2005年9月30日

引っ越し

 引っ越しが済んだ。
 物件を決めてから1週間、引っ越し日と引っ越し業者を決めてから3日、これまでにも引っ越しは何度もしているが、嵐のような引っ越しだった。
 なんだかんだと言って、前の引っ越しからは年を取っている。若い頃の引っ越しを基準に物を考えていると、失った体力と、反比例して増えた荷物によって、思いもかけぬ大変さを経験することになる。
 燃えるゴミを22袋、前日に捨てた。燃えないゴミも20袋、出た。それでも段ボールは80箱ぐらいあった。おかしいな。
 引っ越しは予定より安価に上がり、引っ越し先では家の前に車が止められなかったが、見積もり通りにやってくれた。とてもいい業者だった。見積もり時に、他業者の悪口を言って帰ったアリさんとは偉い違いだ。これまでもいろいろな業者に頼んでいるが、大きくなくてリーズナブルな業者でも、皆しっかりやってもらえる。
JRC日本引越センターだ。

 引っ越しをして1週間経つが、全く片付かない。つくづく片付けが苦手なようだ。しかし片付けないといつまで経ってもソファで寝ることになる。既に身体が痛いので、はやいとこしなくてはいけない。

 ところで引っ越しをして思ったが、日本のインフラというのもまだまだだ。
 これまでは電話は日本テレコムのお得ライン、インターネットはTEPCO光だったのだが、テレコムは引っ越し場所と日にちが決まってから2〜3週間しないと電話が使えないという。その間は使えないことをご了承いただき・・・・なわけないだろう。
 結果的に電話はNTTに戻った。若干基本料金が上がった。
 TEPCOに到っては、新しいところで新たに契約をし直しても1〜3ヶ月工事にかかるという。結局こちらもフレッツのADSLに一旦変えた。これですら、電話開通から1週間かかった。
 テレビのように、引っ越した先に高速インターネットとIP電話が標準で付くようになるのはいつのことだろう?
 道路公団は民営化されたが、道路は結局造るっていう話だ。道路も必要だと思うが、インターネットのインフラも、もっと充実させるために税金を使って欲しいものだ。納税者としては、言ってもいいだろう。

 さあさお片付け・・・・

投稿者 keisuke : 日常的 | 22:55 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月17日

前原 誠司

 民主党の新代表が決まった。テレビなどでもよく見る前原誠司氏だ。
 永田町の郷ひろみと言われているそうだ。
 前の岡田代表が愚直なくらい真面目で、今回敗北した割には、若いだけであまり面白味のない代表を選んだという印象だ。

 小泉純一郎が持つカリスマ性の一つは、何となく親近感を覚える雰囲気にあると思う。時折いいかげんなことをいいながら、強く押し出すときは押し出す。そのメリハリの中に、妙に庶民的な部分も覗かせる。そしてサプライズと言われる、これまで他の人がしてこなかったようなエキセントリックな人事などをわざと仕掛けてくる。

 この、怪しげなまでに強烈な印象を持つ総理を敵に回して戦うためには、徹底的に真面目に行くか、同じ土俵で戦うかと言うことになろうかと思うが、既に真面目路線は敗れた。だが、改めて選ばれた代表もまた、若いだけで代わり映えはしない。
 むしろ菅直人が持つどこか間の抜けた部分の方が勝負にはなったかも知れない。
 あるいは、立候補すらできなかったが、河村たかしの方がインパクトはあった。
 むしろ、こんなやつを代表にするのかよ、くらいの方がいいのだ。
 相変わらず小沢だ、菅だと言っているのは、自民党が、亀井だ高村だ、平沼だと言っているに等しい。前原は、結果的にその延長線上だ。

 今国民が注目しているのは、ドラマチックな変革と、あり得ないかも知れないが、面白味のある人選だ。
 これまでの政治家然とした政治家がこの国を悪くしたと、国民は何となく思っている。それは必ずしも正しくはないが、国民全体が、政治家にその責を押しつけることで、不満のはけ口にしているのだ。
 だからこそ、非常に緻密で正しい政治を望みながら、それを実行する人物にはテレビ的でヒロイックな容貌や性格を求めている。破天荒さが無ければいけないのだ。

