2006年1月31日
プリンター
年末に年賀状を印刷していると、「〜様」の部分がよれよれになった。紙を送るローラーが滑って、厚手の紙をスムーズに送れなくなっているようだった。ローラーをきれいにすれば直るのかも知れないが、そんな時間もないのでプリンタを買った。
HPのプリンタを買った。エプソンやキャノンは、素晴らしい解像度だが、高い。
悩んだのは、CDやDVDのレーベル面に印刷できる機能だ。HPのには付いていない。
しかし、1〜2万も違うと、その悩みもそれほどの影響力は持たない。HPにはHPの良さがある。
購入してみてちょっとそれを実感している。前の機種もそうだったが、自動両面印刷というのはなかなか捨てがたい機能である。片面を印刷した後、機会がそのままそれを吸い込み、次のページを裏面に印刷してくれる。
紙も節約できるし、量が多い場合などは、コンパクトにもなってありがたい。・・・時折、紙を咬み破けることがあるのだが、咬みの入れ方がまずいらしい。
それと、今回のプリンタは、よくは解らないが、インクを無駄にしないようにできているらしい。メンテナンス時にこれまでは消費していたインクを回収してリサイクルするという。実際にインクの減りが遅いのが実感できる。
これまでのプリンタも十分使えていたので、オークションで裁こうと思ったが、さすがに売れない。それでも、インクのランニングコストで、そのうち元が取れそうな気もする。あ、スキャナも付いていたので、古いスキャナも処分できる。
いずれにしても、プリンタも商売道具なので、そこそこしっかりしたものは使わないといけない。
今度はパソコンなんだな・・・・なかなか
投稿者 keisuke : | 02:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月30日
オークション
Yahoo!を始めとするインターネットオークションは、今では大きな流通の一つである。
個人よりも、最近では業者が多く利用し、さながら××屋オークション店の様相だ。
オークションでの詐欺が増え、トラブルが絶えないので、政府がオークションに関して法制化するらしい。月200店以上出品したり、いくつかの条件を満たすと、個人であっても業者と見なし、業者名、住所などを公示する必要があるという。
詐欺やトラブルを起こす出品者、落札者が増えてはいても、多くはしっかりした真面目な取引者だ。これは社会が全体的にそうであるように、オークションも、悪い人よりいい人の方が多い。
最近、「日本の法律は性善説に立っているが、性悪説で考えないといけない」という議論がある。
この議論は、実は論点が少しずれていて、あたかもいい人が犯罪を犯したときの法律といっているように聞こえる。犯罪を犯した時点で犯罪者の多くは悪人なので、もちろんそのレベルはあるが、そういう意味では、法律じは性善説でも性悪説でもない。人はいい面も持てば悪い面も持ち、悪い面は時折犯罪という方向に走ると言うだけのことだ。
耐震偽装問題で、「これまではそんなことをする人がいないと思っていた」から罰則規定が甘いというのは、まさにその通りなので、そういう問題が出て始めて、法が改正されたりするのだ。
引き起こす結果に関しては、ホリエモンがかけられている容疑よりも、ヒューザー関連の会社や個人が行ったとされることの方が遙かに恐ろしいわけで、しかしそれに関する罰則は明らかに後者が軽い。
これは単純に、ホリエモンの行ったようなことはこれまでにも多くの人が行ってきたので、罰則規定が重いが、耐震偽装は、これまで無かったと言うだけの話だ。
オークションもまさにそうで、オークションを利用して自転車操業的に儲ける詐欺などは、これまで無かったから、起こって始めてそれを防止しようとするわけだ。
だが出会い系サイトもそうだし、ゲームやマンガ、あらゆる物がそうだが、犯罪を犯した人間が、それらを利用したり、それらから影響を受けたりすると、あたかもその影響を与えたものが悪者のように語られることがある。しかし、影響を受けても、利用しても、普通はそこで社会的通念上の悪事に走ることは少ない。
出会い系サイトで女性を監禁したり殺したりを目的路する人よりも、取り敢えずあっていいことしたいというレベルがほとんどなはずだ。女性は女性でお金が欲しかったり、名のかかって欲しかったり、形を変えた援交を求めているに他ならない。
これがいいか悪いかは、一律に断じるのは難しい。京大生のように、飲ませて強姦すれば犯罪だが、双方が希望を持ってそれが同時に満たされたとすれば、それが道徳的にどうかは別の問題として、どこまで目くじらを立てるべきかは、別の議論が必要だ。
ゲームやマンガの青少年に与える影響を云々するなら、むしろ昔のように世の中のことが子供たちにはよく分からないという時代ではなく、普通にテレビを見ているだけで、世界の各地で起こっている犯罪から、性情報、血腥い映画まで、あらゆる情報が簡単に手に入る時代に、特定のメディアが持っているものだけを取り上げて「影響」というのは、どうもおかしいような気がする。
インターネットも、功罪はもちろんあるに決まっているが、どちらかと言えば、少なくとも今は功の方が遙かに大きく、ただ、罪を行うとき、その影響が極めて大きかったりする。
例えば、銀行員の横領なんていうのも、コンピュータ化のおかげで、とんでもない額が見えないところで横領されていたりするわけだ。だが、コンピュータやインターネットのおかげで、人間の生活が豊かになったのは間違いない。
等というと、それは豊かになったのではない、などとしたり顔で言う人がいる。もちろんそういう人の意見は、一面真実を言い当てている。だが、では産業革命の前は人間がそれほど豊かだったのか?と問いたい。悪いことをする人は昔から沢山いたし、戦争などは今よりも昔の方が多かった。領主が領民を勝手に殺していた時代だってある。
コンピュータや、機械文明がもたらしたのは、物質的な豊かさだけで、人間の本質は変わっていない。いい人もいれば悪い人もいる(何かのレコードみたいだが)。
ホリエモンが金が全てだという嘯き方をしていたとしても、それを額面通り取るのもおかしな話だし、金で買えないものがある代わりに、金がなければ生きていくこともままならない世の中であるのも事実だ。中小企業の社長が、資金繰りにあぐねて自殺している例は山ほどある。よーくかんがえよ〜お金は大事なのだ。
だからこそオークションでも、犯罪が起こる。金が絡んでいるからだ。以前ちょっと書いたが、金が無用になるほど物が溢れた社会が早くできてくれればいいと思う。そんなことになったら、デカダンに陥ると考える人もいると思うが、人間そういう時代になればそれなりに何か考えるものだ。
そういう意味ではわたしは性善説なのかな?
