2006年11月30日
MAC
最近MacのCMを見た。MacといってもMacintosh、つまりアップルコンピュータのCMだ。
今風の飾らない若い男と、眼鏡をかけ、スーツを着た、若い女の子が見たら、100人中90人はMacの男を選ぶような風采の男が並んで会話するだけのCMだ。
いくつかシリーズがあるようだが、若くない方がまず、
「はじめましてパソコンです」
という。若い方が、
「はじめましてMacです」
という。
「あなたもパソコンですよね」
「でもみんなMacって呼ぶんだよね」
「何かあなただけ特別じゃないですか、友達みたいで」
「みんな家でぼくをプライベートに使うから、親しみやすいのかな?」
「なるほど、私はビジネスライクな関係ばかりですから。何か特別な呼び名が欲しいです」
「仕事でのつきあいがメインなら、ワークっていうのはどうかな?」
「マックとワーク・・・まっくう」
と二人は仲良くなるというのだ。・・・ここまで詳しく書けたのは、アップルのサイトで見ながら書いているからだが、別にこのCMを褒めようというのではない。
このCMの中にこそ、ぼくがマックを選ばない何かが凝縮されているということなのだ。
そもそもMacとWindowsという分け方は、OSの違いだけによるわけで、Microsoftのなにやらうまい術策にはまり、パソコン市場はある意味Windowsに席巻されている。特に企業は、デザイン会社ならともかく、富士通やNEC等のパソコンが非常に大きなシェアを占めている。
Macが非常に特徴的なのは、アップルコンピュータ意外にMacOSを乗せているパソコンがほとんど無いと言うことと、かつてデザイン系に特化したパソコン・・・・というより、DOS/V系のパソコンが、そのあたりに弱かった事で、アーティスティックなイメージが付いたことによるだろう。
パイオニアとか、数社がMacintoshパソコンを出そうとした時期もあったようだが、結果的に失敗し、Macは一時期低迷していた。
アップルの盛り返しは、Macよりもむしろ、iPODのおかげといった感はあるが、iPODはポータブルオーディオの幅を広げてくれて、非常に良かった反面、寡占とまでは行かないが、特にアメリカなどでは、ポータブルオーディオといえばiPODといった状況のようで、あまり面白くはない。
このあたりは、カセットテープやMDのようにメディアによる制限をあまり受けず、圧縮のフォーマットが再生方法を規定するだけなので、ソフトウェアが対応してしまえば、ハードは特定する必要がない。音楽を聴く、映像を見る、というだけなら、iPODであろうが、携帯であろうが、あまり関係ないわけで、ならばもう少し、多くのメーカーが拮抗してくれても良さそうなものだと思う。
幸いなことに、日本ではiPODのシェアは半分くらいのようなので、他の電機メーカーも、もっとがんばって欲しい。
さて、アップルの盛り返しはいいのだが、このこじゃれたイメージ戦略が、いかにも鼻について気に入らない。絶対にマックは使わないぞ、と固く決心してしまう。
Macを使っている友人はたくさんいるし、仕事関係でもデザイナーさんはMacとWindowsをうまく使い分けていたりする。・・・・歯医者さんも。
それでも尚、こんなCMを打ち出してくる企業の製品を使いたくないという、ぼくの何かにかちんと触れるのだ。
Windowsを馬鹿にしているようにも取れるCMだが、本質はそうではないだろう。シェアではとうていWindowsの敵ではないし、まさかMacはプライベート専用パソコンにしかならないという自虐的なCMのはずもない。
何というか、余裕を持ったセレブの、決して見下してはいないその態度こそが見下しているんだぞ的な、何かを感じるのだ。いや、見るたび気分が悪くなるCMだ。
尤も、Macというパソコン自体を嫌いなわけではない。パソコンは所詮パソコン、道具でしかないので、使いやすいものを選んだ結果が今なので、中身のソフトや、見栄えのために何かをするということはあっても、敢えて無理をしてMacに鞍替えの必要は感じていないが、使ってみたいときはある。
