2007年3月31日
いきものがかり
ぼくは音楽に関しては雑食なのだが、最近のポピュラー音楽は、あまり聴かなくなっている。昔のようにCountDownTVなどを見て情報を仕入れることもしなくなった。
クラシックを今でもよく聴ける一つの理由は、新曲が少ないことかも知れないという気にさえなる。新しいCDやDVDが発売になったところで、その多くは既存の音楽を別の誰かが演奏したものだ。曲自体はなじみがある。
今パソコンからはSantanaが流れている「Open Invitation」という曲だ。別に選んだわけではなく、毎度おなじみのランダム再生故の選曲だ。それでもSantanaの音楽は、耳になじんでいるし、これも10年以上前の録音だ。
一つの音楽を1回しか聴かないとすれば、相当数の音楽に触れることは可能だが、そんなことはあり得ない。結局気に入った音楽は繰り返し聞くし、どんなに流行っていようと、どんなに優れていようと、聴きたくない音楽というのはある。
星をめざして/NEWS
蕾(つぼみ)/コブクロ
Flavor Of Life/宇多田ヒカル
千の風になって/秋川雅史
Climax Jump/AAA DEN−O form
BUT/愛証/倖田來未
WINDING ROAD/絢香×コブクロ
CHE.R.RY/YUI
Love so sweet/嵐
LU LU LU/GAM
上記はオリコンの今週のチャートからコピってきたベストテンだが、さすがに全く知らないということはないが、曲として認識できるのは2〜3曲だ。秋川雅史の曲なんて、こんなところにはいるのは信じられない。紅白恐るべしという感じだが。
相変わらず、クラシックとハードロックの比重が高い、進歩のない音楽生活をしているのだが、ちょっと前、何かのCMでSAKURAという歌を聴いた。テレビ画面の下に「いきものがかり」と書いてあった。
これが「生き物係」から来ていることなど知らなかったが、何度かネットで調べようと、テレビでその都度名前を覚えながら、その都度、しばらく忘れていた。・・・・すぐ調べれば問題ないのだが。
そんなことでようやく調べて、SAKURA1曲をダウンロードしたのだが、なぜかこの曲が泣ける。
歌詞自体は今更ぼくなどが感動するような、ノスタルジックではあっても、青春とは縁のない年齢なので、それほど感じることはない。だがなぜか、恥ずかしい話だが、このメロディを聴いていると、じわっと涙が出てくるのだ。
これまであまりこういう経験はない。
ロックのギターで「泣き」なんていうことをよく言ったが、そんなものに入り込んだり、アグネスチャンの「白い靴下は似合わない」で高校時代に切ない思いをしたり、クラシックのいろいろなメロディで感動したりという経験はあるが、ポップス聴いて、涙するなんて・・・・年のせいか?何て思ってしまったりするほどだ。
尤も、ヴォーカルがこの子でなかったら、どうかな?とも思う。
オフィシャルページを見ると吉岡聖恵という子らしい。
ミーシャあたりからだろうか、非常に歌唱力を売りにできる歌手が増えたように思う。だが、歌唱力というのは、魅力的な声があって始めて有用なものだと、今回の音楽を聴いて思った。
テクニックは、努力で身につけることのできる人が多くいるはずだ。もちろんそれだって素晴らしいことだ。しかし天性の、努力では身につけることができないのが声だ。
楽器は、チューニングさえしっかりすれば、同じ音を出すことができる(に違いない・・・いや、もちろん洗練された演奏は、その音色もユニークだ)。しかし声は、技術ではない(なんて断言すると、誤解を受けそうだが)。
魅力的な声は、生まれ持ったものだ。同じ歌を、魅力的な声で少し下手なのと、平凡な声で抜群のテクニックで聴く場合、前者の方がいいように思える。もちろん、個人差もあるし、そもそも「魅力的」というのは、普遍化できない。
だから敢えてどの歌手が魅力的で、どの歌手が凡庸かなどというのは、まったくもって聞く側の身勝手な思いこみかも知れない。
ナタリー・デセイというソプラノがいる。素晴らしい高音と、のびのある美しい声を持った天才的なソプラノだ(個々でマリア・カラスを出すのは、何か違う気がするので)。コロラトゥーラだが、高い声ばかりで勝負するわけではない。いずれにしても当代随一のソプラノのひとりだ。
ぼくは、マスネのほとんど上演されることのない「サンドリヨン(シンデレラ)」というオペラが好きなのだが、これは唯一でているCD(かつてはレコードだったが)で歌っている、フレデリカ・フォン・シュターデという歌手の魅力に依るところが大きい。
たぶんソプラノの実力としては(世代は違うが)デセイには及びも付かない。
しかしシュターデの、細いが透明感のある声は、僕には魅力的なのだ。
