由比敬介のブログ
夢の話
夢の話

夢の話

 今、夢の話を読んでいる。講談社のブルーバックスの一冊だ。(夢の科学ブルーバックス
 夢をなぜ見るのか、そしてどういう仕組みで見るのか、どういう意味があるのかといった問題を、脳科学の面から解りやすく説明している書籍で、なかなか面白い。風呂に入っている時だけに読むので、なかなか進まないが。
 
 そもそも夢が何かのお告げだったり、抑圧された何チャラの情動だったり、などと言ったことは元々ほとんど信じていなかったが、さりとて、フロイトを始めとする夢判断についても実はあまり馴染みがなかった。
 人間に肉体がある以上、それは科学的に分析できる形で説明が付く以上のことはないと信じている。科学万能主義ではないが、それは、科学が万能でないという姿勢ではなく、科学は万能だが、その万能の部分のすべてを人が手に入れることは、未来永劫ないだろうと思っている。
 よく、「この世には科学で解明できないことがある」という意味の文章があるが、これは間違っていて、「この世には現代科学で解明できないことがある」が正しい。これは大きな違いで、実際問題、この世には科学で解明できないものはない。なぜなら、物理的、化学的、生物学的といった様々な面から、ことを解明するのが科学だからだ。
 
 夢も同様で、100年前とは比べものにならないほど、脳内の仕組みが明らかになってきていても、夢の観察は電位の変化と、夢を見た人間の報告によるしかない。恐らくすべての人が同じだと思うが、夢の記憶というのは極めて曖昧で、目覚めた瞬間は覚えていても、あっという間に忘れてしまう。目覚めた瞬間だって、それほど細部まで明確に記憶しているかというと、記憶しているように感じることもある、という程度に過ぎない。そういった記憶を頼りに解明していかなければならないのだから、夢の研究者も大変だ。
 予知夢というのがあるが、多分、それは偶然という言葉で片づけられる以上の頻度では起こっていないだろう。そもそも超能力や幽霊や、超自然現象の多くが、「説明が付かない」のであって、証明されているわけではない。
 ある名前の人がいい運勢だと言って、同じ名前の人全員がいい運命だかどうかの統計を取った人などいない。物事は、ある程度普遍的にその事実があると証明されない限り、「どう説明するのだ」と言うことであっても、偶然の域を出ていない。
 夢も所詮そんなもので、「夢枕に立つ」というのは記憶に過ぎないというのがとても素直で普通の見方だ。
 まあ、人間の脳が神経伝達物質を介して、電気エネルギーを脳内で走り回らせているというのが心を生む元だというのは、非常に殺伐として、面白くない見解だが、魂があると言われるよりは解りやすい。いや、魂はあるだろう。心とか魂とか、いわば人間のアイデンティティを表徴する事や物があるのは確かだ。しかしそれは個々の人を離れて、死後も別個にあるというのは、およそ信じるに足る証拠がない。逆に、否定する証拠もあるようには思えないので、極めて不可知な分野だ。
 文学や芸術、といった人間の当為の上では、非常に重要で、わざわざ否定する意味は全くないが、それが現実の話になると、果たしてどうか?これは言ってみれば、葬式の意味と同じで、生きている人間が、自分と何らかの形で関わる人の記憶に意味を持たせるという行為に過ぎない。少なくとも、何らかの影響を現世の人間に及ぼしている事が証明できるまで、あまり意味がない。
 夢もそうだ、もちろん。
 だが、夢やそれらの様々な事象の不可知な部分が、意味がないかというとそうでもない。なぜならそれを信じている人がいて、それに影響されている人がいるなら、たとえそれが架空であっても、十分な意味を持つ。
 自分の愛する人が亡くなったあと、その人の夢を見ることが、自分に対するメッセージであるかどうかと言うことは、科学的な理由付けはともかく、その人がどう捉えるかという問題である。
 物事には何でも意味があるのではなく、物事から意味を汲み取る、それが人間を賢くし、生きていくすべを教え、より素晴らしい人生を造りあげていく一助になるのは、当然のことだ。
 占いが人生を変えることだってある。夢だってそうだ。
 いかに夢が解明されても、それが電気信号で再現できたり、映像化可能になったとしても、それが持つ意味を、人がどう捉えていくか、夢の真の意味はそこにある。但し、闇雲にそれらの意味を、与えられて丸飲みに信じるのは、あまりおすすめできないな。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です