Civil War と Powerwolf

シビル・ウォーといっても内戦とかの物騒な話ではない。音楽の話だ。といってもGuns’n’Rosesの曲の話でもない。
この二つのバンドは、どちらもナパーム・レコーズというオーストリアのレーベルに所属するバンドで、Powerwolfの方がキャリアは長い。

たまたまYouTubeでCivil Warの「Bay of Pigs」という曲を知って、聴き始めた。年取ったマイケルジャクソンみたいな巨大なおじさんがヴォーカルを務めるこのバンドは、Wikipediaでもドイツ版にしか掲載がない。2012年にデビューしているようなので、キャリアは既に3年はあるはずで、アルバムも2枚出している。
この二つのバンドは、ジャンル的にはパワー・メタルと呼ばれるバンドで、Judas PriestやIron Maidenなどがその嚆矢と言えるらしい。どちらのバンドも、これまでさほど、特にMadenは、未だに良さが解らないので聴かない。そもそもヘヴィメタルというジャンルが出てきた頃、ハードロックとは微妙に違う印象があり、あまり聴こうとはしなかった。昔はディープ・パープルをうるさいと思っていたくらいなので、メタルがもっとうるさいと思っても不思議ではないのだが、今となっては不思議な気がする。

さて、まずCivil Warの「Bay of Pigs」だが、ツインギターにヴォーカル、キーボード、ベース、ドラムの6人構成のバンドで、見た目はあまり若い感じがしない。だが、なんかすごくいい。久々にYouTubeを毎日再生している。
タイトルの「Bay of Pigs」は豚の入り江とかではなく「ピッグス湾事件」という歴史的事実を歌っている。

ピッグス湾事件(ピッグスわんじけん、スペイン語: Invasión de Bahía de Cochinos、英語: Bay of Pigs Invasion)は、1961年に在米亡命キューバ人部隊「反革命傭兵軍」がアメリカ合衆国の支援の下で、フィデル・カストロ革命政権の打倒とアメリカ傀儡政権の再興を試みた事件。 by wiki

ということのようで、そのままこの事件について歌っている感じだ。
歌詞の内容はともかくとして、メロディアスだし、ギターソロに至っては、あたかもロシア民謡のようなメロディを奏でる。バンド自体は、メタルが大好きなスウェーデンのバンドで、ハイトーンを持ったヴォーカルはNils Patrik Johanssonと、まさに北欧の名前だ。
このバンド、他の曲を見てみると、ナポレオンの歌やローマ帝国の歌や、スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスを歌った歌などがある。ウィリアム・ウォレスは、まさに「Braveheart」という名でメル・ギブソンがアカデミー作品賞を取った作品と同じタイトルだ。タイトルをBraveheartにしたのは、この映画へのオマージュ的な何かがあったのだろう。

 

アルバムも2枚出している。

もっと有名になってもいいのにな~。せめて英語版のWikiには載って欲しいと思うのだが・・・

 そしてPowerwolfだが、こちらは2003年から活躍しているようだ。「Bay of Pigs」の次にYouTubeで流れるのが、このPowerwolfの「Army Of The Night」という曲だから、自ずと聴くことになったわけだ。昔の曲は知らないが、やたらとアーメン、ハレルヤ、マター・マリアを使いたがる印象だ。必ずしも敬虔なキリスト教の歌ではないのは、ヴォーカリストのデーモン閣下的な化粧で解る。
 この曲も悪くはないのだが、実はここでCivil Warと並べて書く気になったのは、別の曲「Armata Strigoi」を聴いたためだ。これは全体のリズムや曲のメロディもさることながら、
2種類のギターのリフと、やはりロシア民謡的なギターソロに尽きる。そしてこの「Armata Strigoi」という意味の分からないタイトル。

In Romanian mythology, strigoi (English: striga, poltergeist)[1] are the troubled souls of the dead rising from the grave. Some strigoi can be living people with certain magical properties. Some of the properties of the strigoi include: the ability to transform into an animal, invisibility, and the propensity to drain the vitality of victims via blood loss. Strigoi are also known as immortal vampires. – wiki

