2008年6月13日
たばこが千円になるというお話
たばこを千円にするという「たばこと健康を考える議員連盟」なるものが結成されるらしい。
ぼくはたばこを吸わないので、現在いくらかすらよく知らないのだが、どうやら300円前後らしい。とすると、3倍以上に値上げを考えているということだ。
ニュースを見ると、「来年度の基礎年金の国庫負担率引き上げで生じる約2.3兆円の財源不足へのたばこ税充当がねらい(産経新聞)」ということなので、単なる増税が目的らしい。
先日、タクシーの多くが禁煙になった。公共の場所をすべて禁煙にしている自治体もあるようだ。
たばこ吸いの方々には、ほとんどいじめに近いような仕打ちに思えるかもしれない。
でも、喫茶店などで、喫煙大好きな方が近くに坐ったりすると、実はこちらがいじめに遭っているようなものだ。法律に違反しているわけでも、店が禁止しているわけでもないので文句も言えない。だが、たばこの煙は嫌いだし、副流煙によって健康被害も得ているはずであるので、こういうときはいつでも、ただただ不快になる。
喫煙者の人には世知辛い世の風潮だが、たばこのパッケージに書いてある、「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります」などの(他にもいくつかある)注意書きが事実であるなら、やむを得まい。
たばこを千円に値上げすると、おそらく禁煙に走る人も多くいるに違いないが、それでも止めない人が大勢いて、700円の税収増が、年間で数兆円をまかなえるという試算があるということは、計算すれば、どの程度禁煙する人が増えると予想しているのかが分かるはずだ。
ただ、国の計算は、多くの場合、楽天的で、夢想的なので、あるいは思った以上に禁煙する人が多いのかもしれない。
評論家の森永拓郎は、インタビューで、大量に買いだめし、冷凍保存をして値上がりしたたばこは買わないと豪語していたが、きっとこの人などは、昨今の禁煙ブームが腹立たしくてならないに違いない。・・・・あなたのたばこも地球温暖化に悪影響を与えている等というのは、やはり言いがかりに違いないが、ついそういう突っ込みすら入れたくなる。
いずれにしても、こんな人はいないので、どうしても吸いたい人は、自動販売機に札を入れてもおつりのでない状況に、ずっと腹立たしい思いをし続けながらたばこを吸い続けるに違いない。たばこの害に、ストレスという害を付け足されることになる。
その結果、思った以上に税収が上がらず、ましてや減収になった場合、国家はどうするのだろう?また税金を下げるのだろうか?
そもそも、たばこは身体に悪いから、国民のことを考えて、という発想なら、たばこを全面禁止でもいいようなものだが、麻薬や覚醒剤のような幻覚作用がほとんど無いから、依存性だけではなかなか近視もできない。ということで、高額にして、どうしても吸いたい人は多額の税金を払って吸ってください。
というのなら、税収が増えようが減ろうが関係ないので、いいはずだが、税収増額ありきで始めると、なんだか後々にうさんくささが残る。
仮に、もう吸わないと言って、国民全員が禁煙してしまったら、税収はゼロになるし、JTは潰れかねない。
ただそれでも、国民の健康のため、というのなら、政治家も賞賛に値するのだが・・・・
未成年に自販機でたばこを買わせないために多額の費用をかけて始まったTASPOだが、なかなか持つ人が増えないらしい。都内ではまだ始まっていないので、実感もないが、この、未成年に吸わせない目的というのも、昔から疑問を持っている。
未成年の喫煙に関しては「未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。周りの人から勧められても決して吸ってはいけません」という記載がたばこにあったりするらしいが、未成年だけに悪いわけはないと思うのだが、未成年だけに禁止している。
20歳の誕生日を過ぎたら、急にたばこの健康被害が減少するはずがない。
高校時代、多くの友人がたばこを吸っていた。大学では酒もたばこも当たり前だった。30年くらい前の話だ。
現在では、そのあたりは非常に厳しい。ゆるめろとは言わないが、かつて高校時代にたばこを吸っていた大人が、今そういった決まりを作っているような気がしてならない。
もちろん、大人になって分かることがある。
例えば勉強をすることなどは、子供の頃より、大人になってからの方が楽しかったりするし、あの頃もっとやっておけばよかった、等というのは、多くの人が体験することだろう。たばこだって、かつて自分は高校生の時に吸っていたが、やはりよくないから、禁止にしようというのであれば、筋も通っている。
でもなんだか、闇雲に法をかざして禁じているようにしか見えないのだな、これが。
国がたばこに関して決めごとをするとき、WHOの勧告などに沿うように、本当に国民の健康被害を考慮しているように見えないところがどうも素直に訊けない部分だ。
とはいえ、千円にして、少しでもたばこを吸う人が減ってくれるのであれば、ぼくのような人間は、その本来の目的がどこにあろうと、結果オーライなので、賛同するしかない。
もし自分が若い頃にたばこを吸うようになっていたら、性格上、なかなか止められなかったと思うし、止めた方がいいと思っても、国に対して文句をたらたら言っていたかもしれないな、とは思う。
ぼくがたばこを吸わなかったのは、周りが見なすって板からだし、おやじもヘビースモーカーだったからだ。
それらの人に感謝しなければいかんな、と思う。
たばこの好きな方々にはかわいそうだが、このまま、公共の場所、公園や飲食店なども含んだ、施設なども広く禁煙になってくれることを祈りたい。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年4月29日
瀬尾佳美とか・・・諸々
3か月半ぶりの書き込みである。
瀬尾佳美という青学の准教授(この准教授というのは、なぜ助教授じゃなくなったのだろう・・・最近の言葉の言い換えには、何とも興味がそそられる)が、先日の光市母子殺人事件の死刑判決後にブログで発した発言を期に、話題になっている。
この教授の発言に関する意見というのは、その多くが非難であり、基本的にはぼくも大筋でその意見に同調するので、敢えてここで、正面からそのことをわざわざ書くつもりはない。
あくまで参考のためにこの人の文章を引用の引用で掲載する。
繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。 だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。 私は少年に対する死刑には原則反対だ。 理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。 金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。 もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。 最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。 永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。 一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。引用元
この人は、すでにWikipediaにまで項目があるし、今回の事件についてばかりではなく、これまでも多くの問題発言を繰り返し、シンパもいないわけではないようだ(詳細は知らないが)。
いずれにしても、大学で学生に何かを教えているわけで、教える内容の賛否はともかく(個人的にはとても「否」だが)、その文章を読んでいると、とても稚拙な感じがする。この場合、稚拙という表現が合っているのかは、自分自身疑問なのだが、大学の先生が書くにしては、ということだ。
この人、「リスク理論入門」というタイトルの本を出しているが、自信の身に降りかかるリスクをうまく回避できなかったようだ。
この後、青山学院への山のような直接抗議などに対して、謝罪や言い訳を言って、最も反発の強かった「幼児を0.5人と換算した」と見える場所についても、「傷害致死の可能性」を0.5としていると書いている。
この准教授は、例えば拉致被害者に対しても
「(拉致被害者は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」この引用はJ-CASTのニュースから
というような発言を以前にしているらしい。
これは、もって他山の石となすべき事なのだけれど、内容は別にしても、この表現方法はどうしてこうなるのだろう。
日本のブログ文化は、内容の善し悪しに関わらず、この表現という点において、とても自由で、危うい。
「不幸面してられるアンタ」という表現が、この場の書き手の心情を最もよく表しているとしても、この文章を不特定多数に公開する場合、どういう効果があるか、考えないで表現できる危うさが、そこに存在する。
書籍や雑誌は、編集者が、テレビも様々なフィルターが、多くの場合かかる。
しかしながらブログは、「日記」との狭間で、フィルター無しに直接的に伝わり、なおかつ、流行というか、それぞれに特有の文章的傾向がある。
2チャンネルの隆盛により、匿名で感情を吐露したり、あるいは補遺とを傷つけるような表現が日常的に、しかも安直に使用されることがよくある。
この瀬尾という人の場合は、根本的に何かが欠落しているような内容なので、そのことも相まって、読者感情を逆撫でする。
ただ、最近はやりの学校裏サイトやプロフなどでも、ニュースで見る限り(実際のサイトは見たことがないが)直接的に人を傷つける発言が、ある意味効果的に使われているし、それが日常語であるようにさえ思える。
福田首相が、後期高齢者医療者制度について、山口の補選で街頭演説するシーンが何度も流れたが、あの年齢で、首相までやっている人が、ああいう表現をして、選挙に勝てると思っているのが恐ろしい。
尤も、友人の友人がアルカイダの友達だったり、大臣をしてこの発言という人たちは多いし、年金記録の付け合わせが3月までに解決しなかったことに対しても、「誤解を与えた」という表現で謝罪をするような国家なのだから、表現についてはまず大人が正さなければいけないのかもしれない。
人間が社会生活を送らなくてはならないのは、もはややむを得ない事だし、自分と他人の関係を抜きにして、生きていくことは、基本的に不可能だ。
であれば、自由というのは、自己の自由であると同時に、他人の自由でもある。そのこと抜きには自由を語れない。
だからこそ、中国はチベット問題で世界から非難されているわけだ。・・・尤も、中国の「自由」は、自由主義国家の自由とは、意味が違うのかもしれないが。
日本には、幸か不幸か敬語が存在する。こんなものがなければ、もっと表現は平易なのかもしれない。
しかし、存在して、まだその威力があるうちは、それなりに使い分けが必要になろう。
ぼくは、朝青龍の尤も好きになれない点が、その敬語をほとんど使えない点にある。彼はモンゴル人なので、関係ないと言うほど、日本語は下手ではないし、新聞やテレビの記者相手に、丁寧語すら使おうとしない彼に、横綱としての資質のなさを感じる。
横綱はまず強くなければならないと言われるし、それももっともなことだが、相撲が品格の高さを失ってしまったら、プロレスと何ら変わらないとさえ思えてしまう。それならば、プロレスの方がずっとおもしろい。・・・いや、プロレスにはプロレスの品格があり、それは言葉遣いとはあまり関係ないのだ。
しかし相撲は違う。・・・ただ、そう感じない人が増えてくれば、それはそれで、仕方がないのかもしれない。
さて、言葉や文章というのは、斯様に人に対する心象を形成する。
例えば内容は別にして、丁寧な言葉で書かれた文章で、いやな思いをする人はあまりいないだろう。
しかし、正論であっても、攻撃的であったり、人を小馬鹿にしたような表現方法を採られると、反発したくなったり、いやな思いをするものではないだろうか。
どんなことでも一概には言えない。時には過激な表現手段が必要なこともあるかもしれない。
だがどんな場合でも、読む人の心象を大切にするという姿勢は、必要なはずだし、それは自ずと文章に表れる。
もちろん表現だけではない。意見の表出はある程度自由だが、人の考え方には流行や道徳的なことも含めて、ある程度の規範が、時代時代にある。それを超越して変化もあるには違いないが、そのバランスの中で我々は生きている。淘汰されていく考え方や行動がある一方、守られ、継続していくそれもあるのだ。
それらの基本にあるのが、自他のの関係性であることは間違いない。
表現手段も、表現内容も、実はそのバランスがとれる内側で使用される間は、きっと自由なのだ。
しばらくぶりに書くとどうも、こうしてまとまらない。・・・続けて書こう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月16日
銃
このところ銃の事件が続けて起きている。
猟銃やらクレー射撃の銃やら、身近に銃を所有している人というのはどれほどいるのだろうか?
先日の佐世保の事件では、8人が被害に遭っている。
そもそも人なり獣なりを殺傷する目的しか本来はない銃が、一般の人間の手元にあるということ自体、どんな意味があるのだろうか?
