2005年12月22日
浅田真央
最近のこの体たらくは難だろうと、自分でもちょっと呆れているのだが、いずれエンジンがまたかかるだろう。1年365日とすると今回のエントリーが366件目なので、ちょうど1年ということになる。
さて浅田真央だが、先日のグランプリ・ファイナルとかで素晴らしい演技で優勝をした。
ルールで2ヶ月くらいの差でオリンピックには出られないとかで、日本スケート連盟などにはどうにか出せるようにメールやら電話やらが鳴りっぱなしだというニュースを先日流していた。
しかしルールとは言っても、そんな昔にできたルールではない。それ以前はジュニアの優秀選手だってオリンピックに出られていたようだ。ルール改正の元になったのは、アメリカの選手が15才で金メダルを取った後、プロに転向したためだという話も聞く。
アマチュアで金メダルを取った後、プロになろうと選手の自由だし、そもそもオリンピックがアマチュアの祭典だなんて嘘だし(いくらでもプロが出ている場合があるだろう・・・サッカーにしたって無くなってしまうが野球だって)、そのようなことで、今回のルールができたのだとしたら、委員会を運営する人たちは、あまり頭が良くない。
実際には医学的見地からだとか言っているが、だとすれば、他の大会は問題なくてオリンピックだけにそのような決まりがあるということは、オリンピックというのはよほど身体に悪い何かを秘めているとしか解釈のしようがない。仮に身体に悪いのであれば、煙草と同じに子供にはスケートでテクニッカルな技はしてはいけないと、法律で決めたっていいくらいだ。
しかし、では身体に悪いからと、彼女たちの多くが練習をしないのか、オリンピックに出ないからと、ゆっくり身体を休めるのかと言えば決してそんなことはない。つまりは今度のルールは屁理屈に過ぎないのだ。
ルールーだから仕方がないとよく言う。スケート協会の何とか部長は、平社員は社長に直に意見が言えないという、直訴は切り捨て御免のような例え話をして、ご理解いただきたいようなことを言っていたが、ああいう考え方の人が上にいるとすれば、新しいことはあまり生まれてこないだろうし、多くのことが保守的になっていくしかない、としか、少なくともニュースの部分からでは印象を得られなかった。
しかも、これからがある浅田よりも、今がんばっている他の選手を、トリノでいかにいい演技をさせるかなどと言っていたが、ちょっと首をかしげる表現だ。
かつて世界一になった村主章枝の今と浅田真央を比べてみると解るが、誰でもそのピークがある。
オリンピックは4年に1回。その中で2ヶ月違いで行けないというのは、最も運のない生まれといえよう。4年後の浅田真央がどれだけの演技をできるのか、オリンピックのスケート界を運営する人々は、その保障ができるのだろうか?
今しかないかも知れない少女の可能性を、説得力のないルールだけで壊してしまうことが、いいことなのだろうか?
確かにルールというのは守るためにある。しかしあらゆるルールが正しいわけではない。人が決めるルールは人が変えればいいだけのことではないのか?