 少なくとも前原氏にはそれは感じない。
 民主党のマニフェストにはいいことが沢山書かれている。与党よりも野党がいいことを書くのは当たり前で、実際は国民の多くがそれを望んでいるにもかかわらず、どうせできないと踏んでいるわけだ。
 であれば、少しでも改革が先に進みそうな小泉自民党を支持しておこうというのが今回の選挙の結果であり、全幅の信頼などでは決してない。
 民主党が政権奪取を目指すのなら、もっと覇気を感じる、そしてヴァーサス小泉を買って出られるだけのインパクトを持った人選をしなくてはいけない。

 前原誠司を代表に今選んだ段階で、民主は勝負に負けている。

 今回民主に鞍替えした横光勝彦は特捜最前線に出ていたが、それこそ藤岡弘、のような、愚直でも何かを持った人物を引き入れてでも勝負した方がいい。
 

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:46 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月16日

些細な日本語のこと

 最近よく、KDDIの代理店と名乗る会社から電話がある。メタル・プラスの勧誘だろうと思う。思うというのは、詳細は聞いたことがないからだ。
 同じ女性とは思わないが、女性のケースが多い。1回は男性だった。その男性の言葉を信じるなら、複数の代理店が、恐らく電話帳などで調べてかけてくるのであろう。従って、勧誘がダブることがある。

 ところで、その男性のケースは忘れたが、女性は開口一番こう切り出す。
「あなたのお使いのNTTの回線の基本料金がお安くなりました」
 この前にKDDIの代理店であることを名乗っているので、事情さえ知っていれば、理由も分かるが、誰が考えたか解らないが、文面としていかがなものか。
 これだけ聞けば、「それはよかった」で終わる。なぜなら、お安くなったという報告だから。しかし実際には、KDDIのメタルプラスなどに契約を変えれば、従前のものよりも安くなるという、いわば未来予想図なのだ。

 であれば、「お安くなりました」は変だろう。理解でき無くないほどひどくはないが、詐欺へと進む最もたわいない欺瞞を含んだ表現とでも言えそうな言い回しに感じる。実際のところ、欺瞞でも詐欺でもなく、料金は安くなるわけだから、メリットは大きい。
 であれば尚更、怪しげに響く表現は控えるべきだ。
 私自身は、しばらく前に日本テレコムに鞍替えしているので、KDDIにするメリットはあまり大きくない。だからそのことを言って電話を切っている。もちろん先方もその一言で納得する。

「今お使いのお電話が、ご契約をNTTからKDDIに変えていただくだけで、月々の基本料がお安くなるのですが・・・・・」的な表現が好ましい。
 メリットだけをただ強調するのは、広告などのキャッチだけで十分だ。

投稿者 keisuke : 文学・日本語 | 23:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月14日

外来種

 最近、サソリやらピラニアやら、外来の動物や昆虫などが沢山輸入されて、ペットなどで飼われたりした後、捨てられて、日本固有種を駆逐したり、生態系や人の生活にまで影響を多く及ぼし始めている。

 犬や猫でも嫌いな人はいるが、サソリや、かみつき亀、蜘蛛、蛇など、どちらかと言えば、好きではない人の方が多いのが特徴だが、人とは違うというスタンスを、多くの人が取りたがるのは、何もペットだけのことではない。
 人と違うという表現が、どちらかというと褒め言葉のように感じてしまう人は多く、私などは、そう思う人の方が多いのではないかとさえ感じる。だとすれば、そこで既に、人とは違うということを尊しとする多数派が形成されるわけで、それは最早人と同じ感性と言うことになる。

 それらの生き物が自分で逃げ出したのか、置き忘れたのか、あるいは故意に捨てたのかというのは、大きな違いではあるが、「管理はきちんとしろ」「責任を持て」というのは、たとえそれが犬や猫であっても同じ事だ。
 ペットが家族と同じというのであれば、その行動に責任を持つのは、家族としてある程度の責務だ。しかもそのペットに人間ほどの明確で明晰な意志がないということであれば尚更だ。

 変えなくなったら、それを買ったところに行けば、案外簡単に引き取ってくれるのではないだろうか?もちろん物によると思うが。
 アライグマやら、一見かわいらしく見える動物ですら、結果的に駆除しなくてはいけなくなるのが、今の社会だ。テレビで猿を観て「可愛い」と思うのは簡単だが、年中部屋に侵入したり、いたずらをされているような近所の人にとっては憎らしい限りになるわけだ。

