2008年4月29日
瀬尾佳美とか・・・諸々
3か月半ぶりの書き込みである。
瀬尾佳美という青学の准教授(この准教授というのは、なぜ助教授じゃなくなったのだろう・・・最近の言葉の言い換えには、何とも興味がそそられる)が、先日の光市母子殺人事件の死刑判決後にブログで発した発言を期に、話題になっている。
この教授の発言に関する意見というのは、その多くが非難であり、基本的にはぼくも大筋でその意見に同調するので、敢えてここで、正面からそのことをわざわざ書くつもりはない。
あくまで参考のためにこの人の文章を引用の引用で掲載する。
繰り返すが私は死刑廃止論者ではない。麻原なんかさっさと首絞めたらいいと思っている。 だが、光市の事件に関しては死刑は重すぎるように思えてならない。犯人が少年だからだ。 私は少年に対する死刑には原則反対だ。 理由は日本では18歳になっても選挙権がないから。選挙権もないのに、義務だけあるのは気に入らない。 金の掛け金を何千万も横領している公務員がなんのお咎めもない一方で、いくら重大犯罪人だといっても子供を死刑にするのは私の「正義感」には合わない。 もちろん、だからといって何をしてもいい訳ではないが、国が死刑という形で犯す殺人には、熟慮が必要だと思うのである。 最低でも永山基準くらいをラインにしてほしいものだ。 永山事件の死者は4人。対してこの事件は1.5人だ(まったくの個人的意見だが赤ん坊はちょっとしたことですぐ死んでしまうので、傷害致死の可能性は捨てきれないと思っている)。 一審、二審の判断は、相場から言えば妥当なところではなかったろうか。引用元
この人は、すでにWikipediaにまで項目があるし、今回の事件についてばかりではなく、これまでも多くの問題発言を繰り返し、シンパもいないわけではないようだ(詳細は知らないが)。
いずれにしても、大学で学生に何かを教えているわけで、教える内容の賛否はともかく(個人的にはとても「否」だが)、その文章を読んでいると、とても稚拙な感じがする。この場合、稚拙という表現が合っているのかは、自分自身疑問なのだが、大学の先生が書くにしては、ということだ。
この人、「リスク理論入門」というタイトルの本を出しているが、自信の身に降りかかるリスクをうまく回避できなかったようだ。
この後、青山学院への山のような直接抗議などに対して、謝罪や言い訳を言って、最も反発の強かった「幼児を0.5人と換算した」と見える場所についても、「傷害致死の可能性」を0.5としていると書いている。
この准教授は、例えば拉致被害者に対しても
「(拉致被害者は)私の目から見ると信じられないくらい幸福です。なのにその幸福に感謝もしないで、いつまでもいつまでも『めぐみっちゃん』とか不幸面してられるアンタが心底うらやましいよ、とTVを見るたびに思います」この引用はJ-CASTのニュースから
というような発言を以前にしているらしい。
これは、もって他山の石となすべき事なのだけれど、内容は別にしても、この表現方法はどうしてこうなるのだろう。
日本のブログ文化は、内容の善し悪しに関わらず、この表現という点において、とても自由で、危うい。
「不幸面してられるアンタ」という表現が、この場の書き手の心情を最もよく表しているとしても、この文章を不特定多数に公開する場合、どういう効果があるか、考えないで表現できる危うさが、そこに存在する。
書籍や雑誌は、編集者が、テレビも様々なフィルターが、多くの場合かかる。
しかしながらブログは、「日記」との狭間で、フィルター無しに直接的に伝わり、なおかつ、流行というか、それぞれに特有の文章的傾向がある。
2チャンネルの隆盛により、匿名で感情を吐露したり、あるいは補遺とを傷つけるような表現が日常的に、しかも安直に使用されることがよくある。
この瀬尾という人の場合は、根本的に何かが欠落しているような内容なので、そのことも相まって、読者感情を逆撫でする。
ただ、最近はやりの学校裏サイトやプロフなどでも、ニュースで見る限り(実際のサイトは見たことがないが)直接的に人を傷つける発言が、ある意味効果的に使われているし、それが日常語であるようにさえ思える。
福田首相が、後期高齢者医療者制度について、山口の補選で街頭演説するシーンが何度も流れたが、あの年齢で、首相までやっている人が、ああいう表現をして、選挙に勝てると思っているのが恐ろしい。
尤も、友人の友人がアルカイダの友達だったり、大臣をしてこの発言という人たちは多いし、年金記録の付け合わせが3月までに解決しなかったことに対しても、「誤解を与えた」という表現で謝罪をするような国家なのだから、表現についてはまず大人が正さなければいけないのかもしれない。
人間が社会生活を送らなくてはならないのは、もはややむを得ない事だし、自分と他人の関係を抜きにして、生きていくことは、基本的に不可能だ。
であれば、自由というのは、自己の自由であると同時に、他人の自由でもある。そのこと抜きには自由を語れない。
だからこそ、中国はチベット問題で世界から非難されているわけだ。・・・尤も、中国の「自由」は、自由主義国家の自由とは、意味が違うのかもしれないが。
日本には、幸か不幸か敬語が存在する。こんなものがなければ、もっと表現は平易なのかもしれない。
しかし、存在して、まだその威力があるうちは、それなりに使い分けが必要になろう。
ぼくは、朝青龍の尤も好きになれない点が、その敬語をほとんど使えない点にある。彼はモンゴル人なので、関係ないと言うほど、日本語は下手ではないし、新聞やテレビの記者相手に、丁寧語すら使おうとしない彼に、横綱としての資質のなさを感じる。
横綱はまず強くなければならないと言われるし、それももっともなことだが、相撲が品格の高さを失ってしまったら、プロレスと何ら変わらないとさえ思えてしまう。それならば、プロレスの方がずっとおもしろい。・・・いや、プロレスにはプロレスの品格があり、それは言葉遣いとはあまり関係ないのだ。
しかし相撲は違う。・・・ただ、そう感じない人が増えてくれば、それはそれで、仕方がないのかもしれない。
さて、言葉や文章というのは、斯様に人に対する心象を形成する。
例えば内容は別にして、丁寧な言葉で書かれた文章で、いやな思いをする人はあまりいないだろう。
しかし、正論であっても、攻撃的であったり、人を小馬鹿にしたような表現方法を採られると、反発したくなったり、いやな思いをするものではないだろうか。
どんなことでも一概には言えない。時には過激な表現手段が必要なこともあるかもしれない。
だがどんな場合でも、読む人の心象を大切にするという姿勢は、必要なはずだし、それは自ずと文章に表れる。
もちろん表現だけではない。意見の表出はある程度自由だが、人の考え方には流行や道徳的なことも含めて、ある程度の規範が、時代時代にある。それを超越して変化もあるには違いないが、そのバランスの中で我々は生きている。淘汰されていく考え方や行動がある一方、守られ、継続していくそれもあるのだ。
それらの基本にあるのが、自他のの関係性であることは間違いない。
表現手段も、表現内容も、実はそのバランスがとれる内側で使用される間は、きっと自由なのだ。
しばらくぶりに書くとどうも、こうしてまとまらない。・・・続けて書こう。
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月31日
ポータブル・オーディオ2
iAudioのM3とうポータブル・オーディオ・プレイヤーを購入して、1年半が経つ。
非常にお役立ちで、枕元で一晩何か流れているし、外出の時は必須だ。
しかし、数ヶ月前から電池の持ちが非常に悪くなっている。カタログ値では、1階の充電で14時間くらいだと思ったが、今では2時間がいいところだ。ちょっと操作をすると1時間ちょっとで突然止まる。
かつてのウォークマンやMDプレイヤーなどは、概ね電池が使えたので、電池切れでも電池を交換すれば良かったが、最近のものはほとんどが充電式なので、切れてしまったら、充電するしかない。
とはいえ、外出先で充電できるかと言えば、最新式の新幹線や一部のファーストフードなど、PCなどのためにコンセントが用意されているケースは稀だ。
iPodなど、電池式の充電器がサードパーティから発売されていれば、多少はいいと思うが、USBへの電池式旧電気で汎用的なものは、調べても一つしか出てこないし、とても大きくて、携帯には適さない。
そうやって調べていたら、iriverから出ているT60というタイプが、電池式だということが分かった。単41本で19時間動く。これはT10、T50などの後継機で、1G、2G、4Gの3タイプがある。
そもそもiAudioを購入した最大の理由は、ハードディスクタイプで、20GBという容量だった。できるだけたくさん携帯したいという気持ちから、とはいえ、60GBくらいのものは高価なので、最初に購入する機種としては値頃感もあり、しかも本体をバッグの中などに入れて、小さなリモコンで操作できるというのも魅力だった。
実際には、起動が遅い、操作性がいまいち、早送りや巻き戻しがとても遅い、マイナーなので、オプション品もほとんど無いし、他のメーカーからそれにるいするものも発売されないなど、ディメリットもたくさんあった。録音がモノラルで、しかも本体内蔵マイクなので、時折ハードディスクの回転音ノイズが入るし、FM機能はあってなきがもので、不満はたくさんあった。
但し、メリットに比べれば、改善余地という程度のものだ。でも、動作時間が短くなるというのは致命的なので、買い換えを考えて調べたのだ。
先に述べたT-60は、最大でも4GBで、容量的には5分の1になる。メモリタイプなので、当然軽くなるから、本体で操作するのは問題ないし、電池式なので、常にエネループのような充電式電池を補助で持っていれば、電池切れの心配はない。
とはいえ、録音は所詮モノラルだし、操作性などは試すことも叶わない。・・・これは店頭へ行けば多少できるかな。
SDカード方式などは、昔のカセットやMDと同じで、メディアを入れ替えることで、実質容量は無限になるわけだが、そのタイプには電池式が見あたらないし、そもそも大きなサイズのメモリカードは高い。
ということでまだ購入には至っていないのだが、これらの機械は、ポータブルのハードディスクとしても使えるので、データ・ストレージとしても役に立つので、本当は100GBくらいで、長時間駆動、電池パックでも動き、リモコン付きというのが望ましい。無駄な動画再生などの画面は入らないので安価なものがでないかな、と思う。
外出先で、どれほどビデオやテレビを観るのだろうか?音楽は流しっぱなしでも動けるが、映像は流しながら歩くなどできないから、液晶画面などいらないのだが。
今年最後がこれか・・・
投稿者 keisuke : 音楽 / 日常的 | 17:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月16日
銃
このところ銃の事件が続けて起きている。
猟銃やらクレー射撃の銃やら、身近に銃を所有している人というのはどれほどいるのだろうか?
先日の佐世保の事件では、8人が被害に遭っている。
そもそも人なり獣なりを殺傷する目的しか本来はない銃が、一般の人間の手元にあるということ自体、どんな意味があるのだろうか?
アメリカでは、西部の開拓時代を通じて、銃社会が定着してしまっている。結果的に銃犯罪は非常に多いし、コロンバインに戻るまでもなく、ここしばらくでも多くの死傷事件が起きている。アメリカは身を守るための銃という意識が高いらしい。
しかし、そもそも銃がないと身を守れない社会は社会的に成熟していると言えるだろうか?銃が無くても危険のない社会を目指すという発想は、そこにないのだろうか?
