2006年10月31日
Softbank
20日に番号ポータビリティーに関して書いたばかりでなんだが、Softbankが連日システムを停止しているというニュースに関して。
auは24日以降、8万件の会員増だという。DoCoMoは6万人減。Softbankは発表していないと言うが、発表できないのだろう。システムが動かないから。だが、単純に差を計算すれば2万人減という数字が出てくる。
2,880円でSoftbank同士の通話は無料というのは、現在の家族定額やLove定額よりもいい。なぜなら、この二つはそれぞれ、300円のオプションサービス料金を取られるからだ。
単純に考えて、3社が今のサービスを継続するとした場合、全ての携帯利用者がSoftbankに会社を変更すれば、携帯同士の通話は、2,880円の固定料金で誰もが使える(多少の例外はあるとしても。固定電話との通話など)、ということになるわけだ。
ところが世の中そうはならないわけで、むしろauの方が会員数を伸ばしているのだ。値段以外のサービスにもよるだろうし、CM等のイメージ戦略でもauが成功しているとも言えるかも知れない。auはKDDIだから、元々国際電話の会社だが、この勢いで行けば、DoCoMoの牙城は簡単に崩れそうな勢いではある。
さて、8万人増加のauと、6万人減のDoCoMo、2万人減少しているかも知れないSoftbank。今回の番号ポータビリティサービスは、番号の解約と持ち出しで、元の会社と新しい会社の双方に負担がかかるわけで、その中、どうもSoftbankのシステムは、単純に弱いのではないかと推測できる。
孫正義の発表がぎりぎりだったということに原因を求める向きも多いが、スタートは一緒で、処理吸うが他の2社が多いとすれば、単なる処理能力の低さのような・・・・
もちろん、Softbank内でのサービス変更も多数合ったに違いないが、そうもSoftbankのシステムは心許ない。
といって、今回のシステムダウンなど、先日のNTTの光通信とIP電話の不具合に比べたら、大したことはないし、たぶんSoftbankに変更しようとした人たちは、単純に人気がある程度に感じたケースも少なくないに違いない。
これまで携帯にいくら払っていたか判らない人たちが、少なくとも、安くなり、さらに長時間話ができるとなれば、最初のシステムトラブルなど、それほど痛くはない。
ちなみに、私は実家の母の携帯をSoftbankにして(当時はVodafoneだが)、それまで使っていた固定電話から、全て携帯に変更した。双方の負担300円、計600円でどれだけ話してもそれ以上かからないわけだから、他の電話会社に変える理由がない。
今日、孫氏が、2,880円のコースの他社への通話が他の会社より高いのを、「同じにする」と発表したので、もしかすると、家族定額よりも、こちらの方がお得になるのかも知れない。
但し、Softbankのホームページの判りづらいこと・・・・・
もう少し簡単に判るようにしてくれないかな。
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月30日
アクセスログ
うちでのこづちを始めて、ほぼ2年と2ヶ月になる。エントリーの数が442なので、2日に一つは書いている計算になる。いや、最近とみに書いていないから、ほぼ毎日書いていた頃が、貯金となって現在が存在するのは間違いないことなのだが、そのことは指摘されるまでもなく、自分が一番よく知っている。
当初よりアクセスログを取り始めたのだが、http://www.futomi.com/library/accs.html こちらの、フリーのアクセス解析スクリプトを使わせてもらっている。月ごとにサイト全体のログを取得しているのだが、私の場合、「横山光輝の世界」という、大家の名前を看板にしたサイトを運営しているので、当然そこへのアクセスが圧倒的に多い。
だいたい全体の85%が「横山光輝の世界」なのだが、残りの15%は、それ以外のページへのアクセスなのだ。Yahoo!がやはり多いが、Wikipediaからのアクセスも多い。Googleより上だ。これはびっくり。
ただ、時々思いもかけないサイトから来ていることもある。何でここから?というところだ。インターネットというのは面白いものだと思う。
当然のこと、検索キーワードも「横山光輝」というのが最も多い。他を圧倒して桁が違う。
ところが、ここに面白い現象がある。
私は2004年の10月に「中学生へのセックス規制」というタイトルで記事を書いたことがある。東京都が条例を作って規制をしようとするというニュースに対して意見を述べたものだ。結果的にどうなったのか、ネットでざっと調べてみてもよく分からないが、まあ、あのニュースがあってから、ほぼ2年が経つわけだ。
