2007年7月10日
ほふり
伊藤麻衣子がCMに出ている株式会社証券保管振替機構を見ていて思ったことだ。
用語集を見ると
「ほふり」とは株式会社証券保管振替機構の略で、株券を一括して管理するシステムです。
平成3年にスタートした制度で、株式の受け渡し決済を、株券そのものの受渡しをせずに、「ほふり」の中の口座振替によって処理するしくみです。「ほふり」を使うと、株主の名義は「ほふり」になりますが、株を買った人は「実質株主」として登録されますので、何も手続きをしなくても配当受取や株式分割などの株主権利が得られます。
オンライン証券での取引では、基本的に「ほふり」を使った決済になります。
とある。恐らく「ほかん」「ふりかえ」でほふり何だろうと推測できる。
だが、ほふりを漢字変換すると「屠り」となる。ほふりという名刺はないが、屠るの活用であり得る。
屠るは、斬るとか斬り殺す、敵を破るというような意味があるが、「みなごろし」のニュアンスもある。
屠は屠殺の「と」だ・・・・ちなみに、Atokは「とさつ」を「屠殺」に変換しない。MS-IMEもだ。差別用語なのか?・・・。
考えてみると、ちょっとなかなか名ネーミングセンスだと思っただけのことなんだが。
紙の株券を「屠る」のか!
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:12 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年3月28日
「日本語はなぜ美しいのか」という本
を読んだ。著者は黒川伊保子という女性だが、わたしと同い年だ。
別に同年齢だから買ったわけではないし、読む前は、「美しい国」じゃないが、歴史と精神論じみていたらどうしようという気もあった。何しろわたしは、本を買うときにほとんど内容を読まない。良くて目次をめくる程度だ。概ねタイトルで選ぶ。
日本語はなぜ美しいのか?この問いかけが、実は、「我々日本人にとって」というかくれた形容を伴っていることで、この書籍はとても楽しく読めた。
母音を基調とした日本語が持つ語感と感性の関係や、民族性の違いみたいなものが、その全てを頭から信じるわけではないけれど、非常に説得力のある形で提示されている。
しかも、学術や科学的にこうだという決めつけではなく、なにやら著者の希望みたいな表現に走っているところが、やはり日本人の心をくすぐるのだ。
英語が国際語なら、英語を話せた方がよりいいが、この本では、幼少期から英語を学ばせることへの警鐘を鳴らしている。確かに、いくら国際人に育てたいからといって、日本で暮らす以上、日本語をおろそかにして英語を学ぶというのは愚の骨頂であると思う。
ただ、そういう人文的な論理理屈ではなく、科学的な理由からこの本はそれを危惧している。
とはいえ、中学生から英語を学んで、果たして今後も、どれだけの人が英語に堪能になれるだろう?
数学に好き嫌いがあるように、語学にも得手不得手はあると思う。また、環境だって必ずそれを許すわけでもなく、中学生からだと遅いと考える親が居ることも無理からぬ事だと言える。
だが、世界政府でも樹立されるようなSF的未来が、21世紀になっても実現されないという事実が物語るように、英語が世界の共通語として、他の言語を駆逐ししてしまうとはとうてい思えない。
東南アジアなどの国で英語がよく使われる一つの理由は植民地だったからだろうし、いわゆる中国語を話す人類は、全人口の2割くらいはいるのかも知れないし、英語が表面上、世界の単一言語になるなどというのは想像できない。
であるならば、日本という島国は、これからも微妙な変容を超えつつ日本語を話していくだろうし、日本語と欧米語の混交というのはあり得ないだろう。日本語はどこまで行っても日本語だ。
千年先の日本語が千年前の日本語と現代語ほどに乖離していないのは、想像に難くない。
そう言う意味では、この著者が巻末で述べる希望は、少なくとも、大きな天災や戦争など、何らかの理由で日本という国家が壊滅的な打撃を受けない限り、成就されることだろう。
もちろんそれだって、何億年も先まで安泰なはずはないと思うが。
この本の中で「私は、以前から、「自然保護」「地球を守る」という言い方には、どうも違和感があった。」という行がある(関係ないが、先日タモリの何とか言う国語を扱う番組の中で、この「行」という漢字の読みを全て答えよというのがあったが、その中に今わたしが使った「くだり」という読みが含まれていなかった。辞書を引いても載っているのだが)。
さて、そのつまりは自然保護とか地球を守るというのが、実は言葉こそ自然や地球が主体となっているが、本質的にはその主体は自然でも地球でも、生物ですらなく、ただ単に「人間」であるということが、この言葉の意味であると、私も以前から感じていたことだ。
まあただこの本では「自然保護」という言葉を日本人の言葉ではないような書き方をしているので(趣旨はそうではないと思うが)私が言うのとは方向性が少し違うが。
地球温暖化も、自然破壊も、これまで先進国が率先して行ってきたわけで、二酸化炭素の排出の規制も、環境汚染の改善も、地球環境のことは、日本も含めた先進国が率先して取り組むべき事で、分けてもアメリカが第一線で行わなくてはいけない。
それができるまでは発展途上国はあくまで努力目標だ。北朝鮮に核廃棄を求めるのは感情的にも、政策的にも理解できるし、間違っていないと思うが、だが、それを求めている国の内、米中露という三カ国が、大量の核兵器を所有していることは、そもそもおかしな事ではないか。
物理的な問題や、世界のバランスの問題など、様々な理由で既存の核保有国が核を手放せない現実は現実として、そのことをあたかも当然であると考えて生きていくのは、どうも納得のいかないことだ。
同様に、自然保護や地球を守だって、そもそも地球の組成と人間の組成だってそれほど違っているわけでもなく、自然の対義語として人工という言葉を使うのも、絶対的な意味があるわけではない。人が勝手に決めているだけだ。
きっと神の目線から見れば(この場合、地球人や一部の民族、進行をしている人たちなど、特定の人たちのための神ではなく、宇宙をも包含する客観的な第三者という意味だが)、恐らく全ての人為的なこともまた、自然の営みの内に他ならないのではないかと思える。
人が争い滅びるのも、贅沢三昧で寿命を縮めるのも、気が育ったり、風が吹いたり、隕石が落ちたりと、何ら変わることはない。人為もすなわち長い歴史の中で風化していく岩の変化を、短時間で起こしているだけなのだ。風化させる風や雨の営みと人間の意志や興味はたぶん同じものだ。
そう思えば、自然保護や地球を守るという視線ではなく、人類がこれからも平和に楽しく生きていくためには、地球環境をどうしていくとか、そう考えた方がずっとすっきりする。高邁な理想論ではなく、部屋の住み心地をよくすると同じ事だと考えればいいことだ。
この自然保護の行にある「鯨を愛しつつ、泣きながら銛を打ち、だからこそ命を余すところなくいただく・・・・という日本人の感覚」などというのは、かなり日本人を美化しすぎているし、そもそも鯨を捕る漁師さんがいちいち鯨を撃つたびに泣いていたら身が持たないだろうし、では牛や豚はどうなるということだし、ゴキブリはいたら駆除するだろうということなので、これはもはや民族ではなく、個人的な感性の違い以上のものではない。
とはいえ、鯨やイルカが知能が高いという理由で保護しようとする人たちが居るとしたら、それは学歴社会と一緒で、おつむの程度で生きる価値を査定しているようなものだ。極論すれば、命を奪う(食うためとか生きるために)事が禁じられるのは人類だけに限定されるべきだ。猿の惑星ではないが、「猿は猿を殺さない」のであり、名分で人類ですら殺し合う、この成熟していない人類が、鯨やイルカを守るのは、結局は自分たちの都合や興味でしかないのだ。
日本語が美しいかどうかとはかけ離れたお話になってしまった。
日本語が美しいかどうかは別として、美しい日本語を使いたいと思う。但し、私が言う美しい日本語は、きっとその言葉で他の人が理解するのとは、いささか趣を異にするだろうな。
それはまたいずれ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月 5日
ウソ読みで引ける難読語辞典

「ウソ読みで引ける難読語辞典」という本があるらしい。
「ウソ読み」というのは、読めない感じを当てずっぽうで読む場合の読みのようだ。その場合の索引が「ウソ読み索引」として付属している。
ここ
にその索引の一部がある。
確かに最初の「嘸(さぞ)」が読めない。が、どうしてこれが「ああ」なのかの方が気になる・・・まさか「ああ無情」辺りからの連想か・・・・?そんなわけないか。
2番目の口偏に愛なんていう字は全く読めない。
また、地名の愛子(あやし)なんて、東国原より読めない。宮崎の地名らしい。
蒼穹を「あおぞら」と読むのは、よくマンガなどである「当て字」のせいだろうか?読みとは関係なく意味を当てていくアレである。しかし、意味があっているということは、繰り返していけば、それが読みとしていずれ成立するということにならないだろうか?