要するに、ルーマニアの神話に出てくるゾンビみたいなものらしい。血を吸うらしいし。
Armataの方はイタリア語というか、それも古い言葉で軍隊を指すらしい。つまり、平たくいえばゾンビの軍団?
まあ、そんな感じの内容なのだが、歌詞はともかく、この曲もいい。ヴォーカルも伸びやかで歌もうまい。
いみじくもなぜかこのPowerwolfの2曲は「Stand up…」で歌詞が始まる。どうしても立ち上がらせたいらしい。

まあ、確かにCivil WarもPowerwolfもうるさい。でも、こういうメロディー好きなんだなぁ。
日本にはこういうバンドいないなぁ。でも、昔の歌謡曲って、こんな感じだったな、と思う。

関係ないが、AmazonのPrime Musicで、一部聞き放題になった音楽の中にジェニファーという歌手がいるのだが、どうやらアメリカ人らしいが、日本の歌謡曲をカバーしていて、中でも「みずいろの雨」は良かった。八神純子とは別の透明感のある声で、聴いていて気持ちがいい。Prime Music自体はPrime Videoと一緒で、少しだけいい物もあるが残りは返品在庫の寄せ集め的な内容なのだが、年間4000円弱で、これらのおまけは美味しい。まだまだいろんな知らない言い音楽はたくさんありそう。

東京室内歌劇場『モーツァルトの旅』

標題の作品を昨日、あ、日が変わって正確には一昨日だが、南大塚ホール(東京大塚)で観てきた。
素晴らしい作品に出会えたので、久々にブログを更新。
内容は、モーツァルトの一生をストーリーの軸にモーツァルトのオペラアリアを聴かせるものだが、単純にこう書いてしまっては申し訳ない。なぜなら、物語と音楽が元々のオペラでもないのに極めて融合し、意味のある選曲になっていて、ある意味これが一つのオペラとしても成立しているからである。
脚本・構成・訳詞・ステージングをモーツァルト役の中川美和が一人でこなしている。この一作を見る限りにおいて希有な才能というべきである。

物語はモーツァルトの子供時代の説明から始まるが、既にこの時に伏線が用意されている。それは幼いモーツァルトが自ら弾くパパゲーノのアリアの単旋律だ。
この作品には多くの伏線や場面と歌詞の絡み合い(オリジナルの歌詞を付けているわけではなく、元々のアリアの訳詞だ)など、非常に練られていて、正直一回の観劇ではそのすべてを解って観ることは難しいかも知れない。
そのほとんどをモーツァルトの音楽で構成しているため、当然のことながら使われる音楽の時代設定は前後する。中には敢えて「ケッヘル」という単語を使って笑いを取る場面もある。モーツァルト以外の音楽は、敢えてギャグとして使っている「運命」と「人知れぬ涙」(この2曲はシカネーダーに作曲者を言わせることで笑いをしっかり取っている)そして、メンデルスゾーンの結婚行進曲だ。この辺りのモーツァルトにこだわりながらも拘泥しすぎないという姿勢も実は評価したい。