さて、そのこと自体の経緯は別にして、アクセスのキーワードに「中学生のセックス」というのが非常に多い。実を言えば、今月のキーワードの2位だ。それ以下に4大文明とか、反対語とか、非常にオーソドックスなキーワードが並ぶ中で、「中学生のセックス」、あるいは「中学生 セックス」というキーワードが100近くに及ぶ。
もちろん、前述の条例に関する興味の検索もあろうとは思うし、実はそのことが非常に多くの関心を持っていそうなのは、他のキーワードからも推測できる。あえて「中学生」と入力してくるのであるから、そうだろうと思う。
しかし、最近はニュースでもしていないし、それほどアップトゥーデートな話題なのか?と首をかしげたくなる。最初は、やらしい興味かとも思ったのだが、・・・もちろんそれもあると思うが、どうもそれだけではなさそうなので、ネットで検索してみた。
「中学生のセックス規制」とやると、ここのサイトがトップに出るではないか!「中学生のセックス禁止」とすれば、ほとんど出てこない。確かに、規制ではなく禁止の法が正しいかも知れない。「だめ」というわけだから。規制というと、部分的に制限するニュアンスがないでもない。
おっと、これは、よくできたSEOではないのかと、自分で驚いた。なかなかSEOなど施しても、上位に行くのは難しいが、こんなところで検索の上位に入っているとは。うれしいような、恥ずかしいような複雑な気持ちだ。
読み返してみても、2年前と今とで、意見は変わらないので、自分自身としては妥当な内容だと信じてはいるが、現実を知らないオヤジの戯言に見える向きもあるのかな?などという思いもふとかすめる。
インターネットに、様々な意見や思いを披瀝していくことで、少しだけ社会参画しているような錯覚を覚えるのだが、ある程度読んでもらえていれば、それもあながち、全くの錯覚とは言い切れないだろう。ふと、自分流で、地道に書き続けていくことのよりどころを見つけたような気になった。・・・・話題は話題なのだがね。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 01:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月27日
mixi
しばらく前から、無理矢理誘ってもらってmixiをやっている。日記はほとんど書かずに、もっぱら他人の日記やらコミュニティの書き込みを読んでいる。といってもそう熱心にではないのだが。
SNSがmixiのおかげで社会現象のようになり、mixi自体も上場するなど、活発でよろしいのだが、ブログを書くにもこれだけパワー・ダウンしている人間が、プラスmixiで活発に発言できる道理もない。
もちろん、基本的にブログもmixiも、発信対象が、不特定多数か、限られた人間かの違いだけで、異なるわけではない。但し、mixiの参加人数を考えれば、mixi自体、不特定多数への発言といっても過言ではない。ブログにしたって、最初の内は、見てくれるのは親しい友人がほとんどなので、mixiの世界とそれほど変わるわけではない。
mixiを友達の友達の友達の・・・・という連鎖によって安心と考える向きもあるようだが、小規模なSNSに比べたら、ほとんどインターネットの通常世界と変わるところはないように感じられる。尤も、2チャンネルなどによくあるような、悪意の発露みたいなものは確かにないとは言えるし、仮にあった場合でも、比較的簡単にオミットできるのは、いい点でもあると思う。
昨今、学校ばかりでなくネット上のいじめで自殺に発展するケースもあるようなので、つくづく、言葉とは恐ろしいものだと思う。誤解で仲違いをするのであれば、どこかに仲直りの落としどころもあると思うが、悪意を込めた攻撃は、耐えられない人も多いと思う。無視すればいいと思えるが、意外に人間、自分に降りかかると無視できないものだ。
かつて私がやっている「横山光輝の世界」の人気投票のようなコーナーにも、「殺す」などの不愉快な投稿がたくさんあったことがある。ただの嫌がらせだとは思っても、こういう世の中だから、完全に無視できるほど、私は強くないし、その字面を見るたびに気分は悪くなる。
さて、今回の話はそんなことではなく、たまたまmixiの設定変更と言うところを見たら、mixiの日記欄は外部ブログも指定できることを知った。せっかくなので、ちょっと試しにここを指定してみた。
結果がどうなるのか判らないが、取り敢えず自分からは、mixi内で日記が書けなくなった。当然ここのサイトへのリンクが表示されている。RSSのページも指定できるので、フィードをmixiで拾ってくれるのだろう。