アメリカでは、西部の開拓時代を通じて、銃社会が定着してしまっている。結果的に銃犯罪は非常に多いし、コロンバインに戻るまでもなく、ここしばらくでも多くの死傷事件が起きている。アメリカは身を守るための銃という意識が高いらしい。
しかし、そもそも銃がないと身を守れない社会は社会的に成熟していると言えるだろうか?銃が無くても危険のない社会を目指すという発想は、そこにないのだろうか?
もちろん無いわけはないし、そういう運動をしている人も大勢いることだろう。
テッド・ニュージェントは僕の好きなハードロックギタリストの一人だが、彼は無類の狩猟好きらしい。ワイルドなヤンキーなのだ。テッドの音楽を聴くと、時折そのことに想いが至る。尤も、できあがった音楽と、彼の思想や行動は、直接的に、少なくとも聴く側にとっては関係がないので、それで聴くのをやめようとは思わないが、それはそれで、そういった彼の部分はあまり好みではない。
さて、佐世保の事件では、銃の所持に関して、警察は適正の処置であったことを記者会見で述べていたが、銃の所持者がこのような犯罪を犯した時点で、その処理は不適切であったことの証左であり、そうでないとすれば、その決まりに不備があるということだ。
趣味としての銃による狩りなどというのは、まことに持ってくだらないと思うし、無くなってしかるべきだと思う。
クラークの「幼年期の終わり」の中に、人類が生きるための目的以外で、他の生物を殺傷することを、オーバーロード(宇宙人)が禁じ、闘牛場の観客全員が、非常に激しい痛みに襲われ、闘牛がこの世からなくなるという行があるが、これは闘牛一個のことではなく、人が、文化だとか伝統だとか趣味だとか言う理由で、動物を殺傷することは、あまり胸を張って言えるような優れた風習ではない。
当然人間は、生物を食って生きている。仏教の僧侶が、生臭といって四本足の動物を食わなかったり、精進料理などと言うが、では、植物は生きていないのかと言えば、そんなことはなく、進化のどのレベルにあろうと、人間は今のところ、他の生物の死無くしては、生存していけないのだ。
それは「食べる」という行為だけではない。「駆除」もまた、生存ためにやむを得ない。それが、田畑を荒らす狸や狐や鹿であっても、駆除すべきは駆除する必要があるのだ。
だが、個人の趣味などによって「狩る」のは、彼らのエゴ以上の行為ではない。趣味のレベルとしては程度が低いと思わざるを得ない。
古代の人間は狩猟で生計を立てていたかも知れないが、彼らのは生計を立てるのが目的ではないからだ。
クレー射撃というのがある。
確かに安全に配慮した射撃場での射撃は、例えばSecondlifeでの戦闘地域のように、ゲーム性やスポーツ性がある。銃というものがそもそもある以上、それが適切な場所で、安全に使われるのであれば、それはそれでいいと思う。
尤も、戦争の場が適切であるかと言えば、はなはだ疑問だが。
少なくとも、日本という社会で、職業として狩猟を営むか、山奥などで生活し、熊などの危険を感じながら生きているのではない限り、家庭に銃を所持するというのは、「許可制」などという生ぬるいものではなく、禁止した方がいい。
こういうことは、なかなか国会でも実現は難しい。それは飲酒運転のより厳しい罰の制定などと同様に、議員の中にも銃を趣味にしていたり、飲酒運転の可能性を自身感じていたりする人がいるからではないかと、うがった見方をしたくなる。
銃を「自分は適切にしようしているから大丈夫」と思っている人は、「私は酒を飲んでも酔っていないから大丈夫」といっているドライバーと、全く同質のものを感じる。
銃刀法というが、刃物は少なくとも料理やその他様々な日常生活で必要な場があるが、銃には無かろう。同じテーブルで考えるのは、そもそも間違っている。ただ、この場合の刃物はある程度、「刀」に限られるのかも知れないが。
以下次回
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月 4日
帰属意識ということ
星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
というより、そもそも民族って何だ?
広辞苑にはこうある
(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。
なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 歴史 | 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月14日
ノーネクタイ、もはや普通
【シカゴ13日時事】仕事の際にネクタイを着用するのはもはや1割にすぎず、3分の2以上の人が仕事でも一切ネクタイをしない−。ギャラップ社がこのほど発表した世論調査で、米国のビジネスマンの服装が急速にカジュアル化していることが改めて確認された。 仕事で着る服の質問に対して、男性ではスラックスとシャツ、女性ではスカートとブラウスという「カジュアル・ビジネス」が全体の43%を占めた。次いでジーパンなどの「カジュアル・ストリート」が28%、制服が19%、スーツなどの「フォーマル」は9%にとどまった。2002年の調査では、カジュアル・ビジネスは32%、フォーマルは12%だった。 男性のネクタイ着用については、仕事の時に常に着用する人は9%で、仕事時間の約半分が4%、時々が20%だった。という時事通信社の記事を見た。・・・・だからノーネクタイに、ということではなく、仕事の時も、自由な服装で致しましょう(ただしある程度の常識はわきまえて)。ということではないだろうか。
猫も杓子もスーツにネクタイという姿は、これまで何回も書いてきたように、意味が分からない。学生時代に詰め襟で過ごし、取り敢えず一つの組織に参加している一体感が欲しいのではないかと錯覚するかのような、スーツ姿オンリーは、大学を卒業して以来、4半世紀の謎だった。
スーツの形態はバブル期にダブルが流行ったりと、変遷はあったものの、基本は変わらなかった。このめまぐるしい世の中で、何とまあ、かたくなで、意固地とも思える定着の仕方だ。
とはいえ、会社勤めの18年間で、スーツを着た回数は延べにしても1年と1ヶ月くらいだったろう。この1年は新入社員の時だが、それ以来、基本的にはスーツとは縁を切った。
いや、スーツが嫌いなわけではない。好きでもないが。時にはかっこつくので、スーツを着たいこともある。
だが、毎日スーツって!しんじられな〜い(もう古いか・・・昨日は日ハムが勝ったらしいが)。
そもそも欧米から入ってきたスーツだ。米に習って少しカジュアルな方向に進んでもらいたい。
僕のように、カジュアルでビジネスを行っている人間が、少しでも目立たなくなるのがいい。もちろん、スーツを着たい人は着ればいいが、スーツを着ていないとちゃんとしていないというような見方は、・・・少なからずいると思うので・・・・さっさと返上していただきたい。
また、ジーパンがビジネスに相応しくないなどという偏見もさっさと捨てていただきたいものだ。根本的に、その理由が薄弱だ。下着姿でビジネスはとかであれば、理由は分かる(下着姿が正装の人たちは除いて)。
ジーパンだってチノパンだって、だらしなく着ていなければ全くいいではないか。
とにかくだ。服装ではなく、能力だったり、人と接するときの礼節だったり、コミュニケーションお解きの態度の方がもっと大切だ。スーツを着た慇懃無礼より、腰の低い顔ピアスの方がまだいい。
カフェや電車で、スーツをかっこよく着こなした人が、大声で携帯でビジネスの話をしているなんて、よく見るシーンだ。結局は中身だぜ。
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2007年9月 4日
死刑のお話
先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年8月26日
飲酒運転は一発免停っていうのは?
福岡市の職員が、悲惨な事故から1年、また飲酒運転で事故を起こした。
今回はバイクで、しかも被害は本人だったので、論調はもっぱら、過去の教訓や、自治体関連の飲酒運転などのようだが、そもそも飲酒運転は、昨年の児童3人死亡以外でも、多くの悲惨な事故を起こしたり、死亡に至らなくても多くの事故を起こしているのは間違いのないことだ。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むなという、比較的誰でも知っている標語は、とても正しい。飲酒だけが交通事故の原因ではなくても、飲酒運転が事故に繋が確率は高いし、大事故になる確率も高い。
以前から思っているのだが、飲酒運転は即免停、二度と免許を取らせないという法律は作れないものだろうか?
飲まなければいいわけだから、そういう法律があっても、困らないと思うのだが。
罰もちっとも重くないと思うし、ただ飲酒運転をしなければいい、それだけのことだ。
別に刑務所にはいるわけでもない。これだけ世の中で騒がれても、車に乗る前に酒が飲みたいのであれば、車の運転をさせない変わりに、どうぞ思い切り飲んでくださいということだ。
国会議員の方で、万が一このブログを読んだ方、ぜひ検討して欲しいものだ。
人間間違いは誰でも犯すが、犯してからでは遅い間違いもある。飲酒運転で死亡事故っていうのは取り返しが付かない殺人だ。被害にあった人たちだけではなく、多くの人たちが、飲酒による死亡事故は一級殺人だという認識を持たない限り、こんなことはなくなりはしない。
ぼくはどちらかというと性善説だが、いい人が罪を犯さないわけではない。罪を犯せない環境を作ることが大切だ。
飲酒運転による死亡事故の厳罰化は、必要なことだが、それ以前に、飲酒運転をさせないもっと効果的な施策が必要だ。
飲酒運転を1回でもした人間には二度と車の運転をさせない。とっても簡単な解決策の一つだと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月26日
飲酒運転
また飲酒運転による死亡事故があった。ニュースによれば、犯人は泥酔状態だったともいう。
1年くらい前の福岡の追突による幼児3人死亡の裁判がしばらく前に始まったばかりだ。
私は車に乗らない。免許がないので乗れないが正しい。確かに都会に住んでいるので、まず必要性を感じないし、そういう意味では、生活上の自家用車の必要がないという意味で、地方在住の人とは条件が違う。
酒を飲んでも、電車は遅くまで走っているし、タクシーもすぐ捕まる。
でも、そんなこととは全く関係なく、飲酒運転は犯罪なのであり、環境には左右されない。
以前、これもテレビだったと思うが、飲み屋に行くにも車でないと行けない。駅前にある都会とは違う、というようなことを言っている人がいた。・・・・だったら都会に引っ越してこい。そんなに飲みたけりゃ。
恐らくタクシーを使っていくと、飲み代以外にお金もたくさんかかるに違いない。しかし、都会に住んでいれば、それなりに高い家賃で、かなり切迫した生活を送っているのだ。
どんな理由があろうと、飲酒運転は犯罪だし、しかもことは他人の命に関わる。
危険運転致死罪ができても、あまり適用されず、業務上過失致死で終わるケースが多いと聞く。
先日、自動車運転過失致死傷罪というのができて、「自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。」という刑法の追加があったようだ。