襖の「あお」は、そちらの読みの方が知らなかった。
赫々「かっかく」も知らない漢字だ。赤四つだから相当赤いぞ。
「祟る」を「あがめる」は、反対語ではないとしても逆のベクトルを向いて入るなあ。
苦汁を「あく」というのは何か解る気がする灰汁・・・・かいじゅうだものな。
跪くも躓くも「あがく」というのも何となく解る気がするが、それに挟まれた足偏に腕の右側のような字は何と読むんだ?・・・解らない。
魚の間八がこういう字だというのは始めて知った。・・・魚編じゃないんだ。
この1ページ見ているだけでもだいぶ楽しい辞典だが、1ページだから楽しいっていうのもあるな。
特に地名は人名と一緒で、読めなくても仕方ない気がするし、秋沙(あいさ)何て、辞書で調べても、
だから何?という感じだ。野鳥の会でもないと、興味は持てない。初めてであった字だし。
1ページ見ただけでも、特殊な言葉は結構多い。地名や、鳥や魚、特殊な業種でしか使わない言葉などだ。それらの歴史に裏打ちされた言葉は、一般的には知識として必ずしも必要ないし、一回覚えても、割合すぐに忘れてしまうような木がする。
最近漢字検定などが大流行のようだが、読めないより読めた方がいいけど、過度に知っている必要もない。
紅絹(もみ)を知らなくても、あるいは一生出会うことがない人の方が多いに違いないからだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月24日
内田康夫
内田康夫の「秋田殺人事件」を読んだ。初出は2000年で、新書版で出たのが2002年。しばらく本箱の奥で眠っていたものだ。
内田康夫を読み始めたのは何年くらい前だろう。水谷豊が浅見光彦をやっていたのと、ほぼ同じ頃なので、20年くらいは前だろうと思う。最初に読んだのは「小樽殺人事件」だった気がする。光文社文庫が出たのが1989年になっているので、きっとその頃だろう。職場の店長が読むというので、読んでしまったものを何冊か上げた記憶がある。
「小樽殺人事件」を皮切りに、10年間でたぶん50冊くらいは読んだ。
最近でも中村俊介や沢村一樹などが浅見光彦をやっているし、それ以外にも、辰巳琢郎や榎木孝明などがやっていた。気になったので調べてみると、最初の浅見は国広富之、次が篠田三郎、三代目が水谷豊らしい。それ以外にも、高嶋政伸もやっているらしい。
なぜこのドラマについていきなり書くかというと、私にとっては、作品のおもしろさもさることながら、水谷豊主演のシリーズが、内田康夫作品を続けて読むための最初の原動力でもあったからだ。
内田康夫自身は浅見のイメージをどこかで、森田健作と書いていたが、それはまあ、時代のなせる技で、最近の浅見光彦は、どれもうまくイメージにはまってはいるように思う。実は水谷豊はそのイメージから最も遠い。しかし実は水谷作品は現在DVDになっているものだけでなく、全部で8作品ある。以下にこのシリーズが人気があったかということだ。
逆に、淺見のイメージが固定化することをおそれ、作者からストップがかかったという話を聞いた。
それぞれ、作品としてよくできているし、内田康夫がかつての作品に宿していた「古き良き日本」と「戦争の陰」という雰囲気もうまく醸していた。しかし何より、水谷豊の演技力でもあったと思う。現在の「相棒」でもいい味を出しているし、かつての「傷だらけの天使」では、全く今の水谷を予測できない役者だったように思う。
まあ確かに、10も20もそれで映像化されたら、見る側はともかく、作者は面白くなかろう。まして淺見のイメージとは少々違うので。
まあとにかく、久しぶりに読んだ内田康夫だった。どれくらい久しぶりかというと、たぶん、2年以上は読んでいない久しぶりだ。
内田康夫を読むというのは、ほぼ9割以上の確率で、「浅見光彦シリーズ」を読むと同意語なので、いわば、それを7〜80冊くらい読んだということで、岡部とか竹村という、読んではいてもなぜか浅見光彦の方が面白いという不思議な主人公ではある。
浅見光彦クラブなどという、ファンクラブまであるらしい。まあ、実際は内田康夫ファンクラブだと思うが、力石徹の葬儀だってあるくらいだから、解らない。
私が浅見シリーズを読む最大の魅力は何か?といわれて最初に答えるのが、「浅見光彦が警察の取り調べで警察庁刑事局長の弟と判って、警察官が、急に態度を急変させるシーン」というのだが、実際そこが楽しみで読んでいるので、そのシーンがないと、非常にがっかりする。印籠のシーンが無くて寂しい思いをするおじいちゃんのばあちゃんの水戸黄門にたいする気持ちがよく分かるのだ。
どちらかというと、あまりミステリとして読んでいないな、と思う。
「秋田殺人事件」だが、秋田杉の家にまつわる現実の事件をベースに書かれていて、ある時からの内田康夫は、非常に社会派で、もちろんそれは昔から無かったわけではないが、ある意味、現実の事件を非常に上手く扱ってフィクションに仕上げている。
実際今回もそうで、上記の事件と新任の女性副知事、警察の腐敗みたいなものが内田流の正義感で上手に書かれている。
しかし、この社会派が前面に出すぎた内田作品というのは、あまりリアリティのない清純派探偵浅見光彦と、これまたリアリティのない、どちらかといえば定型化されたヒロインのからみとともに、限界を感じざるを得ない。
相変わらず小説はうまいし、読みやすい。だが、必ずしも共通認識のもてないものの考え方を、あまりに強く読者に向けて放射しすぎていて、鼻につく。それは例えば、面白いのだが、作者の訴えかけが鼻につく「鉄腕アトム」よりも、純粋に善悪二元論でエンターテインメントに疾駆した「鉄人28号」の方が、面白いというのと似ている。
もちろんアトムと鉄人同様、趣味は様々なので、私が「鼻につく」部分に、至極共感を覚える読者はたくさんいるだろうし、浅見ファンの多くはきっとそうなのだろうな、と思う。差別的な意識はさらさら無いが、女性読者にはきっと多そうな気がする。あくまで気がするだが。
内田康夫さんにはぜひとも、あまり政治家や官僚の登場しない、こてこてのミステリを書いていただくと、より面白い。
もはや、永遠の33歳、浅見光彦は、セックスもしない清廉潔白な朴念仁として事件解決のためにどこまでもソアラを走らせてくれればいいし、ヒロインとのからみも期待しないので、せめてあまりにきれいな解決(特に政治的なものや、犯人自殺というパターンなど)は、何か残念でならない。
まあ、昔読んだものも相当記憶の彼方で、忘れているので、上記の指摘は実は当たっていないかも知れない。ただ、そんな印象があるんだよなあ。
いや「秋田殺人事件」も、面白いには面白かったですが。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年3月12日
県名のイントネーション
今日山手線で、夢うつつに「次はおおさき〜」というアナウンスを聞いていてふと思った。
大崎はおおさきと頭にアクセントが置かれる。以前、「にいがたと、頭にアクセントを置いて言ったときに、それはおかしい、新潟県は「にいがた」だと、言われた。平板なイントネーションのことだ。
ふとそれを思い出した。そこで、県名を思い浮かべてみると、おもしろいことに気づいた。
例えば、大分県は県をつけると平板な「おおいたけん」だが、県を外すと「おおいた」となる。
試みに北から県名を思い浮かべてみると、北海道は除き、「青森」「山形」「福島」「茨城」「埼玉」「千葉」「東京」神奈川」「山梨」「石川」「静岡」「岐阜」「滋賀」「和歌山」「奈良」「三重」「京都」「大阪」「鳥取」「岡山」「広島」「山口」「徳島」「福岡」長崎」「佐賀」「宮崎」「熊本」「鹿児島」「沖縄」は、県が付いても付かなくても平板なイントネーションが一般的。
「秋田」「岩手」「宮城」「群馬」栃木」長野」「富山」「福井」「愛知」「香川」「高知」「愛媛」は、県が付くのと付かないのでイントネーションに変化がある。
この違いは、実は、県名が3文字かどうかなのだが、3文字の県は「県」が付くと付かないとで違いがあるのだ。
さて、ここに漏れている県がいくつかある。「新潟」「兵庫」「大分」だが、小お3県は文字数で言えば、4文字だが、2音目が伸びるので実際には3音か3音半と言うことになる。「兵庫」は上の例の3文字と同じ変化があるが、残りの2県は変化してもしなくても使える。「にいがた」でも「にいがた」でもありだし、「おおいた」でも「おおいた」でもOKだ。ただし、一般的にはこちらの方が多いかな?というのはある。
しかし、宮城は「みやぎ」であり、群馬も「ぐんま」なのだ。県が付かない場合には平板なイントネーションは取らない。
ここまできれいに揃うと、これは日本語のルールなのかな?とも思えるが、確かに3文字は頭にイントネーションを置くケースが多い。これは、3拍子のリズムがそうだと言うことと関係があるのかもしれない。
もちろんこんなことは発見でも何でもないかもしれないが、たかが車内アナウンスで気づいたことが、ちょっとうれしい。あ、それだけのことだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月29日
氷壁
私の読書は非常に偏っている。読んだことのない著名な作家、特に大家が山ほどいる。ことに日本文学の作家はそれが甚だしい。夏目漱石をきちんと読んだことがない。教科書に出ていた何かと、「坊っちゃん」「吾輩は猫である」の2作の冒頭のみだ。
これは一つの例で、森鴎外も、学校で言われてやむを得ず、「高瀬舟」を読んだ。三島由紀夫も、川端康成も、ほとんど読んだことがない。三島は、「潮騒」の火を飛び越えるシーンだけ、中学生の時に読んだ。理由は言うほどのこともない。
井上靖という作家も、これまでは全く見向きもしない作家だった。「あすなろ物語」とか「しろばんば」とか、中高生くらいで目にした作品のどれもが魅力的なタイトルとは言えなかった。今でもこれらを読みたいとは全く思わないが、「敦煌」「蒼き狼」「天平の甍」などはこれから読んでみたいなと思わせる。