シュターデは基本メゾ・ソプラノだと思うのだが、このサンドリヨンではソプラノとして歌っている。
まあ、そんなわけで、「魅力的」の内訳はとても個人に負っているのだが、このいきものがかりの吉岡聖恵さんは、久々に日本人のポップス歌手で声に惚れた。
最近人気のある伊藤由奈とかYUIとかもきれいないい声をしていると思うのだが、それとはちょっと違う、いい周波数に入ってますという声をしている。もちろん、SAKURAという歌限定での話だ。他の曲は知らない。でも聴いてみようという気にはなる。
それにしても、今かかっているのがBlueOysterCultだ。ぜんぜんいい声じゃないが、素敵だ。
こうやって別の曲を聴いて楽しんでしまうと、SAKURAは錯覚かな?何て思えてしまう。だって、曲だけで泣くなんて・・・・やはり自分でも信じられない。
投稿者 keisuke : 音楽 | 21:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月30日
加護亜依
モーニング娘。の加護亜依が、・・・・「モーニング娘。」が一発で変化できるなんて!最近のFEPって!・・・喫煙写真をまたも撮られて「引退」とか言われている。
別に加護ちゃんのファンでもないので、引退するのはかまわないのだが、何だかよくあるバッシングのようで、見ていて寂しい。曰く「2度目だから仕方ない」みたいな文脈が多い。
何度も覚醒剤や麻薬に手を出して、そのたびに芸能界に復帰して、中には現在とても活躍している人もいる。
覚醒剤や麻薬は年齢に限らず法律違反だが、タバコは20を過ぎれば犯罪にもならない。ましてや、今回の記事を書いていたり、批判的な大人たちの中には、自らが未成年でタバコを吸っていた人だってかなりいるのじゃないか?
加護ちゃんに限らず、全ての人がタバコを吸わない世の中が、私は理想だし、一本も吸ったことのない人間としては、禁煙の苦しみなど全く解らない。
彼女のために、喫煙などやめた方がいいと思うが、18才でタバコを吸ったことで、未来を閉ざされるのだとすれば、何てくだらない理由だろう。ダルビッシュは1回だったから、何も言われていない。そのあと彼が隠れて吸っているかなどは全く問題ない。
他の犯罪はいざ知らず、未成年のタバコや酒は吸わせないし飲ませない方がいいかもしれないが、もう少し軽くてもいいのじゃないか?
先日の鹿児島県の選挙違反の冤罪での県警の無茶な取り調べなんか、あれだけのことがあったって「厳重注意」だ。
交通事故で人を殺しても最高で5年しか刑務所に入らない国で、たかがタバコで芸能界引退って!
飲酒運転の芸能人や、覚醒剤や麻薬の芸能人もみな引退させなきゃおかしかろう。
何とも、この国のバランス感覚の悪さには辟易するというニュースだ。
未だに禁煙と書いてあるホームでタバコを吸ったり、そこらにぽいぽいタバコを捨てるサラリーマンなどが山のようにいるのだ。そんな国で、18の女の子に、禁煙違反で芸能界引退というのは・・・・
別に引退しても困らないが、そんな写真を隠れて取っている雑誌社の方が、どちらかというと、世の中をよくしているようには思えないのだが・・・・
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月28日
「日本語はなぜ美しいのか」という本
を読んだ。著者は黒川伊保子という女性だが、わたしと同い年だ。
別に同年齢だから買ったわけではないし、読む前は、「美しい国」じゃないが、歴史と精神論じみていたらどうしようという気もあった。何しろわたしは、本を買うときにほとんど内容を読まない。良くて目次をめくる程度だ。概ねタイトルで選ぶ。
日本語はなぜ美しいのか?この問いかけが、実は、「我々日本人にとって」というかくれた形容を伴っていることで、この書籍はとても楽しく読めた。
母音を基調とした日本語が持つ語感と感性の関係や、民族性の違いみたいなものが、その全てを頭から信じるわけではないけれど、非常に説得力のある形で提示されている。
しかも、学術や科学的にこうだという決めつけではなく、なにやら著者の希望みたいな表現に走っているところが、やはり日本人の心をくすぐるのだ。
英語が国際語なら、英語を話せた方がよりいいが、この本では、幼少期から英語を学ばせることへの警鐘を鳴らしている。確かに、いくら国際人に育てたいからといって、日本で暮らす以上、日本語をおろそかにして英語を学ぶというのは愚の骨頂であると思う。
ただ、そういう人文的な論理理屈ではなく、科学的な理由からこの本はそれを危惧している。
とはいえ、中学生から英語を学んで、果たして今後も、どれだけの人が英語に堪能になれるだろう?