でも7年だ。最高で。
車の運転は飲酒以外に居眠りとか、よそ見とか、様々な原因で事故に繋がる。しかしとりわけ、飲酒による事故は、飲んでなければ起こらなかった可能性が高いわけで、許されてはいけない。
私は昔から、飲酒運転は事故を起こしても起こさなくても、「永久免停」にすべきだと思っている。そんなやつに車を運転して欲しくない。道路を歩いていても、他の車に乗っていても、怖くて仕方ない。
だから、飲酒運転をするような人間からは、まず免許を剥奪し、二度と乗せない、と言うことが必要だと思う。
そんな法律を作っても、まだ飲酒運転をするような人間からは、免許を剥奪してもかまわないだろう。それでもする人間は、実際に事故を起こすまで絶対に同じことを繰り返すに違いない。
飲酒死亡事故は、時々世論で出るように、このご時世、「未必の故意」に等しいので、殺人として定義するべきだし、厳罰化も必要だろう。だが同時に、潜在的な彼らのために、車に乗せないことを考えた方がよい。
そうすればタクシー業界も、少しは景気が良くなるのではないかな。
車を運転するのは楽しいことかも知れないし、必要がそうさせる場合もあるだろう。しかし、そのことが、社会のマイナスになるのであれば、温暖化に対するレジ袋削減や、クールビズと同じ意味で、できるだけバスを利用したりするのも、意味のあることだろう。たとえではなく、温暖化防止の役にも立ちそうだ。
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2007年6月10日
Pablo Cruise
先日、ダウンロードで楽曲を購入しようとしたときの話だ。
最近は、CDやDVDは主にHMVかタワーレコード、amazonなどで購入している。HMVはダウンロードも同時にできるので、重宝している。・・・・但し、Firefoxではダウンロード購入がうまくいかないので、そのあたりはぜひとも改善して欲しいものだ。
タワーはNapsterなので、どんな楽曲があるのかがまず解らない上、定額制で聴き放題という、そもそもこちらが望む音楽をきちんと揃えているのかい?という部分が解決されないままに利用したくない方式なので、二の足を踏んでいる。
iTunesは、利用しようと思うのだが、HMVでなかったものを探すという手順を踏んでいるせいか、購入に至った試しはない。尤も、プロバイダがSo-netで、So-netはmoraというダウンロード専門のショップと関連があるので、以前はそこで買うことが多かった。だから、まずiPod利用者でないぼくとしては、iTunesから入るという道は歩く必要がなかったのだ。
さて、最近はとみに新しい音楽への探求心が欠乏し続け、昨今の音楽はほとんど聴かない。若い頃聴いていた音楽にばかり拘泥し続けるのは、年を取った証拠かも知れないが、ただこれまで聴いたことの無かった音楽を拒否しているわけではなく、最近の音楽を聴かないというだけに過ぎない。
単にそそるものが少ないからであり、昔のものが感性に訴えかけてくる率が高いから、そちらで探しているだけだ。だから時折耳に入ってくる、最近の音楽でも、全く拒否しているわけではなく、買うこともある。
前にも書いたが、購入商品の8割はクラシックになってしまっているのだが、パソコンの中身を考えると、クラシックとそれ以外の割合は半々くらいなので、聴く確率というのも、たぶん半々くらいだ。
今も久しぶりに、Wishbone Ashを続けてかけながらこれを書いている。
先日、HMVでめぼしいものをウィッシュリストに入れていて(ウィッシュリストは、購入する前の候補のことだ。入れておいて、あとで購入するか、やめるかを判断する)、その中に、Pablo Cruiseというバンドのベストアルバムをそこに入れた。
このバンドも70年代から居たのではないかと思うのだが、よくは知らない。たぶん、サーファーが好んでいたのではないかという程度の知識だ。
このバンドの中のLifelineというアルバムに、「Zero To Sixty In Five」という曲があるのだが、この曲が昔から好きで、尚かつ1回も購入したことがない。
最初の聴いたのは、確か学生時代に友人が持っていたのを聴かせてもらったときだったように思う。
但しこの曲が、Pablo Cruiseの「Zero To Sixty In Five」という曲だと知ったのは、ずいぶん後だったように思う。
その最大の理由は、後日別の機会に他の曲を何回か聴き、気に入った曲がなかったので、買わなかった、と言うことだ。
1曲に2千円も出したくないという気もあった。
そこで、1,500円くらいでベスト盤を購入できると知り、まあいいか、買おうか、と考えて、ウィッシュリストに入れた。当然、1曲でダウンロードできるか確認して、できなかったので、そうした。
しかしちょっと待て、このグローバルなネット時代に、何で日本で買わなきゃならんのだ。と思った。
そこで海外のサイトを探してみると、見事行き当たった。しかもいくつもある。
iTunesでも買える。早速、クリックしてみると、この曲は日本では買えませんときた。
MusicMatchというソフトを使っているところでも、Noだ。USAオンリーだそうだ。
DVDのリージョンは、保護貿易の国アメリカのハリウッドのおかげで、無効のDVDは基本的に日本では再生できない。ここでもかよ!と思った。
ミュージックダウンロードなどと、世の中で、何でもかんでもダウンロードで買えるかのように喧伝されてはいるが、最近のヒット曲だって、大して買えないのが現実だ。
実際に、アルバムを購入しようとまで思えない曲は、ダウンロードで探すが、ヒット率は非常に低い。これはぼくの趣味にも原因はあると思うが、それでも、たまたまいいと思った、Tokioの「宙船」とか、いまだにない。
ちなみに、「宙船」とカップリングになっている曲など、何の興味もない。買うだけ無駄だ。顧客主義やユーザビリティなど、購入する側の希望や便宜を商売の最大のよりどころにしようと、表面はしていても、結局のところ、どういう方法が最大の利益になるか、という視点でしか考えられていないということだ(尤も現在のやり方が、最大の利益を生んでいるかは解らないが)。
だがまだ諦めたわけではない。拙い英語力を駆使して、探してみせる。
先日人から頼まれて、iPODと、ソニーのWalkmanの設定を行ったのだが、このWalkmanに曲が転送できないで困っていたのだ。
原因は、パソコンに取り込んだときに、著作権保護設定をそのままで取り込んだためだった。しかしこういったことは、ただ音楽が聴きたいためだけにこういった機器を購入した人にとっては、非常に解りづらい。
著作権の保護という問題は、ぼくなどが言わなくても世間でも多くの人が行っているから、敢えて、著作物は、客がいて始めて金に換わるものだということを、著作権の所有者側が、もっと謙虚な気持ちでとらえて欲しいような気がする。
海賊版や不法コピー対策も必要だろうが、店の万引きと同じで、無くなるわけではない。少なくとも、一般の消費者や顧客に影響が及ばない範囲で、対策を講じる必要があろう
実はPablo Cruiseだけではない。Badfingerの「Carry On Till Tomorrow」という曲もそうなのだ。
Eddie Grantの「Romacing The Stone」は結局ベスト盤を購入してしまったのだが、やはりこの曲しか聴かない。そんなものなのだ・・・・
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2007年6月 4日
あざみ野
週末、所用があってあざみ野へ行った。
あざみ野は田園都市線で渋谷から20分あまり(この日は各駅で行ったのでもっとかかったが)、横浜市青葉区の北西部に位置する。急行も止まる。
友人がたまプラーザにいるので、田園都市線はそれほど知らない路線でもないのだが、急行が意外に少ないようで、渋谷駅で急行に乗れたためしがない。大概、鷺沼で急行に抜かれるという電車に乗ることが多い。今回もそうだった。
二子玉あたりを過ぎればだいたい座れてしまうので、鷺沼では乗り換える気がしない。たまプラーザは鷺沼の次だし、あざみ野はさらにその次だから。
横浜市の人口は、日本一だし、神奈川県の人口を全国威第2位へ押し上げる、恐らく原動力にもなっている。
一極集中と言われる日本だが、確かに東京を中心とする首都圏の人口密度は非常に高いようだ。東京、神奈川、埼玉、千葉の4都県だけで、日本の人口の4分の1を占めている。面積で言えば、全国の5%にも満たない地域だけで、25%だ。
さて、実はあざみ野で、ちょっと人から携帯に電話があるはずだった。ところが、圏外、アンテナ1本、時折大丈夫な地域もあるのだが、ちょっと移動すると圏外。おいおい。
使っている携帯はSoftbankなのでそのせいかなとも思うのだが、それにしても横浜市で圏外かよ、とびっくりした。
確かにSoftbankの携帯は、DoCoMoなどでつながる場所でもつながらないことが結構ある。恐らくauよりもつながりづらいに違いない。
それでもなおなぜ、Softbankを使うのかと言えば、僕の携帯スタイルにSoftbankの料金体系が(正確にはVodafoneのが合っているからだ。
携帯電話がない時代には、無いなりの過ごし方ができた。しかし携帯が存在し、しかもここまで生活の内側に入ってきてしまうと、もはや「昔は・・・・」などというのはただの言葉に過ぎない。
そんなことを言いはじめたら、仕舞いには火のない時代には生肉を食っていたのだからまで遡るしかない。
ま、そんなわけで、そこらでお茶を飲みながら電話なりメールなりを待つというのが非常に恐ろしく、やむを得ず駅前で時間をつぶした。よく、店舗に入り、席に座ったとたんに圏外ということが、実際にあるのだ。
人前で携帯を掛ける掛けないというマナーの問題とは別に、連絡装置としての携帯は、そこに厳然と役目がある。マナーは、その携帯の機能と、社会的な感覚のバランスで成立する。
ともかく、今回はまだ不十分な携帯の使い勝ってのおかげで、少しばかりまいったというお話。
帰りの電車で携帯を見ながら行ったが、たまプラーザではいい感度だったので、恐らくあざみ野周辺限定かも知れない。・・・・まさか昼間の地震のせいでもあるまいが・・・
とにかく、あざみ野在住でなくて良かったと思った次第。・・・いい街のように感じられたが・・・
携帯のような生活のインフラは、そのアンテナなどを、共通化し、通信料などは全て無料になるのが望ましいと思うのだが・・・・
あざみ野というタイトルだったが、結局は携帯のお話。
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2007年4月30日
昭和の日
今日は(正確には昨日は)、昭和の日だ。今年からそうなったらしい。
そもそも4月29日は昭和の頃は、天皇誕生日だったのが、天皇が亡くなったためにみどりの日になった。それが、今回、法律が改正され、昭和の日となったと言うことだ。
みどりの日は、これまで国民の祝日という怪しいタイトルだった5月4日に移った。
いずれ、12月23日は平成の日になるときが来るのかも知れない。
同様にと言うわけではないが、11月3日は文化の日だが、これは明治天皇の誕生日だったらしい。
なぜか大正天皇の誕生日、8月31日は祝日になっていない。せっかくだから休みにすればいいのにと思うが。
歴代の天皇の誕生日を祝日にすると、一体どのくらい休みが増えるのだろう?
