2010年5月18日
ディオ、永遠に!
ロニーが死んだ。享年67歳。
ロックなどほとんど聴かなかったぼくに、ロックを開眼させたヴォーカリスト、ロニー・ジェイムス・ディオ。
ああ、なんという喪失感。
エルフ、レインボー、ディオ、ブラック・サバス、・・・・どれも好きだった。
身内以外が亡くなって受けたショックで一番大きい。
ああ、あの歌声が大好きだった。今でも年中聞いている。
あの小さな体で、あのパワフルで、彼以外には歌えない歌を歌い続けた。他のヴォーカルは、似たタイプが必ずいるが、ロニーはオンリーワンだ。
「A Light In The Black」
これが、ぼくにとっての、ロニーのレクイエムだ。
「Heaven And Hell」でも、「We Rock」でも「Holy Diver」でもない。
「A Light In The Black」
なのだ。
リッチーのギターが延々続くのも解っている。ロニーであれば、「Stargezer」の方じゃね?
みたいなのもあると思う。
だがそれでもなお
「A Light In The Black」
なのだ。しかもリマスターじゃない方の。この8分11秒は永遠だ。
ロニー、本当にありがとう。
安らかに。
投稿者 keisuke : 音楽 / 社会的 | 03:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2010年1月23日
謝罪
3ヶ月ぶり、そして今年最初の書き込みが「謝罪」というタイトルだからと言って、何か謝るわけではないのだけれど・・・
今日のニュースで、菅家利和さんの謝罪要求に対して、当時の取り調べをした元検事が謝罪はしなかったというのがあった。いずれかのタイミングで彼が謝罪するのかどうか(無罪判決が出た後など)、不明だが、おそらく彼の立場から言えば、自分は確信を持って有罪だと信じていた(少なくとも当時は)ということで、自分は精一杯やったし、間違ったことはしていないという気持ちがあるのかも知れない。たとえ結果が間違っていたとしても。
だがどうだろう、普通の事柄に置き換えてみれば、その時の思いや理屈はどうあれ、謝罪するのではないだろうか?小学生にだってそう教える。
ところが大人になるとなかなかこの謝罪というのが難しいらしい。
特に政治家はどうだろう。なかなか謝らない。また、謝り方が姑息だ。自らが間違っていたという謝り方をする人が非常に少ないように思う。誤っている方向が違うので、国民の怒りを買う。
例えば上記の検事、無罪を出すための裁判をやっているということなのだから、最初から菅谷さんは無実で、えん罪だったという結果が出ることは解っている審議だ。であれば、自分はあのとき、こういう理由で間違いなく菅谷さんを犯人だと思った、証拠もそれを示していた。だが、結果は冤罪で、今となっては大変申し訳ないことをした、あなたの人生を取り戻すことはできないが、大変申し訳ないことをしたと謝れば、一応は終わる話だ。
菅谷さんのような異例の件で、社会も国も、彼の人生を再び返すことはできない。過ぎてしまったことは最早取り戻しようがない。
もちろん、だからこそ捜査や取り調べは慎重を期すべきではあるはずだが、それとは別に、最大限彼に対して誠意ある対応と謝罪が、事件捜査や裁判に関わったものができる唯一のことである。もちろん、それでも尚彼が今でも犯人に違いないと確信しているのなら、話は別だが。
同様に、政治家もまた、謝罪すべきは謝罪すればいいのだ。政治家は、謝ってしまったらおしまいだと思っているのかも知れないが、そんなことはない。そこから始まることもあるのだ。
自分がしでかしてしまったことへの反省や謝罪というのは、新しいことを始めるための一つの区切りであり、対象者への許しの請いだ。もちろんそれでも許せないことはある。謝れば何でも解決するわけではない。だが、せめて謝れ、という部分はないわけではないのだ。
謝れないのは、実は人間の弱さだと思う。自分自身が同じ立場に立たされ、では謝れるかと言えば、その状況に陥ってみないと解らない。だから、謝らない人間を必ずしも責めようとは思わないが、それでも尚、相手が被った被害や、その人の立場などを考えれば、強く謝罪すべきではないのかという意見を、時には言うべきなのだろう。
鳩山総理が、故人献金や、母親からの多額の譲渡などについて、言葉を濁しながら、謝っているのは、それを知らなくて申し訳なかったとか、お騒がせして申し訳なかったといったことなどだ。国民はまだ我慢して民主党の自民とは違う何かをしてくれるというかすかな糸に望みをつなげている。それが、下がったとはいえまだ50%近くある支持率のゆえんだ。
一例を挙げれば、日本郵政の人事は全くもって天下りでした。申しわけございません。すぐに変えますと言って人事を刷新すると化すれば、そんなことを朝令暮改などと責める人はほとんどいないはずだ。
小泉純一郎が何故人気があったかと言えば、果断さと言ったことを行うという部分が、他の政治家よりも秀でていたからだ。彼の政策だって、誰もが支持していたわけでhない。だが郵政選挙は勝った。
鳩山政権が今後も4年間の地位を盤石にするためには、次の参議院選挙に勝たなくてはならない。そのためには、今の政権に残る、自民党の翳を払拭すること、つまり亀井静香を切り、小沢一郎を黙らせることだ。亀井はただの反小泉であって最も自民党らしい議員だし、小沢はまさに田中角栄の亡霊だ。田中角栄がロッキード事件で罪になったとしても、彼は偉大な政治家だった。だが今はそういう政治家の時代ではない。
民主党はまず思惑の違いを謝罪し、できることから順次、そしてなにより天下り根絶などを頑張ればいい(個人的には天下りそのものは全く反対ではない。天下りはどんどんさせてもいいし、その方が、官僚機構は常に刷新されるはずだ。むしろ直すべきは、天下りしても、普通の職員と同じ待遇にするような仕組みを作ることだ。2,3年で数千万円の退職金や、そもそも最初から高い地位に就けたり、年俸で一千万以上などを規制すればいい)。
まさに謝辞をしないで先へ進もうとすることが、ある意味自民でも民主でも同じ「朝三暮四」たるゆえんかも知れないのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 日常的 | 00:17 | コメント (1) | トラックバック (0)
2009年9月25日
店舗などでの携帯電話
携帯電話が日常的なアイテムとなり、人々のコミュニケーションの手段として定着して久しい。
この際、携帯の機能がどうのこうのということではなく、電話としての携帯は、非常に便利でもあるし、また、それまで家や事務所を出てしまえば、こちらから連絡しない限り、呼び出されることがなかった仕事などで、お構いなしに連絡が来たりする。これは、利用者には功罪どちらかと言えば、たぶん功の方が圧倒的に多いのだと思う。
さて、新幹線に限らず電車では、一応のマナーとして、「通話はご遠慮ください」ということになっている。優先席近くでは電源を切るというのもよくアナウンスがある。
寡聞ながら、優先席付近だからと言って電源を切っている人を見かけたことがないし、電源が入っていたということで、ペースメーカーなどに支障が実際にあったという話も聞いたことがない。あくまで聞いたことがないであって、無いと断定できる根拠はもちろんない。
さて、電車に限らず、喫茶やファーストフード、飲み屋、レストラン、コンサートホールと様々な公共の場で、携帯電話はどういうポジションにあるのだろうか?
例えばコンサートといっても、クラシックとロックでは大きく違う。ロックのコンサートでは呼び出し音など聞こえない。通話してても、通話している側の方がおそらくよく聞こえないに違いない。ただし、バラードや演歌など、以外に目立つ場面ではたぶん御法度だ。クラシックともなれば、ちょっとやそっとの大音量の曲でも目立つ。
先日もとあるコンサートで、携帯が鳴り始めた場面に出くわした。その人は、開演前にも携帯が鳴って会話していたので、その時点で切るか、せめてマナーモードにしておけば、どうということもなかったと思うが、近くだったので、以外に集中力を阻害された。しかも直ぐ切らない。何度も鳴る。そこそこひどかった。
ぼくの斜め前の人は、演奏中にメールか何かを見ていた。
後者は見えただけなので関係ないが、前者は、マナーとか言う以前の問題で、迷惑な話だ。めげずに素晴らしい演奏を続けた歌手に喝采を送りたい。
たかだか2時間程度のコンサートの間だけ、電源を切るくらいのことは、たいしたことではないはずで、それでも尚大変な何かがあるのであれば、コンサートなどでうつつを抜かしている場合ではないと思うのだが。
さて、コンサートは音楽を聴きに来ている場なので、携帯の呼び出し音や会話は、そもそもの目的にとって弊害となるわけだが、では、それ以外の、少なくとも音楽や芝居などを目的としていない場、例えば電車であったり、飲食店の場合はどうなのだろう?
社会通念上、そういった公共の場では、遠慮するというのが一般的な考え方ではあると思うが、人にはそれぞれ事情というものもあるし、例えば、大声で会話している他の人たちと、携帯の通話はそれほど変わらん、というか、場合によっては携帯の会話の方がよっぽど静かな場面もあるような気がする。
今日、近くにある店にランチを食べに行ったのだが、直ぐ隣の席に座った男性二人の内、一人に電話がかかってきた。彼は全く遠慮も、周囲に気を遣うこともなく、普通にビジネスの話を始め、5分くらい堂々と通話をしていた。気になったが、ではそれほど不快かというと、そうでもない。
その店は良く、なぜか7〜8人のおばちゃん達がランチを食べているところに出くわすのだが、彼女たちの会話の方が圧倒的にうるさく、こちらは時折不快だ。そういう場合には、手持ちの音楽プレーヤーで音楽を聴くのだが、それを圧して会話が聞こえてくる。
以前、中央線の車内で実家の母から電話があった。小声で出て、後でかけ直すつもりだったが、震える声で、家に泥棒が入ったという電話だった。周りも気にせず、次の駅で降りるまで、普通に会話をした。こんな場合もあるので、やむを得ない事もあるとは思う。
だがそれでも、大きな声で仕事の話を延々しているおやじは以外にに多い。そして、あたかもこういうことをするのは若者のような気がするのだが、実はそうではない。若いのは基本がメールだから、通話は稀である。大体うるさいのはビジネスマンだ。
彼らは、仕事だからいいと思っているのかもしれないが、おまえの仕事でこちらを煩わさないでくれ、と思うことが時々ある。外へ出て話せと思う。
不思議なもので、さっき書いたこととは相反するようだが、声というのはおそらくトーンと、それから周囲の騒音との相対的な具合で、うるさく感じる場合と、そうでない場合があるのだ。
高校生などが多いマックと、一人客が読書や勉強に没頭していることが比較的多いエクセルシオールや、その中間のドトールでは、自ずと影響が違う。
さて、ぼくはよくマナーや伝統を嫌いだと言って、反抗的な文章を書く。なぜ人前でみんなネクタイしてるのだとか、これらは新から変革されるべきだと思っているのでそう書く。
テーブルマナーほど下らないことはない。と思うが、最低限の何かがそこにあることは認めていないわけではない。だがおそらく、テーブルマナーとして学ばねば解らないようなことの80%は無意味だ。
そういうぼくが、例えば携帯電話のマナーということを書くのであれば、もっと自由にとか書きそうだが、そんなことはない。実は、会話というのは比較的受け入れやすい。前出のうるさいおばちゃんや、ちょっと安めで、ちょっとしゃれた居酒屋とかでのうるさい客の場合は別だ。マナーとかとは別に、彼らは彼らで盛り上がっているので、こちらが我慢しましょうという気になる。
だが、携帯の通話というのは以外に目立ち、煩わしいこともある。
全然出るななどとは全く思わない。出ないできる必要など無い。出て、必要ならば外で話す、あるいは今は話ができないので後ほど、くらいの気遣いを、すべきシチュエーションは少なくない。これはマナーとか決まり事ではなく、時に応じて斟酌すべきことだと思うが、実は普段からそう思っていないと決してできない。
まあ、この程度はマナーってことなのか。
昨日、横浜駅周辺の喫煙の取り締まりについてニュースをやっていた。だいぶ減ったが、役所の見回りの人がいなくなると吸う人が後を絶たないと言っていた。たぶんそれでもむかしよりは圧倒的に減ったのだとは思う。
喫煙者の内、非常にそう言うことに気をつけている人たちも大勢いて、そういう人たちは世の中がどんどん禁煙化していくことに対して、もっと喫煙者の自主規制にと思っている人も少なくはない。だが、結局のところ、横浜駅の状況がそうであるように、そのことを悪いと思っていない、逆に、自分たちが虐げられているくらいに感じている人も、少なくはないのだ。そうである限り、JTがいくらマナーのCMをやろうと、状況がそれほど良くなる訳ではない。
喫煙ほど不愉快ではないが、携帯もいわばそう言うことで、最終的には、周囲との兼ね合いということが、人間生活においては常に問われることなのだと気づく。
自分にできることは、少なくとも自分が迷惑だと感じることをしないということしかない。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 日常的 | 02:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年9月14日
「ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判」という記事
ダーウィン映画、米で上映見送り=根強い進化論への批判9月13日14時48分配信 時事通信
【ロンドン時事】進化論を確立した英博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画「クリエーション」が、米国での上映を見送られる公算となった。複数の配給会社が、進化論への批判の強さを理由に配給を拒否したため。12日付の英紙フィナンシャル・タイムズが伝えた。
映画は、ダーウィンが著書「種の起源」を記すに当たり、キリスト教信仰と科学のはざまで苦悩する姿を描く内容。英国を皮切りに世界各国で上映される予定で、今年のトロント映画祭にも出品された。
しかし、米配給会社は「米国民にとって矛盾が多過ぎる」と配給を拒否した。米国人の多くが「神が人間を創造した」とするキリスト教の教義を固く信じている。ある調査では、米国で進化論を信じるのは39%にすぎず、ダーウィンにも「人種差別主義者」との批判があるという。
今年はダーウィン生誕200年で、「種の起源」出版150年の節目の年。英国では関連イベントが盛り上がっている。
というニュースがYahoo!にあった。そしてちょっと驚いた。
ダーウィンの進化論(「種の起源」)そのものが、どこまで正しいのか、それは別にして、大筋では天地創造も、人類の進化も、教科書にはたぶん、ビッグバンやダーウィンのものが世界共通で,ある程度は学ばれているに違いないと思っていた。
宇宙の始まりや終わりを描くSFに比べて、生物の進化を描くSFは比較的少ない。後者はどちらかというと、タイムトラベルものになりがちだ。「太陽の黄金の林檎」に収録されている「雷のような音(または「いかずちの音」)−レイ・ブラッドベリ」とそれを原作とした映画「サウンド・オブ・サンダー」などは、背景に厳然と進化論がある。
まあ、本当にアメリカ人で進化論を信じているのが39%で、残りの人がみんな聖書を文字通り信じているのだとすれば、とっても驚異的だが、どちらかというと、そういうキリスト教団体の力が、日本では想像できないくらいに強いのだろうと思える。
先日、テレ朝の「学べるニュースショー」で池上彰が(この人はかつて、NHKの「週刊こどもニュース」のお父さんとしても、非常にわかりやすい解説をしていたが)、丁寧に説明していたが、ユダヤ教が信じる旧約聖書、キリスト教が信じる新・旧約聖書、イスラム教が信じる新・旧約聖書とコーラン、いずれにしても、旧約聖書を信じている人は(文字通りという意味ではなくても)、世界の人口の半分くらいはいるという計算になる。
一週間で世界を想像した神が最後に人間を作ったわけで、「光あれ」はビッグバンと相応しているからきっと問題はないけど、進化論は人間が神によって神に似せて作られたというところに抵触するのだろうな。
宗教を信じるあり方というのは何通りかあると思うが、それはぼくが日本人だからそう客観的に言えるのかも知れない。よく、海外で無宗教だというと不思議がられると言う話を聞くが、本当に無宗教であるなら、盆も彼岸も無くて良いわけだし、神社に参る必要もない。
非常に希薄な信仰心の中で、おそらくたいていの人は何かにすがっていて、日常的には何も感じていなくても、いざというときに見えない何かに頼むと言うだけで十分宗教であるに違いない。もちろん、体系化された何かを主体性を持って拝むなり祈るという行為がそこに必要であれば、確かに日本人はそこから外れる人が格段に減る。そして、神を信じる外国人には、おそらくそのことはいい加減という風に映るかも知れない。
ビッグバンや、それ以前の宇宙を論じる、理論天文学者の多くは、常に始まりの前という誰も踏み込むことができない領域、無限の外側という、人間が規定できない領域に挑みつつ、そこで論理を組み立てることができないときに、神を持ち出すしか無くなる。
それが旧約聖書の神なのか、ギリシャ神話の神なのか、ヒンドゥー教の神なのか、人によって様々だろうが、この世が人の想像、あるいは学問なり論理が及ぶ以外の部分を持っているため、それはやむを得ない事なのだ。
テレビを見ていると、以外に心霊写真や幽霊を信じている人が多いように思える。テレ朝のスピリチュアルな番組(最近はやってないのかな)などを見ても、いわば日本仏教的な先祖だったり、生まれ変わりや守護霊や、そんなことを某か信じている人は多いように見える。
生まれ変わりに関しては持論があって、過去何であろうと、そのときの記憶がない限り、生まれ変わりなど存在しない、と思っている。
ただ先祖は間違いなく存在するので、お父さんの霊が守ってますよとか、この写真に写っているのはこの滝から身を投げた女性の霊ですとか、そんな話はあるとも言えないしないとも言えない。こういうものに限らず、「ない」ことを証明するのはとても難しい。
「わしは裸だ」とのたまう王様に、見えない生地などないと証明するのは、なかなか難しいことなのだ。
人類が猿から進化したという表現は、たぶん、日光の山にいる猿が、いずれ人間になるような錯覚を与えるので、あるいはよろしくないのかも知れないが、よくある人類進化の絵のように、・・・昔、UriahHeepなどがレコードを出していたブロンズというレーベルは、その絵を使っていた・・・類人猿やさらに猿人と言われるような、人類の原型が、単純に神の似姿としてではなく、いたという話は、単純にエデンのそので一対の男女が作られたという人類誕生の話よりも説得力はある。
アダムとイブ、そしてその子孫であるカインや、とても重要なアブラハムなどの話の中で、ふと気づくと、聖書にはおそらくアダムとイブを祖先としていないように見える他の部族がどんどん出てくる(ように見える)モーゼが脱出し、その前は世話になっていたエジプトの人間も、どうやら聖書の神とは一線を画すようだ。
さて、バベルの塔の故事以前は、世界が同じ言葉を話していたそうなので、そこを基準に、神を信じる部族と信じない部族ができ、それ以前は一つだったという考え方もできるのかも知れない。
ぼくはクリスチャンじゃないし、聖書学者でもないので、拙い知識でいろいろ考えるが、自分の祖先の一番古い人は神が作ったのだ、と信じることは、とりもなおさず、アダムとイブに帰着し、「人類皆兄弟」となるわけだが、カインとアベルの故事よろしく、人類は殺し合っている。十戒ですでに禁止されている殺人を、まあキリスト教を信じて生きたこれまでの歴史上の人々も、現代の人々も、犯しまくっているように見える。だがこれはまあ、神に敵対する者への聖戦という位置づけで、少なくとも宗教上は回避できるのかも知れない。
さて、であれば、ダーウィンの映画など、神を知らぬあほどもの(異端の民の)映画として、鷹揚に見られないものなのだろうか?
ぼくは、マイクル・ムアコックという人の「この人を見よ(Behold the Man)」という小説が好きなのだが、一般的にこのタイトルはニーチェの小説として名高い。ヨハネの福音書で、ピラトが群衆に向けてイエスを指さして言う言葉だ。この後イエスは十字架にかかる。
ムアコックの小説は、サウンド・オブ・サンダーではないが、イエスの時代にタイムスリップした男が、イエスを見ると白痴だった。彼は、未来の技術で人の病を治したりしているうちに、なぜか自分が聖書に書かれているイエスの行跡をたどっていることに気づき、やがて十字架にかかるという話だったと記憶しているが(ずいぶん前に読んだので、面白かったという記憶だけで結末などを覚えていない)、こんな小説は、批判の対象にならないのだろうか、と、当時思ったものだった。
いずれにしても、ああびっくりなニュースでした。
ニーチェの作品
ムアコックの作品。現在絶版中のよう
2009年9月12日
日産のCM
このところ、各自動車会社のエコカー減税CMがかなりかまびすしい。
その中で日産のCMがどうにも気になって嫌だ。
それは、今なら〜がエコカー減税で×××円もお買い時というやつだ。
この今ならお買い時という時系列に沿った流れはまだいいとしよう、だが、この間にエコカー減税による割引金額が入ることで、もはやお買い時を形容しているのは、金額でしかない。
麻生政権で決まったエコカー減税だから、日本語の文法はどうでもいいというわけでもないだろうが、CMが流れるたびに違和感があって、日産が大嫌いになった。
金額が安いならお買い得だろうし、時期がいいならお買い時でもいいだろう。
人間というのはおかしなもので、ラーメンやそばをすする音がだめな人もいる。
態度や生き方、日常のあれこれ、笑いのツボと似て、それぞれが持つ感覚の微妙な違いがあるものだ。
このCMなど、別にお得で今がそのときなのでお買い時と言ってるのだろうが、この違和感と、こんなCM流してやがるという、もはや八つ当たりの感情があって、いらだたしい。・・・いや言葉で書くといらだたしいだが、そんなに大きないらだちではない。とってもかすかだが、こんなブログを書くくらいには、ということだ。
十分目立っているわけだから、CMの目的も達せられたということか。
それにしても、何のメリットもないエコカー減税・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 / 文学・日本語 | 01:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年8月24日
24時間テレビ
外国人も呆れる"エセチャリティ"『24時間テレビ』最大の過ちとは
という記事をmixiのニュースで見た。
このサイゾーというサイトは、いわゆる週刊誌的な記事が多く、直接読むことはなく、こうやってmixiニュースで知ることが多い。
ただ、今回はちょっと気になったので読んだ。
24時間テレビは1978年スタートということなので、今年で32回目になるのだろうか、長寿番組だ。これまで興味を持ってみたことはないが、さすがにこれだけやっていると、番組の趣旨や、どんなことをやっているかの、おおよそは知っている。
いつ頃からやっているのか判らないが、100キロ以上をマラソンするというのは、そう言ったことが苦手なぼくには、全く意味が分からない。走りたくて走っているのか、仕事だから走っているのか、それはそれぞれだろうが、走り通すのは立派なことだ。他人事ながらすごいと思う。
毎年何百億もの募金が集まり、何らかの形でそれが有用に使われているのなら、決して意味のないことではないので、このサイゾーの記事のように「エセ」とまで言ってはかわいそうだと思う。
ただ、これまたサイゾーの記事にあるように、本質的にはチャリティー喚起番組なのであって、番組そのものはチャリティーではないということなのだろう。チャリティーは困っている人などを支援するのが目的だから、その方法論として、こういう形があっても、決して悪いわけではない。
ただ、その上で、せっかくやるのなら、人の善意ということをとことん追求するくらいの心構えがないと、なにやら画竜点睛を欠いていることも否めない。
出演者も、スポンサーも、全てチャリティーであることを前提に、かかるお金は全て慈善に使うという決めごとをし、舞台となる施設の使用料も無料、当日の電気代なども無料で提供してもらい、人件費以外にかかる経費を各企業の善意で0にする。
スポンサーは、本来これだけCMを流したりしたらかかる費用+αを寄付する。
日本テレビは、この二日間のテレビ収入を完全に0にし、入ってきたお金は全部寄付をする。
出演者はむろん、ノーギャラ、番組のために曲を作ったりした場合、その売り上げは、全額寄付に回す。当然、CDショップなどでも、ノーマージン、1000円の商品が売れたら、1000円全額が寄付される。
Tシャツなども、制作する企業にはお金を払わず、その制作費は全額チャリティーに回ることを伝えて、番組内で企業名を宣伝すればいいように思う(もうやってたりして・・・)。
などなど、徹底した姿勢でチャリティーに取り組めば、エセと言われることもなく、協賛社(者)は決して少なくないだろうと思われる。全ての広告費、経費、人件費がこの二日分+αで、全額チャリティーに回るとすれば、半端ない額になるだろうし、その使い先も明確にすれば、相当いいイメージが日テレにつき、実は一番得をするのが日テレに違いないと思うのだが・・・・
と、この記事を読んでいて思った。
たとえサイゾーに対してでも、本当にああいう回答をしたのであれば、そしてこの記事が事実であれば、むしろ日テレのイメージダウンのような気がする。
個人はともかくとして、企業に慈善事業というのは、無私であることが、そもそも疑われて当然であるから、それを誤解無く行うためには、それなりの努力と犠牲が必要になると思う。
ぼくは知らないが、出演者の中には何人かは、ギャラを全額チャリティーに回した、なんて素晴らしい人はいないのだろうか?ただし、出演者だけにノーギャラを求めるなんていうのはどうかと思うが。
チャリティーと銘打って、人の善意を利用するのは一つの手段だが、ただそれだけなら、おもしろおかしく26時間お笑いをやっているフジテレビの方が、まだ救いがあるように思えてしまう。実績があってもだ。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 | 01:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年8月16日
レス・ポール
先日、レス・ポールが亡くなったというニュースを電車内で知った。
なんだか最近、大御所の死が続く。もちろん、いつだって誰か死んでるし、その中に著名な人物も数多い。
だが、世間でどんなに有名でも、自分がどれほど驚くかというのは、また別の話である。
5月の末に作家の栗本薫が亡くなり、翌日作詞家の石本美由起が亡くなった。無くなった時間にもよるのか、ニュースは同日に流れたケースが多かった。
石本美由起は昭和を代表する日本の作詞家で、「悲しい酒(美空ひばり)」や「矢切の渡し(ちあきなおみ他)」などを書いた人だ。
一方栗本薫は中島梓名義で評論なども書く、ミステリとSFを中心に活躍した作家だ。
まあ、ニュースの扱いが磯本美由起の方が非常に大きかったのはテレビ局などとしては当然のことかも知れない。でもまあ、言っちゃ何だが、85歳まで生きて天寿を全うした方に比べ、まだ56歳という若さでなくなった栗本薫の扱いは、その作家としての仕事に比べて小さかった。
ぼくは実は、栗本薫は1冊しか読んだことがない。だが、グイン・サーガという、130巻近い大著を著した作家は、おそらく世界でも以内に違いない。どうやらギネスに申請もしていないのか、載っていないらしいか、まさにギネス級の作品だ。どんな本屋でも、新刊(文庫書き下ろし)は必ずといっていいほど平積みされている。
早川書房はローダンとグインで食っているという噂を聞いたことがある。
この2作は、方やギネス認定の世界最長編小説(先日ドイツで2500巻を超えた)と、ギネス未認定の個人による世界最長編小説だ。ローダンは最初から複数作家で書かれているし、すでに最初の巻を書いた作家は二人とも死んでいる。ローダンは売れ続ける限り、書き続けることができる小説だが、グインはそうではない。栗本薫無くしてグイン無し、なのだ。
これだけのものを書いた作家としては、無くなったときの扱いがきわめて小さいし、テレビのクイズ番組でもおなじみのみたいな扱いは、きわめて悲しい。読んでなくてもそう思うのだから、ファンはさぞやがっかりしたろう。
さて、レス・ポールだが、レス・ポールと聞いて、最初に思い浮かぶのはギター以外のなにものでもない。個人的には、エリック・クラプトンが真っ先に浮かぶ。
まったくもって、ぼくはフェンダーのストラスキャスターにあこがれた側なので、ギブソンのレスポールの音ではなく、ストラトなのだよ、などともしかしたら昔は、弾けないくせに語ったこともあるかも知れないが、ローダンとグインの比較ではないが、やはりレスポールは素晴らしいわけで、その名を冠したギーターはともかく、本人が死んでしまったのだな、と思ったわけだ。
というより、「えっ!まだ生きてたの?」というのが実感だった。
後で調べると94歳だそうなので、大往生というところか。
だが、なんか感慨はあるのだ。ストラトキャスターが死ぬことはないし。
ここで取り上げた3人の故人、全てのご冥福をお祈り致します。
投稿者 keisuke : 音楽 / 社会的 / 文学・日本語 | 21:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年7月21日
まつり
久々にお祭りに行ってきた。
府中にある大國魂神社というところのすももまつりというのだ。
そもそもぼくは、祭りというのがあまり好きな方ではない。歴史や伝統ということに、あまり価値を認めていない変革ばかりを尊ぶ性格が災いしている。
特にけが人が出そうな危険な祭りは性に合わない。そういう祭りが有名な地域に生まれなくて幸いだったと思っている。ああ、ただ好きではないというのと、価値を認めないというのは全く別の話なので、あしからず。
尤も、祭りは好きではなくても出店は好きだ。祭りというのが出店めぐりのことであるなら、実は好きだ。
今日も、結局のところで店めぐりだった。堪能した。
すもも祭りというのは、以下の大國魂神社の説明を読めば解る。
夏の風物詩として、近郷近在の人々より親しまれている『すもも祭』は毎年7月20日に斎行されます。その起源は源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9 年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こりました。その祭神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市がたつようになったのが、この祭りのの名前の由来です。当日神社では五穀豊穣・悪疫防除・厄除の信仰をもつ「からす団扇」「からす扇子」を頒布しています。この扇を以て扇ぐと、農作物の害虫は駆除され、又病人は直ちに平癒し、玄関先に飾ると魔を祓いその家に幸福が訪れるといわれ、これを受ける人達で境内は終日賑わい、参道には李子を売る店をはじめ多数の露天商が軒を連ねます。
ぼくは、神社仏閣を訪れる際、必ず世界平和を祈念する。一番祈念して、当たり障り無く、尚かつ非常に高邁で、何より神仏に頼らなければおよそ実現できないようなことかな、と思うので、そして、本心からそう望んでいるので祈る。
ただし、今日などは境内で参拝の行列ができていて、到底並んでまで参拝する気になれないので、遠くから気持ちだけ運んだ。
この、並ぶという行為がぼくはとても苦手だ。この苦手な感情を目的が凌駕しない限り、並ばない。だから銀座チャンスセンターなどで宝くじのために並んだことはない。これは、どこで買おうと確率は一緒だという理屈だけに寄ったものだが。
さて、そんな楽しい出店めぐりで、ケバブを挟んだトルコのサンドイッチみたいなのを食べた。国際色豊かだ。おいしかった。参道にずっと並んでいるわけだが、焼きそばにたこ焼きにお好み焼き、ソースせんべいにあんずあめ、チョコバナナ、フランクなど、同じ店が随所にある中、このトルコの味は変わっていて良かった。考えてみると、もっとバリエーションがあってもいい。例えば焼きそばでも、全部ソース焼きそばではなく、上海焼きそばとか塩焼きそばとか、違えば楽しめるのに。
もちろん昔に比べれば、色とりどりだし、その中で昔ながらのいい味も出している。おっと、伝統や歴史を否定する男が言ってはいけない台詞だ。
たこ焼きも、大きなたこが入っていておいしかったが、焼きそばだけがどうにも不味かった。これは残念だった。全く肉も入っていないし。
佐世保バーガーなんていうのもあったが、大きすぎる。
そう、あれだけ出店が並んでいても、一つ一つの量が多すぎる、少しずつ食べられれば、少々割高でも、もっと多くのものを食べることができるのだが。sこがお祭りの、常に残念なところだ。
たこ焼き1個50円とかね。
家の近くの商店街に観音様があるので、時々で店が出る。でも、祭りので店はもう少し豪快が楽しい。確かに人混みは、祭りでもそれほど好きではないが、町中でのき模様とはやはり違って、それほど気にはならない。
府中という街もいい街だった。
またいこう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 / 料理・グルメ / 歴史 | 02:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年7月15日
世論調査とか
世論調査というのがあって、よくテレビで調査結果を放送している。ほとんど政治がらみで、内閣支持率とか、そんなものの調査を行っているようだ。大概、サンプル数は1000くらいに思える。
で、その結果が世論の動向を表して、内閣支持率何%とかが世論の動向ということになるのだ。
似たような調査で、視聴率というのがある。
これはただ、世論調査とは違って、視聴率を計る機械などを取り付けた家庭が対象になっているようだ。そして、テレビ局はこの視聴率のために番組作りを頑張る。
これはインターネットのページビューが、広告の数や広告費そのものに影響するのと同じことだろう。ただページビューは、完全な実測値(正確かどうかは別として)であるのに対し、視聴率はあくまで、世論調査などと一緒で、統計的な理論に基づく有効サンプル数内の計測である。
さて、サンプルが1000として日本の人口を単純に1億くらいで計算すると、10万分の一、つまり、自分がそのサンプルの一因になる確率は、10万回に1回ということになる。毎週世論調査がどこかであるとして、年50回ほど、100年生きても5万回なので、半分の人は一生の内どこかで世論調査の対象になるが、残りは全く対象にならない、ということになろうか。
世論調査は各社あるが、世論調査を受ける対象年齢はもっと限られているので、世論調査の対象となるのは一生に一度あるか内かということなのだろう。増して今の若い人は携帯しか持たない人が多いから、たぶん今の状況の中では、固定電話のある人が対象になりそうなので、もっと確率は低くなりそうだ。
かくいうぼくも、いわゆる新聞社などの世論調査は受けたことがない。
言ってみれば、ぼくの意見は世論に反映したことがないことになる。
もちろん、それ以外のアンケートなどに関してはWebでアンケートに答えるようになってからは、毎日何らかのアンケートに答えているので、それ以前と、今とでは様々な世の中の動向に対して、何らかの影響を自分の考え方が及ぼしていないわけではないと思う。
でもそれは、こんな菓子が好きだとか、車は乗らないとか、家電はどんなものを持っているとか、せいぜいそんなたわいもない内容だ。
世の中の動きというのは多かれ少なかれ、人の意見や行動によって制御され、初詣から戦争まで、その集合値が動かしている。合うときは政治家の扇動だったり、マスコミの報道だったり、様々な理由は付けられるが、実際には個人の集合としての集団がどう動くかである。
革命も、従属も、実はその動きの結果に過ぎない。
都議選が民主党の圧倒的な勝利に終わっても、負けたのは自民党だけではなく、共産党や他の小さな団体も負けている。もともとある程度の集合値が見込まれる公明党が全員当選したのは、確かに創価学会の力も大きいだろうが、それ以外の人だって投票しているに違いない。
たとえ自分自身が生活者ネットワークやエロすぎる後藤麻衣に投票したとしても、世の中は動いていくのだ。尤も、ぼく自身はそもそもそのどちらにも投票できない地域に住んでいるが。
そう考えると、ハリ・セルダンの心理歴史学(Psycohistory)というのは、何となく実現不可能ではない学問のように思えてくる。心理歴史学はアシモフのファウンデーションシリーズ(個人的には「銀河帝国の興亡」という邦題が好きだが)に出てくる、集団としての人類の歴史を正確に予測する学問のことだが、実は現実の評論家は、数学を使わないで、不正確なこれを行っているわけで、何となく公式化できそうな気さえするではないか。
いずれにしても、反映されない世論の担い手として、例えば、自民党支持率30%、不支持率60%という調査が合った場合、残りの10%のどっちでもない人も含め、確かに自分の意見も、そのどれかには含まれているわけだ。支持か不支持か、どちらでもないか、他に回答がないわけだから。
これをして世論は自民不支持だという結論が導き出されるわけで、いわば世論というのは世間の人々の気持ちという単純なものではなく、当たり前のことだが、世間の多数を占める人たちの意見なのだ。
世の中の人たちの意見はこうだではなく、常にそういう傾向があるということしか解らないわけだ。その曖昧さ故に、世論やアンケート調査というのは、なんだか楽しいものだなと思う。
笑っていいともで、会場にいる100人にアンケートを採るというのがあるが、100というのはなかなか望めない。下手をすれば、今この会場にいる人、という質問をしても99などになりかねない空気がある。
選挙とか、解りやすいものではなくても、世の中はこの曖昧さ故に、争いが無くならないのだな、と思うと、不確定性原理が支配するプランク以下の世界が、曖昧である理由が分かるような気がする。
この世に正確とか厳密ということは、突き詰めると無いということなのだろう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年6月23日
マナーということ
以前にもちょっと書いたことがあるかも知れないが、
マナーという言葉がある。
広辞苑では「行儀。作法。」新明解国語辞典では「〔manners の日本語形。扱い方の意〕〔礼儀作法にかなっているかどうかという観点から見た〕態度。」
英語のmannerは、研究者の英和中辞典に「1方法,仕方 2態度,物腰,様子,挙動 3 [複数形で]行儀,作法 4 [複数形で] 風習,習慣 5 流儀,様式」と、多くの意味が載っているが、日本語で言ういわゆるマナーはこの中の3と、一部4を含む場合があるように思う。
山手線のドアの上にあるモニターに「60秒講座」という名前で、マナーについてのうんちくめいたものが流されている。車の席順やエレベータの位置など、上司と部下の配置などを目にしたことがある。
今日の昼間、ちょっと疲れてテレビを付けたら、たまたま結婚式のマナーというのをやっていた。他にもやっていたのかも知れないが、ぼくが見たのは、出欠はがきの返信用の書き方だった。
一般的に、御出席、御欠席などのどちらかに丸を付けるなり、どちらかを消すなりするだろうが、テレビでは、御出席や御欠席の全ての「御」を消すこと、御芳名は「御芳」を消すのだそうだ。しかも、出席であれば、御欠席を二重線で消し、御出席の御を消して、出席に丸を付けるというご丁寧さだ。
さらに、ワンランク上という何が上だか下だか解らないが、「御」を消す際に、一つ一つ「寿」という赤字で消すという技を教えていた。
その上さらに、最近では、「おめでとうございます.式を楽しみにしています」のように、一言添えるのがマナーなのだと、宣うておられた。
なかなか楽しいマナーだ!
個人的には、結婚式の出欠はがきは、連絡事項なので、出欠と名前が分かればそれで十分だといういう考え方からは外に出ない。その上で、上記のようなことを知れば、多少は気を遣う。
マナーというのは、礼儀というか、慣例というか、作法と言うかによって若干の意味が違うし、しょせんと言ってしまっては身も蓋もないが、時と共に移り変わるし、土地によっても変わるものだ。こいつをTPOというのかも知れない。
ぼくはマナーマナーと小うるさいのは嫌いだし、基本的にはマナーは他者との関係で相手がどう考えるのかに全てが関わっていると思っているので、当然のことながら、臨機応変が必要になる。といって、本気でどうでもいいとは決して思っていない。
例えば、日常的なことを言えば、電車でまだ降りようとする人がいるのに、どんどん乗ってきたり、知り合いとの別れを惜しんでいるのか、いつまでも入り口でなかなか降りなかったり、こういうところで周りに気を遣うのはマナーだと思っている。
だから結婚式にはきちんと黒のスーツで白いネクタイを締めていく。本心では、猫も杓子も同じ格好をしてあほらしいと思いながら、それに倣う。祝儀袋も香典も、どちらが上でどちらがしたかとか、名前の書き方とか、一応気を遣う。
よく、祝儀は2万円だと割り切れるから奇数がいいと言われることがあるが、どうして分母を2と決めているのか意味不明だ。どんな金額を入れようと札であれば必ず割り切れる。気を遣う意味がない。・・・はずだが、世の中は面白い。
ちなみに、ずいぶん前から、若いうちの社会人は2万円くらいが相場のような気がするので、きっとこんなマナーは、あってなきがごときなのだろう。
マナーというのは、誰かが最初にそれを必ずやっているはずだ。確かに長い歴史の中で組み立てられてきたに違いはないが、必ず最初に行った人がいる。結婚式に祝儀を渡すのは、おそらくお祝いが形式化しただけのことだと解るが、「御」を消したり、たとえば「〜行き」と書いてある封筒を「御中」に変えてみたりというのは、さっさと無くなってくれても一向に構わないしきたりのような気がする。
年賀状という仕組みが、なぜかここまで定着すると、年末年始の無駄な出費が増える。これも相手が取引先だったり、上司だったり、必ず皆が出しているわけではないが、礼儀ということを考えると、何となく出さざるを得ない。
もちろん、普段合わない知己などに近況を報告したり、相手のことを知るのは悪いことではないので、一定の価値はあると思うが、正月休みを終えれば会える人や、単なるご挨拶以上の意味を持たない賀状は、実際のところ、日本郵政を肥え太らせる以上の価値はないと思う。
さて、それでも尚、「マナー」とことさら言われると、そのほとんどに反発したくなるのはなぜだろう?一定の価値を認めながら、煩わしく、勝手にさせてくれと思うのはなぜだろう?
まあその半分は、現実問題としてそのマナーが下らない決まりである場合がある。
今日やっていた、乾杯の時のグラスの高さや、「益々」のように重なる言葉はスピーチでさけるなどは、まさに下らない。どっちでもいいことだ。
でもまあ、相手がいることだから、きっと乾杯の時は、そこそこ気を遣って乾杯をするに違いない。かつて歌があった。ああ、小市民なのだな。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年6月 3日
大人語とやら
という記事があった。
スキーム/イニシアチブをとる/マター/架電の件/バーター/ポテンシャル/NR/ガラガラポン/ASAP/ペンディング
という順だった。
ASAPは口に出していて解ったが、NRは全く思いつかなかった。どうやらNo Return、直帰ということらしい。
バーターは交換というkとだろうが、交換条件から、時々抱き合わせみたいな意味で使われることすらある。
架電はどうやら電話をかけることらしいが、初めて見る字だ。こんな感じで新しい言葉は生まれていくのだろうか。
ガラガラポンはよく政界ニュースでやっている。
スキームやイニシアティブやポテンシャルは普通の外来語だと思うが、ポテンシャルはスポーツなどでもよく使われるが、どちらかというと物理用語的だ。
こういうランキングはインターネットができたことで手に入るようになった情報の一つだが、かつてITとか、インターネットという言葉すら、こういうランキングがあったら上位に入っただろう。
ただ思うが、若者言葉と同様に、あたかもこういう言葉を知らないと社会人としてなんだ、みたいな傾向が、時にあるのかも知れないが、所詮は言葉だ。知っている言葉と知らない言葉がある。
友人が、機先を制するという言葉が通じなかったと言っていた。
言葉はより多くを知っていた方が、コミュニケーションに困らないし、楽しい。だが、NRを知らなければ、訊けばいいので、そういう意味では、知らないことは必ずしも恥ではない。
尤も、日常会話が成り立つ程度には知っていた方がいい。ただし、それも個人レベル、コミュニティレベルで違うわけで、ちょっと古いが麻生首相のレベルであれば、より高度な知識が要求されるわけだし、それはやむを得ない。
ただあの人は、言ったことをころころ変えて、しかもそれを最初から言っていたと言い張るところが大人げない。あ、言葉の話題ではなかった。
それにしても、「マター」ってどういう意味だ?
投稿者 keisuke : 社会的 / 文学・日本語 | 02:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年4月30日
携帯メールの会員
今日たまたま、友人の買い物につきあい、その折り、オープン記念で携帯からメール会員登録をすれば、その場で10%オフにするというサービスをやっていた。たとえ数百円でも引いてもらえるのなら、登録をするのが人情で、さながらレジ周りは携帯を出した客がみな登録をしてから購入していた。
実は先日、知り合いと飲みに行った際、そこでも同様のサービスをしていて、客それぞれが、会員登録をすると500円引き、二人で飲みに行っていたので、都合1000円の値引きになった。
猫も杓子も携帯電話なのだが、今日観たDVD (「エスパー(原題:Static)」)でも、携帯はあらゆる情報の送受信端末であることが語られていたが、確かに、電話の枠を越えて、電話のできる小さなパソコンであることは間違いがない。DVDではチップを脳に埋め込み、思考と連動して通信をするという技術の話だったが、思考との連動ということができるかどうかは別にして、チップ埋め込みによるより高度化した携帯と人間との連携みたいなことがいずれ起こるかも知れない。
とはいえ、パソコン用に、いつの間にか毎月5000円程度がインターネットを使うための定額出費として計上され、固定電話が多少安くなったとはいえ、その安くなった分を相殺して上乗せした携帯代がかかり、さらにパケット代というのを払うとなると、かつてはせいぜい数千円で済んでいたコミュニケーション費用が、いつの間にか数倍に広がっていることに気づく。
上記の携帯での会員登録も、かつては紙で申込書を書いてポイントカードをもらったりというのが、ここ数年で、QRコード(今回の2回とも、どちらもQRコードの使い方を解っていない知り合いだったというのが面白かったが)で簡単に携帯から登録できるようになった。
尤もこの「簡単に」というのは、使い慣れている人のための言葉で、使い方を知っているぼくでも、面倒この上ない。送信、受信、接続、記入、受信という、大体こういうステップが必要になる。
この回数もさることながら、この記入という作業がめんどくさい。名前や生年月日、場合によっては、何人できたかとか、どういう目的かとかいうアンケートを取ったりする場合もある。
さすがに住所などは任意のことが多いが、個人情報の保護がここまでやかましく言われる時代に、このシステムは何とも逆行しているようなシステムにも、ある意味感じる。
負けてくれるなら、そんなめんどくさい作業無しに負けてくれれば、よりその店舗への印象は良くなると思うが。このアンケートという手法は、確かにいいリサーチなのかも知れないが、幾分諸刃の剣のような側面がある。
ぼくのように、パケ放題登録をしていても、その際低料金以内で済ませたいと考えている人間もいる。日常的にパソコンでインターネットにアクセスできる環境がある人間は、わざわざそれを携帯でやりたくない、という人も少なくはないと思う。
携帯に小さな画面に小さな字で何かをするというのは、50年も生きてきた人間にはそれだけで煩わしい場合もあるのだ。
こういったケースバイケースを想定して、何でもかんでも右へならいのように、携帯メールマガジンの登録などという方法を採るのは、あるいは一時期の流行に過ぎないのかも知れないが、今回の2回のように、割引というえさをぶら下げられて、めんどくさいがそれではしましょうというのも、あまり店と顧客の関係としては、良好とは思えない。割引は割引で、登録は任意で十分だ。任意で登録してくれないのであれば、それは魅力がないからで、メールマガジンの押し売りは、顧客にとってはゴミメールの集積に他ならない。
飲み会の割引後、ぼく自身はすぐに会員登録を解除した。この作業もめんどくさい・・・・
投稿者 keisuke : インターネット・PC / 社会的 / 日常的 | 01:19 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年4月29日
北野誠の会見
北野誠が全ての番組を降板し、謹慎するというニュースは数日前に読んだ。その時点ではあまり興味を持たなかったが、今日の会見を見てちょっとネットを調べてみたが、何ともよく分からない事件である。
よく分からないこととが、これでいいのか?という疑問を生む。
特定の宗教団体や芸のプロダクションへの誹謗中傷などに関しては、今日の会見で否定された。ネットに踊る理由は、事実ではないと発言したわけだ。
北野誠というタレントが、どういうタレントなのか、実はよく知らないが、歯に衣着せぬというか、時には毒舌を含んだ発言が人気を博しているのだろう。バラエティで時折目にする彼は、だとしてもそれほど常軌を逸した発言をするとは思えない。常識をわきまえた発言をしているように見えた。
もちろんラジオという場は、テレビとは違い、より過激だったり、そこが面白くもあるのだ。それは昔から、特に深夜放送は変わらない。
ただ、タレントが公共の電波で発言したことが、そのタレントの仕事を、一時期とはいえ奪うとすれば、その放送を聴いたリスナーの中にでも、その原因は見当が付きそうだ。おそらくその推測が宗教団体や芸能プロに原因を求めたのだろう。もちろん、本人が否定してもそこに理由がないとは言い切れない。何故なら、本当の原因を隠して会見しているからだ。
その発言がごく私的な個人への攻撃だったりするなら、ある意味蒸し返すことはよろしくない。だが、それが特定団体や公人になされたものであれば、その人の人生を大きく左右している以上、何らかの形で明らかにされなくてはならないのではないだろうか。
これでは、憶測でも「影の圧力に屈した」という印象をぬぐえない。
これは、北野誠個人の問題を離れ、表現の自由とその範囲をきちんと守るためにも明確にされるべきことだ。
芸能人は、先日の草なぎ剛の件をとっても、一般人とは違った尺度がその行動に科される。それはある程度仕方がないことだと思うが、だからといって、一人の人間、一人の日本人であることに変わりはない。必要以上の制裁が加えられることは、厳に社会が慎まなくてはならない。
同時に、一人の芸能人が仕事を失うとき、その芸能人が著名であればあるほど、その理由は明確にされるべきだ。それが社会に対する責任であるはずだ。
悔しげな北野誠の姿を見ながら、何かその背景にあるものへの恐ろしさという感情を、禁じ得なかった。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年4月26日
車
世界的な不景気の中で、輸出産業の最右翼である自動車の輸出が減っていて、トヨタ、ホンダなど、大手の自動車会社も大変なようだが、同時に、国内でも車が売れないという。若者の車離れ、というような表現で、テレビでは語られていた。
車離れの一つの原因は、「買えない」ということだ。車は駐車場代も含め、購入後の維持経費もたくさんかかる。ワーキングプアと呼ばれる人たちが増えているのだから、自ずと車をもてない若者が増えているのも頷ける。
同時に、少子化という側面もあるから、全体のマスが減っているということもあるだろう。
環境対策としてのカー・シェアなども一因だろう。
ぼくは免許を持っていない。会社を辞め、取り敢えず免許を持っていた方がいいかな、と思ったとき、一度だけ教習所に通ったが、仮免に落ちてめんどくさくなって止めた。元々どうしても欲しかったわけでもなく、いや、高校時代からの思いで、むしろ車は運転したくなかったので、そんな気持ちも、途中で止めることに何のためらいもなかった。・・・もったいないという気持ちはあったが。
現在とはそもそも考え方は違うが、高校時代のぼくは、文明と自然ということに、ことさら興味を持ち、人類という種が、全宇宙を包含する自然を破壊する悪のように考えることがあった。ただ、もともと突き詰める性格ではないので、それは、小説を書くという方向で展開された。
現在、地球温暖化や環境保護がやかましく言われるが、ぼくが高校生の頃は、公害問題がとても大きな社会問題だった。今だって小さいわけではないが、当時に比べて企業も社会も、問題意識を持っているし、自然も川も、綺麗になったところが多い。
さて、こういう環境問題が顕在化している現代、いろいろな本を読んでいると、必ずしも地球温暖化について言われていることが正しいのかどうか解らないが、可能性としてあり得るのであれば、対処しておいた方がいい。その対処が別の災厄を生むというのなら別だが。
その上で、車離れ、というのは自動車会社にとってみれば、会社の存亡に関わる大事なことだが、環境問題から言えばむしろ素晴らしいことではないか。
現代社会における車の役割は、もはやその功罪の罪をいくら論ってみたところで、その功が圧倒的に勝っていることは言を俟たない。
だがそれでも思うのだ。自動車会社には悪いが、車が売れなくなる社会は決して、今のところ悪くはないのだ。
エネルギー問題は元より、完全に事故を防げるような車が開発されない限り、車が走る凶器であることは変えようもない事実であり、数が少なければそれだけ、その確率は減るのだ、と。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年4月12日
小沢一郎は辞めるべきか
ちょっとヤプログ!というところへ「うちでのこづち」を移そうとしてみたが、なかなかそれはそれで使いにくいことが解ったので、やっぱり自分のところで書こう。その間向こうに書いたやつは放っておいて。
この小沢は辞めるべきかというのは、もうだいぶ前から書こうかどうしようか迷っていた。何故なら、あまり世論と違うことが書けないからだ。面白くない。
とはいえ、献金問題から一月くらい経ち、定額給付金が一部で出(渋谷区はまだ何の音沙汰もない)、自分とはまったくと言っていいほど関係なさそうな追加の補正予算が出(免許を持っていないし、子どももいない、先日の高速道路の一律千円だって、何の恩恵もない。これだけ不公平なばらまきをされると、やっぱり自民党じゃだめだと、とっても卑近な感情で思ってしまう)・・・ご託が多すぎた・・・いずれにせよ麻生政権の支持率が少し持ち直すという、とっても解りやすい現状を見ると、ちょっと書いておきたくなったわけだ。
細川内閣から村山内閣までの一時期の連立政権を除き、この国はずっと自民党が政治を牛耳ってきた。しかもそのほとんどが、何らかの形で2世議員。
何でも変化がいいわけではないが、ある程度方向性の違う二つ以上の政権が、お互いに必要に応じて交代できる政治がいいだろう。少なくとも、一つの政権がある人々の利益を代表するのなら、その反対にある政権が別の利益を代表するに違いない。
基本的には国民という、決してすべてが一方向を向くことのない相対の利益を代表するという、あり得ない目標をおそらくは掲げながら、政権というのは運営されるが、明白にそれは、一部しか代表していない。
それが右に行くのか左に行くのか(右翼とか左翼とかいう意味ではなく)のバランスの中で、国民が選挙でどちらかを選べるようになってくれないと、昔のようであれば、せいぜい第2党が社会党で、政権担当能力などない。それでは選択肢がないに等しいわけだ。
今、戦後の政治の中で、このバランスをうまく作り上げることが初めてできるかも知れない。
ある意味、民主党の多くの政治家は元自民党だし、民主党になったら政治が良くなるのか?という疑問があるのも事実だ。民主党が政権を取るということは、行政と立法が今よりもぎくしゃくするはずだ。アメリカのように、政権に基づいた行政が形作られるわけではないが、少なくとも民主は、政治家を行政に入れることでそれに近いものを実現しようとしている。
次期衆議院選挙は、他はどうあれ、その体制を作るための重要で、しかもここしばらくでもごく貴重な選挙だ。
そんな中にあって、選挙がうまいという理由を少なくとも最大の根拠として小沢一郎を党代表に置いている。個人的には、小沢になった段階で反対だったし、知人にもそう言っていた。
そんな中で献金問題は、降ってわいたような好機だったはずだ。
その献金が、法的に正しいか間違っているかなど二の次だ。
これまでの自民党政治のように、多額の献金を企業から受け取って政治をしている人間が、トップにいることそのものが問題なのであり、それがこのところの世論調査の意味だ。
以前から、小沢を総理大臣にしたいと考えている人はそう多くはなかったはずだ。田中角栄や金丸のような政治家を必要とした時代は、確かに過去にあったのかも知れないが、そことは全く決別し、清心とは言わないが、自民党の昔ながらの政治家の対極にいる(ある意味小泉純一郎は、そのスタイルだけでもそうだったからこそ人気があったのだ)人物を、党の顔にすべきなのだ。
すでに小沢は辞めるべき最善の時を逸し、なおもその座に居座り続けている。その気持ちも分からないではないが(少しだけ)、引き際の潔さこそが、小沢の価値を高めたに違いなかった。
鳩山兄が、あのタイミングで辞めることは、検察の疑いを是認することだというような趣旨のことをテレビで言っていた。だが違う。
確かに、法的な根拠で辞めるのならばそうだが、これからの民主党にとって、自分は悪いことはしていないが、世間の目に政治家として旧態依然の者と見えるようなやり方で政治をしていたとすれば、トップには相応しくない。とでも言って辞めていれば、民主党株はぐっと上がったに違いない。
政治に金が必要なのは、いいことだとは全く思わないが、仕方がない。だが、その資金の集め方に対して、国民がどういう見解を持っているのかは、政治家として敏感でなければならない。
少なくとも小沢一郎は、その敏感さを持っていなかったともう。いや、持っている政治家は少ない。仮に自分自身が政界へ入ったとしたら、次第にその感覚を失うのではないかとさえ思う。おそらくそういう種類の感覚だ。
いずれにしても、遅いとはいえまだ遅すぎないから、さっさと代表交代をした方がよい。できれば若手の方がよい、しかり話のできる。思い切ったことをするタイミングだと思う。マスコミの効果もあり、岡田の名前が出ているが、彼はきまじめすぎてその器ではないと思う。
もちろん政権交代をしても、かつての細川内閣のような体たらくではだめだ。少なくとも、相互交代ができるくらい、しっかりした政策を、少なくとも最初の段階で流行ってくれないと。どうせいずれは批判まみれになるに決まっている。政府とはそうしたものだから、それでいいと思うが、順次交代できないと困ると思うのだ・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年2月 9日
公務員制度
天下りとか、渡りとか、昨今(では全くない話だと思うが)、かまびすしい公務員の待遇や決まりに関する問題だが、まずそもそもこの問題は、基本的に「キャリア」と呼ばれる上級の国家公務員だけの問題で、一般の公務員はあまり関係がないのだろう、
いろいろテレビやその他のメディアを見ながら思ったことをつらつらと・・・
まず、天下りの理由が判然としない。
同期の他の人間が出世して役職に就いたら、他の人間のポストがないので、肩を叩いて再就職先を斡旋する。って、どうして平で勤めていてはいけないの?この人達は、国家試験に合格したことが、ある一定以上の収入を、生涯にわたって確約されたと信じているのだろうか?だから、もうこれ以上給料増えないから、他で儲けようって。で、儲け先をいろいろ作り出したと。少なくとも、そう見えてしまう。
ぼくは、そもそも天下りだろうが、渡りだろうが結構だと思っている。官庁で働きたくないのなら、他へ行けばいい。だが、最初からそこに優遇されたポストや待遇を作って移るというのは、非常識きわまりない。
そもそも、それらの独立行政法人などは、どうして1年や2年勤めただけで数千万円という多額の退職金を払うのだ?それが一般企業で、勝手に儲かっているのならともかく、多額の税金で運営されているところだろう?すべてではなくとも、大量に流れているのは事実だ。そこが新入社員編みの退職金しか払わないようにしてしまえば、頑張って官庁に残って、平でも働くのじゃないのか?
