのアルバムから、かなりまんべんなく選曲されていて、構成のバランスは非常にいい。惜しむらくはデヴィッドの2枚のソロ・アルバムからの選曲がないことだ。尤も、「エイント・ノー・・・」は、ホワイトスネイクのファーストに先駆けて出された4曲入りシングルに入っていた曲なので、それをソロからの曲と数えれば、「入れた」ことになるのかもしれない。
 個人的には「ブラインドマン(Blindman)」か「ソース・ウインド(North Wind)」あたりを聴きたかった。
 それでも、これまでライブでは聴いたことがなかった(知らないところで出ているのかもしれないが)「ドント・ブレイク・マイ・ハート・アゲイン(Don't Break My Heart Again)」が聴けたのはとてもうれしかった。

 かつて2枚出ていた半分パープルなメンバーのライブよりも、キレのいい演奏は、買ってよかったと思った。ダグ・アルドリッジのギターは、80年以降の速弾きのギタリストの一人以上では、私にとってはないので、それほどの感銘はないのだが、ソロよりもリフなどでかっこいい音を出していた。もう一人のロブ・ビーチという人はよく知らないが、端正にギターが弾ける人という印象だ。

 ファースト・アルバムに入っている「テイク・ミー・ウイズ・ユー(Take Me With You)]が、あんなにかっこいい曲だとは知らなかった。

 しかし何だ、日本盤は4,500円もするのだ。輸入盤に字幕が付いているとはいえ、数少ないしゃべりの部分だけで、それほど必要でもない感じだ。でもこれ、見るまで判らないからな。輸入盤とは3割以上価格が違うわけだ。・・・しかし輸入盤はリージョン1、うちのプレーヤーではかからない。
 このリージョン・コードというやつ、全く制作者側のエゴのみで作られた煩わしさきわまりない仕組みだ。ハリウッドのあがきってやつだきっと。
 今回のはCDが付いているが、全曲ではない。せっかくなので全曲つけてくれよ、という感じだ。



左が初回限定版。

いや、なんだかんだで、デヴィッドはいい。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月27日

モーツァルト

 モーツァルトの生誕250年だという。まさに今日がその誕生日だ。250年前の暦がどうなのかは知らないが、そう言うことらしい。

 モーツァルトというと、バッハやベートーヴェンとともに、ほとんどの人が名前を知っている。しかも映画「アマデウス」のおかげで、バッハやベートーヴェンなどとは違い、姓だけでなく名まで有名だ。
 しかし実際に曲をどの程度知っているかということになると、おそらくは、驚くほど知られていないと思う。少なくともクラシック好きの人が、モーツァルト程度は常識だろうと思っている、10分の1も知らないに違いない。

 モーツァルトの書いた曲を上げよといわれたときに、ベートーヴェンの「運命」や「第九」ほどに、曲名が知られているわけではない。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という名前を聞いたことはあっても、恐らくモーツァルトと結びつかない人は多い。
 テレビなどでかかるレクイエムの回数は、最近ではモーツァルトよりもヴェルディの方が多そうだ。
 ジュピターという名前を聞いたときに、モーツァルトの交響曲を思い浮かべる人よりも、ホルストの「惑星」を思い浮かべる人の方が多いかも知れない。もちろん、平原綾香のおかげだ。

「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」等という著名なオペラは、どこかで名前を聞いたことがあるかも知れないが、下手をするとそれがオペラのタイトルであることを解らない人も多い。

 最近ではクラシックのCDがよく売れているという。確かに昔に比べると、クラシックのハードルは低くなり、多くの人が聴くようになった。中でもモーツァルトは、簡単で難しく、聴きやすいので、ベートーヴェンなどよりは遙かに入りやすいだろう。
 だが、CD等で、例えばモーツアルトの交響曲集を買ったとしよう。1枚聴き通し、曲当てクイズを行っても、簡単には答えられない。極論すれば、どれを聴いても似ているからだ。
 たとえモーツァルトでも、日本語の歌詞が付いたJ-POPとは比べものにならないくらい、覚えるのは大変だ。

 さて、そんなモーツアルトの音楽が、200年以上も前に生まれたにもかかわらず、いまだに多くの人に聴かれ、楽しまれているというのは驚嘆に値する。
 人類の歴史から考えると、クラシックの歴史は思うより遙かに短い。しかも、20世紀を10年〜20年くらい過ぎると、それから先は余りよく分からない音楽が続くので、実質200年間の音楽に近いとも言える。
 もちろん、ルネサンスとかまで広げる事は可能だが、それでもせいぜい300年だ。

 ただ、200年とはいえ、その200年を朽ちることなく、人々に感動を与え、聞き続けられているというのは、そこに何かがあるからに違いない。
 最近の音楽が朽ちていくというのではない。ただ実際問題、最近の音楽の寿命はそれほど長くないものが多いだろう。それはある意味、ポピュラーの持つ宿命のようなものかも知れない。ビートルズだって、100年後にどれほど聴かれているかは疑問だ。
 
 もちろん、どちらが優れているかということではなく、単純に、それだけの長きにわたり聴かれ続けている同じ音楽ということの凄さを言いたいだけだ。
 ジョン・レノンの曲は、個人的にはどこがいいのかよく分からないが、ジョンが歌ってこそのあの気の抜けた感が、多くの人に感銘を与える原動力のような気がする。他の人が歌っても、いい曲はいい曲だが、何かが違うと言われるのではないか。
 ところがモーツァルトなどは、これまでの歴史の中で、数えきれぬほどの演奏者が、同じ曲を演奏してきたのだ。そしてその都度、その演奏に賛否が唱えられ、いいに付け悪いに付け評価され、現代に到っている。

 そもそも同じ音楽だが別のものなのだ。ジョン・レノンで言えば、スタジオ録音とライヴ、どこどこでのライヴと、何とか音楽祭のライヴでは違う、ある意味それと似ている。

 ただモーツァルトの凄さとは、多くの作曲家、そして演奏家が、年を降るにつれ回帰し、その深みにはまっていく音楽であるという点だ。それは、ベートーヴェンも、ブラームスも、ワーグナーも、マーラーもあるいはバッハでさえ、持たぬ何かなのだ。
 ハイドンの曲は、時折モーツァルトと似た響きをする。しかし、ハイドンは、モーツァルトが持つ、ある意味神々しさのようなものは持たない。実は私もモーツァルトのそういう側面はまだよく分からない。

 でも、飽きない曲という側面をモーツアルトの曲は持っていて、これは単純に、心地いいとか、聴きやすいというのとは別のような気がする。
 何より生誕250年、若くして亡くなった作曲家だが、今も尚、この時代にその音楽が生きている。すごいことではないか。

投稿者 keisuke : 音楽 | 01:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年1月20日

チョン・ミョンフン

 ニュー・イヤー・オペラコンサートの指揮をしているのが韓国出身の世界的な指揮者、チョン・ミョンフン(鄭明勳)だが、最近、CMでも何かやっていた気がする。
 その折りに、「あれっ?」と思った。
 私の記憶の中では「チョン・ミュンフン」だったからだ。・・・情報が古いってことだが、英語表記は「Chung Myung-Whun」となる。
 よく見ると、最初のChungをちょんと発音するのなら、Myungは確かにミョンが正しいように思える。逆にミュンフンなら、チュン・ミュンフンだろう。

 しかしかつては間違いなくチョン・ミュンフンだったし、CDなどはその表記になっていた。

 かつてELOの話のときに、「Evil Woman」という曲が、かつて「エビル・ウーマン」と表記されていたという話を書いた。今調べてみると「イーヴィル・ウーマン」となっている。しぶといと言おうか・・・
 Evilの発音記号は[ i:vl ](正しくは表記できないが)が普通で、日本語で表すなら「イーブル」が最も近い。最後のLは聞こえなくてもあるみたいな発音だ。何より、歌を聴けばそう歌っている。「Evil」に関して言えば、サンタナも「エビル・ウエイズ」という曲があったが、こちらは聴いてもよく分からないので(英語で歌っているが、歌詞に出てこないような感じ)多少仕方がないと思われる。

 かつてレナード・バーンスタインはバーンステインという表記だった。さすがにこれだけの国際社会になって、相変わらず「イーヴィル・ウーマン」はどうにかしてくれという感じもするが、チョン・ミョンフンの場合はどうなのだろう?
 私はミョンフンとミュンフンの間ぐらいの音なのかな、とも想像するのだが、わざわざ変えたと言うことはやはりミュンフンでは間違っていたのだろうな、どうやら変わったのは最近のことのようだし。

 チョン・キョンファのベルクは愛聴盤なのだが、ところで、弟のミュンファはミョンファではないのかな?

