2007年12月30日

ヴァージン・ウォーズ

 これはDVDについてで、完全ネタバレなので、万が一これから見ようかなどと考えている方は、お気をつけを。
virginwars.jpg
 標題のようなDVDを観た。レンタルで。・・・レンタルで良かった。
 現代は「MISTRESS OF SOULS」・・・このMistressが誰を指すのかにもよるが、魂の女王様とでも訳すべきなのか、いずれにしてもVirgin Warsというタイトルのような戦争物ではない。

 一般的にはやはり、ひどい映画と言うことになると思うが、ひどいにしてもすごい。あまりこの手の映画を観ないので、たまたま観たこれが特殊なのか、一般的なのか判らないうちのカルチャーショックだったのだ。
 一応あらすじ

石油戦争から7年後。世界は無政府状態に陥り、犯罪が横行していた。アルテミーシャは、戦争中に研究者である父を軍に殺され、その後、奴隷となった。しかし彼女は切り札を隠し持っていた。それは、彼女の父が残した一冊の本であった。その本には、石油の代わりにエネルギーとなる水素を水から抽出する製法が記されていた。戦後、石油危機となった世界で、その価値は計り知れないものであった。だが、囚われの身である彼女は、昼は労働に従事させられ、そして夜は女看守たちの性の相手をさせられ本の隠し場所を追及されていた。自らの気持ちとは裏腹に、体験した事のないとめどない快楽に溺れながらも、彼女は自由を求め脱出の機会を窺っていた。そして彼女はついに牢屋の鍵を手に入れる。果たして、その先に待つ運命とは・・・。
アルバトロス・フィルム

 水から水素を取り出すという、小学校の電気分解の実験のような大発見がまずすごいが、この作品を出しているアルバトロス・フィルムのホームページを見れば解るとおり、この作品は「エッチな」作品だ。AVではないし、R指定でもないが、全編9割以上が女性の裸で満載だ。
 確かにあまりやらしくはないが、一応女性同士の絡みもあるので、一般的に言えば、どこかのR指定が正しいのではないかと思う。

 尤も、今日書きたいのはそんな裸が云々とか、そんなことではなく、ストーリーのことだ。
 上記のあらすじを読めば解るが、当然、主人公は苦境にあり、牢屋の鍵を手に入れた。父親を殺した側のトップはこれも女性なのだが、このアルテミーシャという主人公ばかりでなく、多くの女性を奴隷にしている。女性に革の拘束具を付け、馬の変わりに車を引かせたりもしている。まあ、いわゆる悪い奴なのだ。
 この悪い親分が、アルテミーシャから本の情報を聞き出そうと、スパイを使う。このスパイの女性は、姉を捕らえられていて、姉を助けて二人を自由にする代わりに、スパイをしろということだ。このスパイは本の在処を聞き出すことはできなかったものの、合い鍵の一件はしっかり伝える。
 だが、しっかりスパイをした割には、姉と共に、新しい馬車馬にさせられてしまうのだ。ああ、かわいそう。

 そしてこの悪の親分は、しっかりアルテミーシャの合い鍵も確認しながら「バカな女」といって、そのまま合い鍵を元の場所に置いておく。
 合い鍵の件を知られてしまったアルテミーシャだが、脱出を試みる。

 さてここからが、言わば、悪者とアルテミーシャの駆け引きになるはずだ。いかにしてアルテミーシャはそこから抜け出し、悪と対決するのか、・・・・と思っているうちに、アルテミーシャは、本を地面から掘り起こした瞬間に、悪者の側の兵士に捕らえられてしまう。「バカな女」先ほどの親分の言葉だけが画面に流れる。

 そしてエンドロール!

 おい、ここで終わりか!
 天網恢々疎にして漏らさず・・・漏らしっぱなしかよ!
 結局悪者が勝ったのだった、ちゃんちゃん。

 彼女は抵抗らしい抵抗をしていない。逃げようとして失敗した。それだけの話だ。
 この脚本で、たとえそれがエロビデオでも、作ろうとした監督は偉い。

 ある意味これはどんでん返しだ。
 何だか解らないが、つい他のアルバトロス作品も観たくなる。
 怖いもの見たさだ。

 いやあ、すごい。絶句。

投稿者 keisuke : 映画 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月11日

タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年

「タイム・トラベラー〜戦場に舞い降りた少年」というDVDを観た。
 タイトルの通り、時間旅行を扱った作品で、まだ202年の作品だ。イギリスの作品で、イギリスの田園風景が美しい。
 筒井康隆の「時をかける少女」が、NHKで少年ドラマシリーズとして放映されたのは、40年近く前の話だが、その時のタイトルが「タイムトラベラー」でタイムトラベルという単語は、その原体験を持つ者にとって、否応なく過去の記憶も蘇らせる。
 と言って、再放送こそあったものの、ビデオが残っていないその作品は、当然ビデオもLDもDVDも発売されることなく(NHKアーカイヴスでも放送された、テレビ放送の録画による、一部が発売されたことはあったが)、その後の「時をかける少女」ほどの記憶は残っていない。
 SFというのが、日本語で空想科学小説と言われたのはいつの頃だろう。科学小説の前に「空想」と付けることで、荒唐無稽さや、子供っぽさを醸し出しているように感じる。いずれにしたところで、小説のほとんどは空想作品であるわけで、SFのみが、作家の想像から生まれるわけではない。
 筒井康隆の時間旅行は、今でこそトイレの芳香剤にすらなっているラベンダーという、少なくとも当時子供だった私には、異世界の花のような花の香りと、時間旅行の薬は結びついていた。
 そもそも少年向けに書かれた小説で、ある意味、ハードSFとは正反対に位置する作品ではあったが、ファンタジーと言うには、科学的な色合いも濃かった。

 さて、ウェルズが「タイムマシン」を書いたのは、すでに前々世紀のことだ。マーク・トゥエインの「アーサー王宮廷のヤンキー」などはさらにそれを遡る。
 機械を使うのか、薬を使うのか、機械を使えばよりSFらしさは増すが、所詮現実にはあり得ない機械なので、ブラックホールを使おうが、何をしようが、「空想」の域は出ない。
 だが、やはり魅力あるテーマなのだ。

 ウェルズは未来志向、「戦国自衛隊」など、多くが歴史のIFを求めているのに対し、「時をかける少女」は、タイムトラベルを題材に、多感な少女の心情を扱った小説だった。
 今回の「タイムトラベラー」もまた、戦場に舞い降りたなどと、あたかも歴史のIFを扱ってそうな邦題を付けているが、実のところ、そういう映画ではない。筒井が少女なら、こちらは少年の心情だ。

 タイムトラベルもので困るのは、いわゆる「親殺し」というテーマで、自分が生まれる前の過去に戻って、親を殺してしまうというお話だ。生まれるはずのない自分が親を殺しに行けないというパラドックスは、先史時代を扱う場合など、「サウンド・オブ・サンダー」のように、1匹の虫から、壊滅的に世界が変わるという風に描く。
 このパラドックスは実は、どう扱おうと、パラドックスであるが故に、小説では恐らく扱いきれない。どこかで妥協をしなくてはいけないからだ。その妥協の線がどこにあるかで、いい作品になるかどうかの、大きな分岐点の一つとなる、僕はそう思っている。