もちろん無いわけはないし、そういう運動をしている人も大勢いることだろう。
テッド・ニュージェントは僕の好きなハードロックギタリストの一人だが、彼は無類の狩猟好きらしい。ワイルドなヤンキーなのだ。テッドの音楽を聴くと、時折そのことに想いが至る。尤も、できあがった音楽と、彼の思想や行動は、直接的に、少なくとも聴く側にとっては関係がないので、それで聴くのをやめようとは思わないが、それはそれで、そういった彼の部分はあまり好みではない。
さて、佐世保の事件では、銃の所持に関して、警察は適正の処置であったことを記者会見で述べていたが、銃の所持者がこのような犯罪を犯した時点で、その処理は不適切であったことの証左であり、そうでないとすれば、その決まりに不備があるということだ。
趣味としての銃による狩りなどというのは、まことに持ってくだらないと思うし、無くなってしかるべきだと思う。
クラークの「幼年期の終わり」の中に、人類が生きるための目的以外で、他の生物を殺傷することを、オーバーロード(宇宙人)が禁じ、闘牛場の観客全員が、非常に激しい痛みに襲われ、闘牛がこの世からなくなるという行があるが、これは闘牛一個のことではなく、人が、文化だとか伝統だとか趣味だとか言う理由で、動物を殺傷することは、あまり胸を張って言えるような優れた風習ではない。
当然人間は、生物を食って生きている。仏教の僧侶が、生臭といって四本足の動物を食わなかったり、精進料理などと言うが、では、植物は生きていないのかと言えば、そんなことはなく、進化のどのレベルにあろうと、人間は今のところ、他の生物の死無くしては、生存していけないのだ。
それは「食べる」という行為だけではない。「駆除」もまた、生存ためにやむを得ない。それが、田畑を荒らす狸や狐や鹿であっても、駆除すべきは駆除する必要があるのだ。
だが、個人の趣味などによって「狩る」のは、彼らのエゴ以上の行為ではない。趣味のレベルとしては程度が低いと思わざるを得ない。
古代の人間は狩猟で生計を立てていたかも知れないが、彼らのは生計を立てるのが目的ではないからだ。
クレー射撃というのがある。
確かに安全に配慮した射撃場での射撃は、例えばSecondlifeでの戦闘地域のように、ゲーム性やスポーツ性がある。銃というものがそもそもある以上、それが適切な場所で、安全に使われるのであれば、それはそれでいいと思う。
尤も、戦争の場が適切であるかと言えば、はなはだ疑問だが。
少なくとも、日本という社会で、職業として狩猟を営むか、山奥などで生活し、熊などの危険を感じながら生きているのではない限り、家庭に銃を所持するというのは、「許可制」などという生ぬるいものではなく、禁止した方がいい。
こういうことは、なかなか国会でも実現は難しい。それは飲酒運転のより厳しい罰の制定などと同様に、議員の中にも銃を趣味にしていたり、飲酒運転の可能性を自身感じていたりする人がいるからではないかと、うがった見方をしたくなる。
銃を「自分は適切にしようしているから大丈夫」と思っている人は、「私は酒を飲んでも酔っていないから大丈夫」といっているドライバーと、全く同質のものを感じる。
銃刀法というが、刃物は少なくとも料理やその他様々な日常生活で必要な場があるが、銃には無かろう。同じテーブルで考えるのは、そもそも間違っている。ただ、この場合の刃物はある程度、「刀」に限られるのかも知れないが。
以下次回
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年6月20日
DVD-VRという規格とコピーワンス
ようやくハードディスクレコーダーを買った。
昔と違って、昨日の済む済みまで考えて購入するということはなくなったので、購入してからいろいろな機能を試したりするのだが、何とも、昔の聴きに比べると複雑だ。
単純に年取って、機械ものが苦手になったというのとは違う。明らかに多機能だし、様々な制約や、思いもかけない機能もある。
そもそも、マンションで、しかも賃貸なので、購入したからはい、地デジも自由に見られますよ、という環境にいるかどうかも確認したわけではない。運が悪ければ映らないと思っていた。
案に相違して、簡単に映った。
接続も簡単だったし、そこまでは苦労はなかった。
しかしリモコンのボタンの多さには辟易する。慣れるまで大変だ。
どうやらスカパー!やWOWWOWも映るようだし、お金さえ払えば、デジタルでいろいろな番組も楽しめるらしい。・・・と、それほどテレビは見ないのだが・・・・・
いや、新聞を取らない分を、報道番組とインターネットでカバーしようとしているから、視聴時間は決して短くない。お昼前と夕方、夜の10時以降と、報道番組をはしごする。時には7時と8時45分のNHKも。
でも、ドラマもあまり観ないし、映画はレンタルしてるからなあ。
でもまあともかく、地上波のアナログとデジタルを比べてみると、デジタルの方がきれいに映るのでそれで録画してみる。
さてここで問題はデジタル放送にはCPRM(Content Protection for Recordable Media)という技術が使われており、さらにコピーワンスという取り決めがある。
これで録画したソースは、まず、CPRM対応のディスクで無いとコピーできず、さらにコピーではなく、ハードディスクからの移動しかできない。しかも、VRという、通常のVideoモードとは違う方式でしかDVDに移すことができない。
これらの方法を経て、パソコンなどで再生しようとすると、結局VRモードに対応したドライブなどほとんど無いに等しいので、所詮再生できないことになる。
また、ビデオと違って、DVDはメディアとしては弱い。傷が付くと再生に支障を来す場合もあるし、誤って壊す率もビデオよりは高い。にもかかわらず、コピーワンスという仕組みによってバックアップを取ることができない。
無償にせよ有償にせよ(地上波、BS、CSに係わらず)、有償であればお金を払って番組を見ているわけだし、無償であっても、CMを通じて間接的にお金を払っているのは視聴者であるから、現実的には有償な分けだ。
録画機器を製造し、販売しながら、その利用方法を過去よりも不便にすることが、「著作権保護」という美名の影で行われている。消費者の利益よりも生産者の利益が優先されているのが現状だし、今後の方策だ。
放送メディアと録画機器などのこういった方策に関して取り決めを行う政府の会議は、安倍政権になってから、その半数が生産者サイドに取って代わったというのを物の本で読んだ。この政権は改革改革と言いながら、非常に旧態依然とした部分が多く見られるし、「美しい国」などという抽象的で意味の分からんことを最初から言っているので、期待はしていなかったが、今度の参院選で、徹底的に負けると言いように思える。
まあそのことは置いておいて、録画したものをどんな方法でも、再販売するという、言わば著作権法が最も守らなくてはいけない、著作者の権利は、その法律で守られるべきで、機器に余計な仕組みを入れて、日常的に家庭で楽しもうという人間の権利を阻害すべきではない。
DVDのリージョンコードやなどとも同じだが、悪意の犯罪者を取り締まるために、消費者にとって有用な機能をコントロールしようというのは、おかしな話だ。
最初から「録画」とか「ダビング」というのが物理的にできないのであれば(この世の成り立ちとして)、仕方ない。この世で光速より速いものはないと言われれば、人間はそう遠くまでは行けないだろうというのと同じくらい、あきらめは付く。
「著作権保護」だか何だか知らないが、著作権は立派な権利だとしても、著作物を購入する消費者がいなければ、商売なんて成り立たないのだということを、今一度考えるべきなのではないか!
やはりそう思う。
あらゆる商売の基本は、結局客だ。・・・・社会保険庁や政府や政党も同じだ・・・・国民が客だ。
映像や音楽を事業として扱う人間は、そこをもう一度考え直すべきだ。・・・・いや、大変なのは解るが・・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 01:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年5月28日
水着
といって、スポーツにほとんど縁のないぼくが書くのだから、水泳のことではない。
テレビのCMを見ていてふと思った。
何のCMだかよく覚えていないが、たぶんシャンプーとかトリートメントのCMだ。南海キャンディーズのしずちゃんが出ているやつだ。
海辺でたくさんの女の子が水着になってはしゃいでいるのだが、確かほとんどがビキニだ。当たり前と言えば当たり前で、今更ビキニがなんだという話だが、さて、人前でビキニになることは、海辺やプールでは当たり前だが、それは水着だからで、下着ではおかしいわけだ。
今、手塚治虫の「仏陀」をまた読んでいるのだが、ブッダに出てくる女性は、そのほとんどが下半身だけを隠し、上半身は裸だ。
当然のことながら、人類はその生誕の時から服を着ていたわけではない。最初は暖を取るためとか、危険を防ぐという目的だっただろう。そう言う意味では、一番の急所である下半身を隠すというのは、とても解りやすい最初の衣服だったはずだ。
それが全身を覆うようになる頃には、保温や保護といった目的だけではなく、羞恥や権威、ファッションなど、様々な目的がそこに付与されてきたわけだ。
さて、それでも尚、男性は下半身、女性は下半身と胸を隠すというのが、人前での最低限の現在の有り様だ。
長い年月を掛けてそうなってきたのだろうが、サラリーマンがネクタイを皆締めているように、よく考えると不思議な光景だ。
いいとか悪いとか、やめようとか、そんなんではなく、ふと、なぜ人間は他人に対してそこを隠すのか、あるいは、そこだけ隠せば取り敢えずいいのか、気になった。
もちろん、街中で水着というのはほとんど無いし、TPOなのは言わずもがなではあるが、なぜそのTPOなのか、が気になるのだ。
裏を返せば、そこを露出した写真集やDVDが商売になるわけだから、そこには単純なTPO以上のものがあるはずだ。
そんなとき、R25の記事で、家庭内全裸が流行っているというようなのを読んだ。mixiにもコミュニティがある。全裸がいい人もいるわけだ。
ヌーディストビーチなんていうのもある。
そんなことを考えると、水着というのはちょっと不思議な着衣なのだ。・・・ちょっと中途半端な。
投稿者 keisuke : 日常的 | 00:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年5月15日
Jackpot Day
今日、夕方の4時半くらいだったか、やたらに外がうるさいので見てみると、ヘリコプターが飛んでいる。それもたくさん。
ベランダに出て数えてみると、見えるだけで10機。恐らく建物の陰に隠れているのもあったと思うので、それより多かったのに違いない。
うちは、笹塚駅の近辺だが、世田谷区の方から、幡ヶ谷の方にかけてを旋回している。
何事かとテレビを回してみたが、何も放送していない。
5時過ぎまで、実に30分以上、その状態は続いた。
いったい何だったのだろう?今まで経験がない。
くだらないことだが、ヘリコプターというのは、飛行機と違って、かなり低空を飛んでいる。
10機も頭上を旋回していると、操縦ミスなどがあったら怖いなあ、などと考えてしまう。
実際にはほとんど無いことだろうが、絶対無いかというと、そうとも言えないではないか。
ネットで調べてみたが、いくつかのブログで触れられていたようだが、よく分からなかった。火事と書いてあるブログがあった。確かに前後して甲州街道を消防車のサイレンが移動しているようなのを聞いた。
としても、10機以上のヘリコプターって!
それとは全く関係ないのだが、夜の10時半頃外にいた。近所だ。
観音通りという、昔懐かしい、しかし半分寂れた感の否めない商店街を歩いていたが、やたらと人が多い。この時間にこれだけ人が歩いているのも珍しい、と思うくらいに多かった。
別に特定の集団が居たわけでもない。
毎月18日には縁日で、出店も少しだけ出るのだが、そこまでではなかったが、10時半という時間を考えると、やはり多い。
何だか解らないが、ハインラインの「大当たりの年(The Jackpot Day)」を思い出した。
この小説と、内容は全くかぶるところはないが、かすかな「異常」を感じて、連想しただけだが。
日常の中で、異質なことっていうのはそうざらにある訳じゃないので、たまたまヘリコプターのことで、人の多さを感じたというただそれだけのことが、異常に見えたのだろうとは思う。
いずれにしても、あのヘリコプターの理由は知りたい。
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月17日
FRESCA
笹塚の駅近くに観音通りという時代を感じさせる商店街がある。都内にはこういう商店街は少なくない。
別に充実した商店街というわけではないし、越してきたばかりの時にこの商店街の特異性に関して書いた。
商店街の入口から出口まで、150メートルそこそこだろう。浜省の(浜翔じゃない・・・あ、こっちはしょこたんか)「Money」でさえ数百メートルのメインストリートに寂れた映画館とバーが5,6軒なので、それに比べたら立派な商店街だ。毎月18日だったかには小さいながら縁日で、出店が出る。
さて、この200メートルに満たない商店街に、なぜか美容室と理髪店合わせて10軒が乱立している。そして八百屋が3軒。まあ、偏った店舗構成なのだ。今回その八百屋が閉店になって2軒になった。そして新たに、「FRESCA」なる美容室が誕生したのだ。すごいぞ。
もちろん美容室の顧客が商店街で完結するはずはないし、いわゆる「カリスマ」でもいれば、遠くからもお客は来るだろう。だがバランスというのもある。よく分からないが、こういう場合のマーケティングというのは、勝算があるのだろうか?