大きな画像データなどを扱う場合には、やはり有利なところもあるようだが、ではWinでは不十分かというと、私の仕事やプライベートでも決して不十分ではない。どちらかというと、ソフトウエアなどで選択肢の広いWindowsの方が、どうしても便利であるには違いない。
他人とのデータのやりとりでも、多くはWindowsだし、Macからのデータでも扱えるのだから、ほとんど現状ではそれ以上の必要はないわけだ。
そんな状況でけんかを売るようなあんなCM、どこ過去の反応は、アンチ巨人に似ている。またぞろ小笠原までもが巨人かよ!野球人も生活もあるし、子供の頃からきっと巨人ファンは多いわけだから、うなずけないわけではないが、プロ野球という意味ではあほらしい。
巨人というブランドに対する毛嫌いと、Macへのそれ、他の人には解らないかも知れないが、似ているのだ。それでも「巨人の星」は大好きだ。
何の話だか・・・・
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 01:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月21日
自殺
最近自殺が多い。数そのものが例年に比べて多いのかどうか知らないが、目立つ自殺が多い。
ここしばらくはいじめによる自殺が相次いだ。高校生の単位問題では、校長も自殺した。
元来日本には、自決という言葉があるように、自分の人生を自分で決める的な意味が、時折自殺という言葉には含まれることがある。憤死だったり、殉死だったり、その動機は様々である。
かつて三島由紀夫が自決したとき、私はまだ小学生だったが、テレビの放送は何となく覚えている。実はそれ以来、三島が好きになれず、何かの時に読んだ「潮騒」以外に、三島作品を読んだことがない。かつての三島由紀夫が、私の目には非常に軍国主義的に映ったからかも知れない。
かつての武士は、死罪の折ばかりでなく切腹などの手段で命を絶った。場合によって、それは武士道に準じるという意味もあったかも知れない。いずれにしても、最近の自殺というものとは、同列に語ることはできない。
この世の成り立ちというのは、科学がここまで発達しても、必ずしもその根幹では明快ではない。存在を意味論的に説明しようとすると、不分明な何かに撞着する。
長い間おそらく問いかけ続けられてきた「人間はなぜ生きるのか」といった問題に、明確に回答を出せる者はこれまでもいなかっただろうし、今後も出てくるとは思えない。できる最大限のことは、人生に何らかの重要な意味を、少なくとも持つことを(それは単純に死にたくないという恐怖からの執着でもいいが)人それぞれに与えると行ったことが精一杯だ。
自殺は決して意味のないことではない。なぜならそれは、一個の人生を終わらせる行為だからだ。テレビや新聞で、見知らぬ誰かが自殺しても、多くの場合、自分の人生には関わりがない。たまさか友人でも、感情的な同様はあっても、それを何年も引きずることはない。そう言う意味では、最終的に人間個々人は、孤独の存在なのだ。
だからこそ、何かがあったときに、死を選ぶ人間と選ばない人間が居る。このことはあたかも、何を食べるかとか、どんな企業に就職するかとか、そんなことと実は同じような気がする。単純な人間の強さなど関係ないし、関係あったとして、強い人間が、弱い人間を、「おまえは弱い」という権利はない。
一つには性格、一つには環境、教育、情報、様々な要因がそこにはある。
だが、いじめのような外的要因がその引き金を引くとすれば、実際問題それは殺人に等しい。「認識ある過失」程度には罪は重い。もちろん、いじめる側の認識がずっと低いケースもあろうとは思うが。
だが、学校長などがそういう現実の前で自殺したりするのは罪が重い。但し、その背景にあるのは死を持って償うという、個人の死が何かを償いうるのだという誤った考え方による部分も大きいと思う。
一体、人の死が、それ以前の何らかの過失や罪をどんな形で償えるというのだろう?