 そういう意味で、今回のイギリス版の「タイムトラベラー」は、よくできていた。自分の気持ちや立場を、ほとんど口にしない少年が、まだるっこしい部分もあるし、少年が現代へ帰るとき、あたかもそれを知っていたかのような過去の農場のおやじの様子は不可解だったが、全体としてはとてもよくできている。
 それは、この作品が、タイムトラベルでありながら、その実少年と少女の心の交流をテーマにしっかり置いているからだろうと思う。決して派手な作品ではないし、タイムトラベルそれ自体の有り様は、陳腐この上ないが、この際どこでどんな風に過去に戻るかなどはほとんど問題にならない。
 なかなかいい作品であった。

 同意に、カール・デイビスという人が音楽を担当しているようなのだが、この人が作曲しているとすると、なかなかいい曲を書く。マーラーの響きと、ヴォーン・ウイリアムスの響きが混在している。いかにもイギリスらしい曲に思える。
 サントラが是非欲しいのだが、出ているとも思えない。クラシックの作曲家というより、映画音楽の作曲家なのかも知れない。
 DVDも、開いてる部分にサウンドトラックをできるだけ納めて欲しいと、切に願うのである。
 

投稿者 keisuke : SF / 映画 / 音楽 | 02:47 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月 5日

モンテクリスト

 モンテ・クリスト−巌窟王−という映画を観た。DVDをレンタルした。2002年のアメリカ映画で、劇場では観ていない。

 アレクサンドル・デュマの作品といえば「三銃士」がその筆頭だと思うが、以前にも書いたと記憶しているが、私は「モンテクリスト伯」の方が好きだ。「三銃士」「二十年後」「ブラジュロンヌ子爵」という大河小説は、確かに面白いし、特に「三銃士」はその中でもすばらしいと思う。しかし、個人的な好みとしては「モンテクリスト伯」の復讐譚の方が、どこが、というのではないが面白いのだ。
 黒岩涙香が「巌窟王」という印象深い翻訳のタイトルを与えたこの作品は、歴史上最も優れたエンターテインメントの一つだと信じて疑わない。この作品と、前記の「三銃士」そしてビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」このフランス文学の3作が、私にSF以外の書物を読むきっかけを与えてくれた重要な作品でもあるのだ。
 監獄を出た主人公の数奇な人生という意味では、「レ・ミゼラブル」も「モンテクリスト伯」も、ある意味似ている。十数年前だったと思うが、フジテレビの昼メロで「愛・無情」というのをやっていた。榎木孝明と原日出子が出演していたが、「レ・ミゼラブル」を元にしているので「愛・無情」というタイトルだったのだが、そもそもジャン・ヴァルジャンに当たる榎木孝明に、原日出子という恋人が居る時点で、原作は「モンテクリスト伯」ではないのか?と疑ったものだが、そもそも昼メロなので、ほとんど観ていない。最初の何回かを飛ばしながらビデオに撮った記憶がある。現在であれば、ハードディスク搭載のデッキがあれば、全て録が可能だったのだが、その当時はビデオしかなかった。今でも観てみたいが、DVDでは見かけないし、再放送もあるとは思えない。残念だ。

 さて、「モンテクリスト伯」にしても、「レ・ミゼラブル」にしても、だいたい見れば後悔するのだ。ジャン・ギャバンがジャン・ヴァルジャンをやったのは、そこそこ面白かったように記憶しているが、ラストシーン近くの楽しみにしているシーンがいまいちだったような記憶もある。
「レ・ミゼラブル」をドパルデューがやったのを観たときには開いた口がふさがらなかったが、同じドパルデューは「モンテクリスト伯」も作っている(というか出ている)。
 これもまた、ラストシーンで唖然としてしまった。ダンテスとメルセデスが手に手を取り合って、新しい人生を歩んでいくなんていうのは、ジャベールがセーヌ川に身を投げて死んだあとに、晴れ晴れとした顔で去っていくジャン・ヴァルジャンと同じく、この2作品を台無しにする行為だ。
 そして今度もまたやってくれた。

「モンテ・クリスト−巌窟王−」という作品は、エスプリのエの字も感じられない。アメリカ映画、しかも娯楽作品としてみれば、あるいはそこそこのレベルにあるとは思うが、実際そのそこそこを形成しているのは原作が持っているエンターテインメントなのだ。
 脚本家が楽しそうに語っているおまけが付いていたが、「そうか、こいつに書かせたのがいけなかったんだな」ということはそこでよく分かった。
 原作にはアクションがないからアクションをふんだんに加えたとか、アルベールをダンテスの子供に仕立てたのは、どうしてデュマは思いつかなかったのだろうと、得意げに語っていた。

 原作と違うことをいう人に対しては、原作がいいなら原作を読めという、こういう作品を作る映画監督や制作者がよく言う常套句を使っていたが、それより、そういう作品が作りたかったら、オリジナル作品を作れ!といってやりたい。

 著名な原作を映像化する場合、観客が望むのは、その作品が持つクオリティだし、中身なのだ。それを身勝手な論理で作り替えるのは、オリジナルで勝負できないクリエイターの言い訳に過ぎない。
 今回の作品でもデュマの作ったすばらしい作品に乗っかった、安易なエンターテインメントの歪曲でしかない。アクションがないと観客が喜ばないと思っているのなら、別のアクション作品を作ればいいではないか。

 これらの作品は、原作の持つ素晴らしさを維持したまま映像化することが不可能なのか、制作者がいつもぼんくらなのかどっちかだ。一度でいいから、忠実な作品を作ってもらいたい。原作が面白ければ、それを元にした映画やドラマを見るのは読者としての楽しみの一つではある。
 解釈というレベルならまだいいが、歪曲はやめて欲しいものだ。

 それでもダンテスはこういうかも知れない。
「待て、そして希望を持て」

投稿者 keisuke : 映画 | 23:35 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年3月28日

ある愛の詩

「ある愛の詩」といえば、ライアン・オニールの70年頃の映画と相場は決まっているわけだが、実は今日、TBSでDoCoMoドラマスペシャルと銘打って、同名のドラマが放送された。
 タイトルから言っても、私が見るようなドラマではないのだが、実は、知人がエキストラで出るというので、観た。そして無為な2時間を過ごした。
 テレビドラマの黎明期でもあるまいに、よくぞここまで頼りないドラマを作った!と言いたい。ドラマのTBSが泣く。「渡る世間・・・」でも観て、考察し直した方がいい。
 ストーリー展開の甘さとご都合主義は、まるで日本テレビの「ベタなドラマ・・・」をそのまま観ているのではないかと思うほどひどい。
 原作にどれほど、ドラマとしての作品が負っているのかは知らないが、私が原作者だったら、泣くに泣けない。いや、実は原作そのままだとしたら、それはそれで・・・・