投稿者 keisuke : インターネット・PC | 02:20 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月29日
氷壁
私の読書は非常に偏っている。読んだことのない著名な作家、特に大家が山ほどいる。ことに日本文学の作家はそれが甚だしい。夏目漱石をきちんと読んだことがない。教科書に出ていた何かと、「坊っちゃん」「吾輩は猫である」の2作の冒頭のみだ。
これは一つの例で、森鴎外も、学校で言われてやむを得ず、「高瀬舟」を読んだ。三島由紀夫も、川端康成も、ほとんど読んだことがない。三島は、「潮騒」の火を飛び越えるシーンだけ、中学生の時に読んだ。理由は言うほどのこともない。
井上靖という作家も、これまでは全く見向きもしない作家だった。「あすなろ物語」とか「しろばんば」とか、中高生くらいで目にした作品のどれもが魅力的なタイトルとは言えなかった。今でもこれらを読みたいとは全く思わないが、「敦煌」「蒼き狼」「天平の甍」などはこれから読んでみたいなと思わせる。
そもそも書店で、井上靖のコーナーで目をとめることがないのだから、読もうと思うはずがない。
読書ばかりでなく、何事も人間はきっかけというのが大事で、それがなければ、新奇なことにはなかなか手が出せないものだ。いや、井上靖を読む程度のことが新奇か?という向きもあろうが、SFばかり読みふけっていた学生時代の私には、新奇なことなのだ。
吉川英治を読むきっかけはゲームだったし、内田康夫を読むきっかけは水谷豊の浅見光彦だった。池波正太郎はドラマの「編笠十兵衛」といった具合だ。SFや海外文学は、実はそういうきっかけを必要としていないのに、日本人作家の作品に関しては、非常にその傾向が強い。我ながら不思議だ。
一つは、日本文学特有の香というか、緻密さが苦手だ。私小説という分野も嫌いだし、人間の内面を描くばかりに、スペクタクルに欠ける、あたかもハリウッド映画と日本映画の違いを見ているような感じだ。
どちらが上とか下とか、質がいい悪いとか、そう言うことではなく、所詮文学なんて好みなので、それ以上のことではない。
さて、それで今回きっかけとなったのは、NHKドラマのCMだった。1月14日から放映される作品の原案(原作かと思っていたが原案とある。言ってみれば、アイディア拝借ということのようだが、井上靖の作品とは大分内容が違う)という「氷壁」を読んだ。
さすが大家、文章は上手いし、読みやすい。よく書けているし、それなりに面白く読んだ。尤も、ではこれを皮切りに井上靖に傾倒するかと言えば、それほどのエネルギーはない。
全体はどことなくメロドラマだし、ラストも好みではない。何よりテーマとなっている「ザイルが切れたか切ったのか」という点は最後まで解ったような解らないような(やむを得ないとしても)、消化不良がぬぐえない。そもそもそんな点を作者が書きたいわけではないとしても、私という読者はその点を納得しない。
あとがきに、ヒロインの美那子という女性がもっと悪女だったら良かったと、佐伯さんという方が書いていたが、私はそうは思わない。この悪意を持たぬ、しかし微妙に非常識で、わがままな女性だからこそ、この作品はいいのだ。
世の中で救いようがないのは、悪意を持たず人に害なす人たちだ。
例えば今回の耐震偽装問題は、非常に悪いことをしているのだが、実はそこに悪意はないと私は思っている。悪意がないからこそ救いようがないのだ。
美那子は犯罪に手を染めず、結果的に二人の男を死に追いやったように見える。実はそうではないが、そういう見方をすることができる「悪さ」こそが、この作品のキーだ。男を手玉に取っているわけでもなく、そんな意志もないのに、結果的にそうなっているというのが人生の綾であり、不幸だ。
わたしは主人公がさっさと死んでしまう作品はわりと好きだが、今回の作品はその部分で無理矢理感と、予定調和の臭いがして好きになれない。私だったら、主人公を山で殺すようなことはしない。
梶原一騎的な、例えばタイガーマスクが子供を助けようとして交通事故で死ぬ、というラストシーンは、ああいうマンガには相応しくないと思うし、むしろ今回の「氷壁」のような作品では、仮に主人公を殺すならその方がましだ。
もちろん、これも好みだと思う。昼メロに取り上げれば、多分この作品はいいラストだろう。
今日ちょっとだけどラマのシーンを見た。原案だから仕方がないとはいえ、その人物設定や状況設定をある程度使いながらこの筋運びや人間関係はどうだろう、と思わざるを得ない。主人公の名前などが変わっているのに、相手役の女性の名はそのままで、どちらかというと、「盗作」といわれるのがいやで、やむを得ず原案と書いたかのような、後味の悪さが残る。
むしろ、「改作」とか、何か書きようがあるだろう。
初回と今回の2回の一部を見ただけだが、井上靖を読んでしまっているだけに、素直に見られない。
必ずしも絶賛しはしないが、原作に流れる、静かな川の流れのような、どことなく清澄な感じがドラマには全くない。単独でドラマとしてみれば面白いのかも知れないが、最早そう見ることができない自分がいて、ドラマにはだめ出しをしてしまった。多分、もう見ない。
それよりしばらくしたら、井上氏の歴史物でも読んでみよう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 00:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月28日
通信販売
先日、ニッセンで椅子を買った。たまたま他の通販会社の広告で見たのを母親が、手頃なのでということで購入しようとしたが、支払が振り込みだったので、インターネットで調べた。すると、いくつかの会社が同じ商品を扱っており、ニッセンが中で一番低価格だったので、同じものを購入するのに、その場で決済もできるし、一番いいということで購入した。5千円程度の商品だ。
先日、ポストが壊れそうな郵便が入っていた。実は郵便ではなく、宅配だったが、それがニッセンのカタログだった。3センチ以上はありそうな豪華なカタログだ。
