2007年12月31日
ポータブル・オーディオ2
iAudioのM3とうポータブル・オーディオ・プレイヤーを購入して、1年半が経つ。
非常にお役立ちで、枕元で一晩何か流れているし、外出の時は必須だ。
しかし、数ヶ月前から電池の持ちが非常に悪くなっている。カタログ値では、1階の充電で14時間くらいだと思ったが、今では2時間がいいところだ。ちょっと操作をすると1時間ちょっとで突然止まる。
かつてのウォークマンやMDプレイヤーなどは、概ね電池が使えたので、電池切れでも電池を交換すれば良かったが、最近のものはほとんどが充電式なので、切れてしまったら、充電するしかない。
とはいえ、外出先で充電できるかと言えば、最新式の新幹線や一部のファーストフードなど、PCなどのためにコンセントが用意されているケースは稀だ。
iPodなど、電池式の充電器がサードパーティから発売されていれば、多少はいいと思うが、USBへの電池式旧電気で汎用的なものは、調べても一つしか出てこないし、とても大きくて、携帯には適さない。
そうやって調べていたら、iriverから出ているT60というタイプが、電池式だということが分かった。単41本で19時間動く。これはT10、T50などの後継機で、1G、2G、4Gの3タイプがある。
そもそもiAudioを購入した最大の理由は、ハードディスクタイプで、20GBという容量だった。できるだけたくさん携帯したいという気持ちから、とはいえ、60GBくらいのものは高価なので、最初に購入する機種としては値頃感もあり、しかも本体をバッグの中などに入れて、小さなリモコンで操作できるというのも魅力だった。
実際には、起動が遅い、操作性がいまいち、早送りや巻き戻しがとても遅い、マイナーなので、オプション品もほとんど無いし、他のメーカーからそれにるいするものも発売されないなど、ディメリットもたくさんあった。録音がモノラルで、しかも本体内蔵マイクなので、時折ハードディスクの回転音ノイズが入るし、FM機能はあってなきがもので、不満はたくさんあった。
但し、メリットに比べれば、改善余地という程度のものだ。でも、動作時間が短くなるというのは致命的なので、買い換えを考えて調べたのだ。
先に述べたT-60は、最大でも4GBで、容量的には5分の1になる。メモリタイプなので、当然軽くなるから、本体で操作するのは問題ないし、電池式なので、常にエネループのような充電式電池を補助で持っていれば、電池切れの心配はない。
とはいえ、録音は所詮モノラルだし、操作性などは試すことも叶わない。・・・これは店頭へ行けば多少できるかな。
SDカード方式などは、昔のカセットやMDと同じで、メディアを入れ替えることで、実質容量は無限になるわけだが、そのタイプには電池式が見あたらないし、そもそも大きなサイズのメモリカードは高い。
ということでまだ購入には至っていないのだが、これらの機械は、ポータブルのハードディスクとしても使えるので、データ・ストレージとしても役に立つので、本当は100GBくらいで、長時間駆動、電池パックでも動き、リモコン付きというのが望ましい。無駄な動画再生などの画面は入らないので安価なものがでないかな、と思う。
外出先で、どれほどビデオやテレビを観るのだろうか?音楽は流しっぱなしでも動けるが、映像は流しながら歩くなどできないから、液晶画面などいらないのだが。
今年最後がこれか・・・
投稿者 keisuke : 音楽 / 日常的 | 17:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月30日
ヴァージン・ウォーズ
これはDVDについてで、完全ネタバレなので、万が一これから見ようかなどと考えている方は、お気をつけを。

標題のようなDVDを観た。レンタルで。・・・レンタルで良かった。
現代は「MISTRESS OF SOULS」・・・このMistressが誰を指すのかにもよるが、魂の女王様とでも訳すべきなのか、いずれにしてもVirgin Warsというタイトルのような戦争物ではない。
一般的にはやはり、ひどい映画と言うことになると思うが、ひどいにしてもすごい。あまりこの手の映画を観ないので、たまたま観たこれが特殊なのか、一般的なのか判らないうちのカルチャーショックだったのだ。