 何のために出てきたのか解らないNo.1ホストを始め、悪い父親ぶって、全くただの平板な父親でしかない神田正輝(いや、逆にあの妙な物わかりの良さは、悪い父親なのか?)
 浅野ゆう子が、「いつ私がミラノって言った?」という台詞に至っては、もはや救いようがない。
 しかも、田舎者のたくみ君に無理矢理DoCoMoのテレビ電話を持たせるという、スポンサーのためにだけ作られたこのドラマの、ありようがさらに腹立たしい。
 そういう意味では、おぎやはぎのCMだけは面白かった。

 声楽コンクールも、あれで一等賞はないでしょう。少なくとも私にはそう聞こえた。綺麗なだけの声で、ディーヴァは片腹痛い。
 いっそのこと、主人公が沖縄に行った時点でたくみ君の死体が浜辺に流れ着きでもすれば、少しは昔の「愛の詩」に近づけたかもしれない。
 それと、結局あの中越典子はどんな役回りだったのだろうか?小道具以上の役回りではない。あ、それはイタリア帰りのピアニストも一緒だが。

 訊いてみたら、エキストラに加わった友人の部分は、一カ所はカット、もう一カ所はカメラからはけていたという。二重の意味で意味のない二時間だったわけだ。
 TBS、水戸黄門の方が、100倍よくできているぞ。
 

投稿者 keisuke : 映画 | 00:33 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 8日

<なみおか映画祭>今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り

 まさにタイトルのような記事がYahoo!に載っていた。毎日新聞の記事だ。
 なみおか映画祭のホームページを見ると、2004年のままで、更新されていない。
 記事によれば、「日活ロマンポルノを特集する企画に、市教委が補助金130万円を打ち切り、会場も貸さなくなった」という理由で無くなるらしいが、神代辰巳の特集とも書いてあるので、単純にロマンポルノを流そうとしていたわけではなく、神代辰巳を扱えば否応なしにロマンポルノの作品群があると言うことなのだろう。

 よく最近、ロマンポルノと昨今のAVを比較して、あたかもかつてのロマンポルノには芸術性があって、最近のものにはないというような見方をする人がいるが、そういう見方はどういうものかな?と思う。この記事にも「文化庁は日活ポルノの芸術性を認めて補助を決めていた。」という行があった。
 ロマンポルノに芸術性がないとは言わない。そもそも芸術性なんていう言葉は、非常に曖昧で、人によって取り方が違うわけだから、必ずしも多数のコンセンサスが得られることが必要なわけではない。文化庁がそういうなら、そういうことだ。
 私がロマンポルノを見ていたのは、浪人時代から大学のせいぜい2年くらいまでの短期間だった。場末という表現が似合いそうな映画館でごくたまに観た。
 18禁という意味では現代のAVと同じだし、環境から言えば、現代のAVの方がより多くの人間が簡単に観ることができる。

 昔、「エマニエル夫人」という映画があって、日本でも相当流行った。私が高校生の時だ。70年代を記憶している人の多くは、籐椅子に座るエマニエルのポスターについては印象深かったはずだ。
 私から観ると、日活ロマンポルノも、エマニエル夫人も、AVも、大同小異だ。いい物もあれば悪い物もある。AVだからといって十把一絡げにして「悪」のレッテルを貼るのは、「ハレンチ学園」を排斥しようとしたPTAと何ら変わりはない。

 「エマニエル夫人」や「O嬢の物語」と言った作品は言ってみれば日活ロマンポルノの海外版で、芸術性などよりも娯楽性が高いことは言わずもがなのことだ。そもそもこの芸術と娯楽は簡単に同居できる種類の性質で、決して対極にあるわけではない。音楽なんてまさにそうで、クラシックを芸術芸術と奉ったところで、楽しいから聞いているわけだ。

 映画も同様で、芸術的かどうかは、評論家や研究家が決めることで、観る側には関係ない。小説だってそうだ。谷崎潤一郎が書けば文学で、川上宗薫や富島健夫がエロ小説(すげー古いから、今なら杉本彩とでも書けばいいのかな)というような事にしてしまうのは一部の人間の発言故だ。

 もともとエロチックな衝動というのは人間であれば誰しも持っているし、求める物だ。男女の差もない。もちろん、方向性や程度、趣味など人によって大きく違うこともあるが、大局的には本能だ。これは、子孫を残そうなんていう生物学の授業のような本能とは違い、もっと実際的で、なおかつ妄想的だ。
 そしてそれを具現化したのがロマンポルノであり、官能小説であり、AVだ。

 自ずと制限や規制はあるから、どの映画祭でどういうものを取り上げるのか、どこからお金が出ているのか、様々な問題がある。神代辰巳を扱うことは、「ベッドタイムアイズ」や「咬む女」「青春の蹉跌」を扱うのと同じ線上で、「四畳半襖の裏張り」や、多くのロマンポルノを扱うことでもある。
 女の裸やセックスシーンが出てくればエロ映画というのであれば、昭和50年代のテレビ時代劇など、相当にエロかった。だからといって、セクハラっていうことも含めて、適材適所という考え方もある。
 セクハラというのは、客観的行為で誰が見てもハラスメントなものと、かなり親告的に取り上げない限り、セクハラには見えないことがある。だがどちらもセクハラであるように、神代辰巳の作品あるいは、日活ロマンポルノ(括ってしまうことにも問題はありそうだが)に、芸術性を見る人もいれば、ただのスケベな映画としか見ない人もいるのだ。

 この世はなべてバランスが大事。肉を食ったら野菜も食べないといけないが、営業周りの前はニンニクは避けた方がいいという、いわば処世は、時折煩わしくもあるが、時に阿っておいた方がいい場合もあるのだ。

 そんなニュースだと思った。

投稿者 keisuke : 映画 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年7月10日

ハリウッド映画の低迷

 ハリウッド映画が低迷しているという記事が出ていた。リメイクや続編ばかりでうんざりしているというような趣旨だ。リメイクは「宇宙戦争」だろうし、続編は「スター・ウォーズ」だろう。どっちもSFか!「バットマン」もあるか。
「宇宙戦争」は確かにそうかな。見ていないけれど、見たいとも思わない。今更「タイムマシン」や「宇宙戦争」でもないだろうと思う。しばらく前にやった「タイムマシン」は、ウエルズの子孫が絡んでいたようなので、解らなくはないが、SFをやるのなら、もっといくらでも面白いものがあるだろう。
 そういえば、「盗まれた町」なんかも、2度くらいリメイクされていなかったか?今度の「戦国自衛隊」もそうだな。何であんなにみんなリメイクが好きなんだろう?多分、監督やプロデューサーが昔の作品を見て、俺ならこんな感じでできると思うのか、懐古趣味のどちらかではないだろうか。

 前にも書いたかも知れないが、「幼年期の終わり」を、どうにか映画化してくれないものか。楽しいだろうにな。他に映画化して欲しいSFというと、「人類皆殺し」とか、「シリウス」「永遠の終り」とか・・・なかなか小説では面白くても映像でと思って思いつくものは少ないな。・・・でも古いな。

