2006年6月30日

携帯電話

 現在携帯はVodafoneを使っている。いつの間にかauに抜かれてシェア第3位になったVodafoneだ。元々J-phone時代から使っていたからというのもあるが、異常に家族通話が多いため、かつては家族割り(半額)、現在では家族定額(1台あたり300円)を、非常に便利に利用しているために、なかなか他の携帯会社への変更ができない。

 最近はアンケートで、番号ポータビリティサービス開始後に、携帯会社を変えるつもりがあるか、という質問があるのだが、この家族定額のおかげで、変えるわけにはいかない。
 ところがVodafoneは、せっかくVodafoneといえるようになってきたのに、明日からSoftbankになるらしい。いい加減にせいという感じもする。何かかっこわるいし。
 孫正義には悪いが、ソフトバンクがやっているのは、ライブドアや村上ファンドがやろうとしてできなかったことを、より大きな資金でやっているようなものだ。
 ホークスを買収したときに、ソフトバンクなどという名前を冠せずに、単純に福岡ホークスぐらいにしていれば、だいぶ印象も良かったが。ソフトバンクや楽天が参入しても、プロ野球は彼らの宣伝道具だ。IT,ITと言ったって、新しくも何でもない。

 ソフトバンクの携帯っていうのは何だか嫌だが、それでも家族定額にはかなわない。

 それにしても携帯電話というのは、無駄な出費を増やしてくれた文明の利器だ。今では無いと困る最大の機器でもある。無くてもいいという人はもちろんいるだろうが、時代がこれを不可欠なものにしてしまった。 車や飛行機や、テレビや冷蔵庫などと同じだ。

 ところで携帯というのは新機種がばきばき出る。新しい機能がどんどん追加され、何でもかんでも携帯でというくらい出る。しかも、さすがに携帯電話なので、ある程度使っていると不具合が出てきたりするので、変えたくなる。そのたびに機種交換でお金がかかる。そして新規契約よりも機種交換の方が高かったりする。そしてそのたびに、手数料を取る。

 どうもこのシステムは釈然としない。通話料は相変わらず高いし、こんな手数料はただにしろと言いたい。

 うーん、しかし携帯ごときに愚痴を並べているのは親父の証拠なのか。
 ソフトバンクに期待したいのは、パソコンの通信から携帯の通信まで、あらゆる通信を一本化できて、月数千円で収まるようなサービスを作って欲しいな。通信のコングロマリットの消費者の利点を追求して欲しい。携帯でテレビが見られることよりも、そっちの方が重要だ。

 今でさえ、歩きながら携帯見ていて危ないのに、テレビなんかつけてより危なそうだ。
 

 

投稿者 keisuke : 社会的 | 00:34 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月27日

ティースプーン

 自宅でコーヒーを飲むときには、皿もスプーンも使わない。ブラックだからではなく、ミルクは使う。しかしミルクというやつは、コーヒーの中でエントロピーを増大させ、放っておいてもまんべんなく行き渡る。だからティースプーンを使う必要がないのだ。
 
 喫茶店やレストランでコーヒーが出ると、たいがいお皿の上にカップがのって、ティースプーンが添えてある。
 この添えられたスプーンだが、なぜかカップの向こう側に、左を持ち手側にして置かれている。

・・・・と思って調べてみたのだが、教えてgooではカップの手前という意見が非常に多かった。
 勘違いだったか、と、色々調べてみると、欧米ではカップの奥だということが書いてあるページを見つけた。
 カップの取っ手は、左か右かというのも、存外どちらでもいいようで、国によって違うというのが正解らしい。ただその中でも、カップの取っ手と、スプーンの柄は同じ側を向けるようにするのが、いいらしい。

 私の印象では、取っ手は左側を向いていることが多く、スプーンが置くに置いてあることが多いと思っていた。
 コーヒーに砂糖を入れ、スプーンでかき回すということを考えるなら、右利きが多い現代の日本では、取っ手を左に向け、スプーンの柄は右を向けておくのが非常に合理的だと思える。左手でカップを押さえ、右手でかき回すということを考えるからだ。