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:53 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年12月11日

ラ・ボエーム

 先日、知り合いの出ているオペラを観に行った。
 演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」。若い人たちがやるには最適の演目の一つだ。・・・登場人物がほとんど若者だという理由ばかりではなく、非常に魅力的なメロディーに溢れているし、長すぎず聴きやすい。
 二期会という日本のオペラ界では中心的な団体で学ぶ人たちによる演奏だったので、期待しつつ、それでもエレクトーン伴奏だと聞いていたので、ピアノよりはいいのだろうけど、やはりオケではないから、オペラとしてはちょっと寂しいかな、等という思いを持ちながら、会場に向かった。
 場所は滝野川会館という北区の区の施設だ。500人くらいは入るホールだった。

 開演後まず驚いたのは、エレクトーンという楽器の凄さだ。十分にオケの代わりが務まるほどの音がするのだ。もちろん本物ではないから、細かいことを言えば違うのだろうし、時折電子楽器の音は確かにするのだが、弦も管も打楽器だって、その楽器の音でするし、たった2台のエレクトーンが、2管か3管か知らないが、フルオーケストラの音を鳴らすのだ。それだけでも予想を覆された。
 キャストは
 ミミ:高橋史惠 ロドルフォ:西村悟 ムゼッタ:吉田聡美 マルチェッロ:内田雅人 (初日)
 ミミ:江熊千恵 ロドルフォ:加藤康之 ムゼッタ:中川美和 マルチェッロ:榛葉樹人 (二日目)
 ショナール:千葉裕一 コッリーネ:金子宏 他
 という布陣で、指揮と演出は 細岡雅哉 ということだった。

 ボエームというオペラは、非常に甘いメロディーに溢れているし、中心となるのはミミとロドルフォの悲しい恋の物語と、他の登場人物との友情が19世紀頃のパリを舞台に描かれている。
 オペラの常で、ストーリーはたわいないし、かなりドラマツルギーに支配されたこてこての作品である。尤も、これはいい意味でであって、非常に直接的な「ドラマ」だ。全体がどうあれ、最後のミミが死ぬシーンが素晴らしいと、それだけで感動できる。
 プッチーニが書いたメロディーは、その死の場面のオケとロドルフォの絞り出すような「ミミー」という歌に向かって、全てが収斂していくのだ。そのためのオペラと行って過言ではない。
 4楽章のこのオペラは、構成的には交響曲的で、序奏とソナタの第1楽章、続いてスケルツォ楽章が来て、その後に緩徐楽章、最後にフィナーレという風に、非常に聴きやすい。
 ロドルフォとミミの恋愛という大きなテーマに、スケルツォで色を添えるムゼッタと、そのムゼッタが完全に浮いてしまわないように、常に脇を固めるマルチェッロという構成が、尚更交響曲っぽい。
 
 書く楽章に聞き所があり、一つはロドルフォとミミのそれぞれのアリアと二重唱、ムゼッタのワルツとも言われる2幕のムゼッタの破天荒なシーン、そしてラストシーンと、飽きさせない。
 私はそれほど会場でオペラを観た経験があるわけでもないし、これまではどちらかというとオーケストラ曲を中心に聴いてきた。もちろんその中には、最初から聴いているマーラーがあったおかげで、声楽に対するアレルギーみたいなものはなかったし(いや、マーラーを聴くまでは確かにあったが)、自分なりのクラシック音楽に対する対し方がある。

 今、「大いなる聴衆」というミステリを読んでいるのだが、これについては後日書くことにするが、この中には、私などがクラシックを嫌いになりそうなご託が、さんざん、特にクラシックサイドの演奏家等の口を借りて沢山出てくるのだが、私は非常に単純に、その演奏会に満足できたかどうかが指標になると思っている。
「聴く耳」というのは、不幸にして聴覚を失っている人たち以外は、誰でも持っている。つまりは、クラシックなど嫌いだという人にとたちは、聴く耳を持たないのではなく、どのような曲も彼らの耳を満足させ得ないのだと解釈すべきだ、と思っている。
 そういう意味では、コンサートに臨む場合、そこに好きな歌手や知り合いが出ているか、日頃から好きな曲かどうかということも、影響するのだ。
 そうはいっても、長く聴いていると、当然好みはあるし、この曲はこう演奏するのがいい等という、聴く側の自己主張も出てきたりする。また、一般的に言って、名演といわれているものは、より多くの聴衆を魅了するし、満足させる。

 そういう意味では、オペラシティや文化会館、サントリーホールなどで掛かる作品は、オペラであれ、何であれ、それなりのレベルと満足を聴衆に約束すべき義務を背負っている。
 もちろんだからと言って、今回のペラがそういう義務を背負っていないと言うつもりは毛頭無い。むしろ、これからプロの舞台を目指していく若手の演奏会だけあって、1回1回の演奏は、いつでも真剣であると思う。上演までは、数々の苦労を乗り越え、胃の痛む思いもしたことだろうと思う。

 しかし上演からはそのような苦労はみじんも感じられなかったし、皆のびのびやっていた。
 演出もしっかりしていて、きっとオーソドックスなのだと思うが、非常に感動的に、メリハリの利いた演奏を聴かせてくれた。彼らはやはり皆プロなのだな、と思わせてくれた。
 La gemma della musicaと名乗る4人の女性陣は、皆それぞれ、自分の個性で役を演じ、高橋さんは、ちょっと孤高な感じさえするミミを、きれいな歌声で歌い、吉田さんは、ちょっと上品なムゼッタを演じ、江熊さんは、どちらかというと癒し系のミミ、そして中川さんは吉田さんとは対照的な、派手で強気な、そのくせ根は優しいムゼッタを演じていた。
 個人的には二日目の方がコントラストがはっきりしていたので、オペラの流れから言えば、いいのかも知れないと思う。
 しかし彼ら自身が言うように、la gemmaという言葉が意味する「発芽」とか「宝石」という意味があるのであれば、まさにこれからが彼らの活躍する場なのだと思う。これからの4人と、その他の、既に活躍しているキャスト達、そして合唱の人たちもこれからの活躍に期待したい。

 恐らく、荒削りなところもたくさんあったに違いないが、少なくともここに、コンサートを楽しみ、満足していた聴衆がいることを知らせたい意味もあって、書かせてもらった。 

投稿者 keisuke : 音楽 | 17:26 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年8月31日

モーツァルト

 先日テレビで、モーツァルトの音楽が病気を治すというのをやっていた。高周波というのが非常に多いのだという。どこかの大学の先生が研究しており、そういうゼミのようなものもあるようだった。