もちろん、商店街の入口からそう遠くないので、奥の美容室に比べると利点はあるように思える。
だがこの辺りに暮らす人間としては、美容室ではなく、他の業種になって欲しかったというのが本音だ。例えば肉屋とか、魚屋とか、食い物屋とか、もう少し日常的に商店街が便利になるような店だ。
個人的には弁当屋でもできてくれた方が良かったな。ほっかほっか亭とか。
このFRESCAという美容室、初台店のホームページが引っかかってくるので、出店の順序としては解らなくはない。ぼくは女ではないので、美容室の出来不出来にはそれほど関心がない。とはいえ、実際にカットは、一番近い美容室に行っているので、まあそのうち、ここにも行ってみてもいいかな、という気はしている。
ただ個々のホームページ、アクセスすると、時たまあるJAVAで無理矢理ブラウザを特定のサイズに変えてしまうスクリプトが書いてある。迷惑なのでとってもやめて欲しい。もちろん、このサイトだけでなく、同様のスクリプトを書いているサイト全てに言いたい。こういうサイトの制作者は、「見る側」のことなど全く考えないで、発信する立場だけからホームページを作っているとしか言いようがない。迷惑なポップアップ広告と何ら変わりはない。
ポップアップは最近は防げるが、こちらは防げないので困る。
JAVASCRIPTをオフにしてしまうと、他で困るのでできない。他愛もないことかも知れないが、こういう些細なことの方が、意外に「イラっ」と来るものなのだ。
この商店街、もう一見閉店する店が控えている(と思える)。まさかそのあとにも美容室が何て・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 14:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 8日
子作り
先日大学時代の先輩と久しぶりに飲んだ。20年以上ぶりだろう(変な表現だが)。懐かしく、昔の話や現在までの話などをし、あっという間に3時間以上が過ぎた。
その折りに、その先輩は、かつて、子供は作らないつもりでいたのだという。ある時、上司だかとにかく目上の人から、そのことについて聞かれ、そのまま答えたところ、「それはいかんよ」という話になり、最後は怒られたといっていた。その方は素直な方で、そこで思い直し、今では高校生になる子供がいるらしい。
私はここで二つのことを思った。一つは、先日向井亜紀と高田延彦夫妻の代理出産の子供を、高裁が実施として受理するように品川区に言ったことと、法務省がそれに対して抗告するという、相変わらずの人でなし行政を行おうとしているというニュースのことだ。
私は結婚していないし、当然子供もいない。子供を欲しいと思ったことがないし、正直なところどちらでもいい。いれば可愛いだろうが、いないからといって寂しいわけでもない。だが、代理出産をしても子供が欲しい人たちがいる。自分で生めない人たちがいるのだ。
世の中には生みの親より育ての親何ていう言葉があるくらいなので、実施にこだわる必要を実は私個人はあまり重要視していない。もちろん、それは自分の子供がいない人間の頭の中だけの話だし、そもそも子供というのは親との関係が重要だという側面もあるに違いない。生める可能性のある人間が生まないというのは、生めない人間がいるのに失礼だ、という意見も、当然存在するだろう。
だが子供も一個の人格であるわけで、生まれたら皆幸せな一生を送るとは限らないので、何でも子供を作るのがいいということではないだろう。まあ、こんな考え方が少子高齢化を生むのだと言われれば、そうかも知れないなどと単純に思ってしまうが、アメリカの国土の何十分の一という狭い日本に1億数千万人という人間が住んでいる方が、多すぎるのではないかな?などとも思ってしまう。
世界の人口だって、65億だ。どんどん増えている。二酸化炭素の上昇は、文明の力にもよるだろうが、人口増加もその一翼を担っているわけで、地球がそれによって滅びの道をたどるなら、それもまた大きな自然の流れかも知れない。何てことも考えたりする。
いずれにせよ、近視眼的に現実だけを見れば、法務省が行おうとしていることは、人様の幸せを、国家権力で握りつぶそうという、何でも法、法という、ジャベール警視のようなものだ。こんなことは、きちんと法整備をして認めるべき事だ。海外のように政治がこういう事の場合、宗教的な側面で簡単にYesといえない国でもあるまい。少なくとも日本国憲法には国民の幸せを守るということが国の役目だと書いてあるだろう。法務省や厚生労働省、外務省などは特にこういう事のかたくなさが目立つように思う。
どうにかしろよ政治家!といいたいところだが、政府がやっていることだ。お話にならない。
さて、それとは別に、前述のような状況というのは多く、日常的な生活の中でよく起こる。
子供を作るか作らないかというようなことは、人類が進化して自分で考えられるようになって以来、必ずしも種の保存則だけのために子孫を残すわけではない。また、墓守を頼むためでもない。幾ばくかは、自分たちの両親の「孫の顔が見たい」という欲求を満たすためではあるかも知れないが。
少なくとも他人からやいのやいの言われるべきことではない。「作った方がいいぞ」というのは、一つのアドバイスとして、それはそれで良いと思うが、何だか人間の義務のように言われるとおかしいと思う。
こういう事は、子供を作るかどうかと言うことばかりではない。結婚でもそうだ。私は未婚だが、好きこのんで見込んであるわけではないが、だからといって結婚願望などという、漠然としたものを持ったことがない。相手がいて初めて、この人と結婚したいと考えるのであって、私の場合は、結婚は先にはない。
だが周りは必ずしもそうは見ないものだ。私の両親は、諦めもあるのか、物わかりがよく、その点で何かを言われたことはほとんど無い。感謝している。その反面、前述したようなことで、親不孝だなと感じる面はある。
ただそれも自分の人生なので、自分で決めるしかないし、それが一番正しいと信じている。何もかも生きたいように、やりたいようにやるなど、これだけ社会的な動物である人間に許されるはずはない。社会の中で、すべきこと、あるべき姿というのは自ずとあるはずだ。
だがそれとは別に、自分で決まるべき事、多の容喙をシャットアウトしても良いこともたくさんある。
少なくとも子作りや結婚なんて、その最たるものではないかと思うのだ。
先日書いた、髪の色やアクセサリーなんていうのも同じ部類だ。個人的には、電車の中で化粧をするなんていうのも実はそっちに入っている。そういう女性を嫌だというのは自由だし、はしたないとかいうのも自由だ。だがそれほどいけないことか?少なくとも、酒飲んで車運転しているような人間が、そんなことを言っていないことを祈るということだな。
投稿者 keisuke : 日常的 | 01:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年9月24日
おかたづけ
今日、片付けをしたのと一緒に、大幅な家具移動をした。・・・・って、大幅でもないか。
ソファと、テレビ、棚の位置を変えただけだ。でも、我が家は薄型ではないので、テレビも重いし、棚は中身を出し、分解しないと動かせない。分解しないと危なくて動かせない棚なのだ。荷物を置いている方が安定するタイプだ。
こういう作業も、確かに若いときほどの体力がない。
あ、でかい机も動かして、パソコンの位置も変えて、新しいプリンタの箱を2ヶ月近く経った今開梱した。
電話の位置も変えた。棚は二つあった。やはり大幅だ。
むかしから、時折こういう事をする。気分が変わるから良いし、合わせて掃除もできる。特に家具の置いてあったところなどは、良い機会だ。
しかし昔は、家具移動した後など、真っ先にオーディオを繋いだものだが、今日は未だに配線していない。テレビだけは見られるようにしたが。
理由は二つ。今はパソコンをまず使えるようにしなくてはいけないのと(これは仕事に差し支えるから)、そうすることで、音楽が聴けるからだ。オーディオ機器を通して音楽を聴くことは稀だ。
聴きたい曲を選ぶにしても、マウスでさっと選べるし、楽でいい。
オーディオの配線が面倒だ、というのはいつものことだが、男というのはそれがやはり楽しくもある。パソコンの裏側は、それに比べると楽だ。特にUSBが出てきてからは、昔みたいにシリアルだ、パラレルだ、SCSIだ、と考える必要がない。ただ、SCSCIのCD-ROMは持っているので繋いだところ、認識しないのでちょっと焦った。
私はパソコンを2台使っているが、仕事で使用する方の負荷を避けるため、常時音楽を流すのはもう1台のサブのパソコンにしているのだが、スピーカーは自分の前にある。今かかっている曲がなんなのだか、解らないときに、これまではちょっと左を見るだけで良かったのだが、今回モニターが遠くなった。
さっきも、聴いたことがない曲がかかっていて、良かったので見たら、ウイッシュボーン・アッシュのチャイルド何とか言う曲だった。自分で持っているCDだって、聴いたことのない曲はたくさんある。ウイッシュボーンは4枚目くらいまでしか出ていなかったのが、ある時期に紙ジャケットで大量に出た。
出ている分は全部買ったが、ちゃんと聞かずに、先日パソコンに入れた。それが掛かったのだ。新鮮だった。しかしほとんど歌謡曲だ。サンタナの歌謡路線をさらに歌謡曲にしたような、昔フレンチポップのような(フランス・ギャルとかの)、そんな曲だった。でもさすがにアッシュのギターはいい。ここまで俗なメロディーラインなのに、やっぱりいい。
さて、おかたづけ、実は終わっていない。でも明日だ。疲れた。
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2006年6月18日
かえる
今日、夜の10時過ぎだったが、マンションの外へ出ると、カエルがいた。雨蛙ではなく、ヒキガエルだった。もちろん東京にもカエルはいるだろうし、以前住んでいた荻窪の家にはヤモリがいた。ヤモリは数日前に、近所の道路で見た。
同じ日、知人が、路上でカメを見たと言っていた。
なにやらは虫類と両生類のオンパレードだ。私はこれらと昆虫類は、あまり得意ではない。苦手といってもいい。なので、ペットとしてのこのあたりの生物は、私にはとうてい信じられない。
もちろん、ペットとしてのそれらを否定するものではないが、最近のニュースのように、凶暴なカメや毒グモなどが、街に突然現れるのを見ると、「なんだかなあ」と思わざるを得ない。
犬や猫とどう違うのか、あるいは鳥などと、と考えると、わずかでも人間とのコミュニケーションがとれるかどうかがその違いなのか、サイズの問題かよく分からないが、何かそのあたりに、境目があるように思える。
例えば、生き物を殺すことは、基本的によろしくないだろうが、それでも、ゴキブリは殺すし、スズメバチだって駆除する。シロアリもそうだ。一見人に害を与える生き物だからかと思うが、ではゴキブリはどうかといえば、必ずしも悪さをしているようには思えない。ただ気持ち悪いからだ。
いずれにしても、人は、どこかで区別をして、他の生き物を殺したり食べたりしながら生きているのだ。
仏教的な感覚で言えば、殺生をし続けているわけで、それは目に見えない微生物のことを考えれば、日常茶飯のことだ。それがこの世の習いだと言えばそれまでだが、あるいはキリスト教で言うところの原罪ではないが、そもそも人というのはそう言うものなのかも知れない。
精進料理というのがあるが、料理としての価値は別として、肉と魚を食わないからそれでいいということには、どうも納得し得ないところが昔からあった。植物だって生きているだろう。
ウサギを一羽二羽と数えて、鳥だから食ったなどという話も、言ってみれば本質がねじ曲げられている。そもそも人とは、少なくとも人以外の生き物の犠牲の上に生きていることは間違いないのだ。
尤も、「犠牲」という観念が理解できるのも人しかいないわけで、このあたりが、人が人であることの意味なのかも知れない。
最近ちょっと、哲学の入門書など読んでいるもので、ふとそんな思いが・・・
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2006年5月20日
雨
一天にわかにかき曇り・・・・というこてこての小説のフレーズがぴったりの雨だった。
朝からいい天気で、気温も上がり、半袖でもいいような陽気だった。風だけが強く、窓を開けていると棚の上のものを吹き飛ばしそうな、ある意味、それだけが不穏な兆しだった。付近のマンションなども、洗濯物や布団を干している風景がちらほら。
4時近くなり、気づくと外が暗くなっている。東の空は青空だが、西の空にはいやーな黒い雲がもくもくと・・・・雨が降るかなと思わせた、それからまもなく、最近では経験のない西風に乗って、雨粒が窓と網戸をたたいた。あわてて窓を閉めた。
たまたま出かけなくてはならず、大粒のちょっと激しい雨脚に、商店街はあわてていた。特に店先に勝因を出している八百屋などは、半分諦め気味に商品を片付けたり、覆いをかけたりしていた。
足下にもすぐに水たまりができ、靴とジーンズの裾をぬらした。
天気予報とはたいしたものだと、普段は当たらないとよく言われるが、そうでもないと思い直す大雨だった。このところ雨が多く、日照が少ないが、今日の雨は割合気持ちのいい雨だった。
外に引っ越し屋の車が止まっていて、朝からの晴天は、少々暑いが引っ越し日和であった。しかしこの雨はちょっとかわいそうな気がした。通り雨にしては時間も長かったし。
そういえば先日、ふと思った。
ロンドンなどは曇りの日が多いと言われるが、もし日常がほとんど雨というのだったらどうだろう?
