受信料不払い増加に関して

 2月時点で56万件に増えたNHKの受信料不払いの問題がニュースに出ていた。
 ふと思ったが、受信料で運営しなくてはならない放送局が今後必要だろうか?それこそ、livedoorとフジ、ニッポン放送ではないが、様々なメディアのコンプレックスが、情報を縦横無尽に配信していくことができれば、公共放送の必要性など無くなるのではないだろ日?
 あるいは、極端なことを言えば、災害情報などの一刻を争うものだけでいいのではないだろうか。学習番組や、古典芸能、歴史などの番組はケーブルテレビのように有料契約番組にすればいいだろう。
 広く全ての家庭から集めるにしては、それほど汎用的な番組構成になっていないし、もちろん、それなりに面白い番組もないではないが、わざわざお金を払ってまで作って欲しくないというのが、単純に不正に対する抗議というよりは、NHK不要論に近い社会の反応なのではないだろうか?
 別にそのまま放送局をつぶす必要はない。そのまま民営化し、CMを流してその収入で番組を作っていけばいいだけの話だ。郵政まで民営化しようというのだから、それよりは難しくないだろう。
 必要であれば、1チャンネルを国用にシェアして、税金で番組を作ればいい。例えば選挙の時の政見放送や国会中継などだ。ただ国会中継などは、全ての小委員会も含めて、全てネットで公開してもいいとすら思う。そうすれば、別にテレビ中継の必要はない。
 選挙だって、全てネットで立候補者を紹介し、街角のポスターなど全て止め、政見放送もネット限定にすれば、選挙も大分お金がかからなくなるし、現在よりも公平性は保てるような気がする。
 地盤とか、選挙区への利益誘導という仕組みをなくすためにも、少なくとも国会議員は国全体を見るのだという意識で、全員全国区にして、訳の分からない比例代表などという、恣意的に政党が自分たちで選出した議員をなし崩しで当選させるような醜い仕組みは止めて、投票数の上位から順番に当選させればいい。
 
 選挙の話は置いておいても、NHKの国民放送局としての役割は、今やそれほど重要ではない。上記の選挙で浮くお金で、全国の至る所でインターネットに接続できる環境を作り、各家庭に最低1回線のネット環境作りでもしておいた方がいい。
 災害時にも役に立つように、ネット回線を利用した緊急事態を知らせる仕組みや、優先だけに限らない無線による緊急接続ができる仕組みなどを開発していった方がいい。
 そのために衛星が必要なら10個くらい打ち上げればいいのだ。
 NHKの受信料など、結果的にはそういった先進の技術の前には無用のお金だ。NHKがなくても報道はされる。テレビ局はNHKだけではない。
 NHKしか受信できないところがあるのであれば、そうでない環境を国や自治体が作るようにすればよい。そういう公共事業は、四国にたくさん橋を架けるよりも重要だ。
 光ファイバー網を全課程に普及させ、無料で接続できるような環境作りを、国はしていくべきだ。そのことが生む大きな利益と、様々な無駄の排除で、その分のお金は出るはずだ。
 前出の選挙などいい例で、「選挙は金がかかる」というのなら、金がかからないような工夫をすればよい。選挙権を得てから25年、この間に様々納技術革新があったが、相変わらず選挙活動は、ポスターを貼り、選挙カーで名前を連呼し、駅前であまり聞いていない演説をする。そんなことでお金がかかるのなら、さっさと止めてしまえばいい。選挙事務所もいらない。
 郵政の民営化結構、社旗保険庁の民営化も結構、ついでにNHKも解体し民営化すればいい。政治家も減らし、お金を別のところにつぎ込んでいくべきだ。
 NHKの不払い問題はとてもいいきっかけではないのか?