そもそも書店で、井上靖のコーナーで目をとめることがないのだから、読もうと思うはずがない。
読書ばかりでなく、何事も人間はきっかけというのが大事で、それがなければ、新奇なことにはなかなか手が出せないものだ。いや、井上靖を読む程度のことが新奇か?という向きもあろうが、SFばかり読みふけっていた学生時代の私には、新奇なことなのだ。
吉川英治を読むきっかけはゲームだったし、内田康夫を読むきっかけは水谷豊の浅見光彦だった。池波正太郎はドラマの「編笠十兵衛」といった具合だ。SFや海外文学は、実はそういうきっかけを必要としていないのに、日本人作家の作品に関しては、非常にその傾向が強い。我ながら不思議だ。
一つは、日本文学特有の香というか、緻密さが苦手だ。私小説という分野も嫌いだし、人間の内面を描くばかりに、スペクタクルに欠ける、あたかもハリウッド映画と日本映画の違いを見ているような感じだ。
どちらが上とか下とか、質がいい悪いとか、そう言うことではなく、所詮文学なんて好みなので、それ以上のことではない。
さて、それで今回きっかけとなったのは、NHKドラマのCMだった。1月14日から放映される作品の原案(原作かと思っていたが原案とある。言ってみれば、アイディア拝借ということのようだが、井上靖の作品とは大分内容が違う)という「氷壁」を読んだ。
さすが大家、文章は上手いし、読みやすい。よく書けているし、それなりに面白く読んだ。尤も、ではこれを皮切りに井上靖に傾倒するかと言えば、それほどのエネルギーはない。
全体はどことなくメロドラマだし、ラストも好みではない。何よりテーマとなっている「ザイルが切れたか切ったのか」という点は最後まで解ったような解らないような(やむを得ないとしても)、消化不良がぬぐえない。そもそもそんな点を作者が書きたいわけではないとしても、私という読者はその点を納得しない。
あとがきに、ヒロインの美那子という女性がもっと悪女だったら良かったと、佐伯さんという方が書いていたが、私はそうは思わない。この悪意を持たぬ、しかし微妙に非常識で、わがままな女性だからこそ、この作品はいいのだ。
世の中で救いようがないのは、悪意を持たず人に害なす人たちだ。
例えば今回の耐震偽装問題は、非常に悪いことをしているのだが、実はそこに悪意はないと私は思っている。悪意がないからこそ救いようがないのだ。
美那子は犯罪に手を染めず、結果的に二人の男を死に追いやったように見える。実はそうではないが、そういう見方をすることができる「悪さ」こそが、この作品のキーだ。男を手玉に取っているわけでもなく、そんな意志もないのに、結果的にそうなっているというのが人生の綾であり、不幸だ。
わたしは主人公がさっさと死んでしまう作品はわりと好きだが、今回の作品はその部分で無理矢理感と、予定調和の臭いがして好きになれない。私だったら、主人公を山で殺すようなことはしない。
梶原一騎的な、例えばタイガーマスクが子供を助けようとして交通事故で死ぬ、というラストシーンは、ああいうマンガには相応しくないと思うし、むしろ今回の「氷壁」のような作品では、仮に主人公を殺すならその方がましだ。
もちろん、これも好みだと思う。昼メロに取り上げれば、多分この作品はいいラストだろう。
今日ちょっとだけどラマのシーンを見た。原案だから仕方がないとはいえ、その人物設定や状況設定をある程度使いながらこの筋運びや人間関係はどうだろう、と思わざるを得ない。主人公の名前などが変わっているのに、相手役の女性の名はそのままで、どちらかというと、「盗作」といわれるのがいやで、やむを得ず原案と書いたかのような、後味の悪さが残る。
むしろ、「改作」とか、何か書きようがあるだろう。
初回と今回の2回の一部を見ただけだが、井上靖を読んでしまっているだけに、素直に見られない。
必ずしも絶賛しはしないが、原作に流れる、静かな川の流れのような、どことなく清澄な感じがドラマには全くない。単独でドラマとしてみれば面白いのかも知れないが、最早そう見ることができない自分がいて、ドラマにはだめ出しをしてしまった。多分、もう見ない。
それよりしばらくしたら、井上氏の歴史物でも読んでみよう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 5日
パソコンのキー
実は、本の表紙について書いていたのだが、しばらく書いたところで、入力を間違えたのでEscキーを押したら、記事が全て消えてしまった。意気阻喪ということで内容を変えた。
そもそも新しいMovableTypeは、ネスケで表示がキチンとされない。内容を読む部分は、自分でスタイルも、HTMLも書き換えられるので問題はないが、ログイン以降のシステムのページはそうはいかない。
だからやむを得ず、普段あまり使わないIEを使って書いているのだが、このIE、どうも納得がいかない。
ローカルでSHTMLやCGIといったファイルを読み込めないし、読み込めるように変えた場合、それらのファイルをダブルクリックしたら、IEが自動的に立ち上がってしまいそうで、それもイヤだ。
Windowsもそうだが、マイクロソフトは、使いやすさを追求しながら、すごく使いづらいプラットフォームをどんどん構築していっているようにしか思えない。
使いやすさには二面性があって、初心者が何も考えず、ボタンだけ押していれば先に進むという部分と、ある程度の(プロではない)利用者にとっても、比較的自由度の高い部分が混在していてくれないと困る。
98の頃はそれでも、かなりカスタマイズが簡単だった。今では、XMLで書かれていたりして、非常に煩わしい。
結局そんなことで、Escキーで記事がそのまま消えてしまうなどと言う、ネスケでは考えられない事態が起こったために、こんな羽目に陥っているわけだ。
IEは起動にもかなり時間がかかり、これも使いたくない理由の一つだ。
しかし、ホームページを制作している側から言うと、結局はIEに合わせて作らざるを得ないくらい、IEが世の中を席巻しているのは事実なわけで、OPERAや、MOZIRAが、ネスケに変わって台頭してくるわけでもない。
何かこう、釈然としないパソコンの行く末を思わざるを得ないのだ。
投稿者 keisuke : インターネット・PC / 文学・日本語 | 01:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 4日
八犬伝
TBSで「南総里見八犬伝」を二日にわたって放映した。
いや、実はほとんど見ているわけではないのだが、かつてNHKの人形劇で子供の頃見ていた記憶もあり、あるいは、水滸伝との関連などもあり、興味はある。
NHKの記憶は、犬塚信乃を近石真介がやっていて、坂本九がナレーションをやっていたくらいの記憶しか無くなっているが、楽しく観ていたと思う。八犬士の名前も、前述の信乃以外は、犬田小文吾、犬山道節、犬飼現八くらいしか記憶になく、今回残りの4人の名前を聞いても、記憶と一致せず、新たに知ったという感覚だった。
私は水滸伝が好きなのだが、水滸伝と八犬伝は、そもそも話の内容は全く違うわけで、比較するのもどうかと思うが、最も大きな違いは、八犬士は玉梓の呪いを受けながらも、実はそれと対抗する正義の犬士であり、仁義礼智忠信孝悌(NHKの歌でよく覚えている)に表される性格を基本的には犬士達が持っているのに対し、いかにも国のためにという義に参じたように見える108人の好漢は、確かに中には正義の士もいるにはいるが、どう考えても、盗賊や人殺しが集まっており、どちらかというと、本宮ひろしが描くやくざに似た、義憤に満ちた暴力集団といった趣がある。
里見家再興という明らかな目的を持った八犬士と、結果的に何が目的だか解らなくて、堅物でほとんど世の中の見えていないような宋江の理想に振り回されて、108人が非業の最期を遂げていくような、悲しい物語となっている水滸伝は、明白に作者の意図するところが違うように思える。というより、前者は滝沢馬琴という作者が、言い伝えなどを下敷きにしていたとしても、明確な意図を持って作品に仕上げているのに対し、水滸伝は結果的に伝説をまとめ上げたというところで終わっているように思える。
だが水滸伝の魅力は、少なくとも私にとっては、その破天荒とも言える、いいかげんな108人の生き様にこそあるのでる。そういう意味では、八犬伝は三国志などにより影響を受けているのかも知れない。
しばらく前に八犬伝は、文庫で訳本が出ているので読んでみようかな、というきっかけを与えてくれた。読んだ後にでも、ビデオを見てみることにしよう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 01:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年12月17日
大いなる聴衆
永井するみという作家の「大いなる聴衆」という小説を読んだ。
書店で、「2005年今年振り返って読んでもらいたい1冊」という帯を見て、裏のキャプションを読んだ。
ピアニストの婚約者を誘拐し、「完璧な演奏をしろ」という犯人からの要求という、新鮮な犯罪に惹かれて買った。
元々は2000年に単行本が発売になったようで、事件もその頃起こった設定になっている。
600ページを超える長編で、しかも誘拐事件だけで引っ張っていく筆力には感心した。推理小説と言うほどではないが、読みやすいミステリだった。
あとがきにも書いてあったが、そもそもここに登場する人物は、非常に読者の共感を排除し、「イヤなやつ」ばかりなので、そういう意味では読後感は良くない。登場人物は非常に多く、解らなくなりそうにさえなる。推理小説という意味では、ある意味読みづらい登場人物の多さだ。
だが、小説としては、それぞれの生き様が見えて、何となく「類は友を呼ぶ」とでもいいたくなるような風にさえ思えた。それくらいひどい登場人物だ。恐らく現実を超えている。
