2006年12月30日
年賀状
今頃に年賀状を書いている。まあ、例年こんなものだが、毎年年賀状を出すのをやめようと思いつつ、なかなか踏み切れない。
一つには、「挨拶」としての賀状に、少しばかりは意義を認めているからであり、もう一つは、メールにしようと思っても、全ての人がメールを扱えるわけではないからである。
ちょっと賀状の成り立ちを調べてみた。
そもそも年賀というのは還暦や古希などの事で、高齢を祝うと言うことだったらしい。それと、昔の(平安とか書いてあった)、正月の15日までに、いろいろな人に挨拶をするという風習が、郵便事情で、年賀状に変わったと言うことらしい。つまり、いちいち挨拶に伺わずとも、手紙ですませてしまえ、ということと、遠方の人にも挨拶ができるという二つの点で、郵便は有用だったわけだ。
そう考えると、いずれはメールや電子的なものに主流が変わっていく、今は過渡期なのだろう。
人間というのは不思議なもので、節目とか、儀礼とか、作法とか、どこの国でもそういうことがある。
私は根本的に、それらの大きな理由には、支配者が箔をつけたかったという大きな意味があると思っている。人より優れていることを他者から認められるために、儀礼や作法、等の伝統的な決まり事は、形式として成り立ってきた。
ある意味年賀状もその例に漏れない部分がある。
私は自分で、礼儀知らずだとも、それほど非常識だとも思っていないのだが、自分がそうでないことと、そういうことに対してどういう考え方をしているかというのは別の話だ。
なぜ人は、生まれたのが早いというだけで、年長者に対して礼を持って接する必要があるのか、このことは、昔から謎であり、今でも謎だ。
年齢が判って相手が年下だと気づいたとたんに「ため口」になる人は少なくない。意味が分からない。
年上かどうかはこの際問題ではないと思うのだが・・・・
まあ、そんなこんなで、そういった単純な「意味」を年賀状に求めると、年末の忙しい時期に、何十枚者年賀状を作るのはそれだけで大変なものだ。比較的私は少ない方だ。メールですませる人も多い。
メールとはがきで、はがきの方が心がこもっていると思ったら大間違いだ。どちらも儀礼だし、どちらも相手次第で心はこもるのだ。メールだからいい加減なわけではない。
まあ、何年かかるか判らないが、郵政公社に恨みはないけど、絶対いつかやめてやる。・・・生きているうちに。
投稿者 keisuke : 人生 | 01:23 | コメント (0)
2006年12月26日
父親
先週は訃報が重なった。いや、自分の回りではなく、テレビニュースなので、特別なんだというわけではない。青島幸夫などは、テレビでも言っているし、自身でも言っていたようだが、大変充実した、幸せな人生だったようだ。だが、まだちょっと若いと言えば若い。
カンニングの中島はさらに若い。ぼくがすでに10年以上も前に通過してきた年齢だ。むしろこちらの方が、こころにくるものはある。
さて、父が亡くなってから、あと一月ほどで3年が経つ。
肺を患って、結果的にはなくなったのだが、50年以上にわたって、ヘビースモーキングを続けてきた結果でもあったろうと思うが、40代でガンも患い、生きてきた時代を考え合わせると、それなりに大変な人生でもあったのかなと思う。
3年前、父の葬儀の時、長男であるぼくが喪主を務めた。
父の死に際して、1回も泣かなかったし、悲しみもそれほど無かった。薄情な息子だと自分でも思ったが、取り立てて父と仲違いしていたわけでもないので、父の死を喜んでいたわけでは、もとよりない。
喪主は大変だからと、回りは言ってくれたが、そういうわけでもない。
仏教の経典の中に、赤ん坊を死なせた女の話が出てくる。赤ん坊の死を受け入れられない母親が、釈尊の元を訪れると、「誰も死んだことのない家から芥子の実をもらってくる」ように言われ、母親は、1軒1軒、町を巡り、芥子の実をもらおうとするが、誰も死んだことのない家はなく、そのことで母親は、自らの子に訪れた死が、誰も避けることのできないものだと悟り、釈尊に帰依するという話だ。
この話を見ると、ぼくはいつも二つのことを考える。先日も瀬戸内寂聴の本でそれを見かけ、同じように思った。
一つは、赤ん坊の死と、成人の死、老人の死は、自ずと意味が違うだろうと言うこと。
確かに人は生まれたからにはいつかは死ぬ。キリストの死などは、ある意味、「不死」であるかも知れない神の子を、永遠に生かさないための十字架だったのではないかと勘ぐりたくなるくらい、死は当たり前のものだ。
信長が好んだという敦盛の有名なくだりには、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬ者のあるべきか」とある。