宅配

 東京に住んでいると、当たり前になることが、実家に帰ったりするととても便利だということに気づく事がよくある。交通手段とか、情報や、イベントなど、当然そういうこともあるが、宅配の豊富さはなかなかのものだ。
 今現在、私の家で宅配可能な店というと、ピザが4軒、寿司が6軒、中華が3軒、それ以外の洋食や弁当などが5~6軒ある。これは宅配専門で、通常店を構えている中華屋、そば屋、寿司屋などは含んでいない。毎日頼んでも、半月以上は違う店に注文できるほどだ。それでも1回も頼んだことがない店も多いが。
 私は一人暮らしなので、あまり注文する機会は多くないはずなのだが、それでも1ヶ月に1~3回くらいは注文する。どうしても忙しいときや、雨の日など、他に用もなくて外出する必要がないときなどには重宝する。2人前取って昼と夜の分みたいな感じだ。
 横着とか、怠け者という声がかかりそうだが、その通り、そういう人間にとって都会は、生き馬の目を抜く、いや、シンドバッドを肥え太らそうとするどこかの食人族のごとき誘惑のるつぼなのだ。既に私はその罠にはまっている・・・・・・
 昔と違って、宅配は最近では安いと千円程度でも持ってきてくれる。なかなか過当競争で大変なのだろう。料金的にも相当リーズナブルなところもあり、しかも美味しかったりする。
 ampmはデリス便というので宅配してくれるが、なかなか使いづらいのは宅配料がかかるからだ。それにコンビニなら歩いていける距離にある。
 西友もネットスーパーというので宅配してくれて、私は月に2回くらいこれを使う。ペットボトルのお茶や水をまとめて購入するためだ。最近では米なども頼む。考えてみれば西友などは完全にネット通販だし、弁当やピザの宅配も、今ではネットを通じて注文することが多い。
 大分イメージは違うが、子供の頃に夢見ていた未来世界では、壁から料理が出てきたりという便利さがかなり楽しく思えた。相当に近づいた感が、実はないわけではない。もちろん、便利に使うためにはいずれにしても先立つものがないと行けないのだが。

時計

 最近の電車は、時代に即応してデジタル化が進み、山手線なのでは、車中でニュースやらCMが見られたり、英会話の勉強までできてしまう。ドアの上くらいにある液晶のビジョンでだ。そこまで行かなくても、ドアの上には次の駅の表示や、どちらのドアが開くかなど、なかなか細やかなサービスが増えてきている。
 で、前から思っているのだが、その部分に時刻表示をしてくれないだろうか?時計は誰でも持っているから必要ないと言うことなのかも知れないが、私などは普段腕時計をしないので、必要なときは携帯を開いて見ている。これが意外に面倒だ。
 だったら腕時計を自分で城と言われるかも知れないが、サービスというのはそういうものではない。自分でできることを全てその人に行わせるとしたら、世の中のサービス業は大幅に減ってしまう。
 電車内の時計は、実は昔から思っていたことだが、今では非常に実現しやすい環境になっているはずだ。ニュースやCMを流している間も、時刻表示ならそれほど邪魔にならないと思うのだが。
 まだまだそういう表示のない車両もたくさんあるが、そんなとき、車内アナウンスの声が異様に小さいときなど、そしてそれが滅多に訪れない路線だったりしたときには、ああ、ここがどの駅かが一目瞭然で判る最近の車両はありがたいと思ったりする。 新幹線などでも次の駅までの所要時間が出ていたりすると、それがないのに比べて何となく便利だ。
 何でもかんでも便利にすればいいというものではないという声でも聞こえてきそうだが、何でもかんでも便利になる分には、私はいいと思う。便利の影で何かを犠牲にするようなことは実は非常に一面的な便利なのであって、多方面から検討された便利はその限りではなく、恩恵を被る場合が多いと思う。
 何はともあれ、電車内の時計は実現して頂けるとありがたいな。

ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ

 フィッシャー=ディースカウの声を最初に聴いたのはいつのことだろうか?もちろんレコードを通してだが、多分、25年以上前のことだろう。場合によっては学校で聴いているかも知れないが、記憶にはない。曲はきっとシューベルトの歌曲だったりするかも知れないが、マーラーの歌曲であった可能性もある。
 抑制のきいたすこぶる知的な印象を割と最初の頃から持っていた。地声に近いピアニッシモと、「抜き」とでも表現したいような歌い方は、他のバリトンとは違うと思っていた。
 ディースカウというとオペラよりも歌曲という印象がどうしても強いし、しかもドイツリートだ。シューベルト、シューマン、マーラー、ヴォルフというのが私にとってのフィッシャー=ディースカウと言うところだ。私はマーラーからクラシックに入ったので、とりわけマーラーには重きを置きがちだが、ディースカウの場合はシューベルトとヴォルフだ。もちろん、「子供の不思議な角笛」や、フルトヴェングラーとの「さすらう若人の歌」など、マーラーの歌曲の中にあっても、特筆すべき名演奏をCDに残してはいるが、ヴォルフに関してはディースカウがいなかったら、私はこれほど好きになっていたか解らない。
 シューベルト、シューマン辺りの歌謡性の高い歌曲は普通に聴いて楽しく聴けるが、ヴォルフはその曲自体に知的(痴的)とも言える難しさを内包している。さすがに19世紀末の音楽であり、マーラーなどに比べても、非常に現代的である。マーラーとヴォルフは浅からぬ因縁のある関係だが、ヴォルフの非常に流麗なタイプの曲でも、どこか調性のあやふやさを宿しているし、長大な曲になると、メロディという切り口ではなかなか入り込めない、そして沈潜し鬱屈した雰囲気を持った曲もたくさんある。その辺りを実にディースカウは丁寧に、まじめに歌い、その雰囲気を伝えてくれる。
 メーリケ歌曲集などがよく他の歌手も録音しているが、私はゲーテの歌曲集が好きだ。特に「プロメテウス」とか「人間の限界」などという物々しい内容の、しかも時間的にも長い曲がのめり込んで聴ける。ここらの曲のディースカウは、荘重で感動的だ。
 マーラーなどで見せる諧謔的な(この辺りの表現は少々オーバーなくらいに感じるが)ものとは違って、しかもシューベルトやシューマンのように、さらっと聞き流しても聴けるのとは違って、常にまじめに向き合わされる。
 シューマンの「詩人の恋」などはディースカウよりも、ちょっと脳天気とも言えるヴンダーリッヒ版の方が好きで、そちらをよく聴くが、ヴォルフは他の歌手のを聴いても、結局はディースカウに戻る。
 一つには全集に近い内容のものが発売されているということにも依ると思うが、それは裏返してみれば、自信と愛着の表れで、ヴォルフの多くの歌曲を愛していたに違いない。
 そろそろまじめにディースカウのシューベルトを聞いてもいいかなと思っている。私にとっては「冬の旅」よりも「水車屋の娘」と「魔王」だったので、他の曲もきちんと聴いた方がいいな、という感じだ。それでも、自分の好みから言えば、ヴォルフのようにはならないだろうな。
 ヴォルフってもっと評価されてもいいと思うのだが。

行為の評価

 自民党のなかにしという議員が強制わいせつで現行犯逮捕され、議員を辞職するという。
 そもそも全くよろしくない犯罪だし、しかも言い訳として行っている「客引きと思った」という一言が、尚更女性の神経を逆なでしている。政治家をやるにしては不用意な行動と不用意な発言で、それこそが資質を否定していると言える。
 ただ、世間の反応というのはいつでも「鬼の首を取った」ようなマスコミの反応とオーヴァーラップしながら、妙な違和感を感じさせる。今回の件はただの犯罪だし、自分がその女性の立場だったら、当然、極めて不快だと思うから、同情の余地はない。そして政治家だからこそ、より強く糾弾されるというのもまた解らないではない。
 これは、先日もちょっと書いた、ダルビッシュの喫煙と、程度こそ違うが、なにか自分のことはさておいて感がなぜか漂う。多分それは、マスコミの論調や、攻撃姿勢で感じるのだと思う。
 そのダルビッシュもお詫び会見を開き、酒、煙草、暴力というどうもバランスの悪い例を挙げて、二度と法は犯さないようなことを言っていたように思う。酒・煙草と暴力では、犯罪のレベルも違う資質も違う。個人的な見解を述べるなら、おとなしく自宅で煙草を吸っている未成年よりも、そこかしこで構わず煙草を吸う大人の方がより犯罪的である。和やかに居酒屋で談笑する未成年より、くだを巻いて女性に抱きつく大人の方がよりタチが悪い。ましてや暴力など・・・・人を力で屈服させるというのは、最大の先進国が現在もなお他国の領土でやっていることだが、個人から国家のどのレベルであろうと、所詮は暴力に違いない。
 フジとニッポン放送のやり方は、私には正当防衛だとしても釈然としない部分はある。だが同様に、livedoorのやり口も釈然としない。堀江氏の下で働いて無くて良かったな、と個人的には思う。と言って、どう見てもフジサンケイグループも、上層部の体質は古く、そして日本的だ。日本的の全てが悪いわけではないが、結果的にドンキホーテの納入業者への圧力に公正取引委員会が排除勧告したのと似た、TOBの慣習的株集めの臭いがしている。
 何かを評価するというのは非常に難しく、ましてや批判するというのはもっと難しい。変な話、現行犯逮捕された中西議員の影で、全く逮捕されない酔っぱらいが日本には大量にいることを忘れてはならないと言うことだ。痴漢を含めたらどのくらいになるのだろう。これは婦女暴行より軽いからいいというものではない。
 ダルビッシュの影に、数え切れない未成年が現在でも飲酒や喫煙をやっているし、そもそも既に二十歳を超えた大人の中でさえ、飲酒や喫煙を未成年から経験した人間は大量にいる。
 法は法だが、意味の分かる法と意味の分からない法、あるいは時代に即していない法があるとすれば、法という物の価値はいったいどこにあるのだろう?
 私は、この世が平和になる最大の方法は各人が取り敢えず他人のことをまず考える、多を尊重するという事を、全ての人が行うことであると思っている。ひいては自分を他人が尊重すると言うことだ。「情けは人のためならず」という。
 夢物語と笑わば笑え、と言ったところだ。