恐らくこの作品が最も評価されるのは、(個人的にはそこではないのだが、)モーツァルトの一生を描いた物語をモーツァルトの音楽で構成し尽くしているという点だと思う。
古今、モーツァルトを描いた作品というのはたくさんあるに違いないが、ぼくが知っていて比較対象となるのは、アカデミー賞受賞作でもある映画『アマデウス』と、東宝かな?のミュージカル『モーツァルト!』なのだが、今回の『モーツァルトの旅』はそのどちらとも立ち位置が違っていて、さすがにクラシック音楽家が(恐らく矜持を込めて)作ったであろうこだわりが、モーツァルト作品としてこの作品をほかの2作と比較しても遜色ない高みに上げている。
音楽の使い方としては『アマデウス』に近いが、極論すれば『アマデウス』の音楽は、どこまで行ってもBGMである。この時代にこの音楽が作られたその表現プラス、シーンを装飾するために音楽が使われる。『モーツァルト!』に関しては、そもそもオリジナル音楽を使った作品なので、モーツァルトの音楽はほとんどおまけである。ただこれはこれで良い。モーツァルトを描くからといってモーツァルトの音楽を使わねばならぬという決まりは無いからである。
ただ今回の『モーツァルトの旅』に関していえば、東京室内歌劇場という団体が上演するに相応しい、実力派歌手がアリア等を存分に聴かせた上での劇になっている。モーツァルトの音楽がまさに作品と融合し、その物語の一部になっているのである。今回の作品を観て思ったのは、俳優と歌手が分離していてはこういった作品の実現は難しいし、かといってオペラ歌手にここまでの台詞のやり取りをさせるのは、恐らくオペレッタの比ではなかったであろうということだ。
しかし、であればこそだが、『アマデウス』や『モーツァルト!』では実現できない、モーツァルトの人生をドラマとして体験しながら、なおかつモーツァルトの音楽を堪能できるという新しい地平を切り開いている作品なのだということだ。尤も、なぜこれまでこういった類いの作品はなかったのだろうか?という疑問がすぐ浮かぶが、考えてみるとハードルの高い作品なのだ。
まず、前述したようにモーツァルトの音楽を演奏しなくはいけないので、優れた素養を持った音楽家が演じなくてはならない。歌唱の出来は作品の完成度を大きく左右する。次に、同じ歌手が俳優としての技量を兼ね備えていなくてはいけない。でなければ芝居がへたってしまう。だがこの二つだけならば決してクリアすることはそこまで難しくないであろう。
問題は、脚本とそれを含めた上での構成を誰がやるのかと言うことだ。恐らくこういった作品が企画に上がる時点で、今回のような形ではなく概ねは「新作」が企図されるであろう。なぜなら、優れた作品を描く脚本家はモーツァルトの音楽と自らの脚本を融合させるなどということに、それほど長けていないだろうし、今回のように実は音楽を抜いたとしても一つの芝居として完成されている作品にとっては、音楽の役割はやはり『アマデウス』的なBGMになる可能性が高いからである。敢えて『アマデウス』的と書いたのは単なるBGMではないからであるが、いずれにせよ、芝居と音楽が対等に伍する作品にはならない。
つまり、優れた脚本とそこに音楽を融合させる試みができる作家がいなくては、まず作品が成立しないし、既存の音楽を使ってそれをやろうとするなら、オリジナルを作った方が楽だし、話題性もあるのじゃないだろうか?などといった思惑が働き、同時に、作っても誰が上演するの?という危惧が最初からあるために、これまでこういった物を作ろうとした人はいなかったのだと思われる。
似た作品はきっとある。だがここまでこだわった作品は、残念ながらぼくの知識にの中にはない。
と同時に、この作品のような形態はそれが持つ可能性と危うさがそこにはある。

これだけ面白いのだから、どんどん新たな作品も観たいと思うが、一つには、クラシックの中でも「歌」というほかの楽器とは一線を画するツールではなく、すなわち、いわゆる器楽を使ってこれが成立するだろうか?と考えた時、恐らくは難しいだろうと思う。歌と器楽が持つ最大の違い、それは歌詞という意味を持ったコミュニケーションツールがそこに存在するかどうかという点だ。今回も場面展開などのために『後宮からの誘拐』や『魔笛』の序曲などがピアノ演奏で使われていたが、では歌のほとんどを器楽演奏に変えて、ここでは「アイネクライネ」、ここでは40番の交響曲と言った感じで音楽を挟んでも、それは劇の合間にモーツァルトの音楽を聴いただけに過ぎなくなってくる。ここまで書いた「融合」という言葉が一切白々しいものとなってしまう予感がするのである(いや、もちろんそれはそれで、そういった形態の作品があっても楽しめる可能性はあるわけで、それはそれでよしとしよう。)だが、だとしても歌の持つ力はそれとは次元が少し違うところに存在する気がする。そしてそれが今回の作品を、芝居+音楽というだけの作品を大きく分けている点である。雰囲気を演出する音楽ではなく、意味を持った音楽、言ってみればミュージカルそのものなのだが、それを既存の作曲家が作った歌を利用して行うと言うこと自体が、ある意味離れ業なのだと思う。