 ゴミのポイ捨てが、ひいては町の美観を壊していくように、たった一つの破綻は、堤を壊すこともあるわけだ。自らの行為が、実は蟻の一穴であることを、誰もが感じる世の中にならないといけないのかも知れない。

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:36 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月11日

衆議院議員選挙

 衆院選挙が終わった。驚くほどの自民党の圧勝で終わりそうだ。与党が衆議院の三分の二を占めることになる。もちろん、小選挙区という制度が生んだ数字という意味もあると思うが、世論が小泉自民党を支持したことには違いがない。

 私は元々郵政民営化は賛成なのだが、現行通そうとしている法律は非常にいいとは言い難い。自民党の造反と言われている政治家の一部や、民主党の多くの議員ガイっていることは間違っていないと思う。だが、だから反対して通さないというのは、この改革を永遠につぶしていくことであるように感じる。つまり、ちょっとやそっとの瑕疵があろうと、まずは通すことが先決だという風に考えている。
 こういう事が、全てに当てはまるわけではない。しかし、政治はそうでもしないと変わらない。
 政治家が言っていることの多くは非常にもっともなことが多い。それは常に選挙前には同じだ。だが結果的には政治が良くなったように思えないのは、これまたいつものことだ。

 小泉純一郎が、全ていいわけはないし、そんな総理大臣が出てくるはずもない。しかし彼が変えたことは多くある。道路公団の民営化は、一見形骸化しているようにも見えるが、民営化されたことで自浄作用も生まれてくるだろうし、世論や、マスコミなどの力で、完璧でない部分も変えていくことが可能だ。
 つまりは、変えようと思ったことを変えられる人、取り敢えず初志貫徹した改革推進派(ほとんどの議員がこれであることは間違いないが)を国民が選んだと言うことなのだ。

 衆愚という言葉がある。今回敗北した政治家や評論家の一部は、暗にそのことに警鐘を鳴らしている。確かにその側面はある。民主政治というのは、新党日本の田中代表が言うように、踊らされた側面もないわけではない。
 だが同時に、やはり国民がこれまでの小泉政治に一定の評価を与え、もう少し進めろと言っていることでもあるのだ。
 これは多分、他の人よりもやりそうだ、なのだ。

 いずれにしても、自民党はこういい、民主党はこういう、社民党や共産党も、ある意味すごくいいことを言っている。だが、今の自民党は、昔よりもやりそうだと思えるのだ。その裏腹に、前回の選挙で躍進した民主党はこの間、あまり何もできていなかったという判断でもある。

 人と人の関係と同様、政治も一筋縄ではいかない。もっと多くのことに変革をもたらして欲しいが、そう簡単なことではないのだろう。だからこそ、強権という言葉とリーダーシップという言葉の裏腹な意味の内から、国民は今回、後者を選択したのだ。

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:44 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 8日

<なみおか映画祭>今年限り ポルノ上映で補助金打ち切り

 まさにタイトルのような記事がYahoo!に載っていた。毎日新聞の記事だ。
 なみおか映画祭のホームページを見ると、2004年のままで、更新されていない。
 記事によれば、「日活ロマンポルノを特集する企画に、市教委が補助金130万円を打ち切り、会場も貸さなくなった」という理由で無くなるらしいが、神代辰巳の特集とも書いてあるので、単純にロマンポルノを流そうとしていたわけではなく、神代辰巳を扱えば否応なしにロマンポルノの作品群があると言うことなのだろう。

 よく最近、ロマンポルノと昨今のAVを比較して、あたかもかつてのロマンポルノには芸術性があって、最近のものにはないというような見方をする人がいるが、そういう見方はどういうものかな?と思う。この記事にも「文化庁は日活ポルノの芸術性を認めて補助を決めていた。」という行があった。
 ロマンポルノに芸術性がないとは言わない。そもそも芸術性なんていう言葉は、非常に曖昧で、人によって取り方が違うわけだから、必ずしも多数のコンセンサスが得られることが必要なわけではない。文化庁がそういうなら、そういうことだ。
 私がロマンポルノを見ていたのは、浪人時代から大学のせいぜい2年くらいまでの短期間だった。場末という表現が似合いそうな映画館でごくたまに観た。
 18禁という意味では現代のAVと同じだし、環境から言えば、現代のAVの方がより多くの人間が簡単に観ることができる。

