2007年1月26日

特急

 先日、所用があって狭山へ行った。
 うちから狭山へは、高田馬場乗り換えで西武新宿線で一本だ。馬場から狭山までは、たまに乗ると、ちょっとした小旅行だ。
 元々川越出身なので、新宿に勤めていたときには、時折新宿線を利用することがあり、その場合は、本川越から西武新宿まで、つまり、始点から終点までだったので、今回よりさらに行く駅か長かったはずだが、当時はそんなことは思っていなかった。川越から新宿は、東武東上線と山手線を使った方が、西武線より早いし、西武新宿駅は新宿とはちょっと離れているので、ただ新宿と言うことであれば、東上線ルートの方が早い。
 ただ当時は、歌舞伎町の入口に勤めていたので、西武新宿駅から非常に近かったのだ。
 今でもそのレコード店は同じ場所にあると思うが、当時とは店名も変わっているし、そもそもレコード店ではない。ぼくが始めてその店に入った時には、まだこの世にCDは存在していなかった(尤も、プロトタイプはすでにあったと思うが)。

 話は逸れるが、その店にいるとき、店の前の歩道で靴磨きをしているおじいさんがいた。背がちっちゃくて、靴を磨くクリームで手を真っ黒にした、それでも快活な気のいいじいさんだった。時折、店に両替に来る。お客さんにおつりがないからだ。また、時にはそこの店員に金を借りに来ることもあった。ぼくも何回かかしたことがある。比較的律儀に返しに来ていた。時折返さないことがあったようにも記憶している。
 いつまでそこにいたのか解らないが、いつの間にか姿を消したと思う。亡くなったのかも知れないと、当時思ったものだった。
 今考えると、もう少し優しくしておけば良かったかな、等と思ったりする。まだぼくも20代だった。

 さて、話を元に戻すが、狭山で用を済ませ、帰りのことだ。パスネットで改札を抜け、ホームに行くと、ちょうど特急が来るところだった。
 乗りたいが間に合うだろうか、というのがその時の気持ち。
 見てみるとがらがらなので、取り敢えず乗ってしまえばこちらのものだとは思ったが、取り敢えず近くの駅員に、中でも買えるかという旨を訊くと、「そこで特急券を買ってください」と言われた。

 見ればすぐ後ろに特急券の券売機らしきものがある。そこで、あわてて券売機へ向かった。
 取り敢えず1000円を入れて高田馬場を押す。うんともすんとも言わない。2度押したが変わらない。試みにもう1000円入れてみる。関係ない。
 ふと気づくと、上に何枚というボタンがある。そこで高田馬場、1枚通すがそれでもダメ。ようやく気づき、1枚、高田馬場通すと、お金が多すぎますといって2千円がはき出される。
 改めて1000円入れて同じように押して、ようやく特急券を手に入れた。

 どうにか落ち着いて小江戸号に乗り込み、座席に着く。ちょっとして発車。余裕はあった。しかし絶対乗り込んでから中で買っても問題はなかったな。そう思った。

 何にせよ、普通の券売機は、1枚の場合、わざわざ枚数を押すことはない。先日、テレビのクイズ番組でもやっていたが、券売機のひとりボタンは、二人とか3人通した場合に、それを訂正するために付いているのだ。
 その感覚があるから、どうしても券売機で買おうとすると、普通に行き先だけを押す。ここの機械の案内は、音声なので、せめて音声で、「枚数を押して、行き先をしてください」とか言って欲しいものだ。
 また、2千円はいっていても、発券して、おつりで出せばいいじゃないかとも思う。

 普段だったらそれほど感じないこんな八つ当たりめいたことが、焦っていたのでひときわ強く感じることになった。

 でもまあ良かった。乗れて。
 電車は非常に快適で、あっという間に馬場まで着いた。しばらく旅行へも行っていないので、軽い旅行気分を味わった。電車旅行が好きなのだな、我ながら。・・・・駅弁が食いたかった。

投稿者 keisuke : 社会的 | 01:39 | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月21日

パソコン

 ノートパソコンが欲しい。
 1台持っているのだが、Windows98パソコンで、XPを入れようとしても入らないタイプだ。起動が遅く、駆動時間も短いが、時折外出先で使いたいことがあるためだ。