人の死は、その人が行った過失や罪を、どんな形でも償い得ない。
それは殺人事件の犯人が、死刑になっても、それは償うためではない。少なくとも現行の法律下で、死刑に処せられるような罪を犯した人間は、人として生きている価値がないから死刑になるのだ。死刑になったからといって、彼(または彼女)に殺された人間の命が、引き替えに戻るわけではない。
同様に、些細なことに責任を感じても、それで死を選ぶというのは避けられるのであれば、避けるにしくなはない。
しかしそれでも自殺は、その人間がそれ以外に考えられないところまで追い詰められているからこそ起こすのだ、ということを忘れてはならない。決して彼らにとっても、安直な選択肢ではないのだ。
考えてみるがいい、むしろ自殺をいけないという人間が、では実際に、他にどうしようもないと思えるような状況に至ったとき、果たして死を選べるだろうか?そう考えると、自殺にいたる決意というのは、生半可な苦しみではないことが解る。
それでも尚、所詮は100年もしないうちに、嫌でも死ななくてはいけない運命を背負っている我々が、その半ばで死を選ぶというのは、非常にもったいないし、論理的でもない。永遠に生きることなどできないのだから。
人生のこの難しい動議から、それでも尚、自殺率の高い日本は、まだそれを減らすための社会的努力ができるはずなのだ。それは統計が如実に示している。
少なくとも、10代半ばくらいで、この世に絶望してしまう子供たちをなくす努力はできるはずだ。
投稿者 keisuke : 無量大数 | 00:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月17日
教育基本法
教育基本法の改正が、与党の強行採決で衆議院を通過し、野党が審議を欠席したりと、いつもの国会が続いている。そもそも単独過半数を与党が持っている以上、政府案が通ることは、何をやってもその通りなので、ある意味仕方のないことだ。
だが、政党単位で何かを考えるにしても、連立与党という行ってみれば卑怯なやり方で単独過半数を取っている政府与党は、いつの場合でも、国民の真意をくみ取れるはずはない。政党政治なんてやめてしまい、個人単位で選挙も政治も行ってくれたら、今よりは明確な指示ができそうだが、所詮は人間、群れるに決まっているので、うまくいくはずもない。
さて、そんなこんなで教育基本法の改正はきっと通ってしまうのではないかと思うが、問題になっている一つに、政府案の第2条の「5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」という、いわゆる愛国心の涵養といったことがある。国民新党などは、そのものずばり「愛国心の涵養」という文言がないことを反対の理由の一つにしているが。
実際に条文を見ると、ちょっと読んでみただけでは、いいのか悪いのか解らない。確かに以前と変わっているのは解るが、それが新しくなった結果どうなるのかが、実はよく分からない。
上記の愛国心の問題もそうだが、そもそも愛国心という言葉に国民全体のある程度のコンセンサスがない時点で、意味がないように思う。「我が国と郷土を愛する」ことを教育現場で教えないと、自分の育った土地を愛せないのだとすれば、それはよほどその場所の治安が悪いとか、行政サービスが悪いとか、嫌な人間ばかり住んでいるとか・・・・・などと勘ぐりたくもなるが、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061116-00000136-mailo-l31
この記事の記者がいみじくも言うように、国家に対する忠誠とか奉仕といったニュアンスがあるのなら、それはまた別の問題だ。
今、姜尚中の「愛国の作法」という本を読み始めた(食事をするときだけ、ちまちまと読むので、なかなか進まないが)。姜尚中は、テレ朝の「朝まで生テレビ」とかでよく出ている大学の先生だが、実は時々何を言っているのか解らないことがある人だ。
必ずしも考え方を全て支持するわけではないが、愛国心を論理的に組み立て直そうとする姿勢は非常に共感できるし、方法論としてもすばらしい。そもそも愛国心をこころの問題として、論理理屈を排除した観点で決めつけたり、論じたりというのははなはだおかしな事で、あなたの行っている愛国心と、私の言っている愛国心は意味が違うと行った、そういう土俵での会話になりかねない。
実は広辞苑には愛国心という見出しがない。愛国という項目に「自分の国を愛すること」とあって、用例に愛国心がある。
ところが、小学館の大辞泉には「自分の国を愛し、国の名誉・存続などのために行動しようとする心。祖国愛。」という記載がある。問題とされるのはおそらくこの後段の部分だ。
いわば「おまえは国のために体を張れるか?」ということだ。「逃げる」やつは非国民ということになるのか?というお話だ。そして国を愛するということの意味がどこにあるのかを教育が教えるのだとすれば、それは・・・・私には子供はいないが・・・・親たるべきもの、その内容には神経質になる必要がある。
かつての日本国民は国のため、現人神たる天皇のために命をかけて戦った歴史がある。軍隊がある多くの国では徴兵制があり(韓国などでも)、若い時期の一時期を軍隊で過ごす。仮にそこにいるときに戦争が起きれば、命をかけて祖国のために戦う羽目になるわけである。