 ところで、興業が振るわない原因を、DVDのせいなどにも置いているようだが、だとすれば別ルートで儲かっているのでいいはずだし、だんだん大きな映画館で、皆が見る時代も変わってくるのかも知れない。家庭である程度の迫力で見られれば、映画館である必要が大分無くなる。確かに映画館と同じ大きさは無理だろうが、そこまで必要だろうか?
 尤も、振るわない原因は第一に観客になる人々が興味を持たないからで、以前に比べてかなり趣味が多様化しているのは日本ばかりではないと言うことだ。今の携帯料金で昔は何をしていたのだろう?そう思ってみると、可処分所得の使い道は非常に変わっているはずで、映画だけがずっと、ハリウッドだからと言って素晴らしい収入を得られる時代はきっと終わったのだ。
 でもハリウッドにとっては、家庭でのDVD鑑賞という、より広い市場ができたのだからよしとすべきであろう。

投稿者 keisuke : 映画 | 22:35 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年5月 8日

リージョンという問題

 DVDにはリージョンコードというのが設定されており、海外のソフトを見ることができない。これは、ハリウッドの映画業界が、例えば日本で公開前の映画を、日本人が輸入して見てしまい、映画館に行かなくなることで、興行収入が減ることなどを危惧したということのようだ。
 この偏狭で小心な制作サイドの思惑が消費者の行動を制限するというのは、まさに暴挙というしかない。DVD買ったって、ハリウッドにはお金はいるだろう?ではないのだろうか?いずれにしても、日本人の英語力を過大評価し、金では買えない消費者の信頼を損ねるような行為だ。

 もちろん、リージョンフリーだからといって、海外の作品を見るかというと、個人的にはあまりない。ただ、海外旅行に行って、欲しい物があれば買いたいと思っても、どうせ再生できないのだから買わないと言うことになる。結果、逆効果だったり。
 現在ではリージョンフリープレイヤーでもかからないソフトもあるらしい。
 これらの措置は、CDで言えば、エイベックスやソニーが導入している、パソコンでは専用ソフトでないとかからないという、消費者を小馬鹿にしたコピーコントロールCDという仕組みと一緒だ。

 ビル・ゲイツの資産や、マイクロソフトの業績を見ていると、果たしてWindowsや、Officeの価格は適正だろうか?と思わざるを得ない。パソコンのソフトや、音楽ソフトは例えば書物と同じ著作物だ。家族や友人同士の貸し借りなど、書物であれば当たり前だ。というか、それもまた読者を増やす一つの宣伝でもある。同様に、ソフトウエアや音楽などの著作物も、その辺りのアローアンスをしっかり保持してこそ、消費者との円滑なやりとりが成立すると私は考える。
 ポータブルオーディオプレイヤーがこれだけ流行っても、自分で購入したCDから録音できない人が沢山いる。
 もちろん何事も、全て満たされるということは、人生の多くの場面でなかなか無いことだが、それとは全く違った次元で、過度な反応で消費者が不便を被るようなことを実は多くの業界が行っていると言うことだ。

 これはある意味、特殊法人や、公務員が不当に大きな給与や手当、あるいは世間的に見て明らかにおかしい家賃で住宅に住んだりという不都合がどれだけマスコミに取り上げられようと、その恩恵を受けている人もまた沢山存在するために、それほど簡単に片が付かないというのとちょっと似ている。
 利害は各々が所属する社会を代表しているので、多くの場合、強い方が勝つ。

 まあ私たちは、こうやって小さな声を上げ続けていくしかない。

投稿者 keisuke : 映画 | 22:50 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年4月16日

デイ・アフター・トゥモロー

 私は最近、映画館で映画を見ない。映画館で見る映画とテレビ画面で見る映画が違うのは当然のことだが、少なくとも私にとっては、大画面だからテレビよりもいいというメリットと、一人でのんびり見られるというメリットのどちらを取るかと言われれば後者を取る。単純にそんな理由から、映画館には行かず、ビデオや、最近ではDVDで楽しんでいる。こののんびりという中には、各駅停車の旅ではないが、途中下車できる楽さというものがあり、映画の途中で止めておいて別の時間に見るというのもメリットの一つだ。続けて見ないととか、臨場感とか、様々な楽しむための意味が映画館にはあるのかも知れないが、ごく個人的な点に於いては、それらはさっぱりメリットではない。

 さて、最近では洋画のDVDはかなり価格が落ちてきて、標題に挙げた「デイ・アフター・トゥモロー」は、まだ公開から日も浅いが、わずか999円だった。もちろん、FOXの何周年記念企画みたいな触れ込みはあったが、公開当時から見たいとは思っていたので、躊躇無く購入した。
 全体的な感想から言えば、まあそんなものか、なのだが、それはそれ、CGを使った迫力あるニューヨークのシーンなどは十分に楽しめた。こういう映画というのはエンタテイメントと同時に、監督なりプロデューサーの強いメッセージがいくつか入っていて、それは地球温暖化への警鐘であったり、政治と人間性の葛藤であったり(こちらは案外いつでもステレオタイプだが、逆にステレオタイプだからこそ意味を持つこともある)、根本的な人の美しい生き様だったりする。
 例えば、ニューヨークを津波が襲うというシーンは、「ディープ・インパクト」や「アルマゲドン」で続けて見ているし、今回のものはそれに比べたら可愛い。だが、先日のスマトラ沖地震ではないが、様々な理由から、それに近い災害というのは起こりうるわけで、単なるエンタとして片付けてはいけない内容を持っている。

 実はこのタイトルから、昔の「ザ・デイ・アフター」という映画を連想した。
 こちらは核戦争の映画だが、非常にシリアスで、深い内容だったと記憶している。核爆弾投下後の悲劇という意味では、「トータル・フィアーズ」もそうだが、こちらはジャック・ライアンの活躍するヒーローモノという色合いが濃く、同じ素材を扱っても大分違ったものができあがるという好例だ。広島、長崎を国内に抱える日本と、原爆博物館で「かっこよさ」を売り物にさえしてしまうアメリカの、ここが大きな違いのように思える。
 確かにアメリカの戦争物は、一部を除くと非常にヒロイックだ。闘って自由を勝ち取るという図式の中で生きてきた国民と、一度大負けをして、その中から、過去を否定いしながら這い上がってきた国民の差がそんなところにもある。どちらがいいと言うこともないが、ただ、爆弾はかっこいいものではなく、人の命を奪う兵器でしかないことは、地球人類の共通認識となる世の中になって欲しいものだ。

投稿者 keisuke : 映画 | 23:54 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年1月28日

ディアボロス/悪魔の扉

「ディアボロス」は、アル・パチーノとキアヌ・リーブスが共演した映画だ。まだそんなに古くない。
 負けない弁護士のキアヌが、裁判中に見た一場の夢のような体裁を取った映画。キアヌ・リーブスというと、「スピード」や「マトリックス」といった派手なアクション映画が有名だが、どちらかというと彼の顔は、こういう役に上手くはまっている典型のような気がする。
 あの端整な顔立ちは、辣腕の若手弁護士にぴったりだし、ちょっと精神的に弱そうな雰囲気も、この映画にはいい感じだ。何よりアル・パチーノがすごいから、どうしたってそっちの方が目立ってしまうのだが、悪魔らしさが非常にいやみなく出ていてさすがと思ってしまう。
 キアヌをニューヨークの一流弁護士事務所のスターに育てようとしたのは、父親たる悪魔のアル・パチーノだったというストーリー自体は、いかにもの感はあるが、最初私はタイトルも気にせず、しかも前情報無しで見たので、それほどホラーという感覚無しに、実は「弁護士物」みたいな感覚で見ていた。そうやってみると、このストーリーは意外によくできていて、恐怖の内に精神を病んでいくキアヌの妻(シャーリーズ・セロン・・・なかなかかわいい)も迫真だし、自らの弟を誘惑する魔女(ジュディス・アイヴィー)も、なかなかエロチックだ。
 