さっさと労働争議権とやらをやって、一般企業並にすればいい。だからといって、今時ストなんかやってる会社があるだろうか?かつての労働組合と企業のせめぎ合いみたいなことはあまり耳にしない。もちろん、交渉はしているのは当然だが、それはあくまで交渉だ。
しかも、テレビを見ていて思ったのだが、今でも公務員の給料が安いと思われているらしい。もちろん、地方公務員など、安月給で頑張っている人たちはいるに違いない。でも、ことは国家公務員、しかもキャリアと呼ばれる人たちだ。いったいどの企業のどういう人たちと比べているのか?
日本の平均給与なんて、当てにはならない。しょせん大手の平均給与だ。
日本という国は多大な借金を抱えている。地方自治体ならとっくに破綻しているはずだ。
そんな破綻した企業の従業員が、高い給料で働けるわけがない。
しかも国が企業なら、総理大臣が社長だろうし、国民は株主だ。勝手に決めるな、と言いたい。
人事院なんて、会社で言えばただの人事部だろう。まあ、人事部は「ただの」ではないが、今の人事院の総裁というのは、人事部長としては鼻持ちならないオーラを発している。
公務員は国民が選出することはできないが、政治家はある程度意見が反映されている(何代も総理大臣が替わり、しかも以前の大臣とは意見が違うとのたまいながら、汲々と大臣職にしがみつき、いつまでも選挙をしないで笑っている総理もいるが)。
公務員はやはり公僕でいいんだよな。そしてその公僕たる職業に、高邁な精神で就こうという人が、いないはずはないと思うのだが。安定してたり、金がいっぱい入るから公務員という風潮そのものをどうにかしなければ、よくはならないのかな?
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 00:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2009年1月26日
書店にて
最近、書店で本を買うときに、「カバーはおかけしますか」と必ずといっていいほど訊かれる。おそらくそういうマニュアルなのだと思うし、このエコロジーの時代に、当然と言えば当然である。
ところが、いらないというと、まとめて袋に入れてくれる。これは、手間は省けても、エコバッグのような目的ではなさそうだ。
さらに、1冊でも訊いてくる。いらないというと、1冊を袋に入れる。これは完璧に手間を省いているだけだ。意味があるとは到底思えない。ほんの周りにカバー代わりの紙を巻くのと、袋に入れるので、それほど手間の軽減になるとは思えない。あくまで1冊の場合。
袋に入れないで裸で商品を手渡すというのなら、意味もありそうだ。
ただその場合、1冊で、しかも手ぶらであっても訊いてくるところを見ると、そうではないらしい。
つまらないことだが、気になる。
さて、気になると言えば、今日は日曜日で、昼ご飯を食べに外に出たのだが、平日ランチをやっている店で、日曜、あるいは土日はランチをやっていない店が結構多い。土日でもやればいいのにと思う。サラリーマンを相手にしているからなのだろうが、独り者のサラリーマンは、休日でも外食することは少なくないと思うし、サラリーマンでなくてもそうだ。
だが、ランチをやっている店に入ると意外に混んでいる。そんなものだ。
日曜の昼、ぷらぷらと歩いていて、ちょっと気になった2点だった。
平和だ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 02:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年12月27日
携帯電話
2年ぶりに昔の友人二人と会って飲んだ。
久しぶりで非情に楽しく、有意義な時間でもあった。
神田で待ち合わせたのだが、ふたりのうち一人は携帯を持っていない。その友人はすでに来て待っていたのだが、もう一人はまだだった。実は神田へ着いたときに気づいていたのだが、携帯を持ってくるのを忘れた。
先日テレビの深夜番組で、携帯を持たずに待ち合わせをするという企画をしていたのだが、そのときは、出演者が横浜駅だったかとにかく、いずれかの駅で待ち合わせをし、ただしその内の一人が、その日の夜から携帯を取り上げられるというものだった。
××駅で待ち合わせという、地方ならともかく、都内や、横浜などの大きな駅で、ただ駅とだけ言って待ち合わせるというのは、着いたら携帯で連絡を取り合うという前提の決めごとで、ここが昔と違うところだ。どこどこの改札とか、何番線の出口とか、細かい待ち合わせ場所を決めなくなっている。
番組では結局、目的地まで携帯を持っていない一人が先に行き、夜遅くなって現地で、3人がやっと会えたというエンディングだった。
今日も実は最後の一人が仕事で少し遅れた。こんな時、携帯があれば普通に連絡が取れるので困らないのだが、何せ二人とも携帯を持っていない。普段携帯を頼りにしているから、電話番号も控えていない。若干、途方に暮れた。
どの程度遅れるのか、場合によっては急用で来れないというケースだって想定できる。つまり、待ち続けても、来ないことも可能性としてはあるわけだ。確認するすべがない。
こうなると、取り敢えず友人の会社に電話して聞いてみようかということになり、久々に公衆電話に触った。ところが、しばらくかけていないと、番号案内の番号すら忘れていることに気づく。
今こうしていれば、104とすぐ思い出すのだが、なぜだかそのときは思い出せず、107に電話、繋がらない。困ったものだ。
そのとき、改札を出てきた友人を見つけたから良かったが、今時個人情報で、会社に電話が通じたとしても、個人の携帯番号など教えてくれるものでもない。可能なのは、彼がまだ会社にいるかどうかの確認だけだが、しばらくぶりで、部署も正確に覚えていなかったので、会社に繋がったとしても、実はあまり意味がなかったかも知れない。
とにかく、まあ今日は、神田駅北口、という場所指定まではできていたので、「来ない」という場合以外は、待っていれば会えるわけで、前述のテレビとは違って、無事会うことができ、近くのメキシコ料理の店に行ったわけだ。
メキシコ料理は、これまでほとんど食べたことはなかったが、「辛い」というイメージがあったが、チョリソ以外はそれほど辛くもなく、おいしかった。ただ、どれも味が似ていたが・・・
家に帰ると、着歴と留守電がしっかり入っていた。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年12月17日
久が原の喫茶店と五反田のカフェ
最近よく久が原に行く。久が原は、JR五反田から池上線に乗って蒲田のいくつか手前の駅だ。大田区の一角になる。
そもそも池上線は西島三枝子の歌でしか知らなかったが、五反田から蒲田までおよそ30分くらいだろうか、電車はすべて3両編成、のんびりしていていい感じだ。ただ、乗り過ごしたりすると始末が悪い。ホームはほとんどの駅で線路の外側にあり、上りと下りが別の改札なので、一端改札を出てもう一回改札を入らなくてはいけないからだ。無駄なお金がかかる。
たまたま今日、降りようとして傘を忘れて戻った女性が、降りられなかったのを目撃した。こういうこともあるので、ちょっと不便だ。
この路線で一番有名なのは戸越銀座だと思うが、目的地は久が原。
決して大きな町ではないし、ファーストフードが1件もない。にもかかわらず、知っているだけで駅の周りに3軒の喫茶店やコーヒーショップがある。
その中にアベルという名前の喫茶店がある。アベルと言っても、カインの弟やワリンジャーじゃない(知っている人だけ突っ込んで下さい)。コーヒーもおいしいし、昔ながらの感じのピラフなど、とても好きな店だ。近所にあれば結構利用すると思う。
ただこの店のすごいところは、閉店時間が5時なのだ。これまで、5時に閉まる喫茶店にお目にかかったことがない。北海道の根室本線の各駅停車しか止まらない駅前の喫茶店というならいざ知らず(喫茶店そのものがないことが多いかも知れないが)、東京23区の駅から歩いて1分の店だ。しかも決して繁盛していないようにも見えない。ついこの間など、2時には開いていたが、3時には閉まっていた。
個人的な感覚では、タバコを吸うお客さんが多い感じがするが(その奥にあるセピアほどではないが)、さすがに分煙してくれとは思わない。申し訳ない。それでも行きたくなる店だ。のんびりと、短い営業時間でもいいので、長く続けて頂きたい。
さて、その帰りに、五反田でお茶をしようとするとき、ちょっと前に改装されたrenyという駅ビルがあるが(東急ストアの上だ)、そこには2件お茶を飲めるところがある。1軒はスタバで、もう一軒は青山にもあるらしいSignという店だ。ここは入りたくないのだが、やむを得ず時々入る。外へ出るのはめんどくさいし、スタバは結構混んでいる。
時々入って、いつもストレスをためて出てくる。
この店はまず水を出さない。水が有料なのであれば(有料のもあるようだが)やむを得ないが、そうではない。食事の客には100%出す。頼めば持ってくる。10回に1回は頼まなくても持ってくる。その基準は客には不明だ。少なくともぼくには。
なら頼めばいいと思うかも知れないが、そうではない。ここはヨーロッパではない。飲食店での水は、最低限のサービスだし、それがないわけでもない。水を出す客と出さない客を分けているようにさえ見えてきわめて不愉快だ。
ホットの紅茶を出すのに、ティーポットに添えられているのは小さな取っ手のないグラスだ。熱いだろ。
たぶん、顧客サービスということの考え方が全く違うのだろうが、不可思議だ。
そうなると、店員が全員私服で、客との区別がつかないことまで腹が立ってくる。
客商売というのは客が満足してなんぼだろうと思うのだが、たぶんこういう苦情はクレーマーみたいなものなのだろうな、と思いながら、書かずにいられなかった。
別にコーヒーも全くおいしくない。
インターネットというのは、様々な情報が得られる。こういう情報も、必ずしも悪いばかりではないだろう。・・・場所の都合で、これからもたまに利用することはすると思うので、これが目に触れて、少しばかり改善が見られたら、かすかな望外の喜びっていうやつだ。
ところで、久が原は、錦というラーメン屋もうまいし、アベルの先にあるイタリアン・レストランもうまい。この店は時々行くが、店の名前をちゃんと見たことがない。インターネットで検索しても出てこないし、電話帳にも載っていない。きっと、掲載したくないのだろう。いつも混んでるし。でもいい店だ。
投稿者 keisuke : 社会的 / 料理・グルメ | 21:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年10月11日
ストリートビュー
「「ストリートビュー」法規制検討を、町田市議会が政府などに要請」
という記事がImpressWatchに載っていた。
もちろん本国アメリカでも問題になっているこのストリートビューだが、世界的規模で見ると、非常に狭い範囲しか、まだ見ることができない。しかも適宜更新されるわけでもないので、風景が変わっても、しばらくはそのままだろう。
基本的にこういう類の新しいテクノロジーが待ち受ける批判は必ずあり、例えば出会い系サイトが悪の温床と一部には信じられているように、功罪がある程度の時間を経ないと分からないことが多い。
今回はプライバシーとか、個人情報というくくりで、おそらくは批判があるし、「覗かれてる感」がある人もいるかもしれない。実際に人物も写っているし、遠目で見ても、あ、これは誰々だと分かる場合もあるかもしれない。
実はこんなものは、最初から「消して」おけばよかったのに、と思わないでもない。人物や車は、実際のストリートビューには邪魔だ。臨場感とか、現実の風景としてはいいのかもしれないが、地図の延長としてのストリートビューには不要だと思う。このくらい、Googleには手間を惜しんで欲しくなかった。
現実問題として、今回の町田市議会の
1)当該サービスにつき国に寄せられた意見の実態調査をはじめ、現状把握に努めること。
2)インターネットを利用しない国民に、必要な広報活動を行うこと。
3)住居専用地域の公開の適否につき、国民の意見聴取の上、事業者に対する指導を行うこと。
4)個人や自宅等を無許可で撮影し、無断で公開する行為につき、都道府県迷惑防止条例上の迷惑行為として加えることを検討すること。
5)必要に応じて法整備を行うこと。
の要請は、大まかな部分はやむを得無いとも思える。ただ、4に関しては、今までテレビで、いくらでも映していた。もちろん、場所を特定するのは難しいが、それでも、自宅が写ることに関して、許諾を求められる例は少ないと思う。近所で事件があれば、嫌でも映る。
この点では、迷惑である部分と、利点である部分がどうなのかを、きちんと判断すべきだ。
たまたま、明後日町田市までコンサートを見に行くのだが、初めてのところで、よく分からない。大きな会場でもないし。もちろん、昔と違って、今は住所一発で詳細な地図が出るので、それでもかなり効果がある。だが、実際にストリートビューで見ていけば、風景も分かるので、まず迷わないと思う。最初から店構えばかりでなく、周囲の様子まで分かるからだ。
極端に言えば、玉川学園駅から、会場まで、実際に道路をシミュレートできる。
実際にやってみると、線路沿いのフツーの住宅街のようなところをずっと歩いていくと、数件お店がある中に、目的地があるのだが、これだけで、1回行った気になる。
こういうメリットもあることを、果たして議員さん達は意見書に書いているだろうか?
先の出会い系サイトもそうだが、おそらく、その中できちんとした出会いを実現している人たちだって、少なからずいるはずだ。実際の犯罪は、そういう経路や技術、サービスの中で起こっているかもしれないが、この世に犯罪がある以上、ましてやそれとはまったく関係のない場で多くの事件は起こっているわけで、技術や場が問題なのではなく(そういうものもあるかもしれないが)、基本は人の生き方や教育にこそあるのだ。
新しい技術を良好に生かすことがいつでもできる社会を構築していく方向に、考え方を向けていくべきであるような気がする。
ストリートビューで、世界旅行ができる日が来るといいなあ。・・・凱旋門とかニューヨークではなく。
投稿者 keisuke : インターネット・PC / 社会的 | 02:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年10月 2日
ネット文字とか漢字とか・・・
http://release.center.jp/2008/10/0102.html
に、ノシ、wktk、orz、kwskの認識率というのが出ていた。
orz以外は知らない人が多いが、orzは知っている人の方が多いのだ。
もう、最近のこういうのはだめだ。ついて行けないと言うより、最初から付いていこうともしていない。更に言えば、ほとんど初見だ。
毎日パソコンの前に12時間は坐っている生活をしていて、当然、ネットはつなぎっぱなしだから、ブラウザは常に開いている。メールも随時受信している。それでも尚、見たことがなかった。
いや、見たことはあったのかもしれない。だが、目に入っていなかった。
ちなみに、kwskは「くわしく」 wktkは「わくわくてかてか」、orzは「落胆」、ノシは「手を振る仕草」を表すのだそうだ。orzは確かによくできているし、ある意味世界共通で仕える可能性だってあるが、ノシはどうしても見えない。
kwskは、何となく見た段階で解った。KY以来、ひらがなの頭文字で何かを表現することがはやっているのは解るが、共通認識を持つのはなかなか難しい。「わくわくてかてか」は音から確かに胸躍る様子は伝わってくるが、wkの「わくわく」はともかく、tkの「てかてか」は、想像もつかなかった。
ほとんどが2チャンネルから来ているようだが、2チャンネルをあまり見ないのでよく分からなかったというわけではなさそうだ。他のブログなどにあっても、たぶん無視をしていただけだ。
まあ、1〜2年もすれば、自然淘汰で使われるものと消えていくものが別れるに違いないし、それでも尚残っていれば、目に付くから覚えるだろう。
かつての若者文化から残った言葉も多くあるように、これらの表現も、すべて消えていくわけではなく、常用されるものは常用されるだろう。多くの顔文字は、インターネット以前から使われ、今でも残っている。自分ではほとんど使わないが、確かによくできているものもある。
と言って、やはりすべてが残るわけでもないのは自明のことだ。
kwskと打つより、詳しくと打った方が、少なくとも日本語キーボードでは打ちやすい。そしてorzよりも面白くないから、それほど長く使われるとは思えない。
さて、そんなことでふと思い出したのが、爆笑問題が司会をしている何かの番組。漢字がしりとり方式で次々に出てきて、出演者がどれほど読めるかを、競っているコーナーがあるが、時々見る。頭文字が出るので、類推できるものが多いが、それにしても、いつも思うのが、そもそもカタカナである外国の言葉や、すでに日常的には使わない動物や昆虫等の漢字。
国名などは略として、便利な面はあるが、白と書かれてベルギーと解る人がどれほどいるだろうか?瑞(スウェーデン)、諾(ノルウェー)等。確かに、日、米、中、韓、露、英、仏、伊、独、墺、蘭、西、葡、加、印、台、くらいまでは、ある程度有用かもしれない。だが、ヨーロッパでも「希臘(ギリシャ)」「波蘭(ポーランド)」「勃牙利(ブルガリア)」「羅馬尼亜(ルーマニア)」など、きっと読めないし、あまり読める必要もなさそうだ。「濠太剌利(オーストラリア)」「墨西哥(メキシコ)」「伯剌西爾(ブラジル)」「秘露’(ペルー)」などはどうだろう。ベトナムの越南は、何となく歴史の知識でどうにかなりそうだが、比律賓、新嘉坡、柬埔寨などはどうだろう。前の二つは音で解る気がするが、最後のカンボジアは、たぶん読めない。
最近はネプリーグなど、漢字の読みを答えたり、漢字検定がはやったり、漢字ブームといえる現象がしばらく続いているように思える。
その反対に、漢字は止めてしまおうという運動も、昔からあるらしい。
今更漢字を止めては、コミュニケーションがとても大変になるという意味で、単純に仮名文化に向かうことは、よっぽどのことがない限りあり得ないと思うが、いろんなことを考える人がいるのだなあと感心する。
毎日、地球のどこかで言語は消失し続けているという話をどこかで昔読んだ。それくらい言語の数は多く、それ一つ一つが実は文化なのだといえる。
英語がグローバルスタンダードであることは間違いないわけだが、地球の言語が英語に統一される日が来るのかな?とも思う。遠い未来に。だが、ニュアンスまで翻訳できるようなポータブルの機械が発明されれば、その必要もなく、母国語で世界のどこでも旅行できる日が来るかもしれない。そうなれば、日本語が無くなることもないだろう。
言葉や文字は、常に機能的なコミュニケーションツールであると同時に、文化や感性と大きく結びついている。女子高生にしか通用しない言葉があっても、女子高生とおじさんがコミュニケーションをとれないわけではない。
ネット文字もまた、漢字と同じなのだな。ただ漢字には歴史があり、ネット文字にはそれがないという違いだけなのだ。orz なんて、まさに象形文字なわけで、すばらしいと思う。
だからといって、それを使いこなせなければならないわけでもない。そういう許容の文化(使う側に対しても、仕えない側に対しても)というのが、平和ということなのではないだろうか。
投稿者 keisuke : インターネット・PC / 社会的 / 文学・日本語 | 02:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年8月28日
アフガンの死
アフガニスタンでNGOの伊藤さんという方が亡くなった。
志高く、人に尽くされた方が亡くなるのは、知人でなくても、一入悲しいことだ。
人類が生まれてこの方、おそらく、人が死ななかった日というのは無かったに違いない。常にどこかで誰かが死んでいる。生を受けたからには、死は逃れることのできない決まり事だ。人生が尊いのは、死があるからだともいえるし、人生は常に死への行進である。
自殺をしなければならないほど苦しい生は、おそらくある。想像もできる。
しかし、そうでないならば、人は生きたいと願う。人には寿命というものがあるから、寿命が近づけば、ある程度の覚悟も、諦めもつくだろう。
だが、若い死はそうではない。
若い頃のぼくを支配した言葉がある。
One lives but once in the world.−人はこの世に一度しか生きない
英語を勉強するために父が買ってくれた、世界の偉人の言葉を英語に訳した本の中にゲーテの言葉として掲載されていた。
もちろん、だからこそ悔いの無いように生きるべきだ、ということが書いてあったような気もする。
だがむしろぼくには、この唯一の生という不思議な環境の、何にも増して貴重である様だけがずっと頭にこびりついて離れなかった。
歴史の中で、人を殺すことで多くのことが得られてきた。領土、金、幸福・・・それは、個人の殺人から、戦争に至るまで、大量の死が、何かを生んできたのは実は事実だ。だがそれは、殺害された命という代償としては引き替えようのない、まったくバランスのとれないギブアンドテイクだ。
多くの戦争を重ね、それでも近代、二つの世界大戦を起こした先進国だが、未だにあちこちで戦争を起こしている。
背景に宗教がある戦争も、飢餓や貧富の差、政治的対立、あらゆる理由の戦争が、すでに何度も行われ、その都度戦争が悲惨であることは語られてきたはずだ。
人類が成熟すれば、戦争が無くなると思っていた人たちも多いに違いない。だが無くならない。
ましてや、発展途上の多くの国は、文明社会がそれまで歩んできた道を改めて歩んでいるように、戦争が尽きず、テロという形で、地中深く潜行する。
アフガニスタンやイラクのように、ついこの間、大国が爆弾の雨を降らすことで、形だけの政府を作り上げた国は、我々に比べると、殺人のハードルがきわめて低い。何故なら、生まれてこの方、身近に大量の死体を見続け、しかも戦後の日本のような復興を実現できていないからだ。
しかもここ日本においてでさえ、ニュースで殺人事件の報道を見ない日はきわめて少ない。
人が人を殺すという、日本で生きていれば、多くの人が、ほとんど関係なく思ってしまうことが、その日本でさえ、毎日のように起こっている。ましてや内乱や、空爆さえ続く国家で、起こらないはずもない。
そんなところへ行って、地元の復興のために尽くすなどということが、できるだけでもすごい。
だからこそひときわ悲しい。
この世から、争いをなくすなどということはおそらく、無理だろう。
だが、戦争を無くしたり、テロや内乱をなくすことは決して不可能ではないに違いない。
でも、チベットなどのように、国家が国民を、国家のために殺害しているうちは無理だ。
領土問題で戦車が町を破壊しているようでは無理だ。でもこれらが文明社会の姿だ。
我々は20世紀から21世紀にかけて生きている。
日本にも戦国時代はあったし、どの国だって、個人的な殺人から、国家による国民殺害まで、無かった国などおそらく無い。
でも、もしかしたらその時代よりは、少しはましになっているのかもしれない。そう思いたい。
意志の力の結集が、この世から、こういった無益な殺人を少しでも減らせるなら、力を尽くしたい。
日本人だけでなく、どの国の人が亡くなっても、悲しみは同じだ。
だが今日は、まず伊藤さんの冥福を祈ろう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 無量大数 / 歴史 | 00:18 | コメント (1) | トラックバック (0)
2008年8月10日
北京オリンピック
北京オリンピックが開幕した。
開幕まで、様々なことがあり、なぜか競技の第1日目から市内で殺人事件が起こったりもしている。
聖火の採火式からこの方、チベット問題で揺れた。あの騒動はどこへ行ってしまったのだろう。ダライラマと中国政府が話し合って、簡単に解決する問題でもないだろうし。同様な問題がウイグルにもある。
尤も、毎日どこかで暴動が起きているなどというお国柄を、隣の国であっても、オリンピックがなかったら、今でも知らなかったかもしれない。
とはいえ、オリンピックはスポーツの祭典であることは間違いないわけで、これまでも多くのオリンピックが政治的に利用されたり、果ては中止になったことがあったとしても、やはりスポーツの祭典なのだ。
オリンピックで戦う選手たちには、基本的に政治問題はあずかり知らぬことだ。ただ、オリンピックを利用して、チベットの人権問題等に、世界の注視を呼び込もうとする企てが、必ずしも間違っているとは言い難い。何故なら、聖火リレーの妨害だからこそ、より多くのマスコミも集まるのであり、そのことで初めてチベットやウイグルなど、中国が抱える人権問題を知った人も多いに違いないからだ。
ただし、目的が手段を正当化するわけではないので、行為として正しいかどうかはまた別の話だ。必ずしも正しくはないが、意味のある行動ではあるわけだ。
ところがいざ開幕式を迎えてしまうと、それらのことから人の興味は遠のいてしまう。
イスラムのテロ組織から爆破予告があったり、未来から来た人間が北京オリンピックは行われなかったと証言していたり、結果的にやはり北京の大気は汚れていたり、開会式会場で観覧している人よりも、警備の人数が多かったり、応援は横断幕や同じ服装がだめだったり、何とも異例だったりエキセントリックだったりするオリンピックで、競技以外の興味も、大きな祭典だ。
と言っている間に、谷亮子が銅メダルに終わった。
日本人であれば、あの3度目の指導が谷だけに与えられたことに不満や不審を持つ人が多いのは間違いないだろう。ただ、「誤審」ではないし、明らかに両者とも互いに攻めあぐねていたので「やむを得ない」ということか、それに文句を言う人は比較的少ない。
国内の選考大会で敗北を喫しながら、代表に選ばれ、尚かつ金メダルを取って当たり前という期待と責任を負わされた谷という選手にとっては、攻めないことが負けに等しいのだという、見る側にもより厳しい目があるのかもしれない。
実際に、代表選考大会で勝利した選手を生かせなかったことに言及しているブログなども多い。
こういうことはタラレバだし、そもそもこれまでの5大会でメダルを取り続け、世界大会でも勝ち続けてきた選手の功績という物は、やはり大きいのだ。
だがそれとは別に、オリンピックの柔道は面白くない。負けないことが勝ちになる試合というのは、格闘技などには向かない。ましてや審判という人間がその勝利を判定する競技は、その競技が本来持っている魅力が十全に出されるためには、その競技が本来どういう競技であるのかを根本に据えたルール作りをしてくれないと、面白さは半減する。
逃げても逃げても、有効、技あり、一本という攻めから相手を打ち負かすこと以外で勝利を決めるというのは、面白くないし、選手自体、フラストレーションではないのだろうか。
記録を競う競技は、基本的に、人より早く、人より遠く、ということ以外に勝ちはない。柔道で言えば、投げにしても寝技にしても、相手を負かすというベクトル以外で、勝利を決めないようにすれば、どれだけ面白くなるだろう。時間短縮など言わずに、決まるまで戦わせればいいのだ。
水泳のように、複数日に渡って競技を行い、1階級1試合を1日でこなしていけばいいのだ。
時間切れ判定なんて面白くない。
尤も、自分が戦わないからこんなことを言っていられるので、テレビで観戦している無責任な意見であることは承知の上である。
今回のオリンピックは日本の金メダルはアテネと比べても減りそうな雰囲気だが、こればかりは終わってみないと解らない。
参加することに意義があるといったのはいったい誰だろう?
もちろん、参加するためには相当な苦労があるはずで、参加できるだけでも相当な意義があるのは当たり前のことだ。ぼくなど、オリンピックどころか、校内の運動会でさえ、上位になった記憶はない。
こういうことは、「努力すれば」どうにかなったり、「願えば」叶うわけではない。
もちろん努力も必要だし、人間にとって、「願う」ということがなければ向上心も生まれてこないだろうから、必要ではあろうが、「努力」や「願う」力もまた、個人差があるのだ。
中国という国は広大だ。その強大な国が共産党という一党で治められている。
今回の開会式などを見ていると、逆に、だからこそできたのではないかという統一感や集中力みたいなものを感じる。
中国という強大な国が、率先して、軍縮や環境に配慮する国になってくれると、地球の未来も少しは明るい気がする。・・・アメリカにはあまり期待できないからな。
投稿者 keisuke : スポーツ / 社会的 | 02:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年6月13日
たばこが千円になるというお話
たばこを千円にするという「たばこと健康を考える議員連盟」なるものが結成されるらしい。
ぼくはたばこを吸わないので、現在いくらかすらよく知らないのだが、どうやら300円前後らしい。とすると、3倍以上に値上げを考えているということだ。
ニュースを見ると、「来年度の基礎年金の国庫負担率引き上げで生じる約2.3兆円の財源不足へのたばこ税充当がねらい(産経新聞)」ということなので、単なる増税が目的らしい。
先日、タクシーの多くが禁煙になった。公共の場所をすべて禁煙にしている自治体もあるようだ。
たばこ吸いの方々には、ほとんどいじめに近いような仕打ちに思えるかもしれない。
でも、喫茶店などで、喫煙大好きな方が近くに坐ったりすると、実はこちらがいじめに遭っているようなものだ。法律に違反しているわけでも、店が禁止しているわけでもないので文句も言えない。だが、たばこの煙は嫌いだし、副流煙によって健康被害も得ているはずであるので、こういうときはいつでも、ただただ不快になる。
喫煙者の人には世知辛い世の風潮だが、たばこのパッケージに書いてある、「喫煙は、あなたにとって肺がんの原因の一つとなります。疫学的な推計によると、喫煙者は肺がんにより死亡する危険性が非喫煙者に比べて約2倍から4倍高くなります」などの(他にもいくつかある)注意書きが事実であるなら、やむを得まい。
たばこを千円に値上げすると、おそらく禁煙に走る人も多くいるに違いないが、それでも止めない人が大勢いて、700円の税収増が、年間で数兆円をまかなえるという試算があるということは、計算すれば、どの程度禁煙する人が増えると予想しているのかが分かるはずだ。
ただ、国の計算は、多くの場合、楽天的で、夢想的なので、あるいは思った以上に禁煙する人が多いのかもしれない。
評論家の森永拓郎は、インタビューで、大量に買いだめし、冷凍保存をして値上がりしたたばこは買わないと豪語していたが、きっとこの人などは、昨今の禁煙ブームが腹立たしくてならないに違いない。・・・・あなたのたばこも地球温暖化に悪影響を与えている等というのは、やはり言いがかりに違いないが、ついそういう突っ込みすら入れたくなる。
いずれにしても、こんな人はいないので、どうしても吸いたい人は、自動販売機に札を入れてもおつりのでない状況に、ずっと腹立たしい思いをし続けながらたばこを吸い続けるに違いない。たばこの害に、ストレスという害を付け足されることになる。
その結果、思った以上に税収が上がらず、ましてや減収になった場合、国家はどうするのだろう?また税金を下げるのだろうか?
そもそも、たばこは身体に悪いから、国民のことを考えて、という発想なら、たばこを全面禁止でもいいようなものだが、麻薬や覚醒剤のような幻覚作用がほとんど無いから、依存性だけではなかなか近視もできない。ということで、高額にして、どうしても吸いたい人は多額の税金を払って吸ってください。
というのなら、税収が増えようが減ろうが関係ないので、いいはずだが、税収増額ありきで始めると、なんだか後々にうさんくささが残る。
仮に、もう吸わないと言って、国民全員が禁煙してしまったら、税収はゼロになるし、JTは潰れかねない。
ただそれでも、国民の健康のため、というのなら、政治家も賞賛に値するのだが・・・・
未成年に自販機でたばこを買わせないために多額の費用をかけて始まったTASPOだが、なかなか持つ人が増えないらしい。都内ではまだ始まっていないので、実感もないが、この、未成年に吸わせない目的というのも、昔から疑問を持っている。
未成年の喫煙に関しては「未成年者の喫煙は、健康に対する悪影響やたばこへの依存をより強めます。周りの人から勧められても決して吸ってはいけません」という記載がたばこにあったりするらしいが、未成年だけに悪いわけはないと思うのだが、未成年だけに禁止している。
20歳の誕生日を過ぎたら、急にたばこの健康被害が減少するはずがない。
高校時代、多くの友人がたばこを吸っていた。大学では酒もたばこも当たり前だった。30年くらい前の話だ。
現在では、そのあたりは非常に厳しい。ゆるめろとは言わないが、かつて高校時代にたばこを吸っていた大人が、今そういった決まりを作っているような気がしてならない。
もちろん、大人になって分かることがある。
例えば勉強をすることなどは、子供の頃より、大人になってからの方が楽しかったりするし、あの頃もっとやっておけばよかった、等というのは、多くの人が体験することだろう。たばこだって、かつて自分は高校生の時に吸っていたが、やはりよくないから、禁止にしようというのであれば、筋も通っている。
でもなんだか、闇雲に法をかざして禁じているようにしか見えないのだな、これが。
国がたばこに関して決めごとをするとき、WHOの勧告などに沿うように、本当に国民の健康被害を考慮しているように見えないところがどうも素直に訊けない部分だ。
とはいえ、千円にして、少しでもたばこを吸う人が減ってくれるのであれば、ぼくのような人間は、その本来の目的がどこにあろうと、結果オーライなので、賛同するしかない。
もし自分が若い頃にたばこを吸うようになっていたら、性格上、なかなか止められなかったと思うし、止めた方がいいと思っても、国に対して文句をたらたら言っていたかもしれないな、とは思う。
ぼくがたばこを吸わなかったのは、周りが見なすって板からだし、おやじもヘビースモーカーだったからだ。
それらの人に感謝しなければいかんな、と思う。
たばこの好きな方々にはかわいそうだが、このまま、公共の場所、公園や飲食店なども含んだ、施設なども広く禁煙になってくれることを祈りたい。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2008年4月29日
瀬尾佳美とか・・・諸々
3か月半ぶりの書き込みである。
瀬尾佳美という青学の准教授(この准教授というのは、なぜ助教授じゃなくなったのだろう・・・最近の言葉の言い換えには、何とも興味がそそられる)が、先日の光市母子殺人事件の死刑判決後にブログで発した発言を期に、話題になっている。
この教授の発言に関する意見というのは、その多くが非難であり、基本的にはぼくも大筋でその意見に同調するので、敢えてここで、正面からそのことをわざわざ書くつもりはない。
あくまで参考のためにこの人の文章を引用の引用で掲載する。
繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。 だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。 私は少年に対する死刑には原則反対だ。 理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。 金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。 もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。 最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。 永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。 一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。引用元
この人は、すでにWikipediaにまで項目があるし、今回の事件についてばかりではなく、これまでも多くの問題発言を繰り返し、シンパもいないわけではないようだ(詳細は知らないが)。
いずれにしても、大学で学生に何かを教えているわけで、教える内容の賛否はともかく(個人的にはとても「否」だが)、その文章を読んでいると、とても稚拙な感じがする。この場合、稚拙という表現が合っているのかは、自分自身疑問なのだが、大学の先生が書くにしては、ということだ。
この人、「リスク理論入門」というタイトルの本を出しているが、自信の身に降りかかるリスクをうまく回避できなかったようだ。
この後、青山学院への山のような直接抗議などに対して、謝罪や言い訳を言って、最も反発の強かった「幼児を0.5人と換算した」と見える場所についても、「傷害致死の可能性」を0.5としていると書いている。
この准教授は、例えば拉致被害者に対しても
「(拉致被害者は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」この引用はJ-CASTのニュースから
というような発言を以前にしているらしい。
これは、もって他山の石となすべき事なのだけれど、内容は別にしても、この表現方法はどうしてこうなるのだろう。
日本のブログ文化は、内容の善し悪しに関わらず、この表現という点において、とても自由で、危うい。
「不幸面してられるアンタ」という表現が、この場の書き手の心情を最もよく表しているとしても、この文章を不特定多数に公開する場合、どういう効果があるか、考えないで表現できる危うさが、そこに存在する。
書籍や雑誌は、編集者が、テレビも様々なフィルターが、多くの場合かかる。
しかしながらブログは、「日記」との狭間で、フィルター無しに直接的に伝わり、なおかつ、流行というか、それぞれに特有の文章的傾向がある。
2チャンネルの隆盛により、匿名で感情を吐露したり、あるいは補遺とを傷つけるような表現が日常的に、しかも安直に使用されることがよくある。
この瀬尾という人の場合は、根本的に何かが欠落しているような内容なので、そのことも相まって、読者感情を逆撫でする。
ただ、最近はやりの学校裏サイトやプロフなどでも、ニュースで見る限り(実際のサイトは見たことがないが)直接的に人を傷つける発言が、ある意味効果的に使われているし、それが日常語であるようにさえ思える。
福田首相が、後期高齢者医療者制度について、山口の補選で街頭演説するシーンが何度も流れたが、あの年齢で、首相までやっている人が、ああいう表現をして、選挙に勝てると思っているのが恐ろしい。
尤も、友人の友人がアルカイダの友達だったり、大臣をしてこの発言という人たちは多いし、年金記録の付け合わせが3月までに解決しなかったことに対しても、「誤解を与えた」という表現で謝罪をするような国家なのだから、表現についてはまず大人が正さなければいけないのかもしれない。
人間が社会生活を送らなくてはならないのは、もはややむを得ない事だし、自分と他人の関係を抜きにして、生きていくことは、基本的に不可能だ。
であれば、自由というのは、自己の自由であると同時に、他人の自由でもある。そのこと抜きには自由を語れない。
だからこそ、中国はチベット問題で世界から非難されているわけだ。・・・尤も、中国の「自由」は、自由主義国家の自由とは、意味が違うのかもしれないが。
日本には、幸か不幸か敬語が存在する。こんなものがなければ、もっと表現は平易なのかもしれない。
しかし、存在して、まだその威力があるうちは、それなりに使い分けが必要になろう。
ぼくは、朝青龍の尤も好きになれない点が、その敬語をほとんど使えない点にある。彼はモンゴル人なので、関係ないと言うほど、日本語は下手ではないし、新聞やテレビの記者相手に、丁寧語すら使おうとしない彼に、横綱としての資質のなさを感じる。
横綱はまず強くなければならないと言われるし、それももっともなことだが、相撲が品格の高さを失ってしまったら、プロレスと何ら変わらないとさえ思えてしまう。それならば、プロレスの方がずっとおもしろい。・・・いや、プロレスにはプロレスの品格があり、それは言葉遣いとはあまり関係ないのだ。
しかし相撲は違う。・・・ただ、そう感じない人が増えてくれば、それはそれで、仕方がないのかもしれない。
さて、言葉や文章というのは、斯様に人に対する心象を形成する。
例えば内容は別にして、丁寧な言葉で書かれた文章で、いやな思いをする人はあまりいないだろう。
しかし、正論であっても、攻撃的であったり、人を小馬鹿にしたような表現方法を採られると、反発したくなったり、いやな思いをするものではないだろうか。
どんなことでも一概には言えない。時には過激な表現手段が必要なこともあるかもしれない。
だがどんな場合でも、読む人の心象を大切にするという姿勢は、必要なはずだし、それは自ずと文章に表れる。
もちろん表現だけではない。意見の表出はある程度自由だが、人の考え方には流行や道徳的なことも含めて、ある程度の規範が、時代時代にある。それを超越して変化もあるには違いないが、そのバランスの中で我々は生きている。淘汰されていく考え方や行動がある一方、守られ、継続していくそれもあるのだ。
それらの基本にあるのが、自他のの関係性であることは間違いない。
表現手段も、表現内容も、実はそのバランスがとれる内側で使用される間は、きっと自由なのだ。
しばらくぶりに書くとどうも、こうしてまとまらない。・・・続けて書こう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月16日
銃
このところ銃の事件が続けて起きている。
猟銃やらクレー射撃の銃やら、身近に銃を所有している人というのはどれほどいるのだろうか?
先日の佐世保の事件では、8人が被害に遭っている。
そもそも人なり獣なりを殺傷する目的しか本来はない銃が、一般の人間の手元にあるということ自体、どんな意味があるのだろうか?
アメリカでは、西部の開拓時代を通じて、銃社会が定着してしまっている。結果的に銃犯罪は非常に多いし、コロンバインに戻るまでもなく、ここしばらくでも多くの死傷事件が起きている。アメリカは身を守るための銃という意識が高いらしい。
しかし、そもそも銃がないと身を守れない社会は社会的に成熟していると言えるだろうか?銃が無くても危険のない社会を目指すという発想は、そこにないのだろうか?
もちろん無いわけはないし、そういう運動をしている人も大勢いることだろう。
テッド・ニュージェントは僕の好きなハードロックギタリストの一人だが、彼は無類の狩猟好きらしい。ワイルドなヤンキーなのだ。テッドの音楽を聴くと、時折そのことに想いが至る。尤も、できあがった音楽と、彼の思想や行動は、直接的に、少なくとも聴く側にとっては関係がないので、それで聴くのをやめようとは思わないが、それはそれで、そういった彼の部分はあまり好みではない。
さて、佐世保の事件では、銃の所持に関して、警察は適正の処置であったことを記者会見で述べていたが、銃の所持者がこのような犯罪を犯した時点で、その処理は不適切であったことの証左であり、そうでないとすれば、その決まりに不備があるということだ。
趣味としての銃による狩りなどというのは、まことに持ってくだらないと思うし、無くなってしかるべきだと思う。
クラークの「幼年期の終わり」の中に、人類が生きるための目的以外で、他の生物を殺傷することを、オーバーロード(宇宙人)が禁じ、闘牛場の観客全員が、非常に激しい痛みに襲われ、闘牛がこの世からなくなるという行があるが、これは闘牛一個のことではなく、人が、文化だとか伝統だとか趣味だとか言う理由で、動物を殺傷することは、あまり胸を張って言えるような優れた風習ではない。
当然人間は、生物を食って生きている。仏教の僧侶が、生臭といって四本足の動物を食わなかったり、精進料理などと言うが、では、植物は生きていないのかと言えば、そんなことはなく、進化のどのレベルにあろうと、人間は今のところ、他の生物の死無くしては、生存していけないのだ。
それは「食べる」という行為だけではない。「駆除」もまた、生存ためにやむを得ない。それが、田畑を荒らす狸や狐や鹿であっても、駆除すべきは駆除する必要があるのだ。
だが、個人の趣味などによって「狩る」のは、彼らのエゴ以上の行為ではない。趣味のレベルとしては程度が低いと思わざるを得ない。
古代の人間は狩猟で生計を立てていたかも知れないが、彼らのは生計を立てるのが目的ではないからだ。
クレー射撃というのがある。
確かに安全に配慮した射撃場での射撃は、例えばSecondlifeでの戦闘地域のように、ゲーム性やスポーツ性がある。銃というものがそもそもある以上、それが適切な場所で、安全に使われるのであれば、それはそれでいいと思う。
尤も、戦争の場が適切であるかと言えば、はなはだ疑問だが。
少なくとも、日本という社会で、職業として狩猟を営むか、山奥などで生活し、熊などの危険を感じながら生きているのではない限り、家庭に銃を所持するというのは、「許可制」などという生ぬるいものではなく、禁止した方がいい。
こういうことは、なかなか国会でも実現は難しい。それは飲酒運転のより厳しい罰の制定などと同様に、議員の中にも銃を趣味にしていたり、飲酒運転の可能性を自身感じていたりする人がいるからではないかと、うがった見方をしたくなる。
銃を「自分は適切にしようしているから大丈夫」と思っている人は、「私は酒を飲んでも酔っていないから大丈夫」といっているドライバーと、全く同質のものを感じる。
銃刀法というが、刃物は少なくとも料理やその他様々な日常生活で必要な場があるが、銃には無かろう。同じテーブルで考えるのは、そもそも間違っている。ただ、この場合の刃物はある程度、「刀」に限られるのかも知れないが。
以下次回
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月 4日
帰属意識ということ
星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
というより、そもそも民族って何だ?