ここにはまず、「国家とは何か」とか、そこに属することの意味といったことのそもそも論がないままに、そこに生まれ育ったというだけの理由で、命を賭けて戦わねばならない現実を目の当たりにすることになる。
命の大切さを教える反面で、国のためにはそれを捨てるという教育がなされる可能性があるとすれば、単なる矛盾ではなく、自分事としての人生への国の関与ということに、どういう姿勢を取るかと言うことを考えなくてはならない。
よく日本は平和ボケなどといわれることがあるが、もし戦後の日本が平和国家としてぼけるほどの平和を謳歌しているのだとすれば、いい意味で、その平和ボケの根幹を世界に広めていくことの方が重要だ。
確かに北朝鮮や、いくつかの独裁的な国家は、自身がそこに住んだこともなく、メディアなどの情報を通じて知るしかないが、特定の個人やその周辺の意向で、エゴイスティックな国内、国外向けの政策がとられた場合、いかにしてそれに対抗するかというのは「平和ボケ」には頭の痛い現実ではある。
だが考えてみると、中・近世のヨーロッパだって、ついこの間までのソ連だって、ってみれば同じような環境の中から民主政治を勝ち取ってきたのであり、地域差で民主化は時間がかかるのだ。いずれはそれらの独裁国家だって、政治が変わるだろう。
愛国ということが、愛地球と同義語になることを願ってやまない。
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 00:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 8日
核武装論をするということ
しばらく前から、自民党の中川幹事長が「核武装に関する論議をすることは必要」という趣旨の発言をし、物議を醸し、さらに麻生外務大臣が、「ただ闇雲に核はいかんという風に言っているのではなく、きちんとした議論をした上で、なぜいけないのかを明確に・・・」みたいなことを言い、与野党から反発やらなにやら囂しいことになった。
今日の党首討論でも、阿部首相と民主党の小澤代表の間で、微妙にかみ合っていない議論があった。かみ合っていない最大の理由は、おそらく、小沢一郎もまた、内心では議論をすることを否定するだけの根拠を持たないからであろうと、わたしには思えた。
それはそうだろう。言論の自由を謳っている国で、議論することを否定しては、言論統制になる。
核がいけないという背景には、日本の場合、他の国と違って、世界で唯一の被爆国であるという点がある。そこには当然感情的なものも含まれる。「広島」「長崎」は、大阪や名古屋よりも世界では有名かも知れない。
個人的には、原水爆による死者も、コバルト爆弾による死者も、自動小銃による死者も、死者には変わりないので、ことさら原水爆の危険性を云々する最大の要因は、その破壊力の大きさと、実は、生き残った被爆者の人生という事だと言える。死んだ人にとっては、少なくとも戦争中であれば、死んだ後は一緒だ。
冷戦時代、「核の抑止力」ということがよく言われたが、では核がなかったら、米ソは戦争をしていたのかといえば、それはあくまで仮定の話なので、核など無くても戦争は起こっていなかったかも知れない。
だいたい、現実問題として、核を使わない戦争は、ベトナムや湾岸、イラクと、大きいものだけでもいくつも起こっているし、中東やアフリカ、朝鮮半島だって戦争は起きている。全て第二次世界大戦の後だ。
そもそもアインシュタインが生涯にわたって後悔したように、核爆弾というのは大量殺人兵器で、人類にとっては、文明の進化とともに手に入れたダモクレスの剣なのだ。太陽だって、核融合で輝いているわけで、核エネルギーというのをどう使うかという問題なのだ。
であれば、根本に横たわるのは「戦争と平和」というドストエフスキーではないが、二者択一の中で人類がどちらを選択するのかと言うことにつきるわけだ。
悪いことをするやつがいるから、それに対抗する武器が必要、ということと、相手より優位に立ちたいから武器が必要という葛藤の中で、人類は発展してきたわけだが、石が刃物に変わり、槍、弓、銃、大砲、爆弾、核爆弾とより多くを確実に殺すために作られた武器は、単なる悪人向けのものではなく、どちらかといえば、覇権を握るためのものだ。
今となっては、「武器よさらば」というわけには行かない。しかし、可能な限りそこを目指すことはできるわけで、大きいものから捨てていこうというのがNPT、核拡散防止条約で、テロはそれに屈してはいけないとは思うし、北朝鮮があるいはテロ国家、テロ支援国家なのかも知れないから、それに対してのほほんとしていてはいけないというのも事実だろう。
実際にミサイルが飛んできたら、しかもそれに不十分ではあっても核弾頭が搭載されていたら、また、原発付近に落ちたら、とか、想定だけはいくらでもできる。
隣に拳銃を持った男が引っ越してきたら、そして男がおれは拳銃を持っている、といえば、警察に連絡するだろう。しかし、警察がそれでも24時間守ってくれないとすれば、何らかの対抗措置を執るかも知れない。先制攻撃はないにしても。
等と言うことを、色々考えるべき時、それでも尚かつ核など持たない方がいいし、世界に向けてもNPTの推進を日本は中心になって勧めていくべきだろうと思うが、では、その中で、では日本が核を持ったらどうなるとか、そんなことを議論することをタブーにして一体どうするのだろう。
仮に、日本の世論や政治家の過半数以上が、核を持とうと思えば、それは国民の意思に違いない。それが民主主義国家らしいから。でも、そんなことになると皆思っているのだろうか?