モノレール

 昨日、仕事で天王洲アイルに行った。時々行くのだが、いつも浜松町からモノレールを使う。実際の乗車時間だけを取ると、新宿で乗り換えてりんかい線経由の方が短いのだが、りんかい線を下車してから目的地までが大分遠いのでモノレールで行く。同じ天王洲アイル駅でも、モノレールとりんかい線の間は、一駅とは言わないが、大分離れている。しかもりんかい線は地下の非常に深いところを走っていて、それもあって遠い。
 この地下深いという意味では最近(と言っても何年も経つが)開業した都営大江戸線。これも深い。東京メトロの各線に比べて都営線は深いところを走っていて、概ね乗り換えが大変だ。
 駅すぱあとなどのソフトで検索すると、乗り換え時間に結構割いているのが解る。尤も、なぜか中央線新宿経由でそれぞれの路線を検索すると、丸ノ内線の場合はJR新宿駅から丸ノ内線の新宿駅まで徒歩2分で、乗車時間以外に14分かかることになっているが、都営新宿線や大江戸線に乗り換える場合は、徒歩時間が無く、乗り換えに17分となっている。この3分の差が多分より地下に潜ることで生まれていると、私には思える。丸ノ内線の場合は、改札を抜けてホームまで10~20秒程度だが、新宿線や大江戸線は間違いなくホームまで数分かかる。
 ただ大江戸線の場合、有る程度郊外へ・・・・高島平に近づくと改札までの時間は短いと思う。東京の地下鉄はそれほど錯綜して走っていると言うことだろう。
 さて、そのモノレールだが、昨日の夕方、ちょっと遅れていた。既にドアの閉まった車両が構内にあり、並んで待つ列がこの時間にしては結構長くなっていた。止まっている車両は空いていた。やがて発車し、次の列車が到着した。その時間は多分5分おきくらいに走っているのではないだろうか。
 車内アナウンスが入り、運転手が(ワンマン運転だから)3分の遅れであることを告げた。他の鉄道会社であれば、概ねこのお詫びと理由の告知で終わるが、モノレールは違った。
「遅れを取り戻す努力をする」という宣言があった。浜松町-羽田は第2ターミナルビルまでで、快速なら17分くらい、普通で25分程度だが、確かにそのうちの3分は大きいのかも知れない。それでも、鉄道を利用して、「遅れを取り戻す」ために、多少速く走り、なおかつ「途中駅での停車も短くするための協力」を客に求められたのは初めてだ。
 それをひどいとか文句を言っているのでは全然無く、そこまで到着時刻にこだわらないといけない姿勢にびっくりしただけだ。多分、海外ではあり得ないだろう。日本のこの几帳面なダイヤというのは驚嘆に値するし、今回のように、運転手がそれを達成するために明白な努力をすることにはある意味頭が下がる。
 もちろん、その3分で飛行機に乗れない人がいる可能性がないわけではないが、さすがに飛行機は乗るまでに多少の余裕を持っている人がほとんどだろう。でも、きっとそれで苦情が来たことが過去にもあるのだろうなという推測はできる。
 いいとか悪いとかいう価値判断ではなく、すごいな、ということだけだが、物事にはエラーがつきもので、時には仕方ないと思うのだが。それよりも、事故がないことの方が遙かに重要だ。決してこれを余裕のなさとは取らないが、何か日本らしさと、日本人の気質みたいなものが見えて非常に面白かった。
 いや、私は天王洲アイル、すなわち一つめの駅で下車したので、運転手の努力がどれほど実を結んだのかは解らないが。