広辞苑にはこうある
(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。
なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 歴史 | 01:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年10月14日
ノーネクタイ、もはや普通
【シカゴ13日時事】仕事の際にネクタイを着用するのはもはや1割にすぎず、3分の2以上の人が仕事でも一切ネクタイをしない−。ギャラップ社がこのほど発表した世論調査で、米国のビジネスマンの服装が急速にカジュアル化していることが改めて確認された。 仕事で着る服の質問に対して、男性ではスラックスとシャツ、女性ではスカートとブラウスという「カジュアル・ビジネス」が全体の43%を占めた。次いでジーパンなどの「カジュアル・ストリート」が28%、制服が19%、スーツなどの「フォーマル」は9%にとどまった。2002年の調査では、カジュアル・ビジネスは32%、フォーマルは12%だった。 男性のネクタイ着用については、仕事の時に常に着用する人は9%で、仕事時間の約半分が4%、時々が20%だった。という時事通信社の記事を見た。・・・・だからノーネクタイに、ということではなく、仕事の時も、自由な服装で致しましょう(ただしある程度の常識はわきまえて)。ということではないだろうか。
猫も杓子もスーツにネクタイという姿は、これまで何回も書いてきたように、意味が分からない。学生時代に詰め襟で過ごし、取り敢えず一つの組織に参加している一体感が欲しいのではないかと錯覚するかのような、スーツ姿オンリーは、大学を卒業して以来、4半世紀の謎だった。
スーツの形態はバブル期にダブルが流行ったりと、変遷はあったものの、基本は変わらなかった。このめまぐるしい世の中で、何とまあ、かたくなで、意固地とも思える定着の仕方だ。
とはいえ、会社勤めの18年間で、スーツを着た回数は延べにしても1年と1ヶ月くらいだったろう。この1年は新入社員の時だが、それ以来、基本的にはスーツとは縁を切った。
いや、スーツが嫌いなわけではない。好きでもないが。時にはかっこつくので、スーツを着たいこともある。
だが、毎日スーツって!しんじられな〜い(もう古いか・・・昨日は日ハムが勝ったらしいが)。
そもそも欧米から入ってきたスーツだ。米に習って少しカジュアルな方向に進んでもらいたい。
僕のように、カジュアルでビジネスを行っている人間が、少しでも目立たなくなるのがいい。もちろん、スーツを着たい人は着ればいいが、スーツを着ていないとちゃんとしていないというような見方は、・・・少なからずいると思うので・・・・さっさと返上していただきたい。
また、ジーパンがビジネスに相応しくないなどという偏見もさっさと捨てていただきたいものだ。根本的に、その理由が薄弱だ。下着姿でビジネスはとかであれば、理由は分かる(下着姿が正装の人たちは除いて)。
ジーパンだってチノパンだって、だらしなく着ていなければ全くいいではないか。
とにかくだ。服装ではなく、能力だったり、人と接するときの礼節だったり、コミュニケーションお解きの態度の方がもっと大切だ。スーツを着た慇懃無礼より、腰の低い顔ピアスの方がまだいい。
カフェや電車で、スーツをかっこよく着こなした人が、大声で携帯でビジネスの話をしているなんて、よく見るシーンだ。結局は中身だぜ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:32 | コメント (2) | トラックバック (0)
2007年9月 4日
死刑のお話
先日新しく法務大臣になった鳩山邦夫氏が、記者会見で以下のようなことを述べた。
「凶悪犯罪の未然防止に果たす役割は大きい。死刑制度をなくせという意見にわたしはくみしない」
「死刑を科すと裁判所が判断すれば、わたしは重んじる」
また、それより前、直前の法務大臣は10人の死刑執行を行って、93年以降最多となったらしい。
法の下に、国が犯罪者の死刑執行を行うのは、少なくとも現在の日本では、法的に間違っていない。
上記の長勢前法務大臣の執行命令に対して、社民党や亀井静香衆議院議員などの、死刑反対論者は、早速抗議したらしい。
山口県光市の母子殺害事件で、テレビの報道などを見ていると、新たに結成された大弁護団は死刑廃止のためにこの裁判を利用しているなどという論調が目立つ。
人が人を殺すというのは、人生が一度しかないことを考えたとき、自分の人生を他人の容喙で決められることの理不尽さや、嫌悪敷衍することで、明確に「犯罪」とすべきは論を待たないと思う。
本来は、個人が個人をいかなる理由によっても殺害することは良くないし、国家が個人に対して同様なことを行うのも、同じ理由で良くない。さらに、国家が大義名分を持って他国民を殺害するのもやはり良くない。
基本はそうであるはずだ。
しかし、ふと考えると、ハリウッド映画などでは特に顕著だが、大量の悪人が、銃で撃たれて死んでいく。中には、悪人の元で働いていたからと言って、その個人が果たしてどれほどの悪に手を染めていたか解らない人間まで、次々にヒーローの弾丸の下に斃れていく。
ハリウッドばかりではない。国内のドラマだって、映画だって、たくさんある。
宇宙から攻めてきた宇宙人や怪獣を、ウルトラマンや仮面ライダーは、殺害という手段で排除していく。
根本にあるのは勧善懲悪だが、この懲悪の内訳は、死をもって償えという考え方に他ならない。
死刑に関しては、そのものの是非は別にしても、いくつかの問題がある。
まず、どんな罪が死刑に相応しいかという「量刑」という問題。
そして、本当にその被告がその犯罪の犯人なのかという、「冤罪」の問題だ。
冤罪で死刑になったのではたまらないからだ(死刑じゃなくてもたまらないが)。
であるから、死刑に関しては慎重でなくてはならない。
とはいえ、正当防衛や、それ以外の道が考えられないほど、相手から肉体的、精神的な虐待を受けていたなど、常識的に見て酌量の余地がある場合を除いたいわゆる恋による殺人事件に関しては、死刑ということが考慮されてしかるべきであると思う。
死刑廃止ということの根本にあるのが、更正とか人権とか、そういった被疑者を養護する考え方である。
先日、酒によってタクシーの運転手を殴り殺したという犯罪があった。
人を何人も銃で殺したり、サリンをまいたり、殺人にも確かにレベルの差異がある。タクシーの運転手の件は、それに比べたら、大きな事件ではない。・・・ニュースとしては。
あるいは、これから何十年もある子供の命を奪う殺人と、余命せいぜい10年の老人を殺す事件とでも、何となく罪の大きさは違うように感じる。
だが、銃で殺されたり、年齢がいくつであったり、殺した犯人が警察官であったりと、事件は様々だが、では、殺された人間が自分であったらと考えたらどうだろう?あるいは自分が一番大切にしている人だとしたら。
タクシーの客も、サリンの犯人も、違いは無かろう。
少なくとも自分がその立場で、あの世から犯人を裁けるのなら、その人間に生きて更正など望まない。
殺した相手を殺すことで、殺された人間が生き返るわけではもとより無い。覆水は盆に返らない。
だから、死刑が無意味だというのは、本来生きている人間のための考え方だ。あるいは、自分が殺されても、殺した犯人を殺すことが意味のないことだから、死刑にしないで欲しいと考える人間も多くいると思う。
しかし、人をあやめる罪は、命をもって意外に償えるのだろうか?
人は人を故意に殺した時点で、人権を失ったとは考えられないだろうか?
たとえそれが若くても、少なくとも殺人が悪いと解る程度の年齢であれば、彼、あるいは彼女に、更正という今後の人生は必要だろうか?
必要だとする人が、必要だという論理を構築されても、恐らく私は納得し得ない。
殺人を死刑をもって償うというのは、ある意味因果の理法のようでさえないだろうか?
この世に生まれ変わりなど、たとえあったとしても、過去の記憶がない限り、無いのと同じで、少なくとも前世の記憶をもった知り合いが、私にはいない。全ての知人は、この世に一度しか人生を持たない。
放っておいてもいつかは死ぬ。
だが、人為的に殺害された人間の最低限の権利として、殺害した人間の生殺与奪の権利があるとしたら、死刑は決して無駄ではない。
死刑廃止を訴えている人々は、死者の思いを、どのように受け止めることができるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 無量大数 | 01:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年8月26日
飲酒運転は一発免停っていうのは?
福岡市の職員が、悲惨な事故から1年、また飲酒運転で事故を起こした。
今回はバイクで、しかも被害は本人だったので、論調はもっぱら、過去の教訓や、自治体関連の飲酒運転などのようだが、そもそも飲酒運転は、昨年の児童3人死亡以外でも、多くの悲惨な事故を起こしたり、死亡に至らなくても多くの事故を起こしているのは間違いのないことだ。
飲んだら乗るな、乗るなら飲むなという、比較的誰でも知っている標語は、とても正しい。飲酒だけが交通事故の原因ではなくても、飲酒運転が事故に繋が確率は高いし、大事故になる確率も高い。
以前から思っているのだが、飲酒運転は即免停、二度と免許を取らせないという法律は作れないものだろうか?
飲まなければいいわけだから、そういう法律があっても、困らないと思うのだが。
罰もちっとも重くないと思うし、ただ飲酒運転をしなければいい、それだけのことだ。
別に刑務所にはいるわけでもない。これだけ世の中で騒がれても、車に乗る前に酒が飲みたいのであれば、車の運転をさせない変わりに、どうぞ思い切り飲んでくださいということだ。
国会議員の方で、万が一このブログを読んだ方、ぜひ検討して欲しいものだ。
人間間違いは誰でも犯すが、犯してからでは遅い間違いもある。飲酒運転で死亡事故っていうのは取り返しが付かない殺人だ。被害にあった人たちだけではなく、多くの人たちが、飲酒による死亡事故は一級殺人だという認識を持たない限り、こんなことはなくなりはしない。
ぼくはどちらかというと性善説だが、いい人が罪を犯さないわけではない。罪を犯せない環境を作ることが大切だ。
飲酒運転による死亡事故の厳罰化は、必要なことだが、それ以前に、飲酒運転をさせないもっと効果的な施策が必要だ。
飲酒運転を1回でもした人間には二度と車の運転をさせない。とっても簡単な解決策の一つだと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 政治・経済・行政 | 01:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月26日
飲酒運転
また飲酒運転による死亡事故があった。ニュースによれば、犯人は泥酔状態だったともいう。
1年くらい前の福岡の追突による幼児3人死亡の裁判がしばらく前に始まったばかりだ。
私は車に乗らない。免許がないので乗れないが正しい。確かに都会に住んでいるので、まず必要性を感じないし、そういう意味では、生活上の自家用車の必要がないという意味で、地方在住の人とは条件が違う。
酒を飲んでも、電車は遅くまで走っているし、タクシーもすぐ捕まる。
でも、そんなこととは全く関係なく、飲酒運転は犯罪なのであり、環境には左右されない。
以前、これもテレビだったと思うが、飲み屋に行くにも車でないと行けない。駅前にある都会とは違う、というようなことを言っている人がいた。・・・・だったら都会に引っ越してこい。そんなに飲みたけりゃ。
恐らくタクシーを使っていくと、飲み代以外にお金もたくさんかかるに違いない。しかし、都会に住んでいれば、それなりに高い家賃で、かなり切迫した生活を送っているのだ。
どんな理由があろうと、飲酒運転は犯罪だし、しかもことは他人の命に関わる。
危険運転致死罪ができても、あまり適用されず、業務上過失致死で終わるケースが多いと聞く。
先日、自動車運転過失致死傷罪というのができて、「自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。ただし、その傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。」という刑法の追加があったようだ。
でも7年だ。最高で。
車の運転は飲酒以外に居眠りとか、よそ見とか、様々な原因で事故に繋がる。しかしとりわけ、飲酒による事故は、飲んでなければ起こらなかった可能性が高いわけで、許されてはいけない。
私は昔から、飲酒運転は事故を起こしても起こさなくても、「永久免停」にすべきだと思っている。そんなやつに車を運転して欲しくない。道路を歩いていても、他の車に乗っていても、怖くて仕方ない。
だから、飲酒運転をするような人間からは、まず免許を剥奪し、二度と乗せない、と言うことが必要だと思う。
そんな法律を作っても、まだ飲酒運転をするような人間からは、免許を剥奪してもかまわないだろう。それでもする人間は、実際に事故を起こすまで絶対に同じことを繰り返すに違いない。
飲酒死亡事故は、時々世論で出るように、このご時世、「未必の故意」に等しいので、殺人として定義するべきだし、厳罰化も必要だろう。だが同時に、潜在的な彼らのために、車に乗せないことを考えた方がよい。
そうすればタクシー業界も、少しは景気が良くなるのではないかな。
車を運転するのは楽しいことかも知れないし、必要がそうさせる場合もあるだろう。しかし、そのことが、社会のマイナスになるのであれば、温暖化に対するレジ袋削減や、クールビズと同じ意味で、できるだけバスを利用したりするのも、意味のあることだろう。たとえではなく、温暖化防止の役にも立ちそうだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月10日
Pablo Cruise
先日、ダウンロードで楽曲を購入しようとしたときの話だ。
最近は、CDやDVDは主にHMVかタワーレコード、amazonなどで購入している。HMVはダウンロードも同時にできるので、重宝している。・・・・但し、Firefoxではダウンロード購入がうまくいかないので、そのあたりはぜひとも改善して欲しいものだ。
タワーはNapsterなので、どんな楽曲があるのかがまず解らない上、定額制で聴き放題という、そもそもこちらが望む音楽をきちんと揃えているのかい?という部分が解決されないままに利用したくない方式なので、二の足を踏んでいる。
iTunesは、利用しようと思うのだが、HMVでなかったものを探すという手順を踏んでいるせいか、購入に至った試しはない。尤も、プロバイダがSo-netで、So-netはmoraというダウンロード専門のショップと関連があるので、以前はそこで買うことが多かった。だから、まずiPod利用者でないぼくとしては、iTunesから入るという道は歩く必要がなかったのだ。
さて、最近はとみに新しい音楽への探求心が欠乏し続け、昨今の音楽はほとんど聴かない。若い頃聴いていた音楽にばかり拘泥し続けるのは、年を取った証拠かも知れないが、ただこれまで聴いたことの無かった音楽を拒否しているわけではなく、最近の音楽を聴かないというだけに過ぎない。
単にそそるものが少ないからであり、昔のものが感性に訴えかけてくる率が高いから、そちらで探しているだけだ。だから時折耳に入ってくる、最近の音楽でも、全く拒否しているわけではなく、買うこともある。
前にも書いたが、購入商品の8割はクラシックになってしまっているのだが、パソコンの中身を考えると、クラシックとそれ以外の割合は半々くらいなので、聴く確率というのも、たぶん半々くらいだ。
今も久しぶりに、Wishbone Ashを続けてかけながらこれを書いている。
先日、HMVでめぼしいものをウィッシュリストに入れていて(ウィッシュリストは、購入する前の候補のことだ。入れておいて、あとで購入するか、やめるかを判断する)、その中に、Pablo Cruiseというバンドのベストアルバムをそこに入れた。
このバンドも70年代から居たのではないかと思うのだが、よくは知らない。たぶん、サーファーが好んでいたのではないかという程度の知識だ。
このバンドの中のLifelineというアルバムに、「Zero To Sixty In Five」という曲があるのだが、この曲が昔から好きで、尚かつ1回も購入したことがない。
最初の聴いたのは、確か学生時代に友人が持っていたのを聴かせてもらったときだったように思う。
但しこの曲が、Pablo Cruiseの「Zero To Sixty In Five」という曲だと知ったのは、ずいぶん後だったように思う。
その最大の理由は、後日別の機会に他の曲を何回か聴き、気に入った曲がなかったので、買わなかった、と言うことだ。
1曲に2千円も出したくないという気もあった。
そこで、1,500円くらいでベスト盤を購入できると知り、まあいいか、買おうか、と考えて、ウィッシュリストに入れた。当然、1曲でダウンロードできるか確認して、できなかったので、そうした。
しかしちょっと待て、このグローバルなネット時代に、何で日本で買わなきゃならんのだ。と思った。
そこで海外のサイトを探してみると、見事行き当たった。しかもいくつもある。
iTunesでも買える。早速、クリックしてみると、この曲は日本では買えませんときた。
MusicMatchというソフトを使っているところでも、Noだ。USAオンリーだそうだ。
DVDのリージョンは、保護貿易の国アメリカのハリウッドのおかげで、無効のDVDは基本的に日本では再生できない。ここでもかよ!と思った。
ミュージックダウンロードなどと、世の中で、何でもかんでもダウンロードで買えるかのように喧伝されてはいるが、最近のヒット曲だって、大して買えないのが現実だ。
実際に、アルバムを購入しようとまで思えない曲は、ダウンロードで探すが、ヒット率は非常に低い。これはぼくの趣味にも原因はあると思うが、それでも、たまたまいいと思った、Tokioの「宙船」とか、いまだにない。
ちなみに、「宙船」とカップリングになっている曲など、何の興味もない。買うだけ無駄だ。顧客主義やユーザビリティなど、購入する側の希望や便宜を商売の最大のよりどころにしようと、表面はしていても、結局のところ、どういう方法が最大の利益になるか、という視点でしか考えられていないということだ(尤も現在のやり方が、最大の利益を生んでいるかは解らないが)。
だがまだ諦めたわけではない。拙い英語力を駆使して、探してみせる。
先日人から頼まれて、iPODと、ソニーのWalkmanの設定を行ったのだが、このWalkmanに曲が転送できないで困っていたのだ。
原因は、パソコンに取り込んだときに、著作権保護設定をそのままで取り込んだためだった。しかしこういったことは、ただ音楽が聴きたいためだけにこういった機器を購入した人にとっては、非常に解りづらい。
著作権の保護という問題は、ぼくなどが言わなくても世間でも多くの人が行っているから、敢えて、著作物は、客がいて始めて金に換わるものだということを、著作権の所有者側が、もっと謙虚な気持ちでとらえて欲しいような気がする。
海賊版や不法コピー対策も必要だろうが、店の万引きと同じで、無くなるわけではない。少なくとも、一般の消費者や顧客に影響が及ばない範囲で、対策を講じる必要があろう
実はPablo Cruiseだけではない。Badfingerの「Carry On Till Tomorrow」という曲もそうなのだ。
Eddie Grantの「Romacing The Stone」は結局ベスト盤を購入してしまったのだが、やはりこの曲しか聴かない。そんなものなのだ・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月 4日
あざみ野
週末、所用があってあざみ野へ行った。
あざみ野は田園都市線で渋谷から20分あまり(この日は各駅で行ったのでもっとかかったが)、横浜市青葉区の北西部に位置する。急行も止まる。
友人がたまプラーザにいるので、田園都市線はそれほど知らない路線でもないのだが、急行が意外に少ないようで、渋谷駅で急行に乗れたためしがない。大概、鷺沼で急行に抜かれるという電車に乗ることが多い。今回もそうだった。
二子玉あたりを過ぎればだいたい座れてしまうので、鷺沼では乗り換える気がしない。たまプラーザは鷺沼の次だし、あざみ野はさらにその次だから。
横浜市の人口は、日本一だし、神奈川県の人口を全国威第2位へ押し上げる、恐らく原動力にもなっている。
一極集中と言われる日本だが、確かに東京を中心とする首都圏の人口密度は非常に高いようだ。東京、神奈川、埼玉、千葉の4都県だけで、日本の人口の4分の1を占めている。面積で言えば、全国の5%にも満たない地域だけで、25%だ。
さて、実はあざみ野で、ちょっと人から携帯に電話があるはずだった。ところが、圏外、アンテナ1本、時折大丈夫な地域もあるのだが、ちょっと移動すると圏外。おいおい。
使っている携帯はSoftbankなのでそのせいかなとも思うのだが、それにしても横浜市で圏外かよ、とびっくりした。
確かにSoftbankの携帯は、DoCoMoなどでつながる場所でもつながらないことが結構ある。恐らくauよりもつながりづらいに違いない。
それでもなおなぜ、Softbankを使うのかと言えば、僕の携帯スタイルにSoftbankの料金体系が(正確にはVodafoneのが合っているからだ。
携帯電話がない時代には、無いなりの過ごし方ができた。しかし携帯が存在し、しかもここまで生活の内側に入ってきてしまうと、もはや「昔は・・・・」などというのはただの言葉に過ぎない。
そんなことを言いはじめたら、仕舞いには火のない時代には生肉を食っていたのだからまで遡るしかない。
ま、そんなわけで、そこらでお茶を飲みながら電話なりメールなりを待つというのが非常に恐ろしく、やむを得ず駅前で時間をつぶした。よく、店舗に入り、席に座ったとたんに圏外ということが、実際にあるのだ。
人前で携帯を掛ける掛けないというマナーの問題とは別に、連絡装置としての携帯は、そこに厳然と役目がある。マナーは、その携帯の機能と、社会的な感覚のバランスで成立する。
ともかく、今回はまだ不十分な携帯の使い勝ってのおかげで、少しばかりまいったというお話。
帰りの電車で携帯を見ながら行ったが、たまプラーザではいい感度だったので、恐らくあざみ野周辺限定かも知れない。・・・・まさか昼間の地震のせいでもあるまいが・・・
とにかく、あざみ野在住でなくて良かったと思った次第。・・・いい街のように感じられたが・・・
携帯のような生活のインフラは、そのアンテナなどを、共通化し、通信料などは全て無料になるのが望ましいと思うのだが・・・・
あざみ野というタイトルだったが、結局は携帯のお話。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月30日
昭和の日
今日は(正確には昨日は)、昭和の日だ。今年からそうなったらしい。
そもそも4月29日は昭和の頃は、天皇誕生日だったのが、天皇が亡くなったためにみどりの日になった。それが、今回、法律が改正され、昭和の日となったと言うことだ。
みどりの日は、これまで国民の祝日という怪しいタイトルだった5月4日に移った。
いずれ、12月23日は平成の日になるときが来るのかも知れない。
同様にと言うわけではないが、11月3日は文化の日だが、これは明治天皇の誕生日だったらしい。
なぜか大正天皇の誕生日、8月31日は祝日になっていない。せっかくだから休みにすればいいのにと思うが。
歴代の天皇の誕生日を祝日にすると、一体どのくらい休みが増えるのだろう?
現在の天皇が、神武以来125代目のようだが、誕生日が判らない天皇もいるかも知れないし、同じ日の天皇もいるかも知れない。だが、1年の3分の一くらいは祭日になったりして・・・
昔の人は天皇の名前を神武、綏靖、安寧、懿徳・・・・と覚えたらしいが、自分では記憶がない。日本史は世界史に比べて苦手だったし。
まあ、いずれにしてもゴールデンウイークの一角を担う昭和の日だから、大切だ。
今年は、5月の最初の二日間が土日と重ならないので、出勤する人も多いのではないだろうか。この前3日とうしろ4日の連休はしかし、その時こそ忙しく働く人がたくさんいて始めて成り立っているわけだ。
逆に言えば、国民の祝日はあっても、国民の休日というのは基本的にあり得ない概念ということになる。
多くの人が休む元旦でさえ、働いている人は大勢いるし、それがなければ成り立たないのが現代社会だ。
今日は新宿に出かけてきたが、それでも日曜日と言うこともあり、多くの人でごった返していた。
あまり昭和の日という祝日の内容は関係ないわけで、基本的に「お休み」以上のものではないのだな・・・・という風に感じたわけだ。改めて。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年4月 9日
PASMOとか
PASMOが誕生して半月、Suicaとの乗り入れで、関東圏の鉄道とバスは、だいぶ便利になった。
関東圏というのは、単に他を知らないからだが。
しかし、前から感じているし、前にも書いたように思うのだが、私鉄対JRという構図は、やはりおかしいように思う。東日本旅客鉄道株式会社だって、元は国鉄とはいえ、れっきとした私鉄だろう。
最初から、私鉄というくくりでこういうユーザーフレンドリーな企画は考えてくれば良かったのにと思う。
まあ、今となっては結果は一緒なので、改めていっても詮がないのだが。
ぼくが利用しているのは京王線なのだが、京王は、パスポートカードという独自のカードを出していて、ぼくが持っているのは、京王グループでのみクレジットカードとして使えるものだ。提携カードの類があるのかどうかは知らないが、今時無いわけ無いのできっとあるのだろう。入会するとき、全く勧められなかったので、持っているのは京王オンリーのものだ。
駅では今でもオートチャージのできるPASMOに、というキャンペーンというか、勧誘を行っている。
実際最初は、京王のカードでPASMOを作ろうかとも、ちょっと考えた。そこで、聞いてみると、京王では(小田急とか、他の私鉄各社は知らないが)PASMOを発行してそこにオートチャージができるが、パスポートカードすなわちクレジットカードそのものをPASMOとして使うことはできないという。
説明書をざっと見ると、チャージの方法も、2,000円だか3,000円を切ると3,000円のチャージという決まりがあるらしい。これがシステム的な問題だとはあまり思えないのだが、そういう決まりらしい。
ところで、この非接触型ICカードの草分け的な存在でもあるSuicaは、しばらく前からVIEWカードと組み合わせて、VIEWスイカというサービスをやっている。これは、Viewカードを持っていれば、そのカードにSuicaとしての機能を付加できるというもので、今回、オートチャージにも対応した。
つまり、ViewSuicaを持てば、別のSuicaはいらなくなるということだ。
実はこの機会に、モバイルSuicaに変えてしまおうと考えていたのだが、モバイルSuicaは、オートチャージができないというので断念した。
このオートチャージというサービスは、使ってみると非常に便利で、Suicaやパスネットの時は残額を気にしながら載っていたのが、必要なくなった。これができないのは痛い。
Suicaでは、オートチャージの金額も自分で設定できる。
まあそんなことで、京王のPASMOかJRのSuicaかという選択は、自ずとSuicaに軍配が上がり、現在はViewSuicaを使っている。
ところが、財布に入れてそのまま財布で改札を通過しようとするのだが、うまくいかないことが多く、現在はカードを裸にしてタッチしている。さて、そうなるとこのカードがクレジットカードであることが逆に不安になる。さすがにクレジットカードを裸でポケットに入れて、無くしたりしたらどうしようという不安だ。
クレジットカードに限らず、キャッシュカードやら、振り込みカード、ポイントカードなど、財布の中は、お金よりもカードの方が多いのじゃないかと思えてくる。診察カード何ていうのもある。
だから、PASMOとして1枚カードが増えるのを嫌った訳なので、できれば銀行のキャッシュカードなんて、1枚で全銀行の分が済むようにならないものかなどと考えている。
あるいは、ポイントサービスも、共通カードが1枚あって、各店バラバラでもいいから、その中に情報だけは入ってくれないかなとか、色々考える。
もちろんそうしたときのディメリットは、簡単に思いつくだけでもいくつかあるし、簡単にはいかないだろう。しかし、それを超えても、カードは増えるばかりだ。
クイーンズ伊勢丹のポイントカードがあるのだが、それには家族カードというのがあって、それは非常に小さい。つまりは、そのくらいのサイズにできるのかな?とも思わないではない。
いや、クレジットカードなどの方が情報はたくさん詰まっているのかも知れないが、クレジットカードが生まれて何十年も経っているのだ、同じ情報を、もっと小さなカードに入れることも可能だろう。
この黄金比率のようなサイズのカードを、もっと小さなカードにして砕けでも、少し違うのでは・・・・・と思っても見たが、所詮は付け焼き刃だ。
やはり、1枚のカードに、複数の情報を入れて、簡単にできるのが望ましい。
SuicaはViewSuicaという形で、少しだけそれを実現している。モバイルSuicaでもそれができたらもう一歩前進だ。
京王のカスタマーサービスは、その点でJRに後れを取っているように思える。
まあでも、なくさないように気をつけないとな。・・・・どのカードもだが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月30日
加護亜依
モーニング娘。の加護亜依が、・・・・「モーニング娘。」が一発で変化できるなんて!最近のFEPって!・・・喫煙写真をまたも撮られて「引退」とか言われている。
別に加護ちゃんのファンでもないので、引退するのはかまわないのだが、何だかよくあるバッシングのようで、見ていて寂しい。曰く「2度目だから仕方ない」みたいな文脈が多い。
何度も覚醒剤や麻薬に手を出して、そのたびに芸能界に復帰して、中には現在とても活躍している人もいる。
覚醒剤や麻薬は年齢に限らず法律違反だが、タバコは20を過ぎれば犯罪にもならない。ましてや、今回の記事を書いていたり、批判的な大人たちの中には、自らが未成年でタバコを吸っていた人だってかなりいるのじゃないか?
加護ちゃんに限らず、全ての人がタバコを吸わない世の中が、私は理想だし、一本も吸ったことのない人間としては、禁煙の苦しみなど全く解らない。
彼女のために、喫煙などやめた方がいいと思うが、18才でタバコを吸ったことで、未来を閉ざされるのだとすれば、何てくだらない理由だろう。ダルビッシュは1回だったから、何も言われていない。そのあと彼が隠れて吸っているかなどは全く問題ない。
他の犯罪はいざ知らず、未成年のタバコや酒は吸わせないし飲ませない方がいいかもしれないが、もう少し軽くてもいいのじゃないか?
先日の鹿児島県の選挙違反の冤罪での県警の無茶な取り調べなんか、あれだけのことがあったって「厳重注意」だ。
交通事故で人を殺しても最高で5年しか刑務所に入らない国で、たかがタバコで芸能界引退って!
飲酒運転の芸能人や、覚醒剤や麻薬の芸能人もみな引退させなきゃおかしかろう。
何とも、この国のバランス感覚の悪さには辟易するというニュースだ。
未だに禁煙と書いてあるホームでタバコを吸ったり、そこらにぽいぽいタバコを捨てるサラリーマンなどが山のようにいるのだ。そんな国で、18の女の子に、禁煙違反で芸能界引退というのは・・・・
別に引退しても困らないが、そんな写真を隠れて取っている雑誌社の方が、どちらかというと、世の中をよくしているようには思えないのだが・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月13日
銀行
銀行というのは、なぜかそのサービスを3時までという、客商売としてはあり得べからざる時間で終了させるということから脱却しようとしない。
私は銀行に勤めたことはないので、その業務がいかに大変かは知らない。そんなことは関係ない。客とは、店や企業がどれほど大変かなどということは、基本的に斟酌しないものである。
ネットバンキングのいくつかを利用しているが、JNB(ジャパンネットバンク)やe-bank(イーバンク銀行・・・イー銀行銀行ということか?)は、夜中でも決済ができて、しかもそれがリアルタイムに反映される。入金もそうだ。
ところがここから普通の銀行に振り込んだりすると、「翌営業日」という扱いになる。週末などは、金曜の午後3時から月曜の朝9時まで66時間は全く稼働していない。祭日など挟まった日には+24時間ということになる。
多額の公的資金を投入して、不良債権とやらをどうにかしたのはまだ記憶に新しい。さっさと立ち直って儲かり始めた銀行だが、別にサービスが良くなった感はない。
窓口業務の3時というのは、何となく人手の問題なので、多少は解らないでもないが、これだけコンピューターやネットワークが日常的になっている中で、いかにも旧態依然としたサービスに終始していることに、銀行は何も感じていないのだろうか?
少なくともネットバンキングは24時間(365日とまでは行かないが)、かなりフル稼働して、ストレス無い取引ができる。
もちろん取引内容にもよろうが、せめて入金や振り込み程度のことはできてもおかしくない。
取引のある三菱東京UFJ・・・・もう少しこの名前はどうにかならなかったものか・・・・は、旧UFJと旧東京三菱でサービスが違う。実質別銀行だ。UFJでできて東京三菱ではできない内容が、6時過ぎの記帳とかまで違うから困ったものだ。
婚姻届や離婚届などは夜中でも受理するらしいが、公共機関の窓口業務も、5時で閉店だ。郵便局の振り込みなども4時で閉店。
そもそも、銀行も含めて行政機関や、郵便局など、非常に公共性の高いこれらのサービスが、土日休んで平日の昼間だけっていうのをどうにかして欲しいものだ。
仮に平日を休んでも、土日はやるとか、夜10時まで営業するとか、日本はシエスタで名時間も昼休みを取るような国民性ではないのだから、考えてもいいのではないのだろうか?
病院などでも、最近は夜や日祭日を開業しているところも増えてきた。
せめて銀行の、ATMが動いている間は、そのまま振り込みなどが反映されたり、その辺りから業務改善を行って欲しい。ただでさえ、銀行員の給料は高いのだ。サービスとして還元して欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年2月 4日
週刊こどもニュース
週刊こどもニュースはNHKが土曜日の夕方にやっている子供向けのニュース番組だ。
その一週間に起こったことや、最近の社会や政治などのトピックなどを、わかりやすく解説している。
説明を見ると、もう10年以上にわたって続いているらしい。ちょっと前までは、最近独立したのか、他局でもよく見かける池上彰がお父さん役をやっていて、お母さん役は、林家きく姫、林まやとかがやっていたと記憶している。
たいてい子供は3人で、その子供たちも取材に係わって来るという流れだ。
今日は、裁判制度の見直し(被害者の遺族が検察側として裁判に大きく係われる)などが、国会で議論されることになるといった話や、地方の赤字路線対策として、線路・車道両用のDMV(デュアル・モード・ビークル)という乗り物が開発されたといった内容が放送されていた。
非常に解りやすく、実際の視聴者の中心が、子供よりもむしろう、壮年層だというのがよく理解できる。
現在のお父さんは鎌田靖というNHKの解説員の人がやっている。この人、初期の頃、ちょっと羽目を外しすぎて、お母さんからマジで窘められているようなシーンがあったのを思い出す。最近は慣れたようで、落ち着いた感じだ。・・・最初の頃ののりも嫌いじゃないのだが。
この週刊こどもニュース、できれば日刊にしてもらいたいくらいだ。民放のニュースは、テレビ東京を除くと、どこも似たり寄ったりで、新鮮味がないし、非常に週刊誌的な臭いがすることもしばしばある。それ自体の存在意義は否定しないが、こどもニュースのような切り口の番組はNHKならではだと思うし、これなら受信料を払っても文句はない。
最近、古舘伊知郎の報道ステーションは、非常に薄っぺらにしか見えない(本当に薄っぺらかどうかはこの際問題ではない)古館の社会はなコメントは、聴いていていつも気分が悪くなる。本人はそういうつもりはないと思うが、この世で自分一人が聖人君子とでも言いたげな調子にしか聞こえないし、「自戒を込めて」などと言われた日にはなおさらそれを煽る。
何も言わず報道だけに専念しておれと言いたくなる。同じ内容を言っても、たぶん他の人だとだいぶ違うのだろうから、損だな、と思わざるを得ない。
隣に座っている河野アナも、古館の発言に同調ばかりしていて、スポーツキャスターをやっていた頃の方がぜんぜん印象が良かった。
ニュース番組としては時間帯もいいし、つい見てしまうのだが、どうもやるせない。
こどもニュースを見ていると、お父さんが何か意見を押しつけるでもなく、かといってある程度子供に解る程度の問題提起をしている。いい番組だと思う。
ついでに言えばNHKはNHKスペシャルなどのハイビジョンで科学番組で非常にいい物を作っている。同じ受信料を使うなら、もっとこういう文化的な方面に使って欲しい。お笑いや歌番組、クイズなど、たとえ面白くても、他局に任せていればいい。尤も、演歌だけは放っておくと他曲ではやらないだろうから、別かな、という気がしないでもないが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年1月26日
特急
先日、所用があって狭山へ行った。
うちから狭山へは、高田馬場乗り換えで西武新宿線で一本だ。馬場から狭山までは、たまに乗ると、ちょっとした小旅行だ。
元々川越出身なので、新宿に勤めていたときには、時折新宿線を利用することがあり、その場合は、本川越から西武新宿まで、つまり、始点から終点までだったので、今回よりさらに行く駅か長かったはずだが、当時はそんなことは思っていなかった。川越から新宿は、東武東上線と山手線を使った方が、西武線より早いし、西武新宿駅は新宿とはちょっと離れているので、ただ新宿と言うことであれば、東上線ルートの方が早い。
ただ当時は、歌舞伎町の入口に勤めていたので、西武新宿駅から非常に近かったのだ。
今でもそのレコード店は同じ場所にあると思うが、当時とは店名も変わっているし、そもそもレコード店ではない。ぼくが始めてその店に入った時には、まだこの世にCDは存在していなかった(尤も、プロトタイプはすでにあったと思うが)。
話は逸れるが、その店にいるとき、店の前の歩道で靴磨きをしているおじいさんがいた。背がちっちゃくて、靴を磨くクリームで手を真っ黒にした、それでも快活な気のいいじいさんだった。時折、店に両替に来る。お客さんにおつりがないからだ。また、時にはそこの店員に金を借りに来ることもあった。ぼくも何回かかしたことがある。比較的律儀に返しに来ていた。時折返さないことがあったようにも記憶している。
いつまでそこにいたのか解らないが、いつの間にか姿を消したと思う。亡くなったのかも知れないと、当時思ったものだった。
今考えると、もう少し優しくしておけば良かったかな、等と思ったりする。まだぼくも20代だった。
さて、話を元に戻すが、狭山で用を済ませ、帰りのことだ。パスネットで改札を抜け、ホームに行くと、ちょうど特急が来るところだった。
乗りたいが間に合うだろうか、というのがその時の気持ち。
見てみるとがらがらなので、取り敢えず乗ってしまえばこちらのものだとは思ったが、取り敢えず近くの駅員に、中でも買えるかという旨を訊くと、「そこで特急券を買ってください」と言われた。
見ればすぐ後ろに特急券の券売機らしきものがある。そこで、あわてて券売機へ向かった。
取り敢えず1000円を入れて高田馬場を押す。うんともすんとも言わない。2度押したが変わらない。試みにもう1000円入れてみる。関係ない。
ふと気づくと、上に何枚というボタンがある。そこで高田馬場、1枚通すがそれでもダメ。ようやく気づき、1枚、高田馬場通すと、お金が多すぎますといって2千円がはき出される。
改めて1000円入れて同じように押して、ようやく特急券を手に入れた。
どうにか落ち着いて小江戸号に乗り込み、座席に着く。ちょっとして発車。余裕はあった。しかし絶対乗り込んでから中で買っても問題はなかったな。そう思った。
何にせよ、普通の券売機は、1枚の場合、わざわざ枚数を押すことはない。先日、テレビのクイズ番組でもやっていたが、券売機のひとりボタンは、二人とか3人通した場合に、それを訂正するために付いているのだ。
その感覚があるから、どうしても券売機で買おうとすると、普通に行き先だけを押す。ここの機械の案内は、音声なので、せめて音声で、「枚数を押して、行き先をしてください」とか言って欲しいものだ。
また、2千円はいっていても、発券して、おつりで出せばいいじゃないかとも思う。
普段だったらそれほど感じないこんな八つ当たりめいたことが、焦っていたのでひときわ強く感じることになった。
でもまあ良かった。乗れて。
電車は非常に快適で、あっという間に馬場まで着いた。しばらく旅行へも行っていないので、軽い旅行気分を味わった。電車旅行が好きなのだな、我ながら。・・・・駅弁が食いたかった。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年1月14日
「正しい和食」の認証制度
農林水産省が、「正しい日本食」を出す店の認定制度をアメリカ等海外で行うというようなニュースを、先日見た。
以下は、12月23日の産経新聞の記事だ。リンクにすると程なく消えてしまうので、全文引用する。
農林水産省は22日、19年度予算案で認められなかった海外の優良和食店を認証する
新制度について財務省と復活折衝を行い、2億7600万円の全額が復活したと発表した。
同制度をめぐっては、米国メディアで「スシ・ポリス派遣」などと揶揄(やゆ)されたほか、前日
の自民党政調審議会でも「政府が認証するのはおかしい」などと異論が相次いだ。事業の内
容は変わらず、「認証」を「支援」に名称変えし、あきれた復活となった。この制度は、海外で「和食店」でありながら、和食とは懸け離れた料理を出す店が増えて
いる実態を踏まえ、「本来の和食」普及のために一定基準を満たす店に何らかのマークを付
与しようというもの。事業名は、「海外日本食レストラン認証事業」だったが、復活折衝で「海外日本食優良店調
査・支援事業」に。さまざまな異論に抗しきれず「認証」を引っ込めた格好だ。松岡利勝農水相は「認証と言うと許認可を与えるような印象。(認証されなかった店を)排除
する意図はなく、誤解のない名称に変えた」と説明している。しかし、同省には国内外から賛否両論のメールが殺到。海外メディアも、「日本がスシ・ポリ
ス派遣」(ボイス・オブ・アメリカ)などと疑問を投げ掛けていた。松岡農水相は予算復活に、
「思いをかなえていただいてありがたい」と意気込むが、2億7600万円の予算に「国費を使う
ようなことか」(自民党議員)などの声が根強い。
まさに最後の自民党議員が言うように、3億円近い税金の無駄遣いに他ならない。
そもそも、「本来の和食」とは何か、そしてそれは国がお墨付きをするような類のものなのか、ちゃんちゃらおかしい。それならば、国内の方が、よっぽど不思議な和食の店はいっぱいあるはずだ。
だいたい、「本来のイタリア料理」「本来のフランス料理」など、言いはじめたらきりがないし、料理など、時と場所でどんどん変化するし、変化するべきものなのだ。
こういう、あたかも伝統を守る的な視点に立った、ただの既成概念への執着こそが、「改革、改革」と口だけ言っている日本の政治の、非常に象徴的な姿だ。
おそらく日本料理界でも、どれほどの人が賛同するのだろうか?
テレビでは、アメリカの和食レストランの社長のような人が、「魚の裁き方も知らない料理人が料理をしている」と言っていた。それは料理人の技量の問題で、「本物の和食」かどうかとは別の次元のお話だ。
和食が伝統的な和食で勝負するかどうかは、ここの店の立場だし、努力だ。万が一それがアメリカで受け入れられないのなら、節を曲げるか撤退するか、それでもがんばるか、それしかない。国がどうのこうのということではないだろう。
アメリカ人がアメリカ人の口に合うように和食にアレンジを加えたり、アメリカの料理に和食のテイストを加えて、「和食」と言ってのけることが、果たして嘘だろうか?
そもそも和食とは何だろう?
和牛と国産牛のように区別できるものだろうか?
辞書で引くと日本料理とか、日本風の食事としている。おそらくとても曖昧なものだ。
誰かが定義付けをしているかも知れないが、どれほどのコンセンサスを持って、社会に受け入れられているだろう。
私たちは、和食の店に行くと、「刺身」「天ぷら」「すし」などを想像する。あるいは懐石料理などもそうだ。確かにそれらは日本食だ。しかし、母親が作る煮物やトンカツ、焼き肉、等々、それらも海外ではなかなかお目にかかれない料理で、日本食だ。
いずれにしたとこれで、何が和食か何て言うことはこの際問題ではない。
国が乗り出していって、あたかも文化の保護でございと言ったような顔をすることとがおかしいのだ。
こんな事が解らない農林水産大臣には、早々に職を辞して欲しいと思ったりもするが、これは実際、他の誰かがなってもそれほど変わらないところが、日本の政治の怪しいところだ。
いずれにしたところで、こういうことにNoと言いたくても、Noと言えないのが政治の世界だ。
一体、選挙でNoと言えないこういう事に、我々はどうやって意思表示をしていけばいいのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (0)
2006年10月31日
Softbank
20日に番号ポータビリティーに関して書いたばかりでなんだが、Softbankが連日システムを停止しているというニュースに関して。
auは24日以降、8万件の会員増だという。DoCoMoは6万人減。Softbankは発表していないと言うが、発表できないのだろう。システムが動かないから。だが、単純に差を計算すれば2万人減という数字が出てくる。
2,880円でSoftbank同士の通話は無料というのは、現在の家族定額やLove定額よりもいい。なぜなら、この二つはそれぞれ、300円のオプションサービス料金を取られるからだ。
単純に考えて、3社が今のサービスを継続するとした場合、全ての携帯利用者がSoftbankに会社を変更すれば、携帯同士の通話は、2,880円の固定料金で誰もが使える(多少の例外はあるとしても。固定電話との通話など)、ということになるわけだ。
ところが世の中そうはならないわけで、むしろauの方が会員数を伸ばしているのだ。値段以外のサービスにもよるだろうし、CM等のイメージ戦略でもauが成功しているとも言えるかも知れない。auはKDDIだから、元々国際電話の会社だが、この勢いで行けば、DoCoMoの牙城は簡単に崩れそうな勢いではある。
さて、8万人増加のauと、6万人減のDoCoMo、2万人減少しているかも知れないSoftbank。今回の番号ポータビリティサービスは、番号の解約と持ち出しで、元の会社と新しい会社の双方に負担がかかるわけで、その中、どうもSoftbankのシステムは、単純に弱いのではないかと推測できる。
孫正義の発表がぎりぎりだったということに原因を求める向きも多いが、スタートは一緒で、処理吸うが他の2社が多いとすれば、単なる処理能力の低さのような・・・・
もちろん、Softbank内でのサービス変更も多数合ったに違いないが、そうもSoftbankのシステムは心許ない。
といって、今回のシステムダウンなど、先日のNTTの光通信とIP電話の不具合に比べたら、大したことはないし、たぶんSoftbankに変更しようとした人たちは、単純に人気がある程度に感じたケースも少なくないに違いない。
これまで携帯にいくら払っていたか判らない人たちが、少なくとも、安くなり、さらに長時間話ができるとなれば、最初のシステムトラブルなど、それほど痛くはない。
ちなみに、私は実家の母の携帯をSoftbankにして(当時はVodafoneだが)、それまで使っていた固定電話から、全て携帯に変更した。双方の負担300円、計600円でどれだけ話してもそれ以上かからないわけだから、他の電話会社に変える理由がない。
今日、孫氏が、2,880円のコースの他社への通話が他の会社より高いのを、「同じにする」と発表したので、もしかすると、家族定額よりも、こちらの方がお得になるのかも知れない。
但し、Softbankのホームページの判りづらいこと・・・・・
もう少し簡単に判るようにしてくれないかな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月20日
番号ポータビリティ
来週から番号ポータビリティーにより、電話番号を変えないで携帯会社を変更できるようになる。とても良いことだと思うが、さてどれほどの人が変更するのだろうか?
携帯電話が普及し始めてからすでに10年くらい経つだろうが、その間に、携帯電話はかなり良くなり、一般電話を持たなくなった人もたくさんいる。先日、Yahoo!だったかどこだったか忘れたが、「一般電話はもう不要だと思うか?」というアンケートがあり、かなりの数の人がもう不要だとしていた。
まだまだ携帯を持たない人も多いし、すぐに一般電話が不要になるほどには携帯は万能ではない。しかもまだまだ料金は高いし、単純に携帯だけにするわけにはいかないだろう。
だが、IP電話やSkypeなどの無料通話と言ったように、一般電話が徐々になくなるというか、携帯などに取って代わられる要素は次々に出ている。
そんな中のポータビリティー、メール・アドレスはその性質上やむを得ないが、そのままキャリアを変えられるのは非常にいいことだ。
しかしこれは番号ポータビリティー以前の問題だと思うのだが、同じキャリア内で機種変更をしても、古い携帯から引き継げるのが、電話番号や、メールアドレスなどのアカウント情報だけで、メールの内容、ダウンロードしたコンテンツなどは引き継げない。これはいつまで経っても変わらない。携帯会社は、何か努力すべきところが違っているのでは?と常に思う。
実はメールの内容の移行は、パソコンの例えば、Outlook Expressでも非常に面倒くさい感じがする。
以前のように、フォルダごとまとめてコピーでは全く無理だし、これはthunderbirdでも同じだ。
パソコンを変え変えたりした場合、古いデータを移行させるために、わざわざ専用のソフトを購入するなどというのはおかしな事で、そんな機能はOSが備えていてしかるべきだと思う。
特に昔と違い、ファイルの圧縮技術や、DVDやCDのサポートなど当たり前の時代に、古いパソコンで、どこかをクリックしたら、メールやパスワード情報、お気に入りとか、少なくとも単純にファイルとして見えていない情報をまとめてはき出し、新しいパソコンで簡単にその設定を吸い上げる仕組みがあってもしかるべきと思う。しかも初心者でも解るように。
同様に携帯も、容量の問題や、かえって古い携帯に変えたということでもない限り、可能な限り全てのデータを新しい携帯に移せる機能は無くてはならない機能だと思う。ゲームにしたって音楽にしたって、有料でダウンロードしているわけで、携帯を変えたとたんに使えなくなるというのは、家を引っ越して電気製品やガスが使えなくなったと言われているようなものだ。
テレビが見れるようになったなどよりも、技術的にはさっさとどうにかしてくれと言う優先度は高いはずだ。
ちなみにSoftbankのアクオス携帯は売れているらしい。
私はSoftbank(というかVodafoneだが)の携帯を使っているが、このところのSoftbankのCMを見ていて、DoCoMoやauに比べて、サービスに関するアピールが全くなく、「予想外」という意味不明のことばかり言っているような気がしている。あのCMにかけているお金を、サービスに転換してくれと切に思う。CMを見ている限りauはお得感があるし、DoCoMoはそれなりに安定感がある。
ちなみに、友人の一人は、未だにJ-phoneを使っている(とうとうSoftbankになってしまいましたね!)。
実は他のキャリアはよく分からないが、Softbankは結構圏外になることが多い。もちろん都心でだ。ファミレスなどで隅の方だったり、先日は仙川駅のホームで圏外になっていた。
携帯は無ければ無くて済んでいたものだが、あればあるで、機能をきちんと果たしてくれないと困るのだ。人待ちでファミレスで時間をつぶしているときに、連絡が入ったら出ようと考えていて、ふと画面を見たら圏外!こんな事で困ったことのある人は大勢いるだろう。
そういえば、先日久しぶりに内田康夫を読んだのだが、当然何年も前の作品なので、一概に何とも言えないが、浅見光彦は母親から携帯を持ってはいけないと言われて、携帯を所持していない。掲示から、そろそろ携帯を持ってくれということを言われるというシーンがあったが、さて、最近の作品では、携帯を持っているのだろうか?ちょっと気になる。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 6日
キャッシング
SPAMメールは相変わらず多いのだが、SPAMとは言わないまでも、メールマガジンで、最近嫌になるほど多いのが金融関係のキャッシング、カードローンを勧誘するメールだ。
テレビでもよく見かける、モビットやアットローンなど、銀行系のものから、いわゆるアコムやプロミスなどの消費者金融系のものまで実に多彩だ。
消費者金融系のものは、最近の国会でも議論された、上限金利の問題もあるが、上限が30%近いすごいローンだ。年率30%っていうことは、100万円借りたら、月金利は3万円近いと言うことだ。恐ろしい。
それに比べると、よく目にするオリックスのやつなどは、8%〜になっていて、100万円借りても7千円くらいになるのだろうか?