一応あらすじ
石油戦争から7年後。世界は無政府状態に陥り、犯罪が横行していた。アルテミーシャは、戦争中に研究者である父を軍に殺され、その後、奴隷となった。しかし彼女は切り札を隠し持っていた。それは、彼女の父が残した一冊の本であった。その本には、石油の代わりにエネルギーとなる水素を水から抽出する製法が記されていた。戦後、石油危機となった世界で、その価値は計り知れないものであった。だが、囚われの身である彼女は、昼は労働に従事させられ、そして夜は女看守たちの性の相手をさせられ本の隠し場所を追及されていた。自らの気持ちとは裏腹に、体験した事のないとめどない快楽に溺れながらも、彼女は自由を求め脱出の機会を窺っていた。そして彼女はついに牢屋の鍵を手に入れる。果たして、その先に待つ運命とは・・・。
アルバトロス・フィルム
水から水素を取り出すという、小学校の電気分解の実験のような大発見がまずすごいが、この作品を出しているアルバトロス・フィルムのホームページを見れば解るとおり、この作品は「エッチな」作品だ。AVではないし、R指定でもないが、全編9割以上が女性の裸で満載だ。
確かにあまりやらしくはないが、一応女性同士の絡みもあるので、一般的に言えば、どこかのR指定が正しいのではないかと思う。
尤も、今日書きたいのはそんな裸が云々とか、そんなことではなく、ストーリーのことだ。
上記のあらすじを読めば解るが、当然、主人公は苦境にあり、牢屋の鍵を手に入れた。父親を殺した側のトップはこれも女性なのだが、このアルテミーシャという主人公ばかりでなく、多くの女性を奴隷にしている。女性に革の拘束具を付け、馬の変わりに車を引かせたりもしている。まあ、いわゆる悪い奴なのだ。
この悪い親分が、アルテミーシャから本の情報を聞き出そうと、スパイを使う。このスパイの女性は、姉を捕らえられていて、姉を助けて二人を自由にする代わりに、スパイをしろということだ。このスパイは本の在処を聞き出すことはできなかったものの、合い鍵の一件はしっかり伝える。
だが、しっかりスパイをした割には、姉と共に、新しい馬車馬にさせられてしまうのだ。ああ、かわいそう。
そしてこの悪の親分は、しっかりアルテミーシャの合い鍵も確認しながら「バカな女」といって、そのまま合い鍵を元の場所に置いておく。
合い鍵の件を知られてしまったアルテミーシャだが、脱出を試みる。
さてここからが、言わば、悪者とアルテミーシャの駆け引きになるはずだ。いかにしてアルテミーシャはそこから抜け出し、悪と対決するのか、・・・・と思っているうちに、アルテミーシャは、本を地面から掘り起こした瞬間に、悪者の側の兵士に捕らえられてしまう。「バカな女」先ほどの親分の言葉だけが画面に流れる。
そしてエンドロール!
おい、ここで終わりか!
天網恢々疎にして漏らさず・・・漏らしっぱなしかよ!
結局悪者が勝ったのだった、ちゃんちゃん。
彼女は抵抗らしい抵抗をしていない。逃げようとして失敗した。それだけの話だ。
この脚本で、たとえそれがエロビデオでも、作ろうとした監督は偉い。
ある意味これはどんでん返しだ。
何だか解らないが、つい他のアルバトロス作品も観たくなる。
怖いもの見たさだ。
いやあ、すごい。絶句。
投稿者 keisuke : 映画 | 01:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年12月16日
銃
このところ銃の事件が続けて起きている。
猟銃やらクレー射撃の銃やら、身近に銃を所有している人というのはどれほどいるのだろうか?
先日の佐世保の事件では、8人が被害に遭っている。
そもそも人なり獣なりを殺傷する目的しか本来はない銃が、一般の人間の手元にあるということ自体、どんな意味があるのだろうか?
アメリカでは、西部の開拓時代を通じて、銃社会が定着してしまっている。結果的に銃犯罪は非常に多いし、コロンバインに戻るまでもなく、ここしばらくでも多くの死傷事件が起きている。アメリカは身を守るための銃という意識が高いらしい。
しかし、そもそも銃がないと身を守れない社会は社会的に成熟していると言えるだろうか?銃が無くても危険のない社会を目指すという発想は、そこにないのだろうか?