そして、では同じ形態の別の作品を観たいと考えた時に、ではそういったものは可能なのか?と考えた時、取りあえず他の作曲家でと思うと、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニ、ドニゼッティ、ワーグナー、R.シュトラウス……オペラ作曲家の名前を挙げても、物語になりそうなのはワーグナーくらい。ワーグナー歌手を5人も10人も並べる大変さもさることながら、そもそもむちゃくちゃ重い作品で、面白くなるのだろうか?という疑問がわく。ではベートーヴェンは?ショパンは?マーラーは?と考えていくとモーツァルトほど扱いやすくないことがよく解る。まあ、作曲家の一生シリーズである必要は必ずしも無いので、他人事として新作には期待なのだが……

さて、そういった評価はあるとしても、ぼくが今回絶賛してやまないのは、前述の意味も若干込めた上での脚本そのものである。ストーリーはある意味単純だ。というより、概ねは史実に基づいているので、大きく変えるのは難しい。だがその上で、面白く見えるためには音楽の成立時期などにはこだわらず、大胆に前後させ、何より物語の進行と構成がうまく結実した脚本になっている。文章力としての脚本力もあるとは思うが、むしろその構成力に感服する。オーソドックスではあるが、よく考えられていて、1幕と2幕のコントラスト、様々な伏線、キャラクターのかき分けと、よくぞまあ、こんな作品をものしたなと思う。
その構成がよくできているからこそ、相俟ってモーツァルトの作品が際立っているのだ。

一つ例を挙げれば、モーツァルトが妻と弟子に裏切られたことへの憎しみを吐露する場面で、もちろんモーツァルト/中川の慟哭のような叫びだけでもいいのだが、すっと脇から出てきたソプラノ歌手が歌う「オレステスとアイアスの」で始まるオペラ『イドメネオ』のアリア。極めて効果的にモーツァルトの心情を描き出している。モーツァルトの音楽もそうだし、ソプラノ田中紗綾子の歌唱も、余すところなく表現していた。

我々は名前のある人たちが作り上げたものを信じる。定評のあるものを尊ぶ。だが、その第一歩は常に無名、無冠の状態から始まる。東京室内歌劇場も、他の歌手もあるいは既にそれないりのネームバリューはあるに違いない。ただ恐らくは、歌手としてではない脚本家としての中川美和に関しては、間違いなく無名であろう。だが、こういう所にも才能はあるのだと言うことを実感させてくれる作品であった。
ミュージカルと違いロングランを課すのはクラシック歌手には酷である。だが、間をおいて再演、再再演と続け、一人でも多くの人にこの作品を観てもらいたい。それだけの価値がある作品だとも思う。
本来は感想として、内容や曲について触れるつもりで書き始めたのだが、なぜか作品論のようになってしまった。

あ、YouTubeにでも上げて見せてくれるとうれしいのだが……なぜかみんなあまりやらないよな。

mozart

選挙

 せんきょと打ったら第一の候補に「占拠」が出たが、今週末というか来週頭は衆議院議員の選挙だ。
 新聞各紙の報道は、圧倒的な自民党の勝利だが、そもそもそれを狙って解散に打って出たのだろう。
 選挙というのは有権者にとっても実に難しいもので、例えば自民党とその立候補者に1票を投じたとしても、その党や立候補者のどの政策に対して1票を投じるのかは意思表明が一切できない。アベノミクスに賛成で原発再稼働には断固反対という人がいたとしても、当選後は彼らはそれも含めて信任をもらったというに違いない。
 それはことさら自民党に限ったことでは無い。言ってみれば、定数削減といういわゆる身を切る改革に反対している共産党や社民党のような小さな政党は、実現可能性があるかどうかは別にして、口にする政策は非常によかったりする。まぁ、間違っても政権を取るということが無いので、自信を持って言えるに違いない。理想と責任は、いわば対極にあることが多いからだ。
 もちろん彼らが定数削減、特に比例区の削減に反対する理由はよく解る。小選挙区制という民意をあまり反映できそうもない単純多数決の選挙システムは、どう考えても彼らには不利だからだ。逆に言えば、その中で小選挙区当選を果たす議員はめちゃすごいという話になる。
 選ぶ側から言っても、ではそういった少数政党に投票する意義がどれほどあるかということになると、その主張が政策に反映されることは極めて少ないので、可能な限り1票をムダにしたくなければ、ある程度発言力を持つ可能性がある政党の方がよりよいかななどと考えてしまう。もちろん、共産党や社民党のここの議員がムダだと言っているわけではない。彼らの追求から政治が動くことだってたくさんあるからだ。
 逆に言えば、一強多弱をもたらしそうな今回の選挙に幻滅を、始める前から覚えたりもするわけだ。
 