数学に好き嫌いがあるように、語学にも得手不得手はあると思う。また、環境だって必ずそれを許すわけでもなく、中学生からだと遅いと考える親が居ることも無理からぬ事だと言える。
だが、世界政府でも樹立されるようなSF的未来が、21世紀になっても実現されないという事実が物語るように、英語が世界の共通語として、他の言語を駆逐ししてしまうとはとうてい思えない。
東南アジアなどの国で英語がよく使われる一つの理由は植民地だったからだろうし、いわゆる中国語を話す人類は、全人口の2割くらいはいるのかも知れないし、英語が表面上、世界の単一言語になるなどというのは想像できない。
であるならば、日本という島国は、これからも微妙な変容を超えつつ日本語を話していくだろうし、日本語と欧米語の混交というのはあり得ないだろう。日本語はどこまで行っても日本語だ。
千年先の日本語が千年前の日本語と現代語ほどに乖離していないのは、想像に難くない。
そう言う意味では、この著者が巻末で述べる希望は、少なくとも、大きな天災や戦争など、何らかの理由で日本という国家が壊滅的な打撃を受けない限り、成就されることだろう。
もちろんそれだって、何億年も先まで安泰なはずはないと思うが。
この本の中で「私は、以前から、「自然保護」「地球を守る」という言い方には、どうも違和感があった。」という行がある(関係ないが、先日タモリの何とか言う国語を扱う番組の中で、この「行」という漢字の読みを全て答えよというのがあったが、その中に今わたしが使った「くだり」という読みが含まれていなかった。辞書を引いても載っているのだが)。
さて、そのつまりは自然保護とか地球を守るというのが、実は言葉こそ自然や地球が主体となっているが、本質的にはその主体は自然でも地球でも、生物ですらなく、ただ単に「人間」であるということが、この言葉の意味であると、私も以前から感じていたことだ。
まあただこの本では「自然保護」という言葉を日本人の言葉ではないような書き方をしているので(趣旨はそうではないと思うが)私が言うのとは方向性が少し違うが。
地球温暖化も、自然破壊も、これまで先進国が率先して行ってきたわけで、二酸化炭素の排出の規制も、環境汚染の改善も、地球環境のことは、日本も含めた先進国が率先して取り組むべき事で、分けてもアメリカが第一線で行わなくてはいけない。
それができるまでは発展途上国はあくまで努力目標だ。北朝鮮に核廃棄を求めるのは感情的にも、政策的にも理解できるし、間違っていないと思うが、だが、それを求めている国の内、米中露という三カ国が、大量の核兵器を所有していることは、そもそもおかしな事ではないか。
物理的な問題や、世界のバランスの問題など、様々な理由で既存の核保有国が核を手放せない現実は現実として、そのことをあたかも当然であると考えて生きていくのは、どうも納得のいかないことだ。
同様に、自然保護や地球を守だって、そもそも地球の組成と人間の組成だってそれほど違っているわけでもなく、自然の対義語として人工という言葉を使うのも、絶対的な意味があるわけではない。人が勝手に決めているだけだ。
きっと神の目線から見れば(この場合、地球人や一部の民族、進行をしている人たちなど、特定の人たちのための神ではなく、宇宙をも包含する客観的な第三者という意味だが)、恐らく全ての人為的なこともまた、自然の営みの内に他ならないのではないかと思える。
人が争い滅びるのも、贅沢三昧で寿命を縮めるのも、気が育ったり、風が吹いたり、隕石が落ちたりと、何ら変わることはない。人為もすなわち長い歴史の中で風化していく岩の変化を、短時間で起こしているだけなのだ。風化させる風や雨の営みと人間の意志や興味はたぶん同じものだ。
そう思えば、自然保護や地球を守るという視線ではなく、人類がこれからも平和に楽しく生きていくためには、地球環境をどうしていくとか、そう考えた方がずっとすっきりする。高邁な理想論ではなく、部屋の住み心地をよくすると同じ事だと考えればいいことだ。
この自然保護の行にある「鯨を愛しつつ、泣きながら銛を打ち、だからこそ命を余すところなくいただく・・・・という日本人の感覚」などというのは、かなり日本人を美化しすぎているし、そもそも鯨を捕る漁師さんがいちいち鯨を撃つたびに泣いていたら身が持たないだろうし、では牛や豚はどうなるということだし、ゴキブリはいたら駆除するだろうということなので、これはもはや民族ではなく、個人的な感性の違い以上のものではない。
とはいえ、鯨やイルカが知能が高いという理由で保護しようとする人たちが居るとしたら、それは学歴社会と一緒で、おつむの程度で生きる価値を査定しているようなものだ。極論すれば、命を奪う(食うためとか生きるために)事が禁じられるのは人類だけに限定されるべきだ。猿の惑星ではないが、「猿は猿を殺さない」のであり、名分で人類ですら殺し合う、この成熟していない人類が、鯨やイルカを守るのは、結局は自分たちの都合や興味でしかないのだ。