ちなみにフィード(Feed)とは、更新情報の発信というような意味だろうと思うが、ホームページの受動性を、より能動的な方向に変えるための仕組みだ。辞書でフィードと引くと、基本的には日本語の場合、まだ「フィードバック」という単語しか出てこない。英和で見れば「供給」という風に出てくるので、いずれ日本語としても定着するのであろうが、まだまだ一般的ではない。
mixiとブログは一緒だと書いたが、私個人としては、この「うちでのこづち」を日記だと思っていないので・・・・まあ、ここでまた日記の定義というのが本当は必要なのだろうが・・・・mixiにここで書いているようなことを書くのは、どうも違和感がある。また、自身の日記としては他人に公開して面白い内容はきわめて少ないし、そこら辺を面白く書く技術もない。
SNSという世界が、インターネットを根本から変えるとは思えないし、mixiだけがSNSでもないので、棲み分けや横断的な利用と、それに割ける時間との兼ね合いが決めるのだと思うし、日本と海外ではまたその傾向も違うはずだ。
閉鎖的なはずのSNSも、百万単位の人間が参加するとなれば、かつてのニフティサーブの会議室などよりも、よっぽどでかい世界ではないだろうか。事はいつでも相対的なのだ。
そういえば、スパムでよく大人のSNSみたいなのが届く。スパムのどの程度が、悪質なものであるのかどうか、毎日数千件をメーラーが処理してくれても、それでも通過してくるものはあるし、完全に制御するのは無理だと思うのだが、ちょっと、この辺のSNSは興味がないわけではない。・・・・そのまま迷惑メールに移行して、見たことがないので、今度見てみよう。
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 21:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月24日
内田康夫
内田康夫の「秋田殺人事件」を読んだ。初出は2000年で、新書版で出たのが2002年。しばらく本箱の奥で眠っていたものだ。
内田康夫を読み始めたのは何年くらい前だろう。水谷豊が浅見光彦をやっていたのと、ほぼ同じ頃なので、20年くらいは前だろうと思う。最初に読んだのは「小樽殺人事件」だった気がする。光文社文庫が出たのが1989年になっているので、きっとその頃だろう。職場の店長が読むというので、読んでしまったものを何冊か上げた記憶がある。
「小樽殺人事件」を皮切りに、10年間でたぶん50冊くらいは読んだ。
最近でも中村俊介や沢村一樹などが浅見光彦をやっているし、それ以外にも、辰巳琢郎や榎木孝明などがやっていた。気になったので調べてみると、最初の浅見は国広富之、次が篠田三郎、三代目が水谷豊らしい。それ以外にも、高嶋政伸もやっているらしい。
なぜこのドラマについていきなり書くかというと、私にとっては、作品のおもしろさもさることながら、水谷豊主演のシリーズが、内田康夫作品を続けて読むための最初の原動力でもあったからだ。
内田康夫自身は浅見のイメージをどこかで、森田健作と書いていたが、それはまあ、時代のなせる技で、最近の浅見光彦は、どれもうまくイメージにはまってはいるように思う。実は水谷豊はそのイメージから最も遠い。しかし実は水谷作品は現在DVDになっているものだけでなく、全部で8作品ある。以下にこのシリーズが人気があったかということだ。
逆に、淺見のイメージが固定化することをおそれ、作者からストップがかかったという話を聞いた。
それぞれ、作品としてよくできているし、内田康夫がかつての作品に宿していた「古き良き日本」と「戦争の陰」という雰囲気もうまく醸していた。しかし何より、水谷豊の演技力でもあったと思う。現在の「相棒」でもいい味を出しているし、かつての「傷だらけの天使」では、全く今の水谷を予測できない役者だったように思う。
まあ確かに、10も20もそれで映像化されたら、見る側はともかく、作者は面白くなかろう。まして淺見のイメージとは少々違うので。
まあとにかく、久しぶりに読んだ内田康夫だった。どれくらい久しぶりかというと、たぶん、2年以上は読んでいない久しぶりだ。
内田康夫を読むというのは、ほぼ9割以上の確率で、「浅見光彦シリーズ」を読むと同意語なので、いわば、それを7〜80冊くらい読んだということで、岡部とか竹村という、読んではいてもなぜか浅見光彦の方が面白いという不思議な主人公ではある。
浅見光彦クラブなどという、ファンクラブまであるらしい。まあ、実際は内田康夫ファンクラブだと思うが、力石徹の葬儀だってあるくらいだから、解らない。