カラスとかハトとか

 しばらく前に、都がハトにえさをやらないキャンペーンを始めた。ハトが増えすぎて、駅の近くとか公園などがある近くでは、被害が相当ひどいらしい。ただ糞が汚いという以上に、乾いた糞が人体にも影響を及ぼすらしい。
 カラスは大分前からゴミをあさるし、雛が成長する時期は人を襲ったりと、被害は大きかった。私のところでも、ゴミにはネットをかぶせている。
 杉並区の一部で、青だったかのゴミ袋をカラス対策でテストしているところがあるというのもニュースで見た。カラスに見えないのだそうだ。
 カラスが利口だとか、猿は利口だとか、鯨は知能が有るだとか、人は多くの場合、脳の大きさや能力で生物を判断する。カラスを処分したり、猿を薬殺したりというのは、よっぽど困ったとき以外にはやらない。ハトも例外ではなく、増えすぎたものは餌をやらずに自然にヘルのを待つというのが方針だ。
 
 私はよく思うのだが、この自然という切り口は果たして自然なのだろうか?確かに自然と人工という言葉が対であるなら、人が関わらないものを自然と呼ぶのもいいかもしれないが、そもそも、例えば上野公園ではとが増えたと言うことを考えてみて、それが人が餌をやったせいだとしても、あまりそれが人工的には思えない。たまたま人の手が関与しているだけで、自然の成り行きのように見える。
 前にも書いたが、地球上で人に進化した生物は、やはり自然の成り行きなので、その結果文明を生んだ。昔のSFなどのように、このまま核戦争か何かで人が滅んでも、それこそ自然の成り行きというものだ。個人個人にとっては違うが、大局的に見ると、悠久の流れみたいなものがそこに見える。
 諸行は無常で終わりのないものはない。人類がどんなにがんばったって、地球が無くなれば、この星にはいられないし、そこまで長大な未来を見なくても、この先何千年もつのか解りもしない。
 それでも人の一生は短いので、カラスやハトの被害が当面の解決すべき出来事であり、明日の食事が大切だ。一生を金儲けやセックスや、その他諸々の享楽や欲望のために生きるのも、人様のために銃弾の盾となって息絶える諜報機関の人間も実はそれほど違いがない。
 それであれば、後者の行き方を尊ぶ世界であって欲しいし、自らも命を張るかどうかは別にして、そうありたいと思う。
 
 カラスやハトの被害を、殺さずに自然の流れに乗せようというのは、いわば、力で世界をどうこうしようと言うのとは全く違った行き方である。身近な、こんな些細なことの中に、実は政治と宗教、様々な社会の進むべき道が見えてこないだろうか?