 昔、「エマニエル夫人」という映画があって、日本でも相当流行った。私が高校生の時だ。70年代を記憶している人の多くは、籐椅子に座るエマニエルのポスターについては印象深かったはずだ。
 私から観ると、日活ロマンポルノも、エマニエル夫人も、AVも、大同小異だ。いい物もあれば悪い物もある。AVだからといって十把一絡げにして「悪」のレッテルを貼るのは、「ハレンチ学園」を排斥しようとしたPTAと何ら変わりはない。

 「エマニエル夫人」や「O嬢の物語」と言った作品は言ってみれば日活ロマンポルノの海外版で、芸術性などよりも娯楽性が高いことは言わずもがなのことだ。そもそもこの芸術と娯楽は簡単に同居できる種類の性質で、決して対極にあるわけではない。音楽なんてまさにそうで、クラシックを芸術芸術と奉ったところで、楽しいから聞いているわけだ。

 映画も同様で、芸術的かどうかは、評論家や研究家が決めることで、観る側には関係ない。小説だってそうだ。谷崎潤一郎が書けば文学で、川上宗薫や富島健夫がエロ小説(すげー古いから、今なら杉本彩とでも書けばいいのかな)というような事にしてしまうのは一部の人間の発言故だ。

 もともとエロチックな衝動というのは人間であれば誰しも持っているし、求める物だ。男女の差もない。もちろん、方向性や程度、趣味など人によって大きく違うこともあるが、大局的には本能だ。これは、子孫を残そうなんていう生物学の授業のような本能とは違い、もっと実際的で、なおかつ妄想的だ。
 そしてそれを具現化したのがロマンポルノであり、官能小説であり、AVだ。

 自ずと制限や規制はあるから、どの映画祭でどういうものを取り上げるのか、どこからお金が出ているのか、様々な問題がある。神代辰巳を扱うことは、「ベッドタイムアイズ」や「咬む女」「青春の蹉跌」を扱うのと同じ線上で、「四畳半襖の裏張り」や、多くのロマンポルノを扱うことでもある。
 女の裸やセックスシーンが出てくればエロ映画というのであれば、昭和50年代のテレビ時代劇など、相当にエロかった。だからといって、セクハラっていうことも含めて、適材適所という考え方もある。
 セクハラというのは、客観的行為で誰が見てもハラスメントなものと、かなり親告的に取り上げない限り、セクハラには見えないことがある。だがどちらもセクハラであるように、神代辰巳の作品あるいは、日活ロマンポルノ(括ってしまうことにも問題はありそうだが)に、芸術性を見る人もいれば、ただのスケベな映画としか見ない人もいるのだ。

 この世はなべてバランスが大事。肉を食ったら野菜も食べないといけないが、営業周りの前はニンニクは避けた方がいいという、いわば処世は、時折煩わしくもあるが、時に阿っておいた方がいい場合もあるのだ。

 そんなニュースだと思った。

投稿者 keisuke : 映画 | 23:14 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 7日

サンドウィッチ

 サンドウィッチの語源は意外と有名だが、そもそも18世紀にサンドウィッチ伯が思いついた料理であるはずもなく、綿々と古くから作られてきた料理を、カードゲームをやり続けたいという、まことに怠惰な理由で有名にした男の名前が冠されたというに過ぎない。
 パンに何かを挟んで食べるというサンドウィッチから、何かに挟まれることをサンドウィッチ状態と言ったり、××と○○でサンドにする。みたいな表現を使う。

 たまたま今日、サンドウィッチを、パンが余計だとオープンサンドにして食べているのを見て、挟んでないのだから何で「オープン」「サンド」なんだ?という疑問を持った。サンドの片側を開けているからオープンなのだろうが、三角をオープン四角とは言わないように、オンザパンとか、何か言いようが・・・・・
 などと考えて、はたと思った。

 そもそも挟んでいるからサンドウィッチなのではなく、パンで挟んだ料理を食っていた親父がサンドウィッチだからサンドなので、逆なのだ。
 オープンサンドは確かに、サンドウィッチの片側がオープンだから、「挟む」という意味ではないわけだ。

 言葉というのはややこしい。
 英語の辞書で挟むと引くと、例えばパンにハムを挟むでも「put ham between slices of bread」と出てくる。つまり、できあがったものはsandwichでも、日本語のように「sand ham between・・・」なんてあまり言わないのだ。sand は砂か、フランスの作家だ。ただ動詞として、sandwichという風にして挟むと使うことはあるようなので、「sandwich ham between・・・」と使うことは可能なのかも知れないが、これなら「ham sandowich」と言えば済むことで、やはり表現としてはおかしいのかも知れない。

 とにかく、こんな些細な言葉一つでもどんどん変化しているのを感じる。実際に今後、聞いて解らなくなるくらいに言葉が変化してしまうまでには何百年必要なのだろう?