月に1日か2日しか太陽を見ることがなく、夜空にも星が見えなかったら、だいぶ違った日常になることだろう。
アイザック・アシモフの小説に「夜来る」というのがあるが、これは何千年だか何万年に一度の夜が、ある惑星に訪れることを描いた小説だ。
自然の営みというのは、人間の日常ばかりでなく、文明や文化に大きな影響を与えてきた。たかが雨、されど雨なのだが、毎日の中では単に、出かけるときは雨は降らないで欲しい、その程度のものなのだ。
ともあれ、雨が降った後は少し気温も下がり、過ごしやすくなった。まずは重畳。
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2006年5月17日
ダーツ
ダーツを買った。ダーツとか、ビリヤードとか、室内で比較的気軽にできる遊びは好きだ。ビリヤードはそれほど手軽ではないかもしれないが、ダーツは狭い場所でもまさに手軽にできる。
かつてケーブルテレビを入れている頃、何回か海外のダーツの番組を見た。
だから何となく解るような解らないような、というのがダーツのゲームに関する知識だ。
購入したのは、電動でゲームの得点をカウントしてくれるタイプだ。英語でしゃべる。「ぷれーやーわん」とか、「ぶらぼー」とかだ。
ダーツの経験など、お祭りか遊園地程度で、いわば射的みたいなものだ。
テレビの番組のルールは、得点が減算されていき、0になった方が勝ちというゲームだったと記憶している。解説書に依れば、01というゲームの種類で、一番オーソドックスらしい。
実際にやってみると、まず第一にダーツ盤を掛ける壁がない。賃貸なので、なかなか穴が開けづらいというのもあり、苦肉の策で、エレクターに引っかけた。どうにかなるもので、距離感も悪くない。
TBSのフレンドパークでは、回転する板にダーツを投げて、商品をもらうというのをやっているが、家ではあれほどの距離を取るのは難しい。実際には、2.3mと解説に書いてあったので、畳1.5枚と言うところだろうか。そこまではとれていないかもしれない。
投げてみると、なかなか難しい。刺さらない。
このダーツは、盤面が格子状になっていて、その隙間にダーツの矢の先が刺さる仕組みなので、考え方に依れば、その格子の十字になった部分に、まともに当たれば、はね返される道理だから、普通の板のダーツよりも、わずかに刺さりづらいと言うことはあるかもしれない。
ま、しかしそんなことは言い訳に過ぎない(言い訳の多い男なので)。所詮は上手くないということだ。
論より証拠、数ゲームをやるうちに、少し慣れてきて、ほとんど刺さるようになってきた。
要するに、強さと角度を間違えなければいいのだ。
だんだん、いいところにも当たるようになってくる。が、なぜか未だに中央の赤い部分にはいっこうに刺さらない。その周辺の細い緑の部分には刺さり、サイレンみたいなおとを放つのだが、中央には刺さらないのだ。
ゲームと言えば、テレビゲームがとにかく主流だが、おもちゃ屋に行けば、人生ゲームだって野球盤だって、まだ現役で、しかも積んである。それなりの人気があるということだ。
「はまる」ということが、意外に少ないので、ダーツもその例には漏れないと思うが、時折気づいたときに遊べれば、最もいい感じがする。
そういえば、先日、ルービックキューブをもらった。1面は簡単に揃うのだが、それ以降、どうにもならない。かつてのブームの時でも、ほとんどさわったこともないので、ルービックキューブ・デビューなのだが、どうもこちらは、揃う気がしない・・・・
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2006年4月11日
着物
昼飯を食べていた店の年配の女性が、お客さんと会話していた。昔はずっと着物だったが、着なくなって、最近では一人では着られない。着付け教室にも通ったが、やっぱり洋服の方が楽だ・・・・
着物の美しさ、とかはここでは全く無視して、実用的な意味においては、特に女性の着物っていうのは、どういう意味があるのだろうか?
別にけちをつけているわけではなく、一人で着られない衣服というものが、着物としての価値を持つ場合は、実用性とはほど遠いところにあるような気がする。
それでも着物を着る人はたくさんいるし、文化として成立している。韓国のチマチョゴリとか、ポンチョとか、それぞれの文化圏に独特な衣服としての着物という点はこれはまさに日本文化が誇る、美しい衣料だとは思うが、それ以上ではない気がする。
さて、洋服というのは西洋から入ってきたから洋服というのだろうが、人間が着るに当たっては、かなり実用的に作られていると思う。何でも実用一点張りを主張しているわけではなく、着物などに比べるとそうではないかと思う次第だ。
衣服というものが人間にとってどういう役割を果たしているのかと言えば、防寒や外部との接触によって傷つくことを防いだり、羞恥という感覚を補ったりなどが考えられる。
その中で、腕や足を通す筒状の者をきれや皮などで作り、身につけるという発想は、非常に理にかなっているが、布を体に巻き、上から縛るという体の着物という衣類は、機能的な意味からいうと、非常に原始的というか、単純な構造であるように思える。
これはあくまで思えるなので、着物を日常的に着たことがほとんどない私にとっては、着物のメリットというのがよく分からない。
いや、これは単に今日、その会話を聞いて何気なく思ったことだ。
100年200年先にはほとんど着物がなくなっていると言うこともあるのだろうか?
それともやはり文化なので、その頃でも今と同じように着られているのだろうか?なんて思ったのだ。
機能的に優れていれば、多少形を変えても残って行くに違いないが、そうでなければ淘汰されてしまうなんて言うことは・・・・
もちろん着物に限らない。文化や伝統などというものは、非常に長い歴史の中では栄枯盛衰限りないに決まっている。
今読んでいるペリー・ローダンは脳だけ盗まれたローダンが、ナウパウムという別の銀河で活躍する話だが、そこの文明は1万年前から続く「歌」なんていうのが出てくる。1万年前って言えば、中国4千年の歴史のさらに1.5倍ですぜ。そんな長い間残るものがどれほどあるのだろうか?
1万年後の世界を、ああ見てみたい。
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2006年4月 7日
些細な話
ちょっと前の話だが、自販機で水を買おうとした。150円の500mlの水だ。伊藤園の自販機で、150円ちょうどを入れた。
水のところを押すが、うんともすんとも言わない。よく見ると、お金を入れた後、そこだけランプが付いていない。と言うより、他に赤いランプが付いた。ないのかなと思って、お〜いお茶でいいと思い、そこを押したとたん、お茶は出てこないで、お金を入れてない通常の自販機の状態になった。
一瞬ぽかんとしてしまったが、お茶は出てこない、お金は吸い込まれる、いったいどういうことかと思ったが、文句を言おうにも、どこに行っていいか解らない。結局向かいの自販機で水を買って帰った。
その折、伊藤園の電話番号を控えてきた。文句を言ってやろうと思ってだ。
さて、しかし考えてみると150円だ。「1円を笑う者は1円に泣く」と言うが、決して150円を軽んじているわけではないが、どうも文句を言いづらい。その場で「ちょっとこの自販機おかしいよ」と、店の前とかにあるものならいえないこともない。しかしわざわざ電話をして、しかも家に帰ってから電話をするとなると、「たかが150円」に思えてくる。
人間は多くの場面で、無駄なお金を使う。パチンコなどギャンブルとは言わないまでも、余計な物を買って、使わなかったり食べなかったり、同じ本やCDを2度買ってしまったり、誰もいない部屋の電気をずっとつけっぱなしにしているのだって、実は十分に無駄なお金だ。
家では、ステレオの電源は常に入っているし、パソコンも24時間ほぼつけっぱなしだ。十分に無駄だろう。でも150円が気になるわけだ。
500ml150円のペットボトルのお茶を4本買えば、600円。しかし同じお茶でも2Lのペットを買えば、安いと180円程度で買えたりする。自販機の1回など、たいしたことではないのだ。
しかし、その時出てこなかったというかすかなストレスが、腹立たしさが、その150円には含まれているので、1.5Lで400円得することで相殺されるわけではない。
また運が悪いという見方もできる。運の善し悪しというのは、言ってみれば予測のつかない状況で、人がその場で起こったことが、非常によかったと感じるか、非常に悪かったと感じるかを表現する言葉に他ならない。
だから、場合によっては大学に落ちるのも運が悪いわけで、それが努力の如実な結果であるかどうかは、客観的に証明できるとは限らない。150円入れて商品が出てこないことが、可能性としてあるかないかと言えば、あるに違いない。機械の故障という単純な理由で説明できる。あるいは偶然とか。
この世には人知の及ばぬことがあるらしいと、多くの人が思っている。幽霊の出現と、偶然商品が出てこないことは、実は同じくらい人知の及ばぬことかもしれない。
運が悪いと考えることは、実は大きな意味で諦念ともいえるもので、場合によっては人はそれを敗北と考える。あきらめてしまうと言うことだ。もちろん、そこで戦うべき運命とあきらめるべき「たまたま」があるのだろうことは、容易に想像が付く。
先日、痴漢の冤罪で無罪になったという人の話をテレビで見た。これなど戦わずにはいられない「運命」と呼ぶに相応しい出来事だし、こういった運命を背負う人と、背負わない人がいるこの世の不公平を、やはり感ぜずにはいられない。
150円はやはり些細なことなのだ。
だがその150円の積み重ねが億という利益をおそらくは伊藤園にもたらしていると考えれば、決して小さくはない。でもこれからも、お〜いお茶は私の定番なので、飲み続けるに違いない。
あ、そもそもは水を買おうとしたのだった。
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2006年3月19日
予想外の出来事
WBCでアメリカが負け、日本が準決勝に残った。棚ぼた、という感じだが、確かに世の中には、良きにつけ悪しきにつけ、予想外の出来事というのがある。