ならないように努力しようじゃないか。そしてその中で、堂々と議論をし、その議論を世界に広めていくことが、武力を持たない国が、世界に向けてできる最善のことなんじゃないだろうか。
そのためにこそ、核はいかんと言い、北朝鮮はもとより、インドにもパキスタンにも、中国にもロシアにもフランスにもイギリスにも、そして何よりアメリカに向かって言い続けなくてはいけないのではないか?
投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 6日
インターネットの速報性
国内のインターネットの利用者数は、4千万人近いらしい。携帯電話は1億人(台)近いから、倍くらいになる。もちろん、携帯電話は電話なので、情報端末としての利用は、やはりインターネットの方が高いだろう。
最近、続きはウェブでという安直なCMが増えた。商品を宣伝しようというのに、消費者に手間を取らせようというのだ。オリコカードのはつい見てしまった!
情報端末という意味で、PCはテレビに変わるのかどうかは知らないが、テレビの普及台数と、インターネットの利用者数が同じくらいになる日はそう遠くないだろう。
さて、今日、ミズノ・クラシックをテレビで見ていたのだが、結果を知りたくてネットを検索した。日米野球と違って、これは録画なので、すでに結果は出ているはずだからだ。同じ理由で、女子バレーも結果を探した。
どちらもネット上の新聞で見つけた。但し、そこに行き着くまでは少々面倒だった。ほんとに少々だが。
当然、テレビ放映されているので、公式サイトでは結果を出していない。
しかしちょっと待てよ?
テレビの放送と、ネット上の情報が、どうしてリンクしなくてはならないのだ?
すでに結果が出てるなら、出ている段階でネット上に掲載すれば良いではないか。少なくともニュース速報では(ネット上で)見ることができるわけだから。
もし、テレビでわくわくしながら見ているかも知れない視聴者への配慮なら、そもそもおかしい。わざわざネットで探してまで見ようという人間は、取り敢えず結果が知りたかっただけで、その後の試合はあまり観ない。当然今日の私も観なかった。
結果が分からなかったら観たかというと、可能性としてはあるが、それとは別の理由で観なかったりするわけで、あまり関係ない。
テレビというのは、自身や大きな事件以外では、あまりニュース速報などをながすことはない。先日テレビ朝日の「太閤記」の時に、北朝鮮が六カ国協議に出席することになったというニュースが出た。これこそ余計なニュース速報だ。「太閤記」をそれほど面白く観ていたわけではないが(今回の太閤記はそれほど出来がいいとは思えないので・・・千利休が信長に始めて会ったのがいつかは知らないが、桶狭間の前ならきっとまだ30代か40代くらいのはずだ。あの藤田まことでは、秀吉が太閤になる頃にはとっくに死んでるぞ。)、
北朝鮮がミサイルを撃ったとか、2回目の核実験を行ったというのなら話は別だが、六カ国協議に参加するといった程度なら、ニュースの時間で十分だ。
これは、利用者にとって、いかにテレビが受動的なメディアであるかという典型だ。
いや、Web2.0だろうがなんだろうが、基本的にメディアは、利用者にとって受動的であることは、基本的に変わらない。メディアの発信側という意味では全く違うが。
ゴルフの結果やバレーボールの結果が、リアルタイムに更新されてこそ、その受動性は非常に緩和され、ある意味、ネットも次の世代へと入っていくのだ。テレビと妙なコラボレートをされたのでは、全くネットの意味がない。
もちろん、ニュースでも何でも、事が起きてからそれがメディアを通じて伝わるまでにはタイムラグがある。それだ、といってしまえば、今回のこともそうではないと、断言できるわけではない。実際に、ニュースも、ネット配信よりはテレビの方が速報性が高い。
しかし、そのあたりの利便性を高めていくことが、今後のネットの融通性であり、展望を明るくしていくのだ。
ネットが本当に便利で、あらゆる意味で使いやすくなるためには、発信者側がより大変になっていくのかも知れない。どうしたって、全て機械ではできないわけで、最終的には人の力なのだな。