その当たり前の死は、例えば太陽にあっても、50億年とも言われる後に予告されている。
この世に生まれて赤ん坊の内、いや子供の内に、死を迎えることが、平均寿命前後まで生きる者、あるいはまだ生きる可能性を秘めている者の死と同等であるはずはないだろう、ということだ。
だが同時に、この釈迦のやりようは、誠に臨機にかなっており、だからこそ母親は出家するのだ。
つまりは、この死の理不尽と、ではその理不尽を変えることができるのかという現実との狭間で、母親に何が大切なのかと言うことを諭すには、この場合最も適切だったのであろう。
それでも尚、人の死は、その年齢によって、軽重があるとぼくは思っている。とは言っても、年齢が若い方が単に痛ましいと言っているわけではない。当然のことながら、生きた年数だけで人生の価値が決まるものでもないし、一つの指標に過ぎない。
平均寿命くらいまで生きられれば、取り敢えずはいいだろうという漠とした価値観を持っている。
そう言う意味で、父はよく生きたと思っていた。最後の数年はほぼずっと入院したきりだったし、辛いことも結構あったのだろうと思う。だが、前述の敦盛ではないが、父の死は、簡単に受け入れられた。悲しくもなかった。
その父のことを時折思い起こす。
亡くなってからもあっという間に時は過ぎていく。
生前に、こうしてやれたらとか、こうできたら良かったのにな、という気持ちを時々感じる。後悔とか、そういうのではなく、純粋に、そう思うだけのことだが。
ぼくには子供がいない(その前に嫁さんだろうと、つっこみが入るが)。だから、父の心情、とりわけ息子に対するそれを、想像以上に理解することは難しい。
だがそれも、だからどうしたということではあるのだ。
この世のことは泡沫のようでもあり、もっと何かこう、ものすごく何かが詰まった固まりのようでさえあるとも感じる。いずれにせよ、長くて1世紀、太陽の50億年に比ぶべくもない。
ただ、ふと、父のことを思い、何かそれについて書きたくなったのだ。
投稿者 keisuke : 人生 | 23:39 | コメント (0)
2006年12月22日
HMV
このところ、何かを買う際に、ネットショッピングの比率が非常に増した。それは便利である上に、同じ製品をより安価で購入することが可能だからだ。
ぼくがよく利用するのは、ヨドバシドットコム、アマゾン、楽天市場、タワーレコード、西友、ニッセン、ベルメゾン、アスクル等だったが、このところにわかにHMVが自分の中でクローズアップされてきた。
楽天は、様々なショップの集合体で、雑貨や、家電、食品など、大手で扱っていない商品を買うのだが、日常的によく利用するのはPC関連(仕事もあるので)とCDやDVD等だ。書籍はほとんどアマゾンだが、紀伊国屋ウエブなどもサービスが良くなれば(送料など)、利用してもいいとは思う。
さて、これからの時代はiTuneでダウンロードだぜ!という世間の声に耳も貸さず、所詮はダウンロード販売にほとんど無い、クラシックを買うためには、自ずとCDやDVDというリアルなメディアを購入する以外にない。
今、買おうかどうしようか迷っているものに、フィッシャーという指揮者によるハイドンの交響曲全集がある。ハイドンは、交響曲の父といわれているだけあって、104番までの交響曲を書いている。一般的にハイドンの交響曲のCDを購入すると、1枚に3曲入っているケースが多い。曲の長さ的にはモーツァルトなどと同じくらいで、20分から30分程度の曲が多いからだろう。さて、計算すれば判るが、この全集、33枚組だ。当然箱入りだが、実はこれまでも新宿のタワーレコードで何回か見かけ、食指は動いていた。ただ大きな箱なので、気後れもあった。
ハイドンは、名前入りの交響曲だけでも相当あり、よく知られた「驚愕」「軍隊」「時計」「太鼓連打」等の後期の曲以外にも、「告別」「マリア・テレジア」「奇跡」「朝」「昼」「晩」など、面白いタイトルが付いているものが多い。「驚愕」は「びっくり交響曲」等という言い方もされ、突然大きな音を鳴らしたり、「告別」などは、終楽章で演奏者が、一人一人舞台から捌けていき、最後はヴァイオリン1本になる等という粋な曲を書いている。
このCD、タワーレコードで8000円ちょっとで販売している。1枚単価250円にも満たない。だがでかいよな。
と思ったら、HMVでも同じものを同じ価格で売っているのだ。ただ、HMVの方が納品に時間がかかるようだし、HMVは輸入CDを三つ以上買わないと安くならない。・・・今確認したら、いつの間にか在庫有りになっているが。
さて、そうなるとタワーレコードで買う方がいいようなものだが、実は昨日、HMVで検索をしていて思わぬものを見つけた。