現在の天皇が、神武以来125代目のようだが、誕生日が判らない天皇もいるかも知れないし、同じ日の天皇もいるかも知れない。だが、1年の3分の一くらいは祭日になったりして・・・
昔の人は天皇の名前を神武、綏靖、安寧、懿徳・・・・と覚えたらしいが、自分では記憶がない。日本史は世界史に比べて苦手だったし。
まあ、いずれにしてもゴールデンウイークの一角を担う昭和の日だから、大切だ。
今年は、5月の最初の二日間が土日と重ならないので、出勤する人も多いのではないだろうか。この前3日とうしろ4日の連休はしかし、その時こそ忙しく働く人がたくさんいて始めて成り立っているわけだ。
逆に言えば、国民の祝日はあっても、国民の休日というのは基本的にあり得ない概念ということになる。
多くの人が休む元旦でさえ、働いている人は大勢いるし、それがなければ成り立たないのが現代社会だ。
今日は新宿に出かけてきたが、それでも日曜日と言うこともあり、多くの人でごった返していた。
あまり昭和の日という祝日の内容は関係ないわけで、基本的に「お休み」以上のものではないのだな・・・・という風に感じたわけだ。改めて。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 9日
PASMOとか
PASMOが誕生して半月、Suicaとの乗り入れで、関東圏の鉄道とバスは、だいぶ便利になった。
関東圏というのは、単に他を知らないからだが。
しかし、前から感じているし、前にも書いたように思うのだが、私鉄対JRという構図は、やはりおかしいように思う。東日本旅客鉄道株式会社だって、元は国鉄とはいえ、れっきとした私鉄だろう。
最初から、私鉄というくくりでこういうユーザーフレンドリーな企画は考えてくれば良かったのにと思う。
まあ、今となっては結果は一緒なので、改めていっても詮がないのだが。
ぼくが利用しているのは京王線なのだが、京王は、パスポートカードという独自のカードを出していて、ぼくが持っているのは、京王グループでのみクレジットカードとして使えるものだ。提携カードの類があるのかどうかは知らないが、今時無いわけ無いのできっとあるのだろう。入会するとき、全く勧められなかったので、持っているのは京王オンリーのものだ。
駅では今でもオートチャージのできるPASMOに、というキャンペーンというか、勧誘を行っている。
実際最初は、京王のカードでPASMOを作ろうかとも、ちょっと考えた。そこで、聞いてみると、京王では(小田急とか、他の私鉄各社は知らないが)PASMOを発行してそこにオートチャージができるが、パスポートカードすなわちクレジットカードそのものをPASMOとして使うことはできないという。
説明書をざっと見ると、チャージの方法も、2,000円だか3,000円を切ると3,000円のチャージという決まりがあるらしい。これがシステム的な問題だとはあまり思えないのだが、そういう決まりらしい。
ところで、この非接触型ICカードの草分け的な存在でもあるSuicaは、しばらく前からVIEWカードと組み合わせて、VIEWスイカというサービスをやっている。これは、Viewカードを持っていれば、そのカードにSuicaとしての機能を付加できるというもので、今回、オートチャージにも対応した。
つまり、ViewSuicaを持てば、別のSuicaはいらなくなるということだ。
実はこの機会に、モバイルSuicaに変えてしまおうと考えていたのだが、モバイルSuicaは、オートチャージができないというので断念した。
このオートチャージというサービスは、使ってみると非常に便利で、Suicaやパスネットの時は残額を気にしながら載っていたのが、必要なくなった。これができないのは痛い。
Suicaでは、オートチャージの金額も自分で設定できる。
まあそんなことで、京王のPASMOかJRのSuicaかという選択は、自ずとSuicaに軍配が上がり、現在はViewSuicaを使っている。
ところが、財布に入れてそのまま財布で改札を通過しようとするのだが、うまくいかないことが多く、現在はカードを裸にしてタッチしている。さて、そうなるとこのカードがクレジットカードであることが逆に不安になる。さすがにクレジットカードを裸でポケットに入れて、無くしたりしたらどうしようという不安だ。
クレジットカードに限らず、キャッシュカードやら、振り込みカード、ポイントカードなど、財布の中は、お金よりもカードの方が多いのじゃないかと思えてくる。診察カード何ていうのもある。
だから、PASMOとして1枚カードが増えるのを嫌った訳なので、できれば銀行のキャッシュカードなんて、1枚で全銀行の分が済むようにならないものかなどと考えている。
あるいは、ポイントサービスも、共通カードが1枚あって、各店バラバラでもいいから、その中に情報だけは入ってくれないかなとか、色々考える。
もちろんそうしたときのディメリットは、簡単に思いつくだけでもいくつかあるし、簡単にはいかないだろう。しかし、それを超えても、カードは増えるばかりだ。
クイーンズ伊勢丹のポイントカードがあるのだが、それには家族カードというのがあって、それは非常に小さい。つまりは、そのくらいのサイズにできるのかな?とも思わないではない。
いや、クレジットカードなどの方が情報はたくさん詰まっているのかも知れないが、クレジットカードが生まれて何十年も経っているのだ、同じ情報を、もっと小さなカードに入れることも可能だろう。
この黄金比率のようなサイズのカードを、もっと小さなカードにして砕けでも、少し違うのでは・・・・・と思っても見たが、所詮は付け焼き刃だ。
やはり、1枚のカードに、複数の情報を入れて、簡単にできるのが望ましい。
SuicaはViewSuicaという形で、少しだけそれを実現している。モバイルSuicaでもそれができたらもう一歩前進だ。
京王のカスタマーサービスは、その点でJRに後れを取っているように思える。
まあでも、なくさないように気をつけないとな。・・・・どのカードもだが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月30日
加護亜依
モーニング娘。の加護亜依が、・・・・「モーニング娘。」が一発で変化できるなんて!最近のFEPって!・・・喫煙写真をまたも撮られて「引退」とか言われている。
別に加護ちゃんのファンでもないので、引退するのはかまわないのだが、何だかよくあるバッシングのようで、見ていて寂しい。曰く「2度目だから仕方ない」みたいな文脈が多い。
何度も覚醒剤や麻薬に手を出して、そのたびに芸能界に復帰して、中には現在とても活躍している人もいる。
覚醒剤や麻薬は年齢に限らず法律違反だが、タバコは20を過ぎれば犯罪にもならない。ましてや、今回の記事を書いていたり、批判的な大人たちの中には、自らが未成年でタバコを吸っていた人だってかなりいるのじゃないか?
加護ちゃんに限らず、全ての人がタバコを吸わない世の中が、私は理想だし、一本も吸ったことのない人間としては、禁煙の苦しみなど全く解らない。
彼女のために、喫煙などやめた方がいいと思うが、18才でタバコを吸ったことで、未来を閉ざされるのだとすれば、何てくだらない理由だろう。ダルビッシュは1回だったから、何も言われていない。そのあと彼が隠れて吸っているかなどは全く問題ない。
他の犯罪はいざ知らず、未成年のタバコや酒は吸わせないし飲ませない方がいいかもしれないが、もう少し軽くてもいいのじゃないか?
先日の鹿児島県の選挙違反の冤罪での県警の無茶な取り調べなんか、あれだけのことがあったって「厳重注意」だ。
交通事故で人を殺しても最高で5年しか刑務所に入らない国で、たかがタバコで芸能界引退って!
飲酒運転の芸能人や、覚醒剤や麻薬の芸能人もみな引退させなきゃおかしかろう。
何とも、この国のバランス感覚の悪さには辟易するというニュースだ。
未だに禁煙と書いてあるホームでタバコを吸ったり、そこらにぽいぽいタバコを捨てるサラリーマンなどが山のようにいるのだ。そんな国で、18の女の子に、禁煙違反で芸能界引退というのは・・・・
別に引退しても困らないが、そんな写真を隠れて取っている雑誌社の方が、どちらかというと、世の中をよくしているようには思えないのだが・・・・
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2007年3月13日
銀行
銀行というのは、なぜかそのサービスを3時までという、客商売としてはあり得べからざる時間で終了させるということから脱却しようとしない。
私は銀行に勤めたことはないので、その業務がいかに大変かは知らない。そんなことは関係ない。客とは、店や企業がどれほど大変かなどということは、基本的に斟酌しないものである。
ネットバンキングのいくつかを利用しているが、JNB(ジャパンネットバンク)やe-bank(イーバンク銀行・・・イー銀行銀行ということか?)は、夜中でも決済ができて、しかもそれがリアルタイムに反映される。入金もそうだ。
ところがここから普通の銀行に振り込んだりすると、「翌営業日」という扱いになる。週末などは、金曜の午後3時から月曜の朝9時まで66時間は全く稼働していない。祭日など挟まった日には+24時間ということになる。
多額の公的資金を投入して、不良債権とやらをどうにかしたのはまだ記憶に新しい。さっさと立ち直って儲かり始めた銀行だが、別にサービスが良くなった感はない。
窓口業務の3時というのは、何となく人手の問題なので、多少は解らないでもないが、これだけコンピューターやネットワークが日常的になっている中で、いかにも旧態依然としたサービスに終始していることに、銀行は何も感じていないのだろうか?
少なくともネットバンキングは24時間(365日とまでは行かないが)、かなりフル稼働して、ストレス無い取引ができる。
もちろん取引内容にもよろうが、せめて入金や振り込み程度のことはできてもおかしくない。
取引のある三菱東京UFJ・・・・もう少しこの名前はどうにかならなかったものか・・・・は、旧UFJと旧東京三菱でサービスが違う。実質別銀行だ。UFJでできて東京三菱ではできない内容が、6時過ぎの記帳とかまで違うから困ったものだ。
婚姻届や離婚届などは夜中でも受理するらしいが、公共機関の窓口業務も、5時で閉店だ。郵便局の振り込みなども4時で閉店。
そもそも、銀行も含めて行政機関や、郵便局など、非常に公共性の高いこれらのサービスが、土日休んで平日の昼間だけっていうのをどうにかして欲しいものだ。
仮に平日を休んでも、土日はやるとか、夜10時まで営業するとか、日本はシエスタで名時間も昼休みを取るような国民性ではないのだから、考えてもいいのではないのだろうか?
病院などでも、最近は夜や日祭日を開業しているところも増えてきた。
せめて銀行の、ATMが動いている間は、そのまま振り込みなどが反映されたり、その辺りから業務改善を行って欲しい。ただでさえ、銀行員の給料は高いのだ。サービスとして還元して欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年2月 4日
週刊こどもニュース
週刊こどもニュースはNHKが土曜日の夕方にやっている子供向けのニュース番組だ。
その一週間に起こったことや、最近の社会や政治などのトピックなどを、わかりやすく解説している。
説明を見ると、もう10年以上にわたって続いているらしい。ちょっと前までは、最近独立したのか、他局でもよく見かける池上彰がお父さん役をやっていて、お母さん役は、林家きく姫、林まやとかがやっていたと記憶している。
たいてい子供は3人で、その子供たちも取材に係わって来るという流れだ。
今日は、裁判制度の見直し(被害者の遺族が検察側として裁判に大きく係われる)などが、国会で議論されることになるといった話や、地方の赤字路線対策として、線路・車道両用のDMV(デュアル・モード・ビークル)という乗り物が開発されたといった内容が放送されていた。
非常に解りやすく、実際の視聴者の中心が、子供よりもむしろう、壮年層だというのがよく理解できる。
現在のお父さんは鎌田靖というNHKの解説員の人がやっている。この人、初期の頃、ちょっと羽目を外しすぎて、お母さんからマジで窘められているようなシーンがあったのを思い出す。最近は慣れたようで、落ち着いた感じだ。・・・最初の頃ののりも嫌いじゃないのだが。
この週刊こどもニュース、できれば日刊にしてもらいたいくらいだ。民放のニュースは、テレビ東京を除くと、どこも似たり寄ったりで、新鮮味がないし、非常に週刊誌的な臭いがすることもしばしばある。それ自体の存在意義は否定しないが、こどもニュースのような切り口の番組はNHKならではだと思うし、これなら受信料を払っても文句はない。