 クラシックの中で、なぜかモーツァルトというのはよく特別視される。わずか35歳でなくなりながら、後世にこれだけの音楽を残し、伝えられ、さらに評価されているのだから、確かに天才ではある。しかも交響曲からピアノ曲、オペラなど、クラシックの音楽のほとんど全てのジャンルを網羅している。ケッヘルが付けた番号は626まである。5歳から作曲していることを考えれば、年平均20曲以上を書いているわけだ。
 ポップスを年間20曲作るわけではなく、その中には20曲ほどのオペラも含んでいる。1曲でCD2枚組3枚組の量があるのだ。現代のような録音技術があるわけでもないから、紙の譜面に書いていく。大変だ。・・・まあでも、バッハなんていうとんでもない多作家もいるわけだから、それに比べれば、それほどでもないのかも知れない。

 ともかく、モーツァルトの音楽は病気を治すらしい。なかにし礼が、おまけのように言っていたのは、やはりおまけのように感じるが、確かにモーツァルトの曲というのは特徴的で、ハイドンなどはかなり似た感じもあるが、ちょっとお堅い。
 モーツァルトなりクラシックが「癒し」とか言われても、非常に怪しく、もちろん癒される人もいようが、いらいらする人だってきっといないわけではない。アダージョとかラルゴとか、遅い音楽が「癒し」と結びつくのは、例えば「バラード」と言って静かで遅いポップスがやはり癒しを標榜するのと同じく、人の心に安寧を与える可能性が高いと言うことも言えるが、あくまでヒット率が高いと言うだけだ。
 昔からよく私が言っているのは、取り敢えず好きな音楽は静かであろうとうるさかろうと、こころをリラックスさせてくれる。高揚感とリラックスは対になるようなことではなく、集中してその世界に入り込めているときは、リラックスしているものだと思う。

 ただ「高周波」とか、直接人間の脳に影響を与えそうな言葉が出ていると、病気が治るかどうかは別として、直接的に肉体に働きかけているような気はする。薬を飲まずに、音を聞いているだけで病気が治るものなら、何となく健康的なので、どんどん研究して欲しいし、そういう効果があるのならうれしいことだ。
 手の平をかざして病気が治る、呪文を唱えて病気が治る、いずれにしても、そういうことが可能なら、薬を飲んだり、メスを入れたりするよりは遥にいいわけで、モーツァルトもその部類だ。個人的には、モーツァルト以外でも発掘して欲しい気はするが。

 マーラーの今際の言葉は「モーツァルト」だったという。そうか、「薬をくれ!」と言っていたのかもな。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:14 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年8月17日

パリス

 無性にパリスが聴きたい。特にそのセカンドアルバムが。
 と言ったところで、多くの人がパリスなるバンドを知らないと思う。インターネットで検索しても「パリス」というバンドはほとんど出てこない。
 フリートウッド・マックと言えば、結構多くの人が懐かしく思い出すに違いない。
 ミック・フリートウッド、ピーター・グリーン、リンジー・バッキンガムなどが板が、その中にロバート(ボブ)・ウエルチという人がいた。後にソロで、「フレンチ・キス」というアルバムをヒットさせたが、彼が、マックをやめて作ったのがパリスというバンドだ。
 ファーストアルバムは「Bigtown2061」だったかな?そんなタイトルのアルバムで、レッド・ツェッペリンの真似っこみないな事も言われた。確かに中に「Black Book」なんていう曲があって、「Black Dog」みたいだったような記憶もある。
 ところがセカンドアルバムは、うってかわってポップな仕上がりで、私はこれが大好きだった。特に、「青ざめた馬乗り(Pale Horse Pale Rider)」という曲が好きだった。当時はハード・ロックと言われていたようだが、どう聞いても普通のポップスだった。軽快だったし。

 レコードがCDに変わり、古いレコードのほとんどを処分したときに、そのアルバムも売ってしまった。どうせCDで買い直すと思っていたからだ。
 ところが、今に至るまで、1回もCD化されていないのだ。ファーストは何回かCDになって、確かCDの棚のどこかにあるはずだ。ところがセカンドは、一向に出ないどころか、海外のショップで探しても見あたらない。ごく希に、国内で手に入らないものは海外から買ったこともあるが、出ていないものはどうしようもない。
 発売元は東芝EMIでレーベルはクリサリスだったと記憶している。レコード売らなければ良かったな。
 
 実はレコード売らなければ良かったのにもう一枚ある。ただこちらは、タイトルもアーティストもうろ覚えで、検索が出来ない。
 逆にレコードを売らなかったおかげで聴けたのは(サンプル盤だったからと言うのがあるが)、バンド名は忘れたが、サザンロックのグループだ。レーナードスキナードばりのギターで、もっとハードだった。でもまあ、アメリカで探すとこんなバンドは腐るほど、当時はいたに違いないが。

 いずれにしても、ああ、パリス聴きたい。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:09 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年6月 2日

フィデリオ

 新宿の新国立劇場でやっているベートーヴェンの「フィデリオ」を観てきた。
 指揮はミヒャエル・ボーダーに東フィル、タイトルロールにガブリエーレ・フォンタナ、夫のフロレスタンにトーマス・モーザー、監獄所長ピツアロにペテリス・エグリーティス、監獄の番人ロッコにハンス・チャマー、その娘マルツェリーネに水嶋育、大臣ドン・フェルナンドに河野克典他、という配役だった。
 そもそもベートーヴェンのオペラというだけで珍しいが、なかなか演奏される機会は少ない。ところが昨年サイモン・ラトルが来日して上演しているし、実は意外によくやるのか?と思わせたり。
 実は私は新国立劇場デビューで、初めてにしては当日券で端っこの端っこで観たのだが、やはりオペラはかぶりつきがいい。歌手の表情まで肉眼で見える位置で見るのが面白い。さすが奥の上の方ではいいものもよく見えないかも知れないと思った。最初から観るつもりであれば、CDも持っているので、久々なので予め聴いておけば良かったと思ったが、なんのなんの、ベートーヴェン節炸裂なのでそれほど気にする必要もなかった。
 そもそもこのオペラは男装したレオノーレがフィデリオと名乗っているから「フィデリオ」なのだが、ベートーヴェンにはこのオペラように書かれた「レオノーレ序曲」が別に存在する。しかも複数あったりするわけだ。なんだかややこしい。冒頭から交響曲のような序曲で始まる辺りがモーツァルトなどとは根本的に違うが、だが、その重々しさが全体を支配しているので違和感はない。
 歌手はトーマス・モーザーしか知らないが、フロレスタンは第2幕にしか出てこないので、ちょっと事情もあり、あまりまともに聴いていなかった。モーザーは手元にはマーラーの「大地の歌」を、カツァリスのピアノ伴奏で歌ったCDが1枚あるが、探せば他にもあるかも知れない。大御所だ。もっとちゃんと聴けば良かった。
 第1幕ではマルツェリーネが最初に歌うアリアがなかなか良かった。水嶋さんは遠くて顔は判らなかったが、出だしからふくらみのある声で堪能できた。前半は門番のヤキーノがテノールだが、中心になるロッコとピツァロがどちらもバスなので、このことも暗さを助長している。まあ、暗いオペラなのでそれでもいいのかも知れないが、なんだかメリハリが・・・
 最後しか出てこないがフェルナンド役の河野さんも力強くて良かった。