私が浅見シリーズを読む最大の魅力は何か?といわれて最初に答えるのが、「浅見光彦が警察の取り調べで警察庁刑事局長の弟と判って、警察官が、急に態度を急変させるシーン」というのだが、実際そこが楽しみで読んでいるので、そのシーンがないと、非常にがっかりする。印籠のシーンが無くて寂しい思いをするおじいちゃんのばあちゃんの水戸黄門にたいする気持ちがよく分かるのだ。
どちらかというと、あまりミステリとして読んでいないな、と思う。
「秋田殺人事件」だが、秋田杉の家にまつわる現実の事件をベースに書かれていて、ある時からの内田康夫は、非常に社会派で、もちろんそれは昔から無かったわけではないが、ある意味、現実の事件を非常に上手く扱ってフィクションに仕上げている。
実際今回もそうで、上記の事件と新任の女性副知事、警察の腐敗みたいなものが内田流の正義感で上手に書かれている。
しかし、この社会派が前面に出すぎた内田作品というのは、あまりリアリティのない清純派探偵浅見光彦と、これまたリアリティのない、どちらかといえば定型化されたヒロインのからみとともに、限界を感じざるを得ない。
相変わらず小説はうまいし、読みやすい。だが、必ずしも共通認識のもてないものの考え方を、あまりに強く読者に向けて放射しすぎていて、鼻につく。それは例えば、面白いのだが、作者の訴えかけが鼻につく「鉄腕アトム」よりも、純粋に善悪二元論でエンターテインメントに疾駆した「鉄人28号」の方が、面白いというのと似ている。
もちろんアトムと鉄人同様、趣味は様々なので、私が「鼻につく」部分に、至極共感を覚える読者はたくさんいるだろうし、浅見ファンの多くはきっとそうなのだろうな、と思う。差別的な意識はさらさら無いが、女性読者にはきっと多そうな気がする。あくまで気がするだが。
内田康夫さんにはぜひとも、あまり政治家や官僚の登場しない、こてこてのミステリを書いていただくと、より面白い。
もはや、永遠の33歳、浅見光彦は、セックスもしない清廉潔白な朴念仁として事件解決のためにどこまでもソアラを走らせてくれればいいし、ヒロインとのからみも期待しないので、せめてあまりにきれいな解決(特に政治的なものや、犯人自殺というパターンなど)は、何か残念でならない。
まあ、昔読んだものも相当記憶の彼方で、忘れているので、上記の指摘は実は当たっていないかも知れない。ただ、そんな印象があるんだよなあ。
いや「秋田殺人事件」も、面白いには面白かったですが。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月20日
番号ポータビリティ
来週から番号ポータビリティーにより、電話番号を変えないで携帯会社を変更できるようになる。とても良いことだと思うが、さてどれほどの人が変更するのだろうか?
携帯電話が普及し始めてからすでに10年くらい経つだろうが、その間に、携帯電話はかなり良くなり、一般電話を持たなくなった人もたくさんいる。先日、Yahoo!だったかどこだったか忘れたが、「一般電話はもう不要だと思うか?」というアンケートがあり、かなりの数の人がもう不要だとしていた。
まだまだ携帯を持たない人も多いし、すぐに一般電話が不要になるほどには携帯は万能ではない。しかもまだまだ料金は高いし、単純に携帯だけにするわけにはいかないだろう。
だが、IP電話やSkypeなどの無料通話と言ったように、一般電話が徐々になくなるというか、携帯などに取って代わられる要素は次々に出ている。
そんな中のポータビリティー、メール・アドレスはその性質上やむを得ないが、そのままキャリアを変えられるのは非常にいいことだ。
しかしこれは番号ポータビリティー以前の問題だと思うのだが、同じキャリア内で機種変更をしても、古い携帯から引き継げるのが、電話番号や、メールアドレスなどのアカウント情報だけで、メールの内容、ダウンロードしたコンテンツなどは引き継げない。これはいつまで経っても変わらない。携帯会社は、何か努力すべきところが違っているのでは?と常に思う。
実はメールの内容の移行は、パソコンの例えば、Outlook Expressでも非常に面倒くさい感じがする。
以前のように、フォルダごとまとめてコピーでは全く無理だし、これはthunderbirdでも同じだ。
パソコンを変え変えたりした場合、古いデータを移行させるために、わざわざ専用のソフトを購入するなどというのはおかしな事で、そんな機能はOSが備えていてしかるべきだと思う。
特に昔と違い、ファイルの圧縮技術や、DVDやCDのサポートなど当たり前の時代に、古いパソコンで、どこかをクリックしたら、メールやパスワード情報、お気に入りとか、少なくとも単純にファイルとして見えていない情報をまとめてはき出し、新しいパソコンで簡単にその設定を吸い上げる仕組みがあってもしかるべきと思う。しかも初心者でも解るように。