 最終的な落としどころが、「一場の夢」的なところは、賛否あるのだろうが、であればこそ、最後の「虚栄心は人を惑わす」というアル・パチーノの台詞と、ストーンズの「黒くぬれ!」が生きているのだ。

 アル・パチーノとロバート・デ・ニーロという俳優が、私の中では昔からごっちゃになっていて(と言って、違いが分からないとかそういうのではないが)、雰囲気とか、性格俳優的なうまさに何か共通するものを感じる。デ・ニーロはやはり「タクシー・ドライバー」が私には原点だが、アル・パチーノにはない。「ゴッドファーザー」みたいな映画があまり好きではないので(そう言えばデ・ニーロも出ていたのかな?)、アル・パチーノとの最初の出会いは、榊原郁恵の歌だったりしてしまうかも知れない。

 いずれにしても、この悪魔的な表情が板に付いているアル・パチーノと、まじめな青年キアヌ・リーブスの対称が非常に面白いし、私はこの映画はホラーと言うよりはSF的だと思っている。・・・・怖くないから。
 怖さよりも、人間の内面に潜む虚栄や欲望と、それを抑えようとする心の葛藤をコミカル(アニメ的という意味)に描こうとした作品であると思っている。
 私の中ではかなり高評価の映画。

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年1月11日

猿の惑星

「猿の惑星」をさいしょに観たのはいつのことだったろう?もう忘れてしまったが、劇場公開時ではなかったことは確かだ。恐らく吹き替えのテレビだったような気がする。
 テイラー(チャールトン・ヘストン)の吹き替えが納屋悟朗の印象が強いのもそのせいだ。もちろん、納屋氏はチャールトン・ヘストンの他の作品もたくさん吹き替えをしているので、そのせいもあるかも知れない。
 普通話題になるラスト・シーンで私も驚いた一人だった。中学か高校の頃だったと思う。コーネリアスを近石真介、ジーラ(キム・ハンター)を楠トシエだったと記憶している。コーネリアスは他の人のヴァージョンもあるのだが(記憶では)、近石さんの方がしっくり来る。
 以前に「猿の惑星」シリーズがまとまったボックスセットを購入したが、これには吹き替えが入っていなくて残念な思いをした。
「猿の惑星(Planet of The Apes)」自体は68年の作品なので、私が9歳の時だ。これ以降、5年間で「続・猿の惑星(Beneath the Planet of the Apes)」「新・猿の惑星(Escape from the Planet of the Apes)」「猿の惑星 征服(Conquest of the Planet of the Apes)」「最後の猿の惑星(Battle for the Planet of the Apes)}の5本が作られる。
 宇宙飛行士テイラーの着陸で幕を開けるこのシリーズは、そもそも最初からこういうストーリーで考えられていたわけではない。一作目が受けたので、続編、続編となって、あの輪廻のような作品ができあがったのだ。
 原作はピエール・ブール。名前から解るようにフランス人作家で、「戦場に架ける橋」を書いた人だ。

 今更この作品でネタバレもないが、1作目の山は、なんと言っても、最後の最後に、自由の女神をテイラーが見上げるシーンだろう。ただ猿が支配する惑星の冒険譚を描いたのであれば、この映画はあれほど有名にはならなかった。ザイラスに別れを告げて、禁断の地域に足を踏み入れたテイラーが見たものがあるからこそ、続編が生まれたのだし、なぜそこに自由の女神が倒れていたのかと同時に、なぜ猿が支配したのかを、「ターミネーター」ばりのタイム・パラドックスを使って強引に仕上げたあれだけの作品になったのだ。
 70年頃のサイケデリックで、B級な演出も、今となっては素晴らしく見える。「続」は、最後の2作と共に、私はできが悪いと思っているが、最後の最後で、「猿の惑星」の最終話が実はこれなんだという演出をし、恐らくこれを最初に見た人は、「正・続」2編で完結という見方をしたに違いない。
「新」を見ると、なぜか私は「ダーティー・ハリー2」を思い出す。1話の逆をいった「猿の漂着」から始まるこの「新」はとても面白いし、ラスト・シーンも1話と同じくらい粋な終わりだと思う。
「征服」は、いかにもあの当時に描かれた未来ものという映像で、「新」との間に違和感を覚えずにはいられないが、恐らく1話では、演出程度にしか感じられない「猿は猿を殺さない」という台詞が、ベトナムへの反戦スローガンのように聞こえるから不思議だ。これと次の「最後」は、実はオチがない。3作目までに気づき上げてきたものを、どう帰着させるか、少なくとも「征服」はテーマがあったが、「最後の」はそのテーマを失ってしまった蛇足の作品になってしまっている。

 起承転結とよく言うが、「猿の惑星」は、まさに起承転結的シリーズであると思う。正・続・新、ここまでは、まさに起承転なのだ。そして言ってみれば残りの2作で結なのだが、実際には先ほども書いたように、「承」である2作目が、真の意味でのラストシーンと言うべきなので、微妙に最後の2作は威力がない。
 作品としては「新」で終わっても良かった気がする。それだけのインパクトを持っているから。多分配給会社の欲目だったに違いない。

 2作目ができが良くないというのは、猿が地球を支配するようになるという流れはともかく、安易に、放射能が生んだ「超能力者」という設定が、何とも作品をチープにしているからだ。
 それ以外は、「新」を作ることで、猿が地球を支配することに、言っての説得力を与えているからだ。但し、このパラドックスの放置は、SF的には破綻すれすれなので、それを押してもよく見えてしまう映画の力がすごいと思う。

 ティム・バートンが2年くらい前かな?リメイクしているが、あれに関しては、見るべきところがない。正直がっかりした。映像的にはきれいだが。確かに、今、68年のと同じ作品を作れと言われれば、無理がある。
 それくらい「猿の惑星」は、実は突っ込みどころがたくさんあるのだが(例えば、猿が英語を話す段階で主人公、解れよとかいろいろね)、そんなものは些事であり、この作品の評価をおとしめるものではないのだ。
 そういう意味では、ティム・バートンが描いたものは、その辺りの説明的整合性は、旧作よりしっかりしていたかも知れないが、それだけだ。