投稿者 keisuke : 料理・グルメ | 23:28 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月 6日

早明浦ダム

 四国の水瓶と言われている早明浦ダムの貯水量が一気に100%になったらしい。
 つい先日0%になったのに、14号台風一発で100%。これは台風がすごいと言うべきなのだろうが、何とも不思議な感じだ。

 人間は水が無くしては生きていけないわけで、生活のあらゆる場面で水が必要になる。人間もその肉体のほとんどが水でできているのだから、考えてみれば地球を水の星というのも、言い得て妙と言うべきなのだろう。

 先日東京で大雨が降った。善福寺川が氾濫して水浸しになった上荻は、まさに目と鼻の先だ。線路を越えたら上荻だ。荻窪は環八が走っているが、中央線と交わる部分はその下をくぐっている。実はそこのくぼみの部分は水没したらしい。
 ずいぶん昔のことだが、歌舞伎町の入り口、靖国通りに面した店で働いていたことがある。夕刻、豪雨があって、ふと西口の青梅街道に変わるJRの陸橋下を見たら、水が溜まっていたことがあった。車が埋まっていた。

 短時間に雨が降って道路が水浸しになると言うのは大変なことだ。
 台風14号で、九州は至る所で道路が冠水、というより水没していた。先日の東京もそうだ。東京は1時間に112o、九州は1日で1000o以上の雨が降ったわけだが、なんだかミリと言われると少ない感じがするが、1000oって、1メートルという事だから、やはり大変だ。平均的に1メートルの降水があれば、川も溢れるに違いない。
 それより、1時間で10cm降ると川が溢れるという方がびっくりだが。

 実はうちの前の通路は、2階なのだが、奥の排水溝に向かって傾斜している。そのため、先日の雨では床上浸水しかかった。床下ではなく、一気に床上なのは、うちがバリアフリーで、玄関のたたきと廊下で高低差がないためだが、ちょっと焦った。確かに杉並に住んでいる実感をした瞬間だ。

 と考えてくると、早明浦ダムが1日で満水になったのも頷ける。
 とはいえ、四国の水瓶という、一つの水源に多くを頼らずに、水を確保していく方策が必要なのだろうな。

 日本は毎年台風で多くの被害を被る。特に九州は年中だ。今日もニュースの時間に礼として上がっていた宮崎のえびの市にはいとこが住んでいるが、毎年大変だろうなと思う。
 カトリーナのような、風速が70mなどという化け物はともかくとして50m近い台風は毎年のように訪れている。地球ってすごいと思うが、未来にはその辺りもうまく制御できたりするようになるのだろうか?

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:47 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月 5日

紙のサイズ

 紙のサイズはなぜ、AとかBなのだろう?と疑問を持った。
 Wikipediaに詳しかった。
 ただ、それでも何でAがこのサイズなのかはよく分からない。

 黄金分割というのがある。1:1.68という比率だが、ギリシャ時代から、美しく調和の取れた比率とされているものだ。最近の幅広テレビがそうだ。
 しかし紙は約1.4倍で、そうではない。ところが、A全(841×1189o)B全(1030×
1456o)の面積を見ると、A判は約1u、B判は約1.5uなのだ。
 意外にきれいな数字が出てくるものだ。そしてこれは、長さの比率が1:√2となることで、半分に切っていったときの比率が常に一定になり、元のサイズの短辺の長さが、次の長辺の長さになっていく(当たり前か)場合に、常に同じ比率になるのだ。

 まあ、意外によく考えられているわけで、紙を敷き詰めれば、面積が測れるということにもなろう。尤も、広すぎては誤差が大分出てきそうな気はするが。

 かつてレポート用紙や大学ノートはB5判が主流だったが、現在では印刷などでA4が主流だ。B判はあまり使われない。しかし書籍などではかなり使い分けがされているようにも思う。