 ぼくがノードパソコンに求めるのは、軽量、長時間駆動、安価の3点だが、なかなかこれを満たすものがない。余分なソフトは一切いらないので、DELLのようなメーカーがいいかと思い、DELLサイトを見てみたが、DELLはますます使いづらくなっていく。
 ホームページで見積もりや構成の確認ができるのだが、IEかネスケでなくては使えない。・・・実はネスケでも使えなかった気がする。
 昔は選択のアローアンスがかなり広かった気がするのだが、現在は必ずセキュリティソフトなどを入れないと購入できないようになっている。自分で選ばせてくれない・・・・いや、DELLはDELLなりに、確かに選択の幅は広げているのだが、非常に中途半端なのだ。
 物理的な構成上必要な組み合わせというのがあるから、やむを得ない部分もあるが、このセキュリティソフトと、翌日なんちゃらサポートというのを足すだけでも1万円以上高くなるのだ。
 かつてGatewayが、当初の非常に自由な選択肢での購入が可能だったものが、日本市場に広がってきたら、富士通やNEC並のがちがちのパソコン販売に近づいてきたという事があったように記憶している。結局Gatewayは、一時期日本市場から撤退を余儀なくされた。好きだったのだが。

 実は軽量という切り口で探していくと、当然モニタの画角に左右される。小さければ軽いのだ。でもあまり小さいと、今度はキーボードが打ちづらくなるという難点がある。
 パナソニックのLet's Noteは、昔から軽量で、実はぼくが所有しているのも、古いそれだ。
 他にはDynabookとVaioに同じくらい軽いものがある。
 
 自分では、1.3kg以下でないと買わないと決めている。同様に、5時間以上の駆動時間がなければ買わない。それでも何台かはある。12.1方がほとんどだが、十分だろう。しかし価格が・・・・
 どれも20万円前後する。・・・高すぎる。

 と思っていたところ、ついさっき、NECのCMを見た。
 NECがこの27日から発売するタイプJというのがそれらしい。早速ホームページを見てみた。DVD搭載のモデルでも1.3kgを切っている。ソフトウエアもミニマムというのが選べて、現在は、クーポンを使うと10万円を切るらしい。しかもVistaだ。
 でも、さすがにメモリの256はいただけない。Vistaだって快適に動くのか?
 その辺りの仕様をちょっと変更したら、15万円あまりになった。クーポンを使うと13万円。お買い得だ。
 と思ったら、それはXPヴァージョンのクリアランスだった。

 でもまあ、考えてみると、今までどうにかなってきたのだから焦る必要もない。少なくともVistaパソコンが当たり前になってから購入した方がいいと思うし、携帯でも軽くて薄型がはやりだしている。ソートも軽量化、長時間駆動が進むだろう。
 基本はデスクトップなので、ノートは購入したら5年以上変えるつもりがないので、自ずと慎重になる。

 パソコンの普及率は80%以上らしい。性能が上がるのもけっこうだが、掃除機くらいの値段で買えるようにはならないものかな。プレステ3くらいの価格で買えるようにならないかな。

投稿者 keisuke : インターネット・PC | 00:32 | コメント (0)

2007年1月14日

「正しい和食」の認証制度

 農林水産省が、「正しい日本食」を出す店の認定制度をアメリカ等海外で行うというようなニュースを、先日見た。

 以下は、12月23日の産経新聞の記事だ。リンクにすると程なく消えてしまうので、全文引用する。

  

 農林水産省は22日、19年度予算案で認められなかった海外の優良和食店を認証する
新制度について財務省と復活折衝を行い、2億7600万円の全額が復活したと発表した。
同制度をめぐっては、米国メディアで「スシ・ポリス派遣」などと揶揄(やゆ)されたほか、前日
の自民党政調審議会でも「政府が認証するのはおかしい」などと異論が相次いだ。事業の内
容は変わらず、「認証」を「支援」に名称変えし、あきれた復活となった。

 この制度は、海外で「和食店」でありながら、和食とは懸け離れた料理を出す店が増えて
いる実態を踏まえ、「本来の和食」普及のために一定基準を満たす店に何らかのマークを付
与しようというもの。