 尤も、オペラ全体はどうも今ひとつの感がぬぐえない。ベートーヴェンがこれ1曲しか書かなかった理由が分かるような気もする。オケがうるさい。昔大学の先輩が、ベートーヴェンは耳が聞こえなくなったので大音響の曲を書いたということを言っていたが、若干頷けてしまった(くれぐれも、差別的な意味はない)。金管がかなり炸裂していた。
 多くのオペラが、終わりどころというのがあまり上手くないという風に思っているが、この曲もそうだ。曲の長さのバランスなのか、何度もここで終わりかと思った。CDではそんな記憶はなかったのだが、もう大分前だからな、聴いたの。マーラーの交響曲第3番が、いいかげんにしろよ!と言いたくなるような終わりなのだが、ストーリーが絡むと、非常に難しい。私など、レオノーレが夫を助けた時点で全曲を終わらせてもいいような気がするが、まあ、ベートーヴェンの時代はそういう時代ではなかったのだろう。

 まあただ、生でオペラにしてもオーケストラにしても聴くのは、CDやDVDと違って独特の雰囲気があり、概ね楽しめる。もうちょっと価格が安ければいいなあ、といつも思うのだが、演奏者のことを考えるとやむを得ないな。特に日本では、安くしたから観客が動員できるとは思えないし。それにしても新国立劇場は雨にも濡れないで行けるというのは、日本のこういう劇場の中では一番いいな。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:52 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月28日

オペラとミュージカル

 ミュージカルというのは舞台や映画で歌を中心として物語が構成されているような作品群のことだが、アメリカで生まれたこの芸術は、私の認識では、リートとポピュラーミュージックの関係をオペラに置き換えたものかな、というような気がしている。もっと単純に言えば、発声の違いかな。
 この発声の違いをもっと砕くと、素人でも歌いやすいといえばいいかも知れない。当然他にも違いはあるが、「ポーギーとベス」のように、オペラでもありミュージカルでも通用するような曲もあるので、境界線は非常に曖昧だという気がする。宝塚歌劇団は「歌劇団」だが、演じるのは恐らくミュージカルで、女声でも地声で歌っている。オペラの女性歌手の多くは、いわゆる地声では歌っていないので、その点は大きな違いだろう。メゾソプラノだって宝塚の男役のような声は出さない。
 私はオペラの中で何が一番好きだという程聴いたことがないので、何だろうな?と思うが、これまでの人生の中で最も多く聴いているのは多分ワーグナーの「ラインの黄金」だろう。何度かリングを聴き通すぞという気持ちでトライして途中で挫折するから、一番多く聴くことになる。後は、レオンカヴァッロの「道化師」マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、マスネ「シンデレラ」、ビゼー「カルメン」、等は複数回聴いている。あ、「バラの騎士」もかな。モーツァルトやヴェルディ、プッチーニがないのがすごいな。部分的にはいろいろ聴いているが、通して聴いたことがない。尤も、交響曲であろうと、組曲であろうと、部分的に聴いて満足するのは私の特技なので、オペラも同じことだ。ストーリーを追うような聴き方が苦手なのだ。時間がかかるし。・・・・「椿姫」は何回か聴いたかな。ヴェルディ、あったな。
 ミュージカルは、ハリウッドの往年の映画の中で何回も観ている物もあるが、一番好きなのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」だ。舞台では見たことが無く、映画とレコードだけだが。大好きだ。実は私はミュージカルの舞台というのを観たことがない。「レ・ミゼラブル」など観たいと思うが、何しろ小説の中でも私にとってはとりわけ愛着のある作品で、しかも希代のエンターテインメント小説という見方をしているので、どう考えても不満がぼろぼろ出てきそうだ。むしろそういう思い入れのない作品を観た方がいいかもしれない。

 さて、「ポーギーとベス」ではなくとも、オペラとミュージカルは、似たような世界だと思う。ゼッフィレッリなど、オペラを映画化している人もいるが、オペラと映画の境界線以上にオペラとミュージカルの境界線は大してないように思える。ミュージカルでオペラを取り上げないのはそこにはテクニック的な問題があることは想像が付くが、なぜクラシック業界はミュージカル作品を上演しないのだろう?
 かつてロックとオペラの融合なんていうのがあった。確かザ・フーの「トミー」などはロック・オペラなんて言われていはしなかったか?エルトン・ジョンの「ピンボールの魔術師」なんてただのポップスだが、いい曲だ。映画としても結構面白かった。もちろん、ミュージカルはクラシックよりもポップスよりなので、ミュージカルをロックにする方が簡単ではある。「ジーザス・クライスト・スーパースター」なんて、まさにロック・ミュージカルだし。
 だが、同じ曲をクラシックの発声を勉強した人たちが、そのテクニックで演奏したらどうなるのだろうか?と思う。私は観たことがないが、「ファントム・オブ・ジ・オペラ」なんて、タイトルがまさに「オペラ」だ。

「マイ・フェア・レディ」や、「雨に唄えば」なんて、楽しいオペラ作品になりそうな気がするが。
 

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:46 | コメント (2) | トラックバック (0)

2005年5月21日

楽典

 楽典の本を買った。
 そもそも楽典は私に音楽の授業を嫌いにならせる最も大きな要因となったものであるが、今更にそれの本を買った。今読んでも、なぜ音楽が嫌いになったのか解るような気がする。私には数学以上に難解だ。
 クラシック音楽をちゃんと聴くようになったのは大学1年の時なので、それから30年近く、聴くだけなら楽典などは必要がないことは十分に証明されている。今もこれを書きながら、かかっているのはハイドンの交響曲だが、美しく耳に響いており、ある意味、それ以上は必要ではない。
 しかし、ふと思うと、譜面を見てもっと解ったら楽しいとか、現代音楽も別の角度から楽しみたいとか、なぜ演奏者によってこれだけ解釈が変わるのかとか、そういうことを少しでも知りたいと思い、取り敢えず簡単そうなやつを買ってみた。
 五線譜から始まっている。
 さすがに五線譜のハ長調くらいは解る。だが、楽器をやらないので、楽譜を見ても音が解らない。これは楽器をやっているかどうかだけが問題ではないらしいが、スコアもできれば読めるようになれば面白いはずだ。
 内にはマーラーの楽譜が何冊かあるが、これはもう20年以上前に購入したものだ。最近では手に取ることもない。
 ほとんど義務教育以上の音楽を学んでこなかったし(確かに高校でも少し学びはしたが)、独学もこれまでしてこなかった。五十の手習いとか六十の手習いという言葉があるが、それよりは早いが、少し音楽の勉強を始めたいなと、最近思っている。但し人からものを学ぶのが非常に苦手なため、基本的には独学ということになる。もちろん、学校などに行かなくても良ければ、多分教わることも可能なはずだ。とにかく学校で学ぶことが嫌いらしいので。

 楽典の典という字は掟とかしきたりという意味があるようだ。楽典は英語ではmusical grammarで、音楽の文法ということになるのだろう。言葉も文法を覚えれば、理解はし易くなる。知らなくても会話はできるかも知れないが。音楽も同じことだ。決まりを知らなくても歌は歌えるし、努力すれば楽器も弾けるようになるだろう。だが、知っていた方がよりよい。

 取り敢えず目標は「作曲ができるまで」だ。先は長い。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月30日