 ある意味、ああ、これで良かったのか、昔は。というおおらかさすら感じさせてくれるSFではある。

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2004年12月23日

ファイナル・カウントダウン

「ファイナル・カウントダウン」といっても、ヨーロッパの歌じゃない。この場合ヨーロッパはロックバンドのヨーロッパだ。妙な二重説明。
「ファイナル・カウントダウン」は、カーク・ダグラスが主演した1980年の映画のことだ。同時期のタイムスリップ物では、「フィラデルフィア・エクスペリメント」があるが、なぜかこちらの方は評価が高いが、「ファイナル・カウントダウン」は評価が低い。カーク・ダグラスと、マイケル・パレを比べて、パレの方がかっこいいからというわけでもないだろうが、なぜかそうだ。
 確かに、ステーキのような名前をした原子力空母「ミニッツ」が、実験公開中に変な嵐を抜けると、そこは太平洋戦争前夜の太平洋にタイムスリップし、ちょっといざこざがあって、元に戻るという、書いてしまえばたわいもない話なのだが、落ちが好きだ。
 当時の最新鋭の戦闘機が零戦と戦って撃ち落とすなんていうシーンもあるが、メインはタイムパラドックスなので、真珠湾攻撃をミニッツで阻止しようという目論見は敢えなく潰える。
 大統領候補の上院議員の秘書にキャサリン・ロス、そしてその相手役は名前を知らないが、ミニッツの士官である彼が結果的にハワイ近くの島に置き去りにされ、40年の時を経て、帰還したミニッツから降りたマーチン・シーン(チャーリー・シーンの親父だが顔がそっくりだ)を、ベンツだかロールスロイスだか忘れたが、高級外車で出迎えるというシーンは、一見べたべたな終わりのようだが、意外にないはずだ。
マーチンよりも40才年老いてしまった士官は「つもる話もある」といって彼を車に迎え入れる。全編を通じて音楽もなかなかいいし、スペクタクルに流れがちなSF映画の中では、なかなかいい味を出していると思う。
 確かに、SFとしては1980年という年には、アイディア的にどうかという批判があってもいいが、だったらスター・ウォーズはどうだ?1930年代のSFだと言うことになる。アイディア云々よりも、いかに面白いかだと思うが、私的には至極面白く、何度も見返している作品だ。
 カーク・ダグラスといえば往年の名優で、息子も活躍しているが、さすがに「スパルタカス」とどちらがいいかと訊かれると悩むところだが、その程度に気に入っている作品だ。私は「十戒」を始めとするあのころのスペクタクルものがとても好きで、また別に機会に「バラバ」を取り上げたいと思うが、それに比肩する楽しさだ。

 タイムスリップした空母が、どこにいるかが判らなくなり、通信のやりとりの中で、「こちらは空母ミニッツ」というと、「何を言っている、ミニッツ提督はまだ現役だ」というようなシーンがあったと思うが、こういうところが、私のツボなんだなこれが。

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2004年12月 5日

スティーヴン・セガール

 セガールというと、俳優でもあり監督でもあり、武術の達人で、大阪弁で喋る大男というイメージだ。
 彼が当たったのは遅いデビューの「刑事ニコ」と「沈黙の戦艦」だろう。後者は「沈黙シリーズ」として日本ではおなじみだ。実際には同じ主人公のものは「暴走特急」だけだから(実は続きを作っているらしいが)、シリーズ物ではないが。・・・やたら沈黙を付けるのは映画会社の情けないところでもあるが、一方、それがセガール作品であることが解るという意味では、効用もあるのだ。

 個人的に最も好きなのは、「暴走特急」だが、取り敢えず、彼が出る作品は、彼の圧倒的な強さが何よりも魅力なので、彼が暴れない作品は余り面白くない(ほとんどないが)。
「沈黙の断崖」「沈黙の要塞」「グリマーマン」「DENGEKI」「アウト・フォー・ジャスティス」「ハード・トゥ・キル」「死の標的」「沈黙の陰謀」「沈黙のテロリスト」・・・最近の物では「奪還」とか、「撃鉄」とか、DENGEKI以来、新しいシリーズを(配給会社が)作ろうとしているようだ。
 こう並べてみても、やっぱりみんな強いな。
 中でも「沈黙の断崖」や、「グリマーマン」での強さは、とても楽しい。どちらも、相手が誰であれ、危機に陥るということがほとんど無い。これはあの力ずくのハリウッドのアクション物でも余りお目にかからない。

 私は常々、こういう圧倒的な強さのヒーローものの素晴らしさを強調するのだが、なかなか賛同を得られない。拮抗する力量を持った敵やライバルの存在が、物語には必ず必要だというのは、私に言わせれば、色恋がなければお話しができないというのと同じくらいステレオタイプの物の考え方で、それらを悪いとは決して言わないが、そうでないものの価値をもう少し考えて、映画にしろアニメにしろ作って頂きたいと思う。

 私は「横山光輝の世界」というホームページを開いているが、氏の作品はたくさんアニメやドラマ化されている。「鉄人28号」「バビル2世」「ジャイアントロボ」「仮面の忍者赤影」「魔法使いサリー」「マーズ」・・・・氏の作品は少年ものに限って言えば、極めて女性の登場人物が少ない。しかし、原作を好む物にとって、そのことがマイナス要因として挙げられるかと言えば、そんなことは決してない。にもかかわらず、アニメになると余計な女性キャラが登場したり、原作では1場面しか出てこないような女の子がガールフレンドになっていたりする。
 これは明らかに、制作者側の意図であり、女性キャラを登場させないと受けないと思っている、“ステレオタイプ”がいるか、制作に携わっている人の多くが、多分、そう言う作品が好きなのだろうが、非常に私としては不満である。
 たまたま今、アニメ専門チャンネルで、横山光輝以外はほとんどアニメ作品やマンガを読まない私にしては珍しく、「ドラゴンボール」を見ている(今更!)。完全に原作通りとは行かないが、それでも、ほとんど原作通りだ。恐らく余計な枝葉に関しては、30分という枠の中で、どこからどこまでを描くにあたって、足りない部分を補っているという感じだ。横山作品をこういう風に描いて欲しいなという羨望しきりである。

 さて、横道にそれたが、セガール作品で、彼が危機に陥らないわけでもないし、好敵手が存在しないわけでもない。だが、彼はそれを圧倒して強いことだけは確かだし、そういう描かれ方をしている。
 だから以前、レンタル屋に行った時に「エクゼクティヴディシジョン」というカート・ラッセル主演の作品が、セガールの棚に並んでいたので借りてきたが、これにはまいった。パッケージにも大きくセガールの名前は入っていたし、確かに彼は出演している。でもなあ、何のためにセガールなんだ?他の俳優で十分だろう。という役柄だ。途中で簡単に死んじゃうし。その死に方だって・・・興味ある方はご覧になるといい。
 それとこの作品の面白いのは、全く同じ内容の別の映画があることだ。「エグゼクティブ・コマンド」という作品だが、テレビで放映されたのを見た時に、どこかで見たというよりは、どうしてこういう映画がここにあるのかという不思議の方が大きかった。
 同じ原作を別々の人が映画にすることはよくあることだし、前にもここで述べた「レ・ミゼラブル」の映画を誰も盗作とかパクリとは言わないと思うが、この映画はその臭いがぷんぷんしていた。