最近のマンションの強度犠牲事件報道の中で、今の法律は性善説に基づいているが、考え方を変えた方がいいというようなことを誰かが言っていたが、性善説か性悪説かという単純な二分論で考えるなら、人間は性善説だと思う。それは自らが幸福や快感や富裕といった良いものを求めていくからで、性悪説からはそういう人間像は浮かんでこない。
そういう意味では、時折誇張された人非人が、気分を害させることもあったが、なるほど、日本人はこういう登場人物による小説も好むだろうな、と思える。
特に主人公の紫という女性は、こんな女と一緒に仕事もしたくないし、付き合いたくもないと、最初から最後まで思わせる女性で、読んでいていらいらした。
もう一つ、最後まで私は犯人の意図がよく分からなかった。動機は解ったが、その動機からどうしてこういう要求が出てくるのか、それがよく分からなかった。
などと書いていると、けなしてばかりだが、それなのに読んでいて、そこそこ面白かった。これは小説家としての永井氏の力量なのだとも思う。
この、クラシック音楽を特殊な音楽だと考えているような人たちは、きっと少なからずいるし、考え方によっては特殊ではあるとも思うが、「ジーンズやTシャツといった、クラシック音楽のコンサートにはおよそ似つかわしくない服装の人々」に到っては、「へっ!」という感じだ。私はほとんどジーパンでクラシックを聴きに行く。
そんな感じで、非常に反発を沢山感じさせながらも、よく途中で本を読むのを止めてしまう私が、最後まで読んだし、早く読みたいという気を起こさせる小説でもあったのだ。ある意味悔しい。
少なくとも個人的な知り合いでない限り、この作品に出てくる安積界というピアニストは、決してイヤなピアニストではないと思うし、いい演奏をしてくれるのが演奏家の使命でもあるが、そもそもクラシックの演奏家というのはそれで口に糊しているわけで、顧客主義であれば、如何に聴衆を楽しませるかが至上命題だ。
そういう意味では、ここに登場する衛藤という安積のマネージャーの「CDが売れた演奏がいい演奏」というのは一面の真理だ。
大いなる聴衆の意味をここで書くことは差し控えるが、いずれにしたところで、聴衆のない音楽などは、人間原理を否定する宇宙の彼方の異星人のようなもので・・・・と例え話の方が理解しがたいことを書いて悦に入っている物書きのようなものだ。
だが、こうしてクラシック音楽に関するテーマで小説を書いてくれるというのは、考え方は違っても面白い。ロックでもジャズでも面白いと思うのだが、ミステリでということになると、方向性が見えてきそうでイヤだ。飲んだくれの探偵とか、歌舞伎町の裏通りとか色々と・・・
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 02:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年11月22日
ものを書くセンス
生協の白石さんが話題だが、話題になるだけに、なかなかいいセンスでものを書いていると思う。というより、これは切り返し、とかの分野かも知れないが。
文章というのは読者に何かを伝えるための手段だが、上手い下手や、技術的な問題の他に、いわゆる美文とか、味とか、様々な意味で個性とセンスが要求される。
もちろん、万人に受けるセンスなんていうものがあるとは到底思えないし、ある程度きちんと書かれた文章であれば、少なからず共感を受けられるとも思う。
しかしその中で、より多くの支持を受ける文章というのがあって、特にエッセイ的な文章はそれが大切だ。小説のように、そこにストーリーや設定など他の要素が大きくかかわってこない分、内容よりもむしろ、センスそのものが重要なポイントのように思える。
何となく興味を引きそうな文章とか、読んでいるだけで時間をつぶせる文章とか、いずれにしても、読者をいい気持ちにはさせているのだ。
確かに、それだけではない、もっと深いとか、難しいエッセイやコラムも多々あるが、文章の洒脱さとか、同じことを言うにしても、その持って行き方、言い回しなど、様々な側面から、センスのいい文章書きというのはいるものだ。
何にせよそういう人には憧れるわけで、私のように理屈でしか物事を判断できない人間にとって、そういうセンスは願っても得られない天性のものなのかなあ、うらやましいなあと思うばかりなのだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 02:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年11月18日
釈迦
瀬戸内寂聴の「釈迦」という文庫を読んだ。
瀬戸内寂聴自体が初めてで、多分今後も読まない予感はあるが、「釈迦」は面白かった。
元々仏教関係の書物や、キリスト教関係の書物は好きで、よく読む。当然今回もタイトルで買った。
弟子のアーナンダの一人称を中心に釈尊の最後の旅を描きながら、仏典にある釈迦と仏教教団のエピソードをうまく織り込んでいた。特にエンディングはよく書けていて、ああ、この人はこういう作風なのだ、と思わせてくれた。
この作品は、まだ最近の作品のようなので、瀬戸内寂聴が出家して大分経ってからの作品だ。恐らく満を持して、という表現が当たるような作品なのだと思う。尼僧が釈迦を描くというのはそれなりの思いがあるだろうから。
釈尊教団の中での女性の位置というのは、あまり正当ではないと思う。元来、人間社会は多くの場面で、女性は男性よりも一段下だったり、汚れていたりという扱いを受ける。
女性の持つ色香が、その持ち主の価値を下げるものなのか、それに惑う男がいけないのかは難しいところだが、確かに宗教的な側面から見れば、修行の妨げになるのは間違いない。仏教的にいうなら、煩悩の最たるものであろう。
私は手塚治虫の作品の中で最も好きなのは「ブッダ」と「ブラックジャック」だが、ブラックジャックが好きなのは、いつものスーパーヒーローが好きな、私のステレオタイプの漫画嗜好に過ぎないが、「ブッダ」の方は若干違っている。「ブッダ」の中で、特にタッタとパンダカという、手塚のオリジナルキャラクターが、好きではないのだ。つまり、あれは非常によく描けてはいるが、仏典が持つエネルギーを手塚が超えられなかったのだと私は思っている。そして、仏教譚としては非常にエネルギッシュなのだ。
寂聴の「釈迦」は、非常に静かで、悟りに近い雰囲気が非常に良く伝わってくる。
釈尊が、この世を苦しみといい、この世は美しいという。この二律背反の中にこそ、生き方の神髄があるように思える。
仏典の中に、自分の子供を亡くした母親が、仏陀に生き返らせて欲しいとすがる場面がある。仏陀は、誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくるようにいい、そうしたら生き返らせてあげると告げる。母親は必死で探すが、誰も死んだことのない家など存在しない。人の死は誰にでも訪れるものだと言うことを理解した母親は仏陀に帰依するという下りだが、昔から私はここがどうも納得できない。
確かに死は誰にも訪れるし、この本の中にあるように、人は死するために生まれてくるのだ。生まれた瞬間から死への行進を始めるのだ。だが、そうだとしても、この世に姓がある限り、その長短は意味がある。少なくとも、赤子で死ぬか、成人するかだけでも大きな違いだ。
それを、死は誰にでもという、いかにも共通のプラットフォームである最後の瞬間だけに集約させて諭すというのは、神の国に生まれ変わるという論旨で、この世の生を儚いものにしてしまう多くの宗教と同じように、欺瞞にしか見えない。
もちろん、実はそこを超えて、別の意味はある。この世が苦に満ちていると説く仏教の教えは、そこを原点とし、だからこそこういう生き方が正しいという筋道を立てることに成功しているので、それは、人の死を諦観ではなく、静謐という心の動きで受け止めることを可能にする。
前段の話も、実は死んだ子供は返ることはないという受け入れを、母親にさせるための方便でもあるわけだ。この世が苦に満ちているのは、一軒平等であるような人間が、実は不公平に生まれ、育ち死んでいくことも含めているに違いない。誰にでも共通に訪れる生老病死だが、その様相は個人差があるのだ。
だが人が獲得した考える能力は、その中から悟りを生むこともできる。
「この世は美しい」という仏陀の言葉は、まさに、この世を美しいものと捉えるも、苦に満ちていると捉えるも、実は往々にして表裏一体であることの謂いであると、私には受け取れた。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年10月31日
国語のクイズ
最近、クイズ番組が非常に多い。分けても国語をテーマにした番組の多さに驚かされる。
曰く、漢字が読めるか、書けるか、ことわざ、言い回し、定型句等々・・・主に芸能人の知識を試すような内容になっている。
こういったクイズが好きな私にとっては面白いし、場合によっては難しかったり、始めて聞く言葉もある。一部は非常識なくらいに難しいので、トリビアと言っていいような場合もある。
しかし、流行とはいえ、番組改編期の10月中旬くらいにはどこもかしこも同じようなクイズで、問題が重複しているケースもあった。
元々漢字は書けない方だが、改めて書けないことを思い知らされたし、表現についても、意外に難しいことに驚いている。
というのも、おそらくは言語の変遷というのは、言語が伝聞などにより間違った伝わり方をしながら、変化していく中で、実は正しくない表現でも、多く耳にすることで慣れ、違和感を覚えなくなっているからだと思う。
言語学者や国語の先生には寂しい事かも知れないが、時代が過ぎゆくにつれ、定着する言葉も多いに違いない。
「ら抜き言葉」等は、ワープロが指摘してくれるが、裏返せば、それだけ多く使われていると言うことだ。ら抜き言葉でも十分生き(ら)れるのだ。