ディーリアス

 今読んでいる小説に、時折ディーリアスが出てくる。翻訳ではデリウスとなっているが、明らかにディーリアスだ。この登場人物はイギリス人なので、ディーリアスは自国の作曲家ということになる。
 イギリスの音楽というと、パーセル以降目立った人がいない。ヘンデルはドイツ人だが、イギリスで活躍していたのイギリスの音楽といってもいいかもしれないが、それ以降、なぜか目立った作曲家は、ホルストやエルガーなどの比較的近代の作曲家しか知られていないような気がする。ディーリアスもその一人だ。
「惑星」のせいで、ホルストは非常によく知られているし、エルガーも「威風堂々」で知られていることを思うと、ディーリアスは非常に地味だ。その音楽も全体的に地味で、言ってみれば、「カラヤンのアダージョ」ではないが、非常に静かな音楽が多い。・・・多いというか、何を聴いてもそんな感じだ。
 一番有名(と私は思っているのだが)な曲はオペラの「村のロメオとジュリエット」だと思うが、これなど全体を通して、夢見るような音楽で、激したところが全くない。かなりドビュッシー当たりから影響を受けているようだ。ドビュッシーと同い年で、フランスで死ぬまで過ごしているの、さもありなんというところだが、しかし、印象派とかドビュッシーと同じかというとそうでもない。もっとロマンチックで、絵画的だがより写実的な雰囲気があると思う。おおらかという表現があたっているように思う。
 尤も、ディーリアスを全部聴いたわけでもないし、どちらかというと数少ない経験の中での印象だ。部分部分は、ドビュッシーぽいように聞こえても、その後牧歌的なフレーズが流れてくる辺りが、あたかもマーラーの第3交響曲の終楽章のようだったりもする。
 CDになっている曲のほとんどが、美しくてゆったりとした曲なのだが、例えばアルビノーニのアダージョとか、パッヘルベルのカノンのようにキャッチーなメロディーライン中心ではなく、一見キャッチーなメロディーをズオーっと引き延ばしたようなイメージがある。
 ただ絶対、クラシックを「アダージョ」なら聴けると思っている人、眠りの前の子守歌にいいと思っている人は是非聴くといいと思うのだが。とにかく美しい。
 先に書いた「村のロメオとジュリエット」は持っているが、他のオペラを聴いたことがないので聴いてみたい気がするのだが、何となく全部似ている予感が・・・・

 あ、ヴォーン・ウイリアムスがいた。イギリス人に怒られちゃうな・・・・でもメジャーって訳じゃないよな。

続きを読む "ディーリアス"

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:48 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月22日

URIAH HEEP

 URIAH HEEPは、イギリスのロックバンドだ。ミック・ボックス、デヴィッド・バイロンの在籍したSPICEというバンドにケン・ヘンズレーが加入した後、ファースト・アルバムを発表する。「VERY 'EAVY, VERY 'UMBLE」がデビューアルバムだ。1970年のことだ。
 ヒープはプログレッシブなカラーを持ったハードロックバンドだと思う。それは、ケン・ヘンズレーのオルガンが醸し出す音色にも原因があるし、彼の書く曲にも原因はある。
 初期の頃はディープ・パープル的な楽曲も多い。バイロンはロック歌手だが、きちんとしたボイス・トレーニングを受けてたらしく、いい歌を歌う。ただ個人的にはその後のジョン・ロートンの方が好みだが。
 
 ヒープのアルバムで最も有名なのはなんと言っても「対自核(Look at Youraself)」だろう。初期の代表曲、「7月の朝(July Morning)」が入っているからと言うこともある。だが、その前に出したアルバム「ソールズベリー(Salisbury)」のタイトル曲が私は非常に好きだ。16分に及びホーン・セクションなどが入った意欲的な作品で、こてこてのミック・ボックスのギターソロが聴ける。16分というと、昨今の4分前後の音楽が当たり前になっている人たちには、なんて長い曲だと思えるかも知れないが、当時はLPの片面に1曲などと言うことも珍しくなかったし、クラシックで言えば、決して長すぎる曲とも言えない。むしろ、メディアに乗せるためにソナタ形式よろしく、時間的にも構成的にも、お行儀いい最近の楽曲の方がなんだか寂しいような気がする。
 以前、カラオケで「私は風」を歌ったことがあるが、この曲は10分近い曲で、ギターソロだけでも数十秒ある。カラオケで歌うとその部分がかなり顰蹙ものだ。こういう世相の中では、16分の楽曲というのはあまり生まれてこないし、あってもメジャーにはなりづらい。
 ディープ・パープルがそうであったように、ユーライア・ヒープも大曲主義は徐々に影を薄れさせ、しかもどんどんポップになっていった。73年のライブが大きな転換点のような気がする。その前の「悪魔と魔法使い(Demons And Wizards)」「魔の饗宴(The Magician's Birthday)」の時が、そのジャケットの美しさとともにピークだったと思う。特に前者に入っている「安息の日々(Easy Linin')」はヒープの中でも1,2を争う名曲だ。先ほど書いた「ソールズベリー」と比較すると圧倒的に短い、約2分半の曲だ。
 ゲイリー・ゼインの感電事故やドラッグによる死などをはさみ、ヴォーカリストデヴィッド・バイロンが抜け、一時期ジョン・ウエットンが加入したりして1976年にジョン・ロートンが加入する。
 この人は非常にハードロック向きのヴォーカルで、バイロンの好きな人には恐らく人気はないのではないかと思う。ハイトーンで、非常に伸びやかな声をしているのだが、ライブなどを聴くと、実はバイロンよりも声域は狭いだろうと思わせる。彼の加入したヒープは「Firefly」「Innocent Victim」「Fallen Angel」という3枚のアルバムを出す。
「Firefly」の中の「哀れみの涙 (Sympathy)」 「Innocent Victim」の中の「幻想(Illusion)」「チョイス(Choices)」は、今でも大好きな曲だ。「Fallen Angel」は全体的に非常にポップで、「ラヴ・オア・ナッシング(Love Or Nothing)」が最も好きだが、微妙に平均値のアルバムという気がする。ファンじゃなければ聴こうと思わないが、意外といいアルバム、みたいな。

 この後も着実にアルバムを出し続けるが、1980年に最も多く楽曲を手がけてきたキーボードのケン・ヘンズレーが抜けてしまう。個人的にはヒープはケンのバンドだと思っていたが、あっけなく脱退してしまう。この時点で、オリジナルメンバーはギターのミック・ボックスだけになってしまうのだが、西暦が2000年を超えてもアルバムを出し続けてきた。2003年に「ソニック・オリガミ(Sonic Origami」を出して以来は音沙汰がないが、やはりヒープはヒープ、ミック・ボックスだけになっても(ドラマーは、割と初期から参加しているリー・カースレイクだが)、ヒープの音を響かせてくれている。すごいことだ。

 私は、全てのアルバムを持っているわけではないが、20枚くらいは所有している。
 私にとってユーライア・ヒープはいぶし銀のハードロックで、めちゃくちゃ輝いているわけではないが、時折じっくり聴きたくなる音楽だ。ピーター・ゴルビーという最近のヴォーカリストはあまり好きではないが、それでも全体としてはいい味を出している。

 俺の一番好きなのはユーライア・ヒープだと言うことは今までも、そしてこれからも絶対にないが、新しいアルバムが出れば買い続けるし、旧いアルバムも時折聴く、そういうバンドなのだ。

このサイトがヒープに関しては圧倒的にすごい。ここまでやってくれるとまさに脱帽だ。私の知らないアルバムも(特にライブ)何枚も掲載しているし、ジョン・ロートンのバンドについても載っている。いやいや・・・また無駄な金を・・・・いかんな。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:27 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月 5日

現代音楽-1

 ずいぶん昔に買った現代音楽の本を読んでいる。
 現代音楽は英語で言えばModern MusicまたはContemporary Musicと言うことになるだろうが、いわゆる日本で言うところの現代音楽というのはクラシックのジャンルに概ね限定されているので、Contemporaryという場合の音楽とは全くニュアンスが違う。どちらかと言えば、芸術音楽の中のModernというニュアンスかも知れない。
 この本ではポスト・マーラーという部分から入っているし、それは非常にオーソドックスな入り方だと思う。
 音楽に限らず、物事を論じる場合には、論じる対象やそれに関連した事象に関しての定義が、ある程度しっかりしていないといけない。そういう意味では、現代音楽というものを論じることの難しさは、現代とか音楽という言葉に曖昧さが残ることである。
 調性のあるなしとか、そういう機械的な区切りができるならともかく、ポップスとクラシックの境界線などというのは、時代が現代でなければ、多くのクラシックだって、ポップスたり得たのではないか。それは、現代のポップスが、クラシックと通常呼ばれる作品群の延長には無い(あるいは無いように見える)としてもだ。
 