 個人的には、前述したように、スプーンを使わないので、カップの取っ手が右を向き、スプーンは億にあるのが一番使いやすい。
 だが、そもそもいろんな人がいるから、まあ、どうでもいいことには違いないが、業務で出す場合には、取っ手左、スプーンの柄右が一番理にかなっていると思える。

 そもそもマナーというやつは、どこの誰が決めたか解らないが、「縁起」を担ぐことも含め、無駄なことが多い。何でも合理的であればよいわけではないという反論がありそうだが、誰がどこで決めたか解らない、マナーにこだわるのは煩わしい。
 他人が不快に思わない範囲でできればいいように思う。
 ただ、マナーに外れていると不快に思う人がいるという意見があったとすると、ではマナーを守らなくてはいけないという自家撞着のようなことになってしまう。

 食事の場合の快不快の多くは、音であったり、仕草であったりするわけだが、いわゆるマナーブックに載っている作法という考え方を全て取り払った上で快か不快かを考えて、その上で他人に不快に思えそうなことは、極力やらないと考えればいいかも知れない。
 だが実際、その方がめんどくさいから、マナーがあるという考え方もある。

 私は、伝統が壊れていくことが、どちらかといえばうれしい人なので、昔からの決まり事と言うことに関しては、それが実利的に正しいかどうか、合理的であるのかどうかと言うことを基準に、ついつい考えてしまう。

 だから、CoolBizzとは無関係に、ネクタイなどは、仕事上も自由であるべきだと思っているし、クラシックもロックも同じ格好でコンサートに出かける。・・・・尤も最近はロックのコンサートなんて行かないが。

 ともかく、スプーンは右か左かという些細な出来事が、この世に頭を働かせてくれると言うことは、ある意味ありがたい。
 ちなみに、ミルクはフレッシュかクリームかと言うこともサイトでちょっと触れられていたが、ものから言えばクリームが正しいように思えるが、手元のカルディで買ったやつには「ホワイト」になっていた。意味が通じれば何でもいいわけだ。尤もこの場合、フレッシュという言い方は一番よく分からない。何が新鮮なのか?といった感じだ。・・・何かの商品名かな?

投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 00:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月18日

かえる

 今日、夜の10時過ぎだったが、マンションの外へ出ると、カエルがいた。雨蛙ではなく、ヒキガエルだった。もちろん東京にもカエルはいるだろうし、以前住んでいた荻窪の家にはヤモリがいた。ヤモリは数日前に、近所の道路で見た。
 同じ日、知人が、路上でカメを見たと言っていた。
 なにやらは虫類と両生類のオンパレードだ。私はこれらと昆虫類は、あまり得意ではない。苦手といってもいい。なので、ペットとしてのこのあたりの生物は、私にはとうてい信じられない。
 もちろん、ペットとしてのそれらを否定するものではないが、最近のニュースのように、凶暴なカメや毒グモなどが、街に突然現れるのを見ると、「なんだかなあ」と思わざるを得ない。

 犬や猫とどう違うのか、あるいは鳥などと、と考えると、わずかでも人間とのコミュニケーションがとれるかどうかがその違いなのか、サイズの問題かよく分からないが、何かそのあたりに、境目があるように思える。

 例えば、生き物を殺すことは、基本的によろしくないだろうが、それでも、ゴキブリは殺すし、スズメバチだって駆除する。シロアリもそうだ。一見人に害を与える生き物だからかと思うが、ではゴキブリはどうかといえば、必ずしも悪さをしているようには思えない。ただ気持ち悪いからだ。
 いずれにしても、人は、どこかで区別をして、他の生き物を殺したり食べたりしながら生きているのだ。

 仏教的な感覚で言えば、殺生をし続けているわけで、それは目に見えない微生物のことを考えれば、日常茶飯のことだ。それがこの世の習いだと言えばそれまでだが、あるいはキリスト教で言うところの原罪ではないが、そもそも人というのはそう言うものなのかも知れない。
 精進料理というのがあるが、料理としての価値は別として、肉と魚を食わないからそれでいいということには、どうも納得し得ないところが昔からあった。植物だって生きているだろう。
 ウサギを一羽二羽と数えて、鳥だから食ったなどという話も、言ってみれば本質がねじ曲げられている。そもそも人とは、少なくとも人以外の生き物の犠牲の上に生きていることは間違いないのだ。