頭にチップ埋め込んで、記者が思考でニュース配信なんていう時代もくるかも知れないけど。
投稿者 keisuke : スポーツ | 00:27 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 5日
ポール・モーリア
ポール・モーリアが亡くなった。81歳だったという事だ。
最初にポールモーリアの音楽に接したのは、今から35年くらい前の話だ。だから、当時彼は40代だったという事だが、当時から、どう見てもじじいだと思っていたのだが、まだ若かったのだ。
カセットテープにポール・モーリア楽団の音楽はたくさん入れていた。
今回ニュースで、「恋は水色」の・・・・とあったが、確かに「恋は水色」は有名だし、ジェフ・ベックもカバーしているが、ポール・モーリアといえば、少なくとも日本人は「オリーブの首飾り」だろう。
これがかかるだけで、誰かがマジックをやるのだと思うくらいに、演芸マジシャンの代名詞みたいな曲だ。
「エーゲ海の真珠」とか「涙のトッカータ」とか、ジェット・ストリームなどの番組でよくかかっていた。
イージー・リスニングというジャンルの王様みたいな存在だったように思う。
ポール・モーリアを筆頭に、レイモン・ルフェーブル、リチャード・クレーダーマン、パーシー・フェイス・オーケストラ、フランク・プウルセル等々、当時はよく聴いていた。クレーダーマンは少し後かな?
クラシックでもなく、ポップスというにはエレガントで、イージー・リスニングとはよく言ったものだという感じだ。
ポール・モーリアという位だから、きっとフランス人だと思うが、タワーレコードで検索したら、ほとんど国内盤で、輸入盤は少ない。よくある日本で一番ヒットというたぐいなのだろうか?
明るい曲よりも、多くが哀愁を帯びた音楽だったように思う。日本人の感性に何か訴えかけるものがあるのだろう。
久々に聴きたいと思っても、持っていないので、今度買うかな。哀悼の意味も込めて。
投稿者 keisuke : 音楽 | 02:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年11月 3日
日米野球
今日から日米野球が始まった。定食屋に夕飯を食いに入ったらやっていた。今日は巨人対MLBで、どうやら同点で終わったらしい。
明日から日本代表と1週間で5試合するらしい。
Yahoo!の関連記事などで、出場辞退選手が、名前の判っている選手以外にも居て、25人くらいが辞退しているらしい。
今シーズン限りで辞めてしまう新庄や、直後のアジアシリーズに出場する日ハムの選手はともかくとして(野手だからだろうが、小笠原はそれでも途中まで出るらしいが)、それ以外の多くの選手は、だいたいが怪我だったりする。
Yahoo!のアンケートでは、7割くらいが出場すべきと考えている。そして、おそらくはこれが世論というものだろうし、口ではファンファン、と連呼するのであれば、その試合の価値云々は別にして、多少の無理は押して出るべきだろう。少なくともファン投票で選ばれた選手は、その義務があるし、そのための高額年俸でもある。
ましてや日本シリーズや、直前まで、自分たちが優勝するための試合にはがんばって出ていた選手がその中にたくさんいる。もちろん、その選手たちにとっての優先順位なのだろう。
私は、あらゆる職業は客商売だと思っている。行政や芸術家でも同じだ。貨幣経済社会の中で、飯を食うためには何らかの形で金を稼がなくてはならない。金を稼ぐと言うことは、何らかの側面で対価を払う「顧客」が居るということで、行政であればそれは税金だし、芸術家であってもパトロンやスポンサーではなくとも、売れなければのたれ死にするしかない。
スポーツ選手もまた同様、彼らの給料は最終的には多くのファンやスポンサー起業にお金を落とす一般人から出ているのだ。ファン投票の多くは、彼らにそこで活躍して欲しいと感じているファンの気持ちだ。ファンというのは身勝手だが、でも彼らが金を払い、その金で、通常よりも高い給料を彼らは得ている。