事実は小説よりも奇なりとか、そんな言葉もあるが、livedoorなども株を買った人たちにとっては、まさに予想外の出来事だったに違いない。
予想外という裏には当然のことながら「予想」がある。WBCでは、韓国が全勝し、日本は2敗していた。アメリカとメキシコを比べれば、アメリカの方がどう見ても強い。現に一次予選ではアメリカが勝っていた。
などの情報から、日本の準決勝進出は難しいという予想ができる。その予想が裏切られたことで予想外という。
これは言ってみれば、かなり可能性の高い確率の事象が、その通り来なかったと言うことだ。しかし確率というのはやはり蓋然性でしかなくて、必ずそうなるわけではない。「事実は小説よりも・・・」と同様、青天の霹靂とか、思わぬ事が起こることの喩えは、意外に多いようだ。
サイコロを振って、1から6までの目が出る確率は6分の1ずつだ。でも6回降っても均等には出ない。その不確実さが実は確率なのだな、と思う。ましてや人の意志や力の絡む世の中のことは、確率や予想だけでは全てをまかなうことができない。
アイザック・アシモフの小説に「銀河帝国の興亡(または「ファウンデーション」:Foundation)という小説がある。この中で、ハリ・セルダンという学者が、心理歴史学という学問を提唱している。個人個人では予想が付かない将来も、全体の歴史なら予測ができ、それに応じた対処もできるというような学問だ。
昔からこれは、非常に理にかなっていると思っていた。心理歴史学とまで言わなくても、集団心理や、国家間の問題は、実は個人の問題よりも扱いやすいのではないかという気がしたからだ。
だが、ベルリンの壁が崩壊し、ペレストロイカがあり等々、意外に集団の歴史というのも予想が立てづらいものなのだということを歴史が証明している。
20世紀の物理の2大発見と言えば、相対性理論と、量子論だが、量子論の世界では、素粒子の場所が特定できない。この不確定な素粒子がまとまって社会を構成しているとすれば、予想外ということの根本は、実は素粒子レベルでの何かに関連しているような気がする。あるいは、だからこそ世の中はうまく機能しているのかも知れない。
確率通りにしか事が運ばない世界では、多分進化もなかったのだろうな、と思ったり・・・
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2006年1月28日
通信販売
先日、ニッセンで椅子を買った。たまたま他の通販会社の広告で見たのを母親が、手頃なのでということで購入しようとしたが、支払が振り込みだったので、インターネットで調べた。すると、いくつかの会社が同じ商品を扱っており、ニッセンが中で一番低価格だったので、同じものを購入するのに、その場で決済もできるし、一番いいということで購入した。5千円程度の商品だ。
先日、ポストが壊れそうな郵便が入っていた。実は郵便ではなく、宅配だったが、それがニッセンのカタログだった。3センチ以上はありそうな豪華なカタログだ。
引っ越しの時、千趣会でカーテンを買った。そちらも時折大量なカタログを送ってくる。
次回いつ利用するか解らないが、これだけのカタログをちょっと購入した客にバンバン送って来るというのは、よっぽどこういう商売は儲かるのだな、とふと思った。
フルカラーで、500ページ以上のカタログで、一般の書物と考えれば、数千円はしそうな感じだ。尤も、全てのページが広告と考えることもできるので、そういう意味では、採算は軽く取れるのかも知れない。
さて、見なければなんと言うこともないが、不思議なもので、カタログを見ていると何か欲しくなる。
テレビショッピングが一時大流行した。現在は多少落ち着いた感じがあるが、よくもまあ、というほど番組が氾濫していた時期があった。
物を買うということは、なかなか楽しいことなのだ。それは女性がショッピング好きというばかりではなく、男も一緒だ。ただカタログを見ると、女性の方がより買いやすいのだなというのがよく分かる。半分以上が女性ものだからだ。
これほどインターネットが普及しても、やはりカタログ誌の威力はすごいのだなあと思う。
これは、本という存在が、コンピュータに取って代わられるためには、相当に変革がないと行けないように、人のアナログな部分は、そう簡単にデジタルを取り込めないのだろうなということらしい。
いや、何か買ってしまいそうな感じがあるが、そこを買わないのが男であるということの証左であるような、一瞬そんな気がした。
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2006年1月25日
たばこ
たばこについては以前も書いた。
先日たまたま外で食事をしていて思うことがあったので再び書く。
中華屋で食事をしていたときのことだ。隣の席に絵に描いたようなサラリーマンがやってきた。絵に描いたようなというのは、多分に私の感想であるが、席に着くなり、「ビールと餃子」しばらくして「ラーメン」といい、おもむろにスポーツ新聞を読み始めた。・・・これは私の知らない世界なのだ。
間もなく私が頼んだ料理が来て食べ始めた。相前後して隣のおやじがたばこを吸い始めた。
煙いな、と思った瞬間、頭に浮かんだのは、店員に「煙いから別の席に移っていいか」訊いたらどうか、ということだ。
恐らく隣のおやじは不愉快な思いをすることだろう。だがちょっと待て、別に、目には目とは言わないが、少なくともその前に不愉快な思いをしているのはこちらだ。たとえそう言ったとしても、五分と五分である。
また、こういうかも知れない。「言ってくれれば消しますよ」
まだまだそんなことが言えるほど、たばこの市民権は小さくはなっていない。確かに以前に比べれば、信じられないくらいに小さくはなったが。ましてや今の世の中、そんな些細なことだって、刺されて死ぬかも知れないのだ。言えるわけがない。
まあ、そんなことを考えながら飯を食った。そんなことを考えながら食ったから飯がうまくなかったとは言わない。それなりに上手かった。
まだまだ禁煙の場所、特に駅のホームなどでたばこを吸う人も少なくないし、歩き煙草は減ったのかも知れないが、実感はない。
私は歩き煙草などを、危険だからと言う理屈で止めようというのは、本意ではない。確かにそれは非常に重要なファクターだが、私にとっては不愉快きわまりないから止めてくれ、ということだ。
テレビで誰だったか忘れたが、たばこを吸う人が全員、携帯灰皿を持った方がいいということを、非常にいいことを言っているといった風に放映しているのを最近見た。しかし携帯灰皿が解消するのは、ポイ捨てであり、本質的な部分は何も解決しない。しかもそれを言うなら、たばこばかりではない。
つい先日も、サラリーマン風の集団が、私の少し前で、たばこの包装紙のようなものを破ってそのままその場で後ろに捨てていくのを見た。この、街中にぽいぽいものを捨てていく感性というのは、きっと何かの欠如だ。
母親が、昔のような道徳教育がないことが今の社会の道徳観念がないことの原因だというようなことを言っていた。私は必ずしもそうだとは思わない。が、そういうシーンを見ていると、一理あるな、とも感じないではいられない。
携帯灰皿を持てというのは、街中でも自由にたばこを吸ってもいいということを推奨するようなことで、私的には全く賛同できない。そういう意味では、携帯灰皿なんていうのは、この世になくてもいい、とさえ思う。
たばこが身体に悪いというのは果たして本当だろうか?私が見るに、たばこの常習性というのは、麻薬的な何かがあるようにも見える。
身体に悪くて、常習性があるのなら、さっさと法律で禁じてしまえばそれですむ。
だが、嗜好品という言い方をするのであれば、また別の話だ。
たばこというのは、恐らく歴史があり、そう言った嗜好品として捉える人が多いのがおそらくは最大の問題点だ。
副流煙がどれほど身体に悪いのか知らないが、本当にそれが癌を引き起こしたりするのだったら、副流煙は凶器だし、それで死ぬ人がいれば、喫煙者は未必の故意の殺人者ということにもなりかねない。
副流煙を徹底的に吸わせて、病気で殺害するミステリなんていうのは、効率は悪いが、殺人罪には問われないようにも思えるので、上手い使い方をする作家が現れたりはしないのだろうか?私ではそのアイディアは扱えそうもないが。
友人が、「たばこを吸っていいですか」と訊かれて、「いやだ」と答えられる人がどれだけいるのか、というようなことを言う。まさに至言。あたかもたばこを吸うときの礼儀のように聞こえるこの言葉は、実は礼儀でも何でもなく、「これからおまえの前でたばこを吸うぞ」という宣言でしかないことに、どれほどの喫煙者が気づいているだろうか?
多くの喫煙者の皆さん、気づいてください。
私の部屋は禁煙なので、客が来てもベランダで吸ってもらう。多少失礼かな、とも思うが、この程度で壊れる人間関係ならいらないな、と思っている。
ただ外では、上記の例ではないが、吸いたいという人にはどうぞという。何も言わずに、吸われても文句も言わない。それはそれで、今の社会では、私自身が、私の意見を、どこまでも貫き通そうとするには、私の考えは一般的ではないと思うからだ。
だが、何でもそうだが、社会を変えるためには誰かが何かをしなければ始まらない。だからこういう場を借りて書く。
ホリエモンという人は、私は昔からそれほど好感を持ったこともないが、彼は少なくとも、時折いいことを言っていたことだけは確かだ。世の中を変えていくことの重要性というようなことはよく言っていた。そこには賛同できる。
彼が今回のようなことになって、あたかも彼の人生やものの考え方を全否定するかのようなマスコミの論調が時折あるかに見受けられるが、むしろその方が情けない。
いや、たばこの話なので、この件は別の機会に。
たばこを吸いたい人は自由に吸えて、嫌な人にはその影響がない、そんなシステムが理想的だ。不健康だろうが何だろうが、副流煙も含めて、喫煙者の中で自己完結してくれれば、いくらでも吸ってもらって構わないと思う。ヘルメットのようなものをかぶり、外部との通気はフィルターを通して、たばこの煙は外に漏れないようにし、自由にゆっくりと吸ってください装置だ。
そんなんじゃ美味しく吸えないし、身体にも悪い?ならばきっと彼はそれで禁煙できるのじゃないかな?