最近、古舘伊知郎の報道ステーションは、非常に薄っぺらにしか見えない(本当に薄っぺらかどうかはこの際問題ではない)古館の社会はなコメントは、聴いていていつも気分が悪くなる。本人はそういうつもりはないと思うが、この世で自分一人が聖人君子とでも言いたげな調子にしか聞こえないし、「自戒を込めて」などと言われた日にはなおさらそれを煽る。
何も言わず報道だけに専念しておれと言いたくなる。同じ内容を言っても、たぶん他の人だとだいぶ違うのだろうから、損だな、と思わざるを得ない。
隣に座っている河野アナも、古館の発言に同調ばかりしていて、スポーツキャスターをやっていた頃の方がぜんぜん印象が良かった。
ニュース番組としては時間帯もいいし、つい見てしまうのだが、どうもやるせない。
こどもニュースを見ていると、お父さんが何か意見を押しつけるでもなく、かといってある程度子供に解る程度の問題提起をしている。いい番組だと思う。
ついでに言えばNHKはNHKスペシャルなどのハイビジョンで科学番組で非常にいい物を作っている。同じ受信料を使うなら、もっとこういう文化的な方面に使って欲しい。お笑いや歌番組、クイズなど、たとえ面白くても、他局に任せていればいい。尤も、演歌だけは放っておくと他曲ではやらないだろうから、別かな、という気がしないでもないが。
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2007年1月26日
特急
先日、所用があって狭山へ行った。
うちから狭山へは、高田馬場乗り換えで西武新宿線で一本だ。馬場から狭山までは、たまに乗ると、ちょっとした小旅行だ。
元々川越出身なので、新宿に勤めていたときには、時折新宿線を利用することがあり、その場合は、本川越から西武新宿まで、つまり、始点から終点までだったので、今回よりさらに行く駅か長かったはずだが、当時はそんなことは思っていなかった。川越から新宿は、東武東上線と山手線を使った方が、西武線より早いし、西武新宿駅は新宿とはちょっと離れているので、ただ新宿と言うことであれば、東上線ルートの方が早い。
ただ当時は、歌舞伎町の入口に勤めていたので、西武新宿駅から非常に近かったのだ。
今でもそのレコード店は同じ場所にあると思うが、当時とは店名も変わっているし、そもそもレコード店ではない。ぼくが始めてその店に入った時には、まだこの世にCDは存在していなかった(尤も、プロトタイプはすでにあったと思うが)。
話は逸れるが、その店にいるとき、店の前の歩道で靴磨きをしているおじいさんがいた。背がちっちゃくて、靴を磨くクリームで手を真っ黒にした、それでも快活な気のいいじいさんだった。時折、店に両替に来る。お客さんにおつりがないからだ。また、時にはそこの店員に金を借りに来ることもあった。ぼくも何回かかしたことがある。比較的律儀に返しに来ていた。時折返さないことがあったようにも記憶している。
いつまでそこにいたのか解らないが、いつの間にか姿を消したと思う。亡くなったのかも知れないと、当時思ったものだった。
今考えると、もう少し優しくしておけば良かったかな、等と思ったりする。まだぼくも20代だった。
さて、話を元に戻すが、狭山で用を済ませ、帰りのことだ。パスネットで改札を抜け、ホームに行くと、ちょうど特急が来るところだった。
乗りたいが間に合うだろうか、というのがその時の気持ち。
見てみるとがらがらなので、取り敢えず乗ってしまえばこちらのものだとは思ったが、取り敢えず近くの駅員に、中でも買えるかという旨を訊くと、「そこで特急券を買ってください」と言われた。
見ればすぐ後ろに特急券の券売機らしきものがある。そこで、あわてて券売機へ向かった。
取り敢えず1000円を入れて高田馬場を押す。うんともすんとも言わない。2度押したが変わらない。試みにもう1000円入れてみる。関係ない。
ふと気づくと、上に何枚というボタンがある。そこで高田馬場、1枚通すがそれでもダメ。ようやく気づき、1枚、高田馬場通すと、お金が多すぎますといって2千円がはき出される。
改めて1000円入れて同じように押して、ようやく特急券を手に入れた。
どうにか落ち着いて小江戸号に乗り込み、座席に着く。ちょっとして発車。余裕はあった。しかし絶対乗り込んでから中で買っても問題はなかったな。そう思った。
何にせよ、普通の券売機は、1枚の場合、わざわざ枚数を押すことはない。先日、テレビのクイズ番組でもやっていたが、券売機のひとりボタンは、二人とか3人通した場合に、それを訂正するために付いているのだ。
その感覚があるから、どうしても券売機で買おうとすると、普通に行き先だけを押す。ここの機械の案内は、音声なので、せめて音声で、「枚数を押して、行き先をしてください」とか言って欲しいものだ。
また、2千円はいっていても、発券して、おつりで出せばいいじゃないかとも思う。
普段だったらそれほど感じないこんな八つ当たりめいたことが、焦っていたのでひときわ強く感じることになった。
でもまあ良かった。乗れて。
電車は非常に快適で、あっという間に馬場まで着いた。しばらく旅行へも行っていないので、軽い旅行気分を味わった。電車旅行が好きなのだな、我ながら。・・・・駅弁が食いたかった。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年1月14日
「正しい和食」の認証制度
農林水産省が、「正しい日本食」を出す店の認定制度をアメリカ等海外で行うというようなニュースを、先日見た。
以下は、12月23日の産経新聞の記事だ。リンクにすると程なく消えてしまうので、全文引用する。
農林水産省は22日、19年度予算案で認められなかった海外の優良和食店を認証する
新制度について財務省と復活折衝を行い、2億7600万円の全額が復活したと発表した。
同制度をめぐっては、米国メディアで「スシ・ポリス派遣」などと揶揄(やゆ)されたほか、前日
の自民党政調審議会でも「政府が認証するのはおかしい」などと異論が相次いだ。事業の内
容は変わらず、「認証」を「支援」に名称変えし、あきれた復活となった。この制度は、海外で「和食店」でありながら、和食とは懸け離れた料理を出す店が増えて
いる実態を踏まえ、「本来の和食」普及のために一定基準を満たす店に何らかのマークを付
与しようというもの。事業名は、「海外日本食レストラン認証事業」だったが、復活折衝で「海外日本食優良店調
査・支援事業」に。さまざまな異論に抗しきれず「認証」を引っ込めた格好だ。松岡利勝農水相は「認証と言うと許認可を与えるような印象。(認証されなかった店を)排除
する意図はなく、誤解のない名称に変えた」と説明している。しかし、同省には国内外から賛否両論のメールが殺到。海外メディアも、「日本がスシ・ポリ
ス派遣」(ボイス・オブ・アメリカ)などと疑問を投げ掛けていた。松岡農水相は予算復活に、
「思いをかなえていただいてありがたい」と意気込むが、2億7600万円の予算に「国費を使う
ようなことか」(自民党議員)などの声が根強い。
まさに最後の自民党議員が言うように、3億円近い税金の無駄遣いに他ならない。
そもそも、「本来の和食」とは何か、そしてそれは国がお墨付きをするような類のものなのか、ちゃんちゃらおかしい。それならば、国内の方が、よっぽど不思議な和食の店はいっぱいあるはずだ。
だいたい、「本来のイタリア料理」「本来のフランス料理」など、言いはじめたらきりがないし、料理など、時と場所でどんどん変化するし、変化するべきものなのだ。
こういう、あたかも伝統を守る的な視点に立った、ただの既成概念への執着こそが、「改革、改革」と口だけ言っている日本の政治の、非常に象徴的な姿だ。
おそらく日本料理界でも、どれほどの人が賛同するのだろうか?
テレビでは、アメリカの和食レストランの社長のような人が、「魚の裁き方も知らない料理人が料理をしている」と言っていた。それは料理人の技量の問題で、「本物の和食」かどうかとは別の次元のお話だ。
和食が伝統的な和食で勝負するかどうかは、ここの店の立場だし、努力だ。万が一それがアメリカで受け入れられないのなら、節を曲げるか撤退するか、それでもがんばるか、それしかない。国がどうのこうのということではないだろう。
アメリカ人がアメリカ人の口に合うように和食にアレンジを加えたり、アメリカの料理に和食のテイストを加えて、「和食」と言ってのけることが、果たして嘘だろうか?
そもそも和食とは何だろう?
和牛と国産牛のように区別できるものだろうか?
辞書で引くと日本料理とか、日本風の食事としている。おそらくとても曖昧なものだ。
誰かが定義付けをしているかも知れないが、どれほどのコンセンサスを持って、社会に受け入れられているだろう。
私たちは、和食の店に行くと、「刺身」「天ぷら」「すし」などを想像する。あるいは懐石料理などもそうだ。確かにそれらは日本食だ。しかし、母親が作る煮物やトンカツ、焼き肉、等々、それらも海外ではなかなかお目にかかれない料理で、日本食だ。
いずれにしたとこれで、何が和食か何て言うことはこの際問題ではない。
国が乗り出していって、あたかも文化の保護でございと言ったような顔をすることとがおかしいのだ。
こんな事が解らない農林水産大臣には、早々に職を辞して欲しいと思ったりもするが、これは実際、他の誰かがなってもそれほど変わらないところが、日本の政治の怪しいところだ。
いずれにしたところで、こういうことにNoと言いたくても、Noと言えないのが政治の世界だ。
一体、選挙でNoと言えないこういう事に、我々はどうやって意思表示をしていけばいいのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (0)
2006年10月31日
Softbank
20日に番号ポータビリティーに関して書いたばかりでなんだが、Softbankが連日システムを停止しているというニュースに関して。
auは24日以降、8万件の会員増だという。DoCoMoは6万人減。Softbankは発表していないと言うが、発表できないのだろう。システムが動かないから。だが、単純に差を計算すれば2万人減という数字が出てくる。
2,880円でSoftbank同士の通話は無料というのは、現在の家族定額やLove定額よりもいい。なぜなら、この二つはそれぞれ、300円のオプションサービス料金を取られるからだ。
単純に考えて、3社が今のサービスを継続するとした場合、全ての携帯利用者がSoftbankに会社を変更すれば、携帯同士の通話は、2,880円の固定料金で誰もが使える(多少の例外はあるとしても。固定電話との通話など)、ということになるわけだ。
ところが世の中そうはならないわけで、むしろauの方が会員数を伸ばしているのだ。値段以外のサービスにもよるだろうし、CM等のイメージ戦略でもauが成功しているとも言えるかも知れない。auはKDDIだから、元々国際電話の会社だが、この勢いで行けば、DoCoMoの牙城は簡単に崩れそうな勢いではある。
さて、8万人増加のauと、6万人減のDoCoMo、2万人減少しているかも知れないSoftbank。今回の番号ポータビリティサービスは、番号の解約と持ち出しで、元の会社と新しい会社の双方に負担がかかるわけで、その中、どうもSoftbankのシステムは、単純に弱いのではないかと推測できる。
孫正義の発表がぎりぎりだったということに原因を求める向きも多いが、スタートは一緒で、処理吸うが他の2社が多いとすれば、単なる処理能力の低さのような・・・・
もちろん、Softbank内でのサービス変更も多数合ったに違いないが、そうもSoftbankのシステムは心許ない。
といって、今回のシステムダウンなど、先日のNTTの光通信とIP電話の不具合に比べたら、大したことはないし、たぶんSoftbankに変更しようとした人たちは、単純に人気がある程度に感じたケースも少なくないに違いない。
これまで携帯にいくら払っていたか判らない人たちが、少なくとも、安くなり、さらに長時間話ができるとなれば、最初のシステムトラブルなど、それほど痛くはない。
ちなみに、私は実家の母の携帯をSoftbankにして(当時はVodafoneだが)、それまで使っていた固定電話から、全て携帯に変更した。双方の負担300円、計600円でどれだけ話してもそれ以上かからないわけだから、他の電話会社に変える理由がない。
今日、孫氏が、2,880円のコースの他社への通話が他の会社より高いのを、「同じにする」と発表したので、もしかすると、家族定額よりも、こちらの方がお得になるのかも知れない。
但し、Softbankのホームページの判りづらいこと・・・・・
もう少し簡単に判るようにしてくれないかな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月20日
番号ポータビリティ
来週から番号ポータビリティーにより、電話番号を変えないで携帯会社を変更できるようになる。とても良いことだと思うが、さてどれほどの人が変更するのだろうか?