 尤も、「犠牲」という観念が理解できるのも人しかいないわけで、このあたりが、人が人であることの意味なのかも知れない。
 最近ちょっと、哲学の入門書など読んでいるもので、ふとそんな思いが・・・

投稿者 keisuke : 日常的 | 01:03 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月15日

受信料とNHK

 今日テレビで、NHKのディレクターが、空出張で1700万円を着服した件について、当のディレクターにインタビューをしていた。NHKは告訴する予定だと言うが、そのディレクターは、事実をカメラの前で認め、「申し訳なかった」と謝罪の言葉を述べた。

 それはともかく、気になったのは、インタビューそのものだ。意外にあっさりと彼が認めてしまったせいもあるのだろうが、同じ事を繰り返して聞いたり、NHKは受信料で成り立っているのだから云々と、たたみかけるような質問をしていた。
 別にそのディレクターを養護するつもりはないが、事実を認め、すみませんと言っているのに、これ以上何を聞き出したいのか、非常に空回りの感が強いインタビューだった。

 さて、実はこれはフジテレビ系列のインタビューだが、ちょっと引っかかるのは、NHKのことを言うのに、必ず私たちの受信料で成り立っているのだから・・・・という文言だ。別に不払いの人がいるから、彼らは除外してとか、そんなことではなく、受信料で成り立っているから悪いのか、ということだ。
 すくなくともテレビ局のインタビューを聞いていると、NHKは受信料収入だから責任が重く、民放は広告収入だから、少なくともNHKより裁量権が広いという風に聞こえることが時々ある。

 例えば、同じ事がフジで発生したら、その場合は、会社とその個人の対立だが、NHKは、国民とその個人との対立だ、というくらいの意気込みを感じるのだ。
 だが、果たして本当にそうか?
 確かにNHKの問題はそれなりにあるだろう。
 しかしNHKにだって従業員はいるし、基本的に収入源の多くを受信料に頼らざるを得ないのは、NHKのせいと言うより、法律がそうなっているからだ。
 これは、何でもそうだが、我々は貨幣経済の上に暮らしているわけで、あらゆるものやサービスは、代価を払って、得る。そのクオリティがその代価にあっているかどうかは確定的に言えるわけではない。
 ワンコインのランチを食べているサラリーマンの隣のホテルで、数千円のランチを食べている主婦がいるとしても、どっちの味が上かは、食べる人間次第だし、相場というものはあっても、かなり緩いわけで、バッグ一つが、該当で千円で売られているものから、100万円近くするものまであるわけだ。
 原材料費や手間賃、機能やデザインで、客観的に見てそれほどの価格差があるのは、本来はおかしいが、それらとは違った価値観が、その差額を払わせて満足を与えているのだ。
 顧客がある意味その部分の価格差を容認し、購入する以上、一応は棲み分けが成り立つ。

 実際、公共性という意味では、NHKも民放も、今更大きな違いがあるわけではない。違いといえば、方や広告収入で、方や受診料というだけだ。収入の得方は違っても、詰まるところ、視聴者が最終的な顧客であることにはどちらも違わないわけで、ことさら受信料だから適正な使い方が重要なわけではない。
 
 尤も、受信料は基本的に無理矢理払わされるわけで、そう言う意味では、より多くの人に責任を負わされているという見方もできないわけではない。だが裏を返せば、NHKは、受信料をきちんと払っている人間にだけ責任を負っているが、民放は、広告主の商品を購入する可能性のある、不特定多数に対して責任を負っていると見れば、より民放の方が責任が大きいことにもなりかねない。

 今回のような事件で、ことさら、受信料などと、錦の御旗のようにこれさえ出しておけば、NHKをつつけるかのような使い方は、本質的な議論を損ねる可能性がある。
 NHKより民放の方が自浄作用があるわけではない。
 

投稿者 keisuke : 社会的 | 01:40 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月13日