引っ越しの時、千趣会でカーテンを買った。そちらも時折大量なカタログを送ってくる。
次回いつ利用するか解らないが、これだけのカタログをちょっと購入した客にバンバン送って来るというのは、よっぽどこういう商売は儲かるのだな、とふと思った。
フルカラーで、500ページ以上のカタログで、一般の書物と考えれば、数千円はしそうな感じだ。尤も、全てのページが広告と考えることもできるので、そういう意味では、採算は軽く取れるのかも知れない。
さて、見なければなんと言うこともないが、不思議なもので、カタログを見ていると何か欲しくなる。
テレビショッピングが一時大流行した。現在は多少落ち着いた感じがあるが、よくもまあ、というほど番組が氾濫していた時期があった。
物を買うということは、なかなか楽しいことなのだ。それは女性がショッピング好きというばかりではなく、男も一緒だ。ただカタログを見ると、女性の方がより買いやすいのだなというのがよく分かる。半分以上が女性ものだからだ。
これほどインターネットが普及しても、やはりカタログ誌の威力はすごいのだなあと思う。
これは、本という存在が、コンピュータに取って代わられるためには、相当に変革がないと行けないように、人のアナログな部分は、そう簡単にデジタルを取り込めないのだろうなということらしい。
いや、何か買ってしまいそうな感じがあるが、そこを買わないのが男であるということの証左であるような、一瞬そんな気がした。
投稿者 keisuke : 日常的 | 01:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月27日
モーツァルト
モーツァルトの生誕250年だという。まさに今日がその誕生日だ。250年前の暦がどうなのかは知らないが、そう言うことらしい。
モーツァルトというと、バッハやベートーヴェンとともに、ほとんどの人が名前を知っている。しかも映画「アマデウス」のおかげで、バッハやベートーヴェンなどとは違い、姓だけでなく名まで有名だ。
しかし実際に曲をどの程度知っているかということになると、おそらくは、驚くほど知られていないと思う。少なくともクラシック好きの人が、モーツァルト程度は常識だろうと思っている、10分の1も知らないに違いない。
モーツァルトの書いた曲を上げよといわれたときに、ベートーヴェンの「運命」や「第九」ほどに、曲名が知られているわけではない。「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」という名前を聞いたことはあっても、恐らくモーツァルトと結びつかない人は多い。
テレビなどでかかるレクイエムの回数は、最近ではモーツァルトよりもヴェルディの方が多そうだ。
ジュピターという名前を聞いたときに、モーツァルトの交響曲を思い浮かべる人よりも、ホルストの「惑星」を思い浮かべる人の方が多いかも知れない。もちろん、平原綾香のおかげだ。
「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」等という著名なオペラは、どこかで名前を聞いたことがあるかも知れないが、下手をするとそれがオペラのタイトルであることを解らない人も多い。
最近ではクラシックのCDがよく売れているという。確かに昔に比べると、クラシックのハードルは低くなり、多くの人が聴くようになった。中でもモーツァルトは、簡単で難しく、聴きやすいので、ベートーヴェンなどよりは遙かに入りやすいだろう。
だが、CD等で、例えばモーツアルトの交響曲集を買ったとしよう。1枚聴き通し、曲当てクイズを行っても、簡単には答えられない。極論すれば、どれを聴いても似ているからだ。
たとえモーツァルトでも、日本語の歌詞が付いたJ-POPとは比べものにならないくらい、覚えるのは大変だ。
さて、そんなモーツアルトの音楽が、200年以上も前に生まれたにもかかわらず、いまだに多くの人に聴かれ、楽しまれているというのは驚嘆に値する。
人類の歴史から考えると、クラシックの歴史は思うより遙かに短い。しかも、20世紀を10年〜20年くらい過ぎると、それから先は余りよく分からない音楽が続くので、実質200年間の音楽に近いとも言える。
もちろん、ルネサンスとかまで広げる事は可能だが、それでもせいぜい300年だ。
ただ、200年とはいえ、その200年を朽ちることなく、人々に感動を与え、聞き続けられているというのは、そこに何かがあるからに違いない。
最近の音楽が朽ちていくというのではない。ただ実際問題、最近の音楽の寿命はそれほど長くないものが多いだろう。それはある意味、ポピュラーの持つ宿命のようなものかも知れない。ビートルズだって、100年後にどれほど聴かれているかは疑問だ。
もちろん、どちらが優れているかということではなく、単純に、それだけの長きにわたり聴かれ続けている同じ音楽ということの凄さを言いたいだけだ。
ジョン・レノンの曲は、個人的にはどこがいいのかよく分からないが、ジョンが歌ってこそのあの気の抜けた感が、多くの人に感銘を与える原動力のような気がする。他の人が歌っても、いい曲はいい曲だが、何かが違うと言われるのではないか。
ところがモーツァルトなどは、これまでの歴史の中で、数えきれぬほどの演奏者が、同じ曲を演奏してきたのだ。そしてその都度、その演奏に賛否が唱えられ、いいに付け悪いに付け評価され、現代に到っている。
そもそも同じ音楽だが別のものなのだ。ジョン・レノンで言えば、スタジオ録音とライヴ、どこどこでのライヴと、何とか音楽祭のライヴでは違う、ある意味それと似ている。
ただモーツァルトの凄さとは、多くの作曲家、そして演奏家が、年を降るにつれ回帰し、その深みにはまっていく音楽であるという点だ。それは、ベートーヴェンも、ブラームスも、ワーグナーも、マーラーもあるいはバッハでさえ、持たぬ何かなのだ。
ハイドンの曲は、時折モーツァルトと似た響きをする。しかし、ハイドンは、モーツァルトが持つ、ある意味神々しさのようなものは持たない。実は私もモーツァルトのそういう側面はまだよく分からない。