携帯電話が普及し始めてからすでに10年くらい経つだろうが、その間に、携帯電話はかなり良くなり、一般電話を持たなくなった人もたくさんいる。先日、Yahoo!だったかどこだったか忘れたが、「一般電話はもう不要だと思うか?」というアンケートがあり、かなりの数の人がもう不要だとしていた。
まだまだ携帯を持たない人も多いし、すぐに一般電話が不要になるほどには携帯は万能ではない。しかもまだまだ料金は高いし、単純に携帯だけにするわけにはいかないだろう。
だが、IP電話やSkypeなどの無料通話と言ったように、一般電話が徐々になくなるというか、携帯などに取って代わられる要素は次々に出ている。
そんな中のポータビリティー、メール・アドレスはその性質上やむを得ないが、そのままキャリアを変えられるのは非常にいいことだ。
しかしこれは番号ポータビリティー以前の問題だと思うのだが、同じキャリア内で機種変更をしても、古い携帯から引き継げるのが、電話番号や、メールアドレスなどのアカウント情報だけで、メールの内容、ダウンロードしたコンテンツなどは引き継げない。これはいつまで経っても変わらない。携帯会社は、何か努力すべきところが違っているのでは?と常に思う。
実はメールの内容の移行は、パソコンの例えば、Outlook Expressでも非常に面倒くさい感じがする。
以前のように、フォルダごとまとめてコピーでは全く無理だし、これはthunderbirdでも同じだ。
パソコンを変え変えたりした場合、古いデータを移行させるために、わざわざ専用のソフトを購入するなどというのはおかしな事で、そんな機能はOSが備えていてしかるべきだと思う。
特に昔と違い、ファイルの圧縮技術や、DVDやCDのサポートなど当たり前の時代に、古いパソコンで、どこかをクリックしたら、メールやパスワード情報、お気に入りとか、少なくとも単純にファイルとして見えていない情報をまとめてはき出し、新しいパソコンで簡単にその設定を吸い上げる仕組みがあってもしかるべきと思う。しかも初心者でも解るように。
同様に携帯も、容量の問題や、かえって古い携帯に変えたということでもない限り、可能な限り全てのデータを新しい携帯に移せる機能は無くてはならない機能だと思う。ゲームにしたって音楽にしたって、有料でダウンロードしているわけで、携帯を変えたとたんに使えなくなるというのは、家を引っ越して電気製品やガスが使えなくなったと言われているようなものだ。
テレビが見れるようになったなどよりも、技術的にはさっさとどうにかしてくれと言う優先度は高いはずだ。
ちなみにSoftbankのアクオス携帯は売れているらしい。
私はSoftbank(というかVodafoneだが)の携帯を使っているが、このところのSoftbankのCMを見ていて、DoCoMoやauに比べて、サービスに関するアピールが全くなく、「予想外」という意味不明のことばかり言っているような気がしている。あのCMにかけているお金を、サービスに転換してくれと切に思う。CMを見ている限りauはお得感があるし、DoCoMoはそれなりに安定感がある。
ちなみに、友人の一人は、未だにJ-phoneを使っている(とうとうSoftbankになってしまいましたね!)。
実は他のキャリアはよく分からないが、Softbankは結構圏外になることが多い。もちろん都心でだ。ファミレスなどで隅の方だったり、先日は仙川駅のホームで圏外になっていた。
携帯は無ければ無くて済んでいたものだが、あればあるで、機能をきちんと果たしてくれないと困るのだ。人待ちでファミレスで時間をつぶしているときに、連絡が入ったら出ようと考えていて、ふと画面を見たら圏外!こんな事で困ったことのある人は大勢いるだろう。
そういえば、先日久しぶりに内田康夫を読んだのだが、当然何年も前の作品なので、一概に何とも言えないが、浅見光彦は母親から携帯を持ってはいけないと言われて、携帯を所持していない。掲示から、そろそろ携帯を持ってくれということを言われるというシーンがあったが、さて、最近の作品では、携帯を持っているのだろうか?ちょっと気になる。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 6日
キャッシング
SPAMメールは相変わらず多いのだが、SPAMとは言わないまでも、メールマガジンで、最近嫌になるほど多いのが金融関係のキャッシング、カードローンを勧誘するメールだ。
テレビでもよく見かける、モビットやアットローンなど、銀行系のものから、いわゆるアコムやプロミスなどの消費者金融系のものまで実に多彩だ。
消費者金融系のものは、最近の国会でも議論された、上限金利の問題もあるが、上限が30%近いすごいローンだ。年率30%っていうことは、100万円借りたら、月金利は3万円近いと言うことだ。恐ろしい。
それに比べると、よく目にするオリックスのやつなどは、8%〜になっていて、100万円借りても7千円くらいになるのだろうか?
金貸しという職業は、よくよく儲かると見える。時代劇でも金を貸して、返せない借り主の娘を岡場所に売るなんていうのは非常に良くあるパターンだ。
実際に広告をクリックしてみると、最近は入会するとポイントが付きますパターンが多い。Yahoo!やinfoseek、ECナビなど、そういううたい文句が並んでいる。
しかしよく見てみると、金利というのは必ずしも安いわけではない。安いところでも上限は18%くらいある。どの金利がどう適用されるのか、ざっと見てもよく分からない。
たまたま、5.5%という異様に安い金利を見つけたので、クリックしてみると、SBIグループ。おおこれは、ライブドアや村上ファンドの時によくテレビに顔を出していた北尾某の会社ではないか。
やることがちょっと違うな、何て思ってみてみると、お借り入れ診断というのがあるので、試しにデータを色々入れて試してみた。
すると、なかなかシビアな結果が出てくる。そこそこの会社に勤め、そこそこの年収があり、安定している人よりも、ニートではないにしても、なかなか定職に就けず、苦労しながら生きている人こそが、使いたいのだろうと思うが、そういう条件を入れると、お断り画面になる。
ストップ借りすぎというCMがあるが、結局のところ、金貸しというのは、返ってくる宛がなければ、なかなか貸さないので、0円で起業できるとか言っても、実際のところ、資金が無くて起業などなかなかできないのだ。
先ほど12チャンネルの経済ニュースだったかで、起業家のトップを選ぶというようなニュースを見て、ふと思ったわけだ。
会社を立ち上げるときに、資本金はきわめて小さい額で立ち上げられるが、やれ定款だ、印紙だと、実は、がんばって起業しようなどと考えている人間にとっては莫大な金がかかるのだ。
全部が全部ではないにしても、多くの起業家が、元証券会社とか、銀行とか、本当に若くして起業していたりしている。若さは大きな武器なのだ。やり直しがきく。
しかし、40代50代60代で起業しようとしたとき、大きな壁があるように思う。
そんなときキャッシングって役に立つのかな、と思いきや、やはりなかなかどうして、金というのはあるところにますます貯まるとよく言われるように、そういう仕組みになっている、としか思えなかった。
尤も、そういう苦労をしてこその企業だったり成功だと言ってしまえばその通りだ。
いや、単なる思いつきだったのだが、夜の中の仕組みの一端が見れたような気がして、面白かった。
安倍政権の再チャレンジって、こういうところどう考えているのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年9月29日
金髪
秋田市の学校法人「秋田経済法科大」が、茶髪とピアスを禁止する規則を作るそうだ。私立学校のようだから、そういう決めごとをすること自体はとやかく言うことではないし、現在の学生でない限り、嫌なら行かなければいいだけの話なので、あくまでこれは、経営者の判断次第のことだ。
さて、同じ日のニュースで、自民党の井脇ノブ子が、竹中平蔵の辞職による繰り上げ当選で、議員になる予定の神取忍の金髪に物言いをつけたというのがあった。
奇しくも学校関係者と議員から、金髪は「ノー」という意見が出たわけで、面白い。
こちらも、秋田経法大と同様、意見を言うのは誠に自由で、井脇議員の意見は意見として承ればいいことだが、さて神取忍が黒髪で来るのか、金髪でくるのか、あるいは奇をてらって別の色に染めてくるのかは、一つの楽しみである。
こういう記事には必ず、髪型よりも、議員としての云々というおまけが付いてくる。神取忍ごときに、いっぱしの政治家の腕を期待しない事を揶揄するような印象を受ける。
だが、それほどこのことは政治とは関係のないことか?
先日、東京地裁が、東京都の教育委員会が、君が代斉唱と国旗の掲揚を教職員に義務づけたり、しない職員に罰則を与えるのは思想の自由に違反するという判断をしたが、全く違うように思えて、実は金髪も国旗国歌も似ているように思える。
秋田経法大の方は、
『頭髪について「周囲に不快感を与える特異な髪形、染色、脱色は禁止」、装身具も「華美を避け、品位を保ち、ピアスは禁止」−読売新聞からの引用』
ということのようで、『指導に応じて改めた学生には褒賞金1万円が付いた学長賞を贈る』という、笑える処置もおまけに付いている。
確かに「いわゆる不良」といわれる人たちの多くは髪を染めたり脱色したりしている。だが、金髪や脱色、カラーの髪の毛の人間の多くは普通の人たちだ。ましてやピアスに至っては、自分がすることは金輪際無いが(痛そうじゃないか!)、今ではごく当たり前のファッションだ。
私には、この学校関係者が、自分たちが育った時代や、自分たちがこれまで身につけてきた価値観、善悪基準で、物事を判断しているようにしか見えない。単純に「古い」とかではなく、この世の中には様々な価値基準があり、それは時代とともに変わる。
新しいものが何でもいいわけではないが、古いものが何でもいいわけではない。
今回の自民党の総裁選挙で、教育改革というのが、国民の関心事項の非常に低い位置にいながら、3人供が非常に重要視をしていた。共通するのは、昔は良かった、だ。いや、言い方は悪いが、確かに昔は道徳教育など、今に比べればしっかりしていたようにも思える。戦前の人たちは修身などと、非常に厳しく教えられたようだ。
だが、今荒廃しているのは、教育現場ではない。世の中全体で、教育現場はその縮図に過ぎない。私が子供の頃も、まだ道徳という授業はあったし、きっと色々教えられてきたのだろう。覚えていないが。
前出の教育委員会と現場の教師の争いを見ていて、子供が規範とできるだろうか?
先日安倍総理の昔の話をテレビで流していて、教師が、日米安保はとんでもないといったようなことを言ったとき、学生の安倍は、経済条項はどうなんですか、みたいなつっこみをしたというのを見た。
そもそも教師、特に昔から日教組と、国は、犬猿の仲だし、日教組は共産主義よりだった。
共産主義がいいか悪いかよりも、人類には不適であることは、いい共産主義国家がほとんど無いことでも解る。少しでも人よりいい生活を願う人間が、共産主義に満足できるはずはない。
さて、話が逸れたが、毎日これだけテレビで放映されても飲酒運転が後を絶たないような社会で、子供たちだけに正しくあれと言っても、全てがそううまくいくわけではない。もちろん、正しく生きることは、必要だし、重要なことだ。
だが、髪を染めたりピアスをすることが果たして正しくないことだろうか?私には全く解せない。ましてや、「子供たちの模範とならなくては」などという、意味不明の関連性では、頭を抱えざるを得ない。
髪を染めることが良くない理由を、しっかりと論理立てて、多くの人が納得するように説明してから、それを禁止するなり、批判してもらわないと、何となく不良っぽいといわれているようで、子供はますます反発するだけだ。自分の子供時代に、そういう反抗をしたことが、彼らはないのだろうか?
染めた髪が不快なのか、金髪が不快なのか、日本人の顔をして金髪が不快なのか、論点も曖昧だし、一体どれほどが不快と思っているのか、それは「慣れ」の範囲ではないのか、ピアスはいけないが、イヤリングならいいのか、訳が分からない。
友人が、昔、「高校では化粧を教えるべきだ」といっていた。卒業して企業に入ると化粧が一気に身だしなみに変わるのに、高校時代はいかにも良くないことのように言われるという。
事ほど左様に、感覚に依存した規範というのは、決める側と守る側のギャップが大きい。あたかも自明のことのように金髪やピアスを否定する前に、もう一度自問自答して欲しい。日常的に哲学してくれないかな、彼らも。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年7月 4日
99.9%は仮説

表題のようなタイトルの本を読んだ。光文社文庫で、竹内薫というサイエンス・ライターが書いている。結構ブルー・バックスなどにもたくさん書いている人で、気にはなっていた。
結論から言うと非常に面白かった。
この世には確定的なことはほとんど無いという理屈は、神の存在から科学万能まで、非常になめらかなグラデーションでこの世の有り様を考えることができるのと同時に、この世のあらゆる事は不可知論的に、実証不可能ということで片付けてしまう可能性を残している。
しかし、ある意味それは、思考の束縛から自身を解放する一つの手段である。
このほんの帯には「飛行機はなぜ飛ぶのか?」というキャプションがあるが、この本はまず、どうして飛ぶかは解っていないという切り口から入る。
かつて、「定説です」というカルト団体があったが、この世の定説は、基本的には仮説に過ぎないというこのほんの本質は、だからこそ、新たな発見が毎日あるのであり、自分とは違う他人を尊重することが重要だと説く。
まさに、ニュートン力学が相対性理論で近似値に格下げされても、日常的にはニュートンが支配しているのだ。それでも宇宙へ出て行くとき、そして将来や宇宙論を見晴るかすとき、ニュートンはアインシュタインに取って代わられる。
アインシュタインだって、いつ他の誰かに取って代わられるか解らないということを否定できないとすれば、取りも直さず、相対性理論も仮説に過ぎないということの証明になる。
この世には真理とか真実とか、定理とか公理とか、似たような言葉がたくさんある。
デカルトが、「方法序説」の中で言った有名な「我思う、故に我有り」だって、それを前提にしなかったら、何も先に進まんだろう、という事であり、証明などできない。
この世の全ては俺の夢だ!