 まあその辺りのクラシックとポップスの違いなどは、厳密に言ったところでそれほど意義のあることでもないし、曖昧さは常に残るので置いておく。

 さてそのクラシック音楽の延長としての現代音楽、すなわち、ポスト・マーラーであれ、19世紀のいわば後期ロマン派以降の音楽というのは、実は小中学校では全く教えてくれない。あるいは教えてくれたのかも知れないが、私は全く知らない。そもそもポスト・マーラーのマの字もなかったはずだ。
 マーラーの同時代人である中で、R.シュトラウスなどは20世紀に入って重要なオペラをたくさん書いているが、ポストの中には入っていない。どちらかというとワーグナーの後継者的で、行ってみれば後期ロマン派と言うことなのだろう。
 ある意味、シュトラウスの「メタモルフォーゼン」は、シェーンベルクの「浄夜」に似た響きを持っていて、シュトラウスはこれを1940年代に書き、シェーンベルクは19世紀に書いている。そして無調に入る前のシェーンベルクのこの音楽はまだ後期ロマン派の枠の中にいるというのも頷ける。
 マーラーに限らず、シュトラウスやヴォルフなどにも無調に移行しそうなあやふやな部分があるが、完全に調性を捨て、さらにそこから12音技法へと入っていくシェーンベルクの勇気はそこにはない。

 私は音楽家ではないし、まともに音楽教育を受けているわけでもない(高校までは音楽を専攻していたが、教える側の一生懸命さほど学んでいない)。クラシックを聴くようになったのは学生時代で、なぜかマーラーから入ったので(別の機会に書いたとおり)、現代音楽に入っていくのは全く辛くなかった。
 もちろん現代音楽の前に近代音楽なんていう言い方もあって、これは20世紀前半の音楽を指していたりするのかも知れないが、例えばストラヴィンスキーとか、バルトークとか、ドビュッシーとか、何となく、新ウィーン学派の行き方とは違う形で20世紀を迎えた作曲家を指しているようにも思える。何となくだが、音楽が調性を失って、12音、セリー、電子音楽、偶然性の音楽など、極めて実験的で論理的な分野に踏み込んでいくことで、現代音楽というレッテルを貼っているように思えさえもする。

 今回面白いと思ったのは、音楽がどんどん音を微分化して行った過程だ。いわゆる調性音楽は基底となるドの音から7つの音を、人間の耳がきれいに思える周波数で段階的に上がっていくことで、一つのグループを作っている。ドレミファソラシだ。これが不思議に一定の周波数差ではないから、時折半音だけだったりする。そしてこの半音しか違わない音があることから、全てを半分にして、半音ごとに上げていくと音は12になる。
 シェーンベルクが12音技法に与えた命題は、この半音階ずつの12の音を公平に使用し、それを組み合わせるという、ほとんどパズルの技術で音楽を作るという、直感だけでは音楽を形成できないような仕組みだった。だが、シェーンベルクをしても、例えばドとレの間を全音とするなら、半音階を公平に扱うという方法で行ったわけで、四分音とかはその理論の中で考慮されていない。半音があるなら四分音もあるし八分音もある・・・・という風に考えていくのは、行ってみれば円周率を求めるときに、限りなく細かく分割した長方形の対角線を作っていくようなもので、それは微分音となる。細かい四角の連なりが円に見えてくるのと同様、微分音は一つの線となり、トーンクラスターなどを生み出すことになる。トーンクラスター、つまり微分された全ての音が鳴れば、音程などというものは最早意味が無くなる。という理屈だろう。

 今回その本を読んでいて、これまでペンデレツキなどを好んで聴いていたのだが、そこに出てくるべったり塗られた楽譜のトーンクラスターが、しっかりした音楽の歴史の中で必然的に生まれてきたと言うことが、理路整然と解ったことに感動した。まだまだ本はせいぜい5分の1ほどしか読んでいないので、これからが楽しみなのだが、ああ音楽も奥深い、と思えた瞬間だったのだ。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (1)

2005年3月29日

JAZZ

 JAZZに関しては、私はあまり強くない。一時期そこそこ聴いていたが、JAZZファンから言わせれば、きっとききかじり程度のことだろう。

 一番古いJazzアーティストとしての認識は、JAZZじゃないと言われるかも知れないが、アル・ディ・メオラだった。多分学生時代のことだ。自分でもジェフ・ベックの流れという感じだし、当時で言えばクロスオーバー、今でいうフュージョンというのがしっくり来る内容だ。ディ・メオラは今でも好きだし、当時のやたら速いフレーズばかりでなく、それ以降の落ち着いたのも好きだ。
 モダン・ジャズを聴き始めたのは20代の半ば、レコード店に勤めていた折、当時の店長からいろいろ教わった。今でも聴くのはソニー・ロリンズ、ジャッキー・マクレーン、マット・デニス等、当時聴いていたアーティストが多い。その中で、これもその店長から教わったのだが、アルフィーという映画のテーマをソニー・ロリンズが演奏していたものと、コールマン・ホーキンスの「ジェリコの戦い」という曲、そして、マット・デニスの「エンジェル・アイズ」は今でもよく聴いている。どちらかというと、かなり演歌的というか、「クール・ストラッティン」や「クレオパトラの夢」なんかもそうだが、べたべたな感じかも知れない。
「ジェリコの戦い」は元々黒人霊歌だが、最初に聴いたのはバーバラ・ヘンドリックスというソプラノの名歌手が出した『黒人霊歌集」というアルバムだった。この曲が好きで、コールマン・ホーキンスという名前も知らなかったがCDを買った。そしたらけっこう良かった。この2つの演奏は大分違うし、そもそもメロディー自体が微妙に違う。それでも同じ曲だし、どちらにも魅力を感じる。

 クラシックで、メロディーが違うが同じ曲というのは余り無いだろうが、ジャズでは元々インプロヴィゼーションがその根底にあるので、即興というより、リアルタイム変奏みたいな表現で言い表せるような味が、ジャズらしさのように感じる。8ビートとか4ビートとかというリズムやテンポよりも、その即興性と、自由さがJAZZの真骨頂のような気がする。

 実はキース・ジャレットとかをあまり聞かない。自分の音楽的指向だと、聴けば好きになりそうな気がするのだが、なぜかほとんど聴いたことがない。最近少し、コルトレーンとか、マイルスとかにも食指が動くようになってきた。ようやくだが。
 音楽というのは奥深く、クラシックだけ聴いていても、相当時間がないと『聴いた』という感覚まで持っていくのは難しい。増してたジャンルに渡ると、非常に表面的にならざるを得ない。