安藤美姫は独特の雰囲気を持っていて人気がある。世界で唯一4回転ができるが、このところは転倒ばかりで、なぜかエキジビジョンでは4回転を飛べたりすると、用は本番に弱いのだという印象を持つ。そういう意味では個人的に共感する部分が多いが、それではオリンピックで活躍できない。
どう考えても、世界一の演技ができる可能性がある選手を、4年間待たせるというのはどうかと思うのだが。
投稿者 keisuke : スポーツ / スポーツ | 01:22 | コメント (1) | トラックバック (0)
2005年12月17日
大いなる聴衆
永井するみという作家の「大いなる聴衆」という小説を読んだ。
書店で、「2005年今年振り返って読んでもらいたい1冊」という帯を見て、裏のキャプションを読んだ。
ピアニストの婚約者を誘拐し、「完璧な演奏をしろ」という犯人からの要求という、新鮮な犯罪に惹かれて買った。
元々は2000年に単行本が発売になったようで、事件もその頃起こった設定になっている。
600ページを超える長編で、しかも誘拐事件だけで引っ張っていく筆力には感心した。推理小説と言うほどではないが、読みやすいミステリだった。
あとがきにも書いてあったが、そもそもここに登場する人物は、非常に読者の共感を排除し、「イヤなやつ」ばかりなので、そういう意味では読後感は良くない。登場人物は非常に多く、解らなくなりそうにさえなる。推理小説という意味では、ある意味読みづらい登場人物の多さだ。
だが、小説としては、それぞれの生き様が見えて、何となく「類は友を呼ぶ」とでもいいたくなるような風にさえ思えた。それくらいひどい登場人物だ。恐らく現実を超えている。
最近のマンションの強度犠牲事件報道の中で、今の法律は性善説に基づいているが、考え方を変えた方がいいというようなことを誰かが言っていたが、性善説か性悪説かという単純な二分論で考えるなら、人間は性善説だと思う。それは自らが幸福や快感や富裕といった良いものを求めていくからで、性悪説からはそういう人間像は浮かんでこない。
そういう意味では、時折誇張された人非人が、気分を害させることもあったが、なるほど、日本人はこういう登場人物による小説も好むだろうな、と思える。
特に主人公の紫という女性は、こんな女と一緒に仕事もしたくないし、付き合いたくもないと、最初から最後まで思わせる女性で、読んでいていらいらした。
もう一つ、最後まで私は犯人の意図がよく分からなかった。動機は解ったが、その動機からどうしてこういう要求が出てくるのか、それがよく分からなかった。
などと書いていると、けなしてばかりだが、それなのに読んでいて、そこそこ面白かった。これは小説家としての永井氏の力量なのだとも思う。
この、クラシック音楽を特殊な音楽だと考えているような人たちは、きっと少なからずいるし、考え方によっては特殊ではあるとも思うが、「ジーンズやTシャツといった、クラシック音楽のコンサートにはおよそ似つかわしくない服装の人々」に到っては、「へっ!」という感じだ。私はほとんどジーパンでクラシックを聴きに行く。
そんな感じで、非常に反発を沢山感じさせながらも、よく途中で本を読むのを止めてしまう私が、最後まで読んだし、早く読みたいという気を起こさせる小説でもあったのだ。ある意味悔しい。
少なくとも個人的な知り合いでない限り、この作品に出てくる安積界というピアニストは、決してイヤなピアニストではないと思うし、いい演奏をしてくれるのが演奏家の使命でもあるが、そもそもクラシックの演奏家というのはそれで口に糊しているわけで、顧客主義であれば、如何に聴衆を楽しませるかが至上命題だ。
そういう意味では、ここに登場する衛藤という安積のマネージャーの「CDが売れた演奏がいい演奏」というのは一面の真理だ。
大いなる聴衆の意味をここで書くことは差し控えるが、いずれにしたところで、聴衆のない音楽などは、人間原理を否定する宇宙の彼方の異星人のようなもので・・・・と例え話の方が理解しがたいことを書いて悦に入っている物書きのようなものだ。
だが、こうしてクラシック音楽に関するテーマで小説を書いてくれるというのは、考え方は違っても面白い。ロックでもジャズでも面白いと思うのだが、ミステリでということになると、方向性が見えてきそうでイヤだ。飲んだくれの探偵とか、歌舞伎町の裏通りとか色々と・・・
