2008年8月28日

アフガンの死

 アフガニスタンでNGOの伊藤さんという方が亡くなった。
 志高く、人に尽くされた方が亡くなるのは、知人でなくても、一入悲しいことだ。

 人類が生まれてこの方、おそらく、人が死ななかった日というのは無かったに違いない。常にどこかで誰かが死んでいる。生を受けたからには、死は逃れることのできない決まり事だ。人生が尊いのは、死があるからだともいえるし、人生は常に死への行進である。

 自殺をしなければならないほど苦しい生は、おそらくある。想像もできる。
 しかし、そうでないならば、人は生きたいと願う。人には寿命というものがあるから、寿命が近づけば、ある程度の覚悟も、諦めもつくだろう。
 だが、若い死はそうではない。

 若い頃のぼくを支配した言葉がある。
 One lives but once in the world.−人はこの世に一度しか生きない
 英語を勉強するために父が買ってくれた、世界の偉人の言葉を英語に訳した本の中にゲーテの言葉として掲載されていた。
 もちろん、だからこそ悔いの無いように生きるべきだ、ということが書いてあったような気もする。
 だがむしろぼくには、この唯一の生という不思議な環境の、何にも増して貴重である様だけがずっと頭にこびりついて離れなかった。

 歴史の中で、人を殺すことで多くのことが得られてきた。領土、金、幸福・・・それは、個人の殺人から、戦争に至るまで、大量の死が、何かを生んできたのは実は事実だ。だがそれは、殺害された命という代償としては引き替えようのない、まったくバランスのとれないギブアンドテイクだ。

 多くの戦争を重ね、それでも近代、二つの世界大戦を起こした先進国だが、未だにあちこちで戦争を起こしている。
 背景に宗教がある戦争も、飢餓や貧富の差、政治的対立、あらゆる理由の戦争が、すでに何度も行われ、その都度戦争が悲惨であることは語られてきたはずだ。
 人類が成熟すれば、戦争が無くなると思っていた人たちも多いに違いない。だが無くならない。
 ましてや、発展途上の多くの国は、文明社会がそれまで歩んできた道を改めて歩んでいるように、戦争が尽きず、テロという形で、地中深く潜行する。

 アフガニスタンやイラクのように、ついこの間、大国が爆弾の雨を降らすことで、形だけの政府を作り上げた国は、我々に比べると、殺人のハードルがきわめて低い。何故なら、生まれてこの方、身近に大量の死体を見続け、しかも戦後の日本のような復興を実現できていないからだ。

 しかもここ日本においてでさえ、ニュースで殺人事件の報道を見ない日はきわめて少ない。
 
 人が人を殺すという、日本で生きていれば、多くの人が、ほとんど関係なく思ってしまうことが、その日本でさえ、毎日のように起こっている。ましてや内乱や、空爆さえ続く国家で、起こらないはずもない。

 そんなところへ行って、地元の復興のために尽くすなどということが、できるだけでもすごい。
 だからこそひときわ悲しい。
 この世から、争いをなくすなどということはおそらく、無理だろう。
 だが、戦争を無くしたり、テロや内乱をなくすことは決して不可能ではないに違いない。

 でも、チベットなどのように、国家が国民を、国家のために殺害しているうちは無理だ。
 領土問題で戦車が町を破壊しているようでは無理だ。でもこれらが文明社会の姿だ。

 我々は20世紀から21世紀にかけて生きている。
 日本にも戦国時代はあったし、どの国だって、個人的な殺人から、国家による国民殺害まで、無かった国などおそらく無い。
 でも、もしかしたらその時代よりは、少しはましになっているのかもしれない。そう思いたい。

 意志の力の結集が、この世から、こういった無益な殺人を少しでも減らせるなら、力を尽くしたい。
 日本人だけでなく、どの国の人が亡くなっても、悲しみは同じだ。
 
 だが今日は、まず伊藤さんの冥福を祈ろう。

 
 

投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 無量大数 / 歴史 | 00:18 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月19日