でも、飽きない曲という側面をモーツアルトの曲は持っていて、これは単純に、心地いいとか、聴きやすいというのとは別のような気がする。
何より生誕250年、若くして亡くなった作曲家だが、今も尚、この時代にその音楽が生きている。すごいことではないか。
投稿者 keisuke : 音楽 | 01:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月25日
たばこ
たばこについては以前も書いた。
先日たまたま外で食事をしていて思うことがあったので再び書く。
中華屋で食事をしていたときのことだ。隣の席に絵に描いたようなサラリーマンがやってきた。絵に描いたようなというのは、多分に私の感想であるが、席に着くなり、「ビールと餃子」しばらくして「ラーメン」といい、おもむろにスポーツ新聞を読み始めた。・・・これは私の知らない世界なのだ。
間もなく私が頼んだ料理が来て食べ始めた。相前後して隣のおやじがたばこを吸い始めた。
煙いな、と思った瞬間、頭に浮かんだのは、店員に「煙いから別の席に移っていいか」訊いたらどうか、ということだ。
恐らく隣のおやじは不愉快な思いをすることだろう。だがちょっと待て、別に、目には目とは言わないが、少なくともその前に不愉快な思いをしているのはこちらだ。たとえそう言ったとしても、五分と五分である。
また、こういうかも知れない。「言ってくれれば消しますよ」
まだまだそんなことが言えるほど、たばこの市民権は小さくはなっていない。確かに以前に比べれば、信じられないくらいに小さくはなったが。ましてや今の世の中、そんな些細なことだって、刺されて死ぬかも知れないのだ。言えるわけがない。
まあ、そんなことを考えながら飯を食った。そんなことを考えながら食ったから飯がうまくなかったとは言わない。それなりに上手かった。
まだまだ禁煙の場所、特に駅のホームなどでたばこを吸う人も少なくないし、歩き煙草は減ったのかも知れないが、実感はない。
私は歩き煙草などを、危険だからと言う理屈で止めようというのは、本意ではない。確かにそれは非常に重要なファクターだが、私にとっては不愉快きわまりないから止めてくれ、ということだ。
テレビで誰だったか忘れたが、たばこを吸う人が全員、携帯灰皿を持った方がいいということを、非常にいいことを言っているといった風に放映しているのを最近見た。しかし携帯灰皿が解消するのは、ポイ捨てであり、本質的な部分は何も解決しない。しかもそれを言うなら、たばこばかりではない。
つい先日も、サラリーマン風の集団が、私の少し前で、たばこの包装紙のようなものを破ってそのままその場で後ろに捨てていくのを見た。この、街中にぽいぽいものを捨てていく感性というのは、きっと何かの欠如だ。
母親が、昔のような道徳教育がないことが今の社会の道徳観念がないことの原因だというようなことを言っていた。私は必ずしもそうだとは思わない。が、そういうシーンを見ていると、一理あるな、とも感じないではいられない。
携帯灰皿を持てというのは、街中でも自由にたばこを吸ってもいいということを推奨するようなことで、私的には全く賛同できない。そういう意味では、携帯灰皿なんていうのは、この世になくてもいい、とさえ思う。
たばこが身体に悪いというのは果たして本当だろうか?私が見るに、たばこの常習性というのは、麻薬的な何かがあるようにも見える。
身体に悪くて、常習性があるのなら、さっさと法律で禁じてしまえばそれですむ。
だが、嗜好品という言い方をするのであれば、また別の話だ。
たばこというのは、恐らく歴史があり、そう言った嗜好品として捉える人が多いのがおそらくは最大の問題点だ。
副流煙がどれほど身体に悪いのか知らないが、本当にそれが癌を引き起こしたりするのだったら、副流煙は凶器だし、それで死ぬ人がいれば、喫煙者は未必の故意の殺人者ということにもなりかねない。
副流煙を徹底的に吸わせて、病気で殺害するミステリなんていうのは、効率は悪いが、殺人罪には問われないようにも思えるので、上手い使い方をする作家が現れたりはしないのだろうか?私ではそのアイディアは扱えそうもないが。
友人が、「たばこを吸っていいですか」と訊かれて、「いやだ」と答えられる人がどれだけいるのか、というようなことを言う。まさに至言。あたかもたばこを吸うときの礼儀のように聞こえるこの言葉は、実は礼儀でも何でもなく、「これからおまえの前でたばこを吸うぞ」という宣言でしかないことに、どれほどの喫煙者が気づいているだろうか?
多くの喫煙者の皆さん、気づいてください。
私の部屋は禁煙なので、客が来てもベランダで吸ってもらう。多少失礼かな、とも思うが、この程度で壊れる人間関係ならいらないな、と思っている。
ただ外では、上記の例ではないが、吸いたいという人にはどうぞという。何も言わずに、吸われても文句も言わない。それはそれで、今の社会では、私自身が、私の意見を、どこまでも貫き通そうとするには、私の考えは一般的ではないと思うからだ。
だが、何でもそうだが、社会を変えるためには誰かが何かをしなければ始まらない。だからこういう場を借りて書く。
ホリエモンという人は、私は昔からそれほど好感を持ったこともないが、彼は少なくとも、時折いいことを言っていたことだけは確かだ。世の中を変えていくことの重要性というようなことはよく言っていた。そこには賛同できる。
彼が今回のようなことになって、あたかも彼の人生やものの考え方を全否定するかのようなマスコミの論調が時折あるかに見受けられるが、むしろその方が情けない。
いや、たばこの話なので、この件は別の機会に。
たばこを吸いたい人は自由に吸えて、嫌な人にはその影響がない、そんなシステムが理想的だ。不健康だろうが何だろうが、副流煙も含めて、喫煙者の中で自己完結してくれれば、いくらでも吸ってもらって構わないと思う。ヘルメットのようなものをかぶり、外部との通気はフィルターを通して、たばこの煙は外に漏れないようにし、自由にゆっくりと吸ってください装置だ。
そんなんじゃ美味しく吸えないし、身体にも悪い?ならばきっと彼はそれで禁煙できるのじゃないかな?