 事業名は、「海外日本食レストラン認証事業」だったが、復活折衝で「海外日本食優良店調
査・支援事業」に。さまざまな異論に抗しきれず「認証」を引っ込めた格好だ。

 松岡利勝農水相は「認証と言うと許認可を与えるような印象。(認証されなかった店を)排除
する意図はなく、誤解のない名称に変えた」と説明している。

 しかし、同省には国内外から賛否両論のメールが殺到。海外メディアも、「日本がスシ・ポリ
ス派遣」(ボイス・オブ・アメリカ)などと疑問を投げ掛けていた。松岡農水相は予算復活に、
「思いをかなえていただいてありがたい」と意気込むが、2億7600万円の予算に「国費を使う
ようなことか」(自民党議員)などの声が根強い。

 まさに最後の自民党議員が言うように、3億円近い税金の無駄遣いに他ならない。

 そもそも、「本来の和食」とは何か、そしてそれは国がお墨付きをするような類のものなのか、ちゃんちゃらおかしい。それならば、国内の方が、よっぽど不思議な和食の店はいっぱいあるはずだ。
 だいたい、「本来のイタリア料理」「本来のフランス料理」など、言いはじめたらきりがないし、料理など、時と場所でどんどん変化するし、変化するべきものなのだ。

 こういう、あたかも伝統を守る的な視点に立った、ただの既成概念への執着こそが、「改革、改革」と口だけ言っている日本の政治の、非常に象徴的な姿だ。
 おそらく日本料理界でも、どれほどの人が賛同するのだろうか?

 テレビでは、アメリカの和食レストランの社長のような人が、「魚の裁き方も知らない料理人が料理をしている」と言っていた。それは料理人の技量の問題で、「本物の和食」かどうかとは別の次元のお話だ。
 和食が伝統的な和食で勝負するかどうかは、ここの店の立場だし、努力だ。万が一それがアメリカで受け入れられないのなら、節を曲げるか撤退するか、それでもがんばるか、それしかない。国がどうのこうのということではないだろう。
 アメリカ人がアメリカ人の口に合うように和食にアレンジを加えたり、アメリカの料理に和食のテイストを加えて、「和食」と言ってのけることが、果たして嘘だろうか?
 そもそも和食とは何だろう?
 和牛と国産牛のように区別できるものだろうか?

 辞書で引くと日本料理とか、日本風の食事としている。おそらくとても曖昧なものだ。
 誰かが定義付けをしているかも知れないが、どれほどのコンセンサスを持って、社会に受け入れられているだろう。
 私たちは、和食の店に行くと、「刺身」「天ぷら」「すし」などを想像する。あるいは懐石料理などもそうだ。確かにそれらは日本食だ。しかし、母親が作る煮物やトンカツ、焼き肉、等々、それらも海外ではなかなかお目にかかれない料理で、日本食だ。

 いずれにしたとこれで、何が和食か何て言うことはこの際問題ではない。
 国が乗り出していって、あたかも文化の保護でございと言ったような顔をすることとがおかしいのだ。

 こんな事が解らない農林水産大臣には、早々に職を辞して欲しいと思ったりもするが、これは実際、他の誰かがなってもそれほど変わらないところが、日本の政治の怪しいところだ。
 いずれにしたところで、こういうことにNoと言いたくても、Noと言えないのが政治の世界だ。
 
 一体、選挙でNoと言えないこういう事に、我々はどうやって意思表示をしていけばいいのだろうか?