 セガールの映画は強い上に、彼が正義の味方なのがいいのだ。正義の味方なんて臭い感じもするが、こんな世の中だから、正義は大切なのだ。彼が命を張って、しかし圧倒的な強さで倒すのは本当の悪人達だ。「沈黙の断崖」や「沈黙の要塞」では、環境保護をテーマにしているが、そのテーマはともかく、それを守るために、彼は人生を賭けている主役をまじめに演じるのだ。デビューの「刑事ニコ」から、徹底的に社会の悪と対峙するという姿勢を貫き通している。

 最近の映画やドラマの多くは、正義と悪を立場の違いで微妙に変転する物だというような「ものの分かった大人」のような作品が多い。「清濁併せのむ」事を度量としてしまうことが、大人になると言うことであれば、私は喜寿を迎えようが白寿を迎えようが、青い子供のままでいい。セガール作品に流れる、本当にティーンエイジャー並みの正義感は、映画を時にはB級に見せてしまうこともあるかも知れないが、それをB級と感じる我々こそが、その純粋な正義を生活の中で失っているに違いない。

 ものの分かったセガールなど見たくはない。ジミ・ヘンをBGMに使えるセガールがやはり好きだ。

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:13 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年11月 5日

超人ハルク

「超人ハルク」はアメコミの「Incredible Hulk」を向こうでドラマ化したものを日本で放映した時のタイトルだ。私はオリジナルのコミックを知らないので、どの程度コミックとドラマ化されたものが違うのか知らない。
 また、昨年公開されたハリウッド版の「ハルク」も見ていないので知らない。
 
 私の中ではドラマと、それに続く一連の映画版ハルクがすべてである。言い方を変えると、ルー・フェリグノがハルクをやり、変身前のバナー博士をビル・ビクスビーが演じたシリーズだけだと言うことだ。
 大量のガンマ線を浴び、怒りをきっかけにハルク(ルー・フェリグノ)に変身する体質になってしまった科学者デヴィッド・バナー(ビル・ビクスビー)は、自ら死んだことにして、自分の身体を元に戻すためにアメリカ中を放浪する。最初に博士を怪しいとにらんだ新聞記者のジョン・マクギー(ジャック・コルビン)は、執拗にハルクを追いかけ、デヴィッドに迫り、その都度デヴィッドは安住の地を求めてその土地を後にする、という話だった。ほとんどの回で、最後にデヴィッドが、道路でヒッチハイクをしているシーンが流れ、私有を帯びたテーマがオーヴァーラップして番組が終わる。
 私はこれが大好きだった。家で飼っていた犬に、私一人が「ハルク」と呼びかけていた。調べてみると、アメリカでは90回近いシリーズになっているようだ。
 日本で放映されたのは約半分である。なかなか人気があったのだ。アメリカでも日本でも。この手のSFとしては、かなりトーンが暗く、悲哀に満ちたデヴィッドの人生が、ハルクそのものよりもクローズアップされていた。
 ハルク役のルーはボディビルの大会でも優勝したことのあるマッチョで、緑色に塗られた身体と、白いコンタクトをはめた目、ぼさぼさの髪でハルクを好演していた。
 私はビル・ビクスビーという俳優を、この作品以外で知らないので、どちらかというとアメリカのテレビ俳優なのだろう。

 アメリカやイギリスのこういったドラマは、あまり最終回というのがない。謎の円盤UFOなど、UFOは結局謎のままで終わっちゃってるんじゃないだろうか。このハルクも、実はテレビシリーズで何も解決していないようだ。
 ところが、人気があったせいか、TVの長編映画の形で、TVシリーズ終了後に何本か作られている。中にはデアデビルと共演なんて言うのもある。デアデビルはこれもアメコミのヒーローで盲目の弁護士だか何かだ。これもハリウッド版の映画は見ていない。
 ビルは、よっぽどこのハルクに愛着があると見えて、自分でもメガホンを取っている。既に90年代に他界しているようだが、やはりこれも彼が監督をした「超人ハルク 最後の闘い(The Death Of The Incredible Hulk)」がDVDで発売されている。直訳すれば当然、「ハルクの死・・・・もっと直訳すると、驚異的な大男の死」なので、まさにハルクの最後を描いた作品だ。すでに天敵のマクギー記者も登場せず、しかしバナー博士の目的は自らの身体を元に戻すことだ。
 スパイとの愛も絡め、バナー博士は実験が成功する前に事件に巻き込まれ、変身したハルクは敵を倒して絶命する。バナー博士は、女スパイに自分と同じ境遇を見ていた。彼女をスパイの道から抜け出させ、自由を与えること、そして自らもハルクの束縛から、今一度の実験で戻ることを夢見ていたが、叶わぬ夢となる。バナーの末期の言葉は、「これでやっと自由になれた・・・・」だった。

 やはり最後まで、ハルクはハッピーエンドを拒んだ。これは、長い間ハルクというよりバナーを演じてきたビルだからこそできた作品であると思う。この作品は首尾一貫、人間の悲しさ、人生のはかなさを描き続けてきた。そして最後、安寧が死でしかなかった男は、少なくとも一人の女性を救ったのだ。こてこてだが、このシリーズに相応しい掉尾。これまで購入したDVDの中でも1,2を争う作品だった。

 あ、ただ普通の人はきっとそう感じないので、ハルク大好きな私なりの見方ですので、悪しからず。

 hulk1.jpg

ハルクだ!

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月30日

白い牙

「白い牙」と言ってもジャック・ロンドンじゃない。昭和50年頃にテレビで放映されたドラマのことだ。
 主演は藤岡弘、。他に、佐藤慶、川津祐介、藤巻潤、ジェリー藤尾、鳥居恵子といった俳優陣が出ていた。刑事物というには異色で、でも当時は似た感じのドラマが結構あったようにも感じる。
 その中でなぜこのドラマを上げるかと言えば、私が好きだからだが、ストーーリーはこんな感じ。

 警視庁捜査一課の刑事、有光洋介(藤岡弘、)は、同僚で幼なじみの刑事、村木を射殺してしまう。村木は捜査上の絡みで裏社会とつながりができ、有光を煙たがったその筋の組織が、村木をそのことで脅迫し、有光を殺させようとする。しかし逆に有光が村木を殺す結果となってしまうわけだ。
 村木は友人で同僚というばかりでなく、その妹が有光の婚約者だった。しかし有光は、その真相を誰に語ることもなく、同僚殺し(但し捜査上の事故)として警察を追われることになる。
 警察を去った有光は、かつて八百長ボクシング事件で世話をしたことがある矢野(藤巻潤)とそのマネージャー大沼(ジェリー藤尾)とともに事件屋として生まれ変わる。柄の悪い探偵みたいな稼業だ。そこに、かつては有光を悪徳刑事として追っていた週刊誌記者の佐竹(川津祐介)が参加し、ドラマは続いていく。
 結果的に初回と最後の数回が続いており、黒幕の代議士を追いつめていく有光だが、逆に元婚約者の杏子(鳥井恵子)、大沼、佐竹と次々殺害され、一人復讐を誓う。
 これ以上有光に犯罪を続けさせたくないかつての上司草刈警部(佐藤慶)は、矢野の助けもあって、黒幕の代議士東郷を逮捕する。しかし強大な力を持つ東郷は、すぐに釈放され、捜査も打ち切られる。
 そのことを知っていたかのように、悠々と警視庁の階段を下りてきた東郷を、駆けてきた有光の匕首が刺し殺す。敗北感にさいなまれる草刈警部の前に両手を差し出す有光。矢島正明のナレーションが重くかぶさる。