 たかが紙のサイズだが、意外に人の知恵が入っていそうだ。

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:09 | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月 4日

9.11

9.11は今度の衆院選選挙だが、それよりも、4年前の衝撃的なアメリカへの同時多発テロから4年目の11日だ。
 今日の日本テレビのバンキシャ!で、当日の消防の無線のやりとりを放送していた。まさに涙無くしてみられない、悲惨で、悲劇的な数時間の様子が甦ってきた。
 テレビは、この衝撃的な事件を、映像で、世界のどこでも見える形で保存している。実際に旅客機がビルに突っ込み、崩落するまでを、いつでも見ることができるのだ。映像としては、広島への原爆投下や、イラク戦争の様々な光景と同じように、現実と虚構の区別のつかないようなリアルな映像だ。リアルでありながら、その被害の渦中に自分が以内という虚構性は、人をわずかでも不感症にする。

 テロという悪夢は、ある程度以上の人間がいる世の中では避け得ないのだろうか?旅客機に乗っていた犯人は、自らの命を賭して、ビルに突っ込ませたのだ。単なる殺人とは訳が違う。どんな意志や思想や、人生がそれを可能にしたのかを、どれだけの人が知っているのだろう?もちろん私も知らない。
 アフガンや中東のテロリストが棲む地域は、イスラム教の地域だ。原理主義とか、一部の過激な集団が、根底にイスラム教を持ちながら、過激な思想に走るには、それでもなにがしかの理由があるはずで、だからといって曖昧にしか我々には理解できない。
 例えばオウムのサリン事件のような、どちらかというと狂気と集団心理的な部分から発生したテロリズムとは、根本的に何かが違っているように思う。もちろん、テロリズムなんていいわけはない。単純に考えて、自分がいつその犠牲にならないとも限らない天災のような事に、人の意志が働いているとしたら、やはりその災いは忌むべき行為であり、許してはならない。

 だが、では対テロという形で軍隊を送り、力でねじ伏せ、制圧することがいいことかと言えば、それだって、その地に自分が住んでいるとしたら、絶対にして欲しくないことだ。そもそもそういう大国の姿勢で世界情勢は現代を向かえてきたのだ。
 もちろん、ヨーロッパの文明が世界に先立って発達し、科学的にも軍事的にも力を持っていたことが、世界進出となり、植民地支配になり、アジアやアフリカ、アメリカ大陸などの悲劇を生んでいるわけだ。もちろん、悲劇的なことばかりではないとしてもだ。
 アメリカは、結果的にその広大な大地をヨーロッパからの移民が制圧することで、フロンティアというきれいな言葉の下に、大国を作り上げた。その子孫は当然、先祖のそういったスピリッツを誇りに思うだろうが、所詮は征服者でしかない。そして良きにつけ悪しきにつけ、いまだに何らかの形で世界各地を威圧しているし、長く威圧してきたのだ。

 齟齬というのは、与える側と受ける側、どちらが悪いにせよ、関わりを持ち続けるのであれば解消しなくてはいけないものだ。
 イラクで、千人を超える米兵とともに、数万人のイラク人が犠牲になっている。フセインの独裁の時とどちらが地元の人にとって幸せなのか、政治家の報告を聞いても信憑性には欠ける。
 イラクにはそもそも宗教的な対立がある。信じていない者には、理解できない原理や発想で生活をしている人たちが沢山いるし、その中でも大きく解釈が違ったりしているわけだ。

 郵政を民営化するか否かで、侃々諤々なんていうのは幸せな論議だが、それでさえ人の考え方は全く違う。大国が民主主義を標榜して他国にそれを与えるのが民主主義には思えない。
 北朝鮮が核など持って欲しくはないが、大量の核兵器を持った国と、少なくとも原発のような核施設を持つ日本などが、会議という席上で、核関連は何も持つな、ということを言うのは、どうも説得力が弱い。

 世の中はこういう風にできあがっていると言えばそれまでのことだが、広島への原爆投下は大きな問題的がされても、東京の大空襲などは戦争の一環として同じような形では取り上げられないのと同様、世の中のあらゆる事は、考え方の根底に何を置いているかを共有しない多くの人たちの議論で錯綜しているわけだ。