と誰かが言ったとしても、反証の余地はあるが、完全に否定はできない。
何かを疑うという行為は、いい場合とよろしくない場合がある。
オレオレに始まるような電話の詐欺は、まさに疑わなくてはならない典型だが、愛する人を信じられなくなったらおしまいだ。
先日、10ヶ月拘留され、起訴までされたが、冤罪であることが解ったという事件があった。これも友人が彼を信じ、助けたということだ。
この世には、神はいるかいないかとか、といった、ある意味心の問題と片付けるしかない事から、1+1は2のように、確定的なことがある。1+1が2であるのは、それが自然の摂理であるからではない。人がそう決めたからだ。1+1は山と決めていれば、1+1は山だ。
だが、なぜ1+1が2になるように、この世ができているのかは、おそらく永遠の謎だ。
あなたはこう考えるが私はこう考える。この世は所詮、それの積み重ねであり、その都度、より多くの支持を勝ち得てきたり、場合によっては力が強かったりで、多くのことが決まってきた。それでも、「盗人にも三分の理」以上に、人の意見には聞くところがあるものだという意識を、改めて強く持ちたいと思わせる書であった。
読みやすいしお奨め。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月30日
携帯電話
現在携帯はVodafoneを使っている。いつの間にかauに抜かれてシェア第3位になったVodafoneだ。元々J-phone時代から使っていたからというのもあるが、異常に家族通話が多いため、かつては家族割り(半額)、現在では家族定額(1台あたり300円)を、非常に便利に利用しているために、なかなか他の携帯会社への変更ができない。
最近はアンケートで、番号ポータビリティサービス開始後に、携帯会社を変えるつもりがあるか、という質問があるのだが、この家族定額のおかげで、変えるわけにはいかない。
ところがVodafoneは、せっかくVodafoneといえるようになってきたのに、明日からSoftbankになるらしい。いい加減にせいという感じもする。何かかっこわるいし。
孫正義には悪いが、ソフトバンクがやっているのは、ライブドアや村上ファンドがやろうとしてできなかったことを、より大きな資金でやっているようなものだ。
ホークスを買収したときに、ソフトバンクなどという名前を冠せずに、単純に福岡ホークスぐらいにしていれば、だいぶ印象も良かったが。ソフトバンクや楽天が参入しても、プロ野球は彼らの宣伝道具だ。IT,ITと言ったって、新しくも何でもない。
ソフトバンクの携帯っていうのは何だか嫌だが、それでも家族定額にはかなわない。
それにしても携帯電話というのは、無駄な出費を増やしてくれた文明の利器だ。今では無いと困る最大の機器でもある。無くてもいいという人はもちろんいるだろうが、時代がこれを不可欠なものにしてしまった。 車や飛行機や、テレビや冷蔵庫などと同じだ。
ところで携帯というのは新機種がばきばき出る。新しい機能がどんどん追加され、何でもかんでも携帯でというくらい出る。しかも、さすがに携帯電話なので、ある程度使っていると不具合が出てきたりするので、変えたくなる。そのたびに機種交換でお金がかかる。そして新規契約よりも機種交換の方が高かったりする。そしてそのたびに、手数料を取る。
どうもこのシステムは釈然としない。通話料は相変わらず高いし、こんな手数料はただにしろと言いたい。
うーん、しかし携帯ごときに愚痴を並べているのは親父の証拠なのか。
ソフトバンクに期待したいのは、パソコンの通信から携帯の通信まで、あらゆる通信を一本化できて、月数千円で収まるようなサービスを作って欲しいな。通信のコングロマリットの消費者の利点を追求して欲しい。携帯でテレビが見られることよりも、そっちの方が重要だ。
今でさえ、歩きながら携帯見ていて危ないのに、テレビなんかつけてより危なそうだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月15日
受信料とNHK
今日テレビで、NHKのディレクターが、空出張で1700万円を着服した件について、当のディレクターにインタビューをしていた。NHKは告訴する予定だと言うが、そのディレクターは、事実をカメラの前で認め、「申し訳なかった」と謝罪の言葉を述べた。
それはともかく、気になったのは、インタビューそのものだ。意外にあっさりと彼が認めてしまったせいもあるのだろうが、同じ事を繰り返して聞いたり、NHKは受信料で成り立っているのだから云々と、たたみかけるような質問をしていた。
別にそのディレクターを養護するつもりはないが、事実を認め、すみませんと言っているのに、これ以上何を聞き出したいのか、非常に空回りの感が強いインタビューだった。
さて、実はこれはフジテレビ系列のインタビューだが、ちょっと引っかかるのは、NHKのことを言うのに、必ず私たちの受信料で成り立っているのだから・・・・という文言だ。別に不払いの人がいるから、彼らは除外してとか、そんなことではなく、受信料で成り立っているから悪いのか、ということだ。
すくなくともテレビ局のインタビューを聞いていると、NHKは受信料収入だから責任が重く、民放は広告収入だから、少なくともNHKより裁量権が広いという風に聞こえることが時々ある。
例えば、同じ事がフジで発生したら、その場合は、会社とその個人の対立だが、NHKは、国民とその個人との対立だ、というくらいの意気込みを感じるのだ。
だが、果たして本当にそうか?
確かにNHKの問題はそれなりにあるだろう。
しかしNHKにだって従業員はいるし、基本的に収入源の多くを受信料に頼らざるを得ないのは、NHKのせいと言うより、法律がそうなっているからだ。
これは、何でもそうだが、我々は貨幣経済の上に暮らしているわけで、あらゆるものやサービスは、代価を払って、得る。そのクオリティがその代価にあっているかどうかは確定的に言えるわけではない。
ワンコインのランチを食べているサラリーマンの隣のホテルで、数千円のランチを食べている主婦がいるとしても、どっちの味が上かは、食べる人間次第だし、相場というものはあっても、かなり緩いわけで、バッグ一つが、該当で千円で売られているものから、100万円近くするものまであるわけだ。
原材料費や手間賃、機能やデザインで、客観的に見てそれほどの価格差があるのは、本来はおかしいが、それらとは違った価値観が、その差額を払わせて満足を与えているのだ。
顧客がある意味その部分の価格差を容認し、購入する以上、一応は棲み分けが成り立つ。
実際、公共性という意味では、NHKも民放も、今更大きな違いがあるわけではない。違いといえば、方や広告収入で、方や受診料というだけだ。収入の得方は違っても、詰まるところ、視聴者が最終的な顧客であることにはどちらも違わないわけで、ことさら受信料だから適正な使い方が重要なわけではない。
尤も、受信料は基本的に無理矢理払わされるわけで、そう言う意味では、より多くの人に責任を負わされているという見方もできないわけではない。だが裏を返せば、NHKは、受信料をきちんと払っている人間にだけ責任を負っているが、民放は、広告主の商品を購入する可能性のある、不特定多数に対して責任を負っていると見れば、より民放の方が責任が大きいことにもなりかねない。
今回のような事件で、ことさら、受信料などと、錦の御旗のようにこれさえ出しておけば、NHKをつつけるかのような使い方は、本質的な議論を損ねる可能性がある。
NHKより民放の方が自浄作用があるわけではない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月12日
駐車違反の取り締まり
今月から駐車違反の取り締まりが厳しくなり、さらに取り締まりをする業務が民間に委託された。
先日甲州街道で監視員を初めて見た。バイクの人ともめているのかただ説明しているだけなのか、とにかく業務遂行中のようであった。
多くのドライバーからはこの法律の施行は不評だろう。もし自分でも、仕事などで、非常に車で移動することが多ければ、ちょっと眉をしかめるかも知れない。先に駐車できるスペースを確保しろよ、とぶつぶつ独り言を言うかも知れない。
しかし施行後、少なくとも以前に比べて、非常に道路脇の駐車が減ったような気がする。これはいいことだ。
先日テレビで、施行後の駐車台数の変化と、近隣の駐車場の利用状況を計測した番組をやっていた。検挙も結構あったが、実際に駐車台数は減っていて、効果が顕れている。にもかかわらず、付近の駐車場の使用率はそれほどでもない。以下に無駄な駐車が、これまで多かったかという、少なくともデータ上はそういう結果になっていた。
ただ、普通に考えても、配送の車はかわいそうだと思う。日常的に必要な商品アドをコンビニやスーパー、あるいは一般の商店に納品している車や、宅配便業者はある程度除外するべきだろう。少なくとも郵政公社の郵便車が例外となるなら、そうすべきだ。郵便は公共性が高いなどと誰かが理由を言っていたが、配送の車も十分に公共性は高い。
少なくとも、駐車は何分までOKみたいな形で、許可証のようなものを発行するなり、何らかの対策が必要だ。先日、関西のどこかの裁判所が、許可証を使って飯を食っていたことが発覚して、警察から許可証を全て取り上げたというニュースをやっていたが、こういうのはどんどん取り締まるべきだ。
それ以外にも、老人や身障者などのための車などはどうなのだろうか?何でもかんでも一律に取り締まるのは、一見公平に見えて、そうでないように思える。
先日、監視員に暴行を働いて、逮捕された男がいた。「まさか逮捕されるとは思わなかった」といっていたと言うが、公務執行妨害であろうがなかろうが、人様に暴力をふるって逮捕されないと思っているあたりが、そもそもおかしい。
テレビでも、普通の暴力とは違うというような表現を使っていたが、見なし公務員だから悪いのではなく、そもそも暴力がいけないのだと言うことを言うべきだろう。
何はともあれ、成果が出て、違法駐車が減るのはよいことだ。
これを機会に、飲酒運転をもっと強く取り締まるべきだろう。まだまだ甘い。
ところで、世界の車窓からで、どこの国だか見ていなかったのだが、車から自転車への政策を進めていて、電車に自転車ごと乗っている乗客を映していた。東京ではなかなか難しいだろうが、少し車が減った方がいい気もする。ちょっと多すぎる。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月 8日
分煙・禁煙
先日、ちょっと用事があって千駄ヶ谷へ行った。その時に、駅のBecks でしばしコーヒーを飲んだ。
感じのいい店員だったが、店は煙に巻かれていた。文字通り。店の奥が喫煙席で、手前が禁煙席だったが、禁煙とは名ばかりで、異様に煙かった。
しばらく経って、「たばこ臭い」と別の場所で言われたくらいだから、相当なものだ。体に悪い。
JR東日本は、新幹線と特急を全面禁煙にするという。完全な分煙が難しいからだという。
確かに、意外と分煙というのは難しいのかも知れない。新幹線の喫煙車両に紛れ込むと、目の前に霧がかかったような気がするのだ。たとえ煙草を吸う人間でも、「辛くないのかな?」と思ってしまうような異様な空気だ。
私のような煙草を吸わない人間にとってはありがたい処置だが、吸う人たちにとっては、「いじめ」にも感じるかも知れない。
しかし、Becksの例ばかりでなく、まだまだ喫煙と禁煙が別れてさえいない飲食店も多いし、喫煙者は、隣で誰かが食事をしていても、気にしているようにはとうてい思えない人たちがまだまだ多いのも事実だ。街中を歩けば、気兼ねなく煙草を吸いながら歩いたり自転車に乗っている人たちも、さほど減ったようには思えない。
JTが、マナーがこれだけ変わったというCMを流しているが、それほどは実感できない。
昔、電車の中でも皆煙草を吸っていた。普通の路線電車だ。私の父親も吸っていた。今では吸っている人はいない。