投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 02:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年12月11日
ラ・ボエーム
先日、知り合いの出ているオペラを観に行った。
演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」。若い人たちがやるには最適の演目の一つだ。・・・登場人物がほとんど若者だという理由ばかりではなく、非常に魅力的なメロディーに溢れているし、長すぎず聴きやすい。
二期会という日本のオペラ界では中心的な団体で学ぶ人たちによる演奏だったので、期待しつつ、それでもエレクトーン伴奏だと聞いていたので、ピアノよりはいいのだろうけど、やはりオケではないから、オペラとしてはちょっと寂しいかな、等という思いを持ちながら、会場に向かった。
場所は滝野川会館という北区の区の施設だ。500人くらいは入るホールだった。
開演後まず驚いたのは、エレクトーンという楽器の凄さだ。十分にオケの代わりが務まるほどの音がするのだ。もちろん本物ではないから、細かいことを言えば違うのだろうし、時折電子楽器の音は確かにするのだが、弦も管も打楽器だって、その楽器の音でするし、たった2台のエレクトーンが、2管か3管か知らないが、フルオーケストラの音を鳴らすのだ。それだけでも予想を覆された。
キャストは
ミミ:高橋史惠 ロドルフォ:西村悟 ムゼッタ:吉田聡美 マルチェッロ:内田雅人 (初日)
ミミ:江熊千恵 ロドルフォ:加藤康之 ムゼッタ:中川美和 マルチェッロ:榛葉樹人 (二日目)
ショナール:千葉裕一 コッリーネ:金子宏 他
という布陣で、指揮と演出は 細岡雅哉 ということだった。
ボエームというオペラは、非常に甘いメロディーに溢れているし、中心となるのはミミとロドルフォの悲しい恋の物語と、他の登場人物との友情が19世紀頃のパリを舞台に描かれている。
オペラの常で、ストーリーはたわいないし、かなりドラマツルギーに支配されたこてこての作品である。尤も、これはいい意味でであって、非常に直接的な「ドラマ」だ。全体がどうあれ、最後のミミが死ぬシーンが素晴らしいと、それだけで感動できる。
プッチーニが書いたメロディーは、その死の場面のオケとロドルフォの絞り出すような「ミミー」という歌に向かって、全てが収斂していくのだ。そのためのオペラと行って過言ではない。
4楽章のこのオペラは、構成的には交響曲的で、序奏とソナタの第1楽章、続いてスケルツォ楽章が来て、その後に緩徐楽章、最後にフィナーレという風に、非常に聴きやすい。
ロドルフォとミミの恋愛という大きなテーマに、スケルツォで色を添えるムゼッタと、そのムゼッタが完全に浮いてしまわないように、常に脇を固めるマルチェッロという構成が、尚更交響曲っぽい。
書く楽章に聞き所があり、一つはロドルフォとミミのそれぞれのアリアと二重唱、ムゼッタのワルツとも言われる2幕のムゼッタの破天荒なシーン、そしてラストシーンと、飽きさせない。
私はそれほど会場でオペラを観た経験があるわけでもないし、これまではどちらかというとオーケストラ曲を中心に聴いてきた。もちろんその中には、最初から聴いているマーラーがあったおかげで、声楽に対するアレルギーみたいなものはなかったし(いや、マーラーを聴くまでは確かにあったが)、自分なりのクラシック音楽に対する対し方がある。
今、「大いなる聴衆」というミステリを読んでいるのだが、これについては後日書くことにするが、この中には、私などがクラシックを嫌いになりそうなご託が、さんざん、特にクラシックサイドの演奏家等の口を借りて沢山出てくるのだが、私は非常に単純に、その演奏会に満足できたかどうかが指標になると思っている。
「聴く耳」というのは、不幸にして聴覚を失っている人たち以外は、誰でも持っている。つまりは、クラシックなど嫌いだという人にとたちは、聴く耳を持たないのではなく、どのような曲も彼らの耳を満足させ得ないのだと解釈すべきだ、と思っている。
そういう意味では、コンサートに臨む場合、そこに好きな歌手や知り合いが出ているか、日頃から好きな曲かどうかということも、影響するのだ。
そうはいっても、長く聴いていると、当然好みはあるし、この曲はこう演奏するのがいい等という、聴く側の自己主張も出てきたりする。また、一般的に言って、名演といわれているものは、より多くの聴衆を魅了するし、満足させる。