 ただ、まあ、それも音楽の持つ良さの一つではあるのだ。そう思いながら今、小野リサを聴いていたりして。

投稿者 keisuke : 音楽 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年3月11日

ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ

 フィッシャー=ディースカウの声を最初に聴いたのはいつのことだろうか?もちろんレコードを通してだが、多分、25年以上前のことだろう。場合によっては学校で聴いているかも知れないが、記憶にはない。曲はきっとシューベルトの歌曲だったりするかも知れないが、マーラーの歌曲であった可能性もある。
 抑制のきいたすこぶる知的な印象を割と最初の頃から持っていた。地声に近いピアニッシモと、「抜き」とでも表現したいような歌い方は、他のバリトンとは違うと思っていた。
 ディースカウというとオペラよりも歌曲という印象がどうしても強いし、しかもドイツリートだ。シューベルト、シューマン、マーラー、ヴォルフというのが私にとってのフィッシャー=ディースカウと言うところだ。私はマーラーからクラシックに入ったので、とりわけマーラーには重きを置きがちだが、ディースカウの場合はシューベルトとヴォルフだ。もちろん、「子供の不思議な角笛」や、フルトヴェングラーとの「さすらう若人の歌」など、マーラーの歌曲の中にあっても、特筆すべき名演奏をCDに残してはいるが、ヴォルフに関してはディースカウがいなかったら、私はこれほど好きになっていたか解らない。
 シューベルト、シューマン辺りの歌謡性の高い歌曲は普通に聴いて楽しく聴けるが、ヴォルフはその曲自体に知的(痴的)とも言える難しさを内包している。さすがに19世紀末の音楽であり、マーラーなどに比べても、非常に現代的である。マーラーとヴォルフは浅からぬ因縁のある関係だが、ヴォルフの非常に流麗なタイプの曲でも、どこか調性のあやふやさを宿しているし、長大な曲になると、メロディという切り口ではなかなか入り込めない、そして沈潜し鬱屈した雰囲気を持った曲もたくさんある。その辺りを実にディースカウは丁寧に、まじめに歌い、その雰囲気を伝えてくれる。

 メーリケ歌曲集などがよく他の歌手も録音しているが、私はゲーテの歌曲集が好きだ。特に「プロメテウス」とか「人間の限界」などという物々しい内容の、しかも時間的にも長い曲がのめり込んで聴ける。ここらの曲のディースカウは、荘重で感動的だ。
 マーラーなどで見せる諧謔的な(この辺りの表現は少々オーバーなくらいに感じるが)ものとは違って、しかもシューベルトやシューマンのように、さらっと聞き流しても聴けるのとは違って、常にまじめに向き合わされる。
 シューマンの「詩人の恋」などはディースカウよりも、ちょっと脳天気とも言えるヴンダーリッヒ版の方が好きで、そちらをよく聴くが、ヴォルフは他の歌手のを聴いても、結局はディースカウに戻る。
 一つには全集に近い内容のものが発売されているということにも依ると思うが、それは裏返してみれば、自信と愛着の表れで、ヴォルフの多くの歌曲を愛していたに違いない。

 そろそろまじめにディースカウのシューベルトを聞いてもいいかなと思っている。私にとっては「冬の旅」よりも「水車屋の娘」と「魔王」だったので、他の曲もきちんと聴いた方がいいな、という感じだ。それでも、自分の好みから言えば、ヴォルフのようにはならないだろうな。
 ヴォルフってもっと評価されてもいいと思うのだが。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月20日

ディオ2

 ロニー・ジェイムス・ディオの2回目。(1回目
 先日、新しいアルバムが先日発売になった。

masterof.jpg
 相変わらずのおどろおどろしいというか、買うのがちょっと恥ずかしいというか、妖しいジャケットだ。あくまで悪魔とか、そんな世界にこだわっているようだ。ライナーの裏表紙で、おなじみの「影絵の狐」みたいな指をした本人が写っている。
 対訳を見てみると、これまた相変わらず、神話的というか、イメージ的な歌詞が延々と続く。「あなたが好きよあっは〜ん」みたいな歌詞は欠片もない。

 ディオは、ロックンロールバンドELFがそのままリッチー・ブラックモアを迎えた形でリッチー・ブラックモアズ・レインボーというバンドになる。70年代の半ばのことだ。
 レインボー(何となくレインボウの方が好きなのだが、日本語表記はこのバンドに限っては、レインボーなのでそう書くが)は、曲調はやはりリッチーの手になるので、ディープパープルだが、ロッド・エヴァンス、イアン・ギランやデヴィッド・カヴァーデールなどとは一線を画すロニーの歌詞は、基本的にラブ・バラードはない。
 レインボーの最初のアルバムに入っている曲も、当時はタイトルが日本語にされていたので解りやすいが、「銀嶺の覇者」「自画像」「黒い羊」「虹をつかもう」「蛇つかい」「王様の神殿」「もしもロックが嫌いなら」「16世紀のグリーンスリーブス」「スティル・アイム・サッド」という10曲だが、最後の「スティル・アイム・サッド」は元々ヤードバーズの曲だし、このアルバムでは完全なインスト曲になっている。
 タイトルだけ見ても、リアルなラブソングはない。「虹をつかもう(Catch The Rainbow)」は多少その気があるが、非常に夢想的な内容だ。

 実はELFのアルバムでもロニーがこういう曲を書いていたかというとそうでもない。だから、レインボーはリッチーとロニーによる、中世へのオマージュ的なコンセプト・バンドだったんだと思う。ロニーが参加した3枚のスタジオ録音は、上記のアルバムで始まり、セカンドでは「タロット・ウーマン」とか「スターゲイザー」のような曲(後者は魔術師にたぶらかされて塔を建てる労働者の歌だ)、サードではアルバムタイトルそのものが「バビロンの城門(The Gates of Babylon)」で、最近でもよくテレビのBGMで使われる派手なイントロの曲は「キル・ザ・キング(Kill The King)」だ。

 ただどちらかというと、現在の二人の状況を見ていると、吟遊詩人を気取ってブラックモアズナイトというデュオ(若い奥さんと二人で)を組んで、中世フォークロア的な世界を追い続けるリッチーと、完全にメタルと悪魔的世界にどっぷりのロニーとでは、大分隔たりがあるし、「ああそうか」この二人が組むとこんな中間的世界ができあがっていたのもうなずける、といった感じだ。

 レインボーを脱退したロニーが加入したのが、オジー・オズボーンの抜けた後のブラック・サバスだった。レインボー的と言われる「ヘヴン・アンド・ヘル(Heaven and Hell)」、サバス色が濃くなった「モブ・ルールズ(The Mob Rules)」とライブを出して、一旦離れるが、後にもう一枚参加することになる。「デヒューマナイザー(Dehumanizer)」という、どちらかと言えば、ファンからもあまりいい評価は得られなかったアルバムだ。
 非常に機械的で、アタックの強い、現在のディオを予測させる内容になっている。個人的には実は結構好きだ。もちろん、先の2枚、あるいはサバスであれば、オジーのいないサバスなんてサバスじゃないという向きは多いに違いない。
 オジーという人は、テレビで自宅をドラマのように公開してしまうような奇矯な人でもあるので、やはりサバス・ワールドに与えていた影響は大きいと思う。
 しかし、独特の重いリフとサウンドは、トニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ロニー・ジェイムス・ディオの3人ならではの音だと思う。

 バンドとしてのディオは、このブラック・サバスの最初の3枚のアルバムと、「デヒューマナイザー」の間にスタートする。レインボー−「ヘブン・アンド・ヘル」と来た流れの先にあるようなファースト・アルバム「ホーリー・ダイバー(Holy Diver)」は、サバスを辞めたロニーが、レインボー的ではない、どちらかというと黒魔術的な音楽世界に足を踏み入れた、最初の1枚だ。本来は、サバスこそがそれに当たる感じもするが、かなりレインボーを引きずっており、アルバム的には楽しいが、サバスの2枚はディオの世界観ではない。
 私は英語が堪能ではないので、この「Holy Diver」というタイトルの意味が正確に摑めていない。ジャケットには、悪魔だかなんだか解らないが、そんなようなものから逃げている牧師か神父が湖で溺れかけているような絵が描かれていた。
 歌詞を聴いていると、真夜中の海に飛び込んで逃げろ逃げろ見たいに聞こえる。