もちろん無いわけはないし、そういう運動をしている人も大勢いることだろう。
テッド・ニュージェントは僕の好きなハードロックギタリストの一人だが、彼は無類の狩猟好きらしい。ワイルドなヤンキーなのだ。テッドの音楽を聴くと、時折そのことに想いが至る。尤も、できあがった音楽と、彼の思想や行動は、直接的に、少なくとも聴く側にとっては関係がないので、それで聴くのをやめようとは思わないが、それはそれで、そういった彼の部分はあまり好みではない。
さて、佐世保の事件では、銃の所持に関して、警察は適正の処置であったことを記者会見で述べていたが、銃の所持者がこのような犯罪を犯した時点で、その処理は不適切であったことの証左であり、そうでないとすれば、その決まりに不備があるということだ。
趣味としての銃による狩りなどというのは、まことに持ってくだらないと思うし、無くなってしかるべきだと思う。
クラークの「幼年期の終わり」の中に、人類が生きるための目的以外で、他の生物を殺傷することを、オーバーロード(宇宙人)が禁じ、闘牛場の観客全員が、非常に激しい痛みに襲われ、闘牛がこの世からなくなるという行があるが、これは闘牛一個のことではなく、人が、文化だとか伝統だとか趣味だとか言う理由で、動物を殺傷することは、あまり胸を張って言えるような優れた風習ではない。
当然人間は、生物を食って生きている。仏教の僧侶が、生臭といって四本足の動物を食わなかったり、精進料理などと言うが、では、植物は生きていないのかと言えば、そんなことはなく、進化のどのレベルにあろうと、人間は今のところ、他の生物の死無くしては、生存していけないのだ。
それは「食べる」という行為だけではない。「駆除」もまた、生存ためにやむを得ない。それが、田畑を荒らす狸や狐や鹿であっても、駆除すべきは駆除する必要があるのだ。
だが、個人の趣味などによって「狩る」のは、彼らのエゴ以上の行為ではない。趣味のレベルとしては程度が低いと思わざるを得ない。
古代の人間は狩猟で生計を立てていたかも知れないが、彼らのは生計を立てるのが目的ではないからだ。
クレー射撃というのがある。
確かに安全に配慮した射撃場での射撃は、例えばSecondlifeでの戦闘地域のように、ゲーム性やスポーツ性がある。銃というものがそもそもある以上、それが適切な場所で、安全に使われるのであれば、それはそれでいいと思う。
尤も、戦争の場が適切であるかと言えば、はなはだ疑問だが。
少なくとも、日本という社会で、職業として狩猟を営むか、山奥などで生活し、熊などの危険を感じながら生きているのではない限り、家庭に銃を所持するというのは、「許可制」などという生ぬるいものではなく、禁止した方がいい。
こういうことは、なかなか国会でも実現は難しい。それは飲酒運転のより厳しい罰の制定などと同様に、議員の中にも銃を趣味にしていたり、飲酒運転の可能性を自身感じていたりする人がいるからではないかと、うがった見方をしたくなる。
銃を「自分は適切にしようしているから大丈夫」と思っている人は、「私は酒を飲んでも酔っていないから大丈夫」といっているドライバーと、全く同質のものを感じる。
銃刀法というが、刃物は少なくとも料理やその他様々な日常生活で必要な場があるが、銃には無かろう。同じテーブルで考えるのは、そもそも間違っている。ただ、この場合の刃物はある程度、「刀」に限られるのかも知れないが。
以下次回
投稿者 keisuke : 社会的 / 日常的 | 01:40 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月 7日
参議院議員の新宿舎
このところ、参議院議員の新たな議員宿舎がニュースなどで問題になっている。