 それでも投票には行くし、白票と言うことも無い。

 話はそれるが、先日テレビで「白票でもいいから投票に行きましょう」と呼びかける(アナウンサーだったか解説員だったか忘れたが)の場面と、ネット上でむしろ白票を投じようという呼びかけを行っているサイトのニュースを見た。
 個人的には、白票は投票しないのとまったく同じ行為なので、白票を投じるなら、散歩でもない限り投票所に行く意味は無いと思っている。投票所で選挙に来ましたというチェックが重要なわけではなく、参政権というのはあくまで自らの意思表明であるからだ。
 では、棄権や白票が意思表明では無いのかと言えば、あながちそうも言い切れない。誰にも入れたくないという意思表明、あるいは決まった結果に従いますという少し積極的な意思表明と取れないことはない。もちろん、本人はそんなこと考えて棄権する人はまれだろう。どちらかというと、面倒とか興味がないという人たちが多いに違いない。だが世界に比べたら圧倒的に平和を享受している日本では、誰を選んでもそう変わらない(恐らくこの表現にはネガティブな意味ばかりではなく、多少のポジティブな意味もあるのだと思うが)から、選挙に行かないという選択肢もあるに違いない。
 無理矢理義務化したとしても、まじめに投票しないとすれば意味は無いが、とはいえ、本気で参政と言うことを考えるのであれば、義務化の手前でたくさんできることはある。
 日曜日に公共の場を政治の都合で突然投票所に変え、そこで行われるはずだった行事を中止に追い込むなどと言う、目立たないがひどいことを行うのも選挙だと言うことを行政や政治家が自覚して、ネット投票の導入や、期日前投票ではなく複数日をかけて投票できたり、投票所を可能な限り生活に影響ないような場所でできるようにしたり、やることはたくさんある。紙とか投票箱はよくなったのかも知れないが、投票所については何十年も変わってない気がする。
 
 話があちこち飛んだが、選挙というのは「我々が政治を変える」とよく言われるような非常に前向きなケースもあるが、その反面「多くのことを諦める」決意をする場でもあると言うことを、よく考えなくてはいけないのだと思う。
 株価が上がればこの世は万々歳なのか?給料が上がり佐世すればいいのか?逆に、原発さえ動かなければ、あとはどうでもいいのか?どこで戦争が起こっていても日本が平和ならそれでいいのか?とか、様々なことが実は突きつけられていると言うことだ。

 これまで自分の投じた1票が生きたことも無駄になったこともある。無駄とはもちろん、落選議員に投じた1票だが、後になって考えると当選しても無駄だったかなと思うこともある。
  
 今回は、どうするかな。一強多弱ってやはり良くないんだと思うが・・・・今回は難しそうだ。
🎇

 

円高と円安

 経済に疎いぼくが、なぜこんなタイトルで書くのかと言えば、単に不思議だからに他ならない。
 そもそも、大学も人文学だし、経理に配属された新入社員の時は、1年で会社を辞めようとさえしていたのだった。
 
 さて、アベノミクスの金融緩和によって、数年前に突然円安が始まった。
 ぼくが個人的に覚えている一番高い円は、いわゆる固定相場制の頃の1$=360円だが、この頃から言えば今は破格の円高なので、そもそも円高、円安というのは、常に相対的であるのだということだ。そういう意味では、何年前か忘れたが、円安の動きが始まる直前の、最も円が高かったときは1$は80円を切っており、先週、1$=118円台までいったから、その頃から比べれば、40円近い円安ということになる。
 結果、物が高くなった。これだけは間違いなく円安の影響が一番大きいだろう。