ワールドカップ初戦

 先ほど、ワールドカップドイツ大会の日本対オーストラリアの初戦が終わった。1-3で負けた。
 私は、基本的に普段はサッカーはあまり観ない。野球よりは少なくとも観ない。一つには、テレビ放送も少ないというのもあるが、全てのチームが阪神タイガースのような、サポーターという名のファンの集団に、性格的になじめないという部分もある。
 それでもオリンピックやワールドカップという舞台になると、やはり日本人としてその試合をテレビで観る。観戦に行くという選択肢は全くないのだが、何となくテレビでは観る。そして勝って欲しいと、心から応援している。まあ、それでもこのときばかりの庭かファンであることは間違いない。
 あまり遊びでもやったことがないばかりでなく、知識としてもあまり優れたファンでもないと思う。

 さて、言い訳を書いたので、今日の試合の感想を。
 まずは残念。オーストラリアはFIFAのランキングでは日本に比べてずいぶん下のチームで、夕方のニュースでは、木村太郎が、それを根拠に大丈夫だと言っていた。しかし前回の大会で躍進した韓国や日本の例もあるので、事前のランキングなどそれほど当てにはならない。むしろワールドカップに出場してきた実力を見るべきだろう。
 前半は1-0でリードしたまま折り返したわけだが、川口のいわゆるファインセーブのおかげで0点に抑えられていたので、実際には圧倒的にオーストラリアが押しているように見えた。ボールを持っている時間はオーストラリアの方が多かったと思う。
 サッカーというのは、実力差がないと、さほど点が入るスポーツではない。1点が重いゲームだ。オーストラリア・サイドからすると、「シュートが入った」わけではなく、「センタリングが入ってしまった」失点で、非常にいやだったに違いない。日本にとってはラッキー・シュートだ。運もあるようにここでは見えた。

 しかし後半に入って、結構攻撃の機会が増えたようにも思えたが、その都度シュートが決まらない、あるいはシュートに至らないという、昔から日本チームが抱えている問題がここでも露呈したように見えた。確実なシュートをねらって、その前のシュートチャンスを失っているように、少なくともカメラを通してみている私などには、そう見えるシーンが多かった。
 それと、駒野のセンタリングは、ほとんど合っていなかったのが気になった。これで何回かのチャンスを失っていたように思える。
 また、今日の試合は、日本選手のパス・ミスが非常に目立った。二本て、こういうのすごく上手かったような記憶があるのだが。

 同点にされた原因を探ると、ロングスローを川口が取りに行って、失敗した点に見えるし、それはその前のファインセーブで妙な高揚感が川口にそうさせたようにも見えた。だがその前に、終了10分ぐらいのところで、中澤がゴール前でファウルをしたからその流れがある。
 もちろんスポーツなんて、後から考えればここでこれがとか、どこに原因があるかなんて言うのは、実は無意味という見方もあるが、見ていた人間が「ああ、ここで」と思う瞬間というのは、それはそれで意味がないわけではない。

 ただ、全体を俯瞰するなら、あそこで点が入らずに負けてしまったら、オーストラリアはフラストレーションのたまる試合だったと思える。それくらい押していた。
 そういう意味では、流れとしてはある意味順当な結果なのかも知れない。同点にされた時点で、日本には焦りが見えたし、2点目の時は、選手全体の意識が「攻撃」に向いていたように映った。

 しかし、前述のFIFAの順位のこともあるが、スポーツは水物だ。弱いからと言って、素人ではない。日本チームがワールドカップ前に高校生と練習試合をやったときのような実力差があるわけではない。
 この後、クロアチア、ブラジルに連勝する可能性だってあるのだ。
 今年は野球でも、韓国に連敗し、アメリカに負け、それでも優勝した。あんな事だってあるわけで、最後まで希望は捨てない方がいい。まあ、私などが言うことでもないが。
「死中に活」そんな感じかな。

投稿者 keisuke : スポーツ | 00:23 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月12日

駐車違反の取り締まり

 今月から駐車違反の取り締まりが厳しくなり、さらに取り締まりをする業務が民間に委託された。
 先日甲州街道で監視員を初めて見た。バイクの人ともめているのかただ説明しているだけなのか、とにかく業務遂行中のようであった。
 多くのドライバーからはこの法律の施行は不評だろう。もし自分でも、仕事などで、非常に車で移動することが多ければ、ちょっと眉をしかめるかも知れない。先に駐車できるスペースを確保しろよ、とぶつぶつ独り言を言うかも知れない。