しばらく前に、赤阪の衆議院宿舎が問題になったばかりなのに、またぞろこんな問題という感じだ。
ニュースなどで言われているように、赤阪の議員宿舎が開いているんだったら、そこに入れば、基本的には済む問題だ。慌てて、別の衆議院宿舎から議員を移そうなどと言う姑息なことをしようとするから、政治家は信じるに足りないと思われるのだ。
今度ばかりは石原都知事や猪瀬副知事に方向性は賛成だ。
だが、そもそも、赤阪宿舎の折りに言われていた、安価すぎる家賃などが解決されなければ、議員宿舎そのものに反対だ。議員も官僚も、国家が建てた宿舎を利用するなら、相場の料金を払えということだ。
そうなれば、敢えて宿舎を建てずとも、民間の物件を借りてもいいことになる。
高くて借りられないのなら、東京に借りる必要はない。近県に借りて、電車で通勤すればよい。
地球温暖化がこれだけ声高に叫ばれ、二酸化炭素などの排出ガスを減らすことが世界中の目標になっているとき、たとえわずかでも、その二酸化炭素を酸素に帰る森を切り開いて自分たちの宿舎を作ろうという議員に「良識の府」などと誇りを持って語る資格はない。バカばかりだ。
バカばかりというのは、少なくとも、大声を出してこのことに反対しているのがあくまで都側で、内側からの意見としては非常に声が小さいからだ。確かに何人かは衆議院宿舎に入ればいいなどと言っている人たちもいるようだが、もっとしっかり反対して欲しい。
こういうことは、しっかりと反対意見を言うだけの価値がある。
国の借金がいくらあるというのだ。借金があるのなら、そこで働く人間が、まず質素に生きろよと言いたい。
何かの番組で、世耕弘成がこの件について、今更やめれば違約金が6億もかかり、それでは無駄な税金を使うことになるなどと言っていた。違約金は決めた人間の給料から払えよ。
何だかこの件は異様に腹立たしい。どんなに選挙があっても、所詮こいつらの多くは再び政治の世界に立つ。
限りなく政治家は儲からない、ボランティアのような職業にして、それでも国のためにがんばりたい人間にやって欲しい。・・・まあ、僕には無理だが。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:05 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月 4日
帰属意識ということ
星野Japanが台湾に勝ってオリンピックを決めた。
6回に逆転されたときにはどうなることかと思ったが、やはり野球に関しては日本は強いのだな。アジアでは。
こういうことは、一日の長みたいなことがあるようだ。日本よりはアメリカの方が上らしいし。
ところで、試合を見ているとなぜか自分自身が日本を応援していることが解る。
国際試合の場合、やはり多くは日本人を、たとえほとんど知らなくても応援する。
民族自決というのは、民族毎の世界観だと思うが、日本民族というのは、どちらかというと日本という島国と日本語という言語で結ばれているに過ぎないように思える。
というより、そもそも民族って何だ?
広辞苑にはこうある
(nation) 文化の伝統を共有することによって歴史的に形成され、同属意識をもつ人々の集団。文化の中でも特に言語を共有することが重要視され、また宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い。社会生活の基本的な構成単位であるが、一定の地域内に住むとは限らず、複数の民族が共存する社会も多い。また、人種・国民の範囲とも必ずしも一致しない。
なんだかんだと言っても、結局は大きなグループに過ぎない。
自分がどこのグループに属するかによって、そこを応援する、その感覚というのは、どれほど普遍的なのだろうか?