そういう意味では、オペラシティや文化会館、サントリーホールなどで掛かる作品は、オペラであれ、何であれ、それなりのレベルと満足を聴衆に約束すべき義務を背負っている。
もちろんだからと言って、今回のペラがそういう義務を背負っていないと言うつもりは毛頭無い。むしろ、これからプロの舞台を目指していく若手の演奏会だけあって、1回1回の演奏は、いつでも真剣であると思う。上演までは、数々の苦労を乗り越え、胃の痛む思いもしたことだろうと思う。
しかし上演からはそのような苦労はみじんも感じられなかったし、皆のびのびやっていた。
演出もしっかりしていて、きっとオーソドックスなのだと思うが、非常に感動的に、メリハリの利いた演奏を聴かせてくれた。彼らはやはり皆プロなのだな、と思わせてくれた。
La gemma della musicaと名乗る4人の女性陣は、皆それぞれ、自分の個性で役を演じ、高橋さんは、ちょっと孤高な感じさえするミミを、きれいな歌声で歌い、吉田さんは、ちょっと上品なムゼッタを演じ、江熊さんは、どちらかというと癒し系のミミ、そして中川さんは吉田さんとは対照的な、派手で強気な、そのくせ根は優しいムゼッタを演じていた。
個人的には二日目の方がコントラストがはっきりしていたので、オペラの流れから言えば、いいのかも知れないと思う。
しかし彼ら自身が言うように、la gemmaという言葉が意味する「発芽」とか「宝石」という意味があるのであれば、まさにこれからが彼らの活躍する場なのだと思う。これからの4人と、その他の、既に活躍しているキャスト達、そして合唱の人たちもこれからの活躍に期待したい。
恐らく、荒削りなところもたくさんあったに違いないが、少なくともここに、コンサートを楽しみ、満足していた聴衆がいることを知らせたい意味もあって、書かせてもらった。
投稿者 keisuke : 音楽 | 17:26 | コメント (0) | トラックバック (0)
2005年12月 6日
書くこと
このところ忙しくてこれを書いている余裕がない。
というのはきっと言い訳で、そんなに忙しく、夜の目も寝ずに・・・仕事をしているなどということはない。
ただ、書くためにはテーマを考えなくてはいけないということと、これが案外大変だということの2つが、比較的忙しいことと相俟って、筆を鈍らせているというのが事実に近い。でも本質は、私自身の怠惰のなせる業だ、ということは、誰よりも自分自身が一番知っている。
ところで、一つのエントリーに対して、自分が書く文章が、どの程度が最も適当だろうか、と貘と考えたことがある。もちろん結論は出ないが、あまり短いとさぼっているような感覚になるし、長いと、数少ないが、読んでいただいている人に申し訳なくも思ったりする。
昔、まだ始まった当時の進研ゼミの通信添削をやっていたことがある。ほとんど覚えてはいないが、唯一記憶に残って印象的だった添削があった。
国語の論文だったと思うが、規定文字数内に何だったかのテーマで文章を書くというものだった。
当時の私は、今とは違い書きたいことがたくさんあったのか、学校での作文も長々とよく書いていたものだったが、この添削の時も、感想欄があったので、そこに字数が少ないとか、もっと書きたかったとか、それにるいしたことを書いたのだ。
添削の先生はこういう文章があると紹介してくれた。
「今日は時間がないので長い手紙しか書けません」
これは私にとっては、非常に含蓄のある、そして当時の何でもかんでも書くというスタイルに対して、ガツンと何かを食らったような感じだった。いまだに覚えているところを見ると、相当ショックもあったのかも知れない。
これは単純に、うまくまとめよ、ということだけを表現しているとも受け取れるが、そうではない、もっと奥深いものを感じる。あたかも、「凝縮された旨味」とか、俳句や短歌に代表されるような、非常にスタイリッシュな中身の濃さを表徴している気がした。
元々読書や文章を書くことが嫌いだった私が、何かのきっかけでものを書くようになった。
それでも書くことの奥深さや、難しさというものは底が知れない。
リハビリなどと言う名目で書き始めた「うちでのこづち」も、中身を伴わせていくのはやはり大変なことだ。世にブログ書きは山のようにいるが、その一人一人に、頭が下がる思いがする。
投稿者 keisuke : 日常的 | 02:07 | コメント (0) | トラックバック (0)