金貸しという職業は、よくよく儲かると見える。時代劇でも金を貸して、返せない借り主の娘を岡場所に売るなんていうのは非常に良くあるパターンだ。
実際に広告をクリックしてみると、最近は入会するとポイントが付きますパターンが多い。Yahoo!やinfoseek、ECナビなど、そういううたい文句が並んでいる。
しかしよく見てみると、金利というのは必ずしも安いわけではない。安いところでも上限は18%くらいある。どの金利がどう適用されるのか、ざっと見てもよく分からない。
たまたま、5.5%という異様に安い金利を見つけたので、クリックしてみると、SBIグループ。おおこれは、ライブドアや村上ファンドの時によくテレビに顔を出していた北尾某の会社ではないか。
やることがちょっと違うな、何て思ってみてみると、お借り入れ診断というのがあるので、試しにデータを色々入れて試してみた。
すると、なかなかシビアな結果が出てくる。そこそこの会社に勤め、そこそこの年収があり、安定している人よりも、ニートではないにしても、なかなか定職に就けず、苦労しながら生きている人こそが、使いたいのだろうと思うが、そういう条件を入れると、お断り画面になる。
ストップ借りすぎというCMがあるが、結局のところ、金貸しというのは、返ってくる宛がなければ、なかなか貸さないので、0円で起業できるとか言っても、実際のところ、資金が無くて起業などなかなかできないのだ。
先ほど12チャンネルの経済ニュースだったかで、起業家のトップを選ぶというようなニュースを見て、ふと思ったわけだ。
会社を立ち上げるときに、資本金はきわめて小さい額で立ち上げられるが、やれ定款だ、印紙だと、実は、がんばって起業しようなどと考えている人間にとっては莫大な金がかかるのだ。
全部が全部ではないにしても、多くの起業家が、元証券会社とか、銀行とか、本当に若くして起業していたりしている。若さは大きな武器なのだ。やり直しがきく。
しかし、40代50代60代で起業しようとしたとき、大きな壁があるように思う。
そんなときキャッシングって役に立つのかな、と思いきや、やはりなかなかどうして、金というのはあるところにますます貯まるとよく言われるように、そういう仕組みになっている、としか思えなかった。
尤も、そういう苦労をしてこその企業だったり成功だと言ってしまえばその通りだ。
いや、単なる思いつきだったのだが、夜の中の仕組みの一端が見れたような気がして、面白かった。
安倍政権の再チャレンジって、こういうところどう考えているのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年9月29日
金髪
秋田市の学校法人「秋田経済法科大」が、茶髪とピアスを禁止する規則を作るそうだ。私立学校のようだから、そういう決めごとをすること自体はとやかく言うことではないし、現在の学生でない限り、嫌なら行かなければいいだけの話なので、あくまでこれは、経営者の判断次第のことだ。
さて、同じ日のニュースで、自民党の井脇ノブ子が、竹中平蔵の辞職による繰り上げ当選で、議員になる予定の神取忍の金髪に物言いをつけたというのがあった。
奇しくも学校関係者と議員から、金髪は「ノー」という意見が出たわけで、面白い。
こちらも、秋田経法大と同様、意見を言うのは誠に自由で、井脇議員の意見は意見として承ればいいことだが、さて神取忍が黒髪で来るのか、金髪でくるのか、あるいは奇をてらって別の色に染めてくるのかは、一つの楽しみである。
こういう記事には必ず、髪型よりも、議員としての云々というおまけが付いてくる。神取忍ごときに、いっぱしの政治家の腕を期待しない事を揶揄するような印象を受ける。
だが、それほどこのことは政治とは関係のないことか?
先日、東京地裁が、東京都の教育委員会が、君が代斉唱と国旗の掲揚を教職員に義務づけたり、しない職員に罰則を与えるのは思想の自由に違反するという判断をしたが、全く違うように思えて、実は金髪も国旗国歌も似ているように思える。
秋田経法大の方は、
『頭髪について「周囲に不快感を与える特異な髪形、染色、脱色は禁止」、装身具も「華美を避け、品位を保ち、ピアスは禁止」−読売新聞からの引用』
ということのようで、『指導に応じて改めた学生には褒賞金1万円が付いた学長賞を贈る』という、笑える処置もおまけに付いている。
確かに「いわゆる不良」といわれる人たちの多くは髪を染めたり脱色したりしている。だが、金髪や脱色、カラーの髪の毛の人間の多くは普通の人たちだ。ましてやピアスに至っては、自分がすることは金輪際無いが(痛そうじゃないか!)、今ではごく当たり前のファッションだ。
私には、この学校関係者が、自分たちが育った時代や、自分たちがこれまで身につけてきた価値観、善悪基準で、物事を判断しているようにしか見えない。単純に「古い」とかではなく、この世の中には様々な価値基準があり、それは時代とともに変わる。
新しいものが何でもいいわけではないが、古いものが何でもいいわけではない。
今回の自民党の総裁選挙で、教育改革というのが、国民の関心事項の非常に低い位置にいながら、3人供が非常に重要視をしていた。共通するのは、昔は良かった、だ。いや、言い方は悪いが、確かに昔は道徳教育など、今に比べればしっかりしていたようにも思える。戦前の人たちは修身などと、非常に厳しく教えられたようだ。
だが、今荒廃しているのは、教育現場ではない。世の中全体で、教育現場はその縮図に過ぎない。私が子供の頃も、まだ道徳という授業はあったし、きっと色々教えられてきたのだろう。覚えていないが。
前出の教育委員会と現場の教師の争いを見ていて、子供が規範とできるだろうか?
先日安倍総理の昔の話をテレビで流していて、教師が、日米安保はとんでもないといったようなことを言ったとき、学生の安倍は、経済条項はどうなんですか、みたいなつっこみをしたというのを見た。
そもそも教師、特に昔から日教組と、国は、犬猿の仲だし、日教組は共産主義よりだった。
共産主義がいいか悪いかよりも、人類には不適であることは、いい共産主義国家がほとんど無いことでも解る。少しでも人よりいい生活を願う人間が、共産主義に満足できるはずはない。
さて、話が逸れたが、毎日これだけテレビで放映されても飲酒運転が後を絶たないような社会で、子供たちだけに正しくあれと言っても、全てがそううまくいくわけではない。もちろん、正しく生きることは、必要だし、重要なことだ。
だが、髪を染めたりピアスをすることが果たして正しくないことだろうか?私には全く解せない。ましてや、「子供たちの模範とならなくては」などという、意味不明の関連性では、頭を抱えざるを得ない。
髪を染めることが良くない理由を、しっかりと論理立てて、多くの人が納得するように説明してから、それを禁止するなり、批判してもらわないと、何となく不良っぽいといわれているようで、子供はますます反発するだけだ。自分の子供時代に、そういう反抗をしたことが、彼らはないのだろうか?
染めた髪が不快なのか、金髪が不快なのか、日本人の顔をして金髪が不快なのか、論点も曖昧だし、一体どれほどが不快と思っているのか、それは「慣れ」の範囲ではないのか、ピアスはいけないが、イヤリングならいいのか、訳が分からない。
友人が、昔、「高校では化粧を教えるべきだ」といっていた。卒業して企業に入ると化粧が一気に身だしなみに変わるのに、高校時代はいかにも良くないことのように言われるという。
事ほど左様に、感覚に依存した規範というのは、決める側と守る側のギャップが大きい。あたかも自明のことのように金髪やピアスを否定する前に、もう一度自問自答して欲しい。日常的に哲学してくれないかな、彼らも。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年7月 4日
99.9%は仮説

表題のようなタイトルの本を読んだ。光文社文庫で、竹内薫というサイエンス・ライターが書いている。結構ブルー・バックスなどにもたくさん書いている人で、気にはなっていた。
結論から言うと非常に面白かった。
この世には確定的なことはほとんど無いという理屈は、神の存在から科学万能まで、非常になめらかなグラデーションでこの世の有り様を考えることができるのと同時に、この世のあらゆる事は不可知論的に、実証不可能ということで片付けてしまう可能性を残している。
しかし、ある意味それは、思考の束縛から自身を解放する一つの手段である。
このほんの帯には「飛行機はなぜ飛ぶのか?」というキャプションがあるが、この本はまず、どうして飛ぶかは解っていないという切り口から入る。
かつて、「定説です」というカルト団体があったが、この世の定説は、基本的には仮説に過ぎないというこのほんの本質は、だからこそ、新たな発見が毎日あるのであり、自分とは違う他人を尊重することが重要だと説く。
まさに、ニュートン力学が相対性理論で近似値に格下げされても、日常的にはニュートンが支配しているのだ。それでも宇宙へ出て行くとき、そして将来や宇宙論を見晴るかすとき、ニュートンはアインシュタインに取って代わられる。
アインシュタインだって、いつ他の誰かに取って代わられるか解らないということを否定できないとすれば、取りも直さず、相対性理論も仮説に過ぎないということの証明になる。
この世には真理とか真実とか、定理とか公理とか、似たような言葉がたくさんある。
デカルトが、「方法序説」の中で言った有名な「我思う、故に我有り」だって、それを前提にしなかったら、何も先に進まんだろう、という事であり、証明などできない。
この世の全ては俺の夢だ!
と誰かが言ったとしても、反証の余地はあるが、完全に否定はできない。
何かを疑うという行為は、いい場合とよろしくない場合がある。
オレオレに始まるような電話の詐欺は、まさに疑わなくてはならない典型だが、愛する人を信じられなくなったらおしまいだ。
先日、10ヶ月拘留され、起訴までされたが、冤罪であることが解ったという事件があった。これも友人が彼を信じ、助けたということだ。
この世には、神はいるかいないかとか、といった、ある意味心の問題と片付けるしかない事から、1+1は2のように、確定的なことがある。1+1が2であるのは、それが自然の摂理であるからではない。人がそう決めたからだ。1+1は山と決めていれば、1+1は山だ。
だが、なぜ1+1が2になるように、この世ができているのかは、おそらく永遠の謎だ。
あなたはこう考えるが私はこう考える。この世は所詮、それの積み重ねであり、その都度、より多くの支持を勝ち得てきたり、場合によっては力が強かったりで、多くのことが決まってきた。それでも、「盗人にも三分の理」以上に、人の意見には聞くところがあるものだという意識を、改めて強く持ちたいと思わせる書であった。
読みやすいしお奨め。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月30日
携帯電話
現在携帯はVodafoneを使っている。いつの間にかauに抜かれてシェア第3位になったVodafoneだ。元々J-phone時代から使っていたからというのもあるが、異常に家族通話が多いため、かつては家族割り(半額)、現在では家族定額(1台あたり300円)を、非常に便利に利用しているために、なかなか他の携帯会社への変更ができない。
最近はアンケートで、番号ポータビリティサービス開始後に、携帯会社を変えるつもりがあるか、という質問があるのだが、この家族定額のおかげで、変えるわけにはいかない。
ところがVodafoneは、せっかくVodafoneといえるようになってきたのに、明日からSoftbankになるらしい。いい加減にせいという感じもする。何かかっこわるいし。
孫正義には悪いが、ソフトバンクがやっているのは、ライブドアや村上ファンドがやろうとしてできなかったことを、より大きな資金でやっているようなものだ。
ホークスを買収したときに、ソフトバンクなどという名前を冠せずに、単純に福岡ホークスぐらいにしていれば、だいぶ印象も良かったが。ソフトバンクや楽天が参入しても、プロ野球は彼らの宣伝道具だ。IT,ITと言ったって、新しくも何でもない。
ソフトバンクの携帯っていうのは何だか嫌だが、それでも家族定額にはかなわない。
それにしても携帯電話というのは、無駄な出費を増やしてくれた文明の利器だ。今では無いと困る最大の機器でもある。無くてもいいという人はもちろんいるだろうが、時代がこれを不可欠なものにしてしまった。 車や飛行機や、テレビや冷蔵庫などと同じだ。
ところで携帯というのは新機種がばきばき出る。新しい機能がどんどん追加され、何でもかんでも携帯でというくらい出る。しかも、さすがに携帯電話なので、ある程度使っていると不具合が出てきたりするので、変えたくなる。そのたびに機種交換でお金がかかる。そして新規契約よりも機種交換の方が高かったりする。そしてそのたびに、手数料を取る。
どうもこのシステムは釈然としない。通話料は相変わらず高いし、こんな手数料はただにしろと言いたい。
うーん、しかし携帯ごときに愚痴を並べているのは親父の証拠なのか。
ソフトバンクに期待したいのは、パソコンの通信から携帯の通信まで、あらゆる通信を一本化できて、月数千円で収まるようなサービスを作って欲しいな。通信のコングロマリットの消費者の利点を追求して欲しい。携帯でテレビが見られることよりも、そっちの方が重要だ。
今でさえ、歩きながら携帯見ていて危ないのに、テレビなんかつけてより危なそうだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:34 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月15日
受信料とNHK
今日テレビで、NHKのディレクターが、空出張で1700万円を着服した件について、当のディレクターにインタビューをしていた。NHKは告訴する予定だと言うが、そのディレクターは、事実をカメラの前で認め、「申し訳なかった」と謝罪の言葉を述べた。
それはともかく、気になったのは、インタビューそのものだ。意外にあっさりと彼が認めてしまったせいもあるのだろうが、同じ事を繰り返して聞いたり、NHKは受信料で成り立っているのだから云々と、たたみかけるような質問をしていた。
別にそのディレクターを養護するつもりはないが、事実を認め、すみませんと言っているのに、これ以上何を聞き出したいのか、非常に空回りの感が強いインタビューだった。
さて、実はこれはフジテレビ系列のインタビューだが、ちょっと引っかかるのは、NHKのことを言うのに、必ず私たちの受信料で成り立っているのだから・・・・という文言だ。別に不払いの人がいるから、彼らは除外してとか、そんなことではなく、受信料で成り立っているから悪いのか、ということだ。
すくなくともテレビ局のインタビューを聞いていると、NHKは受信料収入だから責任が重く、民放は広告収入だから、少なくともNHKより裁量権が広いという風に聞こえることが時々ある。
例えば、同じ事がフジで発生したら、その場合は、会社とその個人の対立だが、NHKは、国民とその個人との対立だ、というくらいの意気込みを感じるのだ。
だが、果たして本当にそうか?
確かにNHKの問題はそれなりにあるだろう。
しかしNHKにだって従業員はいるし、基本的に収入源の多くを受信料に頼らざるを得ないのは、NHKのせいと言うより、法律がそうなっているからだ。
これは、何でもそうだが、我々は貨幣経済の上に暮らしているわけで、あらゆるものやサービスは、代価を払って、得る。そのクオリティがその代価にあっているかどうかは確定的に言えるわけではない。
ワンコインのランチを食べているサラリーマンの隣のホテルで、数千円のランチを食べている主婦がいるとしても、どっちの味が上かは、食べる人間次第だし、相場というものはあっても、かなり緩いわけで、バッグ一つが、該当で千円で売られているものから、100万円近くするものまであるわけだ。
原材料費や手間賃、機能やデザインで、客観的に見てそれほどの価格差があるのは、本来はおかしいが、それらとは違った価値観が、その差額を払わせて満足を与えているのだ。
顧客がある意味その部分の価格差を容認し、購入する以上、一応は棲み分けが成り立つ。
実際、公共性という意味では、NHKも民放も、今更大きな違いがあるわけではない。違いといえば、方や広告収入で、方や受診料というだけだ。収入の得方は違っても、詰まるところ、視聴者が最終的な顧客であることにはどちらも違わないわけで、ことさら受信料だから適正な使い方が重要なわけではない。
尤も、受信料は基本的に無理矢理払わされるわけで、そう言う意味では、より多くの人に責任を負わされているという見方もできないわけではない。だが裏を返せば、NHKは、受信料をきちんと払っている人間にだけ責任を負っているが、民放は、広告主の商品を購入する可能性のある、不特定多数に対して責任を負っていると見れば、より民放の方が責任が大きいことにもなりかねない。
今回のような事件で、ことさら、受信料などと、錦の御旗のようにこれさえ出しておけば、NHKをつつけるかのような使い方は、本質的な議論を損ねる可能性がある。
NHKより民放の方が自浄作用があるわけではない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年6月12日
駐車違反の取り締まり
今月から駐車違反の取り締まりが厳しくなり、さらに取り締まりをする業務が民間に委託された。
先日甲州街道で監視員を初めて見た。バイクの人ともめているのかただ説明しているだけなのか、とにかく業務遂行中のようであった。
多くのドライバーからはこの法律の施行は不評だろう。もし自分でも、仕事などで、非常に車で移動することが多ければ、ちょっと眉をしかめるかも知れない。先に駐車できるスペースを確保しろよ、とぶつぶつ独り言を言うかも知れない。
しかし施行後、少なくとも以前に比べて、非常に道路脇の駐車が減ったような気がする。これはいいことだ。
先日テレビで、施行後の駐車台数の変化と、近隣の駐車場の利用状況を計測した番組をやっていた。検挙も結構あったが、実際に駐車台数は減っていて、効果が顕れている。にもかかわらず、付近の駐車場の使用率はそれほどでもない。以下に無駄な駐車が、これまで多かったかという、少なくともデータ上はそういう結果になっていた。
ただ、普通に考えても、配送の車はかわいそうだと思う。日常的に必要な商品アドをコンビニやスーパー、あるいは一般の商店に納品している車や、宅配便業者はある程度除外するべきだろう。少なくとも郵政公社の郵便車が例外となるなら、そうすべきだ。郵便は公共性が高いなどと誰かが理由を言っていたが、配送の車も十分に公共性は高い。
少なくとも、駐車は何分までOKみたいな形で、許可証のようなものを発行するなり、何らかの対策が必要だ。先日、関西のどこかの裁判所が、許可証を使って飯を食っていたことが発覚して、警察から許可証を全て取り上げたというニュースをやっていたが、こういうのはどんどん取り締まるべきだ。
それ以外にも、老人や身障者などのための車などはどうなのだろうか?何でもかんでも一律に取り締まるのは、一見公平に見えて、そうでないように思える。
先日、監視員に暴行を働いて、逮捕された男がいた。「まさか逮捕されるとは思わなかった」といっていたと言うが、公務執行妨害であろうがなかろうが、人様に暴力をふるって逮捕されないと思っているあたりが、そもそもおかしい。
テレビでも、普通の暴力とは違うというような表現を使っていたが、見なし公務員だから悪いのではなく、そもそも暴力がいけないのだと言うことを言うべきだろう。
何はともあれ、成果が出て、違法駐車が減るのはよいことだ。
これを機会に、飲酒運転をもっと強く取り締まるべきだろう。まだまだ甘い。
ところで、世界の車窓からで、どこの国だか見ていなかったのだが、車から自転車への政策を進めていて、電車に自転車ごと乗っている乗客を映していた。東京ではなかなか難しいだろうが、少し車が減った方がいい気もする。ちょっと多すぎる。
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2006年6月 8日
分煙・禁煙
先日、ちょっと用事があって千駄ヶ谷へ行った。その時に、駅のBecks でしばしコーヒーを飲んだ。
感じのいい店員だったが、店は煙に巻かれていた。文字通り。店の奥が喫煙席で、手前が禁煙席だったが、禁煙とは名ばかりで、異様に煙かった。
しばらく経って、「たばこ臭い」と別の場所で言われたくらいだから、相当なものだ。体に悪い。
JR東日本は、新幹線と特急を全面禁煙にするという。完全な分煙が難しいからだという。
確かに、意外と分煙というのは難しいのかも知れない。新幹線の喫煙車両に紛れ込むと、目の前に霧がかかったような気がするのだ。たとえ煙草を吸う人間でも、「辛くないのかな?」と思ってしまうような異様な空気だ。
私のような煙草を吸わない人間にとってはありがたい処置だが、吸う人たちにとっては、「いじめ」にも感じるかも知れない。
しかし、Becksの例ばかりでなく、まだまだ喫煙と禁煙が別れてさえいない飲食店も多いし、喫煙者は、隣で誰かが食事をしていても、気にしているようにはとうてい思えない人たちがまだまだ多いのも事実だ。街中を歩けば、気兼ねなく煙草を吸いながら歩いたり自転車に乗っている人たちも、さほど減ったようには思えない。
JTが、マナーがこれだけ変わったというCMを流しているが、それほどは実感できない。
昔、電車の中でも皆煙草を吸っていた。普通の路線電車だ。私の父親も吸っていた。今では吸っている人はいない。
煙草が本当に体に悪いのなら、法律で禁止すればいいようなものだが、それほど悪くないのか、法律を作る側が吸いたいのか、よく分からないが、欧米の禁煙ブームが、速く日本にも上陸することをささやかに願っている。
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2006年5月25日
駅ナカ
駅ナカというのは改札を通った後の駅構内の商業施設のことだが、上野や品川など、多くの駅で本屋から雑貨など、様々な商業施設が並んでいる。東京駅のJRの乗り換えなどの通路は、どちらかというと相変わらず、土産物店などの方が多いような気もするが、品川などは、結構いろいろな店があるように思える。本屋などをのぞくと、普通の本屋よりも圧倒的に混んでいる。立地という意味では、これほどいい場所もなかなかない。
石原都知事が、こういう商売をしていながら、駅は公共施設ということで、固定資産税が他の施設よりも安いのは不公平だと発言した。約三分の一だそうな。
それに対してJR側は、客の利便性とか何とか言っているようだが、今回ばかりは石原都知事の方が明らかに正しい。
駅そのものは確かに公共施設だし、優遇されている意味も解るが、キオスクや一部の小さな施設を超えて、下手をするとそこで必要な買い物の多くがまかなえてしまうような場所であれば、それは普通の商業施設だ。しかも集客を鉄道がしてくれる、非常に高立地な場所だ。普通より高いくらいではないのかと思っていたくらいだ。
しかも利用してみると、他より安いわけでもない。レストランの一部など、明らかに一品一品作っていると言うよりは、見えないバイキングのような気がする。味もまあ、駅だからこんなものだ、と言うところが少なくない。
駅前商店街の反発ということもテレビでは言っていたが、それはそれ、これはこれだ。確かに駅前商店街は大変だろうが、ブックオフのできた近所の本屋とか、ネット通販の台頭とか、他にも大変な原因はあるだろう。しかしいずれにしても、ここの対立のみは、消費者の利便性や、有用性が最も大きな理由付けになるので、石原都知事の話とは次元が違う。
石原さんという人は、私はあまり好きではない。実行力はあるし、これまでの都知事よりは目の付け所もいいが、記者会見などで見せる、あの人もなげな態度や、思想的に合わない部分があるためだ。
だが、今回のようなことをびしっと言うあたりは、やはり評価しなくてはいけない。
駅ナカが便利になったと言って、新宿や渋谷はそうでもない。新宿などずっと工事していて不便だし、埼京線のホームなど、どんどん南にずれているような気がする。乗り換えがめんどくさい。施設を多く作るのはいいが、乗り換えなどには影響して欲しくないものだ。
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2006年5月20日
キヨスク・・・ではないが。
今日、ちょっと出かけたときに、駅で連れの女性が携帯用の充電器を買った。600円也。
ところが買ってすぐ、パッケージを見て、FOMAで使えないと書いてあったので、返品を申し出た。その間、わずか10秒程度。すると売店のおばちゃんはにべもなく、「だめです」の返事。
すぐに僕が出て行って、今ここで買ったばかりで開けてもいないのに何でだめなの、みたいなことを言ったら、おばちゃんは気圧されたのか、すぐに返金しようとした。・・・怖がられて、悪者になったような気分がしたが、商品が並んでいるところを見ると、別のが会って、彼女に聞くと、それで使えると言うことだったので、100円足して、それを購入した。
結果的に、物理的な問題はなかったのだが、彼女は甘く見られたのか?と疑心暗鬼になっていた。
現実問題として、もし僕がいなかったら、そのまま泣き寝入りしていたかもしれない。わずか600円だが、それでいいわけがない。
そのおばちゃんに、個人的に含むところもないし、たまたまだと思いたいし、あるいはマニュアルに、「返品は受けない」ということでもあるのかもしれない。しかし、いやしくも商売をしようというのであれば、顧客のなんたるかは、たとえパートであれ何であれ、しっかり教育しておくべきだろう。
確かに駅の売店だから、競争相手がいない。必要であればまたそこを使う。しかし、だからといって、客をないがしろにしてはいけない。
ラッシュ時の忙しいときならいざ知らず、昼間で、さほど混んでもなかった。
それほどいやな思いをしたわけではないが、釈然としない出来事ではあった。
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2006年5月10日
千円札
印刷局の印刷ミスで、自販機に通りづらい千円札が4万枚ほど流通したという。印刷局の人が謝っている場面をニュースでやっていた。
とはいえ回収しないと言うところを見れば、お札として流通上の瑕疵があるわけではないようだ。
4万枚というと、人口を割ると、3000分の1くらいの確率で手元にくることになる。まあ、ほとんど来ない可能性の方が高い。さらにその中から、自販機で使用する確率となるとさらに低くなる。
現実問題として、自販機にはね返されるるお札は、意外に多いのではないだろうか。折れていたりしなくても、なぜかはいらないという経験を、多かれ少なかれ持っている人は、非常に多いと思う。これは紙幣だけではなく、硬貨でもそういうことがある。自販機というのは、そういうものだと思っていたりする。
何度かやってだめなら、他のお札を使う。せいぜいその程度だ。
とすれば、印刷ミスはよろしくないとしても、今回の効果というか、影響は、ほとんどないと言ってもいいのではないだろうか。
確かにニュースでやるようなことなのだが、ニュースでやるほどのこともないという、不思議なニュースだった。
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2006年4月30日
ゴールデン・ウィーク
ゴールデン・ウイークは、4月末から5月第1週にかけての、祭日が集中する期間だが、この間には、みどりの日、憲法記念日、国民の休日、こどもの日という4日間の祭日がある。土日が2回絡むと、多くの会社員は、8日間の休日があるわけだ。
だが、4月29日のみどりの日から5月3日憲法記念日まで間には4日間あるわけで、確実に休日でない平日が二日以上存在することになるわけだ。
今年のように祭日が土曜日と重なることも多い。日曜日と重なれば、振り替えで月曜日が休みになりもするが、仮に、みどりの日が日曜日と重なった場合、次の月曜日が振り替えになったとしても、5月5日が土曜日になるようにできている。
故意に休みを増やさない限り、偶然に大量の休みがうまい具合に並ぶわけでもないのだ。今年は非常にいい方だ。
ゴールデンウイークとなると、まずはニュースで、成田空港でのインタビュー、東京駅の新幹線ホームでのインタビューが必ずある。曰く、グァム、サイパン・・・・夏休みとは別に、長期休暇を取れた人たちが大量に出国、あるいは帰省したり、国内でもいろいろなところにお出かけだ。
サラリーマンをやっていたときには、ゴールデンウイークと言っても、この間の微妙な数日間は、ほとんど出勤していたので、この期間に一週間などという休みを取ったことはなかった。
現在でも、半ば自営業なので、結果仕事に追われることになる。ただ取引先から電話などが入らないのでありがたいが。
休みというと旅行、家でごろごろしているのはもったいないというのが相場のようだが、家でごろごろしていることの至福を、意外に頷いて聞いてくれる人も少なくないように思う。なんだかこぞってみんながいろんなところに行く、その時期をねらって乗り物に乗るというのが、どうにも好きになれない質で、どうせ行くならオフ・シーズンなのだ。尤も、現状ではあまりどちらも関係ない。
ところで、東京三菱とUFJが合併したわけだが、そのおかげで、取引先などにも支店名の変更など、色々と迷惑をかけたりした。ところがかの銀行は、旧UFJはゴールデンウイーク中にATMが使えるが、旧東京三菱は使えないなどという、それなら何のために合併したのだという、どうにも顧客に対して程度の低いサービスを展開している。
そもそも銀行は、9時から3時までしか窓口を開けず、土日は休みという、客を小馬鹿にしたサービスを延々と続けてきた。ヨーロッパのように、休むのが当然、あらゆる業種がそうしているというのならともかく、ここは日本だ。普通の人が利用できるように、窓口営業を改善すべきだ。
ちょっと景気が悪くなると、ころっと態度が判って中小企業に冷たくなるような、バブル崩壊後の銀行の姿を見ていると、その根幹がこの営業姿勢にあるような気がしてならない。
まあ、最近ではネットでかなり補えるので、改善されていないというわけではないが、まだまだだ。
今日からゴールデンウイークなのだが、実感がない。ただの土日だ。5月に入れば少しは気分が変わるかな?
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2006年4月 9日
顧客主義
草大福というのを買った。スーパーでお徳用というのを買った。
甘いものは好きだが、量を食べられない。いつも残して捨てることが多い。これは大福に限らない。と言うより、大福を買うことは年に数回あるかないかなのだけれど。
さて、いつまで食べられるのかと思って袋を見ると、消費期限について冬はこのくらい、夏はこのくらいと書いてある。そして、そして消費期限というのがあって、留め具に記載と書いてあった。留め具なんて、開けてすぐ捨てた。同じような人は世の中にたくさんいるに違いない。
消費期限とか、賞味期限とか、微妙な言葉の違いで様々にあるのも解りにくいが、こうして、すぐ捨ててしまうような部品に書いてあるのも不親切だと思うわけだ。
かつて前の会社ではレコードや雑貨を売ったりしていた。レコードはかつて、自由に試聴ができた。中を開けて聴かせてくれるのだ。きっとCDしか知らない世代には解らないのかもしれないが、ジャケットから出して店頭のレコードプレーヤーでお店の人がかけてくれる。ヘッドホンだったり、店頭にそのまま流れたり、店によって違っていたが、おおかたのレコード店はそういうサービスがあった。
中高生相手は効率が悪いのか、昔行っていた小さなレコード店では、もう少し聴きたいと思っても、さっさと店主が張りを上げてしまったりという店があった。あくまで試聴だ、買うのか買わないのかどっちだ、と言う無言の圧力をひしひしと感じたものだった。
ソニーが最初だったと思うが、ジャケットにビニールをかけ、視聴ができなような体裁のレコードを作り始めた。ポニーキャニオンが追随した。やがてCDが出始め、CDに変わったときには、全く試聴ができないようになっていた。
顧客サービスとか顧客主義という言葉をよく聞く。販売する川は、顧客のニーズに応えてこそ、販売が成り立つという趣旨だ。それはおもねることではない。例えばトレーサビリティの充実とか、安全性を確認できたり、先のCDであれば、内容が確認できたりなど、購入する客が、何を購入に際して求めているかを的確に判断し、売り上げを伸ばすための方策として存在するサービズだ。
そういう意味では大福に限らず、留め具に書いてある消費期限など、顧客の立場に完全に立っていない。どちらかというと、大量生産される袋にそんな日付を入れていたらお金がかかってしょうがない、というところだろう。
高級な卵には、1個1個に日付が入っていたりするが、普通はそんなことはない、なんていうのとにている。お徳用の大福には必要なかろうというわけだ。
だが、この世の商売は基本的にサービス業で、医者や警察も実はその例に漏れない。直す相手、守る相手がいてこその職業なので、その対象には徹底して腰低く、あっていただきたいと思うわけだ。
医者の最大の商品はその医療テクニックであろうし、公共機関が行政サービスだったりするわけだ。
あらゆる職業はサービス業であるという視点に立てば、これらの、どちらかというとそういう点が後進的なことが多い職業も、だいぶ改善されて行くに違いない。
尤も、親切で腰が低いだけの医者や警官では心許ないかもしれない。大福の基本が味であり品質なのと同じに、あらゆるサービス業の基本もまたその職業ならではの品質であるわけで、その上での顧客サービスが求められる。
まあ、こういうことは、人のふり見て我がふり直せっていうことであると理解して、自戒。
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2006年2月 3日
豆まき
テレビで、豆まきが日本全国一緒でないことを知った。
北日本では落花生を撒くらしい。ピーナッツではなく、殻付きと言うことだ。合理的ではある。
辞典で調べても、「炒り豆」というような表現があるから、主流は大豆に違いない。
まあこういうことは、時代が下がり、どんどん地方と都会、東西南北の交流が進めば、自ずと混ざり合い、何となく全国同じようなことを行う用になるのだろう。太巻きの寿司を食うなんていうのは、誰が始めたかは知らないが、元々関西の風習だが、そんな風習を、寿司屋が黙って見過ごすはずもない。
バレンタインデーが菓子屋の策謀なら、丸かぶりは寿司屋の策謀に違いない。とはいえ、節分の豆まきが、豆屋の企てとは到底思えない。
つまりは世知辛く、資本主義社会が生み出したものは、商業的意味を持つ伝統と言うことなのかも知れない。あたかも、それが風習や、ありがたいもののように、そのうち感じられてくるのだ。
人間て面白い。
投稿者 keisuke : 社会的 | 02:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月15日
ES細胞
韓国の何とか言う教授が人間のES細胞を発見したのがねつ造だったとかで、話題になっている。この教授がノーベル賞をもらおうがもらうまいが、そんなことはどうでもいい。これは日本人だからではなく、地球人として、どうでもいい。
そんなことより、そのES細胞とやらが早く発見されて実用化され、人間の病気が少しでも克服されていくことの方がテーマとしてはより重要で、誰がそれをやるか、どこの国の人間がやるかなどは問題ではない。
私は、長い将来を見据えて、人類が平和に貧富の差無く暮らしていくためにはいくつかの条件がクリアされれば可能だと思っている。
それは、一言で言えば、肉体的な意味で、人間が何不自由なく暮らせる世の中をまず作り上げることだ。これには医療と、食料、工業生産の三つの柱が必要だ。もちろん背景にはエネルギーの問題などがあるが、とにかく、この三つが重要だ。
人間は何のために働くのか、単純に言えばそれは生きるためだ。生きるためとは何かといえば、まずは何より食うことだ。ホームレスを見れば解ることだが、何はなくても、取り敢えず食料さえあれば、人間はどうにか生きていける。裏を返せば、それが無くては人間は生を全うすることができない。
まず、食料の生産を全てロボットによる自動化と、天候による不作などを、極限までなくす努力をすることだ。人が人の手で食料を作っている限り、ダメだ。もちろん、人が人の手で食料生産をすることそんものを否定しているわけではない。念のため。
何よりも、この世から飢饉や、食料のためにお金がかかるという状況を一掃することが大切だ。食べたいものは、いつでも手にはいるという状況を、いかにオートメーション化していくかが重要だ。
食べ物を手に入れるためにお金が必要でなくなれば、お金がかかるのは、住む場所とそれ以外の贅沢品に限られる。こちらは、食料よりも、オートメーションに乗せるのは難しくない。何しろ、人が人の手で、他人のものを作る、そのことを極力少なくしていくことが必要だ。
共産主義や社会主義は、公平な社会を作ろうとして、そもそもこの世が不公平な人間関係の上に成り立っていることを見ていなかったことで失敗した。労働者がいれば、それを使う雇用者がいるという図式は、その雇用者が資本家でなくても、身分の差を生む。作らせる部門を機械に代替させることができれば、その時点でそのスタイルは一応無くなるわけだ。
同時に、貨幣価値を可能な限り落とし、通貨を無用なものにしていくことが大事だ。
これは、何をやってもただの世界を作る言うことだ。お金が必要なのは、生活に必要なものを買うためだが、それを機械が代行して作り出せる世の中になれば、お金は必要ではない。必要なのは、エネルギーと、そのシステムを監視する役目の人だけである。
例えば、その世の中を維持していくために必要な機械やエネルギーの管理に、大量に人材が必要なのであれば、そもそも意味がない。そうでないことが前提なので、一生のうちに1年か2年は、そのために働くようにして、全世界の人間がある年齢の1〜2年を、その役目に費やすようにすればいい。
後は遊んでいても、研究していても、寝ていても、芸術を作っていても、自由だ。人間は、食べるために働かなくても、何か目的を探し、それを追求する能力を持っている。金のためではなく、本質的にそのことに没頭することができる。
金を得られなくても、名声や、地位は手にはいる。もちろん地位というのはお金との相性はいいが。
唯一、そういう世の中ができても、医療だけは難しい。もちろん、遺伝子レベルで、あらゆる病気を克服することができるのであれば、後は怪我だけが問題だが、先に書いた食料や興業などの他給自足問題より、遙かに難しいと思える。
貧富の差をなくすことはどういうことかと言えば、元々不公平に生まれてくる人間を、社会が、底辺で揃えるのではなく、相当上の方で揃えることができる社会を作っていくことだ。
そのためには科学や工学など、最先端の技術や学問が、これからもどんどん発展していく必要がある。医療にとってのES細胞っていうのは、きっとそういう重要なアイテムの最右翼の一つであると思う。
100年、200年後かも知れないが、自らが見ることのできないそういう世の中が来ることを願ってやまない。
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2006年1月10日
成人式
電車で晴れ着の女性を沢山見た。それで、今日が成人の日なのだということに始めて気づいた。2000年から1月の第2月曜になったわけだが、それまでなぜ1月15日だったのかを調べてみると、かつて日本の年齢計算が、数えであったことと、暦が太陰暦であったこと、そして元服という儀式が関係しているらしい。つまりは歴史的に見て、成人の日が1月15日であった意味があったのだと言うことだ。
もちろん、ハッピーマンデートやらで祝日を増やす方が、成人という法的には意味があるだろうが、それ以外には私などはとんと意味を見いだせない20才の区切りということの意味を秤にかければ、現代人にとっては連休の方が重いというのは分かる。
まして、テレビなどで毎年、正装して会場で大騒ぎをしている人たちを見ていると、大人か子供かを年齢で分けることの無意味さを、特に感じる。
酒やたばこは二十歳だが、アダルトビデオは18だ。この違いもよく分からない。
何に付け形式張ったことや伝統ということに、取り敢えず反発を覚える難儀な性格の私としては、成人式はもちろん出席していないし、ことさらそれによって何かが変わったという意識もなかった。周りが自分を見る目も、ことさらこれからは大人だからと言うのを感じたこともない。
現代の二十歳は、多くが大学生であったり、既に働いていたり、何かの過渡期であることが多いと思う。むしろ高校や大学の卒業とか、そういうエポックの方が、より何かの変化を感じるような気がする。
であれば、ほとんどの若者が高校を卒業する18歳を成人と考えてもいいような気さえする。だからといって中卒で社会に出ている人を無視しているわけではない。何に付け、例外というものはある。
そもそもこれから大人になったのだから責任をもってという言い方はおかしなことで、それまでは何でも責任がないのかといえばそんなことはない。学校出だって、責任についてはしっかり教えているだろう。
大人の自覚があったって、マンションの強度偽装はするし、東大出ていたって、社会保険料や税金を湯水のように無駄遣いするのが、実は大人である。
大人だから子供より素晴らしかったり、倫理的に優れているわけではなく、それは単なる個人差である。かくいう私がそれでは、何に関しても清廉潔白でしっかりしているかというと、そんなことは決してない。少しでもそうあろうという意識があっても、それがその通りできる等というのは、誰に関しても期待しない方がいい。
ただその中で、やはりレベルというか段階があるので、あれだけ多くが参加している成人式で、我勝ちに騒ぐという行為が、果たしてどんなことなのかと言うことくらいは理解し、行動して欲しいとは思う。
でも、様々な犯罪を行う大人から比べれば、罪は軽いというか、そもそも比較するべきでもない。つまりは、社会生活を送る上で、していいことといけないことの、法的な部分ではない、境を理解しない人間が、実はなかなか多いというのも事実なのだ。いや、これは自戒も込めてではあるが。
ともかく、全く個人的な意見として、成人の人か成人式が意味を持つのは、その日が祝日であるということだけなのは、どうしたものだろう。
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2006年1月 8日
地震
年末年始、実家に帰った折、母親と一緒にタクシーに乗った。
その時、いやに饒舌な運転手が、地震の話をし出した。一昨年バンダアチェで起きたような地震が来て、東京は50メートルの津波で全滅だと、繰り返し、話していた。
・・・だから川越は安全だ、ということなのか、「ぼくは東京なんですがね」と、心の中だけで言っていた。
年が明けても、テレビで地震の被害や、その時の対応などという番組が非常に多い。
確かに直下型の地震が東京を襲えば、尋常な被害ではないだろう。昔からそう言われてきたし、子供の頃から、大地震が襲うと、何度も言われ続けてきた。
もちろん、全然起こらないじゃないか、だから安全、と思っているわけではなく、最近の日本列島を見れば、関東でなくても、至る所が地震の巣なので、怖いことには変わりはない。
そこに持ってきて、マンションの強度偽装だ、といわれれば、尚更である。
私が中学か高校くらいの頃に流行った小松左京の「日本沈没」が再び映画化される。かつて、テレビ化、映画化、漫画化された。上下巻のノベルズで、非常に読みにくかったのを覚えている。
日本沈没に限らず、当時は、大地震の映画などが結構あったように思える。
永井豪の「バイオレンスジャック」は、新たな関東大震災で、関東が壊滅し、さらに孤立化した後の無法地帯を描いた作品だ。これも恐らく、70年代から書き始められていたのではなかっただろうか?
当時は、地震に加えて、公害による汚染や、冷戦構造から来る第三次世界大戦など、今となっては、未来予測としては大分違った世界を危惧していたのだ。
だからといって、今がバラ色な分けではないし、温暖化によるオゾン層の破壊などは、目に見えて、公害以上に壊滅的な未来を予想することも可能だ。
ソ連はなくなったしベトナムも負けたのに、アメリカは次々世界のどこかで戦っている。
そして地震もずっと来ると言われ続けている。
いずれは来るのかも知れないし、このままずっと来ないのかも知れない。今まで起こったことのない福岡で、昨年は大地震が起こった。今年は例年にない大雪に日本は見舞われている。
ああ、地球は生きているのだな、そして人間の手で蝕まれてもいるのだな、とも思う。
だが、健康を維持するために努力をする人と、そうでない人がいるように、地球のあちこちで、その努力をしている人と、何となく日常を過ごしている私みたいなのとがいる。
ふと思うと、何かできないのかな?と考えることもないわけではない。だが何もしていないのが現状だ。
せめて車に乗らないので、その分自分が出す排気ガスが少ないという、かなり他力本願的な貢献をしていることで、幾分心は慰められる。
あまり揺れるなよ、地球。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年11月17日
保険
テレビのCMというのは、どのくらいかかるのだろうか?
保険会社のアリコはほとんどテレビを見ない日でも、確実に1回以上見ている気がする。全CMの1割くらいがアリコではないかと思うくらい、よくやっている。しかもそこそこな芸能人を沢山使っている。
あれだけCMを流して、なおかつ、保険料が戻ってきたり、健康ボーナスがあったりと、いったいどうなっているのかと思うほどだ。
少なくともあれだけのCMを流すほどには非常に儲かっているわけで、普通に考えれば、結果的に支払う額の方が、受け取る額よりも少ないからだという風に推測できる。あるいは、よっぽど運用益が上がっているかだが、そうなのだろうか?
先日人から聞いた話では、50才から80才まで入れる保険は、テレビでは医師の診断もいらなくて、誰でも入れるようなことを言っているが、断られたそうだ。テレビは嘘なのか誇大広告なのか、どこかに小さく書いてるのかどれかだろう。
まあ、保険というのは何も入っていないと不安なものだが、かといってあまり高い保険にも入りたくないというのが人情だ。
地震で起きた火災は、火災保険では下りないというのは有名な話だが、そもそも保険というのは、まず第一に、保険会社が設けるためにこそ存在していると言うことだ。これはあらゆる職業がそうであって、まず第一に利益を上げるために企業は存在しているのだ。
利益が上がらなくては、サービスなどできるはずもないし、保険だって支払いができるわけもない。まずは会社と社員の利益(村上ファンド流であれば株主の利益も)、があって、その後に保険料の支払いが来るのだ。現実問題はその逆で、経費を差し引いたのが利益であろうと、ものの考え方は、そうではない。
だがそれでも、あれだけのCMを流す金があるのなら、健康ボーナスを40万円から50万円に上げるとか、月々の払いを安くするとかに使って欲しいと思うのは人情だ。
あ、でも私はアリコの保険には入っていないのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:33 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年11月14日
カード
財布の中はカードが一杯になっている人は結構多いと思う。キャッシュカードだけでも何枚にもなるし、クレジットカードやら、ポイントカードやら、どうにかして欲しい。
携帯電話にお財布機能が付いたり、様々な機能が付加されている。
これはこれで便利だが、どちらかというと、カードをどうにかして欲しい。
銀行のキャッシュカードなど、一つのCD機でどこのカードでも使えるのが便利に見えるが、であれば、1枚のカードで、全ての銀行のカードの役割を果たすようにしてくれた方がありがたい。その上で、CD機を指紋や静脈、虹彩など何でもいいが身体的特徴による認証方式をとってくれれば、非常にありがたい。
あ、この場合、カードもいらなくなるのかな?
そうなれば、クレジットカードや、ポイントカードなども、それでいければいい。
世の中個人情報個人情報とかまびすしいが、所詮個人情報などというのは、ある程度漏れるもので、問題はそれを悪用されるのをいかに防ぐかの方が大切なのだ。
情報が複数の銀行やクレジット会社に分散していようと、統合管理されていようと、危険度にそれほど変わりはないし、むしろ個体認証をうまく取り込めば、その方が安全だ。
指紋だけだと、万が一指を切り落としたら使えなくなるなんていうことも発生しそうだ。
ローダンシリーズでは個体放射という怪しいものが使われているが、DNAとか、まず盗まれても使いようがないものを認証に使えばいいように思う。
とにかく、カードの枚数は減らしたいが、引っ越しをし、無駄な手数料を払わないために、またぞろ、東京三菱に口座を置かなくてはならない。ああ、めんどくさい。
投稿者 keisuke : 社会的 | 02:06 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年11月12日
色々な詐欺や窃盗
UFJ銀行で小型カメラがATMに仕掛けられていたり、岐阜の十六銀行では、カードの挿入口にスキミングの機械が仕掛けられたりと、あの手この手の犯罪が横行している。千葉銀行のオンラインの修正プログラムなどもそうだ。
一頃、オレオレ詐欺が横行していたが、様々な手段で、一般人から金を巻き上げようとする彼らのエネルギーは、どこかもっと他に使えないものなのだろうか?
いずれにしても、人を騙して金を振り込ませたり、暗証番号などを盗んで金を引き出したり、クレジットカードで勝手に高額商品を購入したり、手口をあげつらったらきりがない。
しかしこれらの犯罪は、捕まっても、それほど大きな罪にならないらしい。せいぜい何年か刑務所に入ればいいようだ。
確かに、人を殺しても無期の手前は15年。飲酒運転で死亡事故を起こしても、必ずしも危険運転致死罪にはならないようだから、金を盗んだくらいではそれほどの罪にはならないのかも知れない。
一生懸命こつこつ貯めたお金を取られたお年寄りなどは、命あっての物種とはいえ、今後の生活を考えたとき、目の前が真っ暗になる人も少なくないだろう。場合によってはそれが自殺に追い込む場合もあるだろう。
どんな事件でも、罪を償い、構成という道は残されている。
しかし、罪を償うというのはどういう事なのだろうか?
罪とは果たして何らかの形で償えるものなのだろうか?
過失であれば、償いは被害者をある程度慰安することも可能だろう。だが、意図的な犯罪は、その罪の軽重にかかわらず、償いというのは、あくまで加害者の立場からのもので、被害者を救済するわけではない。
拉致問題が解決したとして、全ての拉致被害者が帰国できても、彼らの人生が戻らないように、被害者と加害者の立場というのは本質的に違う。多かれ少なかれ、被害者には一部泣き寝入りするしかないのだ。
端的な例は、殺人事件の被害者だ。何をどうもってしても、その命は復さない。
犯罪というのは、単純に加害者と被害者と二分できなかったり、よく推理小説でお為ごかしのように持ち出される復讐というテーマが持つ、非常に判断に困るものも多くある。
だが殺人事件を持ち出すまでもなく、ネット上の詐欺や、最初に書いた様々の窃盗事件は、逆に殺人事件ほどにことが重くないだけに、その罪の意識も非常に希薄だったりする可能性が大きい。
結果的に捕まっても、数年でまた出てくる。再犯率がどの程度かは解らないが、これだけそういった犯罪が増えている背景には、罪の意識の軽さと、罰の軽さも原因しているように感じる。
詐欺や窃盗でも10年、20年と刑務所に入れられると解れば、犯罪は少し減らないだろうか?