 衆議院が解散となり、来月には総選挙が行われる。あ、この総選挙という言葉も紛らわしい。別に全国の必要な選挙が一気に行われるとか、参議院議員も一緒に選挙を行うわけでもないのに「総」選挙というからだ。総選挙というのは、あくまで衆議院銀を選出する選挙のことらしい。広辞苑を見ると、参議院議員の場合には通常選挙というらしい。また、市町村選挙の場合には一般選挙というのだそうだ(学研の国語辞典には「委員・議員などの全員を一時に選ぶ選挙」とあるので、AKBの場合にはこれに当たるわけだ)。きっと学校で習ったのだろうが、とっくに忘れた!
 一般的にいえば、今度の選挙はアベノミクスに対する信任とか評価が最も大きな、あるいはもう少し広げて安倍政権へのということになると言われているが、あれだけ期待をしてこけてしまった民主党政権の記憶もまだそう風化していない今、信任しないけど、他よりいいという理屈で与党が勝つのだろう。と、何となく思う。

 ただここで思うのだが、景気がよくなったと自民党は言うのだが、世間は実感していないとも言う。確かにぼくもまったく実感がないどころか、恐ろしいほどに物の値段は上がっている。これは決して消費税だけのせいではない。誰もがそれは分かっている。
 で、円安なのだが、為替というのは、通貨同士の強弱の問題なのだと思うが、単純に、1$のものが80円で買えるのと120円で買えるのでは、少なくとも買う側は、80円がいいし、売る側は120円がいいのは自明のことだ。だが、通貨の強さという意味では、80円の方が強いのではないか?
 なぜ、日本の通貨が強いいことが、そんなに敬遠され、弱くなると株価が上がるのだろう?
 もちろん、車を初めとする日本の産業の多くが、輸出で外貨を稼ぎ、80円よりも120円の方が、利益は大きいし、当然外国人は観光に来てもうれしいからたくさん来るようになる可能性が高いのだと思う。トヨタの利益は呆れるほどだし、その結果株で儲けたお金持ちもたくさんいるには違いない。

 だが、単純に考えてみれば、差益の40円で上げる利益は、逆に40円分の値上がりで輸入に跳ね返ってくるのではないか?
 だとすれば、野党が言うように、円安で儲けた人がいる分を、他の人が損するのは、まさに理屈通りのような気がする。
 つまり、円安で日本経済がよくなるという理屈が、ぼくにはわからないのだ。
 それは確かに、一部はよくなるだろう。だが同じだけどこかが煽りを食うことにはならないのだろうか?
 なんとなーく、所詮為替の変動なんてそんなものの様な気がして仕方が無い。
 
 日本が輸出産業に頼っている、というのは、だって所詮、どこの国も一緒でしょ?と思う。外貨を稼ぐには輸出するしかないわけで、それは別に日本に限ったことではない。アメリカだって中国だって、輸入より輸出を多くしたいに決まっている。
 まあ尤も、なんでも国内にあるので困らないというのであれば、生活自体は成り立つのだろうけど、でもだからと言って輸入過多では、どこかでひずみが来るんじゃないのかな?という気がする。

 むしろ円高でも儲かるくらいたくさん売るというのが望むべく最もいい方法な気がする。
 そうすれば当然、輸入品を安く仕入れ、加工して売るという、いわば日本のお国芸みたいなものに、一番合ってるような気がしてならない。
 それが理想論だとしても、円安に頼っても、結果的には物をたくさん売らなくてはバランスが取れないような気がして仕方が無い。
 同じ売るなら、円高での方が、僕は好きだな。・・・輸出とは縁もゆかりもない人生なので、輸入がお得な方がうれしいわけです。・・・海外旅行もね。