トーナメント戦における銀メダル

 北京オリンピックももうあと僅かだか、昔から思っている不思議を一つ。

 例えばオリンピックでのA,B等がある柔道などのトーナメント戦で、双方の勝ち上がりが決勝を行い、勝った方が金メダルなのは解る。だが、仮にAグループの選手が金メダルを取ったとしよう。
 Aグループの準決勝で負けた選手(つまり金メダリストに準決勝で負けた選手)と、Bグループの準決勝で負けた選手(銀メダリストに負けた選手)が銅メダルを賭けて戦い、3位を決めるわけだが、もし、3位決定戦で、Bグループの選手が勝てば、この選手は、銀メダリストに負けているので、明らかに3位で問題はない。
 だが、Aグループの選手が勝った場合、この選手は金メダリストには敗れているが、銀メダルを取った選手が勝ったBグループの準決勝敗退選手に勝っているので、実際のところ、銀メダルの選手には負けていないことになる。
 つまり、このケースでは、3位決定戦の勝者と、決勝の敗者とが、もう一度銀メダルを賭けて戦う必要があると思うのだが。
 これは柔道に限らず、予選トーナメントが複数に分かれているレスリングや、あるいはサッカーなどでもそうではないのだろうか?
 
 こういう格闘技では、おそらく総当たりのリーグ戦なんて不可能だろうが、どうもグループ分けの時点で、結果論なのだが、どちらかが不利を背負っている結果になっているのが解せない。

 金以外は一緒と、女子柔道の選手が言っていたが、やっぱり銀と銅では違うだろう。
 あっちのグループで戦っていたら銀メダルが取れたかもしれない、というかすかな可能性は、検証してあげた方がいいように思う。敗者復活なんていう、体力を使いそうなルールがあるのだから、1試合増えても同じような気がするのだが。

 何か考え方の筋道というか、自分の理屈がおかしいのかな?ルールの勘違いがあるのかもしれないが、不思議だ。

 まあ、下らんことと言えばそれまでだが。

投稿者 keisuke : スポーツ | 02:32 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月17日

読書の悦び

 このところ読書量が減ったように思う。
 元々それほど大量に読書をする方ではないし、ジャンルも偏っている。
 そもそも、読書を始めたのはいつのことだろうと考えると、本格的に自分の意志でそれを行ったのは小学校六年生の頃だ。それまでは、読書は大嫌いだったし、夏休みの感想文程度しかあまり読まなかったのではないかとすら思う。少なくとも、何を読んだかの記憶がない。残っていないのだから読んでいないのと一緒だ。

 そんなぼくを読書に誘ったのは、このブログでも過去に書いたと思うが、友達から借りた偕成社の子供向けSFシリーズだ。ankokusei.jpg
 中学へ入ると、子供向けじゃないものが読みたくなって、初めて買ったのが、アシモフの「銀河帝国の興亡」第2巻だった。なぜ第2巻から買ったのかは、おそらく、第2巻から登場するミュールという超能力者のせいだ。
 当時ぼくは「バビル2世」が大好きだったから、それも影響していたと思う。
 さすがに、何が書いてあるかよく分からなかった。
 読書経験の少ない子供にとって、文庫本というのはとてつもなく難しく、内容はほとんど理解できていなかったと思う。その証拠に、銀河帝国の1巻と3巻は、高校生になるまで購入しなかった。