そういう方法が最もいい解決法ではないかも知れないが、昨今の状況は、なにかこう、人の世の殺伐とした儚さを非常に感じさせるのだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年10月15日
サービス
昨日飲み会があった。新宿のWansaKansaという比較的リーズナブルなイタリアンの店に行った。
広い店なので、大人数の時などは予約が取りやすい。
店員さんの応対などもなかなか気持ちがいい。
ところで、宴もたけなわの頃、大皿で運ばれてくる何品目かの料理、まださらには残っていたのだが、女性店員が、さっと下げてしまった。
友人と二人顔を合わせて、「まだ残っているのにね」と、これはいかがなものかという心境になっていたところ、小さなお皿に盛られてその料理が戻ってきた。つまりは、次のお皿がテーブルに載らないので、前の料理を小皿に移して持ってきてくれたのだ。
むしろ素晴らしいサービスではないか。
よく、少しだけ残った料理を、次の料理が来た段階で、慌てたように誰かの皿に移したり、別の料理の皿の隅に置いたりと言うことはよくある。しかし、今回のように店員が気を利かせて小皿に移すというサービスは、今まであまりお目にかかったことがない。
多分行きつけの店だったりすれば、そういうこともあるかも知れないが、一見の、しかもチェーン店のような店ではなかなか無い。
顧客主義というのは、こういうことを言うのだなと思う。料金のサービスなどもうれしいが(この店もそれはあった)、こういったサービスという言葉の持つ根源的な部分での気の使い方こそがサービスの本質なのではないかと思う。
最近の店は、競争も激しいのだろう、客の気分を害するような店は減っていると思う。特にチェーン店などでは、昔に比べてかなりいい。
しかし、こういった細かい、いわば痒いところに手の届くようなサービスというのは、マニュアルよりも、日頃から心がけていなければなかなか難しいのではないかと思う。
勉強になった。いい店だ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:36 | コメント (2) | トラックバック (0)
2005年9月14日
外来種
最近、サソリやらピラニアやら、外来の動物や昆虫などが沢山輸入されて、ペットなどで飼われたりした後、捨てられて、日本固有種を駆逐したり、生態系や人の生活にまで影響を多く及ぼし始めている。
犬や猫でも嫌いな人はいるが、サソリや、かみつき亀、蜘蛛、蛇など、どちらかと言えば、好きではない人の方が多いのが特徴だが、人とは違うというスタンスを、多くの人が取りたがるのは、何もペットだけのことではない。
人と違うという表現が、どちらかというと褒め言葉のように感じてしまう人は多く、私などは、そう思う人の方が多いのではないかとさえ感じる。だとすれば、そこで既に、人とは違うということを尊しとする多数派が形成されるわけで、それは最早人と同じ感性と言うことになる。
それらの生き物が自分で逃げ出したのか、置き忘れたのか、あるいは故意に捨てたのかというのは、大きな違いではあるが、「管理はきちんとしろ」「責任を持て」というのは、たとえそれが犬や猫であっても同じ事だ。
ペットが家族と同じというのであれば、その行動に責任を持つのは、家族としてある程度の責務だ。しかもそのペットに人間ほどの明確で明晰な意志がないということであれば尚更だ。
変えなくなったら、それを買ったところに行けば、案外簡単に引き取ってくれるのではないだろうか?もちろん物によると思うが。
アライグマやら、一見かわいらしく見える動物ですら、結果的に駆除しなくてはいけなくなるのが、今の社会だ。テレビで猿を観て「可愛い」と思うのは簡単だが、年中部屋に侵入したり、いたずらをされているような近所の人にとっては憎らしい限りになるわけだ。
ゴミのポイ捨てが、ひいては町の美観を壊していくように、たった一つの破綻は、堤を壊すこともあるわけだ。自らの行為が、実は蟻の一穴であることを、誰もが感じる世の中にならないといけないのかも知れない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月 6日
早明浦ダム
四国の水瓶と言われている早明浦ダムの貯水量が一気に100%になったらしい。
つい先日0%になったのに、14号台風一発で100%。これは台風がすごいと言うべきなのだろうが、何とも不思議な感じだ。
人間は水が無くしては生きていけないわけで、生活のあらゆる場面で水が必要になる。人間もその肉体のほとんどが水でできているのだから、考えてみれば地球を水の星というのも、言い得て妙と言うべきなのだろう。
先日東京で大雨が降った。善福寺川が氾濫して水浸しになった上荻は、まさに目と鼻の先だ。線路を越えたら上荻だ。荻窪は環八が走っているが、中央線と交わる部分はその下をくぐっている。実はそこのくぼみの部分は水没したらしい。
ずいぶん昔のことだが、歌舞伎町の入り口、靖国通りに面した店で働いていたことがある。夕刻、豪雨があって、ふと西口の青梅街道に変わるJRの陸橋下を見たら、水が溜まっていたことがあった。車が埋まっていた。
短時間に雨が降って道路が水浸しになると言うのは大変なことだ。
台風14号で、九州は至る所で道路が冠水、というより水没していた。先日の東京もそうだ。東京は1時間に112o、九州は1日で1000o以上の雨が降ったわけだが、なんだかミリと言われると少ない感じがするが、1000oって、1メートルという事だから、やはり大変だ。平均的に1メートルの降水があれば、川も溢れるに違いない。
それより、1時間で10cm降ると川が溢れるという方がびっくりだが。
実はうちの前の通路は、2階なのだが、奥の排水溝に向かって傾斜している。そのため、先日の雨では床上浸水しかかった。床下ではなく、一気に床上なのは、うちがバリアフリーで、玄関のたたきと廊下で高低差がないためだが、ちょっと焦った。確かに杉並に住んでいる実感をした瞬間だ。
と考えてくると、早明浦ダムが1日で満水になったのも頷ける。
とはいえ、四国の水瓶という、一つの水源に多くを頼らずに、水を確保していく方策が必要なのだろうな。
日本は毎年台風で多くの被害を被る。特に九州は年中だ。今日もニュースの時間に礼として上がっていた宮崎のえびの市にはいとこが住んでいるが、毎年大変だろうなと思う。
カトリーナのような、風速が70mなどという化け物はともかくとして50m近い台風は毎年のように訪れている。地球ってすごいと思うが、未来にはその辺りもうまく制御できたりするようになるのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年9月 5日
紙のサイズ
紙のサイズはなぜ、AとかBなのだろう?と疑問を持った。
Wikipediaに詳しかった。
ただ、それでも何でAがこのサイズなのかはよく分からない。
黄金分割というのがある。1:1.68という比率だが、ギリシャ時代から、美しく調和の取れた比率とされているものだ。最近の幅広テレビがそうだ。
しかし紙は約1.4倍で、そうではない。ところが、A全(841×1189o)B全(1030×
1456o)の面積を見ると、A判は約1u、B判は約1.5uなのだ。
意外にきれいな数字が出てくるものだ。そしてこれは、長さの比率が1:√2となることで、半分に切っていったときの比率が常に一定になり、元のサイズの短辺の長さが、次の長辺の長さになっていく(当たり前か)場合に、常に同じ比率になるのだ。
まあ、意外によく考えられているわけで、紙を敷き詰めれば、面積が測れるということにもなろう。尤も、広すぎては誤差が大分出てきそうな気はするが。
かつてレポート用紙や大学ノートはB5判が主流だったが、現在では印刷などでA4が主流だ。B判はあまり使われない。しかし書籍などではかなり使い分けがされているようにも思う。
たかが紙のサイズだが、意外に人の知恵が入っていそうだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:09 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年9月 1日
手紙
郵政民営化の話の中で、自民党の議員の一人が、この先手紙が無くなるというような話をしていた。
メールの普及ばかりではなく、そもそも手紙を書くという習慣はどんどん減っている。恐らく年賀状もそうだ。メールで「あけおめ、ことよろ」で済んでしまうのが実情だろう。
もちろん、自筆の手紙を尊ぶ人もいるし、これからも多くの人がそうだと思うので、手紙や葉書が無くなることはないと思う。但し、減るのは間違いない。
年賀状のことに少し触れたので、年賀状についてであれば、それこそしばらくあっていない友人や知り合いに対しての近況報告等のためにあるのはいいとしても、年始の休みが明ければ会う上司や同僚、友人に出すのであれば、メールで十分だろう。
メールだから心がこもらないと言うことはない。逆に言えば、年賀状だから心がこもっているわけではないのだ。
メールが生まれて、さらに携帯メールが日常的になることで、メールができれば、多くのことがメールで済む。携帯電話の普及で、一人1台に近づいているので、電話も昔に比べて気軽だ。それでもメールは、電話に比べるとさらに気軽だ。
電話はその人の時間を制約するが、メールであれば相手の都合で読んでもらえるし、記録も残る。
携帯電話の機種変更の時に、メールの内容が移せないのはそういう意味においても、不完全なサービスと言わなくてはならない。パソコンは難しいか簡単かは別にして、自分でデータを移行することができる。携帯電話も、それができるようにするべきだ。
さて、手紙や葉書による通信が減っていけば、自ずと郵便事情は落ち込んでいく。民営化したところで、その事業が活況を呈することはない。しかし、現在ではまだ親書として他の運送事業者が扱えないものを扱えるようになれば、非常にありがたいことだ。サービスの質も向上するに違いない。
手書きの手紙をありがたがることは、悪いことではないが、手書きだから心がこもっているとか、真心が伝わるとか、そんなことはまやかしだし、達筆という文字は得てして読みづらい。文字のそもそもの使命が、情報を伝えることにあるなら、書道という芸術とは違い、手紙や葉書の文字は達筆よりも読みやすさをこそよしとすべきだ。
社会は様々なことで変革を遂げていく。変化が全て良いわけではない。しかし、よどんだ水が濁るというごとく、変化のないのはあまりいいことではない。
伝統伝統といいながら、歌舞伎などでも、どんどん変革は進んでいる。
手紙がメールに変わるのなど、むしろいい変化だと思う。
最近文字を書かないので読めるが書けない現象が起きている。私など典型的なそれで、手紙の効用はそんなところにはあるのかも知れないが、手で打てば出てくる時代に、読めさえすれば書けなくてもそれほど困りはしない。沢山の辞書を持ち歩くことだって可能なのだから。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:40 | コメント (0)
2005年8月30日
カトリーナ
カトリーナという名のハリケーンが、アメリカを襲って、甚大な被害を与えた。一時期、風速70メートルと発表されていた。これは、日本に来る台風の、「猛烈な台風」という最大の表現を超えるものだという。
先日来た11号が、三宅島だったか八丈島だったか忘れたが、瞬間最大風速57メートルというのを記録したらしいが、70メートルというのは想像が付かない。
そもそも、アメリカの大西洋岸で発生するのがハリケーン、インド洋がサイクロン、東シナ海から太平洋で発生するのがタイフーンだ。それぞれ、熱帯性の低気圧が発達して、暴風雨が33メートル以上のものを指すらしい。
台風という字は元々颱風と書くらしいが、語源はタイフーンと言うことだという。何となく台風先にありきで、英語のタイフーンができたのかと思っていたが、どうやら逆らしい。台風という言葉が使われ始めたのは大正時代からだという。
昨年は台風の当たり年で(どこかで書いたが、この当たり年という表現は、本来的な使い方としては間違いらしい)、沢山の台風が日本を縦断して被害をもたらした。今年はまだ少ない。最も、沖縄地方では、毎年変わらないのかも知れないが。
今年は既に2つの台風が関東を直撃している。但し、千葉県の辺りをかすめるだけで、東京直撃と言うことはない。高気圧の位置とか、もちろんあるのだろうが、何となく、ヒートアイランドのような都市型の気温異常が、台風の進路を変えているように見えてしまう。
よく昔の東京は寒かったというが、確かに子供の頃は今に比べて雪の日も多く、冬は寒かった気がする。同じように、強い台風というのは昔の記憶に多い。地方によって違うのだろうが、私は埼玉出身で、東京とそれほど違わない気象条件だが、昔に比べると、台風による嵐というのは減っているような気がする。
ハリケーンは世界的なこの熱帯性低気圧の発生件数としては、太平洋に比べて少ないらしい。しかし、規模を考えると、はるかに恐ろしい。
地震、雷、火事、おやじというが、台風も十分恐ろしい。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月15日
女王の教室
日テレの女王の教室に、スポンサーのテロップを流すのをやめたという記事が載っていた。これは見る人が見ると、より印象的な広告戦略にも映る。
は、ともかく、「女王の教室」という番組は一度だけ、半分くらい見た。それまでの流れを知らないので、印象としては、いじめ渦巻く小学校で、その上を行くシリアスな教師が、女王のように教室に君臨して、言うことを聞かせているという印象だった。
私が見た回は、主人公らしき女児童が、ケンカを止めに入って、そのあおりをくらい、廊下のガラスを突き破って外に落ちるというすさまじい内容だった。しかもガラスの破片が足に刺さり、来合わせた天海有祐希扮する先生が、保健室で治療後、怪我をして足を引きずるその女生徒にガラスの掃除をさせようとしている場面だった。その後なぜか、子供達は、教師に反抗して、一人一人何かを言っていたが、そこはよく覚えていない。少なくとも、天海祐希はひるんではいなかった。
上記の記事には、視聴率の高さと、賛否両論ながら、ホームページでの掲示板での活発な議論について触れていた。番組打ち切りを求める声もあるとも書いてあったが、先ほどホームページを見てざっと見てみたが、好意的な意見しか見ることはできなかった。
実際に内容をよく知らないで語るのはなんだが、天海祐希扮する教師のエキセントリックな言動と、それに対抗して徐々にまとまっていくクラスという構図は、これまでの学園ものには見られないスタイルだし、一種独特の痛快感があるのではと感じた。
強い悪というのは、正義がそれを打ち破る図というのが楽しくもあるし、実はその悪こそが一つ上の正義が名を変えた姿であった、なんていうのもよくある話だが面白い。勝手にそんな風に解釈しても、実は全く救いようのない結末が待っているかも知れないので(だとしたらすごすぎるが)、勝手な推論に過ぎないが、そういう話を小学校を舞台に描いたというのは画期的なのではないかと思う。
日テレは、青春ものの学園ドラマ、「でっかい青春」あたりから「われら青春」に到る作品群や、水谷豊のタイトルは忘れたが先生もの、最近ではごくせん等、いわば先生と生徒の暑い関係を何度も描いてきた。金八先生のようにリアルな学校を描くことなく、どちらかというと、お涙頂戴に近いタイプのストーリーで楽しめる作品だったが、今回は大分毛色が違うようだ。
若干SMチックな演出がどうかという問題はあるような気もするが(ホームページの印象)これはこれで面白いのだろう。・・・でも今更観ないと思うが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:05 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月14日
お盆
8月13日から15日までは旧盆だ。東京などでは7月の同じ時期をお盆というが、地方では多くが8月に行う。
お盆は正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、サンスクリット語のavalambanaが訛って、ullambanaとなり、これを音訳したものだという。ところがこの言葉の意味は倒懸(さかさづり)という意味を持っている。目蓮(釈迦重大で氏の一人。神通第一。マウドガリヤーヤナ・・・手塚治虫の「ブッダ」の中ではモッガラーナという名で出てくる)が、地獄に堕ちた母親を救うために、釈迦に教えられて供養したという伝説が元と言われている。
日本では奈良時代倉から続き、現在では地方によってやり方も大分変わるらしい。
私も実家に帰り、墓参りをし、迎え火を焚き、家では提灯を飾り、家に先祖の魂が帰ったと言って仏壇に手を合わせた。と書くと、すごく宗教酩酊見えるが、非常に儀礼的な側面もあり、同時に、彼岸と盆くらいはせめて自分の先祖に手を合わせて、こころを運ぼう、ということに近い。
寺に行くと、同じように墓参りをする家族が多く見られ、風習に従って、お盆を過ごしている家庭も少なくはないのだな、と思う。
お盆に限らず、仏教的な行事というのは、多く日本の習俗に根ざしていることが多い。それは聖徳太子などが仏教を守り、インドから中国伝来の宗教が、日本の中で変遷してきた様を見ることができる。
よく日本人は無宗教だというが、裏を返すと、外国人は信心深いと言うことも言えるのかも知れない。日本には神道があるが、明治以降に国家が管理することで、何かうさんくささを備えてしまった感がある。そもそもは日本古来の宗教だろうが、かなり仏教などにも影響を受けているし、氏子などという、神社のそばに引っ越したとたんにその信者ではないが一部のようになってしまったり、不思議なこともあるようだ。
どんな民族であれ、古来から宗教と無縁な民族はないのであり、日本は神道と、外来の仏教を中心に、今ではキリスト教などもかなり広く信じられている。たまたま今朝のテレビで石原慎太郎が自らを熱心なカソリック教徒だと言っていた。
よく言われるのは、お盆や彼岸、あるいは時たまの墓参りなどで仏教徒である日本人は、正月には神社に初詣に行き、夏祭りで御輿を担ぎ、クリスマスも祝う。今では感謝祭や復活祭までやったりする。この辺りが無節操に外国人からは見えるのかも知れない。そして等の日本人は、墓参りは言っても無宗教だと言いきり、家の宗派は真言宗だ、曹洞宗だとも言ったりする。
確かに無節操さは無宗教というに相応しいようにも見えるが、面白い日本の現実という風にも見える。
私は間違いなく仏教徒だが、同時に仏教の非常に哲学的な面を素晴らしいと信じている。これは多分に、アーサー・C・クラークの影響もある。神を信奉する宗教が、強力な宇宙人の来襲などのより、全て嘘だと暴露され、ほとんど消えてしまっても、仏教は残ると、どこかで言っていたともう。
なぜなら、仏教はその根本に於いて、人がどう生きるべきかの指針を、釈迦が覚ることで見いだした宗教であり、当時のヒンズー教や、様々な宗教との混交や、後の世の様々な人たちの手によって、それぞれ今生きている様々な宗派になってきたわけだ。そういう意味では、キリスト教の様々な宗派と同じと言うことになる。だがそもそも根本的に違うのは、根底に神を持つキリスト教と、人間が見いだした宗教という立場だろう。
お盆のルーツは、今では別の説もあるが、いずれにせよ、先祖供養という点で、今の日本では定着しているように思う。そういう意味では、宗教的な側面以前に、自分のルーツである先祖に対する畏敬というようなものを持ち続けるという点に於いて、決して無意味な習俗ではないだろう。
但し形式化された様々な点は、そもそも形式ということに取り敢えず反発する私としては、なじめない側面もあるにはあるが。
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2005年8月 1日
マクドナルドの賃金不払い
という内容の記事が出ていたが、中身を読むと、毎日30分以下の残業を切り捨てていた分だという。
厚生労働省は、1ヶ月の残業時間の内、30分未満の切り捨ては認めているという。このマクドナルドと決まりの差は、毎日か1ヶ月かということになる。
20日間働いたとして、毎日10分間残業をしたとしよう。そうすると20日間で200分。3時間と20分だ。この場合、3時間は残業が付くと言うことだろうか。どうやらそうらしい。
私は会社を辞めて6年が経つが、サラリーマン時代、そういう残業代のもらい方をしたことがない。30分以下は毎日残業にならなかった。25分働いても0だし、35分働くと30分分が付いた。現在では35分は1時間分らしい。これにはアルバイトだとか、正社員だとかの区別もないようだ。基本的に労働者にとって非常に有利な決まりになっている。
前者はある意味当然だと、私は思う。かつて私は本社勤務の折、朝礼に出るために10数分早く出社していた。もちろん私だけではない。みんなだ。しかし、朝礼のために10分早くでなくてはいけないのなら、毎日その分の残業代をくれと、いつも思っていた。尤も、その朝礼が大嫌いだったこともそう思った理由の一つだが。
もちろん、この決まりは、ここ数年で決まったことなのだろうとは思うが、18年勤めたことを思うと、その端数の頂けなかった賃金は相当な金額になっていると思う。現在の経営者は、昔よりも大変なのだな、と思う。・・・・おっといけない、今は支払う立場だった。謹聴謹聴。
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2005年7月29日
美容整形
今日、夕方の日本テレビのニュースで、数人がテーブルを囲んで短い討論をするコーナーを見た。途中から見たのだが、テーマは美容整形についてだった。自ら頑迷固陋という、よく日テレでニュースの解説をしている男性が反対派で、美容整形会社の女社長とバトッていた。月収1億円(見間違いかな?)の美容整形の院長が「ヒューマニズム」などという言葉を使うのが、どうも許せないらしかった。確かにその院長の「患者様」という表現には、自ら使うのが嫌だと言っていた「お客様」という臭いがぷんぷんしていた。
確かに美容整形は保険適用外なので、お金がかかる。
しかし、「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という孔子の言葉を評論家の宮崎氏に引用させて、これを整形に反対する論拠の一つにしようとするに到っては、そもそも美容整形に関して論議する場にいるのもどうかと思う。私などには親父の繰り言にしか見えなかった。
美容整形に対する日本人の(他の国のことはよく知らない)拒否反応の多くは、この例にあるような、どちらかと言えば儒教的なものの考え方が根底にあるような気がする。いわば、親からもらった身体に傷を付けるなとか、極端なことになると、自分に誇りを持てとか、人間は内面だとか、そもそも人間の価値うんうんという問題にまでその話題を広げてしまう。
特に女性が美容整形に向かうのを否定するのは、「身だしなみ」とか言って化粧を許容乃至は進めるような社会がしてはいけないことだ。化粧もせず、人はすっぴんが一番!そういいきれるなら、その延長線上で美容整形を否定しても構わないだろう。
人間が内面だという発言の裏には、美人はお高くとまっているとか、きれいな花にはとげがあるとかの、とりわけステレオタイプな物の見方がある。
人間は、職業によって貴賎をしてきた歴史の流れの中で、ひどい差別を生み、今ではそれが多くの言葉をこの世から抹殺することでしかそれを是正することが出いなくなっている(いや、これは勢いで言い切っているだけだが)。しかし、平気で女をブスだといい、禿、デブ、ちび・・・いくらでも見かけで人を罵倒する言葉があり、時にそれは非常に差別的でさえある。
現実問題としてそのことで真剣に悩み、気持ちが歪んでしまっている人だって沢山いる。そこまで行かなくてもストレスを溜めている人は間違いなく多くいるのだ。
多くの子供が、歯列矯正を受けている。これはもちろん健康面でも意味があることだが、受ける側の多くは見栄えのために他ならない。
犯人が容貌を変えて逃亡する等というのは、そもそも問題が違う。
人が人生をよりよいものにするために、選んだ一つの道が美容整形であっても、いったいそれがなんだというのだろう?全く問題ない。
問題なのは、ろくな技術も無しに看板を上げることが可能な現状であり、とてつもなく高額な費用が、時にかかるという現状の方だ。
人類が病から解放され、永遠の若さを、肉体改造やDNAの調整によってできるようになるような、そんなバラ色の未来のために乾杯だ!
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2005年7月26日
台風
台風7号は房総半島には上陸したものの、それほど大きな被害を与えずに、北東に逸れていった。
場所によっては相当な大雨も降ったようだし、本州の南に位置する島々では、被害もあったようだ。直撃していたらどの程度の被害だったか解らないが、意外に早く暴風圏もなくなっていたので、それほどではなかったかも知れない。
人間の生活は、この地球という星にあって、現在まで様々な形で発展してきた。地上何十階ものビルを沢山建て、空も飛び、家にいながら世界中の人とも会話ができる。宇宙にも行った。
それでも一度台風が来ると、沢山の列車は運休し、当然飛行機も欠航する。それほど堅固など台の上に生活しているわけではないのだ。むしろ自然の猛威の下では脆弱とさえ言えるのかも知れない。台風や地震などで、毎年何人もが命を落としている。
関東、特に東京周辺は、比較的台風被害の少ないところだ。西日本に比べると、台風が直撃する数自体が少ないから当然と言えば当然だが。恐らく今日の台風など、ニュースで報道しているほどには深刻な人はいなかっただろうし、むしろ会社も早く帰れてラッキーだったに違いない。ディズニーランドも盛況だったようだ。本当に直撃していたら、屋外のアトラクションは皆止まっていたに違いないが、むしろこういう日の方が空いているに違いないと、行った人もいるようだ。
荒い波だからこそ、サーファーは海に出る。
だが待てよ、今日は確かに大したことはなかった。だが毎年そんな感じで、海で行方不明になったり、川で亡くなったり、多くの犠牲も出ている。予測不能なことならともかく、ある程度予測の範囲で、それほどのことがなければ良かったとすればいいところだが、実際には、危険といわれているところで事故に遭う人は少なくない。
実際今日も、ヨットで一時期行方不明になった人がいた。私はヨットに乗らないのでよく分からないが、台風が近づいているのに海にこぎ出すことが果たして必要なのだろうか?
湘南では、遊泳禁止の場所で、「泳いでいるわけではないから」と、平然と嘯くサーファーもテレビに映っていた。
実際に事故にあってはいないからいいが、時には救助に行った人を巻き込むケースだってあるのだ。
危機管理意識ということに関しては、多分私もほとんどできていない。しかし年を追う毎に臆病になったことが、ある意味危機管理に一役買っている部分もある。君子危うきに近寄らずみたいな感覚が、何となくある。
せめて、台風の時に、海にこぎ出すとか、サーフィンや泳ぎに繰り出すとかは、理性で止めて欲しいものだ。
地震の後の台風だけに、もう少し世の中の人は敏感になってもいいような気もするが、目の前で暴風雨が起こらないと、やはりディズニーランドの魅力には敵わないのだろうか?
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2005年7月21日
夏休み
東京周辺の小中学校はほとんど今日から夏休みだ。
7月の下旬から約40日間の夏休みというと、始まる前は長そうに思うが、意外に早く過ぎてゆく。宿題などもあり、早く終わらせようと目論んで失敗した人も多いのではないだろうか。私などは最初から早くやることを無理だと思って、いいかげんに取り組み、いつだったか親父に相当怒られたことを記憶している。
今の子供たちはしないのかも知れないが、私が小学生の時は、7月中はラジオ体操だということで、毎日早起きさせられた。カードにはんこをもらうのだ。
この夏休み、いったい何のためにあるのだろうか?
事典によれば、「高温多湿な時期に、児童・生徒を正規の授業から解放し、その心身に休養を与えるために設けられている。」と言うことだそうだ。まあ、暑いから休もうと言うことだろう。暑いと何かと効率も落ちるし。であれば、夏休みの中途半端な宿題もいらないような気がする。
高校時代に(これは友人などにはよく話すので今更の話なのだが)、夏目漱石の「こころ」の読書感想文という宿題が出た。私は読まずに、読まなかった理由を作文にして出した。その時の先生は、その作文に対して点数をくれた。今でも感謝している。
私は多分「こころ」を読みたくなかったし、めんどくさかったというのが最大の理由だが、その頃から「文部省推薦」とか、学校のお仕着せの推薦図書と名が付くと、それだけで読みたくなかったのを覚えている。
読書感想文というのは、本を読んで感想を書くわけで、その意味は分からないではない。勉学としても意味があろう。だが私は、少なくともその課題図書という考え方に反発してきた一人だ。好きな本を読んで感想文を書けで十分だと思う。たとえそれが漫画でも、感想文は文章を書くわけで、目的は達せられる。読解力という意味なら、漫画にだってそれは必要だ。漫画でなくても、好きな小説やエッセイでもいい、取り敢えず興味のあるものを読ませた方が、よっぽど読書は好きになる。
その上で、読みたい本がなかったら、この中から選べということで参考図書を呈示してやるといい。
私が大嫌いだった読書を好きになったのは、友人がSFを貸してくれたからだ。あれがなければ、長い間私は読書嫌いだったと思うし、こんな文章も書いてはいない。むしろ、小学校の国語ほど辟易するものはなかった。
今年も全国で夏休みを謳歌する子供達が沢山いるのだろうが、私の頃よりも、塾だ予備校だと、きっと大変なんだろうなと思う。子供に自由に遊ばせろとも思わないが、せっかく学校に行っているときにしか味わえない長期の休みだ。楽しく過ごしてもらいたいものだ。
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2005年7月20日
梅雨明け
東京は一昨日梅雨明けをしたわけだが、何となく夏らしくない天気が続く。
記憶だと、梅雨明けは激しい雷雨とともに訪れ、それ以降は、いわゆる夏らしい濃い青空と照りつける太陽といったイメージなのだが、梅雨明けの発表があった日だけで、昨日も今日も曇りがちだ。
昨年は台風の当たり年で、夏から秋にかけて被害が続出した。この当たり年という表現、実は台風などに使うのは本来的な意味に於いては違うらしいが、今では普通に使うので、そういう意味になったと言うことだろう。
今年の夏は去年のようなことはないと、どこかの天気予報で言っていたが、来週初めにも、関東を台風が直撃するかも知れないという予報も、先ほどのテレ朝の天気予報では言っていた。
異常気象という表現は、正常な気象に対する対語だが、では何を以て正常な気象というかというと非常に曖昧だ。例えば東京では、50年、100年前というと、かなり雪も降ったりしたらしいが、ここ最近は、大雪と言ってもたかが知れている。それは今年急にそうなったわけではなく、少しずつ変化してきたわけで、その原因がフロンガスやら二酸化炭素の急上昇による地球温暖化の影響だとしても、そういう意味ではそれほど異常なことではないように思える。なるべくしてなったと言うことになるわけだからだ。
確かに、長い地球の歴史の気候変化に比べて、最近の気候の変動は異様に急速なのかも知れない。しかしそれは、人間が文明を発達させてきた速度と比例しているかも知れないし、ことさら不思議なことではない。
人類はどんどん数が増え、森林はどんどん減り、様々なこれまで自然界では少なかったガスや化学物質を放出してきたツケが、来ているとすれば、それが気候に影響を及ぼすのは自然の成り行きだし、あたかもここ数年だけ「異常」であるかのような表現はおかしなことだ。
もちろん、人類がより長くこの地球で繁栄していくためには、そのままでいいわけはないが、アメリカなどは、いまだにそんな未来のことよりも、目先の経済活動を優先しようとしているわけで、実はそういうことの積み重ねが現代社会を作り上げてきたわけだから、悲しいかな、人類全体の未来はそれほど明るくはないようにも思える。
しかし、70年代の日本は、例えば東京湾でもヘドロがたまり、工業廃水などで川や土地、空気も汚染され、ゴジラシリーズは「ヘドラ」と闘ったりしていた。郊外は先行きを暗く予測させ、世界的には冷戦構造の中で、核戦争の脅威もそれほど非現実的なことではなかった。
現代でも、よくテレビでは地方で産廃業者が不法投棄したゴミの山や、一般の人たちでも無造作にゴミを捨てることで、有害なガスを発生させたりしている様子を放映したりしている。しかし、東京湾も今では相当きれいになり、かつて公害に汚染されていた川や空気も、この30年で、かなりきれいになってきた。やればできるわけだ。
今アスベストが問題になっているが、昔は石綿金網なんていうのもあった。石綿は有害だが、石綿に代替え品がない物もあるという。だが無くなれば人類は代替え品を用意するものだ。これほど問題になる前に、何度か規制することができたはずだ。石綿に限らずきっと、いろんな危ない物質があって、それが企業や業界の経済的理屈で容認されたりしていることが他にもきっとあるはずだ。全てを洗い出して、人類が未来に憂いを少しでも少なくするために努力していくことは、今を生きる我々の義務だとも思うのだが。
なんだかはっきりしない梅雨明けは、はっきりしない人類と地球の未来への、ささやかな自然の警鐘のようにも思えてくるではないか。
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2005年7月19日
NEWSの飲酒
NEWSのメンバーが酒を飲んで、仙台の公園で騒ぎ、補導されたというニュースで、このNEWSのメンバーは無期限謹慎で、彼を誘って一緒に飲んでいたフジテレビの菊間アナウンサーなどが言及などの処分になったという。菊間アナなどの処分は、元々1週間だったものが、批判の電話などで重くなったようだ。
国家公安委員長が、「児童の自立支援施設などによると、少年の万引きを『大したことがない』などと受け止める親が多いという。こうした対応が、少年非行や少年犯罪を助長する」などと言ったらしい。
そもそも、未成年の飲酒がなぜいけないかと言えば、法律で決まっているからで、それ以上ではない。酒を飲んで騒ぐのは、未成年であろうと大人であろうと迷惑なことだ。少年の万引きを大したことはないと考える大人がいることは嘆かわしいことで、大人であろうと子供であろうと万引きは万引き。窃盗に過ぎない。飲酒と窃盗を同列にすることが、そもそも万引きを飲酒程度に引き下げている。
この世の中で、飲酒をした未成年を全部補導したら大変なことになる。私は大学に入った年から酒は飲んでいるが、当時は当たり前のように大学生は飲んでいた。もちろん酒など好みなので、無理矢理飲ませるなどと言うのは言語道断だが、恐らく、最近ではもっと若年化が進んでいるだろう。
酒など飲み方が全てで、世の大人の非常に多くが、飲み方を失敗していて、場合によってはより犯罪的だ。
先日も高校生が酒を飲んで運転した車で事故を起こした。危険運転致死罪はできたが、なかなか適用されないことも多く、業務上過失致死などで済んでいることがあるらしい。そもそも酒を飲んで事故を死亡起こした段階で、一律20年とか、日本にはまだ無いが終身刑とか、そのくらい重くてもいい。
子供に酒の規制をかける前に、大人にかけろと言いたい。
もちろん、菊間アナなど、名前の知れた人は、ある意味やむを得ない部分がある。有名人である分、より行動には気をつけなくてはいけないからだ。だが今回の場合、おそらくはNEWSのファンが、悪いのは彼ではなく、誘ったアナウンサー達だろうというファン心理で、苦情を言ってきたのがほとんどに違いない。この少年は18歳だというが、自分で判断できる年齢だし、責任は十分にある。彼もまた有名なるが故のやむを得ぬ仕儀だろう。
煙草もそうだし酒もそうだが、世の大人達よ、未成年のうちはやっていなかった人はどれほどいるのか?
「汝らのうち罪なき者、石もて打て」なんていう聖書の言葉を思い出してしまったりする。
飲酒そのものは、どうも私にはたとえ子供でもあまり「罪」には思えない。いかんかなあ?
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2005年7月18日
小川範子
小川範子がTBSの社員と婚約したという。31歳で、相手は53歳だという。小川範子の紹介には女優とあり、確かに「はぐれ刑事」とかにずっと出ていたり、彼女は女優だが、個人的にはアイドル歌手何だなあこれが。
小川範子のデビューは「涙を束ねて」で、まだレコードだった。東芝のレーベルトーラスから結構沢山シングルもアルバムも出している。
歌は決して上手くなかったが、ちょっとハスキーで、切なさの残る独特の声で、いい曲を何曲も出していた。尤も、あまり多くの人が覚えていないだろう。大ヒットはなかったし、アイドル全盛時代は過ぎていたから。
今聴いても自分の中学生の頃を思い出せるような、そんな雰囲気の歌だった。清純とかいうのではなく、どちらかというと背伸びをした女の子の一途な思いみたいな内容の曲が多かったように思う。
別に、ファンクラブに入っていたわけでもないし、もっと言えばファンだったかどうかも怪しいが、アルバムは何枚か持っている。
アイドルの曲というのはその時代の、それなりのレコードメーカーの稼ぎ頭みたいな頃もあったから、作詞家も作曲家も、かなりリキを入れて曲を書いている。意外にいい曲が多かったりするのだ。今では名前もよく思い出せないような歌手の曲が、結構面白かったりする。
時代の中に埋没している名曲は探せばいくらでもある。出せばいつでも売れるアーティストの曲が、何でもいいというわけではないのだ。
まあ、小川範子さん、幸せにと言うことだな。
それにしても22歳差か。勇気づけられる年齢差だな。
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2005年7月17日
風呂
風呂は気持ちがいい。しかし現代のように風呂が必ず家にあるようになり始めたのは昭和30年代頃からのようだ。それまでは銭湯が主だった。
そもそも風呂が歴史に表れるのはいつ頃なのだろう。事典を調べると、古代ギリシアやローマに遡る。ローマの公衆浴場は有名だが、文献によれば、伝説に、風呂場での殺人というシーンがあるという。ただ、実際に浴室が考古学的に確認されているのは紀元前5世紀だという。これらの浴槽はお湯を溜めて入るような浴槽だ。
日本では、奈良時代頃らしい。一口に風呂と言うが、蒸し風呂と入湯式で違うが、風呂という表現が後者にも当てられるようになったのは、江戸時代後期かららしく、それまでは風呂と言えば、蒸し風呂式だったようだ。湯に直接はいるのは湯屋、湯殿と言ったらしい。時代劇を見ると、時折湯殿という表現が出るのでそれほど縁遠い言葉ではない。
尤も、お湯に入る入浴は間違いなく温泉に入るということがその前にあると思うし、それは猿やカピバラだって入るわけだから、人間は尚更だ。温泉が気持ちいいから風呂ができたに違いない。温浴と水浴では大分感覚が違う。夏の暑いとき以外は、水に入るというのは、よっぽどのことがなければしないと思うが(泳ぐとかは別にして)、温泉はあまり季節には関係ない。夏場でも気持ちよく汗を流せるからだ。
しかし温泉は、温泉が湧く場所までいかなくては入れない。家で温泉を模倣しようと思えば、湯を沸かしてはいるしかない。
現在ではボタン一つで適当な湯量で湯が張れたりするし、自動で保温もしてくれる。至れり尽くせりだが、そのうちエアコンではないが、自動洗浄風呂とか、世界のどこにいても入りたい温泉の湯が調達できたり、そんな夢のようなことも実現するかも知れない。
風呂の温度というのは大体何度くらいのものだろう?私は42度くらいで入っているが、草津温泉などはもっと高いだろう。あまり熱いお湯にはいるのは良くないだろうし、以前箱根で湯あたりし、夕食がろくに食べられなくなってしまったことがあった。
風呂の入り方というのも、なかなか大変なものだ。
風呂で溺れる人もいるそうだから、寝るのも厳禁だ。しかし、疲れたときに適度な温度のお湯に浸かると眠くなるのも事実だ。
私は風呂に浸かって読書をするのが好きだが、冬場はともかく、夏場は難しい。そう長時間入っていられないからだ。しかし、意外にこの読書方法は、スムーズに読める。はかどるのだ。しかも普段読まないようなものが読めるのでありがたい。
こう考えると風呂というのは、単に身体を洗う、リラックスする以外にも効用があるようだ。きっと思わぬ発想が風呂から生まれるのだろう。アルキメデスの原理も風呂から生まれたのは有名な話だ。・・・おっと、やはりギリシア人は風呂に入っていたのだ。
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2005年6月19日
サービス
サービスという言葉は、解っているようでよく分からない言葉だ。英語の辞書の最初には「奉仕」と書いてある。続いて「役に立つこと」とか「尽力」とかである。
我々が日常の中でサービスという言葉を使うときには、言外にお店などで、「商品の対価以上の何らかのメリット」を指す場合が多い。特に値引きや量的な追加等を指すことが往々にしてある。あるいは、その対価で、他のお店に比べて、よりよい物、乃至はより多い商品量を得ることができる場合にいう。
確かに日本語でも「ご奉仕価格」なんていう表現は使う。奉仕というのはそもそも、報酬を考えないで人のために何かを行うことのような気がする。どちらかと言えば、サービスではなくボランティアに近いイメージだ。お店にとっては利益を減らす、すなわち報酬を削っての提供だから、「奉仕」と言うことになるのだろうが、奉仕という単語に暗黙に含まれているように感じる、高邁さがそこにはない。店舗のご奉仕価格はそれがたとえ利益を度外視していても、全体として利益を上げるための施策でしかない。店舗全体が利益を度外視していれば、遠からずその店は潰れてしまうからだ。
つまり、店舗がサービスという場合には、それは奉仕とか、ボランティアではなく、「顧客の満足度を上げて、いかに自分の店舗にお金を落とさせるかのテクニック」だと言うことになる。と言うことは、店舗にとってはサービスというのは「金ももらわないでこんなことをしているんだぞ」の行為ではなく、お金を頂くための付加価値なのだ。
先日荻窪ルミネのイタリアンレストランへ行った。そこそこ遅い時間だったのだが、とても混んでいた。食事が終わってしばらく話し込んでいたが、ファミレスではないので、コーヒーのお代わりとかは期待していなかったが、ラストオーダーも過ぎたからだろうが、店員が気を利かせて追加を注ぎに来た。そのタイミングと、一言添えながらの様子が非常に良かった。それだけでまた行きたいと思った。混んでいる理由は味だけではないだろう。もちろん、いつでもお代わりがもらえると思っているわけでもない。
サービスというのはこういうことだろう。商売にはこれが必要なのでサービス業と呼ばれるわけだ。
ところで、もしサービスの意味が、奉仕とか尽力というようなことであれば、行政こそが最たるサービス業であろう。「行政サービス」という表現があるが、行政全体がそもそもサービス業であるという視点に立って、業務を行う必要がある。ましてや、値引きなど無い税金を、消費者の意志とは関係無しに取っていくわけだから、より重い意味でのサービス精神を培ってもらいたいものだ。
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2005年6月15日
マジック
ペンのマジックのことをマジックというのは内田洋行の商標らしい。宅急便がヤマト運輸の商標であるのと同じに、マジック、あるいはマジックインキは、特定の商品名を指すと言うことだ。英語では一般的にはマーキングペンというらしい。今時、油性のマジックはどのメーカーのものでも皆「マジック」と呼ぶ。手元にzebraのマッキーがあるが「マッキー取って」とは誰も言わない。「マジックとってだ」。
そもそもマジックというのは不思議な物だが、これもまた不思議な現象ではある。
さて、言葉ついでに、日本語の手品はそもそも英語ではマジックだが、辞書を引くと「a conjuring trick; sleight of hand; magic」の三つが出ていて、さらにトランプ手品と引くと「a card trick」とある。trickはごまかしとか策略とか錯覚とあるので、まさに手品はtrickという役の方が本来は正しい。
マジックはどちらかというと魔法や魔術という、超自然の何かという意味があるから、マジシャンは魔術師の傾向が強いと言うことだ。そもそも魔術が科学的な知識の薄弱だった時代に、手品めいたことでその地位を保っていた一般の手品師、あるいは占星術師とかだということであれば、Magicianという言葉は古今変わらないということにもなる。
昔のマジシャンが本物だったか偽物だったかは別にして、日本では今、手品が大流行だ。年中テレビで目にする。
昔から多くの手品師がいたが、恐らく「超魔術」という看板を下げてやってきたMr.・マリックが出てきてから手品の世界は変わったような気がする。かつて先代の引田天巧は「大脱出」という今でいうイリュージョンの元のような大がかりな奇術を多く行った。
それに比べるとマリックの超魔術は、天巧に比べれば仕掛けは小さいが、それより前のユリ・ゲラーのスプーン曲げを凌駕する、不思議をそこに備えていた。ユリ・ゲラーのスプーン曲げを台無しにしてしまうスプーン折りや瞬間移動などと銘打った、それまで見たことのない「超魔術」を見せてくれた。
その後、「超魔術」なんて言ってるけど実は手品だろう、なんていう騒ぎもちょっとあったような気がする。そもそもマジックが魔法であれば、超魔術という表現は、それをせいぜい和訳した程度のことでしかない。確か彼は、「超能力」という表現を使った記憶はなく、「ハンド・パワーです」は流行語にもなった。実際に手品だったとしても、まさにすごいハンド・パワーには違いない。
一時期あまり姿を見かけなかったマリックも再び復活し、よくテレビに出ているし、最近の手品師は、皆マリック顔負けのとてつもない手品を披露する。これは日本ばかりではなく、海外でもすごい腕前が沢山いるようだ(当たり前だが)。
デビッド・コッパーフィールド等という文学作品みたいな大御所や、プリンセス・テンコーなど、最近ではこれでもかという程すごいものが多い。その一部は覆面をした手品師がトリックを明かすことで、むしろ難しい物の価値を高めている。
最早最近の手品の多くは、超能力との区別もつかない。いや、あれだけの話術、巧みな手さばきなどはある意味本当の超能力と言ってもいいかもしれない。
人間は錯覚するが、この錯覚もまた人間らしさなのだろうと思う。
今のところ、有名な手品師(マジシャン)の、あるいは有名ではなくとも驚異的なマジシャンの実例を目の前で見たことがない。テレビなどでは、時たま映す芸能人の顔がとてつもなく煩わしいが、一度この目で見てみたいものだな、と思う。
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2005年6月13日
花田家騒動
故・双子山親方の死去後、毎日、貴乃花と、前若乃花の話題がニュースで流れない日はない。こんな話題がほぼトップニュースで流れているのは、多少なりとも平和な証拠のような気もするが、その影で教室に爆弾を投げ込んだ高校生のニュースなどもあるので、一概にそうとばかりも言い切れない。
花田家の騒動は、いわば他人の家のことだが、亡くなったのは初代貴乃花、話題の渦中にいるのは息子の花田勝と貴乃花、ということになると、世間は放っておけないらしい。
時折世の中では、遺産相続ということが争いの種になるが、財産が多いのも考え物だ、などということに、そういう場合はなるわけだが、今度のことは必ずしも遺産の多寡には関係ないようだ。よく夫婦は他人という。血は水よりも濃いという言い方もする。その割に生みの親より育ての親という言葉もある。かように人間関係というのは肉親であろうが他人であろうが、時に難しく、時に断ち切りがたいほど強いこともある。
結果的に人はそれ個人が単独なのだ。どんな場合でも、生まれるときと死ぬとき、それが双子であろうと、戦争で一気に死のうと、その個々人の生や死が単独であるように、その人生も単独だ。そしてその単独の人生が様々な他の個人と絡み合っているのが社会であり、それが家族であるかどうかというのは、多くの場合、幼い頃から共に暮らしているという点か、そうでない場合は、自分の遺伝子はこの両親の物なのだという確信が、何らかのその人の考え方に影響を及ぼしている。それ以外は他の他人と一緒だ。
二十歳で結婚し、20年経てば、親子と夫婦は多くの場合、共に生活した人間は同じ年数になる。しかも直近は夫か妻と言うことになるので、その精神的な繋がりはそちらの方が強かったりするだろう。
貴乃花と若乃花を見てみると、相撲では明らかに弟の方が才能があり、実力も上、横綱になったのも先で、在位も長い。兄弟横綱だからといって、兄はどこか引け目を感じる部分もあったろう。弟は父の名を継ぎ、兄は叔父の名を継いだ。この微妙な差が、何らかの形でずっと二人の間に影を落としてきたであろうことは想像が付く。
会社でも息子が兄弟で継いだりすると、意外に上手くいかない場合が多い。自ずと兄弟であっても能力に差はあるし、双方がそのことに向いているとは限らないからだ。若乃花が相撲界を抜けたのは、彼なりの人生観だったろう。相撲界にいる限り、彼は弟を抜くことは叶わない、そう判断したのではないかと思う。だが弟にはその点は理解できなかったに違いない。
兄弟が仲良くする。これはあたかも当たり前のことのように世の中では言われるが、そこに利害が対立したり、非常に厳しい競争があればそれも難しい。最も近いライバルが自分の兄弟であれば、その二人が仲良くするというのは、できなくはないとしても、困難を伴う。
勝負と生活は別、そんなものではない。例えば、できる長男の弟が、よく兄と比較されて苦しむなんていうのはよくあることだ。誰もがみんな、浅見光彦のように生きられるわけではない。彼は、東大を出て警察官僚の道を選んだ兄と常に母親から比較され、自ら俺はオチこぼれだと嘯きながら、飄々と文筆業に精を出し、行く先々で難事件を解決する。現実ではほぼあり得ないわけだが、それでも、できる兄弟と、それよりは劣る兄弟のそれぞれの生き様は、やはり違うフィールドの方が良いという、一つの示唆でもあるような気がする。
まあ、いずれにしたところで、追いかけ回すマスコミもやむを得ないとも思わないでもないが、いささか他人の家に土足で入っているという感が、こういうことに関してはやはりする。またそれに整然と答える貴乃花も、なかなか一筋縄ではいかない不思議な人物だ。
相撲業界という、どちらかと言えば伝統や格式にがんじがらめになっていそうな社会にあって、さてこの結末はいかに?というほど大きな事件ではないとも思うのだが。
そんなことより、突如効かなくなったうちの冷凍庫の方が大問題だ。
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2005年6月12日
略語・または言葉を短く言い表すこと・短縮
大人は時々、「最近の若い人の言葉は分からない。何でも短くする」などという。
「若い人の言葉は分からない」は、ある程度、「古い言葉は分からない」の裏返しなので、子供が大人の言葉を分からないのと同様、大人が子供の言葉を分からないのは普通のことだ。もちろん、子供の立場の「解らない」は、多分に勉強不足という側面があることも、また事実だ。だがこれは、言葉の変遷という文脈の中で、アローワンスを広く取って考えていかねばならない問題でもある。
例えば、同様な問題が、外国語ばかりを使う一部のビジネスマンや、評論家、業界人などと、一般の人との間にある乖離、それぞれの業界にだけ通用する言葉等存在し、必ずしも若者に対して「おまえらの国語はいいかげんだ」と主張することはできないように思う。それでも何となく、多くの大人が、「最近の若いやつの言葉は・・・・」と思うのは、何かがありそうだ。実際には単なる世代間のギャップがほとんどではあっても、昔に比べて情報量が多いことと、表現手段が多様化したことで、自分たちが子供だった頃の大人とのギャップ以上のものを、大人達は感じているに違いない。
その一つが、「あけおめ(あけましておめでとうございます)」「ことよろ(ことしもよろしくおねがいします)」等の表現や、告白することを「告る(こくる)」という風に言ったりする短縮表現で、以前テレビで誰かが、それを気に入らないと言っていた。ただ、言葉を短くするという表現手段は、古今東西、常にあることで、例えば英語などでも、CD ってなの略かなんていうのも、業界によって違ったりする。「あけおめ」なんて可愛いものだ。むしろ、近しい間柄で、「明けましておめでとうございます、本年もどうぞよろしく・・・」なんていうのは気恥ずかしくて言いづらいという場合もあるだろう。「あけおめ、ことよろ」がいいという感覚は分からなくはない。
うざったいなどという言葉も、最近では「うざい」になり「うざっ」になる。これは、「がんばれ」が「がんばっ」になったのと似ている。
先日、金八先生の昔のが流れていて、その中で三原じゅん子が新宿のことを「じゅく」といっていた。これでは新宿か原宿か解りづらいような気もするが、当時、「じゅく」といえば、学習塾ではなく新宿を指すというシチュエーションがあったのだ。今でも「しぶちか」といえば、渋谷駅の地下街だったりする。
但しこれらの言葉は消えてしまうものが多い。非常に短命なものと、しぶとく生き残っていくもの、そしてふるくから使われていても、消えてしまう言葉、意味の変わってしまう言葉、その中で生きているのだ。
よく「美しい日本語」などというが、「美しい」という、一見共通概念でありそうなのに、実は人によって大きく違う感覚的な言葉で表現された内容は、極論をすればこのみに他ならない。
「袖振り合うも多生の縁」という言葉も、「袖摺り合うも他生の縁」、そして、「多少の縁」となり、ほとんどちょっとした出会いのことだと思っている人も大いに決まっている。こういうことの間違いに気がつくために、現代が用意しているのはクイズ番組であり、読書ではない。
こういう世の中の変化がいいか悪いかというと、私はあまり良くないなあ、と感じる世代ではあるが、部分的にはやむを得ないのだろうとも思う。
少なくとも、若い人が言葉を壊しているような物言いは違っている。彼らの言葉の多くは非常にローカルであり、そのほとんどは消えていく刹那的な言葉である。むしろその中から生き残る言葉というのは、社会的に認知されていくわけで、いい言葉なのだ。・・・内容は悪くても。
ただ、それでも尚、日本語というこのひらがな、カタカナ、漢字で構成された滋味豊かな国語は、愛すべき言語である。微妙な言い回しや、表現の多彩さは世界に誇っていいと思う。長く大切にはしていきたい。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月 9日
住宅情報
しばらくして引っ越さねばならないので、最近、ネット上の住宅情報をよく見ている。
リクルートが情報を出しているISIZEのフォレントというサイトだが、結構見やすい。間取りなども結構乗っていて、ありがたい。できれば、すべての物件を見られるようにしてほしい。それと、できれば地図でどの辺りなのかというのがその場で解ると非常に便利だと思うのだが。
駅から何分とは書いてあるし、大まかな住所も書いてあるが、だいたいの位置がその場で地図で解るとうれしい。
それにしても東京の物件は相変わらず高い。それでも、都心の新築高層マンションの100u以上の広い物件に数十万円も出して暮らせる人がいるというのはすごいことだなと思う。
マンションの情報ページなどは、3Dで内部が見られたり、360度の絶景がFLASHで見れたりと、なかなかよくできている。もちろん賃貸ではないが。
実際には本気で探す時期になったときに、不動産屋へ足を運ぶことになるのだが、前情報として、物件と相場みたいなものが解ってありがたい。考えてみると、昔は雑誌を買って見ていた情報だ。今では無料で見られる上、最新情報が更新になったことをメールで教えてもくれる。便利になったものだ。
内部写真があると尚ありがたいと思う。
それにしても、いまだに解せないのは「礼金」というシステムだ。前にもどこかで書いたような気もするが、一般の商取引に見立てれば、販売店出物を購入し、例えばそれが千円であれば、「売ってくれてありがとう」と言って2千円を余分に払うようなシステムだ。
家というのはないと暮らしていけない。礼金を払いたくないと言えば貸してもらえないようにも思うので、やむを得ず払う。なんだか税金似ている。尤も、家賃10万円、敷・礼/2・2だとすれば、初期設定費用20万円、保証金20万円、月額費用10万円という考え方もできるので、「礼金」というおかしな名称がいけないのかも知れない。
ニューヨーク当たりの賃貸物件も非常に高いようだが、日々の生活の場が毎月稼いだ給料の数分の1を削っていくというのは、時代とともに変わっていくのだろうか?都会と地方の距離が縮まったり、様々なコンビニエンスが実現されたり、SOHO感覚がもっと進めば、住宅事情も変わるのかも知れないと思うのだが、人間のコミュニケーションに対する欲求を考えると、どこでもドアくらいが実現しない限り、なかなか難しいのだろうな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月 5日
DVDのケース
DVDのケースは、その多くがトールケースと呼ばれる背の高いケースである。もちろん、CDが採用している15cmくらいのケースに入ったモノもあるが、かなりの割合で大きなケースの方が多い。
一つには万引き対策だろう。CDが発売になったとき、万引きは最も懸念された弊害だった。レコードに比べると、明らかに万引きはやりやすいからだ。ただ、それだけであれば、わずかばかり背が高くても、さほど防止効果があるとは思えない。
もう一つは、背の幅が広いので、タイトルが解りやすいということがある。CDの高さでは、幅を広げても文字を大きくしづらいかも知れない。
しかし、CDが同じケースに移行しないというのは、同じ光ディスクなのに、間違えないようにという配慮もあるのかも知れない。大きなパッケージはDVDですみたいな。しかしそうしてみると、DVDよりもCDの方が、実はライナーなどの付属品が付く率が高い。オペラなどは、字幕が出るから、DVDでは歌詞対訳が必要ないが、CDの場合にはそれが必要だ(もちろん付かないのもあるが)。だから、むしろCDのケースを大きくした方が理にかなっているようにも思える。
どちらのケースもプラスチックには違いないが、落としたときにDVDの方が割れにくい素材になっている。郵送などの場合も、「ワレモノ」という心配が少なくてすむ。
ただまあ、増えてくるとそれはそれでこのケースは邪魔になってきそうだ。当たり前だが、CDよりも場所を取るからだ。
次世代ディスクは、容量をかなり増すから、今まで2枚だったものが1枚にはいるなどの利点はああるだろうが、実際には画質や音質を上げるためにビットレートを変えて、1枚に映画なら一作品とかになるのだろうか?