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:24 | コメント (0)

2007年1月 5日

モンテクリスト

 モンテ・クリスト−巌窟王−という映画を観た。DVDをレンタルした。2002年のアメリカ映画で、劇場では観ていない。

 アレクサンドル・デュマの作品といえば「三銃士」がその筆頭だと思うが、以前にも書いたと記憶しているが、私は「モンテクリスト伯」の方が好きだ。「三銃士」「二十年後」「ブラジュロンヌ子爵」という大河小説は、確かに面白いし、特に「三銃士」はその中でもすばらしいと思う。しかし、個人的な好みとしては「モンテクリスト伯」の復讐譚の方が、どこが、というのではないが面白いのだ。
 黒岩涙香が「巌窟王」という印象深い翻訳のタイトルを与えたこの作品は、歴史上最も優れたエンターテインメントの一つだと信じて疑わない。この作品と、前記の「三銃士」そしてビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」このフランス文学の3作が、私にSF以外の書物を読むきっかけを与えてくれた重要な作品でもあるのだ。
 監獄を出た主人公の数奇な人生という意味では、「レ・ミゼラブル」も「モンテクリスト伯」も、ある意味似ている。十数年前だったと思うが、フジテレビの昼メロで「愛・無情」というのをやっていた。榎木孝明と原日出子が出演していたが、「レ・ミゼラブル」を元にしているので「愛・無情」というタイトルだったのだが、そもそもジャン・ヴァルジャンに当たる榎木孝明に、原日出子という恋人が居る時点で、原作は「モンテクリスト伯」ではないのか?と疑ったものだが、そもそも昼メロなので、ほとんど観ていない。最初の何回かを飛ばしながらビデオに撮った記憶がある。現在であれば、ハードディスク搭載のデッキがあれば、全て録が可能だったのだが、その当時はビデオしかなかった。今でも観てみたいが、DVDでは見かけないし、再放送もあるとは思えない。残念だ。

 さて、「モンテクリスト伯」にしても、「レ・ミゼラブル」にしても、だいたい見れば後悔するのだ。ジャン・ギャバンがジャン・ヴァルジャンをやったのは、そこそこ面白かったように記憶しているが、ラストシーン近くの楽しみにしているシーンがいまいちだったような記憶もある。
「レ・ミゼラブル」をドパルデューがやったのを観たときには開いた口がふさがらなかったが、同じドパルデューは「モンテクリスト伯」も作っている(というか出ている)。
 これもまた、ラストシーンで唖然としてしまった。ダンテスとメルセデスが手に手を取り合って、新しい人生を歩んでいくなんていうのは、ジャベールがセーヌ川に身を投げて死んだあとに、晴れ晴れとした顔で去っていくジャン・ヴァルジャンと同じく、この2作品を台無しにする行為だ。
 そして今度もまたやってくれた。

「モンテ・クリスト−巌窟王−」という作品は、エスプリのエの字も感じられない。アメリカ映画、しかも娯楽作品としてみれば、あるいはそこそこのレベルにあるとは思うが、実際そのそこそこを形成しているのは原作が持っているエンターテインメントなのだ。
 脚本家が楽しそうに語っているおまけが付いていたが、「そうか、こいつに書かせたのがいけなかったんだな」ということはそこでよく分かった。
 原作にはアクションがないからアクションをふんだんに加えたとか、アルベールをダンテスの子供に仕立てたのは、どうしてデュマは思いつかなかったのだろうと、得意げに語っていた。

 原作と違うことをいう人に対しては、原作がいいなら原作を読めという、こういう作品を作る映画監督や制作者がよく言う常套句を使っていたが、それより、そういう作品が作りたかったら、オリジナル作品を作れ!といってやりたい。

 著名な原作を映像化する場合、観客が望むのは、その作品が持つクオリティだし、中身なのだ。それを身勝手な論理で作り替えるのは、オリジナルで勝負できないクリエイターの言い訳に過ぎない。
 今回の作品でもデュマの作ったすばらしい作品に乗っかった、安易なエンターテインメントの歪曲でしかない。アクションがないと観客が喜ばないと思っているのなら、別のアクション作品を作ればいいではないか。

 これらの作品は、原作の持つ素晴らしさを維持したまま映像化することが不可能なのか、制作者がいつもぼんくらなのかどっちかだ。一度でいいから、忠実な作品を作ってもらいたい。原作が面白ければ、それを元にした映画やドラマを見るのは読者としての楽しみの一つではある。
 解釈というレベルならまだいいが、歪曲はやめて欲しいものだ。

 それでもダンテスはこういうかも知れない。
「待て、そして希望を持て」

投稿者 keisuke : 映画 | 23:35 | コメント (0) | トラックバック (0)