 あ、本当に経済の素人が言ってることなので、万が一読んだ方、嘆いたり怒ったりしないで下さいね。
 
 

iTunesに関連するアプリケーション

 アップルのいくつかのアプリは勝手にチェックされて更新を求めてくるが、iPhoneにして以来、プレイヤーとしては使わないが、なくてはならないアプリになった。
 本日も、更新が来ていたので、普段同様そのまま更新を許可した。
 ところが、最後の最後でエラーが出て、手動でインストールするように求めてきた。
 仕方ないのでiTunesを起動しようとすると起動しない。
 仕方が無いのでまずPCを再起動すると、msvcr80.dllが無いと出た。以前にも確か無くなったことがあるファイルだと記憶していたが、いきなりファイルが見つからないというのは、少しびびる。
 それをコピーして再度挑戦。しかし上手く行かない。今度はC+ランタイムエラー。
 仕方ないのでググって原因を探すと、似たような例はいくつかあり、結果的にアップルのサイトでitunesに関するアプリを取りあえず全部削除して再インストールというのを見つけてそれにトライ。
 iTunesを削除、Qicktimeを削除、Apple Application Supportを削除、Apple Mobile Device Supportを削除・・・・できない!
 このApple Mobile Device Supportが、どうやっても削除できない。
 まず、プログラムのアンインストールから数回やってみたが、しばらく振興した後、プログレスバーが逆向きにすーっと戻って終わってしまう。ググった結果で、変更からRemoveでできるとあったので試したがだめ。
 このプログラムはiPhoneなどのデバイスを管理するものだと思うのだが、起動時に自動スタートするのでそれを停止してやってみたが上手く行かない。
 この辺りは順番に削除しないとエラーが起こるなどとアップルが脅かすものだから、大変時間を食った。で、時間を食ったからできたわけではない。
 しかし、この先iTunesが使えないのはやはり困る。音楽を聴くのはWinampだし、iPhoneでなければiTunesなど無いままでいいのだが、どうにかしないといけない。
 まあ取りあえず、ここまでがんばったのだから、一回iTunesをインストールし直してみよう。
 まさかこれで解決だとは!
 尤も、渦中のプログラムは結果的に削除できなかったわけで、はっきり言って、プログラムのアンインストールで削除できないようなプログラム作ってんじゃねーよ!というのがユーザーとしての心境だ。
 またもや自分の中で、アップルの印象がだだ下がりな騒動だった。

 

デヴィッド・カヴァーデルとFacebook

 David CoverdaleはWhitesnakeのヴォーカリストで、オーナーみたいなものだ。
 彼のFacebookページがあるので、以前からフォローしていた。・・・このフォローという言葉、TwitterでもFacebookでもフォローでいいみたいですね。

 おかげで久々に日本公演をすることを知った・・・行ってないけど。昔、まだミッキー・ムーディーとバーニー・マースデンがギターを弾いている頃、中野サンプラザまで行った記憶がある。今ではサンプラザも遠くないが、かつては埼玉県に住まいだったので1時間は近くかかった。まだ学生の頃だ。

 そのデヴィッドが、先日からFacebookに自らのツィートを載せるようになった。

 うざい!

 更新しないTwitterならともかく、毎日何回もツィートする。しかも英語で・・・・
 おかげでフォローの少ないぼくのFacebookは、半分以上がデヴィッド・カヴァーデールだ。何言ってるかもよく解らないし。
 
 ならやめればいい、ということなのかもしれないが、基本はファンという悲しい性、それができない。以前のように適度に発言してくれればいいのに・・・
 
 なので今日のブログは単なる愚痴です。

 しかし、FacebookとTwitter似たようなもので、棲み分けしているんだから、混同しなくても。
 ホームページやブログの更新ならいいけど。

 とはいえ、同じ内容をFacebookで精力的にしていると考えればいいのかな?
 それにしても友人が100人も10000人もいる人たちの画面てどうなっているんだろう?
 単純な疑問です。

Microsoft Office のアップグレード版廃止

何とも下書きばかりたまりつつ、相当な亀更新になっているブログである。

さて、Amazonからのメールマガジンというか商品案内のメールを見て、Office2013が2月7日に発売されることを知った。Officeソフトはかつて、DOS/VからWindows3.1に移行したときに、一太郎+Lotus123という企業標準コンビをいつの間にか駆逐し、今ではおじいちゃんおばあちゃんでも、PCを使う人ならば、あたかもこれしかワープロや表計算は無いのではないか、というくらい標準のソフトになっている気がする。取りあえずWordとExcelに関してはそうだと思う。
自分自身も使っているが、しかしそれほど多く使うわけでも無いので2003を使い続けていた。
時々アップグレードしようかと思いつつ、ずるずるときたわけだが、今回Amazonを見て、はたとある一文に目がとまった。

