2006年4月30日
ゴールデン・ウィーク
ゴールデン・ウイークは、4月末から5月第1週にかけての、祭日が集中する期間だが、この間には、みどりの日、憲法記念日、国民の休日、こどもの日という4日間の祭日がある。土日が2回絡むと、多くの会社員は、8日間の休日があるわけだ。
だが、4月29日のみどりの日から5月3日憲法記念日まで間には4日間あるわけで、確実に休日でない平日が二日以上存在することになるわけだ。
今年のように祭日が土曜日と重なることも多い。日曜日と重なれば、振り替えで月曜日が休みになりもするが、仮に、みどりの日が日曜日と重なった場合、次の月曜日が振り替えになったとしても、5月5日が土曜日になるようにできている。
故意に休みを増やさない限り、偶然に大量の休みがうまい具合に並ぶわけでもないのだ。今年は非常にいい方だ。
ゴールデンウイークとなると、まずはニュースで、成田空港でのインタビュー、東京駅の新幹線ホームでのインタビューが必ずある。曰く、グァム、サイパン・・・・夏休みとは別に、長期休暇を取れた人たちが大量に出国、あるいは帰省したり、国内でもいろいろなところにお出かけだ。
サラリーマンをやっていたときには、ゴールデンウイークと言っても、この間の微妙な数日間は、ほとんど出勤していたので、この期間に一週間などという休みを取ったことはなかった。
現在でも、半ば自営業なので、結果仕事に追われることになる。ただ取引先から電話などが入らないのでありがたいが。
休みというと旅行、家でごろごろしているのはもったいないというのが相場のようだが、家でごろごろしていることの至福を、意外に頷いて聞いてくれる人も少なくないように思う。なんだかこぞってみんながいろんなところに行く、その時期をねらって乗り物に乗るというのが、どうにも好きになれない質で、どうせ行くならオフ・シーズンなのだ。尤も、現状ではあまりどちらも関係ない。
ところで、東京三菱とUFJが合併したわけだが、そのおかげで、取引先などにも支店名の変更など、色々と迷惑をかけたりした。ところがかの銀行は、旧UFJはゴールデンウイーク中にATMが使えるが、旧東京三菱は使えないなどという、それなら何のために合併したのだという、どうにも顧客に対して程度の低いサービスを展開している。
そもそも銀行は、9時から3時までしか窓口を開けず、土日は休みという、客を小馬鹿にしたサービスを延々と続けてきた。ヨーロッパのように、休むのが当然、あらゆる業種がそうしているというのならともかく、ここは日本だ。普通の人が利用できるように、窓口営業を改善すべきだ。
ちょっと景気が悪くなると、ころっと態度が判って中小企業に冷たくなるような、バブル崩壊後の銀行の姿を見ていると、その根幹がこの営業姿勢にあるような気がしてならない。
まあ、最近ではネットでかなり補えるので、改善されていないというわけではないが、まだまだだ。
今日からゴールデンウイークなのだが、実感がない。ただの土日だ。5月に入れば少しは気分が変わるかな?
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年4月26日
イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト/ホワイトスネイク
久しぶりにDVDを購入した。
ホワイトスネイクのライブだ。約2年半前、2004年にロンドンで収録したコンサートだ。
ホワイトスネイクというか、デヴィッド・カヴァーデルののアルバムは、気づけば買っているのでほとんど持っているのだが、ソロ・アルバムなどを出し、ホワイトスネイクはもう解散なのかな?とも思っていたので、なかなかうれしいアルバムである。
今も脇でかかっている。
デヴィッドのデビューはディープ・パープルの「バーン(Burn)]のはずなので、このライヴの1曲目は、まさにそのデビュー曲から歌い始めたということになるわけだ。
喉の手術以来、やけに高音が出るようになったように思っていたが、この1曲目の印象は、喉の温まらない、かわいそうなくらい「ガレた」声だった。途中で「嵐の使者(Stormbringer)」をインクルードするという、なかなかいかした演出を加えてくれたが、今回はグレン・ヒューズの声がないのが寂しかった。
だんだん往年の声に戻ってきたデヴィッドは、やはりかっこよかった。昔に比べて圧倒的に歌はうまくなっている。