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2006年1月22日
雪
朝から雪だった。実家で法事だったので、川越に帰った。
思いの外川越は午前中大したことはなく、積もってもいなかった。しかし法事が終わってみると、かなり地面は白くなっていた。
雪の日はやはりことさら寒く、北国に旅行をしたような感じさえする。
今年は日本列島は全体的に雪が多い。関東のみ、積もる形での初めての雪ではないだろうか。もちろん北関東は別な部分もあるが。
こんな日が毎日のように続き、何メートルも屋根に積もることを考えると、やはり厳しい。厳しいという言葉では片付けられるはずもないが、思う以上に厳しい。
雪というのは、雪国にでも住んでいないと、なぜか心が、幾つになっても、わくわくするような感じがある。もちろん、寒いし、雪かきは少しでも大変だし、翌朝の出勤は多くの人が大変だが、それでも、少ない雪だと、どこかがっかりすることがある。
雪が持つ不思議な景色と、あの雨などに比べるとゆったりした降り方、しろというイメージ、意外に多くの要素が、本来は嫌なはずの雪を、温かなイメージに変えている。
どこかに出掛けるときも、雨よりは雪の方が気が楽だったりもする。交通機関など、雨では滅多に止まらないが、雪では相当簡単に影響が出るにもかかわらずだ。
「ゆき」という歌は、そんな心情をうまく表現しているように思う。「犬は喜び庭かけまわり、ねこはこたつで丸くなる」という歌詞には正月の風物が凝縮されている。暖かな部屋から庭に降る雪を見るぜいたくというのが、非常に的確に表現されている。
アダモの歌に「雪が降る」というのがあるが、あれはあれで、灰色の空から降る雪のもの悲しさみたいなものがうまく表現されている。
たかが空から降ってくる氷の粒だが、なかなか人間の心や生活に与える影響が大きな粒だ。
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2006年1月11日
シャワー
このところ、冬でもシャワーだけということが多いのだが、先ほどシャワーを浴びながら、ふと昔の記憶が甦ってきた。
子供の頃は、シャワーどころか風呂もなかった。親に連れられて銭湯に行っていた。
最初に風呂ができたのは、幼稚園の頃越した家だったと記憶している。木の浴槽で、左側に釜があり、その上に熱い湯が沸いているものだった。風呂を出たところにある洗濯機はローラーで洗濯物を絞るタイプだった。ちょうど昭和40年前後のことだ。今から40年くらい前のことだ。
今では風呂のない家というのは、都内の古いアパートに住んでいる人たちくらいではないのだろうか。もちろん探せばまだまだあると思うが、全体的な比率で言えば、非常に少ないだろう。
私が最初に家を出て一人で暮らしたのは、荻窪駅から3分のアパートだったが、風呂はあったものの、シャワーは付いていなかった。近所の雑貨屋で、水道に取り付けるタイプを買って、使っていた。これは20年くらい前のことだ。
今では、普通のアパートやマンションの賃貸であれば、普通にシャワーも風呂も付いているところがほとんどだ。当然持ち家なら尚更荘だろう。
銭湯も様変わりして、風呂にはいると言うより、ちょっと贅沢な感じがするところが多いようだ。
どんな人であれ、生まれてある程度の年数を生きることができると、その間の社会的な変化はとても大きくなってきている。私の両親などは、戦争を通り過ぎ、パソコンや携帯が日常にある時代に生きている。
今、今度NHKで放映されるというので井上靖の「氷壁」を読んでいる。この中ではナイロン製のザイルが切れたか切れなかったか、ということが問題になる。麻ではなく、ナイロン製のザイル。最近ではロープと呼ぶらしいが、今でもザイルは麻かナイロンが主流だ。それでも、「氷壁」の舞台となっている昭和30年辺りは、まだナイロンは新奇な素材だったようだ。
人類の歴史は200万年くらいなのだろうか?歴史が記されてから数千年、産業革命が起こってから200年程度、人類の進化はとてつもなく短期間のサイクルでめまぐるしく変わっている。
かつては人の一生の間の変化なんて、さほど無かったに違いない。しかし今では、井戸で汲んでいた水は、当たり前のように水道から出、常時お湯も使える。
シャワー一つでも、なんだかすごいなあ、と感心してしまった。
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2006年1月 1日
謹賀新年
2006年が明けました。
取り立てて何があるという年でもありませんし、お正月だと言って、何が変わるわけでもありません。
土曜日の次の日曜日です。
日々はまさに1日1日の積み重ねです。しかし、1年365日とすると、私はすでにこれまで、17000日を積み重ねてきたのであり、人間は、長生きしてもわずか4万日にも満たない一生なのです。
その1日と思えば、たとえ正月でなくても大切な一日という感じがします。
1万7千とか4万とかいうと、膨大な日数にも思えますが、4万円がいとも簡単に消えていくことを考えると、長いようで短い人の一生なのです。
あの世があろうが、生まれ変わりがあろうが、それを知らず、記憶もないのであれば、やはり人の一生は一度限り、今生の意義は大きいのです。
とはいえ、あるいはだからこそ、生き方は様々で、必ずしも一生懸命生きるだけが一生ではないのです。どのようであれ、人が選び、生きる人生、のんびり鷹揚に生きるのも、厳しく生きるのも、それぞれだなと思うわけです。
どうも根がO型気質と言いましょうか、厳しさとは疎遠なところがあり、それが欠点でもあるわけですが、どうしてもそこから抜けられません。
今年もきっと、そんな調子で生きていくことでしょう。
でもまあ、今日からエンジンをかけ直し、うちでのこづちだけは厳しく参りたいと思っております。
今日のはどう考えても日記です。
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2005年12月 6日
書くこと
このところ忙しくてこれを書いている余裕がない。
というのはきっと言い訳で、そんなに忙しく、夜の目も寝ずに・・・仕事をしているなどということはない。
ただ、書くためにはテーマを考えなくてはいけないということと、これが案外大変だということの2つが、比較的忙しいことと相俟って、筆を鈍らせているというのが事実に近い。でも本質は、私自身の怠惰のなせる業だ、ということは、誰よりも自分自身が一番知っている。
ところで、一つのエントリーに対して、自分が書く文章が、どの程度が最も適当だろうか、と貘と考えたことがある。もちろん結論は出ないが、あまり短いとさぼっているような感覚になるし、長いと、数少ないが、読んでいただいている人に申し訳なくも思ったりする。
昔、まだ始まった当時の進研ゼミの通信添削をやっていたことがある。ほとんど覚えてはいないが、唯一記憶に残って印象的だった添削があった。
国語の論文だったと思うが、規定文字数内に何だったかのテーマで文章を書くというものだった。
当時の私は、今とは違い書きたいことがたくさんあったのか、学校での作文も長々とよく書いていたものだったが、この添削の時も、感想欄があったので、そこに字数が少ないとか、もっと書きたかったとか、それにるいしたことを書いたのだ。
添削の先生はこういう文章があると紹介してくれた。
「今日は時間がないので長い手紙しか書けません」
これは私にとっては、非常に含蓄のある、そして当時の何でもかんでも書くというスタイルに対して、ガツンと何かを食らったような感じだった。いまだに覚えているところを見ると、相当ショックもあったのかも知れない。
これは単純に、うまくまとめよ、ということだけを表現しているとも受け取れるが、そうではない、もっと奥深いものを感じる。あたかも、「凝縮された旨味」とか、俳句や短歌に代表されるような、非常にスタイリッシュな中身の濃さを表徴している気がした。
元々読書や文章を書くことが嫌いだった私が、何かのきっかけでものを書くようになった。
それでも書くことの奥深さや、難しさというものは底が知れない。
リハビリなどと言う名目で書き始めた「うちでのこづち」も、中身を伴わせていくのはやはり大変なことだ。世にブログ書きは山のようにいるが、その一人一人に、頭が下がる思いがする。
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2005年11月16日
電気カーペット
今日電気カーペットを買った。ソファの前に小さいのが欲しかったのだ。
店でホットカーペットはどこにと訊いたのだが、ホットカーペットはどうやら商標のようらしい。店の人にも十分通じるが、商品には電気カーペットとある。電気絨毯というとなんだかしびれそうだが、電気カーペットなら温かそうだ。
1畳用からあり、大きいものもあるが、買ったのは1畳用、それでも少し大きいくらいだった。自分の足下にも時けばいいのだが、上を、キャスターの付いた椅子でごろごろするのは具合が良くないということで、大きいものは断念した。
1畳用のものは、その多くがセンスが悪い。子供の頃着ていたセーターの柄のような模様が付いているものが多い。何でなのか解らないがそうなのだ。
結果的には無地のものが変えたので良かったが、あの、一部の趣味を代表したような柄はどうにかならないものかと思う。
暖房器具も昔に比べると多彩だ。昔は暖房と言えばストーブだったし、子供の頃、学校ではコークスをくべるストーブだった。一人暮らしをするようになった頃には、石油ファンヒーターを使っていたが、それもこの15年くらいは使わず、もっぱらエアコンだった。
エアコンはどうしても電気代も高く付くし、なんだかあまり身体にいいように思えないので、去年、カーボンヒーターというのを買った。一人暮らしなので、自分の周りだけ温かければいいからだ。今年のカーペットは、やはり同じ理由だ。
先日まで暮らしていた家は、床が絨毯仕様で、しかも1階が大家さんの部屋だったのだが、そこが前面床下暖房だったためだと思うが、冬場でも意外に暖かかった。今度の家はフローリングなので、そのままだと冬場は寒い。そんなことでカーペットなのだ。
だんだんと冬らしい気配が近づいている。寒い冬に家でぬくぬくしているのは、非常にぐうたらで大好きだ。自分の人生のようだ・・・
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2005年10月29日
100円ショップ
引っ越して以来、100円ショップが近所になった。荻窪に住んでいたときには、近所になかった。
この一ヶ月で何度も行って、ちょこちょこと買い物をしている。特に日常雑貨系は、スーパーの雑貨売り場へ行くほどもなくここで揃うものがかなり多い。文房具もそうだ。
元々100円以下でも変えそうな物から、1000円以上しそうな物まである。今では、都心の真ん中に、ビル全体が100円ショップだったり、先日は銀座にもできたというのをニュースでやっていた。
これが100円だとすると、他の店で売っている商品は、流通のどこで利益が消えているのだろうか、と思えるような物もあるが、ものの売買にかかわらず、お金の流れというのはそういう物だろう。
100円で食べられる寿司と、千円かかる寿司があるのと同じだ。実は寿司も、900円程度の差であれば、同じくらいの味のものが食える場合があるのと同様、雑貨も一緒なのだ。
金銭の価値と、物の価値は、比例してスライドしているわけではない。もちろん、100円ショップで何でも揃うわけではないし、安かろう悪かろうという物がないわけではない。
ただ何となく、今更だが、これまでほとんど行かなかった100円ショップが物珍しいと言うこともあり、多分まだしばらく行くことになるだろう。
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2005年10月12日
笹塚2
笹塚に越してきて20日あまり。
今日ようやく判明したことが一つ。
うちの建物は世田谷区との区界にあるのだが、なぜかそのせいで、ゴミの収集を渋谷区ではなく世田谷区が行っているという。
不動産屋でもらったゴミの収集日と、渋谷区でもらったそれが食い違っていたので、不動産屋に問い合わせたところ、変わったのだろうということで、区の表示に合わせて出していたが、どうもおかしい。
そうしたら今日、同じ建物の方がやってきて教えてくれた。
ただ、不動産屋でもらったものも、微妙に違っていたので、結局20日間してやっと解ったという次第。
しかし以前から思うが、ゴミの分別というのは、解るようでよく分からない。これが燃えるのか燃えないのか、どこで判断すべきか、微妙なものもたくさんある。缶や瓶も、資源ゴミだというが、ものによっては資源にならないのだ。
販売するときから、これは資源ゴミで出せとか、燃えないゴミで出せとか書いてあると助かる。
しかしこれはできないのだろうな。きっとゴミの処理が地方の自治体ごとに行っているからだ。
でもこんなものの基準は、国で決めて、処理だけ地方にやらせれば、いらぬ混乱もなくなると思うのだが。
まあそれでも、洋服や靴や、あらゆる物に表示するなど、所詮無理だな。
こつこつと、自分で考えて分別しましょう。
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2005年10月10日
MDプレイヤー
最近、ひょんな事から中古のMDプレイヤーを手に入れた。
今時MDとも思っていたが、餅は餅屋という表現が正しいかどうかは知らないが、最近流行のポータブル音楽プレイヤーは、録音機能が付いているものがあまりない。これはパソコンからや、音楽機器からのダビングを指すのではなく、いわゆるマイクで音を拾う意味での録音だ。
たまに付いていても、ボイスメモだったり、ハードディスクタイプでは1種類しかない。
MDは実は最近は、MP3も扱えたりするし、1GBタイプも出ているので、ポータブルオーディオの機器としてはある意味命脈を保っている。但しこのタイプはソニー1社しか発売していない。いずれ消えゆく運命だろう。
どの程度遠い将来かは別として、1テラバイトくらいのデータを扱え、録再可能で、ネット接続でき、なおかつ電池寿命が長いポータブルストレージが発売されるだろう。
電池寿命が半永久的みたいなものが早く開発されるといいな。空気から発電みたいな。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:40 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年10月 7日
笹塚
先月、笹塚に引っ越してきた。
杉並から渋谷、区としては隣り合っているので大きな移動ではない。しかも笹塚は、渋谷区とはいえ新宿の方がキー・ステーションとしては近い。まあ、大分都心に近づいたが、家賃が下がったので、それはそれでいいことだ。
さて、笹塚へ来て2週間ほど経った。私の住んでいるのは駅前の観音通りという古い商店街を抜けた辺りなのだが、この商店街が非常に面白い。昔ながらの八百屋が短い商店街に3軒、美容室と床屋が、入り口から出口まで、わずか3〜4分という中に9軒あるのだ。確かに駅前に美容室みたいなものは多く集まっていることは多いが、この短い商店街に9軒は以上ではないだろうか?