 まあ、ディオそしてロニー・ジェイムス・ディオはこのアルバムを境に、人生をこの路線にかけているとしか思えないほど突き進んでいる。彼が多分、30代の半ばから後半にかけてではないかと思う。

 実は「ルック・アップ・ザ・ウルブス(Lock up the Wolves)」辺りから後は、比較的何を聴いても同じ・・・・というイメージがある。実は今回もそうだった。だが、ディオが頑なにこの道を追い求めるように、レインボーで、私にロックを聴くきっかけを与えてくれた彼の声は、私にとっては何にも代え難く、少しくらい曲がつまらなくっても買い続けるのだ。
 確かに彼の声が、「ア・ライト・イン・ザ・ブラック」を歌っていなかったら、私は今でも「ハードロックは騒々しい」と思っていたに違いない。世の中にはこういう勝手な一期一会というものがあるのだ。
 

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 22:21 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月11日

ELO

 ELOといったってエロじゃない。Electric Light Orchestraの略だ。
 最初に私がELOに出会ったのは中学生の頃、テレビであった。ソウル・トレインと同じくらいの時間帯にやっていたアメリカの音楽番組で、「ラレドの嵐」を聞いたのが初めてだった。同じ時に、ビージーズの「ブロードウエイの夜」をやっていて、なぜかこの2曲がすごく好きになった。

 ELOはジェフ・リンというリーダーが率いるロック・グループだが、エレクトリック・ヴァイオリンやチェロといった、弦楽器を演奏するメンバーがいて、クラシカルな編曲を得意とするバンドだった。曲もほとんどジェフが書いていると思う。
 彼は元々moveというバンドにいて、それがELOの母体となっているはずだ。
 私が最初に聞いた「ラレドの荒し(Laredo Tornado)」は5枚目のアルバム「エルドラド(El Dorado)」に入っている曲だが、彼らが有名になったのは、最初はチャック・ベリーのカバー「ロール・オーバー・ベートーヴェン(ROLL Over Beethoven)」だと思う。その後は「A New World Record」「Out of the Blue」「Discovery」そして何より、オリビア・ニュートン=ジョンとの「ザナドゥ(Xanadu)」で売れたと思う。この3枚のアルバムはミリオン・セラー級だったはずだ。
 非常にポップで、私としては珍しい。多分ストリングスセクションのアレンジなどが好きだったのだろう。
 どちらかというと私は初期の頃の方が好きで、ELOの音楽はよくビートルズ風とか言われるのだが、私にはよく分からない。ジェフがビートルズ・マニアなのはよく知られた話だが、であれば、そういう側面はあるかも知れない。だが、私はビートルズをほとんど聴かないので、よく分からない。・・・・「ロール・オーバー・ベートーヴェン」も、ジョン・レノンが歌っているはずだが。

 実は、売れてからのELOは余りよく知らない。「Face The Music」だったかな?その辺りまでが聴いていた最後だ。「Evil Woman」なんていう曲は代表曲だと思うが、日本タイトルのクレジットが、昔は「悪い女」とか、よく覚えていないが日本語で付いていたようなかすかな記憶はあるが、その後は「エビル・ウーマン」だった。聴いていれば、「イーヴル・ウーマン」と発音しているのだから、いいかげんなものだ。
 だが、この曲は好きだ。私は、これぞELOだと思っている。アルバムとしては「エルドラド」がコンセプト・アルバムとしてもまとまりがあっていいが。

 実はCDになってから、最初の2枚のアルバムは持っていない。今度輸入盤やさんでも探してみようかな。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年2月 4日

ニーベルングの指輪-1

 恐らく、私が初めてきちんと聴いたオペラ(この場合は正確には楽劇かも知れないが)が、「ラインの黄金」だ。これは、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」の序夜と呼ばれるものだ、
 ニーベルングの指輪は、「ラインの黄金」を始めとして「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」の4作の楽劇からなる壮大な音楽劇だ。それぞれの作品が、通常のオペラ作品や、それ以上の長さを持ち、全てを演奏するには15時間前後かかる。
 映画「地獄の黙示録」で有名になったワルキューレの騎行は、この「ワルキューレ」の第3幕への前奏曲だ。
 私が最初にこのレコードを手にしたのは、大学生の時、3万円のショルティとウィーン・フィルによる、今となっては歴史的な名盤でのことだ。確か、ライトモティーフ集というのが付いて、全部で19枚組くらいだったと記憶している。1枚当たり1500円だったので、大学生でも買えたのだろう。
 これにははまった。
 CDでも買い直しているので、確かに好きなのだが、今歌っている歌手を見ると、ニルソン、ヴィントガッセン、ホッター、フラグスタート・・・なんだかすごい。ルチア・ポップがむちゃくちゃ若い。録音は1958年から65年だ。・・・おいおい生まれる前かい。
 ライブではなくスタジオ録音で、決して音も悪くない。

 ワーグナーの作品の多くは楽劇と歌劇で、交響作品や歌曲は数少ない。オペラではなくムジークドラマと呼ばれるが、ワーグナー自身はそう言ってはいなかったようだ。と言って、オペラとも呼んでいなかったらしい。Gesamtkunstwerkという風に言っていたという。まあ、総合芸術って言うことのようだ。
 オペラ自体が、ある意味総合芸術としての側面を持っているのでどう違うのかという話になると、アリアがないとか、音楽が止まらないとか、つまりは渾然一体となった全体的作品というようなことではないだろうか。ライトモティーフ(示導動機)というのもあるが、ワーグナーほど凝っていなくても、多くのオペラや、交響曲でも似たようなことをやっている作曲家はたくさんいるので、これはどうなのだろう?

 いずれにしても、最初の聴くオペラとしては重いし長い。モーツァルトの音楽などとは正反対な気がする。荘厳と言うより重厚で、「ラインの黄金」の冒頭から、何か壮大なドラマが始まるぜい!とでも言わんかのような音作りだ。私はこの、ライン川の流れの中から、ラインの乙女たちが出てくるところは、非常に好きだ。
 私はLDとDVDで、レヴァインとメトの盤を持っているが、いわゆるこういうオーソドックスな演出が一番好きだ。神様が背広着ていたり、ジークフリートの胸に大きな「S」マークが付いていたりする演出は、たくさん観ている人には新規でいいのかも知れないが、神話世界は神話世界らしい演出で観たい。

 しかし、聴けば聴くほどのこの曲はかっこいいし、ジークフリートを歌う歌手が「ヘルデンテノール」と呼ばれるのもよく分かる気がする。もちろんジークフリートが英雄だからだが、英雄はワーグナーのオペラの専売特許ではあるまい。
 しかし、ジークフリートのような純粋無垢な「英雄」というのはなかなか希有なキャラクターでもあるような気がする。
「ラインの黄金」は、借金をして城を建てたヴォータンが、ラインの黄金を盗んで指輪を作ったアルベリヒから指輪を盗んで、城を建てた代金に巨人に渡すというお話しだが、この指輪は「指輪物語」ではないが、世界征服のできる指輪でありながら、アルベリヒの呪いで、最終的には神々を没落に導く指輪だ。
「ラインの黄金」の最後で、指輪で代金を払い、人質になっていた義理の妹を救い出して、悠然とワルハラに入場するときの音楽「虹の架け橋」から、ラインの乙女たちが黄金を盗まれたのを嘆き悲しむ歌の部分が一番好きだ。他をすっ飛ばしてもここだけを聴く価値がある。しかも歌付きで。ここはオーケストラ編曲では味わいがない。

「ワルキューレ」以降はまたいずれ。

投稿者 keisuke_yui : 音楽 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)