同様に携帯も、容量の問題や、かえって古い携帯に変えたということでもない限り、可能な限り全てのデータを新しい携帯に移せる機能は無くてはならない機能だと思う。ゲームにしたって音楽にしたって、有料でダウンロードしているわけで、携帯を変えたとたんに使えなくなるというのは、家を引っ越して電気製品やガスが使えなくなったと言われているようなものだ。
テレビが見れるようになったなどよりも、技術的にはさっさとどうにかしてくれと言う優先度は高いはずだ。
ちなみにSoftbankのアクオス携帯は売れているらしい。
私はSoftbank(というかVodafoneだが)の携帯を使っているが、このところのSoftbankのCMを見ていて、DoCoMoやauに比べて、サービスに関するアピールが全くなく、「予想外」という意味不明のことばかり言っているような気がしている。あのCMにかけているお金を、サービスに転換してくれと切に思う。CMを見ている限りauはお得感があるし、DoCoMoはそれなりに安定感がある。
ちなみに、友人の一人は、未だにJ-phoneを使っている(とうとうSoftbankになってしまいましたね!)。
実は他のキャリアはよく分からないが、Softbankは結構圏外になることが多い。もちろん都心でだ。ファミレスなどで隅の方だったり、先日は仙川駅のホームで圏外になっていた。
携帯は無ければ無くて済んでいたものだが、あればあるで、機能をきちんと果たしてくれないと困るのだ。人待ちでファミレスで時間をつぶしているときに、連絡が入ったら出ようと考えていて、ふと画面を見たら圏外!こんな事で困ったことのある人は大勢いるだろう。
そういえば、先日久しぶりに内田康夫を読んだのだが、当然何年も前の作品なので、一概に何とも言えないが、浅見光彦は母親から携帯を持ってはいけないと言われて、携帯を所持していない。掲示から、そろそろ携帯を持ってくれということを言われるというシーンがあったが、さて、最近の作品では、携帯を持っているのだろうか?ちょっと気になる。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月12日
ブルックナー
ブルックナーは言うまでもなく、19世紀後半に活躍したクラシックの作曲家だ。
私はここで何度も書いているようにマーラーの復活をきっかけに、多くクラシックを聴くようになった。ブルックナーとマーラーは、師弟関係にあるので、よく書物などでは「ブルックナー・マーラー」などと一括りにされることがある。ブルックナーは1824年生まれなので、1860年生まれのマーラーとは36歳の年の差がある。70年代の半ばにウィーン音楽院で、マーラーはブルックナーから和声を習っている。
マーラーが交響曲で歌を多用しているのに反して、ブルックナーは一切それがない。だが、宗教曲を除くと、ブルックナーの作品もおおむね交響曲ばかりで、しかもベートーヴェン以来の9曲の呪縛に見事はまっている。だからこそマーラーは、巨大な第8番の後に「大地の歌」を交響曲として発表したのだ。
さて、これまでブルックナーのレコードやCDを持っていなかったわけではなく、相当昔に、0,3,4,8,9という番号の交響曲をレコード、あるいはCDで持っていた。何回かは聴いている。しかしこれまで、何度聞いても、どこがいいのか解らなかった。
ブルックナーにかに関しては、昔はよく「天国的」とか言う表現を聞いたことがあるような記憶があるが、独特と言ってもいいスケルツォ(ブルックナークレッシェンドとでも呼びたいような)や、やたらと金管がうるさいというイメージを払拭しきれないでいた。
最近、タワーレコードでロジェストヴェンスキーのブルックナーの交響曲全集を買った。私はロジェヴェンという人が好きで、ショスタコーヴィチの交響曲全集やら、チャイコフスキーの後期の交響曲やらを愛聴しているが、このブルックナーもなかなかよい。
これまで聴いたことがなかった、2,5,6と言った曲や、持っていなかった1,7なども面白い。アダージョは綺麗だし、金管もうるさく感じられなくなり、相変わらずランダムできているときにブルックナーのどこかの楽章がかかると、つい必要以上に耳を傾ける。
もとより、本も読んでいないし、ライナーも読んでいない(輸入盤なので読めないのだが)。だからブルックナーの知識は非常に乏しいのだが、重厚で、そのくせ広がりがあり、巨大な何かを感じる曲が多い。マーラーと違って、描写的なところは少ないような気がする。
むしろ、ベートーヴェン、ブラームスと来たドイツの交響曲の正当な後継者という気がする。ドイツらしい堅苦しさはやはり備えているように思う。