的を射るなどという言葉は、言葉の意味を考えれば「的を得る」など意味が通らないが、使う人は多い。
国語力の低下ということが言われるが、言語の最低限の意味というのはコミュニケーションの道具で、そういう意味では、これだけグローバル化した世の中で、世界情勢や未来を見たとき、国語よりも英語ができた方がいいと言うことも言えなくもない。
尤も、国語が持つ歴史や文化というものは別にあるわけで、それを憂うことは必要なことだ。
個人的には、漢字というのは非常に複雑多岐に渡るがために、日本語に多彩な表現力を与えているし、パズル的にも芸術的にも美しい言語だと思うので、できれば精緻に生かして欲しいと思う。
ただその中でも、書き順だけはどうでもいいなと思ってしまう。もちろん、学問的な意味では、例えば意味論とか、その起源や生成という意味で必要かも知れないが、小学生に覚えさせて試験でその記憶を等という意味では非常に無意味に思えてしょうがない。
こういったことが国語をつまらなくしている一つの要因にも思える。
私は国語はずっと嫌いだったが、最近のクイズは面白い。つまり、日常的に使っている言語であるから、興味を喚起することは必ずしも難しくないのだと思う。子供の頃から国語に興味を持たせることができれば、国語力の低下や衰退も実は防げるように思えるのだが・・・・
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:47 | コメント (1)
2005年9月16日
些細な日本語のこと
最近よく、KDDIの代理店と名乗る会社から電話がある。メタル・プラスの勧誘だろうと思う。思うというのは、詳細は聞いたことがないからだ。
同じ女性とは思わないが、女性のケースが多い。1回は男性だった。その男性の言葉を信じるなら、複数の代理店が、恐らく電話帳などで調べてかけてくるのであろう。従って、勧誘がダブることがある。
ところで、その男性のケースは忘れたが、女性は開口一番こう切り出す。
「あなたのお使いのNTTの回線の基本料金がお安くなりました」
この前にKDDIの代理店であることを名乗っているので、事情さえ知っていれば、理由も分かるが、誰が考えたか解らないが、文面としていかがなものか。
これだけ聞けば、「それはよかった」で終わる。なぜなら、お安くなったという報告だから。しかし実際には、KDDIのメタルプラスなどに契約を変えれば、従前のものよりも安くなるという、いわば未来予想図なのだ。
であれば、「お安くなりました」は変だろう。理解でき無くないほどひどくはないが、詐欺へと進む最もたわいない欺瞞を含んだ表現とでも言えそうな言い回しに感じる。実際のところ、欺瞞でも詐欺でもなく、料金は安くなるわけだから、メリットは大きい。
であれば尚更、怪しげに響く表現は控えるべきだ。
私自身は、しばらく前に日本テレコムに鞍替えしているので、KDDIにするメリットはあまり大きくない。だからそのことを言って電話を切っている。もちろん先方もその一言で納得する。
「今お使いのお電話が、ご契約をNTTからKDDIに変えていただくだけで、月々の基本料がお安くなるのですが・・・・・」的な表現が好ましい。
メリットだけをただ強調するのは、広告などのキャッチだけで十分だ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月14日
「やばい」という表現
昨日だか一昨日のニュースで、文化庁の「国語に関する世論調査」の結果が報道された。
この中で「やばい」という言葉を「非常にいい」という意味に使う若者が増えているのがあった。16歳から20歳で76%がその使い方をする。うまい物を食べて「これやばい」といえば「すげえうまい」と同義か、それ以上の感動を指す。先日もテレビで、藤井フミヤがまさにその表現を使うのを見た。
「やばい」は辞書によれば、「不都合である。危険である。」という意味だ。「この仕事は何かやばい」と言えば、悪いことに手を染めている感じがするとか、捕まった場合に非常に重い刑になるとか、いずれにしても危ないことを表現しているのが普通だ。もともと泥棒などの隠語で「やば」の変形が語源だという。やばいときに「やばっ」というのは、むしろ言語に近いことになる。江戸時代の文献などにも「やば」という単語が見られるようなので、言葉としては最近の若者言葉でないのはもちろん、歴史も古いことになる。
ただ、いい意味で「やばい」を使うのは、間違いなく「やばい」という表現が持つ一部が単独で意味を持ってきたことによると思う。つまり、元々悪いことをしているやくざやちんぴらが、「兄貴、これちょっとやばくねえか」みたいな表現を使った場合、そもそも悪いことをしている人間が使うわけで、「兄貴、これちょっと危なくねえか」よりも、程度が勝る印象があったりする場合がある。つまり、危険よりももっと危険ということだ。そんな印象が積み重なると、やばいは「とても危険」という意味に感じてくる。そこで徐々に「とても」がクローズアップされ、気づくとそこには、次ぎに来る単語を強調できるような機能が見えてくる。
そうすると女子高生のように「やばい可愛い」で、すごく可愛いという意味になったりする。同様に、すごく美味いは「やばい美味い」だが、形容詞が形容詞を修飾するという非常にゴロが悪いことになっている。そこで、後に来る形容詞を省略する。
そもそも会話は、その時の状況、話の内容、話の相手によって支配されるので、必ずしも全てを文章のように語る必要はない。端的な例が、「あれ」だ。「あれ」は特に年齢が行くと頻繁に会話に登場し、その一部を担うようになる。それは年齢とともに脳が衰退するからに違いないが、そのことはつまり、「あれ」と言っても相手に話が十分伝わるだけの何かが、その前後の会話、会話対象との関係などに含まれているということだ。
前出の「やばい可愛い」や「やばい美味しい」は「やばい」で事足りる場合があると言うことだ。そしてその積み重ねは、やばいに「素晴らしい」という意味を付加していく。
この言葉が定着するかどうかは別として、言葉の変遷というのはそういうことの繰り返しで、いかに多くの人が頻繁にその言葉を耳にしていくかで決まっていくので、その言葉が美しいかどうかというのはあまり問題ではない。
同じアンケートで「(6)面倒臭いことや不快感・嫌悪感を表すときに「うざい」と言う」という設問では、やばいと同じような数字が出ている。こちらは、「うざったい」が既に辞書にも載っているので、そこからの派生だから、定着する可能性は高い。もちろん、「やばい」は意味の誤用だから、ケースは違うように見えるが。
そういう意味では、「(5)いいか悪いかの判断がつかないときに「微妙(びみょう)」と言う」という設問で、非常に数字が高かったのは判りやすい。そもそもの意味は「優れていて美しい」ことを表現する言葉だが、現代では、「細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさま。(広辞苑)」「はっきりととらえられないほど細かく,複雑で難しい・こと(さま)(大辞林)」と辞書に載っているので、判断が付かないときに「微妙」と言うのは間違ってはいない。
それよりも気になったのは、この設問の1から3で、
(1)「わたしはそう思います」を「わたし的にはそう思います」と言う
(2)「鈴木さんと話をしてました」ということを,鈴木さんと話とかしてました」と言う
(3)「とても良かった」ということを「とても良かったな,みたいな……」と言って相手の反応を見る
この三つは全て、自分の発言に自信がない、あるいは責任を持たないことの表れのような気がする。「みたいな 」に到っては、明らかに相手に同意を求めている。もちろん、若い人の文脈では、必ずしも相手に同意を求めているというよりは、言った結果が相手を傷つけないか、あるいは、自分が場違いなことを言ったのではないかということに対する恐れのようなものが含まれていたりするケースもある。
言葉は変化していくとは、何度も書いたが、実は人はその変遷に恣意的に加わることができる。流行っているというだけの理由で言葉を選んでいくことは、その変遷を容認することで、あたかもそれは、テレビで国会中継を見て愚痴を言っているのに似ている。
そう、政治に実際に参画することと同様、言葉の変遷に一石を投じていくのも、意外に(意外とという人が増えているらしい)難しいものなのだ。
それにしても、世間ずれを「世の中からずれている」という感覚が、彼らの思っている世間ずれという言葉の自家撞着になっているようでおかしい。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:23 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月13日
純文学
純文学という言葉を広辞苑で引くと2つの意味が載っている。
@広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。
A大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。
一般的に使われる場合の純文学はAで、エンターテインメントに対する対語のような形で使われる。中には「読者に媚びず」という表現を使った辞書もある。
これを恣意的に解釈すると、面白くなくても作者が芸術性を重んじて書いたものが純文学。大衆的であることは、その芸術的価値を貶める。とも取ることができる。
現に芥川賞は純文学の新人賞。直木賞は大衆文学賞と、いわゆる文芸の2大賞は棲み分けができている。ところが最近では、芥川賞を見ていても、大分読者を意識した内容であるように思える。
そもそも、大衆的であることが芸術性の対極にあるとしたら、芸術っていったい何だろう?