 ただ、慣れてくると面白いもので、いろいろと読もうとし出す。
 たぶん中学の後半から高校時代は、早川の文庫と大判のSFシリーズ、創元推理文庫のSFを中心に読み、「レ・ミゼラブル」「三銃士」のおかげで岩波のフランス文学を順番に読んだ。
 それでもどうしても読む気にならなかったのが日本文学だ。自分自身が読んだことがある、学校で教わるいわゆる日本文学は、簡単に上げられる。「高瀬舟」「生まれ出ずる悩み」「走れメロス」・・・他は思い出せない。夏目漱石は「坊っちゃん」を途中まで読んだ。「吾輩は猫である」は最初の1ページだけ読んだ。川端康成も、三島由紀夫も、最近はやりの小林多喜二も読んだことがない。
 ただし、芥川龍之介だけは別だ。
 余談だが、芥川賞と直木賞は日本の二大文学賞だが、ぼくの理解では「純文学の新人賞」が芥川賞で、「大衆文学」が直木賞だと思っていたのだが、直木賞もどうやら新人賞らしい。新人と言うより、何年も作家をやっているような人がよく取ってるように思えるのだが・・・
 そして、芥川龍之介の名前を冠した賞が、どうして「純文学」に限定されるのか、ぼくには解せないところだ。芥川龍之介の作品は、ぼくにとっては純然たるエンターテインメントで、いわゆる純文学という、取り敢えずそのキーワードが付けられているだけでまったく読む気にならないジャンルの作品とは、とうてい思えないのだが。
 こんなことは、単なる言いがかりに過ぎないと思うのだが、ぼくにとっての純文学というのは、内容はあっても面白くない小説という、偏見に充ち満ちたジャンルなので、どうもしっくり来ない。
 芥川だけはそこそこ読んだ。ただし、たくさん書いている人だから、実際に読んだのはごく一部に過ぎない。

 人が一生の間に読める本というのはどれくらいなのだろうか?と思う。

 研究者でもない限り、毎日読書に没頭するとしても、学校があったり、仕事があったり、つきあいもあるだろうし、テレビも見るだろう。となれば、自ずと読書に割ける時間というのは決まってくるわけで、1日1冊などというハイペースで読めるわけがない。
 高校時代、初めてローダンシリーズを読み始めた頃、2巻から読み始めて、当時発売されていた最新刊が20巻くらいだったので、そこまで読むのに1か月かからなかったが、自分的にはもうあり得ない。
 尤も、速読とは言わないまでも読書スピードが速い人は大勢いるので、ぼくのように遅読の人間に比べたら、遙かに大量の本を読めるはずだ。
 単純に年間300冊読むと、50年間で1万5千冊読める計算になるが、それでも、僅か1万5千冊だ。インターネットで調べると、年間で出版される本の数は7万冊あるという。もちろん、再版も漫画も写真集も含めてのことだと思うから、読み物としての本はその何分の一かになるのかもしれないが、それでも、人が毎日本を読んでも、おそらく1年間に発売される本を読み切ることすら難しいのではないだろうか。

 当然、「さおだけやはなぜ潰れないのか」とか、「サブプライム後の新資産運用―10年後に幸せになる新金融リテラシーの実践」「O型自分の説明書」と、「罪と罰」「蟹工船」「西の魔女が死んだ」は、別のジャンルで、それぞれの読者層も、違っている。「O型自分の説明書」は全部読まなくても読んだうちにはいるかもしれないが、「罪と罰」の200ページから300ページまでだけ読むなどという読み方は、基本的には無いだろう。

 今回ローダンシリーズが350巻を迎え、公会議サイクルが解決しないうちに、アフィリーサイクルが始まった。このサイクルというのは、ローダンシリーズは50話で一応一区切りになっていて、それぞれの50話で、概ね一つの話が完結するので、サイクルと呼ばれているのだが、今回の後書きに、これから読む人は、ここから読んでもいいと書いてあった。
 これは、最初から読むのはたぶん無理だろうから・・・というお話だからで、でも実は、今回始まったアフィリーというサイクルでは、ローダンとレジナルド・ブルという地球のナンバーワンとツーが大きく関わっているようなので、彼らが地球というか、太陽系のワンツーである最大の理由は、1巻から読まなくては分からないし、何より、地球が現在あるのが、なぜ銀河系内ではないのか、ということも、前のサイクルを読まなくては解らないと思う。
 しかも、このサイクル中に、おそらくは前のサイクルで未解決の部分に関わる話が出てくる可能性が大きいので、続き物は続き物として、最初から読む方がいい。

 さて、とにかく、ホメロスの昔から、文学作品はたくさんあって、多くが翻訳されているし、明治以降で、普通に読める日本人の作品もたくさんある。毎日毎日、最近の作家が新たな作品を生み続けている。
 アダム・スミスの「国富論」を今読んだって、意味がない人と、意味のある人がいる。