4大文明

 メソポタミア、エジプト、黄河、インダスという世界の4大文明は歴史の最初で習った。「ナイルの賜」とか、チグリス・ユーフラテスとか、懐かしい気がする。
 しかしそれらの、年中洪水を起こすような川の畔で、どうして人類の最も古い文明が起こったのだろうか?
 川があって農耕に適している地域は他にもたくさんあるだろうし、実際人が住むに適していて、気候がそこそこで、等といういくつかの条件を加えていっても、世界中に候補はまだたくさんあるだろう。
 変な話、人の大きさと地球の大きさを考えれば、日本の中で、濃尾平野だって、信濃だって、起こる可能性があったかも知れない。尤も、日本はよっぽど昔でなければ、大陸と海で隔てられていたから、人的交流という点では他の地域より少なかったろうし、外敵も少なかっただろう。
 私は、農耕とか川とかよりも、外敵などによる緊張感が、一番大きな理由のような気がしている。民族的な集団が、より大きな規模でぶつかりながら、頼りも生き残るという、サバイバルな条件が、文明を起こす最も大きな原動力で、農耕ができたなどというのは二の次のような気がして仕方がない。
 現代に及ぶ5千年の文明の中で、人類が発展してきたのは争いと、多をけ落とすための、涙ぐましいほどのエゴイスティックな努力こそが、最大の理由だ。
 
 よく戦争が文明を発達させてきたと言われる。これは事実だが、それ以上に、戦争でなくても人は、競うというレベルから殺し合うというレベルへの切れ目のない諍いの歴史を通じて発展してきたのだ。ことさらな平和は文明を停滞させてきているように思える。と同時に、過度な争いもまた文明の発達を阻害する。
 メソポタミアの地は紀元前3千年以上前に文明を築きながら、現代では紛争のるつぼとなっている。単純に宗教が問題なら、ヨーロッパだって暗黒時代を通ってきている。もちろん、キリスト教徒ユダヤ教、イスラム教という微妙に共通する素地を持った宗教は、あの地域に西洋のような合理的な文明を発達させるための「割り切り」のようなものが生み出される余地がなかったと言えばそれまでだ。
 だが、ふと見ると4大文明が生まれた四つの地域は、現代では文明の近代化では遅かった地域ばかりだ。これは何か意味があるのだろうか?伝統が文明化を邪魔する等という短絡的な表現は多分意味を持たないが、でも、そういった何かが有るような気が、私は少しだけしている。
 革新とかエポックメイクとかは、言ってみれば伝統の打破と表裏一体で、それが必ずしもいい物を生み出すという保障はないし、人類の歴史をそれで括るのは必ずしも正しい見方ではないのかも知れないが、古くて昔から連綿と続く何かにしがみつくというのは、一面、新規なものを否定していくということで、それは長い歴史をたどってみると、結果的に時代の中で取り残されることになる。
 日本が経済大国になった道をブラジル、ロシア、インド、中国等が追いかけてきて、追い抜いていくのもそう遠くないらしい。短期でもそうなのだ、文明も長い歴史の中では移ろいゆくのだろう。オリエントの神話の本を読みながら、ふと思った。

筆記具

 先日筆記具のアンケートに答えた。特定のメーカーの認知度とかそんな内容のようだった。
 その時ふと思ったが、最近はパソコンで文章を打つ方が多く、筆記具を使うことが非常に少なくなったからなのか、筆記具に対する思い入れが以前ほど無いことに気づいた。
 中学に入学するとき、「中一時代」と「中一コース」という学年誌があり、私は中一時代を取っていたが、最初に契約するともらえるのが万年筆だった。当然質のいい物ではないが、今思い起こすと結構うれしかったのを思い出す。
 今では書き味が良くて安ければ、ボールペンが一番いい。水性インクやゲルインクなどは、昔のボールペンとは全然違う。だが、メーカーは意識しないな。たまたま今一番近くにあるのは三菱uniballのSignoというノック式のボールペンだ。これはなかなか書きやすい。
 一時期は換えインク式の水性ボールペンを使っていたが、インクの減りが早いような気がして止めた。めんどくさいからだ。替えるのが。
 ところで、筆記具というと鉛筆だが、とんと使っていない。シャープペンが出て以来、画を描くわけでもないのであまり使わない。画を描くわけでもないと書いたが、昔はイラストの勉強などをしたこともある。そのせいで、一時期ファーバーカステルの色鉛筆を集めていた。今でも手を伸ばせば50色くらいがすぐそこにある。
 それを見ると画が描きたいなとも思うが、あれもやりたいこれもやりたいと思いながら、なかなか手に付かないのが現状だ。
 そういえば、小説を書くとこの打ち出のこづちで大言を吐いてから3ヶ月くらい経つ。そろそろ本当にやらなければ。せっかくのリハビリが無駄になってしまうから・・・
 文章と筆記具という括りで言えば、小説を書くためのツールとしてのパソコンは、まさに筆記具でもある。形はどうあれ、このキーボードからプリンタある今出力先としてのモニタは、私の最強の筆記具でもあるのだ。
 友人が言っていた。有言不実行よりは無言実行、うん、その方がかっこいいな。