パリスのセカンドアルバムだ。発売が2001年になっているが、ぼくは見たことがない。もちろん国内版は出ていないし、以前にCD-NOWという海外サイトで調べたときもなかった。その時にはボブ・ウエルチのソロベストを買った中に2曲くらい入っていたので我慢したのだった。
それがなぜかある。タワーレコードでは載っていないのだ。
ヤフオクでもレコードはたまに出るがCDは無かったので、発売になっていないのだと思って、以前のうちでのこづちでもそう書いた。
それがあったのだ。わーい。
このタワレコとHMV、かつてはヴァージン・メガストアとともに、外資系3大CDショップだった。Waveというのもあったが、個人的な印象は上記3社だ。しかし、オンラインショップに関する限り、ヴァージンは国内販売がないので、大きくは2社で、システムから言えば、圧倒的にHMVの方が上だ。
非常に検索がやりやすいし、ヒット率も高い。タワレコの場合、日本語とアルファベットでは検索結果が異なるし、同じ作曲家が、微妙に違う名前で二つに分かれていたりする。
リアルショップでは、新宿に関する限り、HMVよりもタワレコの方がいい。品揃えも、駅からの近さも。ただ、ネットはHMVの圧倒的勝利だ。・・・・パリスのためだけでも。
投稿者 keisuke : 音楽 | 01:19 | コメント (0)
2006年12月20日
マクロミル
久しぶりだな・・・・
ずいぶん前からマクロミルというところで、ネット上のアンケートに答えていた。謝礼の換金も1万円を超えていたので、そこそこ長くやっていた気がする。
しばらく前から突然アンケートが来なくなった。
最初は気づかなかったのだが、ちょっとおかしいぞ、と思いだして、ネットで調べたりすると、どうやら原因が判った。判ったが、別に不正をしているわけではないので、問い合わせをしてみると、明確な答えは返ってこなかったが、まあ、もう無理だろうと思ったので、残っている分の換金依頼をした。
原因というのはこうだ。マクロミルでは、よく、新しい会員の紹介を求めている。アンケートに答えてお金になるのであれば、難しいことではないので、人にも教えたりする。それで友人も入った。この友人は、友人というにはもっと近しいので、家に遊びに来たときに、ぼくのパソコンからアクセスしてアンケートに答えた。
ぼくのパソコンだから、当然自分でもそのパソコンからアンケートに答えた。
うちでは、パソコンが重くなったり、ソフトウェア上必要がない限り、パソコンを再起動しない。電源を切ることは滅多にない。接続毎にIPアドレスが割り当てられるにしても、同じIPで接続している時間は非常に長い。今時はADSLや光ファイバーなどの常時接続で、そういう人は多いことだろう。
要するに、同じパソコンから複数のアカウントの回答が得られたため、不正と判断したというのがマクロミル側の言い分のようだ。・・・
「先日行われました定期メンテナンスにおいて、××様のご登録につきまして、「同一人物による、複数IDでの参加(なりすまし行為)」と判断される箇所が見受けられたため、アンケートの依頼を停止いたしました。」
ということだった。同一人物は答えていないというのが真実だ。(なりすまし行為)という表現はそういうユーザーに対しては非常に不快に響くが、マクロミル側の判断と、処分に関してはやむを得ないだろうというのも、認めざるを得ない。
ネット上の掲示板でのやりとりでは、家族中で1台のパソコンでアクセスしている人間はどうなるのだ、というような議論があった。その点に関してはどうなるのかな?とはぼくも思ったし、可能性としてそういう利用はあり得るわけで、マクロミルの対応にも、やはり手落ちはあると思う。
どのような手段で重複登録を判断するのかどうかは、明かす必要もないが、ギブアンドテイクとはいえ、マクロミルにとって我々が顧客であることも間違いない。顧客がアンケート依頼元だけだと思っているとは思いたくないし、少なくとも建前だけでもそうであるに違いない。顧客という表現ではなく、被雇用者の方が近いのかも知れないが。
しかし、1台のパソコンから複数の人間が回答をするということを禁じるのであれば、ホームページ上の判りやすい位置に書いておくべきだ。
少なくとも、(なりすまし行為)をしようとしていない人間までも、排除するようなシステムは改善の余地がある。
めんどくさいのでこのままやめてしまおうと思っているが、何とも後味の悪い結末だった、というのが感想だ。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 22:39 | コメント (0)