日本語が美しいかどうかとはかけ離れたお話になってしまった。
日本語が美しいかどうかは別として、美しい日本語を使いたいと思う。但し、私が言う美しい日本語は、きっとその言葉で他の人が理解するのとは、いささか趣を異にするだろうな。
それはまたいずれ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月17日
FRESCA
笹塚の駅近くに観音通りという時代を感じさせる商店街がある。都内にはこういう商店街は少なくない。
別に充実した商店街というわけではないし、越してきたばかりの時にこの商店街の特異性に関して書いた。
商店街の入口から出口まで、150メートルそこそこだろう。浜省の(浜翔じゃない・・・あ、こっちはしょこたんか)「Money」でさえ数百メートルのメインストリートに寂れた映画館とバーが5,6軒なので、それに比べたら立派な商店街だ。毎月18日だったかには小さいながら縁日で、出店が出る。
さて、この200メートルに満たない商店街に、なぜか美容室と理髪店合わせて10軒が乱立している。そして八百屋が3軒。まあ、偏った店舗構成なのだ。今回その八百屋が閉店になって2軒になった。そして新たに、「FRESCA」なる美容室が誕生したのだ。すごいぞ。
もちろん美容室の顧客が商店街で完結するはずはないし、いわゆる「カリスマ」でもいれば、遠くからもお客は来るだろう。だがバランスというのもある。よく分からないが、こういう場合のマーケティングというのは、勝算があるのだろうか?
もちろん、商店街の入口からそう遠くないので、奥の美容室に比べると利点はあるように思える。
だがこの辺りに暮らす人間としては、美容室ではなく、他の業種になって欲しかったというのが本音だ。例えば肉屋とか、魚屋とか、食い物屋とか、もう少し日常的に商店街が便利になるような店だ。
個人的には弁当屋でもできてくれた方が良かったな。ほっかほっか亭とか。
このFRESCAという美容室、初台店のホームページが引っかかってくるので、出店の順序としては解らなくはない。ぼくは女ではないので、美容室の出来不出来にはそれほど関心がない。とはいえ、実際にカットは、一番近い美容室に行っているので、まあそのうち、ここにも行ってみてもいいかな、という気はしている。
ただ個々のホームページ、アクセスすると、時たまあるJAVAで無理矢理ブラウザを特定のサイズに変えてしまうスクリプトが書いてある。迷惑なのでとってもやめて欲しい。もちろん、このサイトだけでなく、同様のスクリプトを書いているサイト全てに言いたい。こういうサイトの制作者は、「見る側」のことなど全く考えないで、発信する立場だけからホームページを作っているとしか言いようがない。迷惑なポップアップ広告と何ら変わりはない。
ポップアップは最近は防げるが、こちらは防げないので困る。
JAVASCRIPTをオフにしてしまうと、他で困るのでできない。他愛もないことかも知れないが、こういう些細なことの方が、意外に「イラっ」と来るものなのだ。
この商店街、もう一見閉店する店が控えている(と思える)。まさかそのあとにも美容室が何て・・・・
投稿者 keisuke : 日常的 | 14:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月13日
銀行
銀行というのは、なぜかそのサービスを3時までという、客商売としてはあり得べからざる時間で終了させるということから脱却しようとしない。
私は銀行に勤めたことはないので、その業務がいかに大変かは知らない。そんなことは関係ない。客とは、店や企業がどれほど大変かなどということは、基本的に斟酌しないものである。
ネットバンキングのいくつかを利用しているが、JNB(ジャパンネットバンク)やe-bank(イーバンク銀行・・・イー銀行銀行ということか?)は、夜中でも決済ができて、しかもそれがリアルタイムに反映される。入金もそうだ。
ところがここから普通の銀行に振り込んだりすると、「翌営業日」という扱いになる。週末などは、金曜の午後3時から月曜の朝9時まで66時間は全く稼働していない。祭日など挟まった日には+24時間ということになる。
多額の公的資金を投入して、不良債権とやらをどうにかしたのはまだ記憶に新しい。さっさと立ち直って儲かり始めた銀行だが、別にサービスが良くなった感はない。
窓口業務の3時というのは、何となく人手の問題なので、多少は解らないでもないが、これだけコンピューターやネットワークが日常的になっている中で、いかにも旧態依然としたサービスに終始していることに、銀行は何も感じていないのだろうか?