「【Office 2000、XP、2003、2007をご利用の方へ】2013年2月7日発売の次期Office以降「アップグレード版」の販売がございません。」

つまり、Office2013以降は、バージョンアップに関しては新品を買えということらしい。

というラインナップになる。
ただなぜか発売時に「アップグレード優待パッケージ [プロダクトキーのみ]」というのがプロフェッショナル版だけ数量限定で発売されるらしい。

以前であれば、ACCESSが必要な頃もあったので、これはありがたいが、現在はもうACCESSも使わないのでこれは余分だ。しかし、なぜかプロフェッショナル版しかない。
マイクロソフト、やってくれるぜ!なのだが、どこぞのAdobeほどイカレた価格設定ではないので、やむを得ないというところだろうか。
ただ最近は、2年有効のライセンス販売みたいなものあるらしいので、そういうのをうまく利用しながら、費用を抑えていくしかないのかも知れない。
と思っていたところ、じつはOffice2010にはアップグレード版があり、しかも2013の発売に辺り、2013への無償アップグレードパーッケージというのが、しばらく前から発売されていて、それを買えば、今現在最も低廉な形で、Office2013が買えることになる。

それがこれだ。

2010だけであれば、中国かな?の並行輸入品が安価だが、2013を目標とするなら、これが一番お得だ。
Home&Businessとプロフェッショナルなら以下

今、Atokを使うために毎月300円支払っているが、年間にすると3,600円2年間で7,200円になる。
Office2003を2003年に使い始めたとしてそれから10年、いくらで購入したかもう忘れたが、2013(Personal)を5年使うなら、月々260円程度、3年なら360円ということになる。そう考えると、使用頻度から考えても高い買い物ではない。

まあ、2003から2013、キリのいい替え時だったかもしれない。

ジョン・ロード

 ジョン・ロードが亡くなった。
 まだ71才だという、若いなぁ。
 
 言わずもがな、ジョンはディープ・パープルのオリジナルメンバーでイアン・ペイスと共にほぼ全てのDP作人に参加していると思う。
 DPのメロディーメーカーはその多くがリッチー・ブラックモアに負っているところが多いと思うが、初期の3枚のアルバムでは、作曲もかなり担当していただろうし、何より、グループとオーケストラのためのコンチェルトは、彼の最大の作品だと思う。

 以前にも書いたが、このロックバンドとオーケストラのための作品は、かなりいけていると思う。他のロックバンドとオーケストラの共演とはひと味違う。
 展覧会の絵をELPが演奏したり、オケとバンドが分担して演奏するのとはわけが違い、最初から協奏曲として企図された作品だからだ。これは純粋に協奏曲だし、面白い。
 歴史的なクラシカルな作品と比べて作曲技法などのテクニカルな部分については、それなりの見方があるだろうが、個人的には非常によくできた作品だと思っている。
 惜しむらくはこの曲が、ディープ・パープルの曲として存在するため、クラシックのように、様々なオケや指揮者演奏家によって取り上げられることがないことだ。
 実際の所、オケとロックバンドといのは音量的な問題や、演奏スタイルの問題はあると思うが、実に惜しい。

 DPは2度この曲のライブ盤を発売していて、1回は作品を発表した69年のロイヤル・フィル(指揮:マルコム・アーノルド)で、少々粗い演奏だが、熱気があっていい。
 2度目は1999年、ギタリストがスティーヴ・モーズに変わったので、だいぶ印象も違うが、曲としてのまとまりや、オケの質は上がったように(ロイヤルフィルがだめなわけじゃないが)思えるが、69年の熱気はない。

 いずれにしても、他のオケとバンドの組み合わせでも聴いてみたいと思うのだ。
 現代音楽としては、かなりこてこてだが、バルトーク辺りの香も少しするし。

 追悼に・・・・ホワイトスネイクの「Walking in the Shadow of the Blues」を。
 あ、これもジョンのオルガンなかなかよいですよ。