投稿者 keisuke : 日常的 | 23:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月22日
雪
朝から雪だった。実家で法事だったので、川越に帰った。
思いの外川越は午前中大したことはなく、積もってもいなかった。しかし法事が終わってみると、かなり地面は白くなっていた。
雪の日はやはりことさら寒く、北国に旅行をしたような感じさえする。
今年は日本列島は全体的に雪が多い。関東のみ、積もる形での初めての雪ではないだろうか。もちろん北関東は別な部分もあるが。
こんな日が毎日のように続き、何メートルも屋根に積もることを考えると、やはり厳しい。厳しいという言葉では片付けられるはずもないが、思う以上に厳しい。
雪というのは、雪国にでも住んでいないと、なぜか心が、幾つになっても、わくわくするような感じがある。もちろん、寒いし、雪かきは少しでも大変だし、翌朝の出勤は多くの人が大変だが、それでも、少ない雪だと、どこかがっかりすることがある。
雪が持つ不思議な景色と、あの雨などに比べるとゆったりした降り方、しろというイメージ、意外に多くの要素が、本来は嫌なはずの雪を、温かなイメージに変えている。
どこかに出掛けるときも、雨よりは雪の方が気が楽だったりもする。交通機関など、雨では滅多に止まらないが、雪では相当簡単に影響が出るにもかかわらずだ。
「ゆき」という歌は、そんな心情をうまく表現しているように思う。「犬は喜び庭かけまわり、ねこはこたつで丸くなる」という歌詞には正月の風物が凝縮されている。暖かな部屋から庭に降る雪を見るぜいたくというのが、非常に的確に表現されている。
アダモの歌に「雪が降る」というのがあるが、あれはあれで、灰色の空から降る雪のもの悲しさみたいなものがうまく表現されている。
たかが空から降ってくる氷の粒だが、なかなか人間の心や生活に与える影響が大きな粒だ。
投稿者 keisuke : 日常的 | 00:13 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月20日
チョン・ミョンフン
ニュー・イヤー・オペラコンサートの指揮をしているのが韓国出身の世界的な指揮者、チョン・ミョンフン(鄭明勳)だが、最近、CMでも何かやっていた気がする。
その折りに、「あれっ?」と思った。
私の記憶の中では「チョン・ミュンフン」だったからだ。・・・情報が古いってことだが、英語表記は「Chung Myung-Whun」となる。
よく見ると、最初のChungをちょんと発音するのなら、Myungは確かにミョンが正しいように思える。逆にミュンフンなら、チュン・ミュンフンだろう。
しかしかつては間違いなくチョン・ミュンフンだったし、CDなどはその表記になっていた。
かつてELOの話のときに、「Evil Woman」という曲が、かつて「エビル・ウーマン」と表記されていたという話を書いた。今調べてみると「イーヴィル・ウーマン」となっている。しぶといと言おうか・・・
Evilの発音記号は[ i:vl ](正しくは表記できないが)が普通で、日本語で表すなら「イーブル」が最も近い。最後のLは聞こえなくてもあるみたいな発音だ。何より、歌を聴けばそう歌っている。「Evil」に関して言えば、サンタナも「エビル・ウエイズ」という曲があったが、こちらは聴いてもよく分からないので(英語で歌っているが、歌詞に出てこないような感じ)多少仕方がないと思われる。
かつてレナード・バーンスタインはバーンステインという表記だった。さすがにこれだけの国際社会になって、相変わらず「イーヴィル・ウーマン」はどうにかしてくれという感じもするが、チョン・ミョンフンの場合はどうなのだろう?
私はミョンフンとミュンフンの間ぐらいの音なのかな、とも想像するのだが、わざわざ変えたと言うことはやはりミュンフンでは間違っていたのだろうな、どうやら変わったのは最近のことのようだし。
チョン・キョンファのベルクは愛聴盤なのだが、ところで、弟のミュンファはミョンファではないのかな?
投稿者 keisuke : 音楽 | 23:53 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月15日
ES細胞
韓国の何とか言う教授が人間のES細胞を発見したのがねつ造だったとかで、話題になっている。この教授がノーベル賞をもらおうがもらうまいが、そんなことはどうでもいい。これは日本人だからではなく、地球人として、どうでもいい。
そんなことより、そのES細胞とやらが早く発見されて実用化され、人間の病気が少しでも克服されていくことの方がテーマとしてはより重要で、誰がそれをやるか、どこの国の人間がやるかなどは問題ではない。
私は、長い将来を見据えて、人類が平和に貧富の差無く暮らしていくためにはいくつかの条件がクリアされれば可能だと思っている。
それは、一言で言えば、肉体的な意味で、人間が何不自由なく暮らせる世の中をまず作り上げることだ。これには医療と、食料、工業生産の三つの柱が必要だ。もちろん背景にはエネルギーの問題などがあるが、とにかく、この三つが重要だ。
人間は何のために働くのか、単純に言えばそれは生きるためだ。生きるためとは何かといえば、まずは何より食うことだ。ホームレスを見れば解ることだが、何はなくても、取り敢えず食料さえあれば、人間はどうにか生きていける。裏を返せば、それが無くては人間は生を全うすることができない。
まず、食料の生産を全てロボットによる自動化と、天候による不作などを、極限までなくす努力をすることだ。人が人の手で食料を作っている限り、ダメだ。もちろん、人が人の手で食料生産をすることそんものを否定しているわけではない。念のため。
何よりも、この世から飢饉や、食料のためにお金がかかるという状況を一掃することが大切だ。食べたいものは、いつでも手にはいるという状況を、いかにオートメーション化していくかが重要だ。
食べ物を手に入れるためにお金が必要でなくなれば、お金がかかるのは、住む場所とそれ以外の贅沢品に限られる。こちらは、食料よりも、オートメーションに乗せるのは難しくない。何しろ、人が人の手で、他人のものを作る、そのことを極力少なくしていくことが必要だ。