 しかし施行後、少なくとも以前に比べて、非常に道路脇の駐車が減ったような気がする。これはいいことだ。
 先日テレビで、施行後の駐車台数の変化と、近隣の駐車場の利用状況を計測した番組をやっていた。検挙も結構あったが、実際に駐車台数は減っていて、効果が顕れている。にもかかわらず、付近の駐車場の使用率はそれほどでもない。以下に無駄な駐車が、これまで多かったかという、少なくともデータ上はそういう結果になっていた。

 ただ、普通に考えても、配送の車はかわいそうだと思う。日常的に必要な商品アドをコンビニやスーパー、あるいは一般の商店に納品している車や、宅配便業者はある程度除外するべきだろう。少なくとも郵政公社の郵便車が例外となるなら、そうすべきだ。郵便は公共性が高いなどと誰かが理由を言っていたが、配送の車も十分に公共性は高い。
 少なくとも、駐車は何分までOKみたいな形で、許可証のようなものを発行するなり、何らかの対策が必要だ。先日、関西のどこかの裁判所が、許可証を使って飯を食っていたことが発覚して、警察から許可証を全て取り上げたというニュースをやっていたが、こういうのはどんどん取り締まるべきだ。
 それ以外にも、老人や身障者などのための車などはどうなのだろうか?何でもかんでも一律に取り締まるのは、一見公平に見えて、そうでないように思える。

 先日、監視員に暴行を働いて、逮捕された男がいた。「まさか逮捕されるとは思わなかった」といっていたと言うが、公務執行妨害であろうがなかろうが、人様に暴力をふるって逮捕されないと思っているあたりが、そもそもおかしい。
 テレビでも、普通の暴力とは違うというような表現を使っていたが、見なし公務員だから悪いのではなく、そもそも暴力がいけないのだと言うことを言うべきだろう。

 何はともあれ、成果が出て、違法駐車が減るのはよいことだ。
 これを機会に、飲酒運転をもっと強く取り締まるべきだろう。まだまだ甘い。

 ところで、世界の車窓からで、どこの国だか見ていなかったのだが、車から自転車への政策を進めていて、電車に自転車ごと乗っている乗客を映していた。東京ではなかなか難しいだろうが、少し車が減った方がいい気もする。ちょっと多すぎる。

投稿者 keisuke : 社会的 | 01:01 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 8日

分煙・禁煙

 先日、ちょっと用事があって千駄ヶ谷へ行った。その時に、駅のBecks でしばしコーヒーを飲んだ。
 感じのいい店員だったが、店は煙に巻かれていた。文字通り。店の奥が喫煙席で、手前が禁煙席だったが、禁煙とは名ばかりで、異様に煙かった。
 しばらく経って、「たばこ臭い」と別の場所で言われたくらいだから、相当なものだ。体に悪い。

 JR東日本は、新幹線と特急を全面禁煙にするという。完全な分煙が難しいからだという。
 確かに、意外と分煙というのは難しいのかも知れない。新幹線の喫煙車両に紛れ込むと、目の前に霧がかかったような気がするのだ。たとえ煙草を吸う人間でも、「辛くないのかな?」と思ってしまうような異様な空気だ。
 私のような煙草を吸わない人間にとってはありがたい処置だが、吸う人たちにとっては、「いじめ」にも感じるかも知れない。

 しかし、Becksの例ばかりでなく、まだまだ喫煙と禁煙が別れてさえいない飲食店も多いし、喫煙者は、隣で誰かが食事をしていても、気にしているようにはとうてい思えない人たちがまだまだ多いのも事実だ。街中を歩けば、気兼ねなく煙草を吸いながら歩いたり自転車に乗っている人たちも、さほど減ったようには思えない。

 JTが、マナーがこれだけ変わったというCMを流しているが、それほどは実感できない。

 昔、電車の中でも皆煙草を吸っていた。普通の路線電車だ。私の父親も吸っていた。今では吸っている人はいない。
 煙草が本当に体に悪いのなら、法律で禁止すればいいようなものだが、それほど悪くないのか、法律を作る側が吸いたいのか、よく分からないが、欧米の禁煙ブームが、速く日本にも上陸することをささやかに願っている。