これはハマースミス(劇場は違うようだが)での2度目のライブアルバムになるわけだが、今回は、「ミストリーテッド(Mistreated)」を歌っていないのは残念だった。バーンをやったから、ディープパープルの曲はもういいだろうということだとは思うが、今の「ミストリーテッド」が聴いてみたかった。
「エイント・ノー・ラヴ・イン・ザ・ハート・オブ・ザ・シティ(Ain't No Love In The Heart Of The City」から「ジャッジメント・デイ(Judgment Day)」まで、多くのアルバムから、かなりまんべんなく選曲されていて、構成のバランスは非常にいい。惜しむらくはデヴィッドの2枚のソロ・アルバムからの選曲がないことだ。尤も、「エイント・ノー・・・」は、ホワイトスネイクのファーストに先駆けて出された4曲入りシングルに入っていた曲なので、それをソロからの曲と数えれば、「入れた」ことになるのかもしれない。
個人的には「ブラインドマン(Blindman)」か「ソース・ウインド(North Wind)」あたりを聴きたかった。
それでも、これまでライブでは聴いたことがなかった(知らないところで出ているのかもしれないが)「ドント・ブレイク・マイ・ハート・アゲイン(Don't Break My Heart Again)」が聴けたのはとてもうれしかった。
かつて2枚出ていた半分パープルなメンバーのライブよりも、キレのいい演奏は、買ってよかったと思った。ダグ・アルドリッジのギターは、80年以降の速弾きのギタリストの一人以上では、私にとってはないので、それほどの感銘はないのだが、ソロよりもリフなどでかっこいい音を出していた。もう一人のロブ・ビーチという人はよく知らないが、端正にギターが弾ける人という印象だ。
ファースト・アルバムに入っている「テイク・ミー・ウイズ・ユー(Take Me With You)]が、あんなにかっこいい曲だとは知らなかった。
しかし何だ、日本盤は4,500円もするのだ。輸入盤に字幕が付いているとはいえ、数少ないしゃべりの部分だけで、それほど必要でもない感じだ。でもこれ、見るまで判らないからな。輸入盤とは3割以上価格が違うわけだ。・・・しかし輸入盤はリージョン1、うちのプレーヤーではかからない。
このリージョン・コードというやつ、全く制作者側のエゴのみで作られた煩わしさきわまりない仕組みだ。ハリウッドのあがきってやつだきっと。
今回のはCDが付いているが、全曲ではない。せっかくなので全曲つけてくれよ、という感じだ。
左が初回限定版。
いや、なんだかんだで、デヴィッドはいい。
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:28 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年4月14日
バーモントカレー
先日、バーモントカレーの中辛というのを使ってカレーを作った。
普段はジャワカレーを使うことが多いのだが、一緒に食べる人間が辛いのがだめなので、甘めのルーを使ったのだ。これが意外に美味しかった。
最近の世の中の傾向として、比較的辛いものを礼賛する傾向があるように思う。
東南アジアや韓国などの元から何でも辛いと思えるような国の料理ばかりではなく、何かと辛い物が好きな人が結構増えているように思う。カレーなども、何十倍という辛さの基準としては想像でカバーできないような単位で辛さの度合いを増やしていくシステムがよくある。
私もこれまで、カレーは多少辛くないとと思っていた。
しかし、辛くないカレーもまた旨い。
元々、まずいカレーなどないというのが信条だが(あることはあるはずだが)、このバーモントカレーのうまさは、このカレーが長い寿命を保っていることの裏付けだなあと思った。それでも、甘口が変えなかったのは、なかなか私の気の弱さなのだが、次回はきっと甘口をかってトライしてみようと思う。
投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 01:14 | コメント (0)
2006年4月11日
着物
昼飯を食べていた店の年配の女性が、お客さんと会話していた。昔はずっと着物だったが、着なくなって、最近では一人では着られない。着付け教室にも通ったが、やっぱり洋服の方が楽だ・・・・
着物の美しさ、とかはここでは全く無視して、実用的な意味においては、特に女性の着物っていうのは、どういう意味があるのだろうか?