共産主義や社会主義は、公平な社会を作ろうとして、そもそもこの世が不公平な人間関係の上に成り立っていることを見ていなかったことで失敗した。労働者がいれば、それを使う雇用者がいるという図式は、その雇用者が資本家でなくても、身分の差を生む。作らせる部門を機械に代替させることができれば、その時点でそのスタイルは一応無くなるわけだ。
同時に、貨幣価値を可能な限り落とし、通貨を無用なものにしていくことが大事だ。
これは、何をやってもただの世界を作る言うことだ。お金が必要なのは、生活に必要なものを買うためだが、それを機械が代行して作り出せる世の中になれば、お金は必要ではない。必要なのは、エネルギーと、そのシステムを監視する役目の人だけである。
例えば、その世の中を維持していくために必要な機械やエネルギーの管理に、大量に人材が必要なのであれば、そもそも意味がない。そうでないことが前提なので、一生のうちに1年か2年は、そのために働くようにして、全世界の人間がある年齢の1〜2年を、その役目に費やすようにすればいい。
後は遊んでいても、研究していても、寝ていても、芸術を作っていても、自由だ。人間は、食べるために働かなくても、何か目的を探し、それを追求する能力を持っている。金のためではなく、本質的にそのことに没頭することができる。
金を得られなくても、名声や、地位は手にはいる。もちろん地位というのはお金との相性はいいが。
唯一、そういう世の中ができても、医療だけは難しい。もちろん、遺伝子レベルで、あらゆる病気を克服することができるのであれば、後は怪我だけが問題だが、先に書いた食料や興業などの他給自足問題より、遙かに難しいと思える。
貧富の差をなくすことはどういうことかと言えば、元々不公平に生まれてくる人間を、社会が、底辺で揃えるのではなく、相当上の方で揃えることができる社会を作っていくことだ。
そのためには科学や工学など、最先端の技術や学問が、これからもどんどん発展していく必要がある。医療にとってのES細胞っていうのは、きっとそういう重要なアイテムの最右翼の一つであると思う。
100年、200年後かも知れないが、自らが見ることのできないそういう世の中が来ることを願ってやまない。
投稿者 keisuke : 社会的 | 22:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月11日
シャワー
このところ、冬でもシャワーだけということが多いのだが、先ほどシャワーを浴びながら、ふと昔の記憶が甦ってきた。
子供の頃は、シャワーどころか風呂もなかった。親に連れられて銭湯に行っていた。
最初に風呂ができたのは、幼稚園の頃越した家だったと記憶している。木の浴槽で、左側に釜があり、その上に熱い湯が沸いているものだった。風呂を出たところにある洗濯機はローラーで洗濯物を絞るタイプだった。ちょうど昭和40年前後のことだ。今から40年くらい前のことだ。
今では風呂のない家というのは、都内の古いアパートに住んでいる人たちくらいではないのだろうか。もちろん探せばまだまだあると思うが、全体的な比率で言えば、非常に少ないだろう。
私が最初に家を出て一人で暮らしたのは、荻窪駅から3分のアパートだったが、風呂はあったものの、シャワーは付いていなかった。近所の雑貨屋で、水道に取り付けるタイプを買って、使っていた。これは20年くらい前のことだ。
今では、普通のアパートやマンションの賃貸であれば、普通にシャワーも風呂も付いているところがほとんどだ。当然持ち家なら尚更荘だろう。
銭湯も様変わりして、風呂にはいると言うより、ちょっと贅沢な感じがするところが多いようだ。
どんな人であれ、生まれてある程度の年数を生きることができると、その間の社会的な変化はとても大きくなってきている。私の両親などは、戦争を通り過ぎ、パソコンや携帯が日常にある時代に生きている。
今、今度NHKで放映されるというので井上靖の「氷壁」を読んでいる。この中ではナイロン製のザイルが切れたか切れなかったか、ということが問題になる。麻ではなく、ナイロン製のザイル。最近ではロープと呼ぶらしいが、今でもザイルは麻かナイロンが主流だ。それでも、「氷壁」の舞台となっている昭和30年辺りは、まだナイロンは新奇な素材だったようだ。
人類の歴史は200万年くらいなのだろうか?歴史が記されてから数千年、産業革命が起こってから200年程度、人類の進化はとてつもなく短期間のサイクルでめまぐるしく変わっている。
かつては人の一生の間の変化なんて、さほど無かったに違いない。しかし今では、井戸で汲んでいた水は、当たり前のように水道から出、常時お湯も使える。
シャワー一つでも、なんだかすごいなあ、と感心してしまった。
投稿者 keisuke : 日常的 | 00:27 | コメント (1) | トラックバック (0)
2006年1月10日
成人式
電車で晴れ着の女性を沢山見た。それで、今日が成人の日なのだということに始めて気づいた。2000年から1月の第2月曜になったわけだが、それまでなぜ1月15日だったのかを調べてみると、かつて日本の年齢計算が、数えであったことと、暦が太陰暦であったこと、そして元服という儀式が関係しているらしい。つまりは歴史的に見て、成人の日が1月15日であった意味があったのだと言うことだ。
もちろん、ハッピーマンデートやらで祝日を増やす方が、成人という法的には意味があるだろうが、それ以外には私などはとんと意味を見いだせない20才の区切りということの意味を秤にかければ、現代人にとっては連休の方が重いというのは分かる。
まして、テレビなどで毎年、正装して会場で大騒ぎをしている人たちを見ていると、大人か子供かを年齢で分けることの無意味さを、特に感じる。
酒やたばこは二十歳だが、アダルトビデオは18だ。この違いもよく分からない。
何に付け形式張ったことや伝統ということに、取り敢えず反発を覚える難儀な性格の私としては、成人式はもちろん出席していないし、ことさらそれによって何かが変わったという意識もなかった。周りが自分を見る目も、ことさらこれからは大人だからと言うのを感じたこともない。
