由比敬介のブログ
闘牛
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闘牛

 スペインで闘牛がいずれ無くなるのでは、というようなニュースを見た。
 バルセロナでは、3つあった闘牛場が一つに減り、1万人以上収容できる観客席も年平均3千人くらいしか入らないということらしい。尤も、スペインはバルセロナだけではないので、マドリッドなどではどうなのかとか、スペイン全体がどういう状況にあるのかまでは放送されていなかったと思う。
 闘牛廃絶を訴える政党もあるらしいし、世論調査でも、闘牛は野蛮だとか興味がないとか、その方向にあることは事実のようだ。
 闘牛については、おそらく世間一般の人以上の知識はない。闘牛と言えば、スペインや中米の赤い布を振る闘牛士が、牛を斃す行事くらいの認識しかない。
 闘牛について、最初に自分の意識が向いたのは、先頃亡くなったクラークの「幼年期の終わり」でだった。
 圧倒的な科学力を持つオーバーロードが、人類に「生きるため以外の他生物の殺害」を禁じ、それに従わない闘牛場の観客全員が強烈な痛みを味わい、それで闘牛が終焉を迎えるという行だ。
 映画「スパルタカス」「グラディエーター」や多くのローマを扱った映画では、貴族の前で死闘を演じる剣闘士(グラディエーター)の姿が描かれているが、人類史の中で、自分の意志とは関係なく、命をかけて他人の娯楽のために戦わされた人間は、きっとたくさんいるに違いない。
 人間がだめなら動物で、とい短絡的な発想だとは思いたくはないが、どちらかというと、それに賭け事の加わった形で、闘牛やその他の「闘動物」といった競技が始まったであろう事は想像に難くない。
 歴史や伝統というのは、物事に箔を付けるが、所詮は長期間続いたというだけのことに過ぎない。
 伝統だって、時代時代で意味も変わるし、存在意義が変化するのは当たり前だ。「伝統とは自堕落のことだ」というマーラーの言葉は大好きだが、闇雲に使うとまったく持って無責任な言葉になる。
 闘牛を自堕落とは言わないが、娯楽のラメの殺生というのは、おそらく時代に合わないに違いない。
 闘牛協会の人がインタビューで、「闘牛は日本の捕鯨と一緒で理解されない文化」みたいなことを言っていたが、逆に言えば、日本の捕鯨はそういう理解を、海外にされているのだ。捕鯨が単なる文化的行事なら、廃止は大賛成だが、捕鯨は食文化に根ざした日本人の生活を支える部分だし、それで生計を立ててきた人も多い。
 鯨を食わなくても他の肉があるというのは当然詭弁だし、鯨と牛や豚を区別しているものが何なのか、分かりづらい。それが知能だなどというのであれば、なおさら分かりづらい。
 前述の闘牛と捕鯨の比較は、所詮は最終的に食うという意味かもしれないが、だからといって、文化や歴史という名目で、殺害を楽しんでいい訳はない。闘牛士の精神がいかに高邁であろうと、やっていることは確かに野蛮だ。
 闘牛に意義があるとすれば、それはそういう歴史的な意味において、そういう時代もあったというように将来言われ、書物やネットに記載されるということくらいだろう。
 捕鯨だって、鯨を追うことそのものを観客に見せて金を取るのなら、同じ事になるかもしれないが、そこは違っている。
 実は日本にも闘牛はあるが、これは牛闘士を闘わせるものだ。
 闘犬や闘鶏など様々な競技があるが、現在では禁止されているところもあるようだ。詳細を調べたわけではないので分からないが、これらもあまりいいとは思えない。
 先日、水戸市の湖で黒鳥と白鳥が、中学生に撲殺される事件があったが、古かったり文化だったりというお題目をのぞけば、闘牛の底流を流れるのはこれと同じ事だ。
 さて、生き物を殺すのはよろしくないことだが、例外的に食べるためにそれをすることを否定はできない。
 精進料理というのがあるが、植物だって生き物には違いないので、肉を食わなければいいなどと言うのは、宗教的な意味をのぞけば、これも詭弁に近い。仏教やヒンズー教やイスラム教、それぞれの教義の中で、これはよくてこれはよくないというのは、ルールだからやむを得ない。「食べない」事は宗教だし文化だ。意味があると思う。
 それでも、それ以外のものは食べるわけで、食物連鎖は、人間が無機物から食料を合成してそれだけで生きていける時代が来るまでは、必要なことなのだ。
 だが、それではゴキブリや蚊はどうかというと、マラリアなどを媒介する場合は別にして、どちらかというと、「害虫」という意味で殺害する。
 要するに、人類の進化過程が一種のヒエラルキーとなっていて、人間を頂点とし、微生物を最下層として、下に行くほど、殺害が自由になると言うのが現代における生命の重要度の物差しなのだ。
 その基準をほ乳類に置くのか、昆虫に置くのか、大まかな常識がそこにはあると思われる。
 ただ、それでも尚、「猿は猿を殺さない」を標榜する「猿の惑星」ではないが、たとえ食べるためでも唯一殺してはいけないのが人間のはずなのだが、人間は人間を簡単に殺す。
 爆弾や戦車が戦場で人を殺すのは、あるいは闘牛と同じくらい軽い気持ちではないのか?少なくとも実際に戦場にはいない命令をする人間には、そんな意識しかないように、どうしても思えてしまう。
 闘牛をなくすことは、あるいは簡単なことかもしれない。同じくらい生命を尊重する考え方で、少なくともより重いと思える人間の命を救うために、戦争をなくすことが、どうしてそんなに難しいのだろうか?

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