確かにモーツァルトの音楽は、ら必ずしも大衆のために書かれたものではない。現代では「芸術」のレッテルを貼っているが、そもそも王様や貴族のために書いていたので、時代が下れば、クラシックだって大衆のためにこそ書かれてきたのである。
絵だってそうだ。多くの画家は売れなくては生活ができない。売れるということは、大衆の支持をいかに集めるかで、実は文学だってそうだ。
大体、書物を書いて、それが読まれようがそうでなかろうがどちらでもいい等という作家は、趣味だ。読んでもらってナンボだ。
実際文学的評価は、多くの人からそれを受けることで高まる。言ってみれば大衆化されることだ。
私は昔から、純文学というレッテルが大嫌いだ。ミステリやSFというのは文学の1ジャンルだが、明らかに純文学はジャンルではない。「純」という接頭辞は、そのカテゴリーの意味を表徴していない。
それのせいもあって、国語と、国文学の歴史は非常に嫌いだった。
文学の最も大切な基準は「面白い」かどうかだ。もちろん「面白い」の中には「感動」や「共感」と言った、読後感の素晴らしさの多くがこもっている。しかし断じて、芸術性なんかじゃない。これは、音楽でも絵画でも、漫画でもアニメでも、基本的にはそうだと思っている。
もちろん、沢山売れればそうかというとそうでもない。要は売れた後だし、長い目で見ることも肝要だ。
そういう意味では、国語の授業で教えられた多くの小説は、ある程度は優れた文学だと思うが、実はそんなものは時代とともに大きく変わるので、「残る」というのは大変なことだ。
もちろん、残るだけが必要ではない。その時代時代の中で指示されることが大切だ。
いずれにしても、大衆小説という括りで純文学と対峙される作品の方が、ずっと重要な気がしている。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:46 | コメント (0)
2005年6月29日
日本語決定戦
本日、TBSで日本語決定戦という番組をやった。日本語は改めて難しいと思った反面、何となく国語の試験を思い出して歯痒い思いもした。
日本人の平均は52点ということだが、ある意味、さもありなんという問題ではあった。
漢字に関しては、「意味から類推すれば正しい解答に結びつく」と解っていても、何となく別の方を選んでしまったり、まったく解らないといったものも結構あった。あるいは間違えて覚えていた物など。
「確信犯」という言葉の意味など、実はこのクイズで始めて知った。
だが、例えば昨年のように「今年は台風の当たり年だ」等という表現を、間違いなくニュースなどで聞いていると、それが本来的には違うと言われても、簡単に納得はできない。
そういう意味で、漢字はともかく、意味を判断する言葉に関しては、いくつか釈然としないものはあった。
そこでいくつか辞書を引いてみた。
「揚げ足を取る」・・・いくつかの辞書で「上げ足」も載っている。
「応待」・・・人をもてなすという意味がある
「老舗」・・・ろうほとも読む
「間髪を入れず」・・・かんぱつと読んで、間髪(はつ)を入れず」の俗語的な言い方。
「青田刈り」・・・これも青田買いの意味で使う。
「足元をすくう」・・・ジーニアスの英和辞典にはこの表現も載っている。
「さいさきが悪い」・・・広辞苑でさえこの用例は載っている。
「当たり年」・・・回数の多い年という意味が載っている辞書もある
「辛党」・・・意味は知っているが、甘党の反対が酒好きというのは絶対におかしい。
などなど・・・・・
言葉の意味や表現方法は時代とともに変わる。微妙な言い回しや、意味の変遷はやむを得ないような気がする。
もちろん、言葉はコミュニケーションツールなので、交わす双方に共通認識が求められる。例えば「憮然とした表情」等という表現は、むっつりした表情のように取られるケースが増えているが、実際はしょげているとか防戦としているという意味だ。この2つは意味的には全く違うから、前者のような意味が大きくなったとすると、「いとおかし」等よりも尚おかしなことになってくる。
まして、これだけ情報網が発達している中では、かつての古文と現代文のような違いを、それほど生まないようにすることもできるに違いない。
表現や意味の維持と、新たな表現や意味の兼ね合いというのは、「時化」や「灰汁」、「態と」を読めないよりも、より重要なことだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 22:50 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月20日
反対語
反対語というタイトルで、カテゴリーを文学というのもどうかと思うが、まあいいだろう。
友人とコーヒーを飲んでいて、砂糖の話になり、「甘いの反対は何か」ということになった。「辛い」だと思われるが、では酸っぱいの反対は何か?と言うことになったときに非常に難しい。
そもそも、甘いと辛いは本当に反対語なのだろうか?
反対語は対義語、反意語ともいうが、読んで字のごとく、反対の意味を表す言葉だ。上と下、大きいと小さい、長いと短いなど一瞥して反対の意味だと解る言葉も多い。ある尺度があって、その尺度の両端にその意味を置くことができるような言葉だ。ところが、「甘い」という言葉は非常に曖昧な味覚を表現している。何となく、甘い物の対極にあるのは辛い物のような気がするが、果たしてそうだろうか?
私は甘いの反対は「甘くない」だと言ったのだが、では、長いの反対は「長くない」かというとそうではない。「〜でない」を反意語としてしまうと、何でもそれで良くなってしまうから意味がない。
そもそも「長い」と「短い」も、何と比べて長いのか短いのかという尺度であり、意味を考えていくと、よく分からないことになる。但し、反対かどうかという意味に於いては「長い」と対になるのは「短い」だ。
であれば、感覚的なことに依存して、「甘い」の反対が「辛い」でもいいが、じーっとこのことを考えていると、実は甘いと辛いが本当に対になるのかどうか解らない。なぜなら、味覚は二者択一ではないからだ。甘いと辛い以外にしょっぱい、酸っぱい、甘酸っぱい等、微妙な言い回しが存在する。長さは二者択一だ。長いか短いだ。ちょうどいい等という表現を持ち出すのは意味がない。
そうしてみると、反対語というのはその意味するところが、二元的な対立に置き換えられない限り存在しないと言うことになる。
楽しいの反対が悲しいは、では腹立たしいはそれらの感情と比較してどの辺りに位置するか、と考えたときに解らなくなる。もちろん、へりくつと言われればそれまでだが、例えば試験などに出る次の言葉の反意語を答えよなんていう問題は、一度じっくり見つめ直してみると、案外首をひねるものが少なくないような気がする。
でも酸っぱいの反意語は、やはり酸っぱくないだろう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:11 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月 6日
漢字の書き順
漢字検定というのがある。受けたこともないし、受けるつもりもない。が、先日テレビで、漢字検定には漢字の書き順も出るというようなことを誰かが言っていた。
漢字の書き順て、そんなに大事か?
漢字の成り立ちや、書き順というのは、学問としては意味もあるような気もするが、日常的に知っている必要性を全く感じない。
かつて高校時代に、数学の問題で、友人が当たるというので、答えを見せたことがある。クラスが違ったのだが、ノートを返してもらうときに、答えは合っていたが解き方が違っていて、怒られた。と言われた。今思えば、たまたまその答えが、その時だけ正答と同じになった、つまり他の場合には上手くいかないと言うことだったのかも知れないが、そうではないかも知れない。私は普通に説いてそれでいいと思っていたので。
なんだか書き順ていうのは、ほとんどそんなのと同じに思える。
個人的には書き順なんてどうでもいいだろう、と思っている。
最近、「ネプリーグ」という番組で漢字の読みを答える問題が必ず出るが、あれは面白い。なかなか難しい問題も出る。また、昔は知っていたのに、頭が錆びて解らなくなっているときもある。
漢字そのものは、日本語を構成している非常に重要なパーツである。ひらがなとカタカナだけでは、意思の疎通は非常に困難で、また読みづらい。漢字があることでメリハリが出て、リズム感も生まれる。だから、漢字は重要なコミュニケーションツールで、読み書きはできた方がいい。最近は「書く」機会がかなり減っているので、それはそれで問題も多いが、せめて読める漢字は多いに越したことはない。
今日の夕方のニュースでナレーターが「人工皮革」を、「じんこうひかわ」と呼んでいた。ロボット仕掛けの演歌の若大将のようだが、一通り終わったところで、アナウンサーが訂正していた。たまたま間違えたのかも知れないが、テレビというのは恐ろしい。
漢字の書き順を知っていることのメリットを(知識が豊富という点だけでなく)知っている人がいたら教えて欲しい。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:40 | コメント (3) | トラックバック (0)
2005年1月22日
ダルタニアン物語
ダルタニアンと言えば当然、アレクサンドル・デュマの「三銃士」の主人公だが、「三銃士」には続編がある。「二十年後」と「ブラジュロンヌ子爵」だ。
私はこの一連の長い小説が大好きだ。しばらく前に、復刊ドットコムのおかげで復刊も実現した。訳は昔の講談社文庫版の鈴木力衛氏のものだ。私は実は、この講談社文庫版の1,2巻を持っていない。「友を選ばば三銃士」「妖婦ミレディーの秘密」の2冊だ。なぜかと言えば、「三銃士」の上下巻がこれに当たるので、岩波文庫版を愛読していた私は、必要がないと思ったからだ、これは1970年代の中頃のことだ。手元の奥付を見ると、昭和50年第一刷となっているので、75年という事か。
ながいもので1冊600ページ以上、全11巻という長大な話なので、この後重版されたのかどうか知らないが、ずっと絶版だった。