少なくともネットバンキングは24時間(365日とまでは行かないが)、かなりフル稼働して、ストレス無い取引ができる。
もちろん取引内容にもよろうが、せめて入金や振り込み程度のことはできてもおかしくない。
取引のある三菱東京UFJ・・・・もう少しこの名前はどうにかならなかったものか・・・・は、旧UFJと旧東京三菱でサービスが違う。実質別銀行だ。UFJでできて東京三菱ではできない内容が、6時過ぎの記帳とかまで違うから困ったものだ。
婚姻届や離婚届などは夜中でも受理するらしいが、公共機関の窓口業務も、5時で閉店だ。郵便局の振り込みなども4時で閉店。
そもそも、銀行も含めて行政機関や、郵便局など、非常に公共性の高いこれらのサービスが、土日休んで平日の昼間だけっていうのをどうにかして欲しいものだ。
仮に平日を休んでも、土日はやるとか、夜10時まで営業するとか、日本はシエスタで名時間も昼休みを取るような国民性ではないのだから、考えてもいいのではないのだろうか?
病院などでも、最近は夜や日祭日を開業しているところも増えてきた。
せめて銀行の、ATMが動いている間は、そのまま振り込みなどが反映されたり、その辺りから業務改善を行って欲しい。ただでさえ、銀行員の給料は高いのだ。サービスとして還元して欲しいものだ。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2007年3月 5日
ウソ読みで引ける難読語辞典

「ウソ読みで引ける難読語辞典」という本があるらしい。
「ウソ読み」というのは、読めない感じを当てずっぽうで読む場合の読みのようだ。その場合の索引が「ウソ読み索引」として付属している。
ここ
にその索引の一部がある。
確かに最初の「嘸(さぞ)」が読めない。が、どうしてこれが「ああ」なのかの方が気になる・・・まさか「ああ無情」辺りからの連想か・・・・?そんなわけないか。
2番目の口偏に愛なんていう字は全く読めない。
また、地名の愛子(あやし)なんて、東国原より読めない。宮崎の地名らしい。
蒼穹を「あおぞら」と読むのは、よくマンガなどである「当て字」のせいだろうか?読みとは関係なく意味を当てていくアレである。しかし、意味があっているということは、繰り返していけば、それが読みとしていずれ成立するということにならないだろうか?
襖の「あお」は、そちらの読みの方が知らなかった。
赫々「かっかく」も知らない漢字だ。赤四つだから相当赤いぞ。
「祟る」を「あがめる」は、反対語ではないとしても逆のベクトルを向いて入るなあ。
苦汁を「あく」というのは何か解る気がする灰汁・・・・かいじゅうだものな。
跪くも躓くも「あがく」というのも何となく解る気がするが、それに挟まれた足偏に腕の右側のような字は何と読むんだ?・・・解らない。
魚の間八がこういう字だというのは始めて知った。・・・魚編じゃないんだ。
この1ページ見ているだけでもだいぶ楽しい辞典だが、1ページだから楽しいっていうのもあるな。
特に地名は人名と一緒で、読めなくても仕方ない気がするし、秋沙(あいさ)何て、辞書で調べても、
だから何?という感じだ。野鳥の会でもないと、興味は持てない。初めてであった字だし。
1ページ見ただけでも、特殊な言葉は結構多い。地名や、鳥や魚、特殊な業種でしか使わない言葉などだ。それらの歴史に裏打ちされた言葉は、一般的には知識として必ずしも必要ないし、一回覚えても、割合すぐに忘れてしまうような木がする。
最近漢字検定などが大流行のようだが、読めないより読めた方がいいけど、過度に知っている必要もない。
紅絹(もみ)を知らなくても、あるいは一生出会うことがない人の方が多いに違いないからだ。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:39 | コメント (0) | トラックバック (0)