 読書は楽しい。

 だがその楽しさは、楽しい作品を読む楽しさであり、例えば、ぼくはローダンシリーズを350冊読んでいる。これだけでも、同じ時間を他の書物に費やした人とは読んでいる内容が違っているわけだ。その違いに、例えば夏目漱石や川端康成が含まれていたとしても、ぼくは、ローダンが読めて幸せだったと感じるのだ。
 食べ物の好き嫌いと同様に、あるいは音楽の好き嫌いと同様に、書物も基本は嗜好でしかない。本は嗜好品なのだ。

 シェークスピアを研究している人はシェークスピアが好きだからやっているので、好きでない人にとってはどうでもいいことなのだ。ぼくはシェークスピアが嫌いではない。特に「リア王」「オセロ」は好きだが、やはり読んでない作品もたくさんある。
 SFだって、早川文庫や創元文庫を読破したわけではない。嫌いな作家もいる。・・・尤も、嫌いといえるのは、1回以上読んでいるからで、読まない作家には好きも嫌いもない。

 子供のうち、あれを読めこれを読めと言われるのは,決して悪いことではないと思う。ただし、投げ出した本を無理矢理読ませることはない。本には面白いものとつまらないものがあり、その基準は読者が持っている。それが子供でも大人でも同じなだけだ。
 三島由紀夫や太宰治を読まなくても、人生にさしたる違いはない。・・・いや、場合によってはあるかもしれないが、それが本人の選択によるのであれば、それでよしなのだ。

 読書の悦びというのが、人類すべてに共通しているのかどうかは解らないが、多くに共通していることだけは否めない。楽しい本を読むことは幸せなのだ。それが、人生の有り様を読者に考えさせる本でも、銀河系を遙かに超えたところで迷子になっている地球の上で、巨大なアリと交渉している話でも、どちらも価値は一緒だ。

 睦月影郎という作家がいる。官能小説家、という人だ。ぼくはエロ作家と呼んだ方がふさわしいと思うが(いい意味で)、かつて、普通の本屋にはあまり売っていなかった彼の作品が、最近は平積みされているのをよく見かける。怪しい本屋で、ビニールのかかった写真集の脇に売っていたはずの本が、一般の書店にある。多くが時代劇の装幀をしているが、内容は昔とそれほど変わっているようには思えない(立ち読みした限り)。彼の本だって、人によっては谷崎潤一郎などより、よっぽど価値があるのだ。本ていうのは、そういうものだ。

 あ、ぼくは睦月影郎はすごい作家だと思っている。しばらく買ってもいないし読んでもいないが、作品数は半端じゃないと思う。一度読んでみることは、必ずしもおすすめしないが、ぼく的には好きな作家の一人ではある。・・・内田康夫と同じくらいに。・・・・昔の内田康夫は面白かったのになあ。

投稿者 keisuke : SF / 文学・日本語 | 01:12 | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月10日

北京オリンピック

 北京オリンピックが開幕した。

 開幕まで、様々なことがあり、なぜか競技の第1日目から市内で殺人事件が起こったりもしている。
 聖火の採火式からこの方、チベット問題で揺れた。あの騒動はどこへ行ってしまったのだろう。ダライラマと中国政府が話し合って、簡単に解決する問題でもないだろうし。同様な問題がウイグルにもある。
 尤も、毎日どこかで暴動が起きているなどというお国柄を、隣の国であっても、オリンピックがなかったら、今でも知らなかったかもしれない。
 とはいえ、オリンピックはスポーツの祭典であることは間違いないわけで、これまでも多くのオリンピックが政治的に利用されたり、果ては中止になったことがあったとしても、やはりスポーツの祭典なのだ。
 オリンピックで戦う選手たちには、基本的に政治問題はあずかり知らぬことだ。ただ、オリンピックを利用して、チベットの人権問題等に、世界の注視を呼び込もうとする企てが、必ずしも間違っているとは言い難い。何故なら、聖火リレーの妨害だからこそ、より多くのマスコミも集まるのであり、そのことで初めてチベットやウイグルなど、中国が抱える人権問題を知った人も多いに違いないからだ。
 ただし、目的が手段を正当化するわけではないので、行為として正しいかどうかはまた別の話だ。必ずしも正しくはないが、意味のある行動ではあるわけだ。