SPがレコードになったとき、枚数は圧倒的に減った。さらにCDになって、レコード2枚分くらいに相当する場合もある。DVDが、DVD-DAというハイクオリティではなく、通常のCDと同じオーディオだけを収録すれば、ワーグナーのオペラも、大分枚数が減る。
MP3で収録すると、手持ちのバーンスタインのマーラー交響曲全集がCD1枚に収まる。1分1MBとして、約CD1枚分だ。次世代DVDであれば、CDクオリティにして、余裕でこれが1枚にはいることになる。
そうなれば、現在のパッケージと同じ形態でも、マーラー交響曲全集や、ニーベルングの指輪全曲のオーディオは1枚で収まるので、場所を取らない。
以前から思っていることだが、何枚組というCDの発売をなぜ、DVD1枚に収録するという(オーディオだけ)手段を取らないのだろう?カラヤンが決めた(といわれる)1枚74分なんていうのは、今や無駄な限界で、映像が入っていても180分程度は普通に音声の入るDVDがあるのだから、そちらで発売すればいいと思うのだが。
美空ひばり全集でも、山口百恵全集でも、エルビス・プレスリー全集でも、DVD1枚に音楽が全て入りそうな物だが。
いやいや、パッケージの話からそれているように感じるかも知れないが、それらだって、でかい箱に入っているんだ、実際に発売されれば。・・・・やっぱり値段の問題かな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月 1日
COOL BIZ
今日から環境省の提唱するCOOL BIZのために、ノーネクタイ、ノージャケットが中央官庁や政治家で実施されることになった。小泉首相や細田官房長官などもそういう姿だった。
そもそもこれの目的は、地球温暖化防止のために冷房温度を28度にするためで、ノーネクタイやノージャケットが目的ではない。義務化されているわけでもないし、多くの省庁や政治家も、今まで通りの面白くもないスーツ姿だ。
さて、そもそもノーネクタイなどということを言うのであれば、猫も杓子もネクタイを巻いてスーツを着ていることに違和感を感じるどころか、そうでない姿を失礼とする暗黙のコンセンサスにこそ問題はある。判で押したようなそんな姿でないと、あたかも一流の大人ではないかのような風潮が、21世紀に入っても、いまだに世界の多くで当たり前であるかのような状態こそ、私には不思議でならない。
不思議なことに、多くのサラリーマンなどと話をすると、「ネクタイしないでよくていいね」などと言われることがある。私は会社に勤めているときからネクタイなどほとんどしたことがないし、そのことで何かを言われたことはない。・・・・唯一、学生の時の会社訪問の時かな。「会社訪問」のつもりが泣く、既知の先輩にちょっと話を聞こうと思ってアポを取り、言われたとおり会社に伺ったら、私以外の他の大学生が一緒で驚いた記憶がある。その折に、「ネクタイぐらいしてきた方がいいよ」と言われた。私はバイト帰りの私服だった。
ネクタイを締めると、仕事をしようという気になるという人がいた。それはその人のことで、あらゆる人に敷衍されることではない。女性はよく制服があるが、なぜ女性にだけ制服があるのかと言うところも疑問だが、制服がない場合、意外に女性の服装はフリーだ。なぜ男だけが、みなスーツにネクタイなのか、どう考えても解せない。
「楽だから」という主張がある。他の服を考える必要がないからだという。だったら、他の人はその人なりに楽な服装で良かろうというものだ。決して楽だからスーツなのではない。結果的にそういうこともあると言うことだ。
ハリウッド映画などで未来を描くとき、案外ネクタイなどしていない。面白いと思う。
現代のスーツ姿というのを、あたかもビジネスマンの定番のように見るのは、「マナー」とよく似ている。「マナー」には2つあって、単純に相手に対する礼儀という意味でのマナーと、歴史的に何となく形式化されてきた礼儀とがある。前者は他人に対する慮りや、人が生きていく上で当然のことながら、守るべきものだが、後者は必ずしも全てがそうではない。守ろうという努力がなければ自然淘汰されてしまうようなものはたくさんある。祝儀・不祝儀袋の水引の方向やら、出し方などは、そのうちどうでも良くなるか無くなるだろう。それでよい。
スーツにネクタイはこういうことに似ている。さっさと自由になっていくべきだ。その中でスーツにネクタイという姿はあってもいい。私自身も時には着ようと思う。そういう中の一つでいいはずだ。スーツがちゃんとしていて、シャツ1枚がちゃんとしていないなんて、いったい誰が決めたんだ?確かにジーンズは昔は西部の労働者が着ていたかも知れない。ガンマンとか。でも今はそうではない。ジーパンで会社に行ったっていいじゃないか。
まあ、COOL BIZとやらが、どうもピントのぼけた方策でも、うまいこと機能してくれればそれでいいとは思う。かつて羽田孜が省エネLookとか言って半袖のスーツを着ていたことがあったが、逆にそこまでスーツにこだわる理由が分からなかった。もう少し自由に、バリエーションを持って社会生活を送りたいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月31日
有識者会議
NHKのニュースで「皇室典範に関する有識者会議」をやっていた。女帝問題に関しては先日ちょっと書いたが、世の中はいろいろな見方がある。
西尾幹二氏による「正論」への記事がここに載っている。これを読むと、歴史の重要性という中での天皇制の意義みたいなものが解る。
ただ、解ったところで、その論に与するかどうかは別の問題だ。
「万世一系」なんていう言葉を聞くと、戦前・戦中にはきっとそういう言葉で天皇を称揚したのだろうな、なんていう高度成長期の走りみたいな頃の生を受けた人間としては、当時のことをあまり知りもしないで思ってしまう。
確かに天皇制に関して言えば、私は知識が少ない。よくよく考えると、女帝問題より先に、そもそも天皇制そのものに関して、いいの悪いのというほどものを知らない。まあ、こういう人も私だけではなく非常に多いことだろう。
同じ人間に生まれて、天皇と自分たち、何が差があるのか?と、かつては思ったこともあった。若い頃である。
では、歌舞伎役者の家に生まれれば、その多くが歌舞伎役者になり、名前を代々継いでいくことと、それほど何が違うのだろう?神武天皇が本当にいたのかどうかなんて知らないが、結局は武力で日本を統一した王様だと言うことで、世界のあちこちにそういう王様はいる。
世の中には最高権威者の称号がいくつかある。王、皇帝、天皇、大統領などだが、微妙に違う。中国などでは、「帝」の下に「王」がいたりするし、そうなってくると、そもそも言葉の意味としての問題を解き明かさねば、この話題は議論が難しい。
天皇は、日本国憲法で「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」とある。この一文がそもそも、歴史を蔑ろにしている。日本国憲法の中では、国民が「止めよう」と言えば天皇制をやめられる。歴史などどうでもいいという風になっていると言うことだ。尤も「総意」に関しては憲法に記載がない。
さて、有識者会議でも「歴史」の大切さということを述べられている人がいる。
翻って、「過去」を守ることはそんなに大切なことなのだろうか?というのが私の根本的な疑問だ。「神武以前」はどうだったのか?何事にも始まりがあれば終わりもある。実は歴史の重みなんていうのは、現在をいかに素晴らしく生き、未来をいかにいいものにしていくかというための教材にしか過ぎない。それが私の考え方だ。たとえ連綿と続いてきたことだって、今と未来のためならどんどん変えて新しくしていく、それでこそ歴史の価値があるはずだ。
有識者会議は「男女平等論で女帝議論せず」ということで、それはそれでいいと思うが、ことさらこういう風にいうところがどうも腥い。洋の東西を問わず、多くの宗教や伝統で、女性は低く見られている。「汚れ」ているように見られている場合もある。これは多くの国に認められることで、例えばイスラム教で女性が顔を出せないのだって、似たようなものだ。
この、世界中にあるということで、実は男女は平等ではないのだ、という見識を持つのも根拠のないことではない。しかし、今時そんなことを言ったら、石が飛んできそうだ。じゃあ、レディー・ファーストはどうなるというような問題だ。
天皇にはそもそも人権がない。なぜなら象徴だからだが、そもそもその辺りに怪しさは潜んでいそうだ。天皇が政治上のトップだった時代から、神様に祭り上げられ、そして象徴になった。つまり、どこかの時点で日本人が天皇から人間性をはぎ取ったわけだ。確かに、人間になる前は神様だったのかも知れないが。
現代に神がいないのはニーチェのせいではない。科学至上主義がそういう世の中を作ったのだ。その中で、人でない人が存在すると言うところに歪みがあるのだ。人ではないのだから男女平等なんて関係ない。だが、人ではないことを人が決めるってどういうことだ?
なんだかこの件は、天皇家に訊いてどうしましょ?と尋ねるのが一番のような気がする。女帝問題だけではない。天皇制そのものもだ。歴史なんてその時は、どうだっていいじゃないか。今のこの動きも、10年経てば歴史の一こまだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月26日
ピアノマン
ピアノマンが話題になってからしばらく経つが、最近出てきた情報はことごとく否定されている。
ピアノマンといえば、どちらかというとビリー・ジョエルの曲を思い出すが、世の中には不思議なことがあるのだな、と思う。
そもそも世界各国で報道されるようになって大分経つ。しかも、テレビ、新聞、インターネットで写真入りだ。何十年も前ならともかく、これだけ情報が伝わりやすくなっている世の中で、一人も知っている人がいないということの方が驚きだ。
テレビなどで、未解決事件が解決したなどと言うのをよく耳にしたりするが、普通の人間生活を送っていたのなら、何らかの形で情報が入ってくるのではないだろうか?事実は小説よりも奇なりと言うが、まさにそれを地でいっているような事件だ。
いったいどんな結末が待っているのか知りたいところだ。
ところでピアノといえば、私は弾けないのだが、弾けるようになりたいと思う今日この頃である。
数日前に楽典の本を買ったということを書いたが、その中に面白い記述があった。
鍵盤で「ド」の音を出し、自分で「ミ」の音を出してみる。きれいな和音に聞こえたら、鍵盤の「ミ」を叩くと、自分の出している「ミ」とは微妙に音の高さが違うのだそうだ。これは平均律でピアノが調律されていることによるとあった。詳しい本を読めば書いてあるのだろうが、これは12音を正確に12に分けた半音の一つ一つは、正確にそのその音階を反映していないと言うことになる。和声的な意味で。
和声というのは面白いもので、人間の耳に心地よく響く音の組合せがある。その心地良さに一定の範囲があるという風にも捉えられる。
音は波であり、特定の周波数が特定の音に対応しているわけだが、実際にはその音と音の間には無限の音がある。カウエルが唱えたトーン・クラスターはまさにその無限の音を同時に表現することに近い。
絶対音感というのがどの程度の周波数まで聞き分けられるものなのか知らないが、こういう人には、そういう微妙な音の違いというのが違いとして聞こえるのだろう。
ところで、ドのシャープとレのフラットは同じ音だと思うのだが、楽譜にはそれぞれがある。また、ドのダブルシャープなんていうのはレだろうし、レのダブルフラットはドだろうと思うのだが、であれば楽譜にそんな記号がある必要はないと思うのだが、どうやらこれは雰囲気記号であるようだ。単純な音の高低ではなく、明るかったり暗かったりという要素を微妙に加えて演奏するらしい。
いやはや、世の中いろいろなことが奥深い。ピアノマンのことも、「あっ」というような背景があるのかも知れない。未来や過去から来たとかね。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月24日
飲酒運転
仙台で飲酒運転の車が高校生に突っ込み、3人が亡くなった。非常に悲しい事故だ。先日の福知山線の事故も悲しいが、今回の事故は明らかな加害者がいるという点で、異なる。
東京などの都市圏では飲酒運転が減っているという。しかし地方では逆に増えているところもあるらしい。危険運転致死罪や、道交法が厳しくなって、確かに全体的には減っているはずだが、それでも、テレビで飲酒運転などの一斉検問の放送を見ていると、この問題に関しては、まだまだやらねばならないことが多いのだろうと感じないではいられない。
以前に、地方の飲み屋では、駐車場もあり、多少の飲酒運転は当たり前だというようなことを聞いたことがある。ある程度はこういう認識があるだろうことは想像に難くない。飲み屋といっても、東京などのように駅の周辺に固まっているわけではない。というよりは、そんなに駅が密集していないのだ。バスなどもそれほどは知っているわけではない。タクシーは金がかかる。自ずと車を頼るしかない。やむを得ない。そういうお話しなのだ。
だが、話はそんな単純ではない。その結果が今回のような事故に繋がるわけだ。もちろん、7時間もはしごして、泥酔状態で車に乗るなどということは普通はしない。でも、だから大丈夫というわけではない。今回の事故ほどではなくても、沢山の事故が起きている。確かに酒を飲まなくても事故は起こる。だが、飲んだ方が起こしやすいことも事実だ。この一事を取って、飲酒運転はいけないという理屈だけでも十分である。
危険運転致死罪は最高20年だが、今の時代で、酒を飲んで運転するということは、可能性として事故を起こしかねないことを認識して運転していると、どんな場合でも考え、殺人罪を適用するのが正しいと思う。それがいやなら飲酒運転をしなければいいだけの話だ。
地方の境遇などは言い訳にはならない。いやなら都会に引っ越してくるか、酒を飲まないか、運転しないか、選ぶしかない。
警察も行政も、もっと厳しく取り待ったところで、世論はきっと後押しすると思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月19日
ストレス
昔、森高千里の歌に「ストレス」というのがあった。
ストレスというのは「ストレスがたまる」というような文脈で使うように、精神的緊張(広辞苑)のことを言う場合が多い。いらいらとか、鬱憤とか、そんな用語で説明できるような個人の中にわだかまる何かだ。だが元々は「外界から与えられた刺激が積もり積もった時に防衛反応として示す、生体の肉体上・精神上の不具合。(新明解国語辞典)」のことで、溜まった結果のことを言うようだ。その原因を作るものをstressorストレッサーという(レッサーパンダが立ち上がるというのとは関係がない)。
まあ、用語のことは別にして、ストレス社会というように今の世の中は様々な形でストレスを感じることが多い。だが、そもそも人間が人間であるということがストレスを感じると言うことではないのかという気がする。
人は、他人と諍いを起こしたり、思い通りに事が運ばなかったり、思わぬ難問に立ち止まったりと、様々な要因によってストレスに晒される。個人的には躱すのが比較的上手い方だと思うが、それでもないわけではない。あるいは恒常的にストレスに晒されていても、それが慣れとなって解らない部分があるという見方もできるかも知れない。
ストレスといって、人によってそれをストレスと見るかどうかという判断がかなり個人の意識に依存するので、一概に比較はできないが、例えばいじめに遭うとか、手に余るプロジェクトの担当になるとか、といった場合、それをいじめと感じるか、手に余ると思うかによって、同じことでも大分、ストレスの度合いは違うように思える。
また、それを如何に発散できるかと言うことでも違うはずだ。
最近の日本酒のCMで、家まで上司がくっついてきて、酒の蓋を開けたとたんに上司が消えるというのがあるが、まさにあれがストレスの正体であり、発散なのだ。
これをしたら発散できるという定番的な何かがあれば、それを支えにストレスに耐えることは、ただストレスを我慢するよりも、かなりの度合いで楽だろう。例えば家に帰って妻に愚痴を言うとか。逆にそれがストレスを増幅させる家庭もあるかも知れないが。
いずれにせよ、ストレスを感じない人というのは、極めて希だろう。
ストレスという言葉はしかし、極端な苦悩や悲嘆といったものから来る精神的苦痛を、日常的には表現していない。謂われのない殺人や事故で、身内などを失った場合の精神的苦痛は、それをストレスとは言わない。どちらかというとストレスというのは、より日常的な活動の中から、普遍的に存在する圧力のことを指す場合がほとんどで、言ってみれば「解消」できる程度の苦悩であるのだ。
もちろん、ストレス性の病気はたくさんあるし、たとえ胃が痛むだけでもそれは味わいたくない痛みだ。
それでもそれから逃れられないのが今の社会であるし、恐らくそもそも人間がDNAの中にしまい込んでいる、生きることと相克する何かなのだろう。であればやはり、如何にそれを躱し、それを克服していくかということに努力を払った方がいい。概ねその努力は、楽しいことをしたりすることだったりするので、あまり辛くないはずだ。裏を返せば、ストレス解消のための楽しみみたいなところで、遊びや気抜けの言い訳が立つというものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年5月17日
長者番付
今年の長者番付が発表されたが、1位がサラリーマンで話題になっている。給与所得というのがすごい。
この高額納税者の番付は2006年から見直されて発表されなくなる可能性が高いという。確かに発表されるご本人達にとっては、それ以降の様々な営業対象や見ず知らずの人たちのたかりの対象になるわけで、うれしくないケースが多いだろう。
だが高額所得者の公示というが、いったいどこにどういう形で公示されるのだろう?少なくともインターネットで国税庁関連を調べてみても見つからない。新聞社や「ザ!長者番付」というサイトが見つかるくらいで、新聞発表になる各界の上位(100位以下でも)などのリストを見つけ出すことができない。無理してみたいわけでもないのだが、このエントリーを書くに当たって調べていたら、思いの外時間が経ってしまった。・・・・無駄な時間だ・・・・
一般的なサラリーマンの所得は、そのほとんどが一千万円以下で、当然のことながら、所得税は100万円以下だ。世の中が平等になるわけがないし、金持ちになる機会が全ての人に均等に与えられているというのも幻想に過ぎない。ただ、幻想であっても、これは結果論なので、多くの人に機会があることだけは確かだ。
業界別に発表されるのは、スポーツ選手、歌手、芸能人、文化人といった括りだが、これを見ると、スポーツ選手と芸能人、文化人のトップは2億円程度、歌手は3億円程度だ。漫画家や作家などは1億程度だ。
単純に書籍とCDを比較して、この格差がソフトの格差ではないかというのは邪推だろうか?・・・・買ってる人数の違いだけかも知れないが。宇多田ヒカルのベスト盤は250万部売れたそうだが、250万部売れる小説や漫画というのはそうあるものではないかも知れない。でも、だとすれば、CD1枚3000円というのはバカ高と言うことにならないだろうか?
私もわらしべ長者になるべく努力しているのだが、わらしべはわらしべのままなかなか変化しない。しかしわらしべ長者も歩き回って長者になった。要は足で稼げと言うことかも知れない。IT長者を目指して・・・・ちょっと違うな。性格的に合わない。長者ではなく、サラリーマン時代よりは少し上を行きたい物だ。・・・かなりかな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年5月 3日
置き石
このところネットのニュースを見ると、近畿圏で「置き石」が増えているのが解る。
あれだけの大惨事を見て、たとえ悪戯であれ、置き石をする人間がいるということが、あるいは今の日本を物語っているのかも知れない。もちろん、それは「今の」ではなく、これだけ沢山いる人間の、やむを得ない例外なのかも知れない。
イラクでは、何人死のうがテロが尽きない。最早人々を殺害することで何を達成したいのかも解らないほど犠牲者が出ている。60億以上の人間が、この大地にはひしめいている。
毎年5千万人以上が世界では死亡しているという。人口は増えているから、それ以上の子供が生まれていることになるわけだが、世界では、毎年人口の1割近い人間が入れ替わっている計算になる。
数字というのは冷たくて、統計的に見ると、107人の犠牲者も、今年の死者数のわずか0.0002%でしかない。
だが、その5千万人にも、107人にも同じように人生があり、貴重なはずだ。
置き石では電車が脱線することはほとんど無いという。しかし、物事には何事も例外があり、原因があって結果がある。一つの石が、またも多くの命を奪わないという保障はないのだ。なぜ、そんなことをするのかという感覚については、多くの人が理解できないことだろう。だが、少しでもそういうことが減るようにするためにはどうしたらいいのか、我々は常に考えていかねばいけないだろう。
何かのために、能動的に他者の死を求めることが、世界のあちこちである時代に、せめてその石を持たぬ軽挙が、人の命を奪うことがない世界を、作るための努力をたとえ意識の中だけでもまずは持って行くことが大切だと、改めて感じないわけにはいかない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月28日
古本
世の中には古着や古本、中古CDなど、ユーズドという商品がたくさん出回っている。
洋服や家具など、多くのものが問題ないが、書籍とCDや、ゲームといった著作権がらみの商品がよく問題になる。つまり、知的財産の二次使用ということだ。
現状を見てみれば、暗黙の内に中古市場というのは黙認されているという気がする。確かに、中古業者というのは、「人のふんどしで相撲を取って」いるようにい一見見えるが、実はこの人のふんどしで相撲を取るというのがすなわち流通業であり、売り手と買い手の仲を取り持って利益を上げるという、非常に合理的な商売なのだ。そして裏を返せば、制作されたものは何であれ、流通しなければ意味をなさない。流通業というものが存在しなければ、作り手は利益を上げることができないのだ。
しかし中古市場というのは実は、売り手側が「製作者」ではなく、そもそも「買い手」なのだ。しかしこの図式も昔から存在する。それは問屋だ。問屋はメーカーから商品を仕入れ、それを直接顧客に販売する店舗に販売することで利益を上げている。
一つ中古を取って、著作権侵害という表現はあたらない。それが著作物であろうと物であろうと、いや、著作物もそもそも物として市場に出回るのであり、コピーやレンタルと中古市場が違うのは、根源で物がやりとりされるということだ。意匠という意味では洋服も家具も、そこにデザインという無形の価値がある。それは言ってみれば小説だったり音楽だったりと同じものだ。身に纏えれば何でもいいわけではなく、それなりに好みのデザインを選ぶことは、好きな文章や音楽を選ぶのと何ら違いはない。
むしろ流通が採算面で失ってしまう、廃刊や廃盤のカバーをしてくれる非常にありがたい市場だ。
購入する側は、新品の洋服でないと嫌な人がいるように、新刊でないと嫌な人もいるが、中古で何ら問題はないと考える人もいる。私自身は、新品で揃えたいものと中古でいい物は何となく線引きがある。例えばCDであれば、アーティストに対するリスペクトが、新品を購入したいという気持ちにさせたりといったことだ。
たまたま今日、ブックオフで何冊か購入してきた。安く買えてありがたいが、なかなか掘り出し物があるというわけではないので、中古市場もある程度棲み分けはできているのだろう。
先日、インターネットで遠藤周作の書籍を購入した。初出で600円という箱入りの本だったが、900円だった。恐らく今新刊で出れば、同じ体裁で2000円程度はしそうな体裁だ。ネットはこういう使い方ができるのもありがたい。
おっと・・・・代金を振り込むのを忘れていた。払いに行かなくちゃ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年4月20日
電車内の化粧
都が市中の迷惑行為に関する対策の検討に入ったというニュースをやっていたが、その中で例としていくつか挙げられていたが、電車内の携帯電話と化粧というのがあった。
携帯電話はペースメーカーの問題などもあるようなので、単なる迷惑ではすまない意味を持っているが、個人的には、満員電車でもない限り、多少の会話は気にならない。着メロが大きな音で鳴ると気にはなるが、すぐに気づいて止めてくれればそれほど不快ではない。これは、乗客の車内での会話と同レベルであればという感じである。
携帯電話というツールができた以上、どこかでくぐり抜けるべき通過点で、闇雲に何でも仕方がないと言うつもりはないが、ある程度の過渡期を通して、いずれ普通の現象になっていくような気がする。あるいは、ヘッドホンタイプのアイテムが流行したりするのかも知れない。いずれにしても、酒を飲んで正体不明になっている人よりは圧倒的に迷惑ではない。
インタビューの中で、痴漢は迷惑だという女性の意見があったが、これは迷惑なのではなく犯罪なのだ。男であれば、多くの人が、痴漢をしたいというような犯罪的な動機ではなく、何らかの性的な欲求を社内で持つ可能性は無いわけではないと思うが、そこから能動的に行動を起こすかどうかが、常識と非常識を分けるのだ。階段を見上げて若い女性の下着が見えて不快に思う男はそれほどいないし、むしろ「ラッキー」と思うのがむしろ健全だと思うが、そのために何らかの努力をするのかしないのかが普通と普通でないを分けるのだ。常識的に言えば、目を逸らすくらいの意識があった方がいい。
もう一つ、歩きながら煙草を吸う女性という意見も気になった。確かに女性の喫煙率は増えているような気もしないでもないが、歩き煙草に関しては圧倒的に男の方が多い。そもそも迷惑かどうかには男女の差はあまりないはずで、政治家の発言だったらやり玉に挙がるだろうなと感じた。
さて、そんな中で、電車内の迷惑行為のベストファイブには入っていなかったが、なぜか例として上がる車内での化粧だが、これに関しては、当然レベルの差はあるが、どうしてそれほど不快に思う人がいるのかが解せない。
例えば、左右の人に腕がぶつかる、化粧水が飛ぶ、香水が霧散する等、何らかの被害が及ぶ限りに於いては極めて不快であろうが、その人がただ化粧をしていることに、周りが注目する必要がない。
実は私はちょっと誇張して書いているが、個人的な意識の上では、全く気にならないという前提での意見だが、化粧は家でするもの、あるいは人前でするものではないという価値観を否定するものではないが、価値観などというものはどんどん変遷していくものだ。もちろん、ではなぜ「化粧室」はトイレなのかという問題がある。つまりは、古今東西、女性の化粧は隠れてするものなのだ。なぜなら化けるためだからだ。
このことがオープンになったのは、言ってみれば化粧が社会的に認知されたからであり、女性は人前に出るときは化粧をするものだという暗黙の了解が、歴史の中で積み重ねられて定着しているからに他ならない。いわば、サラリーマンが会社でネクタイをしているというのと同質で、Tシャツで人前に出るホリエモンは、それだけで前時代の人たちからは「だらしなく」見えるのだ。同じように、電車内の化粧はやはり「だらしなく」見える。
だがだらしないことの本質はそんなところにはない。あるいは、だらしないという表現が意味することの全てが悪いわけでもない。だらしなさはリラックスにも繋がるので、家ではだらしなくしたい人もいるはずだ。
ちなみに、ニュースでやっていたメキシコの法律では、家の中でもむやみに裸になってはいけないと言うのがあるそうだ。
イスラム教の女性達が髪の毛を隠したり肌を隠したりするのを、日本人はどう見ているだろうか?
洋の東西様々なしきたりや決まり事がある。基本的には守るべきことがほとんどだが、それでさえも、歴史の中で変わっていくのだ。所詮、電車内の化粧などというものは、せいぜいそんなレベルのお話しで、時代が要請しなければ自ずと消えていくし、そうでなければ当たり前になる。単純に「化粧など自分の家でしてこい」という理屈は、どちらかと言えば自分自身が励行すべき、自分に対しては向けてもいいが、あまり他に対して言っても効力がない言葉のように感じる。
但し自分が女だったら電車内で化粧は極力しないだろうが。小心者だからな。
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2005年4月19日
だじゃれ
新しいローマ法王にドイツのラツィンガー枢機卿団長が決まったらしい。何度も書いているが、私はクリスチャンではないので、外野の人なのだが、新しく決まった法王は78歳だという。けっこうお年寄りなのだな、というのが印象だ。
法王を決めるのはConclaveという枢機卿会議での投票で決めるらしい。115人が投票して、三分の二の票を誰かが集めるまで、その会場から出られないので、鍵をかけるという意味のConclaveと呼ばれるらしい。
枢機卿自体が全員ではないにせよ、きっと老齢の方が多いのだろうから、なかなか大変な会議なのだろう。
実は私はカトリックとプロテスタントについてもよく分かっていないので、あくまでその上での感想だが、キリスト教ばかりでなく、多くの宗教は、時代とともに変遷し、様々なしきたりや伝統的な様式というのが積み重ねられてきているのだろう。どこでそうなったのか解らなくても、何かを決めるやりとりや、何かの役職に就くための条件などが、伝統という重しの下に決まるのだ。
創始者はどう思うのかな?と思うことがある。
イエスが神なのか人なのか、私には解らない。聖書を読んでいても解らない。この辺りは、成仏すれば仏様みたいな部分とちょっと似ているような気もするが、何であれ、十字架にかけられたイエスがその中心である宗教であれば、私はイエスはどう見ているのかな?ということを問いかけるのはいつでも意味のないことではないと思う。
ヨハネ・パウロ2世が亡くなって、あれだけの人がバチカンを訪れたのを観れば、人間も見捨てたものではないと、イエスは思うのかも知れない。でもイエスの父なる神はどう思うのだろうか?・・・この辺は三位一体で片付くのだな。
新しい法王が、また世界の人から好かれる法王であって欲しいものだ。
ところで、Conclave、「根比〜べ」に思えてしまうのは私だけだろうか?いや、不謹慎、不謹慎。でもそういう大変さは絶対あるはずだが・・・
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2005年4月14日
アンケート
世の中には様々なアンケートがある。
街頭で訊かれたりする場合もあるし、電話で訊かれたり、インターネットだったりと様々だが、別に誰が困るわけでもないから、いいかげんに答えてやろうか、と思ったりしても、意外にまともに答えている。きちんと考えて答えたりする。不思議なものだ。
ことさら、先方に気を遣っているわけでもないが、ある意味、自分というものに対するこだわりなのかも知れない。
そういう意味で言うと、世論調査というのは意外に信用できるのだ。もちろん、こういう時代なので、マスコミの報道や、いわゆる識者の意見に左右されるところは非常に大きいように思えるが、それでも非常に冷静で、的確な意見を反映していると思う。
郵政民営化も、議論をしろという意見が大半で、賛成とか反対とかいう次元で捉えることがまだ難しいという世の中の気持ちをよく表している。
個人的にもそれはよく分かるが、官から民へという動きの一つとしては、取り敢えずやってみればいいというのが私の意見だ。反対派の議員の多くは、その反対意見を聞いていても信用できないが、それはなぜなら、現状の郵政省から郵政公社に変わったことで、いろいろ膿が出始めている感じもするし、郵政はまず手始めなのであり、結果がどう出るかなんてやってみなければ解らない。
推進派の、こうなるというのと、反対派のこうなるというのは、いわば未来予測でどちらも証明は難しい。ならば取り敢えずやってみるにしくはない。
話が脱線したが、アンケートを答えていると、逆に自分の今が解ったりもするし、知らない情報も入ってくる。いつの間にかポイントが貯まっていたりと、案外美味しい結果が得られる。
だがこのアンケート、多くの専門業者があり、とても儲かる商売なのだな、というのが最も大きな印象だな。あるいはその点は踊らされているのかも知れない。
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2005年4月 9日
ポルノ
Yahoo!のニュースに、ジャッキー・チェンの息子が出演する映画の監督が、テーマはあくまで「純愛」で「ポルノ」じゃないと言っているという記事が載っていた。中国語で『三級片(ポルノ映画)』と出ていたが、どうもこの辺りは、中国では三流映画=ポルノ、あるいはその逆という見方があるからのようだ。
日本でポルノと言えば、懐かしい「日活ロマンポルノ」だが、そもそもこのポルノという言葉は、pornographieというフランス語で、いかにもと納得がいく。フランス映画と言えば、「エマニュエル夫人」や「O嬢の物語」など、エロティックな映画に事欠かないし、アポリネールなどの詩人もエロティックな小説を書いていたりしていて有名だ。イタリア人などはこの辺の作品に対して非常におおらかなイメージがあるし、フランスも、+エスプリみたいなところでクレイジー・ホースのような高級ストリップ(と言ったらフランス人に怒られるのかな?)が一つの文化となっている。
もちろん、裸とポルノは違う。だが、いわば裸婦の画からポルノに向かって、決して途切れることのないルートが通っていることもまた事実だ。
ある意味ポルノは、隠微で後ろめたさが同居しているからこそ、人々の興味をそそる側面がある。
性欲というのは、人間の三大欲の一つだというが、どう考えても睡眠と食欲とは意味が違う。この2つは断てば死に繋がるが、性欲だけは満たされなければ死ぬという類のものではない。とはいえ、その三つの中に入れられるというのは、それなりの意味があって、それはよく言われるように、種の保存則から来る、子孫を残したいという部分を指すのだろう。
だが現代人に於いて、性欲は決して種の保存のためではない。子をなしたいという欲求は、性欲とは別の次元の話だ。子供を作らないようにコンドームを付けてセックスするという行為には、種の保存などという学術的な意味など無い。これは象徴的なことで、現代人にとって、性欲は快楽と愛を満たす以外の行為ではない。場合によっては愛さえない場合もたくさんある。また、力の強い者、財力のある者、権威のある者が、一方的にそれを満たす行為となる場合も少なくない。
つまり、ポルノを三級に貶めることというのは、日常生活の中に織り込まれた、それらの、いわば不道徳な行為をどこかその作品に見るからに他ならない。だが同時に、そこには、単なる排斥以上の興味や、憧れが潜んでいる。
百科事典を見ると、マルキ・ド・サドの作品などがその嚆矢として挙げられていたりする。
ポルノというのは、かつては小説であり、絵画だったかもしれないが、写真が出、映画が出ることによって、その表現力は格段に広がり、同時に狭くなった。
日本は、世界に冠たるアダルトビデオ(今ではDVDか)の発巻数を誇っている。圧倒的な世界一らしい。アメリカをも凌ぐというところがすごい。何億円市場だか知らないが、相当な経済的地盤を持っているのだ。仮に、日本でポルノを全面的に禁止したとしたら、経済が破綻するのではないだろうか?
映画監督が、躍起になってポルノではないことを主張するのならば、恐らくポルノではない。それは、作曲家がこれは交響曲じゃなくて、管弦楽的愛憎だ、と名前を付ければ、そうなるのと同じだ。でも中身が変わるわけではない。また、ポルノであるというだけで作品的価値が低いと決めてしまう文化もどうかと思うが、実はさっきも少し書いたとおり、そんな文化の中でこそ、成長する分野なのかも知れない。
よくポルノに関して、普通にみんながしてることを書いている(演じている等)だけ何に、という人がいるが、決してそうじゃない。あらゆる文学や映像作品等が、実生活をある程度シミュレートした者だけではないように、およそ日常とはかけ離れたことや、実際には不可能なことも含むからこそ、ポルノグラフィなのであって、そこには別の世界がある。前出のサドの作品などいい例だ。
それでも人が人でいる限り決して無くならない分野であり、少なくとも男は、成長する過程で避けて通ることのできない分野であることもまた事実だ。徒に、悪いとか、劣っているとか決めつけるのは、いかにも・・・・な感じだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:21 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年4月 1日
愛知万博の弁当
愛知万博で手作り弁当が許可されたことが話題になっている。
私は万博自体にそれほど興味がなかったので、弁当も飲み物も持ち込み禁止だと言うことを聞いて驚いた。食中毒とか、テロとかの防止だそうだが、普通に考えても、そのうちの理由の多くは、別のところにありそうだという予想はつく。
恐らくディズニーランドなどを参考にしている部分もあるのだろう。だが、片やただのエンターテインメント産業で、普通の営利企業であり、万博は財団法人だが、結局のところ自治体の運営ということだろう。大分違う。
尤もそんなことよりも、10万人以上が入場するのに、食事をする場所は6千人しか収容できないことと、いかにも足元を見た料金設定であろう。単純に人数で割ると、16〜17回、最初の頃の15万人で計算すれば、25回入れ替えなければならない。最長時で9:00〜10:00の開場なので、30分から1時間交代で入ればいい計算だが、入場してすぐ食事をしたり、夜10時の直前まで食事をという人は少ないだろうから、混んでいる日はファーストフードを歩きながら食べるとかになるのだろうか?
それでも手作り弁当だけと、少しでも持ち込みを少なくしようとしているのは見え見えだ。
そもそも入場者数は予想を大きく下回っているのだから、当初の見込み利益から考えても、大分利益も下回っていると見るべきで、今回の措置はそれに拍車をかけるだろう。
万博の意義そのものには、私はそれほど否定的ではない。世界各国の協調が為されるのであれば、それもいい。ただ結局世界を見てみると、こういう場で自国をアピールはするが、他の場面では険悪な状況にあることもままあるだろう。環境保護とか、「愛」というテーマに掲げられた者の大きさに比べて、そのやり口は何かすごく俗な感じがしてしまう。
時には理想のみを追って、理想に協賛する人たちの手だけで、美しいものを作り上げると言ったことがもっと前面に出た博覧会でもいいような気もするが、歴史の中で、結局は博覧会と言っても、最大の目的が観光資源でしかないことはあまりに明白で、そして少し寂しい。
入場者数の多さよりも、掲げた理想の美しさ、大きさにこそその真価があるような博覧会に、最終的にはなることを今更だが願ってやまない。
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2005年3月28日
国旗掲揚・国歌斉唱
今日のNHKのクローズアップ・現代は、主題の内容を取り上げ、都の教育委員会が、校長を通して、現場の全ての教師に君が代斉唱の時に立ち上がって、国旗の方を向くと言ったことを業務命令として出したという。従わなかった者には罰則があるらしい。都内で50人だと言っていた。
この問題は毎年この時期に必ず浮上してくるし、いつだったかつい先頃、天皇が「強制はいけない」と言っていたのを思い出す。
都の教育長(こういう呼称ではなかったか?)は、指導要領や、正確に覚えていないが教育基本法かな、いずれにしても彼が言うところの法律で決まっているのだから当然だし、秩序の問題であるというようなことを言っていた。私はこういう人が教育の現場を取り仕切っている社会で、教育を受けたくないとその瞬間に思った。
私は別に日本の国旗としての日の丸も、君が代も嫌いではない。ことさら尊重もしていないが、現代社会に於いて日本人のアイデンティティーを象徴するモノとしての国旗や国歌はあってもいいし、それが現在の日の丸や君が代であっても一向に構わない。私自身は戦争を経験していないので、国歌や国旗が持つ過去の戦争との兼ね合いという問題に関しても、別に国旗や国歌が戦争を起こしたわけではないので頓着しない。
しかしことは、そう思う人もいるし、思想・信条の自由を奉じた憲法の下で、それが明らかに犯されていると感じる人たちがいることの方だ。儀式の秩序などというのは、所詮形式上のもので、生き方や信条に比べたら些細な問題だ。
私が生徒だったら、その行為にこそ反発して、自ら立たない立場を選んだかも知れない。こういう教育現場を預かる者のトップに立つ今回の教育長のような人は、いったいどんな青年時代を過ごしたのだろうかと不思議に思う。 現場の教師の、そして学生の反感を煽っているようにしか思えない。
愛国心という言葉がある。国に限らず、何かを愛するという心は長い歴史や実生活の中で、大切であり、それが人と人の関係を根本的にいい方向へ導く可能性のある何かだという風に共通認識があると思う。国を愛することもまた、その一つだ。
だが同時に、愛国心という言葉は、民族主義とか、宗教的信条とかと同様に、他を排斥しかねない危うさもそこに内包している。例えば北朝鮮が愛国と言ったらどういう意味になるだろう?戦前の日本の愛国心は、今の愛国心と同じだったろうか?
言ってみれば、国歌斉唱と国旗掲揚を強制されることは、この危うさをそこに感じると言うことなのだ。そして教師の多くがそれに反発しているとすれば、上に立つ人間がどう上手いことを言って逃げを打っても、そこに問題があることは間違いない。
法とか秩序という言葉で片づけようとするそういう人たちは、自らがそちら側に立ち、統制することで秩序を守ろうとする。これは独裁者や独裁国家のやっていることと根っこでは非常に似ている。
学校で長髪がいけないとか髪を染めてはいけないとかいうのは、それを「不良」という目で見る見識がそこにまずあることを、まず認めていかねばならない。校則を厳しくして生徒を統制しようというのは、結果的に学校が全ての生徒を枠にはめていくと言うことだ。例えば世の中で、芸能人や社会人が茶髪やロン毛であるとき、なぜ学生にはそれが許されないのかと言うことを、学生に納得させることが簡単にできるだろうか?なぜならそこには、秩序を守るとか、ルールだからという根本的な意味が含まれない言葉で説明されるからだ。
ルールは確かにある。そこには暗黙のものもある。幼いうち、若いうちは、それをどう判断すべきか解らないから、教えていかねば行けないという理由は確かに正論だ。だからといって、ルールだからという言葉が、誰をも納得させるわけではない。例えば茶髪はなぜいけないのかを、それがどうしてルールになり得たのかを説明しなくてはいけない。
同様に、なぜ卒業式では国旗を掲揚しなくてはならないのか、国歌を一律に歌わねばならないのか、そこには説明すべき義務がある。教育長はそんな説明をしていなかったし、恐らくできないだろう。したとしても納得いく説明ではないだろう。
どこの国だって・・・・と言うことがよく言われる。もちろん、多くの国家で、国旗や国歌に誇りを持ち、アイデンティティーの寄る辺として、心に住まわせている多くの国民がいるに違いない。だが日本は、先の大戦と、戦後の教育の中で、日の丸や君が代に対し、単純に誇りを持ったり、寄る辺としたりすることができなくなってしまった国家なのだ。
国会で国旗や国歌を決める前に、国歌(君が代)に対する誇りを持ったり、日本人としてのアイデンティティーを各人が確立できないような社会で、形だけ整えようとするのは、結局のところ権力者の横暴にしか見えない。
私はこれに反対する都の教職員には是非がんばって欲しい。教育委員会の横暴な仕儀に立ち向かい、そしてもう一度日本という国に対する自分のあり方を考え、自らの意志で国旗や国歌に誇りを持ったとき、それを若い人に伝えて欲しい。我々はいずれにしたって、世界のどこに行っても日本人なのだ。そのシンボルを持つことは決して悪くはない。だがそれは、国家や教育委員会が決めることではない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 21:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月27日
愛知万博
愛・地球博という名の、21世紀最初の万博が愛知で開催されている。マスコミも結構特集やニュースなどでアピールしている。せっかく始まったのだから繁盛して欲しいし、愛・地球博が訴える平和や環境問題へのテーマは、ステレオタイプだが、だからこそ重要で、実はもっとその辺りが強調されてもいいくらいだと思う。
開催3日間の入場者がおよそ15万人で、当初の予想45万人を大幅に下回ったそうだ。
どうして45万人という予測をしたのか解らないが、予測が甘かったというのと同時に、15万人でさえ、人気のパビリオンは長蛇の列で予約をしていないと何時間も待つという状況だという。これは、もし3倍の入場者であれば、3倍待つということで、別な意味の甘さがそこにあると言わねばならない。考えてみて欲しい。1日近く並んで、1つか2つのパビリオンしか見られないとしたら、何のために来たのかと入場者は思うだろう。しかし、45万人、予測通りに人が入るということは、言ってみればそういうことだ。
地球博の公式ページを見ると、これだけのイベントの割には、ホームページのできが悪い。それぞれのゾーンがどこにあるのか、せめてFLASHを使うなどして、視覚的に解るようにして欲しいし、それぞれの項目についても階層が深すぎて、何がどうなっているのか解らない。
会場マップを見て思うが、158haあるらしいので158万平方メートル、東京ドームにしたら40個分近い。相当に広い。あれだけ長時間並んだら、あまり多くは見られないし、その結果、入り口から遠いパビリオンはすごく不利な気がする。
70年の大阪万博は、時代がそういう時代だった。高度経済成長のまっただ中で、科学技術に大きな夢があり、その割に、現代と比べると娯楽は少なかった。小学生で、クラスの何人が海外旅行経験者だったろう?まだ1ドルは360円だった。
この時代において、万博だからと言って、それほどの動員を見込むのは大分甘いなと思う。月の石見たさに万博会場を訪れた昭和45年の小学生と、マンモスの骨見たさに長久手の会場を訪れる小学生の数は、やはり大きく違うに違いない。
それより私など、「長久手」という会場名の方にときめきを覚えてしまう。小牧・長久手の戦いという意味だが・・・
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月25日
竹島の問題
島根県が竹島の日を制定したことから、竹島ばかりでなく、日韓の間がぎくしゃくしている。
尤も、その多くは韓国側の強烈な反応とそれに伴う言動が中心だ。
私は日本人だし、日本で教育を受けてきた。しかも戦後の生まれで、戦争には、前の大戦も含めて基本的には反対の立場だ。すなわち、日本の植民地支配とかの経験もないし、恐らく気質も日本人的だ。それを前提で、思うことを書いてみたい。
今回の件で、いくつか資料を見たり、様々な人の意見を読んだりしてみたが、竹島が日本と韓国、どちらの領土かという問題は、私には分からない。1905年に島根県へ組み込まれたという時点で、確かに日本の領土だと主張する日本の方が、国際法上は当を得ているとは思う。だが、当時の日韓の関係から、韓国が領有を主張できなかったというのも、意見としては解らなくない。
ただ面白いのは、韓国は国を挙げてこのことを問題視し、例えばぺ・ヨンジュンの映画制作会見などでさえ、その意見を聞こうとする。そして、もし反対のことを言おうものなら、非国民扱いさえしかねない韓国の様相であり、各自治体がそれを契機に友好的な提携を破棄したり、大統領までがそれを追認する声明を発表する。これをして日本の侵略だと言い切ってしまう辺りがどうも解せない。
しかもこの問題はかねてより、国際司法裁判所に委ねたいという日本側の意向を、ずっと韓国が無視し続けている状況らしい。当然、この家は俺のだから、何で裁判の必要がある?という姿勢なのだろう。そういう意味では、客観的に見て、日本の方が大人の態度ではある。
しかも、竹島周辺の漁業に関しては現状は協同でという取り決めがありながら、実行支配している韓国軍によって、日本はそこで漁をすることができない等という話を聞けば、公園を牛耳るジャイアンに対し、のび太が自宅で、あの公園はぼくのだ宣言をしているように見える。日本の国旗を燃やしたり、指を切って血で抗議をしたり、韓国の様々な肉体的、感情的抗議が目立つ。
日本人はと言えば、首相の鷹揚とも無関心とも取れる態度が象徴するように、単なる島根県の問題、しかも漁業関係者のという雰囲気が強い。あるいは、中国や韓国の「植民地」とか「侵略」というキーワードによって、どことなく政治問題に対して及び腰で、あまり関わりたくないという国民の意識というのがどこかにあるような気もする。
この問題の落としどころは、いずれにしても日韓双方が領有を主張している以上、お互いがどんな根拠をもってそういっているにせよ、最早話し合いで決着が付かないのであれば、国際的な司法の手に委ねる以外に方法はない。韓国がそれを拒否するというのは国際社会の一員として、正しい態度ではない。確かに韓国側の司法に対する危惧も解らないではないが、司法の公平性を信じないのであれば、あるいはその判断を尊重できないのであれば、国際的な協調や協力関係が保てるはずもない。もちろん、どんな時代やどんな場合にも、完璧なものなどない。司法が絶対間違いを犯さない等という保障もない。しかし司法がいかに理不尽に見えても、そこで不正があるあるなら別だが、国内であれ国際的な問題であれ、そこを頼らざるを得ないこともあるのだ。
竹島の問題は、まさにその典型のような気がする。
のび太とジャイアンだって、しずかちゃん辺りが出てきて調停してくれた方が上手く収まったりするのだ。
北朝鮮はああいう国家だからやむを得ないとしても、韓国とは日本は仲良くできるはずだし、過去の歴史がどうあれ、これから先は仲良く、平和的にお互いのプラスになるような形で、あるいは両国にとって極力不幸でない妥協点を見つけることで、やっていけるように思うし、やっていった方がいいと思う。
こういう言い方は良くないかも知れないが、たかが島一つの問題で、国民全体が互いに反目するとしたら無意味なことだ。そしてそれはおまえらのせいだ、俺たちは悪くないという形で主張しあっても答えなど出てくるはずもない。それは、小さな個人から国家間の問題まで、基本的には同じだ。
先日アインシュタインについて書いたが、人類がこの地球を飛び出し、宇宙全体に行き渡るなどと言うSF的なお話しはないだろうし、仮にあったとしても遙かな未来だ。それが実現するためには平和な社会がある程度実現しなくてはいけないし、地球というこの一個の星の中で、様々な対立や、意見の食い違いを乗り越えていこうという意志を人類自身が持って行かなくては到底実現などおぼつかない。
個人的にはこうだ。竹島を日韓の友情の証として共有財産とし、漁業及び観光など、各方面で友好のシンボルとなるような形で位置づける。司法の判断などいらない。過去の不幸な出来事は出来事としても、未来はどうしていかなくては行けないのかを見ながら生きていくこと、そしてそこでは、マイナスではないプラスになる方法を常に模索していく、アジアの一地域からでも一つのそういうことができるのであれば、それは北方領土でも可能だろうし、尖閣諸島だってそうだ。
いったい、世界の国家は、国家という枠組みで、同業他社との争いをしている資本家みたいな競争を続けることが、国家の永久的な幸福に繋がると皆思っているのだろうか?だとしたら世界政府などと言う人類としてのまとまりなど夢のまた夢だ。寂しい限りではないか。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年3月24日
覚醒剤の密輸
中国から覚醒剤を密輸しようとして捕まった日本人が事実上の死刑を求刑されたという。日本では考えられない重い量刑だ。
しかしこれくらい重いと、殺人罪に等しいから、生半可なことでは犯そうと思わないかも知れない。
13キロという覚醒剤が、末端価格にしてどのくらいか解らないし、どれほどの人数が使えるのかも知らないが、かなりの量であるような気はする。1回の使用で数グラムしか使わないとすれば、相当数の人間が何回も使える量だ。あるいはこの中の何人かが、自殺するかも知れない。殺人を犯すこともあり得る。とすれば、逆に今回の死刑は妥当な求刑となる可能性もある。
悪意をもって人を殺せば、そしてそれが凶悪と判断されれば、国内でも死刑になる場合はある。ましてや求刑ベースならより多いに違いない。しかし、麻薬や覚醒剤を使用して、それが結果的に殺人に繋がった場合、それを売っている人間は、その殺人事件に関連して裁かれることはない。
売人側としては、刃物を売っても殺人事件とは関係ないという同じ理屈で、関係ないと思うかも知れない。しかしことは、薬を打って事件を起こした人間と、薬を売った人間の双方に等しくあると思う。今回の中国での件は、まさにそのことを強く主張しているように思う。
煙草でさえ、止めるのは大変なのだ。大麻や覚醒剤、ヘロイン等、法で禁じられているものの多くはそれ以上であることも予測が付く。そもそも、それを止められると思うほど意志が強ければ、最初に手を出さないだろう。
もちろん、薬をやった人間が全て事件を起こすわけではない。1回で止める人間も決していないはずはない。だが、自分がどちらの側に転ぶかなど、やる前には解らない。それほど人間は強くもないし、薬物の与える影響は強い。痛み止めを飲めば頭痛は治るし、傷薬を付ければ、自然より早く治癒をする。薬とは元々そういうものだ。
病気を治す薬だって、副作用はたくさんある。ましてや認可されていないのではなく禁止されている薬物であれば、尚更その効力や副作用、そして薬物の場合は依存性が高い訳だ。
人生を棒に振るレベルであれば、百歩譲って個人の勝手という理屈も、成り立たないわけではない。だが、その害が他に及ぶとすれば、それは看過されるべきではない。そして、その結果がより大きな事件や不幸に繋がるとすれば、極めて思い罰をその製造や流通に手を染める者に科すことも、決して間違ったことではない。
中国の量刑が最終的にどの程度になるのかは不明だが、それほどに重く見ることに、逆にことの重要さを再認識させられた思いがする。
投稿者 keisuke : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月22日
株主−経営者−従業員
ライブドアとフジサンケイの攻防が続いているが、こと株などの話になると、とんと弱い。
株式を上場するということは、株主を公募し、資金を調達することだから、当然株主の力は強い。株主総会で議決権のある株の50%を超える株を持てば、これまた当然、経営の実権を握れる。非常に明快な論理だ。
ホリエモンの言う、「誰が株主になるか解らないのが嫌なら上場しちゃだめ」というのも確かに当然だ。
会社の経営というのは、それが中小、しかも個人企業に近づけば近づくほど、社長の企業、あるいは近親、友人、創業者などの非常に限られた人物の資産となる。株主=経営者という図式は普通だ。少々大きな会社だってワンマン社長が切り盛りしている会社は少なくない。西武なんてその典型だったろう。
従業員は、役員=従業員でない限り、何らかの形で雇用されているわけで、その会社に入社する前に選択することはできても、入社後は重役会や、取締役会、そして株主総会の言うことを聞かねばならない。そのための対抗手段がこれまで労働組合だったのだろう。
ニッポン放送はライブドア傘下になった場合、労働組合を作るという。これまでは必要なかったのだろうか?