 そもそもこのエントリーを書くために、結論を考えていなかったので、何ともはやまとまりの付かない終わりと言うことになってしまった。
 何はともあれ、世界平和が一日も早く訪れんことを祈らずにいられない。

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:42 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 3日

最高裁判所の裁判官に対する国民審査

 Yahoo!のニュースに最高裁判所の裁判官に対する国民審査について載っていたが、たまたま今日の昼間、何かを見てそのことを考えていた。タイムリーなのでちょっと思うところを。
 今回は、古田佑紀、中川了滋、堀籠幸男、今井功、津野修、才口千晴という6人について、信任するかどうか、というより、不信任するかどうかについて投票場で書くわけだ。×を付けない限り不信任ではないので、まず間違いなく信任されるだろう。これまでも不信任のケースはないらしい。
 
 ところで、この6人が、いったいどんな事件でどんな判決を下したのか、あるいは、どういう考え方を持ているのか、知っている人は日本にどのくらいいるのだろうか?少なくとも私は知らない。一人もだ。中には興味を持った事件について判決を下した裁判官ということで、知っている人もいるだろうし、そういう人は人数を数えれば少なくはないはずだ。しかし、国民全体の中のパーセンテージで行くと、ほとんど数パーセント程度ではないだろうか?
 しかも衆院選と衆院選の間のことだから、わずか2年程度の人気について審判を下すわけだ。
 知らない裁判官にわざわざ×を付ける必要など無いだろう。そして多くの人がそういう行動を取るはずだ。×を付ける人の内、相当多くが、本当に×なのではなく、たまには×を付けておこうとか、裁判官なんてみんな気に入らないとか、いずれにしても、いいかげんな動機で×を付けている人も多いと思う。

 せめて公示とともに、どんな事件にどんな判決を下したのかとか、何らかの情報を国民に知らしめるべきだ。インターネットでは簡単に見ることはできない。事件の数も多いのだろうが、せめてひとまとめにして、何らかの形で閲覧できるようにして欲しい。会っても見ないかも知れない。もちろんそれはそうだ。
 しかし、選挙で問うならば、少なくとももっと解りやすい形で呈示すべきだ。「刺客」とか、女性候補とか、女性週刊誌みたいなことばかり番組を流さないで、こういうところもしっかりやって欲しい。いや、やっている場合もあるが、もっと目に付くようにだ。

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:17 | コメント (3)

2005年9月 2日

選挙中のホームページ

 民主党が選挙中にホームページを更新したことが、違法だという。
 インターネットがこれだけ普及して、テレビでも観ることが可能だ。もちろん、地方や、お年寄りには馴染みが薄い場合もあるだろう。しかし、いずれにしたって、この流れが逆を向くはずはない。
 
 現行の公職選挙法上では違法なのは、これまでにも解っていたことだ。改革改革というのなら、こういうところから改革すべきだ。
 選挙には700億とも1千億とも言われるお金が動く。これはほとんど税金らしい。もちろん、選挙特需ではないが、このことで利益を被る人々が大勢いることも確かだ。お金は回るわけで、1千億をどぶに捨てているわけではない。しかし、出所が問題だ。700兆もの借金を抱える国庫から出るとなれば、別な部分で国民の生活を圧迫することになる。

 選挙でお金がかかるのは、選挙カーや、ポスター、遊説先への交通費、選挙事務所費用、運動員への給料など、ここ何十年も恐らく変わってはいないはずだ。
 インターネットと、国民から受信料をボイコットされているNHKなどを使って、ここいらの費用を大幅にカットした方がいい。
 選挙カーで回ったって、所詮はうるさいだけで、「××をよろしく」というメッセージだけが空しく残る。ポスターだって、決して町の美観に寄与してはいない。草の根選挙などと言って、お宅訪問で握手をして回ることが、あたかも素晴らしい選挙運動のように言われることがあるが、何の意味もない。顔と名前を覚えてもらい、お年寄りに優しそうな笑顔を振りまくだけで、結局は、「知っている顔」に投票するための指示を作っているに過ぎない。こういうことに実は莫大な費用がかかっていることに、国民は気づかなくてはいけない。

 インターネットでの選挙運動、どんどんやったところで、費用はたかが知れている。但し、迷惑メールの数を増やして欲しくはないから、総務省などが、解りやすく全候補者のページをまとめるなり、1候補1ブログで選挙運動を繰り広げてもらえばいい。後は有権者がそこを見るかどうかだ。
 もちろんインターネットだけでは不十分で、やらない人だって大勢いる。そのために、国民の受信料で運営しているNHKは、選挙期間中は、朝から晩まで、とにかく選挙運動のための政見放送を流し続ければいい。そのくらいのことができないで、くだらない番組を沢山流してもらっても、NHKの必要性なんてほとんど無い。今日本でNHKしか映らない地域がどれほどあるのだろうか?