 ところがいざ開幕式を迎えてしまうと、それらのことから人の興味は遠のいてしまう。
 
 イスラムのテロ組織から爆破予告があったり、未来から来た人間が北京オリンピックは行われなかったと証言していたり、結果的にやはり北京の大気は汚れていたり、開会式会場で観覧している人よりも、警備の人数が多かったり、応援は横断幕や同じ服装がだめだったり、何とも異例だったりエキセントリックだったりするオリンピックで、競技以外の興味も、大きな祭典だ。

 と言っている間に、谷亮子が銅メダルに終わった。
 日本人であれば、あの3度目の指導が谷だけに与えられたことに不満や不審を持つ人が多いのは間違いないだろう。ただ、「誤審」ではないし、明らかに両者とも互いに攻めあぐねていたので「やむを得ない」ということか、それに文句を言う人は比較的少ない。
 国内の選考大会で敗北を喫しながら、代表に選ばれ、尚かつ金メダルを取って当たり前という期待と責任を負わされた谷という選手にとっては、攻めないことが負けに等しいのだという、見る側にもより厳しい目があるのかもしれない。
 実際に、代表選考大会で勝利した選手を生かせなかったことに言及しているブログなども多い。
 こういうことはタラレバだし、そもそもこれまでの5大会でメダルを取り続け、世界大会でも勝ち続けてきた選手の功績という物は、やはり大きいのだ。

 だがそれとは別に、オリンピックの柔道は面白くない。負けないことが勝ちになる試合というのは、格闘技などには向かない。ましてや審判という人間がその勝利を判定する競技は、その競技が本来持っている魅力が十全に出されるためには、その競技が本来どういう競技であるのかを根本に据えたルール作りをしてくれないと、面白さは半減する。
 逃げても逃げても、有効、技あり、一本という攻めから相手を打ち負かすこと以外で勝利を決めるというのは、面白くないし、選手自体、フラストレーションではないのだろうか。
 記録を競う競技は、基本的に、人より早く、人より遠く、ということ以外に勝ちはない。柔道で言えば、投げにしても寝技にしても、相手を負かすというベクトル以外で、勝利を決めないようにすれば、どれだけ面白くなるだろう。時間短縮など言わずに、決まるまで戦わせればいいのだ。
 水泳のように、複数日に渡って競技を行い、1階級1試合を1日でこなしていけばいいのだ。
 時間切れ判定なんて面白くない。
 尤も、自分が戦わないからこんなことを言っていられるので、テレビで観戦している無責任な意見であることは承知の上である。

 今回のオリンピックは日本の金メダルはアテネと比べても減りそうな雰囲気だが、こればかりは終わってみないと解らない。
 参加することに意義があるといったのはいったい誰だろう?
 もちろん、参加するためには相当な苦労があるはずで、参加できるだけでも相当な意義があるのは当たり前のことだ。ぼくなど、オリンピックどころか、校内の運動会でさえ、上位になった記憶はない。
 こういうことは、「努力すれば」どうにかなったり、「願えば」叶うわけではない。
 もちろん努力も必要だし、人間にとって、「願う」ということがなければ向上心も生まれてこないだろうから、必要ではあろうが、「努力」や「願う」力もまた、個人差があるのだ。

 中国という国は広大だ。その強大な国が共産党という一党で治められている。
 今回の開会式などを見ていると、逆に、だからこそできたのではないかという統一感や集中力みたいなものを感じる。
 中国という強大な国が、率先して、軍縮や環境に配慮する国になってくれると、地球の未来も少しは明るい気がする。・・・アメリカにはあまり期待できないからな。
 
 
 

投稿者 keisuke : スポーツ / 社会的 | 02:17 | コメント (0) | トラックバック (0)