株式会社という仕組み

 昔からちょっとした疑問に思っていたのだが、会社というのは、例えば大きな会社が出資して作ったりするのは別にして、結構、個人や少数のグループが何らかの思いをもって立ち上げることが多いことだろう。会社そのものに対する思い入れは別にして、立ち上げに関わった人間は、それなりにその会社に愛着があることだろう。
 今では株式会社も、資本金のない人でも作れるようになった。株式会社は最初から「企業」という側面を持ち、他の会社とはちょっと違っている。いや、この言い方は変だが、つまり、あまり個人の意志とか、重いとかとは別な次元で株式会社というのは組織されると言うことだ。
 例えば、立ち上げに必要な人間の数や、役員の任期等もそうだ。特定の個人がこんな会社にしたいということで社長になると言うのとは少し違う気がする。もちろん代表取締役はそれだけの権限を持ってはいるが、ここでものをいうのは株主だ。
 つまり、仕事をする主体ではなく、そこに出資している人たちが力を持っているのだ。多くの場合、会社社長などは大株主だったりするのだろう。結果的に力があるわけだが、でもそれは株主として力を持つのだ。
 今回のフジとlivedoorの争いを見ながら、事業というのは、つくずく実利的であるのだな、と思った。
 M&A等というと聞こえはいいが、livedoorがやろうとしているのは日本放送の乗っ取りであり、かつての日本企業がバブル時代にアメリカの大手企業を買ったのと私などの目には同じに映る。
 この2者の攻防は、現在のところ、若干サンケイに分があるような気がするが、単純に私がサンケイグループの社員であればと想像すると、難しいことは解らないが、いずれにしても、金に物を言わせて入り込んでくる企業に、いい感情は持たないはずだ。日本放送の社員が、こぞってlivedoor参加にはいるのを嫌がっているというのはうなずける。
 私は堀江さんという人が好きでも嫌いでもないが、すごいとは思うし、サンケイグループとlivedoorやそれ以外でも新進のIT業界とコラボレートすることは、決して悪いことだとは思わない。
 事は、インターネットが勝つかテレビが勝つかなどという話ではないし、現に世の中の様々な場所でメディアミックスは当たり前のことだ。
 今日のニュースで楽天がイーグルスの年間インターネット放送を10万円で売り出したそうだが、巨人ファンがほとんどの中継をただで見られるのとは違って、「なぜ有料なのか」という気持ちに楽天ファンがなるだろう事は予想が付く。
 でも、このような形で、ネットはテレビを浸食し、テレビはネットを利用しながら新たな道を切り開いていく。デジタル化はもう始まっているし、21世紀に生まれた子供は、モノクロテレビを知らない今の若い人たちと同じに、地上波のアナログ放送を知らないと言うことになるだろう。
 さて、話がそれたが、そんな会社間の争いの中で、起業者はどう思っているのだろう。別に、理想とか夢とか、そんなお話しではなく、「自分の会社が・・・」という気持ちは少なからず、現世であれあの世であれ、持つのではないだろうか。
 だがそもそも、最初に書いたように、株式会社というのはそういうものだし、そうやって設立されるのだ。であれば、本来、株式会社や有限会社、合資会社など、これは会社のランクであってはいけないと思うのだが、なぜか有限会社よりも株式会社の方が安心というのが世の中の感情だ。
 もちろん、会社という物自体が経済の中の道具、言ってみれば道路を走る車のようなものだから、要は目的地に着ければいいので、軽だろうがスポーツカーだろうが、コンボイだろうが関係ないことになる。
 取り敢えず私もママチャリで、高速道路脇の細道を、息を切らせて走っている口だが、チャリンコにはチャリンコの良さもまたある。だがそれでも、まずは高速に乗りたい気持ちになるのもまた真実だ。