昔と違い、1曲聴き通すという聴き方をほとんどしなくなったので、演奏会にでも行かない限り、どうしても部分聴きになる。まあ、それが私の楽しみ方なので、あえてそれを変えようとは思わないし、ブルックナーの後にレインボーでもかかったりすると、一気にそのモードになるので、まだまだブルックナーには浅い。
クラシックというのは、面白いと思う。昔はブラームスだって面白くないと思っていたが、今では大好きだし、最近はほとんど聴かなかったベッリーニなども好きだ。まだまだ埋もれている作曲家とか、どちらかというと、バッハという大家が私のテリトリーにほとんどいないので、開拓の余地がある。
ロジェヴェンと言えば、ロシアの指揮者だが、昔ビクターから出ていたメロディアというレーベルは、いい盤がたくさんあった。神保町の古書センターの上の方に、ロシアものを中心にしたCDショップがあり、そこでロシアンロックなども買ったりかつてはしたものなのだが、今でもあの店はあるのだろうか?何年も行ってはいない。店名も忘れた。久々に行ってみようか。・・・芳賀書店には行かないぞ。・・・たぶん。
投稿者 keisuke : 音楽 | 00:42 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 9日
大宇宙の旅
しばらく前に「大宇宙の旅」という本を人からプレゼントされた。
荒木俊馬という1978年にすでに亡くなっている、京大の教授で、京都産業大学を創設した宇宙物理学者が、昭和25年に出版した本だ。昭和39年に再版されたときには、少年少女科学名著全集というのの第2巻として出されたという。
宙一という中学生を主人公にした小説の体裁を取り、当時の宇宙科学の情報を、きめ細かく書いてある・・・・って、すごすぎるぞ!当時の中学生はこんなにレベル高かったのか!と驚くほどな内容だ。
宇宙の話なので、当然のことながら、その後に解ったことや、変わったことなどは書いていなかったり、違っていたりする。
例えばアンドロメダ星雲までの距離、太陽系から70万光年となっている。ぼくが子供の頃は、150万光年とか、190万光年、場合によって200万光年だった。現在では230万光年くらいかな。宇宙が膨張しているとは言っても、こんなに急激ではないはずなので、いろいろな測定方法で、正しい数値が割り出されたと言うことか。しかし、これだけ変遷していると、230万光年すら怪しい感じは否めない。そもそも光が230万年かかって届く距離の訳だから、確認のしようがない。
70万光年という近距離にあるということで、アンドロメダ星雲は銀河系の3分の一くらいのサイズという風に説明がしてあるが、距離が3倍以上に伸びたわけだから、大きさも3倍、つまり銀河系とほぼ同程度かそれ以上の大きさを持つということに現在ではなっているわけだ。
10年後にどうなっているか楽しみなところだ。
宙一君は、なんと打ち出の小槌で大きくなって宇宙を旅するという、そのあたりは確かに中学生とか低学年をねらっているわけだが、中に出てくる数式や計算は、ちょっと待ってくれと言いたいくらい難しいものもある。
変光星の高度変化から星の大きさや距離を求めるなんて、中学生には無理だろう、と思うことまで書いてある。そんなことだから、かつて天文学者にあこがれていたような人間が、簡単に挫折できるほど、天文学や宇宙物理というのは難しいということなのだ。
大人が読んで非常に楽しい。
実は先日の冥王星騒動で、冥王星の発見年など何年だかよく知らなかった上、この本が出た年もよく分からなかったので、もしや太陽系の惑星が8つと紹介されていないだろうか、などと淡い期待を持っていたのだが、そんなはずはない。しっかり冥王星まで書いてあった。残念。
昭和39年の追加は、人工衛星の話題なのだが、昭和39年、つまり1964年だから、アポロはまだ月に言っていない。米ソの宇宙開発競争で、ソ連が先に宇宙に行った話などが書いてある。
人類初の女性宇宙飛行士、テレシコワは「私はカモメ」と言ったが、ウルトラQで「弾丸超特急」という話だったように記憶しているが。実験動物のM1号が列車ごと宇宙に飛び出し、確か「私はカモメ」と言っていたような記憶がある。
ウルトラQはリアルタイムで見ているのが、昭和40年か41年くらいだと思うので、テレシコワがこの本に載っているということは、昭和39年より以前に宇宙へ行き、M1号はその数年先、タイムリーな台詞だったのだ。
当時こんな本があったとも知らないし、読んでも解らない。宇宙に興味を持って、本を読んでいた記憶は小学校の高学年からだったし、最初はまんがと図鑑だったから、こんな本には巡り会わなかった。巡り会っていたら人生が変わっていたかな。
まあ、あまりがんばらない人なので、無理だったな。