投稿者 keisuke : 社会的 | 02:10 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 5日

ランダム

 私はパソコンに音楽を大量に入れて聴いているのだが、その際に「random」で再生している。
 このランダムという言葉、辞書で引くと「手当たり次第」とか「でたらめ」「無作為」などという風に載っている。RAMということ場はランダム・アクセスメモリーのことだが、このランダムアクセスは任意抽出という風に載っている、
 任意だったり、無作為だったり、要はてきとーに選ぶということで、つまりはどんな順番で演奏されても文句を言う筋合いはないということではある。
 ところがこのランダム、くせ者で、現在曲が18000余りあるのだが(尤も、クラシックなど細切れになっているものも含めてだが)、いつぞや書いた確率の話を地でいくように面白い。
 容量が現在80GB程度で、1MB1分と考えると、全曲を流した場合、1300時間あまりかかる計算で、毎日24時間かけても、全曲聴くためには、50日以上かかる計算だ。
 つまり、かけっぱなしにした場合、2ヶ月に1回しか同じ曲には出会わないということになる。

 もちろん、延々とかけっぱなしなどと言うことはないわけで、実際には毎日何回かリセットされる。
 さてそこで面白いのは、何度も聴く曲というのが意外に多いということである。逆に言えば、1回も聴かない曲が非常に大量に存在するということでもある。
 これこそが言ってみればランダムの本質なのだと思うが、感性的には非常に納得しにくい。
 確率論的な理屈でこのランダムプレイの可能性を考えることと、実体験での感覚はだいぶ違うと言うことだ。

 さて、最近、ポータブルのMP3プレイヤーを購入して、やはりランダムで聴いているが、こちらは非常に面白い。というか不満だ。変な言い方だが、特定のランダムという順番があるのだ。
 実際の順番とは関係なく、ランダム再生が同じ順番でかかったりするのだ。これはそもそも、ランダムな順番を決めるためのルールがあるからではないだろうか?

 そこで不思議に思うのが、「ランダム」を決める仕組みだ。コンピュータが、どういう風にして乱数を発生させているのか、たぶん秒などの時間を基準にしているのではないかなと思うが、どうなのだろう?

 いずれにしても、ランダムというからには、無作為な抽出が、同じ結果を生む確率など、非常に低いわけで、しかも1万件程度の中から無作為に抽出して、同じ順番に並ぶなんて、5個のさいころを振って、出た目の組み合わせが、同じ順番で出るようなものではないか。これはランダムではなく、「ルール」だというような気になる。

 ところで、ランダムハウスという辞書がある。アメリカの出版社が出している辞書だが、アトランダムに出版をするためにランダム・ハウスという名前をつけたらしい。
 このランダムという規則性のなさが、何となく好きだ。この世のことが何でも決まっていたら面白くない。
 いい意味で、先の解らない人生が楽しい。あくまでいい意味で。
 

投稿者 keisuke : 科学 / 科学 | 00:51 | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 1日

長渕剛と愛国心

 長渕剛の最初の印象は、「順子」と、「順恋歌」だ。いわゆるフォークソング。しばらくして「乾杯」。とにかく売れた。そういう印象。そして「とんぼ」とか「しゃぼんだま」いろいろ、いずれにしても、あまり聴こうと思ったことがない。なんか、国粋主義というか、右翼というか、やくざというか、清原というか、まあとにかく、自分の人生とは接点のない、このだらだらした生き方の中では、もはや入り込めない世界だと思っていた。
 男の生き様とか言われると、へなちょこな私には太刀打ちできない。

 さて、そんなとき、偶然「家族」という歌を聴いた。10分以上の大曲だ。ハーモニカとギターの前奏から、昭和の田舎の小学生の、暗い懐旧の歌が始まる。典型的な日本のフォークソングだ。両親と一人の姉、傲慢で暴力的な父親、これまた典型的な昔の日本の家庭の一つが描かれる。メロディーはいい。歌詞は好みだが、あまり好きではない。しかし、いやでも映像が、強烈なイメージで伝わってくる。胸を締め付けられるような、奇妙な懐かしさとつらさの影が、自分の過去でもないのに、なぜか重なる。
 折れも親父によく殴られたな、なんていう想いがよみがえる。埼玉県などで生まれて育つと、あまり「ふるさと」という感覚を持ちにくい。決して都会ではなかったが、それほど田舎でもない。一人暮らしをして、「実家」には帰るが、決して「帰省」ではない。