別にけちをつけているわけではなく、一人で着られない衣服というものが、着物としての価値を持つ場合は、実用性とはほど遠いところにあるような気がする。
それでも着物を着る人はたくさんいるし、文化として成立している。韓国のチマチョゴリとか、ポンチョとか、それぞれの文化圏に独特な衣服としての着物という点はこれはまさに日本文化が誇る、美しい衣料だとは思うが、それ以上ではない気がする。
さて、洋服というのは西洋から入ってきたから洋服というのだろうが、人間が着るに当たっては、かなり実用的に作られていると思う。何でも実用一点張りを主張しているわけではなく、着物などに比べるとそうではないかと思う次第だ。
衣服というものが人間にとってどういう役割を果たしているのかと言えば、防寒や外部との接触によって傷つくことを防いだり、羞恥という感覚を補ったりなどが考えられる。
その中で、腕や足を通す筒状の者をきれや皮などで作り、身につけるという発想は、非常に理にかなっているが、布を体に巻き、上から縛るという体の着物という衣類は、機能的な意味からいうと、非常に原始的というか、単純な構造であるように思える。
これはあくまで思えるなので、着物を日常的に着たことがほとんどない私にとっては、着物のメリットというのがよく分からない。
いや、これは単に今日、その会話を聞いて何気なく思ったことだ。
100年200年先にはほとんど着物がなくなっていると言うこともあるのだろうか?
それともやはり文化なので、その頃でも今と同じように着られているのだろうか?なんて思ったのだ。
機能的に優れていれば、多少形を変えても残って行くに違いないが、そうでなければ淘汰されてしまうなんて言うことは・・・・
もちろん着物に限らない。文化や伝統などというものは、非常に長い歴史の中では栄枯盛衰限りないに決まっている。
今読んでいるペリー・ローダンは脳だけ盗まれたローダンが、ナウパウムという別の銀河で活躍する話だが、そこの文明は1万年前から続く「歌」なんていうのが出てくる。1万年前って言えば、中国4千年の歴史のさらに1.5倍ですぜ。そんな長い間残るものがどれほどあるのだろうか?
1万年後の世界を、ああ見てみたい。
投稿者 keisuke : 日常的 | 02:10 | コメント (2) | トラックバック (0)
2006年4月 9日
顧客主義
草大福というのを買った。スーパーでお徳用というのを買った。
甘いものは好きだが、量を食べられない。いつも残して捨てることが多い。これは大福に限らない。と言うより、大福を買うことは年に数回あるかないかなのだけれど。
さて、いつまで食べられるのかと思って袋を見ると、消費期限について冬はこのくらい、夏はこのくらいと書いてある。そして、そして消費期限というのがあって、留め具に記載と書いてあった。留め具なんて、開けてすぐ捨てた。同じような人は世の中にたくさんいるに違いない。
消費期限とか、賞味期限とか、微妙な言葉の違いで様々にあるのも解りにくいが、こうして、すぐ捨ててしまうような部品に書いてあるのも不親切だと思うわけだ。
かつて前の会社ではレコードや雑貨を売ったりしていた。レコードはかつて、自由に試聴ができた。中を開けて聴かせてくれるのだ。きっとCDしか知らない世代には解らないのかもしれないが、ジャケットから出して店頭のレコードプレーヤーでお店の人がかけてくれる。ヘッドホンだったり、店頭にそのまま流れたり、店によって違っていたが、おおかたのレコード店はそういうサービスがあった。
中高生相手は効率が悪いのか、昔行っていた小さなレコード店では、もう少し聴きたいと思っても、さっさと店主が張りを上げてしまったりという店があった。あくまで試聴だ、買うのか買わないのかどっちだ、と言う無言の圧力をひしひしと感じたものだった。
ソニーが最初だったと思うが、ジャケットにビニールをかけ、視聴ができなような体裁のレコードを作り始めた。ポニーキャニオンが追随した。やがてCDが出始め、CDに変わったときには、全く試聴ができないようになっていた。
顧客サービスとか顧客主義という言葉をよく聞く。販売する川は、顧客のニーズに応えてこそ、販売が成り立つという趣旨だ。それはおもねることではない。例えばトレーサビリティの充実とか、安全性を確認できたり、先のCDであれば、内容が確認できたりなど、購入する客が、何を購入に際して求めているかを的確に判断し、売り上げを伸ばすための方策として存在するサービズだ。
そういう意味では大福に限らず、留め具に書いてある消費期限など、顧客の立場に完全に立っていない。どちらかというと、大量生産される袋にそんな日付を入れていたらお金がかかってしょうがない、というところだろう。