この本には、その後の宇宙の話として福江純という学者が、最近の話題などをしっかり補遺的に載せてくれている。だが、この荒木先生と福江先生の時代の差を最も大きく感じさせてくれたのは、宇宙の話題そのものよりも、福江先生の「なにげに」という表現だった。
ああ、こういう本にも「なにげに」という表現が普通に使われる時代なのだな、と感じたわけだ。何気ないことが、むしろ時代を際だたせるという良い例だ。
表紙絵の松本零士が個人的には好みではないが、実は松本零士にとってこの本との邂逅が、後の作品に影響していると読み、なるほどなとは思った。
「999」とか、ほとんど見たことはないが、この本の宙一よろしく、宇宙を旅する主人公が多いのもうなずける。
年を食い、宇宙から遠ざかった生活をしている自分がちょっとだけ寂しかった。
投稿者 keisuke : 科学 | 00:49 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 8日
子作り
先日大学時代の先輩と久しぶりに飲んだ。20年以上ぶりだろう(変な表現だが)。懐かしく、昔の話や現在までの話などをし、あっという間に3時間以上が過ぎた。
その折りに、その先輩は、かつて、子供は作らないつもりでいたのだという。ある時、上司だかとにかく目上の人から、そのことについて聞かれ、そのまま答えたところ、「それはいかんよ」という話になり、最後は怒られたといっていた。その方は素直な方で、そこで思い直し、今では高校生になる子供がいるらしい。
私はここで二つのことを思った。一つは、先日向井亜紀と高田延彦夫妻の代理出産の子供を、高裁が実施として受理するように品川区に言ったことと、法務省がそれに対して抗告するという、相変わらずの人でなし行政を行おうとしているというニュースのことだ。
私は結婚していないし、当然子供もいない。子供を欲しいと思ったことがないし、正直なところどちらでもいい。いれば可愛いだろうが、いないからといって寂しいわけでもない。だが、代理出産をしても子供が欲しい人たちがいる。自分で生めない人たちがいるのだ。
世の中には生みの親より育ての親何ていう言葉があるくらいなので、実施にこだわる必要を実は私個人はあまり重要視していない。もちろん、それは自分の子供がいない人間の頭の中だけの話だし、そもそも子供というのは親との関係が重要だという側面もあるに違いない。生める可能性のある人間が生まないというのは、生めない人間がいるのに失礼だ、という意見も、当然存在するだろう。
だが子供も一個の人格であるわけで、生まれたら皆幸せな一生を送るとは限らないので、何でも子供を作るのがいいということではないだろう。まあ、こんな考え方が少子高齢化を生むのだと言われれば、そうかも知れないなどと単純に思ってしまうが、アメリカの国土の何十分の一という狭い日本に1億数千万人という人間が住んでいる方が、多すぎるのではないかな?などとも思ってしまう。
世界の人口だって、65億だ。どんどん増えている。二酸化炭素の上昇は、文明の力にもよるだろうが、人口増加もその一翼を担っているわけで、地球がそれによって滅びの道をたどるなら、それもまた大きな自然の流れかも知れない。何てことも考えたりする。
いずれにせよ、近視眼的に現実だけを見れば、法務省が行おうとしていることは、人様の幸せを、国家権力で握りつぶそうという、何でも法、法という、ジャベール警視のようなものだ。こんなことは、きちんと法整備をして認めるべき事だ。海外のように政治がこういう事の場合、宗教的な側面で簡単にYesといえない国でもあるまい。少なくとも日本国憲法には国民の幸せを守るということが国の役目だと書いてあるだろう。法務省や厚生労働省、外務省などは特にこういう事のかたくなさが目立つように思う。
どうにかしろよ政治家!といいたいところだが、政府がやっていることだ。お話にならない。
さて、それとは別に、前述のような状況というのは多く、日常的な生活の中でよく起こる。
子供を作るか作らないかというようなことは、人類が進化して自分で考えられるようになって以来、必ずしも種の保存則だけのために子孫を残すわけではない。また、墓守を頼むためでもない。幾ばくかは、自分たちの両親の「孫の顔が見たい」という欲求を満たすためではあるかも知れないが。
少なくとも他人からやいのやいの言われるべきことではない。「作った方がいいぞ」というのは、一つのアドバイスとして、それはそれで良いと思うが、何だか人間の義務のように言われるとおかしいと思う。
こういう事は、子供を作るかどうかと言うことばかりではない。結婚でもそうだ。私は未婚だが、好きこのんで見込んであるわけではないが、だからといって結婚願望などという、漠然としたものを持ったことがない。相手がいて初めて、この人と結婚したいと考えるのであって、私の場合は、結婚は先にはない。