よくスポーツ選手は選手寿命が短いから、高い年俸をもらうのは当然だということを言う人があるが、それは全く当たっていない。彼らが高い年俸をもらうのは、それに見合う活躍、平たく言えば総合的な意味でのファンサービスへの対価として評価を得ていると言うことに過ぎない。選手を辞めた後の生活など、勝手に考えればよい。それは、定年後のサラリーマンだって同じだ。
政治家には退職金がないから議員年金があるようなことを言っている議員がいたが、退職金が欲しいのなら、議員を辞めてサラリーマンになれと言うだけのことだ。
スポーツ選手には年俸として数千万、数億を得るだけのサービスをすべき義務がある。もちろん、命をかけて行う必要は全くないと思うし、怪我を治したいという気持ちも分かる。あるいは、シーズンの最後の試合が限界だったのかも知れない。でも、それが選抜された数十人の中の何割もの選手だと言うことになれば、自ずとこんな試合は出なくても良かろうという、勝手な思いがあると見ないわけにはいかない。
シーズン中だって怪我を押して、多くの選手はがんばっている。だから、シーズンオフのはじめくらいは休めるなら休めばいいと思うが、でも、日頃ファンが大切と、言っているばかりでは嘘くささも感じてしまう。
かなりの人が、そもそも日米野球なんて、と思っているのかも知れない。まあ、私もそのうち野一人だ。おもしろさという意味では、ペナントの方が面白い。でも、日米野球だって楽しみにしている人はたくさんいるし、現にチケットを買って見に行く人が大勢いるのだ。
ファン投票12名の内7名が辞退って、おかしすぎないだろうか?
おかしいと言えば、読売がスポンサーだからだと思うが、日米の選抜の前になぜかMLB対巨人を1試合だけやる。これもおかしな話だ。こういうところで、アンチジャイアンツは、さらにそのアンチ度を増すのである。
投稿者 keisuke : スポーツ | 00:10 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年11月 2日
奇遇
今日、ちょっと用があって表参道へ行った。私の家は笹塚なので、新宿回りでも明大回りでも、渋谷から行くのが一番近い。渋谷へ出る場合は、JRを使わず、井の頭線を回ることが最近は多い。単純に料金だけ考えても安いが、乗り換えなどを考えるとこちらの方が早いのだ。行く場所によっては、神泉あたりで降りた方が便利な場合もある。
今日は、銀座線で表参道に向かった。表参道ヒルズの対面を歩き、用事を済ませ、帰途についた。当然来たときとは逆に回って返った。この時間は、井の頭線はこんなに混むのか!
通勤ラッシュを経験しなくなって・・・・・というか、通勤ラッシュを経験したことはほとんど無いのだが、・・・・時々混む電車にも乗るが、今日の急行吉祥寺行きは乗るのを断念した。向かいに停まっている各駅停車に乗った。
こちらも空いていたわけではないが、下北沢でたくさんの人が降りる。小田急線の乗り換えだから当然という部当然だが、いったん空いた車内で、ふと立っていた反対側の座席を見ると、一人の男性が。
いや、全く知り合いではない。
ただ、行きの井の頭線で、私のすぐ目の前にいた御仁だ。20代くらいの背の高い、白い帽子をかぶった男性。オーディオ・テクニカのヘッドホンで音楽を聴いていたので、たまたま印象に残っていた。
私はビクターのヘッドフォンを使っているのだが、オーディオテクニカのものは、何となく音が良さそうだな、等と思っていたので、そのヘッドホンが気になり、行きの電車で見かけただけの男性をたまたま記憶していたのだが、まさか帰りの電車でも、同じ時間の同じ車両に乗り合わせるなんて!
何て奇遇な!!
と思ったわけだ。別に声も掛けないし、親しくなりたいという気もないが、何か不思議なものを感じざるを得ない。可愛い子だったら声を掛けちゃうのかな?
いや、そんな男がこの年まで独身で居るはずもないので、男女は関係ない。
まあとにかく、世間は狭いものだと実感した瞬間ではあった。
投稿者 keisuke : 人生 | 00:28 | コメント (0) | トラックバック (0)