高級な卵には、1個1個に日付が入っていたりするが、普通はそんなことはない、なんていうのとにている。お徳用の大福には必要なかろうというわけだ。
だが、この世の商売は基本的にサービス業で、医者や警察も実はその例に漏れない。直す相手、守る相手がいてこその職業なので、その対象には徹底して腰低く、あっていただきたいと思うわけだ。
医者の最大の商品はその医療テクニックであろうし、公共機関が行政サービスだったりするわけだ。
あらゆる職業はサービス業であるという視点に立てば、これらの、どちらかというとそういう点が後進的なことが多い職業も、だいぶ改善されて行くに違いない。
尤も、親切で腰が低いだけの医者や警官では心許ないかもしれない。大福の基本が味であり品質なのと同じに、あらゆるサービス業の基本もまたその職業ならではの品質であるわけで、その上での顧客サービスが求められる。
まあ、こういうことは、人のふり見て我がふり直せっていうことであると理解して、自戒。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年4月 7日
些細な話
ちょっと前の話だが、自販機で水を買おうとした。150円の500mlの水だ。伊藤園の自販機で、150円ちょうどを入れた。
水のところを押すが、うんともすんとも言わない。よく見ると、お金を入れた後、そこだけランプが付いていない。と言うより、他に赤いランプが付いた。ないのかなと思って、お〜いお茶でいいと思い、そこを押したとたん、お茶は出てこないで、お金を入れてない通常の自販機の状態になった。
一瞬ぽかんとしてしまったが、お茶は出てこない、お金は吸い込まれる、いったいどういうことかと思ったが、文句を言おうにも、どこに行っていいか解らない。結局向かいの自販機で水を買って帰った。
その折、伊藤園の電話番号を控えてきた。文句を言ってやろうと思ってだ。
さて、しかし考えてみると150円だ。「1円を笑う者は1円に泣く」と言うが、決して150円を軽んじているわけではないが、どうも文句を言いづらい。その場で「ちょっとこの自販機おかしいよ」と、店の前とかにあるものならいえないこともない。しかしわざわざ電話をして、しかも家に帰ってから電話をするとなると、「たかが150円」に思えてくる。
人間は多くの場面で、無駄なお金を使う。パチンコなどギャンブルとは言わないまでも、余計な物を買って、使わなかったり食べなかったり、同じ本やCDを2度買ってしまったり、誰もいない部屋の電気をずっとつけっぱなしにしているのだって、実は十分に無駄なお金だ。
家では、ステレオの電源は常に入っているし、パソコンも24時間ほぼつけっぱなしだ。十分に無駄だろう。でも150円が気になるわけだ。
500ml150円のペットボトルのお茶を4本買えば、600円。しかし同じお茶でも2Lのペットを買えば、安いと180円程度で買えたりする。自販機の1回など、たいしたことではないのだ。
しかし、その時出てこなかったというかすかなストレスが、腹立たしさが、その150円には含まれているので、1.5Lで400円得することで相殺されるわけではない。
また運が悪いという見方もできる。運の善し悪しというのは、言ってみれば予測のつかない状況で、人がその場で起こったことが、非常によかったと感じるか、非常に悪かったと感じるかを表現する言葉に他ならない。
だから、場合によっては大学に落ちるのも運が悪いわけで、それが努力の如実な結果であるかどうかは、客観的に証明できるとは限らない。150円入れて商品が出てこないことが、可能性としてあるかないかと言えば、あるに違いない。機械の故障という単純な理由で説明できる。あるいは偶然とか。
この世には人知の及ばぬことがあるらしいと、多くの人が思っている。幽霊の出現と、偶然商品が出てこないことは、実は同じくらい人知の及ばぬことかもしれない。
運が悪いと考えることは、実は大きな意味で諦念ともいえるもので、場合によっては人はそれを敗北と考える。あきらめてしまうと言うことだ。もちろん、そこで戦うべき運命とあきらめるべき「たまたま」があるのだろうことは、容易に想像が付く。
先日、痴漢の冤罪で無罪になったという人の話をテレビで見た。これなど戦わずにはいられない「運命」と呼ぶに相応しい出来事だし、こういった運命を背負う人と、背負わない人がいるこの世の不公平を、やはり感ぜずにはいられない。
150円はやはり些細なことなのだ。
だがその150円の積み重ねが億という利益をおそらくは伊藤園にもたらしていると考えれば、決して小さくはない。でもこれからも、お〜いお茶は私の定番なので、飲み続けるに違いない。
あ、そもそもは水を買おうとしたのだった。
投稿者 keisuke : 日常的 | 00:59 | コメント (3) | トラックバック (0)