私が以前いた会社も労働組合はなかった。同族企業で創業者の関係者が、概ね実権を握っていたと思う。社員が不満を持っても(社員はどんな会社でも、多かれ少なかれ不満を持っているものだが)、経営者と意見が合わなければ、ほとんどそれが受け入れられることはない。
今日、テレビ朝日の古館のニュースで会社は誰のものかというアンケートで、社員のものだという意見が一番多いというのをやっていた。個人的な気持ちとしてはそうだが、世の中はそうなっていない。
資本主義が生まれ、これまで確かに成長してきたが、資本主義は結局、資本家が世の中を動かす仕組みなのだ。人間という生き物の性向は、結局社会主義や共産主義には向かないというのが20世紀の東側諸国の結論であり、現在でもなおこれらの国家体制を持っている国がどんどん少なくなっていることを見ても解る。
人間のヒエラルキー指向は、どこかで頂点に立つ人間を設定することでしか世の中を動かしていけない。であれば、ただ一人、あるいはただ一つの機関だけを頂点に持つのではなく、数多い頂点をもって競い合う方を選ばざるを得ないというのが今の世の中だ。
株式というのは、小さな力でもその企業に対して少なからぬ影響を持つことができる制度だから、本質的にはごく限られた企業なり個人が、過半数の株を所有するというのは、言ってみれば自民党政治みたいなものなのだ。牛耳るというのはいつの世であっても、一面的だし、好ましくはない。
ホリエモンが友好的提携などという白々しいことをいうのは、過半数を取るなどという目標自体を持たない場合にのみ有効な表現だし、もちろんそれに対する防衛だとはいえ、放送法というものに縛られながら、裏を返せばその温床の中でぬくぬくとしてきた業界が、外敵に対する態度は、まさに現在の行政や特殊法人の様子を見ているようで応援したくなくなる。
インターネット万能論みたいな言い方をしたり、攻撃的な表現を使うことが、ライブドアの戦略だとしても、インターネットはまだ萌芽でしかないし、あらゆるメディアを飲み込むほど強烈でもない。なぜならこれは、あらゆる人間がメディアになる可能性を秘めることで、結局はメディアの意味を喪失させてしまうからだ。
例えば、文章を書ければ誰でも作家になれるのかと言えばそうではない。インタラクティブなメディアミックスとしてのインターネットの役割は大きな可能性だが、メディアの本質と、そこに依るプロフェッショナルな部分はどんな形であれ残る。
もちろん、これまでの発言からジャーナリズムの側が、ホリエモンが言った以上のことを引き出して過剰に反応している側面はある。しかし、時には過去と決別するために、あるいは新たな価値を生み出すために、多少過激な言葉は必要だ。この新旧のせめぎ合いはどんな時代のどんな分野にもあることだから、今回の問題が、それであるなら、大いに歓迎すべきことかも知れない。
しかし、前述したように、50%を超える株の取得という形で、実質的な買収−これをM&Aと言うのかも知れないが−を今回のような形で行うことが、それでは新しい価値を生むのかというと、実は私はそうは思っていない。
株主−経営者−従業員と書いたが、そこに−社会というのを付けて、この四者のバランスが大切な気がする。バランスというのは拮抗していればいいということではない。それぞれがいい関係でバランスが取れる力関係を保てるようにいることがベストで、それを目指した方がいいと思っている。
2600年昔、釈尊は覚りを開いた直後に中道を説いた。物事は何事も極端に走るべからず。これは単純に真ん中を行けというのではなく、極端に依らずと言うことが大切で、今回の騒ぎを見ながらふと感じた次第。経済は疎いが、所詮は人間関係に他ならない。そこで働くのが人間である限り。
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2005年3月17日
お葬式で流したい曲
標題のようなタイトルのニュースが載っていた。
<お葬式で流したい曲ベスト10/UK版>
1.ロビー・ウィリアムス「Angels」
2.フランク・シナトラ「My Way」
3.モンティ・パイソン「Always Look On The Bright Side Of Love」
4.レッド・ツェッペリン「Stairway To Heaven」
5.クィーン「Who Wants To Live Forever」
6.グリーン・デイ「Good Riddance (Time Of Your Life)」
7.R.E.M.「Everybody Knows」
8.オアシス「Live Forever」
9.ベット・ミドラー「Wind Beneath My Wings」
10.ロイヤル・スコットランド騎馬隊「Amazing Grace」
<お葬式で流したい曲ベスト10/ヨーロッパ版>
1.クィーン「The Show Must Go On」
2.レッド・ツェッペリン「Stairway To Heaven」
3.AC/DC「Highway To Hell」
4.フランク・シナトラ「My Way」
5.モーツァルト「鎮魂歌」
6.ロビー・ウィリアムス「Angels」
7.クィーン「Who Wnats To Live Forever」
8.ザ・ビートルズ「Let It Be」
9.メタリカ「Nothing Else Matters」
10.U2「With Or Without You」
4曲だダブっているのが面白いが、それよりも、AC/DCとかメタリカとかheavy metalが入っているのがすごい。ヴェルディのレクイエムから「怒りの日」を流してくれみたいな感じだ。
個人的には、自分の葬式自体がどうでもいいので、この曲を流して欲しいというのはないが、敢えて仮想で選ぶとしたら、やはりマーラーの「復活」かな?でもこれもあまり葬儀に相応しそうな感じはしないので、そうすると、Rainbowの「Catch the rainbow」辺りかな。どっちにしたって、天国への階段とか、マイウエイはないな。
R.シュトラウスの「メタモルフォーゼン」なんかもいいな。
いずれにしたって、自分が生前好きだった曲と言うことになるのだろうが、その自分は棺桶の中で聴けるわけもないから、どちらかというと、喪主の好きな音楽とかでいいような気がする。
昔から思っているし、今も思っているが、葬儀というのは所詮、生きている者が死んだ者に決別する儀式であり、あくまで、生き残った人間のために行うものである。死者の魂とか、死後の世界がないとは言わないが、あるとも思っていない。死んだことがないから解らないし、死んでしまっては証明のしようもない。「箱の中身はリンゴです」と言って、見ないであたりましたと言われても、信じられるだろうか?という世界だ。と言って、では多くの人や歴史、宗教がその存在を肯定していることも否定しきれるだけの根拠はない。箱の中身を見ないで、「この中にリンゴはない」と断言する勇気はない。
ただそれでも、葬式で流したい曲というこのと背景にはそこで何が聴きたいか、という多分に聴く側の意志が関わっているので、もちろん、「死後も堂々と生きて欲しいからMY way」なんていう死者への手向けという部分も含めて、やはり個人の好きな曲の域は出ないように思う。
それでも面白いのは、「My way」なんて結婚式でも歌われる歌だ。儀式というのは、それがたとえ死に関わることでも、その先の明るい何か(死者は死者として)を期待するものなのだな、と思う。
音楽というのは不思議なもので、その場の雰囲気を有る特定の方向に向けてくれる。それがどんなに楽しくて明るい曲でも、生前故人が好んだという台詞を聞かされると、しんみりした気分になるから不思議だ。ただ言葉で聞くのではなく、その曲が相乗効果を持ってくれる。
死そのものは、生を受けたからには誰にも等しく訪れる。だが訪れ方やその時期は全く公平でも平等でもない。死自体は不幸なことでも忌むべき事でもない。それはどんなに嫌がってもいずれは来ることだからだ。そういう意味では、有る程度の寿命と、老衰などの静かな死を迎えた場合は、お祝いをしてもいいくらいだ。
MY wayという曲は確かに、そういう場合でもしっくり来るのかも知れない。個人的には絶対嫌だが。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:47 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月14日
受信料不払い増加に関して
2月時点で56万件に増えたNHKの受信料不払いの問題がニュースに出ていた。
ふと思ったが、受信料で運営しなくてはならない放送局が今後必要だろうか?それこそ、livedoorとフジ、ニッポン放送ではないが、様々なメディアのコンプレックスが、情報を縦横無尽に配信していくことができれば、公共放送の必要性など無くなるのではないだろ日?
あるいは、極端なことを言えば、災害情報などの一刻を争うものだけでいいのではないだろうか。学習番組や、古典芸能、歴史などの番組はケーブルテレビのように有料契約番組にすればいいだろう。
広く全ての家庭から集めるにしては、それほど汎用的な番組構成になっていないし、もちろん、それなりに面白い番組もないではないが、わざわざお金を払ってまで作って欲しくないというのが、単純に不正に対する抗議というよりは、NHK不要論に近い社会の反応なのではないだろうか?
別にそのまま放送局をつぶす必要はない。そのまま民営化し、CMを流してその収入で番組を作っていけばいいだけの話だ。郵政まで民営化しようというのだから、それよりは難しくないだろう。
必要であれば、1チャンネルを国用にシェアして、税金で番組を作ればいい。例えば選挙の時の政見放送や国会中継などだ。ただ国会中継などは、全ての小委員会も含めて、全てネットで公開してもいいとすら思う。そうすれば、別にテレビ中継の必要はない。
選挙だって、全てネットで立候補者を紹介し、街角のポスターなど全て止め、政見放送もネット限定にすれば、選挙も大分お金がかからなくなるし、現在よりも公平性は保てるような気がする。
地盤とか、選挙区への利益誘導という仕組みをなくすためにも、少なくとも国会議員は国全体を見るのだという意識で、全員全国区にして、訳の分からない比例代表などという、恣意的に政党が自分たちで選出した議員をなし崩しで当選させるような醜い仕組みは止めて、投票数の上位から順番に当選させればいい。
選挙の話は置いておいても、NHKの国民放送局としての役割は、今やそれほど重要ではない。上記の選挙で浮くお金で、全国の至る所でインターネットに接続できる環境を作り、各家庭に最低1回線のネット環境作りでもしておいた方がいい。
災害時にも役に立つように、ネット回線を利用した緊急事態を知らせる仕組みや、優先だけに限らない無線による緊急接続ができる仕組みなどを開発していった方がいい。
そのために衛星が必要なら10個くらい打ち上げればいいのだ。
NHKの受信料など、結果的にはそういった先進の技術の前には無用のお金だ。NHKがなくても報道はされる。テレビ局はNHKだけではない。
NHKしか受信できないところがあるのであれば、そうでない環境を国や自治体が作るようにすればよい。そういう公共事業は、四国にたくさん橋を架けるよりも重要だ。
光ファイバー網を全課程に普及させ、無料で接続できるような環境作りを、国はしていくべきだ。そのことが生む大きな利益と、様々な無駄の排除で、その分のお金は出るはずだ。
前出の選挙などいい例で、「選挙は金がかかる」というのなら、金がかからないような工夫をすればよい。選挙権を得てから25年、この間に様々納技術革新があったが、相変わらず選挙活動は、ポスターを貼り、選挙カーで名前を連呼し、駅前であまり聞いていない演説をする。そんなことでお金がかかるのなら、さっさと止めてしまえばいい。選挙事務所もいらない。
郵政の民営化結構、社旗保険庁の民営化も結構、ついでにNHKも解体し民営化すればいい。政治家も減らし、お金を別のところにつぎ込んでいくべきだ。
NHKの不払い問題はとてもいいきっかけではないのか?
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月10日
行為の評価
自民党のなかにしという議員が強制わいせつで現行犯逮捕され、議員を辞職するという。
そもそも全くよろしくない犯罪だし、しかも言い訳として行っている「客引きと思った」という一言が、尚更女性の神経を逆なでしている。政治家をやるにしては不用意な行動と不用意な発言で、それこそが資質を否定していると言える。
ただ、世間の反応というのはいつでも「鬼の首を取った」ようなマスコミの反応とオーヴァーラップしながら、妙な違和感を感じさせる。今回の件はただの犯罪だし、自分がその女性の立場だったら、当然、極めて不快だと思うから、同情の余地はない。そして政治家だからこそ、より強く糾弾されるというのもまた解らないではない。
これは、先日もちょっと書いた、ダルビッシュの喫煙と、程度こそ違うが、なにか自分のことはさておいて感がなぜか漂う。多分それは、マスコミの論調や、攻撃姿勢で感じるのだと思う。
そのダルビッシュもお詫び会見を開き、酒、煙草、暴力というどうもバランスの悪い例を挙げて、二度と法は犯さないようなことを言っていたように思う。酒・煙草と暴力では、犯罪のレベルも違う資質も違う。個人的な見解を述べるなら、おとなしく自宅で煙草を吸っている未成年よりも、そこかしこで構わず煙草を吸う大人の方がより犯罪的である。和やかに居酒屋で談笑する未成年より、くだを巻いて女性に抱きつく大人の方がよりタチが悪い。ましてや暴力など・・・・人を力で屈服させるというのは、最大の先進国が現在もなお他国の領土でやっていることだが、個人から国家のどのレベルであろうと、所詮は暴力に違いない。
フジとニッポン放送のやり方は、私には正当防衛だとしても釈然としない部分はある。だが同様に、livedoorのやり口も釈然としない。堀江氏の下で働いて無くて良かったな、と個人的には思う。と言って、どう見てもフジサンケイグループも、上層部の体質は古く、そして日本的だ。日本的の全てが悪いわけではないが、結果的にドンキホーテの納入業者への圧力に公正取引委員会が排除勧告したのと似た、TOBの慣習的株集めの臭いがしている。
何かを評価するというのは非常に難しく、ましてや批判するというのはもっと難しい。変な話、現行犯逮捕された中西議員の影で、全く逮捕されない酔っぱらいが日本には大量にいることを忘れてはならないと言うことだ。痴漢を含めたらどのくらいになるのだろう。これは婦女暴行より軽いからいいというものではない。
ダルビッシュの影に、数え切れない未成年が現在でも飲酒や喫煙をやっているし、そもそも既に二十歳を超えた大人の中でさえ、飲酒や喫煙を未成年から経験した人間は大量にいる。
法は法だが、意味の分かる法と意味の分からない法、あるいは時代に即していない法があるとすれば、法という物の価値はいったいどこにあるのだろう?
私は、この世が平和になる最大の方法は各人が取り敢えず他人のことをまず考える、多を尊重するという事を、全ての人が行うことであると思っている。ひいては自分を他人が尊重すると言うことだ。「情けは人のためならず」という。
夢物語と笑わば笑え、と言ったところだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月 8日
カラスとかハトとか
しばらく前に、都がハトにえさをやらないキャンペーンを始めた。ハトが増えすぎて、駅の近くとか公園などがある近くでは、被害が相当ひどいらしい。ただ糞が汚いという以上に、乾いた糞が人体にも影響を及ぼすらしい。
カラスは大分前からゴミをあさるし、雛が成長する時期は人を襲ったりと、被害は大きかった。私のところでも、ゴミにはネットをかぶせている。
杉並区の一部で、青だったかのゴミ袋をカラス対策でテストしているところがあるというのもニュースで見た。カラスに見えないのだそうだ。
カラスが利口だとか、猿は利口だとか、鯨は知能が有るだとか、人は多くの場合、脳の大きさや能力で生物を判断する。カラスを処分したり、猿を薬殺したりというのは、よっぽど困ったとき以外にはやらない。ハトも例外ではなく、増えすぎたものは餌をやらずに自然にヘルのを待つというのが方針だ。
私はよく思うのだが、この自然という切り口は果たして自然なのだろうか?確かに自然と人工という言葉が対であるなら、人が関わらないものを自然と呼ぶのもいいかもしれないが、そもそも、例えば上野公園ではとが増えたと言うことを考えてみて、それが人が餌をやったせいだとしても、あまりそれが人工的には思えない。たまたま人の手が関与しているだけで、自然の成り行きのように見える。
前にも書いたが、地球上で人に進化した生物は、やはり自然の成り行きなので、その結果文明を生んだ。昔のSFなどのように、このまま核戦争か何かで人が滅んでも、それこそ自然の成り行きというものだ。個人個人にとっては違うが、大局的に見ると、悠久の流れみたいなものがそこに見える。
諸行は無常で終わりのないものはない。人類がどんなにがんばったって、地球が無くなれば、この星にはいられないし、そこまで長大な未来を見なくても、この先何千年もつのか解りもしない。
それでも人の一生は短いので、カラスやハトの被害が当面の解決すべき出来事であり、明日の食事が大切だ。一生を金儲けやセックスや、その他諸々の享楽や欲望のために生きるのも、人様のために銃弾の盾となって息絶える諜報機関の人間も実はそれほど違いがない。
それであれば、後者の行き方を尊ぶ世界であって欲しいし、自らも命を張るかどうかは別にして、そうありたいと思う。
カラスやハトの被害を、殺さずに自然の流れに乗せようというのは、いわば、力で世界をどうこうしようと言うのとは全く違った行き方である。身近な、こんな些細なことの中に、実は政治と宗教、様々な社会の進むべき道が見えてこないだろうか?
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:31 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年3月 3日
メール便とか
メール便は、最近ではコンビニでも扱っているので、一般の人も利用できるようになった。ものによっては郵便よりも安い。
元々DMやカタログなどを企業が大量に発送し、それをポスティングするシステムであるから、個人的な用途には馴染まない性格のものではある。しかしこれはそもそも、「親書」という宅配便が扱えないもの以外を宅配便業者が扱うためのシステムだ。
だがなぜ国は、親書−手紙を郵政公社だけの専有にしているのだろう?裏を返せば、なぜ郵政公社のみが、安心して手紙を届けるという保障を、国が認めているのだろう。年賀状をまとめて捨てたりしているのは、その郵政公社の雇ったアルバイトだったりする。
ところが面白いのは、このメール便、ほぼどこの業者でも厚さ2センチ以内という制限が付く。この共通した仕様は、当然の事ながら法的規制がそこにあることを表しているのだと思う。その辺りを調べたいと思って、「メール便」とか「規制」とか、「法律」とかのキーワードで検索すると、「特定商取引法による表示」という、各ネットショップのページがだーっと並ぶ。
ちょっと話がずれるが、最近のネットは知りたいことを調べようとしたときに、Amazonや楽天などのショップのページが大量に並ぶ。別に買い物がしたい訳じゃない。Yahoo!もGoogleも、検索結果から「ショップを除く」というオプションを作って欲しい。煩わしくて仕方がない。ユーザビリティというのは目的に沿った検索ができるかであって、SEOなどによって商売する側が意図的に上位を狙うような表示方法ではないはずだ。はっきり言って、インターネットの世界は非常にエコノミック・アニマル(懐かしい表現だ)化している。検索エンジンが1日も早く、and検索だけではなく、not検索を標準で、しかも上記にあるように「ショップは除く」「企業は除く」「アダルトサイトは除く」などのオプションを設けて欲しいものだ。
さてメール便。何度考えても、手紙を宅配業者が送ってはならないという決まりの意味が解らない。仮に郵便局の方が安全だとしても、どこを使って送るかは、利用者が決めることができていいだろう。現にインターネットメールなど、郵便局は関与していないし。
また、どのような大きさの荷物を送るかなど、国が規制すべきではないだろう。何を送るかは問題がたくさんあるが、メール便で2センチを超えても送りたいものはたくさんある。別に、郵便局がいらないなんて思っていないが、選べてもいいだろうし、郵便事業に関する限り、一般の人の認識は、手紙や荷物を送るサービスとしか考えていない。
郵政民営化がいつ実現するのか知らないが、その時でも親書は郵政株式会社が握るのであれば、民営化などではない。メール便は取りに来てくれる。
郵政株式会社が、税金をまともに払い、今のがんがんやっている民間並みのサービス化が維持できるのであればいいが、半分以上の株を保有する国が税金をつぎ込んだりするのであれば、あまり意味はない。
世の中が良くなるのなら何でも賛成だが、現状の小さな不具合にもどんどんメスを入れてくれ、といった感じだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月22日
通信料金の仕組み
通信料金というのは、いったい何を基準にして決まるのだろう?
例えば電話。
マイラインの誕生後、市内通話はだいたい3分7円から9円の間くらいだ。昔のNTT時代は3分10円という時代が長かった。携帯は1分20円前後だろうか?国際電話になると、1分50円くらいから500円近くかかるところもある。
さて、この料金差はどこで発生するのだろうか?
既に国内は電線が敷設され、海外とも海底などでケーブルが繋がっている。メンテナンスはかかるだろうが、これまでかかった投資を回収しながら利益を上げていくとしても、1分3円と500円の差は170倍近い。
さて、ネット電話というのがある。インターネット回線は、例えば、世界中どこのサイトを閲覧しても同料金だ。最近では1ヶ月つなぎ放題のADSLでは、安いものは2千円しないのではないか。光でも月にどんなに高くても1万円、1日2時間インターネットをするとして、1ヶ月60時間3,600分。光で3円弱。1日6時間使えば1分1円を切る。
私は24時間繋ぎっぱなしなので、計算すると13〜14銭/分だ。
早晩、全ての通信はこの方式に変わるだろう。携帯も、最寄りの中継所から、ネットに入ってしまえばいいように思うのだが。
そういえば、パケット代というやり方で携帯はネットを利用する。ドコモでは1パケット0.3円だという。これがくせ者で、例えば着メロや、着うたなど最近流行のデータは、場合によってメガ単位でかかるものもある。0.3円の上限は5キロバイトだそうなので、仮に1メガのデータをやりとりしたとすると、1MB≒1,000KBで計算すると、60円かかる。実際には、メールや添付ファイル、着メロ程度であれば、大きくても数十キロだろうから、数円というオーダーのはずなのだが、意外にかかるのだこれが。
最近では定額制がはやり、かつてのダイアルアップ時代のインターネットを思い起こさせる。
通信というものは、これからの時代、全世界を相手に、いつでも自由に繋がることが要求されるようになっていくだろう。であれば、通信料金の本当の改革こそが、世界を縮めていくことになるし、それは、お金を気にしないで、ダウンロードや通話が、いつでも楽しめるという風にならないとだめだろう。
まだ少し時間がかかりそうだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月19日
回送電車
回送電車はどうして走っているのだろう。確かに、我々の知らない理由で、走らせなければならない場合もあることは想像がつく。
だがそれにしても、普通の線路を普通の顔をして走っている回送電車を見ると、しかも普通に駅でしばらく停車をしているのを見ると、おいおい、ドアを開けて乗せてくれよ。と言いたくなる。特に忙しいときなどは尚更だ。
前に説明責任という話をどこかで書いたと記憶しているが、そこまでではなくとも、もやもやした気分をどうにかするためだけにでも、取り敢えずどうして回送電車は回送なのかを、ホームページでも駅の広告でもいいから説明して欲しいものだ。
これは多分だが、中央線の快速は、土日と祝日は高円寺、阿佐谷、西荻窪に停車しない。毎日停車しないのなら、それはそれで大久保や東中野のように、諦めもつくだろう。私が利用する荻窪は、なぜか停車する。これは何となく、通勤快速という電車の停車駅と似ているので、そういうことかも知れない。
新宿に近いというなら、西荻は荻窪よりも遠い。
同じような理由で、特快はなぜ吉祥寺ではなく見たかに停車するのか?これも疑問だ。単純に駅が広くてホームの数が多いからとは言い難い。もちろん、そういう理由から、総武線の快速の終点が三鷹であり、それとの乗り継ぎがあるということで三鷹なのかも知れない。
しかし乗降客は圧倒的に、吉祥寺が多いはずだ。街もずっと大きい。
さて、中央線の疑問ついでだが、なぜ中央線と総武線の各駅停車は、お茶の水だけが同じホームで乗り換えができるようになっているのだろう?三鷹は始発駅と言うこともあり、一つのホームを総武線のみが利用しているから、意味も分かる。しかし、吉祥寺からお茶の水までの快速停車駅、「吉祥寺」「西荻窪」「荻窪」「阿佐谷」「高円寺」「中野」「新宿」「四谷」は、全て一つのホームを中央線、総武線のそれぞれの上り下りが使用している。
例えば、三鷹から水道橋へ行きたい人は、四谷で快速を降り、階段を上り下りして、総武線ホームに行って乗り換えなくてはならない。運動不足解消のために素晴らしい階段の運動、なんていう問題じゃない。上り電車に乗っていた人が、下りに乗り換える例もない訳じゃない。だが希だ。
非常に合理的とは言いがたい。
新宿駅などは、上りの総武線の反対側ホームは内回りの山手線だ。もちろん、東中野から渋谷へ行く人は便利だが、それ以上じゃない。
中央線のホームは下りが10番線。この反対ホームである11番線も下り電車が時折利用している。新宿折り返しの特快とか、中央ライナーという、国分寺だか立川までノンストップの列車だ。
どちらも下りだからまとめているというかも知れないが、非常に利用頻度は低い。まして、夜など、ライナー待ちの乗客と、快速待ちの乗客でホームがごった返し、大変なことになっていることもある。ホームが満員電車のようだ。
最近新宿駅は改装をして、快速上りのホームなどが変わった。
しかしそれ以外はずっと昔から同じだ。
地下鉄をどこから入れるかなどという疑問で一世を風靡した春日三球だが、実際に考えてみると、地下鉄をどこから入れたかなどはたいした疑問じゃない。そんなことよりも、回送電車がなぜあんなにたくさん存在するのかとか、なぜも少し乗り換えのしやすい駅になっていないのかとか、そちらの方が大変疑問だ。
もちろんそれでも眠れるが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月18日
テレビで集団強盗告白
日テレの「カミングダウト」なる番組で、集団で窃盗をしていたと告白したことが問題になっている。本当ならば(本当だと番組で認めているわけだが)、ただの犯罪である。
ニュースでは、未成年だからか名前は伏せてある。しかし、そもそも芸能人で、しかもテレビで発言した内容に対して、今更名前を伏せるのはどうなのだろう。ここでも敢えて名前は書かないが(そんなことが趣旨ではないので)、あまり意味のあることだとは思えない。
事務所は小学生の頃だと言っているようだが、実際に番組の録画を見ると、とうていそうとは思えない。ついこの間のことのような話しぶりだ。
番組では、店へのお詫びと、万引きは犯罪である胸がテロップで流れたようだが、問題は、若気の至りで行った犯罪故、そしてたかが万引きであるから、というような、非常に軽い気持ちがスタッフに見えることだ。
そもそも話の内容を聞けば、万引きですらなく、普通かそれ以上の窃盗である。万引きというのは店内で店員の目を盗んで商品を盗む行為だが、倉庫に忍び込んで段ボールごと盗むのは「万引き」ではないだろう。
尤も、私個人としては、窃盗であるか万引きであるかで罪の軽重を問うべきではないと思っている。
かつてレコード店で10年ほど勤めた経験があり、万引きの悔しさは骨の髄までしみて解っている。取られれば悔しいし、万引き防止装置の誤動作などで、丁重に問いかけてみても、思い切り切れられたりすると、立つ瀬がない。たとえ何年経とうが、当の犯人が、思い出話のように笑って済まされることではない。
そして社会の認識も、「いい年して万引き」とか、「恥ずかしい」とか、「万引きくらいならともかく」とか、異様に甘い。それは確かに、殺人と万引きのどちらが重いかと問われれば、そもそも質問の意図そのものに間違いがあると言わざるを得ない。だが、万引きとスリ、窃盗はどのように違うかといった問題は、そもそも当に値しない。なぜならそれは一つの犯罪だからだ。
そういう意味では今回の件も、私は「万引きではなく窃盗」と書いたが、それは世間的な罪名の認知という意味であって、罪の重さには代わりはない。
まして、罪の意識も余り無く、テレビでそれを暴露して笑いのネタにするなどは論外だ。
それが原因かどうかは別として、その会社は倒産したという。
それがどんなタレントであろうが、倒産の事実にかかわらず、自らしたことを、もっと重く捉えるべきだ。そして周りも、そのことを聞いた時点で、そのことを知らしめるべきだし、そのような認識であって欲しい。
多く人は、被害者の立場に立ってみないとなかなか事の本質が見えてこないことがある。まさにこれはそういう一件であるし、殺人事件の被害者の集まりなどが、国や行政、司法相手にいくら訴えたところで、なかなか解ってもらえない事実の一端がここにはある。
憂うべき事ではあるが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月16日
地震
今朝早くに地震があった。私はまだ起きていた。・・・もうではない。びっくりした。
いつになく大きな地震で、初めて棚から物が落ちてきた。確かに乱雑に乗せていたし、落ちてきたのは空箱だったりしたが、記憶にあるうちでは、棚から物が落ちる地震というのは覚えがない。
テレビをすぐ付けた。NHKは地震速報を流していたが、他のチャンネルはスポーツニュースなどをのんびりやっていた。その程度の地震ではあった。ただ、震源に近いところでは、そうでもなかったようだ。
震度3。それが画面に出た数字だった。
おいおい、これで震度3かよ。じゃあ、この間の震度6っていう新潟の地震はどれくらい揺れるんだ?というのが最初の感想だった。
しかし、体感する震度3は、これまでもあったはずだが、昨日のはでかかった。それでも3だ。震度4でも結構怖いな。
東海や、関東当たりに地震がくるくると言われていたのは、私が子供の頃からだ。「地震列島」や、「日本沈没」という映画は70年代の作品だ。その後、大きな地震は起きていない。
阪神・淡路大震災を始め、十勝沖や宮城沖、鳥取、今度の新潟など、関東以外では、この数十年間に大きな地震がいくつも起きている。そもそも日本は、火山列島であり、太平洋プレートが沈み込む、まさにその場所に位置している。
世界的に見れば、トルコなどは年中大きな地震が起きている気がするし、元々地球は活発に動いているから、本当に大きな地震がいつ起きても不思議ではないのだ。
地震はまさに唐突で、その唐突さも恐ろしさの一つだ。昨日はまさにそれを実感した。「あ、地震だ」と思うのはさほどではない。そこから徐々に揺れが大きくなり、あれれ・・・と思っていると、隣の部屋から物が落ちた音がした。震度6とか7が来たら死んじゃいそうだと本気で思った。
と言って、何ができるわけでも、何をするわけでもない。
なんかこういう、大自然の不思議の上に生きているのだな、という実感があった地震だった。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月14日
オン・デマンド
私が加入しているケーブルテレビでは、デジタルサービスに加入すると、「オン・デマンド」サービスが受けられる。これは、映画などのコンテンツを、見たいときに見たいものを購入してみることができるサービスだ。
光ケーブルを利用したネットサービス会社でも同じようなサービスが始まっている。
簡単に言うと、自宅にいながらソフトのレンタルができるというようなサービスだ。
人間がますます無精になるサービスだと見る向きもあるかも知れない。しかし、やがては、エンターテインメントの多くが、回線を通じて自宅で手に入る時代はそこまで来ているという感を強くする。現在は、ケーブルであれば、数十MB、光なら100MB/SECのサービスだが、ギガバイトやテラバイトのサービスも、そう遠くない時期に実現するに違いない。
さて、このオン・デマンドサービスだが、私自身は加入しているわけではない。デジタルサービスに加入しても、今以上にチャンネルが増えたとして、見るかどうかとなると疑問だからだ。
また、購入したからと言って、その日に見るかというと、私の場合は至って疑問で、例えばレンタルビデオであれば、録画してコレクションにして後で見る事が意外と多い。そうなると、借りたはいいけど見ないで返すレンタルビデオみたいに無駄なことになりかねない。なぜなら、コピーできないからだ。
著作権の問題は重要だが、こういう部分はどうも判然としない。そもそもレンタルビデオで、1本300円から500円で見られるものが、市販では1000円から5000円くらいするわけで、最大10倍近い価格差がある。これは、レンタルが、見たら返すという前提で、もう1回見たかったら、もう1回借りると言うことを前提としている。そういう人も多いだろう。
しかし、しっかり録画しておく人もいる。多くのビデオがそうだった。DVDになって、私はほとんどレンタルを利用していないので何とも言えないが、デジタルだから録画ができないというのは、釈然としない。
コンテンツビジネスというのは、コンテンツを売るという視点に立てば、レンタルとパッケージの価格差は、基本的にパッケージの有無であるべきで、賞味期限みたいな考え方は私は好きになれない。
インターネットでダウンロードして曲を買うことが可能だが、その多くはSonyのAtracという圧縮技術で圧縮されたもので、CDに書き込みができない。どうも技術の押し売りや、作った側のルールに従え的な押しつけがましさを感じて、愉快ではない。
録音装置を売っているのもSonyならコンテンツを録音できないようにしているのもSonyだみたいな図式である。この根底には、性悪説がある。ダウンロードしたやつは、勝手に回りにばらまくということだ。
ある意味これは真実だが、レコードやテープの時代は、これで上手くやってこれた。
あたかも、テレビの自主規制みたいな物で、昔は放映できたが今は許されないみたいな、人間が偏狭で猜疑的になっていく時代の流れみたいな物まで見えてくる。
さて、このオン・デマンドサービスだが、一見便利なようだが、まだまだ成熟しているわけではないので、コンテンツの数は異様に少ない。最低でも、1000以上のタイトルが並んでいてくれないと魅力的ではない。また、昔から見たことのある角川映画みたいなものが相変わらずラインナップの初期の多くを占めていると、それだけで食傷だ。これらの映画が悪いわけではないが、一目して契約の順番みたいなものが透けて見えてくる。
まあ、こういう文句は今多からこそどんどん言って、それが文化の発展に寄与するのだ。そうでなければ下らない愚痴にしかならない。
だが、実は下らない愚痴にこそ、消費者の求めるニーズがあったりする。そうやって世の中は動いていく。ある時代を境に、資本が世の中を動かすのではなく、消費者ニーズが資本を動かすようになった。飽食という言葉は言われて久しいし、実は不景気になると消えていく言葉だが、それでも今の不景気は飽食の上に成り立っている不景気だ。
オン・デマンドなる需要が供給を決めるシステムは、まさにこの飽食の中にこそ上手くはまるビジネスのような気がする。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:09 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月13日
バレンタイン
明日はバレンタインデーだ。英語では「St. Valentine's day」なので、通常の日本語表記ならヴァレンタインデーとなるのだろうが、街中で多く見かけるのは「バ」だ。
「聖」というくらいだから、語源となったバレンタインこと、ウァレンティノスは、聖者だ。ローマの司祭らしい。この人が処刑されたのが紀元270年の2月14日だから、明日が記念日なのだ。
この人は、後ろ髪を引かれないよう、兵士に結婚を禁じたローマ皇帝クラウディウスに反対して処刑されたらしい。結婚さえしなければ、喜んで戦争に行くと考える皇帝だから、実は強い皇帝で「ゴーティクス」と呼ばれている。これはゴート人征服者の意味だ。当時の皇帝としてはそれほど悪い皇帝ではなく、きっちりローマのために戦い、ドナウ川流域のゴート人を押さえ、そのいい気の秩序回復にもがんばったらしい。コンスタンティヌスがクラウディウスの後裔を名乗っていたということもあって、著名になったと、辞典にはある。
ところが面白いことに(interestingという意味で)、このクラウディウス自身も、疫病で270年に死んでいる。別にヴァレンティノスに祟られたわけでもないだろうが、不思議なことである。今と違って、皇帝に反対したくらいで殺されてしまう時代だから、ヴァレンティノスという人も、根っからの正義漢、聖職者だったのだろう。
このクラウディウスという名前の皇帝は、実はもう1人いる。こちらの方がもっと有名だが、これより前、紀元直後、カリグラの後、ネロの前の皇帝だ。映画もあるので、カリグラよりもカリギュラの方が通りがいいと思うが、実は辞書などでは、「カリギュラ」ではあまり出てこない。
「カリギュラ」という映画は見ていないが、「やらしい」というイメージがある。ネットで検索すると「ヘア解禁版」なんて載っているから、推して知るべしと言うところだ。AVではないが、AVもどきの人生を送った皇帝なんだろう事は想像が付く。この人が第3代のローマ皇帝。そして、第4代がカリグラの治世を改めていい政治を行ったクラウディウスだ。英語で<Claudian>というと、ティベリウスからネロまでの時代を指すのだそうだ。初期ローマ時代ということだろう。
このクラウディウスは2番目の奥さんに毒殺される。この奥さんが「小アグリッピナ」と、頭に小さいという時を付けられてしまうアグリッピナで、連れ子こそがネロに他ならない。ネロが暴君であることは有名だが、つまり、クラウディウスはカリグラとネロというひどい皇帝に間に、短期間いた名君だったということらしい。
まあ、この1世と2世の間にどんな関係があるか解らないが、皇帝としてはどちらも、そこそこな皇帝だったようだ。ヴァレンティノスが処刑されたのはつまり、「国を弱くする献策」というような意味合いなのかも知れない。
そのヴァレンティノス、つまりバレンタインが闘ったのは兵士の結婚だったが、その後、この季節に小鳥が発情することと関連して、親子が愛の教訓と感謝を書いたカードを交換する火となったのだそうだ。女性が男性に愛を告白するようになったのは、20世紀に入ってからだという。一方的に女が男でない地方もあるようだが、多くは女性が男性に愛を告白したりプレゼントしたりという風習のようだ。
日本でチョコレートを渡すようになったのが、チョコレートメーカーの仕掛けであることは知られているし、考えてみれば当たり前のようなことだが、実は、昭和11年と27年に「モロゾフ」が仕掛けて失敗したらしい。モロゾフは関西の会社なので、関西でしようとしたのか?
その後、昭和33年にメリー・チョコレートがヨーロッパからの移入という形で新宿伊勢丹で始めたのが現在の流行の最初である。
だから、バレンタインにはメリー・チョコレートを送るのが本当なのかも知れない。モロゾフは悔しいだろう。
いずれにしても、その風習が始まって47年目という事になるわけだ。半世紀近くが立つ。3月14日にはホワイトデーなどというのもできている。こちらは菓子組合の創設なので、完全に菓子業界に踊らされているわけだ。
女の子から男に送る日だけがあるのは不公平だという女の子の声も後押ししているのかも知れないが、レディーファーストという言葉を持ち出すまでもなく、日頃から男の方が贈り物をしたり、驕ったりが(どちらかというと)当たり前の世の中なのだから、行事としては片方だけで十分だと思うのだが・・・・
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 12:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年2月 8日
受験
受験シーズンです。
受験と縁を切ってから、30年近い年月が経ちます。独身なので、子供の受験とも無縁です。大学受験の後、試験らしい試験はほとんど受けていません。前の会社で「販売士」という、あまり意味の分からない資格を取れと言われたときくらいです。
そもそも資格ということには非常に無頓着で、取ろうと思ったことがありません。これまた前の会社で、衛生管理責任者というのと、防火管理何とか言うのを取りましたが、無試験です。
Youcanという通信講座のCMをよく見かけます。資格や特技なんかを通信教育で勉強するものです。
通信教育は中高生の頃、進研ゼミとイラスト、会社でなぜか翻訳と、先に書いた販売士を勉強したくらいです。翻訳は、SFを原書で読みたかったからですが、身に付きませんでした。
勉強とは勉めて強いると書きます。勉強を漢字辞典で調べると第一義に「困難なことをむりにがんばってやること」とあります。ある意味努力と同義ですね。私にとっては尤も苦手なことです。努力と、継続。この受験にとって尤も大切なことが、私は嫌いです。
のんびりのほほんと生きる。これが信条ですから。
尤も、口でそう言っても、一生懸命やるときはやらないといけないのは、人間当たり前のことです。
受験勉強は今でも嫌ですが、小学校から大学まで、17年間(浪人してるので)、もう少し勉強しておけば良かったな、あるいは、その頃覚えた知識を忘れないでいたら良かったな、と思うことは、社会に出てずっと感じていることです。
国語、算数(数学)、理科、社会ばかりでなく、音楽や美術などもそうです。大人になってからはなかなかできません。
国語や、政治経済などと言った教科は、実は大人になってからでも、自然に身に付くような気がしますが、他の教科は、勉めて自らに強いないとどうしようもありません。ましてや数学や科学は、既に頭に入ってこない部分も多いです。微積ももうちょっとまじめにやっておくんだったなあ、なんて思っています。当時は、社会に出て何の役に立つんだ?と思っていましたから。
しかし、「役に立つ」とは、収入の元になる仕事に直結しているということではないのだということを、当時は誰も教えてくれなかったような気がします。
もし仮に、30になって、急に数学に目覚めたらどうする?それから勉強しても遅いぞ。こんな台詞の方が、受験勉強としてよりも、直接心に響いたかも知れない。
尤も、私は数学は決して嫌いではなかったので、英語などよりは楽しかった記憶があります。人間、自分ができない者は嫌いになりますから。
受験というのが、高校や大学に受かるためのツールである間は、やはり多くの学生は楽しく勉強できないでしょう。何かこう、趣味を生かすための勉強であれば、楽しかったに違いない・・・・そう思ったりします。
楽典は嫌いでも、みんな必死になってギターを弾けるようになったり、コードを覚えたりする、っていうのと似ているな。
きっと受験生は、もちろんそれを楽しんでいる人もいるのだろうけど、辛い人の方が多いでしょうから、がんばれと言うよりは、いずれ大人になったときに、今の知識は、日常を楽しくする役に立つんだぜ、絶対。そう言って上げたい気がします。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月29日
振り込め詐欺
オレオレ詐欺が振り込め詐欺になって、あの手この手で被害が拡大している。
最近では、コールバックというのを利用して、着信番号の偽装までするそうだ。
いずれにしても、由々しい時代だ。
ところで、振り込め詐欺などの罪って、どのくらいなのだろうか?刑法を見ると、10年以下と書いてある。しかし思うのだが、こういった組織的で悪意に満ちた犯罪に、10年は軽くないか?しかも「以下」だ。だがどう考えても、「金をだまし取ろう」という目的は明確だし、しかもターゲットは年寄りが多かったりする。30年くらいの罪にしておけば、多少は減るんじゃないだろうか?この種の犯罪は、どうがんばったって、「出来心」のはずはないし、最近流行の偽札と同じくらい罪を重くしてもいいと思うのだが。通貨の偽造は3年以上無期まであるのに、人を騙して金を巻き上げる組織犯罪が10年以下というのは、どうも解せない。
それともう一つ思うのは、人の感情というか、世の常というか、「示談」という言葉の裏に潜む、「金で解決」ということに対する世人の意識の低さだ。
お金をだまし取られた人たちの多くは、そんなことをどれほど考えているか知れないが、例えば「息子さんが事故を起こした。示談で住むから金を振り込め」といった内容だとすれば、交通事故も金で解決できる事の裏返しでしかない。しかもそれを、警察なりの公共機関が、後押ししていることになる。
政治家が起訴されても、大枚の金を払って保釈される。これはもちろん、刑の確定前は「被告」「被疑者」であるから、意味は分かるが、だが金のあるやつは保釈が可能で金のない者は保釈などできないという不公正な前提に立った制度に他ならない。どうも釈然としない。
もちろん、示談で解決する事故もたくさんあるだろう。だが、示談であると言うことは司法は不介入だし、警察も関与しないから示談なのだろう。それにしたって、いきなり振り込めなんていうケースが、それが詐欺でないとしたら、あり得るのだろうか?