八百屋は3軒あるが、肉屋は一軒もない。これも面白い。
大きな百貨店や、あらゆる店が集まっているかというとそういうわけでは決して無く、マイクロソフトはあるが、商店街は時代を感じさせる街並みだ。
これからしばらくは住む街の訳だが、短期間でも愛着の湧く街ではある。
意外にのんびり暮らせる感じがいい。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:12 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年9月30日
引っ越し
引っ越しが済んだ。
物件を決めてから1週間、引っ越し日と引っ越し業者を決めてから3日、これまでにも引っ越しは何度もしているが、嵐のような引っ越しだった。
なんだかんだと言って、前の引っ越しからは年を取っている。若い頃の引っ越しを基準に物を考えていると、失った体力と、反比例して増えた荷物によって、思いもかけぬ大変さを経験することになる。
燃えるゴミを22袋、前日に捨てた。燃えないゴミも20袋、出た。それでも段ボールは80箱ぐらいあった。おかしいな。
引っ越しは予定より安価に上がり、引っ越し先では家の前に車が止められなかったが、見積もり通りにやってくれた。とてもいい業者だった。見積もり時に、他業者の悪口を言って帰ったアリさんとは偉い違いだ。これまでもいろいろな業者に頼んでいるが、大きくなくてリーズナブルな業者でも、皆しっかりやってもらえる。
JRC日本引越センターだ。
引っ越しをして1週間経つが、全く片付かない。つくづく片付けが苦手なようだ。しかし片付けないといつまで経ってもソファで寝ることになる。既に身体が痛いので、はやいとこしなくてはいけない。
ところで引っ越しをして思ったが、日本のインフラというのもまだまだだ。
これまでは電話は日本テレコムのお得ライン、インターネットはTEPCO光だったのだが、テレコムは引っ越し場所と日にちが決まってから2〜3週間しないと電話が使えないという。その間は使えないことをご了承いただき・・・・なわけないだろう。
結果的に電話はNTTに戻った。若干基本料金が上がった。
TEPCOに到っては、新しいところで新たに契約をし直しても1〜3ヶ月工事にかかるという。結局こちらもフレッツのADSLに一旦変えた。これですら、電話開通から1週間かかった。
テレビのように、引っ越した先に高速インターネットとIP電話が標準で付くようになるのはいつのことだろう?
道路公団は民営化されたが、道路は結局造るっていう話だ。道路も必要だと思うが、インターネットのインフラも、もっと充実させるために税金を使って欲しいものだ。納税者としては、言ってもいいだろう。
さあさお片付け・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:55 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月27日
電話アンケート
最近、ごくたまにだが電話でアンケートを受けることがある。口頭で女性のオペレーターが質問をしてくるケースと、今日などはそうだったのだが、機械が音声で質問をしてくるケースがある。
今日のは日本の伝統と何とかに関するアンケートだった。
しかし、突然電話を掛けてきて、機械の音声がただアンケートをお願いしてくるっていう方式を、そのアンケートをする会社は失礼だとは、全く思わないのだろうか?口頭のアンケートは、暇があれば答えることもあるが、機械音声のものはすぐに切ってしまう。
機械の音声が問題というだけでなく、そもそもこちらからの問いかけに関して全く反応しないという点が問題なのだ。機械だから当然と言えば当然だが、質問の趣旨や意図、そもそも何のためのアンケートなのかだとか、知りたいと持っても、訊きようがない。まあ、こんな方式はインターネットなどのアンケートなどの普及で駆逐されていくとは思うが。
そういう意味では、唐突にFAXが来ることもある。どこかで調べてくるのだろうが、電話と違ってこちらは、インクリボンを消費する。いざというときにリボンが切れたりする現況となるわけだ。失礼極まりない。
メールのような、ほとんどこちらに物理的な被害を与えない媒体でさえ、迷惑メールというレッテルが貼られるのだ。、当然、迷惑電話や迷惑FAX という分類もあるに違いない。
営業の電話が全て不愉快だというわけではない。それはそれ、企業の営業活動としてやむを得ない部分もあろうが、そこには自ずとルールがあるだろう。
まあそれでも、振り込め詐欺のような犯罪に比べたら幾分かましというものだが・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:10 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月25日
冷蔵庫
しばらく前に冷蔵庫が壊れた。と言っても完全にではなく、冷凍室が冷蔵室の役目を果たしている。氷はできないが、普通に冷やしてくれる。
と言って、全体としては冷蔵庫の役割を果たしていない。
こうしてみると、冷蔵庫が生活に果たす役割というのが非常に大きいことを実感する。テレビと冷蔵庫は、無くて生活ができないと言うことはないが、無いときに最も不便を感じる電化製品だろう。
個人的には、パソコンがないと仕事にならないので、何よりも困るのはパソコンが壊れることだが、生活上では、冷蔵庫への依存度は非常に高い。
この冷蔵庫は、8年くらい前に買ったような覚えがある。秋葉原のサトームセンで予算は10万、4ドアの350L以上という条件で買ったものだ。当時はその条件では12〜13万はしたからだ。
しかし現在見てみると、10万円以下のその規模の冷蔵庫はたくさんある。全体的に2〜3割安くなっている気がする。
引っ越しを控えているので、引っ越しの際に処分してもらって、新しいものを購入しようと考えているので、どうにかその時まで、冷凍室が10℃以下でこらえてくれることを祈っている。
ところで、ブルーレイディスクに対してHDD陣営は(あ、新しいDVD規格のことだが)、ハードの値段の安さを強調しているようだが、時間が経てばハードの価格は下がるので、できれば性能で勝負してもらいたい。現状は、協賛はHDDの方が多いが、性能的にはブルーレイに軍配が上がりそうなので、その辺りを考えて、統一化を、うっちゃりのようにぎりぎりでもいいでの決めて欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:41 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月21日
リモコン
先生にリモコンがついていて嫌な授業は早送りというファンタの宣伝があるが、あの少年の表情が好きだ。
ところで家にリモコンていうのは幾つあるのだろうか?
テレビ、ビデオ、DVD、ケーブルテレビのチャンネル、エアコン、オーディオ・・・・思いつくだけでも片手以上だ。
全てを一つにしたら使いやすいかというと、必ずしもそうではない。それぞれに特殊な機能があるからだ。しかしよく無くなるのも事実だ。必ず毎日1回はどれかのリモコンを探しているように思う。探しているものに限って見つからない。というような何とかの法則めいたことまで発見してしまう。
一時期、ビデオが2台あって(今でもあるが、1台は壊れている)、どちらがどちらのリモコンだか解らなくなっていたこともあった。
そこでちょっと考えてみた。現状でのリモコンの理想型。
1台でオールインワン。手頃なサイズで、大きな液晶。中に家電のメニューがあり、テレビと選べば、液晶にテレビのリモコンメニューが出る。それぞれの家電に対して、液晶内に、できるメニューが表示される。そのリモコンが1台あれば、新しく何かを買い足したときでも、そのリモコンに情報を送るだけで、全ての家電が同じように使える。
リモコンは良くなくなるので、電話番号が振られていて、その番号にかければ、リモコンが鳴って場所が解る。当然、携帯からでも操作できる、なんていう、個人的にはそれほど欲しいとは思えない機能も必要かも知れない。
いずれにせよ、1台のリモコンで、家中の家電が操作でき、なおかつ扱いやすく、見あたらないときにすぐ見つかる。そんなリモコンを付くって欲しい。
投稿者 keisuke : 日常的 | 21:32 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年8月13日
傘
昨日夜、雨に降られた。家を出るときに稲光が空を染めていやな予感はしていた。音のしない雷というのも不気味なものだ。でもまあ、北関東ではないので大丈夫だろうと高をくくっていたが、食事をして店を出たら降っていた。傘を持ってくれば良かったと少し後悔した。
時刻は11時。傘を売っているようなお店もほとんど閉まっていて、後はコンビニしかない。コンビニまでは濡れたがどうにか傘を購入できた。399円のビニール傘だが、普通の傘は1900円前後した。どうも価格の差がありすぎだ。
最近傘は安い。500円出せばボタン式のプッシュ傘が買える。昔であればビニール傘だったが、今は十分に普通のいい傘だ。コンビニの399円と比較すると、100円の差ではないだろうと思う。
そういえば100円ショップでも傘は売っているのだろうが、どんな傘だか記憶にはない。
以前に中国からの傘の輸入ビジネスについて話を聞いたことがあった。やはり単価はかなり安いようだ。
ブランドの傘などをデパートで買おうとすると、最低でも3000円から5000円、1万円以上の傘もざらだ。個人的には傘など別に何でもいいだろうという、ある意味男らしい感覚で選ぶので、3000円の傘などもってのほかだ。
だからといってビニール傘はどうも好きになれない。とても使い捨て感覚だからだ。
ちなみに、私は2度ほどコンビニで傘をとられたことがあり、それ以降、外に傘を置くのをあまりやらない。店内が濡れて申し訳ないとも思うが、とられた傘に保証はないので、外には置かない。コンビニに限らずそういう店はまだ多いが、可能な限りビニールの傘袋をおいてくれるとありがたいと思う。
ただしこの点は、コンビニなどのレジ袋と同じで、環境問題などを声高に論じるとすれば、それも無駄なのかも知れないが、なんかそのあたりもリサイクルできるシステムってできないものだろうか?
SFなどでよく、物質をエネルギーに全転換して推進する宇宙船の話などがあるが、エネルギーにしたり、原子核レベルで再構成して、新たな物質に変換したりなどという技術が発明されないだろうか?石油からいくらを作るなど、近いことができるのであれば、せめて傘袋やレジ袋から、新たに同じ製品をリサイクルする技術など、何となくできそうな気もするのだが。
何はともあれ夏場は夕立の季節。気になれば傘を持ち歩け、ということかも知れない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月12日
携帯の中身
母親の携帯を新しくした。Vodafoneの家族間無料というサービスのおかげで、一般電話を使うよりも安く上がる。尤も、基本料金はかかるわけだから、使わなかったら非常に無駄なことだが。
ところで、携帯の機種変を行う時、一般には電話番号やメールアドレスなどはショップで移してもらえるが、それ以外の着メロやVアプリなどはその対象外だ。そもそもこれらはお金を出して購入しているわけで、機種を変えたから無駄になるというのはどうも釈然としない。
もちろん、長く使っていれば、内容が古びたりして、いらないものもあろう。しかし、サービスとしてこの辺りの不備はいかがなものかと思う。ただでさえ高い通話料を考えると、どうにかならないものか。
現在ではSDカードが使える携帯が多いのでそれで移動させればいいのかもしれないが、そんな簡単に出来るのだろうか?