 後半、「白地に赤い日の丸」という歌詞が出てくる。「白地に赤い日の丸、この国をやっぱり愛しているのだ」というのが最後の歌詞だ。そして非常に私好みの哀愁たっぷりのギターがフェイドアウトしていく。ここだけエレキだ。
 悔しいがこの歌が大好きだ。
 
 最近、教育基本法の改変問題で国会が審議を続けている。「愛国心」ということが問題になっている。
 確かに日本という国家は、おそらく第二次世界大戦の敗北後、「愛国」ということを、「右傾化」とか、「軍国」とほとんど同義語のように感じて生きてきたような節がある。
 国を愛することが、天皇を神と奉り、戦前に回帰してしまうのをおそれるような、そんな感覚すら覚えた。いや、そうではない。これはまさに「愛国」という言葉にそれがあるので、国を愛するという表現では、あまりそれを感じない。
 ある意味、暴走族が何でもかんでも漢字にして、「世露死苦(こんな書き方をするのかどうか知らないが)」しまうような、音感が、「愛国」にはあったのかも知れない。
 また、自民党の議員が「愛国心」などというと、共産党が「愛国心」というのとは、全然違うことを行っているようにも聞こえたりする。

 小中学校の卒業式で日の丸掲揚を義務化すると行ったことに関して、必ずそれに反対する人たちがいる。彼らはやはり、前述した回帰への不安を、そこに感じているのだろう。

 愛国心というのは、民族主義という言葉と一部似ている。しかし同時に、長渕剛が歌う「家族」のように、ふるさとを愛する心というのが、最も正しい意味の一つなのだろうと思う。
 言葉には反意語というのがある。そうでなくても、否定とか、例えば、好きな人がいれば嫌いな人がいるように、愛国心に対しては、嫌国心があるかといえば、そんな言葉は辞書にも載っていない。
 本質的に、国を愛するというベクトルは、その時点ではその他の意味を持たない。しかし利害関係の異なる愛国心と、別の国の愛国心は、そこで争いを生じることがある。つまり戦争だ。
 この、国を愛することから生まれる争いごとを、おそらくはこの50年間、目に見える部分と見えない部分で、我々は教わってきたような気がする。それが愛国という言葉を、一見恐ろしい言葉に見えさせる。

 ところが愛国心を標榜する側は、そんなことはお構いなしに、「なぜ国を愛することがいけないのか」という、いわば正論を振りかざす。その慮りのなさが、愛国心から派生する見えない影におびえる人々の心を逆なでする。
 暴力を手放しで肯定する人はおよそいないと思うが、殺人事件は毎日のようにあるし、暴力沙汰はさらに多い。綺麗な言葉も、高邁な理想も、暴力や戦争に変えてきたのがいわば人類の歴史だし、テロも、イラク戦争も、実際はその延長にある。

 殺人は普通にすれば犯罪だが、戦争なら英雄という言葉があるが、多くのSFなどを読むとき、遙か未来にも軍隊が必ず登場する。「地球を守るため」に戦うウルトラ警備隊だって、いわば軍隊だ。あたかも宇宙人や怪獣が外敵として責めてくるのを守る自衛隊だと言わんばかりだが、現実にはどちらにも大義名分があるのだ。

 愛国心は、郷土愛の延長だし、それは家族愛につながり、最終的には自愛なのだ。逆におしなべて見れば、愛国を言うとき、愛世界、愛宇宙と、より広い立場の愛をこそ説きながら、愛国を知らしめるべきだろう。日の丸を立てることで達成される愛国は、とても狭量な愛国に感じられる。

 歌としてはすごく好きだが、やはり私にとっては日の丸など、郵便番号と同じ記号でしかない。記号は記号で必要だが、国を愛することよりも、人をこそ愛する人間にやはりなりたいものだと感じる。
 

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 22:46 | コメント (0) | トラックバック (0)