 この2つのみを、基本的な選挙運動にし、街中でがなり立てる政権演説や、無駄なポスター、選挙カーなどは一掃して、なれ合いや、地元意識などだけで候補者を選ぶのはやめにした方がいい。
 そうすれば、選挙直前まで政治家は働けるだろう。解散してから、選挙数日前まで、しっかり国会で働いてもらい、その場面も十分にNHKで流し、それを持って、投票に臨ませるようにした方がいい。そうすれば、より党による違いが歴然となり、解りやすい選挙に向かえるというものだ。

 選挙にもお金がかからなくなるし、いつでも見たいときに候補者のことが見られて、しかもなーなーな気持ちでの投票を防ぐこともできる。
 しかも投票も、インターネットなどを使えば、かなりいろいろな点で費用や負担を軽減できるはずだ。

 ホリエモンが走っている姿を見ると、ああ情けない、という気持ちが沸々と湧いてくるのだ。

投稿者 keisuke : 政治・経済・行政 | 23:04 | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年9月 1日

手紙

 郵政民営化の話の中で、自民党の議員の一人が、この先手紙が無くなるというような話をしていた。
 メールの普及ばかりではなく、そもそも手紙を書くという習慣はどんどん減っている。恐らく年賀状もそうだ。メールで「あけおめ、ことよろ」で済んでしまうのが実情だろう。

 もちろん、自筆の手紙を尊ぶ人もいるし、これからも多くの人がそうだと思うので、手紙や葉書が無くなることはないと思う。但し、減るのは間違いない。
 年賀状のことに少し触れたので、年賀状についてであれば、それこそしばらくあっていない友人や知り合いに対しての近況報告等のためにあるのはいいとしても、年始の休みが明ければ会う上司や同僚、友人に出すのであれば、メールで十分だろう。
 メールだから心がこもらないと言うことはない。逆に言えば、年賀状だから心がこもっているわけではないのだ。

 メールが生まれて、さらに携帯メールが日常的になることで、メールができれば、多くのことがメールで済む。携帯電話の普及で、一人1台に近づいているので、電話も昔に比べて気軽だ。それでもメールは、電話に比べるとさらに気軽だ。
 電話はその人の時間を制約するが、メールであれば相手の都合で読んでもらえるし、記録も残る。
 携帯電話の機種変更の時に、メールの内容が移せないのはそういう意味においても、不完全なサービスと言わなくてはならない。パソコンは難しいか簡単かは別にして、自分でデータを移行することができる。携帯電話も、それができるようにするべきだ。

 さて、手紙や葉書による通信が減っていけば、自ずと郵便事情は落ち込んでいく。民営化したところで、その事業が活況を呈することはない。しかし、現在ではまだ親書として他の運送事業者が扱えないものを扱えるようになれば、非常にありがたいことだ。サービスの質も向上するに違いない。
 
 手書きの手紙をありがたがることは、悪いことではないが、手書きだから心がこもっているとか、真心が伝わるとか、そんなことはまやかしだし、達筆という文字は得てして読みづらい。文字のそもそもの使命が、情報を伝えることにあるなら、書道という芸術とは違い、手紙や葉書の文字は達筆よりも読みやすさをこそよしとすべきだ。
 社会は様々なことで変革を遂げていく。変化が全て良いわけではない。しかし、よどんだ水が濁るというごとく、変化のないのはあまりいいことではない。
 伝統伝統といいながら、歌舞伎などでも、どんどん変革は進んでいる。

 手紙がメールに変わるのなど、むしろいい変化だと思う。
 最近文字を書かないので読めるが書けない現象が起きている。私など典型的なそれで、手紙の効用はそんなところにはあるのかも知れないが、手で打てば出てくる時代に、読めさえすれば書けなくてもそれほど困りはしない。沢山の辞書を持ち歩くことだって可能なのだから。

投稿者 keisuke : 社会的 | 23:40 | コメント (0)