だが周りは必ずしもそうは見ないものだ。私の両親は、諦めもあるのか、物わかりがよく、その点で何かを言われたことはほとんど無い。感謝している。その反面、前述したようなことで、親不孝だなと感じる面はある。
ただそれも自分の人生なので、自分で決めるしかないし、それが一番正しいと信じている。何もかも生きたいように、やりたいようにやるなど、これだけ社会的な動物である人間に許されるはずはない。社会の中で、すべきこと、あるべき姿というのは自ずとあるはずだ。
だがそれとは別に、自分で決まるべき事、多の容喙をシャットアウトしても良いこともたくさんある。
少なくとも子作りや結婚なんて、その最たるものではないかと思うのだ。
先日書いた、髪の色やアクセサリーなんていうのも同じ部類だ。個人的には、電車の中で化粧をするなんていうのも実はそっちに入っている。そういう女性を嫌だというのは自由だし、はしたないとかいうのも自由だ。だがそれほどいけないことか?少なくとも、酒飲んで車運転しているような人間が、そんなことを言っていないことを祈るということだな。
投稿者 keisuke : 日常的 | 01:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年10月 6日
キャッシング
SPAMメールは相変わらず多いのだが、SPAMとは言わないまでも、メールマガジンで、最近嫌になるほど多いのが金融関係のキャッシング、カードローンを勧誘するメールだ。
テレビでもよく見かける、モビットやアットローンなど、銀行系のものから、いわゆるアコムやプロミスなどの消費者金融系のものまで実に多彩だ。
消費者金融系のものは、最近の国会でも議論された、上限金利の問題もあるが、上限が30%近いすごいローンだ。年率30%っていうことは、100万円借りたら、月金利は3万円近いと言うことだ。恐ろしい。
それに比べると、よく目にするオリックスのやつなどは、8%〜になっていて、100万円借りても7千円くらいになるのだろうか?
金貸しという職業は、よくよく儲かると見える。時代劇でも金を貸して、返せない借り主の娘を岡場所に売るなんていうのは非常に良くあるパターンだ。
実際に広告をクリックしてみると、最近は入会するとポイントが付きますパターンが多い。Yahoo!やinfoseek、ECナビなど、そういううたい文句が並んでいる。
しかしよく見てみると、金利というのは必ずしも安いわけではない。安いところでも上限は18%くらいある。どの金利がどう適用されるのか、ざっと見てもよく分からない。
たまたま、5.5%という異様に安い金利を見つけたので、クリックしてみると、SBIグループ。おおこれは、ライブドアや村上ファンドの時によくテレビに顔を出していた北尾某の会社ではないか。
やることがちょっと違うな、何て思ってみてみると、お借り入れ診断というのがあるので、試しにデータを色々入れて試してみた。
すると、なかなかシビアな結果が出てくる。そこそこの会社に勤め、そこそこの年収があり、安定している人よりも、ニートではないにしても、なかなか定職に就けず、苦労しながら生きている人こそが、使いたいのだろうと思うが、そういう条件を入れると、お断り画面になる。
ストップ借りすぎというCMがあるが、結局のところ、金貸しというのは、返ってくる宛がなければ、なかなか貸さないので、0円で起業できるとか言っても、実際のところ、資金が無くて起業などなかなかできないのだ。
先ほど12チャンネルの経済ニュースだったかで、起業家のトップを選ぶというようなニュースを見て、ふと思ったわけだ。
会社を立ち上げるときに、資本金はきわめて小さい額で立ち上げられるが、やれ定款だ、印紙だと、実は、がんばって起業しようなどと考えている人間にとっては莫大な金がかかるのだ。
全部が全部ではないにしても、多くの起業家が、元証券会社とか、銀行とか、本当に若くして起業していたりしている。若さは大きな武器なのだ。やり直しがきく。
しかし、40代50代60代で起業しようとしたとき、大きな壁があるように思う。
そんなときキャッシングって役に立つのかな、と思いきや、やはりなかなかどうして、金というのはあるところにますます貯まるとよく言われるように、そういう仕組みになっている、としか思えなかった。
尤も、そういう苦労をしてこその企業だったり成功だと言ってしまえばその通りだ。
いや、単なる思いつきだったのだが、夜の中の仕組みの一端が見れたような気がして、面白かった。
安倍政権の再チャレンジって、こういうところどう考えているのだろうか?
投稿者 keisuke : 社会的 | 00:32 | コメント (0) | トラックバック (0)