現代の二十歳は、多くが大学生であったり、既に働いていたり、何かの過渡期であることが多いと思う。むしろ高校や大学の卒業とか、そういうエポックの方が、より何かの変化を感じるような気がする。
であれば、ほとんどの若者が高校を卒業する18歳を成人と考えてもいいような気さえする。だからといって中卒で社会に出ている人を無視しているわけではない。何に付け、例外というものはある。
そもそもこれから大人になったのだから責任をもってという言い方はおかしなことで、それまでは何でも責任がないのかといえばそんなことはない。学校出だって、責任についてはしっかり教えているだろう。
大人の自覚があったって、マンションの強度偽装はするし、東大出ていたって、社会保険料や税金を湯水のように無駄遣いするのが、実は大人である。
大人だから子供より素晴らしかったり、倫理的に優れているわけではなく、それは単なる個人差である。かくいう私がそれでは、何に関しても清廉潔白でしっかりしているかというと、そんなことは決してない。少しでもそうあろうという意識があっても、それがその通りできる等というのは、誰に関しても期待しない方がいい。
ただその中で、やはりレベルというか段階があるので、あれだけ多くが参加している成人式で、我勝ちに騒ぐという行為が、果たしてどんなことなのかと言うことくらいは理解し、行動して欲しいとは思う。
でも、様々な犯罪を行う大人から比べれば、罪は軽いというか、そもそも比較するべきでもない。つまりは、社会生活を送る上で、していいことといけないことの、法的な部分ではない、境を理解しない人間が、実はなかなか多いというのも事実なのだ。いや、これは自戒も込めてではあるが。
ともかく、全く個人的な意見として、成人の人か成人式が意味を持つのは、その日が祝日であるということだけなのは、どうしたものだろう。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 8日
地震
年末年始、実家に帰った折、母親と一緒にタクシーに乗った。
その時、いやに饒舌な運転手が、地震の話をし出した。一昨年バンダアチェで起きたような地震が来て、東京は50メートルの津波で全滅だと、繰り返し、話していた。
・・・だから川越は安全だ、ということなのか、「ぼくは東京なんですがね」と、心の中だけで言っていた。
年が明けても、テレビで地震の被害や、その時の対応などという番組が非常に多い。
確かに直下型の地震が東京を襲えば、尋常な被害ではないだろう。昔からそう言われてきたし、子供の頃から、大地震が襲うと、何度も言われ続けてきた。
もちろん、全然起こらないじゃないか、だから安全、と思っているわけではなく、最近の日本列島を見れば、関東でなくても、至る所が地震の巣なので、怖いことには変わりはない。
そこに持ってきて、マンションの強度偽装だ、といわれれば、尚更である。
私が中学か高校くらいの頃に流行った小松左京の「日本沈没」が再び映画化される。かつて、テレビ化、映画化、漫画化された。上下巻のノベルズで、非常に読みにくかったのを覚えている。
日本沈没に限らず、当時は、大地震の映画などが結構あったように思える。
永井豪の「バイオレンスジャック」は、新たな関東大震災で、関東が壊滅し、さらに孤立化した後の無法地帯を描いた作品だ。これも恐らく、70年代から書き始められていたのではなかっただろうか?
当時は、地震に加えて、公害による汚染や、冷戦構造から来る第三次世界大戦など、今となっては、未来予測としては大分違った世界を危惧していたのだ。
だからといって、今がバラ色な分けではないし、温暖化によるオゾン層の破壊などは、目に見えて、公害以上に壊滅的な未来を予想することも可能だ。
ソ連はなくなったしベトナムも負けたのに、アメリカは次々世界のどこかで戦っている。
そして地震もずっと来ると言われ続けている。
いずれは来るのかも知れないし、このままずっと来ないのかも知れない。今まで起こったことのない福岡で、昨年は大地震が起こった。今年は例年にない大雪に日本は見舞われている。
ああ、地球は生きているのだな、そして人間の手で蝕まれてもいるのだな、とも思う。
だが、健康を維持するために努力をする人と、そうでない人がいるように、地球のあちこちで、その努力をしている人と、何となく日常を過ごしている私みたいなのとがいる。
ふと思うと、何かできないのかな?と考えることもないわけではない。だが何もしていないのが現状だ。
せめて車に乗らないので、その分自分が出す排気ガスが少ないという、かなり他力本願的な貢献をしていることで、幾分心は慰められる。
あまり揺れるなよ、地球。
投稿者 keisuke : 社会的 | 01:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 6日
タイミング
今日郵便局の不在通知が郵便受けに入っていた。配達記録というやつで、印鑑が必要だ。
実は今日は、食事以外で外出をしていない。13:00〜30分程度と、19:30から1時間程度の2回だけだ。他は家にいた。家が職場だから当然といえば当然だが。
配達は13時15分になっている。昼間、朝から夕方までと考えて、10時間弱の中で家を空けたわずか30分にそれは来ていた。その結果、明日再配達を依頼することになった。
タイミングというのは何かをするときのいい頃合いとか、それを合わせるときに使う。タイミングがいいとか悪いとかいうが、今日は悪かったわけだ。人生はいいタイミングに恵まれるときと、恵まれないときがある。おしなべてどちらが多いかというのは個人差もあろうし判然とはしないが、比較的確率という言葉がイメージさせるように、半々といったところではないのだろうか。
だが不思議なもので、物事のタイミングというのは、恐らく良くも悪くもないことが一番多いので、その中で良かったときと悪かったときは記憶に残りやすい。しかも悪いときの方がより記憶に残り、自分が運が悪そうに感じてしまったりすることも多々あるのではないだろうか?