それだけのために携帯用のPCソフトを買っても、その時しか使わないわけでこれまた無駄だ。
今の日本社会は無駄が文化水準の高さを示していると思っているかのように無駄が多い。不用品回収の業者によれば、今最も多いのはテレビだという。もちろんブラウン管のだ。液晶やらプラズマを買えば、まだ映るとしてもブラウン管のテレビは要らなくなるという理屈だろう。
自分自身、多分そういう無駄な生活をたくさんしているのだと思うが、改めて考えてみるとどうもよろしくない気がする。
そういう義憤めいたこととは全く違った次元で、携帯のデータはどうにかして欲しい。
ところで、うちでのこづちは昨日で丸1年がたった。最近はだいぶ空いているが、よく1年間続けてこられたものだ。誰も言ってくれないので一人で喝采。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年8月 3日
睡眠
なぜか最近、夜寝られない。
昨日も6時近くまで起きていた。そのせいか昼間眠いのは当然か。
睡眠のリズムというのは、恐らくあるのだろうが、日の出日の入りなどと言う、非常に自然なリズムと同期するのは難しいようだ。
人間に必要な睡眠時間というのはどのくらいなのだろう。もちろん人によって変わるので、一概に言えないが、よく昔、一日8時間睡眠なんていうことを言ったものだ。8時間眠ったとしても、残りは16時間ある。8時間仕事をしても8時間残る計算だ。もしかすると1日の三等分ということから出てきた時間なのかも知れないとさえ思える。
日の出とともに起きて日の入りとともに寝れば、1年をおしなべて見ると、一日の半分を寝ることになる。あるいは昔はそうだったのかも知れない。
ナポレオンが3時間しか寝なかったとしても、誰もがそれをできるはずもない。
よく、寝る暇があったら何々しろ、とか、少しくらい寝なくても大丈夫だ等という人がいるが、「あんたはそれで大丈夫かも知れない。自分の物差しで全て測るな」という気になる。物事は全てそうで、できる人間ができない人間の能力や努力を決めるべきではない。
睡眠には慣れというのがあって、寝なくても平気だと感じることもある。しかし、やはりどこかに負担が来るのだ。「眠る」という生体の不思議が存在する以上、そのことには重要な意味があって、おろそかにしてはいけない。
寝ている間に身体が勝手に行っていることを、起きている自分が規定したり制限してはいけないのだ。そういう意味で、人間は誰しも二重人格なのだ。眠っている自分の自律神経に感謝。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月24日
夏風邪
夏風邪はバカが引くらしい。ちょっとバカの仲間入りをした。
夏風邪は英語でも「summer cold」というらしい。冬の風邪とは区別しているのだ。どうやらそれはエンテロウイルスというウイルスによるものが多いらしい。これは人の腸内に生息するウイルスらしい。下痢なども起こすことがあるという。
辞書を見ると、「夏風邪は治りにくい」なんていう文例が出ていた。あ、これは英語の辞書の話。
夏というのは暑いので、風邪を引いても涼しいところにいたくなる。尚更治りにくいとも思う。
そもそも風邪というのは感冒の総称で、症状はいろいろだ。今回は、くしゃみに始まり、熱と鼻水、喉の痛み、まさに風邪の諸症状だ。しかし、軽くて済んだので、薬は飲んでいるが、ほぼ治っている。
そもそもなった原因は分かっている。いわゆる冷房病だ。・・・・ちょっと寒いな・・・・でも止めると暑いしな。この感覚で寒い方を我慢した結果だ。・・・いや、やはりバカが引くというのは当たっているかも知れない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:43 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年7月23日
チャンネル
チャンネルというのは元々通路とか水路という意味で、発音は最近よく言われる「チャネル」に近く、「チャンル」により近い。電波の通り道として、テレビのチャンネルという意味が出てきたらしい。火星の模様が、Channelをcanalと間違えて運河があるということになったというようなことをどこかで読んだ気がする。川のような筋があると言ったのが運河があるということで、知的生命がいるのでは、という風に誤解されたらしい。
ところでテレビのチャンネルは、子供の頃には1・3・4・6・8・10・12とあったように思う。全部で7チャンネルだったわけだ。10チャンネルをNET、12チャンネルを東京12チャンネルと呼んでいた頃の話だ。私は埼玉に住んでいたので、実際には見ることはできなかったのだが、テレビ埼玉が確か14チャンネルくらいで増えたように記憶している。いわゆるUHFだ。テレビ神奈川とかもそうだ。
旅行に行ったりすると、地方のチャンネル数の少なさに驚いたものだった。これは電波の到達距離に関連しているわけだ。電波は、その波長が短いほど遠くまで進むらしく、昔は短波放送というので海外のラジオも聴けた。電波は電磁波の一種で、光と、いわば同じ種類で、だから光と同じ速度で進む。1秒間に30万キロ進むわけだ。それでも太陽まで8分以上かかる、この世で一番速いのだが。
最近では、そこにBS、CS、等が加わり、チャンネル数は相当多い。ケーブルテレビで受信できるそのほとんどは、CSのチャンネルだが、BSやCSは衛星を経由して自宅に届くから、その衛星からの電波を捉えられれば、地方間の格差はないわけだ。有料のチャンネルを加えると、100くらいはあるのではないだろうか?
リモコンでは12まで大概ボタンがあり、これは12チャンネルまであった時代の名残なわけだ。なぜなら今では12では到底足らないからだ。これだけ多チャンネル時代にあって、巨人戦の視聴率が低迷している等というのは、実は当たり前のことのように思える。
家族用に携帯を1台追加した。ボーダフォンの家族定額通話に惹かれたからだが、その1台がテレビやラジオを受信できる。ただ、テレビの映りは最悪で、到底見る気にはならないし、FMの音質も良くない。なんだか余計な機能にも思えるが、実は旅先などで役立つような気もしている。ただ、何でもかんでも電話に付属してればいいと言うわけではなく、逆に何か他の物に電話の機能が付いていればいいのかな?なんていう風にも思わないわけではない。
これだけチャンネルが多くて、そんなに皆さんテレビ見ているのだろうか?今年はヤクルト主催ゲームをフジが有料チャンネルで独占しているので見ることができないため、野球もあまり見ていない。以前、WOWOWも契約していたが、全く見ないので解約した。何となくチャンネルが増えるとありがたいような気もしていたが、所詮見ないのでは、あまり意味がない。
どれほど有意義な使い方ができるか、と考えてもなかなか無いものだ。
これは例えば、DVDが発売になったので購入したはいいが、なかなか見ないというのと似ている。あらゆる無駄が無用ではないが、テレビに関しては、オンデマンドが主流になってくれば、いずれは淘汰されていくに違いない。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月22日
ウォシュレット
引っ越しをするのだが、家を探すとき、いろいろな条件があると思う。駅から近くて、広くて新築で安くて、隣に可愛い女性が住んでいるとか。
問題はこれまで、隣に住んでいる人の顔を全く、どこのマンションやアパートでも知らないで次の所へ移ってきたということだが、それはともかく、水回りというのは案外大切だ。
キッチン、風呂、トイレ、洗面。
昔、ワンルームだった頃は、いわゆるユニット式でトイレと風呂が一緒と言うところにも済んだが、考えてみると、20年ほどの一人暮らしの中で、そういうユニットは6年1カ所だけだった。後はいつでも風呂とトイレは別だった。尤も最初に住んだアパートは、シャワーもなく、追い炊きもない、しかも床はコンクリート打ちっ放しの風呂で、あまりいい想い出はない。そこはトレも和式だった。
風呂は今のところが一番よく、広くて便利だ。トイレもそうだし、キッチンに到っては食器乾燥機まで付いていた。特殊な形態の賃貸なのでそういう利点はあったが、一般的にマンションなどを探しても、賃貸ではなかなか思うような物件は見つかりにくいだろう。
最近では、部屋はともかく、風呂とトイレはしっかりしているところを探したいと思うようになった。
風呂はくつろげるし、トイレも毎日使うところだ。
一人なので追い炊きができる必要はほとんど無いが、自動給湯式だと言うことはない。最近はリフォームなどで、結構水回りを気に掛けてくれる大家さんも増えてきているようなので、これはうまくすれば探せるかも知れない。
トイレは今時和式というのは、都内の賃貸では、あまりないと思うが、ウォシュレット付きとなるとなかなかないものだ。今のところは、便座ウォーマーというのか、冬場に暖める機能が付いているが、ウォシュレットはない。
快適さをどの辺りに求めていくかと言うことと、家賃などとの折り合いは難しいが、まあ自分なりに条件として考えている。
いや実は、そんなことよりインターネットの回線がどうなるかの方が100倍も重要なのだが。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年7月 7日
七夕
今日は七夕だが、ほとんどの場合、七夕に東京で牽牛と織女を見るのは難しい。まずは梅雨時だし、冬に比べると明るい星が少ない。空気も透明ではないし、ましてや東京では光害もある。地方の空気のきれいなところでのんびりと見てみたい。
七夕という言葉は「女が水辺の棚に設けた機屋(はたや)にこもり、神の降臨を待って一夜を過ごすという伝承があり、これから棚機女(たなばたつめ)、乙棚機(おとたなばた)、さらに「たなばた」とよぶようになった」らしい。伝説的には、中国来歴のものと日本古来のものが入り交じっているようだ。
七夕の織り姫はこと座のヴェガ、牽牛はわし座のアルタイルだが、アルタイルというのは「飛ぶ鷲」という意味でヴェガは「落ちる鷲」という意味だそうだ。牽牛と織女の伝説から言うと大分もの悲しい名前だ。
ヴェガは地球から25光年、アルタイルは16光年しか離れていない。比較的近隣の星だ。この2星は白鳥座のデネブとともに夏の大三角を形作っている。デネブだけ遠くて540光年も彼方の星だ。この夏の大三角は小学校で習うが、冬の大三角(シリウス、ベテルギウス、プロキオン)に比べると大分見劣りがする。星の光度自体はそれほど大きく変わるわけではないので、夏の夜空は見にくいのかも知れない。しかも最も暗いデネブが、天の川の真ん中に入っているから、余計かも知れない。
七夕という字は「しちせき」と読み、五節句の一つで、言ってみれば、ひな祭りや子供の日のようなものだ。笹の葉に短冊を付けて祈るのはこちらの風習だ。考えてみれば、織り姫と彦星の伝説と、短冊に願い事を書くことは、関連性があるとも思えない。
お盆の一部とする地方もあるらしい。
7月7日はまた、七夕とは全く関係ないがマーラーの誕生日だ。1860年のその日に生まれた。何度も書いているが、マーラーは私がクラシックを聴くきっかけになった作曲家なので、一入思い入れが大きい。だから、どちらかというと7月7日は、私にとっては七夕と言うより、マーラーの誕生日なのだ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 22:15 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年6月30日
携帯の料金
携帯電話が普及して大分経つ。かつては一家に一電話は当たり前だったが、家に複数台電話があるというのはあまりなかっただろう。
ところが現在は一人一電話の時代だ。
携帯は今や老人から子供まで、多くの人が所有している。一人で何台も持っていたりする人もいるから、一概に言えないが、人口に対して7割くらいの台数が出ている。
にもかかわらず、1分間の通話料は20円くらいかかる。一般電話よりも現在では多い位なのだから、設備投資があるとしても、もう少し安くなってもいいのではないだろうか?
それと、一般電話との通話や、異なる携帯会社との通話が高い理由も分からない。
そもそも、携帯電話を利用したときに、いったいどの部分にコストがかかるのだろう?電波が飛ぶと電気が使われてお金がかかる、というのは何となく解るが、それだってたいした料金じゃあるまい。
実際には接続料という訳の分からない名目でお金がかかるのだ。
テレビを見ていると、携帯電話のCMはそれこそアリコの保険のコマーシャルと同じくらいやっている。これはどちらも、信じられないくらい儲かっている証拠だ。もう少し消費者に還元して欲しいものだ。
取り敢えず今日は、ゴロを巻いただけ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:24 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年6月10日
腰痛
腰を痛めた。何をした、というわけではない。机の脇の積み重なった紙類の中を捜し物をしていたときに、「やべっ!」と思った。時々やるのだ。
静かに動いて、まずいことにならないように・・・・と思ったが、結果的にはいつものような感じで痛めてしまった。
今日は、飲み会があり、幹事だった上、どうしても出たいという理由もあったので、だましだまし出かけた。新宿が遠かった。雨も降っているし。
二次会の席に着いたとたん、携帯に仕事の電話が入った。どうしても今日中に解決しなくてはいけないというクライアントの依頼。やむを得ず席を立って事務所に戻った。どうにか解決したが、改めて出かけるにはちょっと歩きたくない感じだった。
世にぎっくり腰というのがあるが、多くのぎっくり腰は身体を動かせないほどだという。ありがたいことに、そこまでの痛みはない。しばらく前に船越栄一郎がぎっくり腰になって入院していたっけ、と思う。ただいずれにしても、骨か関節か筋肉か解らないが、ずれているか、こすれているか、理由はともかく、痛いことには違いない。
階段は上るより下る方が辛い。今度のようになった当初は、長い時間同じ姿勢を取っていたり