 何とも印象的なエンディングで、当時私は高校生になったかならないかで、最初の放送は見ていない。再放送で見た印象がかなり強かった。
 役柄としては、例えば角川であれば松田勇作を持ってくるような感じかも知れないが、藤岡弘、が演じると、ハードな中にも、柔和さみたいなものがそこにあって良かった。特捜最前線でも独特のキャラを演じていた藤岡弘、だが、それ以上に有光洋介という役柄が合っていたように思う。

 しばらく前に、ケーブルテレビのキッズステーションというチャンネルで放送され、録画し損ねていたのだが、今回「刑事(デカ)フェス」という特集で改めて放映があり、ようやく見ることができた。DVDも出ているが、価格と考え合わせると買うのはちょっと辛い。第1,2回と最後の3回だけでも買おうかな(個々が話が繋がっているので)。

 この当時の刑事物の常として、最近の刑事物とは全く違う暗さを常時漂わせているし、それは恐らくいわゆる庶民の生活感の向上に負っているところが非常に大きいように思う。さっき例に出した特捜最前線の主題歌「私だけの十字架(チリアーノ)」も大変名曲だが暗い。同様に、なかなか手に入りそうにない「白い牙」の主題歌は、本郷直樹が歌う「悲しみにつばをかけろ」。歌詞自体が、当時の歌舞伎町辺りの裏路地を連想させる。なかにし礼、菊地俊輔という大御所の手になる曲である。

 この作品の凄さはやはりラストシーンだろう。絶対に現代では制作されないだろう。「法で裁けない物がいる」と、かつての上司である捜査課長に語る元刑事有光が取った行動は、黒幕を刺殺することだった。そして後日譚もなく、ドラマはそこで幕を下ろす。
 最近の刑事物、あるいは特にミステリーは、事件が解決するための謎解きだけが主眼で、いかにも凄惨な事件や、暗い過去、悲劇的な告白などがあった後、必ずと言っていいほど、それを解決した主役達の平穏な日常が語られる。しかも、「後は法が裁く」か、内田康夫がお得意な犯人の自殺という結末だ。
 確かにこれはリアリズムだ。事件と隣り合わせに日常はあるし、不幸の向こう側ではお祝いをしている。地震で被災している様子がテレビで連日流れていても、近県の温泉地でのんびりしているたくさんの人たちがいる。これが現実で、しかもそんなことは責められるわけでもなく、むしろ、そんなことで誰も彼もが自粛を始めたら大変な経済的損失だろう。
 だがせめてドラマではそういうアクチュアルなリアリズムではなく、作品の中でのみ通用するリアリズム、本当らしさを追求して欲しい。

「白い牙」は、全部で26回、当然の事ながら中だるみしている。だが最後の3回のテンションは非常に高い!藤岡弘、が自分の元婚約者を盾にして生き延びているように見えても、それは効果的な演出だ。彼が物陰で短刀の鞘を抜き、駆け出すシーンは圧巻だ。ある意味これを上品にしたのがモンテクリスト伯だが、この泥臭さが、何とも日本的で納得がいくのだ。

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 11:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月19日

クリント・イーストウッド2

 昨日の続き。

 イーストウッドは大きく分けるとウエスタンと刑事物というかサスペンスの2つのジャンルが主な作品群である。
 刑事物の代表はなんと言っても「ダーティー・ハリー」だ。カウボーイハットを脱いで、ジーパンをスーツに着替えても、彼は撃ちまくる。Me and Smith&Wessonですぜ。
 ハリーはウエスタンの時のクールなイーストウッドとはちょっと違うが、悪に対する力ずくの姿勢が何とも言えない。これは例えば、ハリーばかりでなく、「マンハッタン無宿」や、「ガントレット」を始め、最近(でもないか)の「目撃」や「ブラッド・ワーク」などでも似た感じの役作りだ。
「ガントレット」の、縦断の雨の中をバスで市庁舎に向かうシーンはしびれた。

「リーサル・ウエポン」などと違って、基本的には全て一匹狼なのがいいのだ。それは西部劇時代から変わらない。彼は自分の世界を持っているのだ。
 だから、「スペース・カウボーイ」のような作品ではいまいち面白くない。「ルーキー」ではトム・クルーズと組んでいたが、やはりイーストウッドの凄さがこの作品も出ていないように思う。

 今度、「続・夕陽のガンマン」の未公開完全版が発売されるということで、つい今回の記事に。
 ところで、イーストウッドというと山田康夫の吹き替えだが、若い人にとって山田康夫はルパン三世でしかなく、違和感を感じるというのを聴いたことがあるが、山田康夫はイーストウッドの吹き替えとしては抜群のデキだと思う。逆に、イーストウッドをやっていたからこそ、ルパンができたのではないだろうか。
 クリーフの納谷五郎もいいんだなあこれが。
 あ、ついでにエンニオ・モリコーネも・・・付け足しで書いたら怒られるな。

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 21:30 | コメント (0) | トラックバック (0)

2004年10月18日

クリント・イーストウッド

 クリント・イーストウッドの映画が好きだ。
 かつて「ローハイド」に出ていたイーストウッドはよく覚えていないが、やはりイーストウッドはウエスタンのガンマンだ。
「夕陽のガンマン」「荒野の用心棒」「奴らを高く吊せ」など、“マカロニ”と呼ばれても、私は名作だと思う。ジュリアーノ・ジェンマはにやけているし、ジョン・ウェインはガタイがでかすぎる。あの痩身に、たばこをくわえたニヒルな口元がたまらないのだ。
 中でも私が好きなのは「アウトロー」と、「夕陽のガンマン」だ。
「アウトロー」は自分で監督もやっているだけに、アカデミー賞を受賞した「許されざる者」のような、重みのある西部劇になっている。以上に共演の多いソンドラ・ロックとも、この辺りからではないのだろうか?
「夕陽のガンマン」は、イーストウッドももちろんだが、鷹の顔をしたリー・ヴァン・クリーフがいい。クリーフは昔、テレビで彼がいい役をやったコメディがあり、是非見たいのだが、タイトルが判らない。最もDVDやビデオが出ているとも限らないから、判っても見られないかも知れないが。
 多くの初期作品で、彼は非常にクールでニヒル、それでいてどこか優しさを秘めた男を好演している。紋切り型のヒーローかも知れないが、なかなかあの味は出せない。「真昼の死闘」でのシャーリー・マクレーン演じるところの偽の尼さんをもてあましているところなどは、そういうヒーローらしくていい。
 後年も彼は自分で「ペイルライダー」や、「許されざる者」のような、いい西部劇を撮っている。

 もちろん、ハリー・キャラハンもいいから、西部劇だけが彼の魅力ではない。しかし、彼の面長で広い額と、眼光鋭い目は、やはり西部のアウトローが一番合っている。

投稿者 keisuke_yui : 映画 | 23:59 | コメント (0) | トラックバック (0)