タイミング一つで、仕事に成功して金持ちになる場合もあるし、タイミング一つで命を失うこともある。
タイミングという言葉は、非常に都合のいい言葉なのかも知れない。微妙に運を左右するように思える。
ちょっと話はずれるかも知れないが、「神はサイコロを振らない」というドラマがスタートするらしい。この言葉は、不確定性原理を否定するアインシュタインの有名な言葉だが、その言葉をあざ笑うように、この世のミクロな現象は量子力学に則って、常に神はサイコロを振りまくっている。
実はこの不確定性原理こそが、この世の不均衡なあらゆることの元なのではないか?と、かつて量子論の本を読んだときに思ったのを思い出した。
あらゆることが平衡で均一であれば、世の中に貧富の差も力の差もないのかも知れないが、この不確定性原理で支配されたミクロの積み重ねが、実はこの世の現象を構成することで、あらゆる不公平や変化を生んでいるとすれば、それこそがこの世の存在証明であり、タイミングもまた、その一つの側面であると観ることができる。
であれば、タイミングがいいの悪いのは、非常にこの世を活性化する現象のように思えて、何となく面白い。いや、だからなんだということではない。やはりタイミングも運もいい方がいいのだ。
投稿者 keisuke : 人生 | 00:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 5日
パソコンのキー
実は、本の表紙について書いていたのだが、しばらく書いたところで、入力を間違えたのでEscキーを押したら、記事が全て消えてしまった。意気阻喪ということで内容を変えた。
そもそも新しいMovableTypeは、ネスケで表示がキチンとされない。内容を読む部分は、自分でスタイルも、HTMLも書き換えられるので問題はないが、ログイン以降のシステムのページはそうはいかない。
だからやむを得ず、普段あまり使わないIEを使って書いているのだが、このIE、どうも納得がいかない。
ローカルでSHTMLやCGIといったファイルを読み込めないし、読み込めるように変えた場合、それらのファイルをダブルクリックしたら、IEが自動的に立ち上がってしまいそうで、それもイヤだ。
Windowsもそうだが、マイクロソフトは、使いやすさを追求しながら、すごく使いづらいプラットフォームをどんどん構築していっているようにしか思えない。
使いやすさには二面性があって、初心者が何も考えず、ボタンだけ押していれば先に進むという部分と、ある程度の(プロではない)利用者にとっても、比較的自由度の高い部分が混在していてくれないと困る。
98の頃はそれでも、かなりカスタマイズが簡単だった。今では、XMLで書かれていたりして、非常に煩わしい。
結局そんなことで、Escキーで記事がそのまま消えてしまうなどと言う、ネスケでは考えられない事態が起こったために、こんな羽目に陥っているわけだ。
IEは起動にもかなり時間がかかり、これも使いたくない理由の一つだ。
しかし、ホームページを制作している側から言うと、結局はIEに合わせて作らざるを得ないくらい、IEが世の中を席巻しているのは事実なわけで、OPERAや、MOZIRAが、ネスケに変わって台頭してくるわけでもない。
何かこう、釈然としないパソコンの行く末を思わざるを得ないのだ。
投稿者 keisuke : インターネット・PC / 文学・日本語 | 01:37 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 4日
八犬伝
TBSで「南総里見八犬伝」を二日にわたって放映した。
いや、実はほとんど見ているわけではないのだが、かつてNHKの人形劇で子供の頃見ていた記憶もあり、あるいは、水滸伝との関連などもあり、興味はある。
NHKの記憶は、犬塚信乃を近石真介がやっていて、坂本九がナレーションをやっていたくらいの記憶しか無くなっているが、楽しく観ていたと思う。八犬士の名前も、前述の信乃以外は、犬田小文吾、犬山道節、犬飼現八くらいしか記憶になく、今回残りの4人の名前を聞いても、記憶と一致せず、新たに知ったという感覚だった。
私は水滸伝が好きなのだが、水滸伝と八犬伝は、そもそも話の内容は全く違うわけで、比較するのもどうかと思うが、最も大きな違いは、八犬士は玉梓の呪いを受けながらも、実はそれと対抗する正義の犬士であり、仁義礼智忠信孝悌(NHKの歌でよく覚えている)に表される性格を基本的には犬士達が持っているのに対し、いかにも国のためにという義に参じたように見える108人の好漢は、確かに中には正義の士もいるにはいるが、どう考えても、盗賊や人殺しが集まっており、どちらかというと、本宮ひろしが描くやくざに似た、義憤に満ちた暴力集団といった趣がある。
里見家再興という明らかな目的を持った八犬士と、結果的に何が目的だか解らなくて、堅物でほとんど世の中の見えていないような宋江の理想に振り回されて、108人が非業の最期を遂げていくような、悲しい物語となっている水滸伝は、明白に作者の意図するところが違うように思える。というより、前者は滝沢馬琴という作者が、言い伝えなどを下敷きにしていたとしても、明確な意図を持って作品に仕上げているのに対し、水滸伝は結果的に伝説をまとめ上げたというところで終わっているように思える。
だが水滸伝の魅力は、少なくとも私にとっては、その破天荒とも言える、いいかげんな108人の生き様にこそあるのでる。そういう意味では、八犬伝は三国志などにより影響を受けているのかも知れない。
しばらく前に八犬伝は、文庫で訳本が出ているので読んでみようかな、というきっかけを与えてくれた。読んだ後にでも、ビデオを見てみることにしよう。
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 01:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
2006年1月 1日
謹賀新年
2006年が明けました。
取り立てて何があるという年でもありませんし、お正月だと言って、何が変わるわけでもありません。
土曜日の次の日曜日です。
日々はまさに1日1日の積み重ねです。しかし、1年365日とすると、私はすでにこれまで、17000日を積み重ねてきたのであり、人間は、長生きしてもわずか4万日にも満たない一生なのです。
その1日と思えば、たとえ正月でなくても大切な一日という感じがします。
1万7千とか4万とかいうと、膨大な日数にも思えますが、4万円がいとも簡単に消えていくことを考えると、長いようで短い人の一生なのです。
あの世があろうが、生まれ変わりがあろうが、それを知らず、記憶もないのであれば、やはり人の一生は一度限り、今生の意義は大きいのです。
とはいえ、あるいはだからこそ、生き方は様々で、必ずしも一生懸命生きるだけが一生ではないのです。どのようであれ、人が選び、生きる人生、のんびり鷹揚に生きるのも、厳しく生きるのも、それぞれだなと思うわけです。
どうも根がO型気質と言いましょうか、厳しさとは疎遠なところがあり、それが欠点でもあるわけですが、どうしてもそこから抜けられません。
今年もきっと、そんな調子で生きていくことでしょう。
でもまあ、今日からエンジンをかけ直し、うちでのこづちだけは厳しく参りたいと思っております。
今日のはどう考えても日記です。
投稿者 keisuke : 日常的 | 01:09 | コメント (0) | トラックバック (0)