最近増えているという誘拐や拉致というケースでは、これだけ不穏な世の中では、「信じない」という方が難しい。仮に本当だったらと考える親や親戚の気持ちはよく分かる。だからこそ、検挙された犯人には厳罰が相応しい。
医療ミスの隠蔽なんていうケースもあるようだが、半分は同情するが、残りの半分は同情しがたい。医療ミスの隠蔽に金を使うということに、たとえ自分の子供であったとしても、罪の意識を覚えろよという話だからだ。
まあ、大枚を出したって子供を医大に入れて跡を継がせたい医療関係者はなかなかいなくならないようなので、馬の耳に念仏なのかも知れないが。
年間の被害が数百億円単位だ。どんどん検挙して、どんどん刑務所に入れて欲しいものだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月20日
殺人事件
ちょっと忙しくて、ちょっとだけニュースなどから離れていた。
テレビのニュースを見た時、どれがどの殺人事件か判らなかった。最近て、こんなに殺人事件が多いのか?そんな印象を持った。もちろん今日起きた事件ばかりではなく、犯人が逮捕されたものや、まだ殺人と断定されていないものなど、いろいろだ。
あたかもニュースが2時間ドラマの連続紹介をしているようだった。
昔からこうだったわけでは絶対にない。
人の命の重さなど、人類がこの世に誕生し、そこそこの文明的な生活が出いてからは、さほど変わっているわけではない。自分を中心に、そこから順次軽くなっていくのだ。だとしても、人の命を否定するようになるのは、かなりのものだと言わねばならない。
戦争はたくさんの人を殺し、少なくとも戦いを起こしている側には大義名分がある、という理屈がある。だがこれは、多くの場合、個人が個人を殺す場合にも同じ事が言える。意味もなく人を殺すというのはそれほど多いわけではない。
正当防衛や限られた復讐(いかにテレビのミステリではこの、世の中では数少ない復讐劇が多いことか・・・これは作家の良心かも知れないが)を除けば、非常に利己的な犯罪がほとんどだ。多くは金のためだし、その場の怒りや、快楽のためなど、酌量の余地はあまり無い。
個人的には、多くの戦争はこの部類だと思っている。
第二次世界大戦という世界を巻き込んだ戦争が終わっても、世界は毎日どこかで戦っていた。今でもそうだ。
そんな人類が、個人のレベルでも、やはり同じように振る舞う。
悲しいことだ。
100円のために殺されても、100億円のために殺されても、空から爆弾が降ってきても、個人の死は個人の死だ。病気であれ事故であれ、当然やむを得ない死というのはある。しかしそれを除いた死は、「事故」というカテゴリーに無理矢理押し込めてしまってはいけない。
人の死がこうたくさん転がっていても、世界の人口は増えている。寿命が延びて自然死が減った分を何かで補おうとしているかのようだ。
人類という主が、防衛的に数を無意識で減らそうとしているようにも見える。
いずれにしても、こんなに多くの殺人事件がある世の中は、どうしたら無くなるのか、真剣に考えた方がいい時代なのだと思う。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 22:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月11日
性犯罪前歴者の情報把握
性犯罪を犯した者の把握に関して、昨年の奈良の少女誘拐殺人事件の影響で議論が高まっている。
性犯罪を犯した者の再犯率が高いことと、刑務所での矯正が極めて困難であると言うこともその根拠の一つになっている。警察庁長官が口にしたのが始まりだ。公明党の浜四津議員なども積極的に働きかけているようだ。
テレビで、「性犯罪にも痴漢から奈良の事件まで程度にも差がある」というような趣旨の事を、犯罪者履歴の把握、または公表に関して慎重な立場の学者(だと思う)が言っていた。痴漢は冤罪の問題が微妙だが、いずれにしてもたとえ痴漢であれ、「性犯罪者」としてレッテルを貼られたくなければしなければいいだけの話であって、ほとんどの人はやらない。そんなレベルのお話しでないことだけは確かだ。
また、犯罪者は2度罰せられないという趣旨の法的な問題を同じ人が言っていた。別の人が、犯罪者の把握は2度目の罰には当たらないと言っていたが、確かにその通りだ。
犯罪を犯した人が、刑罰を受けたことによって、果たしてその罪が完全に許されるのだろうか?ある種の罪は、消えないのではないかと、私は思う。
例えば、人殺しという犯罪が、10年間刑期を全うしたらその罪が消え、社会復帰と更正を、社会が認めるというのが現在の仕組みだが、たとえそうであるにせよ、そういう類の犯罪は、加害者は一生背負って生きていくべきではないのだろうか?
人一人の命を奪う犯罪を犯した加害者に、いったいどんな人権があるというのか?
人権というのは、誰にでもあるかも知れないが、その重さは違うはずだ。殺人犯と、被害者が同じ人権の重みのはずがない。少なくとも今は、被害者の人権の方が圧倒的に軽く見られているとしか思えないケースが多いように思える。
目には目を、歯には歯をというハムラビ法典の言葉はあまりに有名だが、それそのものは極端かも知れないが、一面真実を言っている。
今回話題になっているのは性犯罪者であるが、「犯すか犯さないか分からないものの監視」という表現を、前出の学者は言っていたが、普通の人よりは犯す可能性が高いからこそ、きちんと警察が把握すべきだし、二度と犯さないような更正プログラムも必要だ。
アメリカのように、一般の人にまで情報を公開することがいいのか悪いのかは、必ずしも是とすることは私にはできないが、「世間の目」を意識しないと生きていけない環境に彼らが置かれたとしても、やはりそれは自業自得なのであって、食い逃げや万引きなどとは明らかに性格の異なる犯罪だ。もちろん、万引きだって重要な犯罪だ。たかが万引きなどとは私は思っていない。しかし、それでも婦女暴行や、痴漢よりも、軽いとは思う。
とにかく重大な犯罪を犯したからには、そのことは一生消せないし、背負っていくのだという世の中でなければならない。私はそう思う。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 7日
負け犬
負け犬はイヤ?早婚願望高まる等という記事が出ていた。
私は昨年の流行語大賞の発表がなければ、「負け犬」なる言葉を知らなかった。というより、聞いていても、そのまま馬耳東風、意味も知ろうとしなかった。
ざっと、意味を読んでみると、定めし私など、男の「負け犬」かも知れない。
だが、負け犬というのは語感が良くない。「30代以上・未婚・子ナシ」を負け犬というのだそうだが、半分は自虐的な意味合いも感じないではない。
「30代以上・未婚・子ナシ」の女性に対して、世間てそんなに冷たいの?
というのが最初の感想だった。
私は男なので、女性の「未婚・子ナシ」ということに対する感覚は、正確に摑めない。私自身、これまであまり結婚したいと思ったことがないし、実は結婚と言うことの重要度が、多分解っていない。45にしてこんな事を言うのもどうかと思うが、実際そうだ。
人間も動物なので、子孫を残すという本能は、恐らくどこかにあるに違いない。そういう意味では、男であっても、もう少し子供が欲しいとか、そういう感情みたいなものがあっても良さそうなものだが、正直、どちらでもいい。いればかわいいと思うだろうし、普通に愛情は持つだろう。しかし、いないからどうだと言うことはない。
これは結婚に対しても同じだ。好きな女の子がいて、一緒にいられれば、籍がどうのなどというのは、少なくとも私自身の側にはない。つまらん男だと仰る方もおられるに違いない。
私は、やはりどこか考え方がひねくれているというか、若い頃の何かを引きずっているのか、取り敢えず、伝統や形式というものに対する反発が人よりも強い。
ネクタイは積極的に嫌いだし、儀式とか、行事に関しては極めて強い違和感を持つ。王政や天皇制は、全く共感しないし、同じテンションで、結婚もどうでもいい。
つまり、王政や天皇制も、それによる被害が自分に無ければ、敢えて否定もしない。「なぜネクタイをしないのだ」と上司から言われれば、「なぜネクタイをしなくてはならないのでしょう?」と切り返してしまうような男だ。
但し、ここに書いているのは、私の建前だ。社会的な他社との関係と、どちらが重いかという判断が求められるような場合は前者を優先する。それもまた私のやり方だ。それが正しいと思っている。
自分の意見を述べることと、自分が社会的規範に従わないことは同じではない。
妙な言い方だが、受信料を払うからこそNHKに文句が言えるというようなことかも知れない。
結婚して、子供を作って、というのが人の生き様かも知れない。生まれたからには人生が死への行進であることは、私はいつも言っていることだ。
手塚治虫の「ブッダ」の中にこんなくだりがある。
「人を殺したいと思ったら、自分が手を下さずとも、いずれその人にも死が訪れると考えなさい」
まさにどんな人生を送ろうと、生と死はどんな人にも共通の事象だ。
どんなに偉大な人でも、死後に価値を認められてもうれしいことはない(と思う)。そんな人生が、勉強をし、学校へ行き、社会に出て、結婚して、子供を作って、老後をのんびり暮らして、大往生というのと、波瀾万丈のどちらがいいかと言っても、選ぶのは難しいだろう。
ただ、そういう人生じゃなくても、やはり負け犬では無かろう。少なくてもそう思うことでストレスから解放されるような、それほど重いことではないはずだ。
ただ、この人のエッセイを実際に読んでいるわけではないので、「負け犬」の本質を私は理解していないかも知れない。
誰が自分を負け犬と思おうと構わないのだが、反動を期待するならともかく、あまり「負け」という感覚は人にとっていい感覚ではないはずなので、どんなものなのだろうと思った次第。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 4日
Suica
昔は定期を駅員に見せていた。切符は駅員に渡していた。
自動改札ができて、切符は機会に吸い込まれるようになり、定期はそこを通過し、定期のようなプリペイドのイオカードなどができた。そして、タッチ式のSuicaが出てきた。なんだかんだいいながら、JRの選択は正しく、今のところ私鉄のパスネットよりも便利だ。パスネットが便利なのは、ほとんどすべての私鉄(JRを除く)が関東圏で使えることだろう。
今は、Suicaタイプに統一され、JRも含めて使えるようになるという噂を聞いた。そもそもJRだって私鉄だろうに。今は日本に国鉄はない。都営とか、地方の行政が営業する電鉄と、第三セクターが、公営に近いのだろう。
その都営地下鉄がパスネットグループでJRのみがそれに参加していないという辺りが、元国鉄だけのことはあるが、私も含めてほとんどの人が私鉄とJRという分け方をする。そしてその私鉄の中に都営が入っているという非常におかしな分類だ。
いずれにしても、次の段階はクレジットカードや、電子マネーとしても使えるSuica型の切符カードがしばらくは主流になるのだろうが、実はクレジットカードとしても使えるのに、「入金」という作業が必要になる。そして、Viewカードが使えるチャージ機は非常に少ない。大きな駅にしかない。なんだか便利なようで不便なのだ。
ただ、これが駅だけでなく、街中でも使えるようになれば、財布は非常に軽くなり(今でも十分軽いは軽いが)、現金をあまり持ち歩かなくても良くなる。
個人認証の問題も、指紋だ、手の平の静脈だと、個人を特定する方法がどんどん開発されている。
ペリー・ローダンで人間の「個体放射」というのが出てくる。それがIDのようになって個人を識別できるものだ。
今や、個人を特定することで、財布を持ち歩かなくても買い物ができる時代はすぐそこまで来ている。本当のキャッシュレスだ。
個人情報をコンピュータで管理し、背番号を付けたりと言ったことには、非常に反発が強い。曰くプライバシーの侵害。だが、プライバシーというのはそんな物だろうか?
もちろん、個人のすべてを国家が管理するなどというのは論外だし、私生活に他人や公的機関が踏み込んでくるのは誰でも嫌だろう。自ずと制限は必要だ。
しかし、ある程度の把握は逆に、いい面もある。
先日のならでの少女殺害事件でも、犯人に関しての個人情報をもっと把握できていれば、犯行を防げたとまでは思わないが、犯人確保はもっと早かっただろう。
もはやこういう世の中で、国家よりも、あまり知られて欲しくない金融業者や悪徳商法の人間にこそプライバシーは漏れていたりする。
個人の購買履歴や、様々な情報は集めようと思えば、様々な手段で集められるに違いない。それは情報社会の好ましくはないかも知れないが、一つの特徴だ。
その社会を制御していくためには、逆に個人を特定できるようにして置くことは必要であるような気もする。
住基ネットなどというお金ばかりかけて、あまり内実がなさそうなシステムではなく、もっと社会と個人が幸せになれる、個人管理システムがあるような気がする。
少なくとも、個人が特定できない限り、Suicaだって、便利なだけの道具ではない。
情報社会の至便とプライバシーの問題は、常に諸刃の剣であるような気がする。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年1月 1日
紅白歌合戦
本当に何年ぶりかで紅白歌合戦を観た。もちろん最初から最後まで観たわけではないが、半分くらいは観た。
あまりに歌を知らなくなっているのにびっくりした。もちろん演歌歌手や往年の歌手が歌う古い歌はそこそこ知っているものもあったが、今年流行った歌を、ほとんど知らないことに驚いた。
昔は視聴率が70%なんていう時代もあったのは、チャンネルの数を比べれば、自ずとそんな視聴率が維持できるはずもなく、それでも4割前後の視聴率を確保するのは驚異的だ。子供の頃はよく見ていたし、歌もほとんど知っていた。
でも、イ・ジョンヒョンという韓国の歌手を知れたので良かった。なかなか楽しかった。韓流ブームとは無縁だったが、BOAも面白かったし、意外に韓国の音楽も面白そうだ。
NHKが様々な使い込みやら何やらで、受信料の支払い拒否がどんどん増えているという。紅白の視聴率が普通になっても、まだまだNHKの視聴率は高い。もちろん地方に行けば、NHK以外は数えるほどにしかチャンネルがないところもあるし、あっても映りが悪いところもたくさんあるから、視聴率が上がる理由の一つはわからなくはない。
しかし、やはりNHKも変わる必要があるのだろう。海老沢会長が辞職してもそれでこと足れりということではないだろう。受信料で運営されているとしても、受信料は義務ということになっているので、一般の会社とは訳が違う。公営放送なのだ。いや、そういう認識で番組が作られるべきだ。
そういう意味では、BS2や、BSデジタルが本当に必要なのかは疑問だ。BSアンテナを立てると、どこから見ているのか知らないが、徴収員がすぐに現れる。地上波のNHKは分からなくはないが、勝手にBSを作って、その分を別料金で徴収しようというのはいかがなものか。
視聴料を払わない人がこれほど増えても、予算的には許容範囲田などということを何かで読んだ。と言うことは、払っている我々が、NHKを支えていることになる。早いとこ体質改善し、払っていない人から徴収できるようにし、その余裕のある分を値下げしてほしいものだと思う。
紅白の話だったんだが・・・・あまり書くことがなかったので。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月25日
有馬記念
明日は有馬記念だ。
私は競馬をやらないので(この「競馬をやる」という表現はくせ者だ。つまり「競馬をやる」は馬に乗って戦う騎手のことではなく、あくまでギャンブルをするか否かと言うことだから)、こんな記事を書くのもどうかなと思うのだが、まあ、それはそれで。
先日友人が来て有馬記念歴代の名レースを収録したDVDを見せてくれた。有馬記念といえば1年の納めのレース、「グランプリ」で、強い馬が集結するレースだが、オグリキャップとか、トウカイテイオーとか私の知っている馬ばかりであった。
私の年齢で、競馬をやらない人間にとって、競馬馬というと、ふと思い浮かぶのは「ハイセイコー」だが、これとて、歌で知っているだけで、どんな馬かというとさっぱり解らない。しかも有馬記念とは関係ないらしい。
有馬記念は2500メートルを走るということなので、長距離が得意な馬が自ずと出場することになる。去年の優勝場はシンボリクリスエスという馬のようだが、全く知らない。しかもこの馬、2年連続でグランプリを取っている。
今年はゼンノロブロイ、コスモバルクといった辺りに人気があるらしい。
私でも今まで競馬を見たことがないわけではない。時折見ると、オリンピックと一緒で、それなりに楽しめる。お金を賭けていなくても。競馬をする友人を見ていても、勝ち負けはもちろん気になるようだが、それ以上に競馬が好きらしい。
競馬がスポーツだと言うことをよく言う。確かにプロレスも100メートル走もスポーツだから、馬場を走る馬と騎手にとってスポーツであれば、スポーツには違いない。
同様な理由で、競艇や競輪もスポーツなのだが、これとサッカーのみが賭事の対象になっている。この辺りの仕組みがよく分からない。
スポーツはほとんどが出場選手の勝敗を競うことで成り立っている。必ず勝者と敗者がいるのだ。どちらが勝つか、あるいはどういう順位になるか、当然予想と結果が食い違うわけで、賭事が可能だ。
なぜ他のスポーツもすべてかけの対象にならないのだろうか?
かけが不健康だなどというのは戯言だ。その資金が暴力団に流れたりするからそういう印象を持つだけで、そもそも人生とはかけの連続ではないのか?
ある商品を売りに出す。それが売れるかどうかで会社の存亡が決まるとしたら、これはもう、人生をかけた大きな勝負で、法律はこんな事を禁じてはいない。恐らく胴元がいないからだろうが。
大学受験だって、相当な賭だ。結婚だって実はかなりの賭で、よく賭に負けている人もいるのだ。それに比べたら、パチンコや宝くじなどかわいいものだ。
賭事で人生を棒に振るかどうかは、当然のこと、賭事の問題ではなく、それにのめり込む人の問題である。むしろその賭を活力に、人生を成功させている人だってたくさんいる。あたかも賭事が悪であるかのような風潮は、臭い物にふたをして、ただ見せないというに等しい。
今度のテストで100点取ったら、好きな物を買ってあげる。
これが賭事でなくて何だろう?
人は知らないうちに、子供であろうと大人であろうと、何かをかけて行動を行う。これは、人生が先の解らない賭のようなものだからだ。その人間が、賭を悪く言って、「競馬はスポーツだ」などという逃げ口上を使っている。
ギャンブルでいいじゃないか?
私はあまり賭事をする方ではないが、それでスポーツ振興にもなり、基本的に人生は勝負なんだということで、がんばって行ければそれでいいと思うが。但し、相手に対する敬意と尊重、弱者へのいたわりなどはまた別の問題だが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 21:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月21日
忘年会
忘年会シーズンたけなわです。実は私も今日、忘年会でした。
さて、忘年、年忘れといいますが、どんな意味なのか気になりました。
広辞苑を引くと
@年の老いたのをわすれること。老年を気にしないこと。
A年齢の差を気にとめないこと。「―の交り」
Bその年の苦労をわすれること。としわすれ。
と、忘年という意味には三つあることが解ります。当然忘年会はBの意味です。きっと1年間、嫌なことがたくさんあった。忘れようって事で、非常に楽天的な宴ということですね。
お釈迦様は人生は苦だといいました。仏典では生老病死といいます。そういう意味では、人生は常に忘年会を必要としているのかも知れません。だからきっとサラリーマンはあんなにお酒に酔うのでしょう。
しかし、忘年の@の意味もAの意味もよく分かります。この二つは人の年齢のことで、カレンダーの年ではありません。年を取れば、そんなことは忘れていつまでも若くいたいと思う気持ち、人間年の差なんて関係ない、刎頸の交わりこそ楽しけれ。
その通りです。もちろん、若さはそれだけで輝いているし、同窓の友は、ある一時期を共有した仲間として大切ですが、人はいずれ年を取り死んでいくし、同じ年、同じ学年などというのは人と人の関係においては共感以上のきっかけではありません。中身のつきあいができるかどうかです。
今日飲んだ友は、やはりそういう友です。年も離れています。老後までつきあえると思います。
忘年会という一言の持つ意味は、実は仕事納めの鬱憤晴らしという意味に止まらず、いくつになっても快活に、気の合う仲間と飲み過ごすという事なのかも知れません。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:17 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月20日
未成年の飲酒
未成年は酒を飲んではいけない。誰でも知っていることだ。少なくとも日本では。
ではなぜいけないのかとなると、何となく、未成年の健全な発育が云々というようなご託が聞こえてきそうだ。
今日、夕方のニュースで、忘年会シーズンに奮闘する居酒屋チェーンの取材を放映していた。薄利多売でなかなか厳しいと言うことだ。
そんな中で、店長は入店の際に未成年チェックをしていた。若そうに見える人に、学生証などを呈示してもらい、拒否すれば入店を断り、未成年には酒を供さない旨を入店時に告知するためだ。最近の居酒屋さんは大変だ。私が学生の頃にはそんなチェックをする店はなかった。
さて、思うのだが、確かに未成年に飲酒は禁じられている。法律で。昨日や今日決まったわけではない。だがどうだろう。その法律を厳しく遵守させようとしている大人達は、どれほどの人が未成年の時に酒を飲んだことがないだろうか?もちろん、人数はたくさんいるだろう。飲めない人だっているわけだから。
酒を飲んで運転をしてはいけないという法律がある。これは、明らかに酒を飲んだ結果が事故に繋がる可能性が大きいから、誰が考えてももっともな理由がある。しかし、未成年の飲酒は、喫煙やエロ映画と共に、二十歳という区切りがどうも胡散臭い。
昔であれば、大学に入学すれば飲める人はたいがい飲んだ。親も文句は言わないことが多いだろう。当たり前のことだが、飲み過ぎは良くない。身体にも悪いし、端にも迷惑をかけることが往々にしてある。だがこれは未成年に対する戒めではない。酒を飲むすべての人に対してだ。
前にも煙草のところで書いたが、煙草が身体に悪いとすれば、大人も子供も変わりはない。より成長期の子供にとって良くないなどというのは、大人のごまかしに過ぎない。酒もそうだ。
二十歳を成人と決めたのは誰だろう?もしこれが古代の中国から来ているとすれば、誰も見直そうとしないのはなぜだろう?孔子に言わせれば30歳で成人でもいいのかも知れない。
この文章で、だから勝手に飲めとか、未成年を(結果的に)追い返した店長を責めたりしているわけではない。むしろ彼は、職務に忠実で偉い。
だが、未成年の犯罪が増加する中、なんだか、簡単なところだけをうまく守らせようとして、他はほったらかしのような感じがする。道徳という授業は、非常に退屈で、面白くない授業だったが、少なくとも子供心に何かを植え付ける役には立っていたと思う。人がいかに生きるべきか、いかに他と共存していくかを教えるのは親の責任であり、学校や行政、あらゆる大人の責任でもある。
18才が酒を飲みに行っても、きちんとした飲み方をする18才はたくさんいる。しかし、50才になっても「あんたは酒を飲むなよ」と思える大人のいかに多いことか。酒の上のことだからという無礼講の行き過ぎた事がまかり通ったり、酒の力を借りて女性に良からぬ行動に出たりと、確かに酒の力はある意味恐ろしい。だがそれと、20才は飲んでも良くて19才はいけないという単純な区切りでものを考えることは、自ずと違う。
まあ、法律で決まっているので飲まないに越したことはないが、自分が未成年に戻ったとして、非常に釈然としない決まりであることだけは確かだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月18日
中国
中国に親しみを持つ人が減ったという統計が出たと、ニュースでやっている。その理由を、最近の中国とのぎくしゃくした国際関係や、先日のサッカーの日本代表に対するファンの態度に置いている。
まあ、あのサッカーの後の映像を見れば、愉快な思いをする日本人はほとんどいないだろう。しかし、60年前の戦争を今まで引きずるのは多少しょうがないとしても、当時0才の人が60才になろうという時代に、過去の戦争を引き合いに出して「日本帝国主義」みたいな表現をするというのは、いったい中国ではどんな教育をしているのだろう。
靖国参拝ということを誰もが象徴的に扱うし、小泉があそこまでこだわるのは、性格だろうか?そもそも政教分離というのは一国の首相には適用されないことなのだろうか?そしてその靖国問題で中国が不愉快な思いをするというのもまた、象徴的である。どれだけの中国人が、そのことを解って不愉快になっているのか非常に疑問だ。
戦犯戦犯というが、東京裁判で有罪にされただけで、彼らだけに太平洋戦争の責任があったわけではないだろう。
戦争がいけないというのは子供でも知っている。多分子供に解らないのは、戦争がいけないのに、いい大人が何で戦争をし、しなくても、いつ起こってもいいような準備をしているのかという事ではないだろうか。
中国の油田開発の問題は、あたかも、山間の垣根のない隣同士が、温泉が出そうなのはどこかを探っているようなもので、互いが自分の利益しか考えないということに問題があるし、そんなことがいけないというのはやはり子供の時に教わる。
潜水艦の問題だって、知らないうちに隣の家の庭で何かしてましたみたいなものだ。その程度を「ミス」しているとしたら、とんでもない低レベルの海軍だ。
こういうさや当ての試合みたいなものが国際関係ならば、人類はいったいどこへ行こうというのだろう。
人種や民族、肌の色、生まれによる差別、これらは人間が生来持っている感覚なのだろうか?よく韓国で事件があった時に、正体を無くして泣き叫ぶ家族の映像が映ることがあるが、日本では余り見かけない。これは民族性の違いなのだろうか?私はそうは思わない。
人種や民族などの違いがどうであれ、そんなものはきっと地域差だ。雑煮の味が違うのと、感情の表現方法が違うのは、どこに住んでいるかというだけの問題だ。
もちろん、熱帯に住む人たちと、北国の人たちが、同じ表現をするとは思えないが、実はそれぞれに家風があるように、それぞれの地域によって、あるいは国によって何事も違うのだ。ところが、違わないことがある。
それは同じ人類だという点だ。
映画「猿の惑星」で、「猿は猿を殺さない」というキャッチフレーズがある。これは猿を導き、地球の主足るに導いた指導者の決めた律法だ。
人は生きるために生物を殺す。食べるためや、身を守るためだ。実際には楽しみのためや、単純に嫌だから殺すと言うこともある。一概に食物連鎖の一部とは言い難いが、いずれにしても、人間は人間を殺さない。これが不文律であるはずだ。
でなければ、常に自分の命の危険と共に生きるなど、知恵ある猿が容認できるはずはない。
鯨やイルカは知能が高いから殺すなという思想がある。鯨は安い肉で、給食でも食べていた世代としては、意味の分からない論点だ。知恵という点から行けば、チンパンジーだって、犬だって、猫だって、あるいはマウスだって、人間が勝手にレベルを付けているだけで、知恵がないわけではない。
あたかもこの論理は、IQが高い人間の方が低い人間より価値があるという理屈に結びつきそうでとても嫌だ。例えば、日本ばかりでなく、犬はかわいいペットだ。当然、犬を食べるというのはそういう人たちには、考えられないだろう。しかし、食肉牛を育てている人たちだって、十分に牛に愛情を持っていたりするものだ。でも牛を食べることに異論を挟むのは宗教上で食べられない人達くらいだろう。
人は人を殺さない、これが第一だ。
そのためには人は人と争わない事を目的とし、そのためには相手を尊重するところから始めなくてはいけないだろう。だがそれは、相互に尊重が成り立たねばならない。
人類が種として真に霊長と呼べるようになるのは、そこの部分が進化しなくてはならないのだろう。今はまだ、種としての人類はかなり野蛮だ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 22:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月13日
流行語大賞
しばらく前に流行語大賞の発表があった。
大賞は北島康介の「チョー気持ちいい」だったが、あれって流行語なのか?というか、流行語の定義って何なのだろう?
ホームページでは
「1年の間に発生したさまざまな「ことば」のなかで、軽妙に世相を衝いた表現とニュアンスをもって、広く大衆の目・口・耳をにぎわせた新語・流行語を選ぶとともに、その「ことば」に深くかかわった人物・団体を毎年顕彰するもの」が流行語大賞だと言うことだから、大賞の北島の言葉は、日本人がうれしかったと言うことなのだろう。個人的には流行語という響きからいうと、2位の「気合いだー!」の方がよりそんな感じはあるが、アニマル浜口以外が使っているのはあまり見たことがないのでそうでもないのか。
そういう意味では「チョー気持ちいい」は、北島よりも、渋谷辺りを歩いている女子高生に上げた方がいい感じもする。
3位以下を見ると 「サプライズ」「自己責任」「新規参入」「セカチュー」「中二階」「って言うじゃない… ○○斬り! …残念!!」「負け犬」「冬ソナ」となっている。こう並べてみると、あまり世相が解らない。
「自己責任」なんて、私は今年の1位だと思うし、日本人というのがどういう国民性を持っているかを端的に浮き彫りにしたものだったと思う。
流行語大賞の流行語には、単純に言葉としての意味や、その言葉が世間に流布したと言うことではなく、むしろ、「セカチュー」「冬ソナ」のように、言葉はともかく、その本体が流行ったという点で選出されることも多いようだ。
歴代の1位を見ると、第6回の「セクシャル・ハラスメント」7回の「ファジィ」12回「無党派」14回「失楽園」17回「おっはー」などは、なるほどと頷けるが、意外に、何でこれが?と私などは感じてしまう。流行語大賞というより、インパクトのあった言葉大賞という感じで、ニュアンスがどうもしっくり来ない。
「タマちゃん」が流行語と言われても、確かにタマちゃんは話題になったが、それが流行語という語感や意味から導き出される内容とはどうも一致しない。少なくとも私の中では。
ある意味、「チョー気持ちいい」はそういう意味では流行語として相応しいのかも知れないが、それを受賞したのが北島康介という辺りが、違和感を感じるのだろう。「チョー」なんとかは元々辞書にでも載っている超人とか、超高速とかの超をあらゆる言葉の接頭辞として使う使い方で、かなり前から使われていると思うが、例えば「チョーうざ」とか言うような使われ方をし出したのはここ数年ではないだろうか。10年くらい経つのかな実際は。よく分からないが。その辺りも、今頃「チョー」かよ。という気がしないでもない。
まあ、オリンピック選手が「めっちゃくやしい」と同じように、非常に普段の言葉で、喜びや悔しさを表現することが、大人には新鮮なのだろうと思う。これは実は、言葉遣いが総じて悪くなっている事への裏返しでもあるのだ。
欧米のように、特殊な敬語以外はいわゆる日本的な敬語がない国に、日本も変化していく過渡期なのかも知れない。テレビを見ていても、「ですます」で喋らない若い人が多いのを見ても解る。まあ、どちらでもいいことだが、そのことを許容するのであれば、自らに年下が敬意を払わない時代が来ることを認識しなくてはならない。運動部はどうなるんだろう?
私は、たかだか数十年先に生まれたからと言って、それだけを理由に年上を敬う必要など全くないと思っている。敬うべきは年齢ではなく、対人関係としての他人すべてであって、年上だって年下を敬う必要は十分にある。
人を尊重することが、年齢や、経験だけに委ねられていいはずはない。もちろん、ここで私が言っているのはかなり極論で、自分がそうしていると言うことではない。
いずれにしても相手に敬意を払うという姿勢は、世界を平和に導く一つの手段でもあるわけで、だからといって、北朝鮮に敬意を払えるかというと、そうも行かないに違いない。
ところで、流行語大賞には月間ランキングというのが載っているが、今月の7位に「ニート」というのが載っていた。ニートと言えば松原みき「ニートな午後3時」だろうと思ってしまう私も、やはりどうして、おじさんなのだ。多分。この歌好きなんだが。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月26日
宝くじ
年末ジャンボが発売になった。日本人の多くがギャンブラーに変身する時期の一つだ。年末ということで実際に一番多いだろう。
ギャンブルの多くは射幸心を煽るというのが、日本で許されていない理由の一つになっている。だが、射幸心という意味なら、以前にも書いたが、宝くじだって、パチンコだって競馬だって一緒だ。競馬で万馬券を1万円買っていれば100万円が懐に入る。合法だ。だが、点100くらいのレートで麻雀をやっていると、きっと賭博罪が適用されるに違いない。所詮ギャンブルに対する法律というのはその程度のものだ。掛け金が暴力団に流れるというのなら、そのルートをきつく取り締まるとか、競馬やパチンコの業界のような仕組みを作れば、石原慎太郎がやりたがっているカジノだって、別に悪いことじゃない。悪いのだったら、パチンコだってまずいだろう。今日のニュースで、川上麻衣子が16万円相当を勝ったという報道がされていた。今時16万円勝って、それをすべて景品に変えている人がいるとは到底思えない。結果的に現金に還元しているのだ。あの回りくどいやり方で方を抜けているのは、非常にばからしい。最初から、店内の景品交換所でお金に換えればいいのだ。
さて、そんな中で、宝くじというのは、そして特にジャンボというのは前後賞合わせて3億円という高額当選が魅力だ。毎年毎年、1000人以上が高額当選をしている計算になる(ジャンボは年末だけではないから)。身近にはいないが、いてもあまり解らないだろう。
外国の宝くじ、特によくニュースになるアメリカの宝くじは、途方もなく巨額の当選がよくある。日本の風土には私も馴染まないと思うが、私は日本の宝くじ制度は国家による虚飾だと思っている。
日本は国や地方の公共団体が胴元で、銀行(みずほだ)に販売を受託している。この国家による専売を、「民間にできるものは民間に」と言って民間にやらせると、恐らく相当に巨大な企業が誕生するだろう。3億円をあれくらい出したところで、痛くも痒くもないほど、巨大な収益が上がるはずだからだ。しかも一部を除いて繰り越しもない。繰り越しも4億までだ。そもそも、収支を計算していけば、多額の時効償金や、販売数による利益がそこに発生しているはずで、そんなものは、購入者に、経費を除いてすべて還元すべきだ。国に入れてしまえば、所詮これに関わる総務省などが、いいように使ってしまうに決まっている。事業や何かに回される金だって、当選者の善意の寄付の方がよっぽどいいに決まっている。
繰り越しで金額を増やすのではなく、当選本数を増やせばいいだけで簡単なことだ。日本という国家は、国民のことなど全く考えていないと言うことの一例に過ぎないが、ありがたがって宝くじを買っている人に対して私は、目を覚ませと言いたい。
いや、これは宝くじを買うなということではない。私も買っている。だが宝くじの背後に潜む嘘にもっといかれと言いたい。もっと大勢の人が当選して、夢を摑むことが可能な仕組みにできるのだ。
ただでさえ、無駄遣いをしまくって金がなくなれば増税ばかりを考えて、身の回りの始末は何もしない国と政府だ。マスコミ、インターネット、様々な手法で国家に個人が影響を与えられる時代なのだ。
国家が国民のことを第一に考えていないと、多くの国民が考えているような国に未来はない。
宝くじ、ちょっとだけ買うかな。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:11 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月24日
大学生の国語力の低下
文部科学省メディア教育開発センターが、大学生の国語力を調査して、1割前後が中学生レベルだという結果を発表した。
例に挙がっていたのは「憂える」が読めず、意味が分からないというものだった。まあ、しゃれとしては良くできた例ではある。それにしても、この言葉を「喜ぶ」という意味だと答えた学生が一番多いというのは、この言葉を使ったことがなかったり、字の形が似ていたり、優しいという字に似ていたりと、何となく理由が想像できそうなところが面白い。
もちろん本を読まない人が増えていることや、パソコンの普及も影響しているだろう。パソコンのない世代でも、読めても書けないという状況はどんどん進行しているが、その世代は少なくとも昔は書いていた。いや、書かざるを得なかったと言うべきかも知れない。
欧米と違ってタイプライターなどというものは一般的にならなかったし、なりようもなかった。ワープロが出るまでは手書きだったのだ。今時の学生は卒論を手書きする人は少ないだろうが、私は手書きだった。それだけでも、同じ行為をしていても国語力が低下してくるのはやむを得ない。
ましてや、マンガがこれだけ隆盛を極めれば、自ずと国語力の低下に繋がるのも容易く想像がつく。マンガがいけないとか言うつもりは毛頭無いし、マンガだって文字は付いている。ただ、多くの部分で絵が文字の代わりをしているわけで、自ずと小説などに比べれば読み易く、同時に読み飛ばしやすい。
他にも様々な要因は考えられるだろうが、例えば、こうやって文字は使われなくなっていく、表現は古語になっていくという見方も一面できると思う。
憂えるという言葉が、心配するという言葉で代用できるのなら、いずれ使われなくなるかも知れない。そもそも学校で習った古語という言葉は、ものによっては、100年かそこら前に使われていた言葉も含んでいる。
森鴎外や夏目漱石だって、七面倒くさい文章だ。こうやって時代は変わっていく。
ただ、表現手段が、どの程度の範囲で有効かと言うことになると、現代は非常に広い。情報ツールが格段に進歩し、言語や様々な表現手段(コンピュータの言語なども含め)が非常に多様化しつつも、系統立てて利用できるようになっている。
昔のように、一部に使われる頻度が減ったというだけで、単純に言葉が消えていくわけではない。辞書もある。しかも多様な辞書がある。
いずれにせよ、若い人は昔よりも活字に触れる機会が減り、日常的に使わない言葉を覚えようとはしなくなっているのだろう。
関連した記事の中に、国語の授業がつまらないというのがあった。私は、つまらないから授業なんだろうという、穿った見方をしていたが、確かに国語の教科書はつまらなかった。今と30年前が同じ教科書ではないと思うが、所詮、選んでる人の感性がそれほど時代とともに変わっているとは思えないので、それほど面白いものになっているとは思えない。もちろん、面白いと感じる感じ方は人それぞれなので、楽しめる人は十分に楽しめるだろう。
だがそれでも、「この“それ”は何を指しているのでしょう」みたいな問題が出ていると、たとえそれが読解力の判断基準になろうとも、つまらないのは当然だ。
私は、こんなものはたくさん読めば身に付くと信じているので、ことさら興味のない文章を題材に、授業を行うより、好きな作品をずっと読む時間を授業に作ってやれば、自然に国語力は付いてくるように思える。
それが西村京太郎や、内田康夫でも、せかちゅうでも構わないと思う。むしろ、有島一郎を無理矢理読まされるよりはずっと面白いし、読む力も、書く力も付くはずだ。
好きな本を買ってこさせて、自由に読ませ、解らない字があったら辞書で調べさせる。そんなんじゃ国語力って付かないのかな?
面白い本が出てくれば、自然に他のジャンルも読むようになると思うのだが。国語の授業中に、アイドル本を読んでいたって、週刊誌だって、その文章がどうしようもないのなら別だが(例えばどう読んでも意味不明だとか、あまりにユニークすぎて日本語らしからぬとか)、普通の本であれば、そこそこいいと思うが。
この文章は素晴らしいとか、たくさん文章を読んでいる人の視点でいくら力説したところで、子供に通じるのはわずかだ。
国語力の低下は憂うべきことだが、その前に、国語力っていったい何だ?と言うことを教科書に対して問うてみたいな。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 23:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月19日
刑の重さ
今日、夕方のニュースで最近ひき逃げが増えているというニュースをやっていた。
中でも、泥酔状態で車を運転しながら、ひき逃げ後に酒を飲み、運転中に飲んだのかどうか検査ができないようにして飲酒運転の判断が下せなかったなどという悪質きわまりない例もあった。
危険運転致死罪で、最高が15年になったが、法律は殺人という行為にどういう考え方で対処しているのだろう。殺人事件は殺した人数でも形の重みが変わる。
殺人という行為には大きく分けて3つあると思う。
理由はともかく、計画的で利己的な殺人。事故としての殺人。そして、復讐。この際正当防衛は問題にしない。
最初の殺人は最も忌むべきもので、保険金目当てのものから、理由すら分からないものまで、凶悪な犯罪が昨今特に目立つ。最高で死刑だが、死刑や無期になるためには相当の凶悪生がないと行けない。だが、一人を殺す凶悪性と、多数を殺す凶悪性に差があるのだろうか?
事故としての犯罪は、傷害致死や、前述の自動車事故によるものなどがある。私は今日の番組を見て、身内ではないが非常な憤りに襲われた。報じられたことが事実であれば、極刑に処すべきである。例えばこれだけ飲酒運転の危険性を様々なところで言われても、当たり前かのような顔で運転するドライバーのいかに多いことか!酒を飲んで運転した時点で、死亡事故を起こしたらそれは殺人に他ならないのだという認識など、彼らにはない。
今ここで死刑の是非は問題にしないが、少なくとも上記のような人間は極刑が相応しい。ひき逃げという時点でも、同様だ。日本の司法はあまりに甘すぎる。というより、人の命を故意に奪っておいて、そんな人間に人権そのものがあるはずがない。
交通事故そのものは、様々な原因で起こるし、結果的に人が亡くなることも多い。しかし、少なくともドライバーの最低限の法律の遵守や、適切な事故処理によって、奪われずにすんだ命があるとしたら、その行為は、故意の殺人と同じである。
時折、一斉検問で飲酒運転を取り締まるような番組をやっている。そのドライバーの反応を見ていると、非常に恐ろしい。こんな奴らが公道を我が物顔で走っているのかと思うと背筋が寒くなる。
恐らく彼らの感覚はこうだ。事故を起こさなければ犯罪ではない。その程度の認識でも免許は取れる。
更正と言うことは大切なことだが、更正させる必要のない者もこの世の中にはいるのだ。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:35 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月17日
たばこ
私は生まれてこの方煙草を吸ったことがない。だから、自分で吸うという点に関して、煙草が好きか嫌いかという場合は、どちらとも答えられない。ただ、他人の煙草は、その分、不快だ。などと書いて、ここを読む友人の気分を害してどうすると言うことだが、その伝で言うと、おたくの庭の気がうちの庭にはみ出しているので切ったというのが違法であるように、喫煙者には喫煙者の権利があるはずだ。
ブータンで、煙草の販売が完全禁止になったという。違反すると営業停止になり、罰金まで取られるそうだ。ニューヨークなどでも、一般客が入る店では全面禁煙だ。喫煙者の方には非常に住みづらい世の中になりつつあるようだ。
先日JTでも、煙草のパッケージに「肺ガンになるぞ!」と脅し文句を大きく入れるようになるという。
ところで、これらの規制で、面白いのはやはり煙草は麻薬や覚醒剤と違うので、「吸ってはいけない」という法律や条令がないと言うことだ。これは、喫煙が違法だということではなく、ここでは吸ってはいけない、自分で楽しむ分にはいい、と言うことだ。ブータンでも、海外から買ってきて自分で吸うのは違法ではない。
煙草の場合難しいのは副流煙という存在だ。つまり、煙草は吸った本人ではなく周りの人に害を及ぼすという点だ。煙草と肺ガンの因果関係は今では常識のようだが、だからといって喫煙者が100%肺ガンになるわけでもない。
私の父は今年亡くなったが、ヘビースモーカーだった。が肺ガンで死んだわけではない。とはいえ、実は肺をやられていなかったわけではなく、肺気腫という病気であった。肺の病気と言って、肺ガンだけが怖いわけでもなく、それらの病気の原因が、多く煙草に負うているというのも事実なのだ。
個人的には、規制が強くなるのは歓迎する。だが、麻薬などのように完璧に違法とされるまでは、やはり煙草はマナーの問題なのかも知れない。
最近テレビで「マナーの猫」というコーナーを見た。テーブルマナーや、祝儀袋の書き方など、様々な決まり事(誰が決めたのか、どの程度の意味があるのか極めて不明だが)を、こうだと教えてくれる。これらのマナーのうち、それが伝統的にマナーであるからという理由で、その作法をその通りにしなくてはいけないという主張には、私は馬鹿らしくてつきあっていられないし、そんな物時代とともに毎年更新したっていいくらいのものだ。ただ、マナーの基本は、自分が対する相手、あるいは周囲の第三者に対して、どういう姿勢で対するかという問題なのであって、祝儀を2万円にするのは割り切れるからよろしくないなどというのは下らない問題だ。3万円は2で割れないとでも言うのか?
それはともかく、つまりは煙草のマナーというのは、要するに周囲への慮りであり、それはしごく日常的な人との関係をいかにしていくかということに他ならない。都内の多くの駅のホームが禁煙になってしばらく経つが、相変わらず気にせず吸っている人はいる。これは法の問題ではなく、生き方の問題なのだ。
この世は60億もの人間が暮らしている。そのすべての人が同じ考えを共有することなど不可能で、それは今日何を食べたいから、イラクへ爆弾を落とすか否かまで、非常に階層的に食い違いが存在している。個人レベルで帰結することはともかく、集団としての規制が必要なので法がある。であれば、法が規定していることは取り敢えず遵守する、あるいは遵守する努力をすることが必要で、それは道徳やマナーとは別の問題である。
喫煙が法の問題にならないように、喫煙者が煙草の吸い方や場所を守っている限り、規制が強くなることはないはずだが、どんどん強くなると言うことは、現状の法では理想的な状況に近づけることが難しいと言うことである。
私自身、マリファナと煙草の違いが分からない。どちらも葉っぱを紙に巻いて火を付けて吸っているのに、片方が適法で片方が違法である。煙草に習慣性がないなどと今更誰も言わないだろう。煙草が一切精神的に作用しないと言うこともない。
これはあたかも、競馬、競輪、競艇、パチンコ、宝くじは違法ではないが、カジノは違法だというのと実はよく似ている。競馬がスポーツだとしたら、それは騎手にとってだけだ。馬券を売らないで単純に競馬だけを振興させることができないとすれば、同じ理由で、プロ野球も野球券を売れば、赤字解消に繋がるはずだ。
人は、常に自己の都合で物事の判断をする。これは必ずしも悪い意味ではなく、最終的な判断は個人に帰結するのはやむを得ない。とはいえ、その際に、そうでない他人がいることを考えなくてはいけない。
煙草を規制することは大賛成だし、麻薬と同じように違法にしてしまえば、もっとうれしい。しかし、この世の中には煙草が楽しくて仕方がない人もたくさんいるのだ。その全員が、害悪をまき散らしているわけではない。互いが譲り合い、共存できるための方策を考えていくのが、最も(少なくともまだ今は)いいことなのだと思う。
自分の父親が亡くなる前に、病床にいる時、一服させてやりたかった、今ではそんな風に思っている。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 14:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月29日
人質問題
イラクでまた日本人が人質となった。
今回人質になっている香田さんは「旅行」らしいため、世間の同情や関心も以前の時に比べると低いように感じる。もちろん、新潟の地震関連のニュースがあるから、自ずと比率は低くなるだろう。
とてもかわいそうだし、是非助かって欲しいと思う。たとえどんな理由にせよ、親の立場からすれば、まず第一義に救いたいという気持ちに違いない。
ニュースで、昨日から実家に対し相当数の嫌がらせ電話がかかっていると報道されていた。たとえ理由はどうあれ、明日にも首がはねられる可能性がある青年の実家に、例えば「自業自得」とか、「馬鹿じゃないか」とかいう電話がかかっているのだろうか?
確かに彼の行動は非難されるべきだろう。少なくとも無事助かって帰ってきた暁には、大変な苦しみも待っているだろう。
Yahoo!の掲示板などを見ると、様々な意見が寄せられているが、その中で、「旅行中の事故のようなもの」「対岸の火事」といった意見も見られる。理屈で言えば一面正しい。例えば同じ時期に新潟の地震で多くの命が犠牲になった。交通事故や、様々な理由で多くの人が毎日亡くなってもいる。他人の死が「対岸の火事」であるのは事実である。すべてを自分に置き換えたり、身内のこととして捉えるのは難しいだろう。
今回の場合、たとえて言えば、酒を飲んで車を運転して、壁にぶつかったのと比較できるくらい香田さん自身にも非はある。
だが、彼の身を案じ、自らのみを着られるような思いをしている家族に対して、誹謗や中傷のような電話をかける人たちというのは、いったいどんな意識を持っているのだろうか。私にはどうもその辺りの感覚が理解できない。ある意味こういう反応は悪辣でさえあると思う。学校や職場でのいわれのないいじめに似ている。
多くの人が毎日死を迎えているのも事実だし、その中には不幸な死もたくさんある。死はとても個人的な苦しみであるとともに、周囲の人間にとっても悲しみである。一定以上の年齢を迎えて、老衰や、あるいは病気でなくなるとしても、これは望むべくいい方の死である。
若くして病気や怪我でなくなる人、事故でなくなる人、自然災害でなくなる人、殺害される人、我々は誰もこういう死を望まない。だからこそこういう死は特殊であり、しかもより大きな集団から段階的に自分に近づくごとに、それは近しい感覚をもたらす。
たとえ非の多くが香田さんにあるとしても、彼が首を切られて死ぬと言うことがあれば、それは忌むべき行為であるし、あってはならないと思う。その点は分けて考えるべきだ。
日本政府が多額の税金を使おうと、それは政府の義務である。銀行につぎ込んだり、役人や政治家の家賃を安くするために使う税金よりは、少なくとも人の命を救うために使われる税金の方が有意義ではある。
イラクでは、結果的になんだかよく分からない理由のために多くの国民や、あるいは攻めて側である多くの軍人が命を落としている。生と死は、分かつことのできない一本の線の両端であるが、それを戦争や争いという事象の中で、本人の意向を無視して断ってしまうことが、いいわけはない。
この度のことは、人質という手段をもって政治を動かそうとするテロリスト(彼らは自分をテロリストだと思っていないだろうが)側の方が悪い。
ずれにしても、息子の生死を他人に握られた家族には、中傷などすべきでないことは自明のことではないだろうか。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 01:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月26日
歩き煙草
私が住んでいる荻窪は駅付近が、杉並区の条例で歩き煙草禁止区域に指定されている。駅の南側は、バス通りの拡張や、福祉センターの新築などで大分様変わりしたが、同時に整備された歩道には、禁煙マークが所々に印刷されている。
歩き煙草で最近よく言われるのは、手でぶらぶら持っているのが子供の目線である危険のことである。
確かに、煙草ばかりが社会の迷惑ではない。法律で禁じられていない以上、煙草を悪者扱いするのは喫煙者に対する差別だ、という意見があったとしても必ずしも間違ってはいない。煙草が健康を害するのは本人の問題でもある。副流煙が不愉快だったり、他人の健康を害する恐れがあるとしても、車の排気ガスや、様々な環境汚染物質と比べてどの程度だろうか?
こんな反論も、あるいはあるかも知れない。
昔ユートピアという漫才師が煙草のコントをやっていた。
教師「オタクのお子さんは学校で煙草を吸っているんですよ」
親「今時誰でも吸っているでしょう。先生だって昔吸っていたんじゃないですか?」
教師「私は二十歳になるまで吸ったことはありませんよ」
親「先生は二十歳になっても煙草が体に悪いって解らなかったんですか!?」
コントではないが、多くの親が高校時代に煙草を吸った経験を持つであろうし、煙草が青少年だけの体を蝕むわけではない。青少年に悪いものは大人にだって悪い。煙草を吸う人の多くも、体に悪いことを認識した上で吸っているのだ。寝たばこだって危険だと解っていても、自分は大丈夫だと思っているのだ。・・・これは飲酒運転と同じだ。
歩き煙草も実は同じで、千代田区のように職員が取り締まりでもすれば別だが、地面の禁煙マークなど見て見ぬふりだ。これは歩道ばかりではない。駅でもそうだ。若いやつがそうだとか、オヤジがそうだとか、カテゴライズするのは意味がない。そういう人間がいると言うことだ。
私は、学校の卒業式で国家掲揚を義務づけたり、最近ではどうだか知らないが、学校でパーマをかけていたり化粧をしていたりするのを教師が咎めるのは教育ではないと思っている。化粧などというのはいずれ社会に出て必要なのであれば、むしろ学校で授業として教えたっていいようなものだ。と、話がそれたが、こういった思想信条に対する決めごとと、歩き煙草をしないということは、全く次元が違っていて、十分に条例としての価値があると、私は思っている。
私は生まれてこの方煙草を吸ったことがないし、今後も吸う予定がないので、特に煙草の煙には敏感で、不愉快に感じることも多い。せめて、禁煙マークのところでは吸わないという感覚は常識だと思ってはいけないだろうか?
確かにこうなってからは減ったし、多くの喫煙者がそういう決まりを守っていることは承知の上で、敢えてそれができない人たちに、このことは些細でも下らないことでもないと言うことをちょっとだけ言ってみたかった。・・・むう、気が弱い。
投稿者 keisuke_yui : 社会的 | 04:23 | コメント (0) | トラックバック (1)