由比敬介のブログ
店舗などでの携帯電話
店舗などでの携帯電話

店舗などでの携帯電話

携帯電話が日常的なアイテムとなり、人々のコミュニケーションの手段として定着して久しい。
この際、携帯の機能がどうのこうのということではなく、電話としての携帯は、非常に便利でもあるし、また、それまで家や事務所を出てしまえば、こちらから連絡しない限り、呼び出されることがなかった仕事などで、お構いなしに連絡が来たりする。これは、利用者には功罪どちらかと言えば、たぶん功の方が圧倒的に多いのだと思う。
さて、新幹線に限らず電車では、一応のマナーとして、「通話はご遠慮ください」ということになっている。優先席近くでは電源を切るというのもよくアナウンスがある。
寡聞ながら、優先席付近だからと言って電源を切っている人を見かけたことがないし、電源が入っていたということで、ペースメーカーなどに支障が実際にあったという話も聞いたことがない。あくまで聞いたことがないであって、無いと断定できる根拠はもちろんない。
さて、電車に限らず、喫茶やファーストフード、飲み屋、レストラン、コンサートホールと様々な公共の場で、携帯電話はどういうポジションにあるのだろうか?
例えばコンサートといっても、クラシックとロックでは大きく違う。ロックのコンサートでは呼び出し音など聞こえない。通話してても、通話している側の方がおそらくよく聞こえないに違いない。ただし、バラードや演歌など、以外に目立つ場面ではたぶん御法度だ。クラシックともなれば、ちょっとやそっとの大音量の曲でも目立つ。
先日もとあるコンサートで、携帯が鳴り始めた場面に出くわした。その人は、開演前にも携帯が鳴って会話していたので、その時点で切るか、せめてマナーモードにしておけば、どうということもなかったと思うが、近くだったので、意外に集中力を阻害された。しかも直ぐ切らない。何度も鳴る。そこそこひどかった。
ぼくの斜め前の人は、演奏中にメールか何かを見ていた。
後者は見えただけなので関係ないが、前者は、マナーとか言う以前の問題で、迷惑な話だ。めげずに素晴らしい演奏を続けた歌手に喝采を送りたい。
たかだか2時間程度のコンサートの間だけ、電源を切るくらいのことは、たいしたことではないはずで、それでも尚大変な何かがあるのであれば、コンサートなどでうつつを抜かしている場合ではないと思うのだが。
さて、コンサートは音楽を聴きに来ている場なので、携帯の呼び出し音や会話は、そもそもの目的にとって弊害となるわけだが、では、それ以外の、少なくとも音楽や芝居などを目的としていない場、例えば電車であったり、飲食店の場合はどうなのだろう?
社会通念上、そういった公共の場では、遠慮するというのが一般的な考え方ではあると思うが、人にはそれぞれ事情というものもあるし、例えば、大声で会話している他の人たちと、携帯の通話はそれほど変わらん、というか、場合によっては携帯の会話の方がよっぽど静かな場面もあるような気がする。
今日、近くにある店にランチを食べに行ったのだが、直ぐ隣の席に座った男性二人の内、一人に電話がかかってきた。彼は全く遠慮も、周囲に気を遣うこともなく、普通にビジネスの話を始め、5分くらい堂々と通話をしていた。気になったが、ではそれほど不快かというと、そうでもない。
その店は良く、なぜか7~8人のおばちゃん達がランチを食べているところに出くわすのだが、彼女たちの会話の方が圧倒的にうるさく、こちらは時折不快だ。そういう場合には、手持ちの音楽プレーヤーで音楽を聴くのだが、それを圧して会話が聞こえてくる。

以前、中央線の車内で実家の母から電話があった。小声で出て、後でかけ直すつもりだったが、震える声で、家に泥棒が入ったという電話だった。周りも気にせず、次の駅で降りるまで、普通に会話をした。こんな場合もあるので、やむを得ない事もあるとは思う。
だがそれでも、大きな声で仕事の話を延々しているおやじは意外に多い。そして、あたかもこういうことをするのは若者のような気がするのだが、実はそうではない。若いのは基本がメールだから、通話は稀である。大体うるさいのはビジネスマンだ。
彼らは、仕事だからいいと思っているのかもしれないが、おまえの仕事でこちらを煩わさないでくれ、と思うことが時々ある。外へ出て話せと思う。
不思議なもので、さっき書いたこととは相反するようだが、声というのはおそらくトーンと、それから周囲の騒音との相対的な具合で、うるさく感じる場合と、そうでない場合があるのだ。
高校生などが多いマックと、一人客が読書や勉強に没頭していることが比較的多いエクセルシオールや、その中間のドトールでは、自ずと影響が違う。
さて、ぼくはよくマナーや伝統を嫌いだと言って、反抗的な文章を書く。なぜ人前でみんなネクタイしてるのだとか、これらは真から変革されるべきだと思っているのでそう書く。
テーブルマナーほど下らないことはない。と思うが、最低限の何かがそこにあることは認めていないわけではない。だがおそらく、テーブルマナーとして学ばねば解らないようなことの80%は無意味だ。
そういうぼくが、例えば携帯電話のマナーということを書くのであれば、もっと自由にとか書きそうだが、そんなことはない。実は、会話というのは比較的受け入れやすい。前出のうるさいおばちゃんや、ちょっと安めで、ちょっとしゃれた居酒屋とかでのうるさい客の場合は別だ。マナーとかとは別に、彼らは彼らで盛り上がっているので、こちらが我慢しましょうという気になる。
だが、携帯の通話というのは案外目立ち、煩わしいこともある。
全然出るななどとは全く思わない。出ないできる必要など無い。出て、必要ならば外で話す、あるいは今は話ができないので後ほど、くらいの気遣いを、すべきシチュエーションは少なくない。これはマナーとか決まり事ではなく、時に応じて斟酌すべきことだと思うが、実は普段からそう思っていないと決してできない。
まあ、この程度はマナーってことなのか。
昨日、横浜駅周辺の喫煙の取り締まりについてニュースをやっていた。だいぶ減ったが、役所の見回りの人がいなくなると吸う人が後を絶たないと言っていた。たぶんそれでもむかしよりは圧倒的に減ったのだとは思う。
喫煙者の内、非常にそう言うことに気をつけている人たちも大勢いて、そういう人たちは世の中がどんどん禁煙化していくことに対して、もっと喫煙者の自主規制にと思っている人も少なくはない。だが、結局のところ、横浜駅の状況がそうであるように、そのことを悪いと思っていない、逆に、自分たちが虐げられているくらいに感じている人も、少なくはないのだ。そうである限り、JTがいくらマナーのCMをやろうと、状況がそれほど良くなる訳ではない。
喫煙ほど不愉快ではないが、携帯もいわばそう言うことで、最終的には、周囲との兼ね合いということが、人間生活においては常に問われることなのだと気づく。
自分にできることは、少なくとも自分が迷惑だと感じることをしないということしかない。

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