物語はガスコーニュの田舎から銃士になりたくてパリに出てきたダルタニャンの一生の物語だ。「三銃士」は映画にもなり、アニメにもなっているようなので、今更話の筋を書いたところで、ネタバレにもならないだろうが、アトス、ポルトス、アラミスのいわゆる三銃士と出会い、友として当時のフランスの宰相リシュリューと戦うわけだが、デュマという人は、「モンテクリスト伯」でもそうだが、筆が乗ると止まらないらしく、非常に軽快でよどみない文章を書く。長編だが短い。
「三銃士」には王妃アンヌ・ドートリッシュとイギリスのバッキンガム公爵との恋愛に端を発した、ダルタニアンと三銃士の活躍や、ミレディーという妖艶な美(悪)女との恋愛と凄惨な結末、ロシュフォールという、後にダルタニアンとは友となる男との争いなども見逃せない。
「20年後」は、文字通り、三銃士から20年後の話だ。銃士隊の副隊長となったダルタニアンと、三銃士の面々は、友でありながら敵対する関係にある。この話はクロムウェルなども登場し、波瀾万丈で面白い。
最後の「ブラジュロンヌ子爵」、このブラジュロンヌというのはアトスの息子だ。全11巻の内の6巻を費やす、異常に長い物語で、しかも半分くらいが宮廷の恋愛絵巻で、実は途中は退屈する。
ブラジュロンヌ子爵の恋人で、ルイ14世の元に行ってしまうラ・ヴァリエールというのは実在するルイの寵姫だが、ディカプリオが出演した「仮面の男」の原作は、まさにこの10巻の辺りの物語だ。映画ではバスチーユでダルタニアンは死んでしまうが、デュマの物語では、かなり大団円を迎えての死と言うことになる。
私は「仮面の男」の改編は、あれはあれで好きだ。素晴らしきかっこいいダルタニアンが描き切れているし、ルイが実はダルタニアンの子供だというのも面白かった。
実際には、ルイはマザランの子供だとか、フーケの子供だとか、いろいろあるらしいし、鉄仮面を付けた男も、様々な説があるようだ。ルイ14世の双子の弟と言うことはないようだが。
この長大な物語を、あれだけ矍鑠とした筆致で、一気呵成に書いたような感のあるデュマという人は、いったいどんな人だったのだろうか。息子のデュマもアレクサンドルというヨーロッパ人にありがちな同じ名前が付けられていて、日本では大デュマとか小デュマとか言われるが、息子の方もヴェルディで有名な「椿姫」を書いている。尤も、私生児だからかどうかは知らないが、親父のデュマのようなエンターテインメントに徹した歴史物語よりも、「問題作」が多いらしい。
日本では、「三銃士」と「モンテクリスト伯」で有名だが、最近では「王妃マルゴ」が出たり、昔から東京創元社では「黒いチューリップ」が発刊されている。
実は私は、「モンテクリスト伯」が一番だと密かに思っているが、ダルタニアンファンには納得いかないかも知れない。しかし、錯綜した物語の作り方や、オチ(というと軽薄だが)という点では、歴史に根ざし、なおかつ明るく自由奔放さに満ちた「三銃士」よりも、鬱屈しながらも、そのテーマに「待て、そして希望を持て」という一言を置かないではいられなかったデュマらしさが、鬱屈しているからこそ小説の味として出ているように思える。
ある意味、ダルタニアン物語は、絶対王政時のフランスという、非常に今となっては魅力的な時代を、例えば日本の「太閤記」や中国の「三国志」などと同じ視線で読める小説である気がする。
しばらく前に読み返したのだが、現在人に6巻を貸していて戻ってこない。きっとこれを読んでる人物なので、続きを貸すから早く読みなさい、という一言で締めくくろう。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年12月17日
飢餓海峡
「飢餓海峡」を最初に知ったのは、確か映画だったが、見たわけではなく、小説から入った。水上勉という作家は、私にとっては全く未知の作家で、イメージとしては、私が余り馴染まない日本文学の作家というものだった。
私がそれを手にした理由は、恐らくタイトルだし、キャプションを見なければ、いまだに読んではいないだろう。
これまで北海道の話は何回か書いたが、そもそも北海道を訪れる前は東北を旅することが好きだった。今でももちろん好きだ。鄙びたという表現をよく使うが、この鄙という言葉は、田舎という意味だと思うが、都会に住んでいれば、何も東北だけが鄙びているわけではない。鄙にはまればなどという表現も使うが、美人が都会に多いとすれば、それは総人口が多いからに他ならない。
東北好きなのだが、車を運転しない(人によってはできないという表現も使うが)私にとっては、下北というのは実に旅しづらい土地で、あの下北半島というのは実に広大で辺鄙なのだ。何度か計画を立てながら、現地で挫折したりしている。
津軽は意外と楽だ。五能線や津軽鉄道、バスなどが比較的便利に動いているからだ。しかし津軽となると、大湊まで鉄道は繋がっているが、その先が結構不便なのだ。いや、思ったより距離があるといった方がいい。大間崎や仏ヶ浦などを訪れようとすれば、やはりマイカーかレンタカーでないと多分辛い。
さて、そんな経験から、下北というのは軽い見果てぬ夢みたいなところがあり、まさに「飢餓海峡」の最初の舞台は戦後の荒涼とした下北なのだ。
「飢餓海峡」自体はミステリーに分類すればいいのか、純文学に分類すればいいのか、あるいはエンターテインメントと言っていいのか解らないが、私には少なくとも最後の分類がしっくり来る。
主人公の樽見京一郎こと犬飼多吉は、悪いジャン・バルジャンみたいなところがあり、内容全体はそんな男と、女の生き様のぶつかり合いというか、非常に日本的な愛憎劇である。
小説はすごく面白かったし、三國連太郎が主役をやった映画も面白かった。NHKがドラマ化した若山富三郎のものは見ていないが、是非見てみたいと思う。
薄幸で健気な八重と、人の善意を信じられない悪人の犬飼の対比と悲劇は、戦後という舞台で、非常に重々しくも快活に描かれている。
実は細かいところは覚えていないので、これを機会に読み直しをしたいと思う。DVDも購入したいところだが、どうして邦画のDVDはこんなに高価なのだろう。買う人が少ないというだけとは思えない。
洋画が物によって1000円を切る時に、5000円前後の価格を付けている。文庫だって、上下巻でせいぜい1500円前後ではないだろうか?
レンタル屋で借りると同じ値段なのにどうして?と思ってしまう。
しかも、洋画の方が、吹き替えや字幕を付けるという手間がかかっているはずだ。この辺りの仕組みが、私にはどうも解せないのだが?
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:38 | コメント (0) | トラックバック (1)
2004年11月30日
氷点
三浦綾子の「氷点」が好きだ。とても良くできた小説だ。
小説が持っているセンス・オブ・ワンダー(これはSFのための用語だが)を、あれほど強く意識させられる小説はない。
陽子という無垢なキャラクターに「私の心にも氷点があった」と言わせるくだりは、涙無くして読めない。そして二重のどんでん返し。どんでん返しというのは、それ一発勝負ではいけない。緻密に描かれた前半の物語があったればこそ生きるどんでん返しなのだ。
これはそもそもが不倫の話から始まるので教科書などでは多分扱われない小説だとは思うが、キリスト教的な原罪とか、心に罪を犯したことがないものがまず石を投げんといったシーン、様々な人の罪と愛の在処みたいな葛藤を描いているように思う。
ファウストの昔から、「永遠に女性なるもの」が魂を救うといった感覚が、キリスト教にはあるのかも知れないが、まさに陽子はそういった象徴のように思える。
生まれた瞬間から十字架を背負わされたような数奇な運命を、少女時代に過ごさねばならないのにも関わらず、人を信じ、愛し、許す、言ってみれば天使のような娘に「心の氷点」と言わせるところで、普通は良くできた小説だが、そこに綾をもう一つ作ることで奥深いエンディングを演出している。
続編もそれなりに面白いが、正編の域には達していない。但し、作者が描かんとした部分は、恐らく正編では不完全で、幼い無垢な少女が強さを身につけるまでを描きたかったのだろう。例えば、「風と共に去りぬ」のスカーレットのように、雄々しく立ち上がる陽子を描くことで、あたかも十字架に欠けられたイエスが復活するように、苦しく辛い人生でも、ここから生きていくのだという強いメッセージが感じられる。
実際、正編の方は、エンディングのすばらしさに、作者のメッセージ性は弱い。むしろ花登筐とか、小公女ではないが、虐げられてきた主人公が最終的に光を浴びるような、そんなエンディングだった。
多分これでは作者の思いは描き切れていなかったのだ。
ただそれでも、一個の作品としては、正編のクオリティの方が遙かに高い。
作家であれば、こういう作品が書きたいと思わせる作品の一つである。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 23:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年11月 6日
巌窟王
最近、「巌窟王」というアニメを夜中に放映している。「巌窟王」と言えば、言わずと知れたアレクサンドル・デュマの小説「モンテクリスト伯(Le Comte De Monte Cristo)」の邦訳タイトルの一つだ。
日本では、デュマは「モンテクリスト伯」と「三銃士」の2作で有名だ。「三銃士はその続編「20年後」と「ブラジュロンヌ子爵」を合わせて、ダルタニャンの一生を描く活劇、かつ宮廷絵巻みたいな感じだが、「モンテクリスト伯」は、活劇的ではあるが、「三銃士」のトーンとは大分違った、かなりミステリー的な手法も入った復讐劇である。邦訳で5巻から7巻とかなりの長編だが、その長さを感じさせない、恐ろしいほどの文章力で全体が貫かれている。個人的には生粋のエンタテインメント作品だと思っていて、日本では、ある意味、ここでのカテゴリーである「文学」という言葉と対峙的な位地にある作品だとも思う。尤も、私自身は「文学」という言葉を、文字で書かれた作品といった意味で捉えているので、その意味では十分に範疇であるが。
さて、私が最初に「モンテクリスト伯」と出会ったのは、恐らく中学の頃、ラジオドラマだったような気がする、元々小説に限らず、文章を読むのが大嫌いで、SFに出会っていなかったら、ただの読書嫌いで終わっていたかも知れない人間なので、家にあった「モンテクリスト伯」を含む子供向けの文学全集の1巻など、小学生の時に目を通すはずもなかった。今となっては、もっと早くから本に興味を持っていれば良かったとも思う。