煙草が本当に体に悪いのなら、法律で禁止すればいいようなものだが、それほど悪くないのか、法律を作る側が吸いたいのか、よく分からないが、欧米の禁煙ブームが、速く日本にも上陸することをささやかに願っている。
投稿者 keisuke : 社会的 | 02:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年5月25日
駅ナカ
駅ナカというのは改札を通った後の駅構内の商業施設のことだが、上野や品川など、多くの駅で本屋から雑貨など、様々な商業施設が並んでいる。東京駅のJRの乗り換えなどの通路は、どちらかというと相変わらず、土産物店などの方が多いような気もするが、品川などは、結構いろいろな店があるように思える。本屋などをのぞくと、普通の本屋よりも圧倒的に混んでいる。立地という意味では、これほどいい場所もなかなかない。
石原都知事が、こういう商売をしていながら、駅は公共施設ということで、固定資産税が他の施設よりも安いのは不公平だと発言した。約三分の一だそうな。
それに対してJR側は、客の利便性とか何とか言っているようだが、今回ばかりは石原都知事の方が明らかに正しい。
駅そのものは確かに公共施設だし、優遇されている意味も解るが、キオスクや一部の小さな施設を超えて、下手をするとそこで必要な買い物の多くがまかなえてしまうような場所であれば、それは普通の商業施設だ。しかも集客を鉄道がしてくれる、非常に高立地な場所だ。普通より高いくらいではないのかと思っていたくらいだ。
しかも利用してみると、他より安いわけでもない。レストランの一部など、明らかに一品一品作っていると言うよりは、見えないバイキングのような気がする。味もまあ、駅だからこんなものだ、と言うところが少なくない。
駅前商店街の反発ということもテレビでは言っていたが、それはそれ、これはこれだ。確かに駅前商店街は大変だろうが、ブックオフのできた近所の本屋とか、ネット通販の台頭とか、他にも大変な原因はあるだろう。しかしいずれにしても、ここの対立のみは、消費者の利便性や、有用性が最も大きな理由付けになるので、石原都知事の話とは次元が違う。
石原さんという人は、私はあまり好きではない。実行力はあるし、これまでの都知事よりは目の付け所もいいが、記者会見などで見せる、あの人もなげな態度や、思想的に合わない部分があるためだ。
だが、今回のようなことをびしっと言うあたりは、やはり評価しなくてはいけない。
駅ナカが便利になったと言って、新宿や渋谷はそうでもない。新宿などずっと工事していて不便だし、埼京線のホームなど、どんどん南にずれているような気がする。乗り換えがめんどくさい。施設を多く作るのはいいが、乗り換えなどには影響して欲しくないものだ。
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2006年5月20日
キヨスク・・・ではないが。
今日、ちょっと出かけたときに、駅で連れの女性が携帯用の充電器を買った。600円也。
ところが買ってすぐ、パッケージを見て、FOMAで使えないと書いてあったので、返品を申し出た。その間、わずか10秒程度。すると売店のおばちゃんはにべもなく、「だめです」の返事。
すぐに僕が出て行って、今ここで買ったばかりで開けてもいないのに何でだめなの、みたいなことを言ったら、おばちゃんは気圧されたのか、すぐに返金しようとした。・・・怖がられて、悪者になったような気分がしたが、商品が並んでいるところを見ると、別のが会って、彼女に聞くと、それで使えると言うことだったので、100円足して、それを購入した。
結果的に、物理的な問題はなかったのだが、彼女は甘く見られたのか?と疑心暗鬼になっていた。
現実問題として、もし僕がいなかったら、そのまま泣き寝入りしていたかもしれない。わずか600円だが、それでいいわけがない。
そのおばちゃんに、個人的に含むところもないし、たまたまだと思いたいし、あるいはマニュアルに、「返品は受けない」ということでもあるのかもしれない。しかし、いやしくも商売をしようというのであれば、顧客のなんたるかは、たとえパートであれ何であれ、しっかり教育しておくべきだろう。
確かに駅の売店だから、競争相手がいない。必要であればまたそこを使う。しかし、だからといって、客をないがしろにしてはいけない。
ラッシュ時の忙しいときならいざ知らず、昼間で、さほど混んでもなかった。
それほどいやな思いをしたわけではないが、釈然としない出来事ではあった。
投稿者 keisuke : 社会的 | 02:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年5月10日
千円札
印刷局の印刷ミスで、自販機に通りづらい千円札が4万枚ほど流通したという。印刷局の人が謝っている場面をニュースでやっていた。
とはいえ回収しないと言うところを見れば、お札として流通上の瑕疵があるわけではないようだ。
4万枚というと、人口を割ると、3000分の1くらいの確率で手元にくることになる。まあ、ほとんど来ない可能性の方が高い。さらにその中から、自販機で使用する確率となるとさらに低くなる。
現実問題として、自販機にはね返されるるお札は、意外に多いのではないだろうか。折れていたりしなくても、なぜかはいらないという経験を、多かれ少なかれ持っている人は、非常に多いと思う。これは紙幣だけではなく、硬貨でもそういうことがある。自販機というのは、そういうものだと思っていたりする。
何度かやってだめなら、他のお札を使う。せいぜいその程度だ。
とすれば、印刷ミスはよろしくないとしても、今回の効果というか、影響は、ほとんどないと言ってもいいのではないだろうか。
確かにニュースでやるようなことなのだが、ニュースでやるほどのこともないという、不思議なニュースだった。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:00 | コメント (3) | トラックバック (0)
2006年4月30日
ゴールデン・ウィーク
ゴールデン・ウイークは、4月末から5月第1週にかけての、祭日が集中する期間だが、この間には、みどりの日、憲法記念日、国民の休日、こどもの日という4日間の祭日がある。土日が2回絡むと、多くの会社員は、8日間の休日があるわけだ。
だが、4月29日のみどりの日から5月3日憲法記念日まで間には4日間あるわけで、確実に休日でない平日が二日以上存在することになるわけだ。
今年のように祭日が土曜日と重なることも多い。日曜日と重なれば、振り替えで月曜日が休みになりもするが、仮に、みどりの日が日曜日と重なった場合、次の月曜日が振り替えになったとしても、5月5日が土曜日になるようにできている。
故意に休みを増やさない限り、偶然に大量の休みがうまい具合に並ぶわけでもないのだ。今年は非常にいい方だ。
ゴールデンウイークとなると、まずはニュースで、成田空港でのインタビュー、東京駅の新幹線ホームでのインタビューが必ずある。曰く、グァム、サイパン・・・・夏休みとは別に、長期休暇を取れた人たちが大量に出国、あるいは帰省したり、国内でもいろいろなところにお出かけだ。
サラリーマンをやっていたときには、ゴールデンウイークと言っても、この間の微妙な数日間は、ほとんど出勤していたので、この期間に一週間などという休みを取ったことはなかった。
現在でも、半ば自営業なので、結果仕事に追われることになる。ただ取引先から電話などが入らないのでありがたいが。
休みというと旅行、家でごろごろしているのはもったいないというのが相場のようだが、家でごろごろしていることの至福を、意外に頷いて聞いてくれる人も少なくないように思う。なんだかこぞってみんながいろんなところに行く、その時期をねらって乗り物に乗るというのが、どうにも好きになれない質で、どうせ行くならオフ・シーズンなのだ。尤も、現状ではあまりどちらも関係ない。
ところで、東京三菱とUFJが合併したわけだが、そのおかげで、取引先などにも支店名の変更など、色々と迷惑をかけたりした。ところがかの銀行は、旧UFJはゴールデンウイーク中にATMが使えるが、旧東京三菱は使えないなどという、それなら何のために合併したのだという、どうにも顧客に対して程度の低いサービスを展開している。
そもそも銀行は、9時から3時までしか窓口を開けず、土日は休みという、客を小馬鹿にしたサービスを延々と続けてきた。ヨーロッパのように、休むのが当然、あらゆる業種がそうしているというのならともかく、ここは日本だ。普通の人が利用できるように、窓口営業を改善すべきだ。
ちょっと景気が悪くなると、ころっと態度が判って中小企業に冷たくなるような、バブル崩壊後の銀行の姿を見ていると、その根幹がこの営業姿勢にあるような気がしてならない。
まあ、最近ではネットでかなり補えるので、改善されていないというわけではないが、まだまだだ。
今日からゴールデンウイークなのだが、実感がない。ただの土日だ。5月に入れば少しは気分が変わるかな?
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年4月 9日
顧客主義
草大福というのを買った。スーパーでお徳用というのを買った。
甘いものは好きだが、量を食べられない。いつも残して捨てることが多い。これは大福に限らない。と言うより、大福を買うことは年に数回あるかないかなのだけれど。
さて、いつまで食べられるのかと思って袋を見ると、消費期限について冬はこのくらい、夏はこのくらいと書いてある。そして、そして消費期限というのがあって、留め具に記載と書いてあった。留め具なんて、開けてすぐ捨てた。同じような人は世の中にたくさんいるに違いない。
消費期限とか、賞味期限とか、微妙な言葉の違いで様々にあるのも解りにくいが、こうして、すぐ捨ててしまうような部品に書いてあるのも不親切だと思うわけだ。
かつて前の会社ではレコードや雑貨を売ったりしていた。レコードはかつて、自由に試聴ができた。中を開けて聴かせてくれるのだ。きっとCDしか知らない世代には解らないのかもしれないが、ジャケットから出して店頭のレコードプレーヤーでお店の人がかけてくれる。ヘッドホンだったり、店頭にそのまま流れたり、店によって違っていたが、おおかたのレコード店はそういうサービスがあった。
中高生相手は効率が悪いのか、昔行っていた小さなレコード店では、もう少し聴きたいと思っても、さっさと店主が張りを上げてしまったりという店があった。あくまで試聴だ、買うのか買わないのかどっちだ、と言う無言の圧力をひしひしと感じたものだった。
ソニーが最初だったと思うが、ジャケットにビニールをかけ、視聴ができなような体裁のレコードを作り始めた。ポニーキャニオンが追随した。やがてCDが出始め、CDに変わったときには、全く試聴ができないようになっていた。
顧客サービスとか顧客主義という言葉をよく聞く。販売する川は、顧客のニーズに応えてこそ、販売が成り立つという趣旨だ。それはおもねることではない。例えばトレーサビリティの充実とか、安全性を確認できたり、先のCDであれば、内容が確認できたりなど、購入する客が、何を購入に際して求めているかを的確に判断し、売り上げを伸ばすための方策として存在するサービズだ。
そういう意味では大福に限らず、留め具に書いてある消費期限など、顧客の立場に完全に立っていない。どちらかというと、大量生産される袋にそんな日付を入れていたらお金がかかってしょうがない、というところだろう。
高級な卵には、1個1個に日付が入っていたりするが、普通はそんなことはない、なんていうのとにている。お徳用の大福には必要なかろうというわけだ。
だが、この世の商売は基本的にサービス業で、医者や警察も実はその例に漏れない。直す相手、守る相手がいてこその職業なので、その対象には徹底して腰低く、あっていただきたいと思うわけだ。
医者の最大の商品はその医療テクニックであろうし、公共