実は戦争もその延長のはずだから、この何かへの帰属意識というのは面白い。
日本国内であれば、県毎に競い、学校単位で競い、町内会で競い、個人に帰着する。
恐らくいずれかのレベルで、これらの帰属意識が、人によって無くなることもあるのだろうが、全て無くなることはあるまい。
オリンピック予選で、自分が韓国人だったら、と考えてみた。韓国戦のあった日曜日は、女子ゴルフの日韓戦もあった。これも日本が勝っていた。自身が韓国に住む韓国人であれば、悔しかったに違いない。
尤も、そこには自ずとレベルがあり、ぼくの場合、「ちょっと悔しい」というレベルだが。
それでも、スポーツなどにおけるこういう帰属意識は、あってもそれほど外にはなりそうもないが、民族って、そんなに団結すべきなのだろうかと思う。まとまるには大きすぎるし、目的も多様に過ぎる。
貴族ということが問題になるのは、アイデンティティという言葉が通用する範囲であるべきではないか。民族のアイデンティティなんて、どうも眉唾な感じがする。あたかも血液型占いのようだ。
血液型占いは、よく、人間が4つ程度に分類できるか、という批判があるが、男と女という二元分類があるのだから、4分類できても問題はない。だがそこには自ずと、より細かい分類にはない曖昧さが残る。
そう考えて楽しめばいいことだ。民族や国家も、所詮はどこか、そのレベルのグルーピングに過ぎないのではないかと思う。
文化や言語の差異はあっても、何かそれで運命が決められるような、それほどのもののはずはないと思うのだが。
投稿者 keisuke : 社会的 / 人生 / 政治・経済・行政 / 歴史 | 01:50 | コメント (1) | トラックバック (0)
2007年12月 2日
徳川家康
NHKの大河ドラマのお話だ。
先日来、TSUTAYA DISCASで、「徳川家康」を順次借りて観ている。
山岡荘八の原作で、横山光輝もマンガにしている、非常に長い小説のドラマ化だ。大河の21作目で1983年の作品だ。
ぼくはリアルタイムで観ていない。再放送など基本的にないから、今回が初めてになる。
徳川家康を滝田栄、信長に役所広司、秀吉に武田鉄矢、今川義元は、今は亡き成田三樹夫が演じている。「編み笠十兵衛」の船津弥九郎以来、成田三樹夫は好きな俳優だ。
巷間の家康像とは違って、大柄でりりしい家康だと思うが、まだ10回を見終わったところだが、なかなかいい。
20年も前の作品だが、あまり亡くなっている俳優さんが少ない。すごいことだ。
まだお話は、桶狭間を経て、信長が美濃を攻略する前の段階なので、ようやく家康が少年を脱して滝田栄に変わったばかりと言ってもいい。
この話は家康の父、松平広忠の代から始まるからだが、広忠は近藤正臣が演じている。柔道一直線の結城慎吾、ピアノで猫踏んじゃったを足の指で弾く男だ。
そしてその正妻、於大の方は大竹しのぶなのだが、この演技が泣ける。これまであまり大竹しのぶという女優をちゃんと見たことがなかったのだが、とても引き込まれる演技だ。こんなにすごい女優さんだったとは知らなかった。これを見れただけでも、ちょっと幸せだ。
原作は秀吉の九州征伐の前で挫折した。横山光輝のマンガは何回か読んでいるので、どういう描き方を山岡荘八がしているかは解るが、原作をもう一度最初から読み直す気力はちょっと無い。
普通家康は「狸おやじ」などと評され、あまりいい描き方はされない。小ずるく、信長、秀吉の後を受けて天下を我がものにした狡猾なじいさんとして描かれることの方が恐らく圧倒的に多い。
しかし山岡版の家康は第10回に出てきた「厭離穢土、欣求浄土」を生涯貫き通した高潔な男だ。「人の一生は重荷を負ふて遠き道をゆくがごとし」で有名だが、ぼくは個人的に、家康の実像はこちらが近いと思っている。
性善説というわけではないが、200年近く続いた戦国の世をまとめ、世界に類のない260年という太平の世の基を築いた男が、それほど狡猾で悪い本姓を備えているようには思えない。
確かに天下に覇を唱えるということのために、人も多く殺しているに違いないし、多少なりとも狡猾な駆け引きなども当然しているかも知れないが、マンガや小説に出てくる世界征服を狙う総統のような意識で、戦国を終焉に向かわせ、尚かつ平和な世を維持する基礎をつくるなどということは、簡単にできることではない。
僕は、日本の武士道精神みたいなものをそれほどありがたがっている方ではない。・・・それほど知らないという方が正しいが。武士道とは死ぬことと見つけたりみたいな言葉は、好きではない。
殺し合いが平然と(少なくとも現在より)、しかもそこに大儀をぶら下げて行われていた時代が、いいはずはないので、なぜかと言えば、もしその時代に自分が生きていたら、その刃から逃げることに躍起になっていたに違いないと思えるからだが、とにもかくにも、せめてそこに秩序をもたらした家康という男は、たいした者だと思うわけだ。
個人的には秀吉の方が好きなのだが(面白いから)、信長や秀吉とは全く違った角度で天下統一を考えていたと思えるのだ。
話の内容は知っているのだが、これからも十分楽しみだ。あと40回。まだ先は長いな。
投稿者 keisuke : 歴史 | 00:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