友人と、結託した検事らの手によって奸計にはまり、結婚を前にしたエドモン・ダンテスは、牢獄送りとなる。イフ城と呼ばれる海上の牢獄の奥深くに繋がれたダンテスは、そこで一人の神父に出会い、モンテクリスト島の宝の秘密を聞き、神父の死を利用して脱獄する。莫大な富を得たダンテスは、モンテクリスト伯爵と名乗り、かつての3人に復讐を始めるという、設定だけ聴いてもわくわくするような内容だ。デュマはこの中に、二重三重に人間関係のドラマを仕立てつつ、驚異的なスピード感と、複雑に織り込まれた伏線で、類い希な物語を作り上げた。物語としてよくできすぎているとさえ感じる。
映画化も何度もされているが、なかなかこれという作品に出会わないのは、「レ・ミゼラブル」と一緒である。デパルデューが作ったテレビドラマなど、最終回は腹が立った。こんな結末、ありえんだろう。といった感じだ。
今回「巌窟王」という名で放映されているアニメは途中の一回を何となく見たのと、ホームページで情報を若干見ただけだが、ストーリー展開は原作にかなり近い。但し主人公はアルベール・ド・モルセールで、モンテクリストのかつての恋人メルセデスと、仇敵フェルナンとの間にできた子供だ。原作でも非常に重要な役回りで、いかにもの若くて潔癖だが、かなり直情的な青年だ。ただ、この作品をアニメ化するに当たって、私には何で舞台が未来なのか、全くもって制作者の意図が分からない。原作を、モチーフ程度に扱って、新しい物語を作っているならともかく、1回見た限りでは、人間関係や登場人物そのものまで、ほとんど原作そのままで、サイトを見ても、最近の若いやつのためにそうした、程度にしか私には理解できない。
アルベールを主役に持ってくるのは悪い視点の変え方ではないと思うが、それでも、それによって描かれる世界は、モンテクリスト伯とは実は別物だ。恋人ユージェニー・ダングラールなどの描き方も1回見た限りでは結構行けているように思うので、いかにも舞台設定が私には不満だ。
この作りで、舞台設定も原作通り、結末も原作通り、最後の決めぜりふも原作通り、のアニメだったら、私は相当に入れ込んでいたろうが。絵も不思議な世界を醸し出してはいるが、個人的にはCGの使い方などはあまり好きではない。単純に、見づらいという理由だけだが。
それでも、全体が終わって、ストーリーと構成がしっかりしていれば、多分買ってしまうかも知れない。でも、アルベールが主人公なら、最後のシーンは私の期待しているものとは違うはずなので、きっとがっかりしちゃうんだろうな。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 21:03 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月11日
レ・ミゼラブル2
昨日の続き。
ミリエル氏のエキセントリックな所行は、極めて強い影響をジャン・バルジャンの上に落とすことで、物語の幕が開ける。これまで人を信じられずに生きてきたジャンは、この後のプティ・ジェルヴェの些細な一件をきっかけに、正義の人として生まれ変わる。
ここで著者はジャンに非凡な才能(力と器用さ)を与えることで、彼を市長にまで登らせ、そこでジャベールとの劇的な出会いを設定する。法が全てで、権威主義的な傾向のある官憲ジャベールを、市長マドレーヌとしてのジャン・バルジャンと掛け合わせるのだ。
ジャン・バルジャンはファンティーヌへの贖罪とと残されたコゼットのために、残りの半生を費やそうとするが、いみじくも彼自身のそれは安寧のためでもあるのだ。
革命と恋愛、社会の底辺でうごめく悪党との絡みを経て、物語は進むが、実はその全てが結末への伏線である。
パリを逃げまどうジャンとコゼット、コゼットとマリウスの恋愛、テナルディエとマリウスの関係、マリウスへのエポニーヌの片思い、登場人物が、これでもかというご都合主義的な運命の糸で縛られながら、それでいてそれを感じさせない力強さで走っていく。
そして、革命のバリケード内でのジャンとジャベールの再会、マリウスの負傷という2つの出来事は、決定的な謎解きの解決編を準備するかのごとく、下水道の出口にテナルディエを潜ませる。
ここまでをもし、丁寧に描いた映画が、ジャベールの死で物語を終わらせたり、一直線にコゼットとマリウスの恋愛とジャンの死という終焉を描いて終わるとしたら、これはもう、ユゴーも泣くに泣けない。
最初の一つの山は、テナルディエがマリウスを訪れ、マリウスにとってのジャンの価値を、奈落から神の位地にまで引き上げるところで訪れる。ここはまさにユゴーの作家としての面目躍如という部分で、これまで張られてきた多くの伏線を、実に小気味よく使っている。そしてここからジャン・バルジャンの救いと死に向けて一気に突っ走る。
最後に「司祭はここにおられる」という救いに満ちたジャン・バルジャンの死でこの小説は終わるが、コゼットの結婚以降がうまく描かれている映画はほとんど無い。
それは恐らく、この作品がエンターテインメント以上の何かであるという錯覚から起きるのだ。しかし第一義、小説としてこの作品が持つ命足る部分は、この見事に綾取られたストーリーの妙だ。かなり強引な部分がたくさんあるが、昨今のミステリに比べたらかわいいものである。
時として小説はごり押しとご都合主義によってかくも面白くなると言う典型であると思う。個人的な思いを述べるなら、ユゴーが必要と思って書いている、ナポレオン戦争の説明部分と、パリの下水道の歴史は蛇足の感は免れない。それがたとえ、ポンメルシー大佐とテナルディエの関係を描くためと、ジャン・バルジャンがマリウスを背負って下水道をくぐる大変さを強調するためであっても、である。
ああ、一度、もっと活劇的なレ・ミゼラブルの映像を見てみたい。そして結末を勝手に解釈して、くだらない終わりにしていないやつを。
デパルデューのドラマはそれでも良くできている方だとは思うが、物足りない。彼の「モンテクリスト伯」ほどひどくはないが、デパルデューがジャン・バルジャンらしくない。もっと厳つい悪党面で、普段悪役ができる人がいい。ジャン・ギャバンなんて、まさにイメージ通りだったのにな。これもよくできているが、どうもな。
って、私自身が、どうも勝手に解釈しているのかな?
いや違う。あれだけのストーリーを思いついたら、そのストーリーの読ませたいに決まっている。まず「レ・ミゼラブル」は小説だ。やはり極上のエンターテインメントなのだ。
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 03:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
2004年10月10日
レ・ミゼラブル1
レ・ミゼラブルといえば、言わずと知れた「ああ無情」、ヴィクトル・ユゴーの名作小説だが、ミュージカルなどは最近では原作よりも有名かも知れない。映画化やドラマ化もたくさんされた。珍しいところでは、榎木孝明主演で原日出子がヒロインをやった昼メロ版もある。最もこれは、半分くらい「モンテクリスト伯」じゃないか?と思える節もあったが。
さて、これだけ多く映像化されたり、多くの人に読まれていると言うことは、当然名作だからなのだが、この小説の真価はどこになるのだろう?
かつて教科書にも「ミリエル氏の銀の燭台」の件は載っていて、あれはあれで、主人公ジャン・バルジャンのその後の人生を決めていく大きな出来事として、一貫して小説全体を流れる主テーマの、まさに最初のエポックとして素晴らしい場面である。クリスチャンでなくても、聖職者かくあるべき、そして至高なる美徳として納得できる。
当然、「レ・ミゼラブル」は、社会の底辺で救い無く生きている様々な人間模様を描きながら、分けても「家族が生きるために」一切れのパンを盗んだというそれだけで、19年間の徒刑生活を送らねばならなかった男が、一人の神父に会ったことから、自分の後半生を人様に捧げて生きていく物語だ。作品の最後に「数奇な運命」とその墓碑に印されたごとく、まさに数奇な人生を送る男の物語だ。
そこには神によって救われる人間という、抹香臭い(キリスト教でもこの表現は有効か?)テーマが延々と横たわり、それは信じる人たるジャン・バルジャンと、信じない人間ジャベールの二元的な対比で、最終的にジャン・バルジャンが勝つという軸で強烈に描かれている。
割と最近上演されたアウグスト監督(だったと思う)のヴァージョンでは、まさにそこが強く強調されていて、まさにジャベールの死で物語が終わっていた。まあ、私に言わせれば、その一点だけであれは駄作なのだが、こういう描き方があってもいいのだろう。
しかし私は、この作品が長く命脈を保ち、常に面白く読める最大の理由は、あれだけ余計な記述の多い(ナポレオン戦争の細かい描写や、パリの地下道の経緯など)作品でありながら、尚これが極上のエンタテインメント作品であるからだと思っている。エンタテインというのは人を楽しませること、すなわち娯楽と私は理解しているが、ある意味これは、一つの例として、物語を通じて思想や信条を読者に伝えることを主眼とする部分と対比させて考えている。
小説が人の手によるものである以上、多かれ少なかれ、思想や信条、あるいはそこで訴えかけたい何らかの情報がそこに込められている場合が多いのは想像が付く。個人的な見解としては、娯楽部分がないがしろにされ、思想性が強く出過ぎた作品はどうも鼻につくので好きになれない。
レ・ミゼラブルは一見、社会は小説のように見える。まして彼の時代背景や、その他の作品を読んだりすると、目的の多くはそこにあったに違いない。
しかし彼は、この作品で、非常に大きな労力をエンターテインメントに割いている。
そしてそれこそがこの作品を朽ちることのない名作として、時代を超えても読み継がれる作品にしている大きな理由だと私は考える。
そして、ミリエル氏の教会の門を叩く場面は、まさにそのエンターテインメントの幕開けなのだ。
以下 明日
投稿者 keisuke_yui : 文学・日本語 | 02:08 | コメント (0) | トラックバック (0)